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『僕らの小さな手には… 一〜三(前)』 作者:聖藤斗 / アクション ファンタジー
全角60541.5文字
容量121083 bytes
原稿用紙約179.25枚
この世界に、存在するべきではない人が生まれてくるのだろうか? 僕らは、一体何の為に存在しているのだろうか? その全てを、その真実を見るために、「護る」力を持つ少年は、立ち上がった…。
   序章

『気付いたら、やってしまっていた。そうするしかなかったのかもしれなかった』


「…一体、なんなんだよこれは!?」
 声の主は僕を見て驚く。彼が驚いた表情をしたのは初めてだ。僕は彼が楽しそうに笑っている姿しか見たことがなかった。
 僕は虚ろな視界の中で何が起こったのかを知るため、辺りをうかがう。一面に花が咲いたかのような赤いペンキが塗りたくられている。僕の町にこんな落書きがあったか暫く考えてみるが、思い当たらない。
 僕は次に、何かぬめりとした感触が付着する両手を見た。ペンキだ。僕がペンキを撒き散らしたのだろうか。それなら何の為に行ったのだろうか。
「なぁ、何があったんだ?」
 僕は脱力感に包まれた思い体を引きずりながら彼に歩み寄っていく。まるで心の奥の何かが砕けて引き離されているような感じだ。何があったのか全く思い出せない。
 僕はとうとう、彼のすぐ目の前で床に落ちた。赤いペンキがどろりと僕の頬に塗りつけられていく。生暖かいペンキだな。何も考えられないまま僕はぼんやりとそんな事を思う。
 生臭い、鉄の香りが僕の鼻を刺激するまでは。
「あぁあぁぁああぁああぁああぁあぁぁぁっ!!」
 叫ぶしかなかった。叫んでいないと、気を保っている事ができなかったのかもしれない。
 何か、僕の中の何かがこの鉄の匂いをかいだ瞬間、壊れた気がした。僕はその壊れた痛みに耐える強さなんて無い。だから、その痛みを発散させるために僕は必死で叫んだ。
 彼はそんな僕を抱きかかえると、叫ぶ僕を哀れむような目で見た。
――助けて…誰か俺を助けてくれ。
 頭を掻き毟り、ガチガチと歯を打ち鳴らす音が聞こえてくる。
 僕は一体どうしてしまったのだろう。僕は悲痛な叫びを上げながら、「血」に染まる箇所へぎょろりと目をやった。

――僕の心は、その時、完全に壊れた…。

 真っ赤な鮮血の中で、「ソレ」は無残な姿になって横たわっていた。体のあらゆるものを「吸収」されてしまったかのような、そんな状態だった。
「俺は…僕は…ボクハ…オレハ……」

 もう僕は何も考えられない…。

 全てを知ってしまった結果なのかもしれない。

 ただ、最後に僕を抱きかかエル彼ノ言葉ハ聞こえた。


――大丈夫、イツマデモ、君トイッショニイル…。


――別に悪い奴を倒すために戦ったんじゃない。

――別に英雄になるために行動してたんじゃない。

――どちらかと言えば、僕らは「敵」の存在なんだから。

――ただ、生きたかっただけなんだ。

――でも、僕らは知ってしまった。

『この世界は始まりを迎えたばかりだという事を…』


   僕らの小さな手には…

   第一話「始動」


 結城純は、またあの夢を見て、吹き出るような汗と共に飛び起きた。なんだかゲームで言う「RPG」のような話だったような気がした。しかも、それに出てくるのは、全て知らない人物であり、そして身に覚えの無い場所だった。
「また、あの夢か…」
 結城は冷え切った汗に身を凍えさせながらベッドから出ると、かなり汗を吸ってしまっているシャツを脱ぎ捨て、そのまま部屋の隅にあるシャワールームへと駆け込んだ。風呂場優先のスイッチを押してから真上から降り注ぐ熱湯の中へと足を踏み入れ、暫く壁に体を預けながら浴びる。気持ちの悪い汗を流していく熱湯の感触が心地よい。だが、ずっと入っているわけにも行かないので、軽く浴びるとすぐに浴室から出て、タオルで体を拭い、下着を身に着けるとキッチンへと向かう。いつもならすぐに上がって朝食の支度をするが、今日は何故か食欲がわかない。というより、何もやる気が起きないと言った方が良いのかも知れない。
「…一体、何だ? あの夢は…」
 結城は拳を握り締める。何故かは分からないが、あの夢を見た後、とても右の拳が疼くのだ。それは、小さい時、両親がまだ「排除」されていなかった頃から起きる現象だった。
 今日は休むべきか、シャワーを浴び終え、湯気を立ち上らせながらタオル一枚の姿でシャワールームを出ると、濡れた足のままフローリングの床をぺタリ、ぺタリと歩いていく。今まで風邪は一度か二度くらいで、後は特に高校を休んだ覚えは無い。別に今日休んだとしても出席数は今のところ足りているのだから一度サボっても特に変化は無いだろう。今日やった授業の内容は明日隣の奴にでも聞けば良い。
そうだ、そうしようと結城は独り言を呟き、早速大テーブルの中央においてある黒い塊のような電話の受話器を手に取る。が、その受話器から突然気の抜けるような曲が流れ出す。着信の音だ。結城は面倒くさそうに右端の青いボタンをピ、と押して受話器を耳に近づけた。
「はい? こちら結城で――」
『結城君!! 早く学校来ないと遅刻しちゃうよぅ!!』
 こちらの言葉を途中でぶった切るように、少女の大きく元気な声が結城の耳を貫いた。
「あー。悪い、今日調子悪いから俺、休む」
『何で? 理由は? 教えてよぅ』
 結城はまだ湿り気がある髪を掻きながら「うるせぇ」と一言呟くと、がちゃんと乱暴に電話を叩き切った。
 刹那、玄関からブザー音が鳴り響き、誰かの存在を知らせ始める。結城は面倒臭そうにTシャツとジーパンを身に着けるとまだ乾ききっていない髪をクシャクシャと掻きながら玄関へと向かう。どうせ何かの勧誘か何かだろう。警察では無い筈だ。親はもう「排除」したのだから、自分の家に来る意味が無い。
 結城は一息ついてから、丹精込めて作った笑顔を浮かべながら玄関のドアを開き、「どちらさまでしょうか?」と元気良く言った。結城は自分の根っこが暗いという事を認めている。その結果、引越しするまでの間、小、中学と仲間がいない生活を送っていた。結城自身別にそれでも構わないと言っていたのだが、親が「排除」されてからは何故か孤独でいるのが辛くなってきた。単に心の拠り所がほしかっただけかもしれないと結城はなんとなく思っているが、その為に必要なのは「明るさ」「笑顔」「ノリの良さ」だった。
 結城は入学時からその必要性を感じ、鏡の前に立って何度も練習し、そして見事にさわやかな笑顔を身につけたのであった。
 結城の笑顔が、固まった。
「何ですか、元気じゃないですかぁ」
 目の前でプンプンと頬を膨らませて立っている黒い艶のある長髪の少女「空乃唯」はそう言うと、ズカズカと靴置き場まで入り込むと目が泳いでいる結城の背中を押しながら家に上がった。
「てめぇ、何人ん家に入ってんだよっ!」
「問答無用ですっ! 早く学校行きますよぅ。結城君」
 唯は嫌がる結城の衣服を遠慮なく無表情で剥ぎ取ると馬乗りになってワイシャツとネクタイをぴっちり着せる。唯は結城の上を着せ終えると「次はズボンですぅ」とジーパンに手をかけた。結城は耐え切れずに、自分でちゃんと着るし、学校も行くからやめろ。と叫んでしまった。唯はその言葉を聞いて、満面の笑みを浮かべていた。
 
 何故か、唯に対してだけは結城の創りだした「仮面」が出なかった。それに、暗くもならなかった。彼女の言う事の一つ一つが、結城の中の何かを刺激し、自然な笑みを作り出させてくれていた。毎日無理やり唯に引っ張られて登校するのは癪だが、彼女の本当の「明るさ」を見ていると、どうしても嫌いになれない所があった。
 結城と唯は二人並んでスクールゾーンと白く太い線で書かれたコンクリートの道をゆっくりと歩いていく。小学生達がその横をキャッキャと騒ぎながら走り抜けていき、それを笑顔で見送る母親、遅刻を恐れて脱兎の如く走っていく父親の姿も見られる。どこからどう見ても、平凡な町だ。結城はボォっとしながらそんな事を考えていた。
「そういえば、もうすぐお祭りですねぇ」
 唯がにっこり笑いながら結城に話しかけた。
「そういや、もうそんな時期か…」
「今年こそは二人とも恋人作って、ダブルデートと洒落込みましょうやぁ!!」
「何故にダブル? 別々でもいいじゃないか」
 遅刻を示すチャイムが鳴り響く。そろそろ門が閉められる頃だろう。自分と唯は既に遅刻決定だと言うことを不意に思うが、彼女の方が気にしていないので、結城も特に気にしない事にする。 
「そういえば、この間のニュース見ましたぁ?」
「ん? どんなニュースだよ」
 結城は少しムスッとしている唯を見ながら問いかける。
「この街でまたNOBODYが発見されたそうです。まだ未覚醒者だったらしいですが、気付かずにいれば、次の日には覚醒していた可能性が高いらしいですぅ」
「あ、そう…」
 唯のニュースを聞いて、少し結城はイライラした。政府はいつもそうだ。自分に都合の悪い存在はすぐ消しにかかる。
 最近新たに当選した総理の「皆本義之」はどうやら、「NOBODY」の存在が一番煙たいようであった。彼が当選するまでは全くと言っていいほどNOBPDYの存在を恐れて誰も口出しせず、それによって犯罪が横行していたのは確かだった。しかし、時には偶然なってしまった者達もいた。
「そういえば、皆本総理の新法律『超能力禁止法』だっけ? 何であの人、そこまでNOBODYとかにこだわるんだろうねぇ」
 唯はのんびりと顎に細い指を当てながら呟いた。結城はふむ、と腕組みしながら新総理の考えを予測しようとする。だが、きっと自分には全くと言っていいほど想像のできないものなのかもしれない。そんな気がして、つまりは面倒臭くなって、結城は考える事をやめた。既に二人の中に「遅刻」という文字はないようである。
「もしかして、不思議な力が怖いとか?」
 冗談交じりで唯にそんな事を呟いた。唯は「かもねぇ」と呟くと、歩幅を広げて移動スピードを上げた。結城は彼女の早歩きに着いて行こうとはせず、マイペースを守る。いつも校門前に来ると唯が歩幅を広げる事は知っている。それが何故なのかは知らないが、どっちにしろ、同じクラスなのだから特に一瞬離れたって関係は無い。
「ねぇ」
 唯は結城の顔をマジマジと見て呟いた。
「何?」
「もしもだけど…私が」
 その時、全てを吹き飛ばすような、そんな勢いの強い突風が巻き起こった。結城は背中を風に押されて三歩進み、唯はスカートを抑えながら四歩進んだ。
 突風はすぐに収まり、また静けさを取り戻す。
「何?」
 結城が問いかける。唯が珍しく問いかけてきたのだから、それに答えを出すべきなのだが、突風で彼女ののんびりした声は聞こえず、問いかけも分からないままだった。
 唯は結城の瞳を見据える。いつも明るいはずの彼女が、その時だけ結城には、それが何故か悲しそうに見えてしまった。ドラマでカップルが感動的な別れを告げる時、女優が演技するような、潤んだ目。結城には一瞬、そう見えていた。
「やっぱりいいやぁ」
 唯はにっこりと笑うとそのまま駆けて行ってしまった。結城は彼女のその行動を見て、一度首を傾けた。
「なんだよ、教えろよ」
「秘密!!」
 結城は問いかけを気にしながらも、唯の後を追って走っていった。


「結城さん、確かにあなたの成績はしっかりしているわ。」
 次の授業のために駆け出していく教師達で騒がしい職員室に、ヒンヤリとどこか冷めた女性の声がした。その女性、二年五組の担任「白井渚」は鋭く端が尖ったようなデザインの眼鏡をクイ、と上げると、目の前で平然として立っている結城に視線を投げかける。
「でもね。毎日のように遅刻じゃ、成績があっても先生関心しないわよ」
「別に、関心されるためにやってるわけじゃないんで…」
「黙りなさい。今は私が話しているのよ。静かに聞く」
 結城の反論を軽く怒鳴って断つと、白井は話を続ける。くどくどと長ったらしいお説教やかつての偉い先生とやらの言った言葉を羅列していくかのような、子供にとっては安っぽい、そんな言葉のように聞こえた。
「つまり…トーマスエジソンの偉大なる言葉が…」
 白井はくどくどと偉人の名前を挙げていく。結城は脳が麻痺し始めている事を感じ、このままでは眠ってしまい、説教の時間が長くなると考えた。結城は気を紛らわすために熱弁を振るっている白井の後方に存在する時計を見上げ、そして時刻を確認する。
 十一時二十分。学校の門を潜ったのが確か九時半。つまり、約二時間はここで説教を食らっている事になる。
 唯は三組。担任も違う。つまり、彼女を受け持つ担任は人柄の良さと寛大な心が有名な教師「神崎ユヅル」という社会の教師なのだ。彼は遅刻をしても「まあ、ちゃんと来たんだから」と簡単に言い放ち、一時間目の欠席まで消滅させてくれる生徒にとってはいい教師なのだ。
「白井先生、何故遅刻に対する説教で『へミングウェイ』が登場しているのですか?」
 結城が朦朧とした意識でいる時、不意に白井の背後から穏やかな高い声が聞こえてきた。結城はその声にハッとし、途端に目を覚ます。味方がやってきた。結城の表情が緩んだ。
「あら、須川さん。職員室まで来てどうしたのですか?」
 振り返った白井は眼鏡をギラリと輝かせて、目の前にいる容姿端麗の少女「須川梓」を睨んだ。
 白井は容姿の整った女子生徒がとても嫌いなのだ。自分より若い者を見ることがとてつもなく悔しくて堪らないらしい。そのため白井の授業時は必ずといっていいほど男子の間で人気のある女子に次々と難解な問題を突きつけ、解けないと言った瞬間嫌味の篭った野次を飛ばすのだ。
 その口八丁な白井の天敵とも呼べる存在が、この学校のアイドル的存在の「須川梓」なのである。
「うちのクラスのHRが未だに始まらなくて、困っているのです。一体うちのクラスの担任は、どこで誰を私たちを待たせ続けながら説教しているのか…、気になりません?」
「それは気になるわねぇ。でも、遅刻続きの彼にも責任はあるわよ?」
「彼は毎日マイペースで学校生活を送っている空乃さんに着いていってあげているのです。それに、彼女の説教が終わっているのにまだ結城君の説教が続くのは、不公平ではないでしょうか?」
 梓は冷たい視線を投げかけながら白井に向けて槍のような一言を浴びせていく。対する白井はその槍を捌きながら別の言葉で返しの手を必死で狙っている。そんな光景だと結城はのんびりと思う。梓の説教を止めに入った事には感謝するが、よくよく考えるとこれで授業が潰れるのだから、どちらかというと結城にとっては、説教のほうが楽であったりする。
「…お二人で頑張ってください…」
 結城はそう呟くと、白熱した梓と白井の論争の真ん中を突っ切って職員室を堂々と出て行く。梓はその結城の行動を見逃さずに監視し、白井との論争を完全にぶった切ると脱兎の如く駆け出していき、同じく職員室を出て行った。白井はほけーっとした表情で、二人の出て行った職員室の入り口を見つめていた。
「また結城純ですか? いい加減彼に関わるのはよしたらどうです?」
 白井の隣で黙々と仕事を続けていた教師が終わった頃を見計らって白井に話しかける。白井は少し申し訳なさそうな表情で隣の教師を見て、手をもじもじさせる。
「いえ、やっぱり例え『未覚醒者』であっても、覚醒していないのなら人間です。覚醒するまでの間だけでいいから、彼には『人生』を歩ませてあげたいんです」
 白井は薄ら笑いを浮かべて言った。隣の教師はガラリと引き出しを開けると、数枚束になっているプリントを取り出した。
「白井先生は、今年赴任したばかりでしたよね? これを見てください」
「これは…?」
 白井はそのプリントを手に取ると、覗くように見つめる。何かの名簿のようである。クラス順に並んでいるようだ。
「それは、この学校の『未覚醒者』の数です。つまり、俗に言えば『存在してはいけない者』または『NOBADY』と呼ばれる者のなり損ないのリストです」
「でも、おかしいですよ? もしそのリストがあるのなら、前の学校でもそのリストを見ることになるはず…。何故、この学校だけでワタシは見ているのですか?」
 白井の問いかけに、教師はしばし黙り込む。途中、タイミング良く他の教師に声をかけられ、白井の横から職員室の外へと教師は消えていった。白井は、その教師が帰ってきてからまた問いかけてみようと考え、黙々と仕事を始めた。
 白井がこの間行った抜き打ちテストの丸付けを始めようとしたその瞬間、ガラリと職員室の扉が開き、四、五人の迷彩柄の衣服を身に纏った体格の良い男性が入ってきた。肩には鈍い光を放つライフルを提げ、いかつい顔で周囲を見回している。
「覚醒者が生徒に現れた、と言うのは本当か?」
 第一声がそれだった。ふざけている。白井は溜息を深く吐くと、四、五人の迷彩服を着た「戦争オタク」を無視し、抜き打ちテストの丸付けを再度始める。校長か誰かが忠告して学校から追い出して終わりだ。白井は容赦なくハネや丸のチェックを行い、そして容赦ない点数を容赦なく赤ペンで書き込んでいく。ほとんどの生徒が半分も満たしていない。白井は少々腹が立った。
「もう少し、お待ちください。今、校長がお見えになりますので…」
――何故、校長を呼ぶのかしら? 何か大事でも起こったの?
 白井は流石に気になり、抜き打ちテストから目を離すと緊張して固まっている右隣の数学担当教師「池田充」に小さく「何事?」と声をかける。
 すると、池田は驚いたように白井を見ると、同じく小さな声で「知らないのかい?」と呟く。
「…彼らは政府が創った『対NOBADY訓練者』達ですよ。彼らがNOBADYに覚醒した者達を駆除するんです…。本当に、自分がNOBADYじゃなくて良かったですよ」
 池田はほんの少し安堵の表情を見せた。
「…なるほどね、私の前の学校は田舎だったから、そういうシステムがまだ行き届いていなかったのかしら? けれども、生徒達だって好きでNOBADYになったわけではないのに、『駆除』は酷いんじゃないの?」
「…何言っているんですか!! NOBADYはいわば人類の敵ですよ。あの特殊な能力を使えば、可能性敵に『人類』が滅びる可能性だってあるんですよ。ほら、『出る杭は打つ』って言うじゃないですか」
 池田は小声で、しかし熱く白井に対して語ってくれたが、正直、白井は納得いかなかった。
 NOBADYを覚醒する以前にチェックし、覚醒した瞬間確保、または駆除を行い、能力をまだ扱い切れていない時を狙う。確かにNOBADYの存在は脅威だが、やはりそれも人類の兵器と同じ「使い方」なのではないか、白井はそう考える。
 とにかく、このままだと「覚醒」した生徒が駆除されてしまう事になる。白井は立ち上がると、何気ない表情で出て行き、そして授業中の教室を何気なく見ながら、資料を見て覚醒者を探す事にする。
――めんどぃわね…。
 白井はボソリと呟きながらも、リストを入念に見ては一人づつ確認していった。

   ――○――

 僕にとって、両親とはただ「邪魔」でしかないように思う。毎日自分たちが少年時代にできない事を子 供に無理やり押し付け、勝手な期待を抱いてグイグイと息子の想い等考えずに背中を押し続ける。そんな空しい存在に思えてしまう。 
 朝起きて、朝食を食べて学校に登校し、放課後には友人とゲームセンターで盛り上がり、夜に夕飯を作って食べて寝る。その繰り返しが変わることは無かった気がする。
 ただ一つ、一つだけいつもと違う事が起こった。寝る前に排除された父と母の写真が急に見たくなり、いつもなら寝ているはずの時間、僕はアルバムを取り出し、黙読してた。
 小さい頃、無邪気に笑う僕と、それを楽しげな表情で見ている父と母。
 何故か、父と母が身近にいるように感じた。一緒にいた時は必死にもがいて逃げ出そうとしていた二人の腕が、何故か急に恋しくなった。あの圧力が、そして誉められた時のなんともいえない快感が、何故か急に恋しくなったのだ。
 人が死んで初めて分かる事がある。実際にはもう「人」では無かったが、それでも産みの親である二人がいて、今の自分がいる事に気が付いた。
――やっと、分かった気がする…。父さんと母さんが俺に期待していた事が…。
 僕は不意にそんな考えを抱いていた。別に無理矢理押し付けていたわけではない。
 ただ、
 ただ…。

「…き! 結城!」
 声が聞こえた。その声で僕はパチリと瞼を開けて辺りを見回す。教室中が静かにこちらを見ている。僕はその状況が全く掴めず、ただポカンとしていた。
すると、自分のすぐ側にいた男性が心配そうに僕の顔を見た。
「何かあったのか? 何だったら、相談に乗るぞ?」
「相談? 一体何の事ですか?」
 僕は把握できない今の状況に混乱しながら、頬に手を当てる。妙に冷えた液体の感触がある。
「授業中寝るのは良く見るが、泣いたのを見たのは初めてだぞ」
 男性、つまりは今の授業「社会」の教師「鈴原清」の言葉を聞いて、やっと僕は理解した。
「泣いていた? 僕が?」
 結城は拭った手に付着した液体が涙であることを知り、首をかしげる。一体どんな夢を見て、結城は涙を流したのだろうか。自分が見た夢はとても平凡で静かな夢だったような気がしたが、そんな夢で涙を流すわけが無い。
 結城は心配そうに見ている鈴原の視線を掻い潜ると「保健室行ってきます」と一言残して虚水津を飛び出した。そしてそのまま保健室とは逆方向へと走っていき、二手の道のうち右の方を選択し、その先にある屋上への階段を一気に駆け上がった。
 勢い良く扉が開き、心地よいなめらかな風が結城の体を吹き抜けた。気分は良いのだから、今日は屋上で暫く過ごすべきだろう。保健室等に行けばすぐに担任が来るのだから、どうせなら屋上で昼寝でもしよう。結城はそう決定すると、ゴロンと横になった。目に溜まっていた涙はすでに乾いてカピカピになっている。これは顔を洗わない限り、多分落ちないだろう。
 突然、ドクンという心臓の高鳴りを覚えた。結城は跳ねるように起き上がると辺りを見回す。何か嫌な予感が結城の頭の中をさえぎったのである。
「♪フ〜ン、フンフンフンフン…フ〜ン♪」
 どこからか、誰かの嬉しそうな鼻歌が風に乗って結城の下へとやってくる。結城は眉を寄せてその声のするほうへと顔を向ける。
「いい天気だねぇ♪ こんな日には、人を殺したくなるよ♪」
 結城はその鼻歌の元が立っている場所を見て唖然とする。この高校の制服を着た結城よりも小柄な少年が一人、フェンスの上に乗って足をブラブラと外に放り出していた。
「ちょっ…と待て…人を殺したくなるって…?」
「僕は覚醒したんだ♪ 他の誰よりも強く、そして素晴らしい能力を手に入れた♪」
 少年はフェンスから降りると、にっこりと結城に向けて笑顔を見せる。結城は苦笑いを返しながら、すぐ側に偶然にも立て掛けてあった角材を握り締め、ゆっくりと後ずさる。
「命を奪う事で僕は強くなれるんだ♪ 僕の能力は『四音』…ま、僕が名づけただけだけどね♪」
 結城は全く今の状況についていく事ができずにいた。
――覚醒?
――能力?
――四音?
 三つのキーワードが混ざり合って結城の頭の中でさらにぐるぐると激しく振動しながら回転する。今自分が立っているのかさえ分からない。自分が死ぬかもしれない事への恐怖による表れなのかもしれない。
「あんた…一体?」
 結城は震える声で問いかけた。すると、少年はまた満面の笑みを浮かべ、こう言った。
「詩宗文哉です♪ 突然でごめんね♪ 死んでください♪」
 文哉と名乗った少年は、右手を水平に伸ばすと、指を勢い良くバッと開く。
 すると、文哉の右指に光が収束して固まったようなものが出現し、そしてそれは音符の形をしている。文哉はそれを結城の周囲に投げつけると、フフ、とにやにやと笑みを浮かべる。
――『戦乙女の歌声』
 文哉は満足そうに両手を広げる。
 突然、結城の鼓膜がキンと痛くなる。結城は身の危険を感じて咄嗟にしゃがんでみた。
 刹那、結城の四方で浮かんでいた音符の形をした「何か」がその耳が痛くなるような超音波が発生するとともにブルブルと震える。結城はその震える音符をしゃがみながら見た。
 突然、四方の音符から、山吹色の光の線が結城の頭を掠めて迸り、互いの音符がそれを受けてボロボロに崩壊した。文也は崩れさった音符の塊を見てほんの少し笑みの中に苦い表情を織り交ぜた。
「へぇ、避けるられんだ…。このまま受けていれば、蒸発して消えられたのに…」
 文也はフェンスから飛び降りると、しゃがむ結城に歩み寄り、手加減無しに腹に蹴りを叩き込む。結城はゴム鞠のように弾んで屋上の入り口の壁に衝突すると、朦朧とした意識の中で文哉を見た。どうやら頭を打ったらしい。どこの感覚も少しづつ薄れ始めている。
「本当に、人間ってさぁ…逃げるしか脳が無いんだね…」
「人…間…?」
 文哉はニコニコとしながら、結城に向けて強く言い放つ。
「人間って何かに頼らないと生きていけない。臆病だよね」
「…何が言いたい?」
 文哉の表情が、突然変異する。まるで鬼でも宿ったかのような怒りに満ちた表情となった。
「NOBADYだと判断された父さんと母さんを殺された痛みが、何一つ不自由なく暮らしているお前ら人間のお前に分かるか? 俺は憎いんだよ!! 人間がとても!!」
 文哉は表情を一変させ、殺意に満ちた表情を結城に向ける。すでに結城の意識は消え去り、頭をだらしなく垂れて壁にもたれている。
「…突然現れて、そんな話をされても、彼が困るだけなんじゃないのかい?」
 結城を見下すようにして立っていた文哉の背後から、突如男の声がする。文也はムスっとしかめっ面をすると、そのまま音符の塊を背後にいる男性の周囲へと移動させると、指を軽くパチンと鳴らす。
「悪いけど、覚醒した僕に人間が敵うわけ無いよ」
 超音波が波紋のように空気を伝わり、そしてそれに反応するかのように音符がブルブルと震え、そして高密度の「音」のレーザーを放ち、敵を消滅させる。文哉はそのイメージに快感を覚えながらゆっくりと振り返った。 
 そして、その歓喜に満ちた笑みは一瞬にして驚愕の表情になる。
「詩宗文哉、十六歳、未覚醒リストに記入済みの人物。両親は『NOBADY』と発覚し、そのまま連行され、人体調査の後排除。両親は『音』を操る能力を有しており、その系統から行くと、『音』に関する能力を使う可能性有り…か」
「ななな、何で、生きてるんだよ」
 文哉はゆっくりと後ずさる。
 文哉の振り返った先には、思い描いていた光景とは全く違う映像があった。レーザーを直撃したはずの目撃者は無傷。そしてその男は右手にこの学校に保管されているリストを持ち、背丈は同じくらいなはずなのにも関わらず、この学校の制服ではなく、黒いコートを羽織り、その下から日本刀を引っさげている。
「悪いけど、僕と同じ『存在』でも、生命を摘み取る存在は許しはしない」
 黒いコートを着た男性は微笑んでそう呟くと、伏せるようにして刀の柄を握り、抜刀の構えを取る。文哉はその男性の構えによって辺りが静まる様子を見て、背筋が震える。その戦闘能力の圧倒的な差を文也は見極めたのだろう。そして、自分が負ける想像もできてしまった。
「なんだよ…NOBADYってだけで両親殺されたのに、何で仕返ししちゃいけないんだよぉ!!」
 文也は音符を右手に集中させると、そのエネルギー体を、文也は自分の背丈と同じ大きさの剣へと変化させ、男性へと突っ込んでいく。
 男は柄をギュッと握り締めると、飛び掛ってくる文哉目掛けて鞘から刀身を解き放った。まだ間合いにも入っていない文哉の目の前を掠めるように、刀身は横に薙ぎ払われる。
 その瞬間、辺りに静寂が訪れ、文哉も同時に動きを止める。男は刀を静かに鞘へと突き入れると、無言のまま立ち止まっている文哉に背を向けた。
「俺と同じ存在でも、命を絶つ存在は俺にとっての悪だ…」
どしゃ。
 文哉はコンクリートの床に落ちる。何も反応は無い。まるで文哉だけ時が止まったかのような、そんな光景だった。だが、静寂が解けると共に、文哉の上半身と下半身がぶつりと断裂し、まるで噴水のように血が迸り始めた。それは同時に、文也の命が絶えた証拠でもあった。

   ――○――

「母さんっ! 父さんっ!」
 純は声を張り上げて叫ぶ。目の前に腕を交差させて兵隊が二人堂々と立ち、純の行く手を阻んでいる。そしてその交差された腕の隙間から、手錠をかけられ、顔に兜のような鈍い輝きを放つ鉄の塊を被せられ、兵隊に連れて行かれる両親の姿があった。兜の様なものと言っても、前に視界を確保するものは無く、シルエットはドラム缶に近いものである。音も遮断され、光さえも断ち切られ、絶望の中両親は死への道をゆっくりと歩んでいっている。純はその光景を、見ていることしかできなかった。
「…力が無くて、哀しいのかい?」
 そんな幼き純の肩を叩く少年がいた。光を受けて輝く白髪に、色白な肌、目は日本人にはありえないブルーの瞳。右の腕には何か不思議な柄のアザが浮かんでいた。
 純は暫くの間、連れて行かれる両親を尻目に、その特異な姿の少年に目が釘付けになってしまった。
「…それとも、大切な人を守れなくて、哀しいのかい?」
 白髪の少年は微笑みながら問いかけてくる。その時、純の周りはまるで時でも止まったかのように静寂が流れ込んできていた。
「僕は…。誰も守れないのが、とっても悔しいんだ」
 純は、その白髪の少年に大声で叫んだ。力が無くても良い。ただ、誰かを守り通せる力が欲しかった。そうすれば自分の大切なモノを守れるし、そして守るだけなら誰も傷つけなくて済む筈だ。純は本気でそう信じていた。
「だったら、『コレ』をキミに上げよう」
 白髪の少年はにっこりと笑うと、純の右手を取り、右手の人差し指と中指をそっと純の手の甲に添えた。
 刹那、手の甲が炎に包まれたかのような激痛が純に襲い掛かった。純は悲鳴を上げて白髪の少年の指をどけようとするがしかし、まったく離れようとしない。指と手の甲を半田付けしたかのようにずれさえしないのだ。純は必死でその痛みにもがき苦しむ。
「この痛みが『力』の代償だ…。だけれども、これでキミはいつか『覚醒』した時、全てを超越した力を手に入れる事になる」
 白髪の少年は指を離すと、純に背を向け、人込みの中に消えていった。
 純は指が離れると同時に綺麗に消え去った痛みに驚いていた。焼けていると思ったはずの手の甲には、火傷の痕も無く、健康体のままである。
「…あの人は、一体…?」
 刹那、連行されようとしていた両親が突然もがき始める。父親も母親も兜によって音を遮断されているはずなのにも関わらず、耳を劈くような悲鳴を上げると、まるで紙を引き千切るかのように手錠の鎖が弾け、二人は自由になった手で兜を脱ぎ去った。
 その時の二人の表情を見て、純の心臓は高鳴った。
――人の顔…じゃない…。
 純は目の前にいる「獣」のような表情をして周囲の野次馬や兵士に襲い掛かる両親を見て、「ひ…ひ…」と声を漏らしながら背を向けて走る。
「ぎゃぁああぁああぁ!!」
 父と母は地面を強く蹴って宙を舞う。そして逃げ去ろうとする純の目の前に二人して立ちふさがると、血走った目でぎょろりと純を見据え、そして小さく呟いた。
「…水鏡の盾…」
 純は一瞬、何の事を言ったのか分からなかった。目の前の両親である筈の二人が、牙を剥いて自分に能力を発動した事に対して悲鳴を上げる事で精一杯だった。

   ――○――
 
「うあぁっ」
 結城は呻き声と共に飛び起きた。そして自身を強く抱きしめると、体の震えを必死で抑えようとする。あの時の夢を見たのは久しぶりだった。フラッシュバックも消え去り、安心していたのだが、どうやらまだあの時の悪夢は精神に強くへばり付いているらしい。結城は体の震えが止まるのを感じてから、一息つき、辺りを見回す。
 いたって普通の病院だ。清潔感のある白いシーツ、カードを入れて動くテレビ、ナースコール用の小さなボタンの付いたコード、日の光を思い切り吸い込むかのような大きく透明感のある窓。
「普通の病院…か」
 結城は自身が落ち着いたことを確認すると、ゆっくりと体を横に向け、ベッドの下に用意されたスリッパに足を通す。文也と言う少年に蹴られた箇所が痛むが、立てないという訳ではないし、大怪我でもない。結城はスッと立ち上がると、ベッドを囲むピンク色のカーテンを横へと薙いでみた。
「…起きたのね」
 カーテンを薙いだ瞬間、そんな冷めた台詞が結城の耳に入る。
 目の前には、須川梓がいた。だが、何故か学校と雰囲気が違う。学校の時の須川はいつもニコニコして、穏やかな口調で皆に優しく、誰かがピンチになると、いつもその人を守ってくれる女子だ。結城の遅刻も彼女によって助けてもらったのだ。
 だが、今の須川は冷めたような口調で、静かな雰囲気はあるが、笑みが無い表情、綺麗な長髪を後ろで一本に束ねてある。学校でも須川とは、真逆に位置する存在に等しかった。
「須川、だよな?」
「…ええ、でも、そんな事はどうでもいいの。あなたに一つ聞きたい事があるのよ」
 妙に冷め切った口調で淡々と須川は喋っていく。結城は彼女の変化に少し戸惑いを見せていた。
 須川は突然結城の肩を両手で掴むと、結城の顔に思い切り自分の顔を近づける。美少女と呼ばれる女子の顔がマッチ一本分も無いところに、それも結城の前にある。結城は軽く後ろに後退した。
「…何で、覚醒していないの?」
「…は?」
 意味が理解できない問いかけに、結城の口から思わずその言葉が出た。
「…他の人はもう覚醒してるのに、何で貴方だけが未覚醒のままなの?」
「何を言ってるんだ? 須川。まるで、俺がNOBADYみたいな…」
「その通り、君はNOBADYの一人だよ。結城純君」
 須川と結城の会話を断ち切るように、その声が響く。結城はその声のした病室の入り口方向を見据える。
 そこには、黒いコートに刀を提げるといった場違いないでたちの男性がそこにはいた。短髪にがっしりとした体格。整った表情。普通の服装なら間違いなく女性を虜にする存在だろう。
「あんたは…?」
 結城は問いかけるが、
「スガちゃん。君ちゃんと説明しなさい。要点だけ言っても何も伝わらないぞ?」
「…貴方が勝手に私に説明役を押し付けただけ。説明は貴方がして。それと、スガちゃんは止めてください」
 男性はへいへい、と面倒臭そうに返事をすると、冷たい視線を向ける須川の横を通り過ぎ、結城の、目の前へとやってくる。
「…あだ名が思いつかないな…。まいっか。」
 男性はブツブツと独り言を呟くと、懐から煙草を取り出し、一本とライターを取り出し、結城の寝ていたベッドによっこいしょと爺さん臭い言葉を吐きながら座り込んだ。
「ええと、純。君は『NOBADY』について、どこまで知っているのかな? まずはそれが聞きたい」
「確か、人間の中で時々生まれる異能力を持った人間の事。大昔からその存在はいて、歴史上有名になった人物の大半が『NOBADY』だって事かな?」
 結城は教科書に書いてあった文章をうろ覚えながら唱えていった。男性は正解、と言って結城の頭を撫でた。
「そしてその存在を恐れるようになった人間は異能力者たちをノーバディ、つまり『存在しない者』という名称で呼び、駆除すべき存在とした。おかしいよな、存在しない者とか言いながら、あいつ等は俺達の存在をはっきりと知っているんだ」
「…で、何が言いたいんですか?」
「君の学校は、NOBADYが親だった子供を保護する学校だったね? 君もそうだったはず」
 結城の胸が高鳴った。
「だが、あの学校が本当は何をしていたか知っているかい? 俺も聞いた時は驚いたよ」
 微かだが、須川の表情が険しくなる。
「…異能力者駆除施設だよ…」
 結城の表情が一変した。男性はその反応を見ながら煙を吸い込み、そして輪にして吐き出す。
「あの学校はNOBADY…まあ覚醒者だ。覚醒者の子供を入学させ、様子を見る施設なんだ。勿論普通の学校だから、通常の人間が大多数だ。だが、覚醒者の子供が大体三分の一を占めている」
 ここで、須川が口を開いた。
「…学校側は生徒が覚醒し、異能力の存在に気づいた瞬間、駆除隊を要請し、裏でその生徒達を集め、 連行していく。その後、覚醒者となった生徒達は人体実験をし、モルモットのようにボロボロになるまで検査された後、この世界から削除される」
「君を襲ったのも、数日前に覚醒した生徒だ」
「でも、覚醒したか、しないかが何故分かる?」
「数日前、あの学校の「覚醒者リスト」に載っていた生徒が全員覚醒した。元々覚醒していた須川を除いてね」
「でも、それじゃおかしくないか? 何で須川は覚醒していたと気付かれなかったんだ?」
「…それは、私が元々未覚醒のリストに入っていなかったから」
 須川はそう言うと男性に合図をし、それを見て頷いた男性は懐から一冊の本を取り出す。背表紙の赤い、新しい雰囲気の本だが。文字など所々が古びている。
 男性はその本をパラパラとめくっていき、真ん中辺りでめくる手を止めて結城の目の前に押し出した。 結城はそれを目を凝らして覗き込み、「あ…」と呟いた。

 結城純
 未覚醒
 親族の覚醒者の能力「不明」
 
「このリストは不思議なアイテムで、ここに書き込まれた存在が覚醒者かどうか、親の能力が分かるしくみになっているんだ」
「…つまり、これで学校の覚醒者を見つけ出し、削除していくという仕組み」
 結城はリストをまじまじと見つめる。どうやら、自分自身の能力名は不明らしい。これは、須川が言うには「水鏡の盾」という強大な力のせいで、リストが上手く作動していないと考えるのが妥当だと結城は聞いた。
 男性はうんうんと頷くと、結城の頭をクシャクシャと撫でた。
「君にはまだ消えてもらうわけにはいかないんだよ。だから、覚醒するまでの間に体術とか、能力以外の面も鍛えてあげたいと思っているんだ」
「…能力が強くても、精神面、肉体面の強化がされてなければ、多大な負担がかかるだけよ」
 二人の言葉を聞いて、シーツをグッと強く握り締めた。既に戻れない域に入ってしまっているということは、分かるのだが、それでも突然これは無いだろうと結城は思う。
 確かに覚醒するのは時間の問題だが、それでも結城の能力が強大ならそれだけ覚醒するのにも時間がかかるはず。良くあるテレビゲーム等やテレビ番組の必殺技のようなものだ。強力な代わりに、中々自在に使う事ができない。
 勿論、結城は覚醒ですらしていないのだが。
「何か、すぐに覚醒する方法は無いのか?」
 結城は俯きながら呟く。
「何でだい?」
 男は俯く結城を見つめながら、同じく小さく呟く。
「あの時、俺を襲った奴…、俺と同じで両親を殺されてたんだ。それで、人間を恨み続けてた…。もう自分は人間じゃないって言ってたようなもんなんだよ」
 結城は自らの右手を見つめる。
「俺に強大な力があるなら、それで皆を救いたい。誰も、俺みたいに大切な人を失わせたくない。恨みに生きる事なんてさせたくないんだ」
 結城の訴えに、須川と男は微笑みを返した。その笑みを見て、結城は焦る気持ちの中に、かすかな安堵感を覚えていた。
「まあ、覚醒はショックを受けたり、自分が死に瀕したり、自らの迷いが消え去った時になると言われてる。一つずつ探していこう」
 男はにやりと笑うと、結城に手を伸ばした。結城は照れながらも手を伸ばそうとした。
「…どうやら、そんな事も言ってはいられないみたいですよ? お客さんです」
 須川の小さく、冷静な呟きを聞いて、男はハッとして伸ばした手を刀の柄にかける。
 刹那、怒号と共に清潔感のあった真っ白い壁が吹き飛んで瓦礫となり、煙幕のような土埃がたった。男性は溜息を吐くと、鞘から刀を抜き払い、同時に須川も身構えた。
「探しましたよ? 『水鏡の盾』を持っているという未NOBADY「結城純」君」
 土埃が晴れると、そこには紫のタートルネックを来た男が立っていた。キヒヒ、と奇妙な笑い声を上げている。
 その男の手は真っ赤に焼けた石のようにジュウと煙を上げている。覚醒NOBADY、つまりは覚醒者という意味なのだろう。結城はぼんやりと考える。はっきり言って今の状況に着いて行くことはできないし、説明も半分以上右から左へ抜けている。なにもかもが何故こんな唐突に起こるのだろうか、結城は巻き込まれている状況に絶望した。
「…和弥さん、どうします?」
 須川は男性の事を和弥と呼び、冷静な口調で問いかける。
「どうするって、人間にしろNOBADYにしろ、力に魅入られているんだ。ここで終わらせてやるのが一番だろう」
 黒衣の男性「和弥」は力任せに刀を右から左へと振りぬいた。ブォン、と風を切るような音が当たりに響き渡る。
 風は本当に斬れていた。和弥が刀を振るった所だけ空間に薄い切れ込みが入っている。突然乱入してきた真っ赤な手を持つ男はその横一文字に入った切れ込みに首を傾げる。が次の瞬間、男の右耳が綺麗にスッパリと吹き飛んだ。鮮血が宙を舞い、同時に男の悲鳴も響き渡る。
「なんだ…なんなんだよ!!」
「俺の能力は空間をぶった切る能力。まあ達磨落しみたいに切った空間にあった風を刃にして飛ばすだけなんだけどな」
 和也はにんまりとすると、隣にいる須川に向かって叫ぶ。
「スガちゃん。決めお願い!!」
 和弥の掛け声と共に須川が急発進し、男へと駆けて行く。身構えている男は真っ赤な手を須川に向けて思い切り振りかざす。赤い手は須川の左胸を捕らえ、そして灼熱のような温度で須川の体をプリンのようにいともたやすく貫通した
――ように見えたが、実際須川は男の真下に潜り込み、両足を揃えた蹴りを男の顎にヒットさせていた。
「…行きます」
 顎に打撃を喰らってふらふらと千鳥足になっている男を見据えると、須川は脹脛のあたりに隠し持っていた小型のカッターのようなナイフを取り出して男に近づく。
「…十秒間で良いかな」
 須川の足元の影が真っ黒く染まり、デジタル時計のようなタイマーが出現する。その機械的な形をした数字は十を示している。須川はその数字を目の端で確認すると、左手にもう一本同じ形状のナイフを握りしめ、両方とも逆手に持って動けない男に向かってナイフを一閃する。
「なんだよ、あの動き…」
 結城は目の前で謎の男を斬りつけていく須川の光景に恐怖を覚えていた。
 振っているはずの手が見えない。目を凝らしても見えるのは上腕の部分だけで、そこから下はまるで透明にでもなったかのようにすっぱりと消えている。肩が時たま稼動しているのを見ると、男に連続で斬りつけているという事が分かるが、それにしてもこの速さは異常である。
「スガちゃんの能力は『時間倍化』だ。自分が口に出した秒数分自らの体の一部を高速化できる。まあリスクもそれだけ高いけど、俺の真空よりはかなり使える能力だな」
 驚愕の表情をしている結城の隣で笑みを見せながら和弥は説明している。
 男は体中を斬り付けられながらも何とか意識を保っていた。残っている体力をフル活動して後ろに飛びのくと、しゃがみ込みながら須川を見据える。
「貴様も水鏡の盾を狙っているのか…?」
「…もう盾は彼と同調を始めています。どうやら覚醒が遅れているのもそのせい。だから、私は盾ではなく彼を必要といているのです」
 須川は淡々と言った。返り血が頬に付着しているが、拭おうともせずゆっくりと彼女は男に歩み寄る。
「…お休みなさい」
 切り裂かれ、純白を保っていた清潔感あふれる床はもう影も無く、そこには真紅の血溜りが男を中心にして円状に広がっている。もはや目の光も薄れてきているその男の耳元に、小さな口を近づけてそっと呟くと、須川は手にしていたナイフを左胸にズブリとめり込ませた。
 目が一瞬カッと開いたが、その目の光は完全に消えていた。
「死んだ…のかよ?」
 結城は目の前で仰向けに倒れた血だらけの男を見て、小さく呟く。体と声が震え、ゾクリと寒気がする。表情も放心状態のような状況になっていた。
「…死にましたよ」
「死んだな」
 二人は結城の問いに何でも無いかのように冷静に答えた。
 結城はその目の前の光景を見て気分が悪くなり、そのまま胃の中の物がグルンと目の前に散乱した。
「これが、今の現状さ」
「?」
 息遣いの荒くなっている結城は首を傾げた。
「NOBADYは今、水鏡の盾を持っていると噂される君を狙っている。中には殺してでも奪おうと考えている奴らがいる」
「…それから守るために、和弥は来てくれたの」
 須川は口の端を吊り上げて見事な微笑を作るとそれを結城に向けた。
「俺を…守るため?」
 和也は鋭い表情を解き、結城に笑いかけた。
「そうだ。君は、NOBADY…。いや、全てを守るための力がある。つまり、君は俺達にとって『救世主』なんだよ」
 結城は和弥の言葉にポカンと呆けた顔をした。
「救世主?」
「…そう。この世界は数年後に大きな惨劇が起こる予言があるの。でもそれには『月を司る盾と太陽を司る剣』の二つが出てくるの」
「それのうち、一つが…俺?」
 和弥と須川は、コクリと頷いた。


 僕は今日、初めて二人の異能力者に出会った。けれども、それは、まだ二人の言う数年後に起きる戦いから見れば、序の口のようなものなのかもしれない。今日目の前で見た命が尽きる瞬間も、もしかしたら僕がこれから進む道からすれば、もしかしたら小さな、小さな物なのかもしれない。
 何故僕がその『水鏡の盾』に選ばれたのか。
 それは誰にもわからない。
 僕自身も分かっていない。
 ただ一つ言える事は、僕は既に戻れない道へと入ってしまっていたということだけだ。
 荒れ果てた病院の一室で、僕は静かにそんな事を思っていた。

   ――○――

「人間は醜い…。だからこそ、あの『盾』で全てを喰らう必要がある…」
――は病院の入り口から崩壊している部屋を見上げてブツブツと呟く。どうやら水鏡の盾のありかが分かったようだ。
――しかし、今飛び込んでも力のある熟練のNOBADYがいるはずだ。まずは対策を練って、搦め手から追い込んでいくべきだ。
――は病院の位置口に背を向けると、ゆっくりと歩き始める。冷たい風がビュウと強く吹き荒れ、そして空は灰色に濁った曇り空になっている。一雨来るな。と――は思う。傘は無いが、――にとって関係は無い。
 「空」は味方なのだから。


   第二話「共鳴」

 空がとても青い。どこまでも透き通った晴れやかな空だ。雲ひとつ無い。そして温度も程ほどで、とても過ごしやすい環境だ。
 しかしそれでも結城は、喉になにかが詰まったような表情で外を眺めていた。授業の大半は耳を右から左に通過している。今年のテストはやばいかもなと思っているが、どうしても勉学に励む気にはとてもなれなかいでいる。教師の白井がジロジロとこちらを見てくるが、軽く無視を決め込む事にする。どうせ昨日の病室崩壊が一体なんで起きたのか聞きたいのだろう。だが、結城は全くと言っていいほど言う気は無い。
 結城は少し窓から視線をズラすと、右隣で黒板に書かれた事をノートにせっせと写している須川がいた。須川は結城の視線に気付くと、可愛らしく首を傾げた。まさに学校一の美女と言われるだけはある。大丈夫、いつもの須川だ。結城は少し安堵の息を漏らしながら自分のノートに目線を写す。そろそろ写さないと何を分からなくなってしまう。せめて写して須川に教えてもらうべきだろう。結城はお気に入りの水色のプラスチックのシャープペンを取り出すと二、三回カチカチと頭を押し、芯を出してノートに素早く走らせていく。
――君は俺達にとって救世主なんだよ。
 昨日言われた事だった。NOBADYが親である自分が、なんと「救世主」だと言うのだ。普通信じられる訳が無い。それに、自分の能力が覚醒すれば、学校側にも気付かれるわけだ。つまりその場でTHE ENDだ。それだけは避けたい。だが、逆にこのまま能力が出現しないと自分は他のNOBADYに殺されてしまう。結城は思わずシャープペンに力が篭り、パチンとはじけた音と共に芯が折れた。
「…どうするべきなんだろうなぁ」
 結城は窓の外の大きな青い空を見ながら、ボソっと呟いていた。もしも自分が覚醒すれば、二度とこんな空が見れないかもしれないのだ。モルモットも嫌だ。結城の体に力が篭る。
――あがくべきなのだろうか? いや、あがくべきなんだろう…。 
 結城は自らの拳を見る。世界を守るにはあまりにも小さすぎる手のように見える。何か大切なものでさえも取り落としてしまいそうな、そんな手だ。
――まだ全部理解したわけじゃない。でも、守られて生きるのは嫌だ…。
 結城はグっと手を握り締めた。決意したのだ。そしてその決意の様子を、須川は微笑みながら伺っていた。
 突然、かったるい授業を行っている結城の教室の扉がガラリと開き、そして、銃器を手にし、防護服に身を包んだまるで兵隊のような者達が駆け込み、結城のすぐ側に座っている須川梓をあっという間に取り囲んだ。
「何だよ。一体何があったんだよ?」
 結城は隣の少女「紀野譲」に声をかけるが、彼女は強く首を横に振った。当たり前だ。知っている奴などいるわけが無いだろう。結城は両拳を強く握り締めて取り囲まれた須川を間から見つめる。
が、肝心の須川はペンをクルクルと回して、病院の時見せた冷ややかな視線で辺りを冷静そうに見回している。
「全く…、まさか優等生の君がリストに載っていない覚醒者だったとはね」
 ガラリと開かれたドアから、一人だけ雰囲気の違う男性が笑みを浮かべて入ってきた。防護服ではなく、そこら辺にあるような今の流行に乗っ取ったかのようなお洒落な服に、赤茶に染め抜かれた肩までかかる髪。どこからどう見ても兵隊には思えない。
「…まさか私を捉えるのに、貴方が現れるとは思っていませんでした。対NOBADY軍総合隊長。丙悠介」
 須川は立ち上がると凍りつくような冷たい目線で丙と呼んだ男性を見つめる。丙はニヤリと笑いながらも兵に指示を出し、須川の両手に手錠をかける。
「残念だが、抵抗はしないで欲しい。君は血族にNOBADYのいないという大事な『サンプル』なんだからね」
 その言葉を聞いた瞬間、結城がドカリと立ち上がる。
「ふざけんなてめぇっ! 何須川の事をモノ扱いしてんだよ!!」
「モノ? NOBADYの意味は『存在しないもの』だよ。つまり、そこら辺に落ちている石ころ以下なのさ」
 丙は結城の顔を見ると、フフフ、と笑みを浮かべ、ゆっくりと結城に近づいていく。
 その時、結城は何故だか異様な圧迫感を感じた。多分喧嘩をしても一発でノックアウトされてしまう。どんな戦い方をしても負けるイメージしか自分の頭の中に浮かばないのだ。自分の背中から嫌な汗がじわりと浮いてくるのが結城には分かった。
「君の事は知っているよ。何でも君は『救世主』と呼ばれるにふさわしい子なんだってねぇ」
「何で、その事を?」
「覚醒する前に『再生の鏡』と一緒に『水鏡の盾』も排除するべきなのかな?」
 結城は丙の一言に疑問を持った。
「再生の…鏡?」
 丙のポケットがブーン、と音を立てて振動する。丙は面倒くさそうにポケットから携帯を取り出すと耳に当てた。
「ああ、侑子ちゃん。とりあえず須川の捕獲はできたけど、ついでに水鏡の盾も捕獲…て言うか駆除して良い? さっさとやっちゃった方が後で楽な気が…」
『何馬鹿な事言っているのよ!! 未覚醒者に手を出すなってあれほど行っているでしょう。さっさとサンプル連れて戻って来なさい!!』
 丙はさっと携帯を耳元から話して教室中に響き渡った「侑子」と呼ばれる女性の怒鳴り声を回避すると、軽く返事を返し、そのままブチンと携帯を切った。
「つう訳で、とりあえず須川梓のみ捕縛して戻る事にするかな。良かったな。少年」
 結城の頭に丙の手が載せられ、髪の毛をクシャクシャと撫でると須川の背中を押して教室を出て行こうとする。結城は須川を取り戻そうと駆け出そうとするが、クラスメイト達が結城の前に立ちはだかり、壁を作り出した。
「何やってるんだよ。どけよ!!」
 結城が壁を作るクラスメイト達に向けて叫び、睨みつけるが、皆は怯まずに結城を見据えている。
「須川はNOBADYなんだぞ。覚醒したらもう俺達の仲間じゃない」
「そうよ。あなただって覚醒してないけど、私達にとっては危険な人だもの」
 抑えられ、連行されていく須川を見つめる。他の者達は須川に冷たい視線を送る。
 開いていた窓から風が吹き込み、バサバサとカーテンがはためく。
「だけど…。あいつは覚醒しても俺達を襲ったことなんか、一度も…」
 結城は呟く。そして両拳を握り締めると、抑えかかるクラスメイトを思い切り振り切ると開いた引き戸の前に立つ。
「あいつは一度も俺達に危害を加えたことは無いぜ。それに、あいつは俺を助けてくれた。命の恩人を見捨てられるわけねぇ…」
 クラスメイトはじりじりと須川を追いかけようと身構える結城に近づいていく。だが、結城の背後はもう廊下だ。走っていけば、十分に追いつくはずだ。結城はそれに賭ける事にする。
「まだ人である俺を助けたやつのどこが危険な存在だって言うんだよ!!」
 その叫びと同時に、緊張の糸が切れ、雪崩のように一斉に須川を追いかけていく結城を取り押さえようと追いかけていく。
「止めなさい!!」
 突然叫んだ者がいた。生徒達は一斉に後ろを振り返る。
 そこには、仁王立ちをした白井が立っていた。その表情は、授業放棄に対しての怒りと言う雰囲気の表情ではなく、どちらかと言うと、呆れたとでも言うような表情に見えた。
「別に止める必要は無いわ。彼の言う通り、彼女はNOBADYである事を隠してはいたけれど、悪用してもいない」
 生徒達はどよどよとざわめく。
「でも、先生。NOBADYは生かしていたらいずれ大変な事に…」
「彼女の行動を見ていて、いずれなんて可能性考えられる?」
 生徒の言葉が途中で切れ、白井の言葉が重なった。言葉を発した生徒は口を噤み、白井も黙り込んだ。
「授業を始めましょう。いずれにしろ、もう彼女を助ける事はできないのだから」
 白井は冷静にそう言い放つと、一人教室へと入っていく。生徒もそれに導かれるままにゆっくりと、重い足取りで教室へと入っていった。
 その光景を、女子トイレから唯は見ていた。
「何の騒ぎ?」
 唯は険しい表情でその場を見据えながら、胸を強く抑えると、またトイレを顔に引っ込ませていった。

   ――○――

 結城は階段を一気に飛び越え、そのままカーブを曲がった。下駄箱へ続く長い廊下に到着し、見事そこに丙と須川と取り巻きが立っていた。丙は煙草を吸いながら耳にイヤホンを差している。完全に油断しきっている状態だ。だが、取り巻きたちの警戒は解かれておらず、助けられる状況ではなかった。
――どうすりゃ良い?
 結城はしゃがみ込み、息を潜めて影から須川を見据える。突入は無理。全員を倒すなんて事も結城にはできっこなかった。所詮そこら辺にいる学生だ。兵隊に勝てっこない。それが結城の頭脳の出した答えだった。
――覚醒していれば、須川を助けられるのか?
 結城は喉をゴクリと鳴らす。
――水鏡の盾なら、駆除されていく皆を助けられるのか?
 結城は胸をグッと押さえる。鼓動が早くなっていき、息が苦しくなってきた。
『君が俺達にとって救世主なんだよ』
 その言葉がずっと結城の頭の中をぐるぐると回転する。
――力が欲しい。誰も命を落とさない為の、皆を守れるだけの力が欲しい…
 胸の鼓動が強くなり、ドクン、ドクンと高鳴っていく。まるで、何かが自分の中から生まれるかのように結城は思えた。それと共に右手の甲が熱せられたかのように熱くなる。
「ぐぅ…」
 結城の口から言葉が漏れた。幸い、聞かれてはいないようだが、誰もいなければ叫び、もがきたい気分だった。結城はそれを堪えながらも、ゆっくりと壁から向こうを見た。
 須川と目が合った。彼女はにっこりと笑みを漏らすと、玄関側を向く。
「…大丈夫だよ。きっと『風』が私を助けてくれるから…」
「何言ってるんだ? こいつ?」
 影で聞いていた結城の胸の高鳴りと手の甲の熱が治まっていく。結城は汗でびっしょりになりながら、須川の呟いた一言をじっくり考える。
「まあ良いだろう。さっさと帰って皆で酒でも呑もうぜ」
「丙さん。まだ昼ですよ?」
 丙のわははというような笑い声が遠のいていく。それは、同時に須川が連れて行かれたことも示していた。だが結城は助けに行く事を断念し、教室へと思い足取りで歩み始めた。
 誰もいない廊下に上履きのカツン、カツンという響きが木霊し、自分自身が今孤立していると言う事が結城には良く分かった。
『覚醒したら、私たちにとっては危険人物だもの』
 その言葉がよりいっそう結城の心に重く圧し掛かり、足取りを重くさせていく。単なるショックではなく、自分自身が人間では無いと断言されたような気がしたことからのショックだった。
 もしも覚醒した場合、自分はどうなるのだろうと結城は深く考える。孤独に耐えながら一人逃げ続けるのか、それとも諦めて捕まり、モルモットのように扱われてこの世界から消去されてしまうのか。その二択なのだろうか。
「救世主なんて言われても、覚醒してなけりゃただのガキじゃないか…」
 結城は壁を握りこぶしで何度も叩く。大きなはずの音のはずなのにも関わらず、とても小さくて、矮小な音に聞こえてしまう。自分とはそういう奴なのだ。力が無ければ何もできない人物なのだ。結城はぼんやりとそんな事を考える。壁を叩き続けた拳からは生ぬるい血が滴り落ちている。
 須川がいなくなった今、結城は自分がどうすれば良いのか、全くと言っていいほど分からなくなってしまった。

   ――○――

 和弥は丙に連行されていく須川を慎重に観察し続けていた。無闇に飛び出せば自身も捕まり、そこで終わりになってしまう。どこか隙を突く必要があった。
「まさかスガちゃんが捕まっちまうとはな…」
 和弥は小さく唸りながら柄を右手で握り締める。あの人数なら抜刀による一閃で簡単にケリをつけることが出来る。しかし、自分自身の存在がばれる事は避けたかった。
 和弥はこの学校にいる「再生の鏡」の能力の持ち主を探しに来ていた。理由もちゃんとある。しかし、先日見つかったのは救世主の可能性を秘めた「水鏡の盾」の持ち主だった。だが、彼では和弥の望むことはできなかった。
――スガちゃん。悪いけど、ここでの殲滅は俺の目的にとって不利な状況になるんだ…。もう少し、こ いつらに動いてもらわないと「再生の鏡」のNOBADYを見つけることができないから…。
和弥は心の中で須川に対してそう訴えると、その木から姿ごと気配を消す。
 ふと丙は須川を車に押し込みながら身近にある木を見上げる。何か変な殺気にも似たものを感じたのだった。だが、目を凝らしてみても、存在は愚か姿さえ確認できない。丙は煙草を口にくわえると、百円のライターをカチリと押し込み、丁度良い火力の炎を噴出させると、それを煙草に押し付け、煙を吸い込むと、安堵するかのように煙を吐き出した。
――命の恩人を見捨てられるかよ…。
 教室から聞こえてきた叫びが、妙に丙の頭にこびりついていた。それは、何度振り払おうとしてもガムのようにしつこくこびりついて離れない言葉だった。
「命の恩人…か」
「何か言いましたか? 丙隊長?」
 隊員の一人が訝しげな表情で丙を呼ぶ。丙は煙草を携帯灰皿に押し込むと、須川の隣に乗り込んだ。隊員はそれを見て首をかしげながらも、運転席に乗り込み、キーを回すと、アクセルを踏んで車を発進させる。
 須川は無表情で前をじっと見続けている。普通のNOBADYの場合は暴れるか、泣きじゃくるのだが、須川は全く動じない。丙はうむぅと唸りながら須川を見据える。
「お前、死ぬのが怖くないのか?」
 丙は不意にそんな事を尋ねる。その問いかけを聞いて須川は少しぽかんとした表情を見せた。彼女が始めて見せた素の表情だ。そしてその後、須川はクスリと微笑むと、丙の頬に手を伸ばす。
「…何を怖がる必要があるんです? ここで死ぬ事なんかありえないのに…」
 その言葉の後、突然強い衝撃が車内を襲う。
――襲撃だ。丙は舌打ちをする。 
 だが、丙が身構える前に二回目の衝撃が車を襲い、耐え切れなくなった車はグルリと宙に舞い上がり、百八十度回転して落ちた。丙はグルリと回転し、受身の取れないまま逆さにひっくり返った車の天井に強く頭を打ち、そして、プッツリと意識を失った。

「本当に良いのか? 俺としては丙を残すのは賛成だけれど、そうするとスガちゃん。お前を追跡し続ける可能性だってあるぞ?」
 木の枝に腰掛けて、和也はぼんやりとそんな事を呟く。須川はフフ、と笑いながら和弥の頭をぺチンと叩く。能力を使えば簡単に頭をカチ割る事も可能な須川の叩きは、今はとても弱弱しかった。和也は右手に握り締めている刀を鞘に押し込むと、ゆっくりと立ち上がった。
「…私とあなたは互いに利用しあっているだけよ? 私は『水鏡の盾』を、あなたは『再生の鏡』を見つけるために動いている。どちらも覚醒させるには丙隊長の執念深い追跡が必要不可欠。あの人にはなんとしてでも再生の鏡の能力保持者を見つけてもらわないとね…」
「…一つ言っておくが、俺は『再生の鏡』を見つけ出せた瞬間に、スガちゃんとの同盟も破棄だ。俺は『ガーディアン』を呼び出して『水鏡の盾』に会わせる事にする。それでも良いな?」
「…ねぇ、あなたの慕う『ガーディアン』というのは、一体何者なの? 名前だけでも教えてくれない?」
 須川は胸の前に手を組むと、和也を見ながら静かに問いかけた。
「教えたところで、お前が『彼』を妨害するのは無理に等しいし、いいよ」
 和也はそう言うと一枚の紙を胸ポケットから取り出して須川に手渡した。須川はすぐさまその手紙を覗き込み、そして硬直する。
「…こんな能力者が…いるの?」
 須川はワナワナと震えながら、時間を操作する能力を持つ自分でさえも『この能力』には太刀打ちできない事を察知した。ガーディアンはノーバディとは違う存在と須川は聞いたことがあったが、まさかここまで違うとは思わなかった。この人物に弱点があるのかさえも分からない。
 冷たい風が静かに吹き込み、ざわざわと木の葉が掠れあって音を出す。晴れやかだったはずの空に厚い鈍色の雲が立ち込めている。これは一雨来そうだ、と和弥は言う。
「…『無』のガーディアン、く…」
 須川の小さな呟きを吹きつける風と揺れる木の葉の掠れた音が遮った。

   ――○――

 外は雨が降り始める。それも豪雨だ。これは台風か、良くても大雨洪水警報並の雨だろう。結城はぼんやりとそんな事を思いながら、授業もそっちのけで外を見続けている。
 さっきの騒ぎ以来誰も結城を見るものはいない。いたとしても、どちらかと言うと避難の目を向けてくる奴らがほとんどだった。須川が『覚醒者』だと知った瞬間、他にもリストというものに載っていない「覚醒者」がいるかもしれないと考えているのだろう。
――須川…、どうなったのかな?
 ピリピリとした空気をものともせず、結城はけのびをすると机に突っ伏した。突然の状況に全く付いていけない自分に嫌気がさす。これからどうするべきなのか、「水鏡の盾」の持ち主として何をすべきなのか、全て謎のままだ。
 突然、結城の肩を誰かが叩いた。結城が面倒そうに顔をしかめながら起き上がると、目の前には後ろの席の「谷屋真央」が何か言いたそうに顔を近づけていた。

「私の父親もね、覚醒者だったの」
 放課後の校内で谷屋はそう呟いた。
 校内はしんと静まり返っていて、呟いたはずの谷屋の声が大きく聞こえた。時刻は七時、部活を行っている者もそろそろ下校する時間だ。さっきまでの雨は嘘だったかのように、闇夜を照らすように半月が空に浮かび、そしてその月光は窓から校内へと入り込み、影を作り出している。夜の学校というのは月光が不気味な雰囲気を作り出しているのかもしれない。結城はぼんやりとそんなことを思う。
「この学校の裏が『NOBADYになり得る可能性のある者を監視する施設』って言うのは知っているよね?」
「ああ、覚醒した者の末路も知ってる」
 谷屋は一度笑顔で頷く。丁度月が厚い雲に隠れ、窓がある廊下も闇夜に染まっていく。谷屋は狙い通りになったのが嬉しいのか、ニコニコしながらペンライトのスイッチを捻る。円形の光が廊下を照らす。
「俺は両親が二人共だった。どんな能力のNOBADYかは知らないけど…」
「私も知らないの。それにNOBADYが何で生まれたのかもね…。だからこそ、この管理施設の資料を覗き見してみたいと思ってる。君はどう思う?」
「勿論、俺も真実を知りたい。けど…」
 言葉を強めて発する結城だが、そのすぐ後に弱々しい表情を見せる。谷屋は後ろ向きで歩きながら結城の顔を見つめ、そして肩をすくめる。
「けどさ、怖いんだ…。そのリストや資料を見たら、俺はもう俺でいられないんじゃないかって。そう思うと、今にも逃げ出したい気分になる…」
 結城の弱気な発言を聞いて、谷屋は微笑み、そして結城の手を握った。
「だから、二人で見ようよ。一人で怖くても、二人なら怖くないかもしれないでしょ?」
 結城は手を握られた事に少し顔を赤らめたが、すぐに谷屋の目を見つめて、ほっとしたように微笑む。
「でもまさか、結城君が話したことも無い私なんかを信じてくれるとは思わなかったな…」
「別に信じているわけじゃない。でも、俺は今、少しでも情報が欲しいんだ。迷ったりしてる暇は無いんでね…」
 結城の答えに谷屋はふむ、と頷いた。別に信じてもらう必要など無く、利害が一致しているからここにいる、と結城は言いたいのだろうと谷屋は察知する。
 結城は今、とても不安定な心情だった。平常だったはずの世界が音を立てて崩れ、そして唐突な殺し合いの世界、弱肉強食の世界に身をおかなくてはならない。しかも、そんな殺し合いを止める「救世主」という重要な役割を背中に背負ってしまっているのである。何も知らないまま戦うなんて事はできなかった。
――せめて、NOBADYの存在と「水鏡の盾」ともう一つの能力の知識が欲しい。
「知ってる? この学校は情報漏えいの為に、必ず教師一人が資料室のパスワードを変更して見回りしてるのよ…」
 突然、聞き覚えのある声が二人の耳に入った。予測していたことではあったが、警備員または教師が残っている可能性は高かった。遅い時間といえど、まだ七時だ。何も知らずに転任してきたあの女性教師が残って仕事をやっつけている可能性はあったのだ。
 結城と谷屋はゆっくりと首を回して、暗闇の中、冷たい冷酷なイメージのある声を放つ主「白井渚」をじっと見ていた。 

「私なら、資料くらいこっそり見せて上げられるわ。当番の日に来てくれれば…ね」
 白井はカツンカツンと廊下を早足で歩いていく。そして離れるように二人が後を歩いている。
「大体ここの資料は読み漁ってみた。NOBADYの事も大体は把握したし、水鏡の盾も、今日の駆除部隊の丙さんが言っていた『再生の鏡』も大体は頭に叩き込んだわ」
「え…でも、白井先生は覚醒者じゃないから、そんな事を何故?」
 谷屋は疑問を白井に投げかけた。結城も同じ疑問を持っていたので、じっと白井を見る。
 白井は静寂と闇に支配されたこの世界を見回し、そしてゆっくりと振り返ると、結城と谷屋に微笑みかける。いつもの真面目で冷たい白井の表情が、初めて変わった瞬間でもあった。
「私が前にいた田舎の学校はね、覚醒者なんて関係なかったの。能力を使えるものはそれを活用して、使えない者の手助けを行い、そして人間は覚醒者に積極的に接していたの」 
 白井は田舎の光景を頭の中で思い出す。水を操れる系統が覚醒したものはそれで田畑や村中を潤し、様々な能力が一つ一つ村に笑顔をもたらしていた。
「けれども、この都会に転任してきてみれば、覚醒者を人体実験の道具とし、危険分子として排除していく地獄…。私には、最初そうとしか思えなかったわ。あなた達だって、覚醒してしまえばそこで生きる道を閉ざされてしまう…。そう考えたら、ね…」
 白井の言葉を聞いて結城は俯いた。彼女も自分自身に希望を抱いているのだろうか、本当に水鏡の盾を持っている人物が救世主だと思っているのだろうか。いや、きっと思っているのだろう。結城は右手をゆっくりと見た。握力なんて人並みかそれ以下で、そして腕力だってクラスの中では半分以下に入る。そんな小さくて、弱くて、情けない自分の手に、NOBADYと言う存在全ての運命が掛かっている。そう考えると、震えが止まらなかった。

 資料室は意外とこじんまりとした部屋だった。こんな場所に、本当に重要な書類が詰め込まれているのかさえ疑うほどだ。例えて言うならば、学校の図書室だ。棚が沢山あるのにも拘らず、そこに立てかけてあるのはほんの数冊、白井は罠を張っているのでは無いだろうか、そんな考えと疑いが、結城の心に重く圧し掛かる。
「本当に、こんな図書室みたいな場所に、重要な資料が詰まっているんですか?」
「ここは単なるカモフラージュよ。隠し部屋には本当に重要な物が置いてあるけど、そんな所を見張り担当の教師が入れるわけは無いでしょう? 今は、ここにある資料で我慢して」 
 白井は語調を強く発すると、見回り終わってないからと呟いて部屋から出て行ってしまった。結城と谷屋は側に置いてある書物を片っ端から引き抜くと、食い入るような目でそれを流し読みしていく。重要そうなもの以外は必要ない。他は大体の内容を知れればいいのだ。
――覚醒者の判別方法は、多数あり、その中で…

――NOBADYとなった存在は個々による能力が生まれ、それはどれも攻撃的な…

――NOBADYは心のショック、つまりはトラウマから発言する事が多いが稀に自己の意思を持った能力が暴走し、能力者の体を…

「結城君、これって、水鏡の盾についてじゃない?」
 数々の本を次々と読み漁っていく結城の机の上に、谷屋が一冊の青い厚紙でできた表紙の本を置いた。だいぶ使いまわされているのか、その本はどこか古ぼけていて、そして擦り切れているところが多かった。題名は「記述」と二文字のみだ。
 結城は谷屋に軽く笑みをこぼすと、その本を開く。そして、その内容に動揺を見せる。
「これを読んだ者が、『盾』と『剣』の持ち主である事を強く願いたい。そして、ここに書き記された事は全て真実であり、救世主と呼ばれる者がすべき事であると先に言っておこう」

――我々の世界にNOBADYが生まれたのは、人間が自身の負部分を捨て去ろうとした結果だと言われている。負の感情とは、欲望、憎悪、復讐等である。だが、それを人間達が捨て去る事はできなかった。この七つは人間の最も重要な部分でもあり、そしてその負の部分が消え去る事は、人間の正と負の均衡したバランスを自ら崩す事にもあるからである。
――だが、負の部分を捨て去ろうとした結果、同時に人間は負の部分が強くあると言われている生命体を生んでしまった。その名は…。

「その名は、誰でも無い存在『NOBADY』…」
 結城は小さく呟いた。
「でも、明らかに矛盾している気がする…」
「え?」
「だって、今思うと、能力をもてなかった人間はNOBADYに恐れを抱き、そしてこじつけられた能力の危険さによる憎悪で私達は迫害されている。しかも、中には能力を持っていることに対して嫉妬を覚えている人間だっている」
 谷屋は顔を真っ赤にしながら結城に考えをぶちまけていく。結城はそれを受け止めようと真剣な眼差しで谷屋を見ている。
「確かに私たちの中には能力を使って悪行を働く人もいる。けどさ、何でそんな一握りの犯人のせいで私たちは迫害されなくちゃいけないの!! 私はNOBADYが人間の負を元に生まれた存在だ無くて思いたくないよ…」
 谷屋はストン、と落ちるようにしゃがみ込み、そしてグスグスと泣き始める。そんな光景を見て、結城は小さく息を吐くと、突然泣き始めた谷屋の肩に手を回す。
「最後まで読もう。これの内容が間違っていたとしても、負の感情が集まってできた存在が本当だとしても、全てを知らないと、何も行動できないからさ…」
 結城は嗚咽を漏らす谷屋をなだめながら、もう一度本に目を落とす。一体誰がこれを書き記したのか、そして、救世主とは何なのか、これを読みきる必要がある。
――でも…。俺が俺自身の正体を知った時、俺は…。
 結城はこの本を読み終わったとき、自分が自分ではなくなるのではないかという恐怖心があった。もしかしたら、自分はどちらかを滅ぼすべき存在になるかもしれない。あるいは、救世主が命を断つ事で世界は均衡を保つ事になるのかもしれない。
――俺も谷屋と同じ…か…。
 自分自身が谷屋と同じ恐怖を覚えているのだと結城は思う。それなりの覚悟が必要なのかもしれない。けれども、そんな勇気は抹消事件意外平凡な日常を過ごしてきた結城にあるはずはない。
 だが、ここで自らが真実を見ない限り、恐らく前に進む事すらできないだろう。結城は唇をギュッと噛み締めると、薄っぺらな紙をめくり、次のページへと目を移した。
「…悠久の時を巡り、待ち続け、とうとう救世主は現れた。一人は全てを呑み込み、背負い、そして力にし、真実を映す銀色の丸盾。一人は全てを刈り取り、喰らい、力にし、焔を薙ぎ払いし緑色の剣。二つは混ざり合わんとするも、主の心まで一つにならず、陰と陽は二つに断ち分かれ、存在するはずの無いモノ生まれる…」
「誰ッ?」
 谷屋は思わず身構えた。本の中身を読んではいない。どこか聞き覚えのある声が、記述に書き記されている古ぼけた文章を唱えている。結城は本を取り落としそうになりながら周囲を確認し、そして谷屋と同じく身構える。
「谷屋、お前覚醒しているんだろ? もしもの時はどうにか出来るか?」
「…」
 結城の言葉に対しての返答は無い。結城は緊張に身を強張らせながら谷屋の返答が無い事に対して首を傾げる。
 嫌な汗が体を伝う。聞き覚えのある声だが、クラスメイトの誰かだった場合、確実に通報され、そのままアウトだ。吹くはずの無い風が脛を撫で、どこからか発せられる殺気が結城と谷屋の体を容赦無く、貫いている。
「…全ては救世主の失敗により始まった。分断された二つの存在は互いに憎み、殺し合い、そして挙句の果てには戦争を始める」
 コツ、コツ、コツ。
 小さく、そして響く足音が聞こえてくる。だんだん近づいてくるのが二人には分かった。
「…神はそんな二つの分断された存在に呆れ、そしてこの世界から逃げてしまった。最早この戦争を止める術は無かった」
「だがしかし、救世主は争いを解く為に全てを受け入れ、そしてNOBADYでも人間でも無い存在に成る事を望んだ。そしてその救世主が成る事ができた存在が…」
 黒いコートと腰に提げられた刀が目立つ風使いの男と、何でもできてしまう委員長だった時使いの少女が、暗闇から現れ、そして口を合わせて結城と谷屋に向けて静かに言い放つ。
『EC…全てを受け入れ、運命を修正する役目を持つ存在――』
 結城の強張っていた体と表情がスゥッと和らぎ、そして満面の笑みで少女「須川梓」の前に駆け寄る。本なんてどうでも良くなっていた。真実を知る前に、捕獲されたはずの仲間がそこに立っている。それだけで結城の心は満ち足りていた。
「須川? 本当に須川なのか? 風が助けてくれるって…和弥の事だったのか…」
「よぉ少年。そしてお嬢さん。まあ正確には、風じゃ無くて『空間を斬る』んだけどね…。一体どこで間違えられたんだろうなぁ」
 和弥はニコニコしながら結城の頭を撫でつつ呟く。須川も結城を見つめて笑顔を見せている。
「結城君…、この人達誰?」
 谷屋はまだ警戒を解かずに、数歩下がって間合いを取っている。
「まあ、突然現れたんだから、警戒するのも無理はないか…」
 谷屋ににこりと笑いかけながら和弥は呟く。
「それにしても、何でこの資料の続きを言いながら現れたんだ?」
「ん? 単にカッコイイ気がしたから」
 結城のさりげない疑問に対する和也の答えを聞いて、結城は肩を落とした。緊張感がまるで無い。谷屋と自分は自分がNOBADYだから、見つかってはマズイと緊張でガチガチなのにも関わらず、二人は全く緊張感が無い。
 だがそれが、結城の身に乗っている重みを解くきっかけになったのが良かった。
――ん? じゃあ、あの殺気はなんだったんだ?
 結城の中に微かだが、ヒンヤリと変なつっかえが生まれる。だが、この四人以外どこにもこの部屋のどこにも姿が無い事から、気のせいだろうという事にしておいた。
「で、本題に戻るとしよう」
 和弥が突然真面目な顔で結城と谷屋に歩み寄る。
「結城。この盾と剣をもつ存在は、UCという存在となり、そして世界の理を知り、全ての軌道を修正する存在にならなくてはいけない」
「…つまりあなたとまだ行方の分からない『二人』は世界そのものになる運命にあるのよ」
「俺が、世界に?」
「そして救世主の二人が―Existence of an upper class―略してECになる事で、救世主としての役目を始めて果たした事になるのよ」
 結城の中にあった、NOBADYという言葉がスッと馴染んだ気がした。まだ理解しきれない部分は多くあるが、とりあえずの仕組み、救世主としての役目が分かった気がした。
「ちょっと待てよ…。じゃ、じゃあ俺は、世界になるって事は、俺が俺じゃなくなるのか?」
 結城は戸惑いを隠せずに、どもりながら和弥と須川に問いかける。軽い眩暈と吐き気と頭痛が結城の体を襲っている。
 部屋にフゥと冷たい風が入る。結城の手から力が抜け、本がドサリ、と音を立てて落ちた。
 和也と須川は結城から目を逸らしていた。いや、向き合えなかったと言ってもいいかもしれない。世界という存在になるという事は、つまり結城純という存在を捨てることになる。つまりそれは、間接的に「死ぬ」という言葉に当てはめる事が可能だ。結城ともう一人の救世主が死ぬ事によって、世界に平和が訪れる。
 結城は俯き、そしてそれを合図に他の者も黙り込む。冷たい風が周囲に吹き込む。
「犠牲を元に、この世界は成り立っている…か」
 静寂を切り裂くように、谷屋の高い声が部屋に響いた。
「…そんな世界、無くなっちゃえば良いのよ」
 谷屋は両手を力いっぱいぎゅうっと握り締める。目からは涙が溢れ、静かに膝から床にへたりと座り込むと「…お父さん、お母さん」と小さく漏らしながら嗚咽を上げる。須川はそんな谷屋の背中に手を添えると「大丈夫だよ」と優しく呟いた。
「どうするんだ? これは救世主であるお前が決める事だ。このまま滅び行く世界にいるのも良いだろう。お前が考えるべきだ。俺はその意見を尊重する」
 和也は結城の頭に手を添え、軽くくしゃくしゃと髪の毛を乱す。
――救世主としての使命…運命…。
 全ては両親がNOBADYと発覚した事から始まった。結城は望んでもいない道を気が付けば結城は歩いていた。犠牲による平和。それは大人達がいつも言っている言葉だ。結城自身その言葉を嫌悪していた。いや、ほとんどの人間が嫌悪しているはずだった。犠牲者が出て手に入る平和の先にはきっと、何も変わらない平凡で争いの耐えない世界が待っている。誰も犠牲にしない世界をどうして大人は目指さないのだろう。結城は幼い頃からそんな事を思っていた。
 だが、今の状況。救世主としての立場にいる結城には、その言葉の意味が分かるように思えた。犠牲無しで世界はバランスを保ってはいない。全てはピラミッド状にできあがり、そのピラミッド状の関係の中、犠牲は必ずやってくる。
――けど、俺はまだ高校生だ。能力だって覚醒していないし、誰かを守る力さえ無い矮小な人間だ。
「…もう少し、考えてみても良いかな?」
「別に、まだ時間はあるさ。ただ、俺は暫くの間須川の件があるし、須川と共に身を隠すつもりだ。あう日を決めておこう」
「すぐに決まるって訳じゃないけど、俺もいつ覚醒するか分からない…。明後日まで考えてみたいと思う」
「ああ、じゃあ明後日の午前零時、この学校の屋上に集合だ」
 結城はコクリと頷くと、座り込んでいる谷屋の手を握り締める。谷屋は赤くなった眼を結城に向けるが、涙を拭いて立ち上がると、結城の手を強く握り締めた。
「じゃあ、谷屋は俺が送っていく。須川、和弥、間違っても死ぬなよ…」
 結城の真面目な一言を聞いて、和弥は大笑いし、須川はクスクスと笑う。結城は顔を赤らめながら、何がおかしいんだ、と問いかけた。
「俺がもし死んだらきっと雨降るぞ。いや、もう止んでいるかな? じゃあ雪だな」
「…安心して、結城君。私達はちゃんとキミに会いに行くから」
「そっか…。そうだよな。二人とも覚醒者だもんな」
 結城は残っている左手をグーにして二人の前に出した。二人はピースでそれを返した。

   ――○――

 結城は、よたよたと弱々しく歩く谷屋の手を引いて、真夜中のグラウンド横の道を歩いていた。見つかれば一発で休学またはNOBADYと言う事も考え、捕縛もありえるが、何故か結城には、そんな事は絶対にないという理由の無い確信があった。
「なんでさ、突然に泣き出したんだよ?」
 結城は背後を引っ張られながら歩いてくる谷屋にそう問いかけた。思ったより外は暖かい。殺気部屋に吹き込んでいた冷たい風が嘘のようだ。
 谷屋は結城に握られている手を引きはがすと、結城の横に並ぶ。微かに泣き腫れた跡があるが、暗闇であまり目立ってはいない。
「分かんない」
 谷屋はにっこりと笑った。そして、ポケットから布製の袋を取り出すと、結城の手に握らせた。結城はそれを見て良く分からない顔をする。
 谷屋はその袋を渡すと、結城の横を走りぬけ、そして闇夜に溶けて無くなった。結城は谷屋の姿を眼で追うが、完全に見失ってしまった。
「?」
 結城は首をかしげると、袋を眺めながら、闇夜を照らす電灯を頼りに、ゆっくりと足を動かした。

   ――○――

 和弥と須川は資料室で固まったようにじっと立っていた。辺りには身も凍るような冷気が漂い、そしてそれは天井には氷柱、床には霜が下り、周囲は白銀と化していた。
「…どうやら、この学校には『水鏡の盾』を狙ってる輩がまだいるようですね」
「だな。しかも、大玉が奥に潜んでいるとみた」
 和弥はため息混じりの息を吐きながら周囲を見渡す。
――殺気からして敵は二人。だが、この狭い中で二対二なんて出来るわけが無い。
 資料室は図書室並の大きさだ。和弥は刀、須川は体術又はナイフでの戦闘は広範囲での戦闘なら中距離と近距離の連携で戦闘を行える。しかし、室内となると和弥の刀での攻撃が須川を巻き込む恐れがあり、うかつに手が出せなくなる。だがそうすると、須川対二人という不利な戦闘になってしまう。
「どうします? 私は別に二人相手にしても良いですが?」
 懐から刃状のナックルガードを取り付けられた小型のナイフを二つ取り出すと、須川はそれをギィンと金属音を響かせ、向かい打つ準備をする。
一方和弥は刀を鞘に納めたまま動かない。
「須川、この場所は不利だ。一方の能力は多分検討は付く。この戦闘、俺の動きが重要になってくる」
 和弥の指摘を聞いて、須川はコクリと頷くと、足元の影の中にデジタルの数字で二十が表示され、瞬きの間に須川の姿は消え去った。と同時に、気配も一つ消え去った。去須川のもといた場所が摩擦によって煙を出し、白い世界に元の床がぽつんと姿を現す。だが、その煙と熱によって現れた床は冷気に晒され、一瞬にして霜で埋め尽くされた。
「よぉ、そろそろ姿出してみないか? 俺にぶった切られる前に、生きてる時の顔くらいは見ておきたいからさ」
 相棒が消えた。一対一ならば、能力で巻き込む事は無い。空間を切り裂く能力で辺りを戦闘しやすい空間に変える事だって可能だ。和弥は柄に手を伸ばすと深くしゃがみこみ、抜刀の機会を待つ。
 冷気が一瞬震えた。

 須川は暗闇の校庭の中央で足を止めた。空気摩擦で多少皮膚がチリチリとする。服も焦げが所々に斑点のように現れている。十秒の時間短縮までは疲労等の負担のみで済むが、十秒以上の時間短縮を行うと、空気摩擦による傷が表れることが良くある。それは須川の能力の負の面であり、時間を使う能力であっても、無敵では無い事を証明していた。
――体力的にも、使えてあと三回…。
 須川は疲労に耐えながら、自らの能力の残り使用可能数をアバウトに計算した。広い校庭なら、隠れるところも無い。相手も奇襲はできないと踏んでの場所選択だ。
 須川は改めて両手に持つナイフを構え、殺気の正体が現れるのを待つ。
「…出てきなさい。出てこないなら殺すわよ」
『ほう…。出てきたらどうするつもりだい?』
 須川の耳に余裕のある声が聞こえてきた。この低さからして、男性だろう。須川は辺りを見回す。暗闇ではあるが、学校の外の道路に設置されている電灯が薄っすらと辺りを照らしている。人の姿くらいの確認は肉眼でも可能だ。
 だが、三百六十度見回しても、姿はおろか、殺気の出所さえも判断できない。
「…痛みも感じない位の速さで眠らせてあげる」
 須川がボソリと呟いた言葉を同時に、目の前が突然歪み、人の形をした不透明な何かが須川の前に現れた。須川は咄嗟に右手に握るナイフを横に一閃した。人が他の不透明な何かはゼリーのようにその斬撃を吸収すると、そのままじりじりと須川に歩み寄り、無傷の相手にひるんだ須川を一瞬にして包み込んだ。
「…ごぼ…!」
 不透明な存在に包み込まれた須川は声を上げようとするが、気泡が口から出るだけで終わってしまった。須川は必死にナイフを振り回すが、水を斬っているかのようにゼリー状の不透明な存在には傷一つ、穴一つできない。
「僕の能力はね、液体化って言うんだ。まあ兄さんからは『リキッドピープル』なんて名前を付けられているけどね」
 振動によってなのか、液体の中にいる須川の耳からその声が聞こえてくる。
――…つまりは、液体化で地面の中を移動し、私の前まで到着した瞬間に現れ、見事捕獲…か。
 須川は口を必死で押さえながら、やられた、と苦い表情をする。敵の作戦にまんまと引っかかり、そして溺死させられそうになっている。和弥は図書室で彼の「兄」と交戦中。助けを呼ぶことさえままならない。つまり、ゲームオーバーと言っても過言ではないかもしれなかった。
――折角、和弥に救出してもらったのに…。
 須川は、息苦しくなり、朦朧としていく意識の中で、ぼんやりとそんな事を考える。
「安心しなよ。君は可愛いからさ。意識を失った後に反抗できないようにして、死ぬまで可愛がってあげるからさ…」
 男性のそんな声がした時、須川は背筋がゾクリと震えた。そんな事をされてはいけない。完全な嫌悪感が須川の心を支配し、無駄だと分かっていても、必死で体をバタつかせる。朦朧としていく意識を必死で保ちながら、脱出策を考える。どこかから男性の笑い声が聞こえてくる。
 須川は口からぼこぼこと大粒の気泡を吐いてしまった。上に上がっていく気泡を手で掴もうと手で水を掻くが、吐き出してしまった空気はもう戻ってはこない。
「…」
 須川はくたっと力を抜いた。もう反抗の手立ては見つからない。次に起きた時は、天国か、生きていれば地獄なのだろう。生き地獄ならば、和弥の助けを待てばいい。彼には貸しを作っているから、きっと助けに来てくれる筈だ。須川は目をゆっくりと閉じ、苦しみがスゥッと消えていくのを感じながら、全身の力を抜いた。
 須川が目を閉じたと同時に、周囲の水がだんだんと暖かくなってくる。そして同時に水がブクブクと暴れだし、そして男性の悲痛な叫びが液体の中を駆け巡った。
 そして、勢い良く須川が液体の外にはじき出された。びっしょりと濡れた全身が乾いた地面を濡らし、重くなった長髪が顔面に被さっている。
「…げほっげほっ」
 須川は飲み込んでしまった水を咳き込みながら吐き、新鮮な空気を必死で吸い込んだ。何が起こったのかまだ朦朧としている頭では分からないが、歪んだ視界には一人の男性が立っていた。その男性は、こちらを見て何か言っているが、良く聞こえない。
「…かず…や?」
 須川の意識はそこで一度途絶えた。

「須川!! おい起きろって須川!!」
 結城はぐったりと倒れた須川を抱き起こすと、顔に張り付いている髪の毛を払ってから頬を軽く叩く。息をしているのは分かっているし、脈も心臓もどうやら動いている。結城はそれを確認してホッとすると、気絶している須川をそっと地面に寝かせ、目の前で苦しんでいる男を睨みつける。
「お前、一体俺の体に、何を…入れた?」
 結城は右手に持っている小さな四角い紙の袋を前に出す。一つは開けられ、粒が半分くらい入っている。どうやら半分は液体となっていた男性に投入したらしい。
 男性の体はひどい状態だった。顔や皮膚がただれ、火傷をしている。服はプラスチック繊維のある部分が溶けて体に張り付き、痛々しい姿を晒している。
「苛性ソーダ…。というか、水酸化ナトリウムだね」
 結城は布袋を開けると、その中身を地面に降って落とした。ざぁっという砂が落ちるような音と共に、白い粒状のモノが姿を現した。
「何で劇物があるかとかは聞かないでね。水酸化ナトリウムって、水に溶けると発熱するらしいんだよ。須川の身の危険もあったけど、とりあえず吐き出してもらうためにはこれしかなさそうだったし、咄嗟に入れちまった。とりあえず須川は見たところ別状は無いみたいだから、なんとかなったかな?」
「普通に…この女も被害食う筈だろ…」
 痛みに呻き声を漏らしながら勝ち誇っている結城に向けて呟く。そして同時に、結城の姿を目視した瞬間に、焼け爛れた男は目をカッと開いた。
「はは、なるほどな。てめぇとっくに『覚醒』しているじゃねえか…」
 結城と焼け爛れた男は目を合わす。互いに目を逸らさずにじっと相手の瞳を見据えている。
 先刻まで降っていた雨によってできた水溜りがそこら中に散乱していて、駆け込んだときには気付かなかったがグラウンドは随分とぬかるんでいた。勿論そこに駆け込んだ結城の靴は地面に軽くめりこんでいるし、倒れている須川も泥にまみれているだろう。
「状況的には最高の状態だ。覚醒しているなら、手加減する暇もないだろう…。一気に攻め込んでやるよ」
 焼け爛れた男はにやりと笑い、ゆっくりと立ち上がると結城を獣のような目つきで睨みつける。結城はその威圧感に思わずたじろぐが、今の状況を考え、能力の使えない自分でも負傷している相手にならなんとか勝てるかもしれない。結城は拳を握り締めると、焼け爛れた男に向かって走り出す。

 一瞬、何が起こったのか結城には見当もつかなかった。次の瞬間には、結城は地面に倒れ、ぬかるんだ地面が一気に干上がり、それと同時に男の火傷が癒えていく。
「何で…?」
 結城は目の前で焼け爛れてもがいていた男が勝ち誇ったような笑みで目の前に立っていることに疑問を感じ、そして同時に恐怖を感じていた。
「別に空気中の水分を吸収して傷を癒す事も可能だったが、俺が無敵だという事をはっきりと分からせるために、地面に含まれた水分を吸収してみた。お前にとっても足場がしっかりするのは助かるだろう?」
 無敵な能力を持つ存在などいるはずが無い。どんな能力でも何かしらの「欠陥」があると本には書いてあった。人間はそこを衝いてNOBADYを滅却しようとしているのだと。結城はあのときの本の内容を思い出しながら目の前にいる「液体化」の男をじっと見据えている。
 二人の周囲の地面は砂漠のように十メートル四方の円を描くかのように乾いていた。空気中の水分を吸収すれば、乾燥地帯が一瞬にして出来上がる。だが、空気中に霧散している水分はほぼ無限大と考えてもいい筈だった。今結城が手にしている苛性ソーダを使っても熱で水分を男から飛ばすだけ。もう一度吸収されたら意味が無い。
――どうする? 能力をまだ使えない俺に出来ることは…?
 辺りの風が乾燥した空気中をすぅっと潤し、また湿り気のある世界に逆戻りする。曇り一つ無い夜空の月が不気味に輝き、グラウンドを照らし出していた。

   ――○――

 和弥は冷凍庫の中のようにキンキンに冷やされた世界に一人佇んでいる。呼吸をすれば肺が凍りそうな、そんな冷たい空気が辺りに立ちこめ、和弥が吐いた息が白い蒸気となってゆらゆらと静かに舞い上がっていく。部屋には霜が折り始め、白銀の世界と呼ぶにふさわしい風景がそこにはあった。
「全く、隠れて攻撃なんて卑怯すぎるなぁ」
 和弥は仁王立ちの状態で気配に向かって呟く。反応は、無い。
 抜刀する筈の右腕は肩から肘にかけて真っ白に染まっていて、ピクリとも動かない。腕の細胞が壊死してしまっていなければ良いが、と和弥は右腕の状況を見てぼんやりと思う。
 気配しか感じる事のできない敵にどう戦いを持ちかけるべきなのか、頭の中で策を練りながら精神を研ぎ澄ませ、第二撃を待つ。
――相性ミスったかもなぁ…。水を扱う相手とかの方が良かった。こう隠れて攻撃してくるんじゃ…。
 刹那、和弥は稼動する左腕で微かな殺気を察知し、今いる場所から右に三歩分体をずらす。和弥が元いた三歩先にどろりとしたゼリー状の液体が落ち、そして同時に床が真っ白に凍りつく。
「なんだ、そこか…」
 和弥は液体の軌跡を眼で追うと、霜が張り付いた壁に左手で抜き放った刀を突き刺す。真っ赤な華が一厘咲いた。と同時に、霜が人間へと姿を変え、刀の突き立てられた箇所が左胸であった事を知る。
「ぐぅ…」
「君は能力の中でも最弱に等しいんだね。体を霜や氷の結晶に変化させる能力みたいだけれど、その冷気が場所を教えてしまっているし、何より隠れ切れてない。君の弟の方が気配としては弱そうだったが、どうやら勘違いだったようだ」
 和弥はにやりと獲物を見るような目で男を睨みつける。男は「ヒッ」と悲鳴を上げ、必死に逃げようともがくが、左胸を貫通して壁に突き刺さった和弥の刀によってそれは完全に阻まれた。
「安心しろ、『まだ』空間を切り裂いてはいない。とりあえず、君と君の弟の名前、そして目的、ついでに上にいる存在についても聞こうか?」
「わ、分かった!! 話すよ、話すから…」
 男は死がすぐ側に在る状況を把握し、出した結果は「仲間を裏切り、生き延びる事」だったようだ。質問したことに対してスラスラと答えていく男を和弥はじっと睨みつけていた。刀の柄に力が入り、一瞬だけ、情報を聞く前に殺害してしまいそうになった自分を必死で堪えていた。
「名前は馮河永、弟は戒。能力は変態能力。お前は氷雪に変化、弟は液体に変化出来るんだな? そりゃいい能力だ。弱点を探すのも必死だろうなぁ」
「目的はあんたの言う通り水鏡の盾の奪取だ」
「他にも目的はあったんじゃないのか?」
 永は「ウッ」と声を漏らすとごにょごにょと口を動かしている。和弥は柄をぎゅっと握り締め、刀の鍔を鳴らして威嚇をしてみる。
「分かった!! ボスも目的も全部吐くから!!」
「最初からそうすれば良いんだ」
 和弥は無表情で、見下すような目線を永に投げかけながら言い放つ。
 外から悲鳴が聞こえた。どうやら、弟の戒を須川が倒したのだろうか。尋問が終わったら見に行くべきだろう。和弥は永に視線を戻した。
「俺のボスは『空』を司るガーディアンだ。名前は上層部の四人しか知らない…。俺なんかは格下もいい所だ。俺達で苦戦していたら、上層部の奴らと当たったら死は確実だぜ?」
 永は今の自分の立場も忘れ、勝ち誇ったかのように和弥に向けて言葉を吐いた。
「御託は良い。目的を教えろ」
 当然、和弥は震えるわけも無く、殺気で永の顔面を殴りつけながら命令を下していく。
「俺達が任されたのは、水鏡の盾の奪取と、再生の鏡の覚醒だ…」
「何?」
 和弥は目を細め、永の胸倉を掴むと顔を近づけた。永はその溢れ出んばかりの殺気に振るえながらも必死で和弥の目を見続ける。
「と言うことは、再生の鏡の能力を保持している奴を知っているんだな?」
 永はコクコクと頷く。永はその名前を大声で叫んだ。その名前を聞いたとき、和弥は空いている右手をひっそりと、そして強く握り締めた。右腕に張り付いていた氷は綺麗に溶けていた。
――これで、俺の目的に一歩近づけたな…。
「ありがとう。君の協力に感謝するよ」
 和弥は殺気を解き、永に満面の笑みを向けて礼を言う。永はその和弥の表情を見て一気に気が楽になったのか、強張っていた表情を緩め、そして溜息を一つついて言った。
「もう全部話したんだ。そろそろかいほ…」
 永が開放という言葉を口にした刹那、和弥の刀が貫いている左胸から横に一閃した。切り払った刀の刃には、一滴の血液も付いていない。永の体はスゥッと胸から上が落ち、綺麗な断面図と真っ赤な噴水を吹き上げながら、膝から倒れていった。倒れた拍子に断面から色々な生臭い赤い物がはみ出した。
「開放してあげたよ? これでもう命の心配をする必要は無いだろう?」
 和弥は刀を鞘に閉じ込めると、甲高い笑いと共に、氷の世界となっていた資料室を後にした。
資料室に静寂が戻り、暗闇の中、二つに分断された男の死体が真紅の水溜りを作っていた。

「…大人しく、水鏡の盾を渡したらどうだ?」
 戒は見たものを石にしてしまいそうなほど凶暴な眼で結城を見据える。渡し方も知らないのにどうすればいいのか、それが全く分からない結城はじりじりと戒に対して牽制をとることしかできない。
 互いに距離を取り合ってから、既に数分が経っている。戦闘豊富だと思われる戒はまだまだ余裕のある笑みを浮かべて結城を見ている。一方、結城はいわば初戦闘。能力も開花していない危険な状態で、数日前まで常人だった者の精神力がもつ訳は無かった。足はがくがくと震え、相手から目を逸らそうとするが、必死でそれを抑えているような状態だ。おまけに相手から発せられる殺気による圧力が徐々に結城の体力を毟り取っていく。
 ついに結城は一歩後ろへ退いてしまう。それは、敗戦の旗を掲げたも同然の行動だった。
「…結城君、どいて」
 聞き覚えのある声と共に、結城の背後で横たわっていた須川が結城のズボンを掴んでいた。須川は水でびっしょりと濡れた服のまま結城を支えに立ち上がると、制服のスカートをぎゅっと絞り、ある程度水気を取る。だが、湿りきった須川の服は絞ったくらいでは乾くはずもなく、その湿った制服は須川の体のラインを浮き出させている。
「起き上がったか。だが、体術が主体の君の攻撃は、液体化の俺には通用しない事くらい分かっているだろう?」
 戒はにやりと余裕に満ちた笑みを浮かべ、須川と結城を順々に見た。
「おまけに、救世主は俺の殺気で簡単に退いちまった。救世主が聞いてあきれるねぇ。その調子だと、能力もつかいこなせてない。いや、覚醒してないんだろ」
「この野朗…」
 結城は歯を食いしばって一歩前に踏み出すが、須川が突っ込もうと身構えている結城を左手で制した。
「…甘く見ないで。私はこれでも、何人かの狂ってるNOBADYを殲滅してきたのよ? あなたに負けたのは情報不足。もう私の敵ではないわ」
「須川!!」
 結城は須川を見て笑みを浮かべる。須川は既に勝利を確信しているのだ。結城の心に圧し掛かっていた何かが少しスッと消えた気がする。
 だが、そんな笑みを浮かべる結城を須川は、ジッと見つめていた。
「…君は今は完全な戦力外です」
 その言葉に、結城は表情を一変させる。
「ど、どういうことだ?」
「…この世界は弱肉強食。弱者は簡単に食い殺される。覚醒していない救世主の君は、まだ弱者の側にいます。だから、今戦力外の状態で突撃し、死んでしまっては困るんです。だから、ここは私に任せてください」
 須川は結城を視線から外し、湿った上着を脱ぎ捨て、ワイシャツの状態になる。だがやはりワイシャツも湿り、薄っすらと須川の肌と下着が露わになっている。須川はそんな事を気にする事も無く、肩提げの鞘から小型のナイフを取り出すと、戒に向けてそのナイフを構えた。
「…君はここで倒れてはいけない。全てを識り、そして世界の真実を見抜きなさい。」
 須川はナイフを胸の前に構えると、影に「二十秒」とデジタル表示を浮き出させ、瞬時に戒との間合いを詰めると、ナイフで切りかかる。
 そんな中、結城は愕然とする。無理矢理救世主と言われ、無理矢理世界を救済する戦いに引き込まれて、大した戦闘の経験も無いのに戦場に狩り出され、使い物にならないと判断すると簡単に切り捨てる。
 確かに戦いに必要なのは強者のみ。弱者は足手まといだというのは分かっていた。だが、そんな覚醒さえしていない弱者である自分を須川は役に立たない「救世主」ではなく、仲間である「結城純」として見てくれていた。
 結城は強く歯を食いしばる。じゃあなんで俺はここにいる。拳を強く握り締める。爪が肉に突き刺さり、真っ赤な血が滲み出た。
――俺は、結局『存在しない者』のままで終わってしまうのか?
 結城は須川にいわれた言葉が、ずっと心を刻み続けていた。
『…君に全てを託します。だから、君は生きなさい』
 結城の握り締めていた拳が、微かに疼いていた。

 須川は液体を高速移動を交えながら休まず斬撃を与えていく。切りつけた部分の液体が地面に飛び散り、そしてそれはまた戒に吸収されていく。
「何だ? 敵じゃないんじゃないのか? おい!」
 戒の拳が迷い無く須川の左頬にヒットし、須川はよろりと足をもつれさせた。溺死を狙った攻撃のダメージが残っているらしい。戒は狂ったような笑いを吐き出しながら左拳を続けて須川に突き出す。が、須川のナイフでそれは防がれてしまう。
 戒はここで、須川の握り締めているナイフに違和感を感じる。鈍い輝きをしていたはずの刃が真っ赤になり、そして触っている戒の左拳がじゅぅぅ、と音を立てて蒸発しているのだ。
「…空気摩擦でナイフに熱を込めてみました。結構痛いでしょう?」
 須川は微笑むとそのまま右足を踏み込み、ナイフを切り上げ、突き出していた左腕の肘から先を綺麗に切断する。切断された腕はナイフの熱で一瞬にして蒸発して消えた。
「っち…」
「…傷や火傷等の傷なら癒せるかもしれないですが、癒すはずの体の一部が消えてしまっては、修復は不可能ではないですか?」
 須川は呟き、そしてそのまま体を捻って熱したナイフで胴体から右肩を切り落とした。腕は熱によって一瞬にして蒸発した。
「ぐぅ…」
 戒は痛みに声を漏らす。
 須川は突然足を止めた。
「…でも、どうやら私の負けみたいですね…。非常に残念です」
 誰が見ても圧倒的に有利なはずの状況で、須川が先に負けを宣告した。戒は須川を見て、そして狂笑する。
 ナイフが空気摩擦による熱に耐え切れずに、刃がすべて溶け、須川が握っているのは切れ味の鋭いナイフから、ただの棒きれに変化していた。須川の足元の辺りには冷えて再度固まった黒い硬質な塊が煎餅のようにひらべったく存在していた。
「この傷よりもっと苦しい方法で殺してやるよ…。どうやるか聞きたいか?」
 戒は勝ち誇ったかのような笑みを浮かべながら須川に問いかける。須川はにこりと微笑み、そして目を閉じ、首を横に振る。
「まあ聞け。俺は最初、お前を溺死させようとしたが、今度はお前の内部に液体として入り込む。お前の体中から俺が浸透していくんだ。そうしたら、内部で俺は能力の発動を停止する。すると、お前の中で俺が人間の姿になるわけだ」
 戒の考えている須川殺害方法は、結城にもすぐに検討がついた。つまりは、須川の中で戒は能力を解除して内部から壊そうとしている。人間の体の中に、それも小柄な須川の内部に成人男性一人分入れるスペースなんてあるわけはない。耐え切れなくなった須川の肉体は膨らませすぎた風船のように破裂するのだろう。
「つまり『ボン!!』だ」
 戒はそう呟きながら、じっと佇んでいる須川へ一歩歩み寄る。それと同時に戒の体が半透明のぶよぶよしたゼリー状の肉体へと変化する。須川を閉じ込めていた形態だ。そこから須川の場所に着く頃には、完全な液体として須川の体に入り込んでいく。
――助けないと…。
 結城は額から滲み出る気持ちの悪い脂汗を拭いながら一歩踏み出す。が、そこで結城の足は関節に油を差していない機械のように動きを止める。
『全てを託す』
 この言葉は、須川は死を覚悟している状況でも結城の心に強く残っていた。もしもここで逃げ出して、他の誰かに能力を移してしまえば、自分は狙われることはなくなるかもしれない。誰かに移すことができる能力なんてNOBADYの中でも稀だろう。だが、それによって結城自身はNOBADYでは無くなり、同時に平穏な生活が待っているのかもしれない。
――俺なんかが入ったって、未覚醒の俺には何もできやしないさ。
 結城は須川にじりじりとにじり寄る戒を見て、そう感じ取る。彼の液体化による能力は、完全に体を切断する事で修復が不可能になる。だが、それももう戒は理解している。同じ手が通用するわけが無い。
 結城は必死でどうにかしなくちゃ、と連呼しながら頭を回転させる。だが、何も思いつくものは無い。打開策なんて見つからない。
――ほら、やっぱり俺は、無力なんだよ。救世主なんて言っても、覚醒していなければ、ただの人間だ。いや、人間にすらなり切れていない未熟な存在だ。
 結城はぎゅっと目を瞑る。須川が死ぬところなんて、もうすぐ破裂して死ぬ現実から逃れたかったのかもしれない。
――夢であれ。
――夢であれ。
 結城は必死でそう願う。だが、そう願ってから目を開いても、景色はおろか、その状況が変わることさえなかった。
「ちくしょう!! 何でいつも俺は誰も守れないんだよ…」
 両親の時もそうだ。結局また自分は大切な何かを失おうとしているのに、何もできない臆病な自分がそこにいる。力がなければ何もできない。力の使い方を知らなければ、誰かを守ることもできない。全てを守るためにいる筈の『救世主』は、今ココで情けなく突っ立っている。どうする事もできず、自分を「未覚醒者」ではなく「結城純」として見てくれた人間を見殺しにしようとしている。
『君は、力が無いのが悔しいの? それとも、大切な人を守れないのが悔しいの?』
 不意に、頭に直接その声が響いてきた。親が二人とも連れて行かれた「あの日」に話しかけてきた白髪の少年と似ている声、そして台詞だ。その声が結城の頭に響くと同時に、右手が疼く。手の甲がまるで半田ごてを押し付けられたかの様に熱い。結城は唇を噛み締めて、その痛みに耐えながら頭に響く声に対して返答する。
『誰かを守れない自分が、力も無いのに突っ込んでいく無知な自分が悔しい。力が欲しい。誰かを守れるだけでもいい。戦うためじゃなくても、誰かを救える力ならそれでいい』
 その言葉と同時に、手の甲の疼きが止まる。一瞬結城は痛みの治まった手の甲に黒い痣を見た気がするが、気のせいのようだった。
『ようこそ、ユウキジュン。NOBADYの、救世主が進むべき道へ…』
 声の主は大きく叫ぶ。少年の高い声から、自分と同じ位の年の、声変わりを済ませた後の声に変化したのが分かる。この少年、もとい青年の声の主は誰なのか、結城は知る由も無い。
「死ね女ぁ!!」
 須川に向けて液体と化しながら突進していく戒は叫ぶ。その声にビクリと反応を見せる須川。死を怖がるのは誰だって同じ事だ。結城に無かったのは、諦めずにもがく事、死に立ち向かう事だ。須川は必死で戦っていた。死と隣り合わせの世界に居場所があり、そしてそこが自分の生きる理由のある場所だと感じたからこそ戦っていた。覚悟が違うのだ。結城とは。
 なら、俺はもっと重い物を背負って戦ってやる。この世界の全てを背負う覚悟をしてやる…。
 結城は右手に暖かい力を感じると、右手を思い切り握り締め、突撃する戒と潔い最期を決め、立っている須川の間に入り込むと、戒に向けて右腕を伸ばし、そして掌を戒に見せた。液体となった戒はそれをすり抜けよようと方向を変えずに突っ込んでいく。まずは結城を殺してしまってからと考えているようだ。
「俺に力を貸せ、水鏡の盾っ!」
 刹那、水色の綺麗な輝きと共に、掌の前に門を象ったデザインの施された鮮やかな六角形の薄いプレートが出現し、そしてそのプレートの周囲に八つのステンドガラスのような質感のカラフルな羽が出現した。



   第三話「逆転時計」
 
カーテンとカーテンの隙間から漏れ出てくる光が部屋中を照らす。毎週手入れをしている事で清潔さを保っているその部屋は、太陽光に照らされるといっそう輝きを放っている。
ベッドの上には既に人はいない。寝巻きだけがそこに雑に放り捨てられ、くしゃくしゃに丸まってそこに鎮座している。その部屋の奥から水の撥ねる音が響き、暫くするとキュッと蛇口を閉める音、横引きのドアの開く音がした。
湯気がまだ立ち上る体をタオルで拭っていく。まだ何も羽織っていないその体はシャワーによって赤く火照り、ピンで留められている長く黒い髪の毛は、光を反射して宝石のように輝いている。ピンが外れ、ばさりと纏め上げられていた黒髪が重力に沿って下に垂れ、ほっそりとしたその体を隠す。
鏡には自らの姿が映し出され、全身が露わとなっている自らの身体を両の腕で抱き止める。
ふくよかに育った胸。その上の、鎖骨に近い辺りに、明らかに肌の色とそぐわない、目立ってしまいそうな青色の痣が浮き出ている。
――やるべき運命は決まった。彼は覚醒してしまった。もう戻る事はできない。
まるで自分に言い聞かせるかのように呟きを繰り返す。既に体の火照りは退き、ほんの少しだが、全身で寒気を感じ始める。とりあえず服を着てしまおう。全てを行うまでの間は、『この私』でいよう。と呟くと、身体に体を拭う時に使用したタオルケットを巻き付けてノブに手を掛けた。

――○――

南から差す光で、結城は目を覚ます。
まだ目が完全に起きていない。結城はぼんやりと自分の手の甲を眺めながら、完全に体が覚醒するのを待つ。結城が目の前に挙げている右手の甲には、黒い痣が薄っすらと浮かび上がっている。完全にではなく、日焼けをしたような状態だ。
――この痣は、一体…。
結城は覚めていく記憶を遡りながら、昨日の状況を改めて思い出す。

「盾の覚醒!? そんな馬鹿な…」
戒は困惑の表情を浮かべる。が、体はそのままこちらへと向かってきている。結城はその不思議な形状の盾を戒の軌道上に向ける。能力の把握もままなら無い状況でできるのは水鏡の盾を防御の為の道具と考える事だけだった。
――能力が分からない…けど、盾ってことはこう使うべきだろ。
結城は完全な液体の塊と成って突撃してきた戒をプレート部分で押さえ込む。
刹那、周囲に浮いている八つの羽が回転し、同時に結城の体に何か暖かいものが流れ込んでくる。戒の体がゆっくりとヒトの姿へと還元していき、完全な実体となって結城の前に現れる。
「…なんだよ、なんで俺の能力が解けてるんだ?」
結城は漲るエネルギーが捌け口を捜し求めている事を感じ、本能的に吸収した「口」である盾にエネルギーを流し込んでいく。体に流れ込んできた暖かなものがスッと結城の体から姿を消し、同時に自身の体がとても冷たく思えた。
――喰ラエ。
 最初は幻聴かと思っていたそれは、結城の頭の中に直接響いているようだった。その声と共に、結城は体中の血が熱く煮えたぎっているかのような高揚感を感じてならない。
水鏡の盾の正面にある、デザインであるはずの門の扉が、ギィィと音を立てて開き始める。戒はその開きつつある門の先をゆっくりと見据え、そして地に崩れ落ちると恐怖に満ち満ちた表情を浮かべ、体をバタつかせる。
「…いや、だ。なんで俺がそんな…。し、死にたくない! 俺は生き続けるんだ…」
――喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ…。
強い高揚感を覚えさせるその声は次第に強まる。結城は押さえつけられない気持ちに支配され、目の前に存在する「覚醒者」を喰らい尽くしたいという願望が顔を出し始める。
戒は獲物を見るかのような目で睨みつけてくる『結城純』から一刻も早く離れようと手足を再度ばたつかせる。が既に彼の体は結城の体から発せられる殺気に射止められ、まともに動く事をしようとしない。まるで蛙のように戒は恐怖に身を引きつらせ、全てに絶望するしか出来ることは無かった。
「喰え。水鏡の盾!!」
刹那、泣き喚き恐怖に慄く戒の姿は、砂のような『何か』へと変貌、その全てが開ききった水鏡の盾の中へと吸い込まれ、門はゆっくりと閉じていった。
数分間の静寂が訪れ、結城は水鏡の盾を解除し、顔を俯かせてその場に立ち尽くしていた。その結城の姿を見て、須川はゆっくりと歩み寄り、肩に手をやる。
まるで先程までの激しい戦闘なんて無かったかのように辺りは闇と静寂に包まれ、その世界を微かに照らし出している電灯と家々の光が静寂の世界を本の少しばかり賑わしていた。
「…結城君」
「俺さ、なんていうか、覚醒した時さ、凄い興奮したんだよ。相手の能力を消し去って、そのエネルギーが自分の体の中に流れ込んでくるの。しっかりと分かったんだ。すごく暖かかった…」
結城は歯を食いしばり、両拳を思い切り握り締める。右手の甲には微かだが黒い痣が浮き始めている。
「…でも?」
須川が結城を諭すように問いかける。結城は搾り出すような声で、小さく呟いた。
「俺、こんな能力欲しくなかった…。能力が俺を支配して、頭の中で『喰え』『そいつを喰らえ』って言ってくるんだ。俺はただ、須川を守りたかっただけなのに、なんで人を殺さなきゃいけないんだ?」
須川は結城から目を背ける。彼を真っ直ぐに見ることが出来ない自分がいたのだ。敵となるものを全て殺し、そして救世主を守るために自らの命を犠牲にし、世界がバランスを保つのを希望にして生きようと思っていた。だが、その救世主の一人である「結城純」は、自身を守り、そして同時に相手を止めたい一心で能力を発動した。ほんの前までただの未覚醒で、何かを守ることに必死だった彼の信念を傷つけたも同然だった。全ての人々を救いたい。
――…それが、彼の願い。
須川は、俯く結城の両の肩をぐいと引き上げると、真っ直ぐとあえて結城と目を合わせる。その睨みつけるかのような須川の表情を見て、結城は唖然とする。
「…君がこの戦いに入ろうとした理由は、何だったの?」
 結城は目の上に微かに浮かんだものを拭い取ると、須川に向けて大きく吐き出す。
「この盾で、大切なモノを救いたい…」
 須川の表情が和らいだ。結城に微笑み、そしてゆっくりと諭すように言った。
「…その決意は、やがて君を大きく変えることになるわ」
「別に大きくなるつもりはない。けど、犠牲はもう出さない」
 結城の目の中に小さな火種のようなものがゆらりと映る。須川はそれを見て、もう一度軽く微笑んだ。

真っ青な大空に高く上る太陽は容赦なく大地を照りつけ、これでもかというほどの熱波を吐き出している。辺りは暑さでだらけきった者達がずるずると足を引き釣りながらのたくるように歩いていく。もはやクールビズなんていう服装で歩き回れる温度ではなく、逆に何か長袖のものを着ていなければ皮膚が黒焦げになってしまうのではないかと言う温度だ。一体何度あるのだろうか、と結城は襟首を前後に動かしながらぼんやりと呟く。
「暑いですねぇ」
唯も既にダウン寸前だ。いつも元気良く走り回っている唯が瀧のように汗をながして他の者と同じように足を引きずっているのだから、本当に今日は異常気象なのだろう。結城は苦笑しながらそんな事を考える。
「むぅ、結城君。今、いつも走り回ってるこいつがぐったりしてるから、今日は異常気象だとか思いませんでした?」
唯はそう呟くと、汗でびっしょりと濡れたワイシャツの胸の辺りを両手で隠しながらずいずいと結城に歩み寄ってくる。そんなこと無いって。結城は首を左右に振るが、実際はそう考えていたのだから内心焦ってはいた。
――テレパシーって、あるもんなのかな。
ファンタジーを信じない結城も、偶然かそういう特技なのかは知らないが、流石に唯の読心術にはたじろぐしかなかった。唯は時たまこんな不思議な事をする。
例えば、小学校のマラソン大会の時だった。生徒達が雨よ降れと願掛けをしていると、唯が「今日は絶対雨が降るよ」と自信満々に答えたことがあった。その時の天気予報は晴れ、降水確率はといえば、たったの十%だった。
だが、唯の予想は見事に当たり、ドシャ降りの大雨によってマラソン大会はおろか、六日後に予定していた運動会さえ延期という状況にまでしてみせたのだった。
「なあ唯。今日のこの晴天、せめて曇天くらいにはできないのかよ? 小学校の頃たまに予想やってくれたじゃないか」
 結城の何気ない一言に、唯が無邪気な笑顔で振り返ってくる。
「え?」
「だからさ、せめてこの天気を…」
その時、結城はその唯の『予想』に妙な違和感を覚えた。唯の顔が変に歪む。
「天気…自由に変化…不思議な出来事…」
唯の顔がだんだんと険しくなっていく。同時に結城の表情も強張っていく。
結城と唯の間に、この晴天ではありえないような冷たい風が吹き込む。その風は結城の体に巻きつくように動くと、突然結城の体が凍えるように冷たくなっていく。息が出来ないほど冷たい空気が回りにあるような感覚に陥った。

「なにしてるのゆいゆい?」
唯の後ろからべったりと腕を回す存在が突然現れた事にお互いの緊張が解ける。
「どうしたの? 保志ちゃん」
唯の肩に二の腕を乗せ、その先をぶらぶらとさせている少女に、唯は苦笑いを浮かべながら問いかける。暑いのよ、と呟きながら唯にのっかかる。だが唯は重いとは思っていないようである。それもその筈、結城の視線から見ても彼女は軽そうに見える。体は痩せ型に近く、ほっそりとした綺麗で肌理細やかな肌、茶髪混じりのショートへアーにピンク色のバンドで前髪を挟んでいる。唯と同等又はそれ以上とも言える顔立ちで、結城は一瞬彼女を見つめてしまっていた。
その結城の視線に気付いて、唯は頬を膨らませながら保志を引っぺがすと自身の隣に並ばせる。
「えっとね、結城君。うちのクラスメイトの保志矢那ちゃん」
「どもっ」
おどおどとしている唯の横で保志矢那は飛び跳ねるかのように手を伸ばし、綺麗に並んだ白い歯を見せて笑う。結城はそのハツラツさに少々度肝を抜かれながらも軽い挨拶を挟むと、再び歩き出す。
――いつもちょこまかしている唯以上に元気な奴だな…。
それが結城の見た感じの感想であった。
 結城が歩き始めると二人も後ろから着いて来る。目的地が一緒なのだから一緒に行く事になるのは仕方ないだろうと思うが、問題は保志にあった。
「私と唯とね、あともう一人『由紀』っていうのがいるんだけどね、クラスでも有名な仲良し三人組なんだ」
「ふーん」
「いつも唯って真面目過ぎちゃうのよね…。純君だっけ? 何かもうちょっと唯がはっちゃける為に何か出来ないかな?」
「ない」
「もう、そんなばしっと言われても困るなあ。まあ、私も無いんだけどね」
保志はクスクスと唯を見て一人笑みを漏らす。唯はそんな保志を見て「ひどいよ保志ちゃん」と呟いているが、振り返ってみると唯は笑みを浮かべて保志を会話を続けていた。保志の馴れ馴れしい態度がどうも苦手だと感じた結城は「今日先生に呼ばれてるから先行く」と一言言い残すと、一目散に走り出す。
「あ、ちょっと待って」
唯の一言が結城の足を止めた。彼女達と結城の間には一本の線路が敷かれている。既にバーは下ろされ、軽い音がカンカンカンと五月蝿く響いている。
「何だ唯?」
遮断機越しに結城は唯に返事を返す。警報機が鳴っているせいか自然と大声になってしまう。唯はいぶかしげに見ている結城に笑顔を向けると、右手を振る。
「またね」
 結城は笑顔で唯にこう返す。
「おう、また放課後な」
結城の一言が言い終わるか終わらないかのうちに電車は二人の間を断つかのように走っていく。八両連結だからなのか、妙に電車が目の前を通り過ぎるのが遅い気がする。が、結城はとりあえず遮断機を背に、目と鼻の先に見えている校門へと走っていった。

「で、なんでここに来たの?」
 白井は苛々とした表情のまま机の上にある答案用紙に赤いペンで添削をしている。結城はその横で手もみをしながら冷や汗をかいている。
「いやぁ、そういえばこの間の資料室の件、お礼言ってなかったなぁと思いましてですね…」
「それはあなたが先に帰ったからでしょ? 大変だったのよ!!」
白井は怒りを露わにしながらも、他の者に聞こえないような小声で結城を怒鳴りつける。
「この間、資料室で何かあったんですか?」
結城は疑問に思った部分を白井に問いかけた。刹那、白井の赤ペンがバキンと大きな音を立てて折れ、結城のクラスメイトである田鍋隆二画伯今夏初の画作品「純白の答案用紙」が赤いインクによって真紅に染まっていく。
「部屋中氷漬け、溶けたと思ったら本はぐしょぐしょで使い物にならない。おかげで資料室を使ったと思われてる私が資料を全額弁償。まだ聞きたいことある?」
 白井はぴしゃりとそう言うと、田鍋の答案が真っ白だった事を再度確認し、もう一枚の答案用紙にトレース用用紙を上からかぶせて慎重に名前のみをトレースすると「画才は認める。しかし零点」と書き加え、大きなペケマークを大きく、それはもう清清しいくらいに書いた。
「で、その氷漬けの原因は一体何だったんですか?」
「空気中の水分を固体化させる能力を持った覚醒者よ…。死体だったけど昨日回収されていったわ」
白井は小声でそう呟くと答案用紙に修正ペンを載せて大きな丸の印を消しにかかる。がしかし、使用していたのが水性ペンの為に裏移りが激しい。田鍋の白紙では無く今度はしっかりと書き込まれている。採点ミスはなるべく避けたいところだ。白井は表にも裏にも修正ペンを押し付け続けていた。
「…二人いたんだ」
「ん? 何か言った?」
結城のボソリと呟いた一言に白井が振り返る。
「いや、別になんでもないです」
結城はそう答えると白井に背を向け、ゆっくりとした足取りで職員室を出て行った。白井はそんな結城をポカンとしたままじっと見ていた。白井が机に向き直った時、修正ペンから出る白色の液体は、本来消してはいけないところまで広がり、最早修正する事は不可能に近いものとなっていた。

「…として我が国で異常発生したNOBADYを取り締まるべく政府が考案した憲法が『超能力禁止法』だ。これによって、特異な才能を持つ日本の人間は検査を…」
結城はいつもの席でいつものようにいつもの窓からいつもの景色を見ていた。授業が暇になった時に眺めている景色。
青空を微かに埋める灰色の雲、そしてその中で最も自己主張をする山吹色の光が燦然と煌いている。そんな絶好の天気の体育の授業でグラウンドを駆け回る生徒達、どうやら今日の授業はマラソンのようだ。小さな体操服姿がグラウンドに引かれた白線に沿って何週も何週も走り続けている。一体どれだけ走らせればあの体育教師は満足するのだろうか。結城はぼんやりとそんな事を思う。
何故か、結城には今、いつも見ていたはずの景色がとても新鮮に思えていた。毎日何気なくクラスメイトを過ごした学校での生活が、暇で暇でしょうがない数学や社会等の授業が。
自分とは関係無いと思っていたこの世界の『裏』に触れてしまい、そして自身が『裏の存在』とまでなってしまった状況下で、いつ覚醒者として捕獲されてしまうか分からない。もしかしたら今日、それも今すぐに捕獲され、今までのNOBADYと同じ末路を歩んでいく事になるかもしれない。そんな危険と隣り合わせの世界。
――俺は、一体これから何をすべきなんだろう…。
人を守ると言っても、救世主だと言われても、所詮は「結城純」という一人の生物でしかない。そんな自分が行くべき道を知っている筈もなかった。
今は静かに須川と和弥と合流すべきなのだろうか。それとも自分で何か行動を起こすべきなのだろうか。結城は唸りながら頭を掻く。
「何だ結城、こんなプリントお前なら楽勝だろうに」
呻いていたのを聞いてなのか、社会の担当教師である「波岩渡」が結城のプリントにずいと首を伸ばしてきた。そして真っ白な答案用紙に向かってダメダメやんと呟き、各所の問題を指差して一つ一つ解説を始める。
「いいか、ここは教科書の十四ページの三行目を…」
「先生…」
 結城の呟きに波岩は耳を貸す。結城は窓の外に広がる景色を見渡しながら、ぼんやりと小さく呟く。
「俺、どうしたら良いと思いますか?」
 
その日、空はいつものように晴れていて、いつものように車の音が騒がしくて、いつものように草木がざわざわとさざめいていた。
 和弥は結城の通う学校の向かいに建つマンションの屋上から双眼鏡を片手に学校を観察していた。須川は休憩しているのか、鉄柵に背中を預けてマックのハンバーガーとポテトを口にしている。
「…それにしても、指名手配者でも案外簡単にご飯買えるものですね」
「まあ、世間は意外にそういう指名手配とかに無関心だからな。面白そうなニュースに食いついたらそいつをダシに攻め立てておいて、被害が無い所でその様子を観察するのが好きなんだよ」
まあ、堂々と入り口を通っていったお前はおかしいが。と和弥は付け加えておく。須川は別にどうってことないでしょと呟き、ハンバーガーの包み紙をくしゃくしゃに丸めて紙袋に突っ込んだ。
「…それで、再生の鏡については予測付いてるの?」
「ああ、この間戦った氷使いに教えてもらった」
須川は溜息を漏らした。
「…聞き出したんでしょ」
和弥の表情が綻んだ。
「バレたか」
「…どうせ問いかけに素直に答えれば開放してやるとか、言ったんでしょ?」
和弥はビンゴ、と親指を立てる。須川はもう一度、今度は深い溜息をつく。
「そういうお前は負けたんだろ?」
「…結城君がいなかったら…ここにはいないでしょうね」
「まあ、人によって有利な敵もいれば不利な敵もいるだろうよ。今回は氷使いにしろ、水使いにしろ、肉弾戦のスガちゃんにはキツイ筈だったさ」
須川は頷く。
「で、水鏡の盾はどんな感じだった?」
和弥は足元においてある牛丼のパックを拾い上げると箸の片側を口で加えてパキリと割ると、パックの蓋を開けてまだ湯気の立っている牛丼に生卵を落とし、かき混ぜる。あなただって同じような事しているじゃないですか、と須川はボソリと呟くが、和弥は「俺強いから」と一言呟いてその話題は終了した。
「…水鏡の盾は、はっきり言うと最強に等しいですね。ガーディアンに匹敵する力を持っています。能力の無効化、敵の生命エネルギーの吸収。まだ底が見えませんでした」
須川が表情を歪めながら答える。もしも敵として出会っていたら瞬殺だった。もしも使用者が結城じゃなければ全てが無になっていてもおかしくはない能力だ。
「…でも」
「でも?」
和弥がどもる須川の顔を覗き込む。
「…結城君の心の方がダメージが…」
「そりゃそうだ。人を始めて殺しちまったんだろ? 普通の人間じゃダメージはあるさ」
和弥は空になった容器を鉄柵から先に放り投げるとポケットから煙草を取り出し、口に咥える。火は付けない。
「で、もうすぐ事が起こる可能性が高いのを承知で頼みたい事がある。お前資料室の先に忍び込めるよな。鍵系統のもの全部コピーしたはずだし」
「ええ、平気よ。再生の鏡はあなたに任せて良いのね? 何を調べれば良いの?」
「確か資料室にあの本。あったよな? 結城の頁を見てみてくれないか?」
須川は首を一度傾げるが、分かった。と返答し頷いた。
須川と和弥は学校を含めたいつもと変わらない風景を眺めていた。
――数分後、雲井さんの予想なら必ず事が起こる。水鏡の盾、俺、時使いでの決死の救出劇の始まりだ…。

「何をするべきか? 決まっているだろう。このプリントを解くんだよ」
 波岩はそう断言すると再び教科書を指差しながら、余所見をしている結城にほぼ単独授業と言っても良いような状況を作り上げる。旗から見てみれば単に教師が一人で授業の練習をしているようにも見えなくは無いかもしれない。
 そんな状態の中、教室の戸がガラリと開き、白井がひょっこりと顔を出した。
「あ、波岩先生。結城君お借りしてもよろしいでしょうか?」
「へ? いや、結城は今俺が授業を…」
波岩の返答が言い終わる前に結城が立ち上がり、教室の戸の方へ歩いていく。波岩は何か言って引きとめようとしたが、途中で諦めたのか、とぼとぼと教卓に戻って寂しそうに立ちすくんでいた。
「じゃあ、先生。ちょっと行ってきます」
結城は苦笑いで波岩に言うと廊下へと姿を消した。波岩はその結城の言葉を聞いてさりげなく笑みを溢し、小さなガッツポーズをしていた。
――ねえ、先生って男好きなんだっけ?
――この前女性からの告白断った理由もそうじゃなかったっけ? 女性とは付き合えない。とか言っていたらしいよ…。
クラス中の生徒がボソボソと波岩について囁き合い、そして次に結城の今後の危険性についての熱い議論を静かに、語り合っていた。

「で、白井先生。用件は?」
「あなた、再生の鏡って知っているわよね?」
結城は白井の問いかけを聞いて、和弥の顔を思い浮かべる。そういえば、和弥がそんな能力を持っている存在を探していた。
「あの時丙って人が言っていたように再生の鏡は水鏡の盾に並ぶ能力を持っているの。記憶の再生、傷の再生、死者の再生…。つまりは時間を部分的に逆戻りさせてしまう能力なのよ。はっきり言って、能力者の精神次第で効果が変わっていく無敵の能力と言っても良いかもしれない」
 結城は能力の特性を聞きながら早足の白井に着いて行く。
「で、その能力がどうにかしたんですか?」
「NOBADYがいつ覚醒したか分かる本があるわよね? そこに覚醒済みとして記載されていたの。覚醒者は時雨柚菜(しぐれ ゆずな)さん。こっそりだから確認しきれていないけど、突然更新されていたから多分これから学校で大きな事件が発生するかもしれない…」
「で、発動したらどんな事が起きるんです?」
白井は立ち止まり、一息つくと結城の前に向き直り、そして一言言った。
「消滅よ」

――○――

私、なにをやっているんだろう? いつものように学校に登校して、いつもどおりクラスの皆におはようって挨拶して、授業を受けて、宿題出して…。いつもどおりの学校生活で、何事も無く過ごせてた訳で、特に問題ごとも無かった筈。
 なのに、何で私はこんな所で横になっているんだろう。何も思い出せない。というか、思い出したくないんだと思う。
「…なあ裕次、本当に平気なのか?」
私の真上から声が聞こえてくる。首を上げて見る気さえしない。何もかもに無気力になってしまっている。何故だろうか、こんな状況になっている原因が全然分からない。
「大丈夫だって、柚菜はチクるなんて事しねぇよ。何より写真は撮っておいたんだ。脅し続けてりゃ飽きるまでこいつとヤれるぜ」
「それにしても時雨が裕次に惚れてたなんて驚きだったな。まぁそのおかげでこういう美味しい思いできたんだけどな」
「こいつ、どうする?」
「ほっといてよくね?」
「ああ、そうだな。明日写真ちらつかせれば学校も来ると思うし」
誰かが私を覗き込んでいる。私は半分目を開くと覗き込んでいる人の顔を見つめる。向こうはにやにやと気味の悪い笑みを浮かべている。というか、周囲にいる人全てがなんというか、悪魔のように見えてならない。
私は何に恐怖しているのか、答えは出かけているのだが出ない。このまま出ないでいた方が幸せかもしれないのに、私は何故思い出そうとしているのだろうか。
「俺ちょっと外で一服してくる」
裕次と呼ばれる悪魔はそう言うと他の悪魔に「センセイに見つからないようにしろよ」と声をかけられ、そのまま外に出て行った。
「それにしてもこいつも馬鹿だよなぁ。裕次に呼ばれて顔真っ赤にしながら来てさ」
「…あ…」
私は思わず小さく声を吐き出した。記憶にかかっていた靄がスッと晴れ、先程までの映像が私自身の頭の中でフラッシュバックする。
「そっか…私…襲われちゃったんだ…」
「お、柚菜さんが起きた」
薄く開いていた目がだんだんと開いていき、意識がはっきりしていく。
私はどうやら、校舎内のどこかの男子トイレに連れ込まれていたらしい。周囲には男子が五、六人立っていて、全員私を見てにやにやと笑みを浮かべている。そして次に自分の姿を見て、乱れた服を何事も無かったかのように着直すと重い身体を持ち上げた。
「明日もここで待っているよ。時雨柚菜さん」
男子の中の一人がそんな事を言って私の肩に手を乗せる。その手の感触に私は思わず身震いをするが、それと同時に何か言いようの無い何かが私の中に込み上げてくる。熱いような、冷たいような、黒いような、そんな何かが私の心の奥底にずしんと座り込んでいる。
「おいおい、そんな怖い顔するなよ。言っとくが、バラしたら写真はネットにばら撒くから覚悟しておけよ」
男子の一人が険しい顔をして私を睨みつけ、そして胸倉を掴む。こう脅せば私は従順になるとでも思っているようだ。正直、この体の内から湧き出ている何かが無ければそうなっていたと思う。でも、今はその湧き出てくる何かが私を後押しするかのように、私にこう言わせた。
「…言わない。だって、言う必要がないもの」
その台詞と同時に、肩に手を置いた男子と、胸倉を掴んでいた男子が一瞬にして消え去った。その不可思議な光景を見て、残っている男子は首を傾げている。
――ニンゲンナンカ、ダイキライ…。
気が付けば、私は小さく呟いていた。
「時の鏡よ、全てを消してしまって…」

――○――

「さて、そろそろ動き出そうか」
「…そうですね」
和弥と須川はぴりぴりと緊張を微かに迸らせる空気に異変を感じ、すっくと立ち上がると校舎を見据える。和弥の手は既に柄にかかり、須川の両手も腰の辺りに差さっているナイフを握り締め、微かに露わになっている刀身は太陽光を受け、抜刀の瞬間を待ち望んでいるように怪しく輝く。
「…和弥さん」
「ん?」
和弥が須川に顔を向ける。穏やかな表情で和弥は須川を見ているが、その殺気奔った空気は明らかにいつもの和弥とは違っていた。
「…何の為に、時の鏡を必要としているんですか?」
 和弥が黙り込む。須川はじいっと和弥を覗き込むように見る。
「…時限爆弾のリセット」
「…え?」

――○――

結城純がその異変に気付いたのは、前の席の女子「前田由紀」の姿が小さくなっていく所を目撃してからであった。ぐんぐんと周囲の者達の姿が退化しているようにも見えるその光景に、結城は首を傾げた。
勿論その事象に被害者達が気付かないわけはなく、学校中の生徒がパニックを起こしていた。
「何が起こっているんだ?」
「なあ結城…」
周囲がパニックになっている中、教室の隅の席に座っていた芳賀が結城の制服の裾を掴んだ。結城は芳賀を見て、思わず掴んでいるあまりにも小さな手を振り解くと後ずさりして壁に背をつける。
「なんでお前は平気で…なんで俺はどんどん小さくなってるんだよ…」
芳賀の姿は高校生とは言えなかった。年齢にして十二歳弱。身長もそれなりの大きさへと変化し、まるで小学生のような姿となっている。
「なんで結城は平気なんだ!?」
「どうしたら元に戻るのか教えてよ!!」
「お前だけずるいぞ!!」
教えろ。教えろ。教えろ。教えろ。教えろ。教えろ。教えろ。教えろ。教えろ。教えろ。
結城は思わずそのクラスメイト達の変わり果てた姿と、狂気の混じった「教えろ」という言葉の雨にやられ、その場にぐらりと座り込んだ。何がどうなっているのだろうか。考えようとするが、目の前の気味の悪い現象で頭が混乱状態に陥り、考える事すらままならない。
――でも、これって…。あれだよな…。ええと、なんだっけ…。アレだよ。なんで思い出せないんだ…。ええと…。
結城は頭を掻き毟る。その間も幼児となりつつあるクラスメイトがじりじりとにじり寄ってくる。結城は混乱している頭を抱えながら、一つの言葉を思い出す。
『記憶の再生、傷の再生、死者の再生…。つまりは時間を部分的に逆戻りさせてしまう能力なのよ。はっきり言って、能力者の精神次第で効果が変わっていく無敵の能力と言っても良いかもしれない』
――時雨柚菜の能力の暴走か…。
結城は右手を前に掲げる。能力による影響ならば、もしかしたら水鏡の盾を使うことで逆戻りを防ぐ事ができるかもしれない。能力のコントロールができていないのに挑戦すべき事ではないが、今はこれしか手段は無い。
「水鏡のた…」
刹那、盾を呼び出す前に、ふと水使いの姿が脳裏に浮かぶ。必死に懇願し、命乞いをしていた彼の哀れな姿が、結城の中で呻いている。
結城は掲げた右手を左手で握り締めると下に下げる。能力のみのエネルギーを吸収できなければ、全てを吸い取ってしまう可能性がある。
「完全なトラウマになったな…。あの光景…」
結城は自嘲気味にそう呟くと、一度深く深呼吸をしてから立ち上がり、迫りくる者達を背にして、窓にむかって思い切り体を突っ込んだ。
がしゃん。と割れたガラスが、宙で浮遊する結城の周りで光を受けて輝いている。しかし、それもつかの間。結城はそのまま重力という重石に圧し掛かられ、一気に地面へと急降下していく。ガラスも同時に降下していく。このままいけば、上手く着地できたとしてもガラスの雨で体中が傷だらけになる。
結城は地面に向けて右手を掲げると、大声で『水鏡の盾』の名を叫ぶ。盾はその呼応に反応するように右手に出現すると、ステンドグラスのようにカラフルな八枚の羽が四方に展開する。同時に結城の落下の勢いも緩まり、ガラスの破片だけがパラパラと雪のように結城の横を通り過ぎていった。
「この盾、こんな使い方もあったのか。覚えておくべきかな?」
結城は苦笑いを浮かべて呟くと、静かにガラスの破片の上に着地した。がしゃりと音が鳴るが、上履きを履いている事でダメージは全くの皆無だ。
結城はそこで、右肩の辺りが赤く染まっている事に気付く。同時に痛みも走り、結城は思わず顔を歪める。窓に突っ込んだ時に深く肉を抉られたようだった。興奮状態だからという理由では気付かないはずは無い傷なのにも関わらず、痛みを感じるスピードが明らかに遅かった。
そして、その傷のもう一つの異変に結城は気付く。深く抉られている筈の切り傷がゆっくりと癒え始めているのだ。数分後には完全に傷があったこと自体忘れていそうなほどのスピードで傷が消えていく。
「再生の鏡…。NOBADYにとっては最高の能力なんだな」
やぶれて血に濡れた制服のブレザーを脱いで脇に投げ捨てると、ワイシャツ姿で結城は再び校舎玄関へと足を急いだ。

「丙隊長…」
「ん? なんだぁ…今行く」
丙は面倒臭そうに立ち上がる。部署に侑子の姿は無い。どうやら別の仕事に赴いているらしい。侑子のとんでもないスケジュールを見てしまうと、自分がどれだけ仕事をしていないのかが良く分かる。丙は侑子のスケジュール手帳の書き込みを思い出しながら小さく溜息をつく。
 丙はいつも寝床にしているソファのある部屋を出ると、自分を呼んだ隊員の姿を探す。寝癖のついた黒いクセのある髪をクシャクシャと掻く。そろそろ風呂に入らないと気持ち悪くて仕方が無いが、水鏡の盾が覚醒するまでの間は厳戒態勢。とてもじゃないが銭湯にいく余裕は無い。
「あ、丙隊長」
茶色に染め抜かれたクセ毛で、整った顔立ちをした男性(高校生に見えなくも無い)が丙の下に駆け寄ってくる。丙は面倒臭そうにその男性を一瞥し、そして壁際に立つ自販機に歩み寄ると、砂糖とミルクと浮かび上がる部分を両方とも上限にまで設定し、その状態でコーヒーのボタンを押す。
「用件は何だ? 一般隊員が普通に声をかけていいわけは無い存在だって事を理解した上での行動なんだろ?」
「ええと、僕は調査班及び戦闘班に属しています。黒田、と申します」
「自己紹介は良い。さっさと用件」
 黒田は頭を掻きながら困ったような表情をする。そしてそれから左に挟んでいた一枚のプレートを丙に差し出す。
「?」
丙はそのプレートを取り上げると覗き込む。プレートには様々な調査内容がペンで書き記されている。ところどころ文字が汚くて見えないが、それでもこの黒田が腕のある調査員だという事が分かった。
「実は、NOBADY側で伝説として語られている救世主について調査をしていたところ、おかしい事を見つけたんです」
「おかしい…点?」
「はい、ここを見てください」
プレートに書き記された字の一つを指差す。NOBADYが生まれた年代から水鏡の盾を所持する存在「結城純」が現れるまでの時間がグラフとして書き記されている。
「NOBADYが生まれたのが三十年前の三千五年。そして救世主という存在をNOBADY達が口にするようになったのがそれから五年後の三千十年、ガーディアンがそれぞれのNOBADYを統治して、以前のように大量虐殺が行われなくなったのもこの年です」
「ああ、確かこの頃からしきりに『救世主』という言葉を呟く奴らがいたな」
「そして、今現在、17歳の『結城純』が救世主と判明したのが遂最近です。ここがおかしいんです」
「ん?」
「彼が水鏡の盾を手に入れたのが六歳、三千二四年」
「十年以上経ってからだな。だがそれのどこがおかしいんだ?」
黒田は丙の目を真剣に見据える。丙はその黒田の凛とした輝きを放つ目から視線を逸らすと、胸ポケットにしまっておいたチョコレートを一欠けら口に含む。
「水鏡の盾は、結城純自身の能力では無いという答えに辿り着くんです」
思わず丙は口に含んだチョコレートを吐き出し、げほげほと咽込む。
「てめ、何中間はしょって結論言ってるんだ。理由を言え理由を」
「丙隊長は知っていますか? 白髪の少年の話」
黒田は恐る恐る問いかけてみる。丙はゆっくりと首を横に振る。
「結城家の家族が彼を除いて全員覚醒し、そして暴走するという事件が昔起こったんです。結果的に、うちらが捕獲して駆除したんですけど、その時の状況を知っている同僚が『白髪の少年と何か話した後、暴走した二人が結城純に襲い掛かった』と言うことを言っているんです」
 丙は腕を組むと、うむぅと黙り込む。黒田は続ける。
「そして実はNOBADYが現れてからの大事件のどこかで、白髪の少年は必ず現れていて、しかも全てが収束すると姿を消しているんです。また、救世主がNOBADYの間で呟かれるようになってから白髪の少年の存在が突然出現しているんです」
「…その白髪の男を見つけられれば、この三十年間に和渡る人間とNOBADYの戦いに終止符を打てると…そういうことか?」
「そうだと思っています。そして、水鏡の盾と二人目の救世主の存在も、明らかになると」
丙は思わず微笑む。説明は下手だが、面白い所に着眼する奴もいるもんだ。と本音をこぼす。
丙は黒田の両肩に手を置くと、笑みを浮かべる。
「オレの元で働け。お前は使える」
「は…はいっ」
黒田は顔を赤く染めると、満面の笑みを浮かべて返事を返す。
そんな時だった。侑子が部署に駆け込み、息も絶え絶えに丙の前まで歩み寄ると、大声で叫ぶ。
「再生の鏡が発動したわ!!」
丙と黒田の表情が、凍りついた。


時雨は所々破り取られた制服を手で押さえるのを止める。隠しても意味は無い事に気付いたからだ。既に下着は露出していて、隠そうとしても手が足りない。だからこそ、彼女は見られないようにする事をしているのだ。
時雨の周囲には男子の制服が散乱している。が、肝心の男子達がいない。
『いつも…皆私を虐める…』
――大丈夫だよ時雨、先生に全てを任せるんだ…。
――時雨、父親の言う事ができないのかい?
――この写真をまかれたくなかったら…。
『人間は、皆気持ちの悪い存在だ…。全て無に還れば良い…』
時雨はそう言うと、背後に出現している金色の光を纏う時計を見ながら、狂ったように笑い出す。


「再生の鏡の影響なのか?」
結城は何度も須川に電話をかけるが、繋がらない。画面に表示されているバリの数は三本だが、それでも繋がらないという事は能力の状況下、また能力が暴走状態であるせいなのだろう。
「時雨柚菜はどこにいるんだ…」
結城は校舎中を走り回っているが、未だに彼女の姿は確認できない。彼女の性格も何も知らない。それが結城の探索を困難にさせていた。
結城が突き当たりを曲がったところで、何かと衝突する。たいした衝撃ではないが、やはり突然な状況なので、結城は思わず後方に倒れこむ。
軽い痛みに顔を歪めながら起き上がると、目の前には結城と同じ体勢で倒れている保志の姿があった。結城は立ち上がると保志の側に駆け寄り、彼女の顔を覗き込む。今朝会ったばかりの相手だが顔は覚えていた。だが、挟んでいたヘアピンは外され、茶色だった筈の髪は黒くなり、そして背中には古びたリュックサックを背負っている。それ以外は変化は無いが、染色が許されているこの学校に来てまで何故黒く染め直す必要があるのだろうか。結城にはそれが疑問だった。
「痛ったぁ…」
「あ、えっと…ごめん」
後頭部を抑えながら起き上がった保志は涙を目に浮かべていた。結城は慌てながらもポケットからハンカチを取り出すと彼女に差し出す。彼女はむぅっと膨れながらもそれを受け取ると、にじんでいる涙をそれでふき取る。
「無事な人がいたのか。てっきり学校全体に影響を及ぼしているのかと思った…」
「私もこの状況に驚いているのよ。突然周りの皆が中学生とかになっちゃって…」
結城の呟きに苛々した彼女の返事が返ってくる。登校時とは違う、妙に突っかかってくるような言動と雰囲気に、結城は軽く戸惑う。保志は立ち上がり、膝の辺りを軽く手で払うと、結城を軽く睨みつける。
「で、キミは誰? なんでこの状況の中で、再生の鏡の影響を受けていないの?」
「え…?」
保志は完全に警戒している。結城は彼女の問いかけに混乱しながら、必死で頭の中で状況をまとめようとする。だが、そんな時間を彼女は与えてはくれなかった。
「そっか。キミ、私と同じNOBADYなんだね」
結城の顔が驚愕の表情に変化する。混乱なんて存在は頭の中から一気に吹き飛んだ。
「何? どこの守護者の配下? 再生の鏡を狙ってるんでしょ?」
 保志は背中のリュックサックに手を突っ込むと、ミネラルウォーターの入ったペットボトルを一本取り出し、キャップを開けると中身を自らの手に垂らしていく。彼女の手には小さな水溜りが現れ、そしてそれが突然沸々と煙を上げて煮えたぎっていく。
「!?」
結城は保志との距離をあけ、すぐさま身構える。保志はにっこりと微笑みながら沸騰して水蒸気となっていく水を見ている。
「そういえば、永君と戒君。いなくなっちゃったんだよねぇ。キミ、もしかして知ってるんじゃない?」
「戒…?」
結城はチラリと自身の右腕を見る。戒と呼ばれた人物は、この右腕に吸収されて消滅した。結城は唇をキュッと噛み締め、そしてまた彼女の方へ視線を向けた。
視線を戻した結城は目を大きく見開く。冷たく、気持ちの悪い汗が体中から吹き出ている。
彼女は、表情の歪みを見て結城がどちらか、または二人を殺したという事を悟ったのだろう。保志は笑みを浮かべ、結城のすぐ目の前に右手を掲げて立っていた。
「復讐させてもらうよ」
僕の目の前で顔を寄せて立っている保志は、ニッコリと笑ってそう言った。

「ここは地獄か?」
 走ると共に、少し長い茶髪が揺れ、同時に身に着けているアクセサリーがじゃらじゃらと音を立てている。だがそんなことをうっとおしく思っている暇は無かった。一刻も早く怪奇現象の起こるこの学校から逃げ出すべきだ。篠原亮はそんな思いで必死に校舎を駆け回っていた。
ゆっくりと時が戻っていく光景を目の当たりにし、そして目の前で友人、河野秀の姿が赤ん坊へと退化していく映像。夢だと思いたかった。だが、そんな篠原の足を掴んできた河野の小さな手の感触で、これは現実だという事を篠原は理解してしまっていた。そして同時に沸いてきた恐怖が篠原の足を動かさせ、謎の現象から逃れよう校舎を走り回っていた。既に昇降口はおろか、屋上の扉でさえ開かない。いつかは自分も友人達のようになってしまうのだと考え、そして何度も恐怖に苛まれ、廊下をひたすらに走り続ける。そんな行動の繰り返しだった。
「なんで俺だけこんな状況になんなきゃならないんだよ」
篠原は溢れ出る涙を制服の裾で拭う。
「誰か助けてくれよ!!」
篠原の叫びは静寂に包まれた廊下に響き、そして消え去っていった。

 


2007/03/12(Mon)01:28:15 公開 / 聖藤斗
■この作品の著作権は聖藤斗さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
暫く書きたくても書けない状況にいました。色々とやっていたらやらなくてはいけないことが膨大に(絶叫)
今回は地味に長いので、分けることにしました。一応第三話でちょっとづつ伏線を回収している筈ですが…。見落として最後まで回収せずにおわるものとかがなければいいかなぁと…。
今回は珍しくアクション少なめ。後半で大量に入れてしまい、薄くなっているので、前半をとにかく濃くしないと…とかなり設定詰めていた覚えがあります(そのせいでかなり地獄見ていますが…^^;)
初めて長編っぽい実感がする作品なんで、ゆっくりとですが、遅筆な聖に付き合ってくださると助かります。
3/12(月):第三話前半更新。なるべく早く後半書きます…
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