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『光の子』 作者:夜 / ホラー ショート*2
全角5303.5文字
容量10607 bytes
原稿用紙約14.25枚
不条理随筆風小説。サラリーマンと胎児との会話。シュルレアリズム傾向。
 よく晴れた春の日だった。昼食を終えて店を出たとき、時計を覗けば、会社に戻らなければいけない時間はまだ先だった。余り店が混んでいなかったせいで、私は思いがけない余暇を手に入れた。
 はてどうしたものかと考えを巡らせながら歩き出すと、緑地公園が右手に見えてきた。確か、やや遠回りにはなるだろうが、この公園の東口から入り、北口から出れば会社に通じることが出来る。案内板の前でそのことを確認して私は決心した。散歩も兼ねて、公園を通り抜けて会社に戻ることとしよう。
 昼下がりの公園は静かだった。温かみを帯び始めた風が柔らかく開きかけた桜のつぼみを揺らしていた。犬を連れた散歩者が数人居る以外、人通りはほとんどいなかった。暑くなり、私はコートのボタンを外した。氷雪が大地を閉ざしていた季節は終わりを向かえ、これから始まる命の新生の季節が足音を鳴らしている。
 ふと見ると、穏やかな陽光の中、ベンチに胎児がいた。六ヶ月程度だろうか、既に人としての器官をほとんど完全な形で備えており、半透明な皮膚に投影された木の葉が奇妙な模様を描いていた。小さな四肢を器用に使い、大人よろしくベンチに腰かけている。頭部には微かな短い産毛が生えているだけで、透き通る胸部から腹部にかけては内臓の形を読み取ることが出来た。桃色ないし薄い橙色に見えるそれらは、心臓の鼓動に合わせて脈動のリズムを奏でる。ドグンと中央の臓器が脈打つたびに、太い血管に押し出されていく血流の動きが見えた。顔に切れ目を入れたような細い瞳はどこを見ているのか定かではない、春の景色の中、ただ何をするというわけでもなく、気持ちよさそうにそこに胎児は居た。
 へその緒はベンチから地面へと垂れ、そのまま公園の地面に流れている。追って目を走らせれば、公園傍のマンションの一室のベランダの中へと消えていた。恐らく母親の午睡の間に、日向ぼっこに出てきたのであろう。
 母体より公園の環境のほうが居心地がいいのだろうか、私は首をかしげた。時計を見ると、要求された就業時間はまだ遠い。不意に一つ考えが浮かんで、私はほくそ笑んだ。つまりはこの胎児とひとつ禅問答でもして時間をつぶそうというのだ。そこで私はベンチに歩み寄り、片手を上げて挨拶をした。
 「やぁ、どうだい、気持ちよさそうじゃないか。」
 胎児はたっぷり三秒間、そのままの姿勢を維持した。やがて酷く緩慢な動きで私のほうへと首を向けた。細い双眸の奥で、彼もしくは彼女は私を見ているかどうかは不明である。とにかくしばらく私に顔を向けていた後、胎児はようやく口を開いた。母を呼ぶ子猫のような、ガラス細工の脆さを秘めた声が私に答える。
 「ああ、気持ちいいとも。あらゆる化学物質に汚された母の子宮の中よりずっと気持ちいいさ。」
 手厳しいな、と私は肩をすくめて苦笑した。確かに、人間ほど人工的な物質に汚染された動物はいないように思える。隣の席を請うと、胎児はまたゆっくりと、時間をかけて一つうなずいた。こうして私たちは、陽光で温まった木のベンチに並んで腰掛けた。
 胎児は自分から話題を提供しようとしなかった。そのような社会的な気遣いをまだ知らないし、知る必要もなかった。彼もしくは彼女にとって、沈黙は別段気まずい存在ではない。が、私にはそうもいかなかった。私の存在など目に入っていないように、相変わらず虚空に切れ目の双眸を向けている胎児を数度横目で盗み見て、私は意を決して問いかけた。
 「君は、いつ生まれるのかね?」
 胎児は私のほうを見ようとはしない。私という存在にまったく興味がないのだろう、と思い知る。否、私だけではない。彼もしくは彼女は、いかなる人間にも興味を抱いていないのだ。今彼もしくは彼女を魅了してやまないのは、飽くまで新鮮な空気と麗らかな日差しであり、私との問答はただ、問われたから答えるだけという、呼吸に等しい生理的な行動であった。
 「“生まれる”というのが、魂や自我を持つことをさすのなら、私は既に生まれている。」
 どこか遠くの空を見ながら、彼もしくは彼女は答えた。おいおい、と私は首を振る。皮肉なジョークに答えて微笑もうと試みた。だが、すぐにそれが私の思い違いであることに気づいた。ジョークなどというものを胎児が会得しているはずはないのだ。社交性の一片すら知らない生き物だ。非は完全に私にあった、私の問いが不鮮明で曖昧だった故に、胎児は的確な答えが紡げなかったのだ。そこで私は、一度数分の時間をかけて沈思し、幾度か脳裏に口にすべき文句を並べて、最も正確な問いを模索した。これはこれより以降、私と胎児との対話を通しての私の癖となったので、我々の会話は非常に長い時間を挟んで、ポツリポツリと続けられることとなる。
 「君は、いつお母様の腹から外に出て、私たちの仲間として産声をあげるのかね?」
 これが、慎重に考慮を重ねた末に私がたどり着いた問いである。どうだい、と少しばかり自慢げに私は答えを待った。胎児の答えは存外早く、沈黙の間は僅か数秒であった。
 「残り三ヶ月と二週間と五日と二十八分五十二秒だ。」
 思いのほか正確な解答に私はいささか驚いた。医師の診断などというものは、やがて廃れていくのではなかろうか。しかして、胎児がこうして外を出歩くのは稀な事だ。やはりしばらくは超音波によって気まぐれな彼もしくは彼女らの予定を探るしかなかろう。
 「私たちの仲間として生まれることについて、君はどう思うのかね?」
 十分に考えたつもりだったのに、その問いが口をついた途端私は激しい後悔に襲われた。なんという愚問だろう!私は未だに、人間の社会の概念を持って、超自然的存在である胎児を図ろうとしている。これではいけない。私は次に、懸命に自分の中から陳腐な社会概念を駆逐しようと試みた。その作業の間にも、胎児はどうやら私の突発的な問いの答えを探しているようであった。
 「私は全てを知っている。私にはまだ感情の機能は存在しない。故に、私は思うことをしない。考えることをしないのだよ、君。」
 彼もしくは彼女の答えは、相変わらず理解に苦しむものであった。此処にきて私はようやく気づく、私はなんという鷹揚な気持ちで胎児との問答に望んだであろう。試されているのは私ではないか。私の隣、一メートルと置かずに座っているのは全知なるものだった。神のことを思い、私たちが慄くのはその絶大な威力の為であるとずっと思っていたが、現に私は今、物理的な力に関しては無に等しい胎児に畏怖の念を抱いている。つまり、全てを知っているということは、それ自体恐れるべきものであると私は悟るのであった。
 そして、次に沸いてくるのはどうしようもない不安であった。まるで、大宇宙の星の海にただ一人で投げ出されたような不安定な感触が私を包む。重力が拘束力を緩め、思考ばかりが天高く舞い上がり無限に広がっていく危うい錯覚。胎児の答え、その短い言葉が繰り返し私の中で響く。私の想像力は、知への渇望は、無意識のうちにそれを解読しようと奮闘する。その作業は非常に困難であり、危険であることは知っていた。一概の人間に過ぎない私の思考が、なんらかの拍子に“全知なるもの”の一端にでも触れればどうなるのか。恐らく羸弱な精神は粉砕され、二度と復元できないであろう。俗に言う発狂だ。ああなるほど、世間が狂人と呼ぶものたちは、もしやすると私と類似した経験をしているのかもしれない。身の程知らずの探求心の成れの果てが、あのような姿なのだろう。
 私が取るべき行動は明白であった。つまり今すぐベンチから立ち上がり胎児に非礼を詫び、会社に戻りあるがままの日常へと身を投じることだ。そうすれば、この記憶もきっと、ひと時の幻影として慌しい生活に埋没するであろう。
 しかし私は動かなかった。動けなかったのだ。頭脳は精神の乱れなどどこ吹く風かと、相変わらず知の大洋を漂い、もがき、欲する答えを必死に捜し求めていた。光に誘われ、炎へと飛び込んでいく羽虫のように、例えそれが近づけば焼かれ落ちる危険な真実だと知ろうと。私は、好奇に殺される猫になろうとしていた。
 唾液が口の中で粘ついた。口の中は酷く水分に枯渇していた。握り締めた手のひらには汗が滲んだ。私の身体は、正直に内心の動揺を示した。
 「それでは…、君は……」
 数度の躊躇の末、私はやっと次の問いを口にした。自我が破壊されてしまうかもしれない、身を焦がす真実を求めた。知りたい、という原始的な欲望が私を支配していた。
 「それなら、君は生まれるのが怖くないのかね?君は今、全てを知っている。そして何一つ不幸なるものに晒されることもない。生まれる、ということは、今君が知っていることを全て一度忘れてしまうことなのだぞ?」
 私の声は震えていた。自分の言葉が全知の胎児の前では、まさしく釈迦に説法の滑稽さを醸すことにすら気づかず、私は思いを須らく言葉にした。彼もしくは彼女は、母体から生まれ出るときにその知の殆ど全てを失い、一生かけてそれらを取り戻そうと模索するも、結局は現在の彼もしくは彼女らが持ち合わせている知の千分の一すらも回収できずに死ぬこととなるだろう。それなのに、どうして生まれようとする。絶望に満ちた未来を鳥瞰できる立場にありながら、どうして。
 「運命だからだよ、君。」
 胎児の答えは、これまででもっとも簡潔だった。そのことに、私は些か失望感を抱いた。明瞭な説明をほしがる私の視線に気づいたのだろうか、胎児は初めて、遥か遠くに結んでいた瞳の焦点を私へと向けた。半透明のまぶたが瞬きをした。細い切れ目の奥の虹彩は、硝子球のように感情の起伏に乏しい。それはしいて言えば、白痴のそれに一番近い気がした。
 「君が言う喪失感は、私のような何も持たないものには味わえないのだよ。それ故、執着する必要もない。」
 淡々と告げられるその言葉に、私は思わず声を荒げた。
 「違う!君には知がある。それは、断じて私たちに与えられるものではないんだ!私たちは君のように全てを知る為にもがき苦しみ、それでも真実のたったの一片にすら触れられずに死んでいくんだ。なのに君は、その権限を与えられながら、放棄しようとしている。」
 私の声は力を失った。今更のように言葉の無力を思い知らされる。漠然と私を巣食うもやのかかる思いに戸惑っていた、私は――人間は――なんと客観的になれない生き物なのだろうか。苦々しい思いを嚥下する様に、私の喉仏が上下した。
 胎児はじっと私を見つめていた。目をそらす、という概念すらも彼もしくは彼女の中に存在していないのだろう。私の視線は睨み付ける強さを持った。行き場のない苛立ちが浮き出た。己の情けなさを悔いる気持ちと与えられた情報への戸惑いが脳裏に渦を巻いた。
 「私には知があると?君。」
 怪訝という高度な感情は、無論胎児には備わっていなかっただろう。だからその言葉は恐らく、私の意見を再確認するためのものだった。私は神妙に頷いた。
 「それは間違いさ。私は知を所有していない。知は、誰にも所有できないのだよ。」
 鋭い稲妻が私の体躯を突き抜けた。呆然とした表情を胎児に向け、私はしばし自分の思想を整理するのに手間取った。知は誰にも所有できない、その言葉を幾度か己の中で繰り返した。その真理は、私が今まで積み重ねてきた全ての理性や概念を粉々に打ち砕く可能性を秘めていた。私は、考えることを止めた。神経が粉砕される未来図が、此処に来ていよいよ鮮明に私を揺さぶったのだ。矮小な人間であることに甘んじることによって、私の日常が保たれていることは、痛いほどに悟っていた。
 夢遊病者のように、私はよろめきながら立ち上がった。胎児は私が立ち上がった後に残された空白のスペースを変わらず数分間見つめて、それからようやく背を向けた私の姿を追った。何か一言立ち去りの挨拶くらいはするべきだとも思えたが、私の磨耗した神経には既にその余裕が残されていなかった。
 「幸福であれよ、君。そのまま、幸福であれ。私が生に希望を持てるように。」
 不意に空気を揺らした波動。振り向けば、ベンチに胎児の姿はいなかった。先ほどへその緒が繋がっていたベランダを見上げると、若い主婦らしい女性が洗濯物を干していた。彼もしくは彼女の母親が目覚めたのだ。母を驚かすことのないように母体へと戻ったのだろう。そしてそこで丸まって、生まれ出る日を待つのだ。
 ああ、出来る限りの努力をしよう、と私は呻いた。おのずと自嘲の気配を帯びた苦笑が頬を歪ませた。臆病な私は、結局真実の欠片に触れることすらも怯えた。解脱の機会を見送り、人間としての生活を選んだのだ。
 それはそれで、悪くもなかろう。いつの間にやら酷く冷たくなった風を浴びながら私は歩き出した。緩慢な歩みで、ゆっくりと会社へと向かう。どんよりと暗い空に、雨の予感が混じった。
昼休みはもうすぐ終わる。非日常に等しい日常の中へと、私は足を速めた。
2006/11/25(Sat)00:19:26 公開 /
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