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『猫とご主人』 作者:泣村響市 / 未分類 未分類
全角3755文字
容量7510 bytes
原稿用紙約11.6枚
私は喋る。ご主人も喋る。でもきっと話してはいない。
「なぁ、ここの問題解いてくれないか?」
「分からん」
「ちっ、てめえ、俺より年上の癖して」
「なんだその理解不能な理論は。五十代の中卒実業家と十代の現役東大生のどちらが頭がいいかなんて分かりきってるだろう」
「……東大生か?」
「実業家だな。つまりは年齢ではなく経験の問題という訳だ。四十年も多く生きている実業家は十代東大生の四倍どころか何十倍もの経験をつんでいる。理解力や記憶力がどうのなんていう雛っこの考えは問題ではないのだ」
「すまん、俺には理解出来ない推測のところまで行っているが、それはお前、俺に対しても結構失礼なんじゃ」
「そうではあるまい。今のご主人では十代現役東大生などというのは不可能に違いないからな」
「更に失礼になったぞそれ!」
 ご主人は声を荒げるが、すぐに落ち着いた顔になり、「お前に聞いた俺が馬鹿だった」と行ってまた机に向かった。薄暗い部屋は私の体が最も活発になれる環境なので、心地が良い。
 私は猫である。名前はあるにはあるがご主人が呼んだことは一度も無い名前というのは名前と呼べるのか。
 ともかく、ご主人の妹君などは楽しげにだいち、だいちと私のことを呼ぶ。
 ご主人は私の事を「猫」と呼ぶ。
 そうして私は「なんだ」と返事をする。

 生まれたときから喋れたわけではない私ではあるが、何故か喋れるようになったのはご主人の言う日付では三ヶ月ほど前らしい。
 三ヶ月というのは太陽が九十回ほど上がったら経つらしい。
 それだけの間、私は喋っている事になる。
 喋っているという自覚はある。これは人間、つまりご主人や妹君の話す言葉と同義の意味を持つ言葉達だ。私の母族語の(人間の耳にはにゃーとかみゃーとか聞こえるらしい。私にもそう聞こえる)言葉とは違う、多彩な言語。
「ところでご主人」
「何だ?」
「この頃ご主人は必死になって机へ向かっているが、何時もは無い兆候だが、いったい何の前触れなのだ?」
「……」ご主人は嫌そうな顔になり、くるりと椅子の座席を回して私のほうを向いた「テスト期間が近いんだ」
 眉間に皺の寄った苦そうな顔だ。ご主人は笑顔よりもこちらの顔の方が似合うと私は思っている。
「テスト期間、とは一体なんなのだ? 何時もは勉学のべの字にも励まないご主人をそうさせるほどなのだから、なにか強力な魔力のようなものでも持っているのか?」
 更に嫌そうな顔になったご主人が手元で少しペンを弄んでから、左手でしゅ、と振ると口を開く。
「学生どもの学力をはかって頭の悪い奴を糾弾するための行事だ。高校生ともなると大学受験がどうのとか言われて学生の尻に火をつけるような行事でもあるな」
 だから俺は糾弾されないように頑張って勉強してるんだ。
 そう言ってまたくるりと椅子を回すと、机に向かってなにやら勉学に励んでいるらしい。
 引っ掛かりを感じた私はご主人のベットから降り、机へ向かう。高飛び一発で机に飛び乗った私をご主人が鬱陶しそうな顔で見た。
「ご主人、しかし私の認識ではご主人はあまり頭の悪い人間ではないと思うぞ?」
 そう広くない机の上には数学と書かれた教科書がおざなり程度に置かれており、広げられたノートには膨大な数字やら図形やらが小さく書き込まれている。此れは頭の悪い人間の書いた数式やらではないのは幾ら人間ではない私が見たところで一目瞭然だった。
「嬉しい事を言ってくれるな。此れは努力の賜物だ」
「努力できるのなら頭の悪い人間とは言わないのではないのか?」
 努力できないから頭が悪いと言われてしまうのだ、と何時かご主人の父上がいっていたのを思い出した。
 それを察したのか、ご主人は「あのな」と言う。
「あのな、あの親父の言ってることは大体思い付きなんだから本気にしたら大変だぞ」
「しかし私は間違っているとは思わない」
 そんな私を見て、小さく溜息を吐き、ご主人はまたしてノートに向かう。黒いペンがさらさらと動いていく。
「自分でもそんなに馬鹿だとは思わんがな」
 完全に瞳や脳は問題に打ち込んでいるのだろうが、ご主人の口はきちんと私の言葉に返事を返す。よくそんなが芸当できるものだと私は小さな脳の片隅で思う。
「でもな、やっぱ賢い奴には敵わないんだよ」
「賢いと頭が良いとは何が違うのだ?」
 沈黙。
 デスクライトだけが煌々と光り輝く薄暗い部屋の中、一匹の猫と一人の人間の息の声だけがじんわりと蕩けていく。
 私が明日の散歩コースについて思案をしだし、隣のササメキと一緒に権藤さん宅のおばあさんをたずねようかと思い、いやいや確か明日はササメキは病院へ行って何か予防接種をするのだと昨日言っていたなじゃあ三丁目の沖と行くかという所まで思案が済んだあたりで、ご主人が口を開いた。
「……そうだな、例えば俺みたいな奴が頭の良い奴だと定義しよう。努力して努力すれば問題の解ける奴だな。そしたら、賢い奴っていうのは、」
 そこでご主人は口をもう一度閉じる。誰のことを考えているのだろうか、さらさらと動いていたペンも一瞬ぴたりと止まった、のだがすぐにさらりさらりと数字を付け足していった。どうやら問題に引っかかっただけらしい。
「あれだ、無花果みたいな奴だ。努力しなくても問題の解けちまう奴」
 無花果、とはご主人の妹君の名前だ。
 確かに妹君の勉強しているところは見たことがない。部屋にはよく行くが、其のたび携帯電話で友人とメールをしていたり、漫画を読んでいたりといつも遊んでいるような印象がある。
 だが中々の好成績を収めている、というのをご主人の母上が家族の場で言っているのを聞いたことがあった。

『あんたは怒り難いのよ。遊んでばっかりの癖に成績だけはいいから』
『あたし天才だから』
『それは無いな』
『お父さんそれ酷い! 兄ちゃん、何か言ってやって!』
『俺も親父に一票だ』
『ひでぇ! 大地! 大地だけでもあたしを慰めてー』
 そう言って寄って来た妹君に撫でられるままに撫でられながら私はご主人を見ていた。
 もぐもぐと黙って食事に打ち込むご主人の背中がなんだか寂しそうに見えたのは、気のせいではなかったらしい。

「いや、それは気のせいだ」
 そう言うとご主人はしかめっ面ではなく、馬鹿にするような嘲笑の表情になって私の考えを鼻で笑った。
「なんだ、昼間母上が見ているドラマのような展開ではないのか? この後ご主人が妹君を刺し殺すのだ」
「殺すか」呆れたようにご主人は手を止め、私の首の肉を掴んで持ち上げる「俺はね、あいつが褒められてんの見るの、好きだ」
 はて、と私は首をかしげる。確かそんな漫画を妹君が読んでいた気がする。ええと、名前は確か『僕はいもうとに……、
「シスターコンプレックスという奴か?」
「殴るぞ」
 何でそんな言葉知ってんだよ。
 持ち上げられたままの状態で数秒ぶらんぶらんと揺すられ、その後ご主人の膝の上に降ろされた。耳の後ろ辺りをわさわさとご主人が触っている。私は自分の体が弛緩していくの感じながら、その通りにご主人の膝の上に伸びる。
 ご主人はしたり顔でそんな私を見下ろしている。
「なんかこう、ただ漠然と、『あ、来てる来てる。追い抜かされるなー』ってのも感じるさ。でもな、でもさ、俺はその感覚自体は怖くない。うん、逃げるのは、楽しいからな」
 ぶつりぶつりとらしくもなくご主人の言葉が遮られるのは、ご主人が言葉を考えながら喋っているからだと分かった。
 机の上を少し垣間見れば、ペンの動きも止まっている。
「逃げるのが楽しいとは、ご主人は可笑しな性癖の持ち主なのか?」
「投げるぞ」
 むに、と耳を引っ張られる。
 そうしてご主人はまた私の耳の辺りを掻き始める。わさりわさり。
「だから……、あああ! 畜生、何で俺がこんな講釈をせねばならん?! 面倒だ! やめる!」
 今度は自分の頭をがしがしと掻き毟り、一旦置いたペンを再び握り、またノートに向かう。
 先ほどまでの擬音がさらさらだったのならば、字の乱暴さといい勢いといい今度つくべき擬音はがりがりだった。
 インクがノートの上でざらりざらりと舞っている。
「ご主人」
「なんだっ」
「……」
 確かにご主人は妹君に何時か追い抜かされるだろう。
 それは、ご主人にとってとても悔しくて、辛くて、妬ましい事実になるのだろう。
 でも、きっとご主人は妹君を刺し殺したりはしないのだ。
 机から降りた私は歩き、扉へ向かう途中でご主人を一度振り返った。
「妹君には解けなくて、ご主人にしか解けない問題というものがあるだろう。きっと」
 私の慰み程度のその言葉を聴いて、ご主人は一瞬ペンを止めた。が、すぐにまた動かしだす。
 今度はまた、さらさらさらと。
「バカヤロウ、其れぐらい分かってる。なんたって俺のほうが年上なんだぜ?」
 見えたご主人の顔はこれ以上ないほど苦そうに歪んでいたが、不思議と口元だけは攣りあがっているように見えた。
 そうしてご主人は妹君から逃げるのだろう。
 楽しみながら。
 苦しみながら。

 ご主人の部屋を出た私は妹君の部屋へ向かう。
 きっとまたあの『僕はいもうとに……、』(続く名前を忘れてしまった)という漫画でも読んでいるのだろうと思いながら。
2007/02/21(Wed)17:41:06 公開 / 泣村響市
■この作品の著作権は泣村響市さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
猫の一人称というのが書いてみたくて実行してみた作品です。
ご主人とか妹君の詳細設定とか色々考えているので何時かサイドストーリーが書いてみたいなぁと思いつつ。
男子学生と猫が話しているというシュチェーションがすきなのですがあまりお目にかかれないので自分でやっちゃいました的な裏テーマがあります。

起承転結の結だけを取ったみたいな話になった気がしないでもないです。
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