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『涙の痕にキスをして。 第一話』 作者:紫 / 恋愛小説 未分類
全角2380.5文字
容量4761 bytes
原稿用紙約6.5枚
 腹が、減った。いや、こんな事を言うのは恥ずかしいけれど、本当に一日何も食べていないと腹の音が凄い。背中の荷物は嵩張らないよう小さくまとめたつもりだったがずしりと重く、自転車はパンク寸前なのに道はまだまだ続いてる。一体ここはどこだろう? 自転車を止めて僕は辺りを見回す。見回したって寂れた商店街と明かりが窓から細く漏れる和式の家しかない。誰に聞かれているわけでもないのに、小さくため息を漏らしてからハッとした。寂れた夜の町には恐ろしいほど物音が響く。ほら、現に今だって遠くのほうに見える車の排気音がここまで……。こんな夜中にどこに行くのかな、と町の明かりに照らされた田舎では珍しいど派手な真っ赤のボディーの車を見つめる。それにしても派手だな。…………ちょっと待て、道はこの道しかないのに車はスピードを落とす事も無くこちらに近づいてくる。あんなのに跳ねられたら、即座におだぶつじゃないか! 僕は慌てて自転車にまたがりもと来た道を急ぎ、どうにかその車を避けようとする、がなぜか車まで一緒に走行距離を早め僕の後を追う。待ってくれ! 本当に轢き殺されてしまうではないか! 僕は半泣きになりながら自転車を力の限り漕ぐがベコベコとタイヤも悲鳴を上げる。車のライトが僕に近づいてきて、頬がライトに照らされたとき僕は、もう観念して自転車を漕ぐ脚を緩めた。いや、諦めかもしれないが兎に角自転車をキキーッと豪快な音を立てて道に放り出す。――――さぁ来い! 殺される筋合いは無いが正々堂々……ん? 僕が一人で覚悟を決めていた間に、車は二十メートルくらい向こうで止まっている。僕が、一人で焦っていた事に呆気に取られていると、赤い車の中から、その車の容貌に相応しくない、凛々しい女性が出てきた。歩調も荒く、此方にやって来る。近づくにつれ、曖昧だった容姿が明らかになる。すらりとした長身で、いかにもキャリアウーマンと言った感じの紺のパンツスーツを履いている。一見地味だがきっと高級品なのだろう、その女性からはそんな匂いが漂っている。多分あんまり日光に当たらないのだろう、顔には眼鏡を掛けていて、どぎつい赤のセルフレームのその眼鏡だけは俺を轢き殺すかの様に見えた車を彷彿とさせる華やかさだ。馬鹿みたいにその彼女を見つめていた俺はやっと我に返る。彼女はこちらに向ってきている、ということは俺に用があってこっちに向ってきているのか! 僕はやっと初対面の女性を真正面からじろじろ眺める自分の怪しさと非常識さに気付いて赤面し、今目の前にたっている美しい女性に尋ねる。
  「あの、勘違いして逃げたりしてすいません。どういう用事です……かぁあ? !」
 せっかくちょっと良い子ぶって丁寧に話しかけたのに彼女は僕を無視して通り過ぎていくから、何を、と言おうとして振り向いたときに僕は恐ろしい光景を目にした。そして僕は改めて仰天して変な声を上げる。当たり前だ。華奢に見える彼女が、その細い腕で泥まみれの僕の自転車を担ぎ上げて自分の車のほうに歩き出したのだ。その彼女の表情は、完璧なまでの無表情で空恐ろしく感じる。僕は呆然として彼女の後姿を危うく見送る羽目になりそうだったが、どうにか走って行き、彼女の前に立つ。
 「い、一体何なんですかあなた! 人の自転車勝手に担いで」
 怖い顔をして諌めるように言ったつもりだったのだが、彼女は全く気にも留めてないように言う。
 「この自転車を車に乗せるのよ」
 いや、全然説明になってない。そもそも何で僕の自転車をこんな見ず知らずの人に強奪されなきゃいけないんだ。僕はますます彼女に迫っていく。
 「だからなんであなたが僕の自転車を持っていく必要があるんですか!」
 彼女はうるさそうに僕のほうを向いて言う。綺麗な形に整えられた眉を歪めた顔は少し鬼女の様で恐ろしい。
 「あんたって昔から抜けてるところあったけど、ちっとも変わってないわね。勘違いも相変わらず」
 ぬ、抜けてる? ! 勘違い? 僕は腹を立てる。いくらなんでも人に言って言い事と悪い事が……ん、この皮肉るような喋り方と言い、きつそうな美貌に、怪力。もしかしてこの彼女は。
 「百合姉ちゃん?」
 よくよく見ると彼女はメカゴジラもモスラもないて逃げ出すおっかない百合姉ちゃんだ。小さいころにはよく苛められたものだ。何で気付かなかったんだろう、目元なんて十年前のあのままなのに。
 「今頃わかったの、馬鹿」
 相変わらず口が悪い。でもふと浮かんだ疑問を口にする。僕はイトコ、つまり百合姉ちゃんと婆ちゃんの居る家に居候することになって自転車に乗って隣町からやってきたのだ。で、実家に百合姉ちゃんが居たって何も可笑しくないのだが、彼女は既婚者だ。あたりまえの疑問を僕は口にする。
 「旦那さんは東京に一人で居るの? 百合姉ちゃんと婆ちゃんの家に一緒に来てるの?」
 そう聞くと、百合姉ちゃんの顔が微かに曇り、言いにくそうに百合姉ちゃんが俯く。百合姉ちゃんにしては珍しい。百合姉ちゃんは物事をはっきり言う人だ。もったいぶったり、焦らしたりしない。百合姉ちゃんはやっぱり言いにくそうだけど、小さな声でぽつりぽつりと傷ついたレコードのように話す。この真剣な様子、まさか離婚したんだろうか? あぁ聞かなきゃよかった。百合姉ちゃんのヒステリックな性格を思い出して少し憂鬱になる。
 「あのね、旦那がここを遊びに来たときに気に入っちゃって住み着いちゃったのよ。執筆活動も捗るし、君が帰っても僕はここに残るー! なんて言って」
 は。僕は力が抜けた。な、何だ。びっくりするじゃないか、そんな深刻な顔で話されたら。それにしても呑気なひとらしい、彼女の旦那さんは。いや、小説家をしているとか、一風変わった男性だ、などと親戚間で聞いていたのだが。
 
2007/09/29(Sat)20:43:19 公開 /
■この作品の著作権は紫さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
初めまして、紫です。
書き始めたばかりのぺーぺーですが、宜しくお願いします。
作品について
昔から構想はありましたが、作品にする勇気が無く。
今回初作品を仕上げたので、書き始める事にしました。
男性視点の一人称になる予定です。
これからも宜しくお願いします。
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