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『アリエル ― to the Shining Blade ― ―完―』 作者:神夜 / 異世界 アクション
全角114655.5文字
容量229311 bytes
原稿用紙約320.2枚
盗る者を「トレジャー」、狩る者を「ハンター」と呼ぶこの世界で、奪う術しか知らない少年と、戦う術しか知らない少女は出逢う――。


     「盗る者と狩る者」



 飛ぶべきか飛ばないべきか。
 飛ばないで逃げ切れることができるのならそれに越したことはないのだが、さすがにこの状況では走って逃げ延びることなど到底不可能だろう。ならば他に方法はないのかと考えるのだが、生憎として飛ぶ以外に方法は思い浮かばなかった。もっとちゃんと勉強していれば何か良い案を思いつくことはできたのだろうか。教本を机に立てて教師の目を盗んでは涎を垂らしていた日々を恨むのだが、今さらにそう考えても無意味であり、仮にしっかりと勉強していたとしても、今のこの状況では飛ぶ以外にはおそらく逃げ道などはないのだろう。教本から学ぶ言葉や数式が、ハナクソほどの役にも立ちはしないということを今までの経験が語っている。
 そして今までの経験上、ここはやはり飛ぶべきなのだと、月明かりの下でカロン・アマルテアは思う。
 奪い盗って来たばかりの札束の入った袋を肩から落とし、腰に巻いてあったポシェットからフックのついたケーブルをずるずると引き出す。ずるずると引き出すのだが長い。ポシェットの中は四次元空間になっているのではないかと思うくらいに長い。ケーブルをすべて引き出すには十秒ほどの時間を要し、たった十秒間だけなのにも関わらずカロンの息は情けないくらいに上がっている。そのことは気にしないことして、フックとは反対のケーブルの先っぽを城壁の鉄柵にきつく結ぶ。
 地面に落とした袋をもう一度担ぎ直し、中身がちゃんと詰まっているかを確認し、袋の口を絶対に開かないように縛りつけ、どのような状況に陥っても体から離れないように金具でポシェットと繋ぎ合せる。城壁の鉄柵に結んだケーブルを全力の力で引っ張り、どのような不可が掛かっても決して解けないかどうかを確認する。解けないことをしつこいくらいに確認した後にケーブルを下に放り投げ、ポケットから革のグローブを取り出して装着する。これがあれば摩擦の熱には何とか耐えることができるだろう。たぶん。
 これですべての準備が整ったことになる。
 目前に広がる広大な海を見つめて深呼吸をひとつ。ついでにもうひとつ。最後にもうひとつ。未練たらしくもうひとつ。
 よし、とカロンは拳を握った。が、そのやる気は足元から海までの高さを見たことで一瞬で揺らいでしまう。ゆうに五十メートルはある。テミスト・カルデネの要塞、とはよく言ったものである。ここに入るには通常の経路はひとつしかない。正面の厳重な門を潜る以外に安全に入ることができる場所はなく、他の場所はここと似たり寄ったりである。海と絶壁に囲まれた天然の防壁、そこに聳えるテミスト・カルデネの城、故に不落のテミスト・カルデネの要塞。
 行きはまだ良かったのだ。食料運搬車の樽の中に身を潜ませて内に入り込んだ。それから内部を探索し、侵入してから実に十三時間もの時間をかけてようやくお目当ての部屋を見つけ、かさ張る金銀財宝を諦めて札束だけを奪い盗って来た。そこまでは良かった。計画は完璧だった。なのに、最後の最後でしくじってしまったのだ。詰めを失敗するのがカロンの悪い癖で、小腹が空いてしまったので食堂に入り込んで冷蔵庫を開けようとした瞬間、巨大なネズミ捕りにやられた。
 そこから先はトントン拍子で、今に至る。
 前方からは絶壁を海が叩く波の音が聞こえ、背後の敷地内からは大勢の人間の声や足音が聞こえる。
 ぐずぐずしている暇はない。暇はないのだが、どうしてもこの一歩が踏み出せないでいる。ここがもっと別の場所ならばいい。しかし下が絶壁と海では少々恐いものがある。もし着地を失敗すればどうなるのか。落下途中にケーブルが切れたらどうなるのか。摩擦の熱に耐え切れなくて手を離してしまったらどうなるのか。怪我、では済まないのは明白である。一発で死ぬだろう。それが簡単にわかってしまう分、恐れがある。だがそうこうしている間も、背後からの声と足音は確実に近づいて来ている。
 テミスト・カルデネは侵入者をひと息には殺さないと聞く。捕獲された侵入者は十字の板に貼りつけにされ、三日三晩、ありとあらゆる苦痛を与えた後に身体の各箇所を徐々に切り刻まれて殺される。本当かどうかは知らないが、それがもっぱらの噂である。実はもうちょっと軽いのかもしれないが、どの道に捕まったら殺される。それだけは間違いないのだろう。だからここで捕まるわけにはいかない。でもここから飛ぶのは恐い。どちらにも偏らない思考が自問自答を繰り返り、このまま見つからずにやり過ごせればいいのに、と最も有り得ない考えが浮かんだ。
 そして、瞬間的にそれは打ち砕かれる。テミスト・カルデネの部下の兵士と思わしき男の叫び声にカロンが振り返った瞬間、頬を何かが掠めた。遅れて聞こえた銃声でようやく、先のが銃弾であることを知った。銃声を聞きつけた兵士が続々とこちらに集まって来ている。月明かりが射すそこで幾人もの兵士が銃口をこちらに向ける気配が伝わった。
 掠めた頬からゆっくりと流れ出す血を拭うこともせず、カロンはついに覚悟を決めた。
 ケーブルをしっかりと握り締め、最後の深呼吸をひとつ。響き渡る銃声と同時に、海に背を向けながら重力を捨てた。
 一瞬、すべてが止まったような気がした。止まったような気がした次の瞬間には景色がとんでもないスピードで上へと流れていた。我に返って慌ててケーブルを握り締めてスピードを殺すことに全力を尽くすが、人ひとり分の体重の落下速度を簡単に殺せるはずもなく、ほとんど変わらないスピードのままで一気に落ちた。革のグローブ越しに感じる摩擦熱に思わずケーブルを離しそうになる。速さのせいで方向感覚が崩れ去り、圧力がカロンの意識を刈り取る。回転するような視界の中でふと見たそこに、海があった。
 死ぬもんか、と意識を浮上させる。
 全力の力を持ってケーブルを握り締め、煙を上げたグローブに気づかないフリをする。あらん限りの声を上げて意識をすべて手に回し、止まれ止まれと念じ続けた。それが通じたのかどうかはわからないが、僅かにスピードが落ちて止まりそうだと思った瞬間にケーブルの長さが足りなくなり、真っ直ぐに引き伸ばされたケーブルの反動に一瞬だけ体が上に浮き上がった際に思わずケーブルから手を離してしまい、カロンを支えるものが完全に消えた。
 海に落下した。海はすぐそこにあった。とんでもない衝撃だった。
 一発で天地がわからなくなり、出鱈目にもがき続けた。顔が海の上に出たのはまったくの偶然に過ぎず、よかったと安堵を憶える暇もなく波に襲われる。必死に泳いで絶壁から離れ、波が穏やかな所まで辿り着く。そのまま勢いを止めずに岸を目指して泳ぐが、すぐに体力が続かなくなる。一度だけ水中に止まって息を整えていると違和感を覚え、手を動かしてみたら感覚がよくわからなかった。麻痺しているのだろう。グローブを剥ぎ取って素手を見ると、酷い火傷を負っている。痛さを感じないのが救いであるが、このまま海水に晒し続ければどうなったかわかったものではない。
 再び泳ぎ出す。そう言えばポシェットに繋いだ袋の中身は大丈夫だろうか。袋自体は防水であるのだが、口から水が浸入している可能性が大いにある。これが金銀財宝なら気にする必要などないのだろうが、札は紙である。濡れれば大変なことになってしまう。が、もしこれが金銀財宝だったのなら今頃カロンは海の底に沈んでいただろう。ぐしゃぐしゃになっても換金所に行けば新札と換えてくれるだろうか。そんな心配をしながらもさらに泳いで行く。
 もはや体力が限界に達し、このまま沈んでも何ら不思議ではないというようなところでようやく岸に着いた。
 死ぬように重い体を引っ張り上げ、水浸しの自分自身を見下げて苦笑する。そして視線を上げて見れば、小さくテミスト・カルデネの要塞がある。ライトのような光が幾つも海に向けられているが、そこにはもう、カロンはいない。そんな光景を見つめながらカロンはもそもそと動き、ポシェットに繋いだ袋の口を開けた。水が入り込んでいるようだがこれくらいなら大丈夫だろう。無事な札も幾つかある。
 その場に倒れ込む。空を見上げて初めて、生きているのだという実感が湧いた。
 我ながら無謀な脱出だった。普通なら死んでもおかしくはなかった。それなのにも関わらず、手の火傷だけで済んだのだから儲けものか。あんな脱出手段、もう絶対にしないでおこう。おそらくは百回やったら九十九回は失敗するに決まっている。成功の一回が今回はたまたま最初に来ただけなのだ。運も実力の内、とは言うがそんな運はこれっきりでいい。
 しかしそれらを足し引いても、トレジャーとしてのハントは文句なしの成功である。
 今日の晩飯は久しぶりに豪勢なものだ、とカロンは笑った。

 それが、テミスト・カルデネの要塞で起きたトレジャー侵入事件の結末だ。

 そして死にもの狂いで行ったその脱出劇を、二時間以上もの時間をかけてカロンは説明した。
 どれほどまでに辛く、どれほどまでに恐ろしい仕事であったのかをひとつひとつ細かに、そのときに感じた感情などを残らずに、時にはフィクションも織り交ぜつつも説明したのだ。なのに、本当に死ぬような思いまでしたのにも関わらず、トレジャー仲間のステファノ・キャリバンは「とりあえず飯食っていいか?」の言葉で一蹴した。
 もちろんその飯の代金を払うのはカロンである。先日にカロンが奪い取って来たテミスト・カルデネの金で支払うのだ。ステファノとの仲間を組むに当たって、幾つかの約束事項がある。そのひとつが『仲間が収入を得たときは飯を奢る』というものであるのだが、カロンはいつもステファノも頑張ったのだろうと考えて慎ましく料理を一品くらい頼むだけで遠慮するのに、ステファノは何の遠慮もなしにメニューの上から下までの全部を注文した。絶対に全部食い切ることなんてできないのに、それでも毎回毎回、ステファノはこうして全メニューを頼んではテーブルに並べて「一品一口」とつぶやきながら文字通りに食べる。しかも質の悪いことに、そのようなことをするのはカロンの支払いのときだけ。迷惑この上ないことであるのだが、約束なので仕方がない。
 次から次へと運ばれて来るメニューを一品一口で食っては見捨てて行くステファノを尻目に、その中で美味そうなものをひとつ頂戴してカロンは食べる。このメニューすべての代金はもうすでに暗記している。6万4520ウェル。冗談ではないのだ。昨日得た収入は諸々の支払いを差し引いて残ったのが凡そ50万ウェル。その十分の一以上をこんな馬鹿げた食事に払うことになっている。あれだけの思いをしたのにも関わらず、だ。そもそもテミスト・カルデネもテミスト・カルデネだ。保管庫に置いてあったのは札束に加えて金銀財宝もあったのだが、その半分以上が偽物の加工品だった。宝くらいちゃんとしたものを備えておくべきなのである。
 心の中で不服を唱えながらもしゃもしゃと食事を続けるカロンの前で、ステファノが言う。
「ぼふぉぼぉぼふぇ」
「食べるか喋るかどっちかにしてよ」
 ごくん、と喉仏を動かした際にステファノは口の中のものを一発で空にして、
「ところでよ、お前は次の仕事どうすんだ?」
 ああ、とカロンは食器をテーブルに置く。
「しばらくは休業かな。この手を完治させないことには不自由だし」
 包帯の巻かれた両手を摩りながらカロンは苦笑する。
 全治二週間だ、と医者には言われた。ただ火傷の痕はしばらくは消えず、下手をすれば一生残る可能性もあるという。が、命の重さを思えば火傷のひとつやふたつならまったく気にならない。それにこれは勲章なのだ。この火傷がある限り、自分はテミスト・カルデネの要塞に侵入して金を奪い盗り、大脱出を決行して見事逃げ切ったのだという誇りを思い出すことができる。だからこその、勲章なのだ。
 ステファノはカロンの手をまじまじと見つめ、ぽつりと、
「お前、その手どうしたんだよ?」
 この阿呆は一体何を聞いていたのか。
「だから言ったじゃん。テミスト・カルデネの要塞から逃げ出すときに火傷したの」
「なんだ本当だったのか。おれはてっきり嘘かと思ってた」
 悪い悪い、と悪びれる様子もなく笑うステファノ。
 たまに仲間であるはずのこの男を無性に殴り飛ばしてやりたいと思うときがある。が、腕力だけなら圧倒的にステファノの方が強いので返り討ちにされる。隙を突いて殴り飛ばしてやりたいのだが、この男、隙があるようで隙がない。何とも油断ならない仲間である。馬鹿丸出しかと思えば次の瞬間には的確な言葉を吐くなど、未だ多くの謎に包まれた男、それがステファノ・キャリバンだ。おまけにトレジャーとしての基本的な性能を取ってもカロンよりもステファノの方が上であるはずなのに、仕事をほとんどしないでカロンの収入をせしめるまったくもって許せない男なのである。
 それでも、こうしてカロンとステファノが仲間を続けていることにはちゃんとした理由がある。
 こういう場合、ステファノが動いてくれるからだ。
「だったらしばらくはおれが飯代でも稼ぐかな。どっかに良い賞金首はいたっけ?」
 ちょっと待ってて、とつぶやいてカロンが腰のポシェットからリストを取り出す。
 その中から適当に見繕ってテーブルに広げると、飯を食いながらステファノが覗き込み、手に取っては眺めて捨て手に取っては眺めて捨てと繰り返し、やがて二枚のリストだけを手元に残した。それを確認したとき、カロンは僅かな動揺を見せた。まさかこいつ、こんなのに手を出すと言うんじゃないだろうなとカロンは思う。
 両方とも大物である。この辺りではかなり名の知れた『ガラティア・カリュケ 賞金額780万ウェル』に、名の知れたどころの話ではない『ディオネ・オフィーリア 賞金額1000万ウェル』である。前者ならともかく、後者のディオネ・オフィーリオなんて1000万の壁に位置している強者だ。ちなみに先日にカロンが侵入した要塞の主、テミスト・カルデネの賞金額は240万ウェルである。
 堪らずにカロンは席を立ち、
「ちょ、ちょっと待ってよっ、まさかディオネのアジトに乗り込む気!?」
 おうよ、と自信満々に肯くステファノ。
 こいつ正気かと思う。
 この界隈でトレジャーをしている者に取って、ディオネ・オフィーリアにちょっかいを出すことは死に繋がると誰もが理解している。テミスト・カルデネのような要塞を持っているわけではなく、森の奥底に巣を持っていることから侵入は一見簡単そうに思えるのだが、ディオネの手下はすべてゲリラ戦を得意とし、誰にも気づかれずにディオネのねぐらまで辿り着くことなど絶対に不可能なことなのである。
 そもそも賞金額が1000万という桁がおかしいのだ。賞金額の基準はふたつある。ひとつは500万の大台。これに乗った賞金首はちょっとやそっとではビクともしないだろうし、賞金首自体の強さや部下の質も半端ではない。次いでの基準が1000万。この壁に達した賞金首は政府から完璧に危険視された猛者であり、その者の強さ自体も化け物染みていて、部下の質は500万の比ではない。ここ数年で1000万の壁に立った賞金首を、カロンはディオネ・オフィーリアしか知らない。同じ人間であることを疑いたくなるような正真正銘の化け物なのである。
 そしてそんな奴のアジトに、ステファノは乗り込もうとしている。
 カロンはため息を吐き出しながら、
「無理に決まってる」
 しかしステファノは譲らず、
「無理だって思うから無理なんだ。やろうと思えば大体のことはできるぞ」
「できてたまるかっ!!」
 怒鳴られたステファノは肩を竦め、やれやれと言った風に首を振りながら新たに運ばれて来た料理を一口だけ食う。
 口をもごもごと動かしながらディオネのリストを捨て、残ったもう一枚を差し出す。
「だったらこいつだ、ガラティア・カリュケ」
 それでも肯けたものではない。
 極々普通のトレジャーが手を出すにはあまりに大き過ぎる賞金首だ。1000万の壁に達していないのだがしかし、780万の賞金額は伊達ではあるまい。腕力が強いと言ってもステファノも人と比べての話だ。化け物と比べたら話にはならないだろう。次元が違うのだ。化け物の相手はちゃんとした化け物のトレジャーかハンターに任せて、普通のトレジャーやハンターは普通の賞金首から稼ぐのが常だ。態々化け物に手を出して噛み殺されることもない。命を粗末にしてはいけないのである。
 カロンは運ばれて来たデザートを手に持ちながら、
「それもダメ。死にに行くようなものじゃん」
「おれとお前を一緒にするな。おれなら上手くやる」
「だから無理だって。500万の奴に手を出したこともまだないのに、いきなりディオネやガラティアなんて不可能だよ」
 突拍子もないことをステファノが言うのはいつものことだが、ここまで突拍子もないことを言うのは珍しい。
 もしかすると本当に自分なら上手くやれると思っているのかもしれない。カロンもまた、心の隅ではそう思っているような節がある。ステファノが今までハントでミスをしたことがないのは知っている。だがそれは500万以下の賞金首が相手での話だ。この二人はそれとは絶対に次元が違う。幾らミスをせずとも向こうがこっちの上を行っていたら一貫の終わりなのである。死ぬとわかっている仲間を見す見す送り出すことなんてできるはずもなかった。
 カロンはスプーンで生クリームを切り崩しつつ、
「とにかく、この二人は論外。絶対にダメ。他の賞金首にしてよ」
 不服満々だったが、それでもステファノは従ってくれた。
 カロンの心配が伝わったのか、それともカロンに小言を言われるのが嫌だったのかはわからないが、それでも従ってくれたことは有り難い。ステファノが万が一にでも死んだ場合、これから先、カロンはひとりのトレジャーとしてハントをしなければならなくなる。そこで今回のような傷を負ってしまった場合、飯代が稼げなくなる。それは困る。だからステファノには絶対に生きていてもらわねばならないのだ。
 ステファノは飯を食いながら捨てたリストを拾い上げて新たに見直し、それから五分ほどじっくりと睨めっこした後に、今度は500万以下の賞金首を選出した。これで文句はねえだろむしろ文句は言わせねえぞとばかりに差し出して来るリストを受け取り、見つめる。そこには『リシテア・アイトネ 賞金額480万ウェル』と書かれている。加えてリシテアは女の賞金首だった。女の賞金首が珍しいわけではないが、女の賞金首に480万ウェルという高額な賞金が懸かるのが珍しかった。それを見つめながら、カロンはまたギリギリの賞金首を選んで来たなと思う。なんでステファノはこうも高い賞金首にばかり拘るのだろう。もっと低く安全なのを選出すればいいのに、変なところで負けず嫌いなのだ。
 しかしここで反対するのは無理だろう。そろそろ認めてやらねば鉄拳が飛んで来そうな気がする。通常に比べれば高い賞金額の賞金首だが、カロンよりも遥かにトレジャーとしての素質があるステファノなら上手くやるはずである。そこまで心配する必要はないのかもしれない。一応はこれをターゲットにしてハントすることは認めようと思うのだが、仲間として侵入するために必要な最大限の用意はさせなければならない。万が一、という可能性がこの世界ではどれだけでも大きくなってしまうのだ。ちょっとしたことが誠の命取りになる。死と隣り合わせの仕事である。
 カロンはリストをテーブルに戻し、
「ハントすることは認めるけど、絶対に無理しないってことが約束」
 ステファノは笑い、
「臨機応変だな。無理しないと稼げないかもしれないし」
「だったら行かせない。行くのなら金より命を大切にすること」
 珍しく本気の目をするカロンに気づいたステファノは少しだけ驚いた顔をした後、いつもの口調で、
「わかった、わかったよ。約束だ。約束事項第二条『仲間の忠告は絶対』だからな」
「うん、それでいい」
 まったく過保護な仲間だぜ、とステファノは笑いながら料理を食った。
 その日の三日後、用意を万全に済ませたステファノはリシテア・アイトネのアジトに向った。

 そして、それから一週間経っても、ステファノ・キャリバンはついに戻って来なかった。

     ◎

 この世界では盗る者を「トレジャー」、狩る者を「ハンター」と呼ぶことが一般的な常識になっている。
 そこで共通しているものはどちらも標的が賞金首であるということ。トレジャーは賞金首のアジトから金品を奪い盗ることを生業とし、ハンターは賞金首自体の首を取ることを生業としていて、どちらも自由気ままに自分の思うままの仕事、つまりは「ハント」ができるとあって自らの腕に覚えのある者がトレジャーやハンターに名乗りを上げるのだがしかし、もちろんそれ相応の危険が伴う。年々、トレジャーやハンターに名乗りを上げる者に比例して、賞金首の前に死んでいくトレジャーやハンターが後を絶たない。
 が、それも当然なのかもしれない。賞金首の方から言わせるのなら、そのふたつの役柄は自らの金品や命を狙って来る人間なのだ。遠慮していては丸裸にされるだろうし、一瞬で首を落とされるかもしれないのだ。だがそれは、世間一般から言わせれば理不尽以外の何ものでもない。賞金首なる者は皆、それに似合うだけのことをしているのだ。賞金首の被害に遭う普通に暮らす者から言わせれば、賞金首とはつまり、世の中の黒い部分を具現化したような輩なのである。
 政府から一般人に害を成すと危険視された人間が賞金首とされ、それを標的としてトレジャーやハンターがハントをする。トレジャーの場合は奪い盗って来た金品の四割を、ハンターの場合は賞金額の二割を政府に還元することで活動することを許されている。しかしそういう場合、それを怠る者がいるのもまた現状だが、もちろんそこにはカラクリがある。その義務を怠って公に出た場合は窃盗や殺人の罪で今度はその者が別のトレジャーやハンターに狙われることになる。ちなみに還元された金の半分が賞金首の被害に遭った者に戻されるというのが一般的なのだが、実際のところがどうなっているのかはおそらく誰も知らない。
 話を戻す。年々、新たなトレジャーやハンターが名乗りを上げる中で、賞金首の前に死んでいくトレジャーやハンターがいる。一歩間違えれば簡単に、まるで虫を踏み潰すかの如くに人の命が絶たれる。だが一般人が一年間普通の仕事で働いて得る収入の平均が300万ウェル前後であることが当たり前のこの界隈で、下位の者とは言え300万の賞金首が数十人も存在するハントの世界はやはり魅力的なのだろう。一人を討伐すれば一年間を遊んで暮らすことができる。故に金に目が眩んでトレジャーやハンターになる者がいるのだが、そのような者が真っ先に死んで行く。死にたくなければ自らに合った相手にハントを挑め、というのが誰ともなしに言われる言葉だ。それでも己の力に慢心して遥か高みの賞金首にハントを挑み、そのまま帰らぬ者となったトレジャーやハンターが、この世界にはさらにごまんといる。
 ならば、ステファノ・キャリバンの場合はどうなのだろうか。
 480万ウェルの賞金首、リシテア・アイトネを次のハントの標的にすることを決めて旅立ったのが今から二週間前の話である。だが一向に音沙汰はなしであり、現地に向ったトレジャーやハンターから三日間以上も連絡が来ない場合、その九割が賞金首やその部下に殺された可能性が高い。極稀に生き延びて帰って来る者がいるのだが、そんな者はやはり一割にも満たない。そのことから考えるに、音信不通になったままで二週間も経過したとなると、もはやステファノ・キャリバンの生存確率は絶望的だった。
 カロン・アマルテアもトレジャーのひとりとして、仲間から二週間も連絡が来ないことが何を意味するのかは理解していた。
 しかし理解していても、納得したわけではなかった。ステファノが簡単に死ぬわけはないのである。780万や1000万の賞金首が相手ならわかるが、今回にステファノがハントすることに決めたのは480万の相手。カロンならまだしも、ステファノが遅れを取ることは考え難い。絶対にどこかにいるはずなのだ。もしかしたら何かのアクシデントに見舞われて動けない状況にあるのかもしれない。今こうしている間も、カロンの助けを待っているかもしれないのだ。
 約束事項第一条『仲間の危機には必ず駆けつける』に基づき、カロンは今日、行動に移すことを決めた。
 通常のハントではなく、目標はリシテアのアジト近辺にいるであろうステファノの救出。金が出るわけではない。しかし金よりも遥かに大切なものだ。金など後から幾らでも稼ぐことができるが、ステファノはこの世にひとりしかいない、カロンの大切な仲間なのである。ステファノがいなければもう、冗談を言い合って笑い合うこともレストランのメニューを上から下まで全部頼んで悩むこともできないのだ。そんなこと、あっていいはずはなかった。
 手の火傷はきっちり二週間で完治した。またあのような脱出をしない限り、火傷がぶり返すこともないだろう。必要なものを愛用のポシェットに突っ込んで仕度を整え、リシテアのアジトについて必要な情報を情報屋を通して掻き集める。その途中、近頃ひとりのハンターが下位の賞金首を次々と潰して行っているという興味深い情報も得たのだが、今はそんなことに気を配っている余裕はなかった。リシテアのアジトは市街地から離れた山中に位置し、かなりの数の兵士を見張りにつけて一軒の館に根を張っているらしい。
 その近辺に、ステファノは必ずいるはずだ。今もカロンの助けを必ず待っているはずなのだ。
 準備を万端にして、カロンはステファノと共に暮らしている住処を出た。市街地を横切る間は普通にしていたのだが、市街地から一歩出てからは慎重に慎重を重ねるくらいで行動する。もし仮に、リシテアという女の賞金首がステファノの上を行くような相手ならば、カロンではステファノの二の舞になってしまうのは目に見えていることだ。だから上を行かれないように慎重に慎重を重ねるのだ。人の気配がない山中の手前辺りからは一歩を進めるのに五分以上の時間をかけた。
 通常、住処からリシテアが潜むとされる山中までは車を使えば二時間もかからない。カロンは悩んだのだがやはり慎重に行くべきだと車は使わず、徒歩に頼った。その結果、住処を出たのが早朝だったのにも関わらず、山中に辿り着いた頃には日付が変わっていた。慎重過ぎるような気もするのだが、念を重ねることに越したことはない。そして夜中に森に侵入できたことは計算通りなのである。昼に山の中を歩くのは危険極まりない。見つけてくれと言っているようなものだ。闇夜に紛れてハントする、というのはトレジャーに限らず、ハンターにも言えることなのである。
 一本の木に背を預け、カロンはポシェットから取り出した水筒で水を飲んだ。
 ここから先は、これまで以上に慎重に行かねばならない。ここからリシテアが根を張る屋敷までは普通に歩けば二十分もかからないはずである。だが普通に歩いたのでは絶対に見つかる。部下の他に何かの罠が張り巡らされている可能性も十分にあるのだ。一歩を進めるのに十分以上かけても上等なくらいである。が、そうしていると今度は夜が明けてしまうだろうから、慎重に慎重を重ねた上で、迅速に行動をしなければならない。この辺り一帯を捜索し、それでステファノが見つからなければ屋敷に侵入する。時間は幾らあっても足りはしない。
 水筒をポシェットに戻し、カロンは深呼吸をひとつ。
 その一歩を踏み出す。山中の入り口近辺にはまだ罠はないだろうと考えていた。こんな所で罠が作動しても内部に伝えるまでに時間がかかるだろうし、その間に侵入者に逃げ切られる可能性があるからだ。おそらく罠があるのだとするのなら屋敷付近、普通に歩けば十分程度で辿り着ける辺りから仕掛けられているはずである。だがもちろん、今のこの瞬間にも警戒は怠らない。怠れるはずはなかった。
 いつものハント以上に緊張する。背中に嫌な汗が流れていく。これより先、自分が何を見るのか想像もつかない。無事に挨拶する仲間の姿か、首から上が切り落とされた仲間の姿か、それとも自分自身が殺される姿か。一秒先に何が起きても不思議ではない世界。賞金首のアジト近辺ならなおさらのことだった。嫌な汗を流し過ぎたせいか、それとも必要以上の緊張のせいか、先ほど水を飲んだばかりなのにまた喉が渇いている。木々の陰に隠れて水筒の水を飲む。少しだが喉は潤った。また水筒をポシェットに戻して歩き出す。
 それからどれだけの時間が流れたのだろう。
 夜空にあったはずの月はいつしか大きく角度を変えている。山中に入り込んでもう一時間は経っただろうか。この歩調で行けばそろそろ第一防衛ライン、つまりは普通に行けば十分程度で館が見えて来る位置のはずだ。ここからはさらに慎重に進まなければならない。ここからはどこに敵がいるのかがわからないのだ。生い茂る草陰の中に潜んでいるかもしれないし、頭上の木々の上に姿を隠しているかもしれない。加えて足元にも注意しなければならないのだ。足が線を切断すると刃物や丸太が落下して来るブービートラップはこれまでのハントで何度も体験している。
 喉が渇く。しかし我慢する。一本の木に背を預けたら深呼吸、周りと足元に細心の注意を払いながら次の木に移って深呼吸。そんなことをもう、何十回何百回と繰り返して来た。着実に一歩一歩と近づいてはいるものの、この調子では夜明けより先に自分の精神が参ってしまう。しばらく水分を補給していないせいか、もう嫌な汗のひとつも流れなくなってしまっていた。喉は干乾びたかのように痛く、集中させっぱなしだった神経も限界に達しようとしていた。
 ここまで罠はなかったはずだ。まだ見張りにも遭遇していない。どうやら第一防衛ラインはもう少し先にあるらしい。この辺りで休憩を摂っておかねばいざというときに対処できなくなる。カロンは木に背を預けたままで大きな深呼吸をして、そのままズルズルと体重を地面に向けた。尻をその場に着いてポシェットから取り出した水筒から水を思いっきり飲んだ。三日間ぶりくらいに水を飲んだような気分だった。身体中に行き渡る水分が心地良く、張り詰めていた緊張の糸が僅かに緩んだ。
 もう少しである。もう少しで、ステファノを助けることができる。
 もう一口だけ水を飲むと、今度こそ誠の心地良さが身体を支配し、緊張の糸が完全に緩んだ。
 その瞬間を見逃してくれるほど、その者は甘くなかった。
 首元に押し当てられたそれが何であるのかを、カロンは最初、まったくわからなかった。体温を感じない何か。酷く冷たく、無機質な気配。木々の隙間から射す月明かりに微かに反射するそれ。あまりに唐突で、あまりに現実味を帯びないこの状況に、脳は一時機能を停止させていた。背後から聞こえる小さな息遣いを首元に感じて初めて、カロンは首元に押し当てられたそれが自分の首よりも遥かに太い大刀の刀身であることに気づいた。
 悲鳴を上げなかったのではなく、上げれなかった。悲鳴を上げれば近くにいるであろうリシテアの部下に気づかれるから、という理由で上げれなかったのではなく、背後にいるであろうその何者かの気配があまりにも強過ぎて、声の上げ方を忘れていたのが本当のところだった。今まで感じて来たどのような賞金首とも違う、まったく異質な気配がそこにはある。今までの賞金首はやはり下位の者たちだったのか。これが480万ウェルの賞金首の気配か。480万でこれだ、1000万ともなればそれはもはや次元が違うどころの話ではないのだろう。
 ステファノが不覚を取ったわけが、ようやくわかった。
 その者の声が、随分と幼かったことが酷く印象的だった。
「……お前は、敵か?」
 敵か。そう訊ねられたとき、カロンの頭が働く。
 忘れていた声が蘇る、
「し、市街地より……リシテア・アイトネ、様に伝言を承った……か、カロン、アマルテアと、申します……」
 リシテア・アイトネ本人が出向いて来たのなら、ここは本人が僅かでも興味を引くことを話し、何とか隙を見出さなければならない。そうしないと、このまま首を掻っ切られて生き絶えるだろう。しかし、ただ意外だった。攻撃手段が未確認のリシテアがこのような大刀を使う者だったとは思ってもみなかった。おまけに声だけを聞くのなら予想よりもかなり幼く思える。下手をすればカロンより年下なのではないか。写真で見た限りでは年上だったはずなのに、あれは誤報だったのだろうか。
 ずっと首元に押し当てられていた大刀がそっと引かれ、カロンが魂そのものを吐き出したかのような息を吹きながら視線を上げたとき、そこに信じられないものを見た。
 月明かりの下、声の予想通りの少女が、己の身よりも遥かに大きい大刀を振り被っていた。
 またしても悲鳴を上げることができず、そして同時に、この少女がリシテア・アイトネでないことを知った。
 ならばこの子は誰だ――? そう思った瞬間、少女が振り上げる大刀の柄の先に繋げられていたコインのようなものを視界に捕らえた。月明かりでもはっきりと、そこには何が描かれているのか理解できた。剣と楯を十字型に重ね合わせた紋章。政府よりトレジャーとハンターにライセンス代わりに発行されるものだ。カロンやステファノもまた、それと同一のものを持っているから見間違えるはずもない。つまり、これを持っているということはこの少女もまた、カロンやステファノと同じ――同業者なのだ。
 カロンは叫ぶ、
「ぼっ、ぼくもトレジャーだっ!!」
 その叫びと大刀が振り抜かれたのはまったくの同時で、仮に少女が大刀を使いこなせていなければ、ここでカロンの頭蓋骨は両断されていたはずである。大刀の刀身がカロンの頭蓋、髪の毛の僅か上で完璧に静止しているのは少女が大刀を身体の一部と同じような感覚になるまで使いこなしているからこその芸当である。あれほどまでに全力で振り抜かれた大刀をこの紙一重で止められる者が、果たしてどれだけいるのだろうか。
 止まったことは良かったのだが、カロンはしばらく、あまりの恐怖に言葉を紡ぐことができないでいた。
 少女は再び、こう問う。
「お前は敵ではないのか?」
 不思議そうに見つめてくる瞳に意識を刈り取られている。
 何だ、この子は。カロンはそう思う。年はまだ十代前半だ。腰まであろうかという長い髪が少女を実際よりも幼く見せているような気がする。それに加え、ここまで顔が整った女の子を、カロンは未だかつて見たことがなかった。身体もまだ出来上がっていないそんな少女が、己の身体より遥かに大きな大刀を軽々と持っている。その大刀の柄に繋がれているコインはやはり本物のトレジャーかハンターの証であるのだが、こんな少女までも志願するようになってしまったのか。しかもこの少女、気配が明らかに異様だった。先ほどまでの気配はどこへ行ったのか、今はただの子供にしか見えない。カロンの首元に大刀を添えていたときのあの気配は一体何だったのだろう。
 三度目の問い。
「お前は、敵ではないか?」
 ようやく言葉を思い出した。
 カロンは慌てて、
「ち、違う、敵じゃないっ。君とは同業者だ。トレジャーをしてる。ライセンスが確か、」
 慌ててポシェットの中に手を突っ込んで掻き回すが、この中に入れておいたはずのライセンスが見つからない。どこを探しても見つからない。まさか住処に置きっぱなしにして来てしまったのだろうか。こんな大事なときにどういうつもりか。自分の用意の不完全さを、最後の最後で失敗する自らの癖を心の底から恨んだ。もしこの少女がカロンを同業者ではなく敵だと判断すれば、問答無用で斬りかかって来るだろう。顔面を蒼白にしてライセンスを探すカロンだが、やはり見つからない。
 そんなカロンを見つめていた少女が、持っていた大刀を地面に突き刺した。ビクリと身体を震わせて少女を見上げると、そこには敵意は微塵も感じられなかった。呆然とするカロンの前で少女は己が突き刺した剣の刀身に凭れ、無表情で言葉を紡ぐ。
「嘘は言ってない。眼を見ればわかる」
 ほっとした。これで殺されないで済む。
「あ、ありがとう……助かったよ」
「ところでお前、こんな所で何してる?」
 顔に似合わず偉そうな口調だな、と今さらに思う。
「……仲間を、助けに来た」
「仲間?」
 オウム返しに聞いて来る少女に肯き、カロンは木の幹から顔を出して辺りの様子を窺いながら、
「二週間前、ここにぼくの仲間が来てるはずなんだ。だけど連絡もなくて、帰っても来ない。だからぼくが捜しに来たんだ」
 少女は僅かに考え、誰もが考えつくような答えを出した。
「そいつ、もう殺されてるよ」
「そんなはずないっ!」
 気づいたら叫んでいて、少女が驚いたような顔をしていた。
 無意識に叫んでしまったことが後悔を呼び、慌てて謝ろうとしたのだが、少女の方が先に口を開き、
「……ごめん」
 何とも妙な焦りがカロンの中を包み込み、謝られても困ると言い返そうとした瞬間、
 目前の少女の気配が一瞬で変わった。カロンの首元に刀身を添えていたときとまったく同じような気配。無風だったはずの森に風が吹き抜け、少女の長い髪がふわりと揺れる。地面に突き刺さったままになっていた大刀の柄を小さな手で掴み、その小柄な体からは想像もできないような力で引き抜く。平然と構え直す少女の視線の先に何かがある。そのことを自然と理解したカロンが視線を追って初めて、すぐそこにまで炎の灯りが近寄って来ていることに気づいた。
 自分のせいだ、とカロンは思った。
 先ほどから何度も大声を出したせいでリシテアの部下に気づかれてしまったのだろう。幸いにして気配が独りしかないところを見ると、まだ完璧に発見されたわけではなさそうだ。このまま隠れてやり過ごすか、それとも一度戻って体勢を立て直すべきか。しかしここで戻るとなるとかなりの時間が経過してしまうだろうし、その途中で見つかっては意味がない。どうする、どうればいい、とカロンが思考を巡らす中で、少女がそっと動いた。
 少女は極普通に、こう言った。
「消して来る」
 意味を理解し損ねて間抜けな声を出した刹那、
 カロンの視界から少女の姿が消えた。一瞬で茂みを掻き分けて突き進み、音もなく少女の体が敵の下へと近づいて行く。まるで闇に同化したかのような接近の仕方だった。これで接近されればまったく気づかない内に大刀を振り抜かれるだろう。実際、カロンがそうだった。おそらくはこれと同じ要領で近づかれ、そのまま気づかないで刀身を首元に押し当てられたのだ。まず最初に思ったことだった。――あの少女は、一体、何者だ。あんなことができる人間を、カロンは今まで見たことがなかった。
 少女は苦もなく敵の背後まで回り込み、一切の音を立てずに大刀を振り上げた。
 それを一気に振り抜こうとしたとき、カロンは制止させる、
「待て! 殺すな!!」
 その声に気づいた敵がこちらを振り向き、同時に大刀を振り上げる少女に気づいた。
 振り抜かれた大刀が狙いを外し、地面に叩きつけられる。敵は一歩だけ後ずさり、持っていた炎が灯った棒を取り落として口を開く。だがすぐには言葉は紡がれず、そしてその瞬間に言葉を紡がなかったことがすべてを決した。地面に叩きつけた大刀の反動で体を浮かせ、少女は敵の首に足を絡めて上半身の勢いだけで回転、遠心力にものを言わせて軽い体からは考えられないほどの力を生み出して大の大人を地面に屈服させた。
 頭から地面に落下した敵の男が鈍い声を出し、顔を顰めながら立ち上がろうとした際にはもう、問答無用で少女の大刀の切っ先が男の喉元に僅かに突き刺さっていた。
「動いたり声を出したりしたらその瞬間に殺す」
 すべては一瞬で終っていた。カロンでは目で追うことがやっとのことだった。
 背中から地面に倒れ込む男の首元に切っ先を置いたまま、少女はカロンを振り返る。
「なんで止めたの?」
 不服そうな顔をする少女を他所に、カロンは未だ放心状態の中にいた。
 ただ単純に、すごいと思う。こんな小さな少女が、どうしたらあれほどまでの動きを行えるのだろう。しかも大刀を持ったままで、なぜこうも身軽に動くことができるのだろう。この少女は本当に何者なのだろうか。ただのトレジャーやハンターというわけではなさそうだ。そんな身のこなしではなかった。この子はおそらく、500万ウェル以上の上位の賞金首を相手にできる、化け物の類なのではないだろうか。どうしてそのような者が、このような場所にいるのだろう。
 放心するカロンの額に少女が投げた石飛礫が当たった。痛さに我に返ったところで、少女の瞳にぶつかる。
「なんで止めたの?」
 再びの問いに、ようやく答えることができた。
「あ、いや、そいつに、ステファノのことを聞こうと思って」
 少女は不思議そうに首を傾げ、
「ステファノ?」
「さっき言ってた仲間」
 納得したかのような少女の下で、身動きを封じられている男が呻き声にも似た感じに、
「だ、誰だお前ら……!? ハンターか……ッ!?」
 べギッ、とそんな鈍い音がしたような気がした。
 次いで悲鳴を上げようとした男の口を足で封じ込み、少女は無表情に見下げる。
「声を出したら殺すって言った」
 カロンからは見えなかったが、男の口を押さえ込んでいるのは少女の左足であり、右足は男の左腕を肘の辺りで完璧に圧し折っていた。やはり小柄な少女からは想像もつかないような力がある。大の大人を地面に屈服させたことと言い、大の大人の腕を足で踏み折ることと言い、常人の子供からは遠く掛け離れた存在である。
 少女は問う。
「二週間前、ここにトレジャーが来た。知ってる?」
 男は痛みに顔を顰めながらも肯く。
 すると少女はカロンを振り返って、「知ってるって」とつぶやきながらもすぐに視線を戻し、「それで、その人はどこにいる?」
 ゆっくりと口を押さえつけていた足を退けると、男は微かに笑った。
「……なる、ほどな……あのトレジャーが言ってた仲間ってのがお前らがァッ!?」
「余計なことは喋るな。その人はどこにいる?」
 圧し折ったばかりの腕を踏みつける足に力を込めながら少女はただ問うのだ。
 男の言葉などまるで聞いていないのは明白だったのだが、カロンには今、聞き捨てならない台詞があった。弾かれたように少女と男の側へと駆け寄ったときになって初めて、どうして先ほどから男が苦痛の声を上げていたのかを理解する。しかし今はそんなことを気にかけている余裕はなく、男の側に膝を着いて叫ぶ、
「どういうことだ!? ステファノはどこにいる!?」
 男は僅かに少女を気にかけた後、カロンに視線を移し、
「あのトレジャーなら……今は、館の地下牢にいるはずだ。リシテア様と賭けをしていたからな、それが終わるまでは生きてるはずだぜ」
「賭け?」
 馬鹿にしたかのような笑みだった。
「あの男は二週間以内に必ず仲間が助けに来るなんて自信満々に抜かしやがった。その度胸を買われてリシテア様と賭けをしたんだ。二週間以内に仲間が来れば開放、来なければこの世のものとは思えない苦痛の果てに殺す、ってな。……あぁ、そう言えば今日で二週間か。今頃死んでんじゃねえのか、あいつ」
 それだけ言い切った男が勝ち誇ったかのように笑い声を上げようとした瞬間、少女の足が蹴り上げられて男の首が半回転、そのまま意識を失った。もしかしたら回転し過ぎて首の骨が折れて死んでいるのかもしれないが、そんなことなどまったく気にも止めずに少女は大刀を肩に担ぎ、呆然としているカロンを振り返って沈黙する。
 そうしてカロンは拳を握った。やはり間違いではなかった。どういう経緯でステファノが捕まったのかはわからない。だけど助けを待っていた。約束事項第一条を信じて、ステファノはカロンを待っていたのだ。ここまで来たのは間違いではなかった。ここまで来なければならなかったのだ。そしてここからが本当の正念場である。今からは一分一秒を争う。一刻も早くに地下牢を発見し、そこからステファノを助け出さなければならないのだ。今までの苦労など、もはや知ったことではなかった。
 この先に、ステファノはいるのだ。
 でも、ここから先は自分ひとりの力ではどうすることもできない。
 非常識なのはわかっている。だが、頼みの綱はひとりしかいなかった。
 圧倒的な力を前に、希望を見出す自分がいた。
 カロンは、こちらを見つめていた少女に頭を下げる。
「会ったばかりで非常識なのはわかる、だけど頼みたい。――仲間を、助けて欲しい」
 予想外の言葉が返って来た。
「わかった」
 あっさり過ぎる返答に耳を疑って顔を上げたとき、カロンはそこに少女の笑顔を見る。
「仲間のために必死になれるのは良い人だって父様が言ってた。だから、わたしはお前を手伝う」

 盗る者を「トレジャー」、狩る者を「ハンター」と呼ぶこの世界で、
 奪う術しか知らない少年と、戦う術しか知らない少女は出逢う。

 少年は名をカロン・アマルテアといい、少女は名をアリエルといった。

     ◎

 カロンの役目は館の地下牢に捕らえられているステファノの救出。
 アリエルの役目はカロンが館に侵入して帰還するまでの時間稼ぎと攪乱。
 危険度から見ればアリエルの方が遥かに高いはずなのに、それでもアリエルは文句のひとつも言わずにただ一言、「わかった」とつぶやいて大刀を握り締めて森の中を何の警戒もせずに歩き出した。トラップが仕掛けられている可能性があるから注意するように、と忠告したのにも関わらず、アリエルはまったく従わずに己の思うがままに歩いて行く。危なくなったら全部捨てて逃げ出すこと、という忠告も聞いていなかったのかもしれない。
 やがて小さな背中が闇の中に消えてしばらくした後に大勢の人間の声が聞こえたが、遠くて何を叫んでいるのかははっきりと耳には届かなかった。
 それが合図だった。
 カロンは潜んでいた木の影から飛び出し、アリエルが向った先から大きく迂回して館の裏側へと回り込む。トラップは幾つか仕掛けられていたものの、それらをすべて無傷で避けた。ステファノを助けるのだという完全なる使命感と、アリエルという強力な手助けをバックボーンとしたカロンの集中力は過去にないほど研ぎ澄まされており、元来より身のこなしだけはステファノを上回るカロンだからこその動きでトラップはすべて突破したのだ。
 館の裏手に回り込んでも見張りの気配はただの一人もなかった。時間稼ぎと攪乱は成功しているようだ。森のざわめきに混じって聞こえる喧騒は半端ではなく、鉄と鉄がぶつかり合うような鈍い音が残響として耳の奥に響いて来る。表では大きな騒ぎになっているのは明白だ。問題は、アリエルがどこまで耐え凌げるかである。あれほどの力を持ってはいるが、多勢に無勢では形勢が圧倒的に不利だ。協力してくれたアリエルを無事に助け出すことも絶対の条件。それにはまず、カロンが一刻も早く、ステファノを助け出さなければならない。
 館を囲む高い壁を前に、カロンはポシェットからテミスト・カルデネの要塞から脱出した際に使ったケーブルを引っ張り出す。フックの方を少しだけ余裕を残した状態で握り締め、手元で大きく回し始める。フックの風切り音が変わった瞬間に狙いを定めて放り投げ、高い壁の向こう側に回す。一気にケーブルを引っ張ってフックを向こう側に掛けようとするが一回目は失敗した。焦りが出て来る自分の心を深呼吸で落ち着かせ、もう一度チャレンジする。今度は上手く行った。
 安堵の息と共にケーブルを頼りに壁を攀じ登る。
 壁の先から頭を出して辺りの様子を窺うが、見張りもすべてアリエルの方に行ってしまっているのか誰の姿も見えない。今が絶好のチャンスだった。壁から飛び降りながらケーブルをこちら側に手繰り寄せてフックを外し、出鱈目にポシェットの中に突っ込んで走り出し、館の窓のひとつが開けっぱなしになっていた箇所を発見した際に近くにあった大きな木の影に身を隠して、拾い上げた小石を中に放り投げて様子を見るが人が寄って来る気配はない。
 物陰から駆け出す。窓に辿り着いたら辺りを確認し、一気に中へと転がり込む。着地と同時に左右を確認、入り口方面とは反対に足音を立てずに走り出す。人の気配が感じられない部屋のドアを幾つも開けたが、どこにも地下牢に向う道が見当たらない。落ち着かせていたはずの焦りがぶり返す。こうしている間にも喧騒は大きくなっている。この分ではアリエルも長くは保たないだろう。一刻も早く見つけねばならないのに、どうしてどこにもないのか。見つけられないことが腹立だしく、もう何室目になるかわからないドアを開けても何もないことに発狂しそうになる。
 廊下に出て深呼吸をひとつ、自らに仲間を助けたくば冷静になれと言い聞かす。
 それが突破口を見出した。廊下の突き当たりの壁にある、動物の剥製。あの型の剥製を、カロンはいつかどこかで見た覚えがある。いつのハントで見たのかは忘れたが、もしあれがそのときに見た剥製と同じ仕組みを持っているのなら、そこに鍵があるはずだ。カロンはすぐさま剥製に近づき、それを意識しつつも壁を叩く。何度目かのノックで音が違う部分を発見する。間違いなかった。この先に隠し部屋、或いは隠し階段がある。
 トレジャーとしての経験がものを言う段階の行動だった。いつか行った作業を思い出す。確か、このタイプの剥製はやり方が決まっていたはずだ。記憶を必死に思い出しながら剥製の右目を押し込むと目玉が奥に進み、次いで口の中に手を突っ込んで上顎についている犬歯を引っ張り、最後に角を左に回すと歯車が噛み合う音が聞こえた。
 僅かな振動音が足の下から響き渡って目の前の壁の一部が上へと競り上がり、そこから奥へと続く階段が姿を現す。
 歓喜の悲鳴を上げる代わりに拳を力強く握り締めた。
 下へと続く階段を一気に駆け下り、小さなランプが灯す地下へと辿り着いた。空気が湿っている、日の光が届かない、人間の腐敗臭がこびりついた場所。地下に着くとまず、最も奥の壁が目につく。続いて壁に埋め込まれるような作りになっている牢が順に四つ。カロンは手前から順に中を確認していく。一番目の牢には白骨化した人間の遺体があり、二番目は空で、三番目に見るのも躊躇われる腐敗した死体、そして四番目でついに、カロンは見つけ出すことに成功した。
 牢の奥に横たわり、ステファノ・キャリバンはそこにいた。
 気づいたら叫んでいた。
「ステファノッ!」
 だが反応がない。まさか、と最悪の事態が脳裏を過ぎり、大声で何度も何度も叫んでいると、やがてステファノの手がピクリと動いた。
 よかった、まだ生きている。そう思うと今までに感じたことのないような安堵が心に広がった。待っててステファノ、と声をかけながらポシェットの中に手を突っ込み、そこから細い、突起のついた金具をふたつ取り出す。一本を牢の鍵穴の奥まで深く突っ込んで固定し、もう一本を穴の中間辺りで止める。これにはコツがあるのだ。早過ぎても遅過ぎてもズレてしまう。完璧なタイミングでやらなければ開くことはない。だが大切なのは落ち着くこと。平常心を取り戻さなければならない。鍵外しはカロンの得意分野のひとつだ。こんな所で、失敗するわけには行かないのだ。
 深呼吸をひとつ、手先に集中を集め、カロンは己が感覚だけを頼りに金具を回す。
 カチャ、と安っぽい音が響いて鍵が無効化された。
 今度こそ歓喜の悲鳴を上げた。開いた牢を潜ってステファノの元に駆け寄る。抱き寄せて初めてその顔を正面から見た。殴られたような痣が幾つか見えるが、どれも致命傷というわけではなく、これならば痛いだけで内部に支障はないはずだ。肌は乾燥して随分と痩せたように思えるが、この程度ならばまだ大丈夫のはずである。トレジャーに成り立ての頃、カロンとステファノの両方がハントに失敗して三週間を水と僅かな食料だけで過ごしたときの方がこれよりよっぽど凄かった。
 ステファノは無事だ。まだ助かる。
 泣き出しそうになっている自分自身を必死で押さえ込み、ステファノの腕を肩に回して立ち上がらせる。
 そのときになってようやく、ステファノが意識を取り戻した。微かに開いた目が辺りを見回し、やがてカロンの顔を捉えて止まる。
 二週間ぶりに聞く声で、ステファノは言った。
「……天使がカロンの顔してるなんて知らなかったぜ」
 今度こそ本当に泣きそうになった。
 我慢し切れずに流れた一筋の涙を拭うこともせず、カロンは震える声で答える。
「そんな天使いるもんか。ぼくはぼくひとりだけだ」
 カラカラの声で笑い、ステファノはつぶやく。
「……知ってるよ、馬鹿野郎」
 カロンはポシェットから水筒を取り出して手渡す。
 それを少しずつ飲むステファノの腕に手を回したままで牢を潜って階段を上がり、廊下に出た。地下にいるときは聞こえなかった喧騒が再び耳に届いて来る。まだ喧騒が聞こえているということはアリエルが生きているということに繋がる。だがもはや限界であろう。これだけの時間を多勢に無勢で凌いでいるのだ。もうステファノは救出した。
 だから今度は、アリエルを救出する番である。
「ステファノ、聞いて欲しいことがある」
 水筒の水を飲み干したステファノは視線をカロンに向けた。
「ステファノを助けるために協力してくれた女の子がいる。アリエルって名前のハンターだ。今は囮になって表でリシテアの部下と戦ってる。ぼくは今からそれを助けに行かなくちゃならない。……ステファノはどうする? 先に森の外に出て待ってる?」
 しかし答えは最初から決まり切っていたのかもしれない。
 ステファノは僅かに考えた後に、こう言葉を漏らす。
「……その子、可愛いか?」
 カロンはまるで迷わず、
「可愛い」
 ステファノが生気を取り戻した顔で笑う。
「だったら、おれが助けに行かなくて誰が行くんだ」
 カロンの肩から腕を外し、ステファノが自らの足で立ち上がる。が、一瞬だけよろめいて壁に凭れかかり、小さく深呼吸を繰り返す。
 無理しているのだということは誰の目から見ても明らかだったが、ステファノの底力がとんでもないことをカロンは誰よりもよく理解している。おまけに今、ピンチに陥っているのが可愛い女の子ともなればそれは何倍にも膨れ上がるだろう。ステファノを舐めてはならないのだ。普段はどうしようもない奴でも、やるときはやる男なのである。カロンが唯一、トレジャーとして尊敬し、そして信頼する大切な仲間。それが、ステファノ・キャリバンという男。
 気合い一発で声を荒げ、ステファノが己の足でしっかりと立つ。
 拳で自分の頬を殴り飛ばし、意識をはっきりとさせる。
「――行くぞ」
 そう先陣を切るステファノは、先ほどまで衰弱していた者とは到底に思えなかった。
 走り出した背中を見据えながら、カロンも後に続く。本当に良かったと思う。もう一度この背中を見れたことを、すべてにおいて感謝したい。そして何より、ここまで来ることができた一番の手助け、アリエルにこれでもかというくらいに頭を下げて感謝の言葉を伝えたかった。それにはやはり、今からカロンとステファノでアリエルを救出しなければならない。頼むから無事でいてくれ、とカロンは願う。
 正面からいきなり出たのでは敵に殺してくれと言っているようなものなので、一度裏手から壁を越えて走り、喧騒が最も大きい場所から僅かに離れた箇所の壁を攀じ登り、カロンとステファノは庭園の様子を窺った。
 そこには驚くべき光景が広がっていた。古ぼけてツルが巻きつく館が取り囲むように広がる庭園の中心部に大勢の人の輪が出来上がっており、そこから少しだけ離れた場所に腕を組んで光景を眺めているのはリストで見たリシテア・アイトネ本人だ。あれが480万ウェルの賞金首。しかしリシテアを一先ずは視界から消してアリエルを捜すが、なかなかに見つからない。もしかしたらもう逃げ出してしまったのではないか、とカロンが考えた刹那に、最も思い浮かべたくなかったそこに、その少女は立っていた。
 リシテアの部下が作る巨大な人の輪の中にただ独り、アリエルは大刀を構えて佇んでいる。
 言葉を失った。なぜあのような状況になるまでアリエルは逃げ出さなかったのか。あれでは死ぬ以外にあの輪から出る方法はないはずである。無謀過ぎる。だがその無謀過ぎることをさせたのはカロン以外の誰でもない。すべては自分の責任なのだ。だからこれは、カロンが何とかしなければならない。しかしどうすればこの状況を打破できるのかがまったくわからず、出鱈目にポシェットの中を掻き回す手には何の希望もなく、後悔ばかりが脳内を支配した刹那、
 アリエルを囲む敵の第一陣が咆哮を上げながら一挙に斬りかかる。四方八方から迫り来る敵。アリエルの力があれば、三人ほどならば同時に相手ができたかもしれない。だが今、アリエルに迫っているのは十人。多勢に無勢の典型である。まさかアリエルの手が十本あるわけではない。三人の敵を薙ぎ倒したとしても、残りの七人から集中砲火を食らうのは目に見えている。どうにかしてアリエルを助けねばならない、と錯乱状態にあった脳みそが決意を起こす。壁から身を乗り出して庭園に駆け込もうとした瞬間、その腕をステファノに掴れた。
 振り返ったそこに首を振るステファノがいて、実際はどのような意味だったのかを知るのはこの三秒後であるのだが、今のカロンにはそれがアリエルを見殺しにしてこのまま逃げ出すぞという意味に思えた。殴り飛ばしてでも手を離させてアリエルを助けに行こうと決めたカロンの動きは、目前で繰り広げられた信じられない光景に未遂で終わる。
 周りから迫る敵の中心部でアリエルは剣を横一線に振り回して一回転、その遠心力で大刀を振るう力を倍増させて狙いを前後左右、すべてに定める。それは至極当然の動きのように思えた。一点の迷いもないような、そんな太刀筋。しかしそれ故に、強い。一瞬で振り抜かれた大刀は周りの敵を一人残らず飲み込み、回転が終わったアリエルが地面に刀身を突き刺すと同時に、まるで突風か何かに吹き飛ばされるように弾け飛んだ。
 地面に突き刺した剣を再び抜き放ち、周りを囲む敵など眼中になく、アリエルは真っ直ぐに切っ先を離れた場所に立つリシテアに向けた。
 あまりの光景に言葉が出ない。それはステファノも同じだったのだろう。
「……あの子、何者だ……?」
 そんなことカロンの方が聞きたかった。
 強いとは思っていたが、まさかここまで強いとは思ってもみなかった。そしてよくよく見れば、人の輪から離れた場所には多くの敵が転がっているではないか。十や二十では当たり前のようにない。リシテアの部下の半数を、カロンがステファノを救出する間の時間だけで、アリエルは傷を負うことなく倒している。化け物のハンター。上位の賞金首と渡り合える類の者。
 瞬間に、リシテアの情報を掻き集めていた際に見つけた情報を思い出す。近頃、下位の賞金首を次々と潰して行っているひとりのハンター。もはや疑うことはできない。そのハンターがこのアリエルだ。間違いなかった。今までこれほどまでに強いハンターが噂にならなかったのは、おそらくはアリエルがまだハンターとして活動し始めたばかりだから。それを考えればハンターらしからぬ動きにもすべて説明がつく。
 カロンは、とんでもない相手に手助けを求めていたのだ。
 カロンとステファノの視界の中、切っ先を向けられていたリシテアが腕を解き、一歩ずつ歩き出す。人の輪が形を崩して一本の道を作り出し、そこに佇むアリエルに近づいて行く。ある程度の距離を保ってリシテアは立ち止まり、斬り倒された部下たちを一度だけ眺めた後に、今度はアリエルを真っ直ぐに見据えて、笑う。
「強いわね、お嬢ちゃん。でもあれね、最近のあたしはどうやら年下の子に狙われる定めにあるらしいわ」
 それが誰を意味するのか、当の本人であるステファノが最もよく理解しているはずだ。
 何も言わないアリエルに対してリシテアは構わず、
「ひとつ提案があるの。お嬢ちゃん、わたしの部下になる気はない? だったら今回のことはなかったことにしてあげるし、さっき言ってたあのトレジャーの坊やを開放してあげる。生憎として、あたしの部下にはお嬢ちゃんみたいに可愛く強い部下がいなくてね。だからどう? あたしの部下になる気はない?」
 そしてアリエルは、粉砕する。
「断る。誠に強い者は群れないって父様が言ってた」
「……そう。残念ね。なら、お嬢ちゃんはここから帰れない」
「帰る。こんな所で止まってる気はない」
「いいえ、帰ることなんてできないの」
 その一瞬、リシテアの両手が振り抜かれた。
 刹那にアリエルの足元に何かが激突し、弾ける。だがそのような突然のことに対してもアリエルはしっかりと反応し、大刀を強く握り締めながら地面を弾いて距離を取る。その視線の先で笑うリシテアの周りの地面が、次々と破壊されていく。一撃一撃は小さなものであるのだが、それが積み重なればやがては岩をも砕く連撃のようなもの。ただし地面を砕くほどの威力だ、人間が食らえれば死なないまでも悶絶や骨の一本や二本は覚悟しなければならないだろうし、頭部に直撃すれば致命傷になる可能性もある。
 あれがリシテア・アイトネの攻撃手段。情報屋の情報にも載っていなかったものだ。
 一体何をしているのかさっぱりとわからない。止まることなく、不規則に抉れていく地面。リシテア本人はまるで動いていない。手を前方に差し出したままの状態で止まっている。あんな状態であれほどまでに威力が出る攻撃が繰り出せるものなのか。これがリシテア・アイトネが480万の賞金首である所以。やはり500万の大台に王手をかけている賞金首だ。今まで見て来た賞金首とは違う。この女、強い。
「……まずはどこがいい、お嬢ちゃん?」
 そんな声と共にリシテアの腕が再び振り抜かれ、見えない何かが真っ直ぐにアリエルを狙う。
 それを気配だけを頼りに見据えるアリエルが大刀を軌道に乗せて弾くと、鋼のようなものがぶつかる音が聞こえた。攻撃手段は刃物ではやはりない。鉄の塊のようなものを飛ばしている。しかしどうやって飛ばしているのか。考えられる手段は強靭な糸をつけて鉄の塊を振り回して操るくらいだが、糸は愚か鉄さえも見えないほどの高速だ。それを狙って撃ち込めるなど、大凡の人間では到底不可能な攻撃である。他に手があるのか。だったらそれは何だ。
 次々と抉られる地面に嫌でも意識を向けてしまう。その一瞬がアリエルを撃ち抜く。見えない塊が体に当たった瞬間を感知して身を捩るが完璧にかわせるはずもなく、とんでもない圧力のような反動に状態が背後に流れた。大刀を地面に突き刺して体勢を立て直すのだが、続けて放たれた第二撃目が今度こそアリエルの左腕を直撃した。小さな苦痛の声を上げてその場に膝を着くアリエル。
 そこに出来た隙を見逃すほど、リシテアは甘くはない。上に振り抜かれた手に比例して、アリエルの背後にあった見えない何かが弾き上がり、遥か上空からアリエルを狙い打つ。その気配に気づいたアリエルが感覚だけを頼りに大刀を握り返して右に飛び退く。その次の瞬間に先ほどまでアリエルがいたはずの場所に塊は落下し、小さいながらも確かな破壊を起こした。
 大刀の柄を右腕だけで握り直してアリエルは駆け出す。目前のリシテアへと右手だけで振り被られた大刀が狙いを定め、そして振り下ろされるかどうかの刹那で、真横から迫った塊が大刀の刀身を直撃し、片腕だけではその反動を堪え切れずにアリエルの体が大きく左に流れた。よろめいて地面に足を着いた際に今度は前方から塊が迫り、気づいたアリエルが大刀の刀身を楯として防ぐが、片腕の力ではやはり簡単に弾かれてしまう。
 背後に飛ばされながら体勢を立て直すアリエルだが、息が上がっている。一方のリシテアは笑顔のままだ。
 そんな光景を見ていることしかできないカロンはひとり、不甲斐無さに拳を握る。
 アリエルほどの力を持ってしてもリシテアには敵わない。だったら逃げ出さなければ殺されてしまう。せっかくステファノは無事に助け出すことができたのに、ここでアリエルが殺されてしまっては意味がなくなる。それだけは駄目なのだ。どうにかしてこの状況を打破しなければならない。何とかリシテアの気を逸らさせ、なおかつ周りを囲む敵を退けることはできないのだろうか。こんなときに役に立つ何かを自分は持っていなかっただろうか。何かないのか、何でもいい、アリエルを助けることのできる何か。
 そう思ってカロンがポシェットの中に手を入れたとき、隣のステファノが口を開く。
「やっぱりあの女、分銅使いか」
 カロンはステファノを見つめ、
「分銅?」
「ワイヤーの先に鉄の塊をつけて高速で回す。遠心力でその威力は何倍にも膨れ上がる代物だ。ワイヤーが細いせいで相手からは見えない。実際におれがそうだった。わけもわかんねえ内にぐるぐる巻きにされてボコボコだ。それにだ、今が夜とあっちゃあ、あの子にもワイヤーどころか分銅さえも見えていないだろう」
 どうにかして打開策はないのかと食ってかかろうとしたカロンを先回りして、ステファノは笑う。
「大丈夫だ。相手が分銅使いとわかれば策はある。分銅の軌道さえ追えればあの子なら何とかするだろう。一種の賭けだが、やらないよりはマシだ。――カロン、おれがこの前に作ってやったあの玉、ちゃんと持って来てるか?」
 玉。そう言われて頭を過ぎったものがひとつだけ、ある。
 慌ててポシェットの中を探る。だが見つからない。ライセンス同様に住処に置きっぱなしにして来てしまったのだろうか。こんな肝心なときに自分は一体何をやっているのか。我がことながらに殴り飛ばしたくなる。どこだ、どこかにあるはずなのだ。なければアリエルが殺されてしまう。唯一の打開策を可能にする玉。ステファノが冗談半分で造り上げた玉なのだ。それが、――これだ。
 カロンの手が、ようやくそれを探り当てた。
「あった!」
 カロンが取り出したそれは、茶色く小さな玉である。
「さすがだ相棒。どこに投げるかはわかってんだろうな?」
 笑うステファノに笑い返す、
「もちろん」
 壁の上に立ち上がり、カロンは玉を握り締める。
 この一発で流れが変わる。アリエルが勝つ可能性を引っ張り上げることができる、カロンにできる唯一の手段。すべてはこれに懸かっているのだ。失敗は許されない。しかし緊張してはならない。このようなときこそ平常心。落ち着けと自分自身に言い聞かす。鍵外し同様に、何かを投げるときのコントロールもまた、得意分野のひとつであるはずだ。大丈夫、失敗するはずなんてない。必ず上手く行く。アリエルを、この手で助け出すのだ。
 振り被った腕に神経を集中させ、カロンは玉を投げた。それは真っ直ぐに目標の場所へと向う。
 目指す場所はそう、アリエルとリシテアを結ぶ中間地点。そこに炸裂すれば、突破口を見出せる。
 そして玉は望み通りの場所に直撃して、炸裂した。僅かな閃光を弾いた後、一挙に煙を噴射させる。範囲は小さいものだが密度が凄い。遠くから見ているカロンとステファノならまだしも、近場で煙を前にしているアリエルやリシテアは視界が零に近いはずだ。突然のことに困惑している二人がはっきりとわかる。ここからが本当の勝負。突破口は完成させた。そこを突破するのは、アリエルだ。
 カロンは叫ぶ、
「アリエルッ!!」
 声に気づいたアリエルが振り返り、カロンの姿を見た瞬間にすべてを理解したかのような表情をした。
 僅かに肯いた後にアリエルは痛みに苛まれているであろう左腕を動かして右手同様に大刀の柄を握り締め、真っ直ぐに煙を見つめた。リシテアの叫びが聞こえる。何と叫んでいるのかは困惑して声を荒げている敵の喧騒に掻き消されて聞こえなかったが、それでもそれが合図のはずだ。煙の向こうからリシテアが腕を振り抜き、ワイヤーを自由自在に操って鉄の塊をそこにいるであろうアリエルに向って放った。狙いは完璧だった。視界が見えずともリシテアは気配だけを頼りにアリエルの姿を完璧に捕らえていた。
 もし仮に、アリエルがこの煙の意図に気づいていなければその一撃で頭蓋を砕かれていただろう。
 しかし、アリエルは気づいている。この煙が何のためにあるのか。
 揺らめく煙に意識を集中させた束の間、ふたつの何かが煙を一点だけ掻き消してアリエルに突っ込んで来た。それが分銅の軌道。通常の場合、空中を横切る分銅の軌道を正確に読み取ることは不可能だろうが、この煙が教えてくれるのだ。空中を動くということは大気を動かす。同時にそれは、大気中に充満した煙を動かすことに繋がるのだ。大気は見ることができないが煙は見える。加えてアリエルの身体能力がものを言い、分銅の軌道から最初の一歩目で体を退避させ、二歩目で地面を弾いた。
 大刀を下段に構えて煙に突入し、左右から伸びるワイヤーの動きにだけ僅かに注意を払いながらも、その他をすべて気配と手の感覚に回す。
 煙を突き破って出たそこに、両手を振り上げたままのリシテアがいた。突然のアリエルの出現に驚愕の表情を浮かべるリシテアに狙いを定め、下段に構えていた大刀を力一杯に握り締めて振り上げた。すべてがスローモーションのように思える。敵の喧騒や風の流れ、煙が大気中を移動するそれさえもがすべて、スローモーションのように思えた。そんな中でただ、嘘、とつぶやいたリシテアの声だけが通常の響きを持っていた気がした。
 一瞬の間、リシテアの体から弾き飛ぶような赤が花を咲かせた。
 背後に倒れ込むリシテアから視線を外し、アリエルは辺りを見回して無表情にこうつぶやく。
「……他に誰か、挑んで来る者はいるか」
 頭が潰された敵にはもはや、歯向かう度胸は残っていなかった。
 叫び声を上げながら散り散りに逃げ出すかつてのリシテアの部下たちを眼下に収めながら、カロンとステファノは手を打ち合わせて歓喜の叫びを上げ、壁から飛び降りてアリエルの元へと走り出す。すれ違う敵の中にカロンとステファノに気を配る者は一人もいなかった。リシテアを潰す化け物のような強さを持つ相手を背にした者にそんな余裕は当たり前のようにないのだろう。
 カロンがアリエルの側に駆け寄ると、アリエルが気づいてその名を呼ぶ。
「カロン」
 そしてその隣を見て、すべての目標が達せられたことを知る。
「……良かった。仲間、無事だったんだ」
 何もかも、アリエルのおかげだった。
 協力を求めたときよりも深く頭を下げ、カロンは言う。
「ありがとう、アリエル。全部、君のおかげだ」
 心の底からそう思う。なのにアリエルは首を振り、
「礼は要らない。わたしが好きでやっただけ。それよりさっきの煙、ありがとう」
 アリエルの方こそ礼を言う必要など微塵もない。
 あんなこと、ステファノを助けられたことに比べれば何の借りも返せていないのだ。
 すべてのことにおいて、もう一度カロンが頭を下げようとしたとき、唐突にアリエルの体が後ろへ揺らぐ。地面に落ちる寸前に慌ててその体を抱き止めて倒れるのを防いだ。抱き止めるとやはり、アリエルの体は驚くほどに軽く、そんな体のどこにこの大刀と振り抜き、そしてリシテアを討ち倒すほどの力があるのかと本気で不思議に思う。このハンターは誠に強い者である。この歳でこれなのだ、後十年経った頃にはどれほどまでに強いハンターになっているのか、凡人であるカロンには想像もつかなかった。
 抱き止められたアリエルは目を閉じ、少しだけぶっきら棒にこう言った。
「……疲れた。少し、寝る」
 それから数秒もしない内にアリエルは小さな寝息を立て始めてしまう。
 まるで子供の寝顔を見ながら、隣に立っていたステファノが、
「寝顔だけ見ると、さっきまでの気迫が嘘みてえだな」
 カロンが苦笑して「そうだね」と返そうとしたまさにその瞬間、今度は隣のステファノが背後に倒れ込む。アリエルを抱き止めたままだったカロンにそれを止める手段はなく、地面に寝転がったステファノを振り返って、
「え、あ、ステファノッ!?」
 いつもの口調が返事をする。
「気にすんな、どうってことねえ。ただちょっと無理し過ぎただけだ。……おれも少し寝る。このままだと死ぬからな」
 冗談のようにそうつぶやいて、ステファノもアリエル同様に数秒で眠りに就いてしまった。
 そんなふたりを見つめながらカロンはもそもそと動き、胡坐を掻いた足の右にアリエルの頭を、左にステファノの頭を置いて枕代わりにする。
 このふたりは、本当にすごいとカロンは思う。おそらくは二週間もまともな食料も水も与えられなかったのに平然と動いていたステファノ。こんな小さな体であるにも関わらず、リシテアを斬り伏せてしまったアリエル。カロンから言わせれば両方とも十分に化け物である。安心のあまりに笑ってしまう自分自身にカロンは気づいていない。左右から聞こえる寝息を感じながら、カロンは朝日が昇り始めた空を仰いだ。
 そうして、長いこの一夜の締め括りに、カロンはこう言った。
「……おやすみ、ふたりとも」

 それが、カロン・アマルテアとステファノ・キャリバンが無事にリシテア・アイトネの館から帰れた日であり、
 同時に、アリエルという名のハンターと出逢った日だった。





     「カロンとステファノとアリエル」



 空は快晴だった。
 この日ばかりはどのトレジャーやハンターも、賞金首さえもがのんびりと過ごしているのではないかと思わせるくらいの快晴だった。青空はどこまでも突き抜けていて、陽射しは優しく世界を包み込み、雲はゆっくりと漂い、そして風は眠ってしまいそうなほどに暖かく、今日一日だけは世界中のどこでも平和であると、そう信じさせるような天候。
 だからカロンはひとり、住処のテラスに置いてある椅子の上に座りながら、半分ほど眠りこけていた。
 平和だとつくづく思う。街から聞こえて来る喧騒も子守唄にちょうどいいくらいで、騒ぎなど何ひとつとして起きてなどいない。世界は一遍の曇りもなく平和であるのだ。この日だけはカロンもトレジャーとしてのハントをする気が起きない。いや、こんな日にはハントをするべきではないのだ。こういう日が毎日でも続けば、世界には賞金首なんて物騒な人間は消え、やがてトレジャーやハンターという生業も風化し、人々が皆、安心して暮らせる世界になるはずなのだ。絶対にそうに決まっているのだ。
 なのに。
「だから違うって。さっき言っただろ、その調味料は水量に対して三分の一。それじゃどう考えても三分の二は行ってる。違う違う、これもそうじゃない。細かく切ってから入れる。そう、沸騰したのを確認してゆっくりと。ってオイ! この食材は沸騰してから入れるっつっただろ! しかもこれのどこが細かいんだ!? 角切りじゃねえか! ちゃんと聞いてんのか人の話を!?」
「――ステファノ、うるさい」
「うるっ、うるさいとは何だうるさいとはっ!? お前が料理を作るって言ったからおれが手助けしてやろうと思ったのに、そのおれに対してうるさいだと!? 普段に偉そうな口調してるのは百歩譲って許してやるが、人から教えを請うときは最低限の礼儀を必要とするだろ普通! お前はどこの田舎者だアリエル!」
「――だからうるさい。ちょっと黙ってて」
「こんの野郎っ、もう勘弁ならんっ! 表ん出ろ!!」
 台所からは、さっきからずっとこんなような会話が聞こえて来る。
 最初に料理を作りたいと言い出したのはアリエルだった。しかしよくよく訊いてみれば料理を作ることは初めてだと言う。ならば教える者が必要だということで、料理に関してはステファノの方が上手いことからステファノがアリエルの監督になったのだ。最初の数分は良かった。初めてだからだろう、との考えもあったのか、ステファノも優しく注意するだけ終わっていたのだが、十分ほど経った辺りからそれは変動し、ああでもないこうでもないと経緯を経て今のような会話に至っている。が、怒るステファノとは正反対にアリエルは冷静に対応し、そのことがさらにステファノのメーターを上げていることにまったく気づいていないのだからもはやどうしようもない。
 カロンは椅子に座ったままで、現実から目を背けることに全力を尽くす。
 台所からの声は幻聴だと思い始めたのが今から五分前のことで、そしてこの五分間の間ですでに、カロンの意識は平和なお花畑へと逃避してしまっていた。ステファノが怒るのも無理はないのだが、アリエルのあの態度も仕方がないことなのである。両方ともあれが素なのだ。簡単に言えば相性が悪いのだろう。おまけにカロンはふたりには頭が上がらず、もし何かを言ったとしても怒鳴られるか追い返されるかのどちらかであることが容易に想像がつくので、この場をカロンにどうにかする術はまったくもってないことから、お花畑に逃避しているのだった。
「だーかーらーっ、違うって言ってんだろ! こんなもん人間の食うものじゃねえぞ! お前、この料理とすら呼ばない代物、責任持って全部食えるんだろうな!?」
「食べる。わたしが作った。美味いに決まってる」
「絶対だな!? 今の言葉、絶対に忘れんじゃねえぞ!?」
 恐ろしい未来が予想される。だからカロンは、お花畑に舞う蝶々を追い駆ける。
 それから十分ほど経った辺りで台所からの声はピタリと呼び、その数秒後にはげっそりとした顔のステファノと珍しく笑顔を浮かべるアリエルが、料理という名の物体を運んで来る。もちろん、料理という名の物体、と表現したのにはしっかりとした理由がある。それが料理と呼ぶような代物であるとは到底に思えないからだ。恐ろしいものがやって来る。離れているこの場所にまでその威圧感が漂って来る。湯気を濛々と上げるあれを今から食うのかと思うと、それだけで恐ろしさのあまりに天国へ旅立ちそうになる。
 テーブルの上に並べられたそれは、ある種の拷問であった。
 いや、実際の拷問もこれよりかはマシかもしれない。一体どうすればこんなものが出来上がるのか、カロンはそれを言葉で表記する術を知らない。一言で言い表すのなら、ただ「恐ろしいもの」になる。皿に移してあるのにも関わらず煮え滾るそれは、大凡人間の食う代物では当たり前のようにない。だがその物体の所々に人が食えるような部分があるのはおそらく、ステファノが試行錯誤の果てに何とか調整した痕跡なのだろう。だがそれもアリエルの腕の前には無に等しい。その辺りの家で飼われている家畜の餌の方がこれより遥かに豪華で安全であることは言うまでもあるまい。
 食卓を囲んで座るカロンとステファノ、そしてこの期に及んでもまだ笑顔を見せ続けるアリエル。
 アリエルには絶対の自信があるのだろう。自分が作ったものは絶対に美味い。自分に不可能などない。剣が振れるのだから料理も出来る。そんな根拠が皆無の自信を完璧に信じ込んでいる。それは時と場合によっては最強の武器に成るのだが、当然の如くに逆も存在する。こういう時と場合、その自信が何よりも恐ろしい武器へと変貌するのだ。才能がない云々、の話ではないのだ。才能がなくても人としての常識さえあれば一応は人間の食うものが出来上がるはずなのである。どちらかと言えばこれは、「毒薬を作る才能」と呼ぶ部類のものである。
 いただきます、と言う勇気が、カロンからはついに出て来なかった。ステファノも同じである。カロンと同様にスプーンを手に持ったまま、どうしておれがいたのにこんなものになってしまったのだろう、と絶望の表情を浮かべながら言葉を発することができないでいる。だがステファノは頑張った。それは認める。ただその頑張りを圧倒的に上回り、アリエルの腕が凄過ぎるだけなのだ。だから落ち込む必要はない。そうに決まっている。
 そんなふたりを他所に、これを作った元凶はひとり、やはり笑顔を最後まで崩さずに食材が丸々ぶち込まれた物体にスプーンを通して掬い上げ、何の躊躇いもなく口に入れた。最初の一噛み目はまだ笑顔だった。しかし二噛み目で頬が引き攣り、三噛み目で表情から笑顔が消え失せ、四噛み目をすることなくに涙目で無理矢理喉の奥底へと飲み込み、スプーンをそっとテーブルに置いて手を合わせ、アリエルはこう言った。
「――ごちそうさま」
 席を立ち上がろうとしたアリエルの手をステファノが掴む。
「どこへ行く気だいアリエルちゃん?」
 素晴らしい笑みだった。
 これほどまでに素晴らしいステファノの笑みを、カロンは今までに見たことがなかった。もはや何も言うまいと思う。これは自業自得である。普段ならアリエルを庇うところであるのだが、当事者がアリエルであって、ステファノが被害者であるこの状況ではカロンがどちらの味方につくかは明白だ。何よりも、ステファノのこの素晴らしい笑顔が、カロンは心の底から恐ろしかった。
「君は先ほど、責任を持って全部食べると、そう言わなかったかな?」
 アリエルは視線をステファノには向けず虚空を見つめたまま、まったくの無表情で、
「言ってない」
 ステファノは変わらずの笑顔で、
「言ったよな?」
「言ってない」
「言った、よな?」
「……言った」
「だったらどうするか、わかるな?」
 そこでようやくアリエルはステファノを振り返り、切羽詰った顔で火に油を注ぐ。
「わ、わたしのせいじゃない。ステファノが余計なことしなかったら絶対上手く行ってた。そう、ステファノのせい。ステファノが変なことするからこうなった。だからステファノが全部食べる。わたしはもう食べない。食べれない」
「……本気で言ってるのかい、アリエル、ちゃん……?」
 もはやアリエルは完璧に開き直っていた。
「ステファノが悪い。わたしは悪くない。全部ステファノが食べる」
 その三秒後、ついにメーターの吹っ切れたステファノがテーブルを豪快に引っ繰り返して怒鳴り散らし、慌てて逃げ出すアリエルを追い駆けて外へと飛び出してどこまでも走って行く。遠ざかって行くふたりの気配を追いながら、カロンはひとりで盛大な安堵の息を吐いた。何だかんだ言って床に散らばったこれを食べなくて済んだのだ。本当に良かったと思う。とても良かったと思う。ものすごく良かったと思う。天国へ行かずに事が終わったことに対し、カロンは神様に大いに感謝する。これは神様がきっと、まだ死んではいけませんよカロン、と言っているのだと強く信じた。
 しかし残されたカロンには仕事が残っている。今から床に散らばったこれを掃除しなければならない。素手で触って火傷したらどうしよう、とカロンは怯えていたのだが、さすがに床に落ちてまで煮え滾っていることはなく、順調に掃除は行われた。だがこのまま台所に捨てたのではこの物体内部で科学反応などが起きて恐ろしいことになる可能性も否めないので、カロンは袋の中に突っ込んで口を強く強く強く結び、ゴミ捨て場へと持って行った。明日辺りにこれが事件になったらどうしようとも思うのだが、心配し過ぎると胃に穴が空くので考えないことにする。
 アリエルを追い駆けて行ったステファノはまだ帰って来ない。
 仕方がなしにカロンが新しく料理を作る。ステファノには及ばないものの、普通に美味い料理を作るくらいならばカロンにもできる。間違ってもアリエルと同じ道を進むことはない。でもこの数日で随分とアリエルもここに馴染んだものだとカロンは料理を作りながら思う。
 リシテア・アイトネを討伐後、ステファノとアリエルはあれから一日中眠り続けていたのだ。このままこんな所で眠らせておくわけにもいくまいと考えたカロンは、ふたりを背負って帰ることに決めた。決めたのだがその行動はなかなかの至難の業であり、何とかこの住処に辿り着いた所でカロンは力尽き、ベットに倒れたところで意識は途絶えた。次に目覚めるとすでにステファノもアリエルも起きていて、椅子に座ってお茶を飲みながらステファノは「よお、遅いお目覚めだな」と笑っていて、アリエルは腕に負った傷を隠すように包帯を巻いてただズズっとお茶を啜っていた。
 それから有耶無耶のままで時間だけが流れ、アリエルがここに来て今日で四日になる。
 そして朝にアリエルが料理をすると言い出して、このような惨状になってしまったのだ。人生とは切にわからないものである。
 だがアリエルには驚かされてばかりだった。まず第一に、アリエルは本当に何も知らなかった。料理の仕方を始め、日常生活に置いて必要最低限のこと以外、まったくの無知なのである。突拍子もない行動にカロンとステファノが度肝を抜かれたのは一度や二度ではない。加えてアリエルはハンターなのにも関わらず、その仕組みを理解していなかった。ハンターが賞金首を討伐した際には政府の元へ赴いて報告し、そして役人がその事項を確認した後に賞金額が降りる。それすらもアリエルは知らなかったのだ。
 今まで幾人もの下位の賞金首を討伐しているのに、アリエルはただの一度も報告していないが故に賞金は受け取ってはおらず、ならば今までの食費などはどうしていたのかと訊ねると、アリエルは倒した賞金首のアジトにあったものを勝手に食べていたのだと言う。賞金首を討伐した結果、食事に辿り着くということなのだろう。が、もしかしたら賞金首を討伐することが実は仮定で、本当はそこにある食事が目当てだったのではないか、とカロンは思わなくもないのだ。
 ちなみにカロンが確認を取ったところ、アリエルが倒したと言う賞金首は皆、まったくの別人が討伐したことになっている。おそらくはリストを見てハントしに行ったまではいいのだがすでにアリエルに倒された後であり、その場面に出くわした者の中に頭を働かす輩がいたのだろう。倒した者が名乗りを挙げていないのなら自分が横取りして手柄と賞金を得ようという腹である。だが賢いやり方だ。何の危険も冒さずに金が手に入る。それほど美味しい場面に遭遇できるのはこの世界では珍しい。
 しかしそれらの仕組みはライセンスが発行された際にちゃんと説明されているはずである。ライセンスを持っていたアリエルが知らぬはずもないとカロンが詰め寄ったところ、アリエルはいつも通りの表情で「これは父様から預かってるだけ。わたしのじゃない」と言い切った。ライセンスを他人、例え子供であってもそれを譲ることは罪の対象となる。つまりアリエルは違法ハンターなのだ。故にリシテア・アイトネの件に関しての賞金は一切降りなかった。もし報告してアリエルが違法ハンターだと発覚すれば罰せられるからだ。
 そのことから結局はリシテアに懸けられていた480万ウェルは無効となり、今頃はどこかのハンターに横取りされている頃だろう。ただ後日にカロンとステファノが館に戻って保管庫から金銀財宝を奪って来た。その総額は約800万ウェルになる。が、その四割を政府に還元し、そこからこれからの生活費やアリエルの腕の治療費、ステファノお馴染みのメニュー全品注文と「面白そう」とつぶやいてそれを真似したアリエルの分と、次のハントを絞るために情報屋から購入した情報料も馬鹿にはならず、加えてその他諸々の経費を引くと、残りは100万にも満たなくなっていた。気づけばそれだけ減っていた金の束の見つめ、カロンはひとり、詐欺だと思ったことをよく憶えている。
 料理が完成する。皿に移してテーブルに運びながら、そういえばアリエルはいつまでここにいるのだろう、と思う。
 アリエルがハンターとして活動し始めたのはやはり最近のことであるらしいのだが、その辺りのことは訊いても教えてくれなかった。アリエルに関して気になることは山ほどある。あれほどの強さをどこで見につけたのか。どこから来てどこへ行き、何を目指しているのか。そしてアリエルがよく言う、「父様」とは一体誰のことなのか。ライセンスを自分の娘に譲るような男である。何かとんでもなくガサツな性格のような気がするのだが、アリエルの前で言うと本気で大刀を抜いてくるのでもちろん言えない。家名についてもそうだ。アリエルの家名が何であるのかを、カロンは未だに知らない。気になることは山ほどあるのだが、アリエルはやはり言わないのでいつしかカロンも訊かなくなった。
 アリエルは、いつまでここにいるのだろう。腕の傷はもう完治したみたいだし、ここにいる理由はない。出て行くと言うのならそれを止める権利をカロンは持っていないのだ。もうのんびりとした時間は十分に過ごした頃だろう。そろそろアリエルにその辺りのことを訊いてみる時期なのかもしれない。ステファノとアリエルが帰って来たら一度訊いてみよう。
 カロンがそう思った瞬間を見計らっていたかのように住処のドアが開き、アリエルの首根っこを掴んで引き摺るように帰って来たステファノを見た。ステファノが肩で息をしている。珍しいことだった。追いかけっこでステファノがここまで疲れる様を初めて見た。仮にカロンが相手だったのなら瞬殺されている。ステファノからここまで逃げ切れるとはさすがアリエル。身体能力はとんでもないのだろう。
「おれの勝ちだ。この辺りの地理に詳しいおれが相手なんだ、最初からお前に勝ち目なんてねえ」
 しかし随分と苦戦したのは今のステファノを見ればわかる。
 ぶすっとした表情で成すがままにされている猫みたいなアリエルにカロンは苦笑する。
「ふたりともお腹減ったでしょ。ぼくが新しく作ったから食べよう」
 テーブルの上に並べられている真っ当な料理を見てステファノが「さすが相棒だ」と笑顔を浮かべて己の席に着き、スプーンを片手に今度こそ何の躊躇いもなくに食べた。「おれには及ばないもののなかなかの腕だ」と満足そうに料理を飲み込むステファノ。
 一方のアリエルは席に着いたはいいのだが食べようとはしない。
「どうしたの?」
 カロンがそう訊くとアリエルは未だ不機嫌そうな顔でぽつりと、
「……負けたみたいで悔しい」
 その隣で料理をがっついていたステファノが大声で笑い、
「お前じゃおれにゃあ勝てねえよ、出直して来い」
 珍しくアリエルが声を荒げ、
「ステファノじゃないっ! カロンに負けたって言った!」
 なおも屁でもないみたいな顔をして料理を食い続けるステファノを恨めし気に睨みつけ、アリエルはようやくカロンの作った料理を一口だけ食べ、ますます不機嫌そうな顔になって「……やっぱり美味しい……」と虫の鳴くような声で言った。前から何となくわかっていたつもりだが、どうやらアリエルは相当の負けず嫌いであるらしい。自分の作った料理がヘドロみたいなものなのに対し、カロンの作ったものは普通に美味い料理。当然の敗北感だろう。それがアリエルは不服みたいだった。
 カロンは助け舟を出すつもりで「練習すれば上手くなるよ。最初は誰でも下手だって」と言ったのに、アリエルはそれをまったく別の意味に取ってしまう。下手、と言われたことが嫌だったのだと思う。スプーンをテーブルの上に置いて席を立ち、無言で部屋を横切って壁に立て掛けてあった大刀を手にし、そのまま外へと出て行ってしまった。台所の窓を開けるとお世辞にも広いとは言えない庭の中でアリエルは怒りを込めながら大刀を物凄い風斬り音と共に振り抜いている。
 ステファノは料理を食いながらその様子を眺め、
「ああやってすぐ拗ねる所を見ると子供みてえだけどよ、あの風斬り音、尋常じゃねえなやっぱり」
 その通りだ、とカロンは思う。
 拗ねて怒り出すだけならば笑って済ませられることなのだが、こうしてアリエルの凄さを目の当たりにすると、やはりこの小さな体のどこにあの大刀を振り回すだけの力があるのかと心底疑問に思う。試しにカロンが大刀を振らせてもらったところ、あまりの重さにたった三回でリタイアしてしまった。ステファノの力を持ってしても十回が限界だったのだ。なのにアリエルはすでに二十回以上は振り抜いていて、大刀は止まるどころかさらに勢いが増して来ている。
 この少女は一体、何者なのだろう。この少女は一体、何を目指しているのだろう。
 気づいたら、窓の外に向って声を出していた。
「アリエルはいつまでここにいるの?」
 突然の声にアリエルが一瞬だけ大刀を振るうのを止めてカロンを見つめるが、すぐに再開し始め、手を休めることなくに言葉を返して来る。
「出て行けって言うのなら今すぐ出て行く。腕も治った。ここにいる必要はもうない」
 出て行けと言うつもりはないのだが、やはりアリエルの意見を尊重したいとカロンは思う。
 金の方面は残った100万ウェルで何とでもなる。アリエルがここに残っても何の支障もない。それどころか、アリエルが共にハントをしてくれるのならば相当スムーズに事が運ぶようになるだろう。アリエルが討伐した賞金首の賞金は見捨てることにしても、その内にカロンとステファノが金銀財宝を根こそぎ奪って来れば賞金以上の稼ぎになるはずだ。アリエルがここにいてメリットが増えることはあれども、デメリットが増えることは早々にない。唯一のことを言えばステファノとの相性だけが問題だが、時期に慣れると思う。
 だからアリエルがここにいたいと思うのであれば、ここにいさせることに賛成しようとカロンは考えている。
「アリエルはどうしたい? ここから出て行きたい?」
 剣を振る手を止め、あれだけ振り抜いたにも関わらず息切れひとつ見せないアリエルはカロンを見つめた。
 数秒の間、やがてアリエルは言う。
「ひとつ訊いていい?」
「なに?」
 随分と言葉を探しているような顔つきだったが、上手い言葉が見つからなかったのか、アリエルは率直に、
「どうしてカロンとステファノは群れてる?」
 群れてる。そう言われると誤解がある。
 カロンにしては珍しく真剣な顔つきになって、
「ぼくとステファノは群れてるわけじゃない。仲間なんだ。大切な仲間」
「何が違う?」
 その答えの返し方にカロンが戸惑っていると、テーブルの前に座っていたステファノがスプーンをアリエルの方に向け、
「だから子供なんだよ。『群れる』と『仲間』じゃあ全然意味が違う。いいか、よく聞け。珍しくおれが真面目なこと言うからな。群れるっていうのは相手のことを表面上だけしか見ていない奴らが数の力を得るために集まることを言う。逆に仲間っていうのは内面まで知った上で手を組んでいることを言う。『群れる』と『仲間』はまったく意味が違う。お前のオヤジさんも言ってたんだろ、『仲間のために必死になれる奴は良い奴だ』って。でも『誠に強い者は群れない』とも言ってる。ほらみろ、お前が『群れる』と『仲間』を同じ意味だと思ってんなら、お前のオヤジさんの言葉には矛盾が出て来る。オヤジさんはつまりだな、『数に頼らず、心から信じられる奴とだけ手を組め』って言いたかったんだろ、きっと」
 説明を終えたステファノは満足気に笑い、残っていた皿の料理を再び食い始める。
 難しい顔をするアリエルを見つめながら、カロンはステファノはやはりこういう場合には頭が回る奴なのだと思う。何も考えずに話しているだけなのだろうが、それでもしっかりとした結論をまとめている。なぜ普段からここまで頭を働かさないのだろう。無駄な部分に労力を費やし過ぎているのだ。宝の持ち腐れとはまさにステファノを言うのではないだろうか。
 十秒ほど悩んでいたアリエルはやがて顔を上げ、カロンを見つめて問う。
「だったら、カロンはステファノをちゃんと知ってる?」
 全部が全部、というわけではないが、それでもやはり、
「知ってるよ。それじゃなきゃ信用できないしね」
 ステファノも料理を食いながら、
「おれも知ってるぞ。おれたちはガキの頃に果物屋で果物を一緒に強奪した以来の仲だ」
「話を曲げないでよ。一緒にって、ぼくはやってないじゃん。ステファノが追われてたのを助けてあげただけ」
「あ、お前ひとりだけ善人面する気だな。あの後にお前も果物食っただろ。同罪だよ同罪」
「あれはステファノが無理矢理ぼくの口に突っ込んだんだよ」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
 話がまとまった際にアリエルを振り返り、
「とにかく、ぼくたちは群れてるんじゃなくてちゃんと信頼してる仲間なんだよ」
 アリエルは大刀の切っ先を地面に突き刺し、長い間、ただ沈黙していた。
 そしてそこから導き出されたものは、はっきりとした答えではなかった。
「よく、わからない……」
 しゅんとするアリエル。
 そんなアリエルを見つめながら、カロンは思う。
 これはカロンの想像なのだが、このアリエルという少女は、今までに友達と呼べるような存在を持ったことがないのではないだろうか。それならば言葉使いや知識の無さにも肯けるような気がするのだ。おそらくアリエルは父親と、もしかしたら母親もいたかもしれないが、二人、或いは三人でずっと暮らしていて、何かの切っ掛けが原因で父親が娘にハンターとしてのライセンスを託し、アリエルはその意志を継いでハンターの生業を始めた。両親以外とはロクに人と話したことはなく、そんなアリエルだからこそ『仲間』というものの意味があまりよくわかっていないのかもしれない。信頼、という言葉の意味を知るには、まだアリエルが幼過ぎるのも原因なのだろう。
 今のアリエルに必要なのは一体何なのだろうか。すべての賞金首を討ち倒すことができるほどの圧倒的な力か。それとも人を信頼するという概念か。そのどちらもアリエルには必要なのだと思う。アリエルは幼過ぎるが故に無知であり、恐ろしいまでの強さを持っている反面、酷く脆い存在なのかもしれない。大の大人を斬り伏せる大きな力に比例せず、その精神はまだ十代前半の少女。今すぐにどうこうという話ではないかもしれないが、もし何かアリエルの内心を揺さ振るような出来事が起こった場合、その細い精神が耐え切れるとはカロンには思えなかった。
 なぜならアリエルは、冷静のように見えてその実、ちょっとしたことですぐに感情を変える子供なのだから。
「……ねえ、アリエル?」
 カロンは顔を上げたアリエルを見つめ、笑う。
「しばらくの間、ぼくたちともうちょっと一緒にいてみない? 帰る所が今はないのならここにいる方がいいと思うし、もしアリエルがそれでいいって言うのならぼくは歓迎するし、さっきはあれだったけど、ステファノもこれで実は結構楽しんでると思うんだ。だから、アリエルがいいならもうちょっとここで暮らしてみない?」
 アリエルはしばらく何も言わなかった。
 ただ静かな時間だけが流れた後、業を煮やしたステファノが食器をテーブルの上に乱暴に置き、
「面倒なことは抜きだ。結論をまとめる。アリエル、お前は今、寝る場所と暖かい飯を食える場所がない。そしておれたちには金がない。あるっちゃーあるが、こんなもん、もっと高額の賞金首の情報買ったら一発でチャラだ。そこでおれたちは上を目指すためにはもっと金が必要になる。そこで、ひとつの提案を挙げる。お前は今まで通り、自分が決めたままの賞金首を相手にハントすればいい。その裏でおれたちはおれたちのハントをする。両方が無事に帰還できればお前には寝る場所も暖かい飯を食える場所もある。そしておれたちには金がある。これですべては解決だ」
 それから一呼吸置き、
「今すぐに返事を返す必要はねえさ。ただな、確かにおれはお前を本気でぶん殴りたいときがあるが、カロンが言った通りに何気に楽しんでる節があるのも確かだ。お前がおれたちの仲間になるって言うのなら止めないし、歓迎してやる。しかしそれには幾つかの約束事項がある。そこの紙になんて書いてあるか読んでみろ」
 そう言いながらステファノが指す指の先にアリエルは視線を移し、そこに紙が張ってあることに初めて気づいたような顔をした。
 それは、カロンとステファノが仲間を組むときに考えた、約束事項であった。
 第一条『仲間の危機には必ず駆けつける』
 第二条『仲間の忠告は絶対』
 第三条『仲間が収入を得たときは飯を奢る』
 その三条が、カロンとステファノの間で絶対の約束である。
 細々としたことはもう少しあるのだが、代表的であり絶対的であるのがその三条。カロンとステファノが仲間になってもう数年経つが、この約束事項が破られたことはない。これを破るということは約束を破るということであり、同時に仲間としての信用を失う。それをわかっている分、ふたりは絶対にこれを破ることはしない。互いが互いを信用している証。この三条が、カロンとステファノが仲間であるという証と誇りなのだった。
 そしてアリエルがここにいると言うのであれば、この三条を守ってもらわねばならない。なぜならそれが仲間としての証と誇りだからだ。これをアリエルが守らないのであれば信用することなんて到底にできない。しかし、だ。アリエルに対してそのような心配は無用なのかもしれなかった。この四日間で十分にわかっているつもりである。アリエルは幼いが故に、カロンやステファノよりも遥かに素直である。だから善悪はさて置き、感じたことはそのまま言葉にするし、これまで嘘を言ったことは一度もないのである。それだけでアリエルを信用するに値するのだが、やはりこの三条は譲れない。
 カロンは窓際に歩み寄り、俯くアリエルに笑いかける。
「少し考えてみて。アリエルが自分で答えを出すまで待ってるから」
 が、カロンの言葉を聞いているのか聞いていないのか、アリエルはふっと顔を上げて大刀の柄を掴んで地面から引き抜き、無心に素振りを再開し始めた。それは先ほどまでと同じ素振りに見えるのだが、先ほどまでの怒りは感じさせない風斬り音である。先ほどとは何かが違う。迷いがないというか余計な雑念がないというか。カロンではよくわからないが、おそらくはアリエルの中で何かの変化があったのだろう。その変化がアリエルにとって良いものであるのか悪いものであるのかは、やはりカロンにはわからない。
 しかしアリエルは、答えを見つけていた。
 大刀を振り抜きながらどこか一点を見つめ、無表情に、
「仲間が何なのかよくわからない。……だけど、寝る場所とご飯が食べれる場所は欲しい」
 その言葉を聞いたとき、カロンはひとり、笑った。
 素振りをしながら答えるのはたぶん、照れ隠しなのだろう。アリエルの頬が僅かに赤くなっているのは息が上がっているからではないはずだ。やっぱりこの少女は素直なのである。そして素直だからこそ、こういう場合にどうしていいのかがわからないのだろう。故に己が最も慣れ染んだ行為を繰り返している。そうすれば落ち着くのだと思う。仮にここでアリエルから大刀を取り上げたらきっと、顔を真っ赤にして怒るのだと思う。
 そのことにカロンが気づいて、ステファノが気づかないはずはなかった。
 すっとカロンの横を通り過ぎ、ステファノが窓から外へと飛び出す。やめなよステファノ、とカロンが慌てて止める間もなくにステファノはアリエルの背後に回り込み、大刀が振り抜かれた一瞬の隙を突いてその柄を握り締めた。突然の行動に驚いたアリエルが背後を振り返ったときにはすでに、ステファノが腕力にものを言わせて大刀を取り上げていて、しかし当然の重さに刀身が地面に落ちる。アリエルが我が手から離れた大刀を取り返そうとするがステファノが体で阻み、実に、実に楽しそうな顔でこう言う。
「さて、もう一度さっきの言葉を、今度はおれに言ってもらおうかなアリエルちゃん?」
 アリエルが顔を真っ赤にして俯き、やがてゆっくりと震え出す。
 瞬間、
 ステファノの体が回転して地面に叩きつけられ、奪い返された大刀の切っ先がその眉間に添えられた。アリエルの顔は真っ赤なのに対し、その瞳だけは真剣そのものの光を宿している。小さな体から発せられているそれはおそらく、殺気以外の何ものでもないのだろう。このまま放っておけばアリエルは本気でステファノを斬り殺すかもしれない。そんな心配がないと言えば嘘になるのだが、カロンはその光景を見つめ、そして、笑った。切っ先を突きつけられていたステファノもカロンに釣られて笑い出し、ひとりだけ状況の飲み込めないアリエルだけがカロンとステファノを交互に見つめてさらに顔を真っ赤にして、
「な、なんで笑うっ!?」
 そうして、この日のこの出来事の締め括りに、カロンはこう答えた。
「ぼくたちの住処へようこそアリエル。――ぼくたちは、君を歓迎するよ」

 空は快晴だ。
 今日一日だけは、世界中のどこも平和であるに決まっていた。

     ◎

 五メートルはあろうかという壁を前にして一度だけ立ち止まる。
 しかし立ち止まったのは一瞬だけで、カロンとステファノは肯き合って行動を再び開始する。カロンはポシェットからケーブルを取り出してステファノに手渡す。それと同時にステファノは助走をつけて一気に走り出し、跳躍一発で虫のように壁に貼りついて僅かな凹凸だけを頼りに攀じ登っていく。五メートルの壁を登り切るのには五秒もかからなかった。壁の天辺に立ったステファノがケーブルを下に垂らし、それを掴んで今度はカロンが攀じ登る。
 ふたり揃って壁から飛び降りて目的物が見える場所に侵入した。廃墟と化した工場跡である。以前はここで服か何かの生産が行われていたらしいのだが、一年前に320万ウェルの賞金首であるデスピナ・オーソシエとその部下が関係者を襲って自らの塒にしてしまったのだ。今は時たま近くの街に出て来ては強盗のようなことをして一般人から金品や食料を奪い、そしてここへ帰って来る生活を続けている。攻撃手段に用いられるのは剣であるのだが、その腕は並大抵のハンターでは手も足も出ないほどに強く、破れたハンターや侵入に失敗して捕獲されたトレジャーは数え切れない。下位の賞金首ではかなり上に位置する者である。
 情報屋の情報は絶対だ。ただ、賞金額がその者の強さというわけではない。400万ウェルの者より300万のウェルの者の方が強い、ということはよくあることなのだ。賞金額というのはつまり、「どれだけ政府から危険視されているか」の目安であって、悪事の大きさやこれからどのように動くかという予想によって大きく左右される。故にこの320万ウェルの賞金首であるデスピナ・オーソシエという男が、480万ウェルの賞金首であったリシテア・アイトネよりも弱いという保障はどこにもないのだ。なぜなら、幾人もの人間を殺したリシテアに対し、情報によればデスピナは今まで無抵抗の者を殺したことがない男であるからだ。
 そして相手の強さがわからない場合、どれだけ低い賞金額だったとしても、それを標的としてハントをしている間は、トレジャーであろうとハンターであろうと絶対に油断してはならない。腕が確かなトレジャーやハンターが油断のために死んでいくということがこの世界では日常茶飯事に巻き起こるのだ。だからこそ緊張の糸を緩めることなんてできはしないし、辺りに漂う気配にも細心の注意を払わねばならない。それを肝に銘じておかねばおそらく、一秒後には死ぬ可能性が圧倒的に多くなってしまう。
 工場跡の近場の岩陰に姿を隠し、カロンとステファノは合図を待っていた。
 カロンとステファノはデスピナの宝を目指すことが役目で、アリエルはデスピナ本人を引っ張り出すことが役目。
 裏手から回り込んだカロンとステファノに対して、アリエルは真正面から突っ込んだ。そして今、工場跡の敷地内ではとんでもない戦闘が繰り広げられている。リシテアの館で起きたこととまったく同じことが起こっていた。デスピナの部下が作り上げる輪の中で多勢に無勢の攻防を繰り返し、それでも数をものともせずにアリエルは圧倒的な力を持ってして切り崩していく。かれこれ五分以上は戦い続けている。しかし遠目でもわかるのだが、アリエルは未だ傷を負っていなければ息すら上がっていない。力の差を悟った敵が斬りかかることを止め、どうすることもできずにアリエルを取り囲んだままで動かない。
 やがて工場跡のドアが突如として吹き飛んで、そこからリストで見たデスピナ・オーソシエが現れる。筋肉に覆われた屈強な肉体と、そこに刻み込まれた斬り傷の痕。手に持っているのは刀身が細く長い剣であり、その刃を舌で舐めながらゆっくりとアリエルへと歩み寄って行く。
 それが合図だった。
 岩陰からカロンとステファノは飛び出して工場跡の破壊された壁から中へ侵入し、そのまま一気に走り出した。工場の設計図は情報屋から買い取って来てあることから、中で迷うことなどなかった。事前にすべてに置いて計画されている。どこにデスピナの自室が位置していて、どこに宝が隠されているのかを完璧に予想し、それを元にカロンとステファノは敵がいないであろう経路を割り出した。計画通りに進むカロンとステファノの前にはやはり敵はいなく、もしかしたら配置はされていたのかもしれないが、この状況ではアリエルの方に回っていて当然だろう。
 工場跡の三階にまで駆け上がり、廊下の突き当りを曲がろうとして止まった。
 この先に保管庫であると予想される部屋がある。だがそこには当たり前のように見張りがいる。アリエルが表で戦闘を行って騒ぎを起こしているのにも関わらず、そこへ駆けつけないのは見張りとしては優秀な方であろう。カロンが曲がり角から手を差し出し、そこに握り締められた鏡で見張りの動きを確認する。デスピナではないとは言え、やはり強そうな男だ。あの太い腕から成される腕力を持ってすれば、カロン程度なら片手で窓から放り投げられるだろう。街中ですれ違ったら視線を逸らしてしまうような、そんな男である。
 予想はしていたが、こうなったときはやはり少しながら恐れが出て来る。見張りがいることを想定して、こういう場合はどのように行動をするか、すでにカロンとステファノの間では決まっていた。だがどう考えたとしても、明らかにカロンに危険がある。そりゃステファノの方が腕力が強く確実に相手の急所を攻撃できることは認めるが、あまりに非力なカロンが囮役とはどういうことなのだろうか。妥当な人選だがこれはカロンが望んだことではない。ステファノが無理矢理この役目を押しつけて来たのだ。
 当の本人はカロンの真上の天井に貼りついて顎で「行け」という風に合図を出している。
 外からは大きな喧騒が聞こえる。今頃はアリエルがデスピナと戦っているのだろう。
 自分ひとりだけここで怯えているわけにはいかなかった。カロンは度胸を掻き集めて深呼吸をひとつ、拳を力一杯に握り締めて一度だけ後ろに距離を取り、一気に曲がり角へと向けて走り出す。そして保管庫の前に出た瞬間に立ち止まり、如何にも見張りがいることに気づかなかったみたいな顔をして叫びを声を上げながら踵を返す。その姿を確認した見張りが怒号を上げて物凄い足音と共にカロンを追って来た。
 演技ではなく、普通に悲鳴を上げた。
 カロンがステファノの真下を通り抜け、見張りがその後に続いた瞬間にステファノが落下する。背後に降り立った足音に見張りが気づいて振り返ったときにはもう遅い。ステファノの手に握られていた木刀が首を直撃して鈍い音が鳴った。が、それでも男の意識を刈り取るまでは至らず、床に肩膝を着いて己の腰に携えていた刀を抜こうとした。その瞬間、男の背中にいたカロンが近くにあった板切れを手にして脳天を叩くが、腐っていたのか簡単に砕け散ってしまう。
 今度は男の視線がカロンに向けられ、血走った目が何よりも恐ろしく、悲鳴を上げて逃げ出そうとすると再び鈍い音が鳴り響く。今度こそ血走っていた目がぐるりと回転して白目を剥き、男の体が床に落ちた。木刀を握り締めたままで息を整え、ステファノが「頑丈なおっさんだ」と笑う。結果的にはこれで良かったわけだが、本気で恐かったとカロンは思う。演技などしていられたのは最初の一秒だけで、あの怒号を聞いた瞬間から涙が出そうになっていた。実際、今のカロンの両目には僅かに涙が溜まっている。
 カロンとステファノは倒れている見張りをそのままに走り出し、保管庫の前に辿り着く。
 が、工場跡からは想像もできないような頑丈な鍵が設置されていた。デスピナが用意させた鍵なのであろう。見張り体を探っても鍵を持っていなかったことから、どこか別の所に保管してあるのだと思う。これは普通のトレジャーならば開けられないような鍵である。ステファノであってもこれを開けるのにはかなりの時間を要するはずだ。しかし、鍵外しに関してはカロンの方が上なのである。手先の器用さに懸けてはカロンも己に僅かならながらの自信を持っている。特技が何か訊かれたら鍵外しですと胸を張って答えられる。だからこそ、この鍵を前にしてもカロンが立ち止まることはなかった。
 ポシェットの中から突起のついた細い金具を三本取り出す。左手に持った一本を鍵穴の奥底まで差し込み、右手に持った二本を逆方向に突起を向けて中間地点で止める。左手に持った一本と右手に持った一本は同時で、残りの一本は気持ち遅れ気味で回さなければ開くことはない。その気持ち遅れ気味の調節が難しいのである。「これは普段からどれだけ脳みそのネジが遅れているかが決め手の鍵だな」とステファノが言うが、それは無視することに決める。
 二本を同時に回し、気持ち遅れ気味にもう一本を捻る。が、手応えがない。失敗である。
 カロンはステファノを振り返り、
「ほらみろ! ステファノが変なこと言うから失敗した!」
「わ、悪かったよ、もう何言わねえから早くしろって」
 気を取り直してもう一度最初からやり直す。
 二本を同時に回し、気持ち遅れ気味にもう一本を捻る。今度は手応えがあった。内部で歯車が回る音と共に鍵が外れた。
 拳を握って扉を開け、カロンとステファノはそこに大量の札束と宝石類を見た。簡単に見積もっても2000万は下らない。とんでもない宝の山に出遭えた気分だった。しかしこれらを全部運び出すとなると相当な時間と労力がかかるだろう。今のカロンとステファノにはそんな余裕はないのだ。そしてこれはカロンとステファノがハントをする際に決めている事項であった。欲を出せば失敗する。己に合った相手にハントを挑み、なおかつ己に合った報酬だけを奪い取って来る。それが上手くトレジャーとしてのハントを終わらせるコツなのである。
 カロンはポシェットから袋を二枚取り出し、そこに入るだけの札束と宝石類を突っ込む。だがどれだけ頑張っても五分の二ほどしか持ち帰ることはできない。未練はこれでもかというくらいにあるが、これ以上は失敗に繋がる。もし帰り道に敵に出遭った場合、袋が重過ぎてはすぐに捕まってしまうだろう。だからカロンは後ろ髪を束で引かれるような思いで保管庫を後にして、ステファノと共に廃墟と化した工場から飛び出した。
 壁を越えて駆け抜け、そのままアリエルと分かれた場所まで戻って来る。その近くに奪い取って来たものが詰まった袋を隠して再び走り出し、今度は正面から工場跡に近づく。壁を攀じ登ってふたりが中を確認するのと、アリエルがデスピナの剣を弾き返して高々と舞い上げ、最後の一太刀を見舞ったのは同時だった。
豪快な幕切れだった。デスピナは信じられないといった風な顔をしていたが、倒れる一瞬に自分を討ち倒した幼きハンターを見つめて笑った。見事な笑みだった。
 倒れ込んだデスピナを見据え、アリエルが戦士としての礼儀か、大刀を地面に突き刺して小さく頭を下げる。
 デスピナの部下は、頭を潰されて怒り狂ったり我先に逃げ出すような馬鹿ではなかった。デスピナが戦士としての死を受け入れた。そのことに対して、その部下たちが口出しできることではないとわかっているのだろう。誰も何も言わず、ただその場を沈黙が包み込んでいた。やがてアリエルが大刀を引き抜き、ゆっくりと歩き出す。
 その背後で小さなざわめきがあったが、アリエルは構うことなく立ち去り、やがて先回りしていたカロンたちと合流する。
 ステファノが意外そうに、
「珍しいな、お前が賞金首を生かしとくなんて」
 言葉通り、デスピナはまだ生きている。先のざわめきはそれを確認した部下の声である。
 その理由を、アリエルは答えた。
「あいつは戦士。強かった。父様が強い戦士とは必ずまた戦うときが来るって言ってた。そのときが本当の決着」
 いつかさらに強くなって戦いを挑んで来る戦士を思い浮かべて笑顔を見せるアリエル。
「そっか。そのときはアリエルももっと強くなってるだろうね」
 そう言ってカロンが笑いかけると、アリエルはさらに嬉しそうな笑顔を見せた。
「その笑顔だけ浮かべてりゃ可愛いのに。性格がそれじゃあダメだわな」とため息を吐くステファノにアリエルが大刀を向ける。
 そんな光景を見つめながらカロンはもう一度笑い、こう言った。
「帰ろうかステファノ、アリエル。今日は大きな収入もあったし、盛大にメニュー全品注文でもしようよ」

     ◎

 アリエルが仲間になって二週間。
 その間でアリエルが討伐した賞金首はデスピナ・オーソシエを含めれば五人にも上る。その五人の賞金首の賞金額を平均にすると270万ウェル。が、今までにアリエルが討伐したと言う賞金首を合わせると平均が一気に360万ウェルにまで達する。500万以上の賞金首をまだ討伐したことはないアリエルだが、480万のリシテア・アイトネを討伐したことが後押しとなり、この近辺にいる下位の賞金首ではもはや、アリエルに敵う者はいなくなっていた。
 元から持っていた圧倒的な強さに加え、一度の戦闘を重ねるごとにアリエルは確実に強くなっている。まるで吸収しているかのようだった。普通の人間からは大凡想像もできないような速さで大刀の捌き方が上達しているのだ。恐ろしい才能である。料理を作る才能があれほどまでに存在しないのに、剣を振るう才能は完璧なる天性のものなのだろう。
 いつだったか、ステファノがアリエルに水だと言って酒を飲ましたとき、瞬間的に眠りに就く間際、訊いてみたことがある。なぜアリエルは戦うのか、と。すると意識が曖昧だったアリエルは、普段なら絶対に答えないはずのその問いに、答えのだ。
「……父様との、約束。強くなるって、……決めたから」
 そう言って眠ってしまったアリエル。
 あれがどのような意味を持っているのか、カロンは知らない。だけどやはり、アリエルの言う「父様」というのがすべての鍵を握っている人物なのだろう。予想が正しければアリエルのこの才能や剣技はその「父様」が原因に違いない。アリエルの父親と思わしきその「父様」。一体誰なのだろうか。かつてはハンターだった男だ。情報屋で調べれば何かわかるかもしれない。だがカロンはそれをしない。アリエルが言わないことを勝手に調べるのは、仲間としての裏切りになるからだ。だからカロンは、いつかアリエルが自分から喋ってくれることを信じ、待つことに決めていた。
 話を戻すが、もはや下位の賞金首ではアリエルに敵う者はいないのが現状であり、カロンとステファノも同時に、下位の賞金首では物足りなさを感じなくなっていたのも事実だった。金の話ではなく、向上心が芽生え始めたのが大きな理由だった。長い話し合いの結果、三人の結論がついに同じ場所に辿り着く。下位の賞金首は粗方制覇した。ならば次は、上位の賞金首を相手にハントするべきだ、と。
 上位の賞金首。つまりは500万の大台に乗った化け物たちだ。
 カロンとステファノ、もちろんアリエルにとっても未知の相手だった。
 問題は上位の中で誰にハントを挑むか、という点である。ステファノは真っ先にディオネ・オフィーリアにしようと言い出したのだが、当たり前のように却下させた。500万の大台にハントすることは認めるが、1000万の壁に手を出すなど論外である。500万以上1000万以下の賞金首のリストを情報屋を通して掻き集めた結果、この近辺では僅かに三人しかいないことをカロンは初めて知った。もっと多いものだと思っていたのに、普段なら目もくれない額であるためにまるで気づかなかったらしい。
 そして次回のハントの標的はその三人の中から選ぶことになる。
 またもや長い話し合いの後、いつかステファノが選んだ一人に決定された。
 ガラティア・カリュケ。賞金額780万ウェル。
 リシテア・アイトネの賞金額の倍近くある化け物の一人だ。情報屋の情報によるとガラティアはディオネと同じく森の中の洞窟の奥にアジトを持っていて、攻撃手段は銃刀であるらしい。銃刀とはつまり、大型の銃の先に刃物がついた代物であり、接近戦を得意とするアリエルにしてみれば銃は厄介な代物である。にも関わらず、アリエルは自信満々に「勝てる。負けない」と笑顔を見せるので、ステファノの意見もあってカロンはガラティア・カリュケにハントすることを完全に決めたのだった。
 それから二日後、カロンとステファノ、そしてアリエルはガラティア・カリュケを標的にハントを行うことになる。

 それが、これから始まるすべての一歩になることに気づく者は、当たり前のようにいなかった。
 始まりの音がゆっくりと近づき、カロンたちは、そこへ足を踏み出していく。





     「ブレイドの光」



 大刀が日干しにされている。
 アリエル曰く、「太陽の光を吸わせてる」らしいのだが、カロンから見ればそれは干物を干すのと何も変わらない光景だった。住処のテラスに立て掛けるように置いてある、アリエルの愛刀。いつかのように快晴の空の下、太陽の光が直接降り注ぐそこに、大刀は鎮座している。この大刀の持ち主は今、明日のハントに向けてステファノと買い物中である。本当はカロンとステファノで行くはずだったのだが、アリエルが自分も行くと言い出したため、誰か留守番が必要だということになり、公平なクジによってその二人が買い物に出掛けることに決まって、カロンはひとりで留守番なのだ。ふたりが帰って来るまでの暇潰しに、カロンはアリエルが日干しにして行った大刀を観察している。
 こうして大刀を真っ直ぐに見るのは、よくよく考えれば初めてのような気がする。
 この大刀を振らせてもらったときはあまりの重さに抱えるだけで精一杯だったし、大抵のときはアリエルが肌身離さず持っているから見る機会も少ない。さっかくの機会なので、カロンは徹底的にこの大刀を研究しようと、まさにどうでもいいことに力を注ぐことに決めた。
 最初に重さに関してだが、やはり前に体験したとき同様にとんでもなく重い。十キロ以上は余裕であるだろう。こんな鉄の塊みたいな大刀を、なぜあのような華奢な体で振り回せるのだろうか。遠心力云々の話で片づけられるものではない。威力を増大させるその肝心な遠心力はまず、大刀を持ち上げて振り回すことができなければ生まれないのだ。加えて持ち上げて振れても、速度が遅ければ意味はない。カロンのようにへろへろと振り回した程度では威力を増大させるもクソもないのだ。あれでは威力が減少する一方なのである。やはりアリエルの身体能力は普通の人間の比ではないのだろう。
 そしてこの剣の特徴とも言えるのが、大刀に刻まれた刻印である。が、その前に柄から分析して行こう。先っぽには政府から発行されるライセンスが無造作に結びつけられており、そこから伸びる柄の部分には包帯のようなものがぐるぐる巻きにされていて、一部が左右に広がって鍔の両端へと繋がれている。こうして柄に包帯を巻いておけば汗や流れた血などで手が滑ることはなく、握り易さも向上されるのだろう。証拠にアリエルが持つ定位置にある包帯は他の部分と比べて磨り減っている。尋常ではない握力で握られるのだから当然か。
 お待ちかねの刀身へと視線を移す。興味深い刻印である。刀身を楯に割ったら左右対称になるように描かれており、炎のようなものが燃え上がる様がはっきりと刻み込まれているのがわかる。刀身の中心部にある逆三角形の中にある歪な円のようなものは太陽を模しているのだろうか。しかしここまで複雑に刻印が彫られた剣の刀身を、カロンは生まれて初めて見た。まるで何かの文字のような刻印。これを見ているとなぜか、自分が考古学者にでもなれたような気分になってくるから不思議である。
 もう一度だけ、試しに大刀の柄を握り締めて持ち上げる。
 が、やはりそう簡単に持ち上げられるはずもなく、かなり必死になってようやく格好はついた。アリエルの構えを真似して踏ん張ってみるが、凡人であり非力なカロンには大刀を振り抜くどころか体勢を保つことすらも難しい。ものは試しだとアリエルのように大刀を振り被ってみるが、一気に体重が後ろに引っ張られて踏ん張りが利かなくなり、「うわっ、あ、っと、あぁっ!」と世にも情けない悲鳴を上げながら背後に倒れ込み、その際に大刀が後ろにあった椅子を真っ二つに叩き斬った。
 盛大な音を立てて崩れ落ちる椅子を呆然と見つめ、カロンは情けないくらいに慌てた。
 この椅子はステファノのお気に入りの椅子なのだ。それを叩き斬ったことが知れたら今度はカロンが叩き斬られてしまう。おまけに大刀を勝手に振り回していたことがアリエルに知れたら怒りはしないだろうが、いい顔もしないだろう。叩き斬ってしまった椅子を元通りしようと住処の倉庫から工具を引っ張り出して来るのだが、抜群の斬れ味を発揮した大刀の太刀筋の前には完璧に修復することなど大凡不可能で、専門技師でもないカロンにできることなど切断した面を接着剤で接着する程度だった。
 残りの折れた足なども接着して何とか立たせるくらいはできたのだが、明らかにおかしい。緩い風が吹いたくらいで不自然なほどに揺れるし、試しにカロンが体重を僅かにかけてみたところ、メシメシと実に嫌な音が響いた。アリエルくらいなら何とかなるかもしれないが、ステファノが乗ったら絶対に崩れ落ちる。危機的状況だった。ああどうしようどうしよう、とテラスをぐるぐるぐるぐる回りながらカロンは錯乱し、それでも椅子は誤魔化して何とかすることに決め、大刀を元の位置に戻して日干し状態にさせる。
 その一瞬、大刀に刻まれた刻印が太陽の光に反射して大きく輝いたのだが、錯乱していたカロンはまったく気づかなかった。
 工具を倉庫に戻して再びテラスに辿り着いたとき外から賑やかな声が聞こえていた。ああでもないこうでもないと言い合っているその声の主はもちろんステファノで、時折小さな声が「うるさいステファノ」とつぶやいている。非常にマズイ状況だった。今はまだ何とか体勢を保っている椅子であるが、強い風が吹けば一発で吹き飛ぶことが予想される。もしも帰って来て早々にステファノが椅子に腰掛けでもしたら一気にぶち壊れて、状況を理解したステファノは頭から角を生やして「何じゃこりゃぁあっ!?」と叫ぶに決まっているのだ。本当にどうするべきか、自分の奥底には透明人間になれる能力が備わっていたらいいとこれほどまでに強く思ったことはない。
 ドアが開いて、カロンに対する死刑宣告のカウントダウンがついに始まった。
 荷物を手一杯に抱えたステファノがよたよたと歩いて来る。その後ろに続いてアリエルが途中で買ったのであろうアイスクリームを食べている。珍しいこともあるものだとカロンは思う。アリエルにはいろいろ危ないので金は持たせていないはずだ。なのにアイスクリームを食っているということはつまり、ステファノが買ってやったのだろう。本当に珍しいこともある。何だかんだ言いながらもステファノも良い兄貴分を楽しんでいるのではないかとカロンは思ったのが、まったく違っていた。
 荷物をテーブルの上にぶちまけたステファノはアリエルを振り返り、
「よし、運んでやったぞ。おれにもそれを食わせろ」
 しかしアリエルは即答で、
「嫌。これはわたしの」
「はぁっ!? お前、約束が違うだろうが! お前の分の荷物運んだらおれが買ったアイスの半分、返すっつっただろ!」
「知らない。食べたいならもうひとつ買って来て。だったらこれあげる」
「……こ、こんの野郎ォ……調子に乗ってっと、本気でぶん殴るぞコラァアッ!」
 追い駆けるステファノと逃げ回るアリエル。
 ふたりの言い分をまとめると、こういうことらしい。
 最初は買い物で出来た袋をふたりで分担して持って帰って来ていたのだが、途中でアイスクリーム屋を見つけたのが原因で一度だけ立ち止まることになる。どちらともなくに「食べたい」と言い出し、しかし両手一杯の荷物を持っていたのではアイスを持つことはできないので、どちらか一方が荷物を持ち、もう一方がアイスクリームを食うという案が出された。だがそれでは片方が惨めなので、住処まで荷物を運んだらアイスクリームはもう片方に差し出すということで落ち着いたのだ。それでどちらが先にアイスクリームを食うかはコインを投げての裏表でアリエルに決まり、ステファノが荷物持ちになったまではいいのだが、アリエルはどうやらそれを相当に気に入ってしまったらしく、ステファノに差し出すことを頑なに拒んでいるらしい。
 結論を言えばアリエルが悪いのだが、なぜステファノはアイスクリーム屋の所で休憩しながらふたり一緒に食うことを選択しなかったのかが疑問である。そうすればこんな面倒な事態は回避できたはずだし、逃げ回るアリエルの手から落ちたアイスクリームが床にぶちまけられることもなかったはずなのだ。だが結末はこのような面倒な事態になり、アイスクリームはカロンが掃除する羽目になって、ステファノは不機嫌そうに買って来たばかりの袋からいろいろなものを取り出しており、アリエルはテーブルの前に座ってしょんぼりしている。
 空気が重かった。この沈黙に耐え切れなくなったカロンは焦りながら、
「じゃ、じゃあさっ、今から三人でアイスクリーム食べに行かないっ?」
 せっかくこの沈黙を打破しようとしたのに、ふたりは揃って、
「行かねえ」
「行かない」
 ステファノとアリエルは互いに睨み合い、
「アリエルが買って来るなら食う」
「ステファノが買って来るなら食べる」
 もはやどうしようもなかった。
 変なところで負けず嫌いなのはふたりに共通している点だった。こういうところは似た者同士なのだろう。そしてこうなってしまってはどちらかが先に折れるまでこの状況が続くのだが、このふたりに限って折れるなんてことはないだろう。何度かこのような事態に陥ったことがあるのだが、そのときもすべてツケはカロンに回って来て、悩んで悩んだ果てにようやく打開策を見つけて普段通りに戻るのが常なのだ。アイスクリームを食いに行かないかという策は無駄に終わった。果たしてこれをどうやって解決させたものか。
 体に纏わりつくかのように重い空気を引き摺りながら、少しでも気分を良くしようとカロンはテラスへと歩み出す。
 今日はやはり、気持ち良いくらいの快晴だった。降り注ぐ太陽を浴びている大刀のようにカロンも日干しになりたいと思う。住処の中では未だにステファノは買って来たものをテーブルの上に並べていて、アリエルはしょんぼりし続けている。さて、本当にどうしたものか。今からカロンが急いでアイスクリームを買って来れば元通りになるだろうか。いや、そうしたとしても無駄だろう。ふたり揃って「要らない」と言うのが目に見えている。そうなった場合、買って来たアイスクリームはカロンが食わなくてはならなくなってしまう。それでは馬鹿丸出しだ。ならばどうするべきなのか。
 深いため息を吐きながら、カロンはテラスに置いてある椅子に腰掛ける。
 ステファノのお気に入りの椅子である。カロンが大刀で叩き斬った椅子である。
 気づいたときには遅かった。ただでさえ危うい状態で立っていた椅子であり、接着したばかりの箇所はまだ完全には繋がっておらず、当たり前のようにカロンの体重を支え切れなくて一気に崩れ落ちた。とんでもない音が鳴り響き、驚いたステファノとアリエルがテラスを振り返ってそこに広がる光景を見つめる。バラバラになった椅子の破片の中、何とも言えない顔で尻餅を着いているカロン。自らの愚かさに笑いが漏れた。それはやがて大きさを増し、一体何が可笑しいのか、そのままずっと笑い続けた。
 欠伸と笑いは人に伝染すると誰か言っていた。
 その通りのことが起きた。先ほどまでの重い空気がたちまちに消え失せ、ステファノが、アリエルが笑い出す。
「何やってんだよカロン?」
 そう言って呆れ顔をするステファノの隣では、アリエルが小さく笑っている。
 椅子の破片の中で笑っていたカロンは、その光景を見て、今度は別の意味で笑った。結果オーライ、ではないだろうか。さっきまでどうしようどうしようと悩んでいたことが一発で回避された。こうなったら後は放っておいても大丈夫である。ステファノもアリエルもいつもの通りに戻るであろう。椅子を大刀で叩き斬ったときは本当に焦ったが、こうなってみるとこれはもしかしたら神様の思し召しだったのではないだろうか。
 ふと思った。何か、忘れている。だけどその何かが思い出せない。何だっけ。
 その答えを出したのはカロン自身ではなく、唐突に表情を素に戻したステファノだった。
「……ていうかオイ、ちょっと待て」
 あ。思い出した。これ、ステファノのお気に入りの椅子だったっけ。
 思い出したときにはすべてを理解していて、カロンは顔を蒼白にしながら笑い、立ち上がって咄嗟に踵を返して手を上げ、
「ぼ、ぼくさ、用事があるからちょっと出掛けるよ」
 テラスから逃げるように飛び出した刹那、
「待てコラァアッ!! カロンッ!! テメえおれの椅子に一体何しやがったぁあッ!?」
 鬼のような顔でステファノが後を追って来る。
「うああああっ!? ご、ごめんステファノ! 事故、そう、事故なんだよっ!!」
「ふざけんなっ!! 何の事故があったら椅子が大破するんだっ!?」
「大刀が勝手に暴れ出したんだっ! ぼくは止めたんだけどそのままスパッて!!」
 嘘ではない。カロンは止めようとしたのだが止まらなかったのだ。
「大刀が暴れるわけねえだろこの野郎ォオッ!!」
 至極真っ当な言葉を返してなおも追い駆けて来るステファノ。
 しかしカロン如きがステファノから逃れられるはずもなく、その五秒後にカロンは捕獲された。首を二の腕で掴れて動きを封じられ、そのままズルズルと引っ張られる形で住処まで戻った。テラスから温かな風が吹き抜けるそこで、カロンは正座してステファノの説教を頭の上から受けている。アリエルはその光景を見つめながらなぜか楽しそうにお茶を飲んでいる。
 平和である。こんな快晴の日には、世界中のどこでも平和であるに決まっていた。

 そして明日、カロンたちはガラティア・カリュケを相手に、ハントをする。

     ◎

 洞窟の奥にガラディアのアジトがあるということはつまり、その洞窟を通る以外に中へ侵入する方法はないことに繋がる。故にいつものようにアリエルが賞金首を外に引っ張り出し、裏でカロンとステファノがハントをする作戦は根本から通用しないことは明らかだった。ならばどうするかと言えば、今回はアリエルだけが先に単独でガラティアと戦って討伐したその後に、カロンとステファノが洞窟へ侵入して金品を奪うという形になる。
 だが今回は500万の大台に乗った、780万の賞金首が相手だ。
 もし万が一、アリエルに危険が及んだ場合は約束事項第一条『仲間の危機には必ず駆けつける』に基づいてカロンとステファノは脱出経路を確保する。そうなってしまっては洞窟内部に侵入してのハントはできなくなるが、仲間が死ぬのなら金を諦める方が何百倍もマシである。だから今回は、約束事項第二条『仲間の忠告は絶対』に基づいて、アリエルに対して「危険を察知したらすぐに逃げ出せ」ということを厳しく言い聞かせた。アリエルは「だいじょうぶ。勝てる」と言い張って譲らないが、もしものときのことは絶対に考えておかねばならない賞金首が相手なのである。用心するに越したことはない。
 そして今、闇夜に紛れてカロンとステファノは森の奥に消えて行くアリエルの背中を見つめていた。
 アリエルの姿が完全に見えなくなった頃に行動を開始し、木の上に登って枝伝いに洞窟へと近づき、木々の上から様子を窺う。
 森が終わり、眼前に広がるのは遥か高みまで佇む断崖である。断崖と地面が交わるそこに洞窟の入り口がぽっかりと口を開けていて、炎の灯りと共に佇んでいるのは二人の門番と思わしき男。強そうである。賞金首の配下に就いている男たちだ、やはりそれも当たり前なのかもしれない。しかも500万の大台の一味だ。下位の賞金首の部下とは質が違うはずである。下手をすればそこいらの賞金首よりこの門番の方が強い可能性だってないとは言えない。
 アリエルは、真正面から洞窟の入り口に近づいた。
 門番が気づかないはずはなかった。
 片方の男が手にしていた長い槍のような武器をゆっくりと構え、
「止まれ。何をしにここへ足を踏み入れた。道に迷った言うのならすぐさまここから立ち去れ」
 しかしアリエルは止まることなどせず、もちろん立ち去ることもしなかった。
 持っていた大刀を一瞬で突き上げ、その切っ先を門番に向ける。月明かりに照らされた大刀と、その柄に結びつけられているライセンス。ハンターです、と言っているのと何も変わらない。門番もこのような光景には慣れているはずだ。780万の賞金首を頭に持つ男たちである。身の程知らずのハンターやトレジャーが今まで何十人と訪ねて来たことだろう。こういう場合はどうすればいいのか、しっかりと弁えていて当然だった。
 両方の門番が手にしていた槍をアリエルに向け、
「ここまで幼いハンターを見たのは初めてだ」
「同意見だ。加えてそのハンターがまさか、ここへ足を踏み入れるとは恐れ入った」
 そうして二人の門番の声が、同一の言葉を発する。
「「消えてもらおう」」
 瞬間、恐るべきスピードで門番が地面を弾いた。
 しかしそれに負けぬスピードで大刀を構え直し、放たれた第一撃目の槍を刀身で受け止めるアリエル。門番の二人に同様の驚きのような表情が見えたが、すぐさま楽しそうな顔に切り替わり、まるで合せ鏡を見ているような錯覚を起こす素早さと正確さで左右へと展開する。間合いの長い槍を手にした二人の男は一瞬だけ動きを止め、その刹那に再び地面を弾いてアリエルに迫った。
 中心部にいたアリエルはどちらに視線を移すこともせず、大刀を振り上げて思いっきり地面を叩き、その反動を利用して空中に浮かび上がり、上空を見上げた片方の門番へと向けて一気に落下する。が、振り抜かれた大刀が紙一重でかわされ、着地したアリエルに槍が牙を剥く。それを無表情で大刀を掲げて防ぐのだが、もう片方の門番がまったくの逆方向から槍を突き上げた。身を捩って回避するアリエルの僅かな隙を見逃さず、無防備に開けた脇腹に槍の棒の部分が食い込んだ。
 鈍い衝撃音が鳴った。アリエルの体が空中を舞い、しかし地面に激突するか否かでバランスを整えて着地する。攻撃が直撃したのにも関わらず、アリエルの表情に変化は見られない。ただ自然に大刀を構え直す。脇腹を気にする素振りさえも見えない。おそらくは効いていないのだろう。どういう仕組みで防御したのかは知らないが、今のアリエルには打撃はほとんど無効になるのだと思う。現に、カロンとステファノは今までのハントで、肉弾戦でダメージを負ったアリエルを見たことがなかった。鍛え方が半端ではないのだろう。
 門番がアリエルと同じく槍を構え直し、
「見事。末恐ろしい才能だ」
「幼いが今までのどのハンターよりも強い」
「「実に、惜しい」」
 再び攻撃が始まる。
 合せ鏡のように展開し、一気に距離を詰める門番。今度のアリエルは、上空へ飛ぶようなことはしなかった。その場でゆっくりと目を瞑り、小さな深呼吸を繰り返す。何のつもりでそんなことをしているのか、カロンやステファノはもちろん、門番にもわからなかったはずである。戦いの最中に目を瞑るということが何を意味するのか、そんなものは戦う術を知らない者でも知っていることだ。隙を自ら作り出して何をするつもりか。刺し殺してくださいと、そう言っているようなものだった。
 門番の槍が、容赦なくアリエルを狙った。
 一瞬だった。
 槍の軌道にあったはずのアリエルの体が木の葉のように揺れ、紙一重だが絶対に当たらない距離で攻撃をかわし、驚愕の顔をする門番の目前で瞑られていた目が開かれる。下段に構えられた大刀を握る手に力が篭り、遠心力を使わずしてとんでもない速度と威力で振り抜かれた。爆発でも起きたかのような音がした。門番の持っていた槍が真っ二つに斬り裂かれ、衝撃波にも似た何かに作用されて二人が背後へと吹き飛んで行く。片方は地面を転がり、片方は断崖に激突して意識を失う。
 末恐ろしい才能、と門番は言ったが、今のこの段階であっても、アリエルのそれは恐ろしい才能以外の何ものでもなかった。
 大刀を地面に突き刺し、アリエルは地面を転がった門番を見据える。
「お前たちに用はない。ガラティア・カリュケに用がある」
 だから呼べ、とアリエルは言っていた。
 門番が立ち上がり、笑いとも言えなくもない表情を浮かべた後に片足を引き摺りながら洞窟の中へと消えて行く。その数十秒後に洞窟の奥から複数の人間の気配が伝わって来た。それに比例して、何か、言葉にできないような気配が漂って来る。木々の上に待機していたカロンやステファノにも感じ取れるくらいの、明確なる気配。離れていてこれだ、アリエルならはっきりと感じているはずである。証拠に、それまで無表情だったアリエルが僅かに顔を歪ませているような気がする。
 それは、殺気と呼ぶに相応しい代物。アリエルの殺気も凡人のカロンから言わせればとんでもないものだが、洞窟の奥から漂って来るそれは、アリエルの比でない。寒気がする。全身の毛穴から汗が滲み出して来ているような感覚。カロンに向けられている殺気ではないのに、まるで喉仏に刃物を押し当てられているような、そんな気がする。これが500万の大台。化け物の強さを誇る賞金首。幾らなんでも、これでは差が有り過ぎる。ここまでの殺気を放つ者が相手では、アリエルでも勝てるかどうか、いや、勝てる可能性の方が低い。正真正銘の化け物。下位と上位では、ここまで差があるのか。こんなもの、反則以外の何ものでもありはしなかった。
 洞窟の奥から現れたのは、何十人もの部下を背後に引き連れたガラティア・カリュケ本人だった。
 リストで見た通りの男である。逆立ちにされた金色の髪の毛と光を宿したふたつの眼孔、上半身には何も見つけていないその体はお世辞にも屈強とは言い難いがしかし、腕の筋肉だけが異様に鋭い。太い、のではなく、端から見てもわかるくらいに鋭いのである。表現の仕方がそれ以外に思いつかない。異様な筋肉だった。どうしたら普通の人間がこのような筋肉をつけることが可能になるのか、まったくわからなかった。
 ガラティアは月明かりの下に佇むアリエルを見据え、そしてその視線が手に持つ大刀に向けられた瞬間、顔に似つかわしくないような驚きの表情を見せる。
 ガラティアの第一声は、予想に反した言葉だった。
「……その大刀……貴様、まさかブレイドの継承者か……?」
 そこで一瞬だけ言葉を区切り、すべてに合点が行ったかのような表情で、
「そうなると貴様、バスターか。だがなぜバスターがこのおれの所へ来た? 我らは同志であるはずだ」
 ――ブレイド? バスター?
 聞き慣れない単語に、カロンとステファノは互いの顔を見合って首を傾げる。
 アリエルは何も言わず、ただガラティアだけが言葉を紡ぐ、
「しかしお前がバスターだというのなら矛盾が生まれる。そこまで幼い貴様がブレイドの継承者であるはずはない。……貴様、一体何者だ。名は何という?」
 そこで初めてアリエルは口を開き、
「アリエル」
 ガラティアは眉を潜め、
「聞かぬ名だ。家名は何だ?」
「家名はハンターになったときに捨てた。今は名乗らないのが父様との約束。だから言えない」
 真っ直ぐな瞳で答えるアリエルを見て、なるほど、とガラティアは笑った。
「貴様が誰かはもはや訊かぬ。そのブレイドをどこで手に入れたかも訊かぬ。だがここでブレイドを見たことは見過ごせんのだ。そのブレイド、回収させてもらうぞ。それは貴様のような幼き者が持っていていい代物ではない。ブレイドを持つ資格があるのはバスターだけだ。……貴様のような者が持つ資格など、断じて有り得ん。――スパイラルを持って来い」
 ガラティアの背後にいた部下が一丁の銃を持って来る。
 あれがガラティア・カリュケの攻撃手段である銃刀。ライフルのような大型の銃器の先端に、槍のような刃物が装着されていて、随分と使い込まれたような雰囲気が漂っている。それはおそらく、アリエルの持つ大刀と同じなのだろう。主が振るえばそれは、身体の一部と同じ感覚になる。無造作に振るって使っているだけでは、武器からはあのような雰囲気は発せられないはずだ。
 振り抜かれた銃刀の刃が地面に擦れ、ガラティアの姿勢が一気に低くなる。
「……行くぞ幼きハンター。貴様の持つブレイドがどれほどの力を顕現させているか、見せてもらおう」
 ガラティアが地面を砕いた。
 弾いた、のではなく、砕いたのだ。爆発物でも仕込んであるかのような破壊音の後に、ガラティアの姿がカロンとステファノの視界から完全に消えた。この場でそれを目で追えた者は、初撃を大刀で防いだアリエル以外にはいなかったはずである。小さい刃と大刀の刀身がぶつかり合って澄んだ音が鳴り響き、端から見てもわかるくらいの驚きの表情を見せるアリエルを他所に、ガラティアの体が今度は遥か上空に跳び上がる。
 人間では考えられない跳躍だった。アリエルも普通の人間から言わせればとんでもない身体能力を持ってはいるが、ガラティアのそれとは桁が違う。人間であるとは到底に思えなかった。高速で動くこともさることながら、数メートルも軽々と跳び上がる人間がこの世界にいるわけはない。正真正銘の、化け物。500万の大台に乗った賞金首がこれほどまでとは、カロンはまったく考えていなかった。アリエルの比ではないのだ。人間の限界を、超越している。
 上空に跳び上がったガラティアが真下のアリエルに銃口を向け、トリガーを引き絞った。一発の銃声が空間を切り裂き、獲物を狙って突き進む銃弾がその途中で弾けた。散弾銃。弾丸の中に小さな弾が詰められている代物。一撃一撃の威力は小さいが、確実に相手にダメージを与えることのできる銃弾である。空中で炸裂して降り注ぐ弾丸の真下にいたアリエルが地面を弾いて軌道から外れるが、広範囲に及んだそれからは到底に逃れ切れず、間一髪で大刀を振り抜いた風圧で薙ぎ払う。
 大刀が振り抜かれたと同時に、ガラティアの持つ銃刀の刃が一直線にアリエルを狙った。
 大凡不可能と思えるような動きで大刀を割り込ませて防ぐが、ガラティアの異常な腕の筋肉はアリエルの力を超えた。大刀が弾き返されてアリエルの体が左によろけ、その隙を見逃さずに着地したガラティアの足が一気にアリエルを捕らえた。嫌な音が響く。地面に激突して二回ほど転がった後に体勢を立て直して起き上がるが、アリエルの表情には確かな苦痛の色が見られる。アリエルには通常の打撃攻撃は効かないはずなのに、先の攻撃は小さな体を確実に蝕んでいる。ガラティアの攻撃は、通常の打撃ではなかった。地面を破壊するほどの脚力である。普通であるはずが、ないのだ。
 大刀を構え直すアリエルだが、時間にすれば数秒しかないこの攻防だけでも状況が圧倒的に不利だと悟るには十分だった。
 ガラティアが銃口を向ける。トリガーが引き絞られて散弾が放たれた。空中で炸裂して分散する弾丸の軌道からまたもや逃げ出すアリエルだが、当然のように逃げ切れない。先のダメージは外見よりも深いらしく、動きが鈍っていたことも作用したのだろう。大刀を振り抜いた風圧で弾丸を吹き払うがすべてを凌ぐことはできず、何発かがアリエルの体を掠めた。僅かだが流れ出る血には意識を向けずに、アリエルはいつの間にか視界から消えたガラティアを捜す。
 ガラティアは、アリエルの真後ろにいた。
 気配だけを頼りに後ろを振り返りながら大刀を構えて放たれた攻撃を防いで致命傷は避けるが、しかしその威力の前には刀身は簡単に弾き返されてしまう。再び無防備を晒したアリエルの体にガラティアの足が食い込み、小さな体が弾け飛ぶ。それを見据えながらガラティアが地面を砕いて加速し、空中でアリエルに追いついて持っていた銃刀を振り被る。鋭い筋肉が一層に引き締まり、一気に振り抜かれた銃刀の横っ面が何の構えも見せなかったアリエルの脇腹を完璧に捕らえた。
 骨の軋む音がはっきりと聞こえ、苦痛の声を上げながら小さな体が体重を感じさせない速度で右に吹き飛ばされる。それでもアリエルは地面に激突する寸前に大刀を地面に突き刺しながら速度を殺し、覚束ない両足で着地する。が、明らかにダメージが深刻だった。その場に膝を着いて脇腹を押さえ、アリエルは大刀の支えで何とか持ち応えているに過ぎない。大刀がなくなればおそらく、今のアリエルには自らの体を支える力さえ残っていないのだろう。
 ここまで一方的に攻撃を受けるアリエルを、初めて見た。
 木々の上から言葉を発することができずにただ見つめていたカロンには、無意識の内に震え出す己の体にさえ気づけない。恐ろしいまでの差がある。下位の賞金首が相手ならばもはや敵なしだったアリエルの動きがまるで通用しない。それどころか、アリエルは未だに攻撃のひとつさえも繰り出していないのだ。ここまで差があるのか。アリエルほどの力を持ってしても、上位の賞金首には傷を負わすことすらできないのか。嘘だと思いたかった。アリエルは無敵だと思っていた。その凄さを、カロンたちは目の前で見て来たのだ。故にアリエルの強さは500万の大台の賞金首にも通用するのだと、そう、信じていたかった。
 ――慢心。そんな言葉が脳裏を過ぎった。
 知っていたはずだ、とカロンは自らを罵倒する。この世界では、己が力に慢心して遥か高みに位置している賞金首に挑んで死んでいくトレジャーやハンターがいることを、知っていたはずだ。死にたくなければ己に合った相手にハントを挑め。まさにその通りなのである。それをわかっていたからこそ、今までは下位の賞金首だけを相手にしていた。だけどその下位の賞金首ではアリエルの相手になるような奴はいなかった。だからカロンは、上位の賞金首を相手にハントすることを決めたのだ。
 絶対の自信があった。アリエルが負けるはずはない。アリエルがいれば自分たちのハントも絶対に上手くいく。そんな絶対の自信が、あったのだ。だって、今までカロンたちは賞金首を圧倒するアリエルの力を目の前で見て来たのだから。だって、今までカロンたちはアリエルと共に行ったハントでは失敗したことがなかったのだから。今回だって絶対に上手くいくと、そう信じていたからハントすることを決めたのだ。苦戦はするだろうけど、アリエルなら必ず勝つと信じていたのだ。何もかも上手くいくと、そう信じていたのだ。
 それこそが慢心だと、なぜ気づけなかったのか。
 上位の賞金首は次元が違う相手だと、わかっていたはずではなかったか。いや、ちゃんとわかっている。わかってはいるが、それでもアリエルの強さも次元が違ったのだ。それを踏まえた上で、上位の賞金首を相手にしようと思ったのだ。間違いだったのか。ここまで力の差があるとは考えてもみなかった。どうしてだ。どうして今、アリエルが地面に膝を着いて、ガラティアが立ってそれを見下げているのだ。アリエルの強さが人間の比でなかったら、あのガラティア・カリュケという男の強さは何の比ではないのだ。有り得ない強さ。化け物の次元に立つ者。もはやあの男は、人間ではない。
 逃げろアリエル。そう言葉にしたいのに、どう頑張っても口が動いてくれない。隣のステファノも同じだったのだと思う。表情に何の変化も見せず、ただ目前の光景を呆然と見ているだけだった。何もできなかった。この場から飛び出してアリエルの脱出経路を作ってやらねばならない。最初から決めていたはずのその行動が、どうしてもできなかった。ここから飛び出す決意を起こす思考が完全に麻痺している。動かなければアリエルを助けることができない、このままではアリエルが殺されてしまう、どうにかしてアリエルを助ければならないのに、それなのに、どうしても、――体が、動いてくれない。
 膝を着くアリエルに歩み寄り、ガラティアは家名を訊いたときのように眉を潜め、
「……これは何かの冗談か? ブレイドを持つ貴様が、なぜこうも……弱い?」
 心底不思議そうな顔。理解できない、とでも言いたげな顔で、
「貴様は肉体強化を施された者ではないのか? そうならなぜ、貴様がブレイドを持つ? ……貴様は一体、何者だ?」
 アリエルにはおそらく、その言葉は半分も聞こえていなかったはずである。
 地面に突き刺していた大刀の柄を懇親の力で握り締め、目の前に敵がいるから斬り伏せろというような本能にも似た思考だけで刀身を振り抜いた。が、それは振り抜かれる途中に銃刀の側面にぶつかり、当たれば誰であろうとも吹き飛ぶはずのアリエルの大刀を、軽々と受け止めた。もはやアリエルに成す術はなかったのだと思う。木々の上から見ていたカロンからでもはっきりとわかる。困惑と動揺に塗り潰され、僅かに震えるアリエルの華奢な体。あの華奢な体のどこにあの大刀を振り抜けるだけの力があるのか不思議だった。同時に、あの華奢な体に秘められた力が、いつしかカロンたちの中心になっていた。
 通用しないのか。アリエルが、こうも徹底的に負けるのか。
 このガラティア・カリュケという男は、一体何なんだ。780万でこれほどまでに強いというのなら、1000万のディオネ・オフィーリアはどこまで強いというのか。もはやカロンでは想像すらできない。人間ではなかった。もしカロンとガラティアが同じ人間であるというのなら、神と呼ばれる者はどこまで不平等が好きだというのだろう。化け物である。ガラティアが化け物でないとするのなら嘘である。あんな男が同じ人間であることが、許されていいはずはなかった。
 震える拳を握り締め、己を奮い立たせるように叫び声を上げた。アリエルを、仲間を、殺させてたまるか。
 木々の陰から飛び出し、地面に着地した瞬間にバランスを崩して倒れるが、それでも必死に立ち上がってカロンは絶叫した。
「逃げろアリエルッ!!」
 頭の上にいるステファノが遅れて飛び降り、いつか使った煙玉を三つ、右手の指に挟んでいる。
 ガラティアが振り返り、カロンとステファノを見つめて意外そうな顔をする。
「仲間がいるのか。貴様らは……まさか我らの同志ではあるまい?」
 木々の上で感じていたのとは明らかに異なる殺気。
 腰が抜けて地面に尻餅を着きそうになるのを必死で堪えた。こんな殺気をアリエルは直に受けていたのか。こんな化け物とアリエルは戦っていたのか。危険を察知したらすぐに逃げ出せと言ったではないか。なぜ逃げなかったのだ。この相手が危険以外の、何であるというのか。強情も負けず嫌いも程々にしろ。こんな所で死なせない。死なせてたまるか。命に代えて、では駄目なのだ。三人揃って住処に帰るまで、誰ひとりとして欠けさせるもんか。
 カロンが腰に巻いたポシェットの中に手を入れ、ステファンが持っているのと同じ煙玉を引っ張り出そうとしたとき、ガラティアがこう言った。
「――捕獲しろ」
 命令に従った数十人のガラティアの部下が一斉に駆け出す。
 カロンとステファノが同時に煙玉を地面に叩きつける。一瞬の閃光の後に噴射された高密度の煙幕に身を投げ、カロンたちはアリエルの所へ向う。が、逆方向から煙の中へ突っ込んで来ていたガラティアの部下に行く手を阻まれ、抵抗する間もなくに地面に叩きつけられた。ステファノほどの腕力を持っていてもガラティアは愚か、その部下にさえ勝てなかった。カロン同様に地面に押さえつけられたステファノが叫び声を上げて身を捩るが、屈強な男たちの前には無意味に終わる。そして這い蹲るふたりの首元に、引き抜かれた剣の刀身が添えられた。
 ガラティアの静かな声。
「殺すな。そいつらには訊きたいことがある。無論、貴様もだ」
 銃刀の銃口がアリエルに向けられる。
「なぜブレイドを持つか。そのブレイドを貴様に託した者は誰か。最低でも、それには答えてもらおう」
 ガラティアの手がアリエルの胸倉を掴み、その小さな体を引っ張り上げる。
 身長差が有り過ぎて、アリエルの足は地面から数十センチ以上も離れていた。
 その光景を、カロンは押さえつけられながら見ていることしかできなかった。己が不甲斐無さを、ここまで恨んだことはかつてない。今、カロンを押さえ込んでいるのは普通の人間だろう。だけどその普通の人間に対しても、カロンでは腕を動かすことができないほどの力の差がある。ならばガラティアとの差は一体、どれだけあるというのか。何もできない自分自身を、自分で殺してやりたかった。仲間の危機には駆けつけることが絶対の約束だったはずだ。それなのに自分は、それすらも守れないか。自分に力がないことは百も承知のはずだった。けど、自分にはここまで力がないものなのか。何も、できないのか。
 胸倉を掴れ、引っ張り上げられていたアリエルが微かに口を開き、何かをつぶやいた。
 そのつぶやきはその場にいた誰にも聞こえなかったが、もう一度紡がれたそれは、その場にいた全員に聞こえたはずである。
「――離せ」
 獣のような声だった。アリエルの眼孔には、恐ろしいまでの怒りが宿っている。
 それでもガラティアは表情を変えず、
「聞けぬ言葉だ。……だが、貴様らを無意味に殺すことはせん。知っていることを話せば、」
「黙れッ!!」
 一喝と共に一瞬でアリエルの体が揺れ動いた。
 下半身の撓りだけで足を持ち上げて胸倉を掴むガラティアの腕に絡ませ、上半身を回転させて足を絡めた腕の関節を捩じ上げる。突然の行動だったのが幸いしたのか、ガラティアに僅かな隙が出来たことがすべてを決した。捩じ上げられたガラティアの手が胸倉を離した刹那に離脱し、地面に着地するや否やにアリエルがカロンとステファノに向って走り出す。途中で大刀を真横に構えて叫び声を上げ、ふたりの動きを封じ込んでいた男を一挙に薙ぎ倒した。
 頭の上で弾けた衝撃波を、カロンは確かに感じた。それが吹き抜けた際に体を押さえていた力が消え失せ、カロンとステファノが慌てて立ち上がる。しかしそのときにはすでに、周りを敵に囲まれていた。屈強な男の壁に行く手を完全に阻まれ、どう考えても無事に逃げ出すことなど不可能だった。頼みの綱の煙玉さえもすでに使い切っている。アリエルだけなら逃げ出せたかもしれないが、ここにはカロンとステファノがいる。ふたりを庇いながら切り抜けることは、アリエルにも無理だろう。おまけにまだガラティアがいる。状況は絶望的だった。
 離れた場所から絶望の決め手となる男が言う。
「そいつらには手を出すな。もはやお前たちでは止められぬ。……気づかんのか。ブレイドが、鼓動を開始している」
 そう言われて初めて、アリエルの持つ大刀の刀身に刻まれた刻印のひとつひとつが輝くような光を宿していることに気づいた。
 異常な光景だった。ただの刻印であるはずのそれが、逆三角形の中にある歪な円を中心にまるで人間の体内に広がる血管のように輝く光を刀身全体に流し込んでいる。加えて耳を通すのではなく、頭の中に直接響いて来るような音が聞こえる。一定の間隔で聞こえるそれは、カロンが生まれてからずっと奏でている音に酷似していた。とくん、とくん。そんな小さな音が、頭の中に流れ込んで来る。心臓の音。そう思えた。だがなぜこのような音が聞こえるのかがまったくわからず、可能性があるのならこの大刀だが、剣が鼓動を打つなんてことが考えられるのか。
 そして、それはアリエルも同じだったのだろう。己が持つ大刀を見つめ、驚いた顔をしている。
 この場で唯一驚いていない者がいるのなら、それはガラティア・カリュケを除いて他にいない。
「……そういうことか。道理で貴様には納得が行かなかったわけだ。ブレイドの力を顕現させていなかったのか。いや、それ以前にそれすらも知らなかったと見える。貴様にブレイドを託した者は、そんなことすら説明しなかったのか。……貴様にブレイドを託したバスターは一体、誰なのだ?」
 しかしそれには答えず、アリエルはただカロンとステファノを振り返り、いつもと同じ口調で、
「カロンとステファノはここにいて」
 カロンは堪らず、
「ちょ、ちょっと待ってよ!? まさかまだ戦う気!?」
 アリエルは肯き、笑った。
「――だいじょうぶ。今度は、負けない」
 刹那にカロンの視界からアリエルの姿が消えた。
 気づいたときにはアリエルは敵の壁の遥か上に跳び上がっており、そのまま一気に離れた場所にいたガラティアの所へと突っ込んで行く。アリエルの姿が遠くなるに連れて頭の中に響いていた鼓動も遠くなる。やはりこの鼓動はあの大刀が発していると見て間違いがない。しかしどういうことなのか。大刀が鼓動が打つなんて在り得るのだろうか。あの刻印に流れる光は一体何だ。あれはただの模様ではないか。なぜあのような光が刻印を通して血液のように流れているのか。
 瞬間に思い出す。アリエルは昨日、大刀を日干しにしていた。カロンが訊ねると、太陽の光を吸わせているのだとアリエルは言った。もしあの言葉がそのままの意味だったとするのなら。吸わせた太陽の光が今、刻印を通して流れているのだとするのなら。不可能だと思う。そんなことができる武器を、カロンは当たり前のように知らない。そのような技術すら聞いたことがない。だがそれ以外に、カロンが今のこの状況を説明することはできないのも事実。だがそれよりも驚くことがある。
 アリエルの動きの速さが、格段に増していた。
 先ほどまでの比でなかった。ガラティア同様に地面を砕き、アリエルが真正面からガラティアへと討って出る。実に興味深そうな顔をするガラティアが銃刀を構え、振り抜かれた大刀を防ぐ。空間を斬る音さえもが驚くほど大きく、大刀と銃刀が激突した瞬間にそれは極限まで引っ張り上げられる。一瞬の後、銃刀が大刀の圧力に耐え切れずに弾かれ、無防備になったガラティアの胴体にアリエルの眼孔が狙いを定めた。
 振り抜いた大刀を握り返し、一気にもう一度振り抜く。それに気づいたガラティアが距離を取るために地面を弾くが、全力の力で振り抜かれた大刀の方が僅かに速かった。ガラティアの胸に右上から左下へと斜めの線が走り、束の間の後に血があふれ出す。それでも距離を取って体勢を立て直すガラティアは傷口を見下ろして傷の深さを確認したただけで意識の外へと完全に捨て去り、出血などには何の感心も払わずに銃刀を構えて不敵に笑った。
 アリエルも大刀を構え直し、銃口から放たれた銃声を合図に再び地面を破壊する。
 銃弾が炸裂する前に振り抜いた大刀の風圧で根こそぎ払い除け、その反動をつけたままで一気にガラティアへと迫る。横一線に疾った大刀の軌道を見極めてガラディアが状態をズラして回避し、隙が出来たアリエルの体へ向けて銃刀の刃を向けた。アリエルは体を引きながら大刀を戻し、刻印が光り輝く刀身でそれを受け止めた。瞬間にガラティアが笑い、銃刀を持つ手が微かに動いた刹那、刀身に押し当てられていた刃が高速の回転を開始する。
 火花が散った。
 距離を取るアリエルを追い駆けてガラティアも地面を破壊し、銃刀の回転し続ける刃をアリエルの体に向けて繰り出す。それを一撃一撃と防ぐアリエルだが、回転する刃の反動は端から見ているよりも遥かに強力で、散る火花が目の焦点を狂わせていく。これがガラティアの銃刀がスパイラルと呼ばれる所以である。回転する刃が体に突き刺されば、そこはもう二度と元通りにはならなくなる。胴体ならば最悪だ。突き刺された臓器は回転する刃に粉々にされ、急所でなくとも出血により死に至る。アリエルもそれはわかっているだろう。故に胴体に向けられた攻撃は受け流すのではなく、確実に止めている。
 攻防が続く。火花が盛大に散るたびに、離れて見ていたカロンは気が気ではない。先ほどのアリエルからは考えられないほどに速く、そして強くなってはいるが、それに負けずにやはりガラティアも強い。もはやその両方、どちらも人間の動きではなかった。今はまだカロンでも目で追うことが可能だが、もう少し近づいたのなら目で追うことすら叶わないだろう。離れているからこそ、今のカロンにも状況が理解できる。尋常な速さではなかった。通常の攻防ではなかった。化け物が二匹、想像を絶する戦闘を行っている。これはもう、才能と呼べる程度の代物ではなかった。才能では片づけられない、それを圧倒的に超えた能力だ。
 幾度目かの攻防が終わったとき、両者が僅かに距離を取って体勢を立て直す。が、それも一瞬であり、次の瞬間には互いが地面を砕いて加速していた。下段に構えたアリエルの大刀が振り抜かれ、一直線に突き出されたガラディアの銃刀が弾き返される。その僅かな隙を見逃さず、アリエルが地面に右足を着き、それを軸にして一回転、引っ張り戻された銃刀をもう一度弾き、今度こそ本当の隙を見出して二回転、遠心力を味方につけた大刀の速度と威力が倍化し、まるで生きているかのように刻印を流れる光が一際大きく輝いた。
 それに気づいたガラティアが、すべてに置いて理解できたかのような表情を見せる。
 結果的に、その一瞬が勝敗を決した。最初の傷を別つような真横の斬撃がガラティアの胴体を裂いた。
 血が噴き出す。しかしそれだけの傷を負ってもまだ、ガラティアは倒れない。口からもあふれ出した血を拭うこともせず、己の手に持った銃刀をゆっくりと掲げていく。もはや戦えない状態であることは誰の目から見ても明らかだった。そんな体で何をするのか。アリエルは大刀を下段に構えたまま、ガラティアの動きのひとつひとつを確実に追う。だがそれはすぐさま、アリエルに異変を伝える形となる。
 ガラティアは、回転する銃刀の刃をゆっくりと、己が首に向けた。
 血があふれ出す口を動かし、それでもはっきりとした言葉を紡ぐ。
「なるほど……貴様にブレイドを託したバスターは、あの人だったか……」
 アリエルが大刀を下げ、
「……お前、父様を知ってる?」
 回転する刃の音だけが、嫌に澄んで聞こえていた。
 ガラティアは質問には答えず、
「……アリエル、と言ったな。貴様がそのブレイドをこれからも振るうのであれば、ディオネに、……ディオネ・オフィーリアに会え。今の奴なら、貴様のブレイドに共感するはずだ。……だが急げ。そのブレイドが鼓動を開始したのなら、必ずバスターが来る。今の貴様では……バスターには決して勝てぬ。……奴を、ディオネを仲間に引き込め。ガラティア・カリュケの名指しだと、……そう言えば話はできるはずだ」
「……何を、言ってる……?」
 問うアリエルと、紡ぐガラティア。
「あの人に礼を言うまで何が何でも生き抜くつもりだったが……貴様がここへ来たのも、ある種の必然なのだろうな。最後の最期で、ようやく世界を信じることができた……。……アリエル。貴様にブレイドを託した人に会ったら、伝えてくれ。……あんたのおかげで、なかなか楽しい時間を過ごせた、ってな」
「待って、お前は何で父様のことを、」
 ガラティアは、笑った。晴れた笑みだった。
「――まったく、……散々な人生だったぜ」
 アリエルが止める間もなかった。
 首に向けられていた銃刀の刃が、ガラティア自らの首を貫く。
 血が、舞った。スパイラルの刃を首に受けて、生きているはずがなかった。
 その場に残された者はしばらく、誰ひとりとして動くことができなかった。





     「バスターたり得る者」



 しばらくお待ちくださいと、そう言って奥に姿を消した情報屋の受け付け係の女性が再びカウンターに姿を現したのは五分後のことで、僅かに首を傾げながら「そのような情報はこちらにもありません」と頭を下げた。そんなはずはないとカロンは食ってかかったのだが、どれだけ調べてもらっても結果は変わらず、何の収穫も得られないままで時間だけを無駄に消費した。
 ご利用ありがとうございましたという声を背中に受け、カロンは情報屋から外へと歩み出る。
 まるでカロンの内心を表すかのような曇りだった。大きい雨雲に遮られて太陽の光は僅かにも感じ取ることがきでない。午後からは雨が降り出すのだろうか。その前には住処に帰っておきたかった。が、情報を得られなかったのだから行動に移すこともできないこの現状では、真っ直ぐに住処に帰る以外に選択肢はなく、雨が降り出す前には屋根の下でどうすることもできずに思考だけを働かす自分自身の姿が容易に想像できる。
 重たい息を吐き出しながら、カロンは住処へと歩き出した。
 情報屋に存在しない情報など有り得るはずないのだ、とカロンは思う。
 ガラティア・カリュケの言葉を思い出し、「ブレイド」と「バスター」のふたつの単語を情報屋を通して調べてもらったのにも関わらず、それに関する情報は微塵も湧き出て来なかった。有り得ないことである。賞金首が知っている言葉が、なぜ情報屋には存在しないのか。考えられる理由はふたつ。ひとつは「ブレイド」と「バスター」というのは賞金首内でだけ言われる言葉であり、それが情報屋にはまったく伝わっていない例。だがそれはおそらく、有り得ないことである。絶対にどこかから情報は漏れて流れ出すはずなのだ。賞金首の配下にも稀に情報屋の諜報員が入り込んでいるこの世界では、賞金首内でだけ使われる言葉などすぐに露見するに決まっている。
 そのことから推測すると、やはり考えられるのはもうひとつの例。
 情報屋が、その情報を揉み消しているということだ。しかし揉み消す理由がわからない。情報屋の情報を揉み消すことができるのだとすれば、それは背後に存在する政府以外にいない。仮に政府が「ブレイド」と「バスター」の情報を隠蔽していたとしても、その理由の箇所だけが空白になる。が、隠蔽するのだから一般人のトレジャーであるカロンに理由が漏れることなどは当たり前のようにないのだろうが、わからないのはなぜ政府が絡んで来ているのか、ということである。
 賞金首が知っている情報。だけど一般人には知られていない情報。
 「ブレイド」と「バスター」という情報が、政府にとってどのような意味を持つのか。隠蔽しなければならないような情報なのだろうか。だとするのなら、それは政府にとって都合が悪い情報ということになる。賞金首の情報ならばすべて公開し、トレジャーやハンターがハントをし易くするのが普通だろう。それをしないということはつまり、公開されれば賞金首にとっては都合が悪くなることはないが、政府にとっては都合が悪くなる情報、との結論に辿り着く。
 一体何なのだろうか。「ブレイド」と「バスター」という単語が、どういう意味を持っているのだろうか。
 手掛かりは、一応ならばある。ブレイドを持っているアリエルと、アリエルにブレイドを託した「父様」なるバスター。
 何の関連があるのか。ブレイドというのはあの大刀だ。刻印を通して光を刀身へと伝えて鼓動を打つ大刀。あれがブレイドである、というのは納得できる。加えてそのブレイドを持っている者がバスター、というのも自然と理解できることだ。問題は、ブレイドとは何で、バスターとは何者なのか、との点である。ブレイドが普通の大刀でないように、バスターも普通の人間であるとは思えない。アリエルの能力もそうだったが、バスターではないガラティアでもあれほどの能力を秘めていた。本物のバスターとは一体、どれほどのものなのだろう。あれだけの能力を持った人間が、やはり同じ人間であるとは到底に思えない。正真正銘の化け物、なのだろう。
 そして最もカロンの引っ掛かりを増大させる要因は、ガラティアが言ったような気がする「肉体強化」という言葉。もしかしたら聞き間違いだった可能性もある。あのときはアリエルのことだけに必死で、ガラティアの言葉にまで意識を回している余裕がなかったのだ。だが今になって思い返すと、確かにガラティアは、それに似た何かを言ったはずなのである。曖昧な記憶が正しいのであれば、ガラティアは「肉体強化を施された者」と、はっきり口にしたはずなのである。
 肉体強化。そのままの意味で飲み込んでも支障はないと思う。人間の肉体を強化することだ。改造、と呼ぶとまたおかしな方向へ思考が逸れるかもしれないので、強化と考える。そこから思い起こされることは、ガラティアの鋭い腕の筋肉。普通に鍛えたのではあのような筋肉はつかないはずである。あれがもし肉体強化で得た筋肉だとするのなら、あの異常なまでの身体能力にも肯ける。
 しかし、同時にわからない点が浮かび上がる。もし本当に肉体強化なるものが存在するのなら、一体どこにそれを行う場所があるのか。考えられる場所があるのなら、それは政府の施設しかないだろう。故に政府は情報を隠蔽した、と考えるのが妥当か。
 ひとつの仮説を立ててみる。
 まず、政府は肉体強化なる実験を行っており、その実験体になったのがガラティアを始めとするその他大勢の人間である。同時に政府はブレイドと呼ばれるあの大刀も造り出していて、肉体強化で特に優れた者をバスターと名づけ、ブレイドを武器とさせる。その中のひとりが、アリエルの言う「父様」の可能性もなくはない。ブレイドがそうして造られた武器ならば、ガラティアの持っていたスパイラルもそれと同じ要領で造り出された武器のひとつなのだろう。しかし何かの拍子で実験体となった者たちは政府から脱走し、賞金首となった。だから政府はその実験の露見を恐れ、「ブレイド」と「バスター」というふたつの言葉を、情報屋から隠蔽した。
 そう考えれば辻褄が合うと思う。そう考えれば筋が通ると思う。
 だがその考えは仮説の域を出ない。実は真相は全くの逆である可能性もある。何よりも情報が少な過ぎた。政府が人体実験を行っていたのなら、その理由は何だ。武力の向上のためか。それともその向こう側にある何かのためか。加えてもし脱走した者が賞金首となっているのなら、今現在、この世界に蔓延する賞金首は皆、その被害者なのだろうか。そんなことなど一切知らずに、カロンたちは本当の敵を庇って被害者を相手にハントをしていることになる。その結論に辿り着けば、今まで信じていたものが一気に崩れることになる。それがなぜか、無性に恐かった。
 仮説の域を出ない考えが頭の中を回っている。手を伸ばしても掴むことはできず、目の前に転がっていると感じる結論はどれだけ近寄ってみてもその姿を見せない。もはやどうしようもなかった。規模が大き過ぎる、とカロンは思う。いきなり政府の人体実験などの仮説を立てても全く現実味を帯びない。その被害者かもしれない人間をこの目で見たが、現実とは思えなかったあの光景は今になって思えば夢のような気がするのだ。
 そしてすべてを知っている可能性がある唯一の者は今、住処のベットの上で眠っている。
 雨が降って来る前に住処に辿り着いたカロンは、アリエルの眠るベットの横にある椅子に座っていたステファノを見た。
「――アリエルはどう?」
 ステファノは首を振り、
「変わらねえよ。未だに眠ったままだ」
 ベットに近づき、その寝顔を見つめた。
 ガラティア・カリュケと戦った後、アリエルはいつかのように倒れるように眠りに就いてしまったのだ。とんでもない能力を発揮したが故に疲労も半端ではないのだろう、と寝かせたままで退散して来たのだが、あの日から三日間、アリエルは眠ったままだった。起きる気配は微塵もなく、ただ深い眠りに就いている。寝顔だけ見ればすぐに起きて来そうではあるが、頬を引っ張ってみてもどれだけ大きな物音を立てようとも、アリエルは起きなかった。
 さすがのカロンも異常に気づいて医者に診てもらったのだが、やはりただ眠っているだけと診断された。が、それが逆に異様だった。何か別の理由があるのなら受け入れられるが、ただ眠っているだけ、という理由で三日間も起きなければ異常以外の何ものでもありはしない。だがどうしても起きないアリエルに対してカロンたちにできることは何もなく、この三日間はずっとアリエルの様子を見守っていた。
 このまま起きないのではないか。そんな不安が、頭の中を駆け巡っている。
 心配そうな顔をするカロンを見上げ、ステファノは少しだけ間を置いてから、
「お前の方はどうだった? 何かわかったか?」
 今度はカロンが首を振る番だった。
「何も。情報屋にもなかった。隠蔽、されてるのかもしれない」
 仮説の域だが、今はそれが最も可能性があるとカロンは思う。
 その一言だけで、ステファノはカロンと同様の結論に辿り着く。
「隠蔽……できるとすりゃあ、政府だけだろうな」
 カロンが肯く。が、やはり現実味を帯びない。それはステファノも同じなのだろう。
「わかんねえ。だが手掛かりがあるならやっぱり……」
 ステファノが何を言いたいのかを理解する。
「……ディオネ・オフィーリア」
 ガラティアが言ったことだった。
 これからもブレイドを振るうのであればディオネ・オフィーリアに会え、と。ガラティアはアリエルにそう言った。ディオネならアリエルのブレイドに共感する、だから仲間に引き込めと、そう言っていたはずである。それは一体、何を意味しているのだろう。アリエルとは違うブレイドを持った本物のバスターが来るから、その前にディオネを仲間にして力を集めておけ。そう言いたかったのだろうか。アリエルひとりでは勝てないからディオネの力を借りろ、と。
 ディオネ・オフィーリア。カロンが知る中で最も高額の賞金首。1000万の賞金額をその首に懸けられた男だ。780万のガラティアであの強さだった。ならばディオネという男はどこまで強いのだろうか。そんな男が、こちらの力になってくれるのだろうか。それ以前に賞金首などと手を組んで果たしていいものか。もしかしたらカロンの仮説は完璧に外れていて、本当はガラティアたちが政府を滅ぼそうとする作戦の一部にアリエルの力を巻き込もうとしているのではないか。その可能性だってなくはない。信用できる情報が圧倒的に少ないのだ。疑心暗鬼になっても何ら不思議ではなかった。
 アリエルの寝顔を見つめていたステファノは苦笑する。
「肝心のお姫様はまだ眠ったまま。重要な鍵を握ってるこいつが起きないならおれたちじゃあ何の行動も移せねえわな」
 鍵。それはアリエルがベットの毛布の中に引っ張り込んでいる大刀、ブレイドのことを指している。
 ガラティアとの戦闘後、眠りに就いたアリエルだが、その手に強く握ったブレイドだけは決して離さなかった。カロンたちがどうにかして手から離そうと試みたのだが、眠っていてもアリエルの握力は尋常ではなく、結局は無駄だった。アリエルと共にベットにあるそのブレイドの刀身は今、沈黙を守っている。あのときのように光を発することはなく、心臓の鼓動のような音さえもが聞こえて来ない。主が眠りに就いたことから、ブレイドも眠りに就いてしまっているのかもしれない。
「そうだね。……まずはアリエルが起きないことにはどうすることもできない」
 アリエルが起きなければ何の行動にも移すことはできないのである。
 カロンとステファノだけがディオネの所へ行ったとしても、ブレイドを持っていなければ意味はないだろう。アリエルがいてこそ、初めてディオネと会う理由が成立する。これからもこの眠り姫が起きないのであれば、カロンとステファノには成す術はなかった。どうにかして起こす手段はないのだろうか。見ていることしかできないのか。ひとりの少女を眠りから起こすことさえ、そんな力さえも自分にはないのだろうか。自分にできることが他に、何があるというのだろう。ここまで無力な自分だとわかってしまうと、自分自身で自嘲するしかなかった。
 ベットの側に膝を着いて、泣き笑いにも似た表情を浮かべる。人の気も知らないで、なんでこの少女はこんなにも穏やかな寝顔をしているのだろう。初めて会ったときもこんな寝顔してたっけ。あのときも確か、アリエルは疲れたと言って眠ってしまったのだ。今度もそれと同じであると思う。同じであると信じたい。気づけば起きていて、いつもの少しぶっきら棒な口調で「おはよう」なんて普通に挨拶するのだ。そうに、決まっているのだ。
 アリエルの頬に手を添える。せっかく三人でこの場所へ戻って来れたのに、どうしてアリエルの意識はまだ、あの場所に置き去りにされているのだろう。手を伸ばせば届く所に、アリエルはいるのだろうか。この手を伸ばせば、アリエルは気づき、そして掴んでくれるのだろうか。
 仲間だった。カロンとステファノは仲間であり、たったふたりだけの、家族だった。アリエルも同じだ。ここでこうして暮らしているのだから仲間なのだ。誰ひとりとして欠けることは許されない家族なのだ。アリエルは、ここにいなければならない。それなのになんで、アリエルは起きないのだろう。
 頬に添えた手には、しっかりとした体温が伝わって来る。まるで今にも起き出しそうな、そんな感覚。
 ステファノがカロンの内情を察知したのか、ワザと明るく振舞ってアリエルの頬を摘んで引っ張り、冗談口調で、
「こうしたら飛び起きたりしてな。いつだったかこうして起こしてやったら大刀振り回して追っ駆けて来たっけ」
 カロンは精一杯に笑う。
「そう言えばそんなことあったね。いつまでもアリエルが怒ってて、機嫌直すのが大変だった」
「ほれ、起きろじゃじゃ馬。起きねえと、……起きねえと思いっきり引っ張り回すぞ」
 明るく振舞っていたはずのステファノの声が僅かに小さくなる。
 カロンは一瞬だけステファノを振り返りそうになったが、止めた。思っていることは同じである。仲間だからこそ、わかる。ここで振り返っても意味はないのだ。ここで振り返ればおそらく、カロンは自分で自分が抑え切れなくなる。それだけはしてはならないのだ。誰が最も辛いのか。眠り続けることしかできないアリエルか、それともそれを見守ることしかできないカロンやステファノか。その問いは果たして、どちらに転がるのだろう。
 摘んだアリエルの頬を無造作に引っ張り回すステファノの手から視線が外すことができない。こうしていれば、今にもアリエルが起きるような気がした。
 気がしたのだが、実際にそうなってみると物凄く反応に困った。
「え……?」
「ぬ……?」
 ふたりが揃って間抜けな声を出して見つめるそこで、アリエルが目を覚ました。
 極自然に、目を覚ましたのだ。ステファノに頬を摘まれたままでむくりと起き上がり、寝惚け眼で辺りをくるくると見回し、カロンとステファノを見つめて初めて頬を摘まれていることに気づき、不機嫌そうに手で振り払い、見計らっていたかのような「ぐぅぅ」という腹の音と共に、アリエルは第一声をこう言った。
「――カロン、お腹へった」
 反応に、物凄く困っていた。
 起きるような気がした。起きて欲しいと望んでいた。が、こうもあっさりと起きられると実際は反応に困るものであることを、カロンは今になって知る。先ほどまで泣きそうになっていた自分の思考は何のためのものだったのだろうか。もっとこう、感動的な目覚め方ならば抱き寄せて涙を流して「良かった」と号泣できたかもしれない。しかしいつも通りに起きて、最初の一言がいつもと同じ「カロン、お腹へった」では号泣することなどできるはずもなかった。
 呆然とする以外に、反応の仕方をカロンは知らなかった。
 いつかのように、同じことを再び言われる。
「カロン、お腹へった」
 それでも動くことができないカロン。
 この少女は、一体、何者だ。初めて出会ったときよりも強くそう思う。先ほどまで三日間眠りっぱなしだった者だとは到底に思えなかった。これでは昼寝して起きた程度ではないか。本当に、さっきカロンが考えていたことは一体何だったのだろう。何のためにああも必死に考え込んでいたのだろう。こんな元気で普通通りの起き方ができるのなら、なんでもっと早くに起きなかったのか。そうすれば変な心配なんてしなくて済んだのだ。まったくもって人騒がせなお姫様である。まるでこちらの心配など考えていない。アリエルらしいと言えばアリエルらしいのだが、もうちょっと時と場合を考えて欲しいものである。
 アリエルが不思議そうに首を傾げ、そっと右手をカロンに、左手をステファノに差し出して来た。
 その手はふたりの目元で止まり、拭うような仕草を見せた後、アリエルはこう言う。
「カロン、ステファノ。……なんで泣いてる?」
 そう言われて初めて、泣いていることに気づいた。
 ようやくまともな反応ができた。
「え、あ、なっ、なんでもないよっ! ちょっとゴミが入っただけ」
 ステファノも我に返り、
「あ、ああっ、砂嵐が部屋の中で巻き起こっただけだ。そうだ、お前腹へったんだったな。今日は特別におれが何か作ってやるからちょっと待ってろ」
 台所へとステファノが消えて行く一瞬、アリエルがふと真面目な顔で、
「ちゃんと食べれるものがいい」
 ステファノが笑う、
「当たり前だ。とびきり美味えやつ作ってやる」
 完全に台所へ消えたステファノの気配を見つめ、アリエルは不可思議そうな顔をする。
 いつものステファノなら「食えるに決まってんだろっ!」と怒鳴るところである。だがそれをしないとはどういうことなのか、アリエルにとっては心底不思議なのだろう。しかしカロンから言わせれば当たり前の言葉だった。今のアリエルに対して、怒鳴れるはずはないのだ。アリエル自身がどう思っているのかはわからないが、先はカロンもステファノも、安心し過ぎるあまりに無意識の内に泣いていた。それほどまでに大切だと思う仲間がようやく帰って来たのだ。怒鳴れるはずなんて、なかった。そんなことなど露知らず、アリエルは何か企みがあるのではないかとひとりで寝起きの頭を働かせている。
 そんなアリエルを見て、今度は笑ってしまった。あまりの愉快さに涙まで出て来た。
 アリエルは笑い転げるカロンを見つめてむっとし、
「なんで笑う?」
 いつか聞いた言葉だった。
 返す言葉はもう、決まっていた。
 カロンはアリエルの頬に手を添え、これでもかというくらいに微笑み、つぶやく。
「――おかえり、アリエル」
 きょとん、とアリエルの動きが止まる。
 やがて首を傾げながらも、
「……ただいま?」
「うん。おかえり、アリエル」
 笑うカロンと釈然としない顔のアリエル。
 アリエルの長く綺麗な髪をぐしゃぐしゃと掻き回すように撫でてやる。最初は嫌々をするように首を振っていたのだが次第に楽しくなってきたのか、ステファノが作ったばかりのお粥を持って来る頃には、アリエルは声を出して笑っていた。が、「おお、なんか楽しそうなことやってんじゃん」とステファノがそれに参戦しようとするとアリエルはすぐに逃げ出し、先ほどの態度が持続しているものだと勝手に思い込み、「お腹へった。ステファノは遅い。作るのはやっぱり下手」などという暴言を吐いた。
 ステファノは、もはや先までのステファノではなかった。いつも通りのステファノがそこにはいて、震え出した三秒後には怒鳴りながらアリエルを追い駆け回し始める。ころころと態度の変わるステファノに困惑しながらも逃げ惑うアリエル。そんなふたりを見つめながら、カロンはもう一度だけ、笑った。この三日間が物凄く長く思えていた。アリエルとステファノの追いかけっこを見るのも随分と久しぶりのような気がする。取り戻せた仲間だった。取り戻せた日常だった。問題はまだ何も解決してはいないが、今はそれがただ、どうしようもなく大切に思えた。
 カロンが見つめているそこで、追い回されていたアリエルが唐突にその場に倒れた。度肝を抜かれたのはステファノも同じだったのだろう。慌ててアリエルに近寄って抱き起こし、「お、おい!? なんだ、どうした!?」と必死な顔で様子を窺っている。カロンもすぐさま近寄ると、アリエルは少しだけ不機嫌そうな顔で「……体が上手く動かない」とつぶやく。三日間も眠りっぱなしだったのだ。いきなり走ったのでは足が縺れて当然なのだろう。
 動き回りたがるアリエルを無視してステファノがベットに運び、今はカロンがお粥を食べさせている。
 ようやく落ち着いた時間が降り立っていた。
「――それでだじゃじゃ馬。最初から全部、説明してもらおうじゃねえか」
 ステファノがそう言うとアリエルはお粥を食べながら睨みつけ、
「じゃじゃ馬じゃない」
 カロンは苦笑しながら、
「アリエル、知っていること話してくれる?」
 今度は反抗することなく、アリエルはカロンを見つめた。
「何のこと?」
「ブレイドとバスター。それって、何?」
 アリエルに変化球は通用しない。故にカロンは、単刀直入にそう訊いた。
 てっきり知っているものだと思ったのに、アリエルは首を傾げて頭の上に「?」を浮かべる。わからなかったのはカロンとステファノも同じだった。アリエルの表情を見る限りでは本当に知らないように思える。どういうことだ、とカロンとステファノは互いに見合う。アリエルが知らない言葉なのだろうか。ならばなぜ、アリエルがこのブレイドを持っているのか。アリエルの言う「父様」という男が、バスターではないのだろうか。
 カロンは訊き方を変える。
「じゃあ、なんでアリエルがブレイドを持ってるの?」
 アリエルはそこで初めて大刀がブレイドであることを理解したかのような顔をした。
 大刀をそっと持ち上げ、
「これは父様から預かってる。何かは知らない。わたしが一人前に成ったら返しに来いって父様は言ってた。だからわたしはこれと一緒に戦ってる」
「ちょっと待ってよ。その父様って人はバスターなんでしょっ?」
「知らない。父様は父様」
 アリエルは本気で言っていた。
 ブレイドやバスターという単語について、唯一の手掛かりであるはずのアリエルは何も知らなかった。おまけにガラティアの戦闘を行ったことについてもほとんど憶えていなかった。唯一憶えていることと言えば、「……これが光って、それで身体が軽くなって……。…………?」だけだった。つまりは無意識の内に戦ったということなのだろうか。それともあれは確かにアリエルの意志で戦っていたが、疲労のあまりに憶えていないだけか。もしくはそのどちらとも考えられる。そして戦闘どころか、アリエルはガラティアと会話したことさえロクに憶えていなかった。
 まず、カロンは説明から始めなければならないと思う。この大刀がブレイドと呼ばれ、それを持つ者がバスターと呼ばれること。ブレイドが光った瞬間からアリエルが恐ろしく強くなったこと。そのアリエルがガラティアを討ち倒したこと。ガラティアが最後にアリエルに伝言を託したこと。そしてガラティアが、ディオネ・オフィーリアに会えと言ったこと。それらをできるだけ詳しく、アリエルに説明した。アリエルはただ長い間、何も言わずに考え込んでいた。その思考にどれだけの意味があるのかはわからないが、それでもカロンたちはアリエルの答えを待った。
 が、アリエルから紡がれた言葉がやはり、はっきりしたものではなかった。
「……どうすればいい?」
 それはアリエルが決めなければならないことだ。
 当事者はカロンでもステファノでもなく、アリエルなのだから。
「アリエルはどうしたい?」
 訊き返すカロンに、アリエルはまたもや考え込み、やがて、
「……ディオネに、会う。よく憶えてない。でもガラティアは父様を知ってた。だからディオネに会う」
 決まりだった。
 止まることはできない。ここまで足を突っ込んだのであれば、首まで突っ込んでやろうとカロンは思う。
 ステファノも同じだった。
「だったら会いに行くか、ディオネに。たぶん、おれらの知りたいことが全部わかるはずだ」
 情報を持っているはずだった。
 ブレイドとは何か。そして、バスターとは何者なのか。
 それを知るために、ハントをするのではなく、カロンたちはディオネに会うためにそのアジトへ向うことを決めた。

 アリエルが目覚めて、カロンの内情は晴れたはずなのに、外ではいつしか、
 ――雨が、降り始めていた。

     ◎

 雨の勢いは留まる所を知らず、四日間もの間、休むことなく降り続けた。
 しかしちょうどいい時間だったのかもしれない。雨の中を進むことは避けたかったし、何よりもアリエルが本調子に戻るまでの時間が必要だったのだ。起きたばかりの頃は激しい運動をするとすぐに足を縺れさせていたのだが、四日間も経てばアリエルの体力や身体の動きも通常時に復帰し、部屋の中でカロンやステファノの注意と迷惑を無視して大刀を振り回していた。
 そして今日の朝になると降っていた雨はすっかり上がっていて、空には雨雲に代わって太陽が輝いていた。
 一応はいつものハントに出掛ける用意をして、カロンとステファノとアリエルは住処を出る。ぬかるんだ道を歩くたびにカロンとステファノは泥が撥ねることに顔を顰めるのだが、アリエルだけはなぜか嬉しそうにバシャバシャと泥を撥ね回してふたりにとても迷惑がられていた。途中で見つけたアイスクリーム屋で三人揃ってアイスクリームを食べ、落ち着いた頃に再び歩き出す。
 ディオネのアジトがあるのは市街地から離れた森の中である。ガラティアのアジトがあった場所から差ほど遠くない。しかしその二人のアジトを別つように間には大きな渓谷があって、そこが境界線みたいなものなのだ。ガラティアの部下は一人一人が真っ向からの肉弾戦を得意とすることに対して、ディオネの部下は自然の利を武器にしたチームワーク主体のゲリラ戦を得意とした。渓谷を越えればそこはもうディオネの縄張りであり、自然と一体化したその部下が敵を待ち構えていることは十分に考えられる。
 しかし今回はディオネの首や宝を目的に行くのではなく、ディオネ本人に会って話をすることを目的に行くのだ。
 無駄な戦いなどはしないに越したことはないので、もし万が一にディオネの部下と遭遇した場合はすぐさま「ガラティア・カリュケの名指しでディオネ・オフィーリアに会いに来た」と叫ぶことが住処を出る前に決められた事項である。加えてアリエルにも誰かの身に危険が及びそうになるまでは決してブレイドは抜かず、仮に抜いたとしても相手を殺すことは絶対にしてはならないと言い聞かせた。しっかりと肯いたアリエルだったが果たしてどこまで聞いているのか、カロンにはやはりわからない。
 森に入ると同時に渓谷を目指し、それに沿って一行は向こう岸に渡れる場所を探す。
 途中でステファノが冗談でアリエルを渓谷に落とそうとすると、アリエルが本気で怒ってステファノを本当に渓谷に叩き落すというアクシデントが発生した。絶壁に生えていたツルを掴んで何とか九死に一生を得たステファノだったのだが、それからはいつかのように険悪な雰囲気がカロンを両側から挟み込んでいた。その険悪な雰囲気はカロンが濡れた地面に足を滑らせて遥か下まで滑り落ちるまで続き、爆笑し続けるふたりはいつまで経ってもカロンを救出しようとしなかったのには珍しく物凄く腹が立って、しばらくはカロンが誰とも口を聞かず、ステファノとアリエルが慌てて機嫌を取っていたのが新鮮な光景であった。
 雨の降った後の森は歩くのには最悪な環境だったが、視界にはるそれは綺麗だった。
 木々の隙間から射す太陽の光が水滴に反射して輝いていたし、風が吹き抜けるたびに角度を変えた水滴が虹色を発していた。そんな中で食う弁当の味はどこか格別で、一瞬だけ当初の目的を忘れて単純なハイキングにでも来たような気分になっていた。今に抱えている問題が解決したら今度はちゃんとしたハイキングにでも来ようかとカロンが主張すると、ステファノは即答で賛成し、アリエルも楽しそうに肯いた。
 やがて下が見えない渓谷沿いに歩き続けていると一本の橋が見えて来る。木製の今にも壊れてしまいそうな橋だった。最初に誰が渡るかということで揉めたのだが、最初は死んでも死なないはずであるステファノに無理矢理決まり、次はどちらに転んでも上手い具合に働いてくれるであろうアリエルで、最後は腰抜けのカロンだった。ステファノとアリエルがグラグラと遠慮なくに揺らして歩いて行く橋の上、カロンは引けた腰を必死に動かしながら渡って行く。
 橋を渡り切ればそこはもう、ディオネの縄張りだった。
 いつどこからその部下が奇襲をかけて来るかわからないこの状況では一瞬の油断もできず、最も効率のいい陣営を考えると自然に先頭は攻守完璧なアリエルが歩き、最後尾を運動能力の高いステファノが見守り、真ん中を凡人のカロンが行く、という形になる。その理由には不服満々のカロンだったが、ステファノに上手い具合に丸め込まれて結局はそうなった。
 ディオネの縄張りに入ってしばらく歩いても敵の気配は感じられない。ゲリラ戦を得意とするディオネの部下ならば、カロンたちが二度目の休憩を取った場所辺りでそろそろ仕掛けて来てもいいはずなのだが、いつまで経っても遭遇できなかった。試しに「ガラティア・カリュケの名指しでディオネ・オフィーリアに会いに来た」と森の中で叫んでみたのだが反応はなく、ただ虚しいだけで終わる。
 休憩も終わり、三人が歩き出す前に同じような深呼吸を繰り返す。
 雨に濡れた草木の匂いは、単純に心地良かった。
 その臭いに最初に気づいたのは、やはりアリエルだった。
「――……カロン。ステファノ」
 次いでカロンとステファノも気づき、深呼吸を止めて静かな森の奥底を見据えた。
「……何か、起きてるみたいだね」
「どういうことだ? どっかのトレジャーかハンターが先に邪魔してんのか?」
 その可能性もなくはないが、基本的にトレジャーやハンターは単独で行動することが多い。
 カロンたちのような例外もあるにはあるが、己が力に固執する者が圧倒的に多いのがトレジャーやハンターなのだ。だから賞金首の元に向うときは大概が独りなのである。しかし独りだとするのならおかしい。この臭いは独りの人間のそれが発するものではない。ディオネの部下のものである可能性もあるが、ガラティアであれだったのだ、ディオネやその部下がそんじょそこらのトレジャーやハンターの手に負えるような相手ではないだろう。だがそれならば、これは一体どう説明したものだろうか。
 濡れた草木の匂いに混じって漂うそれは、鮮明な血の臭い。
 それも一人や二人のものではなく、もっと大量の人間の血が流れた臭い。そうでなければここまではっきりと感じ取れるはずはない。まるで大気中に充満して鼻の奥にこびりつくような、そんな臭いだ。単独で行動するトレジャーやハンターが殺されて流れて漂う血の臭いとは比が違う。殺す、なんて生易しい表現ではこれほどまでに異臭な感覚は漂わない。これはもはや、虐殺と呼ぶに相応しい臭いである。そして同時に、血の臭いを感じ取っただけで、この先で何かが起こっているのだとカロンたちに思わせるのは十分過ぎだ。
 様子を窺わなければならない。そうなるとやはり、隠密に向くのはトレジャーであるカロンとステファノだ。
 カロンはアリエルを振り返り、
「アリエルはここにいて。ぼくとステファノが様子を見て来る」
 わたしも行くとアリエルが言い出す前に、カロンとステファノは「絶対にそこにいろ」と声を合わせて忠告し、森を駆け抜けた。
 アリエルと別れた場所から奥に進むに連れ、鼻につく血の臭いの濃さがさらに膨れ上がって行く。気分が悪くなる。吐気を抑えてカロンは必死に走り続ける。気を抜けばすぐさま、胃の中のものが逆流して嘔吐しそうだった。遠くてもあれだけの異臭を放っていたのだ。これだけ近づいた今ではもはや、一体どれだけの人間の血が流れているのかは想像もつかない。これほどまでに密度のある血の臭いを、カロンは今までに嗅いだことがなかった。
 嘔吐感が限界に達しそうになったとき、ようやく最終地点に到着した。
 カロンとステファノは互いに一本の木に背を預け、込み上げる嘔吐感を荒い呼吸で抑え込み、ゆっくりと目を合わせて肯き合う。
 木の幹から顔を出して、それを見た。

 血の海、という表現がこれほどまでに似合う光景を、カロンは他に知らなかった。

 木々が大きく円状に切り開かれた場所があり、中心部に建っている古い城のようなものがディオネのアジトなのだろう。そのアジトを守る命を受けていたはずのディオネの部下とカロンたちが遭遇しなかったことについて、やっと納得が行った。遭遇しなかったのではなく、遭遇できなかったのだ。なぜならディオネの部下は皆、ここに集められているのだから。軽く見ても百人以上はいる。森と同じ色の服を着込んだ男たちが、全員が全員、地面に寝転がっている。それだけを見れば本当に寝転がっているだけだったのかもしれない。
 しかし、男たちが寝転がっているのは普通の地面ではなく、どす黒い血液に染まった地面だった。
 よくよく見れば男たちの中には手足がどこかに弾け飛んで見当たらない者や、首や胴体が切り離された者、果てには臓器をぶちまけたまま城の壁に減り込んでいる者もいる。上空にあるものが輝く太陽と透き通る青空なのが逆に凄惨な光景だった。地獄絵図、というものがこの世にあるのならこれを言うのだと思う。これほどまでに血の海という表現が似合う光景も、これほどまでに徹底的に人間が殺された光景も、カロンは他に知らないし、見たこともなかった。震えながらに辺りを見回し、胴体から切り離された首がこちらを見ているのと目が合ったときにはもう、臨界点は突破されていた。
 その場で嘔吐した。胃の中のものがすべて逆流する。胃液の酸に鼻がやられて涙があふれ出す。
 目の前にある光景を、脳が拒絶していた。
 震えが止まらない身体を庇うこともせず、その場に膝を着いてカロンは何もかもが夢だと思い込む。
 こんな光景が、存在していいはずはなかった。
 声が聞こえたのは、そのときだった。
「……な、んで……あんた、なんだよ……?」
 見たくもないはずなのに、体が反射的に振り返っていた。
 そこで初めて、血に染まるその中に、城の城壁に背を預けて立っている男と、その男に対峙しているもう一人の男がいることに気づいた。
 壁に背を預けて絶望に塗り潰された顔をしている男を、カロンは見たことがあった。リストで何度も見た顔である。カロンが知る中で最も高額の賞金額をその首に懸けられている男。今日、ガラティアに言われてこの場所にカロンたちが訪れた理由。壁に背を預け、絶望に塗り潰された表情を浮かべ、手に持った細身の剣の標準が定まらず、目の前の男を見つめてただ震えている男こそが、1000万ウェルの賞金首、ディオネ・オフィーリア。
 今度は叫び声だった。
「なんでよりにもよってあんたなんだよッ!?」
 ディオネに対峙している男。その男を見たとき、というよりも、その男が手に持っているものを見たとき、すべてにおいて合点が行った。
 恐ろしいまでの強靭な筋肉の鎧に包まれたその男が手に持つ大刀は、アリエルの持つ大刀と全く同じ形をしていた。唯一違う所があるのならそれは、刀身に刻まれた刻印の模様と、そこを通って広がる何か。アリエルのように眩いばかりの光ではなく、酷く醜く輝く黒い何かであること。それが何かはわからない。あんなものを見たことすらない。しかしアリエルの大刀同様に、鈍い光を発しながらその黒い何かは刻印を血管の如くに流れている。このときになってようやく、錯乱するカロンの頭に鼓動が響いて来た。アリエルの大刀と同じく、心臓の音に酷似した鼓動だ。
 ――あの大刀もブレイド。そしてあの男が、本物のバスター。
 それを飲み込むのに、時間は不要だった。情報の認知を拒絶していた脳が、勝手に働いていた。
 ディオネが震えながらに手を振り被り、叫ぶ。
「我らは同志! そう言ったのは他の誰でもない、あんただろッ!?」
 バスターは言う。
「左様。我らは同志だ。……否、同志『だった』んだ」
「何を、言ってんだよあんたは……ッ!?」
「このおれを見縊るなよディオネ。お前は我らと志同じくした同志だったはずだ。だがお前はおれたちを裏切った。今のその力を糧に、お前はおれたちの敵であるはずの政府に寝返ろうとしていた。お前は、あの男と同じことを繰り返そうとしたのだ。……言い逃れは不要。聞く気はない。もはや問答すらも無用だ。お前の行動は、――万死に値する」
 バスターがブレイドを振り上た。
 響き渡っていた鼓動がさらに大きさを増した刹那、それに割って入るかのように小さな鼓動が聞こえる。その鼓動が、ディオネの手に握られていた細身の剣から聞こえているのだと気づいたのはいつだったのだろう。そして気づいたときにはもう、ディオネは背後の壁を粉々に砕いて消えていた。崩れ落ちる城壁の中、ディオネが音を感じさせない速度で空間を移動する。それは、ガラティアの比ではなかった。それよりも遥かに速い。離れて見ていたはずのカロンでも、目で追うことさえできなかった。
 なのに、
 振り上げられていたバスターのブレイドは、苦もなく横一線に振り抜かれ、見えないはずのディオネの姿を完璧に捕らえた。
 肉を切断する音が聞こえた瞬間、ディオネの体が数十メートルは離れた場所にある木々に激突し、何の声も発することなくに倒れる。その脇腹が半分以上も切り裂かれ、背骨でどうにか繋がっているように見えたのは見間違いではあるまい。黒い何かを流す大刀がゆっくりと元の位置に戻され、木々の真下に這い蹲るディオネを見下げ、バスターは笑う。
「欠陥だらけの肉体が模造品を手に何を抗う。模造品如きが、本物に敵う道理はない」
 一瞬の間、片手で握られていたブレイドがカロンたちの方向へと振り抜かれた。
 衝撃波にも似た何かが空間を切り裂き、カロンとステファノが身を預けていた木を含めた辺りの木々の幹に一閃の線が入り、一秒後に盛大な音と振動を響かせて地面に倒れ込む。頭の僅か上を正確に斬り抜かれた。あのバスターがそう狙ったのだと本能が告げていた。死ぬかと思ったと、そんなまともな思考すら働かすことができなかった。
 指一本動かせないカロンとステファノがいる木々を見据え、バスターは言った。
「姿を見せろ。鼠を駆除するほどおれは暇ではない」
 暗示のようなものだった。出て行くしか術はなかった。
 出て行かなければ次は首を斬り落とされると、理解していた。
 カロンとステファノは必死に一歩を踏み出し、バスターの視界に入る。
 しかしバスターはもうそこにはおらず、気づけばカロンとステファノの背後にいた。
 気配が、なかった。
「――お前ら、トレジャーか。ここは鼠風情が足を踏み入れていい場所ではない」
 驚くことさえできなかった。まともな思考や行動がすべて、麻痺していた。
 バスターだけがその場を支配し、言葉を紡ぐ。
「だが手間が省けた。鼠共、訊きたいことがある」
 カロンたちは返事を返すこともできず、そしてバスターもそれを待たなかった。
「ガラティア・カリュケを殺したハンターを知っているか。大刀を振るう、幼き少女のハンターだ」
 ――アリエルのことだ。
 瞬間に理解した。ここで僅かにまともな思考が湧き上がり、必死に隠し通すことを脳が訴える。
 バスターの問いに返事をすることなく、首を振ることもなく、ただ何も知らず怯えているトレジャーを演じ続けた。いや、演技など一割ほどもしている余裕などありはしなかったのが本当の所だった。もはやそのような次元の話ではない。恐怖のあまりにすべてを話しそうになっている自分自身を必死で抑え込むだけで精一杯だった。
 束の間の沈黙、背後でバスターは笑う。
 すべてを見透かしたような笑い声だった。
「今回だけは見逃してやる。だがお前たちが大刀を振るう幼きハンターに会ったのなら伝えておけ」
 頭の中に、巨大な鼓動が響いた。
「バスターたり得る者。ビアンカ・アトラスがお前を殺す、と」
 瞬間にバスターの気配が背後から消えた。
 呼吸の仕方を忘れていた。恐怖が喉の奥に詰まっているような気がする。
 有り得るはずはなかった。有り得ていいはずはなかった。
 あれが、バスターと呼ばれる者。あんな人間が、いるはずがなかった。
 そしてカロンは、ビアンカ・アトラスという名を、いつかどこかで聞いたことがある。だがいつのどこで聞いたのかが思い出せない。奥底に眠る記憶の中の何かが、その名を拒絶していた。
 聞いたことがある名前、見たことがない惨状、感じたことのない恐怖。
 今はそれだけに、身体が支配されていた。
 バスターが消えてからも、しばらくは指一本すら動かせなかった。





     「誰がために振るう刃」



 ――ビアンカ・アトラス。
 その名を情報屋を通して調べてみてもらったところ、「ブレイド」や「バスター」という単語のときとは違い、はっきりとした検索結果が出た。受け付けの窓口に戻って来た女性から一枚のリストを手渡され、それを眺めて初めて、奥底に眠っていた記憶を思い出した。
 カロンがトレジャーになった日、この名前を聞いたことがあった。禁忌の名だった。
 トレジャーやハンターを目指す者にとって、絶対に脳裏に焼きつけておかねばならない名前。あれは確か、カロンとステファノがトレジャーになった日に雰囲気を出すため酒場へ赴いたときだ。隣の席に座ったハンターと名乗った酔っ払いのおっさんに、一枚のリストを見せられたことがある。あの頃のふたりは賞金額の何たるかをあまりよく理解しておらず、その賞金額の大きさを見ても大した反応は見せなかった。ただ「すごい」と、そう言ったのを憶えている。そしてその酔っ払いのおっさんは言ったのだ。この賞金首に遭遇したら何を置いてもまず逃げ出せ、いや、逃げ出すことができるのなら逃げ出せ、まあ無駄だろうなげははははは、と。
 しかし年月が流れてカロンたちは賞金額の何たるかを知り、実力に合わないと踏ん切りをつけて500万ウェル以上の賞金首に見向きしなくなったのはいつからだろう。だがそれが間違いであるとは思っていない。その考えがあったからこそ、カロンは今日まで生きているのだ。だから500万の賞金首がこの近辺では僅か三人しか存在していないことも知らなかったし、1000万のディオネになんてステファノの冗談以外には見向きもしなかった。
 500万の賞金首にすら興味を示さなかったカロンは、いつしかおっさんの見せたリストのことを完璧に忘れていた。
 忘れても支障がなかったのだ。普通にトレジャーをしている分では絶対に遭わないだろうし、そんな賞金首に対して怯えるのも馬鹿馬鹿しかった。そのような賞金首と遭遇するはずはないと高をくくっていた。実際にこの数年間、一度も遭わなかったのだ。忘れてもいい賞金首のはずだった。同時に、心のどこかで忘れたがっていた自分がいた。恐かったのだ。こんな賞金額のつく賞金首がこの世界にいることがただ、恐かった。怯えることはしたくなかったから、忘れることにした。記憶の奥底に突っ込んで、そこにカロンでは開けることのできない鍵までつけたのだ。
 だがその鍵は、絶大な恐怖と一枚のリストによって開放された。
 禁忌の名。トレジャーだろうがハンターだろうが、例え賞金首であろうとも手を出してはならない相手。もし万が一に遭遇したら逃げ出すことはすべての人間においての暗黙の掟。780万のガラティアでさえ、人間の比ではないくらいに強かった。1000万のディオネの動きなんて離れて見ていたのに目でも追えなかった。なのにあの男は、一瞬ですべてを終らせてしまった。そんな男に、普通の人間が挑んでいい資格など、ハナクソほども存在しない。
 リストに表記されたビアンカ・アトラスという男。
 恐ろしいまでの強靭な筋肉に包まれた肉体、獣のように獰猛な眼、何の躊躇いもなく振り回された大刀、百人以上の人間を徹底的に虐殺した力。圧倒的だった。あんな人間がいることなど納得できなかった。脳がはっきりと拒絶の色を示している。酷く醜く輝く黒い何かをブレイドに流し込み、アリエルのそれよりも遥かに大きな鼓動を発し、あの男は昨日、確かにカロンの真後ろにいたのだ。未だに自分が生きているのだということが信じられない。
 ――ビアンカ・アトラス。
 それは、今現在蔓延している賞金首の中で、最も高額の賞金額を懸けられた者の名。
 その賞金額、実に5000万ウェル。もはや、住む次元が違う怪物だった。

     ◎

「――どうして逃げる?」
 アリエルのその問いに、カロンとステファノはついに答えることができなかった。
 住処のベットの上でブレイドの柄を肩に掛け、アリエルは荷物の用意を整えるカロンとステファノを不機嫌そうに見つめている。それでもその視線に気づかないフリをして、カロンたちは次から次へと大きなリュックの中に必要最低限のものを突っ込んで行く。またここに戻って来れる機会はあるかもしれないから、食器などは置いておくことにする。とりあえずの食料とハントする際に必要になるもの、加えて床板を捥ぎ取ってそこに隠してあった大きな袋の中にぎっちりと詰まっていた金を持ち出す。
 最初はちっぽけなものだったが、アリエルが仲間になってからは随分と多くなったものだ。これだけあればあと数年はハントをせずとも普通に暮らせるはずである。これからのことは、どこか落ち着ける場所を探してから考えよう。他に必要なものはあっただろうか。だがもし何か必要になってもどこかで買えば済む話なのである。荷物を多くし過ぎると有事の際に行動できなくなってしまう。それでは意味がない。
「――どうして逃げる?」
 再び紡がれたアリエルの問いに、やはり答える声はない。
 最初に逃げ出そうと言ったのがカロンかステファノのどちらだったかは憶えていない。ただ、どちらともなくにもうここにいられないと言い出した。あのバスターは、ビアンカ・アトラスはおそらく、すべてに気づいている。カロンとステファノがアリエルを知っていることを、あの男は絶対に気づいているはずなのだ。見透かしたようなあの笑い声が物語っていた。だからここにはいられない。ここにいれば遅かれ早かれビアンカは必ずここに辿り着く。そうなってしまってはもはや手遅れなのだ。
 選択肢は、この住処を出て行く以外になかった。
 逃避行を行うしか道はない。同じ場所を起点にしていれば必ずビアンカは嗅ぎつける。何を賭けてもいい。同じ場所に居続けるのは危険、故に点々と行動しながらの逃避行だ。ここまで首を突っ込んでしまったのはカロンとステファノである。今さらにアリエルを見捨てることなど当たり前のようにできず、そして見捨てないのであれば共に逃げ出すことしかできなかった。
 アリエルはビアンカ・アトラスと戦うと言った。
 無理に決まっていた。あの男はガラティアの比ではない。ディオネすらも一撃で斬り落とした男なのだ。今のアリエルが敵う可能性は僅かにも存在しない。あの男を相手に希望を見出しても意味はない。カロンとステファノは、直にあの男の強さを目の当たりにし、脳髄に恐怖という名の刻印を叩き込まれた。抵抗はできなかった。指一本すらも動かせなかったのだ。戦わなくても、如何にアリエルが恐ろしい力と能力を秘めていたとしても、ビアンカ・アトラスには決して勝てない。それはもう、明白な事実だった。
 ついには叫び声が聞こえた。
「どうして逃げる!? どうして戦おうとしない!?」
 身を乗り出してそう訊ねて来るアリエルに対して、ついに我慢できなくなった。
 カロンはテーブルの上にまとめた荷物の口を閉めながら、アリエルに視線は移さずに言う。
「……よく聞いて、アリエル」
 どうすることもできないことが、この世界にはある。
「アリエルはぼくたちの仲間だ。あの日から、アリエルがここにいるって言ってから、ずっと」
 仲間だからこそ、失いたくない。
「アリエルの力の強さをぼくたちは知ってる。でもあのバスターは、……ビアンカは、違う」
 中途半端な力を持つことがどれほど恐ろしいことであるのかを、初めて理解した。
「あいつとだけは戦っちゃダメなんだ。どんなことをしても、絶対にあいつには勝てない」
 次元が違う。住む世界が違う。力の差云々の話ではない、もっと別次元の話だ。
「……アリエルを死なせたくない。仲間を失いたくないんだ。だからお願いだ、アリエル」
 あの男からアリエルを守れるだけの力は、当たり前のようにない。だったら、逃げるしか方法はない。
「言うことを聞いて。戦うことだけはしちゃダメなんだ。あいつは、正真正銘の怪物だ」
 アリエルからの返答はついになかった。ただブレイドの柄を握り締める音だけが、虚しく響いていた。
 荷物の整理は滞りなく終わり、俯くアリエルの手を引いて住処を出た。ドアに鍵を掛ける一瞬、カロンはここで過ごして来た数年間を思う。ステファノと一緒に廃墟寸前だったここを買い取り、かなりの月日を懸けて人が住めるようにリフォームして、ここを起点としてハントを繰り返した。ふたりだけの仲間で、ふたりだけの家族だった。この住処が、何にも代え難いものだった。
 そして長い年月を経て、この輪の中にアリエルが加わった。これまで以上に楽しかった。ステファノとアリエルのやり取りを見ているだけで暖かい気持ちになった。失いたくはないと、強く願う。この輪が乱れないことだけを、強く望む。例え家を捨てても、この輪が残っていればそれだけでいいと、そう思えるようになったのだ。失ってたまるか。あんな怪物に、この輪を乱されてたまるか。逃げてやるのだ、どこまでも、どこまでも。果てのない逃避行の始まりだ。
 いつものハントに出掛けるような騒がしさはなかった。道中、カロンは愚か、ステファノさえもが口を開こうとはしなかった。先を歩くカロンとステファノの後ろをアリエルが俯きながら歩いて行く。この沈黙が気にならない、と言えば当たり前のように嘘になるのだが、それでもこの沈黙を破る術を、カロンは知らない。いつものようにカロンがドジをしてもきっと、今のふたりは笑わないだろう。カロン自身がそうしても笑えないのだがら無理はない。もはやどうしようもないことだった。
 目的地はなかった。ただ、この市街地から離れようと思った。どこか遠い場所の街に辿り着いたら少しだけ休んで、また出発して別の街に辿り着く。そんなことを繰り返しながらの逃避行である。終わりはきっと見えないのだと思う。あのビアンカ・アトラスがこの世界にいる限り、これまでのように本当に明るい時間は過ごせないのだと思う。しかし今のカロンたちには、それ以外に取るべき手段がないのも事実である。
 すべての人間においての暗黙の掟。遭遇したら逃げ出すことが決められている男に、カロンたちは狙われているのだ。立ち向かうことは到底にできない。本当の意味で笑いたいのであればビアンカを打ち倒す以外に方法はないだろう。だが、打ち倒すことができないのだ。不可能と言える。幾らアリエルの力が強くても、あの男は簡単にその上を行く。尋常ではなかった。あんな人間がいていいはずがなかった。
 黒く輝くブレイド。恐ろしく強いバスター。
 ブレイドとは何で、バスターとは何者なのか。それはもはや、考えることすらしなかった。
 考えることは無意味だった。考えても答えは出ないだろうし、考えれば嫌でもビアンカのことを思い出す。脳髄に叩き込まれた恐怖が浮上するのが何よりも恐ろしかった。忘れようと心に決めた惨状が瞼から離れなくなってしまう。血の海に佇むバスターの姿は、一刻も早く忘れなければならないものだった。自分が情けないと思う。だけどどうしようもないことがある。非力な自分に、あんな怪物に挑んでいい資格などはやはり存在しないのだろう。それはもちろん、ステファノも同じだった。同じ人間であるステファノが、怪物に挑めるはずはなかったのだ。
 唯一、その資格を持っているのだとするのならアリエルだ。しかし結果は目に見えている。幾らアリエルがその資格を持っていても、ビアンカには勝てない。見す見す仲間を死なせるわけにはいかなかった。嫌われてもいいと思った。それでもアリエルには生きていて欲しかったのだ。どのように思われても生きていればきっと打開策が見つかる。でも死んでしまえばそれまでなのである。生きていて欲しかった。仲間だけは、失いたくなかった。
 市街地を出た。人の気配のない一面に広がる荒野へと足を踏み出して、無言のままで歩き続ける。
 このときになってもまだ、カロンは最初から踊らされていたのだと最後まで気づかなかった。
 愚かしくも、先手を打った気でいたのだ。
 後になって思えば、すべては掌の上で起こっていたことなのだろう。カロンたちがアリエルを知っているのなら、仮に共にいた仲間だとするのなら、近い内に絶対に逃げ出すと、そう踏んでいたに違いない。己が力を知っている分、それは核心に近かったのだろう。おそらく、過去にもこれに似たことがあったのだと思う。そのときもすべては掌の上で起こっていた。弱者は強者の意のままに踊っているのだということに、最後まで気づかない。いや、気づけないのだ。なぜならそれが摂理だから。気づくことすら許さない、完全なる支配。弱者の思考を完璧に読み取ることができる、それが本当の強者、バスターたり得る者。
 地平線の見える荒野の中、砂煙の向こうにビアンカ・アトラスは立っていた。
 気配は消していたのだろう。カロンたちが目で見て知るまで、ビアンカの気配は微塵も感じ取れなかった。だが目で見た瞬間、爆発的な気配が脳裏を支配した。一気に噴き出した力の波動に気圧された。脳髄に叩き込まれた恐怖という名の刻印が蠢く。
 カロンとステファノが凍りついた顔をして、ここに来て初めてバスターがどのような者なのかを理解したアリエルが震え出す。今になれば、アリエルも「戦う」とは言えないはずである。震えるアリエルの表情が、戦う者のものであるとは思えなかった。
 砂煙の向こうからバスターが歩み寄って来る。
 逃げなければならない。今すぐに踵を返して、ステファノと一緒にアリエルの手を引いて逃げ出さなければならない。
 でも、一体、
 ――どこへ、逃げればいい?
 逃げ切ることなどできないのだと、ようやく悟った。最初から無駄だったのだ。住処を出ようが出まいが、結局はこうなる定めだったのだろう。この男に目をつけられた時点から、逃げ道は封鎖されていた。どうして気づけなかった。いや、気づいていても同じだったのだろう。無駄なのだ。この男から逃げ切ることなんてすべてにおいて不可能であるはずだった。住処の隅に隠れて震えていも、結末はすべて同一のものになる。どうしようもないことが、この世界には存在する。
 数メートルの距離を残して、ビアンカは立ち止まる。その手に握られたブレイドからはまだ鼓動は聞こえない。
 逃げることができなかった。ビアンカの眼から視線を外すことさえできなかった。
「奇遇だな鼠共。やはり一枚噛んでいたか。あのときに殺さずして正解だった」
 ビアンカの視線が揺れ動き、アリエルの持つブレイドを見つめる。
「ようやくだ。ようやく、見つけ出した。あの男が持っていたブレイド。もはや失われたものだと思っていたが、よもやここで出遭えるとは何たる喜びか」
 紡がれる一言一言は聞こえているが、頭の中には入って来なかった。
 情報処理が、その役目を放棄していた。
「ガラティアの部下が言っていたな。名は確か……アリエル、だったか。お前に出遭えることを楽しみにしていた。お前の持つそのブレイドを、おれは探し求めていた。それはこのおれが持つに相応しいものだ。あの男が、ましてお前のような不完全体が持つことなど許されない。最強のバスターたり得る者、このビアンカ・アトラスにこそ相応しい、唯一名の与えれたブレイド。それを、渡してもらうぞ、忌々しい血族よ」
 ゆっくりと掲げられたブレイドから鼓動が響き渡る。
 心臓の音だ。ブレイドは生きている。刻印を通して刀身へと広がる黒い何かを血液とし、中心部の模様を心臓に仕立て上げ、ブレイドは確かに、そこで生きている。まるで大刀に牙があるみたいだった。重く纏わりつく空気がカロンたちの周りを支配し、蠢きながら獲物を捜している。動けなかった。動いたらその瞬間に、脳内で造り出したブレイドの幻影に食い殺されるような気がした。
 ビアンカは言う。
「抜け、ブレイドの幼き継承者。あの男の血族なのだ、それくらいはできるであろう?」
 この場で唯一、ビアンカ以外に言葉を紡げる者がいるのなら、それはやはりアリエルだった。
「……どう、して……お前たちは、父様を知ってる……?」
 目前のバスターから放たれる気配に顔を歪めるアリエルがそう言うと、ビアンカは笑った。
 憎悪の笑みだった。
「なぜ知っているか、だと? ……知っているに決まっている。あの男は裏切り者だ。我ら同志を狩る側に回った裏切り者」
「違うっ! 父様は裏切り者なんかじゃないっ!」
「黙れ。あの男は――……いや、この際だ。お前の父親がどのような男だったのか、最後に教えておいてやろう。どうせお前は何も知らないのであろう? 奴がそれを我が娘に言うとは考え難いからな。お前は、賞金首に懸けられた500万の大台、という言葉を知っているか?」
 突然の言葉に返答を返すことのできないアリエルを他所に、ビアンカは構わず、
「この世界に賞金首なる者が生まれたのは極最近、二十年ほど前だ。それに加えてトレジャーやハンターなどという馬鹿げた者まで生まれる。だがなぜ、僅か二十年でここまでトレジャーやハンターが一般化し、賞金首が増えたのか。前者は政府の仕業だ。後者は我らが同志に便乗した愚図共だ。賞金首内で500万の大台に乗った者。政府の本当の狙いはそれだ。奴らは自分たちの過去を抹消するべくに賞金首を蔓延させ、トレジャーやハンターの生業を一般化し、我が手を汚さずして他人に始末を任せたのだ」
 ビアンカはブレイドを振り被り、一歩ずつアリエルに近づきながら、
「500万以上の賞金首。それは政府の実験体にされた我らが同志だ。生まれた瞬間から隔離され、肉体強化を施された人では有らざる者。それがおれたちだ。お前たちは知らないだろうがな、この世界は今、『政府』という名の下に幾つかの組織に分離されている。それを圧倒的な武力で統括しようとしたのが、この近辺を任されている、我らが敵の正体。奴らは独自の研究を完成させ、肉体強化及びに、ブレイドを造り出している。そして肉体強化を施された者の中でも特に戦闘能力の高い者を五人選出し、バスターと名づけて個々にブレイドを持たせた」
 近づかれているのにも関わらず、アリエルは距離を取ることができなかった。
 太陽を背に、振り上げられたブレイドの闇がゆっくりと鼓動を大きくしていく。
「その中でひとりだけ、他のバスターから群を抜いての戦闘能力を発揮する者がいた。だがその者はある日突然にも組織の中で戦闘を開始し、単独で壊滅させた。最強のバスターと最強のブレイドを止める術は、自らが元凶を造り出した組織にもなかった。その者は実験体となったおれたちを組織から逃がし、そのまま姿を消したんだ。それからだ、賞金首なる者が蔓延し、トレジャーやハンターが一般化したのは。……そのときに我ら同志たちは誓ったのだ。我らの自由を奪い続けて来た組織に、政府の奴らに復讐をすることを」
 振り上げられていたブレイドが一気に振り下ろされた。
 それは反応できなかったアリエルの鼻先を紙一重で通り過ぎ、ブレイドを戻しながらビアンカは再びに笑う。
「しかし我らの復讐は後一歩の所で未遂に終わった。我らに復讐する機会を与えたはずの者が、姿を消していたはずのその者が我らの進行を止めたのだ。彼の者はバスターであり、唯一名のつけられたブレイドを持つ最強の肉体強化体。政府から異例の2億という賞金額をその首に懸けられ、同時に、賞金首でありながらハンターになることを許されたただ一人の者。その者の名は、」
 ビアンカは、ブレイドの切っ先をアリエルに突き立てながらそれを口にする。
「――……ネレイド・シアルナック。お前の、父親だ」
 突き立てられていた切っ先が突如として打ち放たれ、ようやく反応できたアリエルが左に転がる。
 その軌道を眼で追いながら、ビアンカの声が実に楽しそうに、
「ネレイドの持つブレイド。それをようやく見つけ出したのだ。今から十年前、ハンターであった奴が突然に姿を消した。くたばったと思っていた。もはやそのブレイドは失われたものなのだと思っていた。――だが違った。最強のブレイドはネレイドの娘に継承され、覚醒に至らずとも顕現された。あの鼓動と光を感じ取ったときは思わず歓喜の声を上げたぞ。そのブレイドをこのおれが手にすれば政府は愚か、あのネレイドでさえも滅ぼすことができる。……これ以上の喜びなど、この世界には存在せん。そのブレイド、お前の手足を斬り刻んで奪い取らせてもらうぞッ!!」
 体勢を立て直したアリエルの目の前で、ビアンカの持つブレイドが圧倒的な鼓動を開始した。
 それまで紡がれる言葉を黙って聞いていることしかできなかったカロンがようやく正気に戻ることができた切っ掛けだった。巨大過ぎる力を前に、脳みそがおかしな所で動き出して繋がり合い、正常稼動を開始した。ビアンカの話などまるで頭には入っていなかったが、それでもカロンは冗談のように震え上がる自らの拳を握り締め、ステファノとアリエルの手を引いて走り出そうとした。逃げるしか道はなかった。
 カロンが愚かしくもそうしようと決断した瞬間を見計らっていたかのように、唐突にビアンカの殺気が真っ向から向けれた。
 逃げ出そうと考えていた思考が、一発で一掃された。正常稼動を開始していた脳みそが悲鳴を上げ、瞬きすらできなくなる。
「……消え失せろ鼠共。ハンターよりも薄汚い鼠に、もはや用などない」
 鼓動を打つブレイドが横一線に振り抜かれる。
 一陣の衝撃波だった。見えないはずの斬撃を、確かにこの目で見たような気がする。そして斬撃とカロンの間に割って入るアリエルの小さな背中もはっきりとこの目で捉えることができた。ブレイドの刀身を全力の防御に回し、アリエルと斬撃が激突した刹那、風が弾け飛ぶ。風圧に吹き飛ばされたアリエルの体がカロンのすぐ手前で着地し、ブレイドを構えながらビアンカを見据え、それでもカロンに言葉を紡ぐ。
「……ごめん、カロン。カロンの言ってたことがやっとわかった」
「アリ、エル……?」
「勝てない。戦っちゃダメ。ようやく、わかった。……でも、今は戦わなくちゃダメ。もう、逃げれないから」
 アリエルが振り返り、何もかもを受け入れたような笑顔を見せた。
「カロン、ステファノ、逃げて。わたしがここで食い止める。だから早く逃げて」
 それにはカロンとそれまで黙っていたはずのステファノも堪らずに、
「ちょ、ちょっと待ってよアリエル!?」
「ばっ、馬鹿言うなっ! お前はどうすんだよっ!?」
 もはやアリエルは、すべての言葉を拒絶した。
「――逃げてッ!! 早くッ!!」
 一瞬で広がったビアンカの殺気が始まりの合図だった。
 目前で打ち鳴らされたブレイド同士の激突の音が、今は何よりも恐ろしかった。
 建前も何もかも放り出して、アリエルの声だけに従うようにカロンとステファノは踵を返し、全力でその場から逃げ出した。
 背後から打ち鳴らされる斬撃の音を意識の外に投げ捨て、ただ己が身可愛さだけに走り続ける。自分がどれほどまでに無力で情けないのか、これまでにもそれは思い知っていた。何もできない自分を不甲斐無いと思っていた。だが違うのだ。それは仕方がないことなのだ。こんな非力な自分が歯向かったとしても、それは人間の周りを虫が飛び回るのと何も変わらない。人間の手の一振りだけで簡単に死んでしまう虫も同然なのだ。本当の強者を前にしたら、誰かに庇ってもらわねば生きることができない、惨めな弱者に過ぎない。それを今一度、思い知った。
 逃げることもまた、戦うことなのだと己を正当化する。
 トレジャーとしてのハントもそうなのだ。結局は賞金首の懐に潜り込んで引っ掻き回したら後は逃げるだけだ。それが正解だ。なぜなら討ち倒すことだけが戦いではないのだから。相手から逃げ出すことも、相手から己が身を守ることも、すべてが同じ結果を導き出す戦いなのだ。それらは仮定が違うだけで、自らを無事に生き延びさせることには何の変わりもない。逃げることを恥じてはならないのだ。逃げることも戦いだ。敵わないとわかっている相手に挑むのはただの馬鹿がすることなのだ。
 走り続ける。隣のステファノに視線を移すことなどせず、ただアリエルの言葉だけに従って走り続ける。
 もはや自分自身を格好悪いと思うことさえもしなかった。強大な力の前にそれらの思考はすべて塗り潰されていた。ただ単純に、恐ろしかったのだ。怪物の持つ力も、その怪物に単独で挑んだアリエルも。凡人のカロンから言わせれば、両方とも異常以外の何ものでもなかった。辿り着けない場所での戦闘が、背後にはある。人では決して辿り着けない場所で戦闘が行われている。そんなものに手を出すことも、そんなものを見ていることさえもできない。できるはずがなかった。
 脳が拒絶する。意志が拒む。記憶の中から消し去りたいと思う。
 走りながら、気づけばいつしか、涙があふれていた。
 アリエルと初めて出逢ったときのことを思う。最初は殺されそうになって、それでもステファノを助けることに必死だったから、見ず知らずのアリエルに力になって欲しいと頼み込んだ。アリエルは驚くくらい素直に力になることを受け入れてくれた。嬉しかった。力強い手助けだった。アリエルがいたからこそ、ステファノを無事に救出することができたのだ。感謝している、本当に。誰よりもアリエルに感謝しているのだ。
 三人で暮らした住処のことを思う。賑やかだった。毎日毎日、飽きもせずに喧嘩して仲直りして、騒がしいままでハントに出掛けたりもした。どうしようもなく馬鹿みたいな時間で、どうしようもなく愛おしい時間だった。失いたくはないと思っていた。例え住処を失ったとしても、三人の輪が残っていればいいと思っていた。金では買えないもの。金銀財宝よりも遥かに大切なもの。それを知っていたはずなのだ。失ってはならないと、そう気づいていたはずなのだ。
 ――なぜ自分が泣いているのかを考えろ腰抜け。
 もうひとりの自分はそう言うのだ。
 理由など、とうの昔にわかっているつもりだった。恐いからだ。ビアンカの力の強大さが恐いのではなく、仲間を失ってしまうことが恐いのだ。それなのになぜ、自分は今、こうして己が身可愛さに逃げ出しているのか。仲間を見捨ててなぜ自分だけ逃げ出しているのか。仲間を失ってしまうことが恐いのなら、なぜ共に立ち向かおうとしないのか。それは、力がないからだ。ブレイドの前では、普通の人間など無に等しいからだ。抗う力がないから逃げ出すのだ。どうすることもできないから仲間を見捨てて、逃げ出しているのだ。
 ――だったら、その後に残るものとは一体何だ。
 仲間を見捨てて逃げ出して生き延びて、その果てに残るものは一体何なのだろう。
 命が助かった安堵か。そんなもの、糞程の価値もありはしないではないか。バスターがこの世界にいる限り、これからもその脅威に怯えて生きていく気か。そのような状態が続いていても、本当に生きていると言えるのか。三人の輪があればいいと、そう思ったのではなかったか。このまま逃げ延びて残るものの中に、三人の輪があるのだと、そう言うつもりか。記憶の中に残るアリエルがここにいるから平気とでも血迷ったことをほざくのか。そんなものに、どれだけの価値があると思っているのか。
 ――腰抜けなら腰抜け成りに立ち上がれ。
 腰抜けだったら腰抜けの意地を見せつけろ。虫が飛び回るその煩わしさを少しでも与えてやれ。
 逃げることを恥じてはならない? こんな惨めな生を受けて何を誇れと言うのか。確かにトレジャーとしてのハントは逃げることだ。それがトレジャーとしての戦いなのだ。だが今のこれとそれが同一だと、本気でそう言うのか。勇敢にも敵の懐に飛び込んで掻き回して、ハントを成功させて逃げるその瞬間と、仲間をひとり見捨てて逃げ出す今が同じ戦いであると、本気でそう言うのか。世迷言も大概にしろ。
 敵わないとわかっている相手に挑むのは馬鹿? 上等ではないか。ゴミみたいな生を受けるよりかはそうした方が百倍はマシであるはずだ。仮にも仲間を庇うために敵わないとわかっている相手に挑んだ者を、逃げ出すことしかできない自分が馬鹿であると罵ることができるのか。根性なしが何をほざくか。己が命より仲間の命を優先する勇敢なる者に、そんな言葉を吐き捨てる気か。自分たちを逃がすためにひとりで立ち向かうアリエルに対して、本当にそのような言葉を言えるのか。腑抜けが一丁前に意見をしたいのであれば、せめて同じ立場に立ってからものを言え。
 ――引き返せ。アリエルをここで見殺しにすれば、一生後悔することになるぞ。
 約束事項第一条『仲間の危機には必ず駆けつける』
 それが仲間としての誇りではなかったのか。それを破ることが何を意味するのか、自分自身が最もよく理解しているのではなかったか。なのになぜ、それを捨てて自分は今、逃げ出しているのか。正気に戻れ。仲間を見捨てて生き延びる生になど糞程の価値も存在しない。敵わないと、殺されるとわかっている相手に挑むそれは馬鹿でも愚かでもなく、明確なる勇気なのではないか。普段が腰抜けならば、やるときくらい根性を見せろ。どうせいつか下らない死を遂げるのであれば、仲間のために命を賭けて死ね。命を賭けて、仲間としての誇りを守り抜け。トレジャーになった日を、ステファノと共に過ごした日々を、アリエルと一緒に暮らしたすべてを、根本から否定する気か。
 引き返せ。今ならまだ間に合う。トレジャーならばトレジャーなりの戦い方を見せてやるべきだ。
 走り続けていたカロンは唐突に立ち止まる。隣のステファノがそれに気づいて少し前で立ち止まって振り返り、
「……カロン?」
 まだ僅かに勇気が足りなかった。決意を奮い起こす勇気が、あと少しだけ足りない。
 カロンは言った。
「ステファノ、ぼくを殴って。これでもかってくらいに」
「お前、何言って……?」
「アリエルだけを見捨てて何が仲間だ。今度は、ぼくがアリエルを助けに行く」
 一瞬だけの間、
「……本気で、言ってんのか?」
「本気だよ」
「……殺されるって、わかってんのにか?」
「それでもアリエルを見捨てて逃げ出したくない。それは大切なものまで全部、見捨てることだから」
「…………そうか」
「ステファノ、だからぼくを殴って」
 ステファノを真っ直ぐに見つめた瞬間、体がとんでもない速度で右に吹き飛んだ。何とか倒れることだけは防いだのだが、左頬が熱湯でも掛けられたかのように熱く、涙が滲み出すくらいの痛みを持っていた。自分で言ったくせに、ステファノに殴られたのだと気づくまでにかなりの時間が必要だった。
 目の前のステファノが俯き、つぶやく。
「腰抜けのくせに、変なときだけ格好つけやがって」
「……わかってる。でも、」
「言わなくていいぜ。腰抜けがひとりで何するっつーんだ。このおれがいなくちゃ、何も始まらねえだろうが」
 顔を上げたステファノを見つめ、カロンは笑った。
 いつものステファノが、そこにはいた。
「カロン、おれも一発殴ってくれ。気合いが足りねえ」
 肯くと同時に、カロンはステファノの左頬を思いっきり殴り飛ばした。
 が、やはりカロンではステファノを吹き飛ばすことなんて当たり前のようにできず、僅かに揺らいだステファノには大したダメージは見られなくて、どちらかと言えば殴ったカロンの拳の方が大きなダメージを負っているような気がする。
「まったく、弱え気合いだな」
 そう言って苦笑するステファノが、突如として真剣な顔をする。
「おれらのお姫様を、助けに行くぞ」
 いつかのようにステファノが先頭を切るのではなく、カロンとステファノが並んで走り出す。
 来た道を引き返して、アリエルとビアンカがいるはずの場所へと向う。
 間に合うはずだった。勝てないだろうが、アリエルがそう簡単に負けるはずはなかった。一対一では結果が目に見えている。だったら三対一にすればいい。カロンたちの援護など意味はないかもしれないが、僅かな隙を作り出すことくらいはもしかしたらできるかもしれない。だったらアリエルがその隙を突いてくれる。そうすれば形勢は変化するかもしれないのだ。この命を賭けて、仲間を助け出す。例え死ぬようなことになっても、逃げ出して惨めに生き延びるよりかはマシであるのだ。
腰抜けは腰抜け成りの、鼠は鼠成りの戦い方を見せてやろうではないか。
 果てなく思えていた道程を引き返し、カロンたちは荒野の蜃気楼に包まれたふたりのバスターを視界に捉えた。
 最初は、それがどのような状況であるのかを理解できなかった。しかし近づくに連れてはっきりとした姿が見え、ついにその状況を理解した。その場に立ち止まって思考を巡らすが、結局は同じ結論に辿り着く。間に合うと思っていた。間に合うはずだった。
 そこにいるのは、佇むビアンカの腕に掴れて持ち上げられる血塗れのアリエルだった。
 アリエルの表情からは、ほとんど生気が感じられなかった。
 立ち止まっていたのは一瞬だった。
 気づけばその名を呼んで、カロンとステファノは駆け出していた。
 片手に煙玉と閃光玉を挟み込み、片手にちっぽけなナイフを握り締め、駆け出していた。

     ◎

 ――おれはな、アリエル。あいつらに見せてやりたかったんだ。ただ、それだけだったんだ。

 振り下ろされた闇を宿すブレイドを頭上で受け止めた瞬間、これまでに感じたことのないような圧力が腕を包み込み、力を込めていた足の裏が地面にめり込んだ。次いで巻き起こった衝撃波に体が吹き飛ばされ、受身も何も取れないままで地面を転がり、立ち上がろうとしたときにはすでに顔の眉間を目掛けてブレイドの切っ先が突っ込んで来ていた。反射神経だけで体を弾いて転がった刹那、先ほどまで頭があった地面一帯が圧倒的な力に耐え切れずに木っ端微塵に砕け散る。
 慌てて立ち上がった際に後ろへ飛んで距離を取り、ブレイドを構えながら息を整えたアリエルは大刀を引き戻すビアンカを見据えた。見据えたのだがその姿を一瞬で見失い、気づいたときには背後に回り込まれていた。横一線に振り抜かれた斬撃を勘だけを頼りに防ぐが、アリエルの細い腕では当然の如くビアンカの豪腕から繰り出される威力を殺せるはずもなく、まるで風に吹かれる木の葉のように小柄な体が宙を舞った。受身を取ろうと視線を保った頃にはもう、ビアンカはアリエルの真横にいた。
 空中のアリエルへと容赦なくにブレイドが振るわれ、回転する視界の中でも何とか防御するが意味はなかった。空中を舞う速度が加速し、そのまま背中から地面に激突する。何回転かの後に天地を理解し、ブレイドを振るった反動で体勢を立て直す。距離を隔てて佇むビアンカを見つめ、アリエルは自分でも驚くくらいに激しい呼吸を必死に抑え込む。
 目前に存在するバスターは、強いなんてものではなかった。技も糞も存在しないのだがしかし、凝縮された強大な力の前に成す術がなかった。一撃一撃が半端ではない。極普通に振り下ろされた大刀の一太刀がすでに必殺の域に達している。が、それでもまだ単なる遊びだ。まだ十二分に手加減されているのがはっきりとわかる。何度かの攻防を行い、アリエルは悟っている。ビアンカがその気になれば、最初の一撃でアリエルを一刀両断していたはずだ。現段階のアリエルには、ビアンカの全力の攻撃を防ぐことは当たり前のようにできない。
 唯一の望みがあるのだとするのなら、それは、
「どうした幼き継承者? まさか力の顕現の仕方を知らないというのではあるまい?」
 ビアンカが答えを口にする。
 ガラティアと戦ったときのような力。ブレイドが鼓動を打った状態のアリエルであれば、この戦況を打破できるかもしれない。いや、それ以外に取る方法がない。今のままで戦えばおそらく、次が最後だ。ビアンカの言葉は、忠告なのだ。力を発揮しないであれば次で終わりだと。僅かに鼓動を打っているビアンカのブレイドが徐々に徐々に、力を増して来ている。次の太刀は今までの太刀ではない。このままのアリエルならば防ぐことができずに、殺されるだろう。
 やり方は知らなかった。しかし、感覚は微かなら憶えている。
 ブレイドの力の顕現とはつまり、一体化。
 人間の体内を流れる血とブレイドの刀身を流れるそれがまったくの別次元で噛み合った状態。
 そこまで持って行くことができるのなら、顕現できるはずだった。やり方は知らない、だけど感覚が憶えている。あのときは怒りによってストッパーが外れたに過ぎないが、そのおかげで今ならばちゃんとした意志で繋げられるはずだ。自分自身を信じるしかなかった。
 柄を握り締め、アリエルは目を閉じる。深呼吸を何度も何度も繰り返し、手先からゆっくりと意識を開放させていく。暗闇を彷徨う意識が鼓動を探す。だが見つからない。どこまで行こうとも見つからない。目を瞑ったアリエルに向い、ビアンカが己のブレイドを振り被って地面を砕いた。それでもアリエルは身動きひとつせずに探し続ける。どこまでもどこまでも、果てしなく、存在するはずのその鼓動を目掛けて、着実に、確実に近づいて、やがて暗闇に射す一点の光を見た。
 振り上げられたブレイドの刃が振り下ろされた一瞬、アリエルの体がその場から消えた。
 空を切った太刀から視線を外し、ビアンカが左を振り返る。そこにいるのは他の誰でもないアリエルだ。しかしその手に握り締められたブレイドの刀身に刻まれた刻印が、僅かだが光を流している。ガラティアと戦ったときよりかは遥かに小さいが、それでも確かな光である。今のアリエルにはそれが限界だった。これ以上はどうしても引き出せない。この状態でも紙一重で繋がっているだけだ。何かの拍子ですぐにでも千切れてしまいそうなほど細い繋がり。
 ビアンカが笑う。
「随分と弱い顕現だな。まさかそれでこのおれと渡り合う気か?」
 真っ直ぐにビアンカを見据えるアリエルの瞳が答えだった。
 そしてビアンカは、笑わなかった。
「……このおれを愚弄する気か。その程度の顕現で、このおれに抗うと、本気で言うのか」
 瞬間、
 刻印を流れていた闇が圧倒的な鼓動を開始した。まるで激しい運動をした後のような、とてつもなく大きく速い鼓動が辺りを支配する。脳内で反響するその音にアリエルの意識が掻き乱され、聞こえていたはずの己のブレイドの鼓動さえもが飲み込まれた。闇は刻印からあふれ出して刀身を包み込み、具現化したそれは空間を切り裂きながら活動する。
 不可能だった。そのブレイドから繰り出される攻撃を止めることなど、不可能だった。
 今のアリエルでも、僅かだがブレイドの力を顕現させたアリエルでも、防御が絶対に不可能な力が目の前にある。大きな差があることはわかっていたが、ここまでとは考えてもいなかった。あのときの力を全力で引き出しても止めることはできないだろう。それほどまでに絶大だった。触れてもいないはずの地面が力の鼓動の前に罅割れていく。あそこまでの力の波動を、アリエルは見たことがない。
 振り上げられたブレイドを見ていることしかできなかった。
 振り抜かれたブレイドの軌道から逃れることがついにできなかった。
 地面を抉り取りながら突っ込んだ斬撃の衝撃波が真っ向からアリエルに食らいつき、気づいたときには後ろに吹き飛ぶこともせず、棒立ちのアリエルを斬撃が通過していた。遥か後方から何かが破壊される轟音が響き渡り、その音が頭の中で反響した刹那、身体の芯から弾け飛ぶような衝撃が来た。痛みはなかった。感覚がすでに麻痺していた。体内から弾けた衝撃が、身体の至る箇所から血液と共に噴射した。
 足から力が抜け、それでもブレイドだけは無意識のまま握り締め、アリエルが地面に倒れ込むときにはビアンカは目と鼻の先にいた。倒れることさえも許さず、ビアンカの手がアリエルの首を鷲掴んで引っ張り上げ、下に垂らしたブレイドの切っ先さえもが地面から離れた所で停止し、憎悪の表情を浮かべるビアンカを見下ろす形になる。
 抗うだけの力は、すでに衝撃と共に体内から消し飛んでいた。
 なおも蠢く闇をそのままに、ビアンカは殺意の篭った眼でアリエルを睨みつけ、
「お前がッ! これほどまでに弱いお前がッ!! 最強の肉体強化体の娘だとッ!? ふざけるなッ!! このおれをどこまで愚弄すれば気が済むのだネレイドッ!! お前はなぜおれたちを組織から逃した!? お前はなぜおれたちを裏切った!? お前はなぜ、このような不完全体にブレイドを継承させたのだッ!? お前が目指したものとは、一体何だったのだッ!?」
 朦朧とする意識の中で、アリエルは頭を撫でてくれた大きな手の感覚を、確かに感じた。
 少しだけぶっきら棒に、でも優しく撫でてくれた大きな手。そして、言ったのだ。
「………………父、様……は、」
 ビアンカに忌々しげに見据えられるそこで、アリエルは答えを返す。
「…………お前たちに、…………を、見せたかった、って……言って、た」
「……何?」
 次ははっきりと、アリエルは言葉にする。
「……自由を、見せたかった、……父様は、……そう、言ってた……」
 首を鷲掴むビアンカの手にそれまで以上の力が篭る、
「自由、だと……? このおれたちに、自由を見せたかった、だと……?」
 あのとき、そう言って少しだけ寂しそうにしたことを、今でも憶えている。
 ――おれはな、アリエル。あいつらに見せてやりたかったんだ。ただ、それだけだったんだ。自由を見せてやりゃあ、あいつらも救われるってそう思った。でもな、違ったんだ。あいつらは取っちゃならない道を取っちまった。復讐は何も生み出さない。だから止めなくちゃならなかった。それはおれの役目だった。あいつらに自由を見せた、おれの役目だったんだよ。
 その意味を、ようやく理解した。
「父様は、……お前たちを裏切って、ない……そうしなくちゃ、ダメだった……」
 随分と長い間、ビアンカは黙っていた。
 やがてその沈黙を打ち破ったのは、小さな笑い声だった。
「……自由、か。確かにおれたちはネレイドのおかげで自由を見れた。感謝してるさ。なぜなら、」
 ブレイドの刻印から、新たなる闇があふれ出す、
「我ら同志が復讐する自由が降って湧いたのだ。感謝せずにはいられまい。……だがどうであれ、奴はおれたちを裏切った。それとこれでは話が違う。その行動は、――万死に値するッ!!」
 掲げられた漆黒のブレイドから闇が噴き出す。
 もう一度先の斬撃を食らえば最後、もはや意識すら血液と共に消し飛ぶだろう。抗うだけの力はやはりもうなくて、このまま死ぬのだと本気で思った。
 ぼんやりと漂うの意識の中で、カロンとステファノは無事に逃げれているだろうかと思う。ここでアリエルの持つブレイドをビアンカが手にしたのなら、カロンやステファノにはきっと危害は及ばないだろう。それだけが救いだった。もう戦うことはできないけど、もう守ることもできないけど、それでもカロンとステファノが生きていてくれたら、それだけでいいと、そう思っていた。
 ブレイドの闇が、世界を飲み込んだ。
 叫び声が聞こえたのは、その瞬間だった。
「――アリエルッ!!」

 ――勝負は一瞬。
 閃光玉が二発と煙玉が一発、ふたり合わせて計六発。これを如何に有効に使ってアリエルを助け出すかに懸かっている。
 真っ直ぐに走り続けていたカロンとステファノがある一点で左右に展開し、互いに閃光玉だけを手に握り締め、ビアンカがこちらに気づいた瞬間に地面に叩きつけた。空間を飲み込んでいた漆黒が一陣の光に遮られ、その場にあったビアンカの目を完璧に潰した。が、完璧に潰したと思っていたのだが、実際にビアンカの視界を遮っていたのは一秒もなかったはずである。
 その事実に気づいたカロンとステファノは左右から一気に走り出し、今度は煙玉を投げ捨てた。
 高密度の煙が噴射して、辺り一面を真っ白の世界に塗り替える。その中に突っ込んで片手に持っていたナイフを構えた。しかし小さな衝撃波と共に一瞬で煙は晴れ渡り、ビアンカの視界の中にふたりの姿が入る。忌々しげに歪むビアンカの眼に気圧されながらも決して引かない。勝負は最初からこの一瞬だとわかっていた。これで駄目ならすべて無駄に終わる。勝負だ。
 ステファノが先に閃光玉を地面に叩きつけ、一秒にも満たないが確かなる時間を生み出す。その瞬間だけでビアンカの間合いに入り込み、次いでカロンが最後の閃光玉を投げ捨ててさらに希望を繋ぎ合せる。最初にステファノがビアンカの丸太のように太い腕に飛びついてアリエルを救出しようとするが、常人であるステファノの力だけではどうすることもできず、加勢のつもりでカロンも加わるがまったく意味がなかった。
 アリエルを持ち上げ、ステファノとカロンに飛びつかれてもなお、ビアンカの腕はビクともしない。
「……鼠風情が、このおれに何を抗うか」
 出鱈目な力で振り回される腕に決死の思いでしがみつき、ぐるぐると回転する視界の中で右手に持っていたナイフを突き立てた。
 ビアンカの手が一瞬だけ力を失い、その機を見逃さずにカロンは腕から手を離してアリエルの体に飛びつく。鷲掴まれていた手が綻び、アリエルの体が開放される。抱き締めた小柄な体を庇うように地面に倒れ込み、視線をビアンカに戻したとき、恐るべき腕力でステファノを吹き飛ばす瞬間を捉えた。地面に叩きつけられたステファノの手にナイフは握られておらず、気づけばビアンカの左腕には二本のナイフが突き刺さり、少量だが確かな血があふれ出ていた。
 地面に四つん這いになりながら起き上がり、ステファノが苦痛を押し退けて笑う。それに返すかのように、カロンもまた笑う。
「……どう、して……?」
 アリエルの、そんな声を聞いた。
 カロンはもう一度だけ、笑う。
「助けに来たよ、アリエル」
 しかしアリエルは嬉しそうな顔をしなかった。それもそうだろう、逃げろと言ったのになぜのこのこと戻って来ているのか、不思議に思って当然だ。だが従えない。仲間を見捨てて生き延びたとしても何の意味もないのだ。ここで助け出さなければ、一生後悔するのは目に見えているから。
 ステファノがこちらに駆け寄って来て、アリエルの弱々しい瞳を覗き込み、
「何を死にそうな顔してんだ、じゃじゃ馬」
 アリエルは不満そうな顔をする。が、決して嫌そうな顔ではない。
 やがて我侭なお姫様は、小さくこう言った。
「…………ありがとう」
 心の底から良かったと思う。アリエルはボロボロだがまだ生きている。三人の輪が失われなかったことだけを、ただ幸福だと思う。
 そして今から、絶望の中を突き進み、光を見出さなければならない。
 三人で目前に佇む怪物を見据えた。
 ビアンカは腕に突き刺さっているナイフを無造作に引き抜いて地面に投げ捨て、血があふれる箇所を舌で舐めながら、ゆっくりと顔を上げる。
 そこに三人は、人間ではない何かを見た。気迫、なんて生易しいものではなく、殺気、と呼ぶにはあまりに絶大過ぎだ。
 本物の怪物が、目を覚ます。
「――このおれに傷をつけたこと、誇りに思え鼠共。お前らの度胸に敬意を表し、跡形もなく、……消し飛ばしてくれる」
 再び、世界を漆黒が包み込む。
 カロンの腕の中にいたアリエルが後ろに下がれと小さな声でつぶやくが、アリエルをここに残したままそんなことができるはずもなかった。
 もし死ぬのなら、仲間のために死ぬのだと決めた。この一撃からアリエルを守って死ぬのだと、そう決意した。エゴなのかもしれない。しかしこれは馬鹿ではなく、明確なる勇気。足の震えはなかったし、目の前の怪物に対して恐れもなかった。不思議な満足感があった。自分もやればできるのだと、こうして根性なしでも仲間を守る楯となれるのだと、そのことがわかってよかったとすらこの場面に思う。
 振り上げられた漆黒のブレイドを見つめながら、カロンとステファノがアリエルの前方に回る。
 一瞬にして振り抜かれた大刀から一陣の闇が衝撃波となって吐き出される。
 世界が驚くくらいゆっくりに見えた。地面を抉り取りながら衝撃波が迫る、背後のアリエルが何かを言っている、ビアンカの頬が実に楽しげに歪んでいる、漆黒のブレイドから巨大な鼓動が聞こえている、自分の心臓の音は聞こえない、代わりに隣のステファノから鼓動が聞こえている、いや違う、ステファノではない、ならばこの鼓動は誰のものなのだろう、聞いたことがあるような気がするのだが思い出せない、どうしても思い出せない、一体これは、誰の鼓動だったのだろうか――……
 衝撃がカロンとステファノに到達するかどうかの一瞬、突如としてふたりの目前に逆三角形の光の壁が浮かび上がる。
 それが何であるかを理解する前に衝撃波は壁に激突し、世界を閃光に染め上げた。何かを思う間もなくに発生した爆発にも似た波動がふたりを弾き飛ばし、遥か後方の地面に一気に叩きつけられた。手足が思うように動かず、何がどうなったのかを理解しようと辺りを見渡そうとするが上手く行かない。体が鉛のように重い。意識があるのだから生きているのだろうが、体が動かないところを見ると生きているのは意識だけなのかもしれない。
 誰のものかわからない鼓動が聞こえ続けている。
 すぐ隣にステファノがいることに気づいた。どうやらステファノもまだ生きているらしく、時折指が微かに動いているのがわかる。おそらくはカロンと同じような状況なのだろう。意識だけが生きていて体が死んでいる。こうなってしまうと逆に何かもどかしい気がする。体が動かないのに意識があると、何かをしなければという使命感に囚われる。そしてその何かはもちろん、決まっていた。
 アリエルを、守らなくてはならない。
 鼓動はまだ、聞こえている。
 視線が僅かに動き、かなりの距離を隔てて佇むビアンカを見つけた。
 カロンとビアンカを結ぶ中間地点。そこに、カロンは驚くべきものを見た。
 血塗れの体を奮い起こし、もうブレイドを握り締める力もほとんど残っていないくせに、それでもアリエルが立ち上がっている。が、驚くのはそれだけではない。アリエルの持つブレイドから、ビアンカのブレイドよりも大きな鼓動が聞こえている。加えて鼓動に連動して刀身の光が踊っている。驚くべき光景。眩いばかりの光が漆黒の世界を塗り替えていく。
 ガラティアと戦ったときよりも遥かに強い光はやがて、刀身を包み込んで固定される。
 心に刻もう。頭の中に転がっていた言葉が、ようやく脳内で処理された。
 
 世界に五本しか存在しない代物の頂点に立つブレイド。
 それが、アリエル・シアルナックの持つ最強のブレイド。
 唯一、呼び名の与えられたそれを、彼の者たちはこう呼ぶ。
 ――シャイニング・ブレイド――
     《遥かなる神の刃》

 やり方は知らなかった。だけど、この感覚だけは憶えている。
 カロンとステファノを守る。それ以外に、望みはなかった。どうしてふたりが戻って来たのかはもう問わない。たぶん、自分が同じ立場だったとしても戻って来ただろうから。なぜなら、共に過ごしたこの月日が、ただ単純に楽しかったからだ。失いたくはない日々だった。これからも永遠とその日々が続くのだと信じて止まなかった。その日々を脅かす者が存在するのであれば、それを超えて行く。ひとりじゃ駄目だった。だけど今はひとりじゃない。カロンとステファノがいる。だから、乗り越えられる。
 ふたりを守るのだと、アリエルがそう心に決めた瞬間に、何年もの眠りの底からひとつの神がついに目覚めた。それは一瞬でアリエルの体内を流れる血液とシンクロし、刻印へと光を流して性能を発揮する。もはや止まることはない。否、止まることなど知らない。神の刃を止められる者など存在しない。かつて群を抜いての強さを発揮した最強の肉体強化体が振るったブレイドが、長い眠りから解き放たれてすべてを覚醒させる。
 シャイニング・ブレイドを握り締め、アリエルがゆっくりと立ち上がり、目前のビアンカを見据えた。
 怪物は僅かな間の後に、これまで以上の憎悪の笑顔を見せた。
「素晴らしい。実に素晴らしいぞ幼き契約者。それだ、その目、その姿、――その波動。ネレイドの面影が嫌というほどに滲み上がる。前言を撤回しよう。お前は間違いなくネレイドの娘だ。そしてお前がネレイドの娘である限り、おれは全力を持ってして、お前をこの世界から消し去る。お前たち親子の存在自体が、――万死に値する罪なのだッ!!」
 地面が破壊される。
 真っ向から突っ込んで来たビアンカを視界に捕らえながら、アリエルは血塗れの体を動かす。さっきまではまるで動かなかった体が嘘のように動く。何の抵抗もない。元々軽かったはずの体重がないような気がする。手にしているブレイドの質量さえもが感じ取れない。完全なる身体の一部になっていた。これがブレイドの覚醒。体が羽のように軽い。意識が透き通った水のように澄んでいる。目で追うことさえできなかったはずの敵の動きが見えて、体がしっかりと意識に瞬間も遅れることなく動いてくれる。
 振り抜かれた一太刀を上段で受け止め、閃光が弾き出される。
 力負けすることはもうない。儚いくらいに細い腕と恐ろしいほど太い腕の腕力はもはや同等。シャイニング・ブレイドがすべてを帳消しにする。ここから求められるのは力任せの攻防ではない。如何にブレイドを振るう技術が長けているかがすべてを分ける。そしてそれならば、アリエルが負けることはなかった。物心突いた頃からこの大刀を振るってきた。小さな体でどうすればこの大刀を振るえ、扱えるかを、今までの人生のすべてを懸けて見出してきた。どれだけ相手が強かろうが、その点に関してだけは、譲れなかった。
 上段で受け止めていた大刀を流して相手の懐に飛び込み、アリエルがブレイドを振り上げる。それに気づいたビアンカが体を後ろに逸らしてかわすが、そこに大きな隙が出来る。ビアンカがブレイドを戻す暇さえも与えず、アリエルが跳躍と共に足を筋肉の鎧に包まれた腕に巻きつけて相手の獲物を封じ、腰の捻りだけで回転して大刀の切っ先を喉元に突き立てる。
 が、それを信じられない速度で感知したビアンカは信じられない反射神経で首を左に動かして切っ先の軌道から外し、封じられていた獲物を持つ右手の手首だけを動かして柄を逆手に持ち返し、アリエルの首筋目掛けて一気に放つ。見る、のではなく空気の流れを感じ取ってアリエルがビアンカの腕から離れて避け、体勢を立て直した敵へと再び猛進する。
 一太刀を振るうたびに世界を閃光が塗り上げる。互いに一歩も譲らぬ攻防。アリエルが一太刀を見舞えばビアンカがすぐさま返す。常人の目ではもう追えない戦いになっている。一瞬の判断の違いが直結して死を招く。出鱈目な体勢から振るわれるその一撃ですら、岩をも簡単に粉砕する。止められない、止まらない。互いの一撃一撃がすべて相手の急所を狙っての攻撃。度胸、なんて次元の話ではない。それは、明確なる覚悟。負ければ死ぬのだとわかっているが故の進撃。
 目的や思想が違っても、戦いに置いて誰しも唯一共通することがある。それは生きるということ。生きるために戦うということ。その先に目指すものが違っていても、死んでは意味が無い。だからこそ生きることを求めて己が刃を振るうのだ。それには覚悟がいる。覚悟がなければそのような戦いはできない。覚悟がない者の末路など幾千年の月日が流れようとも、どれだけ時代が変わろうとも、変動することはない。戦う覚悟がなければ、待っているものは敗北、即ち死だ。覚悟を決めた者だけが辿り着ける境地。相手の息の根を止めるためだけに突き進む戦闘。ブレイドの継承者が行うものは、そういう次元の話だ。
 幾度目かの斬撃を受け流し、アリエルが攻撃圏内に入り込む。振り抜かれた光が覆う刀身がビアンカの強靭な肉体を掠め、僅かながらの血を搾り出す。大刀が振り抜かれたと同時に今度はビアンカがブレイドを振るうが、そこにはもうアリエルはいない。空を切った己が刃を睨みつけ、忌々しげに距離を取ったアリエルに視線を移す。
 アリエルの速さが増している。先ほどまで互いに一歩も譲らなかったはずの戦況が、徐々にアリエルに傾き始めている。ブレイドとの同調に慣れてきた証か、それともここに来てアリエルの中に眠っていたネレイドの血族としての本当の力が目覚め始めたのか。その答えは誰にもわからないが、このまま攻防を続ければやがて、アリエルの一太刀が必ずやビアンカを切り裂くだろう。そのことを逸早く理解していたのはアリエルではなく、ビアンカだった。ビアンカの体に刻まれたそれは、まだ虫に刺された程度の傷だがしかし、初弾より次弾と微かだが確実に傷が深くなっている。時間の問題、だということはもう疑いようのない事実だった。
 そしてアリエルもまた、時間の問題だということにビアンカとは違う仮定を通して理解している。
 どうすることもできない問題がある。どれだけブレイドの力を引き出そうと、どれだけ強さを増していようとも、崩すことのできない歴然とした欠点がアリエルにはある。それは、幼いということ。アリエルはブレイドの継承者としては不完全にも程がある身体なのだ。アリエルがビアンカを押せば押すほど、アリエルの小さな身体は悲鳴を上げる。戦いが終わるまで保てばいいが、それは望み薄だった。傷を負わせるようになってはいるが、致命傷に至るまではまだ時間が必要だった。が、その時間を待っていられるほどの体力はすでに底を突いている。
 もう長くは続けられない。持久戦になれば負けは目に見えている。
 ならば、この一撃にすべてを注ぎ込むまでだ。
 距離を取ったブレイドの継承者たちが対峙する中、先に行動を起こしたのはアリエルだ。
 自らの大刀に全力の力を収縮させて鼓動を増大させる。その意図にビアンカはすぐさま気づいていたはずだ。だからこそ、ビアンカはアリエルと同じように自らのブレイドに力を込めた。
 この一撃が終わったとき、自然と勝敗が決する。この一撃でビアンカが死ぬか、次の一撃でアリエルが殺されるか。
 ふたつにひとつ。それ以外は有り得ない。そしてそうだとわかっていると、逆に余計な考えがすべて吹き飛んだ。要はこの一撃がすべてを決する。だったら出し惜しみをする必要などないし、次を考える必要もない。時間を気にする意味はなく、残りの体力を使い果たしても問題はない。どちらが真の強者か。どちらの意志が強いのか。それを、決するときだ。
 二本のブレイドの鼓動が鼓膜を破壊するかの如くに大きくなっていく。それは空気を振動させて地面を揺らし、次いで巻き起こる波動がそれらを破壊する。世界は二色に染まる。眩い光と鈍い闇。完全に対照的な構図。光がある所に闇があるように、闇がある所には光がある。どちらか一方が消えることは世界の規律を崩壊させることを意味する。それを凌駕して天に突き立てられるのはどちらのブレイドか。己が信念だけを突き通し、光と闇が交錯する。
 徹底した攻撃体勢を見せるアリエルと、徹底した防御体勢を見せるビアンカ。
 身体の芯が煮え滾る。血液が沸騰しているかのように熱い。この一撃に、全身全霊を注ぎ込む。
 アリエルが、地面を破壊した。軋みを上げる関節を無視して突き進み、渦巻く光のブレイドが大地を抉り取りながら獲物を狙う。真っ向からそれを受け止めた闇のブレイドが火花と同時に閃光を噴射する。一瞬の間、音のない爆発が巻き起こった。大気を震撼させて波紋状に広がるそれは地面に触れると同時にすべてを粉砕し、見境なくにふたりの継承者をも飲み込む。
 衝撃波の煽りをより多く受けたのは、防御に回っていたビアンカの方だった。
 ブレイドを握り締める腕から全身へと広がり、身体の至る所から噴水のように血液が噴射して発生した熱によって蒸発する。それで勝敗が決しても何ら不思議ではなかったのだが、ビアンカは倒れなかった。衝撃波をすべて我が身に受けながらも逃げることはせず、彼の継承者はこの一撃によって上がる勝敗を強引に手繰り寄せる。
 世界が静寂に包まれたとき、唐突にアリエルの体が限界を迎えた。
 この攻防で勝敗が決するのはわかっていたことだった。攻撃を終えてビアンカがまだ立っていることが何を意味するのか。そんなことはもう、嫌というほどわかっていた。抗う力が、やはり血と共に体外へ吹き飛んで行く。地面に膝を着いて俯く。体が動かない。もう何も考えられない。それでもブレイドを握る手の力だけは緩めない。これを離すときは死ぬときだけだ。まだ死んでいないのだから離せない。これを死ぬ前に離すということは、カロンとステファノを裏切ることなのだとアリエルは思う。
 目の前にある巨体が、ゆっくりと動く。体を伝って地面に滴る血をそのままに、ビアンカは敗者に最後の問いを残す。
「……ひとつだけ訊いておく。お前は、何のために刃を振るう?」
 何も考えれないはずの思考が、無意識の内に言葉を紡いだ。
「……父様、との……約束……」
 このブレイドを振るうことはネレイドとの約束。
 いつかネレイドと同等のハンターとなってこのブレイドを返すために戦っていた。
 だけど今、アリエルにはもうひとつだけ理由がある。
 それは、
「……カロンと、……ステファノの、……ため……」
 ふたりを守るのだ、そう心に決めたのだ。
 故にアリエルは、このブレイドを振るった。
 だけどこの男に破れ、誓いは無残にも約束と共に砕け散る。
「他人のために振るう刃に宿る力など意味はない。己が信念のためだけに振るう刃にこそ、本当の力は宿るのだ。……このおれのブレイドのように」
 天高くに振り上げられた闇のブレイドが鼓動を打つ。
 望みは、費えた。
「――消え去れ忌々しい血族よ。そのブレイドは、おれが貰い受ける」
 ビアンカのブレイドが振り抜かれる。
 神速の刃がアリエルに到達する一瞬、
 ――それは、花のように弾けた。
 それが何であったのかを、すぐには理解できなかった。上から降り注ぐそれがビアンカの血だということを理解するまでにかなりの時間が必要だった。そして理解と同時に、悟る。ビアンカの左腕の二箇所の傷口から、大量の血が噴射している。その二箇所はアリエルがつけたものではなく、カロンとステファノが捨て身でつけたナイフの傷口だった。
 先の攻防で体内に蓄積された衝撃が、僅かな時差を用いて出口を見つけた。
 何が起きたのか理解できなかったのはビアンカの方だったのかもしれない。突然の出来事に動揺し、己が左腕に視線を向けた。やがて第二波の衝撃が来た。それは再びビアンカの腕の傷口から外へと噴射され、ついには腕そのものの機能を停止させる。機械的に開いた掌からブレイドが地面に落ちて刀身が突き刺さり、苦悶の表情を浮かべてビアンカが一歩だけ後ずさる。
 それは、万にひとつの、希望だった。
 ブレイドを扱う技術に関しては誰にも負ける気はなかった。この小さな体でこの大刀の威力を発揮させるためにはどうすればいいのか。最初の頃はこればかり特訓していた。最初に憶えたのはこれだったし、今でも得意技だった。練習した数はもう数え切れない。ある種の決め技だった。別に意識しているつもりはないのだが、やはり最後の一撃は、どうしてもこれに頼ってしまう。
 動かないはずの体が動く。カロンとステファノが繋いでくれた希望を、ここに手繰り寄せる。
 握り締めていたブレイドを持ち上げ、こちらに意識を向けないビアンカに対峙する。
 このブレイドがこんなに重く感じたのは、初めてこのブレイドを持ったとき以来だった。だがそのおかげで思い出せることがある。いつかネレイドが言っていた。本当の極限状態になったとき、人は単純な行動しか起こせなくなる、と。その通りだった。今からアリエルがすることは、至極単純なことである。馬鹿のひとつ憶えみたいに必死になってやっていたこと。この重いブレイドを、如何に振るうか。この小さな体でどうやって威力を発揮させるか。その方法は、ひとつしかなかった。
 すべての力を振り絞る。もう戦えなくてもいい。もう起きれなくてもいい。だから、
 ――この希望だけは、繋げたい。
 大刀を振り上げ、下ろす反動を利用して左に身体の向きを変え、地面に着いた足を中心に回転する。そのまま一回転、ようやくこちらの動きにビアンカが気づくがもう遅い。二回転目に突入したアリエルの回転を止めることはもうできない。遠心力にものを言わせて大刀の重さを威力に変換、すべての神経を平行感覚だけに注ぎ込み、目前にいるはずのビアンカを感じ取る。最後の半回転を終えた瞬間にシャイニング・ブレイドの力を完全解放。世界を眩い光に塗り潰し、叫び声を上げながら己が刃を振り抜いた。
 突き出された闇の刃を打ち砕き、光の刃がすべてを両断する。
 アリエルが憶えているのは、そこまでだった。

 世界が、光に包まれる。
 ブレイドの鼓動はやがて、契約者と共に静まり返る――。





     「エピローグ」



 まだ信じられねえよ、とステファノは言う。
 それはぼくも同じだよ、とカロンは答える。
 夜空が近い。満天の星空が手を伸ばせば届くような所にある。それもそうだろう。この場所ほど高い建物を、カロンは他に知らない。眼下に広がる光景はまるで石粒みたいに小さくて、動き回る人影は笑ってしまうくらいにミニサイズだ。恐くない、と言えば嘘になるのだが、なぜだか今は特筆するだけの恐怖心はなかった。このまま一歩を踏み出せば簡単に死ねる場所にいるせいか、変に落ち着いている。
 展望台、と言えば聞こえはいいかもしれないが、ここはそんなのんきなものではなかった。ここは塔の天辺だ。侵入者を上空から見つけ出すために作られた、偵察塔。天辺はそれなりに広くて、ひとつだけ作られた小屋のようなものの中には下に直通で繋がる階段があって、ここから降りるにはそこを使うしかない。が、今のその小屋の扉は大きな鍵と鎖でガチガチに固めてあってちょっとやそっとでは開かないことは容易に想像できる。それを無理矢理抉じ開けようと、先ほどから内側から何か大きなものが激突するような音が聞こえている。時間の問題だろう。やがて内側からあの扉は破壊されて、侵入者を抹殺するために敵がここに流れ込んで来る。
 要するに、現実を見たくなかっただけなのである。
 塔の天辺に腰掛け、ステファノは言う。
「本当にあのじゃじゃ馬、ビアンカを倒しちまったからな」
 同じように腰掛け、カロンは答える。
「何が起きたのかほとんどわからなかったけどね」
「それは別にいいさ。仮定がどうであれ、勝ったことには変わりないんだ」
 カロンは苦笑し、
「それもそうだね」
 そこでふと思い出して、
「でもさっきのネズミ捕りにはびっくりした」
 思いっきり頭を殴られた。
「お前がヘマしたからだろうが!」
 殴られた頭を摩りながら、
「だって美味しそうな食事が並んでからさ。それにステファノだって引っ掛かったでしょ」
「うるせえよ、お前が先に捕まったんだろ。おれだけならああは行かなかった」
「嘘だよ。ステファノも絶対に捕まってた」
「バカヤロウ。おれとお前を一緒にすんな」
 ふたりの傍らには、金品が詰まった袋が置いてある。
 トレジャーとしてのハントを行った証拠品である。が、トレジャーとしてのハントはまだ終わらない。ここからアジトにまで帰り着いて初めて、ハントは成功したと言えよう。ならばこんな無駄話などしていないでさっさと逃げ出すべきなのだろうが、今のふたりにはそれをできない理由がある。
 この塔まで上ったはいいのだが、ここから脱出する術がないのだ。本来ならばケーブルで下に滑り降りるか近場の木に結びつけてロープウエイみたいに逃げるかするのだが、生憎としてケーブルはここにはない。持って来なかったのではなく、持って来たのだが使えない状況にある。なぜなら、ケーブルは今、この塔の真下にあるからだ。
 言い訳をすると、カロンが悪いわけではない。ステファノのせいでもない。言うなれば風の責任である。ケーブルを下に垂らしてさあ逃げよう、というときに突風が吹いて、ケーブルが下に飛んで行ってしまったのだ。繰り返すが、それはカロンがケーブルをしっかり持っていなかったせいでもないし、ステファノが早くフックを壁に引っ掛けなかったせいでもないのだ。悪いのはすべて風のせいであって、そのためにふたりは今、危機的状況に陥っている。
 背後の小屋の扉はもう保つまい。どうしたものか、と本気で思う。そろそろ現実逃避を行っている場合ではなくなって来ている。まさかケーブルを無くしてここから飛び降りるわけにも行かず、かと言ってこのままここにいれば縛り首に遭う。戦うことなど論外だ。一対一ならば何とかなるかもしれないが、さすがに数十人を相手にたった二人で挑むほど、カロンとステファノの戦闘能力は特化していない。なぜならトレジャーとしてのハントとは、相手の懐に飛び込んで掻き回して逃げることが戦闘なのだから。
 扉の鍵が弾け飛んだ。残るは鎖だけである。最後の一撃のために向こう側の敵は僅かに距離を取り、そして、
 閃光と共に扉が根こそぎ粉砕された。塔から灯台のような光が天まで突き抜け、衝撃波がカロンとステファノにまで届く。それと同時に小屋の中にいた敵の数名が塔の天辺に投げ出され、先ほどまでうるさかったはずの喧騒が見事に消失し、ようやく振り返ったカロンとステファノは、そこに小さな少女を見た。
 長い髪を風に舞わせ、光り輝く大刀を握り締め、ブレイドの継承者であるアリエルはそこにいた。
「――こんなところで何してる? 早く行こう」
 至極真っ当な言葉である。
 カロンとステファノは重い腰を上げて立ち上がり、
「ありがとうアリエル。もうちょっとで死ぬところだった」
「もっと早く来いよお前。300万の賞金首に何手古摺ってんだよ」
 アリエルはものすごく不満そうに唇を尖らせ、
「ステファノがこんなところに逃げるから見つけれなかった。全部ステファノのせい」
「馬鹿言うな。ここほど目立つ場所もねえだろ」
「そんなことはいいじゃん別に。それより早く逃げよう。それで、」
 そして、帰ってやるべきことはもう決まっている。
 カロンはかっぱらって来た袋を掲げて、笑う。
「メニュー全品注文でもしようよ」

 失われない日々は今もまだ、確かにここにある。






2011/01/08(Sat)23:32:33 公開 / 神夜
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完結させてみた。
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