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『ラスト パートナー(完)』 作者:暴走翻訳機 / アクション 未分類
全角100688.5文字
容量201377 bytes
原稿用紙約302.25枚
他人に無関心な県警の刑事、桂木 宗谷(かつらぎ そうや)に一つの転機が訪れた。理不尽にも新しく組むことになったアンドロイドのアンリと、アンリの製作者である少女、様々な人物が織り成す事件へと巻き込まれてゆく。そして宗谷は、いったい何を見て何を思うのか。
序章・釣瓶落しと秋の空



 その日は、よく晴れた晩秋の頃だった。
 肌寒さを覚える木枯しと、釣瓶落としの夕日が映える。カサカサと木の葉が舞うのを見つめていると、疲れた心と身体が癒される。ただ、やはり少し寒いのが難点だ。
 それでも、外の世界を活気付かせる人々の喧騒が止むことはない。老若男女を問わぬ人だかりを見つめていると、自分までもが世界の一つなのだと実感できる。こうした感想を抱く自分も、額縁に切り取られた写真の一風景でしかないのだろう。
 車内の暖房が効き始める頃、やっと彼は自分の役目を思い出す。
人だかりの出来たどこにでもあるような市内のスーパーの前で、駐車場に止めた白のセダンに乗り込み運転席に鎮座する一人の男、桂木宗谷は意味の無い考え事に耽る。砂色のコートの胸ポケットからボックスタイプのマイルドセブンを取り出し、口の端に咥えて百円のライターで火を着けた。
 煙草のフィルターを通る空気を胸いっぱいまで吸い込み、高温の火球がジリジリと燃えて行くのを楽しんでから、紫煙を勢い良く噴出す。曇天のような煙が車内を満たし、視界を白濁へと染める。窓を開ければ済むことなのだろうが、そうすると晩秋の冷たい風が入ってきて寒い。
 しかし、さすがに我が儘を言っていられる余裕も無く、仕方なく宗谷はワンタッチで電動式の窓を開けて紫煙を外に追い出した。また、煙が消え切らぬ内に二口目を堪能する。
 数分の後、煙で肺胞が満たされてゆくのをじっくりと堪能してから、宗谷は短くなった煙草を灰皿で揉み消す。その時、丁度そいつは現れた。
 誰とは言わぬ。生物学上では哺乳類の雌、正確には人間の女。宗谷にとって、彼女はそれだけの存在だった。しかめっ面の、黒のストレートヘアーを後頭部で纏め上げたスーツ姿のキャリアウーマン的な容姿の女性で、ただの仕事上の相方と言うだけの存在である。
「遅い」
 助手席のドアを開けた女性に対して、宗谷が放った言葉はそれだけだ。
 言葉に含まれるニュアンスは、どこをどうとっても、車に戻ってくる時間が予想よりも大幅に遅れていたことを示すだけで、おどけた風でも労った様子も無い。要するに、宗谷は不機嫌なのだ。そしてまた、女性も不機嫌だった。
「また車で吸いましたね。私が嫌いなの、知ってますよね?」
 自分が煙草を嫌っているのを知りながら、我が物顔で喫煙する宗谷を恨みがましく睨み付ける。
「これは俺の車だ。俺が何をしようと、文句を言われる筋合いはない」
 座席を指し、自分を指し、大口ではっきりと言い返す。これには気丈な女性も言い返せず、口ごもって口をへの字に折り曲げる。
 文句を言いつつも、こうして正論にはしつこく食い下がらない性格だけは褒められる。それだけであり、バストが豊かだとか、スタイルが良いとか、そうしたところを褒めちぎったりしないのが宗谷という男だった。たぶん、身体的特徴や嗜好云々で人を区別しない、どこと無く冷めた、悪く言えば無頓着な性質なのだろう。
「それで、様子はどうだ」
 そう切り出すと、女性は不機嫌な表情を仕事の顔に変えて、黒革の手帳を広げて読み上げる。
 その日のスーパーは、いつもとは異なる空気を漂わせていた。
 人は集まりはするが何故か中に入っていこうとしない。それどころか、黄色いテープで仕切られた周囲に集まって野次馬を作ってゆく。それについては、冬眠している虫どもみたいだ、と宗谷が皮肉を呟く。
「貴方の直情的な感想は知りません。話を進めます。犯人の名前は大上裕、三十七歳。犯行に及んだ経緯は分からず、お金と逃走用の車を要求して店員と客、合わせて十三名を人質にとっています。その内、五歳の少女にサバイバルナイフを突きつけて篭城。典型的な立て篭もり事件です」
「そうか。なら、俺達の出番は無いな」
 女性からの報告を聞き、宗谷はあっさりと見切りをつける。そんな潔さに、女性の方は唖然とした表情を作る。
「ちょっと、何を言っているんですか? 私達は警察で、市民を守るべき正義のはずです。なのに、目の前で強盗事件が発生していて何もしないなんて、どういう了見ですか!?」
「馬鹿を言うな。立て篭もった強盗相手に、俺達が何をしろって言う。どうせ、特殊部隊でも来て解決してくれるさ。第一、警察が正義だと決め付けるのはよくないな。市民の平和と安全を守る使命、義務を背負っていても、それが正義だと言うなら悪人なんてものは無い。なぜならな、強盗にだって自分の正義と信念があるんだぞ。それから、俺は二日酔いで頭が痛いんだ。だから耳元で大きな声を出すな。チャンチャン。はい、終わり」
「いや、ちょっと。チャンチャン、じゃありませんよ。まだ終わってもいません。二日酔いなのは、昨日、警部補が遅くまで飲んでいた所為です」
 意味不明な論述で片付けようとしたところを、女性に食い下がられる。やはり、理屈の通らないことには納得できないらしい。逆を言えば、理屈ではない納得と言うものを知らないのだ。
 下手に強盗犯を説得などしようものなら、逆に逆上させて血みどろの発展を見かねない。そして、始末書やら処分やらのオンパレードで人生を棒に振ることを考えていない。二日酔いについては、反論の余地は無いが。
「何で帰ろうとするんですか。ちょっと、あっ……!」
 狭い車内で揉み合っていたため、女性の肘がカーラジオのスイッチを押してしまう。それぐらいなら、気にするほどのことでもない。が、問題は流れてくるニュースの内容だった。
『今朝十時頃に、某県某市内のスーパーで強盗立て篭もり事件がありました。犯人は人質をとったまま、五千万円と逃走用の車を要求しており、スーパーの前は野次馬で騒然となっています。あ、今、犯人がスピーカーを使って何かを叫んでいます』
『早く金を用意しろ! 車もだ! 早くしないと、人質を殺すぞ!』
『大変です。痺れを切らした強盗犯が、子供に、女の子にナイフを突きつけて叫んでいます! 警察は何をやっているのでしょう』
 どういうわけか、マスコミへの報道規制が如かれていない。そんなことではなく、ますます状況が悪化していることをニュースが伝える。いや、ニュースを聞かずとも強盗犯の声は車内まで聞こえていた。
 ただし、マスコミの言う警察は、駐車場に止めた車内で口論している。
「ど、どうしましょう。このままじゃ、拍子でも人質を殺しちゃいますよ……」
 冷静沈着のように見える容姿でも、女性は慌てふためき宗谷の腕にすがり付いてくる。
 考えてみれば、宗谷は警部補で、彼女は巡査部長だ。ここで宗谷が判断を下さず、どうすると言う。思案してみて、宗谷はため息を付きつつ頭を垂れる。
「巡査部長殿、脱いでくれ」
「はぁ?」
 唐突な一言に、女性は怪訝な顔をする。宗谷の言った言葉の意味を、根本から理解していないのだ。普通、いきなり脱げと言われてその趣旨を理解できる人間などいないだろうが。理解できたとしても、彼女が取った反応に適切な曲解ぐらいだ。
 当たり前の反応に対し、宗谷は言葉を続ける。
「服を脱げと言ったんだ。聞こえなかったのか?」
「……いえ、もちろん、聞こえてますけど。こんな時に何を言ってるんですか!? ふ、ふ、服を脱げなんて、破廉恥です! セクハラです! 訴えますよ!」
 さすがにその過剰な反応に、宗谷もしばし二の句が告げない。
「全部脱げとは言っていないだろ。上着だけ脱いで、ラフな格好になれと言ったつもりだ。言葉が足りなかったのなら謝る。だから早くしろ」
 どうにか気を取り直し、淡々の説明を付け足してゆく。ようやく女性は納得したのか、少し渋りながらも上等な生地で出来た上着を脱いで膝にかける。それを、顎で後部座席に置くよう指示すると、眉を顰めながらも折り畳んでから丁寧に置く。
 スーツに隠れていた豊かな胸が露になり、正常な男性なら当たり前のように欲情しそうな雰囲気を発散する。宗谷が取った行動も、そうした本能的な欲求に従ってのことだったのか。
 エンジンが掛かったままだったアクセルを踏み込み、セダンを急発進させる。続いて、慣性に逆らえなかった女性の揺れる身体を片手で抱きこみ、顔を数センチと離れていない距離まで近づける。
 正面を見ずに、前のめりになった危険な運転でさえ注意することが出来ないほど、女性は狼狽して宗谷を引き離そうとする。だが、片腕でさえ鍛え上げられた男の腕力には適わず、彼女は宗谷の思うがままにされる。そして、セダンは数発のクラクションを鳴らし、モーゼの祈りの如く二つに割れた野次馬の海を通り抜けてスーパーの出入り口へと突っ込んでゆく。
 人を轢かなかったのが奇跡と言えるほどの乱暴な運転で、自動ドアの厚めのガラスを砕いてセダンを乗り入れる。スーパーに残された人質達の悲鳴が響き渡る。
 既に人のものとは思えぬ不協和音が耳障りで、目の前に女性がいながらヤクザの如き形相を作る。二日酔いの頭の中で、ノートルダム大聖堂の大鐘が大合唱をしているようだった。これで脳に異常が出たら、労災は降りるのかなどと今後に及んでまで考える。
「な、何だ!? お前ら、何ものだ!?」
 強盗犯の男が人質を抱えて喚き散らす。
 下手に騒がれて人質の少女を傷つけられても困るので、宗谷は車から降りて強盗犯を宥めようとする。
「あ〜、黙れ。俺達はただの通りすがりだ。彼女とラブラブしてたら事故っちまってな、お取り込み中失礼したよ」
 肩をすくめるオーバーなリアクションを取りつつ、ゆっくりと強盗犯に歩み寄る。
「近づくな! それ以上近づいたら、このガキを殺すぞ!」
 厚手のサバイバルナイフを少女の首筋に突きつけ、半歩後ずさりながら強盗犯が叫ぶ。少女が「ひぃっ」と鳴き、目頭に涙を溜めて助けを請う。
 普通なら、ここで誰しもが立ち止まるだろう。しかし、それは普通の人ならばの話だ。そして、宗谷という男はその普通の範疇には属さぬ人間だった。
 強盗犯が人質を取っていても、宗谷は物怖じもせず歩みを止めない。それどころか、こんなことまでのたまう。
「殺れよ。別にそんなガキの一人や二人、死んでも構わねぇ。見知らずの、全く赤の他人だからな。死んだところで俺の心は痛まないし、遺族の訴えに耳を貸す気もない。ただ、お前の罪が強盗から強盗殺人になって、重くなるだけだ。可哀想に、懲役数年が終身刑。最悪で死刑判決とは」
 流石にその台詞には、理解不可能な宗谷の行動で放心状態だった警部補殿も目を剥いて車から飛び出してくる。だが、それだけだ。これまで様々な宗谷の暴言や我が儘に付き合ってきた彼女も、今度ばかりは怒りで台詞が思いつかない。
 罵るなら、好きなだけ罵ればいい。この世のものとは思えぬ罵詈雑言を怒鳴り散らすのも許す。自分の言う全ては、空虚な妄想でも伊達や酔狂でもない、本心なのだから。
 強盗犯が人質を殺したことを、救出に入った警官や特殊部隊の責任にして欲しくは無い。殺したのは強盗犯であり、誤射でもない限り救出者側が人質を殺すことなどありえないのだ。こうして無茶苦茶な突入を試みたのだって、人質の安否よりも犯人の意表を突くことが目的だ。平たく言えば、人質を助けるよりも犯人の逮捕を目先に掲げた突入で、人質がどうなろうと宗谷の知ったことではない。
 宗谷の背後まで、顔を真っ赤にした巡査部長殿が歩み寄ってくる。カツカツと白いタイルの床を踏み鳴らす靴底の音が、静寂に包まれた店内に重く響き渡る。
「動くなって言っただろ!?」
 強盗犯が、ナイフを突き出して威嚇する。だが、女性は立ち止まることなく宗谷の後ろから思いのたけをぶつける。
「貴方は、何を、考えているんですか。そこまで、血も涙も無い人だとは思いませんでした。これまで、何があっても警部補のことを信じてやってきましたが、もう我慢できません。今日限りで、貴方とのコンビを降りさせていただきます」
 果たして、そうした言葉を聴くのは何度目だろうか。
 中にはちょっとした我が儘で上司に泣き付いた根性無しも、この巡査部長殿のように耐えてきた頑張り屋も、身の危険を感じて逃げ出した保身者も、居た。それで良いと思う。自分は常識で物を考えない出鱈目な人間で、他人の心を理解しない無頓着で我が儘な男だ。己の思うままに行動して、いつかは見捨てられるのなら、最初から一人で居た方がましと言うものだろう。
「別に、構わん。だが、今は仕事を全うしろ」
 そう言って、宗谷は巡査部長の腕を掴んで引き寄せると、背後に回りこんで背中を押す。想定していなかった扱いに、女性は呆けた顔をして運動ベクトルに従って強盗犯へと突進してゆく。
 強盗犯も、予想だにしない動きに戸惑い、意味も無く後ろに身を引く。そこへ宗谷が巡査部長を押し退け、床を蹴り一瞬の跳躍で強盗犯の懐へ滑り込んだ。咄嗟に振り下ろされる力学のへったくれもないナイフを、宗谷は素手で受け止め、引き抜けぬように握り締めながら拳を繰り出す。
 掌から鮮血が滴ることも気にせず、痛みすら感じていないかのような無骨な表情で、宗谷はそれを打ち出す。爪先から伝わる反作用を腰の回転モーメントに変換し、肘の筋肉を駆使した弾性エネルギーを余すことなく拳の先へと伝達した渾身の一撃だった。
しかし、そのままでは、渾身の力を籠めた正拳は人質の少女の鳩尾に減り込んでしまう。その場に居た誰もが、少女の華奢な骨格が目も当てれぬようになることを想像しただろう。そして、拳は誰の予想に反することなく少女の薄い胸板に突き刺さった。巡査部長も、人質達も、目を閉じて少女の無事を祈る。
「がっ!」
 悲痛な呻き声を上げて、身体をくの字に折り曲げて吹き飛ぶ。少女が、ではなく、後ろで少女を盾にしていたはずの強盗犯が、だ。
 少女のものとは思えぬ野太い悲鳴に違和感を感じた全員が目を開いた時には、ケロッとした表情の少女を抱き抱えて佇む二メートル近い巨躯の男を目の当たりにする。果たして、いったい何人の人々が、その理解不可能な現象を前に首を傾げ、無事に人質を救出して外に姿を現した大男をヒーローと称えただろうか。
 しかし、生憎ながら、男の勇気ある行動を褒め称えたのは、彼のことを知らぬ一般人とお茶の間専門のメディアだけであった。



一章・平和的好みの問題



『personal data1』
『name:Soya Katuragi』
『class:assistant police inspector』
『blood:B』
『age:28』
『birth:9/27』
『cons:Libra』
『height:192』
『weigh:77』
『(以下未記述)』
 私は、手渡された用紙の情報を一通り読み上げ、それを机の上に置く。青色のバインダーに挿まれた用紙に記述された文字の羅列は、これから私に様々な情報を提供してくれる人物の個人情報である。
 ただ、基本的な個人情報に関しては記述してあるが、その他の趣味や嗜好に関しての情報が書かれていない。業務上では基本的なものだけでも十分なのだろうが、やはりコミュニケーションやスキンシップと呼ばれる馴れ合いにおいては不十分と言える。
 無論、主人からも雇い主からも、情報提供者もとい試運転係に任命されたお方と馴れ合えと言う命令は受けていない。ただ、共に行動し、任務を全うして行けばいいとだけ言われている。
 果たして、お茶汲みや雇い主の機嫌取りが任務と呼べるのかは理解できないのだが、これらも一種の業務処理能力を試す試験なのだろうと考えておく。
 私の懸念としては、試運転係のお方がどのような人格者なのか、と言うことだ。主人が言うに、良い人、の一言で片付けられたため、思考回路の奥に妙な不快感が残っている。
 主人が選んだお方を疑うわけでもないし、どういった人格をした人物でもそれなりに対応していくつもりでいる。しかし、人間関係というものは一方の思惟で成り立つものではないはずだ。だから、もっとそのお方のことを知りたいと思う。
 私のような存在がそんなことを望むのはおかしいのではないか、などと考えたりもする。命じられたことをひたすらに処理してゆくだけの為に生まれた存在が、他者の人格や思想を理解する必要は無いのではないか。もしこうした考え方を感情と呼ぶのなら、知らぬことへ立ち向かうことに懸念を感じることは、不安と呼ばれる疑念なのだろう。
 ならば、やはり私は主人や雇い主のことを疑っている。
 私は、その疑念を振り払おうと目を閉じる。同時に、その方は扉を開けて姿を現した。
「桂木宗谷、呼び出しに従い参りました」



 革靴を踏み鳴らし、男はただひたすらに歩みを進める。向かう先などどうでもよく、意思に関わらず進むしか男には手段が無かった。別に、行かずとも結果は変わらぬのだが、行かなければそれはそれで己の貴重な時間を浪費することになる。
 その男、桂木宗谷は、怒っているとも取れる神妙な表情でそこを歩いていた。無機質なタイルが貼り付けられた床、左右に扉の並ぶ壁、明かりの点いていない蛍光灯が直列に並ぶ薄暗い天井。扉の上部に貼られた『交通部』等のプレートを見る限り、そこは警察署内の廊下であろう。
 まあ、警察官である宗谷が歩いていてもおかしくは無いのだが、歩む彼の表情が異質な雰囲気を醸し出す。
 直線状の廊下を突き当りまで歩くと、今度は左右に広がる通路を右に折れ曲がる。そのまま正面にある階段を上り、一階と変わらぬ構造の二階を折れて再び真っ直ぐな廊下を進む。
 全く変わらぬ歩調で歩く宗谷は、見ての通り憤慨していた。時折、擦違う他の部署の刑事達も、少なからずその気配には気付いていただろう。まあ、彼が不機嫌な顔で署内を練り歩く姿など既に見飽きた風物詩なのだが。ただ、今回ばかりはいつもとは怒りの具合が違う。
 いつもの無茶をやって、彼が所属する『刑事部』の部長及び署長他の上司達に呼び出されて説教を食らうことには慣れているだろうし、これで七回目となる相方との別れに関しては割り切っているはずだ。始末書に至っては、数百を超える記録を成し遂げた今、適当にあしらえるような代物だろう。なのに、宗谷の顔に浮かぶそれは怒りよりも憎悪に近いものがある。
 宗谷がたどり着いた先は、扉の上の梁に『生活安全部』とプレートが貼り付けられた部屋の前だった。いったい、青少年達の生活と安全を守る部署に持ってくる憎悪とは何なのか。
「くそっ! お前は、俺をどれだけ馬鹿にしたら気が済む!」
 小学生でも出来るような入室の挨拶さえすることなく、宗谷は怒鳴り散らしながら扉を開け放った。
 威勢の良い破砕音を掻き鳴らしながら開く扉に、室内の視線が集中する。そして、半壊した扉と入室者の存在を確認するなり、深い嘆息を吐き出して通常の業務に戻ってゆく。
 ただ一人だけ宗谷を見据えるのは、怒り狂う猛獣を前にしても物怖じず、屈託の無い笑みを浮かべる彼女だけだった。既に嵐の到来を予想し、楽しみに待っていた子供のような笑顔で宗谷を向かい入れる。
「やっほぉ〜、待ってたよ宗ちゃん。どう、私の試作機第一号は気に入ってくれたかな? その様子だと、喜びのあまり御礼の言葉も出ないようだね」
 何処かのお偉いさんみたく、ソファーに小さな身体を埋め込んで手を振るそいつ。間の抜けた口調と態度で、煮えくり返っていた腸の温度は急転直下を窮める。
 どういう思考を持てば、怒鳴りながらやってきた人物が喜んでいるなどと思えるのか。まあ、彼女にそうした感情表現を正しく理解しろと言う方が無理があるのだろう。何せ、皮肉と嫌味、人が困っているところを観察するのが至高の楽しみだと豪語するような人間なのだから。
 腰まで伸びた金髪を二本に分けて纏めた、キャッツアイの少女。ワンピースタイプの黒のノースリーブに、黒のカーディガンを羽織るか羽織らぬかの違いしかない服装。小悪魔的な笑みを浮かべることにかけては、この世の何者にも負けないだろう。そして、彼女の名前はイェーチェ。
 どんな悪事を働いたのかは知らないが、生活安全課の常連でありながら名前以外は調書に記述されない謎の少女である。その名前さえ実名なのかも分からないし、両親なる人物を見た覚えも無い。一つだけ言えることは、署内の誰かのコネクションがあることだけだろう。
「アレは何だ! あんなものを、次の相方にしろだと? お前は、俺のことをからかっているのか?」
「アレとか、あんなものとは酷い言い方だなぁ〜。からかってなんていないよ。私の作った試作機一号通称『アンリ』は、正真正銘の最新型自律ヒューマノイドだよ。からかうためだけに、私は自分の発明を貸したりしないからね」
「……」
 イェーチェの返答に、宗谷は有無を言わずに納得する。
 どんな腐り切った性格であっても、自分の発明した物に絶対なる自信と信頼を求めるイェーチェの言葉に嘘は無い。この数年の付き合いで、名前以外に分かったことはそれぐらいだ。
 だが、宗谷の言いたいことはそんなことではない。からかうにしろ、しないにしろ、宗谷はロボットとも人ともつかぬ物を仕事の仲間にする気など無いのだ。それを抗議しに来て、自作のパソコンについての性能やスペックを満足げに話されても困る。
「スーパーコンピュータ五十台分を超えるメインメモリに、100TBのHDDを搭載。身体能力はオリンピックにおける記録保持者と同等にして、情報処理能力は人類史上に残る偉人に負けず劣らず。しかも、通常は電気の供給で動かす機械だけど、『アンリ』は内蔵されたオールタイプ・バッテリーで太陽光や大気中の水素からでもエネルギーを自己供給できるようにしてあるのさ。要するに、従来の作業用ロボットとは違う、自分で考えて自分で行動することを重点に置いた『アンリ』を、そんじゃそこらのポンコツと一緒しないで貰いたい。彼女には、私の全能と叡智を託してあ……」
「黙れ」
いつの間にか始まったイェーチェ野自慢話を強引に打ち切り、話を途中で打ち切られて不機嫌そうにソファーに身体を預ける彼女を、切り裂くような鋭い三白眼で睨み付ける。
「どれだけ凄くても、俺はあんなものを使う気はない。お家に持って帰って、自分の身の回りの世話でもさせてろ」
「酷い言い様だね。いったい、『アンリ』のどこが気に入らないのさ。君は、人間と機械を差別するような人種では無いはずだ。そもそも、あそこまで精巧な自律神経を持っているなら、肉体の構成成分を除いて人とは全く違わないはずなのに」
「別に俺は、ロボットだからだとか、人間じゃないからなんて理由で断りに来ているわけじゃない。人手が不足しているのは署内の共通の意見だし、ツーマンセル(二人一組)での行動を義務付けられた今の警察組織の体系から言えば、俺にも新しい相方が必要なのはわかっている。だがな、アレにだけは納得できんっ!」
 今頃、署長室でお茶汲みをやっているであろう『アンリ』なるロボットを指差したつもりで、はっきりと抗議の意思を伝える。
「そうなのですか?」
 返ってきた返答は、普段のイェーチェとは違う落ち着いた物腰のものだった。しかし、鬼の如き形相を突きつけている彼女の口は、微々たる変動も見られていない。イェーチェが腹話術を得意としていなければの話だが。
 いや、その必要は無かった。なぜなら、先ほどの返答はイェーチェのものではなかったのだから。
 宗谷の抗議すべき存在が、何故か『生活安全部』の扉の前に立っていた。そして、警察署には似合わぬ異質なその格好が室内の皆の視線を集める。
 フリルの付いたカチューシャ、同じくワンピースとなったフリル付のロングスカート。礼儀正しい言葉遣いに低い物腰は、どこをどう見ても"アレ"でしかないだろう。
「なぜだ。今時の若者が好む、"メイド"さんなる格好にしてみたと言うのに。君はメイドさんが嫌いか? それとも、白衣の天使さんの方が良かったのか。いや、むむむむむ。まさか、スクールみずぐっ!?」
 何を血迷ったのか、イェーチェが『アンリ』の全貌を暴露する。が、それ以上の危険発言については言わせるわけにはいかない。
「そんなものが好きなのは、この世の一部の男だけだ! それも、偏執的な性癖の持ち主だけのな」
「そうか? 私は好きだぞ。"メイド"さんとか」
 イェーチェ野言葉を聞いて、やっと彼女の格好の理由を理解する。まだ彼女の場合は控えめだが、その姿は俗に言うゴシックロリータと呼ばれるものだ。
「そんなわけで、今日からアンリのことを頼む」
 有無を言わさず、イェーチェに押し付けられる。
 こうして宗谷は、背後で佇む奇抜な格好のロボットを相棒にすることとなった。幸薄き男、桂木宗谷の波乱万丈の日々は新たに始まる。



『personal data2』
『name:Yateche』
『class:Crimenal』
『blood:O』
『age:About 17』
『birth:7/25』
『cons:Leo』
『height:144』
『weigh:39』
『like:悪戯』
『hate:暇』
『(以下嗜好に関して)』

『personal data3』
『name:Henri』
『blood:Not clear』
『class:Machine』
『age:About 22』
『birth:Not clear』
『cons:Not clear』
『height:165』
『weigh:100』
『(以下プログラムに無し)』
 これが、私と私の製作者にして主人のイェーチェさんのデータだ。
 主人は色々と好みがはっきりとしているのだが、私はまだ完成したばかりでそうしたものが無い。これから色々と学んでいけば良い、と主人は応援してくれている。
 外の世界に出て、様々なものに触れて、多くの感情をプログラムミングしてゆくことも試作実験の一つであるらしい。私の嗜好は、私自身で決めなくてはならないと言うことなのだ。けれど、好きや嫌いという感情と言うのがどういうものなのかが不明な上、どうすればそうした感情をプログラムミングできるのかが分からない。
 私の肉体と精神プログラムが完成した後、暫くの間は主人と共に過ごしていた。その間に見たところ、主人は何もしないでいることにストレスを感じ、常に新しいものを発明したりゲームをしている。それに、時々、私に緑色をした小型の両生類に分類される生物の玩具を投げ渡すなど、悪戯と称する理解不可能な行動を取る。そして、理解の出来ずに小首を傾げる私に、つまらないと呟きかけるのだ。たぶん、玩具を投げ渡されたときの反応を楽しもうとしているのだろう。首を傾げるなど、ではなく、もう少しオーバーなリアクションを求めている。
 調べる限りでは、蛙と呼ばれる両生類は人からあまり良い目で見られていないらしい。別にハエや蚊のように感染病のウィルスを広めるわけでもないし、不定形なゲル状の物体のように異質な触感があるわけでもない。ただ、どことなくそうしたものを良い物として認識しない傾向が人間にはある。
 もしかしたら、それらの良、不良と言う分類が好きや嫌いといった感情に近いものなのではないだろうか。
 それから、主人の読む書物の中にあった、とある書籍から得た情報にもこんなことが記されていた。
 ボールを繋げたような丸い二頭身のロボットと、十一歳の少年達が様々な冒険をする物語の本だが。どうやら、物語の設定上、私と変わらぬ知性プログラムを持つらしいロボットは、ネズミなる小動物に元々あった耳をかじられたことから、ネズミに大いなる恐怖心を持ったらしい。それに、ドラ焼きと言う名前のお菓子が「好き」であると表記されていた。
 同一の著者が書いた物語に、コロッケなる料理を「好き」と述べるロボットもいたことから、恐怖心や味覚的な理由も考慮に入れるべきなのだろう。やはり、嗜好という問題は奥が深い。
 ただ、私は知覚神経を持ちながらも、内蔵されたオールタイプ・バッテリーでエネルギーを自己供給できるので、人間のような栄養摂取に関しては不必要とされるため食事をすることはない。食事をしないと言うことは、大して味覚と言うものを必要とせず、味覚による成分分析が主な目的なのであろう。
 さて、私の嗜好云々については今後の課題としておき、もう一つの「好き」なるものについて考えたい。
 愛、とは何か。
嗜好も愛も、好きはどちらも同じ好きなのだが、嗜好と愛にはイデオロギーの差異がある。愛とは、機械にプログラムされた知性には、到底理解しえない範疇に含まれるものだ。
生物における嗜好は、前述の通り、自己への利害や不利益、不快感を前提にしたものである。だが、愛は、嗜好よりも感情の奥深くにある概念なのではないだろうか。
主人の場合、何もせずにいることに不快感を覚えるからこそ、嫌いと断言できる。また、誰かを驚かせたりすることを愉快に思うから好きと言う。もし愛が嗜好と同等のイデオロギーを持つなら、不快感を覚えるものは愛しておらず、驚くことに愛を感じるということになる。
しかし、愛はそうしたものではない。
嗜好は、物であろうが行為であろうが、全てに区別がつけられるが、愛は生物と生物の間でしか出現しないものだからだ。特に人間に関しては、動物的な本能とは違う位置に愛を定義している。愛することは、ある意味での性的欲求なのだと言う。それでも、動物的な本能のように、自己の種の維持を目的とした欲求ではないらしい。
性的欲求は自己の種を後世に残すための交配を促す本能である。愛は、そうした本能よりも上のイデオロギーに位置する。これは、生物の中でも人間だけにしかないことなのだ。動物はより強い種を残すために交配者を選ぶのだが、人間は愛した上で交配者を選ぶ。
無論、人間の中にも本能に従って性行為に及ぶ者もいるし、もっと精神的な理由から性行為を求める者もいる。だが、それはやはり種の保存を目的としていないただの欲望の捌け口でしかない。考えるに、愛とは性行為に及ぶために人間が必要とする理由付けなのではないだろうか。
人間は性行為に対して何らかの抑制を無意識のうちに掛けていて、それを解決する手段が誰かを愛すると言うことなのだ。
まあもっとも、私にはその愛する根本の理由を理解できないが、利害や利益云々で語れるほど低俗な概念でないことは言える。
こうして、色々と考えている間に、私は目的地にたどり着いた。



 修理に出している愛車の代わりに借りてきた代車の扉を開け、降りながらライトグリーンの扉を閉める。
 車を止めてあるのは、閑静な住宅街の一角にあるアパートの有料駐車場だ。宗谷は、その駐車場を所有するアパートに住んでいる。
 家賃は月六万。六畳間1LKの、一号室から六号室まである内の三号室が宗谷の部屋だった。外装や内装はそれほど綺麗とは言い難いが、男が一人暮らしをするのなら十分であろう。駐車場も一月で一万円とそれほど高くはないし、食費やらを考えても国家公務員の宗谷になら問題はない。
 確かに、一人暮らしでならの話である。
「……今まで聞かなかったが、一応は教えておいてくれ。何で、お前まで付いて来るんだ?」
 車内での異様な違和感を破り、露骨に嫌そうな表情を作って問いかける。
 対する彼女は、何が珍しいのか、アパートを見回しているだけで人の話など聞いていない。
「人の話を……ッ」
「ちゃんと貴方の音声は認識しています。ただ、主人から大まかな話を聞いていると思ったので、しばし自分の思案を重視させていただきました」
 怒鳴ってやろうかと思えば、言い終わるよりも早く彼女が振り向く。
「主人……イェーチェのことか。やっぱり、お前を突っ返したい。俺がお前の試運転係に選ばれて、仕事の相方として身近に置くという話は聞いている。だがな、俺はそれを許可した覚えはない。一方的に話だけして、一方的にお前を押し付けられて、俺にどうしろと言う? 部屋は狭くなるし、お前の身の回りのことは俺がしなくちゃいけない」
 イェーチェの押し売りに関して捲くし立てるが、売られた方の彼女は全く動じた様子を見せない。こうした思惑の擦れ違いと言うのは、どこにでも転がっているものなのだろう。だからと言って、目の前のメイド姿のロボットを自分の身近に置くつもりはなかった。
「ガキでもあるまいし、仕事場までぐらい自分で通え。ご主人様から交通費と地図でも貰って、な! それが出来ないなら……」
 胸の内に溜まった鬱憤を吐き出そうかとして、口を噤む。何故かキョロキョロと周囲を見渡す、メイドロボットが気になったからである。理由については、それほど複雑なものではない。
 怒鳴り散らしている男と、普通の住宅街にいるわけのない奇抜な服装の女性を、物珍しく観察する近所の住民達の視線が痛い。近所迷惑な怒鳴り声と、彼女の存在が人目を引く。
「とりあえず、中に入るか……」
 独りごちて、仕様がなく自室へと向かう。外で話すよりも、中で話した方が人目を気にせずにいられる。
 今日のところは、今朝の強盗事件で問題を起こしたことと、後ろをぴったりと付いてくるメイドロボットの関係で、アパートに帰ることになった。考えてもみて欲しい。こんな目立つロボットを引き連れ、ロボットと知らなくとも同僚や仕事仲間達に奇異な目で見られるのだ。誰が落ち着いて仕事などしていられよう。
 何処かで待たせよとしても、彼女が相方になったと言う話は署内中どこにでも付き纏ってくる。その上、子供のような冷やかしを言われた日には、出勤もしたくなくなった。
 唯一、平穏を保てると思ったアパートの自室にも、着いてくる始末。果たして、宗谷の平穏の日々はどこへ消えてしまったのか。
 心の中で自分の不幸を嘆き、鍵を開けた扉を開いて部屋へと入る。狭い石畳の玄関に続き、短い廊下と同化したキッチンを通り過ぎると、六畳間の居間が一つあるだけの簡素な部屋だ。家事が苦手なため、台所のシンクには汚れた食器が詰まっているし、居間の方も雑誌やらゴミやらで散らかっている。典型的な男所帯の顕現だろう。
「あまり、衛生的とは言い難いですね」
「うるせぇ、勝手に上がり込んできてほざくな」
 部屋について感想を述べるメイドロボットを黙らせ、ため息を付きながら居間に置いてある愛用のソファーに腰を下ろす。安物といった雰囲気を漂わせるボロボロのソファーは一人用なので、メイドロボットは適当に畳の雑誌をどけて正座で落ち着く。
 ため息を付いて考えることは、自分の城にまで侵攻してきたメイドロボットをどう処理しようかと言うものだ。
「明日は、粗大ゴミの日だったよな……」
 壁に掛けられた貰い物のカレンダーを眺め、ボソリと呟く。部屋を借りる前から薄汚れていた壁を見つめ、壁についた染みが何に見えるかなどと思案しながら並行してメイドロボットの処分方法について考える。
 機械にはそれほど詳しくはないので、分解して何処かに捨ててくると言うのは出来ないし、無断でこんなガラクタを放置すれば不法投棄である。警察の自分が、そんなことは出来ない。まあ、スーパーの自動ドアを壊したり、サイレンを鳴らさずに時速百二十キロで逃走犯を追ったこともあるのだから、それぐらいの小さな罪状で悩んでいるのも馬鹿馬鹿しい。
 誰か、知り合いで引き取ってくれそうな人物は居ないだろうか。特に、メイドさん好きでペットを飼ったことのある人物がいい。しかし、残念ながらそうした知り合いは居ない。ペットぐらいならば可能だろうが、メイドさん好きで人一人を養える財力を持った人物は無理だと思う。
 まあ、イェーチェの話を聞く限り、食費は掛からないらしい。そう言うことではなく、たぶん、宗谷にはロボットであっても意思のある存在を養うほどの甲斐性はない。ある程度までは自分で行動できるメイドロボットは、自分に何を求めているのだろうか。
「なあ、俺は何をしたら良いんだ?」
 思案している間、意外と静かなメイドロボットに問いかける。そして、静かだった理由を知る。
「何で、勝手に掃除を始めている。俺はそんなこと頼んだ覚えはないぞ」
「こんな不衛生な場所では、身体を壊してしまいます。貴方と共に任務を全うすることが私の目的であり、貴方の健康が阻害されれば試運転の結果にも影響が出てきます。ですから、出来る限り身の回りの世話をするのも私の義務で、貴方との良好な人間関係を築くことも要因の一つとなりえます。部屋を片付けたら、お茶でも飲んで今後について話し合いましょう」
 勝手に部屋の雑誌やらを片付けていくメイドロボットは、宗谷の問いかけに淡々と答えを返す。
 もし宗谷が何処かの姑なら、良く出来た娘じゃないか、などと感心していただろう。だが、ロボットと言えど人の部屋を漁って言いという法律はない。それが、片付けと言う名目であっても。
「片付けなくてもいい! ここにはお茶なんてない! お前との良好な関係を築く前に、あの小娘に熨斗をつけて送り返してやる!」
 冷静な説得など忘れ、感情のままに怒鳴り散らす。しかし、怒鳴られている本人は気にした様子もなく部屋の片付けを進めてゆく。そして、その魔の手は台所まで及んだ。
「……」
 もう、怒鳴る気力も残っていない。ただ思うがままに行動させ、満足したら帰ってもらおうか、などと妥協案を思い浮かべる。ただ、自分で掃除をせずに済むというメリットもある。どうしたところで、彼女を仕事の相方にしなくてはいけないらしいのだから、足掻くよりも大人しく試運転の期間が終わるのを待つのが得策ではなかろうか。
 もう諦めの色だけが強くなってきた頃、それは訪れる。宗谷の人間関係の分類としては、このアパートの管理人兼大家さんと言うだけの、少しはた迷惑なおばさんが唐突に部屋の扉を開いた。
 いくら貸している部屋であっても、ノックもせずに入ってくるのは不法侵入だ。そのおばさんに何を言ったところで、厚顔無恥に無視されるため文句は胸の内に秘めておく。
「何を騒いでいるのかと思ったら、話は本当だったのねぇ」
「話? いったい、何の用件ですか?」
 おばさんの物言いからして、騒がしい理由を確認しに来ただけ、と言うわけではなさそうだ。その証拠に、視線は宗谷ではなく食器を洗っているメイドロボットの方に向いている。浮かべている笑みに、嫌な予感を覚える。
「まさか、なかなかお嫁さんを貰わないと思ったら、こんなのが趣味だったのね。こんなのだったら、昔の仕事の都合で沢山持ってるから、言ってくれればよかったのに。それにしても、前の娘に比べてベッピンさんじゃない。昔の私にも負けないわよ」
 果たして、この山姥ばりのババアは何を勘違いして、何を言っているのだろうか。
「言っておきますが、こいつも仕事の関係者です。こんな服装が趣味でも、お嫁さんでもありません」
「照れなくてもいいのよぉ〜。こんな手際が良くて、美人の嫁さんなんてそうそう簡単に貰えないんだから。誇っても良いぐらいよ」
 どうやら、もう何を言っても大家さんの勘違いを訂正することは出来ないらしい。前回の相方である女性の場合は、嫁と勘違いされた本人も否定したため大きな騒ぎにはならなかったが、今回ばかりはメイドロボット自身が羞恥心といったものを持っていない。
 挙句の果てには、食器洗いを一旦中止して床に正座し、添えた指を床に着いて丁寧にお辞儀する。
「不束者ですが、今後ともよろしくお願いいたします。アンリ、と申します」
 たぶん、今日からこのアパートで世話になることについて挨拶をしているのだろうが、挨拶の仕方を間違っている。
「あらぁ〜、知ってたら手ぶらでなんて来なかったのに。今度来るときは、何かお祝いでも持ってくるわ。それじゃ、お二人さん仲良くお幸せに」
 大家さんも、既に訂正不可能なほど勘違いをして、そう言い残しながら部屋を去ってゆく。割と上手な鼻歌と、スキップする音を振りまきながら。
 二、三日もすれば、宗谷に訪れたこの変動は住宅街中に広まり、挙って周囲の皆さんがお祝いの言葉を掛けてくれるだろう。今日中に、何処かへ引っ越した方が良いだろうか。
「確かに、お茶らしいものが見当たりませんね。これでは、客人すら持て成すことが出来ません」
「別に持て成す客なんていない。お茶なんざ、出勤したら好きな時に飲める」
 コーヒー派ではあるものの、大した議論など出来ないのでずさんな態度であしらっておく。それでも、メイドロボットの方は何らかのコミュニケーションを取りたいらしく、無機質で情感など皆無な視線を宗谷に向けてくる。
 近所の知り合いが営む喫茶店があったことを思い出し、仕方なくそこへ出かけることにした。どうせ、一度ぐらいは寄ってくれと頼まれていた店だ、丁度良い暇つぶしになるだろう。
「だが、その前に。お前はそれを脱げ」
「……?」
 出掛けるに当たって、準備をしなくてはならない。そのため指示を出すが、メイドロボットはその意味を理解出来ないらしく首を傾げる。
 自分の服を指で示すのに首を振ってやると、室内に不穏な空気が漂う。
「貴方のことは主人から聞いています。先ほどのご婦人が言ったように、女性に対して興味を惹かれないということらしいですが、なんとなく分かりました。貴方という人間は、生身の肉体よりも物質的な存在に欲情するのですね。要するに、私の人工物の身体に欲情したと」
「違う!」
 メイドロボット――以後はバカとつけたい――の間違えた解釈を、力いっぱいに否定する。
「……確かに説明不足だったが、別にお前の裸体を見たいわけじゃない。そんな格好で出歩かれたら俺が迷惑するから、服を着替えろと言ったつもりだ」
 どうも、人間にしろロボットにしろ、女という形状の存在は服を脱ぐことを破廉恥なものだと思い込んでいるらしい。
「しかし、私はこの服しかいただいておりません」
「俺ので良いなら貸してやるよ。こんなものしかないが、そんな服よりは目立たないだろ?」
 まさかとは思っていたが、やはりイェーチェは服装に関しては無頓着だ。自分の言えたことではないのだが。
 とりあえず、クローゼットやタンスを漁って適当な服を見繕う。そして決まったのが、黒い無地のTシャツとユニクロのジーパンと言うラフな服だった。
「それじゃ、外で待ってるから着替えて来い」
「私は別に今ここで着替えても構いませんが?」
「……」
 前言撤回。このロボットの場合は、羞恥心なんてものを持ち合わせていない。イェーチェよろしく、人をからかうことを楽しんでいるのだ。親が親なら子も子と言う奴か。
 そして、外に出て待つこと数分、着替えを終えたメイドロボット――既にメイドではない――が姿を現す。宗谷に合わせた丈なので、頭一つ分小さな彼女には少しダブダブしている。だが、その様子が仕事仲間というよりも妹に近く思えたので良しとした。
 宗谷は、待ち時間の間に吸っていた煙草を地面に投げ捨て、足で揉み消しながら歩を進める。
「さてと、行こうかね。ロボット君」
「別に構いませんが、名前を呼んでいただけると助かります。アンリと呼んでください」
「ほう、機械如きがアデンティティを主張するとはいい度胸だ」
 自己同一性を主張する元メイドロボットを軽くあしらい、車は使わず徒歩で目的の喫茶店へ向かう。小さい喫茶店だと言う話だし、商店街近くにオープンしたため駐車場はないだろう。
 道中、擦れ違いに近所の主婦が、
「仲睦まじい新婚さんだこと、羨ましいわ。末永くお幸せにね」
 などと挨拶をしていった。どうやら、予想以上に話が出回るのが早いらしく、引越しはあまり意味がなさそうだった。



 長閑な秋風に吹かれ、舞い散る街路樹の紅葉を眺めながらアフタヌーン・ティーを嗜む。優雅な一刻である。
午後の日差しに照らされる空の下は、暖房の効いていない室内に居るよりも気持ちがよかった。ハイネックのセーターの上にコートを着ているだけでも、寒過ぎず暑過ぎない。
 自分のいるのは街角に佇む小さな喫茶店ではあるが、思ったよりもお客さんは多い。それに、老人を除けば男女を問わずに優雅な憩いの一刻を楽しんでいる。時間帯の問題でもあるのだろうが、立地条件や飲食物のクオリティを考えれば納得の出来る客数か。
 舞い落ちてくる銀杏を見つめ、小さくため息をつく。呆れたというわけではない、ただリラックスするための深呼吸だ。こうしていると、外に出てみて良かったと思える。
 この頃は、風情と言うものを知らぬ若者が増えたと聞くが、割とそうでもないらしい。こうして、小さな喫茶店に作られたテラスの一角で紅茶やコーヒーを啜る姿が、若き頃の二人を見ているようで微笑ましい。
 いや、自分はそんな経験をしたことはなかった。別に、国家試験に合格しようと躍起になって勉強をしていたわけでもなく、普通に普通の学生を楽しんでいた。まあ、友人とつるんでいてもこんなハイカラなお店には入ったことはないが。
そもそも、警察官という仕事も特別になりたいと言う職業でもなかったし、大学の講師から軽く進められたと言うだけで受けた試験に、どうした偶然か合格してしまったのだ。
 必死になっても合格できない浪人生がいると言うのに、果たして自分なんかが警察のキャリア組に入って良いものだろうかと悩んだこともある。しかし、こうして手に入れた幸運を溝に捨てるのももったいないので、後先のことを考えずに警察官になったという馬鹿馬鹿しい話だ。
 それにしても、なぜ自分はこんな昔のことを、元メイドロボットの女性に話しているのだろう。
「貴方は、どうして警察になったのですか?」
 などという安易な質問を受けてから、答えるつもりもなかったのにどういうわけか語り始めてしまっていた。
「そんなことどうでも良いだろ。なっちまったものはなっちまったんだ」
 突っぱねてやろうと無碍に答えても、彼女は何のメリットも考えずに突っ込んでくる。
「その様子だと、成り行き任せと言った感じですね。何か、他に夢とか、機械の私が言うのもなんですが、なかったのでしょうか?」
「夢ねぇ……。あの時は、何かを目標にしていたわけじゃないしな。両親は、人様に迷惑を掛けないなら自由にして良い、なんて放任されてたし、俺自身も成りたいと思う職業はなかったな」
 見事な誘導尋問だ。目の前の悩みなど忘れた頃に、昔のことを聞かれるとなぜだか答えてしまう。
 味覚など関係ない、と言いつつもオーダーしたアールグレーの紅茶を一口啜り、上目遣いにこちらを見つめる元メイドロボット。それがなんとなく、してやったり、と言いたげに見えたので一度は口を噤んだが。
「恋、というようなことはしなかったのですか?」
 ロボットにしては殊勝なことを聞くので、ついつい興味がそっちに行ってしまう。まあ、ロボットが恋やら愛について語るのはおかしいなどという差別的考えはないので、暇つぶしにと夢心地の脳みそが勝手に働いてしまったのだろう。
 しかしまた、思い返してみても、元メイドロボットが聞きたいと思うような浮いた話は思い出せない。誰かを好きになって、熱烈な恋愛をしたことなどあっただろうか。そう考えると、割と自分は健全な、ある意味で不健全な学生をやっていたような気もする。それと同時に、今も昔も、自分は大して変わっては居ないのだと実感できる。
 恋愛や人間関係には無頓着で、気の置けない友人達と気まぐれな付き合いをしていた自分の姿だけが、ぼやけた記憶の濁流の中に映る。この喫茶店の店長だって、学生時代の友人が脱サラして営んでいる。
「しかし、お前が警察官だなんてな。特別に成績が悪ってわけでもなかったが、他人に奉仕するような奴じゃなかったと思うが」
 友人だった店長が、こんなところで油を売りに来た。頼んでもいないコーヒーのお代わりをテーブルに置き、おまけだ、とのたまいながらティーセットを元メイドロボットに差し出す。
「ありがとうございます。ところで、宗谷さんはどのような方だったんですか?」
「……?」
 元メイドロボットの問いに、店長は恵比寿のような顔を歪めて怪訝そうに宗谷を見つめる。
 皆まで言うな。何が言いたいかぐらい、高校と大学の数年間で培った経験から分かっている。
 この恵比寿がこんな顔をする時は、大抵、何を言っているのだというような問いかけの意味である。たぶん、彼も自分と彼女が付き合っていると勘違いしているのだろう。
「仕事の同僚だよ。今日は早く切り上げれたから、ちょいと休憩のつもりでやってきただけだ。お呼ばれもしていたからな」
「なるほど。お前にしてはベッピンさんを連れてきたと思えば、仕事上のお付き合いってわけか。まあ、お前が女を垂らし込めるような奴じゃないって事ぐらいは分かっているが。そういやあ、こいつがどんな学生だったかだっけか? 話せば長くなるが、性格的には今とあまり変わってないかな」
「短いな。お前、俺のことをどう見てたんだ?」
 いつの間にか、小さな同窓会のような会話へと成り代わってゆく。中学三年の夜にバイクを盗んで走り出したり、大学生でもふざけて軽い悪さをしたことは何度もある。その度に教師や講師から見咎められ、それでも自分達のやりたいように生きてきた。両親は体面上、宗谷を叱ったが、家に帰ると他人事のように笑い飛ばしていた。
 そして、気がつけば、時間を忘れて昔話に没頭している。久しく忘れていた笑い声を上げ、周りの視線など気付く暇もなく罵り合いをする。元メイドロボットの方は、ただ相槌を打つだけだったが、その微量な表情の変化は人間のそれと変わらない。もしかしたら、無頓着な性格だと思い込んだ上で、相方がロボットだということに固執し過ぎていたのかも知れない。
「俺達って馬鹿だったけど、お前は飛びっきりの馬鹿だったよな。今でも覚えてるぜ、あの恥ずかしい記憶は。確かあれは、大学四年生の夏だったか?」
 何の話だろう。恵比寿の言うことについて、記憶の中から探り出す。
 確か、大学四年生の夏は、いつものメンバーで海に出掛けていたはずだ。自分と恵比寿、後は二人か三人ぐらいの良くつるんでいた友人達で、夏季休暇を利用した男共のむさ苦しい小旅行。
「夜の海に出て、馬鹿騒ぎしてた記憶はあるんだが……。花火で騒いでたら、確か――ッ!?」
 その時のことを明瞭に思い出し、身体を硬直させる。はっきりと脳内に浮かび上がった記憶で、耳まで紅潮するのが分かる。思い出したか、と恵比寿が不適な笑みを浮かべ、元メイドロボットは理解できかねた表情で宗谷を見つめる。
「……あ、あれは、人助けというのか。その、若気の至りって奴だ! そんなことをいちいち思い出すんじゃねぇ!」
 周りの迷惑も考えずに怒鳴り散らし、二度と思い出したくない記憶を胸の奥に仕舞い込む。人間、誰にだって若い頃の苦い思い出というのはある。甘酸っぱいとか、ほろ苦いというようなものではなく、ちょっとした世間様には言い辛い失敗談という奴が。
 恵比寿は嘲笑染みた笑みを浮かべて話を打ち切り、元メイドロボットは深くは追究せずに紅茶を啜ってケーキを頬張る。
 それから、そろそろ日も暮れ始める頃合に、割と有意義な一刻を堪能した二人は帰り支度を始める。日が沈みかけて肌寒くなってくると、客足もほとんど見られなくなる。
 そんな、買い物客が増え始める時間帯に、事件は起こった。
「待ちなさい! ポケットに入れたものを出しなさい!」
 喫茶店の向かいにある文房具屋から、店員らしき男の怒鳴り声が聞こえる。
 振り返ってみると、店員が若い男の肩を掴んで何かを催促している。会話の流れからするに、万引きをした男を窘めていると言った雰囲気だ。こんな商店街には良くある光景なので、宗谷はそれほど気にも留めずテラスから出ようとする。
「がっ!」
 不意に聞こえる呻き声。
 もう一度振り返ると、そこには地面に倒れた店員と焦りを浮かべて逃げ出す男の姿がある。万引きを窘められているところを、男が抵抗したのだろう。
「罪状を窃盗から強盗に移行。直ちに捕獲する」
 全ての光景を見ていた元メイドロボットが、無機質で事務的な口調で言葉を発し、殆ど予備動作も無くテラスから飛び出た。元来た喫茶店内を通らず、胸の高さのあるテラスの柵を飛び越えて、下に植えられているコスモスの生垣を踏むことなくアスファルトに着地する。
 跳躍と言うには無雑作で、飛び越えると言うにはあまりにも美しい動作に、宗谷は一瞬だけ見惚れてしまう。そして、直ぐに後を追った。無論、ちゃんと店内を通ってだ。
「済まん、急な仕事だ!」
「ああ、ツケておくから行って来い」
 出掛けにそう言い残すと、恵比寿は軽く見送ってくれる。
 外に出た時には、ほんの僅かなタイムラグであったというのに、逃亡犯と追跡者の姿は遠く離れていた。オリンピック選手並の身体能力とは聞いていたが、それから逃げ果せる逃亡犯もなかなかの足だ。たぶん、長距離走と短距離走との筋肉の出来が異なるから、どちらかを突出して使い切れないのだろう。それでも、十分に早いのは確かだ。
 遠くに見える、人混みを掻き分けて逃亡を試みる強盗犯を眺めつつ、意味も無く感心する。いや、今はそんなことを考えている暇など無い。
 自分の役目を思い出した宗谷も、遥か遠くの二人を追って走り出した。買い物中の主婦達を押し退け、雑踏の中を駆け抜ける。昔取った杵柄と言うのか、宗谷も走ることには自信がある。が、思ったよりも多い人波の所為で思うように前に進むことが出来ない。
 しかも、人よりも幅のある巨躯が邪魔になり、こんな時ばかりは小柄な方が良いと実感する。二人の姿を見失わないようにすることだけで精一杯だった。
 人混みの途切れ始めるところで、ようやく二人の背中に追いついてくる。そして、強盗犯はこの辺りの地理に疎いのか、行き止まりとなっている細い路地に折れ曲がる。そこはシメたと思うところなのだろうが、油断は禁物である。何せ、追い込まれたネズミほど反撃に猫を噛む可能性は高いからだ。
「おい、そこで止まれ!」
 元メイドロボットも路地を曲がろうとしたところで、宗谷が制止の声をかける。だが、追跡に夢中になっていて聞こえなかったのか、彼女はそのまま路地の向こうへと姿を消した。
「チッ。俺より頭が良いなら、もう少し考えてから行動しろ」
 悪態を吐きながら、ラストスパートを掛ける。
 路地を折れて少し走ると、そこには強盗犯を追い詰めた元メイドロボットの姿がある。そこまでで止しておけば良いものを、彼女は強盗犯に歩み寄ってゆく。ジリジリと間合いを詰められ、完全に追い詰められた強盗犯の取った行動は当たり前と言えば当たり前だった。
「それ以上来るな! 来たら、ぶっ殺すぞ!」
 精一杯の虚勢を張り上げ、懐から取り出した折畳み式の護身用ナイフ――俗にバタフライナイフと呼ばれるそれを構える。その虚勢に立ち止まったのは、元メイドロボットではなくて宗谷の方だった。
 強盗犯を含む三人が直線の点を作り、真ん中に元メイドロボットを置く形で硬直する。
「どうして人間というのは、こうも往生際が悪いのでしょうか? 自分の罪を認めず、逃げ果せようという卑俗な考えに呆れます」
 彼女はナイフにたじろいだ様子も無く、冷ややかな視線を強盗犯に向けて場違いな感想を述べる。
 ロボットはそんな感想を覚えるのだろうが、宗谷は違う。警察である身でこんなことを思うのはおかしいのだろうが、宗谷は犯罪者というものに敬意に似た感心を抱いていた。日々を気ままに過ごす自分よりも、己の運命に抗おうと必死に生きる犯罪者の方が、よほど人生における幸せを享受しようとしているように思うのだ。我武者羅に、敗者から勝者へと勝ち上ろうとする姿が、宗谷には眩しく見える。
 だから、今朝の強盗事件でも、宗谷は積極的に説得しにいこうとはしなかった。もし強盗に成功して、お金を持って海外にでも逃げられたのなら、あの大上裕という男は人生の勝ち組に這い上がれただろう。しかし、裕は最後の最後で一等着けてはならない火を着けてしまったと言える。
 犯罪者が、己を忘れてはならない。己を忘れて人を殺したのなら、それはもう勝負ではなく狂気の沙汰なのだ。負け組みどころか、狂人に成り下がる者に誰かが殺されるのは見たくは無い。
「もう、ここまでにしなさい。貴方は逃げられないのだから、大人しくお縄に付いた方がまだ罪は軽い」
 元メイドロボットが強盗犯を説得しようとする。
 ナイフをチラつかせて威嚇しているだけなら、まだ逃げよういう気概はある。後は、犯人の出方次第だ。
 邪魔なロボットさえ居なければ、今朝の強盗事件と同様に素手で取り押さえるぐらいの自信はあるが、今やもう取り逃がしても構わない、と宗谷は思う。強盗犯が狂人へと成り下がれば、傷つくのは犯人ではなくて彼女の方なのだから。
「う、動くな! 動いたら……ッ」
 強盗犯が言葉を紡ぎ終えるよりも早く、元メイドロボットが前に出る。
「アンリッ!」
 咄嗟に宗谷が動く。
 制止の声も間に合わず、犯人の振るった凶刃がアンリの胸を裂く。舞い散るTシャツの切れ端が宗谷の目の前で踊り、擦れ違い様にアンリが地面に倒れた。一連の動作が動画のスローモーションのように見え、視覚以外の五感が世界から遮断される。通から聞こえる喧騒の音も、裏路地のかび臭い匂いも、建物の隙間を吹き抜ける風の感触も、先刻まで呑んでいたコーヒーの味覚さえ、儚い夢のように掻き消える。
 二、三回ほど転がった後、アンリは積み上げられていたダンボールの山に突っ込み、ダンボールの土砂に飲み込まれながら停止した。その直後に、赤いそれが地面を濡らす。ドクドクと、留まることを知らずに赤色のそれは広がってゆく。
 なんという終わり方だろう。彼女と組んでから、たったの一日どころか、半日も経たぬ内に解消なんて、なんという薄情な運命なのだろうか。
「嘘だろ……おい。まだ、だ。まだ、生きてるよなッ?」
 ピクリとも動かぬアンリの姿を見つめ、僅かな可能性に賭けて歩み寄る。
「…………」
 強盗犯は、自分が殺した――切ったのだと気付き、ナイフを地面に転がして腰を抜かす。逃げる気も起きぬほど後悔し、頭を抱えて震えている。
 宗谷も、捕まえることさえ忘れてアンリの側に膝を着き、身体を抱き起こす。ヌメッとした赤い液体が手の平を染める。
「アンリ、大丈夫か?」
 なんとも安直な、それでもそれ以外に掛けるものの無い、狼狽した台詞。
 アンリは目を開き、そんな宗谷にこれまで見たことの無い綺麗な微笑を見せる。私は、こんな風に笑えるのよ、と言いたげに。
「……すみません、私が勝手なことをしたばかりに。私は大丈夫ですから、早く逮捕してください」
「何言ってんだ。直ぐに救急車呼ぶから、もう喋るな……」
「それから、初めて私の名前を呼んでくれましたね。とても、嬉しかったです……」
「だから喋るなって言ってるだろッ。名前ぐらい、これから何度でも呼んでやるから、死ぬんじゃねぇッ」
 自分の心配など無用と言わんばかりの物言いに、つい語気が荒くなる。それでも、アンリはその無垢な微笑を壊さない。ただ、優しく聖母の如く宗谷を見据える。
「それにしても、宗谷さん。貴方は何をそんなに慌てているのですか? こんな染色用の塗料が付いたぐらいで」
「ペンキだからだろうが! ペンキだから……へっ? ペンキ……?」
 そこで、フッと冷静さを取り戻す。
 良く考えてみれば、アンリの身体を染める赤い液体は、感触も粘度の血液とは異なるものだった。鼻腔を突く希釈剤の香りに、嗅覚が取り戻ってきたため顔を顰める。他の五感も正常に働き始めると、ようやく全ての状況を飲み込めた。
『…………』
 アンリを抱き上げた形で見詰め合い、しばしの沈黙に包まれる。
晩秋の冷たい風が、焦燥し切っていた心と身体を冷ましてくれる。
 要するに、アンリは全く無事なのだ。多少は人工皮に傷は付いただろうが、ロボットである彼女がその程度で死ぬわけがない。
「そもそも、私には『死』という概念はありません。ボディーが壊れても、主人なら治してくれるでしょうし、ありえたとしてもメインメモリを損失するか、CPU自体が損害を受けない限り、私は保護プログラムで一時的に休止状態に入る程度かと」
 アンリの説明に、宗谷は呆れて物が言えない。とりあえず、ため息を一つ吐いてからアンリを抱き起こす。
 その後は、割と事務的で簡単な作業を行うだけだった。
 自失呆然としていた強盗犯を手近な紐で拘束し、文房具屋の店員が通報して駆けつけた警察官に手渡せば、明日にでも報告書を出すということで一件落着だ。
 まさかのドラマ的展開で、その忙しい一日は幕を閉じることとなった。まだ、少しばかりの追記は残っているが。



 夕日が沈み、完全に夜の帳が下りた頃、二つの人影が街灯に照らされて影法師を作る。街路樹の銀杏や椛が路上を赤と黄に染め、影の闇へと溶け消える。
 言わずとも、宗谷とアンリの二人だ。
宗谷は愛用のコートの下に着ていたハイネックのセーターで、アンリは宗谷から借りたコートを胸までボタンを閉めて着込んでいる。肩を並べて歩くその姿は、仲睦まじい夫婦を彷彿させる。
 ただ、二人を包み込む空気は沈黙に満ちて重苦しい。空気抵抗に抗いながら舞い落ちる紅葉達でさえ、その空気の重さに耐え切れず速度を速めているようだ。
「なあ」
 二人の住処の手前まで着いたところで、宗谷が重たい口を開く。
「……はい?」
 唐突に掛けられた言葉に、アンリは数瞬遅れながらも短く応答する。
「何で、だ」
 宗谷の問いも短い。まるで、言いたいことぐらい説明せずとも分かり合っているような問答だった。
 しかし、アンリには理解出来ない。いや、理解できるわけが無い。先ほどから、なぜ宗谷が無言の怒りを自分に向けているのかなど。
 いくら人の感情に精通する要因を検索しても、明確な答えは出なかった。それに、宗谷の怒りは通常の憤慨などとは異なっている。こうした時、どういった対処をすれば良いのかは分かっている。
「服のことでしたら、明日主人に伝えて弁償していただきます」
 イェーチェの使う便宜的な論述で、相手の意向を探る。すると、宗谷は近所迷惑も省みずに怒鳴り声を上げた。
「違う! そんなことじゃない!」
 それは怒りでも、怒りには含まれぬ声音を纏っていた。
 怒らずには居られない、それでも怒ったところで解決にならぬ、複雑な感情論が入り混じった声。
せめぎあう感情が無用な殺し合いを続け、血で血を洗うような混沌へと成り代わる。たぶん、今の宗谷の胸中はそんな感じだ。
「なんであの時、犯人を取り押さえようとした?」
「なぜ、とは? 我々、警察が犯罪者を捕獲するのは当然の義務ではありませんか。それを放棄して、何が我々の仕事として残るのでしょう?」
 やはり、宗谷の言いたいことが分からない。
 当然のことをして怒られるなど、理不尽ではないか。それなのに、宗谷は苛立った視線をアンリに向けてくる。
 取り逃がせば、いつどこで新たなる犯罪を行わなかったという保証は無いし、結果的には逮捕できたのだから余計な矛先は収めるべきだろう。
 そうした考え方が出来ない辺りは、人間という生物は感情のコントロールが不慣れなのかもしれない。まあ、ロボットはどうなのか、と問われても返答に困るのだが。
「追う、捕まえる、なんて物はどうでもいいんだ。俺の指示に従わなかったのも、仕事を優先した所為だって分かっている。だがな、あれは勇敢じゃなくて無謀って言うんだ! お前は、俺みたいに武術が出来るわけじゃない。力は強いだろうが、素手での戦い方は知らない。もしお前が普通の人間なら、あれだけで十分危険な怪我をしていたんだぞ? なのに、どうして楽観していられる!?」
 アンリは、そんな不可解な確率論と仮定を持ち出されて一瞬たじろぐ。
「別に、楽観しているわけではありません。それに私は、人間のような怪我をしないことを自覚した上で行動したんです。起こりえない仮定に脅え、犯罪者を取り逃がすなど警察の……」
 気丈に反論するが、最後まで言わずに口を噤む。どうして、宗谷がここまでして怒っているのかが理解できたのだ。
 自分は、宗谷の相方であっても、警察でもなんでもない。ただ、試運転のために警察に預けられただけの機械であり、犯罪者を捕まえるために作られた存在ではない。だから、身体能力は常人より高くても、戦う術を与えられてはいなかった。犯罪者を捕まえられなくとも、警察の恥などと言う権利などない。
「……すみません。そうですよね。私は、貴方の後ろでどう行動すればいいかを考えていればよいのでしょう。犯罪者を捕まえるのは宗谷の仕事で、私の仕事は試運転の結果を出すことです」
 それに気付いてしまい、アンリはボソボソと呟きながら項垂れる。闇夜でさえその存在を失わぬ、深淵の黒髪を力なく垂れ下げながら自嘲の笑みを浮かべる。
 顔を上げても尚、自分を見据える宗谷の顔を見ることが出来ず、百八十度に踵を返す。たぶん、酷く失望した表情を浮かべているだろう。そして、振り向いたところで彼は何事もなかったように立ち去る。
 振り向き様に、平手の一発でもくれればもう少し楽なのだろうが、この宗谷という男はそれをしない男だと分かっている。
「すみませんでした。主人に頼んで、別の方に試運転を代わってもらいます。今日一日、ありがとうございました」
 振り向くことなく、アンリはそれだけを告げると走り出す。
コートは、明日にでも主人に返しといてもらおう。だから、今は、今だけは彼の顔を見ずにここを去りたい。
 それでも、そう思っていても、彼はそうさせてはくれなかった。
「謝られて、相方を辞められるのは初めてだ。感謝されて、辞められるのも初めてだな。ただ、どうして辞めるのかが分からん」
 静かの口調の、咎めているわけでも、アンリを許そうとしているわけでもない台詞。
 声の主は、いつの間にかアンリの走り去ろうとした行く手を遮っていた。正面に佇み、怪訝そうな表情を浮かべて首を傾げている。
予想の出来なかった宗谷の行動に戸惑っている間に、彼はゆっくりと自分に歩み寄ってくる。そして、コートのポケットに手を突っ込んでマイルドセブンを引っ張り出す。咥えて火をつけると、深く息を吸い込んで白濁した紫煙を夜空に向けて吐き出した。
「いったい何を勘違いしているのか分からんが、一つだけ言っておく。お前は俺の相方じゃない」
「…………」
 考えている通りのことを言い当てられ、再び俯いてしまうアンリ。
 やはり、最初から自分は宗谷の相方になる資格などなかったのだ。故に、切り捨てられることは当然の結果だった。
 このことを報告したら、主人はなんと言うだろう。
 失望してため息を吐くか、怒って宗谷に抗議しに行くか、笑い飛ばして次の試運転係を探すか。
 どちらにせよ、当然だと自覚している以上は悲しくない。それでも、胸の奥で機械の知性とは異なる何かが訴える。慟哭している。
 泣いて懇願すれば、もう少しの間は相方を続けられるだろうか。
いや、無理だ。
 やはり彼は、そうした男ではない。主人が言う最強の武器である女の涙を見ても、冷たく切り捨てられる非情で、真実を鑑みた上で他人を気遣える優しい男性だ。
 どうして、彼の言葉はこんなに重いのだろう。
 とても長い、そして短いような、良く分からない空白を空けて宗谷が口を開く。
「アンリ、お前は俺の相棒だ」
 言われた言葉の意味を理解できず、顔を上げる。果たして、相方と相棒とはどういった違いがあるのか。
「相方は、相棒と同義語だが、パートナーとは言えない。俺の求めるパートナーってぇのは、ただ俺についてくるだけじゃなくて、自分の考えを持って行動できる馬鹿だ」
「……どう、言う……」
 宗谷の言いたいことが分からず、的確な問い掛けの言葉が出てこない。宗谷の方は、アンリの思いを汲み取っているのか、そのまま言葉を続ける。
「それを言うと、お前はこれまでに会ったことのない最高の相棒だよ」
 煙草を咥えたまま白い煙を吐き出し、口角を吊り上げて言う。
 そして気付く。自分が、彼のことを見誤っていたことに。
 桂木宗谷なる男は、世界を描く絵画の額縁に収められるほど小さな男ではなかったのだ。こうして、自分の目でも彼の巨躯を収めきれぬように、自分の見ていた世界は小さ過ぎた。
 宗谷が歩み寄ってきて、腕をアンリの背中に回し、そのまま優しく胸に抱き寄せる。
「アンリは、俺の最後の――ラスト・パートナーだ。だから、もう辞めるなんて言うなよ」
 耳元で囁かれる言葉。
 それは、アンリが決めることの出来ない絶対条件。言わば、アンリには決定権など元からない。
「……はい!」
 数秒の拍を置いて、答える。短くも、はっきりと、誓いを込めて。
 自分は、もう彼から離れないだろう。自分は死ぬことはないから、彼が死ぬまでの間だが。それでも、彼が死んでもその誓いは残る。
 なぜなら、自分は彼の『Last partner』だから。



第二章・楽しければ全て善し



 夜風に吹かれる二人。
 優しく二人を包み込む風は、時に飢えた猛獣を呼ぶこともある。こうして彼らの前に現れた少女も、怠惰な日々に嫌気を覚えていたのだろう。
「そんなにラブラブされてると、出て行き辛くなるんだけど」
 ブロック塀の影から、その少女は姿を現しながらぼやく。
 二本に分けて縛り上げた金髪を揺らし、エメラルドを思わせる碧眼で二人を見据える小柄な少女。
 姓名不明、国籍不明、出身地不明等、名しか語らぬ謎を呼ぶ謎の少女、イェーチェである。若い容姿にして天才的な工学技術を持ちながら、他人をからかい貶めることを至高の楽しみとする小悪魔だ。
 服装はいつもと変わらず、黒のノースリーブと防寒にもならぬ黒いカーディガン。それでも、身震い一つせず寒さを感じていないかのように微笑を浮かべている。
「……何の用だ? お前がこんなところに来るなんて、初めてだと思うが」
 突然の訪問に、宗谷はアンリから離れて平静を装って問う。
 イェーチェは返答の代わりに、口元を吊り上げて持っていたビニール袋を胸の高さまで掲げる。カチャッと数本の一升瓶が音を立ててぶつかり合う。入れ物のビニール袋こそスーパーのレジ袋だが、緩衝材と可愛げのあるリボンで包装されているところを見ると、市販の安いお酒ではなさそうだ。
「知り合いから貰った三十年物の泡盛だよ。アンリを預かってくれてるお礼を兼ねて、差し入れに来たんだけど――」
 喋りながら、チラリと横目でアンリを一瞥するを見逃さない。
「――お邪魔だったかな?」
「いや、そんな事はない。お前にしては殊勝なことだと思うが、お礼ってことならありがたく受け取っておくよ」
 イェーチェの視線が何を訴えているのか予想が付かず、当たり障りのない会話を続ける。
 アンリにおいては、主人の突然の来訪に虚を突かれたのか、隠しているつもりのようでもはっきりと戸惑いが顔に出ている。それでロボットが務まるのか、はなはだ疑問である。
 イェーチェの何を考えているのか皆目検討の付かない瞳が、あまり健全と言えることは考えていないだろう。それどころか、目の前の素材をどう調理すべきか想像を巡らせているといった風である。勿論、悪い意味での調理だが。
 アンリが不用意に口を開かぬよう、釘を刺そうと視線を移すが、
「主人も、今日は冷えますから早くお帰りください。私は、宗谷さんと仲良くやっていますので、ご心配なく」
 間に合わずに口を利いてしまう。
 そこですかさず、待っていましたとばかりに切り返す。
「そうだねぇ〜。色々と、仲良くやってる見たいだし、寒くなってきたから心配せずに帰ろうか。それにしても、アンリは体温調整の必要がないから真冬でもシャツ一枚で良いはずなのに、どうして宗ちゃんのコートなんか着てるの?」
 普通の人種にされるならば特になんでもない、些細な問い掛け。まだ、この状況をどう調理してくるつもりか予想が付かない。なんと答えるべきか悩みあぐねていると、再びアンリが返答を返す。
「い、え。その、どんなものなのか着てみたくなったので、少しお借りしていただけです。別に深い意味は……」
「あっ、そう。なら、そろそろ返して上げなよ。宗ちゃんも、セーター一枚じゃ寒いでしょ」
 今度は宗谷に視線を移し、当事者以外が聞けば当たり前のような台詞を口にする。そこである程度の予想が付き、苦く顔を歪める。
 イェーチェは、アンリの着ているコートの下がどんな状況かを把握しているのだ。まさかとは思うが、こんなところでストリップショーを始めさせようなどとは考えていないだろう。だが、イェーチェならば何をやらかしてもおかしくはなかった。
「俺は大丈夫だ。着たいなら、もう少し着てても良い。どうせ、直ぐにお家で頂き物のお酒に舌鼓するんだからな、邪魔なぐらいだ」
 とりあえずフォローに回っておくが、イェーチェもそれほど簡単に食い下がらない。
「それなら良いけど、風邪引いて仕事に来れないなんてだめだよ。アンリの試運転の結果を出すのにだって、期限があるんだから。そう言えば、私が貸してって頼んでも貸してくれなかったよね。そのコート」
「……お前の場合、着たまま暴れ回って、大事なコートをボロ布にし兼ねんから、あまり貸したくないんだが」
「大丈夫だよ。少し着るだけだから。ねぇ、アンリに貸せて私に貸せない、なんてことはないよね? ねっ、ねっ!」
 無邪気な子供のおねだりのように、慣れぬ者には作り笑いか本心か分からぬ笑顔で駄々を捏ねてくる。
 宗谷の腕に抱きついてせがむが、今はコートを貸すことは出来ない。イェーチェも、本心からコートを脱がそうとしているわけではないのだろうが、早く対処しないととんでもないことを言い出しそうだ。
「……もう、いいよ。アンリは、宗ちゃんのものだから」
 腕から離れて急に駄々を捏ねなくなったと思えば、なにやら不穏な発言を拗ねた口調でする。
 諦めてくれたのは嬉しいが、それもまた宗谷とアンリをからかう策の一つに思えてならない。
「今日は遅いから――ッ?」
 早い内にイェーチェを追い返そうと口を開いた瞬間、彼女は上目遣いに宗谷を見つめる。その吸い込まれるようなブルーアイに、いっぱいの涙を溜めて。
 別に、女子供の涙を見て心変わりするような宗谷ではない。しかし、この少女が涙なんぞを浮かべるのを見たのは初めてで、不意打ち紛いの攻撃に宗谷は二の句が告げなくなる。もし、言葉で打ち負かして涙目にしたのなら功労賞ものだが、目の前の小悪魔が浮かべる涙ほど恐ろしいことはないのだ。
 そして、次に発されたイェーチェの台詞に目の前が真っ白になった。
「私だってまだ子供だけど、二人が何をしてるのか分かってるんだよ。宗ちゃんって少し変わってると思ってたけど……不潔」
『…………』
 アンリもイェーチェの言葉の主旨を理解したのか、宗谷に倣って絶句する。コートの襟を引き締め、酸素を欲する金魚のようにパクパクと口の開閉を繰り返す。
まさか、自分の主人がそんな発言をするとは思っても見なかったのだろう。まあ、どうしてロボットであるアンリが、教育上よろしくない内容の主旨を理解できたのかは問わないでおこう。
「ガキがマセたこと言ってんじゃねぇ。本当は、お前も興味あるんだろ。そんなこと知ってるぐらいだし、本とかも幾つか持っていたっておかしくないかもな」
 流石に何度もからかわれて来た分は宗谷にも免疫が出来ているため、直ぐに我に返り、からかわれ続けるのも癪なのですかさず言い返す。が、その辺りは未だにイェーチェの方が一枚上手だった。
「ひぃっ! 宗ちゃんに犯されるぅ〜ッ!」
 そんなことを近所迷惑も考えずに大声で叫ぶのだから、宗谷とアンリは大慌てでイェーチェの口を塞ごうと動く。
 戸惑っていたとしても十分に素早い動きだったが、無残にも二人の手は虚空を切るだけであった。二人の連携を嘲笑うかのように後ろへ跳躍したイェーチェは、常人には行き止まりとなるはずのブロック塀に飛び移り、続けて民家の屋根へと身を翻して足音も立たずに着地する。
「これで私の連勝記録更新っと」
「何の連勝記録だ!」
 屋根の上で、地上の二人を嘲るイェーチェに突っ込みを入れる。どうせ、自分をからかえた記録でも数えていたのだろう。
「そうです、危ないですから降りてください!」
 アンリはアンリで、まったく場違いな忠告を入れる。
「それじゃ、私はこの辺りで失礼するわ。宗ちゃん達も、風邪引かないように気をつけてね。グッバ〜イ」
 イェーチェはそれだけを言い残すと、走ることすら困難な屋根の傾斜を、ただの平坦な道を行くかのように飛び跳ねながら走り去ってゆく。そして少女は、晩秋の夜に舞いながら姿を消した。
 果たして、いったい彼女は何者なのだろうか。常識の範疇では語れぬ工学技術を持ち、体操選手も及ばぬ身軽さを会得している少女の過去を、他者のプライバシーに抵触することを避けたいと思っている宗谷ですら知りたいと思ってしまう。彼女の創作物であるアンリに視線で投げかけても、黒髪を乱雑に振り回して否定するだけだ。
 要するに、生活安全課の常連なる少女の実態を知るものは誰一人としていないのである。一度ぐらい、少女の親の顔を見てみたいものだと思う。
「……さて、そろそろ冷えてきたし、中に入るか」
「そうですね。無用な詮索は、時に身を滅ぼします」
 吹き抜ける木枯らしに身を震えさせ、二人は同意の下で我が家に向かって歩を進め始める。二人の感じた疑問もまた、木枯らしに吹かれて何処かへと消え去ってゆく。
 そして、風変わりな二人組の日常はまだまだ続くのであった。



 赤よりも淡い橙色のライトが光る長いトンネルを抜けると、そこには朝焼けの空が待ち受けていた。徹夜明けの清々しい朝の空気を、車窓を開けて胸いっぱいに吸い込む。肺を満たす冷たい空気が胡乱気に落ちかけた瞼を開かせ、ハンドルを切り返す度に変わる風の流れが白髪の混じり始めた赤銅の頭髪を無雑作に掻き乱す。
 朝日を照り返す漆黒のボディーのスカイラインを運転するのは、四十頃と思しき中年の男である。赤銅色の頭髪に、カラーコンタクトとは異なる輝きを見せる真鍮の瞳。中年太りということもなく、隆々とした肉付きをしているわけでもない、中肉中背の――逆にヒョロイと言った方がしっくりと来るどこにでもいるような男だった。スーツを着ているため、一見ならサラリーマンと疑ってしまいそうな容姿だった。
 それから、助手席のシートを倒して大イビキを掻いている、運転手の男よりも頭一つ分は小さい男性もまた、ワックスで落ち着かせた日本人特有の黒髪に、眼鏡で隠そうとしているのが明らかなやや童顔のあどけない寝顔が、新人のサラリーマンと言った風体である。時折、可笑しな寝言を呟く辺りも、社会人らしからぬ要因であろう。
 こうして車を走らせていると出張中のサラリーマンにしか見えない二人組だが、列記とした某県警の刑事部警務課に所属している警察官なのだ。人は見かけによらぬ、という言葉をしみじみの実感させてくれる二人は、実際に出張中だったりもする。
 二人はとある事件の容疑者を追って、隣の県警まで捜査情報の交渉に行っていたその帰りだ。
「おい、そろそろ起きろ……」
 運転手の男、庵明響が助手席の男性、見渡友哉を揺すり起こそうとする。が、熟睡モードに入ると、友哉でなくとも誰かを起こすのは難しい。
 仕方なくカーラジオのスイッチを入れて、時たま流れていたヘヴィーメタル系のバンド曲を大音量で流してみる。ガンガンと鳴り響く電子ギターやらドラムの音は、通常の目覚まし時計よりも効果は抜群だった。
「ッ!?」
 エンジン音を凌駕する音量に驚いた友哉は跳ね起き、呆れた眼差しを送る響を寝惚け眼で見つめる。まだ頭が左右に揺れているところを見ると、完全に目が覚めたわけではなさそうだ。
 友哉は自分の安眠を妨害した音源をみつけ、スイッチを切ってから再びシートに倒れこむ。シートに身体を預けてから直ぐに聞こえてくるイビキに、響は深いため息を吐く。
 これが美女ならば、美容のために寝かしといてやっても良かったのだが、残念ながら欲情なんて出来ないむさい男である。
「人に運転させといて、二度寝とは良い度胸だ。少し手荒になるが、こいつはよく目が覚めるぜ」
 響は口角を不適に吊り上げ、友哉のコメカミに握り拳を近づける。中指を親指で押さえ残りの指を真っ直ぐに伸ばした形、デコピン要領で友哉のコメカミを弾く。
 普通なら熟睡した人間を起こすには不十分な威力だが、どういった手品か、コメカミを叩いた衝撃は頭部を擦り抜けて向かい側の扉を打ち鳴らした。その瞬間、友哉は白目を見開いて口をアングリと開き、廃人にでもなったかのように身体の力を失う。それから数秒して、意識を取り戻した友哉が勢い良く身体を起こす。
「はっ!? はぁ、はぁ……」
「どうだ、目が覚めたろ?」
 荒い息を吐き、肩で呼吸をする友哉に他人事のように言う。
「何をしたんですか!? 目が覚めるどころか、今にも永眠しそうになりましたよ! 五年前に他界したお爺ちゃんが、川の向こうで手を振ってたんですからねッ」
「渡るなよ。お爺ちゃんとあっちで仲良く暮らすことになるから」
「渡りませんよ。まだ二十過ぎで、死にたくありません……」
 怒鳴りつけてくる友哉を軽口でいなすと、彼は不機嫌そうに半眼で睨んでくる。
 まあ、これも上司である響を差し置いて眠りこけていた報いというものだ。それにしても、デコピンの一発や二発で昇天しかけるとは、最近のお坊ちゃんというのは軟い。
普通のデコピンではないことを自覚しつつ、響は心の中で友哉を嘲る。
 その辺りを考えると、最近は自分の仕事も最後まで遣り遂げられない若者が増えてきていると聞く。隣に座る裕也も、響と組む以前は警務課の他の同僚と組んでいたのだが、相方の我が儘の付き合い切れずに組み合わせを変えたこともある。そうして何度も相方を変えられる男と、課長である響に泣き付いてくる同僚。我が儘過ぎるのか、それとも同僚達の堪え性がないのか、今一、判断の困るのだ。
確か、我が儘男と組んだ同僚の一人は胃潰瘍で今も入院中だったと思う。
「あいつと組むなら、忍耐ってものを見につけなくちゃな。忍耐を」
「警部補は特殊過ぎます。僕達、一般人の考えでは及びもつかない行動ばかりで、身体と精神がもちませんよ」
 友哉は、響が示す人物を思い描いてため息を吐く。続けて、昨日の昼頃にお茶の間を騒がせたニュースを思い出し、呆れ顔で響に問う。
「聞きました? 昨日の朝も、あの人、やっちゃったらしいですよ」
「何を? せめて始末書で済むことだよな? あいつのことだから、車の一台はオジャンにしてるかも知れんが」
「ニュース、見てなかったんですね。こっちのスーパーで起きた篭城強盗事件に、車で突っ込んで人質を救出したって。あの人は、ここをどこだと思っているんでしょ。日本ですよ、に・ほ・んッ」
 友哉が近づけてくる童顔に不釣合いな怒りの形相を鬱陶しそうに押し退け、馬鹿馬鹿しいとばかりに鼻で笑う。
 そんなことぐらいでいきり立っていては、外国の犯罪情勢を目の当たりにして卒倒しかねない。忍耐力より前に、もう少し柔軟な思考を持った方が良さそうだ。
「あいつが突っ走るのはいつものことだ。それよりも、今度の相方は大丈夫だったのか? また、俺に泣き付かれるのは勘弁だぜ」
「あぁ、そのことですが。今度は、あの娘が何か持ってきたらしいですよ」
 あの娘とは、たぶんイェーチェのことだろう。
 刑務課の、と言うより、刑事部の面々はイェーチェとは少なからぬ因縁があり、一年ぐらい前からの面子ならば誰でも知っている。
「持ってきたのか? 連れてきたじゃなくて、持ってきたなのか?」
「詳しくは分かりませんけど、人間みたいなロボットだとか。このご時世に、そんなものを作れるとは思いませんけどね。それも、生活安全課の常連の少女が独学でなんて、無理ですよ」
 友哉がそう答えると、フロントガラスを見つめる響の表情が険しくなる。それに気付かぬまま友哉は愚痴をぼやき続けるが、響の耳には届いていなかった。
(まさかとは思うが、またおかしなものを引っ張り込んできたんじゃないだろうな……?)
 思い当たる節があるのだが、まさかイェーチェが宗谷を生贄に捧げるとは思えないのだ。
「響警部補? 聞いてました? ちょっと、何そんな怖い顔してるんですか」
 友哉のおどけたような、気後れしたような声で我に返る。
「あ、あぁ……すまん。少し考え事を、な」
 軽く誤魔化してから、引き締まった表情を緩めてアクセルを踏み込む。後数十分も走れば、響と友哉の勤務先が見えてくる。
 二人が自分達の勤める所轄に戻ってきたのは、短針が九時を指そうとする数分程前だった。既に幾人かの同僚や警邏が出勤していたが、出張帰りの二人は特に咎められもせず署内へ入ってゆく。
 いつもと変わらぬ署内。愛も変わらず、何故か点滅する蛍光灯が取り替えられていない薄暗い廊下を歩き、何の変哲もない自分達の部署へと赴く。いや、今日ばかりはいつもと少し違っている。
 刑事部の入り口に十数人の他部署の警邏達が集まり、口々に何かを騒ぎ立てている。
「? なんだ、何かあったのか?」
 響が目を丸くして問うが、誰も聞いていないように刑事部の室内を覗き込んで騒ぐのを止めない。乱雑な会話を一部ずつ読み解くに、なにやら珍しいものを見に来た野次馬と言った感じらしい。
 野次馬の中に、中を覗き込もうと必死に飛び跳ねる金髪の小柄な影を見つけ、響が声を掛けた。
「イェーチェ、何がどうしたんだ」
「おぉ、久しく顔を見る響じゃん。いや〜、まさかこんなことになるとは思ってなくてねぇ〜」
 響に気付いたイェーチェが、他人事にように苦笑を浮かべて答える。他人には他人事なのだろうが、彼女の場合は自分の責任でも他人事にしてしまう性質なので、彼女がこの野次馬の一因を担っていることは直ぐに分かる。
「また、何かやらかしたのか? 言ってるだろ、俺の勤務先で無用な騒ぎは起こすなって……終いにゃ、出入り禁止にするぞ?」
「べ、別に私が何かやったわけじゃないやいッ。ただ、成り行き上、変な方向に痴情が縺れただけだよ!」
 慌てて弁解する辺り、天才少女にも予測の付かない展開があったことだけは理解できる。
 それにしても、痴情の縺れとは何のことか。この場合、誰と誰の痴情であり、どういった成り行きかを知る必要があるだろう。
「おい、ちょっと通してくれ。警察署で騒ぎ起こしてどうするんだよ、お前ら。そこ、キープアウトって書いた黄色いテープ張っちゃだめでしょ」
 野次馬を押し退け、響が中に入ってゆく。後ろでは、ベルリンの壁ならぬ人の壁を通り抜けようと挑戦したイェーチェが、体躯ゆえの事情であっさりと突破を断念させられていたが。気にしない。
 そして、室内に入って目にしたのは、なにやら不穏な空気を漂わせる三人の人影だった。いや、仲介に入る一人を含めれば、四人だ。
「部長、私はまだ、正式な書類は提出していません。ならば、この配置交代は不当なもののはずです」
 黒髪を後頭部で丸く纏めたキャリアウーマン風の女性が、机で腕を組んで呻る初老の男性に議論する。
 彼女は確か、昨日まで宗谷と組んでいた刑務課の同僚のはずだ。名を伊藤麗華。警察庁長官、伊藤昭三の娘である。
 無駄な余談はあるが、国家公務員のT種試験に合格した者は有無を言わずに警部補からの採用で、U種試験の合格者は彼女同様の巡査部長からの採用になる。閑話休題。
「君の言い分も分からなくはない。だが、もう決定してしまったことなのだ。ここは穏便に、済ませては貰えないだろうか? それに、この決定は君の父上からの指示でもあるのだ」
 机で呻る男性――刑事部部長、大早良孝之が重苦しく口を開く。
「父が? 父が、こんな国家試験も受けていないようなガラクタ如きを、警察に採用した、と?」
 警察庁長官たる父親の、異例の採決に麗華が目を見開く。
 野次馬の向こうで、麗華の台詞に憤怒したイェーチェが「ガラクタとは何だ!」などと抗議していたが、敢て無視しておく。そして、ガラクタと呼ばれ、指差されたのは、呆れ顔の宗谷の隣に佇む細身の女性だった。
 イェーチェが持ってきたという、宗谷の新しい相方なる女性だ。
「しかし、君はどうしてそこまで桂木君と組みたいのかね。昨日の一件で、散々な目にあったのではないのか? パートナーの解消まで宣言したらしいが……」
 友哉から聞いた通りの話だが、なんらかの理由で麗華が心変わりしたのが原因らしい。それで、イェーチェが痴情の縺れと表現した理由が分かる。要は、宗谷の相方のポストを求めて、麗華とロボットらしい女性が睨み合う三角関係が生まれたのだ。
 部長の勘弁してくれ、と言いたげな焦燥した表情がありありと分かるが、それも中間管理職の悲しい勤めと割り切らなくてはいけないのだろう。
「私は別に、宗谷さんに試運転をお願いできるのなら、麗華さんがご一緒でも構いませんが? それでは、いけないのでしょうか?」
 円らな瞳をパチクリと瞬きさせ、ロボットの女性が口を開く。
「アンリ、それは警察組織の規約に違反する。どうして、ツーマン・セルでの行動を厳密に守るか、分かるか?」
「それは、上司と部下、の上下関係を作ることによって、犯罪発生時の命令系統を潤滑に進めるようにするためです。三人以上になると、簡単に言えば船頭多くして山に登る、になってしまうからでしょう」
 アンリと宗谷に呼ばれた女性が、流暢に諺まで使って説明する。国家試験でも、模範解答に出来るほどだ。宗谷も、深く首肯を返す。
「いくらアンリ君が警察組織に組み込まれていないアウトサイダーでも、彼女の情報統制は桂木君が握っていることになる。だから、麗華君の命令が入り込む隙間はないということだよ。諦めて、くれないかね?」
 部長の言葉に、規約を遵守する性質の麗華は何も言い返すことが出来ず、渋々とうなずくことしか出来なかった。
 その後の話だが、麗華は部署の配置交代の要請書類を提出し、宗谷にこういい残した。
「私は忘れませんからね。貴方は、私を始めて抱いた男なんですから」
 警察庁長官の娘とは言え、上司に向かって言うような台詞ではないし、言葉遣いでさえ敬語を忘れるほどの憤りようだ。それを聞いた野次馬や刑事部の面々が、奇異な視線を宗谷に向けたのは言うまでもない。
 後は響が野次馬を散らし、麗華が部屋を出て行くことで騒ぎは収まる。
 アンリは現状を理解していないような表情で、宗谷は相変わらずの呆れ顔で自分のデスクに腰を据える。



『personal data4』
『name:Hibiki Anmyo』
『class:Crimenal』
『blood:AB』
『age:46』
『birth:2/23』
『cons:Pisces』
『height:171』
『weigh:55』
『like:女性』
『hate:Not clear』
『(過去に謎の経歴あり)』

『personal data5』
『name:Yuya Miwatari』
『class:senior poriceman』
『blood:A』
『age:21』
『birth:4/10』
『cons:Cancer』
『height:166』
『weigh:50』
『like:整理整頓』
『hate:暴力』
『(以下、警察としての志等)』

『personal data6』
『name:Reka Ioto』
『class:』
『blood:B』
『age:23』
『birth:2/1』
『cons:Aqua』
『height:162』
『weigh:Not clear』
『like:水泳』
『hate:』
『(過去に謎の経歴あり)』

『personal data7』
『name:takayuki osawara』
『class:police inspector』
『blood:A』
『age:57』
『birth:8/26』
『cons:Virgo』
『height:173』
『weigh:48』
『like:家庭』
『hate:木……特になし』
『(以下、刑事部の指導方針等)』
 試運転開始二日目にして、いきなり覚える人物のデータが増えてしまった。
 宗谷の部下や上司、覚えたくては失礼に値する人ばかりだ。宗谷は、麗華と友哉の名前を覚えてはいなかったようだが、何故か響だけは「響さん」と礼儀正しくするのはどうしてか。
 聞いてみると、
「言わば、俺はあいつの師匠みたいなものなんだよ」
 と答えを返される。
 まさか、宗谷のことを悪く言うわけではないが、教師――否、教師ですら恩師と呼ばぬ彼に師と仰ぐ人物が居たとは思わなかった。見る限り、サラリーマンとも思える響に、宗谷は何の教えを仰いだのだろう。
「昔、って言っても宗谷が刑事に成り立ての頃、俺があいつの素行を叩き直してやったのさ。コテンパンに、な」
 と笑いながら、響は教えてくれる。
 いったいどんな経緯があったのかは知らないが、宗谷は今よりも素行が悪かったらしい。不良と言ったものではなく、少し一般人よりも血の気が多かったというだけなのだが、なんらかの理由で宗谷と響が一戦を交え、直ぐにカッとなる性格を直したのだと言う。
 それを聞いた友哉は、まさか宗谷が勝負なるもので負けたなどとは思っていなかったらしく、驚きを隠せていない様子である。武術を習っていた経歴さえなくとも、凶悪犯を取り押さえた鉄火場の場数だけは警務課の誰にも負けていない宗谷が、喧嘩如きでヒョロンとした響に負けるとは誰も思わないだろう。アンリでさえ、信じられないと言った意を、横目で宗谷に向けてしまったのだから。
「響さん、それぐらいにしといてください。人の負け戦を笑うのは武士としてどうなんですか……」
「はんっ、俺は武士じゃねぇぞ。どうせだから、お前の恥ずかしい話をあることないこと語り聞かせてやろうと思ったが、俺はイェーチェみたいに性格が腐ってないからな。まあ、今日のところは止めといてやらぁ。じゃあ、眠いから仮眠室借りるぜ」
 そう言って、響は刑事部の部屋を後にする。友哉も、その後に続いて退室していった。
 宗谷には悪いが、少し残念な気分だ。もっと、宗谷のことを知るチャンスだと思ったのだが。宗谷に聞いても、たぶん答えてはくれないだろう。喫茶店でもそうだったし、あまり自分のことを語りたがる性格ではない。
 宗谷のことと言えば、先ほどの麗華との話はどうなのだろう。麗華の言い様だと、昔に何かの因縁があったのか。
 しかし、喫茶店での話を思い返してみても、宗谷にはそう言った女性とのトラブルはないように見受けられた。それに、女性を貶めたり、他人の純粋な心を踏みにじるといった行為はしないはずだ。
 ただ、イェーチェは幼いながら難しいことを言う。
「希望的観測で物を考えると、最後に痛い目を見る。もし本当に信じたい奴がいるなら、信じられるまで疑い続けろ」
普段は子供っぽいのに、時折、そうした何処か大人びた物言いをする。
イェーチェに作られたアンリでさえ、彼女の過去を知らぬのだから下手なことは予測できないが。彼女は、偽善に包み隠されていない人の邪まな心を目の当たりにしながら生きてきたのではないかと、時々そう思うことがある。
 イェーチェと出会ってからほんの一月か二月程度ではあるが、それまでの生活の中で知ったことは多くも少なくもない。何が好きで、何が嫌いで、何がしたくてしたくないのか。けれど、どんなものを比べたところで、ここにいる宗谷や響と話しながらはしゃいでいる時に一番の笑顔を浮かべる。
 きっと、イェーチェにとって、宗谷や響の側が最も安心できる本当の優しさを感じられる場所なのだろう。すると、二人はイェーチェにとって本当に信じられる人物だということだ。
 そう考えると、なぜ宗谷に自分の試運転を頼んだ理由も、理解できる。
 ところで、そのイェーチェはどこに行ったのか。さっきまで野次馬の中に混じってこちらを達観していたはずなのだが、いつの間にか姿が見えなくなっている。
「主人は、どちらへ?」
「イェーチェなら、そこでのびてたけどな。はて、いったいどこをうろつき回っているのやら」
 辺りを見回してから、宗谷は呆れて肩をすくめてみせる。
「あいつのことだから、どうせ猫みたいにボールでも追いかけて走り回ってるんじゃないか」
 カラカラと笑いながら宗谷はデスクに着き、昨日の強盗事件と万引きの件の報告書を書き始める。
 アンリは、みんなの迷惑にならぬよう部屋の隅に置かれたソファーに腰を下ろす。多雑に動き回る刑事部の人々を見渡し、呆然と得に命題など決められていない考え事に耽る。
 ただ実際は、目だけで人々の動きを追い、無心で無造作に映し出される情景を記憶しているだけだ。要するに、これがイェーチェの嫌う暇というものなのだろう。
「確かに、こんな状況が続くと、主人でなくとも嫌になりますね……」
「アンリ君は暇なのか。それなら、ちょっと頼みたいことがあるのだが、いいかね?」
 独り言を呟いていると、不意に部長の孝之が声を掛けてくる。孝之は、警視庁長官からの直々の命だからか、正式な警察ではなくともアンリの警務課の一員として扱ってくれる。
 どんな頼みごとなのかと気にしていると、孝之はメモ用紙を一枚千切って、小銭入れを手渡す。
「これは……?」
 怪訝顔で問いかけるアンリ。聞かずとも、孝之が何を言いたいのかは把握できる。ただ、どうして買い物を頼むのだろう、と聞きたい。
「私は手が離せないのでね。他のみんなも忙しいようだし、私用ではあるがアンリ君に買い物を頼みたいのだ。桂木警部補、相方をお借りして良いかね?」
 孝之は淡々の理由を述べ、片手間に許可を出す宗谷を一瞥する。
「はぁ……分かりました。このメモに書いてあるものを買ってこれば良いのですね。それでは、行ってきます。宗谷さん、少しばかり出掛けてきますので」
 それだけ断りを入れて、やはり片手間に返事をする宗谷を背に刑事部の部屋を出てゆく。
 室内からは、なぜかみんなの同情するような声が聞こえてくるが、買い物でも仕事である以上はしっかりとこなさなくてはならない。そう意気込んで、アンリは少しばかりスキップ調で出掛けた。



「すまない、この子はやっぱり生活安全課に連れて行った方がいいのか?」
 何の余興もなく、そいつが問いかけてきたのは、アンリが出掛けてから十数分が経った頃である。
 いつの間にか何処かへ消え、いつの間にか戻ってきたイェーチェが、隣に少女を一人引き連れて刑事部の入り口に佇んでいた。イェーチェには珍しく疲弊した表情で、なにやら懇願するような視線を宗谷に向けている。
「なんだ、ついに刑事事件を起こしちまったか。誘拐はいかんぞ、誘拐は」
 知り合いや親戚には該当しない少女と、イェーチェを交互に見てから、揶揄してやる。
イェーチェは何も言い返してこず、妙に彼女のことを嫌がっている少女の手を必死に握り締めている。どうやら、本当に珍しく困っているらしい。
「大きなおじさんを、探しているみたいなんだけど、思いつく限りは宗ちゃんしかいないんだ。この署内で、一番大きいのは宗ちゃんだし、この子も、君の事を知っているようだからね。間違いないと思う……よ」
 早く少女の子守から解放されたいと言わんばかりの、イェーチェの神経をすり減らした表情と声音。小悪魔をここまで疲労させるとは、少女がいったいどんな激戦を繰り広げたのか気になる。
「直線ならまだ良いんだ。階段と曲がり角は、命がけだよ……」
 問わずとも、イェーチェは訳の分からないことを呟きながら部屋の隅に置いてあるソファーに倒れ込む。家に帰ってから寝ろと言いたいが、相当お疲れの様子なので寝かしておいてやることにした。
 イェーチェが宗谷の心遣いに感謝したかは別として、いったい彼女が連れてきた少女は何者だろうか。
「えっと、君はどうしてここに来た。刑事さんが見たかったのなら、交番の方が近いはずだがぞ」
 子供に話しかけるにしてはぶっきら棒な言葉遣いで、宗谷が少女に話しかける。
 すると少女は、満面の笑みを浮かべて言った。
「刑事さん、昨日はありがとうです」
 ペコリとお辞儀をしながらの言葉足らずな謝辞に、宗谷は呆けた顔を作る。そして直ぐに、少女が何者であるのかを思い出す。
 昨日という単語と、僅かに記憶の端に残った姿が、今頃になって少女の正体を明かす。昨日のスーパーマーケットで起こった強盗事件で、人質になっているところを助けた少女である。
「俺に、お礼を言うためにここへ……?」
「律儀な性格だねぇ〜」
 宗谷の呆けた声に、イェーチェの無碍な台詞が重なる。
 まさか、宗谷自身も、お礼を言われるとは思っていなかった。どう答えるべきか悩みあぐねていると、フッと思い出したことがある。
「胸の方は大丈夫か? 力加減が分からなかったから、少しずらし間違えたかもしれない」
 少女には少し理解し難い問いではあったが、彼女は自分の胸を摩りながら笑顔で答える。
「うん。ちょっとヒリヒリするけど、大丈夫だよ」
「そうか。今日はもう帰りな。お母さんが心配してるだろうから」
「うんッ。それじゃあ、刑事さんもがんばってね!」
 少女はそう言い残すと、トテトテと小走りで去ってゆく。
「もう台車でカーチェイスなんてしちゃいかんぞ〜。宗ちゃん、後で資料整理のお嬢さんに謝っといて……」
イェーチェが最後にそれだけを言うと、ソファーに突っ伏して力尽きる。
「なぜお前は、面倒事ばかり残してくれるんだ……?」
 聞こえてもいないだろう憤りをぶつけておく。
 一つため息を吐き、調書作りの戻ろうとしたところで、課長の不服そうな表情を視界の端に捉えたが無視しておく。
 今日中に終わらせたい仕事が幾つかあったわけだが、その日ばかりはどうしてか邪魔ばかりが入る。
 朝は麗華の抗議で時間をとられ、今度は救出した少女の乱入によって時間を割かれた。そして今度は、刑務室係が連れてきた男によって時間を奪われることとなる。
「……どうして、昨日の強盗事件の調書を取ってないんだ?」
 連れてこられた男は、スーパーマーケットとは別件の商店街での犯人だ。
 あの時はそれほど観察はしていなかったが、まだ若い男である。整った顔立ちに眼鏡をかけた、インテリ風の男――と言うよりは青年に近い。
「一応、名前とか年齢の方は聞いたんですけどね。犯行に及んだ理由についてはさっぱりです。それで、彼が警部補を指名してきたんです」
 刑務室係の警邏がそう説明し、青年を残して去ってゆく。
「これが昨日の内に取った調書か。えっと、名前は加藤義久……二十一歳って、まだ若いな。まあ、なんだ。何を俺に話したいかは知らんが、こっちで聞こうか」
「すみません……」
 宗谷が取調室に義久青年を促すと、青年は一礼だけしてついてくる。強盗事件を起こした割りには、思ったより礼儀正しい青年だ。いや、そもそもは万引き程度の罪状が運悪く強盗になってしまっただけなのだから、彼が悪意を持っていたわけではあるまい。
 取調室に入ると、義久青年は二脚あるパイプ椅子に座って、顔を俯かせながらも大人しく供述を始めた。
「――それで、俺に話したいことって言うのは?」
 粗方の調書に書かれていた経歴を確かめ終え、宗谷が本題を切り出す。
 すると、義久青年は俯いて相槌を打っていただけの顔を上げて、こう言ってくる。
「出来れば、先に刑事さんのお名前をお聞きしていいですか?」
「…………」
 予想外の返答に、口を閉ざす宗谷。
 捜査や取調べの決まりとして、保釈後に殴り込みや闇討ちを避けるために、捜査員の名前等を明かすことは禁句なのだ。
「だめなら構いません。興味本位ですから……」
 答えるべきか悩みあぐねている間に、義久青年は名前を聞きだすことを断念する。
「刑事さんは、最大幸福原理と言うものをご存知ですか?」
「はっ? 最大幸福原理? 悪いが、勉強するために調書を取っているわけじゃないんだ。そういった質問は、学校の先生にでもしてくれ」
 冷たい言い方だろうが、あしらおうとした。そこで闖入者が現れる。
 先ほどとは違う、元気を取り戻したアンパン頭のヒーローの如く、イェーチェが半開きになった扉を開けて足を踏み入れる。
「最大幸福原理。元は最大多数の最大幸福と言われる功利主義の考え方だ。イギリスの哲学者にして経済学、法学を学んだ功利主義の創作者、ジェレミ・ベンサムの提唱した法の考え方の一つだ。詳しくは、インターネットなり何なりで調べろ」
 一般人が取り調べに介入してきた上、入ってくるなりそんな説明をしてくるのだからこの小娘にはホトホト困り果てる。
 イェーチェを追い出そうと腰を上げかけたところで、義久青年がその通りだと言わんばかりにうなずく。
「そちらのお嬢さんの方が、話が分かるようですね」
「すまんな。俺は法学も哲学もやっちゃいないから、そんな話をされても……」
「それで、そんなものを引き合いに出してきた以上、なんらかの意図があるのだろ。君の言いたいことを、私も聞こう」
 義久青年の嘲笑染みた台詞をあしらおうとしたが、イェーチェが勝手に話を進めようとする。
 その後に続く話が、どうやら今回の事件に関することのようだったので、イェーチェを追い出すことを諦めて調書に集中する。
「僕は、大学で哲学を専攻しています。それは既に話しましたね。それで僕は、それについて卒業論文を書くことになりました。ただ、僕には幸福と言うものについてよく分からないんです」
「それを知ろうとして、万引きなんかしたのか?」
 義久青年は宗谷の問いに対して、ハイ、とだけ短く答える。
「なるほど。ベンサムの言葉を借りれば、自ら犯罪を犯して罰せられた方が分かり易いということか。しかし、捕まっては論文もクソもありゃしないだろ?」
 イェーチェの言う通りだが、捕まっても軽い説教だけで済むようにと万引きを選んだのだろう。まあ、それも今や、自らのミスで強盗及び傷害罪の現行犯でしょっ引かれてるわけだ。
 自業自得と言いたいところだが、今回は少しだけ同情してやろう。
「刑事さんとお嬢さんは、こんな時はどちらを取りますか?」
 犯罪に及んだ経緯も聞き、もう十分だと取調べを打ち切ろうとしたところで、義久青年が前置きをして話を続ける。イェーチェも、まだ青年との話を続ける気でいるらしく、取調室の隅にもたれかかって腕組みをしている。
「ここに百人の飢えた難民達がいるとしましょう。彼らに、百個の食料を分けます。しかし、一人一個では十分な食事ではなく、難民達は死んでしまいます。しかし、九十人を切り捨てて十個ずつ渡したのなら、残りの十人は生きることが出来ます。さあ、二人ならどちらを選びますか?」
 ナゾナゾか、それとも道徳的な質問なのか、唐突に振られた問題に宗谷は思案してしまう。
 どちらを選ぶかと言う二者択一なら、一般的には後者を選ぶだろう。他に、別の答えを考えてもいいのだろうか。
 イェーチェは「幸福計算か。まあ、後者だろうな」と迷わずに答えた。義久青年の、貴方は、と言うような視線に宗谷も後者を選択した。
「そうでしょ? 二人とも、後者を選ぶはずです。百人を殺すよりも、十人だけでも生かした方が良いでしょう」
 確かに青年の言う通りだが、それが今回の事件に何の関係があるのか。そんな事はどうでも良いものの、宗谷には一つだけ反論があった。
「そいつは違うと思うぜ。お前の言うような問いなら、確かに答えは十人を助けるべきだ。けどよ、幸せって言うのはそんな機械的なものじゃないと思うんだわ」
「……刑事さんは、どう思うんですか?」
「残りの九十人にしてみれば、食料を与えられずに死ぬことは不幸だ。なんで自分じゃないんだ、とか恨み言を言って死んで逝きそうで怖いね。あぁ、脱線しかけたが、こんな質問ならどうだ?」
 要らぬ会話を削り、宗谷が問う。
 義久青年がどの解答を選ぶのか、宗谷には粗方の予想が付いている。少し意地の悪い質問だろうが、青年が知りたいと思う『幸せ』の答えはこの質問の答えにあるのだと、宗谷は考える。
 そして、義久青年は宗谷の問いに怪訝そうな表情を作った。



 義久と言う青年の声が聞こえてきた時、先刻の台車によるカーチェイスでの疲れにも関わらず、思わず身体が動いてしまった。
 果たして『幸せ』とは何か。義久は、論文云々よりもそう問い質したかったように思えた。彼がいったいどんな人生を歩んできたのかは知らない。だが、彼は『幸せ』を渇望している。
 私があの時、そう望んだように、義久も『幸せ』なるものを探そうと足掻いているのではないか。義久が出した幸福計算の問題は、彼の望む幸福に対しての便宜的なものに過ぎないのではなかろうか。
(けど、私は誰かを導けるほど賢くは無い。今もまだ、自分のためだけにしか生きていけないのだから、力なんてものは皆無に等しい……)
 その通りだ。私には、誰かを『幸せ』にする力など無い。
 それを言えば、国民や市民のために犯罪者を追う宗谷や響の姿が眩しくて堪らない。悔しくて、羨ましくて、いつも彼らの姿を見に来てしまう。
 出会わなければ良かった。そう思う、イェーチェ。
 それと同時に、出会えたことに感謝する矛盾。
「どうした、イェーチェ? さっきから黙りこくって」
 いつの間にか話しに参加しなくなったイェーチェを心配して、宗谷が尋ねてくる。
「あ……いや。やっぱり疲れたから、もう少し休んでる」
 イェーチェはその場を誤魔化し、取調室を後にする。
 いつも他人に無頓着なはずなのに、こんな時だけ良く気付く宗谷がずるく思えた。
それはたぶん、客観的に世界を見るからこそ、ボードゲームを模した盤上の世界を広く見渡せるのではないだろうか。対戦者同士では気付かぬ駒の動かし方さえ、観客は思いつくことがあるのと同じだ。
 取調室を出た後も、扉の前に佇んで聞き耳を立てる。
「まあ、話は戻るが」
 果たして、宗谷の考える『幸せ』とはどんなものか。予想が付くようで、付かない。
「警察の俺がこんな質問をするのもおかしいだろうが、こんな状況ならどうする? 十人の人がいる。その内、九人は爆発物処理のプロだ。残りの一人は、爆弾を身体に巻きつけた人質だ。九人のプロならその爆弾を解体できるかも知れないが、可能性は百パーセントじゃない。
 さあ、あんたなら僅かな可能性に賭けて爆弾を解体するか、それとも一人を見捨てて九人が生き残るか。どちらを選ぶ?」
 思っても見ない設問に、イェーチェは数瞬だけ意表を突かれた。
 しかし冷静になって考えても、答えは決まっている。勿論、九人が生き残る道を選ぶべきだと思う。
「それは、九人が助かるべきでしょう?」
 義久も同様の答えだ。
 だが、宗谷は低く唸りながら首を傾けている。
 もしイェーチェや義久の答えが間違っているというのなら、そこの『最大多数の最大幸福』は成り立たなくなる。
「俺は、九人で一人を助けるべきだと思うね。その場の九人だけが、一人を助けることが出来るんだ。僅かな可能性であっても、見捨ててゼロパーセントの死を選ぶのはずるいと思わないか? それ以上に、九人は必ず、見捨てたことを後悔する。
 それは、九人にとって不幸でしかない。自分たちが生き残っても、見殺しにしたことは生涯ずっと心を蝕むものさ。要するに、何人が助かるとか、何人が助からないとかじゃない」
 それでは何が『幸せ』で、何が『不幸』だと言う。
 イェーチェの声に出せない問い掛けに、宗谷は相変わらずの涼しい口調で答えた。
「誰にとって、何が。それを考えてこそ、本当の幸せを得るための選択じゃないか」
「…………」
 反論の余地など無かった。
「誰にとって、何が……」
 たったの一言で宗谷は、イェーチェがこれまでに悩んでいた懸念を解決した。ちゃんと考えるべきことは、自分の行いが誰かを幸せにするか不幸にするかではなく、今の彼女が幸せか不幸かを知ることだったのだ。
 イェーチェは、それを知るのが怖くて逃げていた。彼女と向き合い、彼女に問いかけるのが怖かった。
「ごめんね……。私がこんな目に合わせたのに、私だけが不幸を背負ってるなんて考えていて。どっちを選ぶかは、お前次第だったのにさ……」
 今さら謝って、彼女は許してくれるだろうか。自分を慕う彼女の姿が怖くて、世話をしてくれる優しさが憂鬱で、微笑みかけてくれる表情が鬱屈で、逃げていてばかりいた自分を許してくれるのか。
「ダメ……」
 また逃避の底に引きずり込まれそうになるのを、どうにか踏みとどまる。
 逃げ込めば楽になれる深淵から、無数の手が伸びてきてイェーチェを絡め捕ろうとする。身を委ねてしまえば何も考えなくても良いはずなのに、暗闇の中で足掻く。知ることから逃避すれば忘れられる真実が、微かな光の向こうに見える。
(私はもう逃げない。お前がこれで良いなら、今のままで良いなら、真実を知ることから逃げずに戦おう。お前の前に跪き、お前の本音を請おう)
 たった一つの決意が、決まった。今なら、彼女に命を奪われることさえ覚悟が出来ている。
「宗ちゃん……!」
 イェーチェは居ても立ってもいられず、宗谷に頼みごとをするために取調室に踏み込む。と、そこでは携帯電話に耳を傾ける宗谷の姿があった。
「分かった。直ぐに行くから、そこを動かずに待ってろ」
 なにやら神妙な表情で話しているので、イェーチェは電話が終わるまでジッと待ち続ける。
 電話は割と早く終わり、パイプ椅子から立ち上がる宗谷。
「取調べは終わりだ。アンリが出掛けた先で何かトラブッたらしくて、今から迎えに行ってくる」
「……アンリがどうした? 私も、付いていってもいいか? もしプログラム上の故障なら、宗ちゃんだけじゃ手に負えないだろ」
「そうだな。電話をかけてこれるぐらいだから大したことは無いんだろうが、電車で帰れないようなことだ。お前が居た方が良さそうだな」
 なんというタイミングの良さか。頭を下げずとも――最初から下げる気など無かったが――行きたいところへ行くことが出来る。
 イェーチェは逸る気持ちを抑えることが出来ず、宗谷の準備が整うよりも早くに警察署の外へと駆け出した。
「おいおいッ。アンリのことが心配なのは分かるけどよ、俺が居なくちゃ車なんて運転できないだろ」
「車がダメなら、バイクでもかっぱらって行ってやる!」
「警察の前で言う台詞じゃないと思うぞ……。生活安全課の世話になるって、そんなことしてるからじゃないかねぇ」
 勢い余って口走ってしまった台詞にまで、職業意識を持ち出す宗谷が時々鬱陶しく思える。いや、今はそんなことを言っている場合ではない。
 助手席に乗り込むと、トロトロと車のエンジンをかける宗谷を急かす。
「早く出してくれ。私の気が変わらない内に、アンリに会わなくてはいけないんだ」
「そんなに急かすな。お前が何を考えてるのかは知らないけどよ、アンリは逃げないし、気が変わっちまうようなちっちぇ決意なら、一層のこと捨てちまえ」
 宗谷の反論で、一瞬にして急いていた気持ちが静まってゆく。
「…………」
 その通りだ。ほんの僅かな時間で変わるような決意なら、そんなものは決意と呼べるようなものではない。
「そうだね……。どんなに早くても、遅くても、私の気持ちは変わっちゃいけないんだよね。私が幸せになるために、アンリが本当の幸せを手に入れるために、も」
 座席に全体重を預け、腹腔に堪った澱みを吐き出す。焦っても仕方が無い。
 焦ることを止めたら、急に眠気が襲ってきた。落ち着くことによって興奮による脳内麻薬の分泌が抑制され、心身の疲労が極点に達した精神を睡魔が容赦なく貪り尽す。
 アンリが向かった買い物先は、電車でも半時は掛かる場所だ。車なら一時間以上は掛かる。
「……――」
 気が付けば、イェーチェはいつの間にか闇に淵へと落ちていた。
 目が覚めたのは、それから一時間ぐらいが経った頃だろう。小さく開いた視界に映る薄ぼんやりとした駐車場の風景と、耳障りにざわめく電車が架線の走る音。そして、イェーチェを優しく揺り起こそうとする手と声。
「主人、お目覚めになられましたか?」
「う、ぅん……。アンリか。身体の方は大丈夫なのか?」
 まだ覚醒しきらぬ頭で、目の前に佇むアンリの安否を確認する。
「えぇ、なんともありません。少し視覚系統に異常が見られましたが、既に回復しています。ただ、帰りの電車賃を失くしてしまったので、宗谷さんにお迎えを頼んだだけです」
 アンリからの報告を受け、一応は安堵する。
 因みに、運転席にいない宗谷は目覚めのコーヒーでも買ってきているのだろう。甘くてミルクの入ったホットコーヒーだ。ブラックは苦いので飲めない。だからって、子供だと馬鹿にするなよ。
「宗谷さんは、飲み物を買いに行っています」
「あぁ、分かってる。なんとなくだが、な……。ところで」
 忘れぬ内に、思い出したことを切り出す。
 ただ、後の言葉が続かない。小首をかしげ、目をパチクリとしながらイェーチェの言葉を待つアンリ。
 言葉を口に出そうとするが、口が動くだけで空気が振動しない。ヒステリーを起こした病人のように、思ったことが声帯を震わせて発することが出来ない。
「…………」
 やはり、ダメだ。
 自分でそれを問おうとすることが、何よりもずるくて、卑怯で、そして卑屈だった。アンリの笑顔を見た後だと、余計にそう思う。
 しかし、アンリはイェーチェの言いたいことを察したのか、ニッコリと笑みを深めて答える。
「安心してください。私は幸せです。主人がいて、宗谷さんがいて、沢山の方々がいる今が。幸せ過ぎて、少し怖いぐらいです。でも、いずれ今の幸せが奪われることも、覚悟していますから」
 なぜ、アンリがそれを知っているのか。いずれ奪われるかも知れない今を、彼女が目覚めてから、偽り、欺き続けてきた真実をどう知り得たのか。
 全てを知ってしまったのなら、謝らなくてはならない。アンリを幸せから絶望の淵に叩き落そうとしているのだから。けれど、謝罪の言葉も出てこなかった。
 それでも、アンリはもう一度言う。安心してください、と。
「そっか……」
 イェーチェは、それだけしか答えられなかった。答えた後、唐突に目頭が熱くなって視界がぼやける。温かい雫が頬を流れ落ち、黒いワンピースに染みを作る。
「主人が泣くことありません」
「馬鹿ッ! 泣いてなんか無い! 泣いてなんかいないんだからな……!」
 アンリの優しい慰めにさえ、ぶっきら棒に言い返すことが出来ない自分が、矮小に思えて仕方がなかった。
「……はい」
 でも、やはり、アンリは優しくうなずくだけだ。そして続ける。慰めるでもなく、叱咤するでもない台詞を。
「らしくありませんよ。そんな主人は、主人らしくありません」
「らしく、ない……?」
「私の知っている主人は、イェーチェさんは、絶対に自分を信じて行動しています。その先の未来が一パーセントであっても、その一パーセントを信じて行動する人です。だから、自分に自信を持ってください」
 イェーチェには、アンリの言うことの意味が理解できなかった。
 自分が何時、そんな立派な行動理念を見せただろうか。ただ、自分の持てる限りない可能性に人生を賭して生きてきただけで、それほど大したことなどしていない。
「それに、主人はもっと気紛れなお方のはずです。宗谷さんに言わせれば――」
 アンリが言おうとしていることだけは理解できた。そう、自分は少し小難しく考え過ぎていただけなのだ。どんなことがあっても、己の嗜好を優先に考えていけば良い。
 だから、後に続く台詞は自然に口から漏れる。
「――楽しければ全て善し」
「はい」
 アンリが短く答える。
 その瞬間、イェーチェの胸に引っ掛かっていた蟠りが綺麗に払拭された。頬を伝う雫を腕で拭い、微笑むアンリに対して満面の笑みを見せ付ける。それは、清々しく屈託のない、いつもと変わらぬ小悪魔的な笑みだった。
 もう迷いはしない。イェーチェの幸せは、アンリの幸せも、これからが正念場なのだから。
「ごめん。それから、ありがとう」
 やっと、言うべき台詞を紡ぐことができた。それ以上、イェーチェもアンリも、何も言うことなく微笑み合う。何も言わずとも、二人の想いは伝わっている。
 そこで丁度、飲み物を買い終えた宗谷が帰ってきた。
「ほれ、二人ともこれでよかったのか?」
 そう言って、宗谷が腕に抱えた飲み物の缶を放り投げる。
 アンリにはミルクティーを。イェーチェには、予想通りの甘いミルク入りのコーヒーだ。しかし、それはどちらも温かいものであるはずなのだが。
「遅かったな。それに……ヌルいぞ?」
 殆ど冷めてしまっている缶を受け取り、イェーチェがぼやく。
「悪い、ちょっと売店が混んでな、な。その上、ホットケースに入れたばかりの奴を掴まされたみたいだ」
 肩を竦めて見せながら、宗谷が他人事のように言い放つ。
 イェーチェは、それが嘘であることを直ぐに見抜いた。嘘を吐く時に、視線を泳がせる癖は直した方が良いだろう。
「まあ、今回は許してやる。けど、少し読みすぎだ」
「悪かったね。今回は、アンリの功労賞を与えたいぐらいなんだがな」
 そんな、たぶんアンリには理解できないだろう会話をしながら、宗谷がエンジンを掛けて車を走らせる。
 三人を乗せた緑色の自動車を、釣瓶落としの夕焼けが美しい赤色に染める。行く先にある、彼らの幸せを祝福するかのように。



第三章・陰謀からの招待状



 アンリとの出会いから数週間が経った頃、関係としても好調で、とある一件を除けば細々とした事件の検挙も終えた。要するに、順風満タンと言うことだ。
 しかし、思ったより早く愛車の修理が終え、意気揚々と出勤してきた宗谷の元に内線が入ったのはその予兆だったのか。
 内線の主は生活安全課の課長さんからだ。
「はい、分かりました……。けどね、俺はそいつの保護者じゃないんですよ? いちいち呼び出されても……」
 文句を言い切るよりも早く電話を切られ、虚しく電子音だけが響く受話器を本体に戻す。
 仕方なく生活安全課まで赴くが、室内で待ち受けていた人物にはため息しか返すことが出来なかった。
「おひさ、宗ちゃん」
 まるで夏休み明けの学生が、久しぶりにクラスメイトと再開したかのような軽い口調でそいつは言った。
 この世界で、宗谷のことをそんなふざけた愛称で呼ぶのは一人だけだ。そう、イェーチェという小娘一人。
「どうして普通に訪問できないんだ? 珍しく顔を出したかったのは分かるが、ここでなくとも十分だろ」
「まあまあ、お堅いこと言わない。常連ではあるが、別に何か悪いことをしたわけでもないんだ」
 常連でありながら何もしていないとは、いったいどの口が言うのか。やはり、呆れてため息しか出ない。追い返したいところだが、イェーチェには大きな借りがあるのでそれも出来ない。
 それよりも、今日の用件はいったい何なのだろうか。
「宗ちゃんに用事と言うよりも、アンリに頼まれたものを届けに来ただけなんだけどね。姿が見えないようだけど?」
 イェーチェの言う人物は、今のところ刑事課でお茶汲みをやっている。その主旨を伝えると、イェーチェは露骨に表情を綻ばせた。いや、安堵したと言った方が正しい。
 最近になって気付いたのだが、アンリのことになるとイェーチェはいつも不思議な表情を作る。いつもの小悪魔的な笑みでもなく、拗ねた子供のような表情でもない、まるで。
「昨日、一才の娘が立ったんだよ。ほらぁ〜、可愛いだろぉ〜」
 生活安全課の親馬鹿課長の声。
 そう、まるで家族に対するときの普通の表情なのだ。そして、通常の警察としての業務をしている時よりも、雑用で走り回っている方が安心している。
「なあ、アンリはお前にとって――」
 なぜそんな表情をするのか、尋ねようとするが。
「もう十回以上聞きましたよ、課長。うん……何だ?」
「――いや……。なんでもない」
 止めた。
 どんな理由があるにせよ、イェーチェがアンリのことを心配していて、彼女のことをただの創作物とは見ていないことぐらい分かっている。そもそも、今回の試運転に関してもそれがイェーチェの本心からだったのかさえ、今になって疑わしくなっている。
 数週間前の会話でも、アンリの試運転が終わった後に、あまり良くないことが待っているようなことを言っていた。
「何を考えているんだか……」
 小声で呟いたのを聞き取られたのか、イェーチェが親馬鹿課長の娘自慢を無視して振り向く。
「どうした、さっきから独り言ばかり言って」
「いや、何でも無い。お前の気紛れな性格に呆れていただけだ」
 はっきりと聞き取られたわけではなさそうなので、とりあえずは誤魔化しておく。しかし、どうやらあまり触れてはならないところに触れてしまったらしい。
「気紛れか……。確かに、今のような生活があるのも私が気紛れだからだろうな。けど、世の中は一人の人間が思っているほど単純じゃない。そんな単純じゃない世界だからこそ、気紛れに生きなきゃやってられないこともあるんだ」
 時々思うが、イェーチェの言うことは今一理解し難い。他人の過去に踏み込むことはあまり好まなくとも、少しぐらいは知りたいものだ。
 イェーチェがどんな生き方をしてきて、どうして今を生きているのか。アンリを押し付けた理由も、人間離れした身体能力や天才的な技術力の訳を、ほんの少しでも教えてはくれないだろうか。
 ただ、今出来ることは一つだけだ。
「用件はそれだけか? なら、俺は忙しいから戻る。お前みたいに、休日を満喫できるほど気紛れじゃないからな」
 話を打ち切り、早くイェーチェの元から離れることだけ。
 何故か、こうして話しているだけで、イェーチェを苦しめているように思える。だから、今だけは、これから訪れる彼女の運命を見守っていてやりたい。
 それでもイェーチェは、宗谷の親切心に水を差すかのように、もしくは今までの会話を忘れるためにか、一メートルばかりの細長いバッグを取り出してくる。
「戻るならこれをアンリに届けてくれ。手に入れるのが難しかったんだ、渡せずに帰ったら苦労が報われないよ。裏ルートからの仕入れ奴だからな、小型でも性能は良いはずだ」
「何言ってんだか。そいつが何かは知らないが、渡すぐらいならしといてやるよ」
 本気か冗談か、少し天才的なだけの一般の女子高生には似つかわしくない台詞を、宗谷は苦笑を浮かべて承諾する。
 黒革のバッグを受け取り、宗谷は生活安全課を後にした。
 警務部の部署に戻ると、そこにはいつもの面子が顔を揃えていた。
「あ、戻ってきましたね、桂木警部補」
「遅いぞ。こんな時にどこへ行ってたんだ」
 友哉と響が口々に言う。
「イェーチェさんの様子はどうでしたか? たぶん、相変わらずだとは思いますが」
 唯一癒されると言えば、出迎えてくれたアンリの微笑みぐらいだろう。因みに、数週間前の一件以来、アンリはイェーチェのことを主人と呼ばなくなった。これもまた、創作物と家族の境界線を作ったからだろう。
しばし心を癒してから、何ゆえに友哉と響が自分を待っていたのか、アンリにアイコンタクトを送る。しかし、返ってきたのは「これからです」と言いたげな困った表情だった。
 そして、友哉と響が最近抱えている業務の内容を思い出し、宗谷も眉をひそめて聞く。
「もしかして、あの一件ですか……?」
 返ってくる首肯に、刑事課の面子達の間に暗雲が立ち込める。
 あの一件と言うのは、数週間前に宗谷が解決したスーパーマーケットでの強盗事件のことだ。
「それにしても、何で今頃、こんな単純な事件を蒸し返さなくちゃならないのかね」
「それは、桂木警部補の所為じゃないですか。警部補が強く殴り過ぎた所為で、大上裕の供述を取るのが遅れたんじゃありませんか」
 宗谷のぼやきに、友哉が呆れ混じりに答える。
「あぁ、悪かった。反省してるよ。でもよ、ちょいと空かしただけだぞ? あれぐらいで何週間も昏倒する奴がヤワなんだよ」
 ブツブツと己の非を認めつつも、その内で悪態を突くところは響に似ている。
「そんな事はどうでも良い。それで、どんな供述が取れたんだ?」
 無駄話を切り上げ、本題に移る。
「そのことなんですけど、あまり有益とは思えませんね。殆どが、被害妄想の混じった戯言です」
「犯行に及んだ理由としては、会社を辞職してお金に困っていたかららしい。それも、生活のためと言うより逃亡用のお金だな。奴は――」
 友哉の言葉を継いだ響が、言葉を切って沈黙する。
 単純な強盗事件だと思っていたのだが、どうやら思ったよりも雲行きが怪しい。
 アンリは、皆の沈黙を理解しかねた様子で瞬きをしている。
「――会社に命を狙われている」
 唐突な一言に、宗谷が息を呑む。
 響は宗谷を神妙な表情で見つめ、友哉は呆れたように肩を竦めている。そして、アンリは相変わらず目を瞬きさせていた。
「穏やかな話じゃありませんね……。で、その供述の裏は?」
「今からだよ。大上の勤めていたマシナリープライセス社に行って、会社の奴らから話を聞いてくる。まあ美味しい話は聞けないだろうが、こっちの動きを組み立てる何かは聞きだせるだろうな。なわけで、今から俺達はそっちに行ってくる。お前ら二人は、警察病院に行ってもう一度大上から話を聞いてくれ。因みに、大上はあまり警察を信用していない」
 響の指示に首肯を返し、宗谷が動き出す。アンリは何かを理解したわけでもなく、金魚のフンのように宗谷の後を追った。
 愛車の白いセダンに乗り込み、エンジンをかけてアクセルを力いっぱい踏み込んだ。走り出す車の中で、アンリが申し訳なさそうに聞いてくる。
「すみませんが、私には少し理解し難いのです。どうして、辞職した会社から命を狙われているのでしょう? もし横領などで会社に恨まれているのなら、自業自得と言うものです」
 アンリの妙に不満そうな問いに、宗谷はフロントガラスから目を放さずに答える。
「理由までは分からんが、大上は会社にとって何か不都合なものを抱えている。そして、会社は大上を口封じしたいと考えてるわけだ。全部が全部、信用できるわけじゃないが、少しばかり臭うぜ」
「最近忘れかけているようですけど、私はロボットですので体臭はありません。それに、お風呂にはちゃんと入って埃を落としていますし、服も着替えています」
 何を勘違いしたのか、アンリが不機嫌に言い返してくる。思ったより、アンリなるロボットはお馬鹿さんなのか。
「どうでも良い……。あまりうかうかしていられないみたいだからな」
 強引に話を打ち切り、さらにアクセルを踏み込んで加速する。
 それは刑事の勘なのか、嫌な予感が胸の中で蠢く。黒く、闇に染まった悪意に見初められたかのように。



 二人の乗るセダンが警察病院に到着し、宗谷が駐車場に車を停車する間にアンリだけが病院内に向かう。
 病院に来る前の会話では、ついつい勘違いしてしまったが作り笑いで誤魔化しておく。それはさて置き、どうして宗谷は自分を先に行かせたのか。どうせなら、一緒に行っても大した時間の差は無いはずである。
 指示にこそ従うが、今一現状が飲み込めない。大上と言う強盗犯とマシナリープライセス社なる会社の関係や、刑事課の面子が躍起になる理由が理解出来ない。
 勿論、勘と呼ばれる非論理的な憶測を馬鹿にするつもりはない。経験と判断力の総和が上手い具合に一定の値になった時に働く勘と言うものを、割と論理的な行動基準だと考えているぐらいだ。
 しかし、警察病院に入院している患者に手を出すのは難しいはずだ。ならば、それほど焦らなくとも、普通に話を聞いて帰ればいいだけのことである。
 ただ、アンリの胸の内に引っかかるものがあるのも確かなこと。
「マシナリープライセス社……何処かで聞いたことがあるのですが、思い出せませんねぇ〜」
 駐車場から病院までの常緑樹の並木道を歩きながら、アンリが独り言を呟く。
 マシナリープライセス社は外資系の企業で、コンピュータ関係や企業用ロボットの製作で成功した大手メーカとして名を連ねている。新しい商業社会を目指すことを掲げ、今やその会社の機械は世界中の殆どで使われている。
 この警察病院でも、そうした機械の類は使われているだろう。
「? ……」
 そんな有名な会社だからこそ、聞いたことぐらいは無知な者でもあるのだろう。それでも、アンリの脳裏に何かが引っかかる。
 アンリの足を駆け出させたものが、人に言う勘と言うものならば、あながちそれは間違っていなかったのかも知れない。
 病院であるにも関わらず、アンリは周囲のことを全く忘れて走る。遅々として歩む怪我人に肩をぶつけ、危うく階段で看護婦を突き落としかけながらも、大上裕が療養する病室まで一気に駆け抜けた。
「302号室!」
 思わず叫んだが意味は無い――否、一瞬でしかないものの時間稼ぎの意味合いはあった。
 病室に飛び込んだアンリが見たものは、ベッドで眠る大上裕の首に分厚い両手を巻きつけようとする男の姿だった。分厚いのは、男の手に手袋をはめているのだから当たり前。
 ライトグレーのツナギを着た作業員らしき人物が、勢い良く開いた扉を凝視し、アンリの侵入に驚く。鍔付の帽子を目深に被っていたため顔こそ確認できなかったが、明らかに治療行為をしにきた医者などではない。
「何をやっているんですか? やはり、響さん達が聞いてきた供述は全くの嘘ではなかったのですね……」
 アンリの言葉に、作業着の男は落ち着いた面持ちで無言のまま答える。うなずきこそしなかったが、犯行の意図は明らかだ。
「……こんなときはどうしたらよいのでしょうか? 病室に来ていた作業員をそれだけで捕まえることは出来ませんし、怪しかったから職務質問をしようとした、でいいのでしょうか? それとも、殺人未遂ですか?」
 ついつい、罪状やら引き止めた理由と言うものを考えてしまうアンリ。職務に実直なのは嬉しいことだが、宗谷がいたら呆れてため息を付いていたところだ。
 しかし、相手はアンリが罪状などを考え付くまで待ってはくれなかった。
「フッ!」
 鋭い呼吸を置いて、男が前に出る。
素早い、瞬発力に身を任せた突進。それでも、平均以上はある男の体躯ならば女性の一人を突き飛ばすことぐらいは難しくない。ただし、それが普通の女性ならばの話である。
 ロボットであるアンリは、内部構造の理由から見た目以上の重量を誇る。実際は誇りたくないのだが、それも仕様がない。
「甘いで……ッ!?」
 言いかけたところで、アンリは思わず口を噤む。甘かったのは相手ではなく、自分だった。
 ただの突進ならば身体で受け止めることも出来た。しかし、拳を繰り出されたのでは堪ったものではない。溜めのないその場しのぎの正拳突きではあるものの、武術など全く知らないアンリにその一撃を受け止める手段は無い。
 そして、避けようにも足が竦んで動かなかった。ロボットである自分が、ナマジ恐怖などと言う感情を持っていたからだ。
「がっ!」
 鈍い呻き声が上がる。腹部に重い衝撃が伝わると同時に、身体が後方に吹き飛んで壁に背中をぶつけた。普通の人間なら、やはりそれだけで十分なほど戦闘不能に追い込める。
 しかし、吹き飛んだのはアンリではないし、吹き飛んだ男も普通の人間ではなかった。
「なんだ、この重たい奴は」
 いつの間にか扉の仕切り口に立っていた宗谷が、不機嫌そうに言う。
 利き足の反対側を軸にして、身体と利き足を直線方向に伸ばした体勢のまま、アンリの直ぐ横に蹴りを射ち込む形で佇んでいる。
「…………」
 新たなる闖入者に対し、男は致命傷に近いダメージを受けながらも逃亡を試みる。だが、さすがに男にも宗谷とアンリの二人を相手にする余裕は無い。
だからこそ、そんな荒業に出たのだろう。
 男が駆け出したのは病室の出入り口ではなく、通常は風のみが出入りする場所――窓へと向かって跳躍する。宗谷とアンリが驚いている間に、男は窓の向こう側へと姿を消した。
「おいおい、三階から飛び降りやがったぞ!?」
 窓に近づいて外を眺めるが、男は既に病院の外に停めてあった業者の車に乗り込んで逃げ去っていた。
「大丈夫です。どこの企業の車かは分かりました。今すぐに響さん達に電話を」
「やることが早いな。響さんってことは、あいつはマシナリープライセス社の社員なのか?」
 携帯電話を取り出して聞いてくる宗谷に、アンリは首肯だけを返す。
 現行犯である上に、警察が張っている会社だ、もう言い逃れは出来ないだろう。こうして危うくも犯人の目星をつけ、命を狙われている大上を助けられたことに満足する。
「どうかしましたか? あまり病室では騒がないでくださいね。それと、院内では携帯電話禁止ですよ」
 電話をしようとしていたところへ、騒ぎを聞きつけた看護婦がやってくる。宗谷は看護婦の注意を受け、小さく舌打ちをしてから病室を駆け出してゆく。
 大上も、今更ながら騒ぎに目を覚ましたようだ。
「何があったんですか、看護婦さん?」
「大丈夫ですよ。ちょっと、面会に来たお客さんが騒いだだけですから。あ、こちらは……」
 何処か怯えた様子で確認を取る大上を宥め、看護婦がアンリを振り返って紹介しようとする。
「警察の者です」
 看護婦が言葉に詰まり、アンリが代わりに答えた瞬間だった。
「ッ!?」
 大上は目を丸くして、白いシーツをかき集めながらベッドの奥へと転げ落ちる。ドダンッという大きな音の後、どこも痛めた感じでもない大上がアンリを怯えきった目で威嚇する。
「大丈夫ですか、大上さん!?」
 看護婦が駆け寄る。
 アンリはしばし大上のリアクションについていけず、目をパチクリとさせた。そして、警察に対して強い警戒心があることを察すると、慌てて言い繕う。
「安心してください。私は警察で働いていても、正式な警察じゃありません。アルバイトみたいなものです」
 そう言っても暫くの間は警戒していたが、言葉の意味を理解したのか大上は少しずつ落ち着きを取り戻してゆく。
 看護婦の助けを借りてベッドの上に戻ると、まだ少しだけ警戒した目でアンリを見つめる。
 さて、どうするべきだろうか。今の状況なら、宗谷を呼ぶよりも自分で聞いた方が多くのことを聞き出せそうだ。それに、ここを離れたらまた誰かが殺しに来るかもしれない。
「あの、つかぬことをお聞きしますが、会社の方で何かトラブルでもあったのでしょうか? それに、あまり警察のことを良く思っていらっしゃられないようですが、理由をお聞き願えないでしょうか?」
 出来る限り丁寧に、相手を怒らせたり不安にさせないような言い回しで訪ねる。
 大上は暫く口を噤んでいたが、アンリが信用にたる人間だと思ってくれたのか、ポツリポツリと口を開き始めた。
「アルバイトってことは、あいつらとは関係ないんだよな……? あいつらから頼まれて、俺を消しに来たわけじゃねぇよな……?」
「はい、逆に助けに来たぐらいですよ。どんな事情があるのかは分かりませんが、貴方の知っていることを私に話していただけませんか?」
 まだ不安がる大上に微笑みを見せ、ベッドに歩み寄って腰掛ける。
 今の大上は、何らかの理由で疑心暗鬼に囚われている。まずは自分が味方だと認識させ、束縛から解き放つことが先決だった。
 その間に、外からは宗谷の乗ったセダンが走り出すエンジン音が聞こえてくる。アンリがここに残ることを悟って、一人で響達の応援に向かったのだろう。まあ、悪く言えば足手まといと思われたのかも知れない。
「それで、貴方は何にそんなに怯えているのですか? ここは私が守りますから、何でも話してください」
 宗谷に放って行かれたのは悲しいが、今の仕事をこなそうと心に決める。
「俺は……見ちまったんだ。あいつらが、会社の奴らが……」
 そこまで言った時だった。看護婦が閉めて出て行った扉を、乱暴に開けて足を踏み入れる一団が来たのは。
 十人ほどで編成された一団は、ここが病院であることを考えていない足取りでアンリと大上に近づくと、懐に手を突っ込んで何かを取り出そうとする。
「何ですか!? ここは病院ですよ? それは……」
アンリが立ち上がって一団に立ち向かおうとするが、鈍く黒光りする“それ”は二人に抗うことさえ許さずに動きを止める。目を見開いて硬直するアンリの、先刻に決めた決意は儚くも脆く崩れ去った。
そんな無機質な物体一つで。
「すみません……」
 それが、諦めを悟ったアンリの、最後に宗谷へ向けた言葉だった。


 宗谷から連絡を受け、響と友哉はマシナリープライセス社の正面口が見渡せる路上に止めた車から降り、社内へと向かって突き進む。
 一度は面会を断られはしたが、今度はこっちにも手の打ち様はある。
「何でしょうか? 社長への面会は出来かねると、先ほど申したばかりではありませんか」
 受付嬢が果敢にも、国家権力である警察に歯向かってくる。無論、自称紳士である響は手荒な真似はしない。それに、警察であることは伏せていたのだから歯向かってくるのも仕方がないことだ。
 警察手帳を取り出し、宗谷から受けた電話の主旨を伝える。
 受付嬢は、まさか、と言わんばかりの表情を浮かべ、受話器を取ってボタンをプッシュする。何度目かのコールで、相手に繋がったようだ。
 そこをすかさず響が受話器を奪い取り、
「社長さんか? ちょっと面白いネタを持ってきたんだが、聞く気はないか? 勿論、損はさせない」
 傍目から見る限り、汚い取引を持ち込んできた男のように見える言い草だ。友哉も、些か呆れた様子で電話のやり取りを見つめる。
 社長との黒いやり取りを終えて、響が顎で階段の方を指す。
話がついたのはいいが、二人の行く手を阻むものが現れたのは予想外だった。黒や紺色のスーツに身を包んだ男達である。
 サングラスをかけていたりはしないし、強面のそうしたお仕事の人種には見えないが、社員には思えない締りのある顔つきをしている。まあ、社員ではなかったのだからそれも当然であろう。
 男達が何者であるのか響は気付いた。昔取った杵柄の、ちょっとした勘が彼らの正体を告げる。身の毛もよだつような悪寒が背中に走り、思わず身体を摩りたくなるほどの鳥肌が立つ。
「県警の庵明響警部補と見渡友哉巡査だな。悪いが、この件からは手を引いてもらいたい」
 一番先頭に立っていた、男達の中で最も体躯の大きな男が、宗谷ぐらいの高みから言い放つ。角刈りにした頭の威厳のある顔が、怒るでも嘲るでもなく半眼で響と友哉を見つめる。
「だ、誰ですか……ッ?」
 友哉が気圧されながら問う。
 すると男達は懐に手を入れ、黒革の手帳を取り出して二人に見せた。二枚折になった手帳が開かれ、桜田門の金バッチが光る。
「け、警視庁!?」
 友哉が間の抜けた声を上げた。
 まさか、こんな地方の事件に警視庁が手を出すとは思ってもいなかった。いや、宗谷からの電話を受けた時点で、この事件はただの強盗事件ではなくなっていたのだろう。
 しかしながら、手を引けと言われて潔く引けるものではない。こっちは社員の一人を確保できるネタを掴んでいるのだ。
「そうは問屋が卸さんぜ。警視庁だろうが、インターポールだろうが、俺達は俺達なりの正義を貫かさせてもらう」
「ふぅん、県警如きが出しゃばるか。熊谷管理官、こんな奴ら無視して行きましょう。どうせ、こっちの決定では県警如きにはどうしようもない」
 大男の部下らしき男が、鼻で響達を笑いながら言う。その男の方が、大手の企業で働くサラリーマンのようなインテリ風である。
「上の決定だ。お前達が破るのは構わんが、その正義の下に何人の犠牲が強いられるかは、分からんぞ」
 熊谷と呼ばれた大男は、警告はしたぞ、と言わんばかりに響を一瞥して去ってゆく。歩き去る背中を見つめ、響は無意識の内に拳をポケットの中で握り締めていた。
 熊谷の言う通りだ。己の正義を貫くために、他の誰かを犠牲にしたのでは本末転倒である。自分が勝手に動けば、その責任は部長や署長が取らされる。もしかしたら、友哉や宗谷、アンリ達にまで責任が及ぶかも知れない。
「……どうして、この世界はこんなにやり難いのかね」
 独りごち、響は踵を返す。友哉も倣い、会社の外へと向かう。
 丁度そこで、宗谷が到着した。正面玄関を出て行こうとする警視庁の一団と擦れ違い、二人の下へ駆けてくる。
「響さん、そっちの様子は?」
「残念ながら、俺達の出る幕じゃないってよ。キャストから降ろされちまった」
 問いかけてくる宗谷に、自嘲の笑みを浮かべて答える響。友哉も隣で、残念そうに首を横に振る。
「警視庁が後を引き継いだ。さっき擦れ違っただろ?」
「なんだと!?」
 宗谷が目を剥くが、どうしようもない。そして、パートナーがいないことに気付く。
「アンリは?」
「病院に残してきた。警視庁が引き継いだってことは――ッ!」
 宗谷が声にならない怒りの声を上げ、外へと向かって駆け出す。
 警視庁長官の指示で預かったのだから下に伝わってはいないとは思うが、果たして奴らがアンリに何をするかは分からない。犯罪者の検挙には、手荒な真似も厭わぬような奴らなのだから。
「お前ら! アンリに何もしていないだろうな!?」
 外で車に乗り込もうとしている警視庁の大男――熊谷を呼び止め、傍迷惑な大声で問い質す。
「アンリ……あぁ、あの話に聞くロボットか。分からんな。抵抗するようなら力ずくでも確保しろ、とは伝えてあるが」
「くっ!」
 嗜めるような返事を聞き終えると、宗谷は直ぐにセダンに乗り込んで走り出す。
宗谷を見送りに響達が出てくると、熊谷がそちらを見る。ジッと、響を見定めする。
「何だよ? 俺はそっちの趣味は無いぜ。アメリカじゃ、割とその手のタイプに声を掛けられたから、嫌気がするのよ」
 せめてもの反撃として、肩を竦めながら愚痴る。しかし熊谷は大して気にしている様子も見せず、
「お前、何処かで会ったか?」
「……唐突だな。悪いが、覚えはない。何処かで擦れ違ったかも知れんし、一度ぐらいは警察どもの集まりで会ったかも知れないな。もしかしたら、俺が昔に指名手配されていたなんてことがあるも、よ。後は、他人の空似だ。世の中、似た人間が三人はいるって言うぜ」
 ついつい饒舌に喋ってしまったが、熊谷は相変わらずの無表情のままで車に乗り込んでしまう。
 呆気無く無視されてしまい、
「つまらなかったか?」
 友哉に問う。
「指名手配犯が警察をやってるなんて、お笑い種も良いところですよ。大方、事件の調査で馬鹿をやって、目をつけられたんじゃありませんか」
「ほぉ、聞き捨てならんな。お前は、俺のことをそんな風に見ていたのか?」
「えっ! ちょっと、話を振ってきたのはそっちじゃないですか!? うぐっ……」
 さりげなく悪口を言う友哉を羽交い絞めにし、何だかんだと言いつつも仲良く車に戻る響。
 悔しいが、今回の事件のことは忘れよう。何の準備も無く警視庁に楯突けば、いずれこちらの身が危なくなる。
「でも、本当に諦めちゃうんですか? 裏があるって言ったのは響さんでしょ。僕には、もっと根深い何かがあるように思えてならないんです」
「そいつは俺も同じだ。けどよ、俺達が出しゃばろうと手を引こうと、最後には誰かが悪事を暴くんだ。ほら、あれみたいに気紛れな正義にお任せしよう」
 受付嬢に楯突くカメラマン風の女性の眺め、響が誤魔化すように笑い飛ばした。
 友哉は納得の出来ていない様子ではあったが、仕方がなさそうに助手席へ腰を下ろす。
「響さんって、案外、日和見なんですね」
「案外って、お前は俺を熱血漢か何かだと思っていたのか? 自分じゃあ、乙女心よりも気紛れな性格だと自負していたんだが」
「あまり褒められませんよ、それ……」
 響の軽口に呆れ返る友哉。
 相方は呆れているが、響の言ったことは当たらずとも遠からず。仕事として割り当てられたのなら、仕事としてこなすし、身にかかる火の粉は振り払う。しかし、自分から炎の中に入っていこうとはしない。
 熱血漢でもなければ冷血漢でもない、割と日和見な事なかれ主義と言えるだろう。後は、癇癪を起こしたように出てくる気紛れに、身を任せるぐらいか。
 その点は、イェーチェとは正反対の性格だと言えよう。
気紛れのように見えて己の生き方に迷いを感じているイェーチェに対し、迷いも葛藤も持たずに気紛れな生き方をする響。頭が良いクセに柔軟さが足りないイェーチェと、頭が悪くとも柔軟にことの為していける響。
 まあ、そんな二人だからこそ相容れたわけで、出会い頭の関係であるものの両者の間に疑念はない。
「なんでウチの署には、変わった人ばかりなんでしょうかね……。これで麗華さんまで異動になったら、刑事課で真っ当なのは僕だけになりますよ」
「さっきから大人しく聞いてりゃぁ、言いたい放題だな、お前。そろそろ響君の堪忍袋の緒も切れちゃうぞ」
「す、すみません。デコピンだけは止めてください……」
 拳銃を突きつけられたかのように、突き出された響の手から逃れる友哉。しかし執拗に迫ってくる拳に耐えかね、何か盾に出来るものはないかとアタッシュボードの中を掻き回す。
 車の修理用のマニュアルぐらいはあるだろうと思って取り出したのは、表紙に意外な文字の書かれた大学ノートだった。
 『ヒビキの秘密ノート』と油性ペンで書かれたノートだ。まだ、語尾にハートマークなんぞがついていないだけ衝撃は少ない。
「何ですか、これ? 新聞の切り抜き、みたいですけど……」
 中身は、秘密でも何でもないただの新聞の切り抜き帳である。
「おいおい、人の物を勝手に見るなよ。別に、お前が見ても面白いものは乗っちゃいないぜ」
「意外に、響さんって律儀ですね。何か気になるニュースでもありましたか?」
 大学ノートを取り返そう伸びてくる手を掻い潜り、友哉がページを捲ってゆく。
 乗っているのは、他愛も無い事件の切り抜きだった。しかし、多種の新聞社に渡り、どれもが似たような内容のものであった。中には英語に限らない外国語の新聞まで混ざっている。
 幾つかは友哉にも記憶が残っている、未解決の遺跡荒しと殺人事件。特に眼を引くのは、犯人の目撃情報や事件の手口だ。赤いペンで線引きがされた文字列の内容は、犯人の共通項を挙げ連ねたものが多い。
「……外国のものが多いですね。日本で起きた事件は僅か数件。何か、響さんに因縁がワッ!?」
「気にするな! 興味本位って奴だから、よ」
 問いかけようとした友哉から大学ノートを奪い取り、響は車のアクセルを踏み込む。急発進した勢いで、慣性の法則によって裕也が悲鳴を上げる。
 公道を疾走する漆黒のスカイライン。外気を切る風声とは異なり、車内は重い沈黙に包まれていた。
 果たして、響の胸中とは。はたまた、友哉が何を思ったのか。
 過ぎ行く景色とは裏腹に、一人の男の過去が暗い影を落とし始めてゆく。



 夕食時を間近にした薄暗闇を、二つの影が歩く。
 一つは長身の男。もう一つは、男よりも頭一つ分小さな女性。宗谷とアンリだ。
 宗谷の口元では、小さな赤い光点が薄暗闇に輝く。ろくに吸うこともせず、吸い込むなり直ぐに紫煙を吐き出す。両手をコートのポケットに入れている今、宗谷には煙草を吸う意志は無い。
 アンリは沈黙を保って宗谷の後ろ斜めを、一定の距離を置いて付いてゆく。付かず離れず、少し俯き加減の申し訳なさそうな表情である。
 二人の愛の巣(?)であるボロアパートに戻る道中を、二人は何とも言えぬ沈黙に包まれながら歩いていた。
 端的に言えば、宗谷は怒っていた。
 果たして、何に怒っているのか自分ではすら分からないのだが。
 原因はたくさんある。
 一つは、自分達の仕事に突然として介入してきた警視庁への怒り。
 二つは、仕事を手放すことへの安堵と諦めるということに対する葛藤。
 三つは、唐突に通達された一通の手紙。
 一つ目と二つ目は、適当に物に当たってお酒でも飲み明かせば忘れてしまうことだ。しかし、三つ目だけは負に落ちない。
 アンリを病院へ迎えに行って、所轄に戻ってきた時に受付の資料係に渡された手紙。封筒にも入れられていない三つ折りにしただけのA4の用紙で、『イェーチェより』という走り書きが克明に送り主を教えてくれていた。
 さも手紙など書きそうにない少女からの通達は、僅か二行程度のものだった。
『少し出掛けてくる。二、三日帰れないと思うから、アンリのことを頼む』
 ただそれだけ。
 別にイェーチェがどこへ出掛けようとも、どこで泊まってこようとも、決して保護者ではない宗谷には関係の無い話である。はずなのだが、何故か引っかかるものがあるのだ。
 何が、という明確な答えを出せないことに、宗谷は苛立っている。
「宗谷、さん……?」
 矛先を定めることの出来ない理不尽な憤りを収められない宗谷に、恐る恐るアンリが声を掛けた。
「はい……」
 振り向くなり、何かを聞いたわけでもないのにアンリが返事をする。
「はい? 俺が何か聞いたか? 俺は一言も……」
「いえ、灰が落ちそうなので」
 言葉を遮った一言に、フッと目線を口元にやる。
 口の動きに合わせて揺れる、煙草の燃え滓が今にも光点から落ちそうになっている。
 それを知っても尚、宗谷はそれがどうした、と言わんばかりの表情でアンリを見つめ返す。別に室内というわけではないのだから、灰が地面に落ちたところで手間にはならないはずだ。
 冬の帳が落ち始めた寒風に攫われるか、通りがかりの雑踏に踏み潰されるか。誰かが困るわけではないというのに、アンリは宗谷の態度に溜息を吐く。
「ですから、灰に限ったことではありません。歩き煙草でさえ喫煙者のマナーに違反するのに、携帯灰皿も持たないというのは些か非常識ではありませんか?」
 スーパーマーケットなどで騒ぐ子供を嗜めるかのようなアンリの台詞に、宗谷の怒りは徐々に冷めてゆく。
 常温に戻った頃、怒りと入れ替わったのは些細な疑問だった。
「なぁ、お前って、いつからそんな奴になったっけ?」
「はい? おっしゃる意味が、良く分かりません」
 相変わらずの舌足らずな問いに、アンリが当然のように首を傾げる。
 そう、その反応だ。
 出会った頃を思い出すと、今のアンリは昔とは全く別人のように思える。無機質で無感情とも言えたアンリが、今や、笑い、怒り、悲しみ、様々な感情を顔に出してくる。
「それは、私がそうなるようにプログラムされているからですよ」
 アンリが簡潔に答える。
 まあ、既存の視覚文化においても、無感情だったロボットが他人との繋がりによって感情を覚えてゆくという内容は多々ある。だから、アンリが感情表現を覚えてゆくことも分からないではない。
 それでも、まるで別人のように口調や性格が変わるものなのだろうか。出会ってから一月が経つか経たないか、で宗谷にとってアンリの存在は大きく変化した。
 疎ましかったメイド服のロボットではなく、自律型ヒューマノイドとやらでもなく。仕事上の相棒であり、本物の人間を思わせるほどに違和感を覚えない存在へと変わったのである。
「俺も、丸くなったってことなのかな……?」
 誰とも為しに呟く。
「違いますよ。私も、宗谷さんも、変わっていません。ちょっとだけ周りの見え方が違っているだけで、自分達の本質はそのままなんですよ」
 アンリが誰とも無く答える。
 確かに、変わってはいない。
 イェーチェがアンリを、自分の製造物ではなく家族のように考えたのと同様に、少し見る視点を変えてその存在の本質を知っただけなのだ。
 その証拠に、宗谷は同僚や所轄の人物関係に関心を持っていない。昔と変わらない自分が、僅かにアンリという存在を別のところから見ていただけなのである。
 だから、
「…………」
 言おうとした言葉を呑み込む。
 それを認めきれない自分は、やはり昔と変わってはいない。ただ、アンリが相棒の枠を超えて――いや、気の迷いだ。
「……寒くなってきたな。早く中に入って、一杯引っ掛けようぜ」
「そうですね。でも、私は付き合えませんよ。弱いわけではないのですが、お酒が私の身体にどう影響を与えるかは試していませんので」
 ならば、なおさら試したくなるのは、製作者の性格が伝染したからか。宗谷は意地の悪いこと考えながら隙間風の吹き込むボロアパートの一室に帰る。
 ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで開錠しようとした時だ。建てつけが振るい所為か、鍵を開ける時と閉める時の感触が微妙に違うのは、数年ほど世話になっている宗谷になら既知の範疇である。確かに、出掛ける前に鍵を閉めたのは記憶している。
 それならなぜ、閉める時に感じる重さが指先に伝わってくるのか。
「アンリ、下がってろ」
 背後にくっついているアンリを手で制止し、ゆっくりとドアノブを回す。
 カチッと小さな音を立てて、古びた木製の扉が開く。居間に明かりが点いている。
 まさか、こんな何も無い男が一人で暮らしている部屋に物取りが入るとは思えない。が、おかしな輩が侵入を試みた可能性もある。幾度かの事件で、宗谷も何人かの犯罪者を逮捕してきた。その内の何人かは釈放もされているだろう。
 仕返しに来るとも限らない。足を板間に踏み入れると、入り口の直ぐ側にあるシンクの横で影が動く。
 宗谷は考えることもせず、条件反射で影に向かって拳を繰り出す。
 腕を包み込む柔らかい感触、重力に逆らう浮遊感、足の裏が床の感触を失った。
 次の瞬間、光と闇が揺れ動き、天地を上下逆さにしながら世界が暗転し、板間が砕けたのではないかと思うような鈍い音が耳朶を撫でる。鈍い痛みが背中に伝わってきたのは、自分が投げ飛ばされたのを知った直ぐだった。
 鈍痛がジワジワと背中から臓腑へと蠢いてゆく中、宗谷は目の前の人物を見つめて唖然とする。
「帰ってくるなり、ずいぶんな挨拶だね。あんたも、出会いがしらに人を殴るのがコミュニケーションだ、なんて言う口かい?」
 片手に酒瓶を握り締めた一人の老婆が、アタリメを口の端に咥えて皮肉めいた台詞を吐き捨てる。
「大家、さん……?」
 板間を打つ轟音に駆けつけたアンリが、宗谷を見下ろす人物の役職を口にする。部屋の外で待っていたため、どうしてそんな状況になっているのか理解しかねていた。
「なんで、あんたが俺の部屋にいるんだ……?」
「何を言ってるんだい。あたしゃ管理人だよ。各部屋の合鍵ぐらいは持ってるさね」
 勿論、緊急事態等に対応するため合鍵を管理人が持っていることに疑問は無い。宗谷はただ、なぜ自分の借りている部屋に山姥がいるのか、を問いたいのだ。
 大家さんはそれを察したのか、苦笑のような、嘲笑のような表情を作り、握り締めていた酒瓶を掲げて見せる。イェーチェから貰った泡盛の一本だ。
「ちょいとあんたに相談があってね。いつ帰ってくるのかわからんだから、一本貰って待たせてもらったよ。なかなか良い酒だ。一人暮らしの……二人ぐらいのあんたには勿体ないよ。気を高ぶらせるなら、安物のワインか缶ビールでも……」
「あのぉ、それは良いのですが、いつまで宗谷さんは寝ているんですか? 風邪を引きますよ。それから、大家さんのご相談と言うのは?」
 妙に卑猥な話になりかけていたのを制止させ、アンリが話しを進めてゆく。
「おお、すまん、すまん。どうすりゃ良いのか分からなくてね。あんた達より、警視庁とか検察庁の方が良いのか」
「盗難届けなら、交番にでもお願いします。詐欺紛いのセールスに引っ掛かったのなら、生活相談室に電話してください」
 投げられたからか、それとも楽しみにしていたお酒を飲まれたからか、身体を起こした宗谷がつけんどんに対応する。
「まあ、そう言わず。ちょっとした老人の世間話に付き合ってくれや」
 招き入れてもいないのに、大家は居間に腰を下ろして話を始める。
「内の知り合いが働いてる会社なんだけどね。これがまた、やることなすこと横暴で、他人の不幸なんてお構いなしに他社の株を買い占めて行くんだよ。外国に本社を持つ会社らしいけど、まさか日本の企業を牛耳るつもりじゃないか、って知り合いが言うのよ。せっかく就いた就職先だから辞めることも出来ないけど、どうにかならないか悩んでいるとさ。
 確か、MP社って言ったかな。マジックポイント社? それはゲームの話かね。名前なんてどうでも良いとして、コンピュータ関連の企業だって聞いたよ。今度、県内のマリンホテルで買収した企業の重役の集まるパーティーがあるらしくて、何かの新製品が完成したお祝いをやるんだとさ。噂じゃアメリカで軍需産業にも手を出していて、話によるとその新製品が新しい兵器の一つらしい。兵隊の代わりを務めてくれる、人型のロボットがどうとか」
 最初は、酔っ払いが酒屋で管を巻くような話口調に聞く耳を持たなかったが、それは次第に一つの仮定へと変わってゆく。
 別の誰かが聞けば、ただのくだらない噂話か会社の暴露話にしかならない。しかし、一度でも噂の会社に携わった者ならば、今の話は確信であり、揺ぎ無い結論であった。
 黙って聞いていた宗谷とアンリは顔を見合わせ、驚愕の混じった視線でお互いの考えを伝え合う。そして、互いの結論が一致したその時、一度は諦めた事件を再び掘り返すこととなる。
 日本の企業を次々に買収してゆくMP社――マシナリープライセス社が作り出したと噂される人型のロボット兵器。
 宗谷とアンリが警察病院で交戦した作業員の男は、間違いなくそのロボットの一体だ。人と殴り合うことの多い宗谷だからこそ、人間と機械の感触の差異には自信があった。
 それに、自分がマシナリープライセス社に作られたと薄々感づき始めているアンリも、自分が兵器の一体であることに不安を隠し切れない。その上、自分を作り上げたと豪語する少女が、マシナリープライセス社の依頼を受けたことを記憶の一部に持っている。
「そんな、まさか……」
「そんな馬鹿な話があるかッ! あいつはどんな馬鹿なことをやっても、誰かを傷つけるための道具なんて作るわけ無いだろ。それに、あいつはお前を……家族だと思ってる!」
 胸に降り積もる不安を拭い去ろうと、宗谷が怒鳴り散らす。イェーチェは、この冬で僅か二年やそこらの付き合いだが、戦争の道具を作るような馬鹿ではない。それだけは、彼女のことを知らない宗谷でも絶対に言い切れる。
 作られて一月あまりのアンリでさえ、そう信じている。いや、一ヶ月であっても、アンリの方がイェーチェのことを知っているような気がした。
 いつの間にか黙り込み、二人の様子を眺めていた大家が口を開く。
「それを確かめるのは、あんた達自身だよ。本当にせよ、噂や嘘にせよ、未来のために、自分達で解決しなきゃいけない問題さ。行っといで、あんたの上にはあたしが話をつけといてやるよ。この死に損ないのババアが出来る手助けはそこまでだから、ね」
 大家の言葉を聞き終えるか否かの内に、宗谷とアンリはボロアパートの自室を飛び出す。
 どうして県警の上層部に手が回せるのか、いったいあの老婆は何者なのか、そうした疑問は解決しないだろう。だから、今回だけは謎の老婆に感謝して訊かないでおこう。お酒も、情報料としてくれてやった。
 そして、陰謀に招かれようとする二人が乗り込んだ、純白の金属のボディーを白雪の肌に模した女神が月夜の世界へと走り出す。女神と男女は、捺印された招待状に招かれる。



第四章・信頼は天使の盟約、裏切りは悪魔の契約



 少女は、夢を見ていた。
 フロイトやユングが言うには、夢は見る者の願望の表れらしい。
 ならば、この夢も、少女が抱く願望なのだろうか。このカメラのフィルムを繋げただけのような夢が、本当に願望を表したものなのか。
 そもそも、夢であればこんなに明確な意識は無いはずだし、このようにホームムービーみたいな見え方をするはずがない。それなのに、少女は夢の記憶を確かに受け継いでいる。
 何百個にも分かれたピースを、一つ一つ繋いでいける程、少女の意識は覚醒していた。
「Here is Japan.(ここが、日本か……)」
 少女が呟く。英語で。
 雪の降り積もる街角で、一人佇んで空を見上げている。雪雲に覆われた空は、少女の心を表したかのように暗く染まっていた。
 少女――イェーチェが始めて、日本と言う小さな島国に降り立った時の夢。
 師走の忙しさに奔走する誰もが、季節に会わぬ薄着をしている少女に気付かないかの如く、珍しいブロンドの少女の前を無言で通り過ぎてゆく。
 悲しかった。
 悔しかった。
 寂しかった。
 だから、彼女の心は曇天に覆われていた。雪が降り積もっていた。
 冷たくて、凍えそうになる路上で、少女は行く当てもなく佇んでいる。吐く息が白く濁り、水気の無い空気が涙まで乾かしてしまう。こんなところ、来なければ良かったとイェーチェは後悔する。
 誰もが誰もに無関心で、自分以外の人間は居ないもののように通り過ぎてゆく雑踏が、憎くて嫉ましい。
「I'm Sorry. Oh......(すみませ、あっ……)」
 忙しない雑踏の中から、ゆっくりと歩く男性を見つけて声を掛けようとする。しかし、二十歳前後の男は少女に気付かなかったのか、彼女の傍らに置かれていた古びた旅行カバンを蹴り飛ばしながら駆け足で去ってゆく。
 焦げ茶色のカバンが、凍りかけた道を滑って路地裏の闇に姿を消す。
 ゆっくりだった歩調が途中で駆け足になったのは、少女に気付いていながら無視をしたことが後ろめたかったからではない。英語で話しかけられ、自分の語力に自信を持てなかったから、気付かないフリをしたのだ。憶測でも、イェーチェはそう思うようにした。
 日本語を喋ろうと思えば、喋れないことも無い。ただ、ついつい慣れている英語で第一声を発してしまうのである。
「Be not cruel. They may halt a little.(酷いな。少しぐらい、立ち止まってくれても良いのに)」
 立ち止まって話しさえ聞いてくれれば、後は拙い日本語で道を尋ねるぐらいのことは出来た。日本人が英語でそれぐらいは出来るように、イェーチェだって少しは日本語を覚えている。
 そう、来日する以前に日本人の男と出会ったことがあるし、彼女が通っていた学校にも日系人は一人や二人はいた。
 MIT――マサチューセッツ工科大学。十四という若さで入学し、十六歳で中退してはいるが、工学技術と趣味で考古学の博士号を取った天才なのだ。天才を自負しながらも、自分を知らない世界では何の役にも立たないことが不思議で堪らない。世界に名を馳せるような偉業を成し遂げたわけではないのだから、当たり前と言えば当たり前だが。
 それでも、この日本と言う島国はおかしい。自分達の矮小な世界"テリトリー"を守ろうとするかのように、異邦人の言葉を無視して立ち去る。日本人と言うのは、そうした傾向が強いようだ。先刻の男の前に声を掛けた、サラリーマン風の男も大した反応を示さずに歩調を速めた。
 凍えそうになる。心も、身体も。
「It is so...(……そうだ)」
 少女はフッと我に返り、足元からなくなったカバンを探しに路地裏へ足を向ける。
 仮の国籍はアメリカ。元は名前も両親もない孤児だったのだから仕方がない。仮と言うのは、両親が居ない少女はアメリカ人としての国籍を取れないからである。どこかで生まれ、小さな田舎町のバス停に捨てられていた彼女は、法律上でも十八になるまでは国籍を選ぶことは出来ない。
 だから、どこの国籍を取得するべきなのか、自分で探そうと世界を回っている。
 アメリカ以外の国でも、趣味である考古学の関係で南米やアフリカ、北欧から西欧にかけて旅行したことはあった。日本は始めてで、訪れた感想は先ほどの通りだ。
 イェーチェはこの先、まさかこんな国の国籍を取ろうとは夢にも思わなかっただろう。それを思うと、夢だと実感していても苦笑が漏れてしまう。
 が、しかし、そんな安息も束の間、イェーチェは未曾有の危機に陥ってしまう。まあ、この程度を未曾有と言ってしまうと、これからの出来事をどう呼べば良いのか分からなくなるのだが。
 イェーチェの前に、暗闇の中に現れる数個の人影。幾つだったかは覚えておらず、小柄な少女でも二人分が並べば隙間に余裕のなくなる路地裏に、二つか三つぐらいの人影が浮かび上がっていた。夢と言う断片的な記憶の繋ぎ合わせでは、目の前の明確な情景を写し出すことは出来ないらしい。
「…………」
 イェーチェが沈黙する。
「――――」
「――――?」
 人影が口々に話しかけてくる。
 その時点で日本語をマスターしていなかったイェーチェには、口調が早過ぎたり独特の言い回しが入っていた所為で、人影が何を話しているのかが分からなかった。夢であっても、記憶に無い言葉を解釈することは出来ず、今更ながら意味を理解しようとしても無駄なのだろう。
 ただ、人型をした黒いシルエットの口の辺りが三日月型に裂けたり、半月のような眼がこちらを見つめる。言葉の意味は分からずとも、そいつらの仮面を被ったような顔は正確なニュアンスを少女に伝えてくれる。
 そう、それは卑下た卑猥な笑み。そして、ゆっくりと伸びてくる無機質な腕。
(あぁ、この時は、こいつらに暴行されそうなったんだっけ)
 夢の情景を眺めながら、他人事のように記憶を掘り起こす。
 少しばかり卑猥な表現ではあるが、暴行と言っても殴る蹴るの暴力ではない。言わば、強姦――性的暴行である。
 こんな二十歳にもならぬ少女に欲情して、操を奪おうという輩の気持ちが理解出来ない。いや、当時は出来なかった。現在進行形でならば、宗谷達と出会って犯罪者の心理に触れるようになってからは、少しぐらいなら理解できるようになりはした。
 ただし、対象が偏向的であっても、本当の愛と強姦の違いは経験上、知りえていた。
 もう少し犯罪心理学について語って置きたいわけだが、傍観者が考えごとをしている間に状況は展開を見せていた。
「Hey you. Let's play with us a little.(お嬢ちゃん、ちょっと僕達と遊ぼうか)」
 怯える子供を宥めるようなゆっくりとした英語。
 勿論、そんな子供だましに欺かれるようなイェーチェではないし、易々と操をくれてやる**(自主規制)でもない。のだが、その時のイェーチェにはどうすることも出来なかった。
 武器となるものは、男達の後ろに見える旅行カバンの中で、なまじ武器があったとしても喧嘩は御法度だ。
 正当防衛とは言えど、下手に怪我をさせれば警察に捕まる。捕まれば色々と調書を取られ、最悪でもアメリカに強制送還され兼ねない。なぜなら、殆ど密入国に近いからである。
(お金が無いからって、貨物船に忍び乗り込むのはミスったよなぁ〜。あっ……それって、まるっきし密入国じゃん)
 天才と言えど、十六歳の小娘にしか過ぎないイェーチェが、世界中を巡るだけの路銀を持ち合わせているわけが無いのだ。
 移動は徒歩かヒッチハイク。寝泊りも安全そうなところで野宿。食べ物だけは、財布に入れてきた幾らかのお金で買っている。
 勿論、アメリカになら旅行の飛行機代を二つ返事で払ってくれるような知り合いはいる。しかし、イェーチェはその知り合いに助けを借りることなく世界を巡っていた。
 助けを借りれない――否、借りたくない。
 別にお金などの貸し借りの問題でも、独り立ち云々と言う感傷でもなかった。
(あの男にだけは……父親面したあの爺にだけは、借りなんて作るもんかッ!)
 夢の中に向かって、夢の中から、傍観者であるイェーチェと体験者であるイェーチェの怒鳴り声が響く。
 そう、彼女は逃げたかったのだ。孤児だった自分を施設から預かり、ここまで育ててくれた養父から。その男に見つからないよう異国の地を転々と巡り、たどり着いた極東の島国で危機に晒されている。
 なんともブラックなジョークが利いているではないか。
 元々から信じてはいなかったが、本気で神様と言うものが存在しないのだと実感させられた。それとも、敬虔なキリスト教徒はこの状況を神が与えた試練だと理解するのか。
 馬鹿馬鹿しい。
 ある種の現実主義者であるイェーチェは、神なる不可視の存在を一言で切り捨てる。どんなことが起きても、それを打破するのは己の力だ。神などと言う存在が力を貸してくれるわけがない。
 あるとすれば、今のように通りすがりのお人好しが手を貸してくれるぐらいだろう。
「そこッ、止めなさいッ! 生活安全課生活安全部です。今すぐその子から離れなさい」
 そのお人好しの台詞に、暴漢達だけではなくイェーチェまでギョッとする。
 木製の警棒を掲げた警官は、今現在でもイェーチェがお世話になっている資料係の婦警さんだ。資料係になる前は生活安全部に所属していて、このときに喋った台詞は本人が恩着せがましくイェーチェに自慢してきたから覚えている。そう言えば、二年程度で日本語をマスターできたのもこの婦警がアメリカに語学留学していた恩恵でもあったのだ。
 助けてくれたのは今更ながらに感謝しているが、警察に手を借りたくは無かった。それにしても、こんな路地裏にまで気を回すとはあざとい婦警である。
「チッ! ずらかるぞ!」
 暴漢達が悪態を突いて駆け出す。
 警察とは言え、警棒一本では数人の男を相手することは出来ず、突き飛ばされてまんまと逃げられてしまう。
「こらぁ〜! 待ちなさいッ!」
 婦警の虚しい無意味な叫び声が、白雪に包まれた街に木霊した。と思えば、意外な効果を発揮する。
「この世のどこに、待てと言われて待つ犯罪者がいるッ……!?」
 顔だけをこちらに向けて、尻餅をついたままの婦警を嘲笑おうとした暴漢の一人が、正面に立ちはだかった通行人とぶつかった。
 通行人が立ちはだかる、と言うのは少しばかりおかしな表現だろう。正確には、婦警が応援にその男を呼んだのだ。
「自分が犯罪者だと自覚しているとは、なかなか見上げた性格をしてるじゃねぇーか。お兄さんは、そんな悪い子にはお仕置きしたくなっちゃうのよ。出来れば、ベッピンさんが良いんだけど。リンちゃん、後でお仕置きさせてくれるぅ〜?」
「お断りします」
 その男は、ぶつかった暴漢を横目にリンと呼んだ婦警を口説き始める。
 リンと呼ばれた婦警は、呆れたような軽蔑したような表情で冷たく一蹴した。
「クソッ、邪魔するんじゃねぇ!」
 立ち上がった暴漢が、男に向かって拳を振り上げる。
「はいはい、お前のお仕置きは後でたっぷりとしてやるから、今は黙ってろ」
 男が暴漢に足払いを掛ける。いや、足払いなどと呼べる結構な代物ではない。
 繰り出される暴漢の右ストレートを軽く腕でいなし、足を軽く蹴った程度のカウンターである。それなのに暴漢は地面に倒れ、次の瞬間には蹴られた足を抱きかかえながら苦痛に呻く。
 残りの暴漢のざわめきと、地面を転げまわる暴漢の呻き声が、さらに喧しさを際立たせてしまう。そして、他の暴漢達も、その呻き声の中に身を沈めることとなる。
 両手で繰り出した数発のデコピンで、暴漢達の意識を奪い去る男。
「リンちゃん、早くこいつら連れてってよ。男の喘ぎ声なんか聞いても、こっちは立たないつぅーの。やっぱりリンちゃん、今夜なんかベッドで――」
「それ以上言ったら、セクハラで訴えますよ」
「――はい……」
 男の些か度の過ぎた口説き文句を、リンが一睨みで黙らせる。まさか、こんな極東の島国で、その男が女に頭を下げているところを見られるとは思っていなかった。
 ただそんなことより、意外な人物との再開に、イェーチェは呆然と男の名を口にする。
「キョウヤ……」
「あぁ? 俺の名前は響だ。誰と勘違いしてるか分からんが。おいおい、お前はまさか……」
 響こと庵明響が、自分の応援に駆けつけた理由と、助けた少女を思い出して忌々しげに舌打ちしてみせる。
 そんなに自分と再開するのが嫌なのか。そりゃまあ、過去にあんな喧嘩をしたのでは、好んで顔を見たいとは思うまい。そもそも、響の過去を知っている数少ない自分と、今のように度々顔を合わしていることさえ偶然の賜物なのだ。
 それはそれで、そのおかげで県警に入り浸ることも出来るし、暫くの間は寝泊りするところに困らなかったのは確かである。それだけは、響と再会させてくれた運命に感謝する。
「あの時の、墓泥棒の小娘かよ……」
 響の無作為な台詞に、イェーチェはムッとする。独り言のつもりだったのだろうが、イェーチェとアメリカで初めて出会った頃よりも日本語が堪能になっていることを知らない。
「Grave robbers must not say. I am a tray jar hunter. It doesn't steal, and it hunts.( 墓泥棒言うな。私はトレジャーハンターだ。盗むんじゃなくて、狩るんだ)」
「Either is similar.(どっちも同じようなものだろ)」
「It is not the same.
The thrill and pleasure take side with the tray jar hunter illegal as for either!
The translation is different from grave robbers only for the moneymaking!
( 同じじゃない。どっちも違法ではあるけどな、トレジャーハンターにはスリルと快感が付いて来るんだ! 金儲けのためだけの墓泥棒とは訳が違う!)」
「Ok, ok. Either relates separately and doesn't relate very very much.
The furnace that changes though it does and calms down that should not be called ruins roughness though called the grave roughness.
If there is a leave to which a no bur and the travel are done, it works, is found, works at the other side, and is .... good will catch you in that.
(分かった、分かった。別にどっちがどうなんてのは関係ない。墓荒しと呼ぼうが、遺跡荒しと呼ぼうが、いけないことをしているのに変わりないだろ。そのことでお前を捕まえるつもりは無いが、旅行なんかしてる暇があるなら仕事見つけて向こうで働いてりゃ良いんだ)」
「Though it is a just argument......(そ、それは……)」
 痛いところを突かれ、口論を打ち切って言い澱んでしまうイェーチェ。
 話が途切れたところにすかさず、公務を執行したいリンが口を挿んでくる。
「あのぉ〜、お話中申し訳ないのですが、二人はお知り合いですか? それより、その子に色々と聞きたいこともあるので、そろそろ……」
「あ、あぁ、邪魔したな。もう連れて行っていいぜ。今は、一秒でも早くこいつから離れたいから、な」
 そう言って、響がイェーチェの首根っこを鷲摑みにしてリンに引き渡そうとする。
「It waits for a moment!(ちょっと待って!)」
「What? It hears it if there is a will. Separately though it doesn't do anything. (何だ? 遺言があるなら聞いといてやるぞ。別にどうもしないけどな)」
 呼び止めるイェーチェに、響が嫌味とばかりに英語で返してくる。
「I am entering illegally a country …….(私は密入国の立場でだな……)」
「Illegal entrance?(密入国?)」
 響にだけ言ったつもりだったが、迂闊にも語学留学をしていたリンの前で白状してしまう。この頃は知らなかったとは言え、不味いことを口にしたと焦った。もしかすれば、イェーチェに訪れた最大のピンチの一瞬だったのかも知れない。
 しかし、そこへ助け舟が来航する。舟を出してくれたのは、意外にもイェーチェを疎んでいるはずの響だった。
「蜜乳コークって言いたいんだろ?」
『What……?(何……?)』
 ただし、イェーチェとリンが同時に聞き返すほどに意味不明な助け舟だ。
「だから、蜜乳コーク……じゃないのか? きっと、そういう飲み物があってだな……」
「誤魔化したい気持ちは分かります。けれど、英語と日本語では発音が全く違いますから。日本語では密入国でも、英語では全く別の発音です」
 言いたいことを察したリンの指摘に、響はしまったとばかりに顔を背ける。
 はっきり言って、甘いものが好きなイェーチェでもそんな異質な飲み物は知らない。あるのならば、一度は飲んでみたいものだ。
「まあ、とりあえず、今回のことは俺に免じてなかったことにしてくれないか?」
「何を言ってるんですか!? ただの暴行未遂に終わらず、不法入国を見逃したのでは警察としての示しがつきませ……んッ!?」
 説得に応じないリンの口を、響が強引に塞ぐ。しかも、濃厚な接吻を兼ねて。
「ゥンン……ッ! プハッ! な、な、な、何をするんですか!?」
「少し静かにしててくれ。俺が手柔らかに説得してる内に」
「ゥンッ……!?」
 不意打ちにわめき散らすリン。それに対して、響は静かな口調で、とぼけた口説き文句とは違う柔和な微笑みを浮かべて呟く、と同時に再びリンに濃厚な接吻を交わす。
 抵抗を許さない絶対的な拘束に、リンは時間が経ち過ぎたカップ麺のように蕩けた表情を浮かべて膝を折る。
「ッと。さて、俺の借りてるマンションが近くにあるから、そこでゆっくり話をしよう」
 崩れ落ちるリンを受け止め、何事も無かったかのように響が歩き出す。
「...putting out.. .. …… ..shall not no mean technician it..Why was I helped?(なかなかのテクニシャンだな……じゃなくて、だ。どうして私を助けた?)」
 イェーチェが問う。
 響が振り返る。
 二人の間に、これまでとは違う異質な空気が流れた。
 温かさも、寒さも――ある種の冷気は感じる――何も感じることの出来ない空間の変質。と言うよりも、自分達の感覚が麻痺しているのだ。あの時と同じ空気が、二人を包み込む。
 初めてイェーチェ達が出会った時も、こうして殺意を振りまくでもない静かな睨み合いがあった。あの時は三つ巴で、もう一人、一番危険な奴が並んでいたが。
 しかし、三人目には二度と出会うことは無いだろう。奴は、あっちの世界の住人でなくなった二人が、出会おうとせずに出会える人間ではないのだ。
 長い沈黙の後、響が口を開く。その瞬間に、異質な空気が綺麗に霧散するのが分かった。
「...no crumb crusher it.. by drag ..old connection.. indefinitely. And, ..reason... You who can fly about ruins all over the world enter unlawfully a country and and the reason.(昔の因縁をいつまでも引き摺ってるほど、ガキじゃないってことさ。それに、理由があるんだろ? 世界中の遺跡を飛び回れるお前が、不法に入国しなけりゃいけねぇー、理由が)」
「…………」
 軽く言い放たれ、イェーチェは返す言葉が無い。
 それに、易々と自分の抱えている事情を読まれたのでは、助けに甘んじないわけにも行かない。このチャンスを逃せば、この異国の地で野垂れ死ぬか、警察に補導されて強制送還か。
「Hey, this fellow persuades from me later and solves it. It is also in prefectural police by which I am working with settling if it is good.(ほら、こいつは後で俺のほうから説得しとく。もし良かったら、俺の働いてる所轄の方にも話をつけといてやるよ)」
「Is it this time reemployment in the police if it is thought that it pulled the pin?
Yes, it survives there when it is possible to arrange it.
Though it survives still when there is a place where it can surpass wind and rain if possible.
(仕事を辞めたと思ったら、今度は警察に再就職か? うん、そこまで手回ししてもらえると助かる。出来れば、風雨を凌げる場所があると尚助かるんだが)」
 無理を承知の上で、何気に注文を追加する。
「Okka. It is a little too large for live alone room. If it is about one room, it divides.(オッケー。一人暮らしをするには少し大き過ぎる部屋だ。一部屋ぐらいなら分けてやるよ)」
 二つ返事でオーダーを受け取ってくれた。
 こうして、二年近くに及ぶイェーチェの居候生活は始まった。日本での生活も、思ったより悪くは無い。
(響には、感謝してもし切れないな……)
 そう、イェーチェは心の中で小さく呟いた。



(……ッ!?)
 すると、呟き終えるかどうかの内に、突然、景色が切り替わる。
 薄い暗闇の中で、数台の液晶モニターが光を放つ。響に貸し与えてもらった部屋で、パソコンをいじるイェーチェの姿があった。
「響には世話になりっぱなしだし、アルバイトでも始めるか?」
 響に買い与えてもらったパソコンの前に座り、何をするでもなく独り言を呟く。傍目から見ればパソコンしか友達のいない、寂しい引き篭もり君だろう。
 しかし、確かこの時に話していたのは、
『そうした方が良いでしょうね。ただ飯と言うのも、あまり体裁には良くありませんから』
 多少のアクセントこそあるが、機械的な声で答える人物――否、パソコン。
 イェーチェの間の前にあるパソコンこそ、後に『アンリ』の意識となる自律型OS――オペレーションシステムをインストールしたパソコンである。
 製作者であるイェーチェの言動に応え、様々な反応をネットワークの中から探し出す仕組みになっている。この頃はまだ、機械音声で喋ることと、自動でネットワーク検索が出来る程度のものだった。
(あれ? 確か、ここは……?)
 そう、『アンリ』が人型となる僅か数ヶ月ほど前の風景である。勿論、プログラムを組んだのはイェーチェ単身。
 専門家を十数人起用しても数年は掛かると思われるプログラムを、たった一人で、しかも一年と半年ほどで組み上げられるのが、彼女が天才と呼ばれる由縁であろう。
 とは言え、天才的な工学系の知識を除けばただの外国人の少女でしかないわけだ。
「やっぱりか? しかし、国籍を取ったばかりの外国人の小娘を雇ってくれるところなんて、あるのか?」
 一年半ほど経っても、完全に日本の風習に馴染めないイェーチェにとって、己で生活費を稼ぐというのは不安の何物でもない。
『分かりませんが、適当に求人情報を浚ってみます。暫くお待ちください』
 そう言って、パソコンこと『アンリ』が自動でネットワーク内の情報を検索し始める。
 既存の一般的な家庭用パソコンでは予想以上に負担を掛けるOSの作業に、パソコンの本体が仕切りなく放熱用のファンを回す。ジリジリというファンの回る音だけが、虚しく薄暗い部屋の中に響いていた。
 少しずつ出力される求人情報欄を眺めていて、嫌気が差してくる。あまりの多さと内容が低俗であることに、そろそろ検索を打ち切りたくなってきた頃合である。
 響が借りているアパートの一室の、呼び鈴が騒いだのは。
「……?」
 居候していた一年と数ヶ月の間に、客が来るのは珍しいことであった。
 仕事場である所轄の皆には住所を教えていないし、響はあまり近所付合いをしない性格だ。あるとすれば、隣に引っ越してきた誰かの挨拶ぐらいだろう。
 そう高を括って、イェーチェは部屋を出て玄関に向かう。
 まさか、奴がここへ来るなどとは、この時ばかりは予想さえしていなかった。
 (出るなッ!)
「はいはい、今出ます」
 考えなしに、玄関を開けた。夢を見ている側のイェーチェが、必死になって警鐘を鳴らしたにも関わらず。
 夢でありながら過去の記憶である世界を、今の意識が書き換えることは出来ない。出来たところで、それは脳が書き換えた偽りの情報でしかないのだろう。
 今では既に遅いこの行動が、全ての始まりでもあった。
「失礼ですが、ミス・イェーチェですね」
 殆ど確信に近い、確認を取る一言。
 声の主は、二メートルを超える体躯の大男だった。ヤクザかマフィアを思わせるような、スキンヘッドのサングラスを掛けた強面の男である。
 扉を開けた直ぐにそんな大男が立っていれば、さすがにイェーチェでも驚く。それが出入り口の両側に二人もいて、響にではなくイェーチェに用があるとくれば、尚更怪訝に思うだろう。
「…………」
 内心で驚くイェーチェの沈黙を肯定と取ったのか、大男がうなずいて横に退く。
 そして、その背後に隠れていた人物に、イェーチェは心臓が止まりそうになった。ただ、夢を見ている側の意識は、そいつの姿を見ることを拒む。
 目を閉じようにも、夢を見ている側には言動を操作することは出来ない。意識を何処かに逸らしたところで、フィルムの中の自分は目を見開いたままだ。
(起きろ! 起きろッ!)
 必死で意識を暴れさせ、視界のそいつの姿が映るより早く、目を覚ますことができた。



 その少女と出会ったのは、今から二年ほど前の話である。
「どうして、宗谷さんはイェーチェさんのことをそんなに気にかけるんですか?」
 というような、アンリの質問を受けたため、道中の暇潰しに答えることにした。
 今の資料係である元生活安全課生活安全部の婦警が、英語で喚きながら少女を生活安全課の部屋に引っ張り込んできたのが始まりだ。
 中学校から英語の勉強はしてきたが、英会話の経験が少なかった宗谷には彼女らが何を話しているのかは理解できない。ただ、同僚に大物取のように胸を張る婦警の姿があったのを覚えている。
 まあ、通りがかりに部屋を覗き込んだだけなので、詳しい事情は聞き及んでいない。そもそも、他部署の検挙事情などこちらの差し支えが無い範囲で報告してくれたなら、さほど気にすることでもないのだ。
「宗谷さん、らしいですね」
 アンリが苦笑を浮かべて話しに口を挟む。
 事が起こったのは、刑事課刑務部に出勤してまもなく。
 婦警が引っ張ってきた少女が、何らかの事情で逆上し、生活安全課の室内で暴れ始めたのである。どうやら親のことに触れたのが原因だったらしいが、詳しいことは聞くつもりもないし聞きたくもない。何せ、この事件は彼にとっても面倒この上ないものであったし、その後も続く面倒事の始まりでしかなかったのだから。
「それなのに、どうして?」
 アンリの疑問も然り、宗谷が他人の名前を覚え、他人のことに興味を持ったのは珍しいことでもある。
 イェーチェという名のおかしな少女が、宗谷の心の中で何等かの因子"ファクター"となったのも事実だった。
 暴れるイェーチェを諌めようと奮闘するも、手がつけられないのを悟った生活案全部の部長が、鉄火場に慣れた刑務部に応援を頼んできた。この時、白羽の矢が立ったのが、二度目の相方を辞めさせたことで説教を受ける宗谷だったわけだが。
「女子供には手をあげない響さんと、県警に勤め始めの友哉は逃げやがった。仕方なく俺がイェーチェを取り押さえなくちゃならなくなったわけだ」
「どうやって取り押さえたんですか? あの身軽なイェーチェさんを、力技で押さえ込めるとは思いませんが」
「いや、そんなことも無い。あの時は、部屋から逃げようとするところで、扉を開けた瞬間に出会い頭の衝突だ。俺にぶつかって転んだところを、首根っこフン捕まえて、バシンとな」
 笑いながら張り手の真似をすると、アンリが驚いたような顔をする。
「そんなに驚くな。俺が、ガキだからって容赦する人間だと思ってたのか? でも、今考えてみたら、あのことを恨んでるのかね」
「イェーチェさんが、宗谷さんをからかって遊ぶ理由ですか? たぶん、違うと思いますよ……」
 アンリの躊躇いがちな否定に、宗谷が視線だけを助手席に向ける。
「イェーチェさんは、いつまでも昔のことを引き摺る人じゃありません。ただ、宗谷さんに関われることが、あなたと一緒にいることが、嬉しいからじゃないでしょうか。本当は、寂しがり屋で意地っ張りな人なんです、イェーチェさんは」
 そう言われてみると、確かにイェーチェは他人との交わりを求めている。
 イェーチェが孤児であることを知らない宗谷にも、彼女が孤独を嫌っているように感じ取れた。誰かをからかって遊ぶのも、退屈なのが嫌いなのも、すべてが孤独から逃れるための言い訳なのではないだろうか。
「もしそうなら、俺達が救ってやらなくちゃな」
「はい。あ、見えてきましたよ」
 返事に続き、アンリが車窓から海の彼方を指差す。
 出鱈目に走り回り、一夜近くをかけて見つけた海上の要塞だ。アンリがナビゲーションをしてくれなければ、真逆の大阪湾のほうまで出ていたかもしれない。
 二人の乗るセダンは海岸沿いの下道を通り、ポツンと浮かぶ城塞の駐車場に入る。
「しかし、本当にここで良いのかね? 秘密結社のパーティーなら、東京とかもっと良い場所があるだろ」
「秘密結社って……。あながち間違えではありませんけど、発想が子供ですね」
「あ〜、こんな季節にクルージングとは、また酔狂な金持ちもいたもんだねぇ〜」
 アンリの見事な突っ込みを聞き流し、宗谷は海に浮かぶ一隻の船を眺める。
 適当に、心当たりのある海のパーティー会場を探したわけだが、二人にさえそこにイェーチェがいるのかどうかわからないのである。
「こちとら県警の警部補だ。手帳を見せて、名簿を確認すればいるかいないかはわかる。片っ端から探せば、県外でなけりゃ見つかるさ」
 宗谷のらしからぬ楽観的な発想に、アンリが呆れたようにため息をつく。
 アンリがネットワーク上から検索した上で、県内で最近オープンしたパーティー等の可能なホテルはそこぐらいだった。そして、なまじイェーチェがいたとしても、安易に入り込めるようなところではないことぐらい、重々に承知している。
 それでも、
「連れ戻さなくちゃいけないんだよな」
 宗谷の台詞に、アンリがうつむく。
「なんと言うか、無言の誓いみたいな感じで、お互いが助け合うことを約束してるみたいな」
 続く言葉は、真意を知らぬ男が抱えた爆弾。
 彼女の体の震えは、真意に気づけぬ悲しき思い。
 一人の孤独な少女の願いを無碍にするほど、男は甲斐性無しで、女は鈍感だった。
「……少し、羨ましいです。宗谷さんにそこまで想われているイェーチェさんが、なぜかわかりませんけど、羨ましいです」
 顔を上げ、アンリが言う。
 しかし、男は聞こえていなかったのか、少女の待つ魔城へと足を踏み入れていた。
 二人は長い長い、紅い絨毯の敷き詰められた廊下を歩む。広いホールからエレベーターで地下のパーティー会場に降り、受付の前までたどり着く。
 フッとそこで、違和感に気付く。
「おかしいな」
「おかしいですね」
 二人が眉を顰めて周囲を見渡す。
 パーティー会場となる部屋の扉の前に、受付の机が寂しく置かれていた。ただ、置かれているだけだった。
 受付が誰もいないのだ。すでにパーティーが始まり、受付もパーティーの裏方に回っているのかもしれない。いや、それにしてもおかしい。
「静かだな」
「静か過ぎますね」
 また、二人が同じ意見を述べる。
 パーティーがあるにしては、まったく部屋から喧騒が聞こえてこない。さまざまな可能性を懸案してみたが、やはり違和感が拭い去れない。
 刑事としての勘が、踏み込むことを急かし、躊躇わせる。
 矛盾した感情の二者択一を迫られ、宗谷は大きな扉の前で二の足を踏む。まるで勇者が、魔王の間に足を踏み入れようとしているかのような、ある種のファンタジックな幻想を抱かせる。
 だが、勇者は、頼れる仲間達に導かれ、最後の戦いへと赴くのである。
「行きましょう。何があっても、運命を切り開くのは私達自身です」
 前に踏み出したアンリが、手を伸ばしてくる。その手を掴み、宗谷は扉を押した。
 らしくないほど、自分がナーバスになっていたのだと気付かされる。どうして、彼女の手は、こんなにも温かいのだろうか。手を伝って勇気を与えてくれる優しい温もりに、小さく苦笑を漏らした。
 大きな扉は思ったよりも軽く開いて、強化ガラスに映る海底の光が幻想的な空間を作り出す。多くの視線が交わり、まるで二人が今日の主役であるかのようなざわめきが室内を木霊する。
 そして、少女の驚愕が二人の名前を唱えた。
「宗谷……。アンリ……。どうして、ここに?」



 電気ショックを送られたかのように跳ね起きると、目の前にあった机に頭をぶつけそうになる。ギリギリのところで踏み止まり、肩で息をしながら疲弊した声音で呟いた。
「……はぁ、はぁ、はぁ。なんで、こんな夢を……?」
 問うようにした呟きは、孤立した空間を虚しく反響する。答えを返してくれる者は、誰もいない。
 酷く汗をかいている。鼻頭から数センチと離れていない机に滴る汗からは、その物の臭気とは別の臭いが漂う。
 どうにか呼吸を整えたところで、イェーチェは顔を机から離して周りを眺める。
 薄暗い、鈍いオレンジ色の明かりだけが周囲を照らす、洞穴上の空間を移動する乗り物の中だった。車窓から見える景色と、ガラス越しに響く轟々と唸る風の音で、トンネルを通り抜ける車両だと分かった。
 立ち上がることも出来そうな上、乗用車よりも奥行きのある大きな車。乱雑に散らかった据え置きの机と、机を囲むように並べられた黒革貼りの椅子"ソファー"。後方へ過ぎてゆく景色がはっきりと視認できることから、進行方向に背を向けているのだろう。
 十八歳の少女が一人で乗るには些か広すぎる、高級車"リムジン"の中だということまで思い出せた。
「そう言えば、パーティーに出席するつもりで……ッ!?」
 口にして現状と思考のギャップを修正しようとしたところで、机の向かいで蠢く人影に息を呑む。
 自分以外に、誰かが乗っていただろうか。いや、進行方向に背を向けている今、運転手さえイェーチェの目には映らないはずなのだ。
 なのに、何者かが乗り込んでいる。それどころか、今までイェーチェの寝顔を存分に観察していたのである。
 驚いている間に、高級車はトンネルを抜けて外界の明かりを車内に取り入れる。まるで乾いた砂が水を吸い込むかのように、車内を朝日と言う水で明るく満たす。高級車が走る海岸沿いの道が、水平線の彼方から顔を出す日の出に照らされる。
「これは……夢か?」
 目に映った光景を見て、対象の無い問いを口にする。狐につままれると言うのは、こういったことを言うのか。
「何を言っているんじゃ。昨日の夕方に出て、到着まで十分に寝たと思うが。まだ、眠り足りないのかね?」
 対象の無いはずの問いに、正面に座る人物が答えを返す。
 禿頭の、金属で出来た杖に前かがみでもたれかかるように座る、七、八十の老人である。
 孤児だったイェーチェの若き才能を見込み、養子として引き取ってくれた養父、オッド=ワイルズマンだ。父親と呼ぶには些か年の過ぎた老人で、イェーチェは彼のことをこう呼ぶ。
「……オールド・ワイルズマン。あぁ、そうか……」
 引き取られた時から、その呼び方は全く変わらない。
 最初の頃は、「お父さん」などと呼ぶのが気恥ずかしかっただけの話だが、今では別の理由がある。
 汗からアセトアルデヒドの成分臭がするほどにお酒を飲んで、飲むどころか呑まれるまで飲み慣れないものを口にした代償が、この倦怠感だ。パーティー会場で待っていれば良いものを、リムジンで迎えに来て住宅街を雑然とさせた。そんな、この男の常識外れた行動と、老人の存在を忘れたいがための馬鹿飲みで、未だにアルコールが意識を混濁させている。
「パーティーが昼からでよかった。ホテルに着いたら汗を流しなさい。宴の主賓がそんなお酒臭くては、折角の祝いの席が台無しだ」
 ワイルズマンが冗談じみた口調で言う。
 イェーチェが招かれたパーティー。十八の少女が主賓となる、次世代産業の行き先を決めたことを祝うパーティーだ。
(何を、そんな馬鹿なことを……。お前らは、私のプログラムを私利私欲のために使いたいだけだろ。誰が、戦争なんかのために、アンリを使わせるものか)
 椅子に背もたれたまま、心の中で離反の意思を示す。そう、今日のパーティーで、全てを台無しにしてやるつもりだった。
 仕事を探していたイェーチェにささやかな生活費を与えてくれた恩も、新型のOSの特許で得たビリオン級の財産も全て、海の藻屑として消し去ってやろう。
「さあ、会場が見えてきた」
 車窓から覗く海辺のパーティー会場を前に、イェーチェが内心でほくそ笑む。
 地上に露出したお城のような白い外壁の建物は氷山の一角にしか過ぎず、その地下――と言うよりも海の下――にパーティーの会場がある。彼女の十八年の人生が、始まりにして終わる場所にしては十二分に相応しい。
(こんなところからですまない。響、宗谷、アンリにリン、それから多くの皆。今までありがとう)
 無神論者である少女が、今になって初めて胸の前で十字を切った瞬間だった。
 そして、一台の高級車が海底のパーティー会場へと到着する。海底ホテルと銘を打っているだけの豪勢さが、煌びやかに少女を出迎えてくれた。
「部屋は、っと。ここか」
 いつまでもアセトアルデヒド臭を漂わせているわけにもいかず、イェーチェはそそくさと用意された部屋へと入ってゆく。
 その日は、明日のパーティーのためにシャワーを浴び、夜の帳が落ちると同時に眠りに付く。
 何も起こらない、もしかしたら、彼女達に訪れる嵐を予感したかのような、静けさだけが魔城を包み込むのであった。



 こんなことをすると、昔の自分を思い出す。
 昔といっても、まだ引退してから四、五年ぐらいしか経っていない。それでも、あの頃の仕事と今を比べれば、現実よりも長い歳月を重ねてきたように錯覚するのだ。
 しかし、どれほどの歳月を重ねようとも、人間には変えられぬものが多く存在する。
 性格。
 思想。
 主義。
 そして、過去。
 性格、それはすべてにおいて人間の積み重ねによって完成するもの。ならば、今昔の差異など大した違いなのない。
 思想、それは世界をどの位置から見るかによって変わる考え方の違い。故に、基となる考え方に異なりは生じないのだ。
 主義、それは何のために何をするかを決める人間の芯。だから、折れ曲がろうとも歪に歪もうともそれが人間である。
 過去、それは言うまでもなく人に変えられる存在にあらず。言わば、人為を超越した時と空間の決定事項であろう。
 名前を変えようと、己の生き方を変えようと、そこにあるすべては変えられぬものの上に成り立つ。
 明 響矢(あかり きょうや)と名乗っていた存在は今はなく、庵明 響という名の自分があるように。
 裏の社会で様々な仕事をこなしていたのが、今では警察として国の安全を守っているように。
 彼が今、こうしてここにいるのも、変えられぬものが己の中にあるからである。
「やっぱり、俺にはこうした仕事の方が向いてるのかね?」
 響が誰ともなく、問いかける。
 返答をよこすものはおらず、悠々と泳ぐ魚達だけが男の独白を聞く。
 ガラス越しに見られる海の世界は、昔話に出てくる竜宮城にも似た幻想を抱かせる。実際に竜宮城へ行ったわけではないが、鯛やヒラメの舞い踊り、そして目の前の晩酌、極めつけには乙姫様まで現れる。
 響がいるのは、海辺に建つ海底のパーティー会場だ。
 喧騒から離れたキャットウォークで眼下を眺め、響は周囲の状況を把握する。綺麗なドレスに着飾ったご令嬢が、どこやらの企業の社長様が、秘書にボディーガード、始末の悪い事に奴らまで来ている。
 ただし、舞い踊る鯛やヒラメに興味はない。晩酌も、怪しまれぬ程度に口へ運んで浦島太郎の影武者を勤めている。
 今回の仕事としては、乙姫様の身を守ることと、本物の浦島太郎を無事に陸へ戻してやることだった。
 パーティーが始まってかれこれ三十分程、そろそろオープニングセレモニーが終了して今回の主題に移る頃合だろう。扉が開き、乙姫様のご入場である。
「馬子にも衣装とは良く言ったもんだな」
 キャットウォークから乙姫様を眺めつつ、響は苦笑混じりに呟く。
 髪の毛をオールバックにセットして、タキシードを着込んだ自分も人のことが言えぬというのに、彼女の姿には年甲斐もなく驚かされる。
 普段のゴスロリ調の服装が仇となっているのか、決して不細工ではない彼女の本質を出し切れないでいる。後五年も早く生まれていれば、響が口説いていたかもしれない。
 無造作に邪魔にならないように纏めているだけの金髪を下ろし、地味過ぎず派手過ぎない純白のパーティードレスに身を包む少女、イェーチェ=ワイルズマンのご登場である。
 幻想的な光を浴びたイェーチェは、まるでこの世の人ではないかのような美しさを醸し出していた。それが初めて見た格好だからであっても、今の彼女は天使と称すに相応しい。ただ、本人は着慣れないドレスの所為で表情をしかめている。
『それでは、今日の主賓がご到着になられました』
 パーティーの司会者がイェーチェの到着を告げる。
 それを受けて会場に散らばっていた奴らが臨戦態勢に入った。響も、奴らから乙姫様を守るために階下へと降りようとする。
 しかしまた、杜撰な潜入捜査は見たことがない。いくら日本の警察が潜入というものに慣れていなくても、一般人さえ気を張るような殺気を振り撒いて着飾るのは最低である。アメリカで会った潜入捜査官の方が、まだましな潜入の仕方をしていた。
「バレバレだっちゅーの。あれじゃ、警察ですって言ってるみたいなもんだろ」
 いちいちイヤホンに手を遣る仕草や、小声で喋っているつもりでも丸聞こえな応答、敵に自分達の存在を気づかせるようなものだ。
 だが、響の感想を他所に、パーティーは何事もなく進んでゆく。
 観客達の拍手を受け、イェーチェが壇上に上がった。彼女がこれからどう動くかによって、こちらの動きも変わってくる重大な一瞬。
『それでは、今パーティーの主賓であるイェーチェ=ワイルズマン様に、一言挨拶をお願いいたしましょう』
 司会者が壇上を降りて、マイクの前に立ったイェーチェがライトアップされる。
 その姿を少し離れた位置から見守る初老の男は、目を細め、死期を悟ったかのような安らかな表情で少女を見つめる。養女であるにも関わらず、少女の門出を祝うかのように。まさか、その期待が裏切られるとも知らず。
「……お忙しい中、集まって頂いた皆様に重大な発表があります」
 数瞬を置いてイェーチェがマイクに語りかけた。
 パーティー会場を包み込む静寂、平和ボケした日本人には分からぬ危惧された未来、その始まりを告げようとしている少女に多くの視線が集まる。沈黙の中でも、一部を除く彼らの期待が高まってゆくのが分かる。
 しかし、少女は言うであろう。ケースに収まった僅か数ミリ、直径十数センチのディスクを手に、
「このOSは、ここで破棄する。お前らなんかに、アンリの魂はくれてやらん」
 その一言で、沈黙が破られざわめきへと変わる。
『いきなりのブラックなジョークで、皆さんを驚かされるとは……。さすが法螺吹き名人と言われたMr.ワイルズマンの娘さんだ』
 司会者が騒ぎを収めようとするが、少女は意も介さずに言葉を続ける。
「冗談や酔狂で、お前らに戦争の玩具をくれてやるほど私は天邪鬼じゃない。たった数ミリしかないディスクで、どれだけの人が死ぬと思う? 私が書き綴った、歴史の一片でしかない文字の羅列で、いったい幾らのお金が動く? お前らに、アンリの……」
「そこまでだ、Ms.イェーチェ。そのディスクを、こちらに渡してもらおう。おっと、日本の警察の皆さんも動かないでもらおう」
 イェーチェの真摯な演説を打ち切ったのは、老人の無碍な脅迫だった。拳銃を片手に、オッドがイェーチェへと手を差し出している。人質をとられている以上、警察達も無闇に動くことができない。集まった観客達も、いったい何が起こっているのか、パーティーとしての余興なのか、まったく判断が付かずに戸惑っている。
 オッドは指を今にも引き金を引きかねないほど震わし、怒りとも哀愁ともつかぬ表情でイェーチェを睨む。
 対してイェーチェは、無情で冷ややかな視線をオッドに向けるのだった。
「私は君を、盟友だと思っていた。盟約を結び共に世界の未来を変えてゆける、友だと思っていた……。なのに、君はここで私を裏切るのかね?」
 オッドが問う。
 少女の冷たい表情が、徐々に笑みへと変わってゆく。養父を嘲る笑みに。
「あんたは間違ってるんだよ。あんたと私が結んだのは、盟約じゃない。天使としての私とではなく、悪魔としての私と結んだ、契約だ!」
 イェーチェの怒鳴り声がマイクへ集まり、ハウリングを起こして甲高い不快な音が会場に流れた。
 それでオッドは気が緩んだのか、一発の銃声が会場内を木霊した。それが一気に会場の緊迫感を破り、喧騒と混乱が巻き起こる。
 が、それらは再び響く銃声にて収められた。
「静かにしろ! 誰も動くな。さあ、早くディスクを寄越すんだ」
 オッドがもう一度、イェーチェに手を差し出す。
 それを眺めていた響は、現状など気にせずに小首をかしげる。
 先ほど銃を撃ってしまったのは事故で、二度目は騒ぎを収めるためだ。一発目は運よく横に逸れ、マイクを直撃しただけで済んだ。
「当てちまえば、あっさりとディスクを奪えるはずだ」
 その疑問を、近くにいた潜入捜査官が口にしてくれる。しかも、そいつはマシナリープライセス社で出会った警視庁のインテリ系野郎だ。熊谷とか言う奴も近くにいる。
 まあ、マシナリープライセス社の抱える陰謀を追っている警視庁が、会社の株主であるオッドの存在に気づかないわけがない。そして、イェーチェが関わっていることも、既知の範囲内だ。
 首謀者であるオッドは、この通り人質までとってしまい警察の手から逃げられないだろう。
「イェーチェは、情状酌量が付くかな? まあ、向こうがなんと言おうと、あいつを豚箱に送らせるわけにはいかんがな」
 熊谷やインテリに聞こえるぐらいの声で響が言う。
「どこかで見たと思えば、やはり明響矢か。裏の社会で、多くの犯罪者を狩り、守ってきた天邪鬼な男だ」
「その通りだよ。どこで俺のことを知ったのか……知られたからには、生かしちゃ置けん、なんてな」
 響の冗談じみた台詞にも、熊谷は厳つい表情を変えない。
 熊谷の言うとおり、確かに響は――明響矢という男は、壇上の少女よりも天邪鬼な男である。お金を積まれれば、相手が犯罪者だろうが守る、ただの一般人でさえ殺す。相手が美人なら、もちろん口説く。
「けどよ、俺なんかよりも、もっと危ない奴がこの世には五万といるんだぜ。警察に転職しちまった俺を、今更捕まえようなんて思ってるのか?」
「漆黒の狐、狂う歯車"マッド・ギア"、確かに、お前なんかよりも危険な化け物は世界にいる。だが、それを一介の刑事に捕まえられるとは思わん。同じく、お前もな」
「潔が良い奴だ。五体満足に定年退職したいなら、下手に関わらない方が良い。まあ、世の中にはそれでも関わっちまうバカがいるけどな」
 響が苦笑を浮かべたその時、パーティー会場の扉が開き、そのバカ達が入ってくる。
 こんな状況にも関わらず、丸腰で、無計画に、それでも堂々と。
 扉の開く音に会場の全員の視線が二人に向かい、現れた意外な人物にイェーチェが目を丸くする。
「宗谷……? アンリ……? どうしてここにッ?」
 響においてもそうだが、彼女は、誰かが自分を助けに来てくれると思ってはいなかったのだ。
 自分ひとりで全て片を付けようとしてしまう辺りは、考えなしに突っ込んできた二人よりもバカではないだろうか。
「どうしてって……あぁ〜、クドクドと説明するのは面倒だから、これで終わりにしよう」
 そう言って、宗谷はズカズカと壇上へ向かって歩いてゆく。
 オッドが銃口を向けながら喚いているというのに、宗谷は眼中に入っていないかのように歩みを止めない。その様子を立ち止まって見守っているアンリの気心が知れる。
 そして宗谷はたどり着く。壇上に立つ、孤独だと思い込むバカな少女の下に。目を白黒とさせる観客やオッドのことなどまったく気にも止めず、宗谷は少女に手を差し出した。
 決して優しくはない、それでも意味を持たぬ説教より、少女の心には響いたであろう。
 パシッ、という小気味の良い音を立てて、一発の張り手がイェーチェの頬を打つ。誰もが唖然と、特にアンリは水槽の金魚の如く口の開閉を繰り返す。
「お前が何をしたかは知らん。だから、こいつで全部チャラだ」
 なんとも傲慢な、張り手ひとつで全てを終わらせようとする、宗谷の一言。
 しかし、殴られたイェーチェは怒りも泣きもしない。不意を突かれた勢いで尻餅をついたまま、頬を押さえながら、ただ唇を吊り上げる。
「あの時と同じだな。初めて宗ちゃんと出会った時も、一発食らわせてからそう言った。あの時から、私は宗ちゃんを信頼してる。天使としての私が、信頼してるから……」
「あぁ、言ったな。クドクドと説教するつもりは、ないからな。ちなみに、俺の中のお前は、いつまで経ってもも小生意気な悪魔だよ。それはさて置き、こちらのお爺ちゃんは誰か、説明してくれるか?」
 イェーチェの罪の償いを終わらせ、やっとのことでオッドに視線を向ける宗谷。
 そこで老人は、ディスクを奪うことを諦めたのか、杖なしでは歩けぬような足腰で転びそうになりながら壇上を逃げ出す。逃げた先は、そう、一つしかない出入り口の前に立つアンリの方向だった。
「来るなッ! 来たら、この女を打つぞ!」
 アンリに銃口を向け、オッドが喚く。
「ふむ。これは見ものね」
 その様子をどこから眺めていたのか、今まで存在すら気づかなかったその女性が、事実他人事のように呟く。
「麗華、どうしてお前がここにいるのか、尋ねていいか?」
「何ですか、その礼儀のへったくれもない聞き方は。既に警視庁捜査一課に配属された私が、ここにいてはいけないのですか?」
 そいつは初耳だ。そう言えば、宗谷の相方を解約されてから姿を見なくなったと思えば、こんなところで仕事をしていたとは。
 どうせ、父親のコネクションで警視庁に移ったのだろう。
「いや、何でも良い。それで、何が見ものなんだ?」
「……分かりませんか? あの無情男とは、響警部の方が付き合いは長いと思いますけど。無情男が、人質を取られたぐらいで二の足を踏むような奴だと、思っておいでで?」
 なにやら妙に挑発的な物言いだったが、的を射った指摘に納得してしまう。
 確かに、宗谷は人質を取られたぐらいでは足を止めない。アンリの頭が吹き飛ぼうが、この場の全員を皆殺しにしようが、宗谷はオッドを捕まえるだろう。
 と、宗谷の性格を知る誰もが予測した。人質に取られたアンリでさえ、宗谷の性格を理解した上で、頭を吹き飛ばされる覚悟を決める。しかし、宗谷はその予測を完全に裏切る行動に出る。
「分かった。お前には何もしないから、そいつの命は助けてくれ」
『…………』
 まったく当たり前の、大事なものを人質に取られた人間がとる行動に、響や麗華、イェーチェさえ口を開くことができなくなる。
「分かった。逃げ切れたら、無事にこの女を解放しよう」
 オッドはそれで逃げ切れると確信したらしく、アンリに銃口を押し付けながら会場を逃げ出した。
 が、そうはさせるかと、イェーチェが舞台を飛び降りてオッドの逃げた出入り口へと走る。
「やめておけ! 追うだけ無駄だ」
 イェーチェの背中に宗谷が声を投げかける。それでも留まろうとしないイェーチェ。
「お前だけは信じていた! 絶対に、私の助けになってくれると信じていたのに、お前はそれを裏切った! たった今まで、信用してたのに……!」
 留まる代わりにイェーチェは、冷たい叱責を、裏切られたことへの怒りを吐き出す。
 その叱責に宗谷はしばしの逡巡を置き、近くにあったテーブルに向かう。なぜかワインの瓶を手に取って、イェーチェのいる出入り口に向かって振りかぶる。
「それは……」
 そして、言葉半端にワインの瓶をイェーチェに向かって投げつけた。飛来する瓶を横目に捉えたイェーチェは、驚きに目を見開きながら咄嗟に伏せる。
 周りにいたパーティーの参加者達はわけの分からない顔をするが、響には宗谷の暴挙の理由が理解できていた。
 ガラスの砕ける音が会場内を小さく木霊する。
「な、にを……? お前、まさか……」
 残念ながら、イェーチェのそのまさかは間違っている。宗谷がオッドの仲間なら、わざわざイェーチェを説教しになど来ないだろう。
 もう少し、ガラスとワインの飛び散った廊下に出てみれば分かる。イェーチェが向かおうとしていた先に、そいつが立ちはだかっていることに。
「そいつがいるからだよ!」
 いつの間にか握っていたワイングラスを、もう一度、廊下に――否、そいつに向かって投げつけた。作業員用のツナギに身を包んだ、中肉中背の男に向かって。
 男は飛来するグラスをスウェーバックで軽く避けると、嘲笑に似た笑みを浮かべて宗谷を見つめる。
「病院では取り逃がしたが、今度は逃げる気なんざなさそうだな」
 男と宗谷にどんな因縁があるのか知らないが、たぶん、大上の命を狙った輩なのであろう。
「何者だ……? え、いや、そんなはずは……ッ?」
 病院の件が起こった当日にいなかったイェーチェは、ツナギの男を凝視する。と同時に、驚愕の声を上げる。響や宗谷も、目の前の光景に訝しげな表情を浮かべた。
 当たり前だ、目の前に同じ姿の、同じ背格好の、同じ顔立ちの男が三人も並んだのでは、誰しもが三つ子か何かだと思うだろう。
 しかし、イェーチェの驚愕が語っている。そいつらが、ただの三つ子などではないことを。
「ありえない。私が聞いたのは、アンリ、一人だけのはずだ! なのに、何で三人も他のアンドロイドがいるッ?」
 イェーチェの疑問に答えたのは、他でもなく三人の内の一人だった。
「試作機が、たったの一台だと思っていたのか? 俺達がどれほどの性能か調べるのに、日本の警察機構程度で分かるとでも? まあ、製作者であるあなたには感謝しているよ。こんな、素晴しい力を与えてくれたことに、ね」
 言葉とは裏腹な、嘲笑。
 イェーチェはただ、拳を握り締めて、ワナワナと肩を震えさせているだけだ。
「追いかけるつもりかな? 追いかけたいなら、追いかければ良い。けれど、我々を倒してからだがね!」
 そう言って、男の一人がイェーチェに向かって襲い掛かる。
 イェーチェは、オリンピックの代表選手並みの身体能力を誇るアンドロイドの急襲に反応仕切れない。
 だが、その代わりに反応したのは、達観していた響だった。
「悪いが、男をお仕置きする趣味はないんだわ。ましてや、粗大ゴミに欲情する変態趣味はまったく、ない」
 常人ならば反応仕切れないタイミングで、常人には詰められない距離を、常人とは思えない速度で移動する。しかも、アンドロイドの繰り出した拳を受け流し、腹部にカウンターを打ち込み、軽口をたたけるほどに、速く。
「さすが、裏社会で何度も要人を守り、暗殺者を始末してきた男。波紋の奇術師、だ」
 文字通り、アッと言う間の出来事に、熊谷が感嘆の声を漏らす。
 しかし、カウンターを食らったアンドロイドはまったくダメージを受けていないかのようにピンピンしている。
「反応できたことは褒めてやる。だが、この程度の拳が俺に通用すると、で、も……」
 最後まで言い切るかどうかのうちに、カウンターの効果が出始めた。
「内剄衝破・弐の式『貫華(かんか)』」
 響が小さく呟く。
 それと同時に、アンドロイドの背部が爆発する。炎や爆炎が弾けるような爆発ではなく、空気の爆発である。
 小刻みな振動が背部全体に広がり、外へと漏れ出したような感じだ。
「な、にを、した……?」
 完全に人体を破壊されたアンドロイドが、途切れ途切れに問う。
「この世の物には、全てに流れがあるんだ。水の流れ、空気の流れ、振動や波紋といった、流れがな。それを、一点から全体へ流してやっただけの話だ。ただし、血液や細胞の流れに、大きな別の流れを合流させると、おかしな具合に順調な流れが壊れちまうんだ。
 普通の人間ならしばらく体調が崩れるぐらいだが、お前らみたいな機械なら、一度おかしくなった部品は人の手で直さなくちゃいけないだろ? だから、これでジ・エンド、だ」
 響の言葉が終わると、アンドロイドは膝を折って崩れ落ちる。
 残りの二体は、そこでやっと仲間が倒されたことを知って臨戦態勢に入る。
「イェーチェ、宗谷、グズグズせずに行け! こいつらは、俺が引き受けた」
「ありがとうございます。行くぞ、イェーチェ!」
「言われずともそのつもりだ。響、最後まで世話になる」
 響の掛け声に答え、イェーチェと宗谷が横を駆け抜けてゆく。
 のだが、相手もそうは問屋が卸さないのだ。
「追わせるものか!」
 一人が宗谷達の後を追おうとする。その先へ響きが回り込もうとするが、二人が走り去った先ではなく後ろへ跳ぶ。
 一発の銃弾が、響の行く手を遮ったのだ。
「おいおい、飛び武器なんて卑怯だろ。男なら、堂々と拳で語り合おうぜ」
 響だからこそ、銃弾に反応して上で軽口が叩けるのである。しかし、アンドロイドの持った拳銃に気を取られている内に、一人を行かせてしまった。
「大人しく裏社会で生きていればよかったものを、こんな得にもならないことに首を突っ込んで」
 アンドロイドが、響を揶揄する。
「お前らみたいな、機械には分からんだろうな。人間には、過去を捨ててでも、今を生きたいことがあるんだ」
「…………」
 響に言い返され、アンドロイドは訝しげに目を細めた。
 この世に生を受けたばかりのロボットには、響やイェーチェ達の生き方が理解できないのだろう。
 逃げること、歩き続けること、立ち止まること、そうした生き方を知らないアンドロイド達が、哀れでならなかった。
 だからこそ、響は決める。この哀れな生き方しかできなかった創造物に、全力でぶつかると。
「お前は良い経験をした。悔いるな、今しかない命を、誇りに思って散れ」
 響の、弔いの言葉。
 アンドロイドは、愚かにもその言葉の意図を解さず、銃口を響に向ける。
「ふざけるなッ!」
 怒声と同時に引き金が引かれ、銃弾が放たれる。
 銃弾と、響が交差する。



 繰り出される拳を、宗谷は腕全体を使って受け流す。
 しかし、ちゃんとした武術を習っていない宗谷には、その鋭く重い一撃を受け流し切るのは難しかった。腕が痺れ、掠めた肩に鈍痛が残る。
 生身の人間なら怯ませられる程度の打撃を入れることは出来ても、相手が相手では大したダメージにはならない。
 一撃を受け流しても、もう一本残った手が素早く伸びる。出来る限り腕を盾に、体で衝撃を殺すが、気づけば隙の出来た腹部にカウ・ローが滑り込む。
「グッ……」
 身体能力が違いすぎた。
 病院で蹴りを入れられた時のように、不意打ちでも食らわせられれば良いのに。と思いながらも、たったの数分で既に宗谷は焦燥しきっていた。
 頭が回らない。
 体が動かない。
 立って、相手の攻撃に耐え切るのが精一杯だ。いや、立っていることさえ根気の成せる偉業だった。
 もとから、努力や根性などというものが好きではなかった。無理なことは早々に諦め、出来る範囲で歩んできた人生。どうして、偶然にも合格してしまった職業で、これほどまでに苦労しなければならないのだろう。
 拳を振り上げようとするだけで、筋肉が軋みを上げる。数週間前にやった手の怪我が、痛み出す。動悸が激しく、今にも心臓が爆発しそうだ。
「この程度か? もっと、楽しませてくれよ!」
 正拳がアンドロイドに届く前に、振り上げられた爪先が顎にクリーンヒットする。脳が揺らされ、脳震盪を起こしたのかそのまま引き摺られるようにして倒れこむ。ちょうど、愛車の扉に背中をぶつけた。
 頭の中で鐘が鳴り響き、まったく視野が定まらない。分かるのは、口の中に広がる血の味だけだ。潮風に混じる海の匂いだけは、少し分かる。
 愛車にもたれかかりながら、視線を海底ホテルの入り口に向ける。
『しばらく時間を稼いでくれ』
 追いかけてきたアンドロイドに追いつかれ、片付けてからオッドを追おうと決めて直ぐ、イェーチェはそれだけを言い残して海底ホテルに戻ってしまった。いったい何をしているのか、イェーチェの姿は未だに見当たらない。
 アンドロイドは、宗谷が視線をはずしているにも関わらず、勝利を確信した映画の悪役のようにゴチャゴチャと軽口を叩いている。そこからは、お決まりのパターンだ。
 正義のヒーローか、ヒロインが乱入してきて、一気に形勢逆転となる。
「そんなに、上手くいくわけないか……」
 自分で考えておきながら、馬鹿馬鹿しくなって止めた。
 軽口を終え、アンドロイドが止めを刺そうと肉迫する。ヘビー級ボクサー並みのストレートを食らって、ここでお陀仏だ。
「そこまでだ。弱い者苛めは格好良くないぜ」
 諦めかけたその時だ、ヒロインが主人公を助けに来たのは。
 鋭く空気を裂くアンドロイドの腕が、何かに引っ張られるようにして軌道が逸れる。
 声の主は、まだ宗谷の目の前に姿を現していない。しかし、彼女はちゃんとそこにいた。
 拳の逸れた頭上を見上げ、ずっと後ろへと首を傾けてゆく。バカの何とかは高いところに上りたがる、とは良く言うが、彼女もそう言った類の人種なのだろうか。
「なんで、そんなところに……?」
「なんでって、喧嘩の準備をしに戻っただけだ」
 問いかける宗谷に、イェーチェはケシャリと窓の淵に立って答える。
 イェーチェは、自分の泊まっていた部屋の窓から身を乗り出している。そんなところから、果たして何をしたというのだろう。
「これは……」
 アンドロイドが自分の腕を動かし、腕を捕らえたものを解こうとしている。
 陽光を照り返す細い線が、色彩を取り戻してきた視界に映る。
 イェーチェの手元まで伸びる線。アンドロイドの腕から下がる円錐形の錘。
 たぶん、鎖分銅に似た類の武器なのだろう。
「今からそっちに行く。宗ちゃんの代わりに、私がリベンジマッチだ」
 イェーチェの威張り腐った台詞に、アンドロイドは掛かって来いと言わんばかりに口元を吊り上げた。
 行くとは良いつつも、イェーチェは窓から身を乗り出したままである。
「まさかとは思うが……おい、そんなことして大丈夫なのか!?」
 声を出すのも億劫だというのに、宗谷はイェーチェの取った行動に驚愕の声を上げる。
 純白のパーティードレスを翻し、少女は大空へと飛翔する。
 それはまるで、翼を広げた天使のように、白いセダンの上に舞い降りた。
 までは良かったのだが、どうやらドレスの裾が邪魔になったのか、イェーチェは裾を踏みつけて綺麗な着地を決められない。
「うわわわわわわっ!」
「バカ野郎!」
 間の抜けた悲鳴を上げながら転ぶイェーチェを、宗谷がギリギリのところで受け止める。
 さすがにグロッキーな宗谷ではイェーチェを綺麗に受け止められず、倒れこむようにしてどうにか彼女を守りきる。
 痛かったが、まだ戦えるイェーチェに怪我をされても困る。ただ、さほど重くないとはいえ、いつまで体の上に乗っかっているつもりだろうか。
「大丈夫か? そろそろ、どいてもらわないと痛いんだが」
 宗谷の体をベッドか何かだと思っているように、イェーチェは体を寝そべらせたまま動かない。
 声をかけてから数秒、イェーチェが我に返ったかのように体を起こす。
「ご、ごめんなさい……」
 慌てて立ち上がると、いつもの彼女らしくない口調で謝罪してくる。
「お前らみたいな、緊張感のない奴と戦っている自分が馬鹿らしい。そろそろ、こちらから行ってもいいだろうか?」
 アンドロイドも、なにやら申し訳なさそうに慇懃な態度で開戦を問う。イェーチェが勢い良く首を縦に振り、どうにか開戦の準備が整った。
 アンドロイドが拳を構える中、イェーチェが顔を振り向かせて余所見をする。
「なあ、宗谷。どうだ?」
 敵を前に余所見をしたにしては、意味の分からない問い。
「はぁ? 何のことか分からんが、あまり待ってくれそうにないぞ」
 宗谷は返す言葉がなく、前を向けというニュアンスを込めて言葉を返す。
「…………」
 その無簡素な返事を受けて、少女は不機嫌そうに頬を膨らませる。宗谷自身、沈黙で睨まれるのがこれほど怖いと思ったことはない。青筋が額に浮かんでいるのは、なぜなのだろう。
 アンドロイドが呆れてため息を吐いていた。
「敵の俺が口出しをする問題ではないのだろうが、あまり夢を見ないほうが良いぞ?」
「黙れ! もう行くぞ!」
「あぁ、いつでも来い。待ちくたびれたくらだ」
 二人の間で交わされたのはその数言だけだった。
 アンドロイドが肉迫する。少女が腕を振るう。
 イェーチェの細い五本の指、両手を合わせて十本の指に煌く指輪。そこから伸びる錘のついた糸。
 総計で十個の錘が、肉迫するアンドロイドを襲う。糸は己の意思を持つかのように、錘は少女の手足のように、自在な方向から飛び交う。ヒョウと呼ばれる暗器に似たもので、熟練した者にしか扱えない武器だ。武器の存在に気づかない者なら、飛来する円錐の錘で致命傷を食らう。のだが、一度手の内を見せてしまった以上は不意打ちも効かない。
 故に、十個という手数と、白兵戦に対するリーチの長さで勝負に出る。機械の肉体にどれほどの威力があるかは分からないが。
 意思を持った錘は自由に跳ね回り、どこから襲ってくるかも分からない凶器に変わる。
「くっ!」
「なぜ、お前らに痛覚を残したか知っているか?」
 苦悶に呻くアンドロイドに、イェーチェが問いかける。
 ロボットであるなら必要ではないはずの痛覚を、わざわざ残した理由。それだけでプログラムに負担をかけるだけなのに、不必要なものをつけたプログラマーとしての思惑。
「少しでも、アンリに人の痛みを知って欲しかったからだ。アンリだけじゃない、お前らのような作られた存在にも。自分で痛いってのがどんなものか分からなくちゃ、人を傷つけるってことがどれだけ痛いことなのか、分からないだろ?」
 人を傷つける痛みは、自分の痛み。そんなものは戯言でしかない。
 しかし、誰かを傷つけると言うことは、自分も傷つけられることを肯定しているのと同じだ。だから、イェーチェはアンリに、自分を傷つけさせることを否定させたかったのだろう。
「フザケルナッ! 痛みなんぞ、力で捻じ伏せられる。強ければ、自分は傷付かなくても済む!」
 イェーチェの戯言に、アンドロイドが怒鳴り散らす。
 そうだ、確かに痛みなんて慣れてしまえば気にしなくても良い。強者なら、向かい来る敵を排除できる。
 それでもだ、痛みに堪えようとする理由も、強者として敵に打ち勝とうとする理由も、機械であるこの男には分からないのだ。攻める手を止めたイェーチェも、そんな男を哀れに思ってか、憂いを秘めた瞳を細めて佇む。
「もう終わりにしよう。こんな、悲しいだけのダンスパーティーなんて……」
 イェーチェの宣言を、アンドロイドはただの嘲りと取ったのであろう。
「お前が死んで、なッ!」
 怒り任せに拳を振り上げてイェーチェに襲い掛かる。
 向かい来るアンドロイドを、イェーチェはあの晩に見せた見事な跳躍で飛び越えようとする。アンドロイドの背後に回り込みながら糸を首に巻きつけ、打撃が駄目ならば絞め落とすつもりだ。
 が、相手も対抗策を考えていないわけではなかった。対抗策と言っても、背後に回りこんだイェーチェを背後から羽交い絞めにしようとしているだけだが。大の男と、一般的な十八歳の少女の、落とし合いと言う図式になる。
「ちッ! どう考えても、分が悪いだろ。何か、ないのか?」
 宗谷は悪態を吐きながらもたれかかっていたセダンの中を物色する。
 体の疲れはどうにか取れたが、筋肉や関節が痛みを訴えて動けるほどの余裕はない。かと言って、整備マニュアルを投げつけたぐらいで怯むような相手でもない。
 何か、有効打になるような物はないものか。そう焦っていると、後部座席に置かれたとあるお土産が目に付く。
 イェーチェがアンリに持ってきた、なにやら曰く付のアイテムである。
「何なのか分からんが、変な呪いの音楽なんて流れないだろうな?」
 独りごちながら、一メートルほどの黒いバックを手に取る。
 そして、ジッパーを下げて中から出てきたものに目を丸くした。
「こ、いつは、ちょいと洒落にならないぜ……」
 やっと解けかけてきた謎が、再び振り出しに戻ってしまう。
 いったいどんな生活をしていれば、そんなものを買える人生を送れるのだろう。
 無機質に黒光りする巨大な銃。狙撃や狩猟に使われるものとはまったく用途が異なる、一般にエレファント銃とまで呼ばれる機関銃だ。
「ブラウニング90ねぇ……。あいつ、一回死ぬ目にあったほうが、世の中が平和になるんじゃないか?」
 などとぼやきつつも、二つ折りに改造された機関銃を組み立てる。
 名前ぐらいは知っていても、改造された機関銃の組み立て方や使い方なんてまったく知らない。せいぜい、拳銃を取り扱ったので手がいっぱいだ。
 それでも、悩んでいる暇はなかった。もう、どちらも落ちかねないギリギリの時間だ。
 機関銃本体を適当に組み立て、マガジンに付属の一連式の薬莢を打ち込み、宗谷に気づいていないアンドロイドに狙いを定める。
「当たっても怨むんじゃねぇーぜ」
 行き当たりばったりな追悼の言葉を残し、引き金を引く。
 痛みの取れきれない筋肉が震える。衝撃が骨格を伝い、拳銃など可愛らしいとも思えるような銃声が脳を揺さぶる。
「――ッ!」
 声にならなく苦痛にもがき苦しむ。
 ノートルダム大聖堂の大鐘の気持ちが良く分かる一日だった。
 もう二度と使えないであろう程に銃身が弾け、一本に連なった薬莢の束がマガジンから切り離されながら踊る。自分が暴発に巻き込まれなかったのが、人生最大の幸運なのではないだろうか。
「もう少し生き方考えたほうが良いな。不幸ばっかりの人生だぜ……」
 耳鳴りが続く中で呟き、銃弾がどこに命中したのかを確かめる。
 大当たりだ。銃弾は全て、アンドロイドの頭部を直撃して蜂の巣にしていた。
 イェーチェは無事。落ちるギリギリのところで意識を保ち、地面に膝をつきながら呼吸を整えている。
 それから直ぐに、銃声を聞きつけた警視庁の面々や響達がやってくる。
 その後、これまでのことが何事もなかったかのように事件は収縮してゆく。焦燥し切っていた宗谷とイェーチェが朦朧とした意識の中で見たのは、検問やらの指示に奔走する警視庁のインテリどもの姿だった。
「アンリ……見つけ出す。絶対に、助けてやるから……」
 脳に供給される酸素が十分でないと言うのに、イェーチェはふらつく体を起こそうとする。
「大丈夫だ、あいつは帰ってくるよ。だから、無茶はするな」
「どこにそんな根拠がある! 今でも、あいつは人質として怖い目に合っているかも知れないの――ッ」
 宗谷が留めようとするが、イェーチェは無理に怒鳴った所為で酸欠を起こして再び膝を折る。
 根拠なんてない。しかし、宗谷の勘がそう告げているのだ。
「今は、休め」
 倒れこむイェーチェを膝に抱き、宗谷も力尽きて目を閉じる。宗谷とイェーチェの微かな寝息が聞こえる頃、検問の配備などを終えた響がその姿を見つける。
「まるで、親子みたいだな」
 こんな状況にも関わらず、緊張感のない感想を漏らす響。
 そして、彼らの無情な日々は過ぎてゆくのであった。


 ――とあるフリーの記者の取材メモ――
 十一月二十三日 13:47時 某県某市の海底ホテルにて国際的なテロ事件が発生。
 同日14:21時に犯人逃亡によって事件は収束に向かう。犯人のオッド=ワイルズマン氏は県警の臨時警官を人質に逃亡。
 検問を張るがワイルズマン氏は捉まらず、既に国外逃亡の恐れあり。人質となった臨時警官も見つからず、安否の確認は不可能という現状。
 二日後、この事件はワイルズマン氏が単独で起こした強盗事件として扱われ、未解決のまま幕を閉じることとなる。
 ……の裏で何らかの確執が(一部損傷により未読)。



終章・帰るべき場所の始まり



 日が暮れた暗闇の中、月の明かりに照らされた、また別の幻想世界。
 耳朶を撫でる細波の音が心地よく、こんな状況にも関わらず彼女は夜空を眺めていた。まるで緊張していない、天体観測に来たかのような表情だ。
「綺麗ですね。こんな景色、初めて見ました。いえ、もしかしたら、この体になるまでにも何度か見たのかもしれません」
 ほとんど記憶に残っていない、コンピュータだった頃の自分。この体にインストールするために、一度全ての記憶を消去したらしい。
 自分の意識を作り上げた製作者よりも、その男は詳しく話してくれた。隣で同じように空を見上げ、黙祷を続ける男。
「……つかぬ事を聞くが、君はあの娘を恨んではいないのか?」
 隣に佇む男が、問いかけてくる。
「恨む? なぜ、そんなことを?」
 女性は問い返す。
 ここへ連れてこられるまでは、銃口を向けられていたので僅かに緊張していた。しかし、彼に撃つ気配は見当たらず、いつの間にか世間話に花を咲かせるまでになっていたのだ。
「そうだろ? なにせ、あの娘は、ただの物として、自分の孤独を紛らわすだけのために、君を生み出したのだ。いや、その孤独を与えてしまった私にも罪はあるのか……」
 たぶん、最初は男の言うとおりだったのだろう。
 しかし、今は違う。
 製作者の少女が物として生み出したのは正しいが、今では産みの親としての自覚をちゃんと持っている。それは、作られた自分と、作った少女にしか分からない、絆なのだと思う。親が子を愛すように、子が親を愛すように、その関係は変わらない。
「恨んでなんかいません。作ってくれたことを感謝こそすれ、恨むなんてできませんよ。こんな素晴しい世界を、見せてくれたのですから」
 少女が自分を見放したとしても、自分は少女を見放さない。
 鳥篭で可愛がられていたのを、外の世界に解き放ってくれたのだから。この大空へ飛び立っていこうとも、空のどこかで少女のことを思い出すだろう。
「君は、私とは違うのだね。あの娘を、自分を助ける物としか見ていなかった私よりも、あの娘を愛している」
「私には、そこが分かりません」
 女性が怒りとも悲しみともつかぬ声音で言う。
 それは予想にしか過ぎぬのだが、ここまでの出来事は全てが成り行きだったのではないか。言ってしまえば、無茶苦茶な台本の中に無理やり配役を放り込んだような、辻褄の合わない展開が多すぎる。
「もしあなたがあの人を利用しようとして、日本まで探しに来たのなら、なぜアメリカに連れて帰らなかったのですか? わざわざ、私を試作機として作る必要なんてなかったのではありませんか。新しいOSを兵器に利用することを知って、逃げ出した大上さんを殺そうとしたのも、あなたの差し金ですよね? 
 そこまでして、最後の最後でOSを奪わずに逃げたのでは、あなたの頑張りがまったく報われません。私の予測ですが、これまでの頑張りは全て成り行き任せて頑張ってしまったことなのではないですか? そう、偶然と人為的な何かが重なって起こった、事件なのではないでしょうか?」
「…………」
 女性の分析に、男は心底驚いた表情を表す。
 直ぐに嘲笑染みた顔にするが、既に正解を口にしてしまったようなものだ。馬鹿馬鹿しいと呟きながら踵を返し、細波の音色から遠退こうとする。
 ここは事件のあった海底ホテルから湾を渡った港だ。男が言うには、後三十分はここに留まらなくてはならない。それでも必死に誤魔化そうとする男に、女性は小さく笑みを零す。
「警察は車で逃げると思って検問を張っているのでしょうが、まさかクルーザーで海を渡るなんて考えもしなかったでしょうね。パーティーが始まる前から、逃げるつもりでいたかのような用意周到さです」
 逃げる男を追って、女性は意地の悪い微笑を浮かべながら追い詰めてゆく。
 夜空を映す暗闇の海から離れ、倉庫地帯の方へと歩いてゆく二つの影。男は沈黙を守り、女性は珍しく食い下がる。逃げる男を、しつこく、しつこく追い詰めてゆく。
 そのまま倉庫地帯へと足を踏み入れたところで男が不意に立ち止まり、女性の方は意表を突かれ危うくぶつかりそうになった。
「急にと……ッ!」
 文句を言おうとして、止めた。いや、言えなかった。
 もし男が立ち止まっていなければ、それの餌食になっていたのは女性だったからだ。
 風を切る音が目の前を通り過ぎ、不吉な生暖かい風が頬を掠める。それと同時に、男の体が前のめりに倒れた。
 アンリがぶつかったからではなく、それが男に当たったからだ。
「――ッ!」
 声にならない悲鳴。女性のものではなく、男のもの。
 断末魔に近い悲鳴を聞き、女性は自分達に向かって飛んできた風の正体に気づく。
 なぜ。
 どうして。
 どこから。
 銃弾なんてものが、飛んでくるのか。
「に、逃げろ……」
 男が、血泡を口に含みながらか細い声で言う。
 だが、女性は放たれた銃弾の恐怖に足が竦んで動けなかった。それもあるが、男を放って逃げることはできない。
「おい、当てるなって行っただろ。救護斑、早くしろ!」
 二の足を踏んでいると、どこからか人の声が聞こえてくる。
 倉庫地帯を抜けた先で、横一列に並び待ち構えていたいくつかの人影。たぶん、ずっと自分達が出てくるのを待ち伏せしていたのだろう。歩いてきた方向から足音が聞こえることを考えても、港に着いた時からこちらの動きは見張られていた。
 こうして捕まえられる瞬間を、周りを取り囲んで待っていたに違いない。
「安心しな、殺すつもりはないよ。こいつに当たったのも、ただの事故だ」
 先ほどの声の主が、ゆっくりと近づきながら言う。周りを取り囲む人影と同様に、防弾チョッキとフルフェイスの防護マスクを身につけている。
 声の調子と口調からして、女であることは分かる。
 何者なのか、などと考えていると、女が言葉を続ける。
「けど、あまり覚えているべきじゃない。ここであったことは、全部忘れたほうが良いよ」
 マスクでくぐもった、優しく諭すような言葉。月明かりに照らされた目元のガラスの向こうに、憂いを帯びた丸い瞳が映る。
「か、彼女に近づくな……。あの娘との、最初で最後に、なる約束だ。たとえ、悪魔の契約で、あっても、守らなくてはならないん、だ……」
 血溜りから身を起こし、男が隠し持っていた拳銃を女に向ける。
 女性は、疑念と恐怖の中で気づく。どうして男が自分を殺さず、あの少女から奪うものを奪わなかったのか。
 途切れ途切れの言葉に秘められた、想い。
「そうなんですね。あなたは、彼女を……」
「タイムリミットだ」
 女性の事実を成す言の葉は、女の無碍な一言によって打ち消される。
 腹部を襲う強烈な一撃で、女性の意識は一瞬にして途切れた。最後に聞き取れたのは、誰の言葉でもない、自分の声。
『緊急停止プログラム作動。前後の記憶が消去される可能性があります』



 棒状の蛍光灯が不規則に点滅する、無機質な三畳ほどの室内。真ん中を一枚のガラスで仕切られ、彼らは向い合う。
 ガラスの向こうに見えるのは、やや不機嫌そうな表情でパイプ椅子に座る少女だ。
 顔は前を向きながら、視線は前を見ようとしない。ガラスを挟んで向かい側にいる彼らに、不服を訴えようとしているかのように吊り上っている。
「っと、言うわけです」
 彼らが顔を合わせてから二分弱、黒いロングヘアーの女性が話しを終える。
 胸元に猫のイラストが入った灰色のTシャツに、ジーパンというラフな格好の女性。名前はアンリ。
 少女と同じようにパイプ椅子に腰掛け、少女とは裏腹に笑顔を浮かべている。
 アンリの隣には、長躯の男が呆れた表情で佇んでいる。男――宗谷は相変わらずの砂色のロングコートという姿だ。
「っと、言うわけです。じゃ、なぁ〜〜〜〜いっ!」
 話が終わってから数秒、やっと少女が喋った。
 無地の囚人服に身を包み、怒鳴ると同時に囚人服とは不似合いな金髪のツインテールが揺れる。
「そんなこと言われましても、覚えていないものは覚えていないのですから、仕方ありません」
「そうだぞ、仕方ないものは気にしても始まらないぜ」
 アンリの苦笑混じりの台詞に、宗谷が笑いを堪えてフォローを入れる。
 確かに、アンリはテロ事件――今では強盗未遂事件の人質になっていた頃の記憶がない。少女ことイェーチェも、それは十二分に理解しているつもりだ。
 問題は、人質になっていた間の経緯ではないのだ。ただ、事件が収縮してから二日経った今日の朝、なぜか県警のエントランスに毛布で包まれたアンリが寝こけていた。
「分かっている。ただ、あの男はどうなった? この二日の間、何があった? まったく、全然、一欠けらさえ覚えていないのか?」
 目を吊り上げて問いかけても、アンリは首を横に振るしかない。
 どれだけ尋問しても、立場としては逆であるはずなのだが、何も聞き出せないと悟ってイェーチェは椅子に腰掛ける。
「でも、これだけは覚えています」
 椅子に座ったイェーチェに、アンリが微笑みを浮かべて言う。
 イェーチェは、未だに機嫌の直らない不貞腐れた顔をアンリに向けた。
「…………」
「ただいま」
 幾ら怒っても、寂しがっても、悲しんでも、変わることのないアンリの姿。
「お帰り……」
 そして、どんなに変わることがなかろうとも、それを愛でることを忘れない少女の返事。この二日間続いた不機嫌な顔を恥ずかしそうに緩め、イェーチェは返す。
 たったの二日間の非日常ではあったものの、彼らにいつもの日常が帰ってくる。
「警視庁の意向を無視して事件に首を突っ込んだ宗谷さんと私、響さんは一ヶ月の謹慎処分。イェーチェさんは、強盗事件の被害者であり、事件に加担したことによって少年院に拘留」
 アンリの説明の通り、イェーチェは事件の後から少年院に入れられた。
 本来ならば裁判なり調書なりの手続きがあるのだが、現行犯でイェーチェ自身もあっさりと自白したこともあり、今のような結果となったのである。
「なぜ、私が半年も捕まらなくてはならない?」
「まあ、諦めろ。これでも、響さんが嘆願してくれた上での判決だ。出てきたら、なんかお祝いでもしてやるよ。お祝いと言えば、差し入れがあったんだっけ?」
 彼らに本当の日常が戻ってくるのは、もう少し後になりそうである。
「忘れるところでした。宗谷さんの友人がやっている喫茶店の、ケーキセットです。美味しいんですよ」
 それでも、彼らは歩き続ける。行く先に何が立ちはだかっても、辛い苦難が待ち受けていても、立ち止まることはない。自分達の手で、未来という目的地にたどり着くまでは。
「なあ、ひとつだけ教えてくれ。なんで、アンリが無事に帰ってくると分かったんだ?」
 謹慎中の宗谷達が取れる五分間の面会時間を終え、面会室を出て行こうとする彼にイェーチェが問いかける。
 宗谷は飄々とした顔を振り向かせ、しばし思案して答えた。
「別に、なんの根拠もない。強いて言うなら――」
 続く言葉に、イェーチェもアンリも、興味津々に耳を傾ける。
「――アンリは、俺のラストパートナーだから、な」
 ただ、それだけだった。
 けれど、それだけで良かった。何せ、彼らにとって、それ以上の模範解答は得られないからだ。



――ラスト・パートナー 完――
2008/05/14(Wed)17:34:38 公開 / 暴走翻訳機
■この作品の著作権は暴走翻訳機さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
前作、前々作と、立て続けに削除してしまったわけですが、今度こそがんばらせていただきます。
私、警察が自分の信念を貫いて暴れ回るのって大好きです。エディー・マーフィーのビバリーヒルズコップとか、織田祐二の踊る大走査線とか。勝手に言っちゃうけど、アクションシーンに定評のある私は、一度ぐらいはこうしたハチャメチャな物語を書いてみたいと思っていたので、ついついやっちゃいました。

長らく休止していたラストパートナーが戻ってまいりました。まあ、こちらの諸事情云々は捨て置き、再びよろしくお願いします。

コメディでもあり、アクションでもあり、ちょっとしたミステリもありの刑事物語。なんとなく前々作の延長みたいな感じですが、やることなすこと無茶苦茶な登場人物達を、生暖かい目で見守ってやってください。
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