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『喪服』 作者:タカハシジュン / リアル・現代 未分類
全角7323.5文字
容量14647 bytes
原稿用紙約19枚
 松村から電話をもらったのは多分夜、あまり遅くない時間であったと記憶している。
 当時私はまだ実家で両親と共に暮らしていて、実家から大学に通っていた。高校で同じクラスだった松村とはまず悪友といっていい間柄で、くだらないことを嬉々としてやっていたものだったが、私は地元の大学に入学し、松村は東京に出て、それ以来疎遠といえば疎遠であったから、不意に電話がかかってきたのは少しばかり妙といえばそうだった。
 電話は母親がとったと思う。松村からであると告げられて、久方ぶりに顔をあわせようかといった誘いなのだろうなと勝手に目星をつけた。確か二年くらいはその頃会っていなかった。電話のある前、一度地元で飲んだが、女の話しか交わしていなかったと思う。それも松村の、何人と寝たとかそういう馬鹿話だ。松村はまるで気軽に大勢と寝るために東京の大学に行ったようなものだとからかうと、松村もニヤニヤとしていた。その松村のわざと猥雑さを気取るような笑顔を思い浮かべ、私は受話器をとった。
 松村は、よう、と小さな声で言ってきた。それはまるでひどく遠い、彼方からささやいてきたもののようだった。私はその声を聞いて、どうして松村はそんなに遠くにいるのだろうと戸惑った。
 それは、私を何かひっかけてやろうとする冗談のわなとして遠ざかった声ではなかった。そのことは松村の声を耳にしてすぐにわかった。だが松村は遠かった。声色はひどく無機質だった。どうした、何かあったのか。私は尋ねた。ややあってから松村は私に用件を伝えてきた。吉野が死んだ。
 おい、冗談だろう。おい嘘だろう。私はひどく遠くそして無機質な松村の声色が何の実感も裏打ちせずただ事実のみを伝えてくるのに面食らい、何度も何度も松村に問いただした。いや本当だ。吉野が死んだ。交通事故だ。今日のことだったらしい。こっちに遺体を運んできて、明後日が通夜だ。場所は○○町の、わかるだろう。そうだ。それじゃあ向こうで会おう。俺もこれから実家に戻る。じゃあな。
 突然のことで、悲しみも実感もわきあがらない。呆然としてリビングの自分の椅子に座った。松村からの電話を取った母親が何があったかを尋ねてきた。私は呆然としたまま吉野が死んだという話の内容を伝えた。
 母親のほうが見るからに驚いた。私も驚かなかったわけではない。だが私の驚愕には何の実感も伴っていなかったと、今にして思う。私はまだ、いや今でも多分そうなのだろうが、死というものをよくわかっていなかった。例えば一番世俗的で雑務的な、どういう身支度をしてどうやって通夜に行き葬儀に赴くのか、それさえもわからなかった。いや、そういうものはテレビで見たこともあるし、実際に何度もちゃんと葬儀に出ている。だが私の中での死というものは、濡れた紙を一枚はりつけただけの薄っぺらさでしかなかった。それが何なのかちっともわからなかった。母親は当たり前だがそうではない。それなりの人の死に目にも逢ってきている。私から通夜と葬儀の日時と場所を巧みに聞き出すと、息子の同い年の友人が死んだ事実に痛ましい顔をして、明日朝一番で喪服を作りに行ってこいといって一旦奥に引っ込み、やがて戻ってきて、私に何枚か一万円札を手渡した。このとき私は情けないといえばそうである心地を噛み締めていた。友人を弔うのに身を包む服を買う程度の金がさっと用意できない私は無力であると思った。
 その晩私は酒を飲んだ。うずくような悲痛さを鎮めるためではなかった。それは湧き上がってはこなかった。吉野の顔が浮かんできたが、吉野が死んだとはどうしても実感がないのだった。悲しみの起こりようもなかった。ただそれは事実であろうと思っていて疑っていたわけではないのだった。それが事実であることは松村の声が語っていた。琥珀色をしたウィスキーは私の舌を焼き、咽喉の道すじを焼いて下っていったが、そこから先はどこを燃やすわけでもなく、どこに注がれたわけでもないようだった。
 私は今にしてその晩自分が寝たのか、寝付いたのか、よく覚えていない。多分まだ二十三で徹夜をしても体力的には平然としていられる頃だったから、記憶の残照となるような肉体的な疲弊感などはなかったのだ。ともかくも朝がめぐってきていた。白々とした朝だった。太陽が明白に雲を貫いて明るさを振り撒く日ではなかった。だが同時に、雲が歴然と太陽を遮蔽する暗澹とした日でもなかった。それはどこまでも曖昧に白濁としていた。私は実家でたぶん家族とあまり口もきかず、紳士服の量販店が開店する時刻をじりじりしながら待っていたのだと思う。頃合を見計らうにしては少しばかり早い時間に、車に乗って家を出た。母親が気をつけなさいと口やかましくいった。吉野が死んだのは交通事故であったということを母親には教えていた。ほんの悪縁でたまたま友人に訪れたことが自分の息子にはありえないということは断言できないのだと、当たり前のことだが母親は知っている。であるから口やかましく気をつけろといった。それでいておそらく母親は、そのように言うことにいくらかの罪悪感を覚えてもいただろうと思う。他家の息子が死んだことを戒めとする自分の姿に想像が及んでいたのだろう。それはエゴイズムなのだという自覚があったのだろう。だがそれでも母親は言わずにはいられなかったのだろう。
 母親の凡庸すぎる言葉は、車を運転している最中ずっと耳にこびりついていた。そして奇妙なほど薄っぺらく、私の半面にはそれとは逆の死というものがへばりついていた。ここで強引にハンドルを切れば私もまたあっけなく死んでしまうのだというささやきがあった。私は綱の上をふらふらと運転しているような空虚な実感を得ていた。両手の片方には、執着ともいえない何ら実感を伴わない生の執着のようなものがあり、別のほうには死という不可思議な、よくわからない、霧のようなその彼方の世界があった。吉野はそちら側に倒れ込んだわけだった。姿を消した。いや、松村とそうであったように吉野とも大学以来疎遠になっていた。もともと私にとって吉野はすでに姿を消していた存在だった。そこに死という線が引かれた。そしてその線は決して絶対なのではなく、むしろあっけないほどに私であっても通過することができるのだという不思議な感触がハンドルから伝わってくるのだった。
 吉野と最後に会ったのは、何年か前に一緒に東京に行った時だったろう。オーランドとニュージャージーが来日して日本で開幕戦を行うというのを聞きつけて、目の飛び出るような高いチケットを買ってのバスケット観戦のためだった。私はペニー・ハーダウェイのファンであったから、その金を惜しいと思ったことは今に至るまで一度もない。吉野はジョーダンに心酔していたがその年は丁度ジョーダンの一度目の引退から復帰したばかりで、未だ彼のセカンドキャリアの輝きを取り戻したとは断言できず、吉野もペニーに浮気をしていた。
 あの日のゲームはすばらしいものだったが、私と吉野の小さな旅は順調というばかりではなかった。その頃私は実家暮らしできちんとした朝食のない朝というものは耐えがたかったが、吉野にしてみればそれはたいした問題ではないのだった。最もチープで安直な、マクドナルドの朝のメニュという結論に達した時、私は内心の不満を抑えながら笑顔を見せなければならないのだった。そんな類のことがいくつか積み重なると、時折私もそれとなしに爪を出す。吉野は隣で困惑する。要は私は我侭で、特に私の我侭を引き受けねばならない少数の人間との旅や行動に不向きなのだ。私と吉野はゲームを堪能し、タオルマフラーやレプリカユニフォームといったみやげのアイテムを買い込み、それを抱えて帰りのバスに乗った。夜出て朝につくバスだった。車中のことは覚えていない。寝ていたのだろう。そして朝になった。五時ぐらいだったろう。到着した。私は先の停留場で降りた。朝もやの中で、多少の倦怠感や些細な気まずさはあったが、吉野との縁が切れる心配などしもせずに笑顔で手を振って別れた。吉野とは大学こそ違ったが同じ地元で生活していて、別に行き来に不都合もなかったのだが、やはりそれぞれの環境、新しい友人、別々の生活の中にあって、そこから時々抜け出して落ち合うというような真似をなんとなしにしないまま、一年か二年、三年、それぞれ過ごした。それは少なくとも永久の別離を覚悟した決別などではなかった。曖昧に、お互い地元にいるのだから、会おうと思えば電話一本で大丈夫なのだから、そういうザイルを持っていたせいだった。結局会わずじまいで終わってしまった。
 終わってしまった。
 紳士服の量販店に着くと、駐車場には従業員らしい車しか停まっておらず、強い風が吹いていて沿道に並べられたセールの旗が色とりどりにゆれていた。中に入ったとき、その店舗は別段奇をてらった陳列ではなかったのに、迷路のように感じた。とにかく喪服を探さなければならないと思った。よくわからなかった。店員に相談した。
 店員は、女性だったと思う。四十半ばぐらいだっただろうか、母親よりはいくらか若い年頃の外見をしていたように思う。私は喪服が必要であることを告げた。自分の声に抑揚がなかったことを話してみて自分ではじめて気づいた。松村の声と同じだった。店員は誠実な様子の人だった。あの痛ましそうな表情は忘れられない。彼女は精一杯、それが職業的な擬態なのだろうか、悲痛さと厳粛さが織り交ざった顔をして、ひとつひとつ、丁寧に私の相談に乗ってくれた。それが職業的な擬態なのか。わからない。だが私はそのときまで自体が痛ましいとあまり感じることができずにいた。擬態すら私の中にはなかった。名前も知らない、縁もない、ただ喪服を一着作りに行った店先の店員の表情を見つけて、はじめて私の中で吉野に対する哀憐がこみ上げてきて、私は涙を抑えた。それは私の中で置き忘れていた疲弊を呼び起こすものでもあった。寸法を測ってもらっている最中、私はずっと呆然としたまま波打つ感情の潮を前に愚直に立ち尽くしていた。店員は私にウェストのサイズが変更できる喪服を勧めた。多少体重が上下動しても、今後ずっと着ていられるとのことだった。今後。確かに今後。私は今しか頭になかった。だが今後というものは私にこれからずっと付きまとってくるのだとはっとした。死ぬまで続く。そして吉野は死んだ。
 生きている間は、送り続けなければならない。そうやって最後に自分が送られてゆく。あれからもう何年もたって、何人も送った。その喪服も何度も着た。店員の判断は正しくて、多少体重の上下動はあっても今でも立派に着ることができる。
 裾の直しを、夕方までにやってくれるとのことだった。何もいわなくても店員がどんどんそうやって便宜を図ってくれた。私はうすのろだった。支払いを済ませて一旦帰って、言いつけを守るように律儀に出来上がりの時間に訪れて受け取った。家に戻って身に着けてみるといかにも着慣れていない自分の姿があった。ネクタイをうまく締めることができなくて困った。親が助けてくれた。見るからに板についていなかった。
 式場で松村を見た。以前よりずっと痩せていた。髪の毛を伸ばしていて、やはり喪服と不釣合いだった。目のふちが赤かった。
 松村と私と、あと幾人かの仲間がいた。まだ時間があった。ホールで話し合った。皆なんとなしにそれぞれの道に別れてしまって、億劫がって会うことをしていなかった。たまには会おうという話になった。吉野の命日に会おう。墓参りもしよう。そういう話になって、それから私たちは突然涙声になった。
 祭壇は花々に飾られて、遺影は飛び切りの笑顔であった。吉野の親族、学校や職場の同僚や友人の女たちのすすり泣きの響きが途切れなかった。喪主をやった吉野の親父はしゃんと背筋を伸ばして毅然としていた。丁重に参列者に礼を述べていた。後日になるが、社会的には何者ですらない私たち吉野の友人一人一人に、吉野の親父は礼状を送ってきた。喪主の挨拶でも、淡々と、吉野の事故の経緯を過不足なく語り、そして最後に吉野の友人である我々に参列の謝辞を繰り返した。立派なものだった。吉野の会社の上司が沈痛な表情で御霊に呼びかけをしたのにも、口先の言葉からははるかに遠い吉野に対するはっきりとした悼みが伝わってくるものだったが、吉野の親父の態度には感服せざるを得ないのだった。この後些細といえば些細なへまがあった。度胸を終えた坊主が挨拶をするときに、故人たる吉野の享年を間違えてしまった。私はそのとき、死んだ田舎の祖父の葬儀を咄嗟に思い出した。長年来祖父と、祖父の住む村のお寺の坊さんとは、小さな世界で接しながら暮らしてきて、坊さんは祖父の仕草まで思い出すのに苦労することさえなく記憶の中にとどめていてくれた。その中にある祖父の姿を祖父の葬儀の講話で、坊さんは語ってくれた。おおらかでともすれば鈍重なひととなりであるくせに妙なところで妙なこだわりがあって、囲炉裏の中の灰は製図されたかのようにきっちりと均されていなければ気が済まず、他人にそれを乱されるのをひどく嫌った祖父のことを語る坊さんの目元にうっすらと光るものがあって、多分私はその光景を生涯忘れることはなく、脳裏の中に祖父の思い出と共にそっとしまって置き続けることになると思う。そのことを思い出し、吉野が町屋の人間であるからそれはやむをえないのだ、それにもう祖父の時代とは違っているのだとわかっていながらも、また吉野の親族などではない身の軽い私などが些細なしくじりに云々思うということも場違いで非礼であるとも思いながら、私は何事かを思わずにはいられなかった。それは、私の中において、翌日の葬儀の吉野の出棺のときに行われた、それと同時に何処からか白い鳩が飛び出すという式場側の陳腐なセレモニーと対を成して、私の心の中にこびりついた。坊主にしてもそのセレモニーについてもひどく俗悪だった。そのことに私は得て勝手に腹を立てた。そういう私の心の乱れを救ったのは、やはり吉野の親父の立派な態度だった。吉野の親父は今にして思えばあらゆるものを引き受けているかのようだった。式場に呼ばれた坊主の講話のしくじり、式場側の陳腐な演出、参列する喪服の女たちの泣き声、私どもの悲嘆、そして残された家族と自分自身の心境の荒漠ささえ、吉野の親父は引き受け、泣きも乱れもせず毅然として背を伸ばしていたように思えるのだった。
 そのことは、私にとって時間をかけて領解される性質のものであったことは疑いようがない。私は年頃に比してさえ未熟すぎた。幼すぎた。戸惑うばかりで肝心の吉野に対する悲痛さすらスムーズに湧き上がってこなかった。死というものに対する実感も、身近な人間がそれに直面するという歴然とした事実と向かい合うことも、全くはじめてで、面食らってばかりだった。軽々しく、それがいずれは自分や周囲に訪れるということを知識としては理解していても何ら実感なく、浮薄に、頭の中の知識の中に放り込んでいるだけの小僧だった。後になって若さを振り返るときはいつも、自分の至らなさ、幼さ、未熟さ、それがもたらす傲慢や思い上がりについて、やるせなさと苦さとを手元にひきつけずにはいられない。今もそうだ。吉野の遺影のこぼれんばかりの笑顔を見ていたあの時、本当にギリギリのところまで吉野に死があるということを今ひとつ実感できないでいた。だが、やがて対面が訪れた。吉野の顔を見るために、参列者の長い長い列ができた。それはどこまでもゆっくりとした、じりじりと進んでいるかのような行進だった。にじり寄るように、私たちは吉野を納めた棺に近づいていった。黒い喪服の列がまるで棺にまとわりつく蔦のように続くのだった。そして蔦は嗚咽した。棺の近くで泣いた。そこに何があるのか。無論わかりきっている。わかりきっている。
 言うまでもない。一番苦しいのは家族だ。ご親族だ。私はおこがましくて直面することが苦しくてならないなどとは到底言えない。そのこともわかっていた。だが私は心の中で怖じた。それを恥じもした。行列が続き、後の人々も続く。それに押されなかったら、私は逃げ出さずにちゃんと吉野と最後に対面できただろうか。
 私の順番が来た。
 吉野は数え切れない花の中で眠っていた。本当に吉野なんだろうか、私はこみ上げてくる情を押さえながら変わり果てた姿を見つめた。遺影の笑顔はどこにもなかった。
 最後の挨拶など、浮かんでくるはずもなかった。私は獣も同然だった。ろくに言葉も浮かばず、辛うじてうめくのを我慢するだけだった。ただ私の頭の中を支配することがあった。鄭重に、吉野のご家族に頭を下げなければならない。ご家族にすら何の言葉も浮かばず、出て気もしない。ただひたすらに対面を果たし、焼香を済ませた後は、ご遺族に頭を下げた。それしかできることがなかった。


 翌日の昼近くに葬儀があって、それを経て、抹香の移り香の多少残る真新しい板につかない喪服を引っさげて、私と松村は近くの喫茶店に行った。松村はソファに身を沈めると無作法に黒いネクタイを緩め、煙草に火をつけて吸った。私は向かいの席であてどなく漂う松村の紫煙の行方をぼんやり見つめた。
 何かそこで松村と特別な話をしたわけではない。ぽつん、ぽつんと、さして続きもしない言葉を交わした後、私たちは閑散とした喫茶店の古びた調度に取り囲まれて時間を浪費していた。
 やがて、松村は立ち上がって、じゃあなと軽く手を上げた。その声は電話のときのような隔たった遠さはなく、また近いでもなく、ただ輪郭の明瞭なものだった。ああ、私も芳醇さのかけらもない言葉で応じた。
 それ以来松村とは会っていない。時折メールなどで近況を報告するだけだ。そして、おそらく同じぐらいの頻度で、私は毎日の生活の海に浮かび沈みしながら、時々吉野のことを思い出す。

━了━
2006/05/16(Tue)18:52:49 公開 / タカハシジュン
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