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『今日も天使<セラフ>はやさしく笑う 第五章〜第六章4話』 作者:祠堂 崇 / リアル・現代 ファンタジー
全角85206文字
容量170412 bytes
原稿用紙約279.65枚
 




 Chapter.D     それは麻の花言葉の様に





 月曜日。
 この日、朱音は総てを知ることになる。

 闇姫(ディーヴァ)。
 代行者。
 対立する戦い。
 神凪町を奔る禍喰(シャッテン)の軌跡。
 何が始まりであったのか。
 何を終わらせるべきであったのか。
 本当の想いとは何か。
 真実の戦いとは何か。
 純粋な激突と、狂気的な悪意の交錯する、四月十二日。終局の刻。
 そして、

 何故、
 この二人が、
 殺し合う運命に在ったのかを。
 二人にとって、
 この戦いが、停まるわけにはいかない戦いであるということを。

 知ることになる。単なる、不幸によるきっかけによって。





 学園への道のりを一人歩く姫宮朱音。
 朝日は眩しく、空模様は見事なほど綺麗な快晴。
 虚ろになった視線を宙に彷徨わせ、成すべき日常の為に桜並木を闊歩する。
 視界のあちこちで濃紺のブレザー姿が見える。
 それでも、朱音が捜し求める背中はどこにも無い。
 闇雲で、自暴自棄にも思える視線が踊る。空しく。哀しく。
 幼馴染の姿は傍らには居なかった。朝起こしに行くと、もう出ていたらしい。
 正門を潜り、下駄箱で靴を履き替えて、教室へ向かう。
 まだ顔触れ同士が馴染み切っていないクラスの端には栗毛の髪が見えるが、既に出来つつある女同士の集まりというべきか、数人の女子達が彼女と話していた。
 話しかけるつもりもない。
 雛菊が何故、昨日のような言葉を発したのかは未だに解らないが、朱音には最早障害でしかないのかも知れない。
 煙たげに視線を強引に変える。
 自分の席に座り、視線をまず向けたのは、同じくして形成しつつある男子の固まり。その一人が話しながら腰を乗っけている机の持ち主。
 金曜日。担任教師によって発覚した、一人の男子生徒の突然の転校。
 当然そんなものは後で問い質した雛菊から聞いている。どうやら、彼の親は数日前に他界しているらしい。何も知らぬまま、自分達の息子の手によって。
 事態が事態であるだけに、学園らしい対処法をしたようだ。
 そして、視線を変える――ことをしなかった。
 始業のチャイムが鳴ったのだ。同時に担任教師が入ってきて、朱音は顔を前に向けた。
 背中に、人の座っている気配はしない。





 雑然とした、いつ倒壊してもおかしくない程積み上げられた本の塔。
 クロト=フェルステンベルクは大きな仕事机の上に山の如く積まれた今日の職務内容を既に八割方まで消化し終わっていた。
 ふと遠くでチャイムの鐘が鳴るのに気付く。視線を向けると、その静謐な空間に万年筆と共に音を発することを許されていた壁掛け時計は、昼をとっくに過ぎていた。四時限目の終了の予鈴、今頃生徒達は昼御飯を食べる為に各々の固まりを作ったり、食堂や噂の購買戦争などに向かっているのだろう。
 その時、
 全体的な密度の大半を本と資料で埋め尽くした部屋に、ノックが二度。
「どうぞ」
 クロトは反射的に身を引き締めてから口を開いた。事実上教員や生徒が理事長用の邸宅に訪れることはまずない。少なくとも、訪れた人種が決まっている。
 入ってきたのは、髪を撫で上げた白いスーツの男性だった。
「すみません、仕事中でしたか」
 氏家宏也は左手に数枚の紙切れを持った状態で入ってくる。恐らく件の話で来たのだろう。万年筆に蓋をして、相変わらずの無表情を向ける。
「いえ、もう粗方片付いて息を抜いていたところです……水伽橋の、ですね」
「ええ」
 既に大部分を悟っているだろう相手に、氏家は余計な言葉は省略して頷く。報告書を仕事机を挟んでクロトに手渡す。
 クロトが報告書に視線を流すが、それでも一応氏家は口頭でもざっと説明をした。黙っているのも空気が重い。
「『根源』は完全に御門熾織に奪われたようです。まだ、『余波』は生きているようですが」
「やはり、彼女の能力には『残留』を持ち運ぶ、或いは操作する特性があるようで間違いないですね」
 禍喰(シャッテン)には三つの種類がある。
 一つ目が侵蝕の影響を受けた者の精神そのものである『根源』。
 二つ目が『根源』を中心に周囲の人間を触発させやすくする『余波』。
 そして三つ目が『残留』。最も厄介なのがこれだ。上記の二つ、『根源』は直接その者を殺してしまうか薬物や催眠暗示等により『少し余白の出来た魂』を作り代行者の血清を投与すれば消滅する。『余波』はあくまで火を焚いた際に生じる煙のようなもので、『根源』を絶ってしまえば誰も近づけさせないだけで、後は勝手に消えてゆく。
 だが、『残留』というのは文字通り、侵蝕された人間を失っても死ななかった『根源』のことである。自律する思念、という意味ではない。あくまで意志エネルギー体でしかない禍喰(シャッテン)が侵蝕した者が死んだ際に魂の器を乗っ取り、その場に留まってしまうのだ。
 何が恐ろしいかというのは、『根源』のままであれば直接的に破壊に移れるのに対し、『残留』という形を持たずに『余波』を生み出す存在は代行者といえど御手上げだということ。
 そして何より、そういった『残留』同士が近しい場所で同一的に溜まると、一つの現象を引き起こしてしまう。
 邪神(サクリファー)という、最悪の現象を。
 クロトは読み終えた報告書を机に置き、椅子に背もたれた。傍から見ても簡単に折れそうなほど華奢な体は、椅子に沈んでも軋む音が出ない。
「厄介なことになりましたね……まさか禍喰(シャッテン)という第三者に属するモノを手中に収める相手と対峙するとは思いませんでした」
 闇姫(ディーヴァ)。
 元はといえばその名は本人が民家に書き連ねた、本人の自称である。彼女の能力は恐らく神化計画(セラフ・プロジェクト)の上層部が保管しているという文献≠ニやらには、そんな能力名はまだ発見されていないらしい。別の、彼女自身がその能力を発現するために必要な能力名が在る筈だが、それが判ったところでどうにもならない話ではある。それよりも彼女が異能に、こちらの世界に足を踏み入れたという事実に、クロトは溜息混じりに目を細めた。
「早計で済めばと思いますよ、本当に……出自はどうあれ、原因がもし私達の予想しているものだとすれば、朝生君にも気の毒です」
 誰にともない愚痴に、氏家は渋面を浮かべた。
 出自を作り出した原因。
 不幸にも親を亡くされたことは、最早誰のせいでもない。
 だが、朝生雛菊という一人の存在が、大きく関与している可能性があるのだ。
「いささか剣呑ですが、早急に事を収めなければ……」
 そこで目を伏せていたクロトは、氏家の何か言い辛そうにしている空気に気付き、顔を上げた。
「どうかしましたか?」
「……実は、一つ気掛かりなことが」
 クロトは目を細めて促した。彼は代行する天使の神術からしてやや防御的なスタイルを持つ。そういった者は時を重ねると総じて頭のキレを持つという強さを持ち得るものなのだ。彼の窺うような顔色に、クロトは姿勢を戻した。
「気掛かり、とは?」
「……あまり大きな声では言えないことですが……御門熾織に内通者が居る可能性は無いでしょうか」
「――、」
 クロトは一瞬硬直し、やがて両手を組んで机の上に乗せ、少しだけ声音を低めた。
「……どういうことですか?」
「いえ、私の推測ですので暫定的ですが……今回の事件、どうにも御門熾織の動きが早すぎるように思えるんです」
「動きが、早い?」
「ええ。発端となった郷土資料館はまだしも、数件が発生する内に南下するように禍喰(シャッテン)を奪っていることが判明してからも、今まで相手が女だということすら判らず仕舞いでした。何より、水伽橋の件も根本的には御門熾織ではなく、主犯かどうか判断の付かなかった姫宮朱音を試すつもりの作戦だったのに、彼女はやって来た。しかも対峙した倭君を無視し、狙われている可能性のあった朝生さんでもなく、姫宮朱音のために水伽橋へ赴いた」
「!」
 最後の言葉に、意味に気付いたクロトは瞠目した。
「何故、姫宮朱音が水伽橋に居る事を知るかのように行動出来たのでしょう=H」
 よぉく考えれば、確かに妙なことばかりだ。
 何故、倭昴流や氏家など代行者を動員した捜査にも関わらず、捕まらないのか。
 姿を暗ますつもりなら、わざわざこちらに自分の呼び名を教えるような事をしたのだろうか。
 神術や禍喰(シャッテン)による因果の変化が起こったのなら、周囲に代行者か異能力者が居ることは悟れないこともないだろうが、
「姫宮朱音は人間で、つい最近我々を知った一般人です。データバンクに探りを入れたところで、彼が関与していることはまず知りようがないはず」
「となれば、彼が巻き込まれていることを知っている者が御門熾織と接触していると?」
「あくまで可能性ですが、無い訳ではないでしょう」
 クロトは口元に手を当て、深く考え込む。
 可能性としては確かに大きいが、だが『姫宮朱音が計画を知っている』ということを知っている者自体が少ない。
 考えられる周囲。まず、シャルロッテ=グレーシェル含む『告烙』と『膂力』以外の代行者。
 いや、これは違う。少なくとも出自に関連する最大の原因候補が彼女≠ナあることをシャルロッテや代行者は周知。その状況下で計画の関係者が御門熾織と手を組むことは不可能と言えるし、何よりそうするだけの意味も無い。
 次に、賀上洋介と結託していたとした場合。
 これはさらに有り得ない。既に彼の出自は『御門熾織と親密である姫宮朱音に対する嫉妬』だ。大元の原因は姫宮朱音であり、根本的には御門熾織は発端でしかない。同時に御門熾織の出自には賀上洋介の存在など欠片も関係無い。あの二人が禍喰(シャッテン)の影響を受けたことは、全くの偶然。
 深く考え込んでいるクロトを見据え、氏家が口を開いた。
「理事長……もしや、彼の勢力という可能性は――」
 さりげなく、だった。
 本当に、問われた側もすらすらと答えるに値する、何気ない一言だった。
「氏家」
 途端。
 思考するより先に、クロトの声色は一瞬にして嫌悪に染まったものに変わる。
「今……何と言いましたか?」
「ぇ、――」
「彼の=Aというのは誰の勢力のことを言っているのかと訊いているのです」
 佇まいは凛とした静かな雰囲気を持っているが、
 声と、視線は、
 別次元の殺意を孕ませて氏家へと突き刺さった。
 思わず息を呑む。対峙するクロトは変わらぬ表情だが、あと一言でも間違った言葉を口にしたら刹那の躊躇も無く殺されてしまいそうな強烈な重圧を前に、氏家は言葉を失った。
「氏家、この事件の裏に何か有るのではという疑念に気付いた貴方の鋭さには敬意を表しましょう……氏家、私の言っていることが判っていますか……? 敬意を表しているからこそ私は微動だにせずにいるということです」
 ぞくり、という悪寒が氏家の首筋を撫ぜた。
 何故、気付かなかったのか。
 クロト=フェルステンベルクが代行者であることに。
 あの四大天使の一人の代行であることに。
 そして、

 既に天使化し、彼女の背中に藍紫の翼が浮かんでいることに。

「言葉は慎みなさい、下郎風情が。私の脛を齧らなければ一月と経たずに追放されていた無能の分際で、気安くその名を出さないで頂けますか?」
 そこで、もう勝負は決していた。
 代行者としても。
 人間としても。
 氏家はとっくのとうにクロトの存在に呑まれていた。
 勝てない、という認識を刷り込まれた脳が、反射で頭を下げろと警告する。
「も、申し訳有りませんでした……」
 短く頭を下げる氏家。頭頂部を一瞥したクロトは目を閉じ、吐息と共に肩を少し落とす。それが合図かのように、背に煌く翼が掻き消える。
(いけませんね、この程度の言葉に天使化(アドベント)するとは……私もまだまだ修行不足ということですか……)
 もういいです、と頭を上げさせ、クロトはさっさと報告書の隅から隅まで読み直す。
(……しかし、誰が……まさか本当に)
 黒い手袋の嵌められた手で頬杖を突き、思案を燻らせるクロト。ふと、無表情で見つめる氏家の視線に気付き、少し嫌そうに目を細める。
「まだ何か?」
「いえ、失礼します」
 一礼して踵を返す氏家。クロトはその背を見ながら思う。
 氏家宏也。元々は神化計画(セラフ・プロジェクト)が準備期間であった頃の上司と部下の間柄だが、昔から突出した能力の無い使えない人員であった。実質、当時は今ほど人数に恵まれているわけではなかったが為に『猫の手も借りたい』という意識からか首を飛ばされることは免れていた。今頃の時世でなら先ほど口にしたように、文字通り一ヶ月と経たない才能の持ち主なのだ。奇跡とも言えるほどで、彼が代行者の資質を持っている人間であったためテストパイロットよろしく実験に参加し、現在は第二研究部署情報提供を兼任した【結社(アカデミー)】の理事長補佐という名誉ある居場所を獲得しているが、正直に言って倭昴流どころか、場に慣れてきつつあるブリジット=ハミルトンのほうが時々役に立っている気がする。
(代行者は計画側にとって存在を失ってはならない立場でもありますからね、お飾りでも居て貰った方がマシということですか)
 勿論そんなことを考えているわけが一切無い十二歳の天才博士も居るのだが、大した実績も無く代行者としても曖昧な天使を身に降ろしている時点でクロトからすれば微妙なところだ。この地位を与えたのもほとんど気紛れなのかも知れない。
 氏家が出てゆこうと扉に手を掛ける寸前、その扉が勢い良く開かれた。
 目の前に現れたのは、金糸の髪の異国少女。
「ブリジット君? どうしまし――」
「きっ、来ました!」
 クロトの声が遮られた。
 肩で息をし、汗ばんだ顔で少女は叫ぶように言う。
 咄嗟に、誰が、と訊き返してしまった。
 少女は、もう一度叫ぶように、答えた。
「闇姫(ディーヴァ)です! 裏口から侵入したらしくてっ、あまりに急で防衛がっ……!」
「――!」
 氏家が目を見開き、クロトは音も無く椅子から立った。
「判りました。氏家、至急倭君に連絡を。念の為周防君にもメールをしなさい。ブリジット君、彼女は今何処に?」
 流れるように指揮をするクロトはブリジットへ視線を向ける。
 すると、ブリジットは焦燥しながらも言葉を濁していた。
 どうかしたのかと目を細めるクロトへ、ブリジットは恐る恐るといった風に口を開いた。
 返答に、クロトと氏家は一瞬の間を置いてしまう。

「その……霄壤の制服着て、……自分の、クラスに……」





「済みません、遅くなりました」

 信じられない、という意識が有った訳でもない。
 それでもその声はあまりにも不意を衝いていて、全身に電気を流し込まれたように身を強張らせた。
 振り向くことは容易い。
 だが、首が動くのは酷く遅かった。
 もどかしいほどゆっくりと、視界は横へ流れてゆく。

 ゆっくりと、
 ゆっくりと、

 途中、幼馴染の顔が目に入った。
 彼女は既に後ろの扉のほうを見つめている。
 驚きが半分と、どこか判っていたように覚悟の決まった何かが半分。
 幼馴染の姿が端へと消え、やがて朱音は後ろを振り返った。

 いや、
 自分も半分半分の気持ちが込められていた気がする。

 来て欲しかったという願い。
 来ないで欲しいという想い。

「知人の¢昼Vで立て込んでいましたので」

 惰性に満ちていた教室の空気を少しだけ張り詰めさせる内容を口にし、
「熾、……」
 黒いサブバックを左肩に提げて立っていた。
 濃紺のブレザーと、灰のチェック柄のネクタイとスカート。
 それらを何一つ崩す事無く着こなした、黒髪を左右で乱雑に縛る少女。

 堂々として、
 芍薬のように、
 日常の世界に降り立つ。

 闇姫(ディーヴァ)、御門熾織。

 四時限目、現代国語の授業。
 終了まで、残り二十八分弱。





 椅子の脚が床を引きずる音が控えめに響く。
 束の間の静寂は時間に追われる身である教師の授業再開により再びの惰性が満ち始める。
 机の前に広がったノートに視線を落としたままで、朱音はシャーペンを持つ自分の右手が汗を握っていることに気付く。それでも、身動きさえまともに出来なかった。
 視界の端。栗毛の髪は一切後ろを振り向く気配は無い。まるでこの事態が何を示しているのか気付かないのか、それとも、気付いているからこそ振り向かないのか。
 少しずつ、高鳴ってゆく心臓の鼓動に煩く感じ、教師が板書の為に後頭部を見せた隙に、無理矢理振り向こうと、
(振り向くな)
 びくん、と。
 その小声でも良く通る声に肯定をした脳が、制止をかけた。
 あと少しで視界の端に見えるはずだったが、すぐに前を向く。
(済まない、振り返らないでくれ)
 熾織が小さく呟く。朱音は、心底悔しくなった。
 それは、拒絶なのだろうか。
 救いたいと願う想いを、彼女は知っているのだろうか。

「そんなこと関係ねぇだろがっ!!」

 と、授業中であろうとお構いなしに叫べれば良かったのに。
 せっかく、逢えたのに。
 結局は最後の最後まで自分だけが蚊帳の外なんだと認識させられる。
 唇を噛み締める中。
 その時、机の上に何かが落ちてきた。
 反射で視線を向けると、それはルーズリーフの紙を一枚千切り、小さく折り畳まれたものであった。
 飛んできたのは、真後ろから肩越し。
 目を見開き、シャーペンを机に放ろうとして思わず床に取りこぼしてしまう。
 隣りの席の女子生徒に拾ってもらうと、後ろから溜息が薄く聴こえた。
 呆れた、という風な。いつもの反応。
 それが一際、己の無力感を味わわせる。
 すぐに机の上の紙を広げる。四つ折の跡が十字架のように残る紙の一行目に、
『済まない。君には今の僕を見て欲しくない。』
 そう、綺麗な文字でそう書かれている。
 その一文を直接口に出されていたら、叫んでいたかもしれない。あえて文字という間接的な空気を纏う言葉でなければ、心臓を押し潰されそうな気がした。
 朱音は二行目に短く文字を綴る。余裕など初めからない、少々乱雑な字体で。
『なんでだよ。』
 いつかの日のような、教師の目を盗んだ無音の会話。
 これまでのような、正常さを失った異質めいた会話。
『僕には、君と同じ目線に立つ資格は無い。』
『ディーヴァになったからか? んなモンのために、お前は絆を絶ったのか。』
『そういう訳ではない。後生だから落ち着いてくれ、頼む。』
『落ち着いてるさ。少なくともそんな力を手に入れたお前よりはな!』
 怒りを文面にぶつけて、後ろへ渡す。
 少しだけ、間が空いた。
『何も言わなかったことは、本当に済まなかった。』
『さっき言ってた知人のってのは、親父さんのだろ?』
『ああ、葬儀の事は必要最低限の親族以外には伏せるつもりだった。』
『じゃあ、俺達に言わなかったのは。』
『察しの通りだ。それが原因で僕は日常を外れた。』
『じゃあ、賀上を殺したのはなんでだ。』
 また少しだけ間が空く。
 多分、彼女は今、視線を横に向けているのかも知れない。
 この世から去り、その事実さえ闇に葬られた、空白を帯びた一つの机を。
 少しして、手紙が放られる。無音の会話は再開される。
『一つは君を護るため。もう一つは、君には話せない。いや、話したくない。』
『ふざけんな。シャッテンを得て、何をする気なんだよ。』
『それを口が裂けても話せないんだ。察せとは言わない。せめて、訊くな。』
 今度は、こちらがシャーペンを動かす手を止めてしまった。
 どうしてなんだ。頭の中心に腰を据えたように、この大きな言葉が巡る。
 少しでも情報を得るべきなのに。
 彼女を救う方法を考えるべきなのに。
 これではただの現状把握の確認ではないか。
 悠長にしている暇は無い。この学園の生徒の動きなど、恐らく【結社(アカデミー)】にはすぐ勘付かれるか、あるいはもう勘付かれている可能性が高い。雛菊が授業が終わると同時に駆け寄ることだって、無くはない。
 何を書くべきかを戸惑い視線を文面と教師の背とを忙しなく見て思考する。
 すると、ふ、と小さく笑みを零す気配と共に新しい紙が放られる。
 それを開くと、かなり長い量の文字が書かれている。事前に書いていた文章なのかも知れないと朱音は思った。
『朱音。これは僕が君にだけ話すつもりのことだ。別にヒナ達の機関に言うも構わない、止めない。だが二つだけ忠告しておく。これから先に書いたことは真実で、もう取り返しのつかない事態だということ。特に君には、受け止めて欲しい事実だということを。』
 朱音は一度だけ目を閉じた。
 この先に、彼女は何を書いているのだろう。
 既に『取り返しのつかない』と書かれていることからして、いいことは無いのだろう。
 ゆっくりと、瞼を開いた。
『ヒナと一緒に居た事を考えれば、僕が関わった殺人事件はそれ一件ではないという事も知っていると思う。僕は死者の魂の器に刷り込まれたシャッテンの残滓を寄り集める副備能力を持つ、宵の詩集≠ニいう能力に覚醒めた。無論、それを知ったのはつい二ヶ月程前の事だがな。人より強い身体能力というのも、代行者達にある「天使化」という工程に似たものが有るらしい。平たく言えば、僕は能力を保持していてもその片鱗すら知らなかったんだ。』
 思い出す。
 一人の代行者のことを。
 その少女は自分が『生を成した時から既に天使の魂を持つ』という異常の世界でも異常がられる特異な存在であり、故に幼馴染であった朱音はおろか、自分自身でさえそれに気付かなかったらしい。彼女がここに入学したことでクロト達は気付けたというが、
(……、待て)
 そう、ふと思う。
 自分に異能力が備わったことに、気付いていない?
 なら、どうしてそれを使いこなしている?
 文面はまるでその疑問を知っていたように、続く。
『僕に異能が発現した事を教えてくれた人物が居る。自分について他言しないという条件で真実を教えてもらった身なのでな、誰だと訊かれても答えないぞ。というより、相手が何故僕に異能が宿る事を知っているのか、その人物が何者であるかでさえ判っていない。判っているのは僕の異能がどのようなものか、そして、その異能がどのような原因で宿ったのか。』
 親を殺された、怒り。憤怒の感情を侵蝕した禍喰(シャッテン)。そして誘発。邪神(サクリファー)。
 一連の不幸が起こした、究極の災難。
『そして出自を知ったことで、僕にはしなければならない事が出来た。』
(来たっ……!)
 なんだ、と朱音は一層目に力を込めて文を追った。
 それだ。
 彼女のしなければならないこと。
 それを待っていた。
 それさえ崩し、あるいは有耶無耶にしてしまえば、彼女を護れる。
 朱音は手段を選ぶことを捨てた。
 もう、こんなチャンスは無い。だから、例え雛菊や熾織に嫌われたとしても、
(俺は、俺はこの絆を護る為に道化だろうが何だろうがなんにでもなってやる)
 最早常人の域を超えかねない程の覚悟を込めて。
 その文面を。
 殺すべき目的を。
 この手で――、

『出自の元凶を質し、そしてそれが真実ならば――ヒナをこの手で殺すこと。』

 思考が、働かなくなった。
 何を、という、否定の言葉が脳裏に浮かんだ。
 そう、否定だ。これは何かの間違いだ。
 熾織が、
 俺達の親友が、
 家族を喪失する哀しみを分かち合い、強くなると誓い合った親友が、
 それはある意味、恋や愛よりも強い絆で繋がれているはずの親友が、
 大切な親友が、
 大切な親友に向けて、
 迷う事無く、
 その言葉を、
 確かに、綴った。

 ヒナヲコノテデコロスコト。

 視線が、吸い込まれるように動いた。
 自然なまでに動く首。
 その先に居たのは、幼馴染。
 彼女はチラチラとこちらへ見ていたらしく、朱音とばったり目が合う。
 最初は『うわっ、見つかった!』とばかりに驚き、
 やがれ怒鳴られた子犬のようにしゅんと縮こまり、
 それから、彼女は気付いた。
 姫宮朱音の視線に、
 その眼が、何を知ったのかに、
 気付き、
「―――――――!!」
 雛菊も瞠目した。
 真実を知っている眼が、瞠られる。
 肯定を意味するように、瞠られる。

 もう、言葉は要らなかった。
 取り返しのつかない事態。朱音はついにそれがどれほどの次元かを、悟った。

「熾――」
 一気に振り向き様、声を張り上げるぐらいに出して、名を呼ぼうとした。
 だが、
 その声は途中で遮られた。
 予鈴の電子的な音によって。
「っと……じゃあ今日はここまで。次は教科書の二十三ページの六行目から」
 教師の声。
 まだ委員の決まっていない中で、出席番号順の今日が当番だった生徒の、
「きりーつ、きょーつけぇ、れー」
 やる気があまり感じられない号令。
 教室は緩やかに騒がしさを醸し出す。
 そんな中、程好い雑音に紛れるように、
「朱音。言ったはずだ」
 後ろの席に座る少女は、見たこともない非日常側の表情をしていた。
「君には今の僕を見て欲しくない、と」
 熾織は何もしていなかった。
 ルーズリーフノートと一本のシャーペン以外は、机の上に何も出していない。
 初めから、このことを言いに来たように。
「お前、これは本当に――」
 焦りつつも追及を再度行おうとして、また遮られた。
「熾織ちゃん」
 全身が、凍った。
 最も身近に聞く呼び名で、最も今は耳に入れたくなかった呼び名。
 何故ならその呼び名は、たった一人しか使わないから。
 引きずられるように、振り向く。
 そこに居たのは当然、雛菊だ。
「屋上で御飯食べよ。あ、朱音ちゃん。私のお弁当持ってきてくれてる?」
「え、ぁ……」
 言うが早いか、雛菊は屈んで机の脇に掛かっている朱音の鞄の口を開けて、手を突っ込む。出てきたものを嬉しそうに両手で持つが、朱音のと雛菊のとは弁当の区別をしていないので口を挟む隙が見つからなかった。
 熾織の方も既にミニっぽいお重の入っている風呂敷を片手に席を立っている。
 どうしていいか咄嗟の判断が付かず、朱音も自分の鞄を引っ手繰ろうとした。
「朱音」
 その行為すら、拒絶された。
 熾織だ。彼女はどこか怒っているかのように視線をこちらへ向ける。隣に立つ雛菊の肩を抱いて寄せ、
「今日はヒナと二人で食べたい。話しておく事も有るしな」
「そん……っ」
「僕と君は先刻、ヒナを仲間外れにして話をしたぞ? 今度は君が仲間外れだ」
 朱音はぐっ、と退いた。本人達は自覚が無いんだろうが、美少女二人が頬が付きそうなほど顔を近づけると周囲の視線も凄い。
 美の視えざる壁を張られた朱音を見て、雛菊も少し困ったような顔だ。
 それでも、朱音は気が動転して上手く思考が回らなかった。
 目の前で肩を抱き合って仲良くしている同士とは思えない言葉を、口にした。
 殺す。
 ヒナをこの手で。
 反芻するのもぞっとする。
 朱音は食い下がるまいと却下の意を告げる。
 だが、
「――来るな」
 唐突に、熾織の気配が一転した。
 刹那の内。朱音は親友がどうの、絆がどうの、という思考をしていた自分など初めからなかったように一歩退いた。
 熾織は非日常側の表情のまま、「行こう」と雛菊を催促する。
 心臓を鷲掴みにされたように動けない朱音は、ただ二人の背が廊下へと見えなくなるのを見送ることしか出来なかった。


 来るな。
 それは、初めて朱音が見た、御門熾織の明確な拒絶。
 つい最近に朝生雛菊の拒絶と否定を受けた身には、酷く痛みを伴い染みた。
 行き場を失くした感覚が胸に滲んでいる。
 気が動転して、頭の中はぐちゃぐちゃだ。
 どうにかしてという惰性の日常に身を置いて、まだ平常を保っていられる。
 彼女達には何一つ関われない、世界の中で。
 弁当はおろか、そわそわとしたまま教室を出た朱音は、唯一記憶の端に引っ掛かっている、自分がまだ介入できそうな居場所を目指した。
 目の前に建つ、理事長邸宅。
 扉を開けて階段を下り、大きなホールの中心に立つ。
 重い頭で、理事長の居る部屋はどちらの道だったかを思い出そうとしていた朱音の耳に、誰かの声が聴こえた。
 視線を向ける。左側の廊下を進むにつれてやがて鮮明に聴こえてくる声。
「――失態ですね、まさか学園に来るとは思いも寄りませんでしたが……」
「理事長、どうしますか? すぐにでも拘束をしたほうが良いのでは」
「なら、倭先輩にはアタシから連絡しておきます」
 クロト、氏家、そしてブリジット。内容は末端しか聞き取れなかったが、今ので充分だ。さすがにもう気付いたらしい。
 朱音は胡乱な視線のまま半開きになった扉の陰に立って、耳をそばだてた。
「……いいえ。拘束の準備だけをして待機して下さい。恐らく彼女は朝生君と話しをするつもりなのでしょう。お互いに親友として」
「ちょっ……クロトさん、そんな悠長に構えてどうするんですか。もし戦闘になったら雛菊じゃ絶対勝てません、はっきり言って二人にするのは危険です」
 クロトの言葉にブリジットは同僚としての厳しい正論を返す。しかし、クロトは首を横に振った。
「戦闘が起きればそれは即ち、彼女達の決裂を意味します。そして、彼女達はそれをまず確認する必要が有るのです。貴女なら判るでしょう、ブリジット君」
 静かにそう諭す。ブリジットは口を噤んだ。
(何を、言って……)
 朱音は怪訝な顔で窺う。
 二人が戦い合う必要性。一体何を言っているのか判らない。
 熾織が闇姫(ディーヴァ)に成ったことと、雛菊が代行者であることの、何が関係するというのか。そんなものに接点は無いはずだ。
 嫌な予感が、心臓に早鐘を打たせる。冷たい汗が頬を伝う。潜めている息が、クロト達に気付かれそうだった。
 そんな朱音に気付かないクロトは、溜息混じりに周知めいた愚痴を零した。
 そう、周知めいた°痴を。

「彼女達も知りたいのでしょう――闇姫に成った原因が朝生君かどうかを」

 キィ……、と。
 扉が軽く押されて小さな軋みを奏でた。
 何かと視線を上げたクロトは、無表情であった顔に驚愕を浮かべていた。
 クロトの動きに釣られた氏家は、彼に気付き思わず視線を逸らした。
 背を向けていたブリジットは、振り向いた先に居た朱音にはっと息を呑んだ。

 運命。

 それは、霞の掛かっていた頭が透明になった時に浮かんだ、最初の言葉。





 霄壤学園高等部校舎、屋上。
 転落防止の為の二重に設置されたフェンスが高々と囲むコンクリートの上。
 昼休みになると昼食を食べに集まったグループの憩いの場と成っているが、基本的にこの学園の校則は決して緩いほうではない。堅いからこそ事前準備が徹底されているのだ。一時期屋上を占領してボール遊びをしていた男子生徒の集まりの苦情があり、翌日から屋上での迷惑行為は厳禁という形で終止符を打たれている。男子生徒達は何一つ反論の余地無く屋上の出入り禁止を勧告されたらしいが、非は彼等に有る。仮に正当な理屈も無く暴動を起こせば熾織さえ恐いと謳った噂の生徒会執行部が容赦躊躇問答の一切無しでけし掛けて来る。
 そんな経緯で、秩序という権利の元に聖域みたいな感覚で安息の地となった屋上。
 凛とした二人の少女は、黙々と自分の箸を進めてゆく。
 『天使』の朝生雛菊と『戦姫』の御門熾織というビッグフォーの内の二人が向かい合いながら無言で弁当を食べている姿は一見すると立てば何やら座ればどうたら、のように感じるが、実質近寄ってくる生徒は一人も居なかった。
 それどころか、周囲の生徒達は誰一人として二人の姿に気付かない=B
 非日常が、口火を切った。
「朱音ちゃんと……何、話してたの?」
 非日常も、自然と答えた。
「内緒だ」
 普通、そこで相手が件の青年だったなら色々と誘導尋問が浮かぶのだろうが、詮索する側は間違っても朝生雛菊だ。彼女の口からカマかけの言葉が出てくる訳がない。案の定、雛菊はキッと表情を険しくしてみたが、すぐにうな垂れた。
「そう気にするな。これからヒナに話すことと大差は無い」
「やっぱり……朱音ちゃんに、言ったんだ」
「……言うべきだ。僕達は、まだ三人なんだからな」
 二人だけが共有する知識のように、要所を伏せた言葉。雛菊は視線を落とす。
 そのすぐ脇を二人の女子生徒が喋りながら擦れ違う。「あれ? いつもここに座ってる三人は今日居ないんだ」「三人……? あ〜、あの三人ね。そういえば居ないね」と、二人のことなど道端に転がる石ころよりも視界に入らない。
 二人の座っている部分を中心に、四方を囲むように四枚の羽根のような白い飾りが突き刺さっている。飴細工のように光沢を持つその羽根には、黒い筆跡で『Area-stop.』と記されている。
 それを一瞥し、
「便利だな。人外の能力もここまでこなされては僕も立つ瀬が無い」
「う……」
 褒めたつもりなのに苦い顔をする雛菊。数秒して、熾織は眼を据わらせた。
「……、君の能力ではないのか」
「あぅ……倭先輩から拝借しました……」
 やまと、という名前を知らない熾織は「そ、そうか……」と曖昧に頷くしかなかった。一応その人物を二度も襲っているのだが、顔と名前が一致しているのはあくまで向こうだけであった。
 熾織はふっと笑みを零した。目の前の少女は明確に同類でありながら、相も変わらない雰囲気を纏っている。
 いや、纏うのに慣れたからこその今の姿、ということだろう。
 だから熾織は臆することはなかった。口に入れたレタスを噛み、飲み込み、ゆっくりと口を開いた。
「やはり、君なんだろうか……?」
 雛菊の進めていた箸が、停まった。
 青空の下に風が過ぎり、小春日和の清々しい空気の中、
「多分……」
 微妙に確信しているとは言い難い表情で、頷いた。
「……否定してもいいんだぞ? 無理強いするつもりはない」
「ううん……私も熾織ちゃんが好きだもん。嘘は付きたくないよ」
「そうか……」熾織は小さく呟く。「……だとすれば、僕は君を許せない」
 雛菊が顔を上げた。
 怯えなど、どこにもない顔をしていた。
 熾織もまた躊躇うことなく続ける。
「僕にとって、ヒナは掛け替えの無い存在だった」
「私もだよ、熾織ちゃん」
「あぁ、そうだな……済まない」
 熾織は苦笑しながら空を仰いだ。
「三人の絆も、思えば生きていてこれほど支えになったモノは無かった」
「……うん」
「だが……いや、だからこそ僕は君を殺さなくてはならない」視線を、雛菊へ戻す熾織。「君が、認めてしまったから。僕はもう確信してしまっているから。父さんが殺されるような不幸な事故も、それがただの偶然で済めば良かった。だが、そうではない気がする。何よりも、僕は君の親友だから」
「……、」
 きゅっ、とスカートを握り締める雛菊。俯き加減だが、表情が歪んでいそうなのは予想が難しくなかった。
「僕は君を殺す。何よりも君を友達と信じているからこそ、僕は自分の正義の為に君を殺す。躊躇いは無いぞ、間違いは無いぞ、そして猶予も……無い」
 雛菊は内心で焦っていた。
 熾織が答えを急かしているのに、気付いているからだ。
「判っているぞ、ヒナ。君は恐れているんじゃないか? 僕と、戦うことを。何よりも日常で強く生きていて欲しいはずの者が外れた存在と化していた事を、恐れているんじゃないのか?」
「……っ」
 熾織は滔々と説く。少し、怒っているように。叱っているように。
「ヒナ。迷うな。君の中の天使の魂は他の誰でもない、君を選んでいる。僕の闇を生み出したとて、迷うなど必要も無ければ、義理さえ無いぞ」
「でも……っ」
 遮り、しかし語彙の足らない頭で何かを必死に考えても、雛菊はまた俯く。
 子犬のような仕草に、その果てしなく純度の高い優しさに、熾織は微笑む。

「ならば、君が僕を敵視出来るようにしてやる」

 微笑んだまま、熾織がそう言った。
 雛菊は突然に低まったその声に、反射で顔を上げ、怪訝な顔をした。
「どうゆう、こと?」
「そうだな……一口に言ってしまうのは、どうにも難しい。濁して言うなら、僕は君が羨ましかった。僕の……今の僕にとっても最も在りたい居場所に居る事を、許されている人間だから」
「居場所って……なんの――」
「朱音だよ」
「……え?」
 雛菊は驚きに理解が遅れた。
 だが、何よりも身近で、誰よりもその言葉に親しい雛菊にとっては、空白は一瞬の間に過ぎなかった。
「熾織、ちゃん……?」
「勘違いするなよ、ヒナ。僕にとっては闇姫(ディーヴァ)になったのは本当に運が悪かっただけに過ぎないんだからな」
 そういって熾織は弁当の中身を口に放り込み、水筒の蓋に注がれていた熱い麦茶で流し込む。
「ただ、羨ましかった。はっきり言おう……僕は、朱音が好きだ」
「え、……そ、そんなの、決まってるよ。……朱音ちゃんだって熾織ちゃんは好きだし、私だって熾織ちゃんのこと――」
「違う」
 熾織が遮る。
 硬質な声に、雛菊は身を強張らせた。
 気付いた。
 気付いてしまった。
 薄々は感じ取っていた、それでも有り得ないという先入観が覆い隠した想い。
 近づきすぎて知らないカタチではない。
 ただの親近感を遥かに超えた、欠如への繋がり。
 それは、
 まさしく、
「僕が朱音に抱いているのは……異性としての、こ――」
「だめっ……!!」
 叫んでいた。
 その先の言葉は、壮絶に雛菊の魂を掻き毟るのが容易であったから。
 だから、叫んでしまった。
 その言葉を。
 それが、何を意味した言葉かさえ、考える暇もない内に。
 ――ぁ、と小さく言葉を洩らした。
 弁明しようとした。内側で肥大していた亀裂は、もう修復不可能なほどに、
 壊れた。
「――、……否定したな=H」
 瞬間、雛菊の前に座っている少女は御門熾織ではなくなっていた。
 強烈な殺意と、絶大な憎悪。
 そして、圧倒的な威圧感を伴い、少女は繰り返した。
「僕の気持ちを、否定したな? 朝生雛菊。この世界では親友ではない僕の想いに気付いておきながら、勝手に、利己的に、無かったことにしようとしたな?」
「ち……ちがっ……!」
 雛菊は、動揺どころか混乱していた。
 しかしその中に含まれていた一つの単語で、一気に寒気を覚えた。
 彼女は今、自分の名前を呼んだ。
 親友としての呼び名ではない。
 敵としての、呼び名で。
「熾織ちゃ――」
「『籠目が落ちる。頭上に落ちる。蒼い景色が塗り潰された』」
 唐突に、少女が紡ぎだした。
 まるで謡っているかのような、その羅列。
「『杭で留めてしまいましょう。決して外へと逃がさぬように――』」
 雛菊が認識するより早く、一瞬にして視界が黒い色に染まった。
 闇の色を纏いし歌姫の、降臨と共に。





「……どういう、ことだ?」
 掠れた声が、喉から出た。
 三者三様の反応を順繰りに見てゆき、もう一度訊いた。
 頬が引き攣り、空笑いをしていた気がした。
 だって、信じられない。
 彼女は今何を言った?
「熾織がそっち側に行ったのは、ヒナのせいだって……どういうことだよ?」
 もう一度、訊いた。しかし同じ反応のままだった。
 何も言わない。
 だが、それが黙秘ではないことは、最早朱音には判り切っていた。
 それは、拒絶。
 不安や理念、あるいは誰かへの情を混ぜた、拒絶の沈黙。
「――っは……!」
 動き出したのは朱音だった。
 怒りに自嘲した朱音だった。
「人助けはしてると思って、悪い奴等だとは考えねぇようにしてたのにな……よりにもよって自分達の仲間を犠牲代わりに犯人呼ばわりか!? テメェ等のまずやることは犯人探しか! そんなに悪者が必要なのかよ!! あぁ!?」
 傍らに今も不安定に屹立していた資料の塔を、裏拳気味に殴り倒した。ばさばさと崩れる紙の塔。同時に、思いの他強く殴ったせいで手の甲を紙で切ってしまい、朱音の右手から血が流れた。
 そんなことさえ、彼の怒りには認識すらされなかった。
「いったい何様なんだよテメェ等! そりゃ代行者としてのヒナはテメェ等のほうが詳しいんだろうよっ! 俺には何も判っちゃいねぇんだろうなぁ!! けどこんなの、最低だ! んだよヒナのせいって! 熾織が闇姫(ディーヴァ)になったんは親父さんを殺しやがったその通り魔への怒りじゃねぇのか! だとしたら……熾織にゃ悪いが、それはただの不運じゃねぇか! 災難だってことだろ!? なんでヒナが出てくんだよっ!! おいっ、答えろよクロト理事長様よぉ!!」
 罵声に近い勢いで捲くし立てる朱音。
 呼ばれたクロトは怒鳴られていることより、何かに対する意図なのだろうか、苦い顔で朱音から視線を逸らしていた。
 何を知っているかなどどうだっていい。こんなの、最悪だ。
 確かに熾織は人を殺した。自分のクラスメイトで、歪んでいようとも好意を寄せてくれていた賀上洋介を、躊躇うことなく殺した。それは言い訳出来ない悪なのかも知れない。
 だが、彼女には彼女なりに何かの理由が有ったはずだ。証拠に彼女は言った。殺めてしまったのは、朱音を失いたくないという立派な正当防衛だ。許されるとまでは言わないが、償えるものではないのだろうか。
 そんな、彼女の正義を知っている朱音だからこそ、熾織が悪に奔った原因が、もう一つの諸悪が、何の根拠も無く雛菊に向くなど、考えられなかった。
 代行者としての雛菊は知らない。
 だが、幼馴染としての雛菊は、誰よりも知っている。
「単に面倒臭くなっただけなんだろっ!? だからヒナに押し付けちまえば、きっとヒナなら何とかなるとか思ったんだろ!? 親友だからって理由で!」
「――! そ、そんなつもりで言ったんじゃないわよ!」
 その言葉に反応したのは、クロトではなくブリジットだった。彼女もまた憤慨したように朱音を睨みつけるが、朱音は引き下がるつもりなどない。
「じゃあ何がヒナのせいだって!? 言ってみろよ! 単なる不幸が、ヒナのせいだって言い張るその理由を!」
「だっ、だからそれは……」
 言いたくなさそうに言葉を詰まらせるブリジット。
「ほらみろよ、理由なんざ無ぇんだろ!? おかしいんだよテメェも! きっと熾織にもそんなこと吹き込んだんじゃねぇのか? ヒナが悪いんだって」
「……え?」
 途端、ブリジットは目を瞠った。同時にクロトも氏家も驚いた風にこちらを見てくる。
「んだよ……っ」
「んだよじゃないわよ……御門ってのが、アンタに言ったわけ? 雛菊を……」
「そうだよ、それがなんだよ……そうじゃなきゃ熾織がんなこと言うわけねぇだろ!」
 依然怒りを顕わに怒鳴り散らす朱音を数秒驚きながら見つめていたブリジットは、やがて溜息混じりに哀しげな顔をした。
「やっぱり……雛菊のやつ……じゃあ今頃二人が……」
 意味深なことを呟くブリジット。しかし、その『合点がいった』とばかりに勝手に納得する三人を睨み、朱音は口を開いた。
「何がやっぱりなんだよっ! あの二人に何言いやがった!?」
「ちょっとは落ち着きなさいよ……別に誰がチクったってわけじゃ――」
「熾織が自分でそんな考え起こすかよ! ズブが下らねぇ思考してんな!!」
 その言葉にカチンときたように目を据わらせるブリジット。今の自分が言えた義理ではないが、彼女のほうが頭に血が上り易いようだ。
「そっちこそ何も判ってないくせに偉そうにっ! 調子乗んな素人!!」
「何が判ってねぇんだよっ!」
 怒りに任せてがなり合う中、ブリジットの口から意外な言葉が出た。
「御門ってのが異能に目覚めた原因が自分だって言ったのは、雛菊なのよ!」
「――、……あ?」
 言っていることの意味が頭の中でゆっくりと溶けてゆく。
 その合間に、ブリジットがはっとした風に目を見開いた。
「……なんだ……それ」呆然としたまま、朱音は呟く。「雛菊、が……自分で? どういうことだ……? なんで雛菊がそんなこと、を……」
 だが、鼻先まで近づけていた顔を下げたブリジットは苦し紛れに視線を外す。
「そ、それは……っ」
「ま、待てよっ! どういうことだ!? 言えよっ!!」
 ブリジットの胸倉を掴んで引き寄せる。氏家が合間に割って入ろうとするが、それによって胸倉は掴んだままで視線を別の人間に向けた。
 大きな仕事机の前で腕を組んで立つ、クロトへ。
「説明しろよ、理事長」
 今まで黙っていたクロトは、落ち着きを取り戻したことで返って余計凄みを増した朱音の視線を一瞥、変わらない無表情に染まる灰色の眼を足元に落とす。
「……彼女に他言無用、特に貴方には言わないで欲しいと釘を刺されています」
 冷徹にそう答える。
 不明瞭ながらも何か冷静な部分が働き出した朱音もまた、無表情で切り出す。
「分かった。なら本人に聞く」
 なっ……、と目の前でまだ胸倉を掴まれたままのブリジットが顔を上げるが、もうこいつには用は無い。朱音は一番手っ取り早い案を、柄にも無い遠慮から本人を気遣ってしなかった強攻策を取る。手を放し、踵を返す。
「そんなことをして、最低なのはどちらだと御思いですか?」
 背中から声が聴こえる。感情が感じられず、朱音は再び焚き付けられた怒りに振り返る。
「俺は、俺の目的であいつらを救う! そう決めてんだよ!」
 クロトは静かに朱音を見つめ返し、氏家は視線を外している。ブリジットは俯いているせいで金糸の髪が顔を隠していて表情は読めないが、後者の二人はもうどうだっていい。
「最低なのはどっちだと? んなもん決まってんじゃねぇか。どういう理屈か知らねぇが、熾織が闇姫(ディーヴァ)に成った原因がヒナだなんて俺は思わねぇ。そもそも根拠が無ぇだろ。ただの不幸だぜ? 頭おかしいんじゃねぇのテメェ等」
 せせら笑うように、憎しみにも似た感情を抱いた。
 割り切った答えしか出せない、この集団に。
 愛想を尽かした、なんて生ぬるい感覚ではない。
 人の大切な人間達を端から全否定するような結論を出してゆく連中。
 誰が、許せるものか。
「そもそも、たとえヒナが代行者だからって、なんでここに入れたんだよ」
「――、」
 ブリジットの肩が揺れた。
 嘲笑と侮蔑を込めた言葉を綴る朱音は、気付かない。
「いや言わなくていいわ、マジで。分かっからさ。そりゃそうだよな、最強の天使サマの代行だもんな。欲しいに決まってるよな」
「……、」
 ブリジットの拳が握られる。
 懺悔などさせるつもりもないと攻撃する朱音は、まだ気付かない。
「一目見て気付かないもんかね、御宅等もさぁ。あいつに喧嘩だって無理だっつぅのに、人殺しさせようなんて考え自体がどうかしてるよ、最悪だな」
「っ……」
 ブリジットの歯が食い縛られる。
 劣悪を決めることしか能が無いと卑下することに夢中の朱音は、
 最後まで気付かなかった。
 その、切なる怒りに。
「どうせ唆したんだろ? 上手くいって良かったな。おめでとう、クソヤロウ。何が分かってないんだよ、俺のほうがいくらだってヒナのことを――」
「やめて……」
 小さく、そんな声が聴こえた気がした。
 閉口し、視線を向けた。
 未だに俯いたままのブリジット。
 彼女が言ったのだろうか。確か今、『やめて』と言ったんだろうか。
 朱音は、鼻で哂った。
「……何をやめんだよ」
「……雛菊のことを悪く言わないで」
 腹からの声。
 今更仲間意識か。素晴らしいことこの上ない。
 そんなものに相手をする気などさらさらない朱音は、睥睨の視線を送る。
「良い子ぶんな。テメェだってヒナのことをお荷物みてぇに見てたじゃねぇか。最強の名は欲しい。でもあいつ自体は要らない。最悪の方程式が見事に完成だ。こんな奴等にあいつを居させるわけにいくか。俺はテメェだって許さねぇ」
 そう言って、振り返る朱音。
 扉を開けようとした。
 だが、出来なかった。
 右足が動かなかったのだ。
 何かと思い、何とはなしに視線を向け、

 思考が停まった。
 足の裏で、氷結した床と靴底がへばり付いていた。

「アタシ、言ったわよね?」
 後ろから声が聴こえる。
「調子乗んなって」
 背筋がぞっとした。
「言ったわよね?」
 感じる冷たさは、

「あの子を∴ォく言うなって」

 上体で振り返った。勢いよく、視界に入る総てを認知しようとした。
 それが後悔に繋がるとは思いもよらなかった。
 背に空色の翼を広げる、冷気を帯びた鬼神が居た。
「ざ――っけてんじゃないわよ!! ド素人がああああああああああっ!!」
 戦慄に身を震わせるほどの声。
 同時に首を掴まれた。生きている人間かと疑うほど冷たかった。
 べりっ! と氷に張り付いた足など物ともせずに朱音を巻き込み突進する。軸足を掬われた体勢に加え、天使化(アドベント)により常人の倍ほどの身体能力を獲得した相手に対して朱音はどうすることも出来ず、扉の脇の壁に背から叩きつけられてしまった。
 ギリギリと首を絞められ、呼吸を奪われる朱音。最近首を狙われてばかりだ、と不意を衝かれた頭に咄嗟にそんな考えが浮かんだ。
 しかし、手に刃物を持っていようものなら即座に刺して来そうな猛烈な憤怒に満ち、せっかくの綺麗な顔を歪めるブリジットが怒号をぶちまけた。
「ええそうよ! あの子は天才よ! 間が抜けててドジでおっちょこちょいで微妙に空気のズレてるノロマだけど! 最強の天使の魂を持つ天才なのよ!! 周りの何倍も努力してやっと初の戦闘任務に就けたアタシと、こんなクズ男と距離を置くって約束した直後でアタシと一緒に戦闘任務に就けるほど、あの子は選ばれた人間なのよっ! アンタに分かる!? 分かるわけないわよ!!」
「……かはっ、……ちょ、まて……今、なんて……っ?」
「距離を置くって約束したって言ったのよ!」これ以上無いほどの怒りを表しながらも、朱音の気付いた単語を迷わず引き出すブリジット。「アンタは何も気付かないくせに! あの子がどれだけの想いでアンタとは一緒に生きていけないんだって寂しそうに笑ったのか、分かってないくせに!!」
 仕舞いには泣きそうに顔を歪めるブリジットを唖然と見つめる朱音。
 何を言っているのか。
 解らない。
 雛菊が、朱音と距離を取らなければならない?
「もういいわよっ! そんなに知りたいなら教えてやるわよっ!!」
「ブリジット君!」
 咄嗟にクロトの声が遮ろうとした。珍しく、その声が焦っていた。
 だがブリジットは自分の目上だという意識すら無いようで、ばっと振り返って怒鳴った。
「あの子にも言ったんです! 代行者であることを受け入れてくれたのなら、あのことも言ってしまったほうが後腐れなく離れられるって! クロトさんの尊重したい気持ちは分かるけど……! こんな……こんなクズがっ、何も知らないくせに知った風な口利いて! こんなクズ野放しにしていいんですか!? そのほうがあの子が……! 雛菊が可哀相ですよ!! アタシは言います! あの子に嫌われたっていい! それであの子の重みを少しでも軽く出来るなら、このクズに真実を言うべきなんです!! 違ってたってアタシは言う!!」
 もう最後の一言は完全に私情だけの怒号だ。それに負けたように、クロトは溜息をついて瞼を閉じた。
 それを肯定と見たブリジットに、朱音は恐る恐る口を開く。
「おま……何、を」
「黙れ、クズ」
 声はいつも程度。だがその中に怒りの質量は変わらず、逆に密度が増えて冷酷めいた視線が朱音に向き直った。
「教えてやるって言ってんのよクズ。御門ってのやアンタが闇姫(ディーヴァ)だと疑われた理由を」
 呆気無いほど簡単に答えを出そうとするブリジットを至近距離から見て、神妙に聞こうとする朱音。
 ふと、そこで妙な感覚を覚えた。
 今の彼女の言い回しが、ベクトルの定まっていない頃の話の気がした。
「……熾織や俺が∴ナ姫(ディーバ)だと疑われた理由?」
「あら、思ったより勘が鋭いのね、クズのくせに」
 きょとんとした顔でブリジットが言う。朱音は先に言わんする言葉が、もう予測も出来ない。
「どういう、こと……」
「どういうことどういうことってうっさいのよクズ。クズの割に意外と理解力あるほうなんだから自力で気付けクズ」
 幾分か首を絞める握力が弱まる。それでもまだ朱音を拘束するだけの力は込められたままだが、まともな呼吸を許された朱音は理解に戸惑う。
「御門ってのの異能力は……とゆうより、大元は彼女の周辺で起きていた『残留』に彼女の禍喰(シャッテン)が引き金になって起こった邪神(サクリファー)は、基本的に一定量が定まった現象じゃないの。かなり波がある上にそれこそ人どころか飼ってたペットの死に対する負の感情でも起こり得るほどのランダム性を持ってる。文字通り彼女が闇姫(ディーヴァ)になったのは、単なるそのランダムの一つとして運悪く選ばれただけなのよ」
 ブリジットはある程度まで正常に戻った声に棘を残したまま、そう言い出す。
 言っている原理は解る。引き起こされる条件に波が無いのだとしたら、わざわざこんな街捨て去ってしまえばいい。それをしないのは単純に以前クロトが言っていたように、『神凪町という地域的限定を除けば、何時何処でどのような原因で起きるか不明瞭』という曖昧な発現が有るからだ。この代行者の組織はその不明瞭な確率に対して包囲や除去をする交番の警官みたいな役割をしている形になる。
 つまり、この街で暮らしている以上は熾織はおろか、朱音も何らかの事故に遭って運悪く禍喰(シャッテン)に侵蝕されていたかもしれない。この街に居る以上は、聖痕と呼ばれる抗体を持つ代行者以外の人間総てが平等に宛がわれる。
 神凪町に住む数万人という人間の中で、熾織に白羽の矢が立ったという確率。
 でもね、と。
 ブリジットは記憶を掘り返している朱音に否定を言う。
「そのくじ引きは初めからイーブンじゃなかった。雛菊という存在が、御門かアンタか、どちらか一方に当たりくじを引かせるほどの、とある力があったの」
 とある力。
 その奇妙な言い方に朱音は違和感を覚えた。
 代行者の用いる能力を、当人達は決まって『神術』と呼称しているからだ。
 何か、嫌な予感がした。
 背筋に小さな電気が奔る感触。
 すると、ブリジットの口から新しい単語が飛び出た。
「制約、って……知ってる? あ……そっか、知らないよね、赤の他人だから」
 せせら笑い返してくるブリジット。
 せいやく。
 製薬や聖訳という字ではないとするなら、約束だとか条件だとか、そういう意味合いの制約でいいのだろう。
「代行者が逃れることの出来ない足枷よ。違うわね、この制約が有ってこその代行者と言えばいいかしら」
「……どういう」
「だから『どういうことだ』はもういいっつぅの。今度言ったら冷凍するわよ」ほんの少しだけ握力を加えて黙らせるブリジット。「代行者の出来上がる過程は知ってるかしら? それから教えたほうがいいかしら。あーめんどくさい」
「……知っ、てんよ。水の溜まったコップに油を流し込む要領のことだろ?」
 ちらと氏家を見て、朱音は思い出す。
「あら、知ってんのね。でもまあ天使を油扱いするってのもいい度胸だけど、まあいいわ。でも普通、気付かないかしら。とんでもないこと言ってるって」
「とんでもないこと……?」
 水の溜まったコップは、魂を持った人間。そこに天使の魂という油を注いで、『水と油が一緒くたになったコップ』という一個の存在にする。天使の能力を継続し、継承し、その天使と同一化する。それが計画における代行者が出来る過程らしい
「……、ちょっと待て。水の溜まったコップに油を注ぐ=H」
 亀裂が、眼前に浮上した。
 大きな矛盾。
 コップに溜まる水は満杯だ。欠落した魂を持つ人間など存在しない。だから薬物投与などによって仮死状態にして一時的にコップの中身に余白を作る。
 そう、氏家から聞いた言葉が、反芻する。
 コップの中身は満杯。
 生きた状態では天使の魂は入らない。
 だから魂をすり減らす必要が有る。
 仮死状態にすればコップの中身が必然的に減り、天使の魂が入る。
 『人間であった』コップから、『代行者になった』コップに変わる。
 代行者が出来上がる。
 身体機能を正常に戻す。

 ……仮死状態から生き返る=H

「……それ、って……」
 時間が止まった感じがした。
 代行者として生き返る。
 なら、
 それが可能なら、
 それが出来たのなら、
 復活した後のコップの中の水の量はどうなる=H
 コップの内容量は変わらない。
 でも油という容量は存在する。
 必然的に水の容量が減ることを意味する。
 水は、何を意味していたか。
 水は、

「……人間性の欠落」
 茫々とした朱音の答えが、口から零れた。
 ブリジットの表情は、もはや色では表しようのない無になっていた。
「そう。天使の魂を受け入れるということは人間としての魂の一部を失うこと。容積が同じなら、油が注がれた分だけ水は必ず零れる」
「それが……制約……?」
「代行者になる、イコール人間性を喪失する。アタシも倭先輩もクロトさんも氏家さんも……そしてあの子にも、当然欠落した人間性がある。しかも最強の天使の代行よ? アタシ達なんか比べ物にならないほどの大きな欠落が起こる。神化計画(セラフ・プロジェクト)における最も人間性を失った代行者、それがあの子なのよ!」
 首に掛けていた手を、今度は朱音のネクタイに変える。一緒に掴まれた襟元が引き寄せられ、ぶちぶちとボタンの千切れる音を立てた。
 朱音はそれへの非難も、何も考えられなかった。
 もう彼には、その先の真実を知ることしか頭になかった。
「……ヒナの、……制約は? あいつの制約って……」
 訊くと、ブリジットは口の端を歪めた。
「前からアンタの言い口が気に食わなかったんだからね。お返しに謎掛けみたいにしてやるわ」嘲るようにして、「アンタ……こういうことってなかった? 『雛菊とジャンケンをするとしょっちゅう負ける。いかさましないと何故か勝てない』って」
「何、を……」
 朱音は言葉を失った。
 混乱したのではない。図星であったからだ。
「もっと解りやすく言ってあげよっか? なら、『あいつと居るといっつも俺は運が悪い、少しぐらいはその豪運を寄越せ』って思ったことある?」
「……、待て」
 彼女の言い回し。
 そこに潜む、意味。
 思わず制止の言葉が出た。
 それでも彼女は止まらない。
 それどころか、
「なら、アンタでも確実に解るたとえを出したげる」
 確信へと導く言葉。
 やめろ、と。
 小さく声が漏れる。
 だって雛菊は、最強の代行者だから。
 最高の存在であり、最悪の制約を持つ。
 故に、もしそれが、
「たとえばそれが、『神社の初詣や繁華街の福引で――」
 自分ではなく、
 他人に関与する制約だとしたら、
「自分はいつも悪いくじで、雛菊はいつも良いくじを引く=xだとしたら?」
「まさか――!!」

 総てが、完成してしまった。
 逃れることの出来ない運命の、悲劇のパズルが。
 彼女のその、最後の言葉のピースによって、

「接触した者の祝福を奪う$ァ約。あの子は周囲の人間を不幸にしてしまうのよ」

 完成、された。

「…………………………、祝福を……奪う?」
 ゆっくりと、
 むしろ歯痒いまでに遅く、
 しかし理解の早い頭は、それを脳に刻んでゆく。
「ヒナが、触れた人間を……不幸にする……?」
「……一口に接触と言っても、種類は多く有ります」
 それまでじっと沈黙に徹していたクロトの声が、ブリジットの向こう側から聴こえる。
 フィルターを掛けたように、果てしなく遠く聴こえた。
「肉声、電話越し等を問わない会話や応答、誰かが触った物に自分も触った、さらには視線が合った瞬間も……彼女は絶えず接触を起こした相手から祝福を奪ってしまう。とはいえそれはほとんど大した不幸ではありません。人間の運勢とはその時その時によって左右される、蓄積量の不安定な対象です。会話や視線ぐらいで奪われたとしてもそれはかなり些細で、物や人に足を引っ掛けて痛がる程度の極々日常的な不運でしょう……ただし、肌や髪に直接的に触れる場合に限っては別次元のようですが……」
 そんな解説は、もう不要だった。
 ああ、解る。今なら理解できる。
 彼女は誰か。
 『天使』の朝生雛菊だ。
 学園で四人と狭められた美少女の一人にして、皆の羨望の的。
 そんな偶像に、触ろうとする輩はまず居ない。
 だから不幸な人間は出ない。
 彼女自身も赤の他人に触ろうとはしなかった。
 だから不幸な人間は出ない。
 たとえ遭ったとしても、いつもそれを止める人間が二人居た。
 だから不幸な人間は出ない。
 ところで、一つだけ疑問が浮かぶ。
 それを止めるほどの仲の良い二人は、彼女と疎遠であったのか=B
 違う。
 親友同士での皮膚的接触など、どれほどしてきただろう。
 彼女をイジメるために頭を叩く青年が居た。
 それを慰めるために頭を撫でる少女が居た。
 だから彼女も油断した。
 安堵しきって、忘れてしまいがちであった。
 抱きついたり、
 背中に寄りかかり、
 手を繋いだり、
 反撃のグーパンチをしたり、
 その逆襲を受けて半泣きになっている最中も、

 彼女はその二人を不幸へと導いていた。
 少しずつ、
 少しずつ、
 確実に、
 確実に、
 不幸へと陥れていた。

 少し考えれば、判る事ばかりだ。
 雛菊が代行者であることが発覚した時から、彼女の様子はおかしかった。
 触ろうとすれば怯え、
 話そうとすれば恐れ、
 ああ、今なら解る。
 この、彼女達の着ている白い制服。
 純白に蒼いラインの入った、ブレザーのような服。
 脚は膝上までニーソックスで、袖が長い。
 暑苦しい、と思ったことがあったのに。
 何故、気付かなかったのだろう。

 この服、実質の肌の露出が殆ど無い。

「アタシの制約は、温度を認識出来ない」
 ブリジットは言う。その表情は哀しげで、空色の翼の逆光でより一層に寂しげに映る。
「今もアンタに触っていても、アタシには体温が判らない。触っている感触はあっても、温もりも冷たさも解らない。それを考案した服なのよ、これは……! 防護性なんて二の次! 肉体的接触を禁じられた制約の持ち主や、聖痕を隠す、アタシ達の精神面を保護するための拘束服なのよ!!」
「……じゃあ、ここに来たのは……」
 力が抜ける。
 ブリジットがその手を放した途端、朱音はよろめきながら壁に背もたれる。
 それを見たクロトが目を細め、ゆっくり答えた。
「彼女を引き入れたのは彼女の戦力では有りません。元々彼女は神術をあまり扱えない危険な状態……同盟ではなく庇護のつもりで誘ったのです。加えて、彼女に祝福を奪われた者は絶対に不幸を回避出来ません……彼女の周囲に居る人間が禍喰(シャッテン)に侵蝕され易い、必然的に庇護処置が必要だったのです」
「解るでしょ? もう、判ったでしょう!?」
 ブリジットの顔が、至近距離で歪められる。
 朱音はもう何も喋ることさえ禁じられた。
 既に目の前の少女の頬には涙が流れている。
「あの子は選ばれているのよっ! 神様に選ばれた、誰よりも神様に近い存在なのよ! 周囲に人間が居るなんていけなくて、だから傷つけてしまうのよ! 『大好きな朱音ちゃんと熾織ちゃん』を不幸にしている張本人なのよぉっ!!」
 ブリジットがまた、朱音の胸元を掴んだ。
 天使の力の無いただの少女の非力な、悲哀と悔しさの込められた力だった。
「どうして! どうしてアンタみたいに強い奴がっ! 強いんじゃないの!? あの子の支えなんじゃないの!? 誰がどうとか、分かってないくせっ……! くせにっ……! 何も分かってないくせにぃっ! 何でもっとあの子のことを考えてあげなかったのよっ! 雛菊がっ! あの子がアンタのことどんな風に言ってるか判ってんのっ!?」
 どすっ、どすっ、と。
 握った拳を胸板へと叩きつけられる。
 朱音はそれを避けることも、防ぐことも、どうすることさえ出来なかった。
 力なく、ただ壁に寄りかかって立っているだけで精一杯だった。
「『泣いて、許しを請うみたいに謝る私を許してくれた』って! 『朱音ちゃんならきっと熾織ちゃんのことも解ってくれる』って……! 『また、三人で映画を観たい』って!! 『三人とも笑顔で居られるようになりたい』、て……」
 そのまま、ずるずると膝から座り込んでゆくブリジット。床に両手を突いて、嗚咽を噛み締めていた。
 それを見下ろし、朱音は小さく、潰れたような声を出した。
「……わか、るかよ……んなの……」
 今にも泣いてしまいたかった。
 だけど、それをしてしまったらあの絆は二度と戻らない気がした。
 朱音は人間だ。ただの人間だ。彼等にとっての赤の他人。
 その思想に同意するもしないも自由。
 だから朱音は、疲れたような視線をクロトに向けた。
「それでも俺は……俺は、どれだけ絶望的な確率であっても……熾織を貶めたのはヒナだなんて、思いたくない……思ってたまるかよっ……」
 クロトは、ぴくりとも表情を変えなかった。
「俺は、……俺はお前等を敵に回してもっ……熾織を取り戻す。ヒナと三人で、日常に戻ってみせる!」
 苦し紛れで、説得力の欠片さえない根拠の見えない言葉。
 クロトは少しだけ眼を閉じて、首を一度だけ横に振った。
 朱音は早足で部屋を出た。
 今すぐ、熾織を止めなくてはならない。
 そんな間違った矜持など、あってはいけない。
 だから、思いの他その足取りは速かった。


 取り残された三人。
 始終口を開くことのなかった氏家を一瞥し、口を開く。
「ぼさっとしないで下さい。すぐに監視体制を配置。御門熾織を追いなさい」
「は、……はい」
 首を竦めてどこか情けなく部屋を出てゆく氏家。
 扉が閉まり、静寂にはまだすすり泣く音が木霊していた。
 クロトは静かに歩み寄り、ブリジットの肩に手をかけた。
「彼が自分の思想が間違っていることを知るのは、時間の問題と言えましょう。貴女は少し安静にして待機していて下さい……それから、すみませんでした」
 俯いている金糸の髪が、横に揺れる。
 それを確認して、クロトは目を薄く細めた。
 さすがにそろそろ立ち上がらせるべきだと思い口を開いたが、
 唐突に、仕事机の脇に置いてある電話からコール音が鳴り響く。
 クロトは間の悪いコール音に眉根を寄せながら、ブリジットから離れて電話を手に取った。
「理事長です。何の用件――」
『クロト理事長っ! 緊急厳戒態勢発令(エマージェンシー・オン)!! 「残留」を用いた限定空間内の次元反転反応感知! 異能力間戦闘(アラート・イエロー)が展開されているのでありますです!!』
「――、場所は」
「霄壤学園の屋上でありますです!!」
 あまりに静かな部屋であるだけに、その甲高い声は目元を真っ赤にしているブリジットにも届いていた。





 朱音は渡り廊下に辿り着き、早足で生徒達と擦れ違ってゆく。
 まだ、頭の中はぐちゃぐちゃだ。まるで油を流し込まれたように、重く粘り気を帯びたような意識で、辛うじて校舎を目指している状態であった。
 確かに、頷けないわけではなかった。
 その一言でほぼ全ての合点がいく。
 雛菊の制約。
 触れた者の祝福――幸福を奪ってしまう。
 それにより誰よりも接触を行っていた二人の祝福は見る見るうちに消失する。
 姫宮朱音という存在を思い出せ。
 この人間は朝から幼馴染を起こすために陽も昇っていない頃に起きて、身の回りの世話を焼かされていた。
 同じ男にはキツい視線で睨まれたり、
 女子からは何か公認的な空気が流れ、
 そうして、その犠牲者に賀上洋介が選ばれた。
 何も気づかない不可抗力。
 しかし不可抗力とは言い換えれば、運が悪かったことを意味する。
 御門熾織という存在を思い出せ。
 この人間は受験の準備をしている内に母親を亡くし、それを二人に支えてもらっていた。その絆の為に変な男口調なんかするせいで二つ名は『戦姫』。
 でも、それが生きる気力になった。
 もう、失いたくないと心に誓った。
 それでも、たった一人の家族でさえ奪われた。
 顔も知らない通り魔の手による災難。
 しかも、彼女はその怒りと絶望によって偶発的にも邪神(サクリファー)を引き起こした。
 その災難も偶発性も、言い換えれば単なる運の悪さ。
 確かに二人はとんでもない苦悩を過ごした、常人とは境遇の違う子供だ。
 それでも朱音も熾織も頑張った。
 無理矢理に明るく振舞うのではなく、強く生きようと誓い合った。
 だから、過去のことなど運が悪かっただけに過ぎない。
 ただ、運が悪かっただけ。
 なのに、
 それは、
 絆を誓い合った幼馴染の手によって引き起こされて――、
「嘘だっ!」
 視界の端に映っていた柱を殴りつけた。通りすがっていた二人組みの女子生徒がビクン! と怯え、ひそひそと耳打ちながら早足で去ってゆく。
「痛っ……」
 朱音は顔を歪め、殴った右手の甲を見下ろす。
 そこは赤く血が流れていた。そういえばついさっきも紙で切ったのを忘れていた。
 舌打ちをして傷口を舐め、朱音は再び歩み始める。
 だが、今の痛みを思い出すのと同時に、頭を切り替えるのが出来た。
 そう。
 確率の話だからこそ、この事件の要因はまだ二択のはずだ。
 熾織が堕ちてしまったのは雛菊なのか。
 または本当に単なる不幸なだけなのか。
 その二つだ。
 【結社(アカデミー)】は前者を答えとして選んでいる。
 彼女を、制約で人を不幸にしてしまう彼女を知っているからこその判断だ。
 しかしそれは無責任な罪の擦りつけではないことは、分かった。
 重荷を背負うことを厭わない。だから彼女達は前者を出せたのだ。
 その証拠に、まだ人間味を帯びていることを自覚しているブリジットは涙を流した。全てをぶちまけた。
「……ちくしょうっ」
 焦燥に朱音は渋面を作った。
 もう、解った。充分すぎるほど理解した。彼女達が前者しか正解に出来ないことは、この腐った脳でも受け入れることは出来た。
 だが、それでも朱音には後者を選ぶことしか出来ない。いや、しない。
 雛菊は幼馴染だから。
 熾織は親友だから。
 家族を失い、ただ盲いた心で暗闇を手探りで生きていた三人。
 やっと繋ぎ合わせたその手を、放すわけにはいかない。
 だから朱音は雛菊と熾織を共に味方だと信じたい。
 答えは出た。
「……俺は、」
 熾織を止める。
 二人の殺し合いなど、有り得ない。考えられるわけがない。
 きっと二人もその前者の答えを追い求めるせいで、再び前が視えなくなったに違いない。
 迷うならば、導くしかない。
 支えること。それが、朱音の使命。絆というあの日の約束。
 朱音は意を決するようにして吹き抜けの渡り廊下を歩き終え、校舎に入ろうとした。
「姫宮!!」
 途端、後ろから大声で呼ばれた。
 振り返る。白いスーツに身を包む男性、ついさっき別れた氏家であった。
 彼は血相を変えて何かを言おうとこちらへ走ってくる。
 怪訝な顔でそれを待とうとした朱音は、何気なく浮かせていた右足を最後の一歩にしようとしていた。
「待てっ、姫宮――」
 その最後の一歩が、
「――そこから出ろ!!」
 校舎に入る一歩だと気付くことが、朱音には出来なかった。

 ゴゥン――!

 質量の同じ重い金属同士がぶつかり合うような、腹に響く轟音。
 それと同時に、目の前に黒い壁が降ってきた。
「……、っな!」
 朱音は言葉を失った。
 校舎と渡り廊下、正確には外側とを遮断するように黒い壁が生じ、半透明の壁の向こうに視える渡り廊下にはこちらへと走ってきていた氏家が居なかった。
 それだけではない。
 振り返ると、廊下を歩く生徒の姿は向こう側まで一人として居ない。月明りさえない真夜中の学園の景色が、朱音の前にあった。
「これ、は……!」
 言葉を失っていた朱音は、しかし動転はせずに居られた。以前に同じようなものを見ているからだ。
 空間の反転。
 定められた領域を丸ごと引っくり返し、因果の裏側に相手を引きずり込む。
 ブリジットや昴流から説明された非日常が脳裏に蘇る。
 つまり、巻き込まれた者と外界側との空間が完全に別物であり、入ることも出ることも不可能の監獄が出来るらしい。
 逆説、空間の反転した中心に必ず因果の捩れを常に保つ為の物や人が必要であることも。
(誰が――)
 朱音の疑念は、頭上から轟く音の残響で掻き消えた。
 遠くからの音だが、静かなだけにそれはよく聴こえ、そして頭上という点が何を意味しているかを、朱音は瞬時に悟っていた。
 上には、屋上がある。
「熾織……!? 嘘だろっ!?」
 朱音はその言葉を漏らし、一気に階段を駆け上がった。


 ドズン! と鈍い音を立てて鋭い一撃がコンクリートを穿つ。
「ぅ、あぐ……っ!」
 弾丸にも近い威力を捌き切れず、雛菊はフェンスに激突してしまった。ずるずると力なく座り込みそうになる足を掴んで、奮い立たせる。
「……朝生雛菊。何故向かって来ない?」
 ゆっくりとした足取りで、熾織はそう切り出した。
 既に彼女の風体は霄壤学園の濃紺のブレザー姿ではない。
 正確には着ているようだが、上に漆黒のローブを羽織って全身を隠している。飾り気の殆ど無い質素な格好で、目深まで被れる大きなフードは外していた。
 暗き月夜に照らされた屋上。
 紡ぐのは単純な音色の連鎖。
 まるで、死神を彷彿とさせる世界がそこに広がっていた。
「『種を蒔いたら花が咲いたの。赤い赤い、触れる指も傷付ける綺麗な薔薇が』」
 静寂を突き破る清涼な唄。
 瞬間、熾織の足元の黒いタールのような影が蠢き、一本の細く鋭い荊と化す。
 ヒュン! という空気を裂いて飛んでくる音に気付いた雛菊は咄嗟に全身を低めてやり過ごす。
 鞭のようにしなる荊は、フェンスにぶつかった途端にガガガガッ! と物を削り落とす音を立てて通過する。神経まで削るような騒音にぞっとした雛菊が前へ移動しようとした直後、足元にブーツが視えた。
「――っ!」
 見上げることまでは出来た。
 だが次の瞬間には視界が黒く塗り潰された。
 顔面に、膝蹴りを喰らった。
「が、ふ……っ!?」
 脳髄の奥にキィィンと金きり音が鳴り響き、眼前に火花が散る。左頬に突き刺さった鈍器のような一撃に口腔内に鉄と塩を混ぜた気味の悪い味が広がる。
 一瞬の視界を奪われ前に踏鞴を踏む雛菊のブレザーの襟を掴み、熾織は強引に雛菊の顔を上げさせた。
 鼻先数センチの場所に、かつての親友が感情の無い一瞥をくれていた。
「ぁ、っかは……」
「何故攻撃しない? 連中の計画における最強の代行者という話は聞いている。勝てる見込みなど無いまま意を決したというのに、その体たらくは何だ?」

 『君は女の子らしい顔なんだから、傷なんか創っては駄目だぞ?』。

 かつての親友が、雛菊へ釘を刺した淡い我侭だ。
 その言葉を忘れたわけではないのだろう。
 そして、覚えているからこそ、分かっていて顔を蹴った。
 しかしそれを理解しきれる雛菊ではなく、目の前で平然と見下ろしてくる熾織に何も言えずに立っているのが精一杯だった。
「まさか僕が親友だからという理由で手を出さないつもりではないだろうな」
「し、……おり……ちゃん」
「やめろ。その名で呼ぶな」
 襟を掴んでいた手を胸倉に変えて、恐喝でもするかのように引き寄せる。
「朝生雛菊。貴様は僕の敵だ。僕は貴様の敵だ。障害で、仇で、そして宿命の敵同士だ。何故躊躇う? どうしてその名で呼ぶ? 答えろ朝生雛菊」
「そん、な……熾織ちゃん……!」
 血の滲む唇を歪ませ、雛菊は熾織の腕を払おうとする。
 だが、手首を掴もうとして伸ばした腕を逆に掴まれ、雛菊の視界は一気に反転した。
 真っ逆さまの視界。天にコンクリートの地面。吸い寄せられるのも天へ。
 単調で一方的に破られていた静寂は、大きな怒号で掻き消された。
「僕を『熾織ちゃん』と呼ぶな! 朝生雛菊!!」
 ――、ゴギンッ……!
 大量の血液が詰まった肉の塊が、重力と自重と一人分の体重と常人を超える腕力とが合わさって生まれる勢いによって、地面へと落とされた。
 辛うじて上体を捻って肩を着地点にした為、首がへし折れることは免れた。だが、元々年端もいかない少女の肉体が打ち身程度で済む筈が無い。
 壮絶な音と共に肩に熱と痛みが猛烈に襲い掛かった。
「――ぃ、」
 雛菊が初めて聴いた音。
 肩の関節が、外れる音。
「ぁああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああっ!!」
 ピアノの高音キーを纏めて殴って鳴らしたような、甲高い悲鳴が響いた。
 組み手の動きで破壊した肩側の腕から、手を放す熾織。
 見下ろす表情は一転して、悲痛と慈悲が綯い交ぜになった顔だった。
「やめろ朝生雛菊! 僕にはもうその名で呼ばれる価値は無い!! いつしか褒めた貴様の綺麗な顔に膝を入れ、首を掴みっ、未だかつて無い視線で貴様を視ている僕に! その名で呼ばれる価値なんてもう無いんだ!! 何故分からない!? 何故戦わない!? まるで僕の攻撃を総て受けるつもりのように! 貴様の背に在るその翼は何の為に広げられているというんだ=c…!!」
 叫びの雨に打たれる雛菊は、激痛に左肩を右手で支えて身を捩る。
 背に浮かぶ純白の翼が、彼女の精神に喰らいついた痛みにより明滅する。
 常人より強化された身体能力。
 常人より迅速すぎる治癒能力。
 一度として、熾織にそれが『武器』として向いた試しがない。
「戦え朝生雛菊! 天使の代行として! 僕をっ……闇姫(ディーヴァ)をこの世に生んだ元凶としてその宿命を背負うと誓うならば、戦うべきだろう!!」
 フェンスに手を掛け、雛菊はゆっくりと背もたれて立ち上がる。
 漣のように弱まってはぶり返してくる激痛に脂汗を掻き、青ざめたその顔を熾織は見つめる。正面から、真っ直ぐと。
「僕は戦うと決めた。何よりも貴様との……いや、君との約束を守り抜く為に。この身を貶めたのが君だというのなら、僕はここで引くわけになどいかない。ただの馴れ初め合いの安い関係を遥かに凌駕した……親友だから」
「熾織、ちゃ……」
「そして何より、僕は朱音が好きだから」
 雛菊ははっとした顔を上げる。
 その少女の表情には、羞恥と、それを上回る感情によって赤くなっている。
「僕は君の親友だから。だから気付いているに決まっていただろうに……君の気持ちも。そして君も、僕と同じようにこの絆が壊れることが何よりも怖くて、朱音に面と向かって言うことが出来なかったことも」
 熾織はローブをはためかせ、足元の影をブーツの爪先で叩く。
 タン、という乾いた音に呼応するように、ずるりと影が競り上がり、やがて一振りの人間大はある大鎌が熾織の手に握られる。
 全身が漆黒で距離感を失う兇器。先端の鋭利な刃が空気を裂き、クルクルと綺麗な弧を描く。
「でも、負けるわけにはいかない。朱音のことを好いているこの想いは決して偽りではないから。たとえそれが……朝生雛菊、貴様を敵に回しても」
 ヒュイン、と虚空を引き裂く戦慄の音色を呆然と見つめ、雛菊は口を開いた。
「熾織ちゃん……本気なの……?」
「ああ」
「本気で、私を殺すつもりなの……?」
「……無論」
「……朱音ちゃんのことも」
「くどい」
 遮る熾織の表情は、再び色の無いものと化している。
 雛菊は脈打つ痛みから手を放し、全身を脱力させた。
「……痛いよ、熾織ちゃん」
 まるで囁くような声であった。
「でも……それよりも、……痛いよ、熾織ちゃん」
 上げた顔。
 そ表情は、泣いてしまう一歩手前だった。
 それでも熾織は、決して眼を逸らさなかった。
 雛菊はぐっと瞼を閉じて、歯を食いしばる。
 そうして黙る込むこと数秒。
 無言が続くことに感付いた熾織が大鎌を振り上げる。肩に柄を掛け、一気に間合いを殺そうと体勢を低くする。
 対する雛菊は、目を閉じたまま深呼吸を繰り返し、
(クロトさん……ごめんなさい。神術を使います)
 一気に腕を動かした。
 両腕を。
「ふ、っう……ぐぅうううううっ!」
 肩が外れたままの左腕が動くわけがない。雛菊は右手でだらりと垂れ下がっている左手を掴んで無理矢理持ち上げた。ギチギチ、という硬い音と共に頭が真っ白になるような激痛が左肩に集約するが、それでも雛菊は両手を胸元に寄せた。
 少しずつ、左手に力を込める。掴んでいる右手と指を絡め合い、力を込める。
 そして、
「―――――――。」
 雛菊が、小さく何かを口にした。
 振り落とされた大鎌の切っ先が、躊躇うことなく首筋へ突き立てられる、

 直後まで、熾織は心のどこかに勝利を感じた。
 雛菊が壊れているはずの左手で大鎌の刃を掴むまでは。

「なっ!?」
 白い指先が、黒い切っ先と接触する。
 明滅を起こしていた翼が、爆発的に煌いた。
 左手が大鎌が創る斬撃性に切断されるよりも早く、大鎌が崩れ落ちた。
 しかも、部分的な破壊ではない。大鎌が先端から全身へと粉のように掻き消え、地面に落ちて消え去る。
 熾織は踏み込んでいた足を蹴って後ろへ下がる。両手に残る感触から視線を戻し、距離を取った。
「貴様、何をした……」
「――黙秘、ただし御門熾織には発言許可が下りている模様。解説開始」
 突然、答えだした。
 雛菊の口から、
 あまりにも無機質的な声が、
「御門熾織の能力は影や闇に物理的具現を起こし、武器にする戦闘を得意としていると判断。物理的に接触する因果を持つのならば物体としての慣性の法則、及び硬度、密度の構築情報を操作し、能力を行使。以上の解説で宜しいか質問」
「……、貴様……誰だ?」
 熾織は訝しむ顔つきをして、低めた声で訊いた。
「神名、エヘイエーと回答」
 雛菊だった者は即答する。
「ナンバーネームMetatron。第一セフィラ、王冠(ケテル)を守護する者と付属」
「メタ、トロン……!」
「空間の反転軸差基準82.3%。亀裂、及び歪曲の自動修正率ランクAマイナス。封鎖結界としての性能は高レベルと賞賛。物理的に次元の断層付近まで接近しなければ破壊も透過も不可能と判断」
 教科書の朗読よりも感情の篭っていない声。とても雛菊の口から出ているとは思えない。
 熾織はマントの懐から一本のナイフを抜いた。銀製の飾り気が少ない短剣。
「ヒ……、朝生雛菊は何処へ遣った!?」
「人格的表現を用いるならば、固体精神『アソウヒナギク』を深層域に固定。意識は睡眠状態に在ると回答。現在表意している人格は『アソウヒナギク』が昏睡時に補完されている予備感情を元に創り出された単なる反射≠ニ説明」
「……気絶している、ということか」
「有態な表現ならば、寝言や寝返りと同義と助言」
「ふふ……何だ、いつものだらしなさと変わらないな」
「いつもの『アソウヒナギク』とは何かと不明。元より現状把握の優先順位に則り、戦闘態勢の準備を行使」
 ゆらりと一度だけ体をふら付かせた直後、メタトロンは左腕を上げる。
 ゴギッ……ゴ、グン……!
 握れば折れてしまいそうな華奢な肩から身の毛もよだつ音が響く。
 しかしメタトロンの表情は一切変わらず、まるで凝った肩をほぐすような仕草で右手を添え、左腕をぐるぐる回す。外れた関節を強引に戻し、再度熾織を見据えた。
「物理的身体状況、正常域に達した事を確認」
 途端、メタトロンの姿勢が一気に低まった。
「戦闘を開始」
 タン、と地を蹴る音と共に熾織の懐に入り込もうとする。
 だが熾織も既に張っていた気を緩めたわけではない。
 伸ばしてきた手に絡めるようにして、半歩後ろへステップを踏む。引っ張られて体勢が崩れたメタトロンは足を払われ、再び体を投げ飛ばされた。
「驕るな、天使風情が……!」
 地面に背を打ちつけたと同時、逆手に持ち替えたナイフを垂直にメタトロンの首へ落とす。斬首の切っ先が綺麗な軌跡を描いて飛来する。
「原子番号47、純度95.24%、銅の合金性感知、スターリングシルバーと解析」
 仰向けに倒れたメタトロンは落ちてくるナイフの刃を迷うことなく掴み、
「情報展開、液体濃度クラスF´に指定、方法『溶解』――初源化を開始」
 白い喉へと切っ先が滑り込む寸前で、ナイフが突然爆ぜた。
「――っく!」
 咄嗟に手を放して後ろへ跳ぶ熾織。
 起き上がるメタトロンの着ている濃紺のブレザーの胸元に、白銀色の液体が滴っている。
「純度の高い金属すら破壊するか……それが貴様の能力か、メタトロン」
 叫び、熾織は足元に出来た影に自らの足を踏み鳴らして剣を取り出す。命中重視の両刃細剣が白い手に収められる。
 メタトロンは自分の胸元に手を添え、銀の液体に濡れたその手を軽く払った。
「正確には破壊ではなく分解と説明。詳細は対象物の確立経緯を逆に遡って、あらゆる現象現物に存在する因果を元に戻しているだけと付属」
「元に、戻すだと……?」
 熾織はそこで、はっと気付く。
 彼女の代行する天使が、何たる象徴としてあの計画に記されているのかを。
 そう、それは――、
「破滅と初源の天使、メタトロン……触れるモノ総ての因果を崩壊させ、万象須らくして始まりの状態へ戻す能力」
 考えればそれは、破壊力が有るなどという次元ではない。
 威力が圧倒的過ぎる。
 物体に対して裂いたり砕いたりするのではなく、物体そのものの情報を書き換えて分解したり溶解したり出来るということだ。銀は鉱石の状態を一度溶かして型に流して造る。つまりは鉱石、液体、刃物へと続く過程を持つナイフの情報を遡り、一度起きている液体の状態になった時間軸に戻されたのだ=B
 攻撃として数値化出来るものではない。まさに一撃必殺だ。
「唯一、生きているモノは初源化出来ないという欠点が存在すると懸念」
「だろうな、わざわざ距離を取って徒手空拳に持ち込まなくとも強引に突っ込んで来るはずだ。それに、」
 トン、と靴の先で地面を叩く。足元の影がズルリと湿り気を帯びて隆起する。
 ゆっくりと競り上がるそれを左手で掴み、熾織はメタトロンを見据える。
「そんな芸当が生きている者に適応するなら僕を能力ごと元に戻せるはずだ=Bその提案を出さないから私も貴様を攻撃しているんだからな」
「――、熟知度の確認。曖昧な詮索を謝罪」
「彼女の予備の人格なのではないのか?」
「否と回答。『アソウヒナギク』の記憶と知識をバックアップとして思考言動を起こしていると解説。御門熾織は睡眠時に意識して発言が出来るかを質問」
「出来ないな。寝言は寝ている時に言うから寝言と言うんだぞ、メタトロン」
「――、? 『アソウヒナギク』の知識に無い発言は控えるよう忠告」
「人の過失を戒めるにしては真心の無い『忠告』だな」
「真心という単語の概念も予備精神には不適応と回答」
「発言はヒナ合わせで回答はパソコンを相手か。時間稼ぎとはいえ面倒臭いな」
「――、『朱音ちゃん』のような物言いであるという記憶ならば保有」
 ピクリ、と熾織の肩が動いた。
 完全に姿を現した『それ』を右手に持ち替え、睨む。
「メタトロン、その名を口にするな」
「――、言っている事の意味の確に

 ズドン!!

 重い一撃がメタトロンの足元に飛来した。
 メタトロンは動きはおろか表情一つ変えることなく、視線だけを動かす。
 そこには、黒く細長い矢が深々と突き刺さっていた。
「貴様が『朱音ちゃん』と呼ぶなと言ったんだ、メタトロン」
 右手に握らされた漆黒の鋭利なフォルムの弓の弦が、羽虫の音のように余韻を奏でる。
 矢を放って手ぶらになった左手に、するりと影が滑り込んで矢を形成する。弦の撓りなどの情報が必要な弓と違い、矢の方は単純に硬化させるだけの上に体積自体はさして少なくない。恐らく彼女の言った時間稼ぎとは――、

「その名を……『朱音ちゃん』と呼んでいいのはヒナだけだ」
 宙にずらりと並ぶ数十本以上もの矢を用意するための猶予だ=B

「いくら攻撃を消滅出来ても、情報を読み取る暇も無ければ防げまい!」
 偽りの満月を背に負う熾織は、左手で弦を掻き鳴らす。
 弓特有の音色は聞こえなかった。それ以上の空を裂く矢の雨が振って来た。
 メタトロンはここで初めて人間らしい動きを取る。横にステップを踏んで第一波を避ける。横合いへ避けることを読まれていた第二波を、地面に片手を突いてグルン! と方向を変える。一歩遅れたら原型も無い、そんな怒涛の轟音が鳴り響く。まるでマシンガンだ。
「逃がさん!!」
 ターンで避けきった右脇に立ち居地を変えた熾織が弓を握る左手をこちらへ向ける寸前に、メタトロンは地面スレスレへ頭を横切らせて熾織の照準から巧く掻い潜る。
 熾織は苦い顔をして一度前へ詰め寄る。弦から手を放し、一歩踏み込むと同時に側頭部へ蹴りを入れる。
 メタトロンは視界の端から奔ってくる蹴撃を左腕で防ぐ。重い一撃だが姿勢が低いために体勢は崩れない。そのまま熾織の軸足を掴んで一気に引いた。
 重心を奪われて頭から倒れる熾織。だが空いている右手を突き、横回転。遠心力を利用して再び蹴りを放つ。
「――、!」
 これには対処が遅れ、防ぐ腕に力が入る前に爪先がこめかみへと突き刺さった。苦悶の表情こそ表さなかったが、メタトロンの視線の先が熾織から外れる。
 一瞬の空白の直後、メタトロンの鼻先数センチの所に弓に矢を掛けた熾織が片足を折り曲げもう片方の足を伸ばすという不安定な格好から弓を引いた。
「貰ったぞ、最強……!」
 右手の指が離れる寸前、
「――、セメント、骨材、水、化学混和剤の配合率情報展開完了。方法『分解』」
 メタトロンが抑揚の無い声で言った。
 初速二百キロを超える黒塗りの矢が外れた。
 メタトロンの姿が消えたことで=B
「何ぃっ!?」
 すぐそこに居たはずの姿が無くなり、熾織はギクリとして視線を落とす。
 そこには、ぽっかりと開いた人一人は通れる穴が見える。
(しまったっ、コンクリートを――)
 今度は熾織の動きが止まった瞬間、後ろからズザー! と砂の流れる音が弾けた。足元をモグラのように掘り進んで背後へ回ったメタトロンの手刀が、熾織の首筋を狙う。

 はず、だった。
「熾織っ! ヒ――、ナ……?」
 有り得ない人物が、屋上出入り口の扉を蹴破って現れたせいで。

 ビタァッ!! と、メタトロンの一撃が寸での所で停まる。
 予備として稼動しているはずの記憶と知識の応用精神が、揺れ動く。
 『御門熾織を戦闘不能にする』という命令文が、刹那の内に白紙にされる。
 『とまれ』
 『ふりむけ』
 『かくにんしろ』
 急浮上する意識が、乱雑で乱暴に命令文を書き換える。
 次々と書き換えられてゆく命令文を、メタトロンは忠実にこなす。
 そして、振り向いた。
 誰かを確認した。
 それは一人の青年。息を切らし、汗ばんだ顔でこちらを見て硬直している。
 メタトロンとしての精神が、疑念や疑問を練り、処理しようとする。ここは空間を反転した内側の領域だ。外からの介入は勿論の事、範囲内に入っている者も異質として適用されなければ日常側に弾かれる。今もこの表側の屋上では、思い思いの仲間を作って昼食を摂りながら喋っているだろう生徒達の風景が広がっているはずだ。
 いや、違う。
 訂正が入り、視界の端に映る漆黒の衣の姿意識する。
 恐らく彼女が狙ったのだ。校舎の中へ入った瞬間を見越して空間を反転させ、彼だけを限定して反転の内側に巻き込んだのだろう。
 という答えが、ガギギジジジッ! とウィルスに侵されたパソコンのように異音を奏でて壊れてゆく。
 そして、メタトロンの瞳から生気が徐々に戻ってくる。
 機械として稼動するメタトロンの根源。
 人間として思考する一人の少女の人格。
「――、あか……ね……ちゃ

 その覚醒が、
 その油断が、
 一瞬で翻されたマントによって不意を衝かれる。

 弾かれたように振り返る雛菊の顔に、マントが絡みつく。我武者羅になって足掻く雛菊のその腹部に、
「……卑怯を許せ、朝生雛菊」
 熾織の一撃が入った。
 全体重を掛け、下から一気に持ち上げる動き。
 その腕の先にはまだ、黒塗りの大きな弓が握られていて、
 熾織はその弦を盛大に掻き鳴らした。
 矢は構えておらず、それでも弦から放たれる衝撃だけが波状となって突風を創り出す。それは雛菊に直撃し、軽い肢体が天高く吹き飛ばされてしまった。落下防止用フェンスを軽々と越え、雛菊の姿が校舎裏へと落ちて、消える。
「し、――」
 熾織は、歯を食いしばった=B
 これから起こるであろう怒号に耐え切れるか、不安だったから。
「熾織ぃぃいいいいいいいいいいっ!!」
 青年、姫宮朱音の叫び。その名を呼ばれる意味。痛み。
 思わず熾織は瞠目した。じくり、と胸に染み渡るどす黒い感覚を何とか受けきる。彼女は憤怒(ラァス)の禍喰(シャッテン)によって覚醒した能力者だ。故に、能力を行使すれば周囲の怒りに作用されて思考することが巧く出来なくなる。ある程度慣れたとはいえ不安は拭えない。もし失敗してその境界線を見誤れば、待っているのは賀上洋介と同じ、自我の消失と無意味にして無秩序な背徳に染まる自分の姿だ。
 だから揺らぐわけにはいかない。
 誰よりも好きな、人のせいでなど。
 絶対に。
 だから、
「遅かったな。待って居たぞ」
 振り向いた時にはもう、御門熾織は闇姫(ディーヴァ)になっていた。
 朱音は気が動転した顔で熾織とフェンスの方とを見ていた。それに気付いた熾織は簡潔に答えた。
「ゴミ収集所の上に落とした。よしんば天使化が解けていても死にはしまい」
「そっ……、お前……!?」
 熾織は携えていた弓を放す。重力に従って落下する弓は、ドプン、という小気味良い音と共にまるで水面に沈むようにして熾織の足元に溶けて影となった。
「熾織……何で、だ……、何でっ!?」
 一切表情を崩すことなく熾織は再び簡潔に答えだけを口にする。
「朝生雛菊がそう選んだからだ。僕の、敵になると」
「……っ!」朱音は目を見開いて息を呑んだ。「……ヒナが? お前と?」
 信じられない、と言いたげな表情。思わず笑んでしまいたくなった熾織は、それでも頑なな態度を示した。
「僕が邪神(サクリファー)によって禍喰(シャッテン)に干渉出来るという奇特な能力者に覚醒めたのは、他でもない自分の制約が原因だと。僕自身が尋ね、彼女が正と答えた」
「それが……一体なんの――」
「解らないのか? 朱音」熾織は冷静な声で諭す。「僕がこうして異能を行使しているのは彼女のせいだ。そうなれば僕は僕を不幸にした彼女を許すわけにはいかない。何より、僕が戦いを放棄すればこの不幸は総て僕だけの重荷になる=B彼女がそれを望むと思うか? 自分のせいで闇へと堕ちたことを、『大丈夫』の一言で終わりに出来るか? ……彼女は出来ない。優しい子だから。救うはずの力で親友を穢し、壊した事を絶望するに違いない。だから僕は彼女の為に、彼女を忌むという道を選んだ。双方の選択が同じ方向性を向いたというだけだ」
「そ、そんな理由で……? ヒナを攻撃したのかよっ」
 再び、憤りを含めた尋問めいた声で朱音が問う。
 熾織は一度目を閉じしばし考える素振りを見せ、しかし即答出来たはずの言葉を吟味してから、瞼を開き答えた。
「理由には、うってつけだ」
「なっ――」
 絶句する朱音を見据えて、熾織は右手をすっと差し出した。距離が離れてなければ、それが握手を求めるようなジェスチャーだとすぐに気付く。
 しかし、差し出されたその手が意味する重みは、次元が違った。
「朱音。僕と一緒に来てくれ」
「熾、織……?」
「僕は朱音を敵に回したくはない。出来ることなら朱音に、傍に居て欲しい」
 なっ……、と朱音は一瞬言葉に詰まる。彼女の突然の告白のような物言いに思考が乱された。
「この能力も使いようによっては誰かを護ることが出来る。出自に直接の関係が無い禍喰(シャッテン)でも回収出来るこの力なら、代行者達の組織の軍門に下らなくとも人々を救う事が可能だ。朱音がその気なら僕の力の支えになって欲しい」
 手招きをするように腕を伸ばす熾織。その表情は穏やかで、まるで微笑んでいるようにも見える。
 だから朱音は唾を飲み込み、頭を振った。
「待て、よ……それなら何も敵を作る必要なんか無ぇじゃねぇか」
「……、」
「お前こそ来いよっ。【結社(アカデミー)】の連中だって話せばきっと解ってくれる……! 俺がお前を必ず護っから。な? 行こう」
 逆にこちらからも腕を伸ばす朱音。
 彼女を救うために、そして、この絆をもう一度取り戻すために、朱音は――、
「……朱音。何を言っているんだ?」
「え……?」

「仲間を殺された組織が、受け入れる道理が何処に有る」

 全身の体温が、一気に下がった気がした。
 あまりに有り得ない言葉が彼女の口から聴こえ、鳥肌が立つ。
「……お、前」
「言ったはずだ。僕も彼女も、もう選んでしまった。もう、戻れないんだ」
「そん、な……冗談だろっ!?」
「……」
 愚問だと言わんばかりに、熾織は無言で見つめていた。
 朱音はそこでようやく、自分の脚が震えていることに気がついた。
 頭の奥で深く理解出来ている意味。
 それは心の奥で否定を叫び、無かったことにしようと必死だった。
 もし、二人が翻意してくれたなら。
 そんな後悔からくる怒りが、彼女のその一言で、冷水を掛けられたように、急速に熱を失ってゆく。
「熾織……」
 呼ぶ。
 名を。
 親友の名を。
 しかし、闇姫(ディーヴァ)は応えなかった。
「選べ、朱音」
「え、らぶ……?」
「僕と、彼女。どちらの味方につくのかを、だ」
「――っ、」
 夜の帳が下ろされる屋上で、熾織は冷徹に選択を求める。
「無論、僕と彼女はどちらかが死ぬ運命にあると言っても過言ではないだろう。だからこそ君がどちらの側に着くかで、この勝敗は決まる」
「俺が……?」
「見放された方が心を失うには、君は充分過ぎる存在だということだ」
「お前っ……何を!」
 前に出ようと右足を上げた。
 刹那、
「動くな、姫宮朱音」
 声が、すぐ真横。耳元から聴こえる。思わず体が硬直した。
 一瞬の内に間合いを殺された朱音の懐に、熾織はある物を突きつけた。
 何か、を確認することも出来ない。物によっては引き金一つ引けば殺されるかも知れない。
 どうすることもなく微動だにせずにいる朱音に、しかし熾織は手首を掴んで腹に押し付けている物を握らせた。
 感触は、荒い目の布で覆い、細い黒塗りの紐か何かで梱包する手軽な筒状の姿であった。
 視線を落としそれを呆然と見つめる朱音の耳元で、熾織は聞いている人間も居ないのに小声で言った。
「その中には、この戦いを終わらせる為の武器が収めてあるそうだ。入手先も何も教えては貰えなかったが使用方法は一つ」
 朱音は片手の手触りだけで、何が包まれているのかに気付いた。
 細い筒のような部分、何かで遮ったような突起が左右に分かれ、その先は細く鋭利。
 そう、その感触は正しく――短刀。
「刺された者の禍喰(シャッテン)を殺す力が有る。尤も、回数的にも使い捨てだそうだ」
「え……、」
「無論、既に侵食されている僕自身も死ぬようだがな」
「なっ……!?」
「当然だ、僕は代行者とは創りが違う。初めから意味を成して魂の器に居座る代行者の天使に対し、禍喰(シャッテン)は人の心の闇に巣食う。寄生虫と同じであり、一度寄生されれば、切り離すことなど不可能だ。異能力者が人間に戻る時、それは、同化している命諸共潰される時だ」
「嘘、だろ……」
 茫々とした問いに、まるで救いを希うような色が滲んでしまう。
 それに、熾織はふっと微笑を浮かべた。
 呆れたように笑うような、
 いつもの、
 笑顔が、
 すぐ、そこに。
 あるというのに。
「朱音。選んでくれ。僕と、ヒナ……二つに一つしか救えない命、君が選べ」
「熾織っ……おま――」
 叫び、空いていた手が反射的に彼女の肩を掴もうとした、直前、
 ビギンッ……!
 竹を割ったような乾いた音が炸裂し、宵闇の空に亀裂が奔る。そこから、木漏れ日のように差し込む光を見上げて、熾織は舌打ちをした。
「内と外とを遮断する断層を崩されたか、思ったより早い……このまま空間が壊れて戻れば再反転の影響を受けず、ヒナの怪我もそのままだ。いくら落とす場所を選んだとはいえ安心出来ない、すぐに行ってやってくれ」
 そう言って、黒いマントを翻して踵を返す。
「……っ、熾織!」
 思わず朱音は叫ぶ。それに立ち止まった熾織は振り向かずに言葉を発する。
「ヒナを怒るな。怒らないでやってくれ、朱音……」
 その声が寂しそうで、
 だから朱音は口を噤んだ。
 ――バキバキッ! と亀裂が入り乱れて天が引き裂かれる。
 その背が、
 果てしなく遠く、見える。
 ――ガガガガッ! と鉄板を殴打し続けるような轟音が響く。
 腕を伸ばした程度では、決して届きそうもない程、
 遠く、
 遠く、
 見えた。

「これは運命だったんだ。単に、僕の運が悪かっただけの、な……」

 最後の一言が耳に入った瞬間、白い極彩色の光が瞬いた。
 眼を焼かれて瞼を閉じ、ゆっくりと開ける。
 そこは、昼食の喧騒がまだ抜け切らない、昼間の屋上風景。
 あれだけの戦闘の傷跡は掻き消え、何事もないまま昼休みを過ごす生徒達のその景色に、朱音は親友の姿が無い虚空を呆然と見つめていた。
 すぐそこで、呆然と立っている朱音を不審そうに見る女子の固まりなど傍目にも入れず、朱音はそこではっと気付いて慌ててフェンスのほうへと駆けた。
 フェンスの網目に半ば突っ込むようにして飛びつき、ギリギリ見える下界を覗く。あまり見えないが、散乱したゴミ袋と、誰かの名を呼びながら近寄ろうとしている昴流の姿。
 愕然と見下ろすそこへ、今度は走り寄る金糸の髪の外人の少女は、屋上からこちらを見ている朱音に気付き、親の仇のように睨んで、視線を戻した。
 それに背筋が凍る感覚を覚えた朱音は、顔を真っ青にしてフェンスから弾けるように離れ、急いで出入り口へと走り出した。
 既に遠くから、救急車のものらしきサイレンの音が聴こえる。










 間幕     女性と少女の謝絶宣言





 一見して鍛えているようには思えない華奢な腕に拘束され、青年は病室から引きずり出された。
 それだけではなく、扉の向かいに面する壁に押し付けられ、首を掴まれる。殺意こそ無いが、その圧倒さは最近で首を掴んできた連中の比ではなかった。
 掴んでいる女性は黒いスーツ姿の男装の麗人。同じ色の黒い手袋に包まれた右手に握力を込め、灰色の瞳に威圧を秘めた無表情の顔を近づけていた。
「どうして朝生君にけし掛けたのですか? 貴方はどこまで自分勝手に動けば気が済むつもりですか!?」
 しかし、その無表情にどこか怒りのようなものが浮かんで、青年には見えた。
 人目を気にし、総合病院に彼女を運んだ女性と、その傍らで同じくこちらを睨んでいる金髪碧眼の少女。
 時間も時間であり、廊下を通り過ぎる往来が三人の作る剣呑な雰囲気に注目してはそそくさと去って行く。
 青年は首に女性の指が食い込むのに苦悶の表情を浮かべて答えた。
「なんで……なんであいつらが戦わなくちゃなんねぇんだよっ。もしもの可能性を捨ててまで、あいつらは自分達が運命の元に戦ってるなんて思うんだよ!」
 その声が、静謐な院内に響く。咄嗟に女性は握力をさらに強めて声を封じた。
「黙りなさい、彼女達はそうすることで互いが嘘を吐いてまで馴れ合うことを望まないだけなのですっ」
「何だよ、それっ……」
「彼女達は、こちら側の人間だからっ……!」
「……、」
 幾度と聞くことのない、女性らしからぬ荒げた声。
「ではどちらが尊いと御思いですかっ? かつての絆が原因で、それに決着を付ける為に優しさを捨ててまで親友に刃を向ける彼女達と、日常と非日常のラインを軽視して無遠慮過ぎるほど二人の決意を掻き乱している貴方と……!」
「俺はっ……軽視なんて――」
「ならば二人に選択を持ち出されたのは何故ですか!?」
「……っ」
 一際大きな声に、青年は開いた口を噤んだ。
「貴方を失いたくないからでは、ないのですか……? 朝生君も、御門熾織も、どうして貴方を前にすると非日常から逃げようとしたのか解らないのですか? 何故水伽橋で御門熾織は直ぐにも殺したい朝生君を前に逃亡したのですっ? 何故屋上で朝生君は御門熾織を前にも構わずメタトロンを封じたのですっ?」
 ただ一人の、何の力も持たない人間一人の、ために。
 ただ一人の、誰の心も知らない人間一人の、せいで。
 そうやって彼女達の意思を、決意を、揺らがせたのは、自分自身だ。
「ブリジット君が言ったでしょう!? 聞いていたのではないのですか!? どうしてあの二人のことを解ってあげようと思わなかったのですか? 救うだ護るだなど抜かし、その二人を有耶無耶にして今更取り返しの着かない問題を騒いでっ……! 彼女達の目的は最早善悪正否で図れる代物では無いのです! 一人の青年への想いとかつての幸せを取り戻す為の、二人の戦いなのですよ! 貴方の、ただの人間である貴方の付け入る隙など有りはしないのですよ!!」
 持ち掛けられた選択。
 朝生雛菊を選ぶか、
 御門熾織を選ぶか、
 二つの内一つしか選べない。
 その、意味。
 今なら解る。
 だから青年は戸惑った。
 そういった対象として見たことが無いというのも理由の内だった。
 けれど、
 顔を合わせ、
 下らない話をして、
 笑顔で、
 本当の笑顔で、
 そうやって、
 生きていけたらと、
 ただそれだけを、
 どれだけ思ったことか。
 どれだけ願ったことか。
 それだけで、良かったのに。
 どうして――、
「「……!」」
 女性と少女が瞠目した。
 青年は呆然としたまま、涙を流していたから。
 頬を濡らす雫が手袋に落ち、染まる。
 女性はそれが居た堪れなくなり青年の首から手を放した。
 ずるずると、支えを失った青年は壁に背を預けたまま膝を突いた。
「……どうすることも、出来ないのか?」
 ゆっくりと、リノリウムの床を見つめて青年は言う。
 形振り構うことを捨てた、惨めな姿だった。
 とても彼女達には、見せられない姿だった。
「幻想でも絵空事でもいい……」
 涙をぼろぼろと流し、遅すぎる後悔と懺悔に、救いを求めていた。
「俺は、あの温もりを奪い合うような世界なんて、嫌なんだ……」
 ポケットに突っ込んでいた物を取り出す。
 ほんの一時間前に、伸ばせば手が届く場所に居た親友からの、選択。
 異能を殺す異質の兇刃が、その布の中に有る。
 それを額に押し付け、しゃくり上げる嗚咽をかみ締める青年へ、女性はそれでも冷酷に幼馴染の味方をした。
 彼女は、どちらかなど選ぶことさえ出来ない。
 女性は何も言わず、一度少女を一瞥してから早足で廊下を歩いて、道を曲がってしまった。
 取り残される青年と少女。
 やがて、少女は口を開いた。
「何時まで座ってんのよ、だらしないから立ちなさいよ」
 青年は何も言わず俯いている。無様なその姿から、それでも視線を離さずに続けた。
「でも、クロトさんの言う通りなのよ」
「……」
「アタシ達はそうやって、誰かを救って何かを護るためには、代わりに誰かを犠牲にして何かを代償にしなきゃなんないのよ」
「……」
「……それ、何か知んないけど、二人を選ぶための物なんでしょ?」
 片手で持てるぐらいの小包を指差し、少女は言う。
 これは、かつての親友を異能ごと殺す力を持った、刃。
 知っているのは青年だけ。
 それを知らない少女は目を閉じて小さく吐息を零し、踵を返した。
「誰が悪いとか、何がいけないとか……そんなに大事?」
 ピクン、と青年の肩が揺れた。
 ゆっくりと、顔を上げる。
「こっち側の先輩として教えたげる」
 幼馴染と一人の代行者が居るその病室の戸に手を掛けたまま、背を向ける少女は言う。
「救う理由にそういうのは、一番要らない道理(モノ)なんじゃないの?」
「……」
 寂しそうに言う背中を、赤くなった眼で見つめる青年。
 戸を開け中に入り、すぐに閉まる。
 小さく、彼女が呟いた。
 わざと戸のレール音で紛らわせようとしたようだが、はっきり聴こえていた。
「……さっきは、メチャクチャに言って……ごめんなさい」
 パタン、という拍子のような音と共に、再び病院の廊下らしい静けさが戻る。
 一人座り込んでいる青年は、虚ろな瞳のまま、力無く立ち上がる。
 そのまま、ふらふらとした足取りで受付広間の方へと歩き出した。
 広間に有る、公衆電話へ。
 最後に、
 本当に最後でもいいから、
 親友と、話がしたかった。
 今はもう、それしか彼には出来なかった。










 Chapter.E     破戒の刻





 何かをするか、しないのか。
 何が出来るか、出来ないか。

 正か否かを決めるという概念でありながら、全く方向の違う選択肢がある。
 前者は既に起きている難題に、思案や翻意などの意味を捨て去った完全なる、『どちらかを選ばなければならない』立場。
 後者は、選択に至る以前の立場。
 以前の自分は、
 あの日。
 賀上洋介に襲われ、初めて非日常側の幼馴染の姿を目の当りにした、あの日。
 あの時までは、自分はきっと後者だった。
 何も知らず、何も出来ず、選択以前に自分が何かすることさえ異常であった。
 今は、違う異常であることを知った。
 最早自分は関係の無い存在ではなかった。
 むしろそれどころではない。
 選ばなければ、どちらかを取らなければならない立場であった。

 一方は幼馴染。名を朝生雛菊という。
 彼女は正に天衣無縫の一言に尽き、爛漫としていて天然。
 あどけないだけでなく、無邪気で幼稚園児のようにいつでもニコニコしてる、そんな可憐さが魅力の少女だ。時に周囲に騒動を起こして途端に困惑している姿が瑕の、しかし必ず笑顔を絶やさないことを約束した、強い、少女。
 失いたくない人を、――自分を、好きだと言った少女。

 一方は親友。名を御門熾織という。
 彼女は正に威風堂々の一言に尽き、頑固としていて燦然。
 顔は可愛いのに人称は『僕』で『君』、とても裏表の無い常に真っ直ぐな性格、そんな誠実さが魅力の少女だ。時に過去を反芻し見えない場所で消沈している姿が瑕の、しかし絶対に泣くことがないように約束した、強い、少女。
 失いたくない人を、――自分を、好きだと言った少女。

 共に、自分にとっては大切な二人。
 こっちこそ失いたくないと、いつか誰かを好きになる時まで傍らに居ると。
 誓いを、約束を交わしたのに。

 そんな、
 そんな二人が、
 選択を求めた。
 どちらかを見て欲しい。
 手を伸ばして欲しい、と。

 でも、
 選べない。
 どうしても、選べない。
 これ以上無いほど贅沢な選択に、
 躊躇うことさえ不必要な選択に、
 選ばれなかった者の、死さえなければ。

 どうして。

 答えが返ってくるはずがない問い掛けが、
 何度も、
 何度も、
 何度も……、

 繰り返される。










 クロトは一度理事長宅に戻っていた。昼間の騒動以来再び姿を消した熾織の追跡に当たっているシャルロッテの元へと向かっている最中であった。いくら親友としてのケジメがあるとはいえ、狙われた側は自分の部下だ。これ以上の暴挙を指を銜えて見ている訳にはいかない。彼女を攻撃した時点で、御門熾織という人間は日常を逸脱することを選んだという結論に、他ならない。
 地下二階の、主に【結社(アカデミー)】の行う任務の際に用いる階の奥にその自動ドアはあり、クロトが手前で立ち止まると同時にゆっくりと左右に開く。
 地下の薄暗いイメージを彷彿とさせるその闇色の部屋には唯一、映画でしか見ないような大きさのスクリーンだけが電子的な光を放っている。足元に散乱するコードが危なっかしい。配線ぐらいきちっとして欲しいところだが、日常生活の面ではクロトも文句が言えない。
 椅子に座りスクリーンを見上げ、コンソールパネルに不釣合いな細い十本の指を目まぐるしく走らせる白衣の幼い少女。彼女は背後から切り取るように出来た廊下からの光に気付いて振り返る。
「あ、おかえりなさいでありますです。雛菊さんの容態は……」
「落ちた場所が場所だけに、無理矢理に入院させる怪我でもありませんでした」
「ほ……それが何よりでありますです」
 胸に手を当てて心底安堵するシャルロッテ。彼女は椅子をまた回転させてスクリーンへ向く。クロトも彼女の近くまで寄り、顔を上げた。
「御門熾織は?」
「駄目です。ホテルやコンビニに入れば一発で発見出来るのでありますですが、さすがにたった五時間ではとても……」
「向こうもまだ捕まるわけにはいかないということですか……」
 クロトは右腕に巻いている高級そうな腕時計へと視線を落とす。仄かな光に照らされた三本の針が、もうじき六時を迎えようとしていた。クロトは小さく溜息を零す。
「こういう場合の緊急時に時任君が居るなら助かるのですが、さすがにそれは虫が良過ぎるようですね」
「まだ起きられないのでありますですか?」
「『視た』量は六日間分ですので、あと二日。手は借りれそうもないですか……」
 再び視線を上げるクロト。スクリーンには神凪町全域を現した地図に、現在発見されている電子情報を一気にトレースし、全部を覗き見るという荒業だ。いくら性能(スペック)が高いとはいえ、こんな怪物設備を扱えるのはIQ230以上を誇る頭脳の持ち主である、目の前の少女ぐらいのものだ。
 しかし、それでも依存している対象がホテルやコンビニの記録が残るものや、デパートの監視カメラや、公衆電話等の有線通信手段といった、人が極普通に生活する場所を索敵するだけでは簡単には見つからない。要は、人が生活するには不可能な場所に隠れればいいわけなのだから。
「やはり廃屋街か未建地区に……」
「可能性としては前者なのでありますですかと」
 シャルロッテはパネルを操作して居住区と未建地区との距離を換算し始める。
「北西に位置する居住区と南東に位置する未建地区では、位置的にも対角線でありますです。加えて廃屋街と違って未建地区は『手の施しようがない場所』ではなく『これから手を施す場所』、未建地区に行くにはオフィス街を経由する必要がありますです。それならすぐに見つかるはずなのでありますですが……」
「となれば消去法で結局は廃屋街ですか。治安維持を任されている機関が振り回されるとは……」
「よっぽど地形を知り尽くしていない限りは振り切れないでありますですよ。そういった意味では彼女は頭が良い」
 まんまとやられた。
 【結社(アカデミー)】は実質、『既に起きた事態』よりも『起こると予測される事態』に対処する機関だ。秘密裏に動かなければならないという条件が常に付き纏う為、少数精鋭派を維持するこの機関ならではの体制であり、同時に欠点でもある。
 このように突発的に起こる事態に対し人の目を気にしなければならないこちらは常に不利であり、何より、そもそも対人戦に向いている人間が少ない点も頭を悩まされている。組織間での対峙であれば情報戦としての真価を発揮する半面、完全な個人の理由で移動や襲撃をされることに、元来向いていないのだ。
 しかも、起こると予測される事態を先読みする為の切り札となっている代行者は現在昏睡状態で全く機能しない。
 御門熾織はその欠点を見抜いて行動している。能力だけでなく相当の策士だ。敵対関係でなければ間違いなく同盟か友好の関係を申し出たに違いない。
「廃屋街にある程度の捜査網を布いて揺さぶりをかけましょう。第三部署から戦闘の見込みが有る者を引き抜けませんか?」
「やってみるのでありますです」
「お願いします。返答の正否に問わず、代行者を全員緊急招集。念の為ですが、周防君にも連絡を」
 はっとしたシャルロッテはこちらを向く。薄い驚きを含めた視線で見上げ、
「……全員、でありますですか?」
「ええ、良い機会です。氏家や倭君だけでなくブリジット君や八月一日宮君も……勿論私も出撃します」
 その意味を理解している聡明の博士に、理事長は涼しい顔のまま答えた。
「これはもう、我々と彼女の戦いです。向こうは全力で、躊躇無く、朝生君に攻撃をした」
 つい、と視線を上げ、スクリーンを見上げ目を細める。
 そこに広がる神凪町の何処かに身を隠す異能力者に、敵対者に、睨むように。
「やるからには全力で征くまでです。たとえ死が起こる戦いになっても……」
 秩序を護る。
 それが、彼女の既にしている選択。





 気がついた時にはもう、陽という光は沈み落ちていた。
 電気も付けず、辺りは闇に染まっていた。
 自室の窓際、その壁にまるで捨てられた人形のように四肢を投げ打って座る朱音は、生気すら感じられない程の、見るに耐えない姿であった。
 指一つ動かすことすらままならない。虚空を見つめる瞳は淀み、最早思考はぐちゃぐちゃになって壊れたように白濁としていた。
 着替えてもいない制服の腹の上に、渡された短剣を包む布が無造作に置かれている。
 それを見つめ、いや、何かを見ているのかすら解らない視線を落としたまま、朱音は反芻していた。
 今夜十時。水伽橋で熾織が待っている。
 時間までに来なければ、熾織は雛菊と戦う。
 雛菊より先に来れば、熾織は朱音を連れて一時逃亡する。
 あまりにも痛烈な二択を前に、朱音は何も考える事が出来なくなった。
(全身が重い……息をしているのも奇跡みてぇ……)
 泥のような意識のまま、口元に自嘲ともつかない疲れた笑みを浮かべる。
(いっそこのまま死ねたら楽だろうよ……ちくしょう……)
 選びようがない選択に、もう逃避にしか希望を見出せない朱音はふと時間が気になって携帯を取り出した。
 液晶を見て、そこに記された時刻が七時になるのも忘れて、後悔した=B

 すっかり忘れていた。
 携帯の待受け画面には、
 自分を入れた、三人の笑っている画像が貼って――、

「……っ!」
 疲れきっていた思考が、それを視界に入れた瞬間に何かを浮上させる。
 咄嗟に朱音は携帯を投げていた。
 カシャンッ! と床に放られた携帯の転がる音が暗い部屋に響く。
 頭を腕の中に埋めて眼を強く閉じる。
 もう、考えてはいけない。
 何も、考えたくもない。
 携帯の転がる音が虚しく終わり、無音が再びやってくる。朱音はそう思った。
「――朱音?」
 ノックの音が二度なる。朱音は肩をビクンと震わせた。
「どうしたの? 御飯は本当に食べなくていいの?」
 姉の声がドア越しに聴こえる。縋ってしまいたくなるその優しい危惧に、しかし朱音は乾いた笑みを浮かべた。
「ん……ちょっと考え事。一人にさして」
 嘘だ。
 自分は今、嘘を吐いた。
 本当は何も考えたくないのに。
 どちらかを選択するなど、思考も思案も何もしたくない。
「そう……? 一応炒飯作っておいたから、夜お腹が空いたら食べなさいね」
「っ……」
 朱音は声を噛み殺して自分の左胸を強く掴んだ。
 心臓が痛い。
 心労は体に痛みを引き起こすという風説を、今更実感した。
 ずくり、と染み渡るような痛みが脈動に合わせて起伏を繰り返す。
 痛い。すごく、すごく、痛い。
 どっと湧き出てくる脂汗を堪えて、小さく「さんきゅ」と答えた。
 それから、無言が再び戻ってくる。朱音は再び考えることを放棄した状態で、このまま眠ってしまいたい衝動に駆られた。
 ただじっと、時間が過ぎてゆくのを、ひたすら身に感じていた。
 約束の刻限は、待ってはくれない。
 それでも朱音は、泥に足を奪われたように、無力に立ち止まっていた。
 床に転がる携帯電話が、三人の絆が表示されている待受け画面が、遠い。
 手を伸ばすだけでは遠い場所。
 もう、手を上げる力すら篭っていなかった。
 やがて携帯の画面が省電力モードに従って暗くなり、朱音はそこで、やっと口を開いた。声を、掛ける為にだ=B
「……なぁ、姉貴」
「なぁに?」
 もう居ないものだと思っていた。
 だけど朱音はそこに穹沙がまだ立っていることに驚きを隠しつつ言った。
「俺、ヒナと熾織に告られた。同時に」
「あらあら、それで悩んでるの?」
 全く茶化すことなく、姉はいつものようにのんびりとした口調で訊ねてくる。
「ん……」
「そう」
 穹沙は恐らくドアに背を預けているのだろう。踵でドアを叩く音が数回鳴る。
「……どっちがいいとか訊いたら、怒る?」
「勿論。そんなこと訊いたら殺すわよ朱音」
 声色は優しいが、何かが怖い。というか今、姉に『殺す』と言われたが気のせいだろうか。
 朱音は苦笑混じりに頭を振り、ドアを見つめた。
「……なぁ、姉貴って恋したことある?」
「藪から棒ねぇ。でも正直無いかしら」
「……」
「あら、今『学園じゃ告白最多だったくせにか』って思ったでしょう」
「うん」
 そこは即答してやった朱音。穹沙は穹沙で「あらあら」とか苦笑してた。
「そうね。確かに告白されることはあったけれど、本当よ。したことはないわ」
「何で? 巡り合わなかったとか、やっぱ運の問題なんかな」
 朱音はそこで体裁を保つだけの苦笑を漏らした。少しでも穹沙に非日常へと感付かれて欲しくなかった。もし姉まで向こう側に行ってしまったら、朱音は狂ってしまうと予想していた。
 空笑いが間延びしてやがて終わる直前、姉は答えた。
「恋をするっていうのはね、そんな単純なものじゃないのよ。朱音」
「え……?」
 とん、とん、とドアを踵で軽く蹴る音が間に挟まれ、穹沙の声が届く。
「運が良かったから出逢えたとか、お互いの相性が奇跡的に合ってたからとか、そんな他人任せで授かるものでもないの。きっと、好きだと思ってしまったら、もう周りなんかどうにもならないものなのよ。特に初恋は」
「……」
「それは、誰かに強制されたものじゃないわ。『恋』というものはね、朱音……神様がたった一つだけくれなかった、人間が自分自身で創ってゆくモノなのよ」
「――、」

『……ああ、やっぱり僕とヒナを選ぶ人間が、君で良かった』
『決めてよ、朱音ちゃん……私と、熾織ちゃん。どちらを選ぶの?』

 二人の言葉の重み。
 そう、だ。
 どうしてなんだろう。
 いつも自分は、自身のことだけしか考えてなかった。
 二人はいつだって、一人の青年を見つめていた。
 ただ、二人とも同質で、同量で、同種の、自分だけが持つ想いを込めて。

「俺は……バカだっ……!」
「うん」
「どうしようもない程なんも考えて無くてっ! 救いよう無ぇよ……!」
「うん」
「ちくしょう……なんでだ……また、……あいつの言葉忘れてたっ……」
「うん?」
「『二人を解ってあげて』って、言われたのに……言われたのにっ……!」
「……うん」
 頭を掻き毟り、強く、強く、自分を呪う朱音。
 最低だった自分を、ひたすらに卑下し、否定した。
 穹沙はただずっと、受け入れる言葉を繰り返してゆく。
 やがて疲れて吐露することも出来なくなった。
 息を乱して黙り込んでいる朱音を、穹沙はドア越しに訊ねた。
「ねぇ、朱音。ヒナちゃんと熾織ちゃん……本気だった?」
 どこまでも落ち着く優しい問いかけに、朱音は一度呼吸を整えてから頷いた。
「……ああ」
「そう」
 短く答えて、ドアから遠ざかる音がする。
 少しだけ間が空いて、それから、姉らしくない言葉が出てきた。
「『頑張れ。頑張って頑張って、頑張りきって片付けてから、泣きたきゃ泣きな』」
「?」
「私の親友の受け売りなの。もう何年も逢ってないけど、私の大事な親友」
「……」
「朱音。頑張りなさいね、男の子でしょう?」
「……う、ん」
 くすり、と。小さく笑みが零れる気配が返ってきて、やがて数秒後にドアが閉まる音が耳に入った。
 本当の静寂が訪れる。
 既に光は月のものだけ。
 そんな暗闇の中で、朱音は布を握り締めて、眼を瞑った。
 夜よりも深い闇の中で、朱音は、誓う。
 逃げない。
 避けられない選択を前に、もう、背は向けられない。
 ゆっくりと、
 ゆっくりと、
 吐息と共に、あまりにも惨め過ぎた、姫宮朱音を捨ててゆく。

 そこに、
 彼女達が純粋に求める青年は瞼を開け、

 ゆっくりと、
 ゆっくりと、
 でも、確実に。
 どちらかしか選べない二つの道を選ぼうと虚空を見つめる、
 眼に光を燈した朱音が居た。










 一陣の風は春の心地を孕んで、頬を撫でて北へと向かう。
 せせらぎは止まる事無く、宵の黒塗りを帯びて流れる。
 空は晴れ、覆う雲の無い夜空には綺麗な下弦の月が白く輝く。
 そんな、魂も鎮まる河川敷の大きな橋の中腹で、御門熾織は立っていた。
 何をするでもなく、ただじっと瞑目していた。
 やがて訪れる『答え』を待ち、ひたすらに待ち望んでいた。
 約束の十時まで、あと十五分。
 霄壤学園の制服の上から漆黒の大きなコートと、左右で強引に留めて縛った短いツインテールの黒髪を風に靡かせ、鉄柵に背を寄せていた。
 やがて、熾織はゆっくりと加速する一歩前の時間に終止符を打つ。
 肌に気配が感じる。
 それは、明確な意思を持ってここへ来た、何よりの存在感。
 耳に足音が伝わる。
 それは、濁る事の一切無い、たった一人だけが歩く時の音。
 嘘のように、十数分前まで抉り取ってしまいたい程に高鳴っていた心臓が、急速に冷静な脈動を再開し始める。
 自分でも驚くほど、自分が落ち着いていることに気付かされる。
 熾織はやっと、目を開ける。
「……選択の割に、随分と早く答えるものだな」
 苦笑の溜息を漏らし、鉄柵から身を離した。
「……来てくれたことを……『答え』を出してくれたことを、心から感謝する」
 熾織は顔を上げた。
 今まで、それを見知っている人間が指折り数えても居るかどうか分からない程の、柔らかい笑みを浮かべた。
「あぁ……今日は月が綺麗だ」
 呟いてから、視線を元の高さに戻す熾織。
「朱音、君が選んでくれた道が、君の為だと信じたい。いや、信じているぞ」
 そう言ってから、
 ふっともう一度笑顔を作って、
 それが最後に向けることになる¥ホ顔を作って、


「朱音。……、さようなら。君の事は忘れない」


 そうして、
 御門熾織は闇姫(ディーヴァ)と成りゆく。


「さぁ、今度こそ全力で殺すぞ――朝生雛菊!!」


 来訪者は、
「……、うん……! それが、『熾織ちゃん』の最後の言葉なら……!!」
 応える。





 淡い月華のその下で、
 約束を護る為の、悲劇の少女達の悲痛なる戦場が始まる。










 夜の寝静まった街並みを疾走する朱音。
 残り十五分もない内には約束の十時になってしまう。
(俺は……)
 朱音は歩測で間に合う距離を考え、走るのをやめて歩き出した。まだ春も間もないとはいえ、息も切れ少し汗ばむ。
 ふう、と吐息を零して朱音はゆっくりとした足取りで思う。
(……俺は、)
 選択の刻が迫る。残り十五分。
 歩き続ければ、御門熾織と共に追われて生きる。
 立ち止まれば、朝生雛菊と共に幼馴染を殺める。
 その内、どちらかを選ぶ。
 他でもない朱音が、選ぶ。
「俺は……」
 立ち止まる。
 目を閉じて深呼吸をする。
「……、」
 自分の手を、見つめる。
 この手には、一体どれほどの力があるのだろう。
 この手に込められる力が、誰を救えるのだろう。
 どちらも救いたい。
 そんな後先を見ていない傲慢に、二人は、どれだけ苦しんでいたのだろう。
 苦しめている自分自身でさえ、それに気付かないまま。
「……俺は」
 その先の言葉。
 いつも止まってしまう、答え。
 朱音は、
 朱音は――、
「……っ」
 くっ、と顔を上げ、朱音は立ち止まった分の距離を走って縮めようとした。
 ふと、朱音は背後から誰かの近づく気配を察知する。
 振り返る。
 知っている顔がそこに居た。
 だが、あまりにも突拍子の無い場所での対面に、朱音は瞠目する。
「アンタはっ……なんでここ

 激痛が奔った。
 何が起きたのか。
 そんな思考が、脳内を貫く一撃に焼き切れた。

「――がっ!?」
 暗闇の景色が、殴るような白濁に染まる。
 腹部に押し当てられた硬い触感。
 視界の下のほうで、カン! カン! と乾いた音が鋭く鳴る。
 スタンガン。
 半秒の、地面へ倒れ伏す一瞬の間に、その単語だけが掠れて出た。
 操り糸の切れた人形のように、朱音は地面に倒れこんだ。
 全身がビリビリと麻痺して動かない。コンクリートの舗装がされている地面に顔を付け、それでも精一杯に視界を向ける。
「ぁ……、ぉ」
 だがそれでも腹部に撃たれたせいか呼吸がままならず、喋ろうとしたことで更なる激痛に体が悲鳴を上げる。
「七十万ボルトの強烈過ぎて違法の一品だ。無理に喋ると呼吸不全で死ぬぞ」
 嘲笑が上から降りかかってくる。
 痙攣して、深呼吸もままならない。
 酸素を取り込んで、早く、理解しなければならない。
 何が、
 これは、
 何故、
 そう……何故、
(なんで……あん、たが……?)
 薄れそうになる意識を保ち、朱音は嘲笑を浮かべるその顔を睨んだ。










 緊急用のベルが地下に鳴り響く。
 くつろぐ場として設けられている部屋に待機していたブリジットが思わず飲み下そうとしていたペットボトルの中身を気管に入れ、げほげほと咳き込む。
「ちょっ……さんざん待たされたのに、いきなしすぎでしょ……!」
 慌ててブリジットは口元を拭いながら席を立った。
 廊下に出ると、車椅子の車輪を自らの手で回して進んでいる、蜂蜜色の髪をした少女が緊張した面持ちでこちらを振り向いた。
「あ、……」
「澪ちゃん、あーもう急いだ急いだぁ!」
 ブリジットは後ろから取っ手を握り締め、思い切り前へ押してゆく。小さく悲鳴のようなものが聴こえたが、今は緊急事態だ。
「どうしたのよ澪ちゃん! 小学生はもう寝る時間過ぎてるわよ!?」
「あぅ……その、えと……クロトさんが……ぜ、全員招集だ……って」
「全員!? 雛菊入院中だからってクロトさんも人使い荒いんじゃない!?」
「ぇと、……わたしに言われても、っきゃ……!」
 愚痴を零しながらもオペレーションルームまで走り、ドアの前で急ブレーキ。自動で開くその先に既に居たクロトに、ブリジットは口を開いた。
「……御門ですかっ?」
 その問いに、クロトは目を細めてテーブルの中心に映し出されている神凪町居住区の地形がホログラフィックで表示された映像を見て答える。
「ええ、半径千五百メートルを包む大規模な人払いの結界が感知されました。場所は水伽橋。禍喰(シャッテン)による因果の歪曲具合からして、彼女でしょう」
「水伽橋……、大胆な奴」
「突然姿を見せると思いきや、水伽橋に人を寄り付かせなくして何をするつもりなのでしょうか……」
「狙いは邪神(サクリファー)でしょ? どうせまた誰か捕まえてあそこで殺す気じゃ」
「……そうでしょうか」
「え?」
 肩を竦めて言うブリジットに、クロトはそう言葉を漏らした。
「クロトさん?」
「……何か、大事な何か勘違いをしているように、思えるのですが……」
 口元に手を当てて深く考え込み、映像をじっと見つめるクロト。
 しかしブリジットは目つきを鋭くして否定した。
「クロトさん、早くしないとっ」
「え? ええ、はい、そうですね……倭君が総合病院から戻り次第――」
 その言葉が途中で止まった。
 胸ポケットに収まっていた携帯電話が震えたのだ。
 クロトはそれを取り出し、通話ボタンを押す。
「はい、クロトです」
『理事長! 大変なことに……!』
 それは、焦燥に声を荒げる昴流の声。クロトは目を細める。
「落ち着いて下さい。一体何が――」
『雛菊がっ……彼女が病室に居ません!』
「……なっ」
 ここにきて、クロトの無表情が薄く歪められる。
『窓が開いていて、そこから抜け出したようです……!』
「何か言っていなかったのですか……?」
『電話で俺もその場を外していて……その隙に』
「っく……!」
 クロトは急いでリモコンを取り、映像を切り替える。
 居住区に映し出されたのは、小さな白い光の点。
 霄壤学園を中心とした居住区内域でのGPS反応の確認である。雛菊を含めた【結社(アカデミー)】のメンバー全員の携帯電話に内臓するチップから、居住区に居るならすぐに居場所が判るようにしてある。
 信号の殆どは学園。一つが水伽橋。一つが総合病院。
 そして残る一つの光点が、水伽橋に向かって進んでいる。恐らくこれが現在電話中の昴流のものだろう。
 盲点だった。
 そうだ、少なくとも御門熾織の狙いはまだ雛菊だ。それを差し置いて他の面子に目を向けるはずもなく、当然雛菊だって接触したいと言われれば一人で向かうに決まっている。それを、知っているのだ。御門熾織は。
「こんな緊急事態に……」
『緊急……?』
「水伽橋に御門熾織が現れました。恐らく朝生君はそこです」
『そんな……っ』
「我々も至急向かいます。倭君は彼女と合流次第直ぐに二人を遠ざけて下さい」
 クロトは振り返り、二人を見て頷いてから通話を切ろうとした。

『分かりました。病院の人には黙秘するよう促しておきます』

 はたと、
 耳元に有り得ない返答が聴こえた。

「……、倭君。今、貴方は何処に居ますか?」
 携帯を近づけ、振り返る。
『総合病院です……すぐに向かいますがっ……!?』
 そう、答えが返ってきた。

 そうだ。
 以前から、何かがおかしいとは思っていた。
 何故、今の今まで気付けなかったのだろう。

 今回の事件。
 御門熾織の個人的な調査について見ていた今日の昼。
 どうしても引っ掛かるものがあった。
 御門熾織は、いくら力が必要といえ、無関係な者まで殺す人間なのだろうか。
 姫宮朱音。朝生雛菊。そして御門熾織。
 この三人は『親を失った』という境遇を同じくする、友達付き合いを遥かに凌ぐ固い絆で結ばれた関係にある。
 御門熾織は、怨恨さえなければ自分の立場など気にせず、こちら側の味方になるだろう。それでなくとも御門熾織が人殺しをしていることに対して、雛菊はどうあれ彼が憤怒するに決まっている。それを黙って見過ごす彼女じゃない。
 そうだ。
 何故、今の今まで気付けなかったのだろう。
 今回の事件。

 連続殺人。
 御門熾織が殺して回ったという確証が、実際にはどこにも無い=B

 彼女が殺したことが確認されているのは、賀上洋介ただ一人。
 他は? 他は見たか? 他の人々は、いつも事が過ぎた後だ。
「……倭、君っ――」

 そうだ。
 以前から、おかしいことばかりの今回の事件。
 考えてみれば、その不安は次々と浮上する。
 事件の発端は六日前。
 事件が起きた日。何があったか。
 御門熾織を含む風紀委員の、他の生徒達よりも早い学園への会議出席。
 御門熾織を含む風紀委員の、居住区の巡回パトロール。
 事件勃発時、郷土資料館に近寄っても、御門熾織なら怪しまれない。
 確かに、口上での推論は見事に当たっているように思える。
 彼女が犯人だと思われても、なんらおかしくない。
 おかしくない。
 だが、納得出来ない。
 彼女の本質を朱音や雛菊から聞けば聞くほど、合点がいかなくなる。
 御門熾織は、何故自分の姿をわざわざ晒すような真似をしたのだろう。
 宣戦布告の如き、スプレーペイントでの己の存在の暴露。
 そのスプレーだけが、雛菊に≠ナはない。【結社(アカデミー)】全体に=Aだった。
 あの朱音や雛菊の目さえ誤魔化し、隠し通せるのなら、元々の接点さえ無い昴流が動向を知るのは遥かに難しいはず。
 そもそも狙いが雛菊個人なら、計画自体は全く関係が無い。
 それは逆説、相手もこちらの動きを察知するのも限界があるということだ。

 何故、本人から朱音や雛菊に正体を知らせるまで、彼女だと気付けなかった?
 どうしてこうも簡単に事件の発生を許した?
 『事前に起こり得る事件に対処する』という本質を前に、
 どうしてこうも簡単に、まるで動きが読まれているかのように。
 いや、
 これは、
 これではまるで、

 【結社(アカデミー)】側に捕縛する意思が無いかのように=B

「以前に御門熾織と接触した際に、貴方は一人でしたか=H」
 そう。
 クロトの知る仲間の一人は、直接の戦闘より周囲の人払いや建造物への被害防止などの、裏方役。
 誰よりも、全員の背中を見て動く役。
 咄嗟の事態の時に、姿が見えなくてもおかしくない役。
 もし、もしこの一連の連続殺人が、
 誰も犯人だと思わない、犯人を追う側の立場に居る者≠セとしたら?

『え……? 出撃する時は二人でしたが、戦闘時には一人でしょう=c…?』
 その返答に、クロトは目の前が一瞬真っ暗になる錯覚を感じた。










 漆黒の大剣が空を薙ぎ払って振り下ろされる。
 その大剣は全身が影すら作らない黒い西洋両刃剣。全長が二メートルはあり、華奢な体格をしている熾織には明らかに持ち上げられない重量のはず。

 雛菊は白銀の細槍でそれを受け止め、いなす。
 その細槍は柄を回すと先端が出てくる、携帯出来るという未来的なフォルム。しかしその細さでは巨大な剣の衝撃を受け切れずに両腕が壊れるはず。

 どちらも、その『はず』である常識を覆す。
 異能力者は足元でブーツを踏み鳴らし、雛菊の脇から黒塗りの棘を放つ。
 代行者は純白の翼を広げ、熾織の放った弾丸のような棘を後退で避ける。
 およそ人間の規格から外れた攻撃が、一合、また一合と交わされる。
 ぐるんっ、と背を向け、その回転で風を巻き上げて一気に横へ薙ぐ大剣。雛菊は防いでは弾かれると判断して、跳躍。橋の欄干の上に着地した。
 熾織は大剣を後ろに構え、薄く、しかし強く笑んだ。
「強くなった、昔はよく道場で僕や朱音に散々負けて泣いていたのだが……!」
「負けられない。私には、もう負けても何も失わないあの頃とは違うっ……!」
 ダンッ!
 天使化(アドベント)により強化された一跳躍で間合いを殺し、雛菊は槍を振るう。
 それを受け止める熾織はふんばり、競り合いの至近距離から睨んだ。
「そうだっ! それでいい……! 僕も君も、こうする運命だったんだ!! 一人では何も出来なかった僕と君が……独りではただ悲しんで逃げることしか出来なかった僕と君がっ、自分の境遇すら二の次で真摯に支えてくれた朱音を好くのは、当然の理だったんだ……! 君が代行者で! 僕が異能力者で!! 規模も犠牲も確かに違えどっ……この戦いは必然だったんだ、朝生雛菊!!」
 叫ぶ。雛菊はいつにない真剣な顔に哀しみの色を滲ませる。熾織はその顔に腹が立ち一歩踏み込んで押すと、雛菊ははっとした風に力を込めてきた。
「朝生雛菊……、僕は君が羨ましかった」
「っ……?」
「僕には、君のように心から人に笑顔を向けるその純粋さが無かった。いつもどうでもいいような些細な壁に萎縮し、怖くて背を向けていた」
「熾織ちゃ――」
 その名で呼ぶな。
 まるでそう言っているかのようにさらに力を込めてくる。
「だが、そんな君でも心を傷つけ苦しむ。人間なんだ、当然だな」
 ふっ、と。熾織は微笑む。自嘲のように。寂しげに。
「覚えているか? 中学一年の冬、教室で飼育していた金魚が死んだのを」
 雛菊は、頷く。
 忘れるはずがない。あの日、誰よりも泣いて悲しんだのは自分なのだから。
「だけど、次の日にはもう君は心の底から嬉しくて笑って登校した。君が……誰かに慰めて貰って、元気付けて貰ったのは、朱音だと何となく判っていた」
 熾織は、遠く何かを見るように目を細める。
 彼女の言い方はまるで、過去を振り返るような。
「朱音は、そういう奴だ。自分だって犠牲になるくせに。自分だって傷つかずには居られない時だってあるくせに。彼は、朱音はいつだって周囲を見ていた。……怯えていた=I 目の前の者さえ護れない無力さに、朱音は怯えていた=I! 本当は優しくなんて出来ないくせにっ! どうすれば救えるかを必死に学び、知り、気付き、想い、考え、そして創ろうとするんだ!! 僕達のように!!」
 絆(それ)が、こんな悲劇を創ることも、判らずに。
「この絆が僕と君を縛り続けるのなら、僕は朱音に想いを伝える路を選ぶ! 束縛を破戒し、本当の平穏の中で笑っていられるように、僕は戦う事を選ぶ! 君が好きだから! 朱音が好きだから! 二人が、大好きだからっ……!!」
 タン!
 鋭い音が足元でする。
 何かと雛菊が思った矢先、熾織はいきなり大剣から手を放して後ろに跳んだ。
 次の瞬間、重力が幾分か失う感覚を覚えた。
 足元を見る。黒い円を描いた影が、まるで沼のように雛菊の足を沈めている。雛菊の影を使ったのだろう。引き抜こうとするが、底無しの要領で足掻けば足掻く程膝下まで沈んで、動けなくなる。さらに欄干の足元に出来ている影から細い蔓のようなものが伸び、雛菊は両腕さえ封じられてしまった。持っていた細槍が零れ落ちてしまう。
「もう……誰かを傷付けることになってしまう代行者の現実に怯える君も……手を伸ばせば届く者さえ救うことも赦されない不条理な現実に怯える朱音も、見たくなどない」
 顔を上げると、熾織は月夜に照らされ伸びる自分の影から、新しい武器――黒い細身サーベルを創っている。
「さあ、メタトロンを出せ、朝生雛菊……決着を付ける時だ」
 切っ先を喉へと突きつけ構える熾織に、雛菊はだらりと俯く。
「……私を殺す、理由は判ったよ」
 力無く弛緩させた両手に、力を込める。少しでも前に、まるで噛み付かんとするかのように睨んだ。
「でも! 死ぬ必要の無い人の命を奪っても、朱音ちゃんは悲しむだけだよ!」
 その咆哮に、熾織は一度目を閉じて頷いた。
「……判っている。僕はもう許されない人間だ。賀上にも悪いことをした……朱音とは気の置けない仲になるかも、とは思っていたんだがな……」
「なっ――」
 そこで初めて、雛菊は本気で熾織を睨んだ。
 じくり、と自分の中の憤怒の闇がざわめいたのに、熾織は少し驚く。
「熾織ちゃんっ!! 賀上君だけ!? 朱音ちゃんに関わってなければ、他の人はどうだっていいの!? 見損なったよっ、熾織ちゃん!!」
「……、」
 叫び疲れて、再び俯く雛菊。
 もう、親友は親友ではなくなっていた。
 命を奪うことを、所詮は理由が有ればいいなどと思うなんて……。
 失望に目頭が熱くなる雛菊に、熾織はぽつりと言った。
「……あ、……ヒナ。それは、どういうことだ?」
「……?」
 唐突に訊かれた雛菊は顔を上げる。
 剣を構えることさえ忘れ、神妙な面持ちで熾織が、再度訊ねてきた。
「……他の人?」
 雛菊は、そこで違和感を覚えた。
「ヒナ、……一体、何の話をしているんだ?」
「―――――――え……?」
 有り得ない、言葉が、聴こえた気がした。
「待て……待ってくれ、ヒナ……」
 その声が、フィルターを掛けたように、遠く聴こえる。
「僕はただ、既に死んだ人間からの禍喰しか採取していない=v
 違和感が、どんどんと膨れ上がる。
 食い違いが、
 何かの闇が、
「他の人を殺した? 何を言っているんだヒナ? 僕は――」

 その時、
 違和感は、
 不可視で明確な悪意を孕んで、真実へと答えを出した。

「賀上以外の人間など、殺していないぞ=H」

 一体、
「……何を、」
 言っているのか。
 問い質そうとした。
 だが、
「ふんっ……余計なことを口走りやがって。まあいい、これなら外さんな」
 背後から聞こえたその声と、

 ズドドンッ!!
 湿り気を帯びた重い音が、二重に耳に入った。

「えっ――?」
「がっ……ぐ、はっ……!」
 視界では、熾織が苦悶の表情を浮かべてよろめいていた。
 何が起きたのか。雛菊は視界に映る総ての情報を、拙い思考で懸命に考えた。
 月が綺麗だ。居住区はオフィス街とは違って空気が澄んでいるほうなので、快晴の夜空は星が瞬いている。
 橋。大きな橋だ。そりゃそうだ。ここは昔、オフィス街以上の建設物地域にしようとして失敗した廃屋街とを繋ぐ橋だったのだから、頑丈で上を大型車が通ってもびくともせず、水伽橋という名前が付けられるほどなのだから。
 さらさらと流れる河のせせらぎ。
 仄かに暖かい、春を呼ぶ風の音。
 そして、嗅ぎ慣れない、鉄の混じった生臭さ。
 御門熾織。
 親友。
 大好きな、友達。
 朱音ちゃんのことで、今は、ライバル。
 でも、大切な人。
 苦しそうだ。
 どんどん痛みが増しているのか、整っている顔がさらに歪む。
 こんな表情してほしくない。敵対関係であろうと、そう思う。
 でも、どうして苦しそうなのだろう。
 いや、違う。
 今、なんて言った?
 ……痛い?
 どこか怪我したのだろうか。
 どこか――、
 雛菊はそこで、やっと見つける。
 熾織は、雛菊の腕を拘束していた槍のように鋭い蔓に=A脇腹を刺されていた。
 何をしているのだろう、と雛菊は混乱する。
 自分の能力なのに、何をしているのだろう。
 自滅? 自殺? 自分から?
 違う。それでは逃げだ。熾織はそんな馬鹿なことをする人間じゃない。
 じゃあ、何が?
 もう一度自分に問いかけたとき、ふと気付いた。
「――ぁ、」
 そして、理解した。
 黒い蔓は、
 熾織を、
 ではなく、

 後ろから雛菊の腹部ごと≒武Dの腹部へと貫通していた。

「はっ――ご、ぶっ!?」
 吐いた息に混ざって、鮮血が出てきた。
 【結社(アカデミー)】用の白い服の胸元が、夥しい量の赤に染まる。
 じわりと、右の腹部に脈動する痛みが現れ、火傷しそうな熱さを生む。
 がくがくと膝が笑い、腰に力が入らない。
「どうした朝生? そんなに辛いなら抜いてやるよ」
 後ろで、男の声。
 すると影が――雛菊を拘束していた足元の影も、二人を突き刺す細い影も、掻き消える。
 こんな状態で、なけなしの支えとなっていた影の一撃を失った雛菊と熾織は同時に倒れ伏した。
「ご、っぷ……!」
 腹に手を当てて、雛菊はゆっくりと首を動かした。
 その、自分の背後に立っている何者かを知るために。

 そして、
 見て、愕然とした。
「……氏家、さん?」

 そこに立っていたのは、白いスーツを端正に着こなす中年の男性。
 【結社(アカデミー)】の一員。
 リーダー、クロト=フェルステンベルクの補佐。
 夜行と均衡の天使レリエルの代行者。
 この場では、最も有り得ない人物。

 氏家宏也。

 その人だった。





 静まった異界の橋。
 コンクリートに均された灰色の地面に、宵闇を受けて黒く溶ける鮮血が二つ。
 その中心で、腹部を貫かれた激痛に苦悶の表情を浮かべて雛菊は呆然とした。
 誰にも気付かれずに来たはずなのに、どうしてここに氏家が居るのか。
 いや、最悪気付かれているとしても、それは深い問題ではない。
 そんな些事なんかよりも、
 今の言葉は、
 今の一撃は、
 本当に、彼のものなのだろうか。
 雛菊は、信じられなかった。
「うじ、ぃえ……さん?」
 氏家はその声にもならないような脆弱な声に気付き、嗤った。
「なんだ、お前の方は殺すつもりで突いたんだがな。そうか、祝福の加護……制約のおかげで致命傷は免れていたのか。ふん、他人の幸せで生きる化け物め」
 自分の後輩を、
 可愛いと褒めてくれた先輩が、
 最強を認めてくれた先輩が、
 敵として残酷に嗤い捨てた。
「なん、で……?」
 気管に血の混じった声で、見上げる。
 氏家はその場に立ったまま平静とした顔で溜息を吐いた。
「なんで、か……そうだな。お前が憎いから、というのが答えだな。いや……正確にはお前だけじゃないが」
「ぇ……?」
 熾織は二人に気付かれないように自分の腹部を見る。
 右脇腹、内臓にダメージは無いようで、加えて一撃が綺麗に入ったためか、痛みが酷くて動けない以外は大事には至らなかった。
 顔を上げて、熾織は氏家を睨む。
「貴、様……仲間ごと攻撃するとはどういうつもりだっ……」
 すると、氏家は眉をひそめて嫌そうに熾織を見返してきた。
「なんでどうしてと五月蝿い小娘達だ。一を聞いて十を知るという配慮ぐらいしないと上司に見限られるぞ」
 そこでまた暗く笑んで、ふと自分の懐から携帯を取り出す。ブーブー、とマナーモードで振動するそれに渋面を浮かべる。
「ああ、しまった。急に行動するから焦って捨てるのを忘れていた。全く……こんな物持たせられて、四六時中碌な場所に行けん。まるで監視される気分だ」
 そう言って氏家は黒塗りの薄型携帯をぽんと河へ投げ捨てる。
 ぱしゃん、という音が静かな世界に染み渡った。
 それを一瞥してから、氏家は向き直る。
「えーと、なんだったか? ああ、そうだな、朝生ごと攻撃したことだったか? 今さっき言った通りだよ。私は、……いや、俺は、お前やクロト理事長が憎い」
「憎い、だと……? 一体、何を――」
「まったく、どいつもこいつも聞くばかりで人様の意見には耳も貸さんのか、本当に人を何だと思ってるんだ? あぁっ!?」
 唐突に、雛菊の腹部に氏家の革靴の先が突き刺さった。
 不意を衝かれて傷口を押えていなかった雛菊の傷に、ぎちゅりっ! という嫌な音が零れる。
 直後、雛菊の視界が白に染まった。
「ぃっ、ああああぁぁぁぁぁあああああああああぁぁぁあああぁああっっ!?」
 火花が散るような錯覚を感じながら、雛菊は絶叫と共に体を海老反りにして地面の上をのたうつ。
「ひっ、ヒナっ!!」
「ふふ、ははっ……ははははははははははははっ! 最高だ、実に愉快だぞ!」
 びくんっびくんっ、と時折体を震わせる雛菊を見下ろし、氏家は真夜中など気にも留めずに高らかに笑った。
 その光景に、熾織は――、
「――貴様ぁぁあああああああああっ!!」
 闇という、負の感情を含めた¥ヰな怒りが、胸の中で弾けた。
「『青く咲く薔薇が在りました』! 『赤く汚す愚者が現れました』!」
 がばぁ! と熾織は自分の腹部を押えていた手を氏家へ向け、
「『醜き禁忌許せずに、乙女は冷たい棺桶用意し愚者を中へとぶち込んだ』!!」
 詠うと、氏家の足元の影が左右楕円状に伸び、針が太く短く無数に生える。
「ほう……」
 熾織がその手を、一気に握り締める。
 刹那、左右から剣山を覗かせる影の壁が勢い良く競り上がり、間に立つ氏家ごと、さながら処刑の棺桶(アイアンメイデン)のように

「駄目だな御門、こんなもの俺には通用しない」

「え――?」
 バグンッ! という音が響く。
 だが、氏家は針の壁に挟まれたにも関わらず、全くの無傷だった=B
 その壁は、左右に伸ばされた氏家の両腕を食い破る事無く、まるで柔らかい材質になったかのようにぐにゃりと曲がっている。
「な、にが……っ」
「教えてやるよ。お前の異能は不完全な上、そんな傷を負ってこの俺の神術に打ち勝つだけの力は残ってないんだよ」
 彼の背中には、宵闇に薄っすらと浮かぶ灰色の翼が広がっていた。
 自分の見ている光景が理解出来ない熾織の耳に、弱々しい声が届く。
「……のう、りょく……よわめる、ちから……」
 氏家が視線を落とす。
 浅い呼吸を繰り返していた雛菊が、仰向けに熾織を見て口を開いていた。
 聞き取り難い程の小声であったが、それで熾織は瞬時に悟った。
「そう、か……他者の能力を抑制する神術……」
「ちっ……ベラベラと喋りやがって……これだから女のガキは嫌いだ」氏家は蛇蝎でも見るかのような視線を雛菊に向けるが、靴が汚れるからだろう、再び蹴ることはしようとしなかった。「その通りだ、レリエルの象徴は夜行。そして属性は、『均衡』。つまり物理的な法則に関わる情報を一定まで弱めるんだ」
「……痛っ、成る程な……要はヒナの神術の劣化版、か」
 情報そのものを支配して根本まで遡る雛菊の『初源』に対し、こちらは対象質量の情報を周囲に分配して平等に――『均衡』させる神術のようだ。確かに、一箇所に触れただけで単一としての物量を丸ごと破壊した雛菊のそれとは違い、氏家がやったのは密度と硬度を低めてスポンジ状に柔らかくした程度だ。
「正確には、別の天使の劣化版だがな。同じ天使の代行でも人の向き不向きや工夫次第でいくらでも神術は変わる。たまたま俺のはこういう姿をしたのさ。尤も、四大天使や最強の代行ともなれば選り好みは出来ないようだが……」
 氏家は彼女の問いに答えながら雛菊のそばに寄る。雛菊本人は勿論、熾織も一瞬身を強張らせたが、単に傷口の具合を覗きたかっただけらしい。
「さすがは最強だ。嫌でも死ににくい躯とは何と羨ましいことだろうか」
 それを見つめ、氏家は滔々とそう口にする。
「何も悩まなくとも、そこら辺の奴等に直に触るだけで自分は恵まれた環境に居続けることが出来る。他人の犠牲なんか気にせずにいれば、こういった風に戦場でさえ役に立つ。いいなぁ朝生は。そんなに恵まれた天使の代行が出来て。そんな……楽をしているだけであの女に重宝され、大事にされてなぁ!!」
 突然、氏家は怒号をぶちまけだす。彼の怒りに呼応して、熾織は自分の胸を掴んだ。
「貴様、……何故ヒナを憎いと……!? あの女とは、一体何なんだ!」
 これ以上、親友が意味の判らない叱責に身を震わせる光景に耐えられなくなった熾織は痛みを堪えて叫ぶ。氏家は鬼の形相をこちらに向けると、少しだけ引き攣った笑みで返してきた。
「あぁ……御門熾織、お前が知りたいのなら答えてやってもいい。なんせお前には仮があるし、これからもその異能力を利用するつもりだからな」
 すると、氏家は雛菊から離れて今度は熾織へと歩み寄る。これで親友に害は及ばないと、熾織は内心でほっとした。
「俺はな、昔も昔……神化計画(セラフ・プロジェクト)が立案、発足された当時からの、所謂創立の関係者ということになるんだ。当時の技術は拙い上に、実質の研究者は計画を立案したその一人しか居なかった。度重なる秘密裏交渉。スポンサーという金を元に施設を構え、ある程度の理論の立証により、神化計画(セラフ・プロジェクト)が始まったのは二年の歳月が掛かった後だった」
 昔話を聞かせるのは長いのか、氏家は懐から煙草を取り出して火を付ける。
 一息の白煙を宙に燻らせ、欄干に背を預けて続けた。
「俺は計画で言う、中途からの配属だった。その頃にはもう天使代行の適性を持つ者の判別方法まで判っていてな、初期のメンバーの子供達に対する実験が開始。クロト=フェルステンベルクを含む四人の代行者が誕生した。実験は、文句無しの大成功だった」
 だが、と。
 氏家は火の付いている煙草を河へ放り、憎悪の滲んだ低い声で言った。
「この実験には唯一の失敗が有った」
 倒れたままこちらを窺う表情の熾織を見て、歪に嗤った。
「俺だよ。初期メンバーの人数は六人だった。その内一方はまだ当時の年齢がたったの七歳で、肉体的にも仮死状態に至るだけの薬物投与に限界があった。だが、俺はどうだ? いくら設備も不完全とはいえ、当時は最年長だった俺が失敗してしまい、残り四人には御丁寧にも四大天使の魂が入った。別にそれはしょうがない。技術的にも、四人成功するだけでも奇跡だったんだ! けどな……だけどなぁ!! あいつらは俺の祝福を、微塵にも感じちゃいなかった!」
 突然の怒りが爆発する。雛菊は怯えたが熾織は動じなかった。落ち着いた声色とは裏腹に、最初から熾織の中の憤怒(ラース)の闇が蠢いていたのだから。
「その内の二人がなぁ! クロト=フェルステンベルクと時任眞子が二人して、何を話していたと思う!?」





『クロト、由真と一緒に失敗した男、誰?』
『氏家ですか? 私と同じ研究からの異動ですが?』
『ふぅん……ワタシ達とは歳違うみたい』
『元々実験用に選ばれている私達とは違い研究する側の人間であって確実では無いですから。しかし……既に二十四にも関わらず失敗するとは……』
『大人なの? なにそれ、全っ然使えないじゃん。由真はいいけどさ、ワタシだってまだ八なんだけど。能無しってか、用自体が無いっていうの? うざい』
『貴女は発言が八歳とは思えませんが……まあ、同感ではあります。そもそも、何故あの男が今回の実験に参加していたのかさえ疑問です。一度立候補しているのは知っていましたが、その時に私の方から否認を一声掛けていたので』
『そうだね。確実じゃないの入れたって、死人になったら嫌だものね。由真がコンスイ状態って聞いて、焦ってワタシ神術使っちゃった』
『目覚めて十数分の内に天使化(アドベント)から神術まで使って昏睡し、二人揃って復活という話題は研究者側からすれば眩暈の起きる事態です』
『……うるさい……、で? なんでそのウジなんとかを研究者は通したの?』
『何でも適齢を過ぎている人間でも代行は可能かどうかを調べるという目的で採用したそうです。確かに私を含め未成年ばかりですからね』
『でも、適性無いんじゃ無意味な過薬昏睡(ドランクスリープ)なだけじゃない』
『いえ、適格者ではあるようですが……あれは適性というよりも――』





「――『才能が無い』、そう言ったんだ! 俺は単純に才能などという無根拠な理屈で、他の代行者達に白い眼で見られていたんだ!!」
 怒号と、そして憎悪。
 白いスーツから滲み出る、闇。
 そう。それは、闇。
(この男……まさか?)
 熾織がどこか確信のようなものを抱く最中も、氏家は感情を吐露している。
「くそっ! クソが! 身の周りも一人で碌に出来ないクソガキ達のくせに! どいつもこいつも初めから話になってないみたいな眼で俺を見やがって……! そんなに偉いのか!? 一度で代行者になったことが! 四大天使サマの魂を享受出来たことが! うぜぇのはテメェ等なんだよクソやろうどもがぁ!! ちょっと立場が上だった時期があった程度で上から物を言いやがる理事長も! 最年少代行者として周りに過保護にされて性格の捻くれたままの時任眞子も! 妹の失敗を歳がああだ体がどうだと理由付けて俺になすりつけたあの男も! 純粋な意志が不可欠などと訳の解らん高説吐いて除名しようとしたあの女も! どいつもこいつも俺を見下しやがって!! 見下しやがってぇええっっ!!」
 息も吐かぬ激昂が終わり、肩で呼吸する氏家に、熾織はやっと理解した答えを口にした。
「そうか、貴様……代行者に成る前に禍喰に喰われていたな……?」
 その言葉に、氏家はにやりと暗い笑みを鮮烈に浮かべた。
「さすが他人の闇に干渉出来る特殊な異能力者だけのことはあるな、御門……その通りだよ、俺は二度目の実験で代行者になって聖痕を穿つまでのほんの数時間の合間に、傲慢(プライド)の禍喰(シャッテン)に心を許して異能と神術を両方得た禁忌なのさ!」
「……なんて、ことをっ……!」
 雛菊が、信じられないという表情をする。
 その表情に背筋を震わせ、氏家は歓喜する。
「そうだ! まさに『なんてこと』だよ朝生! 光と闇が入り混じった混沌を維持するために、本来は防護のはずの聖痕で封じ込めているのさ!!」
 両腕を広げ、高らかに叫ぶ。
 熾織は雛菊の表情から彼がどれほどの禁忌を犯しているのかを悟り、苦い顔をした。
「貴、様っ……卑怯者め! ならば直接問い質せばいいことだろう!!」
「はぁ?」
「その者達が言ったことが本心だしても、なら何故貴様は【結社(アカデミー)】に、再び代行者になろうとしたっ? そんな闇を抱いてまで、何年も何年も孕んだ闇と、在るべき光を汚すような真似をしてまで、そんなに他人を服従させたいのか! そんなものは応報とは言わないっ……ただの不毛な、復讐だ!!」
 ははっ、と氏家は笑って返す。
「不毛じゃないさ! ただ双方の力を得るだけで奴等が俺を認める訳が無い。それどころか禁忌を犯した罪で、余計に卑下した眼で見られるだけだろうな」
「なら何故――」
「ん? ああ、そうか。知らないのかお前は」
 今度は、何かに気付いたようにせせら笑う氏家に、熾織は押し黙った。
「……どういう、ことだ?」
「くっくくくくく……教えてやるよ。俺の目的はただ偉くなりたいなどという子供の夢のようなものじゃあない。知っているか? 朝生。俺の制約を」
 話題を振られた雛菊は、傷の痛みで上手く口が動かせないらしい。
 舌打ちをして、氏家は溜息を漏らした。
「まあいい。俺の制約は……ああ、制約は知っているか? いや知っているか。朝生を攻撃する理由はそれが原因だからな。俺の制約は」
 氏家は一度言葉を置き、
「――『隷属の不可侵』、そう呼ばれているよ」
 そう答えた。
「代行者への攻撃意欲を禁じられる。つまり俺自身では同じ代行者には一切の攻撃が出来ない。抵抗も反撃も不能。まさに肉体的な立場においても理事長はおろかお前や、あまつ戦闘さえ数分も維持出来ない八月一日宮にすら勝てん。分かるか? 代行者だけが集まる【結社(アカデミー)】じゃ、俺が常に最下位の立場なのさ=I」
「そ、そんなつもりは誰も」
「嘘を吐くなぁあ!!」
 雛菊の当然の弁明を、一喝に遮る氏家。その眼は血走り、刃物を持っていたならすぐにでも刺してきそうだった。
「本当は俺のことを見下してたんだろ!? どうでもいいと! 居ないも同じだと!! 空気のように! 道端に転がる、存在意義を欠いた石のように!!」
「違っ……クロトさんはそんな人じゃないですっ!」
「お前みたいな何も知らんガキの『そんな』など当てにすると思ってんのか!? 俺が、俺がこの七年間どれ程の屈辱を、歯を食い縛り耐えてきたと思ってる!? なのにこちらからは手の一つも挙げられずっ、せいぜい歯牙にも掛けん反発を小言で漏らしては侮蔑の目を向けられ! 誰も見ていない場所で虚しいだけの鬱憤晴らしを吐く毎日が! お前に分かるのかぁ!? どうなんだ最強!? ぼけっとしてるだけで何故か最強の天使の代行してましたみたいな生き方で、周りからは羨望の眼差しを受け、ちょっと失敗しただけで理事長からは熱〜い励まし受けて呑気に『頑張ります!』とかはしゃいでる人生は楽でいいなぁ! その裏では周りからは責任転嫁のしやすい体の好い駒としてしか見られずに、ちょっと失敗しただけで『使えない』みたいな思われ方をしている俺が居る! 才能を埋めるだけの努力はしたさ!! 七年間も【結社(アカデミー)】の中で禍喰(シャッテン)の闇を隠し通せてこれたのが何よりの証拠だ! 純粋に! 純粋に認められるべく、俺は辛酸を舐めようとも耐え抜いて、やってきた!! なのに……朝生!! お前が戦闘に参加出来るだけの実力が確認されれば、通知一枚とたった一言でバックアップが俺の専任になった!! これからも使い捨ての代行者として、屈辱の一生を送らされるというのか! お前が、運が良いというだけでぇ!!」
 息をぜぃぜぃと吐きながら、あらん限りの怒声を放つ。
 闇が、
 宵をも塗り潰してゆく。
 憎悪、混乱、絶望、そして狂気。
 綯い交ぜになって、かつての色さえ想像の付かない闇が、黒い霧のようになって氏家の周囲を漂う。
 熾織は咄嗟に雛菊の表情を窺った。彼女は、その言葉に、顔が青ざめていた。
 熾織は、唇を噛んで見つめた。
 目の前の居る少女が他人の祝福を奪って、それを自らの幸福にしているのは、知っていた。
 だが、これでは、彼女が幸福になどまるで思えない。
 朱音を不幸にし苦しめてしまった雛菊。
 熾織を異能力者に変えてしまった雛菊。
 氏家を無自覚に貶めてしまった、雛菊。
 人を不幸にするという術が、彼女をも不幸にしてゆく。
 不幸の連鎖。
 誰も、幸せになんかなれない。
 『運が良い』と『運が悪い』という、言葉だけの立証さえ無い概念が、今、雛菊の肩に重く圧し掛かっているのだ。
 その痛みが、
 その悲しみが、
 一体どれほどのものなのか。
 熾織には、きっと分からない。分かろうとしても、些細な感傷でしかない。
 でも、
(ヒナは……僕の、親友だぞ!)
 ぎり、と唇を噛む。つうと血が滴り、熾織の眼光が氏家へ向く。
「なら、ヒナの言っている最近の連続殺人の黒幕は……」
 氏家はまだ息も荒いながら、にやりと笑う。
「ああ、俺が犯人だよ。言っただろう? 制約が在る限り、俺の復讐は単なる妄想に過ぎない。だから、別の誰かの手を経由するしかないのさ」
「それが、僕か……」
「はっははははははははははははぁ! 正に俺にとっての光明だよ、お前は! お前が闇姫(ディーヴァ)だという調査が出た時に、俺はお前のその特性こそが復讐の成就を可能にする鍵だと察して理事長に教えなかったのは正解だった! そうだよな、連続殺人に併せてお前が異能を使い始めたのをわざとぼかして報告しただけで、奴等はお前を追跡し始める。おかげで楽だったよ。予め確認して隠しておいた禍喰(シャッテン)を抱えている馬鹿を南下するように殺して『残留』を添付して黒い格好で倭の前に現れて姿を消す、後はお前の使っている名を名乗れば簡単だ……! いやあ、こんな簡単に成功するなんてなぁ! 今まで何を恐れていたんだ!?」
 熾織は気付く。
 そうだ。【結社(アカデミー)】の本部が在るのは霄壤学園。
 しかもその中には理事長や、生徒としての生活を送っている者だっている。
 その補佐なら、いくらでも学生の動向を知るのは容易い。
 加えて熾織は他の生徒よりも早めに登校している。風紀委員の巡回の為に。
「僕を隠れ蓑に利用して、っ……、禍喰(シャッテン)の『残留』を集めていたのか……!? あれが集まりすぎれば、何が起きるのか……知らないはずはないだろう!?」
「博識だな! 誰に教わったのか知らんが、確かにそうだ」
「ならば――」
「ならば止めろ、とでも言いたいのか!? 俺はお前達がまだ小学生の頃から憎んでいたんだ! 【結社(クロト)】も! 最強(あそう)も! そして、俺自身の運命(かみさま)さえも!!」
 怒りに正常さを失った氏家は自分の顔に指を掛け爪を立てだす。
 引き裂かれた頬の肉から血が滴り、その形相は、鬼のようだ。
 それを見た熾織は、駄目だ、と本能的に悟る。
 闇を統べる力を持って非日常に踏み入れた熾織とは違い彼は、闇の方に喰われてしまっている。心の弱さ故に短期間で人格が崩壊した賀上洋介のように。
 彼は、氏家宏也としての彼は、もう、終わってしまっている。
 すると、自分の手に自分の鮮血が付いていることに気付いた氏家は幾分か落ち着きを取り戻し、雛菊へと振り向いた。
「ここまでくれば後はもう俺の復讐は成就したも同然だ。ある程度痛めつける為にも同じ力量差の実力者と戦わせる算段だったがまさか最強と親友だったと聞いた時は冷や冷やしたよ。誤って御門が死んだら俺の計画は水の泡だ」
 す、と氏家は懐から小さな何かを取り出す。
 何か、などという不明瞭な形容は、月の光に照らされて薄く反射する刃によって熾織に理解させる。
「だが、朝生にはここで計画を邪魔して欲しくない。だから、死ね」
 ナイフを逆手に持ち替え、倒れたままの雛菊に嘲笑を浮かべる氏家。
「あぁ……良かったな、朝生。最期にやっと役に立てて……お前はいつだって人を不幸にしかしない化け物だからな」
「なっ……ふざけるなっ!」熾織はうつぶせに蠢き、激昂する。「貴様のような自分しか見ていない者に、ヒナの何が解る!?」
 氏家はちらとそちらへ向く。
 その何とも言えない驚きの表情に、熾織は訝しむ。
 氏家が、にたぁ……と下卑た笑みを満面に浮かべた。
「おいおい御門ちゃぁん、お前にだって何が解るのさ、ええ? 自分の下心の為に戦う奴がさ。第一さぁ、お前……憤怒(ラース)の禍喰(シャッテン)に侵食された原因が父親を殺された理不尽さ?」
 くつくつと笑いながら、

「嘘吐くのも大概にしろよテメェ」

「……え?」
 外れた声を出したのは雛菊だった。
 熾織は肩をびくりと震わせ、目を剥く。
「なぁにが『非日常に足を踏み入れた運命から逃げずに全うするため』だ……。お前がもっと前から禍喰に侵食され始めてたのも俺だけ知ってんだよ」
「――っ」
「……どういう、こと?」
 窺う言葉に、熾織は怯えた。雛菊はますます訳が解らなくなる。
「熾織ちゃん、が……闇姫(ディーヴァ)になったの……三ヶ月……前の……」
「違うんだよ、違うんだよ朝生! それは完全に侵食されるきっかけなだけだ。こいつはもっと以前、一年半前にこそ闇姫(ディーヴァ)の兆候を現し始めていたんだよ!」
「や、違っ……」
 熾織の否定の言葉が耳に入るより先に、
「……ぇ?」
 雛菊の表情が歪んだ。
 一年半前。
 その単語。
 それは、朱音や雛菊にとって、二人が三人になったきっかけの頃。
 忘れるわけがない。
 すぐに気付く。
 一年半前。
 中学二年の秋。
 それは――、
「……熾、織……ちゃん?」
 絶望の眼差しを向けてしまっていることに、雛菊は自覚が無かった。
 信じたくないという想いを察知した氏家は、高らかに声を上げる。
「そうか! 気付いたか朝生!! そうだよなぁ! お前も知らないはずがないよな! 一年半前に御門に何があったか!」
「やめ……やめろっ、言うな……!!」
 叫ぶ。だが言うことを聞かない体は前には進まず、止めることも出来ない。
 届かない切なる祈りを殺すように、氏家は雛菊に笑いかけた。
「そうだよな! そうなんだよ朝生! お前はいつだって人を苦しめるしか能の無い奴なのさ! こいつが闇姫(ディーヴァ)になった元凶、それは――」
「やめろぉおおおっ!!」
 熾織の声がする。
 でも、雛菊は可能性として出る一つの『答え』に、何も考えられなかった。
 そう、だ。
 必ず忘れてはならないこと。
 ついつい忘れてしまうこと。
 雛菊は、朝生雛菊は、代行者。
 最強の天使、メタトロンの代行者。
 代行者は天使に居場所を貸し与える為に、人間性という因果の一部を失う。
 総ての代行者には絶対で、総ての代行者には当然の欠落。制約。
 最強ともなれば、その罪深さ≠熏ナたるもの。
 何しろ、触れた相手の祝福、つまり幸運を自分の物として奪ってしまう。
 現在確認されている代行者の誰一人として居なかった、他人を傷付ける制約。
 自分ではなく、他人を苦しめる枷。
 神様に愛され、人間に呪われる枷。
 なんでだろう。
 今まで戦闘という殺し合いの世界を知らなかったからだろうか。
 それとも親友と殺し合う、想像し得ない世界と巡ってしまったからだろうか。
 いや、違う。
 恐れて≠「たのだ。
 判っていても、
 真実が恐くて、
 知られるのが恐くて、
 自分も知るのが恐くて、
 何も考えないようにしていたんだと、思う。

 蓋を閉め、
「あ、……っ」
 鎖を繋ぎ、
「ぁ……、あ」
 錘を付け、
「あぁ……ぁ、」
 深く、深く、深く、
 疑念のままにして、沈めた。
「ぁぁ……あ、私……わたっ……熾織、ちゃんっ……私っ、……私が=Aっ!」

 なんでだろう。
 なんで、忘れてなんかいたのだろう。
 姫宮朱音を不幸にした。
 御門熾織を不幸にした。
 触れる者総てを不幸にする。だから、身近な人間は真っ先に呪われる。
 ……なら、『二人だけ』が雛菊の身近な人間だったのか?
 呪われた可能性があるのは、その『二人だけ』なのか?
 違う。
 違う。
 居た。
 居たじゃないか。
 他にも呪われていた人が。
 その兆候が出ていた人が。
 身近に感じて、
 よく遊びに行った、
 雛菊の大好きだった、
 お母さんのように頭を撫でてくれた、
 親友の母親≠ェ。

「お前に祝福を奪われて事故死した母、御門熾乃の――お前への復讐心だ!!」

 叫びが。
 氏家宏也の言葉が。
 突き刺さる。
(熾乃さんは……私が、)
 雛菊の魂を、串刺しにして。
(ワタシガコロシ

「違うっ!!」
 その悲鳴のような一声が、雛菊の流れそうになった涙を止めた。
 熾織は、既に泣いていたから。
「熾織ちゃん……」
「確かにそうだ……っ! 母さんが死んだのは……僕が堕ちたように、朱音が苦しんだように、もしかしたらヒナがいけないんじゃないかって! 思った! でも……それでもっ! 僕が闇姫(ディーヴァ)になったのも、君と本気で向き合って、戦ってるのも! 全部、全部っ……僕自身の意志だ! 誰が悪いかなんてどうだっていい!! 僕はっ……僕はヒナを信じる! だから、ヒナ……君は泣くな! 絶対に泣くんじゃない!! 何時のときだって、笑顔を貫き通せ、ヒナぁ!!」
 地面に頬を擦り付けて。
 涙で真っ赤になった眼で。
 見たこともないグシャグシャな泣き顔で。
 なのに、
 なのに、彼女は雛菊を信じてると、言う。
 言って、くれる。
「し、おり……ちゃん……っ」
 だから雛菊は、ぐっと下唇を噛んで堪えた。
 涙を流す無意味さを。
 悲しみ暮れる弱さを。
 絶対に、守り通す。
 あの日の約束は、絆は、

 枷かもしれないけれど、三人の大切な、救いだから。

「……っ」
 雛菊のその噛み締めるような表情に苛立ちを覚えた氏家は、唾を橋に放った。
「はいはい友情ゴッコは終わりにしろよ、どうせ死ぬ奴に何希望持たせてんだ」
 ちらつかせていたナイフを、今度は勿体振らずに雛菊へかざす。
「させない……! させて、たまるかぁぁああああ――!!」
 熾織は両手を地面に突き、一気に押す。
 腹部に開けられた風穴が、尋常ではない激痛を奔らせる。
 火花が見える。痛い。痛い。苦しい。
 でも、
「『種を植えたら芽が生えた』!」
 ここで諦めたら、
「『水を掛けたら伸びてきた』!」
 親友を見放したら、
「『光を見せたら喜んだ』――!」
 絶対に救われない青年が居るから。
 だから、死なせない!
「『喜望峰の花が咲く。綺麗で可憐な黒い花、闇より暗く月より眩しく』!!」
 姫の謳歌。
 呼応する闇。
 伸ばした腕から、最後の力の込められた闇が蔦のように伸びた数本の影が、氏家に飛来する。
「無意味な事を……浅はかな女だよ、御門」
 氏家の背で、翼が淡く煌く。
 因果の均等化によって硬質性を中和された蔓に、氏家は左腕一払いで四方へ弾く。
 視界中をばらけてゆく影に、しかし氏家は眉をひそめた。
 単なる攻撃なら、もっと奇抜で読みにくい形状を描けばいいものを。しかも鞭のような攻撃にも関わらず総てが直線で進んでくるのはいくらなんでも何も考えていなさすぎ――、
「まさか……!」
 氏家は視界の右端へと飛んでゆく一本の影を捉える。
 影を裏拳気味に叩いて神術を発動したが、元々硬度自体は殆ど均等化された攻撃が目的ではない影なのか、変わらぬ速度で突き進む。咄嗟の判断ミスで、速度か重量を抑制させる選択を忘れたのが仇になった。
 迅速に振り返る。しかし、意に的中した結果はもう手が打てなかった。
 影に足を掴まれた雛菊が、一瞬地面に引きずられた直後天高く放り出される。まるで人形のように四肢をブラつかせて、明滅する純白の翼を背にした雛菊は墨のように黒い河へと落ちていってしまった。
 舌打ちをする氏家。欄干に走り寄り下を覗いたが、今の衝撃で天使化(アドベント)が解けたのか、どこにもあの目障りな程の光は見えなくなっていた。
「くそっ……」
「――はっ、……はぁっ……はぁっ……!」
 肉体も精神も酷使した結果、重力に対抗していた腕さえも地面へぱたりと落ちる熾織。ぐったりしたまま浅い呼吸を繰り返して、汗ばんでどこか青ざめたような顔に勝ち誇ったような笑みを浮かべてやった。
「……も、……誰も……死、な……せない……死な……せて……たま、るか」
 弱々しくも、しかし負けてはいないと言っているような熾織に、氏家は苦い顔をすぐに嘲笑に戻した。
「ふん……あれ程の出血量だ、我々特有の因果耐候は殆ど起こせてはいまい。いくら最強でもあの状態で水の中に入るのは自殺行為だ、変わらんさ」
「変わっ、たさ……ま、だ……希望、は……ゼロ……じゃない……」
「それでお前は残る、と? どうせなら自分を助けるべきだったな」
 欄干から手を放し、氏家はナイフを懐に仕舞って御門の傍に立ち止まった。
 熾織は薄っすらと開けた瞳で、怖気づくことなく真っ直ぐ氏家を見上げる。
「……そ、れでも……いい……僕、は……僕はまだ……殺され、ない……」
 腹部を押えていたいが、手に力は殆ど入らない。因果耐候、恐らく代行者や異能力者のように因果の移り変わりの裏側に居る者達は、ある程度の物理的な傷害を受け付けずに済む力が備わっているようだが、神術や異能はその因果の移り変わりの裏側の世界の力。目には目を、の要領だろう。毒に毒が効くこともあるように、耐候を持つ力同士は打ち消しあってしまい、結果、さっきから動く度に傷口が開いてしまう。高速の回復力も適応されない。それだけではないだろう。攻撃の大本は熾織の影だが、支配下は氏家のはずだ。回復という概念もレリエルの神術によって抑制されていたら、それこそ回復は期待出来ない。
 だがいい。熾織は体力に頼らずに済む思考を練る。
 氏家は先程、熾織の事を利用価値があるように言っていた。それでなくても、二度も攻撃をした熾織ではなく全く攻撃をしていない雛菊を先に狙った点からしても、熾織を限界まで衰弱させるのが目的だと察することは容易だ。
「全く……っ! ガキのくせに頭が回る奴ばかりだ……さっきだって姫宮も、目が覚めて四回五回の会話で、俺が一連の事件の黒幕だと理解しやがったさ。喜べ御門、お前の大好きな『朱音ちゃん』は将来は刑事としては有望だぞ?」
 けらけらと笑い出す氏家。彼の人格を知っているわけではないが、明らかにさっき始めて見た時から随分と人格の変貌が加速している。七年もの間の闇が、塞き止められていた水のように一気に精神を汚染しているのだ。
 だが熾織は、氏家のそのふざけた物言いに、目を見張った。
「……待、て。……貴様……朱、音に……、『さっき』……?」
「ああ、ここへ来る途中に遭ってな。どうせお前がオトモダチとして配慮をしたってトコか? まあ電撃何度もブチ込んで今のお前みたいなボロカスにして路上に放ったけどな、くはっ、はははははははははははは……!!」
「き、貴様ぁ……!」
 怒り心頭に身を捩る。
 激痛で吐血する熾織に、氏家は暗い笑みを引き攣らせる。
「知ったほうがいけないんだよ! どいつもこいつも目障りなぐらいに理解しやがるから! 俺の目的を邪魔しようとするから! 人間じゃない奴も、ただの人間も、俺を小馬鹿にしたような目が、うざったいんだよぉお!!」
 なんという、傲慢だ。
 熾織は最早憐れみに近い感覚でそう思う。
 深い深い闇に捕らわれ、最早希望の光など見えない底へと沈んだ魂。
 朱音が居た熾織や、熾織が居た賀上洋介のように、初めから光そのものさえ存在しない、救われることのない汚染された精神。
 この男にはもう、救済など何処にも無い。
「はぁ……はぁ……もういい、七面倒臭い説明はうんざりだ。時間が無いんだ。そろそろ【結社(アカデミー)】の連中等が来てしまう」
 氏家は腕時計を見て、彼女の二の腕を掴んだ。
 衣擦れが傷に障り、熾織は顔を歪める。
「触るな、変態……」
「止せ御門、可愛い顔でそんな言葉使うなんて時任じゃあるまいし。『戦姫』がそんなんじゃ男子生徒の人気も落ちるぞ?」
 嘲りに調子付かせた言葉に、熾織ははっとした表情で氏家を見つめた。
 至近距離で表情を変えた彼女に氏家は首を傾げると、熾織は、すぐに嫌悪の表情を顔に満遍なく刻んだ。
「そういうこと、か……貴様っ、……賀上に堕ちるよう唆したのも貴様だな」
「――! 素晴らしい……! そこまで読めるなんて本当にお前は子供か?」
「なんて奴だ……っ、下劣め……!」
「兼ねてから進めていた俺の復讐が始まってから、妙に俺は運がいいんだよ。お前が町中の禍喰(シャッテン)を『残留』に変えてクロト達代行者でも干渉出来なくしただけでなく、お前に好意を寄せ侵食の兆候を見せていた男子生徒に入れ知恵してお前に殺させたのも、気持いい程の段取りの良さだ。おかげでこうして、総ての布石は揃った。後は居住区を縦に奔る『残留』を連鎖反応させて、邪神(サクリファー)を発現させれば、その軌道上にある霄壤学園も壊滅的ダメージを負う算段だ」
「さく、りふぁー……?」
「なんだ、それは知らないのか。まあいい、それよりさっさと起きろ。お前の異能、宵の詩集(アンソロジア)≠ェ俺の復讐の最後の鍵になるんだよ」
 能力の名まで知っている。惚けるのは無理だと熾織は内心で舌打ちした。
 だが、このままこの最低な男の言いなりになるつもりだって、無い。
「ふんっ……何を、するつもりか知らないが……宵の詩集(アンソロジア)≠ヘ僕の為だけの異能だ。他人には使えないし……貴様の為に、使う、つもりもない……ぞ」
 たとえ拷問を受けようとも、熾織は過ちを犯すつもりなど毛頭無い。
 朱音や雛菊だけではなく、知らなかったとはいえ命を奪ってしまった賀上の為にも、絶対に利用されることだけは

「ああ、別にいいよ。お前の意思なんて無くてもお前が生きてりゃそれでいい」

「……は?」
 思わぬ返事に、顔を上げる。
 氏家は『なんだそんなことか』と言いたげに澄ました顔をしている。
「……どういう、」
「なあ、お前さぁ」遮るように答える氏家は、薄く笑んだ。「昼の屋上で使った空間の反転隔離。あれ、お前一人の力だと思ってたのか?」
 言ってる意味が、
「……わか、らないぞ……っ」
「あぁあ、お前は確かに一年半もの間コツコツと闇を膨らましてたようだが、闇姫自体になったのはほんの数ヶ月前だぞ? そんな奴が空間を歪めるなんて神通力紛いの莫大な因果歪曲、一人で出来ると思ってたか? 演算に次ぐ演算。それでなくたって空間を二層に重ねた状態で殺る気が無かったとはいえ最強を相手にして空間を維持し続ける事が、お前には可能だったのか? というかさ、お前昼間の戦闘の時ガンガンに我忘れて戦ってたのにあのクロトが空間破砕に手こずったの何でだ? 答えは簡単。違う誰かがお前の演算を助けてた≠ゥらさ」
 ぎくり、と。熾織はその言葉の意味を深く理解し、気付かされた。
 この男は、代行者であると同時に、異能力者でもある。
「俺以外にこんな禁忌を犯してる奴が居ないんで確証は無いんだがな、神術と異能は同じベクトルの性質を受け付けないらしい。つまり全く正反対の能力が備わるってことだな。では質問です、俺の神術はどういった性質でしょうか?」
 レリエルの神術は、他者の能力を抑制する力。
 その対極。
 熾織は一度だって、自分の能力を支配された感じは覚えなかった。
 それは暗に、完全に相手の力を乗っ取るのではないということを指す。
 抑制。
 均等化する力。
 つまり、徐々に弱める力。
 その逆は正に――、
「まさか……っ!」
 熾織の眼が見開かれる。
 かつてないほど、にんまりと恍惚めいた笑みを浮かべた氏家の返答。
「他者の能力を誘発させる異能、光にも似た闇(シャイニング・ダークネス)=B見事に正解だ」
 その言葉と引き換えに伸ばされた氏家の掌が、
 逃げようと動き出す熾織の顔を、
 より正確には額を覆うように掴み、
「だが及第点ではないな。唯一の穴は……お前の運の悪さだよ、御門」
 キィィィン――!
「あ、がぁぁぁあああぁぁあぁあぁぁあぁぁぁああああっ!?」
 甲高い音が頭の内側で弾け、熾織は目を白黒させ絶叫する。得体の知れない何かが全身の血管を駆け巡るような想像を絶する気持の悪さには、叫ばずには居られなかった。
 どうして、こんなことになったのだろう。
 熾織は、最後に与えられた一瞬の内に、そんなことを考えた。
 そして、
 がくん、と意識を失ったように頭を落とし、流れる寸前で押し留まっていた涙が頬を伝う。
 手を放し、氏家は立ち上がって右腕を上げる。
 その動きにまるで操り糸でも繋がっているかのように、周囲の影が熾織の身体を宙に縛り上げた。
「……、くっ」
 落涙の美女を生贄のように掲げ、氏家は狂気に染まった笑い声を噛み締める。
 七年。
 長すぎた闇。
 それがついに今日、
「さあ……総てを終わらせようじゃないか、御門! くははははははははは!」

 どぱぁ、と。
 泥のように蠢く闇の怒涛が、水伽橋から月明かりを埋め尽くした。










『倭君! 病院を出たら直ぐに水伽橋へ向かって下さいっ。迅速に、火急的速やかに!』
 一度切れ再び鳴った、本部に居るクロトからの携帯に、昴流は彼女の焦った声に怪訝な顔をした。
「どういう、ことですか……?」
『氏家との連絡が途絶えました。今回の連続殺人に彼が関与……最悪の場合、彼が黒幕である可能性が在ります』
 その言葉に、一瞬昴流は理解が遅れた。
「え……何を言ってるんです? 氏家さんが、犯人と……?」
『考えてみれば簡単な事ばかりでした。何故こうも見落としていたのかも』
 クロトの声は機械と感じる平淡なものだが、混じる焦燥は電話越しでもしっかりと伝わる。
『御門熾織の、彼女の動向が……何処へ向いていたのかを』
「何処へ……?」
『朝生君と姫宮君ですよ。彼女は何時だって朝生君と姫宮君とばかり接触していました……それは逆説、彼女の目的に我々や神凪町は全く関係有りません。そもそも彼女は賀上洋介以外の人間の死がこちら側の人為性を持つ事自体を、知らないのではないのでしょうか? 単に運良く死体から「根源」を感知して、回収して回っていた。それが、元々彼女に回収させることが目的とされていた死体だと知らずに』
「それが……氏家さん、だと言うんですか? そんな馬鹿な……」
『それだけではありません。氏家も腐っても代行者。本部に居るのは当然です。御門熾織を含む、霄壤学園の全生徒と教員の動向を確認出来る。だから私も、彼にそれを命じた。今回の件は霄壤学園を含んだ一帯の人間が関与していると。だから氏家は捜します。命ぜられた通りに彼は全生徒の動向を調べて回った=Bつまりそれは、御門熾織以上に行動を怪しまれずに、御門熾織が朝生君への攻撃を目論んでいる事を知る事が出来るということです。しかも、それを我々に報告せず、隠蔽することも出来る。「そんな馬鹿な」、そう意識する程、絶対に裏切らないと思う人間は、正に盲点ではないですか?』
「……っ」
『確証は無いですが強ち捨てきれる話では有りません。今すぐ氏家を捜し出し事の真意を知らなければ……っ』
「……判りました。至急水伽橋へ向かいます!」
『我々もすぐに向かいます。交戦中の筈の朝生君の携帯が河に流れているのも、只ならぬ事態の可能性も有ります』
 そうして息も吐かせぬ間に切れる携帯をポケットに入れ、昴流は病院の裏口から一気に走り出した。
「くそっ……雛菊、無事で居てくれ……っ」





 携帯を切り、クロトは振り向いてそこに居る面子をざっと見回した。
「電話口で言っていたように、氏家の現所在を突き止める作業に移行します。ブリジット君は私と共に水伽橋へ。八月一日宮君はシャルロッテ博士と合流し万が一氏家が行方を晦ました際の逃走ルートの割り出しをバックアップして下さい」
「了解……!」
「は、はいっ」
 ブリジットは身を翻しすぐに部屋を出る。澪は懐から黒いシンプルな携帯を取り出し、電源を入れている。
 クロトも手に持ったままの携帯から番号手帳欄を開く。彼女達にとって最悪の状況になった場合に備え、第二研究部署だけでなく緊急時の情報網を敷ける第三研究部署にも救援を頼む必要があった。
 だが、第三担当博士の名前と番号が記された画面で通話ボタンを押す一歩前、無機質な振動音が低く鳴った。画面には、シャルロッテの名が表示されていた。
 何かあったのかと通話ボタンを押して耳に押し当てる。
「博士、大変な事態に陥って――」
 応対する少女の声は、クロト以上の焦燥を持って叫んでいた。
『緊急厳戒態勢発令(エマージェンシー・オン)! たたたっ、大変なのはこちらでありますです!!』
「エマっ……、コードレベルは既にイエローが発令したままで持続している筈では?」
 瞬間、
 彼女の疑問は、直後の館内放送サイレンによって掻き消された。
 クロトは、背筋が凍る思いでこの音を耳に、振り返った。
 イエローの次にある厳戒態勢の発令条項は、一つしかない。
 急いでリモコンを操作し、立体映像を起動させる。居住区を移し、そこに現在感知されている『残留』の位置と、因果歪曲の反応を同時に表示。
 居住区に、巨大な一本の赤い線が現れた。毛糸のように細いそれは節を持って完全な線とはならずに街を縦断している。
「なっ……!?」
『居住区の上空三十から五十メートル付近の空間に、急速な歪曲反応確認!』
「歪曲、なんてものでは……っ」
 明らかに違った。
 禍喰(シャッテン)による空間の歪曲は、形として現すなら『穴』だ。
 『本来そこに存在しない』という性質を持つ存在は、言うなればこの世に在る限り矛盾を創り続けることになる。
 だからこそ穴と表現すべきである。それは物体に出来る風穴という意味だけではない。
 空気に穴が開けば真空が出来上がり人間が呼吸すれば一息で簡単に死に至る。重力に穴が開けば圧力を失い体内の内臓等が口から出てくる。光に穴が開けば屈折率が崩れた物体は人々の視界から忘れ去られ、気温に穴が開けば凝結によって大気が膨張し総ての物が溶け、物理的な大惨事は火を見るより明らか。
 それだけではない。因果とはつまり、精神的な部分にも当然関与する。
 言葉、時間、歴史、感情、関係、そしてお互いを認識するための記憶さえも。
 禍喰(シャッテン)はあらゆる存在に穴という『その存在の絶対』を創り出す。いわば広がる波紋のような形状が常だ。
 だが、クロトの眼前に広がる空間の歪みは、点と点を線で繋げたように、居住区のど真ん中を奔っている。
 こんな形状、見たこともない。
『恐らく二つの禍喰(シャッテン)の因果歪曲に軌道上の「残留」が引火して起きたと思うでありますです。一つ一つの威力は許容範囲内でも、それが連鎖反応を起こして数珠繋ぎなってとんでもない因果律創生を起こしているのでありますですっ! これはもう歪曲ではなく崩壊、これは……正に……邪神(サクリファー)!』
「邪神対策応戦(アラート・レッド)……!!」

 呟いた瞬間、映像の――神凪町居住区の一部が赤い点の渦で埋もれた。
 場所は、神凪郷土資料館。





 ゴウッ……!
 地面を揺らす衝撃に、氏家は勢い良く振り返る。
 遥か遠い夜の空に、煌々とした光が輝いている。
 ここからでは何が起きているかは見えないが、その光に、氏家は喚起に笑う。
「は、ははっ……やったっ……『文献』の通りだ! やったぞ!!」
 両腕を広げ視線を上げる。
 橋の中腹。
 欄干に影を伸ばして空中に蜘蛛の巣のような物を創り出し、地面から一メートル程浮いた状態で両腕を拘束された熾織は、土色気の顔で気絶していた。
 彼女の腹部からは止め処ない血が滴り落ちていて、足元には水溜りのように赤黒い色が広がっている。死んでは本末転倒と、影を操って強引に傷口を塞いではいるのだが、風穴も同然の一撃を応急処置もせずに止血できるはずがない。
 だが氏家はそんな様子などまるで気にも留めず、全身をぶるぶると震わせて嗤っていた。
「遂に! 遂に遂に遂についについにツイニツイニツイニツイニツイニッ!」
 橋を包む半円形の結界の中で、狂気に塗れた混沌の者は叫んだ。
 既に笑い過ぎと叫び過ぎで口の端が切れて血が流れているにも関わらず、白い清潔そうなスーツの胸元に赤い汚れを創りながら、憎悪の力を顕現する。
「来い! さあ来い! 遮る総てを屠れ! 阻む総てを潰せ! 総てを破壊し、希望を絶望に塗り替えて! 圧倒的に! 無作為に! その力を示せ!!」
 降臨。
 その名は――、

「山神様の怒り(デイダラボッチ)っっ!!」





『でいだら、ぼっち……っ?』
 電話口のクロトの声からして、初めて聞く名前であることはすぐに判った。
「伝奇には精霊の王、人間の中立にして絶対、といった物言いをされている、一種の山や森の神様の名前でありますです」
 神化計画(セラフ・プロジェクト)、第二研究部署総合官研究執務室。
 クロトの雑さを言うことも出来ない程に、資料やデータディスク、コード、デバイスチップ、何かの機械の充電器、旧式フロッピーなどぐっちゃぐちゃになったゴミ溜りの部屋で、椅子も机もあるのに床の残骸が無いスペースに直にパソコンを置き、【結社(アカデミー)】本部から送られてくる居住区の因果歪曲のデータを見て、スカートなのにあぐらを掻いてシャルロッテはそう答えた。
「なるほど……どうやら、これ自体が邪神(サクリファー)として見るべきのようでありますですね」
『どういうことですか?』
「巨大なのでありますですよ、デイダラボッチ自身が」
 首を傾け、携帯を肩で挟んでシャルロッテはキーボードを叩く。
 画面に入力されたデータをファイルに添付し、それを向こうに送る。
「神通力を起こすのではなく存在自体が神通力のような力を発揮している存在であり、要はそこに居るだけで『何かを起こす』のではなく『何かが起きる』のだと思うのでありますです。山形地方の伝奇には、富士山を創り上げたのはデイダラボッチで、琵琶湖は富士山を創る際に掘られて出来たとあるぐらいでありますですから」
『……つまり簡単に解釈するなら、デイダラボッチの質量は……』
「尋常ではない量なのでありますです。全長約一五〇メートル、体密度は限りなく人間と同じだと思われるでありますです」
 別ウィンドウを開く。『文献』に記録されている邪神(サクリファー)の欄の一つをクリック。表示された、まるで眼の無い鯨のような頭部をした、全身が赤い鱗を纏う半透明の人型にシャルロッテは追記表示されている数字を見て渋面を作る。
「構造自体は周囲の土や水、空気を喰い尽して粘土のように固めたようなものだと思われるのでありますです。ただし、水分や土という形の有るものまで吸収していれば、普通の人間と密度は同じはず……人間が一五〇メートルなんて大きさになると、比例された密度はとんでもない重さを生じるでありますです。まず自重で物理的に立ち上がることが不可能。歩けたとしても震動が連続して繰り返され、それが頑丈な地盤であっても簡単に捲れ上がるでありますですよ。もし『攻撃』を受けたりしたら悲惨も悲惨でありますです。ざっと計算しても、腕の一振りだけでも高層ビルが降ってくるような破壊力は確実……人間なんて軽い物体、多分、人の形を留めていないでありますでしょうね」
『笑えない、話ですね……っ』
「本当に笑えないのでありますです。デイダラボッチの出現で、足元の神凪郷土資料館は壊滅しているのでありますです。唯一の救いは数日前に殺人事件が起きたことで警備員も居なかったことぐらいでありますですが……」
『ですが、そんな危険な力を対処するには……、郷土資料館が壊滅?』
 パソコンのコンソールを弄りながら、電話の向こうで声色が変わったことにシャルロッテは小さく頷いた。
「形成に選んだ対象物が物理的過ぎて、デイダラボッチはさっき言ったように自重で動けない状態なので、恐らく迎撃は可能でありますです。ただし見掛けの重量も怪獣並でありますですので、ある程度離れた所からでも攻撃が可能な人でありますです。しかしそれでも十数分の足止めぐらいにしかならないかも知れないのでありますです。ここはやはり……雛菊さんに出撃して貰う以外は無いかも知れませんのでありますですね」
「――、」
 そこでクロトは、シャルロッテの口から出てきた思わぬ名前に、携帯を取り落としそうになった。
 思考が空白に染まり、やがて現れたのは、滲むような怒りと焦燥だった。
「……やられました……」
 ぎちり、と携帯が軋む音は自分にも、そして多分向こうにも聴こえる。
『やられた? 何がでありますですか?』
「……そうだったのですか……、氏家の狙いはこれだったんですか……っ!」
 悔しさに表情を歪め、クロトは立体映像を覗き込んだ。
『氏家さん? 氏家さんがどうしたのでありま――』
「今回の事件、真犯人は御門熾織ではありません。氏家宏也です」
『……、えっ!?』
 素っ頓狂な声を上げる相手を無視して通話を切り、クロトは映像に映されている郷土資料館と水伽橋とを見比べて歯を食い縛った。
 これこそが、氏家が御門熾織を利用した本当の理由。
 氏家が彼女を利用したのは、単に自分が疑われない隠れ蓑としてではない。
 そうだ。少なくとも【結社(アカデミー)】に属する者の大半は、雛菊が御門熾織と親密な関係にあることを周知の事実としている。今回の情報の割り出しを受け持った氏家にとって、御門熾織が【結社(アカデミー)】と敵対すれば、確実に動くのは雛菊だとも判っていただろう。しかもそれだけに留まらず、二度三度と決着が着かなければ間違いなく二人だけでの接触を図り、御門熾織は雛菊と戦闘を開始する。
 そう考えれば御門熾織が決戦の場に選んだのが水伽橋なのもたまたまではない。救援なりし増援なりし、他者の介入に困る二人が民家が少なく、万が一に逃走出来るよう廃屋街を背にする必要も有る。
 そうなった時、もし、その介入者に奇襲されたとしたら?
 制約のせいで雛菊には攻撃出来ないが、氏家も戦闘が出来ないわけではない。
 何より立体映像に表示される水伽橋での反応が、事態を物語っている。
 その際、氏家にとって、最大の障壁となるのは雛菊と、そして自分だ。
 だから氏家は邪神(サクリファー)の操作位置を水伽橋にした。
 『残留』の発生順を律儀にも南下させ、二人を引き剥がした。
 北から来るデイダラボッチ。
 南にて待つ氏家と御門熾織。
 これでは、少なくともクロトが氏家の元へ向かうことが出来ない=B
「代行者に直接的な攻撃が不可能の氏家にとって、私が最大の難関。ならば、私が北へ……死亡率の高い場所へ往けばいいという算段なのですか……?」
 クロトは低く呟き、テーブルの端に握った拳を落とした。
 車椅子に座る少女の肩が、びくりと揺れた。
「氏家宏也ぁ……っ! そんなことに、そんなことに関係の無い者を……!? 闇を得る為だけにまだ引き返せた筈の者を殺し、今度は神凪町の人間達を諸共殺めるつもりなのですか!? こんな、こんな我々を狙うだけの理由で=I!」
 判っていた。
 北端と南端、二つの場所からの軽度の因果崩壊を利用した連鎖反応。
 その経路の中には、この【結社(アカデミー)】本部が在る霄壤学園の上も通っている。
 氏家が狙う場所がここでなければ何を狙うというのか、氏家が上昇志向を抑え込んでまで、クロト=フェルステンベルクという存在への忠誠の日々。
 まさかとは思っていた。かなり以前にシャルロッテから注意されていた禁忌。代行者でありながら異能力者でもあるという前例の無い危険な存在のことを。
 思えば、氏家が二度目の実験を強く申し出たのも、【結社(アカデミー)】創設時に忙殺されたクロトが『どうせまた失敗する』『次失敗したら厳禁にすればいい』などと軽い気持ちで承諾してしまったのも、彼の画策が既に始まっていたことを裏付けてはいないだろうか。
 彼の狙いは、ここ。
 そう、ただの学園一つ破壊する為に。
 我々逸れし者の集団を殲滅する為に。
 軌道上にある何千何万という、
 何の関係も無く安らかに眠っている者達を、
 たったこれだけの為だけに。
 犠牲に、しようとしている。
 クロトは左手に握り締められている携帯に視線を落とす。
 自分は、【結社(アカデミー)】の、延いてはこの神凪町に住まう全ての人間達を、絶対に護らなくてはならない使命がある。
 下すべき、命令が在る。
 視線をテーブルへ向ける。
 そこには、赤い点の波の中で移動する白い光点が居た。
 橋へ向かう昴流。
 学園を出たところのブリジット。
 自分と、車椅子の少女。
 そして――、
 クロトは携帯のボタンを操作する。
 つい最近、念の為にシャルロッテに頼んで得ていた、
 彼の、電話番号を。
 通話ボタンを押した。





 ジクジクとした痛みが、頭の内側で反響している。
 綺麗な絨毯に汚い染みを広げるようなそんな重たい痛みに朱音は目覚める。
 暗闇の中。慣れていない眼ではどこかまだ判らない。
 全身の感覚が、無い。
 当然だ。痴漢を撃退するつもりでこっちが補導されかねない程の威力を放つスタンガンを五発か六発ぐらいは受けた気がする。
 それで殆ど意識の繋がっていない中で、腹や足、顔を散々に蹴られた辺りで、完全に昏倒した所までは何とか記憶にあった。
 多分、気絶した後も暴行されたかもしれない。
 それでも激痛に苛まれながら、五体が満足なのは確認出来た。
 五分、十分と蠢いていると、やがては眼も闇に慣れてくる。
 どこかの倉庫のようだった。そこら辺に機材の入っているらしき箱があり、ごちゃごちゃとした狭苦しい場所に朱音は後ろ手に縛られて居た。ただ、あまりにも狭すぎる部屋で、恐らくは倉庫の更に小部屋の奥にぶち込まれたのだと理解は出来た。
 叫んでみるかと思ったが、すぐに無理だと気付いた。口に分厚いタオルで猿轡をされていた。
(ち、……くしょ……氏家の野郎……っ、)
 窓の一つもない小部屋でなんとか自由になれないかと考えていると、懐で何かが震える感触がある。
 ズボンの左ポケット。携帯だ。マナーモードでブルブルと震動するそれに眼を向け、朱音はすぐに脳をフル回転させた。
 携帯が鳴る、という意味合いが指し示すのは二つ。
 事が過ぎた後の朱音の捜索の一環。
(それだったらマジ泣きそうだけどな……)
 苦笑し、朱音はここへきて短絡的なポジティブを貫き通すことに専念する。
 まずは、ここを脱出する必要がある。気絶といっても数分から長くて数時間、その状況で電話してくる馬鹿は、一人しか居ない。
(……んのクソ野郎、こういう時に生徒頼るかよ普通……)
 無論、普通でないから掛けてきたのかも知れないとも思えるが。
 何にしても今の朱音には拘束を解く方法を探さない限り電話には出られない。そうこうしている内に携帯はぱたりと止む。愛想を尽かされたとでも思ったのだろうが、ざまぁみろと猿轡のされた口でもごもごと言ってやった。
(俺は、まだ終わらねぇ。終わる訳にいくかってんだ! 幼馴染(ヒナ)と親友(しおり)だぞ!)
 朱音は体中が痛いのを我慢して、まずは思いっきり全身を揺すってみせた。
 しかし後ろ手に縛られている縄は予想以上にきつく締められていて、無意味に終わる。痛みで気付くのに遅れたが、どうやら足首も縛られているようだ。これでは単なるマゾ覚醒の練習と変わらない。
(くっそ……何か、何か無いのかよっ)
 眼を細めて見回すが積まれているダンボールや木箱の中身は書類やらプラスチックの組み棒だったりして、とても刃物にはならない。窓があればそれを割って刃物代わりにするか強引にそこから這い出るということも出来ただろうが、抵抗されることを見越してここを選んだに違いない。なかなか用意周到な男だ。
(くそぉ! 解けろよ! ほどけっろぉぉおっっ……!!)
 最後に取っておいた頭の足りてないような手段に無茶苦茶に足掻いてみたが、追跡や捕縛がプロの氏家を相手になまじ子供の犯罪程度の悪事しかしたことの無い朱音にはどうすることも出来なかった。
(……ちくしょう……無理、か)
 想うだけならいくらでも出来る。今日の内に知った言葉だ。
 だがこればかりはどうしようもなかった。
 朱音は悔しさと怒りに滲む表情を浮かべて、力無く横に倒れこんだ。

 かたん、

(――、っ!?)
 金属の擦れるような音が、あまりに無音すぎるが故にはっきりと聴こえた。
 がばっと身体を起こす。
 暗闇に何か、硬い触感を感じた。
 懸命に辺りを捜すが、床には何も落ちていない。
 何が鳴ったのか。
 はっと、朱音は知った。
 そして、苦痛と焦燥に染まっていた表情に、
 あの、水伽橋で賀上洋介に向けたような、
 絶対に負けない為の、勝ち誇る笑みを強く、凶暴に、浮かべた。

 彼の右ポケットには、非日常を殺す異質の刃物が収められている。





「――邪神(サクリファー)……っ!?」
 その単語を耳にしたブリジットは、先程から地面を薄く揺るがす震動の震源、郷土資料館の在る方角へ向き直った。
 真っ暗闇に満天の星屑が散りばめられていた世界の果てで、煌々とした淡い光が発せられている。建物のせいで何が起きているのか判らないが、受話する携帯の相手から、平淡ながらも焦りの滲んだ声が返ってくる。
『山神様の怒り(デイダラボッチ)。算出されたデータを元に博士がそう言いました。現在自力で立ち上がれるだけの構造補強を実行中で、もしもそれが完遂されればデイダラボッチは霄壤学園を潰す経路を南へ進行するでしょう……その軌道上に居る、一般市民を巻き添えにしながら……』
「……っ!」
 ブリジットは冷水を掛けられたような感覚を覚えた。
 そう、それは、警告のような感覚。
 もう繰り返してはならないという=A本能からの命令の、恐怖。
「……なっちゃうんですか?」
『……?』
 小さく呟くブリジットは、遠い遠い彼方に異質の降り立つ、まだ時間には程遠い夜明けのような白みを見つめ、
「なっちゃうんですか……? またっ! アタシの故郷が消えたように=I! この街まで、またあんなっ……! 絶望だけが残るような景色が、また……! ここでもなっちゃうって言うんですかっ!? クロトさん……っ!!」
『……ブリジット、君……』
 パキパキ、という乾いた音が足元で鳴る。
 常軌を逸しかねない程の感情の激昂により自然と天使化(アドベント)してしまった彼女の周囲で、空気が瞬時に低下する。
 しかしその眼光だけが、触れれば火傷するかのように光を放って空を睨んでいた。
「……させない……絶対っ、……ぜったいぜったい、させない……!!」
 彼女の畏怖が、
 まだ実際にこの眼で見たことも無い異質と伝説の顕現が、
 そこに在る。
 怖い。
 とても、怖い。
 もし自分が『北へ行ってデイダラボッチの進行を食い止めろ』と言われても、何を起こすのか判らない、窺知しがたい存在の元へ向かうなど、怖すぎる。
 でも、
 彼女が居るのは、彼女が唯一口にする事の出来る、故郷だから。
 やっと出来た居場所だから。
 失いたくなど、ないから。
 この町中に在るべきその笑顔を、失って欲しくないから。
 クロト=フェルステンベルクの秩序と平穏に、
 倭昴流の守護の意味に、
 朽ちるはずだったこの命の総てを燃やしてでも貫くと決めたから。
 この身にまします氷雪の天使の、誓いにも似た象徴が、
 確かに、在るから――。
「失うだけ失った! これ以上、失うなんて死んだほうがマシです!!」
『……』
「クロトさん! 行きます……! アタシが、アタシが――北へ!!」
 矜持と氷雪の天使シャルギエルの代行、ブリジット=ハミルトン。
 その全身全霊の渇望が、携帯へと叩き込まれた。
 数秒の無言の後、溜息が小さく聴こえた。
『言っても聞かないのは充分に判っているつもりですので、止めはしません』
「クロトさん……!」
『ですが、貴女は後衛からの支援攻撃です』
 表情をぱぁっと輝かせた途端に、クロトは機械のような声色で切り払った。
「後方支援、って……でもアタシ一人じゃ何があるか分かったもんじゃ……」
『当然です。貴女と八月一日宮君とで後方支援、前衛は……』
 その時、電話の向こうから、ジャコンッ、という筒の噛み合うような音が聴こえた。
 ブリジットは頬を引き攣らせる。
「ま、まさか……」
『私もデイダラボッチの攻撃に回ります。倭君一人に南を任せるのはいささか危険ですが、今回ばかりは彼の思惑に操られるしかなさそうですからね……』
「は? 彼……?」
『何でもありません。五分後に大通りにある「三連鉄橋」の一つ目の場所にて合流しましょう。事態は一刻を争う状況です。失敗も、赦されません』
「はいっ……」
『それから、』
「……?」
 一瞬口篭ったクロトは、うな垂れるような感じで、そう言った。
『すみませんでした。これは、我々大人達が解決すべき事なのですが……』
 ブリジットは、にっと意地悪く笑ってみせた。
「冗談、アタシは充分オトナですよ?」
『……そうですか』
 相変わらず平淡で無愛想に感じる声。
 だが、
 くすりと控えめに笑う気配が、したような気がした。
 通話を切る。
 それをポケットに入れ、ふとクロトとの会話の中の一言に気付く。

『――倭君一人に%を任せるのはいささか危険ですが――』

「……あの、バカ」
 だけど、よかった。
 ここから先は、
「っしゃあ!! やってやろうじゃない! 絶対に、ここは奪わせないわよ!」
 非日常らしい戦場になりそうだ。



2007/04/16(Mon)07:32:48 公開 / 祠堂 崇
■この作品の著作権は祠堂 崇さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
第六章です。
ここから戦闘とかゴタゴタした騒ぎになるので、比較的タイピング速度は上がると思います。そういうスピーディが好きな選り好み野郎です、すみません。謝り癖が着いた昨今。

ちなみな余談。
もう大半は気付いてるでしょうが、プロローグと二つの間幕は雛菊搬送(第五章終了時)〜夜が来る(第六章開始時)の途中の断片的なシーンです。視点も若干朱音寄りですし。
ばらばらな配置にしましたが、一度目間幕→二度目間幕→プロローグの順番です。そっから朱音帰宅&【結社】捜査開始、という流れです。
つまり、こんなややこしい書き方したがために、第五章と第六章の間に起きている『ゴタゴタ』は見事にぶっこ抜かれてます。
本当に御免なさい。書き始め当時は『味かな』とか思っていた様がこれなワケです。決してメンドクサイというわけではっ……!(そしてまた謝ってる自分に気付く)。

何はともあれ、第六章の始まりです。
もうちょいで終わるかな? という感じで(←ペース配分の予告が下手なバカ)。
かしこ。
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