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『カミゴロシ(仮):序章〜第七章』 作者:渡瀬カイリ / 異世界 ファンタジー
全角76763文字
容量153526 bytes
原稿用紙約232.3枚
吸血鬼、人、人狼、竜……さまざまな生き物が共存する世界。危なげながらも保たれていた均衡を壊してしまった吸血鬼。生き残る方法は、カミの支配から抜け出し、新しい世界を作ることだけ?
▼ カミゴロシ(仮):序章〜第七章

 ▼ 序章
 歩けば十歩で向こうの壁まで辿りついてしまう部屋。調度品は小さなテーブルと椅子とベッドだけ。トイレとシャワーはついているけどバスタブはなし。そこが俺の世界。俺の全て。
 手を伸ばしても届かないくらい遠いところにあるという『星』も、遠すぎて先が見えなくなっている『地平線』も、見渡す限り水があるという『海』も知らない。ついでに言うと、自分以外の生き物を、俺は世話係のイナダしか知らない。
 飢えない程度の食事と膨大な書物。それだけが俺に与えられるもの。俺に許されているもの。
 何で俺はここにいるんだろう。
 そんなことを考えるのも、もうずいぶん前にやめてしまった。外の世界を見たいなんて気持ちも、ずいぶん前に消えてしまった。
 ただ漠然と過ぎていく時間。死というものがどういうものかはよく分からないけれど、時間が経てば必ず誰にでも訪れるらしい。それが来るまで、俺は食事をとり、残った時間で本を読んだ。

     ◆     ◆     ◆

 その日、いつものように食事を運んできたイナダは、いつもよりも険しい表情で俺を見た。
 
「イナダ、どうした。何でそんな顔をしている」
 イナダは眉の間を狭くして、俺の名前を呼ぶ。
「若……さま……」
 目の回りがいつもより赤いのは気のせいだろうか。それでもそれを口にすることはなぜか憚られて、俺は黙ってイナダを見た。
 
「今日はお話しなければならないことがあります。お食事が終わるまで、ここにいてもよろしいでしょうか」
 俺が頷くと、イナダはテーブルの向こう側に座り、俺が食べ終わるまでずっと黙っていた。
 
「話って、何だ」
 食べ終わって食器を置くと、イナダは俺の目をまっすぐに見つめる。
「あなたに、祭りの話をしたことはありましたかな……」
 俺とは違う穏やかでゆっくりとした話し方。
「あぁ、カミというのに供え物をするんだろう。確か、死んだ吸血鬼の血の石を……」
 俺はイナダしか知らないが、この部屋の外には何人もの吸血鬼がいるらしい。百年ごとに行われる祭り。その百年の間に死んだ吸血鬼から血の石を取り、それを供えるのだと聞いた。
「血の石は、吸血鬼にとっての誇りであり、宝なのです。だから、それを供えることで永遠の安息を神に願うのです」
 安息がどれほど素晴しいものなのか、ずっとこの部屋で生きてきた俺には分からない。けれど、その大切な宝を捧げても欲しいものなのだろう。逆を返せば、血の石は安息と同じくらい価値のあるものだとも言える。
「次の満月の夜、また祭りが行われます」
 そういわれても実感がない。窓も何もないこの地下室で過ごす俺は、暦を知る手段を持たないし、知る必要もない。ただ、そんなことを言っても仕方ないようなので、俺はとりあえず、あぁ、と形だけ頷いた。
「それで、俺に何の関係があるんだ。その祭りが」
 一族の一員とはいえ、俺はずっと隔離されている。祭りに参加した覚えはないし、何より他の者に会ったことすらない。
「この百年、世界はずいぶんと住みやすくなりました。ハンターに狙われることもなければ、他の種族との抗争もあまりなかったのです」
 それはいいことのはずなのに、イナダの表情は暗い。
「だから、この百年で死んだ有翼の吸血鬼はいないのです」
 その言葉はひどく重々しい。
「寿命以外で死ぬのは良くないことだから、百年で死んだ吸血鬼がいないのは、いいことなんじゃないのか」
 そういうとイナダはそうですね、と少し笑った。
「けれど、祭りには血の石が必要なのです」
 血の石が必要だから死ななければならない、そういうことか。けれど、それは矛盾していると思う。
「それで、長様、あなたのお父上は、血の石の代わりにあなたを……」
 そこまで云うと、イナダの目からは涙が溢れた。

     ◆     ◆     ◆

 吸血鬼には大きく分けて二つの種類がある。
 一つは有翼の吸血鬼。吸血鬼同士の間に生まれた者がこれにあたり、蝙蝠のような翼を持つ。
 もう一つは翼を持たない吸血鬼。もともとは人間で、吸血鬼に血を吸われ、その後吸血鬼の血を体内に取り入れることによって生み出される後天的な吸血鬼だ。
 俺は両親ともに吸血鬼らしく(というのも、俺は親の顔を見たことがない)、背中には翼がある。但し、その翼は役立たずで空を飛ぶことが出来ない。その辺のことも俺が隔離されている理由になるのだろうが、とりあえず俺の翼は飾り物らしい。
 イナダは昔人間だったそうだ。だから翼は持っていない。猟師だったイナダは、山の中で怪我をして死にかかっていたところを、俺の父親に助けられたらしい。あなたのお父上には感謝してもしきれません、がイナダの口癖。
 俺の父親の頼みなら、どんなことでもする、とイナダは常々云っている。だからなのかもしれない。イナダが俺の世話係になったのは。俺が一族の中であまり良く思われていないのは、会ったことがなくても分かった。屋敷の地下という近い場所なのに、イナダ以外の者は誰もここを訪れない。
 もしかしたら、自分の存在を知る者がいないのではないかと思ったこともある。けれど、おそらく一族の中でも相当上の地位にいるイナダが毎日俺のところを訪れているんだ。何をしているか気にしないやつはいないだろう。それなのに、誰も会いに来ることはない。
 誰にも関心を持たれず、存在を無視されることは、存在していないのと同じだ。それなのに存在する自分が、ひどく惨めで、早く死にたい、この世から消えてしまいたいと何度も願った。
 けれど、俺が死にたいというたびに、イナダは泣いた。それは、父親の頼みだから、俺を死なせるわけには行かないからなのかもしれなかったけれど、それでも嬉しかった。たった一人でも自分の存在を知っていてくれるから、生きてみようと思えた。
 イナダの望むことなら、俺は何でもしようと思った。

     ◆     ◆     ◆

 祭りの夜、俺は生まれて初めて『部屋』の外へ出た。部屋の幅より長い『廊下』を歩いて、『階段』というものを初めて昇った。
 自分の部屋よりずっとずっと広い部屋に通され、俺は『父親』というものに出会った。
 イナダより大きくて、声も低い。青白い肌には皺があんまりないし、髪が黒いからイナダより若く見える。
 床が震えるのではないかと思うくらい低い声で、父親は俺をシムラ、と呼んだ。
「初めまして」
 初めて会った相手には、初めましてと挨拶をするのが礼儀だと本で読んだ。けれど、父親は初めましてと返してはくれなかった。
「イナダから話は聞いているだろう。お前は今夜神への供物となるのだ」
 俺が頷いたのを見て、父親は満足そうな笑みを浮かべる。
「一族の宝と同じ扱いを受けられること、光栄に思え」
 何が光栄なのかは分からないけれど、俺はとりあえずはい、と答えた。
 そのあと俺はイナダに『風呂場』へ連れて行かれ、赤い色の湯が張ってある『湯船』に浸けられ、いつもと違う匂いのシャンプーで洗われた。
 念入りにドライヤーをかけられ、ブラッシングされる。
 用意されていた服は一族の正装だという裾の長いローブのような服。厚手の白い生地で出来ていて、うっかり裾を踏んで転んだらイナダに叱られた。最後は裏が赤で、表が黒のマント。本で見た吸血鬼も、こんなマントをしていたっけ。
 
 風呂から上がって、さっきの部屋に戻ると黒い細長い箱――『棺桶』が置いてあった。あぁ、これに入るのか。
 初めて入る棺桶は狭かったけど、中はふかふかしていて気持ちいい。供物って寝てもいいのだろうか。寝てもいいか、と聞こうと思ってイナダを見上げると……イナダはまた泣いていた。
「イナダ、どうして泣いてる?」
 泣くのは悲しいことや痛いことがあるから。だったら、今のイナダは何が悲しい。どこが痛い。
「イナダ、どこか痛いのか?」
 俺の問いにイナダは首を横に振った。そうだ、嬉しいことがあっても泣くと、本に書いてあった。だったら、イナダは嬉しいのだろうか。
「じゃあ、嬉しいのか」
 その言葉に、イナダは目を見開いて、俺を見た。
「若……さま……」
「一族の宝と同じ扱いを受けられるんだろう、俺は。それが嬉しいのか、イナダ」
 イナダはそれには答えないで俺を抱きしめて、ここまでお育て出来たこと、光栄に思います、と囁いた。
 吸血鬼は結構体温が低いのに、イナダはいつも温かくて、抱きしめられて自分の体にイナダの熱が移るのが、俺は結構好きだ。
 子供の頃は遊んでいる時も、寝る時も、いつだってしてくれたこの行為は、俺が大人になるにつれて、だんだんと回数が減ってきた。それはすごく寂しいことだったけれど、子供だけの特権だといわれて、諦めるしかなかった。だから、こんな風に抱きしめられたのはいつ以来だろう。
 覚えているかと聞く前に、棺桶の蓋は閉められた。



 ▼ 第一章:祭りの夜
 今夜は満月。俺達みたいな獣人の、野生の力が一番強くなる夜。
 人の暦でいう百年に一度の吸血鬼の祭りに、俺は一族を代表して、招待された。
 
「こんばんは。私、人狼一族の長をやっております、カミヤと申します。ヤシュウ殿にはお会いできますか」
 祭りは、俺たちの住む森から山一つ超えたところにある、吸血一族の住む洞窟で行われる。
 洞窟の前で、人の良さそうな年配の吸血鬼を見つけて声をかけると、彼はにっこりと笑って洞窟の中へ案内してくれた。
 
 桁違いの力を持つ竜族は別にして、吸血鬼、人間、そして俺たち人狼は三つ巴の力関係にある。もちろん他にも少数の種族はいるけれど、世界は主にこの四者で構成されている。
 人間は他の種族にあまり関わりたがらないので、住み分けをして干渉しあわない。
 けれど、問題は吸血鬼と人狼。血の気の多いうちの一族と、プライドの高い吸血鬼はひどく仲が悪い。
 体質的なものもあるのだろう。吸血鬼が唯一血を吸わない生き物が俺たち人狼だ。人狼の血は吸血鬼にとって麻薬のようなものなのだそうだ。少量なら快楽をもたらすけれど、殺すほど飲めばもう正気には戻れない。
 同程度の戦力を有する二つの種族が対立すれば、争いは長引き、お互いに深い傷を負う。それどころか、弱りきったところを竜族に襲われ、両者とも潰される可能性も出てくる。それに危機感を持った両者は、三百年ほど前、ある事件をきっかけに非戦協定を結んだ。表向きは竜族に対抗するという理由だったけれど、竜族というよりは、カミの暴虐さに不安を抱き始めたというのが実際の理由だ。以来、両者の間には派手な争いは起こっていない。
 
 五つ前の満月の夜、先代の長であった俺の父親が突然の隠居宣言をして、俺は一族の長になった。
 協定を結んでいるとはいえ、根本的に吸血鬼一族が嫌いなオヤジは、吸血一族の長ヤシュウが特に気に入らないらしい。それでも、協定の手前、祭りだの何だのには必ず挨拶をしに行かなくてはならない。
 ――俺も、もう歳だ。狩をするにも体が動かねぇ。
 そんな適当なことを云って、あのオヤジは俺に長役を譲り、面倒ごとを押し付けてきやがった。適当な証拠に、引退直後、オヤジは右腕一本で自分より大きな熊を倒した。
 
 ただ吸血一族の祭りに興味があったのは事実だから、どうせなら思いっきり楽しんでやろうと開き直ってみる。そうじゃなきゃ、やってられない。
 案内されながら洞窟を進むと、突然開けた空間に出た。かがり火に照らされた壁の上は、ぽっかりと切り取られた夜空。
 俺たちの立っている入り口部分とは正反対の方向には、舞台が設置されていて、中央には祭壇のようなものがある。祭壇には、棺桶とか果物とか、所謂供え物が置いてあった。
 祭壇の前の席にいる男が、吸血一族の長ヤシュウだと案内係の男に教えられ、俺は舞台に上った。
「お初にお目にかかります。この度、人狼一族を統括することになりました、カミヤです。どうぞ、よろしくお願いいたします」
「あぁ。こちらこそ、よろしく頼む」
 吸血一族独特の深紅の瞳がこっちを向く。病的なまでに青白い肌、こけた頬。吸血鬼らしいと言えば吸血鬼らしいその姿は生気を感じさせないけれど、弱そうな感じはしない。むしろ、研ぎ澄まされた刃物を喉に当てられるような威圧感を感じる。
「今宵は、いい月ですね」
 その威圧感を振り切るようにして搾り出した言葉に、彼は少し表情を和らげて同意した。
「あぁ。そうだな。たいしたことは出来ないが、ゆっくりしていって欲しい。少しでも楽しんでいただければ幸いだ。月下の繁栄を」
 持っていたグラスを少し傾けて、彼はお決まりの台詞を口にする。
「ありがとうございます。それでは、失礼いたします」
 俺は軽く頭を下げて彼に礼を言う。後は、問題を起こさないように、祭りに参加するだけだ。
 
「カミヤ様、こちらへどうぞ。ささやかではありますが、お食事を用意させていただきました」
 舞台を降りると、さっきの年配の吸血鬼が声をかけてくれた。
 祭りに参加とは言っても、人間たちが行う村祭りとかとは違い、これはあくまでも儀式だ。客はただ大人しく見ているしかない。知合いもいないし、どうしようかと思っていたところだったので、この年配の吸血鬼がまた声をかけてくれたことが、嬉しかった。
「ありがとう。ところで、あなたは……」
 せめて名前くらい知っておきたい。ヤシュウは相当威圧感があって野心家な感じだったけれど、この男は付き合いやすそうだ。後々のためにも、仲良くなっておく方が徳だろう。
「これは失礼。私、イナダと申します。ヤシュウ様の下で秘書のような役を仰せつかっております」
「こ、これは失礼しました。そんな方に案内役をさせてしまうなんて……」
 入り口の辺りでふらふらしていたから、たいした役職ではないと思っていた。やっぱり、人は見かけで判断してはいけない。それでも、こんな若造の偉そうな口調の問いかけを咎めもせず、イナダさんは笑った。
「いいえ。それに私は、純血ではないのです」
「ということは……」
 俺の言葉の先を読んで、イナダさんは頷く。
「えぇ。四百年程前に、ヤシュウ様に拾われたのです。それ以来ずっと……」
 こちらでお世話になっています、と彼は続けた。
「そうだったんですか。しかし、こういっては失礼だが、純血でない吸血鬼が一族の中でも高い位置を占めるというのはあまり例がない。イナダ殿はとても信頼されているのでしょうね」
 純血の吸血鬼にとって、後天的吸血鬼はほとんど下僕扱いなのだ。
 俺の言葉に、イナダさんはいえ、と謙遜した表情を浮かべる。
「私はただ……むしろそれだけのために……」
 最後の方は、俺に向けられた言葉ではなくなっていたけれど、それ以上深くつっこむことは出来ず、俺は曖昧に頷いた。
 
「そういえば、今宵の祭りの祭壇はいつもと違うようですね」
 祭壇の中央には、血の石が載っていると親父は言っていた。けれど、祭壇の真ん中を陣取っているのは大きな黒い棺桶だ。
 俺の言葉に、イナダさんは頷く。
「えぇ。今年は供物がいつもと違うのです」
「ほう。血の石では、ないのですか」
 はい、とイナダさんは答えた。
「いつもとは違う……血の誇りを知ることもなければ、穢れを知ることもない翼ですよ」
 抽象的な、その謎めいた言葉の意味は、吸血鬼に詳しくない俺に分かるわけがない。
 何も言い返せない俺に、イナダさんはひどく嬉しそうな顔をして
「私の宝物です。いえ、一族の宝を私の、などというのはおこがましいですな。しかし、私にとっても特別な思い入れのある存在なのです」
 と笑った。その謙遜する彼の顔に、謙遜以外の感情が入ったのを、俺は見逃せなかったけれど、それを問えるほど、俺は吸血一族には深く関わっていない。
「そうですか。きっと、とても奇麗なんでしょうね」
 もう少し気の利いた言葉でも言えれば良かったけれど、今の俺にはこれが精一杯だ。深入りせず、気付かない振りをして、上っ面だけで言葉を紡ぐ。
「えぇ。この世で一番美しい存在です」
 それでも、イナダさんは俺の言葉に同意した。ひどく嬉しそうで、同時にひどく寂しそうな顔をして。

     ◆     ◆     ◆

 月が広場の真上に浮かぶ頃、祭りは最高潮を迎える。
 吸血一族の祈りの声が洞窟を満たし、満月が広場の頂点に来た時、どこからともなく風が吹いた。
 唸るような咆哮が、洞窟に響き渡る。
 ――来る。
 見たことはないけれど、全身の毛が逆立つような感覚で分かる。いや、今の俺は一応人型をとっているから、全身の……という表現には語弊があるけど。
 
 生温い風を撒き散らして、祭壇の上に、カミが降り立った。
 
 『カミ』というのは、種族を超えて統治する者の名称。
 何かしら特異的な能力を持った者がなり、今のカミは竜族の者が担っている。
 竜族の寿命の長さと体の大きさは他の種族に比べて桁違いだ。
 体を覆う鱗は敵の攻撃を受け付けず、鋭利な爪と牙は敵を容赦なく切裂く。
 他の一族が束になってかかったとしても、決して勝つことが出来ない最強の一族。
 だから、種族を超えてだの、特異的な能力をなどといっても、それは結局建前だ。
 他の一族の者が、カミになったなどという話、聞いたこともない。
 
 今のカミも、もう数千年に渡って俺達の世界を支配している。
 たとえ暴虐の限りを尽くされても、俺たちには逆らうことが許されない。
 しかも、今のカミは生き物の生命線を握っている。どんな生き物にも必要なもの――水。
 天候を自在に操ることの出来る今のカミは、特に水を操ることに秀でている。
 逆らえば、死、あるのみ。
 個人の死どころではない。一族全てが根絶やしにされることもあるし、下手をすれば周囲の種族にまで影響は及ぶ。
 カミには逆らうな。が、この世界で生きていくための唯一といっていい絶対的な掟。
 そしてそのカミの姿を、俺は今日、生まれて初めて目にした。
 
 壇上に立つカミの姿は、さっきまでの咆哮が嘘のように小さい。老人の、姿だからだろうか。
 床につきそうな白い髪と髭。枯れ木のように細い指。全身はローブのような服で覆われているけれど、多分その下も枯れ木のような体があるのだろう。
 吹けば飛ぶような体つきでも、近づけないのは回りに漂う空気のせいだ。
 殺気垂れ流し状態で、その老人は舞台の上を歩いていた。
 
「ようこそ、おいで下さいました」
 心なしか青ざめた表情で、ヤシュウが跪く。その姿に一瞥をくれて、老人は祭壇の方を向いた。
「この百年、殺された有翼の吸血鬼はいないのです。これも全ては、あなた様のお力のおかげ……」
 ヤシュウの言葉を聞き流して、老人は祭壇の棺桶に目を留める。
「これが、この百年の、お前たちの服従の証か」
 しわがれたその声に、ヤシュウは「はっ」と頭を下げる。
「血の石とは、対極の翼です」
 その意味をどうとったのかは知らないが、神は少し目を細めた。……多分。白い眉が少し下がったから、目を細めたんだと思う。
「どうぞ、お納め下さい」
 これ以上ないくらい、ヤシュウは低く頭を下げた。
「貰っていく」
 それだけ言って、老人は本来の姿に戻り、その鋭い爪に棺桶を引っ掛けて天井から出て行った。

     ◆     ◆     ◆

 ふかふかの敷物に包まれて、夢見心地でうとうとしていると、突然耳元でバリッと云う大きな音がした。
 棺桶に、穴でも開いたんじゃないだろうか。少し不安になりながら、外の様子を探ろうと感覚を研ぎ澄ませる。すると、重力が足元の方に移動して、棺桶が縦になった感じがした。
 さっき大きな音がしたところから、ビュオーと云う風の音がする。穴が開いたのは外側だけで、敷物はまだ暖かいままだったけれど、敷物越しに空気の冷たさが伝わってくる。
 ――一体、何が起こってる?
 起き上がって蓋を開けて、問い質したかったけれど、大人しくするのが俺の役目だから、それも叶わない。
 なぜか不安になって、いつも冷たい掌が、更に冷たくなった。
 
 どれだけそんな時間を過ごしたのだろう。ガコンと云う大きな音と、衝撃と一緒に風の音は止んだ。
 ほっとしたのも束の間、荒々しく開かれた蓋。外には、真っ白な老人が、冷たい目で俺を見ていた。
 襟元を掴まれて、外に引きずり出される。周りを見ると、ここもやっぱり洞窟らしい。でも、吸血鬼の気配はしないし、そんなに広くない。
 真っ白な老人は、俺や父親とは違う土色の肌に緑色の瞳をしている。これが、カミなのだろうか。
「お前の翼を、見せてみろ」
 掠れた声で、老人は云う。俺は何を言われたのかよく分からなくて、老人の方を見た。
「聞こえなかったのか。お前の翼を見せてみろと云っておる」
「あ……」
 慌てて俺は、マントに手をかけた。
 吸血鬼は、普段は人とほとんど同じ姿をしている。そうでないと、翼が邪魔で服が着られないから。
 更に、地下室に住んでいた俺にとって、翼は邪魔以外の何物でもない。だから、俺はほとんどそれを出したことはなかった。
 マントを外して、服の構造を探る。腰で留めてあるズボンは脱がなくても大丈夫。頭から被ったこのローブはやっぱり脱がないと邪魔だろうか。いや、このローブは脇の部分が縫い合わせてないから、そのまま翼を出しても大丈夫だ。
 俺は軽く目を閉じて、背中に意識を集中させた。
 ――大丈夫、ここは翼を広げてもぶつけない。
 背中が一瞬疼いて、次の瞬間ものすごい開放感に包まれる。ばさっと、翼が広がる音がした。
 目を開けてカミの方を見ると、カミは細い目をさっきよりちょっと多めに開けて、俺を見ていた。
 
「なるほど、確かに珍しい翼だ」
 そういって、少し笑うような顔をして、カミは俺の翼に触れる。痛くされたわけじゃなかったけれど、イナダが撫でてくれる時とは感じが違って、俺は何か嫌な気分になった。
 カミは世界で一番の存在。だから、カミがすることに逆らってはいけない。カミが望むことは、たとえどんなことでも受入れなくてはいけない。子供の頃から何度も言われてきた言葉だったけれど、俺はどうしてか受入れられる気がしなかった。
 だって、イナダが綺麗な翼ですね、と褒めてくれた時はすごく嬉しかったのに、今は全然嬉しくない。
 珍しいと云う言葉は、決して悪い意味ではないと思う。俺はカミの緑の瞳が『珍しい』。綺麗な色だと思う。珍しいには、きっと『綺麗だ』って意味も入っていると思うのに、カミの言葉に、イナダが言ってくれた時みたいな嬉しい気持ちがないのはどうしてだろう。
 けれど、俺のそんな気持ちをカミが分かるわけもなく、カミは俺を見てもう一度笑った。
 
 次の瞬間、カミの姿は陽炎みたいに(とは云っても、俺は本物の陽炎を見たことがない)揺らいで、大きな白い竜が現れた。
 本で読んだとおりの、蛇みたいに長い体、きらきら光る鱗、長い髭……。
 驚く俺を見て、カミは俺の腕を掴んで摘み上げた。ニタリ、と口元がゆがむ。
 
 そのまま、かぱっと大きな口をあけて、カミは俺の肩口に咬みついた。
「ぐっ……あぁぁっっ……」
 骨が砕ける音。息が止まりそうになる圧迫感と痛み。暴れた俺に驚いたのか、カミは俺を吐き出し、元の人型に戻った。
「いっ……あっ……」
 咬まれたのは肩だけど、右手は痺れるような感覚と痛みで動かない。床を転げまわる俺の口からでる声は、まともな言葉じゃなくて悲鳴だけだった。
「一度も血を吸ったことのない吸血鬼だというから、どれだけ美味かと思えば、味気ないにも程がある。所詮は飾り物だな」
 吐き捨てるように呟かれた言葉の意味も理解できない。痛い、痛い……嫌だ、もう嫌だ。
 俺が何をしたっていうの? 供物ってこんなに痛いものなの? カミは一体何を望んでるの?
 どんなに思っても、誰も答えてはくれない。痛い、帰りたい、イナダに会いたい。
 痛みにのた打ち回りながら、俺はそれだけを考えていた。

     ◆     ◆     ◆

「今夜はもうお前に用はない。女、こっちへ来い」
 そういって、カミは痛みで転げまわっていた俺を蹴飛ばして、洞窟の奥へ声をかける。
 右手の痺れる痛みとともに、俺は初めて『女』を見た。
 
 肌が白いのは俺たちに似ているけど、頬っぺたが少し赤くて、ふっくらしている。腰まである艶々の髪の毛は黒のインクより黒い。長い布を体に巻きつけているけれど、きゅっと留められた腰のところを境に、緩やかなラインが作られている。丸い目がすごく可愛いから、笑ったらもっと可愛くなると思う。なのに、なぜか彼女はあまり嬉しそうじゃない顔をしていた。
 
「見ろ、あれが今夜の供物だ。吸血鬼を知っているだろう。あれの畸形だ」
 カミの言葉に、『女』の視線がこっちを向く。
「生まれてから一度も血を吸ったことがないらしい。だから、あの翼は一度も血に染まっていないのだそうだ」
 美味くはないがな、とカミは付け足した。当たり前だ。俺は食べ物じゃない。
 何も反応を示さない彼女に、カミは少し機嫌を損ねた表情でどうだ、気に入ったか、と問うた。苛々としたカミの顔を見て、彼女は脅えたようにこくりと頷く。
「だったらお前にやろう。明日になったらすぐ翼を取ればいい」
 もう、興味が失せたと言わんばかりの表情で、カミは俺に一瞥をくれた。
 ……ちょっと待て、今、何て云った?
「そんな……そんなことをしたら死んでしまいます」
 俺の思考を読んだのか、今まで何も言わなかった彼女が、少し慌てたように進言した。
「構わん。どうせ供物だ。翼さえ手に入れてしまえばあとは用はない。興味があったのは翼だけだ」
 とカミはあっさりと言い捨てる。それでも彼女は、けれど、と食い下がった。
「他人の心配より自分の心配をしたらどうだ。まぁ、お前は神の子を生むのだ。光栄なことだな」
 ここ数日で何度も聞いた言葉。けれど、一度も正しく使われたことがない気がする。
「お前は竜族の子を身籠るのだ。こんなに幸せなことはないだろう。お前の体は神の子の器になる」
 そういって、カミは笑う。彼女は泣きそうな顔で頷いた。
 
「何なら、この吸血鬼に見せてやるか?」
 ふと、何かを思いついた顔でカミが云った。
「どうせ明日までの命だ、お前が神の子の器になる瞬間を、見せてやろうか」
 にぃ、とカミは笑う。反対に、彼女はこれ以上ないくらいに顔を歪ませて首を振った。
「……い、いやっ……」
「何故拒絶する」
 彼女の仕草が気に食わなかったのか、さっきまでの笑みを消してカミは急に無表情になる。それをみて、彼女は消え入りそうな声で申し訳ありません、と呟いた。
「それでは決まりだ」
 彼女が完全に服従したのを見て、満足したようにカミは彼女に手を伸ばした。
 
 カミは世界で一番の存在。だから、カミがすることに逆らってはいけない。カミが望むことは、たとえどんなことでも受入れなくてはいけない。
 ――どんなことでも?
 
「やめろぉぉっ」
 気が付いたら、俺はカミに頭から突っ込んでいた。不意をつかれて、カミが床に吹っ飛ぶ。
「何のマネだ、小僧」
 老人の姿のまま、あの竜のときの低い声で、カミは怒鳴った。
 ――何のマネ? 何で、俺はカミに逆らった?
「……彼女が……嫌がってる……」
 思いつく理由はそれしかなかった。
「だから何だ」
 そういわれると、返す言葉もない。俺は彼女のこと何も知らないし、彼女のためにカミに逆らう義理もない。でも、心の奥で、頭の奥で、何かが沸騰するような感じがして、彼女を守れという声が聞こえていた。
「だから……やめるべきだ」
 感情が先走って、思考はまったくついていかない。そんな俺の状態を見抜いたのか、カミは嘲うような顔で俺を見た。
「分かっていないのはお前だ。女は決まってそういうのだ。いちいち口を出すな。それとも、明日ではなく今ここで殺されたいか」
「殺されない。彼女にも触らせない」
 方法なんか分からなかったけれど、俺はとにかく感情に任せて叫んでいた。
「自分の立場が分かっていないようだな。供物の分際でこのカミに意見するだと?」
 愚かなガキだ、と馬鹿にしたような目で続ける。
「それにこの女だって同じだ。お前が引き換えるのは吸血一族の平穏だが、この女は人間の生活を背負っている。この女が神の子を身籠り、人間と私との関係は強くなる。私は自分の子のいる一族を滅ぼさない。人間に、水と豊穣を約束する。それがこのカミと人間の取引だ。お前に口を出す筋合いはない」
「けれど……ぐっ……あっ……」
 カミの指先から水が放たれ、俺の傷口を抉った。……痛い、嫌だ、放せっ。
「黙れ。情事の前に貴様のようなものの血で手を汚すのは嫌なのだ。さっさと失せろ。お前は明日殺してやる」
 俺の悲鳴がさも耳障りだと言う表情で、それでもカミは俺の傷を抉り続ける。
「あっ……ぅあぁっ……」
 悔しくて声を堪えようとしても、呼吸が勝手に呻き声に変わってしまって、止められなかった。
 ……痛い、頭が、ぼーっとする。
 
「お、お待ち下さいっ」
 あと少しで、意識が消えそうになった時、彼女が叫んだ。その声に驚いたのか、カミは指の動きを止める。
「こ、今宵は満月。この者の力が一番強くなる夜です。吸血鬼は日の光に弱いと聞きます。朝まで待てば、この者の力も弱まります。だから……今は、お休みになってはいかがでしょうか」
 彼女の言葉に、カミは少し考えるような素振りを見せた。
「明日の方が、反抗はされんと云うことか……ふん。確かに一理あるな。よし、そうしよう」
 あっさりと、俺から手を離して、カミは踵を返した。
 ……助かった……のだろうか。それとも、死ぬのがちょっと延びただけだろうか。……多分後者だ。
 命拾いしたな、小僧、という神の声を聞きつつ、俺は目を閉じた。

     ◆     ◆     ◆

 もう、動けない。動きたくない。どうせ死ぬなら、このまま目が覚めなければいい。
 ずっと望んでた『死』が手に入るんじゃないか。喜ばなきゃ。でも……嬉しくない。死なんて、欲しくない。
 痛い、でももうあんまり感じない。イナダに会いたい。生きたい。逃げたい、でもどこに行けばいい?
 世界は広いから、逃げたらどっか遠くに行けて、見つからないで生きられるかな。無理だろうな。
 ……頭の中に、いろいろな言葉や考えが浮かんでは消える。でも、考えても無駄だから、もうやめよう。このまま……
「あの……大丈夫ですか?」
 ――声が、聞こえた。
 
「生きて……ますか?」
 頬っぺたに、温かいものが触れる。重たい瞼を必死で持ち上げたら、さっきの彼女が視界に映った。
 視界の彼女は、俺と目が合うと、良かった、と笑った。
「起き上がれますか?」
 彼女に背中を支えてもらって、上体を起こす。翼をしまおうとしても、肩の傷が痛くて動かせなかった。右腕は……もう感覚がない。それでも、彼女は俺の傷に自分の服を裂いて巻きつけてくれた。
「ありがとう」
 初めて会った時の挨拶は『ありがとう』じゃないけど、今一番言わなくちゃいけない言葉の気がした。
「立って、歩けますか?」
 俺の言葉に軽く微笑んで、彼女はそう聞いた。足は投げ飛ばされたときにちょっと打ったくらいだから、歩けなくはない。頷いた俺に、彼女は黙って俺の後ろを指した。
「ここをまっすぐです。カミは、明日の朝まで絶対に起きませんから、今のうちに……」
 ――逃げろって?
「心配しないで。カミは、私にあなたの翼をくれると言いました。貰ったものをどうしようが、私の勝手です」
 言葉は強気だったけど、声は震えていた。朝になったら、適当に云っておきます、という言葉が何か引っかかる。
「あのさ、それって、君はここに残るって事?」
 彼女はこくんと頷く。
「それは、俺だけ逃げて助かって、君は……死ぬ……んだよね?」
 びくりと震えて、彼女は小さな声でそんなことはないと呟いた。
「私は、神の子を生むの。だから、それまでは死なない。生んだら、その後どうなるかは分からないけど」
「竜族の子供を、他の種族は生めない」
 妊娠することは不可能じゃない。でも、他の種族は竜族より体がかなり小さいから、竜族の子供が生まれる時、竜族以外の種族の者は体を食い破られてしまうと、本で読んだ。
 
「逃げるなら、一緒に行こうよ」
 ……どこまで行けるかは分からないけど。
「馬鹿なこと云わないで」
 突然、彼女は悲鳴みたいな声で叫んだ。
「私が逃げれば村が、皆がどうなるか……あなただって分かるでしょ? カミに逆らえば、どうなるかくらい、この世界に生きてれば分かるでしょ? 何でそんなに軽々しい言葉が口に出来るのよ」
 丸い目から、涙が溢れてくる。何て云えばいいか考えていると、ふと、別の疑問が湧いた。
 ――今、何時だ?
 夜明けまでに逃げるだけじゃ足りない。どこか日の光を避けられるところを見つけないと、多分一瞬で俺の体は消える。見知らぬ外の世界で、ここからなるべく遠い日の光を避けられるところって……探すの結構難しいだろうから、もう、時間はそんなに残っていないはず。
 逃げるか、諦めて死ぬか。……死ぬのは、嫌だ。
 先のことは、分からなかったけど、とりあえず、彼女の腕を掴んで立ち上がる。力任せに引っ張ったら、あっさりこっちに倒れてくる。あぁ、人の女って、こんなに弱いんだ。
 
 痛くない方の左肩に担ぎ上げたら暴れられたけど、静かにしろってちょっと低い声出したら大人しくなった。長い洞窟を抜けて、出口に着く。すごい風が吹いてくるのでそっと外を窺うと、そこには……何もなかった。違う。何もないわけじゃない。どうやらこの洞窟は崖のど真ん中にあるらしい。とんでもない絶壁の下は真っ黒い森。落ちたら……なんて、あんまり考えたくない。
 
「あなたには、翼があるから、ここから逃げられる、でしょ?」
 独り言のように彼女は呟く。翼があっても、俺は飛べない。翼が薄すぎて、俺の体重を支えられないから、羽ばたけない。
「あのさ……滑空……なら、二人でもいけるかな」
 俺の言葉の意味が取れなかったのか、彼女は怪訝そうな顔をする。
「っつか、行くしか、ない……よな……」
 翼を広げられるだけ広げて、風に乗る。幸運なことに、ここには強風が吹き荒れている。
 ――行ける、っつか、行けなきゃ終わる。
「ねぇ、もしかして、あなた、飛べな……」
「う、あぁぁぁぁっっ!」
 彼女の言葉が終わる前に、俺はもう一度左手で彼女を抱いて飛び降りた。
 
 限界まで広げた翼に容赦なく当たる風。その強風に煽られて俺は飛んだ。というより、吹き飛ばされた。
 薄い翼は今にも破れそうだ。でも、紙ヒコーキだって、あんな薄い紙の翼で飛ぶんだからきっと大丈夫。
 少しでも遠くへ。少しでも長く、飛べるだけ飛ばなきゃ。方向なんて決められない。ただひたすら、風の方向に合わせて体の向きを変えようともがく。
 でも、強い風が吹いていたのは崖のそばだけで、森の上空まで来ると、嵐のような風は消えてしまった。
 弱くなってしまった風の上を、そっと滑る。けれど、二人分の体は相当重たかったらしい。
 明らかに水平方向より垂直方向へのスピードが加速している。加速と云うより……
「うわあぁぁぁっっ」
 バキバキっという連続音がして、体中を何かが掠めていく。時々、堅い何かにぶつかる。
 ……彼女は? 彼女になるべく傷をつけないようにしなきゃ。
 腕と翼を精一杯前へ曲げて彼女を包む。悲鳴を上げないから、多分、もう彼女は気を失っているんだろう。うん、その方が絶対いい。そう思った瞬間、がつっと云う音が頭の後ろでして、俺の意識も闇の中へ消えた。
 ――太陽が、当たらないところへ、逃げなきゃ、いけないんだけどなぁ。



 ▼ 第二章:逃亡者
「おかしらぁっ。お帰りなさぁいっ!」
 吸血一族の祭りから帰ると、家の扉の前でうろうろしていたオオシマが、俺に気付いて駆け寄ってきた。相変わらず、生傷が絶えないのは、そこらじゅうを駆け回っているからだろう。
「おぅ。どうした」
 わざわざ家の前で待機しているほどのことがあったのだろうか。完全人型がまだ取れないオオシマは、茶色の尻尾を千切れんばかりに振って俺に飛び掛ってくる。
「あのねっ、僕、すごいもの見つけたんです。だからね、一緒に来て下さい」
 早く早くっ! と、返事も聞かずにオオシマは俺の腕を引っ張る。
「オオシマ、悪いが俺は……」
 慣れない祭りで、ガラにもなく緊張して疲れた。今は何も考えずに眠りたい。
「今じゃないとダメなんです」
 引きずられるようにしてどこかへ連れて行かれる。……頼む、寝かせてくれ。
「まだ誰にも見せてないんですよ」
 俺の心の叫びを聞きもせず、オオシマは一人でよく喋った。半分閉じた目と、眠りかけの頭で森を散々歩かされ、行き着いた先は大きな木が絡み合って出来た洞。
 
「ここ、僕の宝物置き場なんです。誰にも言っちゃダメですよ」
 そういって、さっさと入り口をくぐって俺を招き入れる。体の小さなオオシマがくぐって入らなければならないほどの入り口だから、そうそう見つかるまい。俺はしゃがみこんで入り口をくぐった。
 中はそれなりに広くなっていて、かなり上の方から漏れて入ってくる光で薄明るい。
 床には使い古した毛布やら何やらが敷き詰めてあって、オオシマなりに快適さを追及した努力が見られる。
 おいてある宝物は、面白い形の枝やら、きれいな石やら、獲物の骨やら、どう見てもガラクタばかりだったけれど、子供はこういうガラクタが宝物に思えるのだから仕方ない。俺も昔は狩りで獲った鳥の羽とか、ガラス球とか、見つけては結構残してたし……。
 
「あのね、御頭。今朝、すごいもの見つけたんです」
 さっきと同じようなことを、オオシマは繰り返した。嬉しそうに笑って、何だと思う? と聞いてくる。
「また、骨の形の石でも見つけたか?」
 たまに土の中から出てくるそれを、オオシマはかなり気に入っている。けれど、オオシマは違いまぁす、と得意げに首を振った。
「……何だ。全然分からん。降参だ」
 俺がそう云うと、オオシマはにっこりと笑って洞の最奥へ俺を連れて行った。
 
 そこにあったのは、大きな塊。……というより、大きな塊に布がかけてある。いきますよぉ、と上機嫌な声で、オオシマはその布を取り去った。
 
 白く滑らかな肌。ふっくらとした桜色の唇。全体的に曲線的な体のラインに細い指先。歳は十六、七といったところか。あちこち擦り傷が出来て、ぼろぼろになっているけれど、『彼女』はしっかりと呼吸をしていた。
「見て下さい、人間の女の子ですっ!」
 オオシマは自慢げに俺を見上げる。確かに、長く艶やかな黒髪から覗く耳は俺たち獣人とは違って尖っていない。
「……お前なぁ」
「きれいでしょう? まだ生きてるから、食べないで手当てしていいですか」
 頷く俺に、オオシマは目を輝かせる。しかし、その笑顔に何とも云えない違和感を覚えて、俺はオオシマを見据えた。
「オオシマ」
 名前を呼ぶと、さっきまでの笑顔を消して、俺の顔色を窺うようにそっと見上げてくる。
「お前、他に何を隠しているんだ?」
 そう問いかけると、オオシマはびくりと尻尾を丸めた。
「……これ……」
 彼女の下にも布は敷かれている。それを、オオシマはそっと持ち上げた。
 ……また現れる、人。今度は男だ。彼女の恋人か何かだろうか。細身でそれなりに背が高い。彼女よりは少し年上に見えるが、俺よりは年下だろう。というか、人間なら老人だって俺より年下だ。しかしオオシマのやつ、一体何人連れ込んだんだ……。
「朝、この女の子拾った時に、一緒についてて……どうしても、離れなくて、しょうがないから僕……」
 ふるふると尻尾を振るわせてオオシマは消え入りそうな声で言い訳をする。どうやら、彼女と一緒に森で拾ったらしい。彼女だけ連れ出そうとしたオオシマは、目を覚ましたこの男に反撃されたのだそうだ。
「急に飛び掛ってくるから、僕、びっくりして、殴っちゃって……そしたらちょうど後に木があって……」
 そこに頭をぶつけて気を失ったらしい。こいつも相当傷を負っているから、弱っていたのだろう。
「御頭、こいつ、何者なんですか? 人間の女の子と一緒にいるのに、人間じゃないみたいなんです」
 その言葉で俺は、その姿を見直す。男の耳は……尖っていた。しかし、気を失えば、獣人は人型を取れなくなり本来の姿に戻ってしまう。気絶しても人型でいられる存在。人間の男にしては白すぎる肌。……まさか……この男は。
「ねぇ、御頭? こいつ何者なんですか?」
 オオシマが早く教えろと言わんばかりに聞いてくる。
「多分だが……吸血鬼だ」
「ぅえぇっ!?」
 俺の言葉に、オオシマは間の抜けた声を上げる。しかし、オオシマの態度なんかどうでも良かった。問題は、こいつが何故人間と共にいるのか、だ。昨日の夜は吸血一族全員が出席する祭りのはず。こっそり抜け出して人間の女といちゃついているわけにも行かないだろう。
 
「オオシマ、この二人、連れて帰るぞ」
 理由を問うにも、まずは傷の手当をしないとまずい。特に、吸血鬼の方は相当弱っているから、このままでは命が危ないだろう。外はもう太陽がしっかり輝いている時間なので、かけてあった布で念入りに包む。
「女の子は分かるけど、これもですか? 僕、男はいらない」
 そういって不満そうな顔をするオオシマを睨みつけるとすぐに尻尾を丸めて作業に入った。
「分かっているとは思うが、日光には絶対に当てるなよ」
 念を押すと、はぁいとやる気のない返事が返ってくる。
「ねぇ、御頭。男はどうでもいいけど、女の子は、僕が見つけたんだから、僕のものだよ? 他の皆にはさわらせてあげない」
 とまだ少し小さい牙を見せて主張する。頷けば、オオシマは急に機嫌を直して彼女を布で包み始めた。
 
「オオシマ、一つ、話がある」
 きょとんとした顔で俺の方を向く。
「この二人のことは、誰にも内緒だ。絶対に話すな、こいつらの存在を、誰にも知られるな」
 この二人は厄介ごとの匂いがする。匂いは、人狼一族独特の勘。こいつらを見てると、鼻の奥がざわざわする。
 もし、一族中に知れ渡ってしまえば、口止めをするのは難しい。
 幸い、まだオオシマしかこの存在を知る者はいないようだから、こいつさえ黙らせてしまえば、後は何とかなる。男同士の約束だ、と云ったら、耳と尻尾をピンと立てて、こいつは、はい! と、返事をした。
 
 二人を家の二階に運び、寝かせようと思ったら、窓から日光が降り注いでいることに気付き、慌てて雨戸を閉めた。それでも光が漏れてくるので、布で目張りをして完全に光を遮る。
 準備が出来たので、板張りの床に俺たちがいつも使っている敷布を並べて、二人を寝かせた。
 
 女の方は、掠り傷ばかりでたいした怪我ではない。時間が経てば目を覚ますだろう。問題は、この吸血鬼だ。
 べっとりと血がついている服を脱がせれば、右肩には酷い傷があった。何か巨大なものにでもでも噛み付かれたのだろうか。歯形のように規則的な傷。しかも、いくつかの傷は、一度傷つけてから更に抉ったような跡があり、見ているだけで、自分の右肩に疼くような錯覚を覚えてしまう。人狼一族の薬が、吸血鬼に効くかどうかは分からなかったけれど、何もしないよりはマシだと自分に言い聞かせて薬を塗った。
 さて、次にやるべきことは……
「オオシマ」
 俺の後ろで二人の様子を窺っていたオオシマを呼ぶ。オオシマは、やけに元気よく、はい、と返事をした。
「お前、どうやってこの二人を拾ったんだ?」
 俺の問いに、しまったと言う顔をして、オオシマは目を逸らす。
「というよりも、どうして見つけられたんだ?」
 それは、だから、と意味を成さない言葉を並べて、下を向く。
「俺は出かける時、お前と約束をしていたはずだな。何を約束したんだっけ?」
「おっ……おかしらが……出かけるから……帰ってくるまで……留守番、してるって……」
 今にも泣き出しそうな顔で、オオシマは昨日の約束を口にした。
「一人で、森に行かないって……狩りには、行かないって……でも、僕……月がすごく綺麗で……ごめんなさい……ごめっ……なさっ……」
 丸い金色の目から、涙が溢れる。泣いて謝っているけれど、許すわけにはいかない。
「もしこの吸血鬼が、怪我してなかったらどうするんだ。襲われたらどうするつもりだったんだ?」
 尻尾を掴んで、尻を引っ叩いたら、オオシマはぎゃんぎゃん泣き喚いて、何度もごめんなさいと繰り返した。
 オオシマは、まだ子供だ。森の怖さも分かっていないし、他の種族の恐ろしさも理解していない。いくら同盟関係にあっても、それはあくまでも『戦争をしない』程度のものであって、無防備な姿を晒していれば、あっという間に餌食にされる。特に昨日は満月だ。ただでさえ危険な野生の種族たちが、もっとも好戦的になる夜。それをこいつは、理解していない。
 ここまでするのは過保護なのかもしれない。失敗して、怪我をして、そうやって子供は世界の恐ろしさを知り成長していくものだという考えも間違っていないと思う。けれど、命に係わる危険を知っていて教えず、その結果こいつを死なせてしまったとしたら、それは大人の……俺の責任だ。
 散々引っ叩いて、ついでに一週間の外出禁止令を出した。まあ、外出禁止令は対外用の言い訳でもあるのだけど。しばらくは、俺もオオシマもあの二人に付きっ切りになるだろう。けれど、いつも外を駆け回っているオオシマが、急に部屋に閉じこもるようになったら怪しまれる。そのためには、何かしら理由が必要だから、ある意味ちょうどいいといえばちょうどいい。
 まだぐすぐすと鼻をすすっているオオシマに、二人の見張りを頼んで、俺は少し休むことにした。二人のどちらかが目を覚ましたら、すぐに起こせといったら、今度は素直に頷いて、二人の間に座り込み、監視し始める。
 
 ――疲れた。
 そう思って、床に寝転んだ瞬間、俺の意識は眠りの世界に引きずり込まれた。

     ◆     ◆     ◆

 どれだけ、眠っていたのだろうか。
「御頭! 吸血鬼さん目ぇ覚ましましたよ」
 オオシマの声に、目を開けて、まだ体に残る眠気を振り払うようにして飛び起きる。
 
 俺がこっちへ来ようとして立ち上がったのを見た瞬間、吸血鬼はびくりと痙攣するように震えて上体を起こした。
「なっ……」
 壁に背をつけて、俺を睨む。仕方ないから、俺はそいつを脅えさせないように、精一杯の笑顔を作った。
「はーい、はいはい。落ち着いて。俺たちは、お前に危害を加えるつもりはない。だから、落ち着いて」
 俺は何もしないよ、と両の掌を彼に見せてから、手を上げる。そいつの間合いには入らないようにして、俺は彼の足元の方に座った。
「……お前、誰だ。彼女をどうした」
 逃げ出したり、攻撃したりすることしなかったけれど、警戒を緩めることはない。
「……人に名前を聞くときはまずは自分からって、教わらなかったのか?」
 俺がそう笑うと、吸血鬼は虚をつかれたような顔をする。
「……名前……俺の名前?」
 そういって、なぜか考えるような表情を浮かべる。まさか、オオシマとやりあった時に頭を打った衝撃で記憶を失ったりしたのだろうか。
「……若様って呼ばれてたから、それのことか」
「いや……それは立場だろう。お前個人の名前はないのか」
 個人の名前、と繰り返して、そいつは沈黙した。
「……まぁ、いいか。俺は、人狼の一族の長をやってる、カミヤだ。彼女はそこで寝てる。お前ら二人の傷の手当もしたんだ、感謝しろよ」
 急かしても仕方ないので、俺は先に名乗った。
「人狼……狼男か?」
 と、何故か急に、少しだけ表情を和らげる。
「……ま、まぁな。ただ、女もいるから狼男って名称は正確じゃないんだが……」
 俺の言葉に、あ、そうか、と納得したようにする仕草は、見た目よりかなり幼くて何だか少しアンバランスだ。しかも……
「そうだ、初めまして」
「え?」
 一瞬、俺は何を言われたのか分からず、返せなかった。
「初めて会った相手には、初めましてって云うって、本に書いてあった。俺はお前と初めて会ったから、初めまして」
 そういって、まっすぐに俺を見据える。
「あ、あぁ、そうだな。初めまして。オオシマ、お前もちゃんと挨拶しなさい」
 何だかよく分からないが、とりあえずオオシマにも挨拶をさせた。けれど、俺たちが初めまして、と返したら、なぜかこいつはすごく嬉しそうな顔をして、そのあと、今度はとても丁寧に頭を下げて俺たちに礼を言った。……何か、こいつちょっとずれてるかもしれない。
 
「シムラ」
 また急に、こいつは謎の言葉を口にした。
「この前会った父親が、俺のことをシムラって呼んだ。だから、あれが名前だ」
 俺達の驚きを無視して、こいつはそう告げる。何かその言い回しが気にかかったけれど、とりあえず、名前は分かった。
「へぇ、シムラか。……って、ちょっと待て。お前……まさか……」
 頭の中で、情報が舞い上がる。次の言葉が、出てこない。
「御頭? 知ってるんですか、この人のこと」
 何も知らないオオシマが、きょとんとした顔で俺に問う。俺は上の空であぁ、と答えた。
「吸血鬼の中でもちょっとした有名人だ。しかし……本当にいたとは。無礼を承知でお願いしたい。お前の、いや、貴殿の翼を見せてはいただけないだろうか」
 ――翼。真っ黒な蝙蝠の翼と、血を吸う姿は吸血鬼のトレードマーク。けれど、今のこいつの背中には翼らしきものは何もない。そして、翼のありかを問われたシムラの表情に翳りが出る。
「……今夜は……満月か?」
 さっきまでとは違う、呟くような声でシムラは俺に訊いた。一体、何だというのだろう。
「いや、昨日が満月だから、今日は十六夜月……」
「……だったら……うまく出来るかどうかは分からない。けど、助けてもらった礼だ。見せてやる」
 そういって、シムラは立ち上がった。床に服を脱ぎ捨て、軽く目を閉じる。瞬間、俺の目の前には信じられない光景が広がっていた。
 
「これで、満足したか」
「あぁ。噂には聞いていたけど、ここまでのものとは思わなんだ」
 翼を畳んだシムラにありがとう、という。オオシマはよほど驚いたのか、混乱した顔でぼーっとしている。俺は溜息とともに言葉を続けた。
「本当に、透明なんだな」
 ……そう、彼の翼は透明だった。見えないという意味の透明ではなく、透き通っていて向こうが見える。ガラスのような翼を、彼は持っていた。
 
「ど、どうして。だって、普通なら黒い羽根が……」
 理解できないという顔で、オオシマが抗議する。確かに、普通の吸血鬼なら真っ黒な翼を持っているはずだ。漆黒の蝙蝠の翼。なのに、どうして……と。混乱したオオシマを見て、シムラはふと、笑みを浮かべた。
「お前、吸血鬼の翼が何色か知っているか?」
「え、だから黒……」
「違うな。あれは深紅なんだ。自分が過去に他者から奪ってきた血の色だ」
 そういって、少し視線を伏せる。それは何かに懺悔しているようにも見える。
「じゃ、じゃああなたは……」
「あぁ。生まれてから一度も、俺は血を吸ったことがない」
 あっさりと云い切った彼の言葉で、俺たち中の吸血鬼の常識が音を立てて崩れた。
「じゃあ、どうやって生きてきたんですか? 吸血鬼は生血が食料なんでしょう?」
「まあな。ただ、それだけで生きているわけではないんだ。あ、意外と雑食でな、ニンニクも食べられる。生血も必要だけど、でも、あれは食べ物とは違うらしい」
 シムラ曰く、吸血鬼にとって、生血は食べ物とは別格の存在なのだそうだ。生血で飢えをしのぐこともできるけれど、空腹かどうかに関わらず、生血は突然欲しくなるのだそうだ。
「でも、その生血を吸わずに……」
 どうやって生きてきたの、とオオシマは続けた。
「だから俺はこの翼を満月の夜以外に完全に広げることは出来ないし、他の吸血鬼以上に日光に敏感なんだ」
 確かに、オオシマが朝あの場所に運ぶ途中で日光に当ててしまったところは、ひどい火傷のようになっている。
「しかし、お前は純血だろう。よく生きていられるな」
 吸血鬼の中でも、純血の吸血鬼の血への執念は恐ろしいものがある。普段は一番紳士的な種族だけど、暴れ出せばどんな拘束をしても、たとえ腕が千切れても、狂ったように血を求める。
「まあな。ただ生きているだけ、だったがな。信じられないかもしれないだろうが、俺は昨日初めて外の世界を見たんだ。今までずっと地下室に隔離されていたから。自分とイナダ以外の吸血鬼を見たのも昨日が初めてだし、イナダ以外の者と言葉を交わしたのも、吸血鬼以外の生き物を見たのも初めてなんだ」
 ――吸血鬼以外の生き物を見たのは初めて?
 
「それじゃあ、どうして今日はここに」
 俺の言葉に、シムラはふと視線を逸らし、沈黙した。
「昨日は満月だったろう。しかも吸血鬼の一族の祭りだったはずだ。お前も参加したんじゃ……」
 ざぁっと、彼が青ざめる音が聞こえた気がした。見開かれた紅い瞳には、恐怖の色がありありと浮かんで見える。震える唇。何に、怯えている?
 それでも、その怯えも長くは続かなかった。彼女が、目を覚ましたからだ。

     ◆     ◆     ◆

 目を覚ました彼女は、まだ覚醒しきっていないぼんやりとした視線のまま部屋を見回した。自分が何故ここにいるのか、ここがどこなのかは分からないのだろう。ひどく不安そうな目をしてここは、と俺たちに問う。
「ここは俺の家です。どこか痛いとことかないですか?」
 そう訊けば、少し自分の体に目をやって、大丈夫だと頷く。
「……あなたが、助けて下さったのですか?」
 彼女がそう云うと、オオシマが横から僕だよ、と口を出した。
「お姉ちゃんを助けたのは僕。お姉ちゃん、森に落ちてたから拾ったの」
 ありがとうといいかけた彼女は、オオシマの方を向きかけてひっ、と小さく声を飲んだ。無理もない。未熟なオオシマは、完全な人型がとれない。茶色い毛に覆われた尖った耳と腕。犬歯というには鋭くて大きな牙。そして何より、ふさふさとした大きな尻尾が後でパタパタと揺れている。
「俺たちは、人狼一族の者だ。だが、あなたに危害を加えるつもりもない。怖がらないで欲しい」
 今にも泣きそうな彼女は、それでも気丈に振舞って頷く。ぎこちないけれども、しっかりとオオシマを見つめて、ありがとう、と口にした。
「僕ねぇ、オオシマって言うの。お姉ちゃんは?」
 彼女が騒がなかったのに気をよくしたのか、オオシマは嬉々として彼女に話しかける。彼女は小さい声でシホ、と答えた。
「シホお姉ちゃんか……。あのね……御頭。それで、シムラさん」
 そういって、オオシマは俺たちを順番に見ながら、彼女に紹介した。
「人狼一族の長を務めています。カミヤといいます」
 御頭が名前だとは思わないだろうが、一族以外の者にそう呼ばれるのも何か気恥ずかしいから、先に名乗っておく。彼女は、もう恐怖を感じなくなったのか、俺たちに向かって頭を下げ、微笑んだ。
「怪我は、大丈夫ですか?」
 顔を上げた彼女は、シムラに向かってそう問いかける。シムラはそっけなく、あぁ、と答えた。
 
「ねぇ、お姉ちゃん、お腹すかない? 昨日、僕が獲ったハトあるの」
 オオシマが突然そんなことを口にする。けれど、彼女はきょとんとした顔で首をかしげた。
「馬鹿。人間がハト食べるわけないだろう」
 俺の言葉に、オオシマはどうして? と聞き返す。
「ハト、おいしいのに」
 まだ文句を言っているオオシマに、りんごの存在を告げる。りんごなら、多分彼女も食べられるだろう。キッチンから持って来いと云ったら、オオシマはあっという間に階下へ駆け出していった。
 
「そうだ、お前は?」
 シムラだって、何か食べた方がいいだろう。けれど、生血を吸わない吸血鬼が何を食べるのか、俺には見当もつかない。
「というより、何が食べられる。血を吸ったことがないってことは、肉はダメなのか?」
 その問いには、違う、と小さい声で返事。
「生で食べないだけ。火を通したら、食べられる」
「そうか……けどな、火を起こすのは大事だな。もっと簡単に、生で食べられるものはないのか?」
 俺たちだって火は使う。けれど基本的には生で食べるから、火はあまり使わない。今使ったら、不審に思うやつはいないだろうが、興味を持った仲間はやってくるだろう。
「メープルシロップ」
「へ?」
 俺は一瞬何を言われたのかが理解できなかった。
「メープルシロップって、知らないか? カエデって木の……」
「いや、それは分かる。うちにもある。でもな……」
 まさかそんな妙なものを欲しがるとは思わなかった。大体あれ、食事って言うより調味料じゃないか。それでも、今のこいつが食べられるのはそれしかないようなので、俺は階下のオオシマに声をかけて、メープルシロップの樽も持って来させた。
 
「いただきます」
 そう云ってから彼は樽の蓋に手をかける。こくこくと彼の喉が上下する度に樽の中身は減っていく。出会ってから一番嬉しそうな顔で、こいつは、よりにもよってメープルシロップを堪能していた。
 オオシマは甘いのが好きでよく舐めているが、それでも舐める程度だ。樽から直接飲むような真似はしない。俺は甘いのがあまり好きじゃないので、見てるだけで胸焼けを起こしそうだ。……この光景を見るのなら、狂気の色を宿らせた瞳で、獲物の血を啜る光景を見る方がまだマシな気がする。
「おいしかった。ごちそうさま」
 満面の笑みで礼を云われ、床に置かれた樽を見れば完全に空になっている。……小さい樽とはいえ、片手では不安定で持ちにくいくらいの大きさはある樽だ。その樽の、半分は入ってたのに……。
 
 彼女の方を見ると、メープルシロップが好きだなんて、ちょっと可愛い、なんていってにこにこと見守っている。正直、彼女の落ち着き振りにも感心する。こいつら二人して相当ずれてるんじゃないだろうか。俺はちょっと頭痛がした。
 
 空腹が満たされ、彼女が完全に落ち着いたのを見計らって、俺はオオシマに少し彼女と話をしていろと云った。もう少しシムラから情報を集めたかったからなのだが、正直、ここから先の話はオオシマにはあまり聞かせたくない。シムラも彼女も、何とは云えないが、とてつもなくやばい匂いがする。厄介ごとに巻込まれるとしたら、俺だけで充分だ。まだ幼いオオシマまで巻き込むのは心苦しい。
「シホお姉ちゃんに遊んでもらえ。だけど、まだ怪我もしてるし疲れているんだからな。無理はさせるなよ。俺は隣の部屋でシムラと話してくる」
 俺の言葉を額面どおり受け取って、オオシマは嬉しそうにぱたぱたと尻尾を振った。
「噛み付いたりは絶対しませんから、人間の子供と同じように、遊んでやって下さい」
 彼女にそう頼むと、彼女はにっこり笑って頷いた。いつも何して遊んでいるの、と彼女に聞かれたオオシマは、いつも遊んでいるお気に入りのボールを取り出す。
 
 ボール遊びに夢中になっている二人を置いて、俺はシムラを連れて隣の部屋へ移った。

     ◆     ◆     ◆

 部屋を移って、扉を閉めて、中から鍵をかけるとシムラの表情に緊張が走った。
「ここは誰にも見つからないから、そんなに怯えるな。傷が癒えるまでここにいるといい」
 まだ硬い表情のまま、シムラは頷く。
 立って話をするのも落ち着かないので、オオシマがよく昼寝をするのに使っているソファーにシムラを座らせて、俺は低いテーブルを挟んだ向かいの床に座った。けれど、目線の高さが合わないのが気に食わなかったのか、シムラはソファーから降りて床に座る。顔を上げたシムラと、視線がぶつかった。
 
「さっきの続きだが、昨夜の祭り、お前は参加しなかったのか」
 もう二度目だからなのか、さっきよりは落ち着いている。むしろ今は、俺の問いに答えていいのかどうかを考えているのだろう。シムラは俺から視線を外す。
 しばらく沈黙した後、シムラは血の石って知ってるか、と問いで返してきた。
 
「聞いたことはあるが、見たことはない。お前の一族の秘宝なんだろう」
 そう返すと、シムラは頷く。
「有翼の吸血鬼だけが持つ骨でな、翼の付け根のところにあるんだ」
 この辺、と無理矢理腕を後ろに回して、人でいう肩甲骨の辺りを示す。
「真っ赤な血の色で、ルビーみたいだから血の石。たくさん血を吸ったやつのものの方が赤は濃くなるし高く売れる」
「それが……」
 俺の台詞を引き継いで、シムラは続けた。
「それが、うちの一族の宝だ。百年に一度行われる儀式には、その百年で死んだ吸血鬼の血の石が供物として使われる」
 なるほど、と俺は相槌を打った。血の石は、ただの石ではなく、吸血鬼の骨だったのだ。
「けど、もともと有翼の吸血鬼が少ないのと、今はハンターに狙われることも少ないのとで、この百年血の石は手に入らなかった……」
 確か、有翼の吸血鬼は吸血鬼同士の間にしか生まれないと聞いた。だが、子供を生み、育てるよりも、ある程度自分の身を守れる他の種族の大人を吸血して一族に加える方が、簡単だ。だから、吸血鬼同士の子供は少ない。
 しかも、人間たちと俺たち獣人との住み分けが進んだことで、以前は大勢いた獣人や吸血鬼などを狙う人間、俗に云うハンターも激減した。森に住む人間が減ったのだ。
 だから、この百年、有翼の吸血鬼は死ななかったのだろう。
「代わりの珍しいものって言うのが、俺だ」
 シムラは少し、自嘲気味に笑った。
「純血畸形の吸血鬼。一族の秘宝と同じ扱いを受けられること、光栄に思えと父親に言われた。イナダも、泣いてくれた」
「イナダ?」
 何度か聞いたその名前。それは、祭りの夜に会ったあの人の良さそうな吸血鬼のことだろうか。
「俺の世話係。もともとは人間だったんだけど、俺が生まれるちょっと前に吸血鬼になったんだって。俺はずっとあいつに育てられたんだ」
 言葉と共に浮かんだ笑みは、そのイナダという存在をこいつがどれだけ信頼しているかを明確に表している。
 そして、あの夜イナダさんが呟いた言葉の意味も、今なら理解できる気がする。彼は、吸血鬼になってからの生を、ずっとこのシムラと共に、シムラのためだけに捧げてきたのだろう。
「だから、俺はイナダのために……この翼をカミに捧げなきゃいけなかったんだ」
 下を向いて、消え入りそうな声で、シムラは呟いた。
「カミが欲しいのはこの翼だ。俺じゃない。けど……痛くて逃げ出した」
 ――逃げ出した? あのカミから、逃げ出したというのか。
 
「逃げ出すなんて、許されることじゃないのにな。俺は一族のためにこの命、カミに捧げなきゃいけないのに……イナダも……喜んでくれたのに……でも……」
 掠れた声で、ごめんなさい、とここにはいないその存在に向けた後悔の言葉が繰り返される。だけど、本当にそうなのだろうか。
「けど……多分違うと思うぞ」
 俺の言葉に、シムラは顔を上げた。
「どういうことだ?」
 深紅の瞳に、不思議な光が宿る。
「彼の涙は、嬉し涙じゃないと思うぞ」
 シムラはもう一度、どうして、と問うた。
 
「イナダというのはお前の父親の秘書役だろう。昨日の祭りには俺も参加してな、少し話した」
 信じられない、という表情でシムラは俺を見つめる。
「ひどく悲しそうだったよ」
 嬉しいと口では言いながら、彼の表情はひどく悲しげだった。その理由も、今なら分かる。
「今年の供物は一族の宝でもあるけれど、自分にとっても特別な存在だといっていた。この世で一番美しい宝物だとな」
「……何で……」
 それだけ云って、シムラは絶句した。
 
 ――吸血鬼の長ヤシュウのところに畸形が生まれた。
 そんな噂を聞いたのは、俺がまだオオシマよりも子供だった頃だ。
 ――翼が透明らしい。
 そんなの、ありえないと思った。でも、もし本当なら、一度見てみたいと思っていた。
 その子の名前はシムラ。透明な翼の吸血鬼。
 でも、その噂には続きがあって、彼はすぐに死んでしまったと聞いた。吸血鬼の一族すら、その存在を噂以外で知ることはなかったのだ。
 だから、まさか生きているとは、いや、それ以前に本当に存在するとは思っていなかった。
 けれど、シムラは今俺の目の前にいる。噂どおりの透明な翼と共に。
 
 子供というのは、ただでさえ弱い生き物だ。しかも、こいつは飛ぶことも出来なければ、太陽の光に当たることすらできない、弱い存在だ。
 ヤシュウは、こいつを可哀そうに思ったのだろうか。守ってやろうと思ったのだろうか。
 一人の部下を養育係にして、外敵のいない地下室に閉じ込めて育てた。
 ――血の誇りを知ることもなければ、穢れを知ることもない翼ですよ
 そうだろう。自分と世話係以外の存在を知らず、外界と隔絶された世界で生きてきた存在だ。
 
 こいつの生きる意味って何だったんだろう。ヤシュウが、こいつを生かす意味って何だったんだろう。
 とりあえず、珍しいから生かしておいて、後で何か使い道を考えようとでも思っていたのだろうか。
 そして出来たこいつの『使い道』――血の石の代わりの、一族の宝。
 カミが欲しがったのは、こいつの存在そのものではなく翼だけだと、シムラは云った。おそらく、無理矢理翼を引き千切ろうとしたのだろう。こいつの肩の傷は、竜族の牙の跡だ。そんな激痛、耐えろという方がおかしい。
 
「ところで、彼女はどうしたんだ」
 シムラは大体理由が分かったが、彼女は一体何者なのだろう。俺の問いに、シムラは一言、連れてきた、と答えた。
「カミの子供を生むんだって、云ってた。けど、人は、竜族の子供を生めない。あそこにいたら、シホは死ぬから……だから……」
 俺が無理矢理連れてきたんだ、彼女の意思じゃない、とシムラは俺に訴えた。
「お前、彼女のこと好きなのか?」
 通りすがりの人間を、わざわざ危険を冒してまで助けるやつはいないだろう。けれど、俺の問いに、シムラは分からないと答える。
「分からない。だけど、シホは俺を助けてくれた。自分が俺を逃がしたことにするからって……。でも、俺だけ逃げられて、シホが死ぬのは駄目だと思った。理由は分かんないけど、胸がぎゅってなって、それじゃ駄目だって気持ちになった」
 『イナダ』しか他者のいない世界で生きてきたシムラに、複数の他者との関係から生み出される複雑な感情は手に余るのだろう。熱に浮かされたような顔で、シムラは話し続ける。
「それに……女は子供を生ませるための道具じゃないって、イナダが云ってた。大好きな相手との間に、子供は生まれるんだって。だけど、シホはカミのこと大好きじゃないと思う。あと子供が生まれてもシホが死んだら、もしカミがシホのこと好きだったら、悲しいと思う……」
 たどたどしい言葉は、頭が悪いからではない。知識がないからでもない。ただ、シムラには経験がない。他者との間に生まれる、感情という経験が。
 だから、制御しきれない感情に任せて、こいつは彼女を連れて、カミの元から逃げ出した。
 村や一族がどうなるか、などという世界の者なら一番最初に考える建前を無視して、ただ目の前の状況だけ見て……。
 
「俺のしたことは、間違ってたのか?」
 ふと、シムラは呟くようにそう云った。
「カミの云うことを聞くのは、この世界の決まりだから、それを破った俺は、間違ってたのか?」
 俺は、間違っているとは返せなかった。
「……俺とシホが逃げたこと、多分すぐばれる。そしたら、吸血鬼と人間は、カミに滅ぼされるのかな……」
 カミがどうするかなんて、俺には分からない。
「俺とシホがここにいたら、お前にも迷惑がかかるな。謝ってすむことじゃないけど……ごめん……」
「やめろっ」
 気が付いたら、怒鳴っていた。シムラは、俺が迷惑だという意味で怒鳴ったと思ったのだろう。悲しそうな顔でもう一度ごめんといった。
「お前は、間違ってなんかいないんだ」
 ――間違っているのは、世界の、カミの方だ。でも……
「カミは世界で一番の存在。だから、カミがすることに逆らってはいけない。カミが望むことは、たとえどんなことでも受入れなくてはいけない。だろ? それに逆らったんだ、俺は間違ってる」
 違うといいたくても、いえなかった。それを云ったら、今までの自分を、否定することになってしまう。この世界で、生きられなくなってしまう。だけど……
「もういいよ、カミヤ。庇ってくれて、ありがとう。けど、大丈夫。動けるようになったら、カミの所に戻る」
 何かを悟ったような顔で、シムラは笑った。
「そうじゃなかったらさ、面倒だとは思うけど、俺の翼とって、カミに届けてくれないか」
「お前……何云って……」
 もう騒がないからさ、とおどけるシムラが理解できない。それでも、俺にはカミを否定する言葉は言えなかった。
 
 結局俺は、シムラを肯定することも、否定することも出来ず、無力感に包まれたまま部屋を出た。
 ただ、傷が治るまではここにいろと、早まった真似はするなと、それだけは約束させた。今シムラに死なれたら、夢見が悪すぎる。俺の思考をどこまで理解したのかは分からなかったが、シムラは俺の言葉にありがとうと笑った。
 
 カミを否定する勇気……今の俺にはない。でも、目の前にいる傷ついた彼らを、さっさと追い出して生きていけるほど、図太い神経も持ち合わせてはいない。カミの元から逃げ出した時のシムラも、きっと同じように彼女を助けたのだろう。
 世界の大きな理屈に、面と向かって異を唱えるほどの力はない。でも、世界の端っこで、ほんの少しの違反をするくらいの度胸はある。大きな正義と、小さな違反。その狭間で何とかバランスをとりながら生きるのが、この世界の暗黙のルール。けれど、そのバランスが大きく傾いてしまったことを、俺たちは後で嫌というほど思い知らされることになる。



 ▼ 第三章:怒り
 洞窟の奥底にある小さな部屋。元々は岩が剥きだしで、調度品も何もないただの空間だった。
 そこに、テーブルやら椅子やらを作って持ち込んだのは、ほかならぬ自分だ。あまり出来の良くない代物ばかりだったが、それでもこの部屋の主は喜んでくれた。
 長方形というよりはむしろ台形に近い、衣類を入れる箪笥代わりの箱。仕切り板が斜めになっている本棚。この二つは、一緒に作った。あまりにも不恰好で、彼には相応しくない気がしたのに、これじゃなきゃ嫌だといって使っていた。残されたのは、そんなものばかりだ。
 この部屋の主は――もういない。代わりに自分がここで過ごすようになって、もうどれくらい経つのだろう。いや、時間なんて関係ない。私には必要のないものだ。
 
 あの日、祭りが終わった後、私はヤシュウに呼ばれた。口先だけの礼と、労いの言葉。そして私に与えられた、最後の任務――沈黙を守り続けること。
 殺さないだけマシだと思ってくれと、あの男らしい理由で私はここに幽閉された。もう二度と、外の世界を見ることはないだろう。残された生を、ただひたすらに浪費するのが私の最後の仕事。
 ――悔しくはない。元から、あの男に与えられた命だ。
 崖から落ち、死を覚悟した時、あの漆黒の翼の男が現れた。生きたいかと問われた私は、あまり深く考えず、生きたいと答えた。そして与えられた永遠にも等しい命。
 人であった時間と、人ならざる者である時間、どっちが長いかなんて考えるのも愚かしい。それでもまだ、自分が人であるような気がするのは、生まれてから人格が形成されるまでの期間を、人として過ごしたから……なのだろうか。
 それすら、どうでもいい。大きな役目を終えた命は、ただ死を待つだけ。
 
 与えられた命には、明確な意味があった。私の命は、ヤシュウの息子を育てるためだけに存在するのだと気付くのに、時間はかからなかった。
 片手に乗るほどに、小さな吸血鬼。見た目はほとんど人間の赤子と変わらない。よく泣く、よく眠る。
 しかし、寿命が長い分、成長も遅い。人間ならとっくに成人していい時間が経っても、赤ん坊のままで、あーとかうーとか、そんな意味を成さない言葉しか話さない。……何度、投げ出そうと思っただろう。あの細い首を片手で押さえつけるだけで、すぐに自分は解放される。何度そう思っただろう。それでも、母親を亡くし、父親からは疎まれているこの子供が、ほんの少しだけ不憫に思えたのと、投げ出したら殺されるという自分可愛さで、私は世話をし続けた。
 人格らしきものが出来始めてからは、世話をするのがあまり苦ではなくなった。私しか、他人の存在を知らない彼は、イナダ、イナダと、それはもう鳥のヒナのように懐いてきたのだ。人間だった頃の自分は、狩りで家を空けることが多く、子供にここまで懐かれることはなかった。可愛がりすぎたせいか、少し甘ったれた性格になってしまったが、それでもよく育ってくれたと思う。
 文字を覚えてからは、ひたすら読書に没頭し、まだ見ぬ外の世界に思いを馳せた。星はどのくらい遠くにあるの、と問われて、答えにつまったことも今では懐かしい思い出だ。
 外に出たら、友達が欲しい。友達が出来たら、みんなで星を見に行くんだ。そういって、彼は待ち続けた。自分が外に出られる日を。
 本来なら、彼は幽閉される予定ではなかったのだ。確かに、翼の色は他とは違ったけれど、一族の長の血を引くのは彼しかいない。次の長になるのは、彼のはずだったのだ。……いや、今でも、正統な後継者は彼しかいない。だから、私は幼かった彼に、他人と会った時には失礼のないように礼儀を尽くせと、教えた。挨拶は基本だと徹底して教えた。
 しかし、いつの間にか彼の存在は表舞台から消され、彼が外に出て、他人と会う可能性はなくなった。
 言葉にはしなかったが、私の表情から何かを読み取ったのだろう、彼は友達の話をしなくなった。外の世界の話をするのをやめてしまった。
 私は私で、彼に社会性を身につけさせることをしなくなったが、それでも彼は、私に対してだけは律儀に言いつけを守り、主従関係を演じ続けた。もう一つ、本を読むことも、何故か彼はやめなかった。おそらく、彼にとって最後に残された、外との唯一の繋がりが本だったのだろう。それを手放したとき、彼は完全に孤独になってしまうと、そう思ったのだろう。
 
 しかし、狭い部屋だ。いや、そんなことをいってはならない。四百年もの時間、彼はここで過ごしてきたのだから。この部屋しか知らなかった彼。ここが自分の世界の全てだと、そういって笑っていた。
 あの日、部屋の外へ連れ出そうとした時、一度だけ嫌がるそぶりを見せた。子供の頃は、何をするにも嫌だ嫌だと反抗されて、手を煩わされたが、成長するにつれて、聞き分けの良い子に育った。だから、最後に反抗されたのはいつだったろう。苦笑した私に、彼はたった一言、怖い、といった。大丈夫だと宥め賺して、外に連れ出した。その後は、嘘のように落ち着いて、初めて会う父親にも脅えることはなく、完璧な作法で堂々と振舞ってみせた。まぁ、初めまして、は予想外だったが。
 
 今頃彼は、どうしているのだろう。……考えて、後悔する。何をしているか以前に、生きているはずがない。
 カミは、最近ますます暴君と化し、世界の平穏は崩れかけている。少しでも逆らえば、異常なまでの日照り、洪水の繰り返し。カミの機嫌をとることに、どの一族も必死だ。
 以前見てしまった、八つ当たり同然で引き裂かれた人間の姿。記憶の中のそれに彼の姿が重なる。……考えたくもない。
 
 カミに逆らうことは許されない。けれど、もしも一つだけ願いが叶うなら……
「若……さま……」
 どうかご無事で。
 
 もう何度目かになる思考の繰り返しの後、私は初めて、外の様子がおかしいことに気が付いた。

     ◆     ◆     ◆

「イナダ様っ」
 扉の向こうで、声がする。私の世話係を引き受けた、カズマの声。
 ひどく慌てていて、私が鍵を開けるのももどかしいのか、がんがんと扉を叩いてくる。
「どうした、そんなに慌てて」
 扉をあけると、怯えと驚きと焦りとその他いろいろな感情が入り混じった表情で、カズマはもう一度私の名前を呼んだ。
 
「カミが……今……ヤシュウ様のところへ……で、ヤシュウ様がイナダ様……」
 ぜぇぜぇと、吸血鬼にしては珍しい屈強な肩を上下させ、荒い息をしているカズマの言葉は何を言っているのか分からない。
「あのな。全く分からん。もう少し落ち着いて話してくれんか?」
 そういった私に、カズマは申し訳ありませんっ! と頭を下げ、一度大きく息を吸ってから話し始めた。
「先程、カミが、ヤシュウ様のところへ来ましてですね……供物がどうとか……その辺はよく分からないんですけど、まぁ、何かあったみたいで、それで、ヤシュウ様がイナダ様を連れてくるようにと、俺に……」
 ――供物。その言葉だけで、体温が急降下する。彼の身に何かあったのか――
「わ……いや、供物に何があった!」
 カズマの胸倉を掴んで問い詰めると、カズマは驚いたように知りません、と叫んだ。
「とにかく、俺は、イナダ様をお連れしろといわれただけなんです。他は何も知りません」
 確かに、知るわけがない。ヤシュウと私以外、供物の正体を知る吸血鬼はいないのだから。他の吸血鬼は皆、あの棺桶の中身をヤシュウの宝だと思っている。吸血一族長が持つ秘宝。要するに、ただの私物。
 宝であることに変わりはない。けれど、あれは物ではない。私が育てた――一人の吸血鬼だ。
 とにかく来てくれというカズマに、引きずられるようにして、私はしばらくぶりに部屋の外へ出た。

     ◆     ◆     ◆

 あの日、彼がヤシュウと対面した部屋に、私は通された。
 大きなテーブルには、ヤシュウと、カミ。
 イナダ様をお連れしました、というカズマに、下がっていいと一言だけ言い放ち、ヤシュウは私に席を勧めた。
 
「この者が、あの翼の管理者でございます」
 そういって、ヤシュウは私をカミに紹介した。カミは、竜族なので実際の年齢は全然違うだろうが、見た目は私より少し年上くらいだ。人間で言えば、六十の後半くらい。土色の皮膚に、真っ白い髪と髭。眉の奥で緑色の瞳がぎらぎらと奇妙な光を放っている。その目が、不自然に細くなった。
「お前は、あの者に何を教えたのだ」
「は? おっしゃる意味が分からないのですが……」
 ――何を、教えた? 何のことだ。
「聞けば、あの者はお前以外の存在を知らずに育ったそうではないか。世界の掟、お前はあの者に教えなかったのか?」
 一般常識的なものは、一応教えたつもりだ。しかし、あんな狭い部屋で、他人は私だけで、そんな特殊な環境では、複雑な関係は築くことが出来ないし、学ぶ機会もない。けれど……
「確かに、特殊な環境で育った以上、外での常識を知らないことはあると思います。しかし、私が見た限り、彼はそれほど……非社会的な行動を取るとは思えないと……」
「私への供物を誑かし、誘拐するのは非社会的行動ではないのかな?」
「は?」
 何を云われているのか、全く分からなかった。ただ、嫌な予感だけはする。
「人間たちからの供物を、誑かし、あの男は逃げた。これは、吸血一族の反逆ととっていいのかと聞いている」
「お、お待ち下さい。そんなこと、彼が……若がするはずありません」
 そんなこと、あの優しい彼に出来るはずがない。けれど――
「だったらどう説明する。現にあの男は私の元から消えた。人の供物も一緒に」
「それは……」
 事実だけを言われてしまえば、何も言い返せない。答えに困る私に、ヤシュウは追い討ちをかけるように言葉を放った。
「イナダ。シムラに、何を教えた。何をさせた」
「咎められるようなことはしておりません。何も、させていません……」
 供物になるのが決まってから、私は彼とまともに話していない。大体、人間の生贄がカミの洞窟にいることすら、私は知らなかったのだ。一体何の指示ができるというのだ。しかし、何を言っても、今は言い訳に取られてしまう。突然の出来事に、私は言葉を失った。
 
「祭りの供物を変えたのは、お前たちだ。その供物が私に逆らったというのは、お前たち一族の、私に対する反逆ではないのかな?」
 その言葉に、ヤシュウが、普段から青白い顔を更に青くして、お待ち下さい、と叫んだ。
「そのようなつもりはなかったのです」
 慌てて否定するが、カミは、そうかな、と問う。
「血の石は、死んだ吸血鬼から取るものだ。しかし、今回の供物は生きていた。元々死んでいた者から取るものならともかく、生きている者の翼を……命を、捧げるのは、惜しいと思ったのではないのかな?」
「違いますっ!」
 ヤシュウは即、否定した。その声が、言葉が、頭の中で反響する。
 ……彼の存在は、その程度だったのか? 何故そんなに早く、否定できる? 仮にも、血の繋がった子供ではないのだろうか。怒りも悔しさも通り越して……虚しい。哀しい。けれど、ヤシュウはそんな私の思考に気付くこともせず、言葉を続けた。
「ならば、あの者の首を以って、忠誠の証にさせていただきたい。どうか、今一度我らに機会を……」
「……ならば、次の銀の満月まで待とう。その夜までに、探し出すことが出来たら、今回のことは不問にしよう。出来なければ……一族挙げての反逆とみなす。良いな?」
 銀の満月と繰り返し、頷いたヤシュウを満足そうに見て、カミは立ち去った。
 銀の満月……冬の一番寒い夜に現れる、真っ白な満月。その月は、雪に反射して、夜の世界をきらきらとした光で飾る。
 今はまだ夏が終わったばかりなので、おそらく半年はあるだろう。……いや、半年しか、の間違いかもしれない。半年後……生き残るのは、一族か、彼か……。
 
「やはり、殺しておけば良かったな」
 カミの後姿を見送った後、振り返りもせずにヤシュウは言った。
「珍しい翼だから、何かに使えると思ったが、とんでもない災厄を招きおった」
 ……そんなのは、彼には関係ない。そんなのは、周囲の勝手な言い分だ。
「イナダ。すまないが、また働いてもらうことになりそうだ。なるべく静かに、あいつを探し出せ。他の一族には悟られるな。特に、我が一族を蹴落とそうとしている者どもにはな」
 それでも、私は、分かりましたと答えるしか出来なかった。いや、むしろ、これはチャンスだ。私に一任されたということは……彼を救えるかもしれない。しかし、それにはまず彼を探さなければならない。けれど、翼を持たない自分が、歩いて探せば、一日に探せる範囲は限られてくる。信頼できる、強力な味方が必要だ。
 頭の中に、この前会った若い人狼の顔が浮かんだ。
「あの……」
「何だ」
「探すといっても、我らの力には限界があります。嗅覚の鋭い、人狼一族に手を借りるのは……」
「……まぁ、いいだろう」
 意外にも、ヤシュウはあっさりと頷いた。
「ただ、なるべく事情は伏せることだ。今は同盟関係にあるとはいえ、ちょっと前までは敵対していた一族。しかも、つい最近長が代わった。若い長だ。血気に逸って同盟を反故にするやもしれん。頼るなとは云わんが、くれぐれも慎重にな」
「はっ」
 人間で言えば、二十代半ばくらいの青年だったが、ずいぶん落ち着いていて、血気に逸るという言葉は似合いそうになかった。それでも、そんなことを言っても意味がないので、私は素直に頷いた。
 
「なぁ、イナダ? これは、触れてはいけないものに、手を伸ばした私の罪かな」
 下がろうとした私の背中に、ヤシュウは独り言のような声を投げてきた。
「……私には、何も云えません。ただ、若に罪は……ありません」
 振り返ることは許されない。きっと、今、あのヤシュウはひどく情けない顔をしているだろうから。
「お前たちには、迷惑をかける。けれど……仕方がないことなんだ……」
 許してくれ、といわれた気がした。けれど、次の瞬間、ヤシュウはまたいつもの声でさっさと行け、と命じる。私はもう一度返事をして、部屋を出た。
 
 若様。どうか、ご無事で。
 何度も繰り返した願いは、さっきよりもずいぶんと現実的なものになっていた。



 ▼ 第四章:理
 シムラたちが来てから、数日が過ぎた。その間、世界は何も変わったことがなく、嘘のように平和だった。
 まぁ、今のカミももう歳だ。昔は、怒るととんでもない大雨を降らせて洪水を起こし、村一つ押し流すこともあったようだが、今はさすがにそんな力はない。けれど、長期にわたって雨が降らなければ、作物は枯れ果て、生き物は飢えと乾きに苦しむことになる。そうなれば、村一つどころか、大勢の動植物が死ぬ。ある意味最強の兵糧戦だ。
 ただ、それはすぐに分かるものではないから、俺は不安になりながらも、表向きは何もなかったように過ごしていた。
 
 オオシマは、シホに相当懐いてしまい、彼女の側を片時も……寝るときですら、離れない。大体、あの日も、シムラと話を終えて様子を見に行ったら、オオシマは完全に狼の姿に戻って、シホの隣でぐっすり眠り込んでいたのだ。会ってからたった数時間で、オオシマの警戒心を完全に解き、一番無防備な姿を晒させられる彼女の力には驚いた。けれど、彼女の浮かべる春の日差しのような柔らかい笑みを見ていると、何となく納得してしまう。ここにいてもいいよと、言われている気がするのだ。……いや、俺の家なのだから、俺がいていいのは当たり前なのだが、そういう意味ではない。存在を肯定されるような、温かい優しさが彼女にはある。
 そして、シホにべったりなオオシマを、シムラが何とも云えない表情で睨んでいるのはあえて見ないことにしている。オオシマはオオシマで、シムラの前では普段以上にシホに甘えているのだが、流血沙汰にならなければ黙認してていいだろう。今日もオオシマは、シムラが寝ているのをいいことに、朝からシホのそばで外出禁止令を満喫していた。
 
「うわぁぁいっ!」
 どたどたと、ものすごい足音を立てて、オオシマが二階から走ってきた。どうやら、シホとボール遊びを始めたらしい。シホが階段の上からボールを転がして、下にいるオオシマがそれを受け取る。それをオオシマがシホに持って行き、また階段の下で待機するというのを繰り返す、意味不明の遊び。何が面白いのかは分からないが、オオシマはここのところずっと、夢中になっている。
 
 掠り傷とはいえ、怪我をしていたシホが、ここまで動けるようになったのは、シムラのおかげだ。
 あの日、シムラはシホに、自分の血を舐めさせた。
「大丈夫。俺が血を吸ってからじゃなきゃ、あんたが俺の血を舐めても吸血鬼にはならない」
 そういって、シムラはナイフで自分の指先に傷を付け、滲み出したその赤い液体をシホに与えた。
 吸血鬼が血を吸って、他の者を吸血鬼に変えることはよく知られている。しかし、その際、吸血鬼もその者に血を与えることを、俺はあの時初めて知った。
 
 吸血鬼が他の生き物を吸血鬼にするには、二つの段階が必要らしい。一つは、吸血鬼が相手の血を死ぬ一歩手前まで吸い尽くすこと。そして二つ目が、自分の血を相手に吸わせることなのだそうだ。
 自分の血を極限まで減らされ、代わりに吸血鬼の血を流す。言葉通り、両者の間には血の繋がりができる。
「けどその時、相手は血を吸われて瀕死の状態だろう? しかも、大体血を吸う時には太い血管から吸うから、その傷だってほぼ致命傷だ。だけど吸血鬼の血を飲ませると、その瀕死の状態も致命傷も、治るんだってさ。吸血鬼同士には効かないのに、便利だよなぁ……」
 そういって、シムラはちょっとふくれた。要するに、自分の血を舐めても、他の吸血鬼の血を舐めても、シムラの怪我が治ることはないらしい。けれど、シムラの血を舐めれば、シホの怪我は治る。そういうことなのだそうだ。
 ちなみに、吸血鬼が血を吸いすぎてしまって、相手に吸血鬼の血を飲む力が残っていなければ、相手は死んでしまうし、ごく稀ではあるが、相手に血を吸わせるときに、吸い尽くされて命を落とす吸血鬼というのもいるらしい。だから……
「舐めるだけな。あんまり吸われると、俺が死ぬから」
 シムラの指先を咥えたシホに、笑いながら釘を刺す。けれど、その言葉が終わらないうちに、シホの傷は治っていった。
 
 ありがとう、と笑ったシホに、シムラは別に、と素っ気なく返した。……いや、多分、素っ気ないのではなく、どう振舞えばいいのかが分かっていないのだろう。他人との付き合い方なんて、自分で探っていかなければ意味がないから、手助けはしてやらない。まぁ、見てると面白いというのが本音の大部分を占めているのは否定しないけど。

     ◆     ◆     ◆

 バカラッ、バカラッ、バカラッ……
 日が暮れる頃、そろそろシムラを起こしてこようと思い、リビングのテーブルから立ち上がった瞬間、外で凄まじい音がした。馬の蹄の音に似ているが、音量が違いすぎる。
 こんな音を立ててやってくるのは――
「カミヤぁっ! お久しぶりっ!」
 馬鹿みたいに能天気な声で、ドアを蹴破らんばかりにして男が入ってきた。世界でもっとも希少な種族、ユニコーンのユウゴ。
 見た目は頭に一本の長い角が生えている白馬だが、風よりも早く天を駆け、その角は全ての毒を浄化する。その血は遺伝されず、突然変異でのみ生まれる彼らは数が少ない。一生かけても一度、会えるかどうか分からないと言われているほど珍しい存在だが、俺はもう飽きるほどに会っている。天を駆ければ光の粒子が降り注ぎ、どんな闇夜でもその真っ白な姿は光り輝いて見えるといわれ、その美しい姿は竜族と並んで称えられている。その美しさは、人型をとっても変わらず、どんな種族の女ですら一目見れば恋に落ちるという絶世の美女……ではなく美男子っぷり。ただし、こいつは少々、というかかなり、性癖に難がある。
 
「うわぁんっ! 会いたかったよ、カミヤ。ずっと一人にしてごめんね。寂しかったよね」
 別に俺には一族の仲間がいるから、一人ではない。そして寂しくもない。しかし、そんな答えをこの男が聞くはずもなく、こいつは俺の頭を撫でたり、抱きついたり、とにかくひたすらべたべたとさわってくる。
「……いいかげんにしろっ! こっちはいろいろと忙しいんだっ」
 そういって振り払うと、ユウゴは、怒った顔も好き、と意味の分からないことを言って笑った。もうずいぶん長い付き合いになるが、俺はこいつの行動が理解できない。
 
「面白いニュースがあるんだ。一番最初にカミヤに教えてあげようと思って、走ってきちゃった。聞きたい? っていうか、聞いて」
 そういって、我が物顔でキッチンに入り、俺のマグカップと湯飲みを出してきて茶を淹れる。来客用のカップもあるのだが、来客用のカップは品が良すぎて量が入らないので嫌だと断られた。以来、ユウゴはうちに来る度に俺のマグカップを使っている。……どうやら、シムラを起こすのはもう少し後になりそうだ。
 
「この前、吸血一族の祭りがあったでしょう。あの夜にさ、事件があったらしいんだ」
 一瞬、背中を逆撫でされたような気がした。ユウゴは、俺の変化に気付かなかったのか、そういえば君、あれに出席したんだっけ、とのんきに笑う。
「出席したなら、見られたの? 例の透明な翼の吸血鬼。シムラ君」
 俺は、いや、と首を振った。シムラに会ってはいるが、祭りに夜に見たわけじゃないから嘘ではない。するとユウゴは、だったら最初から話すね、と順を追って話し始めた。
 
 ユウゴの話を簡潔にまとめると、以下のようになる。
 吸血一族の祭りに使われた今年の宝は、例年の血の石とは違い、四百年前に流れた噂の吸血鬼、シムラだった。そして、カミはそれを自分のところへ持って帰り、祭りは無事終了。しかし、事件はその後で起きた。
 次の祭りまで、よほどのことがない限りは現れないはずのカミが、昨日、吸血鬼の長ヤシュウの元へ現れたというのだ。
 理由は、人間からカミへの捧げものであった巫女を、シムラが誑かして誘拐したから。
 本来なら、血の石を捧げてくるはずなのに、今年は違うものを寄越してきた上に、その代理の宝が人間からの供物を横取りするとは、どういう了見だと、怒鳴り込んできたらしい。
 このままだと一族を滅ぼすと脅されたヤシュウは、シムラを探し出して、血祭りに上げると言い出したのだそうだ。
 
「ね、すごいでしょ。本当に、シムラ君は存在したんだよ。カミヤ、ずっと会いたがってたじゃない」
 子供の頃、俺は何故か透明なものが好きで、よく集めていた。シムラの存在を聞いたとき、一度でいいから会ってみたいと、俺はこのユニコーンに話したことがある。それをずっと覚えていたのだろう。けれど、それどころではなくなったようだ。
「吸血一族は、鼻が利かないから、多分、君のところに依頼が来ると思うよ。シムラ君を探し出して欲しいってね……。そうしたらどうする、君は探す? それとも……もういるのかな? 例えば……二階に」
 笑顔で、心臓を鷲掴みにされた気がした。どうして、どうして分かった……。これ以上ないくらい、目を見開いた俺にユウゴはやっぱり、と笑う。
「長い付き合いだもん、顔見れば分かるよ。カミヤ、ずっと怖い顔してるし、シムラ君の話しても全然食いつかないんだもん」
 一番のニュースだったのになぁ、と少し残念そうな顔をしてから、ま、しょうがないか、と明るく言い放つ。
「ユウゴ……頼む、このことは……」
「いうわけないじゃん。僕、カミヤのこと大好きだもん。大好きって云うのはね、信じてるって気持ちも入ってるんだよ」
 だから云わない、とユウゴは繰り返した。
「カミヤがさ、もし、自分や他者の命や心を粗末にするようなことがあったら、僕は刺し違えてでも君を止めるよ。でも、君は今、そんなことをしていない。世界には逆らったかもしれないけど、それは誰かをいたずらに傷つけるためじゃないと、僕は信じてる。だから、僕は誰にも云わないし、君を守る。君の力に、なりたいから」
 
 ユウゴの性癖。それは、男女問わず平気で好きだとか、愛してるだとかそんな台詞を口にすること。そして、どうやら俺はこいつに一番気に入られているらしい。俺は普通に女が好きだから、お前のことは友人としか思えないと、何度言っても、僕は君が好きなんだから関係ないの一点張りで、全く聞く耳を持たない。自分が俺の一番になれなくても、自分の一番は俺なのだそうだ。
 僕が力になれることがあったら、遠慮なく云ってね、といつものように俺の頭を撫でて、ユウゴはそう囁いた。いつもなら、子ども扱いするな、べたべたさわるなと突き飛ばすところなのだけれど、今日だけはそんな気分にもなれず、俺は黙って頷いた。
 
 ばれてしまったのをいつまでも隠していても仕方ないし、正直、自分ひとりじゃ潰されそうだったから、俺は結局、ユウゴに全てを話した。
 翼を引き千切られそうになったシムラが逃げ出して来てしまったこと。カミの子供を生むはずだった彼女を、感情に任せてシムラが連れて逃げてきてしまったこと。その二人を、オオシマが拾ってきたこと。
 俺の話を最後まで黙って聞いていたユウゴは、俺が話し終わるとたった一言、やっぱりカミヤは優しいね、と笑った。
 
 僕は君の力になるよ、ともう一度いわれて、俺はユウゴをシムラたちに会わせることにした。
 階段の下で尻尾を振っていたオオシマに声をかけ、二階へ連れて行く。シホは俺の表情で何か気付いたのか、何も聞かず、黙ってついてきた。シムラが寝ている部屋に入ると、すでにシムラは起きていて、俺の後から入ってきたオオシマに向かって、お前うるさい、と文句を言う。オオシマは、だって遊んでたんだもん、とわけの分からない言い訳をして、シホの後に隠れた。
 
「あー、もう、喧嘩はいいから。いいか、こいつは、ユニコーンのユウゴ。俺の親友だ。信頼できる奴だから、安心しろ」
 不穏な空気を漂わせ始めたオオシマとシムラを宥めて、俺はユウゴをシムラたちに、シムラたちにユウゴを紹介する。シムラはまた、初めまして、とユウゴに挨拶した。
「初めまして。君がシムラ君。想像以上の美青年だね。カミヤとは対照的で……何かミステリアスな感じがしてすごくいい。それで、君がシホちゃん。君もすごく可愛いよ」
 そういって、ユウゴは極上の笑顔を浮かべた。
 
「ねぇ、シムラ君。失礼だけど、翼、僕にも見せてくれないかな。一度、見てみたいんだ」
 その言葉に、シムラは黙って頷いて、翼を出す。
「……すごい。本当に透明だ。綺麗だなぁ。何て云えばいいんだろう。すごく繊細で、君の雰囲気に合ってる」
 よほど気に入ったのか、ユウゴは聞いているこっちが恥ずかしくなるくらい、ありとあらゆる賛辞を並べてシムラを褒めた。云われたシムラは、そんな大したものじゃない、とぶっきらぼうに云って目を逸らす。
 けれど、あんまりのんきにシムラの翼を鑑賞している場合でもない。
「それで、周辺の動きはどうなっているんだ」
 俺の一言で、ユウゴは笑顔を消し、急に真面目な顔になって話し始めた。

     ◆     ◆     ◆

「シムラ君、君を責めるわけじゃないけど、君のしたことは今までの世界の均衡をぶち壊す行為だったんだ」
 さっき俺にした話をもう一度、状況を踏まえて話しなおしたユウゴは、最後に一言そういった。
「君は、地下室で育てられたんだったよね。だから、知らなくても仕方ない。だけど、この世界には守らなきゃいけない決まりがあってね。カミが決めたことは、どんなことでも受入れなくちゃいけないっていうのがそれだ」
 酷く悲しそうな表情で、シムラは項垂れた。
 
「だけどね、君がしたことは、この世界の決まりからすれば間違っているけど、本当は正しいことなんだ」
 ユウゴの言葉に、シムラはわけが分からないという顔をした。
「間違ってるのは……カミの方だ」
「ユウゴ! お前っ……」
 何てことを言うんだ。カミを否定すれば、世界を否定することになる。
「だったら……だったらどうして、間違ってるって云わない?」
 ――違う。云わないんじゃない。云えないんだ。
「カミに逆らったらいけないから? カミが強くて怖いから? 逆らったらいけないから……逆らわないために、間違ってることを正しいことにするのは、いいことなのか? 間違ってることは、間違ってるから間違ってることなんだろう? それでも、強い奴が正しいって言ったことが正しいのか? なぁ、どうして?」
 子供のように、シムラはユウゴを問い詰めた。ユウゴは穏やかに、落ち着いてと宥める。
「今から、すごく汚い大人の話をするよ。オオシマ君も、聞いておくといい。カミヤは、こういうこと教えないと思うから……」
 そういって、ユウゴは一息ついて、覚悟を決めたような顔で話し始めた。
 
「シムラ君が云ったとおり、この世界は強い奴が正しいってことになってる。そして、その強い奴っていうのがカミだ。だけど、そんな強い奴がいても、決めることが出来ないものがある。それが、皆の心だ。だから、世界の決まりがおかしいって思っているのはシムラ君だけじゃない。ちょっと考えればすぐ分かることだから、みんなが、そう思ってる。僕も、カミヤも……口に出して云わないだけで、心の中ではいつもそう思ってる」
 でもね、とユウゴは続けた。
「だからといって逆らえば、生きていけなくなる。この世界で生きている以上、この世界で生きられなくなることは、何よりも辛い。だから、生きるために、カミのわがままに付き合わなきゃいけないんだ」
 けれど、シムラはそんなのおかしい、ともう一度繰り返した。
「そうだよ、おかしいよ。けどね、それだけじゃない。例えば、どうして、カミヤが逆らわないか分かる? カミヤはね、人狼一族みんなの命を預かってるんだ。カミヤがもし、カミに逆らったら、それはカミヤだけじゃなく、人狼一族みんなの意思と取られてしまう。そしたら、もっとたくさんの仲間が死ぬことになるよね。それが出来ないから、カミヤは黙ってるんだ。それを君は、それでも君は、カミヤを責められるの?」
 シムラは項垂れるようにしながら、首を横に振った。
「シホちゃんを、生贄にした人たちだって、シホちゃんのこと、嫌いだったわけじゃないと思うよ。でも、他のみんなを守るために、すごく辛い思いをしながら決めたことだと思うんだ。シホちゃんも、それを分かって、受入れた」
 いつの間にか、シホの目からは大粒の涙が零れている。家族との別れを思い出しているのか、それとも……。
「私が、あの時、ちゃんと残れば良かったんです。シムラさんだけ逃げてって云えば良かったんです。でも、頭では分かってても、もしかしたら逃げられるかもしれないって思ったら……ごめんなさい……ごめん……なさい……」
 差し出された手を取ったシホを、手を差し伸べたシムラを、責めることは出来ない。たとえそれが反逆行為であっても。けれど、それは反逆行為なのだ。俺は……どうすればいい……。
 
「ねぇ、御頭? カミサマって、そんなに怖いの? どのくらい、強いの?」
 俺達の言葉を、必死に理解しようとしながら、オオシマはふと、そんな疑問を口にした。オオシマは、まだカミのことをあまり知らない。
「俺たちなんて、相手にもならないだろうな。大雨で、村流した事だってあるんだぞ」
 雨の日は外に出られないから、オオシマは雨が嫌いだ。だから、雨の話をすればきっと簡単に理解するだろう。ちょっと大雨が降る度に「明日目が覚めたら、家は水の上に浮かんでるの」と窓の外を見ながら不安そうにするのだから、よほどだろう。
「すごいねぇ……。海になっちゃう」
 近くの湖しか知らないくせに、オオシマは嬉しそうに海という言葉を使った。
「あとね、カミサマって、何で生贄とかあげなきゃいけないの?」
 ……子供はこれだから怖い。何でか、なんて答えられるわけがない。今までずっとそうしてきたから、としか答えようがない。返答に困ると、横からユウゴが助け舟を出してくれた。
「忠誠の証。僕らを試してるんだ」
 まぁ、的確な表現だ。そんなことで一族を差し出さなければならない方にしてみれば、とんでもないことだが、カミから見ればそんな理由だろう。しかし、オオシマはまだ納得できなかったらしく、どういう意味、とユウゴに返した。
「嫌なことや無理難題を押し付けて、それでもやるよね、って言ってるんだ」
「うー……」
 理解はしても、納得は出来ないらしい。ひどく不満そうな顔でオオシマはうなる。そんなオオシマにユウゴは苦笑しながら、もう少し、大人になれば分かるよ、と頭を撫でた。



 ▼ 第五章:旅立ち
「けど、これからどうするつもり?」
 僕の言葉に、カミヤはむぅと呻いた。シムラ君の傷が癒えるまでは、動くに動けないだろうけど、先のことは考えておいた方がいい。
「まぁ、シムラの傷が治るまではどうにもならんけどな。しかし、いつまでもここに隠しておくってわけにもいかんよなぁ……。うちの連中、鼻が利くし……すぐ嗅ぎつけてくんだろうな……」
 どうすっかなぁ、と呟き、自分の世界に入りこんでしまったカミヤにオオシマ君が突然嬉しそうに声を上げた。
「はい! 僕にいい考えがあります!」
 さっきより振り幅が大きくなった尻尾は、嬉しさのパラメータのようだ。満面の笑みの彼に、カミヤは少し不審そうな顔をして、何だ、言ってみろ、と問いかけた。
「あのね。それって、シムラとシホお姉ちゃんがかくれんぼするんでしょ? そしたら、これ使えばいいと思うの」
 そういって、シムラ君がさっきまで寝ていたベッドの下から一抱えもある瓶を取り出す。かなり古いその瓶は、ラベルが古ぼけて何が入っているのか分からなかった。
「何だこれ。お前、こんなもの隠してたのか?」
 カミヤにも、瓶の中身が何なのかは分からないのだろう。眉を顰めて彼に問う。すると、オオシマ君はにっこり笑った。
「僕の秘密兵器。シムラ、来て」
 そういって、シムラ君の手を引っ張り、どこかへ連れて行く。行き着いた先は――風呂場だった。
 まだ半分くらい残り湯が張ってある湯船に向かって、オオシマ君は瓶の蓋を開ける。茶色の瓶から、深い緑色の、どろりとした液体が流れ出し、残り湯の中に拡散した。
「何なんだよ。おい、こらオオシ……ごふっ」
 瓶の蓋を閉めたオオシマ君は、その湯船にシムラ君を頭から沈めた。それも、かなり強引に。暴れるシムラ君をものともせず、無理矢理湯船に全身を浸ける。
「こ、こら、オオシマっ! 何してるんだ」
 呆気に取られていたカミヤが、やっと正気に返り、オオシマ君からシムラ君を助け出す。相当水を飲んだのか、湯船から半身を乗り出し、げほげほと咽るシムラ君に、オオシマ君は満足そうな笑みを浮かべた。
「お前……何のつもりだっ!」
 流石に頭にきたのか、シムラ君がオオシマ君を怒鳴りつける。すると、オオシマ君は笑顔を消し、必死な声を上げた。
「違う。僕、ふざけてない。この汁、お風呂に入れて浸かると匂いが消えるの。人狼一族にも見つからないんだっ」
 その言葉に、カミヤがひくと鼻を動かす。完全に笑みが消えているところをみると、本物なのだろう。
「こんなもの、どこで手に入れた」
 喜びというよりは、むしろ険しい表情でカミヤはオオシマ君を問い詰めた。
「……ココノエのおじいちゃんに貰った。かくれんぼの秘密兵器だって」
「オヤジに?」
 驚いた表情で繰り返したカミヤに、オオシマ君はこくんと頷く。
「昔、戦争で、相手に匂いがばれないように使ったんだって……その残り……」
 かくれんぼの秘密兵器は、本物の兵器だったわけだ。どんなにうまく身を隠しても、獣人は匂いで居場所を掴んでしまう。この液体は、強力な消臭剤として使われていたのだろう。最大のライバル、吸血鬼の一族と、非戦協定を結んだ人狼に、兵器は要らない。だから、先代の長は、オオシマ君に与えたのだ。兵器ではなく、玩具として。
「で、お前は何に使ったんだ?」
 さっきとは別の、不穏な空気を纏ってカミヤはオオシマ君に問う。
「……かくれんぼ……」
 何か思うところがあるのか、オオシマ君の声が急に小さくなった。
「ほう。誰としたんだ?」
 にぃ、と口だけ笑みの形に歪めて、カミヤは問い詰めた。
「ご、ごめんなさい」
 あぁ、そういう用途か。戦争に使われた兵器も、彼が使えば可愛いものだ。慌ててカミヤの間合いから抜けようとした彼を、カミヤはいとも簡単に捕らえる。
「悪さしたお前が見つからないのはそれか? お前、俺とかくれんぼしてるつもりだったのか?」
「あ、あの……」
 言い訳をしようにも、うまい言葉が見つからないのだろう。震え出したオオシマ君に、カミヤは凶悪な笑みを浮かべた。
「うわぁぁんっ……」
 急所である尻尾を掴んで、お尻を叩くのは、人狼一族伝統の子供の叱り方らしい。ごめんなさぁい、と何度も繰返すオオシマ君に、昔のカミヤが重なる。けれど、オオシマ君もやんちゃだけど、カミヤはもっとひどかった。お尻を叩かれるのなんて日常茶飯事。それどころか、あのオヤジさんの重たい拳骨をくらってふっ飛ぶことも数え切れないくらいだ。それが今では逆の立場なんだから、成長とは面白い。僕は心の中で少し笑って、それからカミヤを止めにいった。

     ◆     ◆     ◆

「というわけでだ。オヤジ、これ、もっとないのか?」
 悪戯の逃亡に使ったのは褒められないにしても、その効果は絶大だし、今僕らが一番必要としているものであることも否めない。けれどあの茶色の瓶には、ほとんど中身が残っていなかった。だから、僕とカミヤは、オオシマ君にこれを渡した張本人、先代の長ココノエのところへ来ていた。
「あぁん? ねぇよ」
 ひどくあっさりと、オヤジさんは首を横に振る。カミヤに全権を譲って引退したとはいえ、骨太でがっしりとした体はまだ現役を退いていないことを明示している。カミヤが言ったとおり、面倒ごとを押し付けるためだけに、引退したのだろう。鋭い牙も、太い腕も、昔と全然変わらない。
「どこ行けば手に入る。っつか、これ、何で出来てるんだ?」
 問い詰めるカミヤを不思議そうな目で見て、オヤジさんは答えた。
「……パベルの葉だ。この辺にはねぇ」
「パベルって……」
 僕らは同時にそう繰り返し、絶句した。正直、そんな名前の植物は聞いたことがない。僕らの表情から、僕らがそれについて全く知らないことを読みとったのか、オヤジさんはさっさと続きを話す。
「こっから山五つ越えたとこに、ファルマの谷ってのがある。そこに生えてるけどよ……あそこは、ダメだ」
 ――駄目って、どういうことだろう。僕らは沈黙したまま、次の言葉を待つ。
「地竜の管轄だ。下手に入ったら食われるぞ」
「そうか……」
 カミヤの、明らかに落胆した声が響いた。竜族の管轄地域ならうかつに近づくわけにはいかない。しかも、地竜は気難しいことで有名なのだ。
「一体何に必要なんだ。そんなもん、ガキの玩具にくれてやったが、大人が使えば立派な兵器だ。何企んでると責められても、文句はいえねぇぞ」
 欲しがっているのが僕らだと気付き、オヤジさんの表情が険しくなる。
「カミヤ、お前ぇ、自分の立場、分かってんだろうな。お前の一挙手一投足が、一族全員の命に係わるってこと、忘れんじゃねぇぞ」
 オヤジさんの言葉に、カミヤはあぁ、と呻くような声で答える。
「ユウゴ、お前ぇも、あんまり無茶ばっかりやってんじゃねぇぞ。群れて生活してなくたって、お前は一人じゃねぇんだから」
 遺伝ではなく突然変異で生まれる僕らユニコーンは、カミヤ達みたいに血で繋がった仲間がいない。僕の親は普通の馬だ。僕の母親は、僕を生んですぐにどこかへ行ってしまった。父親なんて知らない。気が付いた時には、僕は一人でその辺の草を食べて、生活していた。だから、家族なんて僕は知らない。
 同じユニコーンの仲間を探したけれど、世界は広いのにユニコーンは少なくて、僕は未だに一人しか会ったことがない。その彼も、もう死んでしまったから、今は僕しかユニコーンはいないんじゃないだろうか。
 一人でいるのが寂しくて、僕は友達が欲しかった。珍しがって寄って来る奴らはいっぱいいたけれど、そんなのは友達じゃない。僕の角が毒消しに効くからって、僕を罠にかけようとする奴らもいっぱいいた。
 いっぱい騙されて、何度も命を狙われて、逃げて逃げて逃げまくって、やっと見つけた友達。それがカミヤだ。僕の姿を見ても、全然驚かなかったし、珍しがりもしなかった。……いや、珍しがったといえば珍しがったかもしれない。角の生えてる馬なんて、珍しいな、とそれだけ。姿を見せればきゃあきゃあ騒がれるのに慣れてしまっていた僕には、逆にその反応が珍しかった。友達になってくれる、と訊いた僕にカミヤはあっさり、あぁと返してくれたんだ。そしてカミヤのオヤジさんも、僕をカミヤの他の友達に接するのと同じように僕に接してくれた。むしろ、自分の子供と同じように接してくれたといった方が正しいだろう。悪いことをすれば、カミヤと一緒に叱られて、お尻を叩かれた。いいことをすれば、よくやったと褒めてくれた。カミヤと会ったあの日から、オヤジさんに初めて会った日から、僕には友達と家族が出来た。だから、僕はオヤジさんに迷惑をかけたくないし、悲しませたくない。でも、引き下がるわけには行かなかった。
 
「……しかし、若いっていいねぇ。何をするにも、理屈より感情が先走る」
 突然、オヤジさんはわけの分からないことを言って、笑い出した。
「おい、カミヤ。しばらく若いもん借りていいか。久しぶりに山狩りに行こうと思ってよ」
 山狩りとは、山一つを取り囲む狩りのことで、集団で行う。チームプレイと個人プレイの両方を必要とするので戦闘訓練も兼ねている。オヤジさんはこの狩りで若い人狼に狩りのテクニックを教え込むのが得意なのだ。
「……あぁ。怪我すんなよ」
 何故急にオヤジさんが山狩りをしたいなどと言い出したのかは分からない。カミヤも分かっていないのだろう。ひどく戸惑った声で、返事をした。
「馬鹿言っちゃいけねぇ。まだまだくたばっちゃいられねぇよ。じゃあ、決まりだ。しばらくお前は留守番してろ」
 そういって、オヤジさんは意味深な笑みを浮かべた。
 あぁ、そういうこと。オヤジさんが山狩りを始めれば、しばらくは仲間がカミヤの家を訪れることはない。おう、と元気よく返事をして、カミヤは立ち上がった。僕も慌てて後を追う。
 気ぃつけてな、という声が、背中に当たって、僕はひどく嬉しくなった。

     ◆     ◆     ◆

 オヤジさんの家を後にして、僕らは一度カミヤの家に帰った。山を五つ越えるなら、僕が走るのが一番速いけど、僕一人で行っても多分話にならないし、カミヤが家を空けるとなれば、オオシマ君に二人のことを頼まなくてはいけない。
 オヤジさんとの話のいきさつを掻い摘んで説明し、交渉に出かけると話したカミヤに、今まで黙って聞いていたオオシマ君が声を上げた。
「だったら僕が行く」
「はぁっ?」
 何を言っているんだというような表情で、カミヤは聞き返す。けれど、オオシマ君は気にせずに続けた。
「だって、御頭いなくなったら、困るでしょ。僕がここに残っても、シムラもお姉ちゃんも守れない。御頭はここで二人を守って。代わりに、僕がユウゴさんと行くから」
 確かに、カミヤをここから、というよりも、二人から引き離すのはあまりやりたくない。けれど、渦中のシムラ君を連れ出すわけにも行かないし、大体彼は昼間外に出ることが出来ない。シホちゃんは、そこにいるだけで回りから狙われる。人間の匂いは、野生の種族から見ればひどく魅力的なのだ。僕は肉は食べないから分からないけど、極上の食材らしい。オオシマ君は……それなりにしっかりしている。けれど……
「馬鹿なこと言うな。お前はまだ子供だ。気持ちは嬉しいけどな、ありがとう、オオシマ」
 そういって、カミヤは笑いながらオオシマ君の頭を撫でる。命がけの冒険をさせるには、オオシマ君はまだ幼すぎる。
「でもっ……御頭は、僕くらいの時に、一人で吸血鬼一族のところに行ってたって聞いた……」
 その一言で、カミヤの表情から笑みが消えた。
「……あのなぁ。誰に聞いたんだ、そんな話」
 苦い顔で、カミヤはオオシマ君に問う。それでも、彼はそれに答えようとはせず、僕だってもう子供じゃない、と反発した。
「人型もろくに取れないくせに……お前はまだ子供だ」
 その言葉に、オオシマ君はひどく悲しそうな顔をして下を向く。茶色の耳。ふかふかの尻尾。可愛いけれど、それはまだ子供である証でもある。
「僕だって……もう大人なんだっ。僕は……僕だって、みんなの……力になる……もう、なれる……」
 丸い金色の目から涙が溢れる。縋りつくというよりは飛び掛るような勢いで、彼はカミヤに食って掛かった。
「いいからお前は黙ってろっ」
「何で? 僕だって……ぎゃうんっ」
 掴みかかった彼を、カミヤは振り払う。力の加減を間違えたのか、オオシマ君は吹っ飛んだ。
「ちょっ……カミヤ……。何もそこまでしなくたって……」
 壁にぶつかった彼は、何が起きたのか分からないという顔で呆然としている。
「こんなもんじゃない。外の世界に出るって事は、この程度の危険じゃないんだ。……分かったらおとなしくここにいろ」
 有無を言わさぬ迫力で、カミヤは言い渡す。けれど、オオシマ君は嫌だ、と叫んだ。
「お前はっ……」
「もう、いいよ、カミヤ。僕が守るから。連れて行ってあげよう?」
 平手打ちでもくらわせかねない勢いのカミヤに、僕は割って入った。いざとなったら、彼を連れて逃げるくらいのことは出来る。けれど、カミヤは許さなかった。
「御頭の馬鹿っ」
 泣き喚いて、オオシマ君はリビングを飛び出したけれど、カミヤは苦い顔のまま後を追おうとはしなかった。

     ◆     ◆     ◆

「……どしたの、カミヤ。君がオオシマ君を心配するのは分かるし、君が吸血一族に襲われたのは知ってるけど、ちょっと過保護すぎない?」
 オオシマ君が言ったとおり、彼と同じくらいの歳のとき、カミヤは吸血鬼の森へ行き……死にかけた。それ以来、カミヤは他の種族との関係にはかなり神経質になっているから、反対するのは分かる。けれど、あんなふうに頭ごなしに反対するのは、カミヤらしくない。しかも、オオシマ君に対しては、カミヤは異常なくらい過保護なのだ。遊びに行くところも自分の縄張りの中だけ、丸一日家を空けることは許さないし、逆にカミヤが家を空けることも少ない。毎日必ず家に帰ってくるなんて、人間じゃあるまいし、普通の人狼なら絶対にしない。それでも、カミヤはそうやって彼を育てている。
「……あいつは、クジョウさんとミズキさんの息子だ」
 僕の方を見ることはせず、カミヤは呟くようにいった。けれど、クジョウとミズキ……その名前は僕も知っている。人狼の英雄クジョウと、その妻ミズキは、カミの最初の犠牲者。生贄ではなく、犠牲者なのだ。
 
 だんだん暴虐さを増してきたカミだけれど、三百年前のあの日、その事件は起きた。
 その頃の人狼と吸血鬼はいつものように抗争を続けていた。その前線に現れたカミは
 ――騒々しい。
 ただ一言、それだけいって、地下水脈の流れを変えて大地を爆破した。その爆発で、両者の戦力は致命傷に近いダメージを受け、抗争は停戦状態に陥る。しかし、それに飽き足らなかったのか、カミは首謀者として人狼のクジョウを見せしめのために殺したのだそうだ。元々仲の悪い両者だから、抗争だって日常茶飯事で、明確な首謀者なんて存在しない。それなのに、たまたまそこにいたというだけで、みんなに慕われていたというだけで、クジョウは首謀者にされた。吸血鬼からも人狼からもよく見える前線の平地でその死刑は行われたらしい。右腕、左腕、右足、左足……時には引き千切り、時には少しずつ水の剣で切り落としていくその光景は、それまで血で血を洗う争いをしてきた両者ですら、目を背けたくなるような惨いものだったという。そして、それを目の当たりにした彼の妻ミズキはカミに飛び掛り、返り討ちにあった。後少しでこの世に生まれるはずだったその命の塊は、母親の体から無理矢理引き出された。血塗れになりながら、最後まで彼女は、その命を守ろうとしたという。その時の命が、オオシマ君だとカミヤは言った。時を待たずして外界へ引きずり出されたその命は、奇跡的に、生き延びることが出来たのだそうだ。
 その後、カミの行動に恐怖と不安を抱いた両方の種族は、互いの安全を守るために、非戦協定を結んだ。
 
「元々抗争してたとはいえ、あの争いが長引いた理由には俺も入ってる。……クジョウさんのためにも、ミズキさんのためにも、俺はあいつを大人になるまで育てなきゃいけないんだ。万が一のことがあっちゃいけないんだ」
 吸血鬼の森に、許可なく入った人狼の子。それに私刑を下した吸血鬼。些細な争いだったけれど、抗争を更に煽るのには格好の材料だった。だからといって、カミヤがクジョウを殺したことにはならないけれど、クジョウを兄のように慕っていたカミヤからすれば、自分が殺したことに他ならないのだろう。
 彼女が命と引き換えに守ったオオシマ君を、カミヤは二人の代わりに育てている。どれだけ大事に育てているかなんて、今更何を言われなくても分かっている。けれど、オオシマ君本人はどう思っているのだろう。
 僕は、黙ってしまったカミヤをおいて、リビングを出た。

     ◆     ◆     ◆

「オオシマ君。ちょっといい?」
 彼は、二階の寝室のソファーの上で丸くなっていた。人型をとる気力もないのだろう、今は完全に狼の姿だ。僕が部屋に入ると、少しだけ頭を上げて視線を寄越したけれど、またすぐに丸まってしまう。
「さっきは、どっかぶつけたりしてない?」
 そっと話しかけると、彼は尻尾を少しだけ持ち上げて、大丈夫だというように軽く振った。
「あのさ、カミヤはさ……オオシマ君のこと、役に立たないって思ってるわけじゃないんだ。むしろ、大切だから、反対してるんだ」
 声は出さないけれど、すぴ、と小さく鼻が鳴る。僕はそれを彼の相槌と受け取って、勝手に話を続けた。
「オオシマ君は、カミヤの背中の傷、知ってる?」
 彼はまたすぴ、と鼻を鳴らす。カミヤの背中には、昔、吸血鬼に付けられた大きな傷の痕がある。背中の傷は、逃げようとして敵に背を向けなければつくことはない。だから人狼は背中に傷がつくことを一番の恥とする。そこに大きな傷があるカミヤは、あまり人前で背中を晒すことはない。水浴びすら嫌がるのだ。
「さっきの話、オオシマ君の知ってる話には、オオシマ君が知らないことがある。確かにカミヤは、君くらいの歳のとき、吸血鬼一族のところに一人で乗り込んだ。どうしても、見たいものがあったから。でもね、それであの傷を負ったんだ。抵抗なんて出来なかったって。ココノエのオヤジさんや、クジョウさんが助けに来てくれるのが、後ちょっとでも遅かったら、カミヤは死んでた」
「……どうして」
 彼はやっと目を開けて、僕の方を向いた。金色の瞳は、まだ少し潤んでいる。
「当たり前でしょ。他の種族の縄張りに、何の許可もなくずかずか乗り込んでいったんだ。子供だって、不審者とみなされて、敵とみなされて当然なんだ」
 視線はこちらを向いているけれど、返事はない。
「だから、カミヤは君が嫌いなんじゃない。大事だから……」
「違うよ」
 きっぱりとした口調で、彼は僕の言葉を否定した。
「御頭が僕のこと大事にするのは、僕のお父さんとお母さんのせいなんだよ」
「……オオシマ君」
 彼は、自分がカミの犠牲者の息子であることを知っていたのか……。
「知ってるんだ。僕のお父さん、御頭とすごく仲が良かったんだって。でも、お父さんとお母さんは……僕がお母さんのお腹にいるときに、カミに殺されたって……だから、御頭は僕が好きなんじゃない」
 捨てられた子供は、こんな目をするのだろうか。悲しそうというのではない、世界を拒絶する瞳。
「本当にそう思ってる?」
 それでもそう問えば、瞳の奥の金色の光は揺らぐ。
「思ってるよ。だって、本当だもん」
 声が震えているのは、気のせいではないだろう。
「そっか」
「御頭は僕のことが好きなんじゃないんだ……」
 自分に言い聞かせるようにして、彼は前脚の間に顔を埋めた。いつもは元気よく空を向いている尻尾が、重力に逆らうこともできずソファーから垂れている。
 
「けどさぁ、カミヤは、そんな理屈で君を育てられるほど心広くないと思うけどね」
 前脚の間から、金色の光が覗いた。
「君、すぐどっか行っちゃうし、野生種の癖に信じられないほどうっかりしてるからすぐ怪我するし……手がかかるどころじゃないよ」
 間違ったことは言っていないから、反論はされない。
「いくら仲が良かったって言ったって、クジョウさんもミズキさんももう死んでるんだよ? 本気で好きじゃなかったら、君のこと……」
「分かってるよっ」
 今度は顔を上げて、彼は僕を睨んだ。牙を剥き出し、今にも飛び掛りそうな勢いで精一杯威嚇する。
「お前に言われなくたって分かってるよ。御頭は、僕が怪我すればずっと心配してくれるし、僕が湖に遊びに行きたいっていえば、どんなに疲れてても連れて行ってくれるんだ。僕にだけ、僕にだけ一番、優しいんだ……」
 どうやら、要らない心配だったらしい。彼はカミヤの気持ちをちゃんと理解している。
「でも、御頭は僕にいっぱい優しくしてくれるのに、僕は……何にも、出来なくて……狩りだって、御頭や皆は鹿とか、大きいの何頭も倒すのに、僕はハトくらいしか取れないし……」
 大人とは違う、子供故の無力感。生きてきた時間が短いために経験が足りていないだけで、彼が劣っているというわけではない。しかも、比較対象が一族でもトップクラスの能力を持つカミヤじゃ勝ち目はない。他の大人だって、カミヤに勝てる奴はそうそういないのだから。それでも、毎日その姿を見ていれば、憧れが劣等感に変わることもあるだろう。
「だから、僕は、早く大人になって……御頭の役に、立ちたいんだ……」
 早く大人になるんだ、と彼はもう一度繰返す。
「本当だよ。大体、君が来てからというもの、カミヤは君にかかりっきりで、全然遊んでくれないし、夜だって……あぁっっ!」
「えぇっ!?」
 突然僕が大声を出したから、オオシマ君はびくりと全身を震わせてソファーから落っこちた。けれど、それを笑ってる場合じゃない。僕は肝心なことを忘れてた。
「オオシマ君、もしかしたら、君の力をどうしても借りなきゃならないかもしれない。ちょっと、確かめてくる」
 そういって、僕は唖然とした顔のまま固まっているオオシマ君を部屋に残して、リビングに駆け戻った。

     ◆     ◆     ◆

「カミヤぁっ!」
 リビングに駆け込むと、シホちゃんがお茶の用意をしているところに出くわす。シムラ君はシホちゃんにお茶の淹れ方を教わるつもりらしく、ティースプーンに載せた茶葉の量をシホちゃんに見せて確認しながらポットの中に入れている。飛び込んできた僕に、何事かという視線を向けるけど、詳しいことは後だ。僕は先に座って待っていたカミヤの前に立った。
「カミヤ、僕はとても、大切なことを忘れてたよ」
 カミヤの表情は一瞬で険しくなる。何だ、と問われ、口を開きかけた僕は、シホちゃんたちの存在を思い出し、喉までというより舌の上まで出た言葉を飲み込んだ。
「……ちょっと、ここではいいにくいっていうか、聞きにくい事なんだけど」
 急に歯切れの悪くなった僕に、カミヤは不審そうな視線を向ける。
「あのさ……君、その……らかじゃないよね」
 ……ダメだ。言葉にできない。
「は? 何だ、聞こえない」
 僕の葛藤なんて無視して、カミヤはあっさりと切り捨てた。
「だからその……」
 シホちゃんたちの前で、聞いていいのだろうか。
「はっきり言え。何だ」
「だからぁ……えっちしたことあるよねって聞いてるんだよっ……雰囲気で分かれよ、この鈍感狼っ」
 ……い、言ってしまった。カミヤの方を見れば、これ以上ないくらいに目を見開いて、硬直している。正直、すごく間抜け面だ。
「お、お前っ! お、俺が、五百年も生きてきて、一度も経験ないような甲斐性なしに見えるのかこの馬!」
 そういって、見事な正拳突きが決まる。
「痛っ。何も殴ることないじゃないか。しかも、僕は馬じゃないって何度いったら分かるんだよ。いい加減学習しろよ。っていうか、そしたら君僕に乗れないだろう?」
 大事なのは最後の一言だけだ。けれど、カミヤは全く状況が理解できていないらしく、は? と、またあの間抜け面をして聞き返してきた。
「ユニコーンはねぇ、清らかな乙女しか乗せないの。百歩譲って男でもいいけど、清らかってところは譲れないの」
 そう。ユニコーンは、清らかな乙女、要するに処女しか背中に乗せない。僕はちょっと変わってるから、男でもいいけど、それでもやっぱり未経験じゃないと乗せられない。
「ユウゴ……それは俺が穢れてるといいたいのか。あぁ? そういうことか?」
 こうなるともうその辺のチンピラと変わらない。ものすごい勢いで、僕の胸倉を掴んで締め上げてくるその姿には、人狼一族の若き長、なんて立派な肩書きは似合わない。でも、僕はこういうカミヤも好きだ。歳の割りに落ち着いている姿もいいけど、昔一緒にやんちゃして、馬鹿やって怒られてたカミヤはこうでなきゃダメだ。しかし、問題はそんなところにはない。
「そういうわけじゃないけど……でも、君を乗せて走ることは出来ない」
「そんな主義通してる場合じゃないだろう。今回だけだ。乗せてくれ」
 頼む、と、解放した僕にカミヤは手を合わせる。
「そうしたいのはやまやまだけど、これは主義とか趣味の問題じゃないんだ。体質というか、存在の根本に係わるところが大きい。乗せて死ぬことはないけど、風を切って走ることは出来ないから、その辺の馬と変わらないよ」
「むぅ……」
 飛べば片道二日の日程も、陸路を走れば片道半月以上かかるだろう。それじゃあ、意味がない。
「だからさっさと僕のものになっちゃえって言ったのにさぁ。他所の女に現を抜かすからこういうことになるんだよ」
「わけの分からんことを言うな。万が一、俺がお前を抱いたとしても、結局は同じだろうが」
 ……僕は君に抱かれるつもりはないんだけど、という訂正はこの際しないことにしよう。でも、もしカミヤが僕のものになっていたら、そしたら、僕はずっとカミヤを乗せて飛べただろうか。どこまでもずっと、一緒に行けただろうか。
「お前、本当に飛べないのか。頑張ればできるんじゃないのか?」
 そういって背後に回り、人型の状態の僕に乗りかかってくる。
「ちょっ、やめてよ。重たいだろ。……頑張ったってどうにもならないよ。吸血鬼が人狼の血を吸わないのと一緒だ。世界の理なんだよ」
 むぅ、とまたカミヤは考え込んだ。
「行けるのは……オオシマだけ、か……」
 あぁっ、と忌々しげにカミヤは吼え、恨めしげな目で僕を見る。
「けどなぁ……あいつはまだ……」
「僕が行くよ」
 いつの間にかリビングの入り口に立っていたオオシマ君が、声を上げた。
「僕しか、行けないでしょ? だから、僕が行く。僕は、御頭の……皆の役に立ちたい」
 今度は泣き落としではない。カミヤが苦い顔をして睨んだけれど、彼は怯まずにまっすぐカミヤを見据える。しばらく交錯した視線を、先に逸らしたのはカミヤだった。
「……たとえパベルの葉が手に入らなかったとしても、何があっても一週間以内には帰って来い。失敗しても、逃げ出しても、誰もお前を責めたりはしない。だけど……絶対に生きて帰って来い。死んでも、生きて帰って来い。それが守れるなら、行ってもいい。……いや、行けるのはお前だけだ、行ってきてくれ。頼む」
 そういって、カミヤはオオシマ君に向かって頭を下げた。
「御頭……」
 まさか頭を下げられるとは思っていなかったのだろう。びっくりした表情で、彼は絶句する。
「けど、死んでも生きて帰って来いって、矛盾してるよな」
 シムラ君が苦笑すると、シホちゃんもそうですね、と笑った。
 
「オオシマ、俺からも、お願いします。俺達のせいで、お前やカミヤや、ユウゴさんにはすごく迷惑かけてるし、危険な目に合わせてると思う。けど、どうか……」
 シムラ君の語尾が、頼みますだったのか、頼むだったのかは分からない。けれど、跪いたシムラ君に、オオシマ君はこくりと頷いた。
「自分のせいで、危ないところにいくの分かってるのに、お願いしてごめんね」
 泣きそうなシホちゃんに、彼は大丈夫だよ、と笑って見せた。
「心配しないで、お姉ちゃん。僕、危ないことしないよ。危なくなったら、ユウゴさんが連れて逃げてくれるから、大丈夫だよ」
 『ユウゴさんが』と限定して言われてしまったからには、責任は重大だ。何が何でも守り抜かなくてはならない。カミヤにも、オオシマを頼む、と釘を刺され、僕は頷いた。
 出発は夜明けと同時。簡単な旅支度をして、僕らは夜明けに備えた。
 
「それじゃ、行ってきます!」
 元気よく声を上げて、オオシマ君は人型から狼へと戻った。茶色の毛が朝日を浴びて金色に輝く。太陽に当たれないシムラ君には、家の中で挨拶をした。シホちゃんとカミヤは、家の前まで見送りに出てきてくれた。
「それじゃ、一週間後に」
 僕もそういって、ユニコーン本来の姿に戻る。オオシマ君が背中にしがみ付いたのを確認して、僕は蹄で風に乗った。カツン、と地面とは違う透明な音が響き、空気の質感や風の形が、人型のときよりもはっきり感じられる。夏が終わったばかりの空気は少ししっとりしていて柔らかい。実際目で見ることは出来ないのだけれど、この感覚は視覚に一番近い。まずは、見つからないように上へ昇ろう。かつっ、かつっと階段を昇るように空気を昇ると、あっという間にカミヤたちの姿は小さくなって見えなくなった。



 ▼ 第六章:旅路
 旅の滑り出しは、これ以上ないくらい快調だった。
 空を駆けたことのないオオシマ君は、僕の背中ですごく楽しそうにしていたし、風もいい感じに落ち着いていて、走るのには最高だった。
 日が暮れる頃には、ちょうど半分、三つ目の山に着いた。空で立ち止まって寝るのもいいけど、そろそろオオシマ君に何か食べさせないといけない。僕も一気に走ってのどが渇いたから、山に下りて、野宿をすることにした。
 
「ユウゴさんって、本当の風みたいだね。ずっと耳のところで風の音が聞こえてたから、僕も風になったみたいだった」
 出掛けにシホちゃんが持たせてくれたパンを齧りながらオオシマ君は興奮した声で話す。
「空は、寒くなかった? 地上とは、温度が違うだろう。風も冷たいし、雲はもっと冷たい」
 僕は慣れているけれど、彼は初めてなのだ。風邪を引かせたら、後でカミヤに叱られる。
「寒いけど、冬くらいだから大丈夫。あとね、ユウゴさんの背中、あったかいから大丈夫。僕、ずっとへばりついてたんだ」
 にこにこと笑ってオオシマ君は、今度はさっき自分で捕まえてきたウサギにかじりつく。地上に降りてすぐ、僕が水を飲んでいるほんの少しの間に捕まえてきたのだから、彼の狩りの腕は相当なものだ。すごいね、と褒めた僕に、彼はまだまだ、と首を振った。
 
「さあ、明日も夜明けと同時に行くよ。朝が早いから、しっかり休もうね」
 簡単な食事を終わらせ、夜露をしのげそうな木の洞に入る。そんなに広くないから、僕は人型をとり、オオシマ君は狼の姿に戻った。眠るために『伏せ』の体勢を取ってすぐ、オオシマ君は何か思い立ったように起き上がり、持ってきた布を広げて頭から被った。
「オオシマ君、寒いの?」
 地面はそんなに冷えていないし、風も当たらないけれど寒いのだろうか。すると布の中からうぅん、と返事がした。
「寒くない。大丈夫」
 さっきまでは楽しそうだったのに、今はあまり元気がない。
「どうしたの? 具合悪い?」
 散々背中で揺すってしまったから、気分が悪くなってしまったのだろうか。それとも、食べ物が……
「匂いが違う」
「え?」
 もそもそと布から顔を出して、オオシマ君は小さな声でそういった。
「この森、僕の住んでるところと匂いが違う。知らない匂いばっかり……」
 消え入りそうな声で、彼は続けた。
「木の匂いも違うから……」
 不安、なのだろうか。
「僕の住んでるところの木は、もっと柔らかい匂いがするんだ。土の匂いと、緑の匂い……」
 そこまで言って、僕が人狼程鼻が利かないことを思い出したのか、少し言葉を探すように視線を揺らす。
「夏の暑い日に森を歩くと葉っぱの匂いがするでしょ? あと、夏が来る前に雨が続くと濡れた土の匂いがする。僕が住んでる森は、その二つを混ぜた匂いがいつもしてる。濃かったり薄かったりはするけど、いつもその匂いがするんだ。でも、ここは違う。すっとする匂い。嫌いじゃないけど、違う……」
 僕には森ごとの匂いの違いは分からない。けれど、僕が風を感じるように、彼は匂いを感じるのだろう。そして、いつもと違うこの匂いに、戸惑っている。
「怖い?」
 そう問えば、首を横に振る。
「怖くないよ。僕はもう大人だから。全然怖くないんだ」
 そういいながら、布からはみ出た尻尾は地面にぴったりとくっついている。
「そっか。でも、大人だって怖いと思うことはあるんだよ。命を守るためには、怖いことは怖いと思えることも大事だ」
「ユウゴさんも、怖いことってある?」
 好奇心で瞳に光が戻ってきたらしい。金色の光が二つ、こっちを向く。
「もちろん。……秘密だけどね」
 そういうと、えぇ、と不満そうな声。
「教えて、教えて」
「教えなぁい」
「けちぃっ」
 さっきまでの不安そうな表情は消し飛んで、二人して笑う。
「さ、今夜は、ちょっと冷えるね。こっち来て、一緒に寝よう。二人で寝れば暖かいよ」
 僕の言葉に頷いて、彼は横向きに寝ていた僕の腕の中にすっぽり入る位置まで寄ってくる。抱きかかえると、カミヤとは違う柔らかい子供の毛が腕に当たる。
 この調子で行けば、明日の夜にはファルマの谷に着くだろう。地竜の管轄ともなれば、周りの空気はもっと物々しくなり、のんきに寝てもいられない。安心して寝られるのは今夜だけだから、しっかり休んでもらわないと困る。
 眠りに落ちるまでは、そばにいてやろう。そんな気持ちでいたのは最初のうちだけ。少し高めの子供の体温によって、僕はあっという間に夢の世界に導かれた。

     ◆     ◆     ◆

 太陽が昇るのと同時に出発するはずだったのだけど、思ったよりも昨日の全力疾走はこたえたらしい。二人して目を覚ましたときには、太陽はもう地平線を離れていた。それでも、まだ朝だ。たいした遅れではない。簡単な朝食を取って、支度をする。朝の歌を歌う小鳥たちを後に、僕らはまた大空へ駆け上がった。
 
 今日もいい天気だ。この調子なら、夕方には谷の入り口まで着けるだろう。そうしたら、一晩明かして、明日の朝には地竜に挨拶に行こう。一週間なんて要らなかったかもしれない。僕は嬉しくなって、硬質の朝の空気をかつかつ蹴飛ばして更に加速した。
 
 太陽の熱が行き渡り、大分足元の空気が緩んできた頃だった。背中に乗っていたオオシマ君が、前脚で僕の背中を軽く引っかく。
「どしたの? 喉でも渇いた?」
 立ち止まってそう問えば、うぅん、と否定の声。
「……この匂い、何?」
 少し脅えたような表情で彼は僕に訊いた。慌てて嗅覚を集中させるけど、僕の鼻には何も匂ってこない。
「鼻の奥が、乾いてひりひりする。火の匂いがする」
「火の匂い?」
 周りを見渡しても、山火事などは見当たらないし、煙すら見当たらない。一体、何だというのだろう。
「どっちから匂ってくる?」
 僕の問いに、彼は少し考えて、あっち、と何故か右斜め上を指差した。
「空って、燃えないよね……。でも、本当に火の匂いがするんだ。本当だよ」
 空には燃えるものがないのだから、火の匂いなどするわけがない。けれど、彼が嘘をついているとも思えない。
「君が嘘をついているなんて思ってないよ。けど、どうして空からそんな匂いがするんだろう」
 彼が指示した方向の空を見上げても、そこにはただ青空と白い雲が浮かんでいるだけ。けれど、いわれてみれば、確かに空気は乾いてきていた。火事場の空気のように、水分を奪われたぱりぱりの空気。何か、嫌な予感がする。
 突然、吹き始めた熱風に、もう一度空を見上げると、そこには赤銅色のドラゴンが飛んでいた。

     ◆     ◆     ◆

「ごきげんよう、ユウゴさま」
 僕らの前にぴたりと着地……ではなく、静止して、そのドラゴンは熱風を吐きながらにぃ、と笑う。
 多分、ちょっと頑張れば僕なんて一口じゃないだろうか。体長だって僕の五倍はあるけれど、それでも彼女は小さい方だ。大きい奴は、僕の十倍もある。
 彼女の名はハルナ。カミの孫娘に当たる。ちなみに、水を操るカミとは違い、彼女は火を噴く火竜だ。僕は、彼女があまり……いや、全然好きじゃない。人の話は聞かないし、強暴だし、正直最悪な奴だと思う。でも、悲しいことに、僕は彼女にひどく気に入られていた。
「別に、機嫌なんて良くないよ」
 僕の言葉に、一瞬下瞼をひく、と痙攣させて、それから何事もなかったかのようにまた口を開く。
「今日はどちらへお出かけ? 私も、ご一緒していいかしら」
 僕がこんなにも嫌っているというのに、こいつは勝手なことばかり言ってくる。
「今日は連れがいるんで、遠慮してくれないかな」
 連れ、という言葉に反応して、彼女は僕の背中のオオシマ君に視線をやった。
「……何ですの、その犬」
 あ、言っちゃった……。
「僕は犬じゃないっ! 人狼だっ!」
 止める間もなく、オオシマ君は僕の背中の上に立ち上がって威嚇した。
 
 犬と言う言葉は、彼には禁句だ。他の人狼とは違い、オオシマ君の毛はとても柔らかい。それが彼のコンプレックスになっている。シホちゃんは『ふかふかしてるし、ぬいぐるみみたいで可愛い!』と褒めているし、僕もすごくいいと思うのだけど、オオシマ君曰く『大人の男として恥ずかしい』のだそうだ。大人に憧れる年頃だからその言葉に違和感はないけれど、多分オオシマ君のは大人になってもそうは変わらないだろう。同じくらいの歳の時、カミヤは今とあまり変わらない硬い毛だったから……あぁ、もちろん、黙ってるけどね。もしかしたら硬くなるかもしれないし。
 そして、更に追い討ちをかけるのがその色。ふわふわの毛は、真っ白な足先を除けば全身が可愛らしい茶色なのだ。人狼は、大体黒とか、黒に近いこげ茶とか、そんなのが多いから、彼のように明るい茶色は本当に珍しい。ちなみにカミヤは銀色。本当は、白に灰色が混ざっているのだけど、光が当たると銀色に見える。そんなわけで、オオシマ君に『犬』という言葉は禁句だった。
 
「……人狼。あぁ、あのカミヤとかいうのと同じ一族の……」
 馬鹿にしたように、彼女が鼻で笑うのを見て、オオシマ君は僕の背中に爪を立てた。犬という言葉も禁句だけど、大好きなカミヤを侮辱すればこの子は本気で飛び掛ってしまうだろう。
「せっかくこの子と楽しく散歩してたんだからさぁ、やめてくれないかな、そういう失礼なこというの。気分ぶち壊し。僕、君のそういうところも嫌いだよ」
 散歩というところ以外は本当。せっかくの楽しい旅がこいつのせいで台無しだ。さっさとどっかに行って欲しい。けれど、僕のそんな心の叫びは届かなかった。
 
「ねぇ、ユウゴさま。考えていただけました?」
 僕の怒りとオオシマ君の存在は完全に無視して、彼女は媚びるような甘ったるい声を出す。面倒だけど、ここは話したいだけ話させて、あしらうのが一番の近道だろう。僕は、全く興味がない声で、何を、と聞き返した。
「私と結婚してくださる話」
 ――まだ言ってたのか、こいつ。
 僕は返事をするのも億劫になった。
「あなたの、その奇跡の血筋と、私の……カミ一族の血が混じれば、素晴しい子供ができると思うの。私の伴侶は、あなた以外考えられない」
 そう。その台詞は何度も聞いた。いや、聞かされた。
 今のカミは、もう歳だし、この支配はそう長くは続かないといわれている。もちろん、竜族の視点での話だから、僕らが死んでもまだしばらくは続くだろうけど、それにしても次のカミ候補がまだいないのだ。カミが老いて、その力が弱まってくると、どこかしらに特殊な力を持った者が現れるのだが、それがまだいないらしい。いないなら……作ってしまおうこの際に、というのが竜族の、というよりこの女の出した結論だった。
 『カミ』は世襲制ではないので、今のカミの孫娘だからと言って、彼女が次のカミになれるわけではない。けれど、今現在目ぼしい能力者がいないとなれば、新しい存在がそれに当てはまると考えたのだろう。新しい存在、要するに、新しい命。言い換えると……子供。竜族で、今子供を生めそうなのはこいつくらいだろう。
 そして、同じ竜族では目新しさに欠けると思ったのか、彼女は希少種の僕に目をつけた。数が少ないのも、突然変異種なのも事実だけど、好きな相手くらい自分で選ぶ。
 
「どうせ、あの人狼はあなたの子供を生むことはできないんですから、ね?」
 そういって、悪魔のような笑みを浮かべる。以前、こうやって言い寄られた時、僕はうっかりこの女にカミヤが好きだということを洩らしてしまった。それ以来、彼女は何かあるごとにカミヤのことを口にする。
「買いかぶってもらって悪いんだけどさぁ、ユニコーンは突然変異種だから、僕の子供がユニコーンになる確率はものすごく低いよ。というか、ほぼゼロだ。珍しい遺伝子なら、他の一族に貰いなよ。それに僕は、子供ができなくたって、カミヤが好きだ」
 子供がどうこうという問題じゃない。僕はカミヤが好きなんだ。皆の真ん中で笑ってる声、狩りをするときのしなやかな動き、僕と二人きりのときに見せてくれるちょっと我侭な性格、月光に輝く毛並み……みんな好きだ。カミヤと一緒に笑ったり、泣いたりできるのが嬉しい。離れていても、会えなくても、次会った時にはこんな話をしよう、と考えるだけで世界が楽しく見えてくる。どこにいても、心の一番深いところでつながってる気がするから、寂しくない。僕がどんな姿でも、カミヤはきっと同じように友達でいてくれるだろう。たとえば僕が、人狼とは仲の悪い、吸血鬼だったとしても。
「だって、あなたがどんなに思っても、向こうはあなたのこと……」
「そんなの最初から分かってるさ。それでも、僕が勝手に好きなんだからそれでいいんだ。幸い、カミヤは僕のこと、友人としてなら好きだって言ってくれたし、友人としてなら隣にいることを許してくれてる。僕はそれで充分だよ」
 僕はハルナに最後まで言わせなかった。カミヤが僕のことを? ……馬鹿馬鹿しい。
 僕がカミヤを愛おしいと思う気持ちも、カミヤが僕をどんなに大事にしてくれるかも、僕をただの珍しい生き物としてしか見てないこいつには分からないだろう。僕がカミヤに抱いている感情と、カミヤが僕に抱いている感情は、全然違うけれど、僕はそれで構わないと思っている。だって、全く同じ感情を、別々の個体が持てるわけがないじゃない。それでも、僕はカミヤに自分を受け容れて欲しいと願い、カミヤは、恋人の座の代わりに親友という場所を僕に用意してくれた。そこはとても居心地が良くて、僕はすごく幸せだ。この幸せを、何も知らないこいつに馬鹿にされる義理はない。
 
「で、でも、あなたの血は、そんなことで絶やしていい血では……」
 鈍い彼女も、やっと、僕の機嫌が悪いことに気づいたのだろう。それとも、ただの意見切れかな。
「そんなの僕が決めることじゃないか。おまえにどうこういわれる筋合いないよ。ねぇ、どいて。僕は今、オオシマ君と出かけてるんだ。邪魔しないでよ」
 適当にあしらって追い払おうなんて計画はすっかり頭の中から消えていた。さっさとどっかに去ってくれ。
 僕は普段より低めの声を出して、角で威嚇する。これ以上、邪魔はさせない。これ以上、僕の大事なものを侮辱するのは許さない。けれど、僕の怒りは、彼女の機嫌を損ねるのには、充分だったようだ。彼女の周りの空気が、どんどん乾いていった。
 
「こんなにお願いしているのに、聞き入れてはいただけないのですか?」
 乾いた空気が、空へ向かってゆらゆらと立ち昇り、熱のせいで周りの景色までもが揺らぎ始める。
「だから、何度も言ってるだろ? 僕は君のことが嫌いだって」
 この体格差じゃ、どう考えても僕の方が不利だけど、だからといって言いなりになるのは絶対に嫌だ。それに、こんなのお願いじゃなくて、ほとんど脅迫じゃないか。
「だったら、あなたを失うのは惜しいですけど……消えていただくしかありませんね」
「はぁっ!?」
 ――ちょっと待って。一体何をどうすると、消えるとかそういう話になるの?
 僕の混乱を無視して、彼女は一人頷く。
「だって、そうでしょう? あなたみたいな希少種の使い道なんて、それくらいしかないじゃありませんか。数が少ないということはそれだけで特別なこと。その遺伝子が、新しいカミにもつながればいいと思ったのですけど……つながらないなら、あなたの存在は目障りです。新しいカミは唯一の存在。あなたみたいに中途半端に唯一の存在が、同時に存在するのは迷惑です」
 ――使い道、中途半端な存在……いっそ笑いたくなるようなひどい言われよう。
 僕が望んで一人でいると、こいつは本気で思っているのだろうか。広い広い世界の中、自分と同じ姿をした者が一人もいないという孤独。他種を完全に排除して、同種のみに囲まれて生きてきたこいつに……竜族なんかに……
「何が分かるんだよ。僕の価値を……何の権限があって決めるんだよ」
 世界の掟、カミ。その血縁集団、竜族。だから偉いのか? 竜族は、他の種族の命のあり方まで決められるほどの力を持ってるのか? 僕の命は……そんなもんなのか?
 
「さよなら、ユウゴさま。もう少し、あなたが先を見通せる考えを持っていたら、良かったのに」
 そういって彼女が、僕の目の前であの大きな口をあけたから、僕は慌てて横に跳んだ。背中で立ってたオオシマ君が、うわっ、と声を上げてしがみ付く。
「オオシマ君、つかまってて」
 彼女の喉の奥が真っ赤に光って、ものすごい熱風と真っ赤な炎が、さっきまで僕らがいた場所を襲った。あんな炎をくらったら、一瞬で黒こげだ。
「最後にもう一度だけ、聞いて差し上げましょうか?」
 攻撃が外れたのを見て、軽く舌打ちをしながら、彼女は僕の方を向く。
 ――うわ、目が本気だ……。
 いつもより数段おかしな光を宿らせて、彼女の瞳がぎらぎらと揺れる。
「何度言っても答えは同じ。ついでに言うと、僕の友達に手を出したら、刺し違えてでもお前のこと殺してやるよ。竜族だって、完全無欠じゃない。刺しどころが悪ければ、致命傷だって作れる」
 自分の被害はまだ我慢できる。希少種の宿命だと諦めがつく。でも、もし、僕のせいでカミヤやオオシマ君が怪我をしたら……。考えただけで足ががくがく震えてくる。
 オオシマ君が怪我をしたら、カミヤはきっとすごく悲しむだろう。それでも、カミヤは優しいから、僕のことを責めたりしない。それが一番辛い。カミヤが一人で辛い思いをするのが、僕には一番痛い。
 そしてもし、カミヤが怪我をするようなことになったら……嫌だ。そんなの嫌だ。
「あなたは次のカミの父親になるんです。新しいカミは世界で唯一の、奇跡の遺伝子を持つ偉大なカミになるのですよ? それがどうして分からないんですか」
 ――知ったことかよ、そんなこと。僕の子供は、カミなんて偉い存在じゃなくていい。
 それでも、ハルナは僕を狙って何度も飛び掛ってきた。そして……
「死ねっ!」
 どうやら、彼女の虫の居所は相当悪かったらしい。かなり本気で、というよりも、我を忘れて彼女は攻撃を仕掛けてきた。
 最初の一撃なんて比べ物にもならないくらいの大きな炎の塊。僕より大きい火の玉が、僕らの横をかすめて飛んでいく。どごぉん、とものすごい音を立てて、下の地面が燃え上がった。乾燥している時期ではないから、ひどい山火事にはならないと思うけど、爆風で吹き飛んだ大木、真っ黒に焼け焦げ、抉れた地面……あそこにいた生き物は、逃げる暇もなかっただろう。
「ハルナっ! 今の一撃で、どれだけ森が傷ついたか分かる? どれだけの生き物が、どれだけの罪なき命が、奪われたか分かる? いくら竜族といえども、そんなことをする権限はないはずだよ」
 カミがいるから竜族が付け上がるのか、竜族がいるからカミが付け上がるのか、どっちなのかは分からない。もちろん、竜族全部がこんな奴らなわけじゃないけれど、ハルナみたいな奴が多いのも事実だし、他の竜族がハルナのような奴を黙認しているのも事実だ。……多分、いろいろ逆らえないんだろう……血族って、そういうとこ、大変だよね……。
「知ったことですか。力無き者が、力ある者に逆らえないのは世界の定めです」
 そういって、今度は塊ではなく連続で炎を噴く。逃げるたびに、僕らの後の森が炎に薙倒されるようにして焼けるけれど、逃げなきゃ僕らが殺される。
「いい加減にし……ぐっ……」
 彼女の炎を避け、背後から不意をつこうとした瞬間、右の後ろ足に衝撃が走った。必死に体勢を立て直そうとしながら、後ろ足を見れば、暴れるハルナの尻尾が当たったらしいということが分かる。狼程度の大きさの生き物なら、叩き潰せる力を持った尻尾だ。足が、変な方向に曲がってる。でも……
「やめろって……言ってんだろぉっ!」
 何とか体勢を立て直し、彼女の上から首の後ろを狙って突く。ずぶり、と嫌な感触がして、彼女がいったん動きを止めた。次の瞬間、彼女はものすごい叫び声と共に暴れ出す。巻き添えを食わないように全力で逃げる。致命傷を負わせたわけじゃないけれど、痛みで周りが見えていない今なら、彼女から逃げることも可能だろう。痛くて動かせない右足を、必死に庇って残りの三本で走る。少しでも遠くへ。少しでも、身を隠せるところへ――。
 身を隠すには、空を走るわけにはいかないから、僕らは結局森へ降りた。

     ◆     ◆     ◆

「ユウゴさん……」
 彼女からは充分距離をとったところで立ち止まると、オオシマ君がひどく心配そうな声で僕を呼んだ。
「だ、大丈夫? ……って、大丈夫じゃないよね。どうしよう……僕……」
 背中から下りた彼と二人で人型をとる。今にも泣きそうなくらいうろたえている彼に、大丈夫だ、と告げると彼はでも、と不安そうな顔をした。
「足、折れてるとは思うけど、相当綺麗に折れてるはずだから大丈夫。帰って添え木しておけば、すぐ治るよ。そんなことより、ごめんね、怖かっただろ」
 初めて会った竜族が彼女だなんて、可哀そうなことこの上ない。でも、彼は首を横に振った。
「ちょ、ちょっとは怖かったけど、ユウゴさんが逃げてくれるって信じてたから、大丈夫」
「そっか。ありがとう」
 僕に気を遣わせまいとする言葉なのだろうが、それでも嬉しい。
「……でも、一個だけお願いしてもいい?」
 少し、上目遣い気味に、彼はこっそりと僕を見上げる。
「どうしたの? オオシマく……」
 びっくりするような勢いで、彼は僕に体当たりをしてきた……いや、違う。体当たりじゃなくて、抱きついてきたんだ。
「……良かった。ユウゴさん、生きてる」
「え? そりゃ、足は痛いけど致命傷じゃ……」
 転げまわるというよりは、呻きたくなるような鈍い痛みがさっきから僕に付き纏ってきているけれど、致命傷ではない。でも、僕の言葉をオオシマ君は、違う、と否定した。
「さっきの森、死んじゃったから。……森が、命が、焼ける匂いがいっぱいして、すごく怖かった」
「え……」
 僕の胸に顔を埋めたまま、オオシマ君は言葉を続ける。
「あそこが僕の森だったらって思ったら……怖くて……あんなことになったら、御頭も、ココノエのおじいちゃんも、皆……みんな……。怖かったんだ。ねぇ、あんなこと、もうないよね。今日だけだよね」
 ――オオシマ君は、戦いを知らない。
 竜族の力は大きい。一晩で村一つ押し流すことも出来れば、一族で森を黒い広場にしてしまうことも可能だし、オオシマ君がよく遊びに行くあの湖は、三百年前のあの日、カミが無理矢理作った湖だ。
 今日、ハルナが焼いた森も相当な広さだ。もう、火は消えただろうか。そして、あそこが元の森になるまで、どれだけの時間を費やすのだろう。
 焼けた木々が横たわる黒い大地が緑の森になるまでには、数百年、数千年の時を必要とするし、そこに住んでいる住民たちは、木々と共に一瞬で黒い塊に成り果てる。大地に落ちているものが、焼けた石なのか、命であったものなのか、それすら判別は出来なくなる。おそらく、さっきのあの森も、そんな風になっているのだろう。
「僕たちは、意味のない殺し合いをしないって……約束したんだ。あいつが約束を破っただけで、人狼も吸血鬼も、人間も、皆お互いのことを大事にするって、約束してる。あいつが約束を破っただけだよ」
 例の協定に竜族は係わっていないけれど、こんなに脅えたオオシマ君は見たくない。それでも、しばらくオオシマ君は、僕から離れようとはしなかった。
 
「落ち着いた?」
 ようやく、しがみ付いていた腕の力を緩めたオオシマ君に、僕は問う。
「ん。もう大丈夫。ユウゴさんは?」
 赤くなった目をごしごしとこすって、彼は力なく笑う。
「僕は大丈夫だよ。いつでも行ける」
 むしろ、足が腫れきって動かなくなる前に、少しでも距離を稼ぎたい。僕の言葉から焦りを感じ取ったのか、オオシマ君は、分かった、と表情を引き締めた。
「あ、でも、ちょっと待ってて。すぐ戻ってくるから、ユウゴさんはここにいて」
 そういって、彼はあっという間に走り出す。
「そんなに遠くにいっちゃダメだよ」
 僕の言葉に、尻尾を振って、返事の代わりにする。あっという間に、彼の姿は森に消えた。
 
「お待たせ。これ、使って」
 お待たせ、というほどの時間も無く、彼は戻ってきた。手に何かの木の皮を持って。
「……これは?」
「サリスの木の皮。すりつぶして塗っておくと少し痛いのが治まるよ。あと、こっちの枝は噛んでると痛くなくなるの。ちょっと苦いけど……」
 そういって、その辺の石を拾って手際よく木の皮をすりつぶし始める。どろどろになったところで、彼はそれを僕の足に塗りつけた。すっとする感覚がして、痛みが少し和らぐ。
「すごいね。よく知ってるじゃない」
 僕が素直に感心してそういうと、彼は、御頭に教えてもらったんだ、と得意げに言った。
「御頭に教えてもらったんだ。僕、いっぱい怪我するから」
 サリスの木というのは、独特の匂いがあるから、探しやすいのだそうだ。
「そっか。でも、すごいよ。……うわ……苦い……」
 しかし、これ噛んで、と渡された枝は本当に苦い。痛みよりも苦味で呻いた僕を見て、彼は楽しそうに笑った。
 
「さて、いつまでもここにいるわけにもいかないし……行こうか」
 その場しのぎの物かと思いきや、サリスの樹皮は本当によく効いた。応急的に添え木を当てれば、さっきほどのスピードは出せないけれど、何とか走れるだろう。これなら、今夜遅くには向こうに着ける。
「うん。……僕、乗ってもいい?」
 僕の負担を考えてか、オオシマ君は不安そうに聞く。
「もちろん。君の重さなんて、全然問題ないよ」
 原型の彼など、乗っているのを忘れてしまうほど軽いのだ。頷いた僕に安心したのか、彼は僕の背中にぴょこんと乗った。

     ◆     ◆     ◆

「ユウゴさん」
 出来るだけ、右側に負担をかけないように、左を軸足にして走る。ちょっとぎこちないけれど、障害物のない空だから、それなりに距離は稼げる。五つ目の山をもうすぐ越えるというところで、ずっと黙っていたオオシマ君が突然話しかけてきた。
「どしたの?」
 さっきみたいに背中を引っかかれたわけじゃないから、足は止めずに聞き返す。しばらくの間の後、彼は小さな声を出した。
「あのね……御頭は……ユウゴさんのこと、大好きだよ」
「え?」
 唐突なその言葉の意味が分からず、僕は間の抜けた声を出してしまったけれど、彼は気にする風もなく続ける。
「ココノエのおじいちゃんも、僕も、ユウゴさんのこと好きだよ」
「ど、どうしたの、急に」
 意味が分からない、というよりも、彼が何を意図してそんなことを言い出したのかが分からない。
「僕たち人狼だから、ユニコーンじゃないけど……でも……ユウゴさんはユウゴさんで……僕は……」
 たどたどしいその言葉の意味が、急に明確になった。同時に、立ち止まって叫びたくなるくらいの嬉しさが溢れる。
「ありがとう」
 使い古された言葉だけど、僕にはその一言が精一杯で、全てだった。
 
「僕はね、昔はずっと、自分が嫌いだった。自分がユニコーンだからこんなに命を狙われたりするんだって、ずっと思ってた」
 真っ赤な夕日の光を浴びながら、僕は背中のオオシマ君に話しかけた。
「……さっきみたいに?」
 よほどハルナが怖かったのだろう、幾分脅えたような声で、彼は聞き返してくる。
「そ。ユニコーンを何だと思ってるんだろうって。生まれた時に、たまたまユニコーンだったってだけでさ、特別扱いだよ。そういうの、大っ嫌い」
 僕は、自分で望んでユニコーンに生まれたわけじゃない。生まれたら、ユニコーンだっただけなんだ。
「さっきのハルナは強烈だけど、大体他の奴らも同じような意味のことを言うんだ。僕の角を使いたいとか、僕を捕まえれば幸せになれるとか、意味分かんないよね。でも、皆そういうこと言って、罠を仕掛けたり、攻撃してきたり、そんなことばっかり」
 僕の意思を無視して、『ユニコーン』という物を利用しようと必死になる奴らばかりが世界には溢れていて、僕はそんな世界に失望していた。それでも自ら死ぬという選択をしなかったのは、世界に未練があったわけではなく、自分の死後、自分の体であった物が、自分の嫌いな奴らに利用されるのが嫌だったとか、そんなひどく利己的な理由からだった。
 今考えれば、焼身自殺でもすれば利用されることは無かったのだろうけど、熱いのは嫌だ。大体、何で僕がそんな奴らのために死ぬほど辛い思いをしなきゃいけないんだ。
「でもね、カミヤは僕のこと、全然特別扱いしなかったんだ」
 散々逃げて、行き着いた先で出会った人狼。今のオオシマ君くらいの歳で、まだ子供だったけれど、ひどくまっすぐな視線の持ち主だった。
「御頭が?」
「うん。僕のこと見て『お前、馬なのに角生えてるんだな』って、それだけ。馬なのにって……ひどいよね。大体、あいつ、今でも僕のこと馬呼ばわりするしさ……最悪」
「あははっ……」
 オオシマ君は楽しそうに笑う。そういえば、一昨日も『この馬!』って言われたっけ。思い出したら、腹が立ってきた。
「腹立つよね。でも、嬉しかった。ずっと、どこにいっても珍しがられて捕まえられそうになって、逃げまくって生きてきたのに、カミヤは僕のこと珍しがらなかったし、追いかけてもこなかった」
 しいて言うなら、彼の狩りの対象にはならなかったというべきか。あの頃のあいつには、僕くらいの大きさの獲物を狙える実力は無かった。……ん? ってことは、出会ったのが今だったら、僕はあいつに食べられてたのだろうか。そのままの意味で。……それは嫌だ。やっぱり子供の頃に出会えて正解だ。
「後で聞いたら、自分が知らないだけで、角の生えた馬はいっぱいいるんだと思ってた、だってさ」
「御頭らしいや」
「でしょ。世界は広いから、今見てるもの、自分が知ってるものだけが全てじゃない。そういって、笑ったんだ」
 ちょっと頑固なところはあるけれど、カミヤは自分の思いも寄らないものを受け入れる度量がある。自分の実力が足りないと思えば、補おうとする向上心。自分より優れてる者に対しては、たとえそれが何者であっても礼を尽くすとか、そういう謙虚なところがすごく好き。昔は僕にも尊敬の眼差しを向けてくれたのに、最近は馬呼ばわりだもんなぁ……ちょっと寂しい。
「まあ、ユニコーンは本当に数が少なかったんだけど、それでも嬉しかった。それに、カミヤは僕の友達になってくれたんだ」
「……うん」
 お前が一方的に言い寄っているだけだろうという響きが、言外に含まれてるような気がするけど、気にしない、気にしない。
「カミヤがああだからなのかもしれないけど、人狼の皆って、僕のこと利用しようとしないでしょ。初めてみんなに紹介するとき、カミヤが『俺の友達だ』って言ってくれたからなのかもしれないけど、すごく優しい。だから、僕は人狼の皆が好きだよ。一番はカミヤだけど、ココノエのオヤジさんも、オオシマ君も、皆好き」
「うん」
 今度は素直に頷いてくれる。その言葉は嘘じゃないから。僕は皆が好きだ。
「だからね、今は全然寂しくないんだ。でも、さっきみたいなこといわれると、やっぱりちょっと傷つくっていうか……流石にね……あれ聞いて笑ってられるほど図太くはないっていうか……」
 どんなに蔑まれようと、利用されそうになっても、今なら、真正面から立向かえる。でも、笑って流せる自虐心は持ち合わせていない。
「ごめんね、変な話して。早く、葉っぱもらって帰ろうね。カミヤのところに……帰ろうね」
「うん」
 カミヤがお帰りって笑ってくれれば、僕はそれだけで充分だ。目的の谷はもう目前まで迫ってきた。

     ◆     ◆     ◆

 折れそうに細い月の光を頼りに、僕らは出来る限り進んだ。目的の谷の入り口に着いたのは、もう夜も相当更けてからだ。
「遅くなっちゃったけど、今夜はゆっくり休んで、明日は……朝一で地竜に挨拶に行こう」
 ひんやりとした風を避けるために、近くにあったちょっとした洞穴のようなところに入る。ここで一夜を明かして、明日は交渉だ。洞穴はそれなりに広かったから、原型のままでいても良かったのだけれど、原型は体が重くて、足に負担がかかる。少しでも体重を軽くするために、僕はまた人型をとった。
「うん。でも……大丈夫かな」
 僕の傷をもう一度固定しながら、オオシマ君は不安そうに呟く。
「何が?」
「昼間みたいに、ユウゴさん襲われない?」
 地竜が今日のハルナみたいな奴だったらと、心配してくれているのだろう。
「地竜は、竜族っていってもちょっと特殊だから大丈夫だと思うよ」
「特殊って?」
 すぐに聞き返してくるところを見ると、彼は地竜について何も知らないらしい。
「地竜はね、竜族っていっても、ほとんど別の種と考えた方がいい。彼らは、大地と融合して生きることを選んだ種族だからね……あんまり他の生き物と係わりたがらない」
 大地と融合したその体は、動物というよりは鉱物に近い。ハルナたちのような竜族とは違い、空を飛ぶようなことは出来ないし、鉱物のような鱗で覆われている。通常の竜族が蛇のように長い体なのに対し、地竜は直立二足歩行のできる体をしている。飛ぶことは出来ないけれど、一応背中には翼もあるらしい。あと、角が生えているのも大きな違いだろう。その角は、黒曜石だったり、大理石だったり、黒水晶だったり個体によってさまざまだ。
 僕の説明に、そうなんだ、と彼は小さな満月みたいな目を向ける。
「彼らは、動物としてというよりも、植物や、鉱物……大地と共に生きているから、他の生き物にはあまり係わってこない。だから、いきなり攻撃されたりすることはないよ」
 攻撃されることがないと聞いて安心したのか、彼は、ふぅん、と好奇心に溢れた相槌を打つ。
「でも、結構気難しいみたいだし、他の種族とのいざこざを避けるために完全中立……というより完全無視かな……まぁ、そんなのが基本だから、願いを聞き入れてもらえるか、話を聞いてもらえるかが問題だ」
 普段は石のようにじっとして、動きもしない、話もしない種族なのだから。攻撃するも何も、無視されるのが関の山だ。
「……うん」
 この子は、無視されるということの重大さを、きちんと分かっている。話をして通じる相手なら、説得のしようもあるだろう。攻撃してくる相手なら、接触を図ることもできるだろう。しかし、無視されれば手も足もでない。
 黙ってしまった彼に、怖い? と、問うと、怖くないよ、という声がすぐに返ってきた。
「怖くないよ。僕は……僕がやらなきゃダメなんだ。今まで、僕は御頭やおじいちゃんにずっと守られてきた。危ないことしたらダメって言ってくれたし、難しいことは誰かが代わりにやってくれた。でも、今、あの葉っぱを持って帰れるのは、僕しかいない。ここで僕が逃げたら、御頭と、お姉ちゃんと、シムラと……ここまで、連れてきてくれたユウゴさんと……皆のこと裏切ることになる。そんなの嫌だ。僕は、もう大人なんだ」
 馬鹿にするな、といわんばかりの、精一杯の強がり。それでも、この子は少しずつ『責任』を理解し、果たそうと努力している。カミヤが思っているよりも、この子はずっとずっと大人だ。
「そうか。ありがとう。でも、無理はしないでね。生きて帰るってカミヤと約束しただろ? 絶対その約束は守るんだよ」
「うん」
 力強く頷かれて、僕は安心した。やろうとすることも大切だが、出来ないと理解するのはもっと大事で、ずっと難しい。大人になっても、出来ないやつはたくさんいる。そして、それが命を落とすことにつながることもある。オオシマ君が一番に優先しなくちゃいけないことは、生きて帰ることなのだ。
 
「それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 もう森の匂いなどしないだろうに、彼は一人で眠りに落ちた。周りに神経を張り巡らせながら眠るその姿は、もう一人前の野生の人狼だった。



 ▼ 第七章:要請
 オオシマとユウゴが旅出って、二日目の夜。
 俺は、もう何度目になるのか分からない溜息を飲下し、窓の外に視線をやった。ユウゴの足なら、そろそろ向こうへ着く頃だろう。あくまで何もなければの話だが。
 今日の昼間、親父と一緒に山狩りに行っていた仲間の一人が、俺の家に来た。
 
「わ……じゃなかった、かしらぁ。いるか?」
 そういって、乱暴に扉を叩いたのはチキ。まだ、俺を頭と呼ぶのには慣れていないのだろう。大体皆、若頭、といいかけて訂正する。
「どうか、したのか?」
 シホを二階にやって、招き入れると、チキは苦い顔をして口を開いた。
「いやね、ここからは少し遠いんですが、南の方の森が焼かれたらしいんでさぁ。しかも、やったのがあの竜族だって話だから、かし……じゃなかった、ココノエのオヤジが若頭にも伝えとけって……」
 ――南は……ユウゴたちが向かった方角だ。
「まぁ、飛び火の心配もないだろうし、直接的な影響はないからいいんすけどね、子頭が遊びに行くとまずいから……」
「分かった……って、子頭って……?」
 思い当たる奴の顔は浮かぶが、その呼び名は一体……。
「あぁ、山狩り行って、みんなで考えたんすよ。今まではココノエのオヤジが頭で、頭が若頭だったっしょ? けど、今度から、ココノエのオヤジを爺頭、頭を頭、で、オオシマの坊主を子頭って呼ぶことにしようって。坊主もいい加減坊主じゃ可哀そうなもんで。……何か、気に入らないっすか?」
 気に入らないも何も、俺とオオシマは二百歳しか違わないんだ。俺が引退する頃には、あいつだっていい年だ。大体、俺とあいつの歳の差は、どう考えたって親子じゃなくて兄弟だろうが……。
 けれど、俺の反論はあっさりと否定された。
「確かに歳の差はそうですけど、気分的には親子なんすよね……。だって人狼の中で一番の親馬鹿でしょ、頭は」
 ……否定したいが、悔しいことに否定要素が見つからない。
「ま、そういうわけなんで、子頭にはあんまり遠く行くなって言っといて下さい。父ちゃんも心配するからって」
「誰があいつの父親だ!」
 俺が怒鳴ると、チキは、俺は何も頭が父ちゃんだなんて一言も言ってないっすよ、と笑った。……畜生。
「っつか、その子頭は今どこに?」
 突然そういわれて、俺は少しだけ焦った。
「あ、あぁ、ユウゴと一緒に遊びに行ってる。まぁ、あいつに任せとけば、危ないところには行かないだろうし……」
 用意していた嘘とはいえ、口にする時には多少の勇気がいる。しかし、チキはさして疑いもせずにあぁ、ユウゴさんと、と頷く。まぁ、たまには子育てから離れるのもいいことっすよ、と笑いながら言い残し、チキは山狩りへ戻っていった。
 ……言いたいことはいろいろあるが、とりあえず、チキが二人に気付かなかったことに、俺は胸を撫で下ろす。
 このまま何事もなく、オオシマとユウゴが帰ってきて、シホとシムラを隠せれば、ひとまず安心だ。……いや、そんなに安心ではないけれど、とりあえず、何よりも二人に帰ってきてもらうのが先決だ。
 
 南の森が焼けたのは、ユウゴが狙われたからではないだろうか。火事は違っても、ユウゴはまた敵に襲われたりしていないだろうか。
 あいつは、希少種だから、いろんな奴らから命を狙われる。無事で、いるだろうか。
 あいつらが旅に出てから、そんな考えが頭の中で渦巻いている。出口はなく、俺は一日中苛々と空を見上げていた。

     ◆     ◆     ◆

「シムラ、後でまた、月光浴に行こうか」
 夕食の時、俺は――ほとんど自らの気を紛らすために――シムラを外に誘った。皆は、山狩りでいないから、家の周りを歩く分にはあまり危険がない。だから、昨日の夜も二人で散歩に出かけた。
 しかも月の光は、シムラにとって一番の薬になる。その証拠に、昨日、ほんの少し外に出ただけで、あいつの傷は驚くような回復をみせた。
「……ん……」
 こくりと頷いたシムラは、それでも少し嬉しそうにする。俺より少し年下なだけで、そうそう幼くはないはずだけれど、こんな仕草をすると意外と幼く見える。意外、といえばこの食事も意外だった。
 
 目の前にあるのは鳥の煮こみとパン。パンはシホが作ったものだけど、煮こみはシムラが作った。チキが山狩り土産だといって持ってきてくれた鳥を、シムラが捌いて料理した。多分、人間であるシホが、生で動物を食べられないから気を使ったのだろう。
 それにしても、鳥は人間が食べるときと同じように加工してあるし、絶妙な塩加減と、丁寧に煮込んだこの料理は、誰が見ても、誰が食べても『吸血鬼』が作ったとは思わないだろう。
「お前、よくこんなの作り方知ってたな」
 感心したように言えば、シムラは少し得意そうに笑う。
「……イナダが、教えてくれた。人間だった頃、食べてたんだって。だから、シホも、食べられると思って……」
 やっぱり、人間の料理だったのか。シホも気に入ったのか、さっきから言葉少なに食べている。
「おいしいですよ。村でも、こんなにおいしいの、食べたことないから。ちょっと……感激しました」
 不安そうなシムラの視線に気付いたのか、顔を上げてシホは微笑む。
「ほんとか? ……良かった……」
 椅子から身を乗り出して、シムラは笑った。人狼、吸血鬼、人間……全く種族の違う三人で囲む食卓は、オオシマたちの安否という不安ごとはあったけれど、それ自体は楽しいものだった。

     ◆     ◆     ◆

 食事も終わり、そろそろシホがベッドに、俺たちが外へ行こうかと言っていた時だった。
 ――こん、こん。
 ドアが、音を立てて、誰かの来訪を告げる。一瞬で、緊張が走った。
 二階へ行け、と合図すると、二人は慌てて……それでも音を立てないように階段を昇った。
 
「吸血一族の長ヤシュウの使いで参りました。イナダです。カミヤ殿にお願いしたいことがあって参りました」
 ――来た。
 ユウゴのいったとおりだけど、こんなに早く来るとは思ってなかった。とりあえず、どうぞ、と扉をあければ、そこには供も連れず、たった一人で使者……イナダさんが立っていた。
「先日は、お世話になりました」
 そういって中に招き入れれば、この前と同じようにイナダさんは笑う。
「いえ、こちらこそご出席いただきありがとうございました。突然の訪問、どうぞお許し下さい」
 ご丁寧にも、手土産つき。お口に合うかどうか、といって差し出されたそれは、吸血鬼が好んで飲む深紅の酒。人狼の俺たちにはなかなか手に入らない逸品だ。少し甘いけれど、飲めば極上の酔いをもたらすし、何より翌日に残らない。俺は喜んで礼を言い、それを受け取った。
 
「ところで、私に何か御用ですか?」
 ユウゴの話で、大体のことは分かるが、とりあえず話を聞かないとどうにもならない。椅子を勧めて、茶を淹れながら、俺はそう聞いた。
「あぁ、そうなのです。カミヤ殿に、というよりは、人狼一族皆様にお願いしたいことがあって……まずは長であるカミヤ殿にと……」
 ――やっぱり。
 俺は努めて明るい声を出し、友好的な笑みを浮かべる。
「私に、私たちに出来ることなら喜んで」
 俺がそういうと、イナダさんは安堵と……苦味の入り混じったような表情を浮かべた。ただ、彼の名誉のためにもいっておくが、その苦味は、俺たち人狼に対しての感情ではない。普通の吸血鬼なら、言葉を交わすことは愚か、姿を見ることすら忌々しいと思うだろうに、彼はそんなそぶりも見せず、初めて会ったあの時から、最大限の礼を尽くしてくれている。
 苦い感情は、おそらく、ヤシュウの命令と自分の気持ちの狭間からくる戸惑いだろう。しばしの沈黙の後、彼はやっと、口を開いた。
「……ある者を、探して欲しいのです」
 そういって、また思案するように視線を落とす。その姿は、この前会ったときよりも小さくなっている気がする。シムラがあれだけ慕っている存在だ。逆を返して、イナダさんがどれだけシムラを可愛がっていたか、そんなのは容易に想像がつく。シムラを失った彼が、どんな気持ちでいるのか、俺はあまり考えたくなかった。
「あるものとは?」
 シムラは二階にいるけれど、それを彼に教えるわけにはいかない。俺は、何も知らないことになっているんだ。しかし、俺の問いに、イナダさんは答えなかった。
「われわれ吸血鬼は、人狼一族の方々のように、嗅覚が優れてはいません。視覚のみに頼って探すことになります。しかし、それにも限界があります。どうか、お力をお貸し願えないでしょうか」
 痛々しくて見ていられないような表情で、誇り高い吸血鬼は俺に頭を下げる。俺は慌てて顔を上げてほしいと頼んだ。
「そんな風に頭を下げないで下さい。俺たちに出来ることなら、もちろん喜んで協力します。けれど、何を探せば良いのですか?」
 それでも、イナダさんはなかなか頭を上げようとはしなかった。イナダさんにとって、シムラは本当の宝だったのだろう。翼がどうこうじゃない。自分が育ててきた、かけがえのない存在。それを、彼は一族のせいで失った。それは……どれだけ辛いことなんだろう。
 けれど、イナダさんは決心したように顔を上げ、まっすぐ俺を見据えた。もう、シムラの養育係としての顔ではなく、吸血鬼一族の使者としての顔をしている。
「……ここから先は、内密にしていただきたいのです」
 情報戦をするように、駆け引きをするように、彼は言葉を丁寧に選ぶ。俺は黙って頷いた。
「探していただきたい者は……先日行われた祭り……あの時の……供物です」
 供物、という響きに、まだ特別な感情が残っているのは気のせいではないだろう。しかし、今の俺にはどうにも出来ない。
「供物、ですか? 確か、透明な翼だと……」
 取引の話題に徹し、俺は話を進めた。
「はい。……カミヤ殿は、四百年ほど前に流れた噂を、ご存知ですかな」
「確か、ヤシュウ様のところに生まれたお子様が……透明な翼を持つと……」
 この程度の話は、当時の者なら吸血鬼でなくとも知っているから、俺が知っていても、おかしいとは思われない。その証拠にイナダさんは、やはり、ご存知でしたか、と特に疑いもせず受け流した。
「しかし、その方はすぐにお亡くなりになったと……」
 噂はそういうことになっていたから、これも言っておいた方がいいだろう。普通の奴らは皆、そう思っているのだから。
「……噂では、そういうことになっております。一族の者も、そう思っております。しかし、実際は……」
「生きて、いた……」
 言いよどんだイナダさんの言葉を、継いで口にする。イナダさんは、こくりと、頷いた。
「私が、お育てしました」
 
「それで、どうして……」
 やっと話が核心に迫ってきた。ここからは、吸血鬼の――ヤシュウの意向だから俺たちも知らない。イナダさんの話から、情報を得るしかない。
「数日前、カミが、わが一族を訪れまして……供物が……彼が……人間の巫女をカミから奪って逃げたというのです」
 まぁ、概ねはそんなところだろう。ただ、あのシムラの傷からして、二人の話からして、強奪というわけではないらしいが。
「我ら一族は、今回、こちらの都合で供物を普段とは違うものに変えました。その彼が、カミに背いたとあれば、一族がカミに背いたととられても文句は言えません。そこで、ヤシュウは、反逆者となった彼の翼を、いえ、彼の首を以ってカミへの忠誠の証にすると言い出したのです」
 ……俺は、何も言えなかった。ヤシュウにとって、シムラの存在は一体何なんだろう。確かに、カミへの供物のために、自分の子供を差し出す親はたくさんいる。けれど、喜んで差し出す親はいないだろう。それなのにヤシュウは、仮にも血の繋がった子供を、今度は命を奪ってから捧げるというのだろうか。あいつにとって、シムラの命は、何なんだろう。
「あの方は、そんなことをするような方ではない。何かの間違いなんです。しかし、何にせよ、彼を見つけない限りは話が進みません。そのために、人狼一族の方々の力をお借りしたいと、お願いに参りました」
 どうか、とイナダさんはテーブルに額がつくほど、頭を下げる。
「分かりました。お引き受けいたします」
 俺がそういうと、イナダさんは本当ですか! と嬉しそうに顔を上げた。
「人狼一族を代表して、ここに約束致します」
 どのみち、シムラの身柄はこっちにある。安全は、確保できる。俺は、更に詳しい情報――どの辺りを探せばいいのかとか、シムラの特徴とか、をイナダさんに尋ねた。
 
「彼は……カミの住む洞窟から飛び降りたのだと思います。ですから、あの森を探していただければ、きっと見つかるはずです。服だけ、かも知れませんが……」
 謎めいたその言葉には、陰りがある。服だけとは、どういうことだろう。
「ご存知の通り、朝日を浴びた吸血鬼は、灰になって消えるのです。逃げた時間によっては、朝日を浴びて……もう、この世にはいないでしょう。だから、服だけが、残っているかもしれないのです」
 なるほど、そういうことか。納得しつつも、俺は更に疑問を投げかけた。
「……しかし、彼は翼を持っているのですよね。飛んで逃げたということは、考えられないのですか?」
 シムラは地下室で育てられたといっていたから、そんなに広い部屋ではなかったのだろう。だから、飛べないと思っているのはシムラだけで、実際は飛べるんじゃないだろうか。しかし、イナダさんはあっさり首を横に振った。
「あの方の翼は……飛べない翼なのです」
 それでも、あの翼は美しい。月光を透かすあの翼は、どんな宝石より、綺麗だと思う。
 
「分かりました。出来る限りの力は尽くします。しかし、数日の猶予はいただけますか? 総出で森を狩っても、あの広さです。何日間かは必要になるのですが……」
 俺の申し出に、イナダさんは快く引き受けてくれた。どうやら、俺が断ったときは、彼が一人で探すことになっていたらしい。一族の者にも、あまり大きな声で言える話ではないのだろう。しかし、翼を持たないイナダさんが一人で探すのは、到底不可能な話だ。それでも、この人はやるのだろう。たとえ朝日を浴びて体が焼け爛れたとしても。
「カミとの期限は次の銀の満月ですが、その前にこちらも準備がありますので、一応の期限を、次の満月の夜までとさせていただいてもよいでしょうか。連絡は私にしていただければ……」
 そういって、彼は小さな卵のようなものを俺に手渡す。吸血鬼は、遠くの者とやり取りをする際、蝙蝠を使って手紙を運ばせる。その蝙蝠は普段、頑丈な卵のような殻を作って眠っている。殻は頑丈だから、持ち運ぶときに壊れないし、手紙を送りたいときは、その殻を割って、蝙蝠に手紙を括れば、飼い主の下へと飛んでいく。この卵は、イナダさんの蝙蝠なのだろう。分かりました、と俺は頷いた。
「どうか……若を……シムラ様を……よろしくお願いいたします」
 何度もそう念を押して、イナダさんは帰って行った。

     ◆     ◆     ◆

 イナダさんを見送り、二人がいる部屋に行く。ドアを開けた瞬間、今にも飛び掛ってきそうなシムラと目が合った。けれど、俺の後ろにイナダさんがいないと気付くと、落胆、というより絶望したような表情を浮かべて項垂れる。
「イナダさんは、何て……?」
 シホが、シムラの肩を抱いて慰めながら、俺に問う。
 
「ユウゴの読み通りだ。シムラを探して欲しいって要請が来た。まぁ、詳しい話は内密に、といわれたから、一族総出で探すなら少しぼかしていう必要があるけどな。向こうもまだ、詳しい話を身内にしてないらしい。シムラのことは、イナダさんに一任されてるみたいだった」
「……ったら、何で?」
「ん?」
 下を向いたまま、シムラが何かいったけど、よく聞き取れなくて、俺は聞き返した。
「だったら何で、会わせてくれなかったんだよ。何でここにいるって言ってくれなかったんだよっ!」
 最後の方は、ほとんど悲鳴みたいな声だった。ここまで感情を顕にするシムラを、俺は初めて見る。
「イナダは……悪い奴じゃない。イナダは裏切ったりしないっ」
 制止するシホを振り払って、シムラは俺に飛び掛ってきた。俺の反撃をかわし、一気に懐まで入ってくる。的確に喉を狙って繰り出された右腕。……地下室で育てられた箱入りの割には、体の使い方を知っている。まぁ、それでもどこかで手加減している、というか、とどめを刺そうとする殺気はない。だったら、この程度の動きは、攻撃のうちに入らない。こっちは毎日、殺すか殺されるかのところで生きてるんだ。
「誰もイナダさんが悪いなんて、一言も言ってないだろうがっ!」
 突き上げられた右腕を掴んで、そのまま横に回る。目標を一瞬見失ったシムラの重心がぶれる。首に肘を掛けて、斜め後に引き上げれば、バランスを失ったシムラは勝手に自滅して、後に倒れた。
 
「お前、あの人がお前の無事を聞いて、冷静でいられると思うのか?」
 床に背中を打ちつけ、呻くシムラに問う。
「俺は吸血鬼じゃないから、偉そうなことはいえない。けどな、純血でない吸血鬼が、翼を持たない吸血鬼が、一族の中でどんな扱いを受けているのかお前は知ってるのか?」
 多分、イナダさんはシムラを育てるためだけに、一族でもトップクラスの地位を得ていたのだろう。それが崩れた今、彼の立場がどんなものなのか、一族でなくとも、何となく想像はつく。
「お前を探すことは、イナダさんに一任されたんだ。部下も供も連れず、一族の幹部クラスがこんな辺境の……元々は敵対してた種族のところまで一人で来たんだぞ? それがどういう意味か分かるのか?」
 多分、ヤシュウはイナダさんをも始末するつもりで、彼に一任したんだろう。人狼一族との交渉に失敗すれば、人狼に殺される。そうでなくても協力を得られなければ、あの人は一人、朝日に焼かれながらシムラを探すだろう。その両方が叶わなかったら、事故に見せかけてでも始末するはずだ。ただ、シムラを探すという目的が残っている段階では、彼の身も安全だ。おそらく、一族でシムラの存在を知るのは、ヤシュウとイナダさんだけなのだろうから。
 
「分かってたけど、会いたかったんですよ、きっと。イナダさんに、自分は無事だよって、教えてあげたかっただけなんですよね……」
 シホが、子供をあやすように、シムラの背中を撫でた。
「知らない人ばっかりで、一人で、怖かったんですよね……」
 精一杯の意地なのか、シムラは頷かなかったけれど、否定もしなかった。……そういえば、こいつはイナダさんしか知らなかったんだっけ。会話も不自由しないし、知識も人並み以上にあるから、すっかり忘れていた。この数日を除く四百年以上の長い間、こいつはイナダさんしかいない世界で生きてきたんだった。シムラは、頭も悪くないから、イナダさんの立場を知らないこともないだろう。そんな理屈抜きにしても、こいつは子供みたいにわがままを言ったんだ。
 
「オオシマたちが帰ってきて、準備が出来たら、ちゃんとイナダさんにも会わせるから。イナダさんもお前も、俺たちが守ってやるから……今はちょっとだけ我慢しろ。絶対約束する」
 表情は見えないままだったけれど、シムラはやっと頷いた。
2007/10/16(Tue)01:02:32 公開 / 渡瀬カイリ
■この作品の著作権は渡瀬カイリさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
こんばんは。ここまで読んで下さり、ありがとうございました。
話が予定より長くなってきたので、八章以降を別投稿にさせていただきました。
以降、よほどのミスがない限りは、こちらをいじることはないと思いますが、誤字脱字などございましたら教えていただけるとありがたいです。

公開履歴
◆ 2007/08/27(Mon):一章まで公開。
◆ 2007/08/31(Fri):二章追記。序章と一章の節タイトルをアドバイスに従い削除。改定も少々。
◆ 2007/09/02(Sun):三章第二節まで追記。二章第一節、第二節をカミヤ視点に変更。改定も少々。以降、よほどのことがない限りはカミヤ視点で固定することに路線変更。
◆ 2007/09/10(Mon):既出の三章第一節、第二節を四章へ移行。新三章(イナダ視点)を挿入。四章に第三節を追記。
◆ 2007/09/15(Sat):第一章一節に世界観追記。第四章二・三節を改訂。第五章二節まで追記。
◆ 2007/09/20(Thu):第五章三節から六章二節まで追記。
◆ 2007/09/26(Wed):第六章三節から六節まで追記(六章完結)。
◆ 2007/10/03(Wed):六章二節と三節の間を改訂。七章・八章二節まで追記。
◆ 2007/10/09(Tue):第八章を分離して別投稿。
◆ 以降は不定期に誤字脱字等を訂正。
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