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『ラブレス ――嘘つき世界を征く――』 作者:メイルマン / リアル・現代 未分類
全角24850.5文字
容量49701 bytes
原稿用紙約74.65枚
倒錯系高校生の慶介があなただけに語る、閉じた世界のお話。現実の語り手とおんなじで、嘘も本当も入ってます。


 目覚し時計の電子音が鳴り出し、僕はベッドの中でじっと耳をすませる。僕が寝静まったと思いこんだ部屋は、夜を通して乾いた綺麗な空気をそっと貯めこんだ。その乾いた綺麗な空気に、電子音が瑞々しく響くのを僕は聞く。普段の僕が知ることのない、静かな部屋と目覚まし時計の逢瀬に立ち会うために、その一瞬を見たいがために、僕は起きていたのだ。夜を徹して。
 六畳の部屋はカーテンのやわらかな青さに包まれて、軽く埃がかったフローリングの床には夜の柔らかな涼しさがまだ息づいている。打ち寄せる波に砂が徐々に濡れていくように、この空間に目覚まし時計の音が緩慢に染み込んでいくのを、僕は目を瞑ってじっと待った。あと少しで、部屋と時計の本性を、本当の姿を捉えられる――。
「早く止めろよ」
 無粋な声は僕の右の手のひらが放ったものだった。もうおしまいだった。時計と部屋に僕が起きたことを気付かれた。僕は不愉快になって右の手のひらを睨んだが、どうやら何の威嚇にもならなかったらしい。右手は全く反応を示さなかった。
 僕はベッドから這い出して目覚まし時計を止めた。部屋は抗議するように静寂をみなぎらせて、フローリングまでが僕に冷ややかな態度をとっている。右手が喋らなければ、僕はいつものような誠実な主でいられたのに。部屋は僕が部屋を欺いて、夜通し寝たふりをしていたことを許さないと言っていた。
 時刻は朝の六時だった。僕はパジャマを脱ぎ捨てると、クローゼットの中から肌着や学制服を取り出して着替えはじめた。
「ふけけ、男のストリップショウか」
 右手が素っ頓狂な声をあげる。ひどく耳に残る、異常に高い下卑た声が彼のスタンダードだ。鳥肌がたつくらいおぞましい、体が受け付けない声色のこの右手に、僕は抗議した。
「もう少し静かにしてろよな」
「うっせ。死ね。死ね、死ね」
 右手の喋る言葉の大半は攻撃的なもので、言葉のレパートリーは中学生並みだということは、彼との長い暮らしの中で僕が見つけた性質の一つだ。僕はため息をついたけれど、そんなことを気にする右手ではない。
「まぁ、いいや。とりあえず、時計が鳴るところは確認できた。ちゃんと鳴っているものなんだね」
「あたーりめえだろ! でもな、今日だけいい子ぶってただけで、たまにはサボるかもしれねえぞ」
「わかってる。3日に1回はチェックしてやるさ」
 制服を着た後、僕が机の傍らにあった鞄を右手で持つと、右手がまた文句を言った。
「おい、おれにこんな物を持たせるな。左で持つんだ」
 僕はおとなしく鞄を左に持ち替えた。
 部屋の外に出た。母さんが起きているのだろう。階下から朝のニュースの声と食器の音が僅かに聞こえてくる。僕はドアノブを掴んだまま、一度だけ部屋を振りかえった。すでに部屋の空気からは僕が夜通し感じていた清さは消えうせていて、僕という主に対する偏見と侮蔑だけが、やる方なく渦巻いているだけだった。

 右手が初めて喋ったのは二年前、僕が中学三年生のときだった。受験勉強に励んでいた1月の夜に彼は覚醒した。耳が声とも言えぬ声を捉えたのは、親が寝静まった2時近くのことだろうか。はじめはラジオの音かと思ったし、幻聴かと思って早めにベッドに入ったのも記憶にある。しかし彼はベッドに入ってからも僕を観察し、あーだのうーだの不吉なうめき声を発しては、僕の顔が奇妙な現象に警戒感を強めるのを散々楽しんでから囁いた。
「おやすみ慶ちゃん」
 それ以前のノイズのような声とは違う、はっきりとした声だった。それはオカルトの類を全く信じない、いや信じなかった僕にとって、あまりに衝撃的な出会いだったといえる。僕は部屋中を見回してから、もう一度右手を凝視した。
「どうしたいボク? 一人ぼっちで怖いんでちゅか? へへへへへへ」
 明らかに右手がしゃべっている。生まれてこのかた心霊現象と関わりを持ったことのない僕は、背筋を寒くしつつも目の前の出来事に対して努めて冷静に対応しようと決意した。
「君は誰だ?」
 自然に聞いてはみたものの、はたから見れば明らかに頭のおかしい、または笑える光景だったと思う。彼は答えた。
「右手ですが何か?」
 精神に変調をきたしたにしては、五感の全てがあまりに良好だった。視覚にも聴覚にも思考力にも問題はない状態だった。僕はこれ以上ないというほどあっけにとられて、表情を変えずに石になった。
「あーはっはっはっはっは! 慶ちゃん、ナイスリアクション!」

 リビングはアナウンサーの声に占領されていた。厳格で正しい発音の声が中東で起こったテロの話を投げつけてくる。唇が乾かぬうちに動物園のライオンの赤ちゃんが可愛がられているという話もしてくるのだから、きっと彼は精神異常者に違いない。
 食卓の上にはいつも通りの温かな朝食が並べてある。ペンキを塗ったみたく白いごはんと、内蔵っぽい朱色の鮭と、吐しゃ物みたいな味噌汁が、ほかほかに温まって僕を待っている。
 電車が出るまであと三十分ほどだった。僕は朝食を頬張る。
「おい、おれにも食わせろよ。食わせろよ」
 右の手のひらは僕が食べている間、しきりに喋りつづけていた。それはいつものことだから別にうっとうしくはないが、僕はときどきこいつは喋り続けなければ死ぬのだろうかと疑うことがある。
「おい、お前のお袋一体いくつだ? 良い体じゃねえか。ふは。食わせろ、飯とまとめて食わせろ、ふははひは。うまいこと言った! ふひゃへ」
 僕は母さんのほうをちらりと見た。何の反応もなく、いつものようにテレビに目をやりながら僕の差し向かいで朝食をとっている。
「うそうそ、うそですよ奥さん。いやー、いつ見てもお美しい。とても子宮から一匹生んだ中古品とは思えません。いや、思えまっせーん。うわっはっはっは」
耳障りな声はアナウンサーの声を押しつぶして、からからとリビングにこだまする。僕は玉ねぎの味噌汁を口に流し込んだ。少し遅れて喉から腹へ温かさが流れた。とてもおいしい。
「ごちそうさま」
「はい」
 そのまま席を立ち、母さんに「じゃあ、行くね」と告げると、母さんは僕の口周りについた米粒をとって、鞄を渡してくれた。僕はそれを左手で受け取ると、右手で母の乳房を掴んだ。僕の不意の行動にも母は表情を崩さずに、穏やかな笑顔で僕の頬を打った。耳の裏で頬の音が鳴った。
「いってらっしゃい」
 僕はそう言う母さんの瞳の中に渦を見た。瞳の中を黒い煙がぐるぐると回り、煙同士は交じり合い、相反しあい、綺麗な渦を作っていた。その煙はきっと脆弱で、眼球にあてがうように指を差し向けていけば、たちまち霧散してしまうだろうと思われた。そうすれば煙の向こうが見えるはずだと、僕は思った。
 僕は足を玄関に向け、靴を履いてドアノブを掴んだ。すると僕は母さんの言葉を背で聞いた。
「可愛い坊や」
 その言葉を咎めたい気持ちが僕の中で急激に沸騰し、更に急激に消えた。僕は答えずにドアを開け、最前まで身を置いた空間を、外の空気に冷やされた黒い扉の奥に閉じ込めた。熱湯を食らった後に冷や水を浴びせられたように、僕のどこかが急速に疲弊していくのを僕は感じた。
 右の手のひらは乳房の感触に我をなくし、無意味な叫びをつづけていた。
 
 おそらく僕が家にいる間は、世界は一切の活動をやめている。適当に作った事件で社会の流れというものをテレビや新聞、ネットを通して垂れ流して僕を欺こうとする裏では、何もかもが演技をやめ、その形状を炎天下のアイスのようにどろりと崩して、家々も道路も木々も鳥も人々も、空も風も自転車も駐輪場も駅前のパン屋も自動改札機も、階段もホームもレールでさえも、全てが僕の見えないどこかで、どろりと交じり合って身を休めている。それが世界の法則だ。
 かといって世界は僕にそんな混沌とした姿を見せることはなく、僕がふと窓の外を見たり、必然性のないタイミングで外に出たとしても、どろりとした世界の要素はたちどころに演技をはじめ、昨日までと変わらない家並みを瞬時に構築する。もちろん、その変化を僕が知覚することはできない。世界は全能で、僕ごときが足掻いたってどうにもなりはしないことを、僕は学んだのだ。疑念に悩んだ夜に寝たふりをした上で、不意をついて玄関から飛び出し、偉大な夜の光景が、眼前に立ち塞がっているのを何度も目撃する過程で。
「まもなくーまもなくー電車が参りまぁす! 白線のうっちがわまでーお下がりくださーい。まもなくーまもなくー電車が参りまぁす! 白線の内側までぇーお下がりくださいー」
 朝の駅はひんやりとしていて嫌いじゃない。僕が見上げると日差しのない青空が、ホームとホームの間から覗けた。厚みのある白い雲が一つ二つ浮かんでいる。
 僕は視線を足元に移した。今、僕は白線を踏んでいる。
「まもなくーまもなくー電車が参りまぁす! 白線のうっちがわまでーお下がりくださーい。まもなくーまもなくー電車が参りまぁす! 白線の内側までぇーお下がりくださいー」
 ゆるゆると電車がホームになだれ込んでくる。スピードを落としきるその瞬間に飛び降りて、この身を車体に委ねたらどうなるだろうか。明らかなイメージが湧かないその発想に思わず惹かれる。その瞬間、世界と僕の間に僅かな綻びが生じないだろうか。僕が認知しているからこそ存在できる世界が、僕の異変によって何か変容しないだろうか。
「まもなく――世界は全能だ。世界は全能だ。無理だよ、無理だよ。お前みたいな奴にゃあ世界は破れない。無理無理無理無理。ふははっは。身のほど知れ! 身のほど知れぇ! お下がりくださいー」
 僕は電車のドアを跨ぐ。
「まもなくーまもなくー電車が参りまぁす! 白線のうっちがわまでーお下がりくださーい。世界は全能です。まもなくーまもなくー電車が参りまぁす! 白線の内側までぇーお下がりくださいー」
「うるさいよ」
 口の中で小さくそうつぶやいて、右手をポケットに突っ込んだ。
 世界は電車の速度に合わせて、隣町に向けて形成されていく。その反対側、僕と関わりを持たなくなった張りぼて達がどろどろに溶けていく音を、僕は思った。

 右手は僕とは明らかに異なる性質の持ち主だ。乱暴で下品で口やかましく、我侭なうえに自分の気に入らない話題を僕がふっても相槌さえうとうとはしない。
 電車に乗っているあいだ続いた彼の演説、「権威の内包する性悪的暴威とテロの正当性」とやらは、改札を出ると同時に「女子高生の理想の脚の細さ」に変化した。彼の声はその特徴的な声色のせいか、そこらの雑音などを軽く圧倒してしまうため、小さな駅を彼の声が支配した。学校への道中、そそくさと僕を避けて足早に学校へと向かう生徒たちの背中を僕の目は追う。右手が女子高生のスカートへ手を伸ばそうとするのを必死に止めながら。
「僕は細すぎるより、ちょっとボリュームのある子が好きだよ」
「ふけーっけ! ナイス! ナイスセンス慶ちゃん! そのとーりっ」
 道行く人が僕を決して見ないことに慣れたのはいつだろうか。気味が悪いだろう。恐ろしいだろう。でも僕はそうやって、気味悪がられて恐ろしがられる自分を受け入れることが出来る。世界め。お前には負けない。
「ハヤカワッ! ハヤカワッ! う〜! ハヤカワッ! 爽やかハヤカワ! 爽やかハヤワカ! はわやかサワヤ……!」
 緑色の校舎が見えてきた。県内で有数の進学校は恐ろしいほど趣味の悪い色彩で、木々の茂った急斜面に身を横たえている。

「溝尾」
 ぼくの一声でかつての親友の肩がびくりと震えた。校門前のはつらつとした喧騒は一瞬で静まり、朝一番でスポットライトを当てられた溝尾に対して、千の視線が突き刺さった。
「おはよう慶介」
 平静を装って応える溝尾の唇が笑顔に耐え切れず引きつっている。昔はよく遊んだ仲だったけれど、右手が現れてからはすっかり縁がなくなって、たまに出会っては無表情と苦笑いを交換する仲になった。
「おはよーみぞお!」
「おはよう溝尾。古文の課題、出しといてくれないか」
 僕が課題を差し出すと、溝尾は怪訝な顔で僕の顔を見た。
「どうしたんだ?」
「別に、気分が悪いから保健室で寝ようかと思って」
「寝てないのか? くまがあるぞ」
 他の同級生なら一瞬たりとも会話していたくないと僕の元から離れていくものだが、さすがは元親友だった。用件が終わってからも一歩踏み込んでこられるなど、月に幾度もない体験だ。
「どうーでも良いだろうがそんなことわぁ! あぁ? みぞちゃん?」
 右手が大きく手を振り上げて、殴りつけるようなポーズをとった。とっさに溝尾は身を縮ませて、恐ろしいものを見るように僕を見た。僕は右手を必死に押さえつけて、溝尾に「すまない」と詫びた。
 右手を制したことで僕は興奮して足を速めた。生徒玄関では生徒の服装をチェックしている教師が、何事もなかったかのような顔で立っていた。生徒一同が僕の噂を恐々と口走る空気の中を、ためらいがちな溝尾の声が飛んできた。
「慶介」
 名を呼ぶだけのかぼそい声だった。きっと右手には聞こえなかっただろう。

 右手の接近と引き換えに僕が得たものは果たしてなんだろうか。
うっとうしく見栄っ張りの母親は僕に無関心になった。友人たちはくだらない会話を一切控えて距離をとったし、学校は右手に恐れをなして僕に自由を与えた。
 世にも珍しい喋る右手は僕にたくさんの利益をもたらしてくれた。もちろん僕とて右手自身による害悪を把握していないわけではない。たいていの人は右手の存在を恐れるし、関わりあいを持とうとしない。僕らが受ける視線の冷ややかさはは障害者に向けられるそれに似ているのだと思うけれど、同情ではなく嫌悪な分、いささかたちが悪いかもしれない。
 しかしながら僕は右手が出現しないままのくだらない世界よりは、今の現実のほうがよっぽど理想的だと思う。右手は、およそ人間関係と呼ばれる全てのもの、例えば他人からの圧力、要請、当然応えられるべきだとされる優しさへの感謝、そういったわずらわしいものから僕を切り離してくれた。また彼の異常性は、ごく一般的な僕のような少年が歩むべきと思われていたルートから僕を救い出し、目的地のない荒地へと僕を導いた。そして何よりこれが重要だが、およそ世界のどの人間も持ち得ないであろう、喋る右手という存在は、明らかに世界の綻びだ。僕の目の前に右手が現れたことこそが、長年待ち望んでいた世界側からの接触なのだ。いつも僕を欺いてきた、時にはどろどろで、時にははりぼてになる世界が、たった一人しかいない僕に初めて対話の糸口を与えてきたのだ。
 右手は世界で一番イリーガルな、法外な存在だ。それを握り締めたのは、この地球上で僕しかいない。いままで何食わぬ顔をしていた世界が、ヒントをやっと僕に掴ませたのだ。

 保健室での行為は、いつものように単調に終わった。早川先生は衣服を正そうともせずに、ベッドの上に華奢な身を投げ出している。柔らかい肌色と白い服のコントラストが、たまらなくいやらしい。右手がおれにもやらせろとしつこく叫んだ。
「もう戻ります」
 早川先生は力なく頷いた。黒ぶちの眼鏡と厚みのある唇が早川先生の魅力だ。僕は先生のショートヘアを撫でながら、唇にそっとキスした。乳房には触れなかった。
 僕は鍵をあけて廊下に出ると、外側にかけてあった「入室禁止」の紙を裏返して、「在室中です」に変えた。やり慣れた動作だった。
「――君」
 不意に声をかけてきたのは生徒指導の教師だった。名前は忘れたので、ドドリアと仮称することにする。彼ドドリアはぷっくりとした体型で体毛が薄く、銀縁のめがねが不似合いに顔に配置されている学校の嫌われ者だ。
「何だドドリア! 喘ぎ声でも聞いてやがったのか!? 寂しい奴だな(ピー)野郎が!」
 右手が威嚇でがなった。教室が設置されていない一階の廊下中に、右手の声が素敵な色彩でこだまするのを僕は聞いた。
「何ですか? 先生?」
 ドドリアのこめかみが僅かに痙攣している。この男は事が終わるまでずっとドアの近くにいたに違いない。下賎な趣味だと思う。
「今は授業時間だ」
「具合が悪くなったので、保健室で寝ていました」
「いつも保健室にいるんだな、お前は」
「体が弱くて」
 僕が微笑むと、ドドリアは僕の胸倉を一気に掴んだ。つるつるした小麦色の前腕に血管が浮き出ている。お前が早川先生をどうしたいかは知っている。
「やめてください、先生」
 僕は穏やかに言う。
「今なら早川は無抵抗だぜ! 今なら無抵抗だぜあの――女! 綺麗な顔していやらしい! 可愛い顔していやらしい! ぶひゃら! チャーンス! ドドリアチャーンス!」
 僕はドドリアの手を掴み、離してくださいと言った。ドドリアは僕を侮蔑しようと、懸命に色の無い目を作って僕を睨んだ。ドドリアの手が離れた。
 何も出来ないんだろう。なら邪魔をするなよ。
 一瞥もくれずにきびすを返して廊下を歩き出した僕には、教室に向かう気がなかった。襟を正して下駄箱で靴を履いた頃、「こんなのは異常すぎる」という毛深い絶叫が、二十メートル先の保健室から聞こえてきた。声はこだまして、耳の中を何度も何度も駆け回っている。

 小さな病院には人のいる気配がない。駐車場に車が五台も止まっている割には受付の女性と医師の二人以外、僕は目にしたことがない。
 右手は珍しく押し黙った。消毒液の匂いが気持ち悪いらしい。ぼそぼそと愚痴を垂れながら、右手は小さく身を震わせていた。僕は左手で彼を優しく包むと、少しずついたわるように撫でてやった。
 受付に診察券を渡すと、僕の順番はすぐにきた。「高橋」と書いてあるドアを開けると、見慣れた白髪の医師が僕を見て微笑んでいた。
「調子はどうだい?」
 僕を椅子に座らせ、眼球をチェックしながら医師は尋ねた。穏やかな表情だったが僕は騙されない。頭の中は僕を苦しめたい衝動で一杯だということは知っている。
「右手が生意気な口を聞いて、困っています」
 僕が右手を差し出すと、医師はおもむろに右手をチェックしはじめた。張りのない指が僕の右手を柔らかく這った。
「うげええ。触るなやめろ! ぎゃあ! くさい! 気持ち悪い!」
「ずいぶん元気な右手だ」
 右手が全力で抵抗しても、医師はしっかりと右手を離さずにいた。必死の罵詈雑言は五分も続いたが、やがて右手はぴくりとも動かなくなった。
「いささか持久力に欠けるな」
 声をあげて快活に笑ったあと、医師は僕の診察を開始した。
 ナースががらがらと診察道具を運んでくると、医師はその中にある銀の棒をアルコールランプであぶり、僕の口を開かせた。棒の先端にある球状の部分が熱を帯びているのがわかる。医師の口元に嬉々とした皺が見える。僕は恐怖を少し抱いたまま、いつもの感触を待った。
 棒が喉に押し当てられた。肉が焼けた音が自分の喉から聞こえる。僕は「がああ」と声をあげて、奥からこみ上げるものを堪えながら涙を流す。医師がにこにこしたまま何かを喋っているのが聞こえる。
 焼けるような熱さが痛みに変わった。同時に吐き気がいよいよ大きくなってきて、実際に喉の入り口にまで這い上がってきたように思えた。呼吸が苦しくなり、出来なくなり、次から次へとたれ流れる鼻水をぬぐう余裕すら失った。
 僕は限界だという合図を医師に送った。医師はとぼけた顔をしながら棒を引き抜き、デスクの横のゴミ箱を僕の方に動かした。
 僕はゴミ箱を覗きこんで思いきり吐いた。今朝の朝食が鮮やかな色をなして散らばった。医師はそれをデスクの引出しから取り出したカメラで撮りはじめる。ピンク色のカメラから何度となくフラッシュが焚かれる。医師はいびつに笑っている。
 僕は涙と口を拭って、じっとそのフラッシュを見つづけた。目の奥にフラッシュが焼きついて離れない。消えない。
 この残光が永久に消えない気がして怖くなる。医師は笑っている。

 くたくたになって病院を出るころには、右手は普段の調子を取り戻していた。受付の女性に対して罵詈雑言と性的嫌がらせを吐きつける右手に、僕は何だか安心した。
 夕暮れが空を覆っていた。家路の途中で自然公園を発見した僕は、公園の外周を覆うサイクリングロードの近くのベンチに目を止めた。風が冷たく人は見えず、野球場らしきスペースに子供の姿は見当たらない。
 公衆トイレ付近の水道水で喉を潤し、ベンチに腰を下ろして数分、つと歩いてきた老人が僕の横に腰をおろした。ベージュのセーターを着ている。
「おっす、じじい元気? おっけい? あーゆーファイン? げへへへら」
「おうおう、元気だともさ。お前さんはどうだい?」
 老人はいかにも好々爺らしい笑顔を浮かべた。眼じりのしわが優しげだ。
「もっちろん……ピンピンしてるさ! してるさ、ジジイ。ほら、ほら!」
 いきなり右手が激しく僕の顔を殴りつけた。強い衝撃に視界がぶれる。夕空がぶれる。
「どうしたんだい。そんな真似はやめなさい。これ、やめなさい」
 老人が慌てて止めに入る。
「いいんです。気にしないで。ぶっ、痛い。こいつ、こういう、ことをするのが、好きなんで」
 ブランコがぶれる。シーソーがぶれる。うんていがぶれる。砂場がぶれる。老人の声が聞こえる。
 こんな状況のときでも僕は世界を観察していた。ぶれてもぶれても変わらない世界。やっぱり世界は簡単にぼろを出さない。けれど続けていればいつかは――。 いつかはこの世界が変わるかもしれない。本当の姿をさらけ出すかもしれない。
「ひゃらっはっはー。気にすんなじじい! こいつMだから。わひゃひゃひゃひゃひゃ」
「やめなさい!」
 老人は焦っている。僕と右手のことを知らない人間の普通の反応かもしれない。学校や近所ではこんな反応をする人はいない。僕はなんだか申し訳なくなって、自由な左手で老人を制した。
「いいんです。きょいつ、いっつも、こうぶっ、こうなんで。本当、仕方ないんです。ちょっと変でしょう? こいつ。仕方ないんです」
「気にすんなよじじい。老い先短いんだから、いちいち変なことに首突っ込んでないで家に帰って鼻に白いつめものして寝な。ひゃっは! 死人みてえ! ひゃははは! 死人みてえ! やべえ爆笑」
「僕らの、ことは、ほっといて――」
 そう言ったとき、様子が違うことに気づいた。老人は急におとなしくなって僕を見た。僕はその目にいつものように、同情と蔑みの色が浮かぶのを予想していた。ところが老人は笑った。にこりとでも快活にでもなく、腹の底からふつふつとたぎるものが溢れるように、悪役のように、高らかに笑い始めた。口の中のつばが上あごと下あごの間で糸を引いた。
「あはははははは! あははははは! そうかそうか! それはちょっと変だねえ! あははは!」
 老人に不気味に凝視され、僕は背筋が寒くなった。
「じゃあこれでどうだい!?」
 老人は僕の唇を手でふさいだ。老人離れしたとんでもない力だった。
「ほら右手! 喋ってみろ! 喋ってみたまえ! ほら!」
 右手は沈黙を続けた。一切喋ろうとしなくなった。僕は老人を引き離そうとしたけれど、手も足も出なかった。
「喋っているのは誰だい? 喋っているのは誰だい!?」
 老人の瞳に汚い顔つきをした僕が映る。この老人はおかしい。こんなにおかしい老人が僕をどうして瞳のうちに宿せるだろうか。
「君なんだろう! お前が! 喋っているんだろう? 嘘をつくのはやめたらどうだい?」
 何を言っているんだこいつは。やめろ。
「いいか、いいか、よく聞けよ!」
 やめろ。
「本当にしゃべっているのは――」
 僕は思い切り、満身の力で老人を突き飛ばした。転んだ老人はしたたかに腰を打ったようだ。なおも老人は口を開いた。
「しゃべっているのは――」
「殺せーーーーーーー!」
 右手が息を吹き返して叫んだ。僕はとっさに反応して、老人に馬乗りになると彼の顔を思い切り殴った。虫けらをいたぶるような繊細さで、的確に鼻とあごを全力で殴り続けた。
「死ね! 死ね! 慶、殺せ、すぐに!」
 右手の声に煽られて、僕はいよいよ興奮した。老人の顔は鼻血にまみれ、唇が切れた口の中には血と折れた歯が何本か含まれている。僕は拳の皮が赤くなり、すりむけて、骨に強い痛みを感じるようになっても殴り続けた。
 僕の呼吸は荒かった。視野が狭くなって、極度に高ぶっている自分を認識した。老人がぐったりとしたころ、遠くのほうから声が聞こえた。目をやると、警察官が向こうから駆けてくる。
 僕はすぐさま逃げ出した。サイクリングロードを飛び出して、入り組んだ住宅地に入るつもりだった。拳の痛みにも気がつかずに、足が千切れるくらいに走った。
「しゃべっているのはなぁ!」
 後ろから聞こえたのは老人の声だった。ちらりと振り返ると老人は立ち上がっていて、ぐちゃぐちゃになった血まみれの顔でこちらを見ていた。
「うわーーーーー!」
 老人の声をかき消すために僕は叫んだ。おそらく右手も叫んだことだろう。決して老人の声が聞こえないと確信できる距離まで僕は叫びながら走った。
 走りながら見上げた空は暗かった。陽はとっくに沈んでいた。

 声が蘇ってきた。
「今までお子さんに不思議な言動などは見られませんでしたか」
「……思い当たる節がないわけではありません」
「例えばどんな?」
「例えば、世界がどうだとかなんとか……。でも先生、あの子はちょっとだけ、ほんのちょっとだけおかしなことを言ったこともありますが、それはどこの子にもある普通のことです」
「ええ、その通りです。まったくその通り。ですが奥さんがそう仰るのなら、私に出来ることはありませんね」
「待ってください先生。小学生のころです。私がリビングにいるとこの子が二階から降りてきて言うんです。今何してたって。テレビを見てたと答えると、本当かどうかしつこく何度も聞くんです」
「ええ」
「あまりにしつこいので、いい加減にしなさいと言うと、なぜ怒られたかわからないという表情でいうんです。だって僕はお母さんがテレビを見てたところを見てないんだものって」
 だってそうだよ。僕は見ていないんだ。僕が正しい。
「そのとき奥さんはなんと言いましたか」
「お母さんの言うことが信じられないのかと怒りました。それでも、あの子は満足していないみたいでした。それ以来、あの子は次第に変な行動をとるようになってきたんです。あの子はばれていないつもりですが、私は知っていました」
「どんな行動ですか」
「夜に突然部屋を飛び出したかと思うと、ものすごい勢いで玄関の扉を開けるんです。その一瞬はとても集中した様子なんですけれど、次第にしょぼくれて、今日もだめだとか、なかなか隙を見せないだとか、ぶつぶつ言って部屋に戻るんです」
「それはいつごろのお話ですか」
「そんなに前ではありませんわ。二年生のころですから……ねえ先生、くれぐれも、なんと言いますか、丁重にお願いいたしますね。せっかく高校にも合格して、これからというところだったのに。片親ですけれど、真心こめて育ててきた子がこんなことになるなんて」
「もちろんです。ご安心ください。ところで奥さん、何か慶介君に大きなストレスを与えなかったですか」
「例えば……どんな?」
「あまり愛情を注がなかったとか、極端な締め付けをしたりだとか。ナイーブな子だと、そういうものに参ってしまいますから」
「高橋先生、母子家庭だからといって子供に愛を注げない理由にはなりません。慶介には十分に愛情を注いでおりますわ。受験の時だって、出来れば、出来れば志望校に合格してほしいとだけ言って、必ずどこに行けとなんて言っておりません。家庭教師もつけましたし、毎晩のお夜食だって欠かしたことはありませんわ」
 違う。勘違いをするな。
「わかりました奥さん。いえ、気を悪くされたら申し訳ありません。どんな原因でなるかはわからない症状ですのでね。先天的なものかもしれませんし、いままで報告されている例とは別の原因かもしれません。いや、そもそも症状が似ているからといって一くくりに決め付けてしまうのもどうか……」
「先生、あの子はもとに戻らないでしょうか」
「そんなことはありませんよ。ああいった症状の子が治療不可能だというのは偏見です。粘り強く治療することですね。学校のほうにも相談されるべきです。診断書を書いておきましょう」
 人を病気呼ばわりするな。
「ああ、もう私くじけそう」
「しっかりなさってください奥さん。私でよければいろいろと相談に乗りますよ」
「ああ、先生。頼りにしておりますわ」
 うるさい。うるさい。
「それにしても、どうしてあの子が右手が喋るなんて言い出したのか、私にはまったく理解が出来ません。お勉強も出来て、優しくて、あんなに良い子だったのに」
 ああ、僕の邪魔をするな――。

 悪い夢から目を覚ますと、僕は真っ暗闇の雑木林に一人で横たわっていた。いつの間にこんな場所に辿り着いたのか、記憶が欠落していてわからない。案外長い間あいだ寝ていたのだろう、体は硬くなっていて背中が痛かった。目が冴えてくると徐々に拳の痛みが蘇ってきた。
 あたりは静まり返っていて、見上げても傍らの木の葉さえも見えぬほどの闇だった。土地勘のない僕は、雑木林を抜けるにはどうすれば良いのか見当もつかない。目が慣れるまでに時間がかかるかもしれない。
「こえーとこだなぁ。おい、びびってる? 慶ちゃんちびってる?」
 こんな時でも右手の調子は変わらなかった。ぼろぼろになっていているにも関わらず、こいつは痛みを感じないのだろうか。僕だけが痛みを感じているとすれば、不公平な気がする。
「静かにしてろ。どうすれば知ってる場所に出れるか考えなくちゃ」
「たぶんあっちだぜー、ほらー、あっちー」
「……灯りがあるな」
 電灯がはるか遠くに、豆粒みたいな光を放っているのが見えた。僕は見えづらい足元に注意を払って、ゆっくりとそちらへ歩き出した。地面はでこぼこしていて、時折虫の声がどこかから聞こえた。土と木の匂いが辺りに充満している。
「肝試しみたいだね、慶君」
「気持ち悪いよ右手君」
「ぎゃあああああああああああああああ」
 右手が突然叫んだ。
「……なに」
「あれ、びびんなかった? 絶妙にホラー的な演出だったのに。今びびんなかったの? ホントはびびったろ! こら、白状しろ(ピー)カス! このこのぅ」
 僕は閉口する以外になかった。げらげらうるさい右手を無視して、深い闇の中を行った。

 灯りに辿り着いた僕はそこが見慣れた駐輪場だということに気がついた。ここは家から一駅ほど離れた場所にある緑地で、小学生の自転車でも30分もあれば辿り着く。駐輪場の横の窪地には大きめの沼があり、小学生のころには友人とよく魚釣りをしたものだ。
「懐かしいなぁ、慶ちゃん」
「うるさい。お前は知らないだろう」
 僕は低い柵を飛び越え、外灯の光を頼りに沼の淵まで降りた。風のない夜に沼はわずかな波すらたてず、巨大なゼリーのように冷たさを湛えていた。
 水面には月が浮かんでいた。小さいころ、門限を破ってまで友人と水面の月を見ていたことを思い出した。僕はてごろな石を見つけて、月に向かってそれを投げつけた。心地良い音が夜に響くと、水面の月は面白い形にひしゃげた。
「こんなところに居たのか」
 僕は驚いて振り返った。逆光に輪郭を浮かび上がらせて、そこに溝尾が立っていた。
「何しにきた?」
 なるべく棘を感じさせる調子で僕は元親友に聞いた。
「お母さんから電話が来たよ。今更家出っていう歳でもないだろう」
「黙れミゾオ。うるっさいんだよーん。家帰ってオナニーして寝ろ。おれが手伝ってやっても良いぜ。うひゃ、やっぱパス。うひゃひゃら」
 右手がおどけるように言っても、溝尾はひるまなかった。心の中の動揺を強い決意で押さえつけようとしているように僕には見えた。僕は溝尾の来意をはかりかねた。
「慶介、その拳はどうしたんだ?」
「しゃらーっぷ、溝尾。聞こえなかったのか、帰れよ、みぞちん」
 僕は返事を右手に任せて、拳を後ろに回した。
「慶介、答えてくれ」
「おい、頭おかしいんじゃねーの? 日本語わかる? お前とは話したくないって言ってんの? おーけい? ミスター勘違い」
「慶介」
 溝尾が距離をつめてきた。僕は沼を背負っていて後ずさりできない。お互いの顔がはっきりと見える位置まで来ると、右手が叫んだ。
「あー、うっぜえ!」
 溝尾の胸倉を掴みあげて、思い切り睨み付けた。
「おい! 殺すぞ! 干渉してくるんじゃねえ! 邪魔! 邪魔! 邪魔なんだよ! うっとうしい! おい慶ちゃん、殴っていい? こいつ殴っていい?」
「殴りたければ殴れよ」
「かっちーん、マジ頭きた。頭きちゃいましたよ右手さん」
 溝尾が僕の手を掴んだ。
「おじいさんが高校生に暴行されたらしい。もうみんな知ってる。誰に疑いがかかると思う?」
「知るか!」
 右手が怒るのを僕はさえぎった。
「うるさいよ」
 右手をポケットに突っ込んで、僕は溝尾と向き合った。
「慶介、拳の怪我は何だ?」
「転んだんだよ」
「そんな言い訳が通ると思うか」
「事実さ」
「こんな時間まで何をしていた」
「月が見たくなってさ」
「服の汚れはなんだ? 虫取りしてたとでも言うつもりか?」
「そのつもりだったよ」
「ふざけるなよ」
「ふざけてなんていないさ」
「慶介、お願いだ」
「何をだ? 何を頼むって言うんだ? やめてくれ」
 逆光で溝尾の瞳が見えない。何故だか知らないが、冷や汗が体のどこかを流れた。体の中心が熱くなった。
「慶介」
「同情か、溝尾? なんのつもりだよ。よせ、よしてくれ」
「違う慶介、違うんだ。おれと話してくれ」
「そんなつもりはない」
「慶介」
「何をしにきた溝尾!」
「帰ろう。お母さんが心配してる」
「言われなくても帰るさ! ……そこをどいてくれ」
 僕は溝尾をおしのけた。
「慶介」
「話すことなんてない」
 僕がそういったときの親友の顔は、見たことのないくらい悲しげだった。僕は急いで駆け上がって、柵を飛び越えた。溝尾の声が背中に突き刺さって痛んだ。溝尾の熱にあてられたらしい。昔のことをなぜか思い出していた。この誠実で勇敢な親友に、僕が出来ることなんて何もなかった。
「慶介。待ってくれ」
 僕は声を振り切った。二人で門限を破ったのは遠い昔のことだった。見上げた空にくっきりと月がはりついていた。その月が決してひしゃげないように、僕は唇を固く結んで走った。

 走りながら僕は身悶える。
 世界は太陽をどこかに隠した。僕の体は闇に同化しながら、外灯のない真っ暗な私道をひたすらに駆けていく。光のない世界で、僕の体が世界に同化する。
 でも僕の魂だけは違う。僕の魂だけは今この瞬間も僕だけのものだ。激しい心音が僕を奮い立たせる。胸が痛い。魂は叫ぶ。僕は僕だけのものだ。僕は世界になんかに同化しない、おもねらない。僕が、僕が――。
 ふと気がついた。この体はどこから来たのだろうか。こんなにたやすく世界の闇に、世界に同化するこの体はなんだろう。この体はどこから生まれて何のために用意されたのだろう。ひょっとしたら、この体は世界から提供されたものなのか。
 そして、その問いが許されるなら、この魂は、この僕はどこから来たのだろうか――。
 僕はなぜ今ここにいるのか。この僕という存在が、何故存在しているのか。ひょっとしたら、僕の存在は未来永劫世界の手のひらの上なのか。だとすれば足掻いても足掻いても、何も変わらないのか、ずっと、何も。
「ああああああああ」
 僕は夜に向かって叫んだ。答えが握れないことが何より怖かった。確かなものがほしくなった。右手は何も応えてはくれない。不安で不安でどうしようもない。体に力が入らない。立ち止まってしまえば、全身が震えきって動けやしないだろう。僕は不恰好に、前のめりになるようにして進んだ。気づかないうちに僕は泣いていた。
 最後に人に触れたのはいつだ。温もりを確かめたのはいつだ。

 遠くでじっとりとした夜の音。

 高校の合格発表の日に母さんはおかしくなった。すでに右手は僕の一部になっていて、誰の前でも気さくなトークを展開していたから、母さんはこの不気味な存在に恐れを抱いていた。おそらくそれは純粋な未知への恐怖であり、なおかつ息子に宿ったこの存在が世間に対する大きな傷になってしまうという恐怖だった。母さんはごく一般的な、理想的な家庭を至上のものとしていたし、家族に関わる醜聞を何よりも嫌う人だった。
 だから合格発表のあった日、さんざん説き伏せて家に待機させた息子を掲示板で見かけたときの母さんの驚きよう、あせりようは尋常ではなかった。もちろん、僕としてはその焦りを見たいがために出てきたわけだった。
 母さんは僕が勝手に家を出てきた理由を尋ねたりする前に、どうにか人ごみの中から連れ去ろうとしていた。しかし右手が母さんのそんな事情など斟酌するはずがない。こちらに駆け寄る母さんに向かって右手は叫んだ。
「いよーぅ、曜子ちゃん。元気? ひさしぶり! って朝会ったばっかだっつーの! っつーの! ぶひゃらひゃら!」
 右手の下卑た声は、周りの歓喜の渦の中でも十分に響くものだったし、僕の高校は県下でも有名ないわゆるエリート学校だったから、下品な物言いに周りの父兄は眉をひそめてこちらを注視した。
「おい、何あわててんの? 曜子ちゃん! てかケバ! 化粧しすぎじゃね? 若干気持ち悪いぜ、水商売っぽくて。何、これからどこぞの男と何かあんの? 片親の慶ちゃんにお父ちゃんを大作戦? ぶひゃひゃ、やばい泣ける! ぜってー泣ける!」
「慶ちゃん、お願いよぅ、せっかくよくなろうとしてるんじゃないの。お母さんの言うことを聞いて、さ、病院にいきましょう。先生にまたお薬をいただいて、おうちでゆっくりしましょう、ね、慶ちゃん」
 僕は苦笑すると同時に、母さんの涙目を発見した。こんなに弱った母さんから頼まれごとをされるのは初めてだった。しかし右手はそんなことは気にしない。
「うるっせーんだよぅ! 馬鹿女! おれはおれの好きにやるぜ! あ、そーれ涙声! あ、そーれ涙声! 晴れの合格発表日、息子泣かずに母が泣く、あそーれ!」
 周囲の視線に耐え切れなかったのだろう。母さんはひざから折れるようにして僕に抱きついてきた。僕はやむを得ず、がたがたと震える母さんを抱きかかえて学校を後にした。母さんの体はとても軽かった。

 家に帰るとリビングに母さんが居た。母さんは明かりもつけずに暗闇の中で呼吸していた。修学旅行で立ち寄った動物園で見た蝙蝠みたいだ。みんなはそれを気味悪がっていたけれど、僕はうさぎが可愛がられて蝙蝠が気味悪がられることに不条理を覚えるタイプだった。
「ただいま」
「おかえり」
 電気をつけた。母さんは憔悴した顔を僕に向けた。しわが増え、肌にはハリがなくなり、たった二年の間にもう十歳も老け込んだように見える。
「心配したのよ。帰ってこないから。いろんな人に電話したのよ、慶ちゃん」
「ちょっと散歩してたんだよ」
 僕がそっけなく言って二階に上がろうとすると、母さんが呼び止めた。
「慶ちゃん、手を見せて」
 そうか、噂っていうのは伝わるのが早いもんだ。僕は途端に面倒な気持ちになってしまった。今日はいろんなことがありすぎた。
「いやだ」
「どうして?」
 母さんが階段の途中まで追ってきた。
「慶ちゃん、お願いだから良い子になって。もう、もう良いでしょう? もう母さんたくさん苦しんだわ。慶ちゃん、慶ちゃんは優しいから、もうこんなに母さんを苦しませるなんてこと、やめたいわよね? ね?」
 母さんが僕の腕を強く掴んだ。あの日と全く変わらない物言いだった。
「何を言ってるか、わからないよ母さん」
「慶ちゃん、どうかお願いだからもうやめてちょうだい。母さんが悪かったわ。母さんのせいよ。謝るわ。だからもうやめて、素直で優しくて聞き分けの良い慶ちゃんに戻ってちょうだい」
「どうして? どうして戻らなくちゃいけないの?」
「母さん苦しいもの」
「今の僕じゃあ苦しいって言うんだね」
「慶ちゃん、困らせないで。お願いだから」
「母さん、そうなんだろう」
 僕は母さんにはっきりと向き合ってそう言った。母さんは泣いた。
「慶ちゃん、お願いだから」
「僕には何も不都合なんてないんだ。僕の好きなようにするさ」
「慶ちゃん!」
 母さんは絶叫した。
「もうこんなことしないで。母さんこんなんじゃ、慶ちゃんのこと愛せなくなっちゃうわぁ」
 僕は壁を思い切り殴りつけた。母さんの泣き声が家中に響いている。
「うるっせーんだよ馬鹿女! この見栄っ張りがぁ! 死ね! 狂って死ね!」
 耐えかねたように右手が叫んだ。僕は右手をとがめる気もなく、母さんを置き去りにして階段を上った。
「母さん、何か勘違いをしているようだけどね、僕は狂言を演じてるわけじゃないんだ」
 僕は右手をなでながら母さんに告げた。
「こいつはね、本当に喋ってるんだよ。本当なんだよ、母さん」
 母さんは必死に首を振りながら泣き続けていた。薄暗がりの中で、顔は化け物のように見えた。

 部屋は意外と従順に僕を待っていた。朝に彼らを欺いたことをそれほど怒ってはいないらしい。ベッドに入ると今日の記憶が頭の中を駆け巡った。不気味な老人を殴ったこと、溝尾が追いかけてきたこと、そして今しがたの母さんのこと。
「慶ちゃん疲れたネ」
「ああ」
「ていうかジジイ殴っちゃったから、すりむけて痛えんだけど? 骨にひび入ってね?」
「かもね」
「慶ちゃんよ」
「ん?」
「おれ、消えてやっても良いんだぜ」
「なんだって?」
 突然の申し出に僕は面食らった。
「だからよ、どうしても消えてほしいって言うんなら、消えてやっても良いんだよ。お前が望むなら、だけどな」
「馬鹿なことを言うなよ。お前はやっと捕まえた世界の綻びなんだ。いなくなってもらっちゃあ困る」
「おいおい、落ち着いて考えろよ。そんなもの追求しないでよ、普通に暮らせば良いじゃねえか。友達を捨てて、母親を泣かせて、それでもなお求めるようなもんなのか? 世界の本当の姿っていうやつは」
 こんなことをいう右手ではなかった。こんな道徳にまみれた発言をする右手ではなかった。僕にとってどうでも言いことを気にかけるように勧めるなんて。なんてことだ。なんてことだっていうんだ。
「当たり前だ!」
 僕は叫んだ。
「興奮するなよ、慶ちゃん」
「僕は何年も探しつづけていたんだ。誰も、誰も教えてくれなかった。何度も聞いたんだ、本当かって。本当に僕の居ないところでも、あなたは存在していましたかって」
 体の底が熱くなってきた。僕は幼いころの絶望的な記憶をつい5分前のことのように思い出して、そのころ植えつけられたはらわたが煮えくり返るようなストレスを再び体験していた。
「でも、でも結局は誰もが半笑いなんだ。おかしな子だなって言って、何度も聞くうちに話をはぐらかすんだ。そんなことを聞いて何になるんだって。僕にはとっても大切なことだったのに」
 あらん限りの力で布団を殴りつけた。静まり返った部屋。遠くから母さんの大きな笑い声が聞こえた。
「ま、決めるのはお前さ」
 右手は聞いたことのないような優しげな声を発して押し黙った。その言葉の意味を考える暇もなく、体も心も疲れがピークだった僕は、部屋の明かりを消すくらい簡単に眠りに落ちた。

 右手がそんな提案をするのは初めてだったから、その日の僕の夢の舞台は暖かい南の島だった。僕は溝尾と浜辺で戯れて、僕らを母さんと医者と例の老人がパラソルの下で見守っている。三人ともとても嬉しそうだ。
 右手がそんなことを言い出したわけを、僕は遊びながらじっくりと考えた。僕は努力さえすれば、その理由を簡潔に言葉でまとめることが可能だったけれど、あえて僕はそれをしたくなかった。けれどこっそりと、ここだけの話をしようと思う。
 あくまで予想ではあるが、僕は非常に不本意ながら、世界の真実よりもこの平凡な人間たちの生活に惹かれてしまったのかもしれない。今まで記憶の底に封じ込めてきた友の温かみや直後の母親の涙が、僕の中のとっくに捨て去ったはずの道徳とか、優しさや感謝の気持ちに触れて化学反応を起こしたに違いなかった。
 僕はそうまとめた自身の感情を、流れ作業のように頭の中で廃棄しようと努めた。ちょっとした優しさだとか、思慕の情というのは、とどのつまり世界が作り上げたまやかしに過ぎない。全てのものは僕が認識しているから存在できる。僕がいるから、人も物もどろどろしたゼリー状から形を得て存在できるのだ。自身の力によって形作られているものに、自身の意思や決定を惑わされるのはおろかなことだ。それもまた、世界の仕掛けた罠に違いない。本当の姿を隠そうとする、世界の工夫に違いない。
そう思った瞬間、海の中から巨大な右手が手首を出した。しわの一つまで忠実に再現された、1分の7スケールの右手だった。
「はーい、慶ちゃん」
 僕は思わず駆け出した。綻び。僕の一番大切なもの。
「すとーっぷ。お前の後ろには今、母親、医者、老人の3人が並んでいる。溝尾もいる。信じるか?」
 何を言っているかに少し理解を要した後、僕は悩んだ。
「信じるか?」
 いいや、信じない。世界は後ではどろどろなはずだ。僕が見ていなければ、あの四人は存在できない。
「信じるもんか!」
 僕は叫んだ。
右手は人差し指で僕に振り向くように促した。変わらない海辺の景色だった。母さんも医者も老人も僕を見守っていて、横尾が波打ち際でもくもくとトンネルを作っている。やっぱり世界は万能だ。
「これが何だっていうんだ!」
「慶ちゃん、おれは嘘は言わなかったぜ」
「そんなの嘘だ! でたらめだ! 本当はどろどろだったに違いないんだ! そうだろう?」
「慶ちゃん、本当のことなんて何もないんだ。誰を信じるかって問題さ」
 悟りきったような声が癪に障った。右手は徐々に海に身を沈め始めた。
「待って!」
 僕は打ち寄せる波に逆らいながら右手に向かって走った。やっと見つけた手がかりを手放すわけには行かない。けれど進むほどに海は深くなり波は強くなって、うまく進むことが出来ない。
 気がつくと僕は誰かに手を掴まれていた。溝尾だった。僕は右手に背を向けて溝尾と向かい合った。
「慶介」
「離せ!」
「慶介。本当のことを教えてやる」
「うるさい。離してくれ!」
「お前の後ろはいまどろどろで、ゼリーみたいなものしかないよ」
「そんなことは知ってる」
「じゃあ、右手はどうなってる?」
「今はゼリーでしかないけれど、次に振り向いたときは海の中さ。世界は辻褄合わせが好きなんだ」
「振り向いてみると良い」
 僕は振り向いた。右手の姿はそこにはなく、ただ綺麗な海と空と雲だけが世界の全てだった。
「ほうら見ろ!」
 僕はまた振り向いて言った。溝尾はそこにいなかった。どこに行ったのだと考えるまもなく、溝尾が足元の海から水しぶきとともに飛び出してきた。そしてしたり顔で言った。
「潜ってるなんて想像つかなかったろう? どうして潜ったと思う?」
 僕はすぐに答えを導き出した。
「世界の陰謀さ。ときたまそんなイレギュラーをいれてくるんだ。僕を騙すために」
「慶介。僕は自分の意思で潜ったんだ」
「嘘だ」
「嘘じゃない。右手も自分の意思で潜っていなくなったのさ」
「嘘に決まってる」
 お前ら一人一人に、決定権なんてあるはずがないじゃないか。はりぼてなんかに閃きなんて、意思なんてあるもんか。ないに決まってるんだ。きっと。
「嘘じゃない」
「嘘だ」
「本当なんだよ。僕は自分の意思で潜った」
「嘘をつくなよ」
「君の後の世界はゼリーみたいにどろどろだ」
「そんなことは知ってる」
 溝尾はにやりと笑った。
「やっぱりそうか」
 言うと溝尾は僕の目の前でどろりと溶け始めた。炎天下のアイスのようだ。僕は驚愕した。想像していた世界の原材料とそっくりだったからだ。このどろどろとした姿の果てにあるものが、世界の大元の物質に違いない。
「慶介、この光景はどっちだい?」
 溝尾は不愉快なくらいじっとりと溶けながら言った。
「これは本当のことかい? それとも世界の壮大な嘘の一部かい? 誰の意思で行われていることだい?」
 僕はその質問について深く考えねばならなかった。
「これも辻褄合わせなのかもしれないね」
 溝尾は僕に優しく言う。
「慶介の言っていることは、誰が証明してくれるんだい?」
 僕は返答に窮した。これは、この溝尾の姿は世界の真の姿なのか、それともこれすら世界の芝居なのか。僕はやはり世界には敵わないのかと、絶望的な気持ちになった。
 そんな僕を横尾は笑い飛ばした。なぜか声は明るい、小学生の溝尾の声だった。
「関係ないさ。信じたいものしか信じないんだろう?」
 ずきんと胸の奥が一度だけ痛んだ。どこか遠くで目覚まし時計が鳴り出して、夢の終わりを告げた。もう少しとどまっていたいと思う僕の気持ちに関係なく、僕の意識は海辺から遠ざかった。
「右手はお前だ」
 深刻なはずの宣告が現実との境界線あたりで聞こえてきた。
 さして衝撃を受けなかったのは何故だったのかわからない。
 ともかく僕は夢から現実へ向けて転がり落ちた。

 夢の理由はどうだっていい。
 とにかく答えはもう握らされてしまった。
 全ては僕が決めることだ。

 目覚めるとカーテンはもう朝日を含んでいた。開け放った窓の外では、木々にまとわりついた葉たちが、光を弾いて風に遊んでいる。ひんやりとした初夏の匂いがした。
 僕は体調がよかった。体中のこりが一気に取れて、筋繊維がすべて新しく生まれ変わったように身が軽かった。目を細めずとも遠くの方まで見える気がした。
「なぁ」
 僕は独り言を言った。部屋の中にはどこかからの風が吹き込むだけで、時計もフローリングもベッドも誰も、答えてはくれなかった。
 一階に下りていくと、テーブルにはトーストとコーヒーが並べてあって、母さんが背に光を受けて女優みたいに座っていた。リビングにはがらにもなくクラシックがかかっていた。
「いただきます」
 僕はコーヒーをすすった。冷たい苦味が腹の奥に沈んでいった。カップについている一つ一つの水滴や、トーストの細かい焦げがやけに目についておかしかった。
「どうかした?」
 母さんが言った。目じりに僕の知らないしわが三つ増えていた。
「ううん、なんでもないよ」
 僕が普通にそう答えると、母さんはなんだか驚いた顔になった。何か嬉しいことがあったときの癖が、眉毛の端に見つかった。僕は朝食を食べ終わると、そそくさと立ち上がった。
「今朝は手は、喋らないの?」
 母さんは僕に背を向けてつぶやいた。どこか期待しているような、でも諦めたような悲しげな声色に僕は返すべき言葉を探したが、とっさには見つからない。やっとのことで僕は言った。
「大丈夫だよ」
 母さんは信じられないものを見るような目で僕を見た。言葉の真意を測りかねているようだ。
「いってきます」
「あ、慶ちゃん」
 玄関で僕は声を聞いた。
「いってらっしゃい」
 僕はなんだか恥ずかしくなって駆け出した。そんな言葉はいつ以来だろうか。玄関の戸を開けると、清々しい真っ青な空が雲と一緒に頭上に描かれていた。なんだか世界がおかしくなったみたいだった。

 電車がゆっくりと止まってドアが開いた。
 硬い質感を確かめるように乗り込むと、ちらちらと僕を見る視線がいくつも感じられた。僕はMP3プレイヤーを取り出して、つり革に掴まりながらある時はぼーっと車窓の外を見て、時には急に周囲に視線を突き刺してみた。
 久しぶりに直視する蔑みや哀れみや恐怖の目というのはなかなか刺激的だった。今までは全て一緒くたに切り捨ててきたそれらの目線を良く観察すると、それぞれの個人差が見て取れた。たとえば女子高生の恐怖の目と、40代くらいの女性の恐怖の目というのは明らかに違っていて、前者には回避が、後者には軽蔑の色が濃かった。
 もちろん、彼女らのそんな目を僕が捉えるには、ほとんど修行のような集中力を要した。彼らはすぐさま目を閉じたり、視線をそらしたりしたからだ。それでもたまに僕と目が合ったこと自体に驚いてしまって、数秒間視線をともにできる相手もいた。他人の目をまともに見ることがなくなって久しかった僕は、彼や彼女らの澄み渡った目の美しさ、その中に溢れかえる淀み、光の加減によって変わる色を楽しんだ。でもやっぱりそれは一瞬で、僕が親しみをこめて微笑むと、彼らは自然な素振りに気を使うことも忘れてあからさまに視線をそらした。そして僕は苦笑いをするのだけれど、その苦笑いすら車中の人々の関心を強く惹くらしかった。
 電車の中で騒ぎ立てない僕を見るのは非常に珍しいことなのだった。たまに右手を開いたり閉じたりすると、彼らの視線がすぐに下を向くのが面白くて、僕は何度も滑稽に右手を動かした。
 電車はいつものように隣町に向けて進んでいった。窓を流れる景色に目をやると、線路沿いの花々が流れ星みたいに日差しの中を疾っていく。こんな風に景色を眺めて過ごすのもいつぶりのことか知れなかった。
 がたごと伝わる刺激を楽しむ電車の旅は楽しかった。

 通学路で偶然溝尾が落とした財布に僕は駆け寄った。一瞬早く拾い上げたそれを、僕は手渡した。
「慶介」
 溝尾は少し驚いて、ありがとうと言った。僕は親友に笑いかけた。その僕の笑いが、やはり彼にもとても意外な印象を与えたようで、彼もぎこちない笑いで応じた。
「少し一緒に歩いても良いか?」
 僕の問いかけに彼は迷い、そして首を縦に振った。そうして僕たちは何年か前と同じように、同じような速度で学校への道をたどり始めた。当然、登校途中の生徒たちの好奇の目が僕らに、特に溝尾に降りかかった。
「慶介」
 彼は何も気にしていないかのように笑って言った。
「ん?」
「何かあったか?」
 今日の僕はよっぽどおかしいらしい。僕からすれば僕の行動に対する周りのリアクション、応答の方がよっぽどおかしいのだけれど。
「特に何があったわけじゃないけど」
「うん」
「ただちょっと気分は良いかな。あと」
「あと?」
 僕と歩くこの時間は、僕が溝尾に仕掛けた試験だった。二人きりのときと他人の目があるときで、変わってしまう人間は世の中に山ほどいるけれど、彼がそのような人間かどうか、何故だか僕は確かめたくなったのだ。
 結果、彼は証明して見せた。好奇の視線は溝尾の決心に弾き返され、笑顔は揺るがなかった。僕はその報酬として、ちょっとだけ本心を言った。
「考え方を少し変えたかな」
 溝尾は困ったような顔をして、遠慮がちに微笑んだ。
「ごめんな、昨日はあんな風に迫って」
「いいんだ」
 僕は今更ながら溝尾の顔にある真摯さと、声音の優しさを確認した。歯の浮くような言葉で言えば、彼は本当に友情のなんたるかを体現できる男だと思うのだった。
 それから老人のことを聞かれたけれど、僕は曖昧に返事をして溝尾と別れた。今日は学校に行かずにかかりつけの病院に行くことを告げると、溝尾は気遣わしげにわかったと言った。僕は心配するなよと溝尾に言い、ただの定期健診だとつけたした。本当は学校に行けば、老人を殴った容疑をかけられるだろうと思ったのだ。
 別れ際に溝尾はまるで友達みたいに笑った。

 病院は極力目立たぬようにと、町の中心部から少し外れた位置にある。相当に古いはずの木造の平屋は、真っ白なペンキで年齢をごまかしていた。ところどころから突き出したパイプがさびを隠せずに壁の白に映えていた。
 スリッパを履いて入った屋内は、改装が施されていて街の大病院にも負けないくらい清潔だ。やはり人気はなく、受付を済ませると五分もしないうちに高橋医師の部屋に通された。色気のない看護婦が扉を開けた。
「調子はどうだね」
 医師は機嫌が良いのか悪いのか、まったく伺えない表情で言った。消毒液のにおいが香った。遠くに風と虫の音があった。
「もうここには来ません」
 僕は医師の目を見て言った。壮年の医師はこめかみを一度震わせただけで、顔色を変えなかった。
「何故?」
「来る必要がなくなりました」
「本当に?」
 高橋医師の声は半分笑っていた。疑いたくなるのも当然だろうと思う。僕はずいぶんと長く彼と過ごしてきたのだから。
「ええ」
「証明できるかい?」
「これからいくらでも」
 僕は自信があるように答えた。
「お母さんはなんて言ってる?」
「これから説き伏せます」
 高橋医師はとても長い間僕と目を合わせていた。真剣な眼差しは僕の目の中に入り込んで、心の奥底まで覗き込みそうだった。彼はそのくらい、正直で真剣な医師だった。
「右手は元気かい?」
「なんのことですか?」
 僕の言葉に、医師が緊張したのがわかった。
「座って」
 彼は僕の右手をとった。それから入念に僕の右手のすみずみを揉みながら、右手に話しかけるのだった。様々な語り口で様々な話題を語りかけるのは、僕が病院に来て必ず受ける診察内容の一つだった。けれど、僕は告げた。
「もう右手は喋りません」
 医師の手が止まった。強めの風が吹き込んで、虫の音がやんだ。
「自分で何を言っているか、わかっているね?」
「ええ」
「お母さんとは連絡をとるよ」
「かまいません」
 長めの沈黙が続いた。ぱらぱらとカルテをめくりながら、医師は髪をかきあげた。僕らの二年間がつまった濃い時間だった。そうして最後に「ずいぶん長い休暇だったね」と笑って言った。
 もうそれだけで十分だった。僕は医師と握手をして病院を後にした。強い握手の感触が右手に残った。

 夜は母さんと久しぶりに他愛のない会話をした。
 初めはぎこちなく、どこか浮ついた、探り合うような会話だったが、僕の中の変化らしいものを母さんはうまく感じ取ってくれたようだった。僕らの間に流れた親子らしい空気がどれほど母さんを喜ばせたかは、想像できないこともない。
 病院に通うことをやめることを告げると母さんは反対したけれど、僕は母さんを説得した。粘っていた母さんも、母さんと高橋医師が連絡を取り合っても良いと僕がはっきり言ったことで、なんとか決心がついたようだった。何より、僕は以前のようなそっけない態度やおかしな言動、何を考えているかわからない表情を一切控えて、母さんの信頼を得ることに集中した。
 その晩のハイライトはなんといっても僕が母さんに今までの二年間を謝ったところだった。これはかつてないくらいの決定的な救済の一撃だったらしく、母さんは何回にも渡る入念な言葉の反芻の末、泣き崩れるように僕に抱きついた。泣きながら僕の頭を撫でていた。僕はその感触に間違いのないやすらぎを感じて幸福な気持ちになって、これまでの二年間にごく少量の罪悪感を覚えるほどだった。
 寝る前のミルクティーを二人で飲んだ。母さんは化粧も落とさずに、ソファでするりと眠りに落ちていった。意識が途切れる寸前、僕が寝室から持ち出したタオルケットをかけてあげると、目じりから涙が伝った。
 やすらかな寝息が残った。

 そして僕は夜を徹して起きていた。
 朝日が遠くの空に顔を出したらしく、カーテンが光り始めると、目覚まし時計が鳴り出した。部屋と目覚まし時計の秘密の出会いをどうしても見たかったのだけれど、今日もそれは平凡な邂逅に終わったみたいだった。一昨日と一緒でつまらないと思いながら、僕はいかにも目覚まし時計を疎んじている風を装って、手を伸ばして時計を止めた。静かになった部屋で二度寝を試みようとするように、枕に顔をうずめた。
 もうそこで限界だった。
 僕は噴出しそうになるのをこらえながら、布団の中にもぐりこんだ。笑い声が漏れないように必死で口を抑えた。危うく決定的な過ちを犯すところだった。簡単にぼろを出すわけにはいかない。
「なぁ右手」
 僕は極力声量を落として声をかけた。
 望みがあるなら叶えれば良い。人間の温かさも、友情も全て手に入れながら、僕は戦うことにした。仮面を被って世界と。誰も彼も騙しながら、世界の美しさを存分に堪能することを選んだ。変態的な倒錯感を僕は覚えた。
 右手がぴくりと震えた。それは一日分の睡眠からの目覚めだった。
「さぁ、一緒に世界を騙そうぜ」
「くけけ」
 彼の返事に僕は満足した。役者だな、慶ちゃん。僕は確かにそう聞きながら、さらに強く布団を被った。身を縮めて闇に深く潜っていく。
 階下で母さんが起きだしたようだ。空気が温まり始めて、外の世界がざわざわと音をたて始める。後もう少しすれば僕はあの煩わしく、抜け目もない素晴らしい世界に対峙しなければならない。
 それでも今はこのままで。僕は目を閉じて自分の世界に沈んだ。右手が耐えかねたようにくくくと小さく笑っている。
2007/08/18(Sat)21:36:46 公開 / メイルマン
■この作品の著作権はメイルマンさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
読んでくださった方、どうもありがとうございます。メイルマンと申します。
うーん、あまり面白くない作品かも、いや面白くないよなぁというネガティブシンキングによって、相当自信のない久しぶりの投稿ですが、面白くないと思って途中で読むのをおやめになった方でも、つまらないの五文字を感想欄に残していただければ大変嬉しく思います。
@単純に面白かったか。少しはとか、あんまりとか。
A着地点が気になったか。つまり途中で飽きずに読み進めていけたり、先の展開が気になるような力が作品にあったか。
B主人公の慶介をどう思うか。意味不明、気持ち悪い、内面がうまく描けていないため支離滅裂。など。
C細かい部分に疑問をもったか。つまりこの雰囲気でごまかせないほどの違和感を感じる部分、問題点があったかか。
の4点に関して特に教えていただければ大変ありがたく思います。
もちろんどれか一つだけでも、どれにも言及しない感想であっても大感激です。
どのような感想であろうといただけるなら本当に感謝いたします。どうかよろしくお願いいたします。
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