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『誰かにとって大切なもの (終)』 作者:蒼唯 / リアル・現代 恋愛小説
全角49056文字
容量98112 bytes
原稿用紙約150.05枚
相模祐は都内の名門私立校に通う高校生。遊び人というレッテルを貼られている祐はいつものように授業をエスケープし、その時限りの遊び相手とぶらついた後で、親友の晴哉と落ち合う。イライラする気持ちを晴らそうと、晴哉と別れて駅で見つけた黒髪の女の子に声をかけるが……。
 「見つけた」  side:相模 祐(さがみ ゆう)


『祐、お前今どこにいんだよ』
「ったく、るっせー声で喋んな。新宿にいっけど、どーかしたのか?」
 俺は携帯を耳から10センチほど離しながら、周囲の雑音に掻き消されない程度の声で電話の相手―――晴哉に気だるく言葉を返した。
『丁度良かった。今俺も新宿の駅の改札ンとこにいんだけど。合流しようぜ』
「あぁ? 改札まで戻んのかよ、めんどいな。まぁいいけど」
『じゃ、あと10分で来いよな』
「りょーかい」
 10分もかからない距離の場所にいたが、あいつは10分じゃ到底行けない場所にいても10分と言う。
 まぁお決まりみたいなもんだから無視しても何も言わねーけどな。
 俺こと相模祐はいつもの通り学校を自主早退し、街中をうろついていた。
 定期があるから都内は行き放題。金もかからないし、結構楽だ。
 じりじりと焦がされそうなほどの暑さにシャツのボタンを2つほど開ければ、男も女も大抵は引っ掛ける前に引っ掛けてくる。
 今さっきも少し香りのキツイ女とブラブラしてた。理由は双方暇だから。
 向こうから声をかけてきたし、茶代とかも全部向こう持ち。俺が払うことなんか極まれだ。
 誰もが振り向くほどのこの容姿だけが唯一親の形見だ。偉い奴ならこんな使い方はしないだろうが、俺は偉くもないし、通ってる高校にうじゃうじゃといる優等生でもない。
 頭の出来だけは、自他共に認める秀才だけどな。
 駅内へ入るとクーラーが少し伸びっぱなしの髪を揺らす。あー、涼し。
 10分で来いと言った晴哉は、制服が目立ってたからすぐに見つかった。
 俺はこの衣野晴哉という奴が不思議でたまらない。
 俺みたいにグレすぎず、かといって堅すぎてもいない晴哉は中性的な存在で、俺とはまた違った意味で男女共に人気がある。
 頭の出来も悪くないし、今期の生徒会役員も務めてて教師からの信頼も厚かった。
 だが、俺とつるんでいることに眉根をよせられているにも拘らず、嫌な顔一つせずにこういう場所で遊ぶ。俺に気を遣っている雰囲気は全くない。むしろ全面的にあたっている感じだ。
「よぉ。早かったじゃん、祐」
「おめーが10分で来いっつったんだろうが」
「そりゃそーだけどさ」
「とりあえず、どっかに入るか」
 いつものように他愛のない会話を交わしながら近くの喫茶店へ入る。
 俺たちは部活には入っていない。体育会系のバカ共のようにがっついた食欲はないから、こういう時間にはコーヒーを一杯、が普通だ。
 適当にオーダーしてからコーヒーが来るまで数分待つ。
「祐……今日は女引っ掛けてきたろ」
「ちげーよ、引っ掛けたんじゃなくて引っかかったんだって」
 俺の服に付いたキツイ残り香に顔を少し歪ませながら言う晴哉の言葉を否定する。
 ったく、シャツのボタン1つ多く開けたぐらいで寄ってくんなっつーの。
「無闇に色気を振りまくな。そーでなくても問題児扱いされてるっていうのに、痴話喧嘩起きても、助けてやらないぞ」
 俺の心情を見透かしたように釘を刺す。よくわかってらっしゃる。
「へいへい。どーせ俺はハルみたいに一途な恋はしてませんよ」
「ふてくされてないで、少しは見習え。さっき電話で琳もこっちにくるってさ。それと、ハルって呼ぶな」
 ハルは恋人である一華琳(いちかりん)だけに許された予呼び方らしい。冷てーの。
「はぁ〜、また俺は可哀想な役回りなわけ? 何が楽しくてカップルなんか見てなきゃけねーだよ」
 こういう場合はしょっちゅうある。俺に特定の相手がいないから、わざと見せ付けて、遊び人やってるんじゃないとでも言ってるようだ。
「べつに構わないだろ? そんなこと気にするたまでもないくせに」
「まあな」
 これもいつものこと。1人で2人について歩くのがなんとなく嫌になってると、声をかけられるケースが多い。
 でもそういう奴は大抵が前の2人より仲がいいという風に見せつけたがるせいもあってしつこいのが問題だ。
「俺はああいうときに引っ掛けてくるしつこい奴は嫌いなの」
「その点琳はいいよな。俺と同じ雰囲気してて媚びたりしねーし。気が強くて楽しめる」
「晴哉…楽しめるって言い方、解釈の仕様によっては引くぞ」
 高校生男子だからそういうのもあって当然だろうが、他人の色恋沙汰なんて興味はない。
「お前、自分の事棚に上げて引くんじゃねーよ。いつもヤリまくっているくせに」
「最近はしてねーよ。引っ掛けてくる女、ボンビーだし」
 最近引っ掛けてくる奴は一度喫茶店で軽く食べて、俺が金を出さないことを知ってホテルには寄らないことが多かった。つまり、相手に払わせるっていう魂胆で繰り出してくる図々しい女、ということだ。俺も人のことは言えねーが、気にしない。
「それも全額向こう持ちかよ」
「トーゼン。女に金使うことなんか、滅多にねーからな」
 何が悪いと顔で主張すれば、晴哉は呆れたのか苦笑するだけだった。
 これも親の形見だ。浮気と不倫を繰り返すうちに、誰かとの子供が出来た。それ俺。
 俺が中3の頃、母さんは死んだ。過労で。
 その時まで母さんと付き合ってた相手が俺を引き取って養ってくれてる。どっかの会社の社長らしくて、金には困ってないみてーだから生活しやすい。
 母さんも、早く身を固めちまえば良かったのにと、今の養父との生活を始めてから何度も思った。
 けど、俺の生活の為に働くことをやめなかった母さんはどうしても養父のことを信じてやれなかったんだと思う。水商売や俺と母さんを捨てた本当の親父のせいで、人を信じることが出来なくなっちまったんだ。
 そうやって、俺の為に利用されるだけされてポックリ死んじまうのはゴメンだ。
 利用してやる。いつからかそう思い始めて、気が付いたら随分と荒れた雰囲気になっていた。
 言い寄ってくるのは、俺の容姿と養父の財産に惹かれるだけの無能な女。運命の相手なんて、遠の昔に捨てた希望だ。
 大切な人? 愛? ふざけんな。外見と金だけで手に入るんなら、最初っからいらねーよ、そんなもん。
 そう思ってた。
「どうかしたのか? 祐」
「あ、あぁ。……何でもねぇ」
 知らず知らずのうちに眉間にしわを寄せていた俺は、アイスコーヒーを何も入れずにグビグビと飲み干した。
 熱でボンヤリとしていた頭がアイスコーヒーの冷たさではっきりとしてくる。
 あぁ、くそっ! うざってぇ。
「晴哉、悪ぃけどデートはお前等だけでしてくれ俺はちょっと旅に出る。飲み物代、お詫びに奢ってやるよ。お前ン家、無駄遣いは出来ねーだろ?」
「ぉ、おい」
 俺はテーブルに1000円札を1枚置いて、呼びかける晴哉を無視して店を出た。
 晴哉のことはうざったくない。むしろ好感さえ抱いている。一華のこともべつに気にしてるわけじゃないけど、今日は何かムカッとする。暑さのせいか?
 テキトーに引っ掛けてヤってくか……。
 溜め息混じりに周りを見渡す。最初に目に映ったのは駅の出口で本を読んでいる細身の制服を着た女だった。
 ロングの黒髪と彫りの深い顔。ややキツめの目も合っている。俺の隣を歩かせるには合格点だ。
 回りくどいのも面倒だったから、すぐに声をかける。
「今、暇?」
 真横まで近づいていって話しかけると、驚いた様子でそいつはこっちを見た。それでもすぐに無表情に戻る。気に食わねぇな。
「俺、今ちょっと暇なんだ。付き合ってくれない?」
 心中を隠して穏やかに言いながら心のない笑みを向ける。大抵ここまでサービスしてやれば落ちるんだが……。
 答えは俺の予想に反するものだった。
「あいにくと私は暇じゃない。貴様のような奴に割いてやる時間はないんだ。他をあたれ」
 フン、と鼻を鳴らして何事もなかったように手の中の本を読み始めるそいつに、俺は思わず吹き出した。
「…何が可笑しい?」
 15センチほど下から睨み上げるその仕草は、例えて言うならライオンの子供のようで、吹き出すだけでは飽き足らずに笑い声まで俺の口からは洩れ始める。
 っていうか今時『貴様』って……っ。
「いや、今まで誰もそんな反応や言い方はしなかったから驚いてたんだよ。面白いな、お前」
「お前ではない。平和の和に、稲穂の穂で和穂だ。貴様のその容姿で傍にいられると悪目立ちする。早くどこかへ行け。私は貴様のような奴に興味はない。断る」
 言語がガンコ親父のようにカチコチで、俺はそいつ……和穂の迷惑も気にせず笑っていた。
「あ、和穂ーっ!」
 突然目の前の和穂を呼ぶ声が聞こえて振り向けば、ショートカットの髪をした、和穂と同じ制服を着た女が走ってくるのが見えた。
 こっちは晴哉に似た子犬のようなイメージだ。まぁこういうのは友達で終わりそうな奴だから利用はそんなに出来なさそうだし、元より俺の射程範囲外だ。
 そいつは俺に気付くと目を丸くした。
「清水、遅いぞ。私は待ちくたびれた」
 俺の存在なんか無視をしてそいつに話しかける和穂は、少しばかり不機嫌そうだった。
「って、やっだ! 和穂ってば男引っ掛けてたわけ? やる〜っ」
 どっかで同じような言葉を聞いたような気がする。
 その言葉にますます機嫌を損ねた様子の和穂が膨れっ面で反論する。
「違う。このヒマ人が引っ掛けようとしていたんだ。私は被害者だ」
「オイオイ、俺はまだ何もしてねーだろ?」
 話に入って今度は和穂に俺が反論すると、またもや目つきをきつくして俺を見る。
「した。貴様のせいでいらぬ他人の視線にさらされて悪目立ちをしたんだ。立派な被害だろう」
 まぁ真面目に訴えられるとそう思わないでもないが、まだ俺にはよくわからない。
「目立つことが被害、ねぇ〜……。やっぱ面白いな、和穂は」
「馴れ馴れしく呼ぶな! 様くらいつけろ、ナンパ男め」
「え、和穂、自分の名前言ったの?」
 清水(と呼ばれていた)がまたまた驚いた。ただのナンパ男にいきなり本名明かすなんてことは滅多にないだろうな。
「コイツが『お前お前』と煩かったからな」
「だからっていきなり名前言っちゃうのはどうかと思うよ?」
 もうちょっと世間慣れさせておくべきだったわ…と清水が呟いた気がした。そして不意に俺のほうに向き直る。
「こんにちは。私、川瀬清水っていうの。和穂には名前明かすなって言ったけど、一応名前は言っておく。釘を刺すためにね。1つアドバイスしておくけど、和穂は天然記念物並の堅物だから、あなたには釣り合わないかもね。ってことで、私たちは用があるから。バイバイ」
 何かを言わせる隙も与えず、清水はまだ機嫌の直らない和穂の手を引いてそそくさと行ってしまった。
 残された俺は、いつまでも和穂のカチコチ言葉が頭から離れない。
 見つけたかもしれない……俺を本気で楽しませてくれる、女の子。
「和穂、かぁ」
 2人が消えていった人込みを眺めながら、俺はそう呟いて少し微笑んだ。






 「その笑顔は誰のために」 side:椎名 和穂(しいな かずほ)


「今、暇?」

 その言葉が一体誰にかけられていたのか、私は最初わからなかった。
 明らかに自分のすぐ脇で、周りには私以外いない。
 私が声をかけられていたことを理解する。黙っているととても近寄りがたいと言われる私に声をかけるとは…何の用だ?
 半分驚き気味にその方を向くと、そいつは作り物のような優しさを型に入れた笑みを向けていた。
 そんなもので世の中の女は落ちるらしい。嘘と偽りだらけの男など、相手にしないのが基本だというのに。それは女も同じことだが。
「俺、ちょっと暇なんだ。付き合ってくれない?」
 先程の言葉だけじゃ意味がわからなかった私も「あぁ、そういう事か」と呆れた。溜め息を付く気にもなれず、とりあえずは断るのが先決だと判断する。
「あいにくと私は暇じゃない。貴様のような奴に割いてやる時間はない。他をあたれ」
 クラスメイトや友人の川瀬清水(かわせ しみず)からは「その時代錯誤なカチカチ言葉、どこから覚えてきたの?」と言われるが、別に生活に支障はないわけだし、元々父から教わった言葉だ。これが普通だし、これからも変わらない。
 私が生まれてすぐ母が死んで、この16年間は男手一つで育てられてきた私が唯一持っている母の形見といえば、ストレートで真っ黒な髪と彫りの深い顔のつくりだ。
 外見と言葉のギャップにそいつは面を食らったような顔をした。初対面なら大抵は同じような顔をするから、失礼だと眉根を寄せるのも面倒になった。すぐに文庫本の方に目を戻すが、隣でいきなり吹き出す音が聞こえた。
 驚いた顔をされるのには慣れていたが、初対面で笑われたのは清水以外は初めてだ。
 初対面のくせに、無礼な奴め。人を誘うなら礼儀をもっとわきまえろ。
「…何が可笑しい?」
 下から目を吊り上げて睨みつける。たまにそうするとライオンみたいだと言われる事がある。そいつは笑い声を洩らしはじめた。
「いや、今まで誰もそんな反応や言い方はしなかったから驚いてたんだよ。面白いな、お前」
 あぁ、それはそうだろうな。
「お前ではない。平和の和に、稲穂の穂で和穂だ。貴様のその容姿で傍にいられると悪目立ちする。早くどこかへ行け。私は貴様のような奴に興味はない。断る」
 まだ笑い続けているそいつに釘を刺すが、未だに傍を離れる様子はない。…清水、早く来い。
「あ、和穂ーっ!」
 祈りが届いたのか、声のした方を見ると、ショートカットの髪を揺らしながら清水が走ってくるのが見えた。来てくれたのはありがたかったが、名前を呼びながら走ってこないで欲しい。
「清水、遅いぞ。私は待ちくたびれた」
 30分も待たされた上に、いきなり声をかけられて笑われたせいなのか、知らず知らずのうちに不機嫌な声が出ていた。
「って、やっだ! 和穂ってば男引っ掛けてたわけ? やる〜っ」
 その言葉に眉間のしわがギュッと音を立てて余計に寄っていった。
「違う。このヒマ人が引っ掛けようとしていたんだ。私は被害者だ」
「オイオイ、俺はまだ何もしてねーだろ?」
「した。貴様のせいでいらぬ他人の視線にさらされて悪目立ちをしたんだ。立派な被害だろう」
 元来、人前に出たり注目されるのは苦手という域を超えている私にとっては十分不愉快だった。だがそいつは何の悪びれもしていない。
「目立つことが被害、ねぇ〜……。やっぱ面白いな、和穂は」
「馴れ馴れしく呼ぶな! 様くらいつけろ、ナンパ男め」
 少しは遠慮というものを知らないのか、こいつは! こんな奴のどこがいいんだ。世の中絶対何かが間違っているぞ。
「え、和穂、自分の名前言ったの?」
「コイツが『お前お前』と煩かったからな」
「だからっていきなり名前言っちゃうのはどうかと思うよ?……もうちょっと世間慣れさせておくべきだったわ」
 悪かったな、世間慣れの出来ていない女子高生で。所詮流行にも興味はないし、付き合った奴だっていない女だよ。
 どんどん悪い方向に転がっていく私の機嫌をよそに、清水は「ナンパ男」に向き直る。
「こんにちは。私、川瀬清水っていうの。和穂には名前明かすなって言ったけど、一応名前は言っておく。釘を刺しておくためにね。1つアドバイスしておくけど、和穂は天然記念物並の堅物だから、あなたには釣り合わないかもね。ってことで、私たちは用があるから。バイバイ」
 電話で言いたいことだけを言って切るように、ナンパ男に何かを言わせる隙も与えず、未だ眉根を寄せっぱなしでいる私の手を引いて足早にその場所から離れた。
「……天然記念物並とは何だ」
「だってその通りでしょうが。今時カチカチの言葉使いで、こういう場所に来るのも初めて。好きなテレビは時代劇で音楽は演歌だなんて。高校生にしてはめちゃ希少じゃん?」
「……悪かったな、しぶい趣味で。だいたい清水のせいでもあるんだぞ。恋人のプレゼント選びについて来いって場所と時間まで指定したくせに、30分も遅れてくるとはな。非常識極まりないとか、少し罪悪感というものを感じたりはしないのか」
「気にしないのっ! それよりもさっきの奴。近くの学校で噂になってる相模祐だよ。この界隈じゃ結構有名人なんだよ? 手にかけた女は必ず落とすし、泣かせた女は手足の指でも足りないほど。学校もよくエスケープしたりするっていうし。でも、引っ掛けられるなんて、和穂も隅に置けないね〜」
 普通の歩行ペースに戻った清水は私の手を離すと肘で小突いてくる。顔は明らかにニヤついていた。
 そんなの私の知ったこっちゃない。そう言いたかったが、わざわざ反論するのも馬鹿らしいと黙っていることにした。
 そのうち「ここ」と清水が指をさして私を引き連れて入ったのは、メンズ向けの某アパレルメーカー専門の店だった。
 最近、全てのことに関して興が冷めてしまった気がする。
 清水といるのは楽しい。だがそれとはまた別の問題だ。
 理由は……あえて言うなら、父が再婚するからだろう。
 いい年して……と半分呆れ気味だったが、相手の人と父と私で会食に行ったときはそんなことも言えないくらい本気だとわかった。相手の人も悪くはない、むしろ好印象だった。
 顔すら写真だけでしか知らない母が、私と父の生活の中に残した色が薄らぐ事が何となく嫌だった。
 父もそんなつもりはないとわかる。私が物事が認識できるようになり始めてきた頃は、仏壇の遺影を見つめては、物悲しげな表情をその堅い印象を持った顔に浮べていたのだから。
 ここ数年、父の顔に笑顔が戻ったのはそのせいだったのかとやっと理解した。
 知らないから依存している自分が嫌になる。父が悪いわけではない。私をここまで育ててくれた父が第二の人生を歩み、幸せになるのは嬉しいことのはずなのに……時々その笑顔が恨めしく思えてしまう。
 本心ではそう思っていても、それを言えば父はやりきれないだろう。根は真面目で、私のこともよく考えていてくれる。
 だから余計に言えない。実際何度となく「本当にいいのか」と訪ねられた。その度に父に対する罪悪感に苛まれていた。
「おーい、どうかしたの? 和穂」
「あ、いや……何でもない」
「そっ。じゃ、これどれがいいと思う?」
 いつの間に選んだのか、少しぼけた感じの服を数着手に、清水は訊ねてくる。清水いわく「和穂が選ぶメンズ服のセンスはいい」らしい。
「じゃあ……この上着とズボンに…この暗めの長袖を合わせてみろ。こっちのでもいいと思う」
 少し迷って近くにある服を合わせながら言うと、しばらく悩んだ後、清水は礼を言ってから選んだ服を手にレジへ向かった。
 人を好きになるのはそんなに簡単なことなのだろうか? 本当に幸せなのだろうか?
 私の中にはまだないその感情はよくわからない。出会いや別れは幸せだけれど、虚しいのかもしれない。
 今数メートル離れた場所でレジの順番を待っている清水はとても楽しそうで、その表情は幸せに満ちているようだった。
 見ていて、こっちまで自然と笑みがこぼれてきそうなほど暖かかった。
 それは本当の笑顔。私にはないものだ。この先もずっと、私はそれを手に入れることは出来ないだろう。
 笑顔というキーワードから、いきなりナンパ男のことが頭をよぎる。
 あの笑みに感情が全く込もっていないことはわかっていた。ただ投げやりに生きている、というような感じだ。
 不快なことが嫌で、気晴らしに相手を探していたというところだろう。
 どれだけの人間を、自分をその数だけ偽って騙してきたのだろう。何も思わないというのか。
 だが……吹き出したときだけは、本当のあいつが見えていたような気がする。
 お前の本当の笑顔は、誰の為にある? 私の笑顔は誰の為にあるのか。
 私は手に持ったままでいた文庫本を見たあと、ショーウィンドウの内側から忙しく流れる街をただ眺めていた。







 「真っ直ぐに見ていけば」 side:衣野 晴哉(いの はるや)


「―――で、一人でいたんだけどさ」
 次の日、俺こと衣野晴哉は昨日の不機嫌そうな顔の影すら見えない、言うなれば今から冒険に出る少年のような表情をした祐の話を聞いていた。
 今は放課後で、帰宅部で委員会も入っていない祐はヒマだろうが、俺の方は役員収集であと10分後には会議室へ行かなければ、という身だ。
 だが、今日の話には驚いていた。
 彼女にいる俺と遊び人の祐は顔がいい。まぁ自分で言うのも何だが、他の男子やいかにも怪しい教師、はてまた恋人である一華琳が言うのだから認めざるをえないと思う。
 だから休み時間にはそれぞれがそれぞれの取り巻きに邪魔されて話す余裕なんてないから、放課後というわけだが……。
 放課後にしておいて正解だったらしい。
 あの、一度寝てもその日のうちに相手を忘れ、女の話は自分からは口にも出さない祐が昨日俺と別れたあとでナンパしたという女――和穂というらしい――のことを喋り捲っていた。
 これは、役員収集すっぽかしてでも聞く価値はアリかもしれない。実際そんなことはしないが。
「で、その和穂って女子がどんな反応したって?」
 そう思いながら訊くと、祐は今にも笑い出しそうな顔でニヤリと口の端を吊り上げる。こういう顔でも5人は女が落ちる。たまに男もいるらしいが。
「この俺様に向かって「貴様」だぜ? しかも興味ねーから他あたれってキッツイ口調で言いやがんの。今時あんな人種が存在してるとは思わなかったな」
「ほーう、それは奇特な…。お前に向かって目もくれないとはな……」
「奇特って……遠回しに感心すんなよ晴哉」
 口を尖らせて半目で俺を見る祐は、気に食わないような口ぶりに対してかなり楽しそうに見える。
 プライドを傷つけられた、と言うよりはむしろ手に入れ仕方がないって感じだ。
「お前みたいにフラフラした奴が大勢いる今の世の中で、健全な女子が街中によくいれるよなぁって思ったんだよ」
「…今無理やり感心する対象すり替えようとしただろ」
「モチロン。祐機嫌損ねたら、俺だって手に負えねーもんな。少し落ち着けよ」
 つまり誰も何も言えないという意味だ。その言葉に「当然だろ?」と祐は言う。
 最後の言葉を無視せずに、視線を俺から日が暮れかけている窓の外に向けて深く息をつく。
 こいつがこーゆー真面目なカオすんのも珍しい。見れたのは俺の運がいいのか、それとも祐の運が悪いのか。
 どっちにしろ、祐がこういう顔になるのは深く考えようとしているからだろうな。きっとその和穂という人物を。
「―――お前、本気になっただろ」
「はっ、まさか。この俺が? もったいねーよ、1人の奴に本気になっちまったら」
 とか言うくせに、ホントは確信してんだろ? お前が一番よくわかってることじゃねーか。
 こういう部分があるから、お前といるのは楽しい。
 いつだって周りの期待ばかりを背負わされて、応えられるだけの力を他人のエゴの為に手に入れてきた俺は人形みたいで。
 祐、お前を見かけたとき俺は羨ましいと思った。自分に嘘をつかないで、周りがどんな悪評をかざしてあたっても平気な顔でいられるお前が。
 出来るなら、俺が今まで築いてきたものを全て捨てて、お前と一緒に気持ちがいいくらい遊びたい。
 授業サボって、課題もほったらかしにして……琳と何処かへ行ってみたい。
 今してみたいことで、今しなければ意味のない願望。
 だけど、俺は自分の願望で周りに迷惑はかけたくない。自分がそうされ続けていたら。
 俺の家は姉貴と俺と母さんの母子家庭だ。
 病気の母さんの代わりに、姉貴と俺でなんとか家庭を支えてるようなもので、親父は俺が小学生の頃に事故って死んだ。
 その頃から、母さんは俺たちのためにそれまで以上に働いて金を稼いできた。
 その過労がたたって、俺が受験で忙しかった中学3年の冬に突然倒れた。
 その頃、姉貴は来年度からの就職先がもう決まっていたし、俺も奨学金制度の受験をした。合格してから今まで、ずっとアルバイトで学費を稼いでいる。
 姉貴や病気と闘っている母さんを、今までモノを全て俺の願望で捨ててしまったら逆に自分の首を絞めることになる。
 俺が祐と一緒にいるのは、俺が欲しいものを持っている奴がただ羨ましかったから。
 でもそれ以上に、少し荒れた遊び人のようで実は真面目なところもあって、意地も張る。プライドを崩そうとする奴や崩せる奴には、言葉に出さない、外見にも変わりは見せないが、最も興味を持つ対象にする。そんなトコがどんな奴よりも面白くて気に入っていた。一緒にいて楽しいと心から思える相手だから、ずっと一緒にいる。
 他人の批評は別に構わない。俺を今まで閉じ込めていた、これからも束縛するような大人にどうこう言われて、それを素直に聞くほど俺は従順な奴じゃない。
 普段はなかなか琴線に触れることはないからだが、強くはっきりと「つるむな」と言わないのは俺の機嫌を損う言葉だと周囲はわかっているからだ。琴線に触れれば今の俺を自分の手の内からみすみす捨ててしまう事がわかっている狡賢い大人は、祐と俺のかかわりを真っ向から断ち切れないでいた。
 周りが失いたくない存在になった俺は、俺自身のために生きて、俺自身の為に生きているわけじゃない。
 じゃあ誰の為の命なんだ?
 俺の存在する意味はただお前らのエゴや虚栄心を満たすだけなのか?
 そう思う事も少なくはない、むしろ多いくらいだ。祐に会うまでは毎日のように考えていた。
「もったいないとか、信じられないとか、祐がその……和穂だっけ? そいつのことでどう思おうが勝ってだが…そろそろ腰入れてみればいいんじゃねーの? 本気になってみろよ」
 じゃないと、お前の人間不信は一生治らないままだ。
 お前が本気になるキッカケなんてなかったくせに。たとえあったとしても無視を決めこんで逃げるくせに。
「……今日はやけに絡むな」
「それは祐も同じだろ? 女の話なんて「覚えてねー」でいつも終わってるくせに」
 今肯定しないで、いつするんだ? 自分の奥底にある気持ちに素直に向き合えるんだ?
 自分の母親にあったことを忘れろなんて俺には言えない。だけどいつまでも引きずってフラフラしてることもないだろう?
「…………」
 俺の考えてることを察したのか、祐はしばらくの間閉口した。
「……わからねぇよ、俺にだって」
 そして言ったのは祐から聞く初めての「弱音」だった。俺は目を見開く。
 祐はそんな俺から顔を隠すように机に顎を乗せて前に腕を置いた。
「何がだ」
「本気になる事がどういうことなのかって事だよ。今まで本気になったことねーから、何が、どこまでが遊びで、どこからが本気なのかが俺自身にもわかんねーんだよ」
 俺の心配をよそに、自分でもわからないと拗ねたように言う。
 人よりも荒れてて、遊び人で、汚れたものを人より多く見てきていて、器用に見えて実は不器用で。
 誰だって同じなのに、見下されている祐は、たとえそんな状況に置かれてもそんなこと意にも介さないくらい人一倍強く生きている。
 その強さの裏にある本音という名の「弱音」が伝わってきて、俺は思わず苦笑いを溢す。
「んだよ。一途じゃない奴はこういうときに困るんだよなってか?」
 すぐにまた意地という服を着ていつも何も言わせない。
 今日は言うことにする。今言わなきゃいけない気がした。
「お前が本気になるかならないか。それは俺にだってわからないさ。けどな、お前がこんなにも興味を持つんだから、少し、見てみたらどうだ? そいつの中身ってのを」
 目を背けずに真っ直ぐ。今まで見ずに生きてきたその感情を。
 垣間見たって、少しくらい傷つくこともあったって踏み出してみればいいんじゃないか?
 なぁ……祐。
「……晴哉。悔しいが、今のお前、俺様よりカッコいい顔してるな」
 そうやってすぐに茶化すけど答えは見えていた。
「何バカ言ってんだよ」
 ……お前が人間不信のまま、他人への勝手な誤解を持ったまま生きていて欲しくない。
 祐は俺が唯一「自分自身の為に生きている」実感をさせてくれるから。
 俺にお前の闇を消してやることは出来ない。お前が俺の闇に光を射してくれたようには出来ないかもしれない。
 そう思うたびにもっと早く出逢えてれば良かったと考えずにはいられない。だけど大切なのはこれからどうするか、だ。
 俺は別に「真面目に生きろ」とか「将来も考えろよ」なんて言うつもりはない。
 言われ続けてきた俺が、周りに言われるがまま生きてきた俺自身が何よりも後悔してることだからだ。
 もう既に後悔してるかもしれないけど、俺はそれでも祈るように言う。
「自分の本気を自分の気持ちとか体で感じてみればいい。納得いくまでさ。そーやってもやもや残しておくから、いつまでも「遊び人」の返上が出来ないんだろ」
「どういう意味だよ、体で感じるって……。別に返上する気はさらさらねーケドさ」
「それは自分で考えろよ。俺にもお前の奥底なんて理解できねーんだし」
「普通の人間に戻る方がつまらねーよ。三文マンガじゃあるまいし」
 少し、照れているように見えたのは多分、夕日が見せた錯覚だろうな。祐自身も認めそうにはないしな。
「そーか? お前の話聞いてると、かなりエキサイティングなことになりそうだけどな」
「そーだな……って、何であのカチコチ女なんだよ」
「何でだろうねぇ…っと、そろそろ役員召集の時間になっちまうや。じゃーな」
 俺は腕時計をつけていない腕をわざと見ながら言って立ち上がる。
「おい、時計ついてないだろーがっ」
 ……とりあえず、コレが最初で最後のキッカケになると思う。何となくの俺の勘だが。
 チャンスなら俺はそれを祐に逃して欲しくはない。だから言った。
「…人を好きになるっていうのも、結構いいもんだぜ。たとえ子供じみたただの興味だけでも、そういうのを大事にしろよ」
 俺は教室のドアのところで、顔だけを気だるそうに向ける祐に向かって言うと、そのまま廊下を歩き出す。
 背中に「うるせぇよ」という照れ交じりの言葉を聞いた気がした。





 「手は宙をかくだけで……」 side:相模 祐



「って、何真面目にこんな所来てんだ? 俺」
 晴哉と話したあの放課後から1週間。悩みに悩んだ俺は考える事をやめてとりあえず行動する事にした。
 といってもあのテの人間を今まで相手にしたことがない俺は全く免疫が出来ていない。どう対処していいのかサッパリだ。
 そんなんで立ち止まっても仕方がない。俺は目の前にある城のような外見の建物を見上げた。
 今いるのは、晴哉の彼女である琳のツテで調べた椎名和穂(と川瀬清水)の通う共学の私立高校の前だ。
 思えることは「女子高じゃなくてよかった」。女子高はガード固くて、迂闊に忍び込めないからな。
 俺たちが通ってるとこには及ばねーが、そこそこ頭はいいらしい。
 ……そういえば。
 ここの制服着た女に声かけられて付き合ってやった事があるよーなないよーな。……今までの行動を振り返るとは思ってなかったが……その可能性はありえる。
 あったと仮定…いや肯定しておくとして、出くわさなければいいがな。
「はぁ〜。……とにかく入るか」
 一応一般的に言ってみるが、俺が向かったのは正門や校舎の死角になる場所だ。
 理由は2つ。
 なんたってここは私立校で、琳の話によるとそれなりに財力もあるらしい。当然敷地も広いし、わざわざ正門に回るよりも楽だから。
 2つ目はこんな学校には大抵守衛が立ってるもんだ。見つかった時点で即アウト。
 時間帯も昼休み前だから、制服じゃなく私服だが、まず間違いなく呼び止められる。誰かにアポをとったわけじゃないからな。
 用件を言って本人に面会拒否されるのは目に見えてる。そうなったら元も子もない。
 若干高めにつくられた2メートル弱の外壁を見上げて俺は2、3歩下がる。
 軽い助走をつけてから跳んで、壁の上に手をかける。勢いに乗ってそのまま体も壁の上に乗り上げた。
 監視カメラも昼間は作動していないらしいから、俺にとっては好都合だ。
 やっぱ無駄なものがついてない体はいい。服を着る時とか、こういう場合も困らなくて結構楽だ。
 なるべく音を立てないように、そこから見える真下の芝生みたいなところへ飛び降りる。
 正門に立っている守衛に気付かれないよう、壁づたいに移動して素早く昇降口の鍵のかかっていないドアから入った。
「う〜……。昇降口とはいえ涼しいな」
 なんて言ってる場合じゃなかった。
 手で2、3回顔の前を煽ってから、掲示板の隣にある構内地図で教室の場所や通路を把握する。
 そうしねーと、帰る(逃げる)時に困るしな。備えあれば憂いなしってヤツ?
 ハタ。
 俺ってこんなに用意周到な事も考えられたんだよな〜。何真面目にやってんだろ?
 そもそも、何でこんなところに来ているのか。大元の理由が俺にはあまりよくわからない。
 俺が人に関してあれだけ悩んだもの初めてだ。
 何かしらの繋がりが欲しいと自分でも知らないうちに持っていたのかもしれない。他人に対してこんな感情を抱くなんてな。この俺が。
『貴様のような奴に興味はない』っていうあのセリフが、単に悔しいだけなのかもしれない。
 まぁそれらをひっくるめて和穂は「不思議な奴」だ。抱くのは目新しいモノに惹かれる、子供みたいな感情。
 晴哉は放課後「それ大事にしろ」と言った。
 どんな奴がそんなことを言ったって聞きはしないが、晴哉が言った。だから珍しくつながりを持つことを真剣に考えてみた。
 箇条書きにもしてみたが、どれも役に立ちそうになかったんで今は何も考えてない。


1、普段と同じ方法。
 書いたとたんに却下。こないだは出血大サービスしてやったのに、馬の耳に念仏もいいところだ。
 無視られるか、またカチコチ言葉の前に沈められるのがいいところだな。

2、弱みを握る。
 結構手っ取り早く繋がりが持てる上に、かざせば何でも言う事を聞かせられる。……あの椎名和穂には弱みの「よ」の字も見当たらないし、あったとして「それがどうした」と平気で言い返しそうだ。
 俺の印象は元々悪いくせに、もっと悪くなる。まぁただ単に繋がりを持つだけなら印象どうこうなんて気にしないが、そんなことは何故かしたくないのでボツ。

3、川瀬に近づく
 ……川瀬も川瀬で案外鋭そうだ。俺の目的が自分じゃないことには即気付かれそうな気がする。
 第一、あの俺に対しての応え方。慣れているようにも見える。あまり近づきたいとは思わない。

4、昔の女を利用する
 絶対使いたくないな。今日も出くわさないように祈った(?)ばかりだ。

5、貢ぐ。
 ……………………。


 そこまで考えたときにはもうダウン。物で釣るなんて幼稚にもほどがある。
 俺なら「バカにしてんのか?」か「ありがとう(注:心の中では「何も返してやらねーけどな」)」のどっちかだ。和穂は多分というか、明らかに前者だな。
 いつもは向こうから寄ってくるが、俺から近づくとなるとわけがわからなくなってくる。
 そんなこと、晴哉には口が裂けても言えない。
 溜め息をついて、和穂のいる教室を探そうとスニーカーを脱いでひんやりとした廊下に足を乗せた。顔を上げた途端に俺は一瞬凍りついた。
 目の前に少し厚めの本を2冊ほど脇に抱え、メガネをかけた男子が立っていたからだ。身長からみると俺と同じ3年みてーだった。
 う〜〜〜っ、わぁ〜〜〜……。もう見つかっちまった。
 表には出さないが、内心焦りまくった。
 だが、俺が何かを言う前に向こうが口火を切った。
「来客の方でしたら、この次からは来客用の玄関からお入り下さい。職員室は、向こうの廊下の突き当たりにある階段を上がって2階にありますので、そちらへどうぞ」
 来客といえば来客だが、この辺まで俺の顔が知れてるかは不明だ。ともあれ、教師と話すのはゴメンだ。
 かといって招かれざる客が和穂に会いたいと言ってもあわせてくれる確率は限りなく0に近い。
 ここは素直に頷いといて、職員室に行くフリだけでもしておかねーとな。
「わかった。ありがとう」
 らしくもなく知らない奴に礼を言うと、向こうも礼儀正しく頭を下げてその場から離れようとした。
 ふぃーっ、鈍くて鈍くてよかった……。にしても、鈍そうには見えないけどな、今の奴。
 と、その時。
「織部ー、お前もう一つ資料忘れてるぞ〜」
 今教えてもらった廊下の方からバタバタと足早に向かってくるのは、どう見ても教師だ。
 しかも最悪な事に、去年まで俺んとこにいたハゲ教師だ。女生徒にセクハラして飛ばされたって噂されてるけどな。
 さすがにマズった……。
 後退った俺と目が合うと、あからさまに顔を歪めて俺に指を差した。おい、教師が自分の(元)生徒に指差していいのかよ?
「お前、相模だな? 授業はどうした。まさかここに転入してくるわけじゃないだろうな? それとも痴情のもつれで退学にでもなったか? 悪いがお前のような奴はここにはいらん。早く帰るんだな」
 この嫌味ネチネチハゲ親父め。セクハラ容疑かけられてるテメーに言われたくねーよ。だいたい俺がそんなバカするわけねーだろーが。しかもデキはいーんだし、退学は卒業までありえねーよ。バカか。
 俺は言いたい事を心中だけに留めて一言言い返す。
「嫌だね」
 そう言った途端、スニーカーを拾ってから、自分でもすげぇと思うほどのスタートダッシュを決め、別の廊下を走り抜ける。
 ハゲ頭が何かを叫んでる気がする。けどもう手前の階段を駆け上がっていた俺にはハッキリとは聞こえねーけどな。
 はぁ〜、こんなにも早く逃げる事になるとはな。とにかく早く和穂探さねーと。
 2年の教室がある階に立つ。琳の話によると、川瀬も和穂も2年生らしい。どうしてそこまで知っているのかと聞くと「近隣校武道の会の交流会で会ったことがあるから」らしい。ちなみに琳は居合道部の部長だ。
 時計を見ると12時半を指している。あと10分で昼休みだ。
 俺がそこから歩き出そうとした時、授業中にもかかわらず校内アナウンスの音声が流れ出した。あ、イヤな予感がする……。
 その予感は見事に的中した。
『たった今守衛から不審者が校内に侵入したとの連絡がありました。各授業を中断し、教員の指示に従って速やかにグラウンドに避難して下さい。繰り返します。たった今……』
 俺、不審者扱いかよ。んの、円形脱毛症ハゲめ。いつか本物のツルっパゲにしてやる。
 とかなんとか思ってるうちに、一番手前にある教室がざわめき始める。ここで見つかったらヤバイ。
 俺は廊下を見渡して、一番端にあった掃除用具用のロッカーと壁の間にある隙間に身を隠す。
 教室の出入り口からは死角になっているから、多分大丈夫だ。
 そのすぐ後に2年の教室のドアが開いて、比較的落ち着いた様子の奴らがぞろぞろと出てくる。
 最後に開いた一番端の教室から出てくる生徒をじっと見ていた。今までの中に和穂はいなかった。ということはここの教室しかない。
 和穂はしばらくしてから出てきた。しかもラッキーな事に最後尾だ。
 今日はポニーテールか。なんだか下ろしてる時よりもキツイ感じに見える。
 まさか自分が不審者のターゲットになってるとは思ってもないだろうな。もし考えてでもしたら自意識過剰か、そいつの過去を疑うが。
 俺は廊下から全ての生徒の姿が見えなくなったことを確認してから、和穂の後ろを気付かれないように追いかけていく。おいおい、不審者の次はストーカーか?
 階段の手前まで来たとき和穂がいきなり振り向いた。
 一瞬のうちに判断し、何かを言おうと開きかけた和穂の口を塞いで、すぐ近くにあった男子トイレへ飛び込む。
 大勢の足音が聞こえなくなったのを確認してから口を塞いでいた手を離す。さりげなく和穂に絡めていた腕はそのままだ。
「……何のつもりだ」
 すぐさま俺から距離を取ろうともがいたみたいだが、以外と非力だった。そんなんじゃ俺の力には到底及ばねーよ?
「ん? 和穂に会いに来た」
 あ〜、何に向かってこんなこと言ってんだ? そうか、女か。って女に向かって何でこんならしくもないセリフ言えてんだ?
「ほーぅ。それで不審者扱いにされた挙句、今度は誘拐犯の真似事か? 大した度胸だな」
「そりゃどーも。まさかウチのとこにいたハゲがいるとは思わなかったんでね」
 勝手に不審者に仕立て上げられて、こっちだって参ってるって言うのに。
 ホント、笑えてくる。
 にしたって、俺が本当に誘拐犯なら、真っ先に殺されそうな言葉遣いしてるよな。
「で、私に会って何をするつもりだったんだ、貴様は。このままデートなんて言ったら殺すぞ」
 しかも脅してるし。肝はどっちが据わってるんだか。
「おー、怖い怖い。まあそれでもいいんだけどな。そーすると和穂困んだろ? 色々と」
 女の都合なんて今まで考えた事なんてなかった。自分から女を相手にするって、こういう事なのか?
 どうしてか、俺の口から出てくるのは優男みてーなセリフ。
「私は今でも十分困っている。早くこの鬱陶しい腕を離さんと、大声で叫ぶぞ」
「嫌だ、と言いたいところだがな……」
 いや、こりゃもう確定しちまったかもしれねー。
 何というか「魔が差した」ってこういう時に使うのか? ……じゃあ俺は何回魔が差してたんだよって気にもなるが、今はもうどうでもいい。
「なん…………っ!!」
 俺は軽く和穂と唇を重ねて、2、3秒してから離す。
「今日はこれくらいにしといてやるよ」
 にっこり笑って、硬直状態の和穂から絡めていた腕を外すと、トイレから出る。
 トイレの中から「死ねっ! 変態!!」と聞こえて、俺は笑いを噛み殺しながら廊下を駆け抜ける。
 非常用の階段を見つけてから、ドアの鍵を開けて靴を履き、下まで降りてから一気に外壁まで走る。
 これでも追われてる身だっていうのに、何だか歯がゆいというか、面白いというか、何というか。
 俺はそんな感情がわからない。自分の事だけに、簡単に答えは見出せなかった。
 それでも、気持ちだけは自覚したつもりだった。
 和穂のあの表情や仕草が気に入っている。言うなれば結構好んでる。
 晴哉に、口が裂けても言えないことがもう一つ出来た。限りなく「Yes」に近い疑問。
 ……俺は――――。
 外壁を軽く乗り越えて、走り続けながらも最後に思った言葉だけがただ反芻していた。





「きっと気付けますように」 side:川瀬 清水(かわせ しみず)



 昨日から何だか和穂の様子が見るからにヘン。
 特に私が何かした訳でもないし、午後は不審者が学校に侵入したとかで集団下校。
 自宅待機を強制されてたから、和穂とも会ってない。メールはしたけど、律儀な和穂が返事をよこさなかったのもおかしい。
 ……それで、今。
 調理実習のクッキー作りで、料理の得意なハズの和穂が今日はホントに危なっかしかた。
 ほら、放っておくと……。
「和穂、アンタ卵何個入れるつもりよ?」
「へぁ? あ、あぁ。すまん」
 3個で十分なのに4個も5個も入れようとするし。
 今度はいきなり怒ったような、怖い形相になって生地を切るよう混ぜるだけなのに、「切る」っていうよりは生地同士を「断ち切る」ように混ぜている。
 1回1回ゴムベラを生地の入ったボールに沈ませるたび、「ズドンッ」って音が流しにまで響き渡る。そのせいで私以外の班の子は誰も近づいてこない。
 その後もオーブンペーパーを鉄板に敷かないまま型抜きした生地を乗せようとするし、予熱もせずに焼き時間を1時間に設定しようとしてて、見ていられなくなった私が調理器具の片付けと交代すれば、水は出しっぱなしで、あちこちに水飛沫をひっかけ、スポンジから溢れ落ちるまで洗剤をドボドボと流し、しまいには器具じゃなくて、流しをこすっている。
 うん、誰がどう見ても明らかにヘンだ。
 いつもは準備・調理・片付けまで見ていなくてもそつなく完璧にこなす和穂がこれじゃあ、先生だって心配する。
 なのにさっきから「大丈夫だ」の一点張りで何も話そうとしないし。
 あのねぇ〜……人間ごまかせない事はあるんだよ〜?
 そう言いたいのを我慢して、クッキーを人数分に分けて授業が終わるまで待った。
 さっき1個租借したけど、まぁ味は変わらずおいしいな。でもバターの入れすぎで少し堅かった。
 授業終了のチャイムが鳴ってから、そそくさとその場をあとにしようとしていた和穂を引っ張って、廊下の奥にある教材室へ入った。
「な、何だ。いきなり」
「何だじゃないでしょうが〜。今日の和穂は絶対にヘン! 皆引いてたよ?」
「そ、そうだったか?」
「自覚もないわけね……。結構重症だわ。……昨日、何かあった?」
 探るような視線を向ければ、何故からしくもなく視線を彷徨わせて……挙動不審もバレバレ。
「だから、何もないと言っているだろうが」
「へ〜、ふ〜ん。必死に食器じゃなくて流し台洗ったり、クッキーを炭にするまで焼こうとしてた人にそんな何事もないなんて言葉、信じられるわけないよね〜?」
「う、そ、そーだったのか……?」
 こーゆー時に顔真っ赤にするトコは顔と一緒でカワイーのよね。いつもは外見よりも言葉のほうに気が言っちゃうから、そんな風には思えないけどさ。
 たまに見せてくれるから面白いんだなー。それに気付いてないトコもまた可愛いし。本人は認めたくないみたいだけど、私は知ってるもんね。
「じゃあ推理してみようか?」
「か、勝手にしていればいいだろうっ。私はもう戻る!」
 真っ赤のまま和穂はその場から逃げようとしたけど、そうは問屋が卸さない、ってね。私は和穂の腕をガッチリ掴んで離さなかった。これでも空手は有段者だし、そこそこ自身も力もあるんだよね。
「昨日、不審者が学校に来たよね? その事に関係してる?」
 鎌かけに思ったこと言ってみただけなんだけど、かなり動揺してる。
 どの辺が動揺しているかっていうと、腕を組む動作。分が悪いときとかはよくそうしてるのを見た事があるし。癖なのかな? 顔に出さない代わりの。
 まぁ伊達に2年も親友やってないからね。
「そして和穂は、グラウンドに来るのが一人だけ遅かった。肝心の不審者も逃げたけど、目撃したのは冬樹だったから、帰ってからどんな人か聞いたら、ハゲ教師がここにくる前に勤めてた学校の生徒だって言ってた。確かそこって私立校よね? それで、今和穂にちょっかいかけようなんて妙な考え起こしそうな奴といえば……」
 そこで一度和穂の様子を見る。けど、和穂のいかにも「何でわかるんだ」みたいな表情見てると、こっちが悪い事してる気分になってくる。
 まぁただの推測に過ぎないのに、そんなあからさまな態度の和穂も和穂だけどさ。
「相模祐。どうよ?」
 その名前を出した途端、和穂の顔色が青や赤にチカチカとかわるから笑えてくる。
 でも実際には笑えない。今にも死にそうな顔してる人間の前で露骨には笑えないじゃん。
 その先はここまで上手くいくと、ベタなんだろうなぁ。
 お手つき代わりにキスの一つでもされたんだろうケドさ。
 う〜ん、我ながら探偵みたい〜。……って、そうじゃないか。
「あ、はははは……この話はもう終わりっ。私もこれから冬樹にこれ持っていかないといけないし」
「……………」
「ま、まぁさ。昼休みもたっぷりあるんだし、その顔どうにかしたら?」
 苦し紛れにそう残して、そうそうとその場から退散する事にした。
 ゴメンネ、なんだか遊びすぎちゃったよ。
 そう心の中で和穂に謝ってから、足早に校舎の北側にある別棟に向かった。別棟っていうのは、委員会専用の部屋が集まってる特別棟のこと。
 私が行こうとしているのは、その最上階にある生徒会室。……こんな性格はしてるけど、一応生徒会役員なんだよね。でも役員召集で行くわけじゃない。
 冬樹――織部冬樹18歳。現生徒会長で、私の恋人――にこのクッキーを持っていくため。
 最近は行事に備えて、召集はなくても色々と仕事が溜まってるみたいだから、そのお手伝いも兼ねてるってわけ。
 少しでも面倒なことだとすぐに他人任せにしちゃうけど、冬樹のためだって思うことなら不思議とやる気が出てくる。それに、少しでも冬と一緒にいたい。
 他にも「笑顔が見たい」とか「甘えたい」とか「喋りたい」とか理由挙げてったらキリがないから以下省略。
 とにかく、幸せ街道突っ走る青春エンジョイ17歳! って感じかな。
 でも。
 冬樹とはいろいろとあった。
 出会いも穏やかじゃなかったし、それなりに人には言えない関係っていうのも持ってたから。
 ……たった一人の肉親だった母さんが金のために私を金持ちの男に売ったのは中学に入ってすぐだった。
 3年間、みんなに隠し通せたのはある意味良かったんだけど、冬樹に会うまではずっと愛玩扱い。
 高校に入ってすぐのあの日の夜、冬樹が助けてくれなかったら、死んでも構わないと思った。
 泣いたって、叫んだって止めてくれなかったあの男の存在が体に残されたままで、恥ずかしいくらい怯えていた私に「大丈夫だから……」って声をかけてくれた。
 一目ボレしちゃって、気が付いたら「援交」なんていう鎖で繋がっていた。それも私のせいだけど、冬樹は何も言わなかった。
 だけど、やっぱり冬樹はただ自分の性欲を満たす目的に私と会ってるんだっていつも思ってたせいで、余計に辛かった。
 嘘偽りでも、冬樹の言葉が全てだったから。冬樹を失いたくないって言う私の自己中みたいな願望に自分自身が苦しんでいた。
 けど、最終的なキッカケは和穂がくれた。 まだ会って、話して、笑えるようになってから、半年にも満たないときだった。
『清水……何か思いつめているようだから言っておくが……上手くいかないときは、正直に物を言うことから始まるんだぞ。自分を抑えたまま状況を流していったところで、良くなることなんてないんだからな。……不安なら、ぶつかってみればいい。結果はどうあれ、変わることは必ずある。人生なんて、その繰り返しのようなものだしな』
 まだ16年も生きてないっていうのに、いきなり人生全てを語ってるような和穂に思わず吹き出しちゃったけど、今思ってみれば、和穂はあの時私がどんなことで悩んだり、考えたりしていたのかわかっていたような気がする。
 まさか援交してるとは思ってないとは思うけどね。あれでも鈍感な部分は鈍感だから。
 特に自分の事。どーしようもないくらい鈍ちんだからね。さっきのこともそうだし。
 つくづく和穂って、不思議な生き物だって思うね。和名で言うと、ヒト科 神秘類 カチコチ種 「シイナ カズホ」ってところかな?
 言われてから、もう1年くらい経ってるのに、こんなに長い言葉を覚えていられる事は私的に奇跡に近いかもね。その言葉が、きっとその時から私に大きな支えをくれたんだと思う。
 おかげで考え方も変わった。
「全てだから、失いたくない。だから、言えない」じゃなくて「気持ちが伝わらないのなら、いつまでも自分が辛いだけ。好きなのに、冬樹にも迷惑がかかっちゃう」って思い直したら、すぐにでも言える勇気が湧いてきた。
 なーんて、回想してるうちに着いちゃった。生徒会室。
 ノックしようと思ったら、先に内側からドアが開いて、頭一つ分くらい背の高い冬樹が、どんなアイドルや俳優にも負けない笑顔で迎えてくれた。その笑顔さえ見れれば、嫌な事も忘れられる。
 いつ見ても綺麗な顔してるし、メガネも性に合ってる。外しててもカッコいいけどね。今じゃ自慢の彼氏サン♪
 一緒にいられるだけで、すごい幸せ。ずっとこのままがいいってくらい、2人っきりの時間が好き。
 和穂は外見があれでも、中身は結構お子様な部分があるから、わからないだろうなぁ。こんな気持ち。何よりも、大事なものなのにね。
 ある意味、私にとっては何にも勝る幸せだから、それくらいの幸せが今の和穂にないって事が可哀想に思えてくる。
 でも、私のこの幸せは和穂にもらったもの。だから、人にあげるだけじゃなくて、自分も手に入れて欲しい。
 ……遊び人っていうレッテル貼られてるのは少々アレだけど、いい機会なのかもしれない。
 だから私はまだ傍観者。和穂が自力で、自分の中にはなかった気持ちが見出せるように、今度は私が背中を押してあげる番なのかなって思う。
 もし、相模が和穂のことを遊んだら、この先一生許さない。お礼参りも行ってやる。面倒だから、ゴメンなんだけどね。
 焦らず、ゆっくりでもいいから。
 和穂が幸せになれるなら、どんなに時間がかかっても私は大丈夫。
 和穂以上に、誰かの支えになる事は私には出来ないかもしれないけど。
 せめて、私の手で和穂を支えてあげたいと願うから。
 もう少し、和穂の楽しそうな横顔が見れるようになったらいいな。いつも仏頂面で笑った顔なんて、全然見せてくれないから。
 きっとその隣には私じゃない誰かがいて……幸福な時間になればいい。
 いつだって、背中を押してあげられる。
 だから。
 いつか一番大切なモノに気付けますように……。


 そして今は、私自身の幸せを噛みしめて、冬樹にそっとキスをした。





 「君は何を見ているの?」 side:一華 琳(いちか りん)



 通い慣れた道場。私はその中で静かに精神を集中させる。
 腰に挿してある演舞用の刀がその存在を主張するかのように重さを伝えてくる。その柄を、ゆっくりと目を閉じながら握る。
 遠くに聞こえる他の部活動の声。風に葉を揺らす木々の音、それら全てが一瞬のうちに消え、かすかに無が訪れた。
 目を開き、正座の状態から刀を抜くと同時に片足を立たせて空を鋭く切る。
 残心を残した後、スッと刀を鞘に収める。そしてまた素早く抜く。
 一閃する度に刀全体が発する音が心地よい。
 束ねた髪を翻して振り返り、大きく振りかぶって一刀を入れる。
 何度か繰り返しながらゆっくりと立ち上がり、目を細めて大きく踏み出す。逆手に持ち替えて振る。
 鞘に収め、また抜き、残心を示しながら順にまた腰を落としていく。
 最後に一回振った後、ゆっくりと刀を収める。腰から刀を抜いて、神前に礼をした。
 立ち上がって、一番最初にしたのは道場の入り口に目を向けることだった。
 思ったとおり、そこには晴哉(ハル)がいて、つくりのいい顔に自慢できるくらいの笑みを浮べて私を見ていた。
「……お見事。今度の剣道祭の演舞の1人に選ばれたんだってな」
「見ないでよ、ハル。人がいるのって恥ずかしいんだから」
 でも見ていてくれたことがホントは嬉しかったんだけどね。天邪鬼な性格だから、しょうがない。
 刀が邪魔だったけど、私は迷わずハルのところへ行った。
 近くで見るとホンッットにカッコいい。目の保養になるし、私の彼氏だし。
 いつも生徒会の仕事が大変だけど、たまに私の方の練習も見に来てくれる。本当は今日は部活がない日だけど、来週にある地域主催の剣道祭で、開会式の時にある居合の演舞をする6人のうちの1人に選ばれちゃったせいで、私は休みなしに練習をしている。
 1人でヒマを持て余すよりは、演舞の練習をしている方が楽しいけどね。
「……晴哉だけじゃないんだけどな。また俺は除外されてんのか」
 ハルの脇から声が聞こえた。私はゲッと一瞬声を上げそうになる。
 顔を見せたのは区内一の、いや県内一の遊び人、相模祐。
 いつもデートにくっついてて、気が付けば女の子を連れて歩いている。しかも毎回違う人と歩いてやンの。
 今まで何人見たかな? たまに見かける時とかに連れてた人も含めたら……少なくとも15人は下らないと思う。うん、確実に。
「出た……アイモユウ」
「『サガミ』だっつーの。無理やり間違えようとするな」
「んなの知ってるわよ」
 わざと間違えるけど、わざわざ訂正を入れるところはマメよね。それくらい恋愛方面も気にすればいいのに。いい男なのにさ。
 でーもー、私はハルだけ〜。浮気なんか絶対にしないし。ハルもしないって信じてるし。
 正確には「させない」。もししたりしたら……フフフ。何故か刀(もちろん切れないけどね)を持つ手に力がこもる。
「いっそ祐っていう漢字だけ「遊」にしたらどうよ?」
 1年365日会うたびに結構真面目に思うことだった。いい案だと思わない?
「今日はその考え、覆すくらいの話があるらしいよ」
 ハルが苦笑しながら言う。も〜、ハル。何をどうしたら、どっからどうみても「遊び人」っていうイメージが消えるっていうの。それでなくとも相模は根っからのプレーボーイなのに。
 って顔で訴えつつ相模をチラリと見ると、今まで見たことないくらい「普通の恋愛してる」顔みたく、恥ずかしいような歯がゆいような表情して、こっちを睨んでいた。
 ゲ―――ッロゲロゲロ……。あ、やばい。蛙みたいな声出そうになっちゃった。
 逆にキモチワルイって、アンタがそんな顔したら。きっと明日は大地震または大洪水が起こるわね……。
 家にサバイバルバッグあったかな? あとで非常用の携帯食料も調達しておこう。
 っていう冗談は心中に留めて、とりあえず汗ばんだ道衣とかを着替えてくることにした。
 部室の鍵を職員室に戻して学校を出た後、3人で近くにあるおいしいコーヒーで有名な喫茶店に入った。
 そこで、相模が1週間くらい前に私に聞いてきたことの理由を教えられた。
 だっていきなり「川瀬清水と和穂って奴のこと、何か知らねーか?」なんて言うから、初めは痴話喧嘩でも起きたのかと思った。
 でも清水の名前を聞いたときはびっくりした。
 清水は空手部に所属していて、「近隣校武道の会」っていうのに入っていた。そこの1ヶ月に1回の割合である交流会でしょっちゅう顔を合わせていたから、よく喋ったりもしていたし、彼氏のことでも盛り上がった。
 どんな過去があったかはわからないし、相手は「冬樹」っていうなよっちい名前のヤツだけど、大事にしてるっぽかったから、浮気とか二股なんてありえないと思っていた。
 あまりゴタゴタには関わりたくなかったけど、すぐ後に清水に電話したら、意味深に笑いながら「教えてあげてよ」って返ってきた。清水が笑った意味が全くわからなかった。
 まー、清水が浮気してなくてホッとしたけどさ。思ってみれば浮気してるなら別に私に聞かなくてもいいことだったしね。
「まさか、アノ椎名ちゃんにね〜……」
 惚れこむとは……。よくわからないヤツ。
 テーブルに肘をつきながら、自分でも「あ、なんか結構ウザイかも」みたいな視線を送ってみる。
 けど、相変わらず心境のよくわからない態度でかわされる。
 けっ、うろたえてるのは心中だけで、表は何も変わらないでやんの。つまんないヤツ。
 椎名ちゃんとこの相模が……全くそんなこと考えもしなかったから、意外すぎて2人でいるところが冗談でも想像できない。
 話はまだ続いた。
 昨日相模が珍しく学校を休んだ(っていうか、来ても途中でエスケープしてるけど)理由が、椎名ちゃんたちの学校に出向くためで、しかも不審者扱いされたうえに椎名ちゃんにストーカー扱いをされて、結局キスを奪って逃げてきたらしい。
 その辺はなんていうか、節操なしな部分は健在だわ……。
 とどのつまり、珍しく、いや初めて相模が恋愛に本気になったということで。
 コーヒーが冷めるまで飲むことを忘れるくらいの動揺はした。……このモアイめ。せっかくのおいしいコーヒーが不味くなっちゃったじゃんか。
「今俺のことモアイって名指したろ。心ン中で」
 ずずっとコーヒーをすすりながら相模が言った。
「すごいね〜、超能力者?」
「いや、直感」
 悪びれもなく肯定すれば、しれっと答えるだけだった。
「……だから言うのは嫌だったんだ」
 まるで私と話したくないような素振りで、相模が呟いた。
 なによー、純愛初心者のくせしてっ。
 私が何かを言う前にハルが言い返す。
「だって祐、今のままじゃ今までと全然変わらないだろ? 俺が察してなかったら、どうするつもりだったんだよ」
「それは……」
 なるほど、相模は自分から言うつもりはなかったのね。まぁコイツのプライドから考えればまず他人に相談、なんてことはしないでしょうしね。
 それにしても、さすが男同士。私だけ蚊帳の外なのが気に食わない気もしないことはないけど。
 とにかく。
「今までの自分の行動を恨むんだね。フラフラしてるから、本気になったときに困るのよ」
 相模が何を言いたいのかは聞かずともわかるから、呆れも含んだ言葉を投げた。
「本気になるつもりはなかったんだから、しょうがないだろ」
 まぁそーね。アンタが本気になるなんて、世界が180°ひっくり返ってもありえないと思ってたしね。やっぱ天変地異くらいは起きるかも……。
 そんなことを考えながら相模の表情を窺えば「こんなカオもできるんだ」っていうくらい真面目で、ふざけた冗談を時折考える自分がバカに見えてきた。
 さすがの私もからかいの笑みを消す。
「はぁ〜……」
 何かを言おうとすると、悪い感じの言葉しか思い浮かばなくて、苦し紛れに溜め息をつく。今日は相模と一緒に向かいの席に座ったハルに視線を向けて助けを求めた。
 ……ハルの顔に「男には女の心はわからない」って書いてある。何? じゃあ私の事もわからないワケ?
 っていうとそういうワケでもないらしいけど、アドバイスは出来ないって訴えられれば、こっちも自分で考えるしかない。
 私や清水みたいな人間なら……まだカンタンだけど。何せよりによってあの椎名ちゃんだからなぁ……。
 目を泳がせて頭をポリポリと掻きながら考える。
 だって、椎名ちゃんなんだもん。どんな人だって、椎名ちゃんは難しい相手だと思う。
「……相模が、椎名ちゃんをどんな風に見ているのかっていうのが大事だよ」
 椎名ちゃんは、一目ぼれとかデキちゃった婚とか、全く信じなそう。ちゃんとした順序を踏んでっていうようなちょっとレトロな人だから。
「相模って結構関係持った人とかいるでしょ? そのことだって、椎名ちゃんが知らないはずないよ。清水が一緒ならなおさら」
「それは、そうだろうな」
 その淡々とした口調に逆にイライラしてくる。
 あーもうっ。そういう事を知られても動じないところが冷めてるようでダメなんじゃん。
 慣れすぎてる人間も善し悪しね。本気の恋愛に不器用なわけだ。
「……元々、恋愛なんて考えてない純情な人間が急なアプローチをかけられて、相手を信じると思う? ましてや遊び人で通ってる相模を知ったら、恋愛する前に絶望的と考えてもおかしくない」
 痛いところをつけば、閉口する相模。何か言いかけたけど、思いとどまったみたい。
「…………」
 だから人一倍いたわらなきゃいけない相手。どんなに求めても、強引過ぎれば心は離れていくだけ。
 それが嫌なら、もっとずっと考えて。
「目の付け所は人それぞれだから、私にはよくわからないけどさ。相模が椎名ちゃんをどう見ているかなんて。でも、中身を見ること。態度や口調で判断して、嘘の顔つくってたら、その時点で叶わない恋をしているのと同じ。本気になって考えることは相手の顔色見て合わせていくこととは全然違う。本当の自分でどれだけ頑張れるかなんだから」
 私1人の考えだけど、私はいつだってハルに本気でいる。
 嫌われたくなくて必死。でも全てを知って欲しい。恥ずかしくても一緒にいたいと思える。
 たまに相模がどうしようもなくムカつくこともあった。いつだって中途半端で、恋愛ごっこをガキみたいに楽しんで、相手がどんな気持ちでいるかなんて考えない、自己中心的な行動が。今だって嫌い。
 理由はハルと相模だけが知っている。相模が、人を信じられなくなった過去を。
 信じることを無意識に恐れているから、ムカムカしてくる。
 悲劇の青年を気取るでもなく、それを見えない隔てにして人から距離を保とうとする。
それは自分の事だけならまだいい。
 相手の気持ちが関わってくるのなら、そんな自己防衛、ただの迷惑にすぎない。
 情を込めるなら、そんなもの捨てたほうがいい。
 思っても、口には出さない。それは相模自身が自分で気付くことが一番ためになる。
 自分に害の及ばないような出会いや別れはその数だけ無意味な時間を過ごしてきているのと同じ。
 少しでも自分が傷ついてでも手に入れたいと思う出会いが相模にあるなら、それを手に入れればいい。
 思うことはそれだけだった。
「遊び調子で近づいたって、拒まれるだけだからね。……手強いよ? 椎名ちゃんは」
 わかってる……そういったのかどうか、私にはよく聞き取れなかった。
 でも、確実に何かには気付いているみたい。
 だってホラ、真剣に考えてる。今まで見た事がないくらい。
 恋愛って、すごいと思う。人をここまで変えられることだから。
 どうせなら、椎名ちゃんを幸せにしてあげなよね。
 ちょっとした期待を抱きつつ、冷めたコーヒーを口にした私は、次の瞬間「相模! コーヒー冷めちゃったじゃない! もう一杯奢りなさいよねっ」と渋い顔で言った。





 「こんな気持ちにさせるのは……」 side:椎名 和穂



 あいつのことが……あの相模という男のことが、頭から離れない。
 何でわざわざ、私に会いに来るだけなのに、あんなにも体を張った無茶が出来るんだ?
 ―――ん? 和穂に会いに来た。
 ―――今日はこれくらいにしておいてやるよ。
 何が「これくらいにしておいてやるよ」だ。はっ…初めてのキスを奪っておいて、恩着せがましいヤツだっ。
 あんなこと、早く忘れたいと思っていたのに、清水のせいで余計に脳裏に焼きついていた。
 昨日、5限を生徒会室でサボり、教室に戻ってきた清水は、何故か少し汗をかいているように見えた。全く、何をしていたのやら……と邪推をしたくなった私に向かって、そんなことなど気にもせずに清水が言った言葉が甦る。
『自分の気持ち、早く認めないと後悔しちゃうよ』
 それ以外、清水は何も言わなかった。だから不安になる。
 自分の気持ちが。
 本当の想いが。
 あんな、偽りだらけの人間に、心を開こうなどとバカげた事をしようとしているんじゃないかと。
 それは、自分のためにはならない。汚れた部分など、見たくもない。
 何より、失いたくない。そんな存在になってしまった者を。
 どうせ、一時の興味本位で、本気になるはずがないんだ、あの男は。
 失った者の気持ちなど考えもせずに、ただ熱が冷めてしまえば、あるいは生理的な性欲処理が済んでしまえば消えてしまうんだ。
「和ちゃーん、夕飯ですよ〜っ」
 階下から聞こえてきた義母(はは)の声にハッとして、頭を振った。
 何を真剣に、こんなことを……。大体、キスだって犬に噛まれたようなものじゃないか。
 あるいは……父たちの影響だろうか?
 3日前、父の再婚相手、つまり私の義理の母がこの家に引っ越してきた。
 わずかな時間だが、大分3人での生活には慣れてきたような気がしている。……義母――伊緒(いお)が明るく能天気という性格だからか?
 実の母の遺影を見るたびに私が感じてしまうのは罪悪感だというのに、伊緒ときたら「あなたとお話が出来たら、どんなに楽しかったかしら……」と、父との関係も気にせず、ご飯を供えながら言っていた。
 いつまでも自室にこもっていたところで意味はない。部屋の電気を消し、ゆっくりとしたペースで階段を降りてから、リビングに入った。
「伊緒、何か手伝う事とかはあるか?」
「ないわよ〜。もう終わっちゃったもの。さっき和也さんも呼んだから、先に食べてましょ」
 私や清水と同じ年のような口調で話す彼女を、私は伊緒と名前で呼んでいる。私が「母」と呼ぶのを躊躇っていたのが伝わっていたらしく、今では余計な気を遣わせてしまったと思うのだが、今更変えてしまうことにも抵抗がある。
『いいのよ。和ちゃんのお母さんは私じゃないんだから。でも、これからは家族になるんだし、仲良くしましょう? 和ちゃんもそんなに深く考えすぎるのは体によくないわ』
 その言葉に、安心感と、ちょっとした寂しさを感じた。伊緒にも不安がないわけではないのだと、改めて気付かされた。
 だから、罪悪感をも無理やりに押し込んで、明るく振舞う。いつしかその気持ちさえ薄れていってしまうのだろうか……?
 人間は忘れていく。ましてや生後すぐになくなった母のことなど、肉声ですら私の中には残ってはいない。覚えていないのだから。……そのせいなのか、遺影だけが妙に大きく見えてしまうのだ。
 黒く重みのある枠の中から、17年間、変わらぬ笑みを向けられていた。
 枠に触れれば、いつでも冷たく感じられる。そう、今だって。まるで、死人に触れているような、そんな冷たさが伝わってくると思うと、やはり心の中の暗く沈んだものを拭い去る事は出来なかった。
 それは、時に見えない圧力となって圧し掛かる。
 誰か、助けてほしい。幾度となく、心の中でそう叫びつづけていた。
「―――どうしたの? 和ちゃん。お箸も持たずにボーっとしちゃって。伊緒さん、先に食べちゃってるわよ?」
 御飯茶碗を片手に見つめてくる伊緒の言葉に、「何でもない」と慌てて答えてから、「いただきます」と、あふれ出しそうになる感情を押さえ込みながら呟いた。

―――こんな、過去にばかりとらわれて、今を見ようとしない私の何が貴様を惹きつけるというのだ……?



 次の日、私は学年でも悪女と称され、一部の男子からは絶大な人気を誇っているという噂の、芦野美紗に呼び出された。
 何を心配したのか、清水がついていこうとしたが、それは私から断っておいた。
 芦野のことは、清水や他の人から耳にして知っていたが、一度も話したことのない相手だけに妙な不審感を抱いてしまう。
 昼休みのせいか、人気のない体育館。このあとの授業準備ないらしく、2人だけで話すのには都合がいいのかもしれないが、何故こんなところまで来る必要があるのだろうか?
 別に嫌悪感など抱いてはいないが、雰囲気かやけにピリピリとしていた。反射的にポケットに手を突っ込むと、携帯が手に当たった。
 体育館の入り口を入ったところで、不意に芦野が口を開いた。
「椎名和穂……。あなたね? 最近祐が惚れこんでいるっていう女は」
 いかにも気の強そうな表情に合う口調だ。さっき教室では「椎名さんに話があるんですけど、いいかしら」って、怖いくらいの笑みを浮かべながら鈴のような声音で話しかけてきたというのに。二重人格も、ここまで酷いと、私だって辟易する。
 だいたい、勝手な勘違いもはなはだしい。
「……私は、あんな男に惚れこまれているつもりはない。何故そのようなことを芦野が気にする? 大体、それを聞くなら、あいつに直接聞けばいい。私に聞くのはお門違いだ」
「勝手に呼び捨てにしないちょうだい。知ってるのよ? あなたが、祐とキスしたこと」
 顔が引きつった。あの状況で誰かに見られているとは思わなかった……。
 どこから見ていたというんだ。
「それがどうした。あんなものキスといえるのか? 思いも何も無視をした強引な行為に過ぎないし、第一、芦野が気にかけることでもないんじゃないのか。……あんなのはただの事故だ」
 はぁ……一体何だというんだ。こんなことで呼び出されれば、余計に忘れられなくなるじゃないか。
 それもこれも、アイツが撒いた種だろうに。何故私にばかり火の粉がかかる?
 何の責任も持たず、私の周りも、気持ちも丸無視で、勝手にかき回すだけかき回す。最低なヤツだ。
うだうだと考えているうちに芦野が近づいてくる。次の瞬間に空を切る音がして、反射的に体を後ろに傾けた。
目と鼻の先を、芦野の平手が走る。即座に2、3歩後退って、一定の距離を保った。
「いきなり何だ、貴様は!」
「その開き直った態度が気に入らないっていうのよ。アンタみたいに可愛くもないコが、どうして祐に興味を持たせてるのか、全く理解できないわ」
「そんなこと、私が知っているわけがないだろう! いつもいつも、何が楽しくて私の周りをウロチョロしているのか、不思議なくらいだ」
 勝手な言われようについ反論する。何だこの女、人の気も知らないで、自分勝手に言っては手を出して。
 顔がろくでもないことを起こしそうな感じだった。私1人ではどうにかできないかもしれない。
 そう危惧し、ポケットに突っ込んだままの手で、携帯の電源を入れる。
 手探りでボタンを操作して、清水宛に「たいいくかんにすぐきてくれ。へんじはするな」と入れた。
 送信ボタンを押してから、また電源を切った。
 アナクロな人間だっただけに、清水に送れたことすら確信が持てるわけじゃないが、信じて待つしかない。
「ふん、まぁいいわ。あなたなんか消えちゃえば、所詮そんなこと気にする必要もないんだから」
「何が言いたい」
「別に言うことなんてないわ」
 その言葉から、私に何かをすることは最早明確だ。
 清水を待っている暇はなさそうだ。というか、最初から自分でこの場をさっさと抜け出せば済む話だったな……。
「……悪いが、することがあるんだ。そんなくだらない話に付き合うのはもういいだろう。これ以上何か続くようなら、また今度にしてくれ」
 そんな機会、二度とあるわけがない。わざわざ自分の身を危険にはさらせない。
 芦野が何かを答える前に、脇を抜けて体育館から出ようとした。
「……いわよ」
「は?」
 思わず振り返った私は、次の瞬間、鳩尾に衝撃を感じた。目の前が明かりをゆっくりと消えていくように、視界がフェードアウトしてくる。
「く、は……っ」
 倒れる前に膝を付くが、それでも体は傾いて、そのまま硬い床に沈んだ。
「―――っ……」
「そうはいかないって言ったのよ。……バカね、相手を侮りすぎよ」
 完全に意識が飛ぶ前に、閉じかけた目が芦野と、その周りにいつの間にか立っていた2、3人の男子の姿を捉えた。
 やっぱり……ロクな、……なかっ…………。



「………つぅ……? ここ、どこだ……」
 どれくらい時間が経ったのかよくわからなかった。
 殴られた(蹴られたかもしれないが)箇所を押さえながら、ぼやけている視界がはっきりとしてくるのを待つ。
 見えてきたのは、薄汚れた壁に囲まれて出来たここだった。
 部屋のなかはほぼ何もなく、窓とドアが1つずつあるだけの質素で、不潔感に満ちていた。
 もちろんといえばそうなのかもしれないが、窓は開けられない仕組みのようだった。
 せめてここがどこなのか、窓の外の景色を見て確認しようと立ち上がって動こうとした。 
 が、その途端、予想もしていなかったところに引力がかかった。
「ぅが……っ」
 一瞬息がつまる。
 とっさに振り向くと、壁から鎖が伸びていて、それは辿ると私の首もとにきていた。
 まさか……。
 首元に触れると、異様なものが首につけられているのがわかった。
 これは……首輪だ―――!!
 鎖はもう2本伸びていて、私の両腕を拘束していた。
 こんなモノを人につけるなどと……あの女、どうかしているぞ。
 何に固執しているのかは大体予想がつくが、だから私がどうしてこんな目に遭わなければいけないんだ。
 こんなことになったのも、すべて相模が悪いんだ。どうして私があんなヤツのために鎖で繋がれてなければならないんだ。
 何で、私なんかに「本気だ」と平気で言い放てる―――?
 私なんかの、どこがいいというのだ。男っぽくて、元々の性格や、言葉遣いから、人から退かれるような人間だというのに……。
 それが、自分の思っていることと、支離滅裂だということに気が付いたのはすぐだった。
 そう……そんな「見られている部分を気にしている」ような気持ち。明らかに、「こんな自分でもいいのだろうか?」という疑問であり、好かれていることに、喜びを感じていた。
 どうして、こんなことを私が考えなければならないんだ……。
 こんなときに何よりも先に浮かんだのが、アイツのふざけたような笑顔なんだ! 
 あんなヤツ……そう思うだけで、感情がわからなくなる。
 自分がアイツに対して、どんな気持ちを抱いているのか。
 認めたくない気持ちが強すぎて、自分が何を思っているのか、はっきりしない。
 何で貴様は……私を、こんな気持ちにさせるんだ……?
「……っ…バカ、やろう……」
 目の前が滲む。すぐに温かいものが頬を伝った。
 ……私は―――。
 それに気付いた途端、私は、自分が今までの中で、一番許せなかった。
 決めたことを貫けなかった事が。
 人に、気持ちを負かされてしまった事が。
 何より、自分のためにならないと言い聞かせていた事だというのに、信じようとしている自分が。
 そして、今までの中で、一番人を信じたいと願っていた。
 どこかもわからない、薄汚れた部屋の中で、1人でいることの孤独が、一瞬辛くなっていた。
 体中の力が抜け、立ち上がったばかりの体を、また床に落とす。
 怒りに震え、驚き、そして知らなかった感情が堰を切ったように溢れ出すのを、静かに感じていた。




 「その口から紡いで欲しい」 side:相模 祐



「ふあぁ〜あ……」
 今は昼休み後の5限。この時間ほど眠くなる授業は無い。
 いつもはエスケープだが、この時間は、今週末に行われる全国模試対策だった。
 何せ、私立校。少しでも成績をアップさせて、入学率を上げさせようとしているおかげで、熱の入れようが半端じゃない。……まぁそれは大学入試とかにも共通して言えることだが。
 別に俺は受けなくても大丈夫だとわかっているのに、どうしてか、担任を含める数人の教師の手によって、ロープで椅子に縛り付けられ、ご丁寧なことに両手もロープで自由が利かなくなっていた。ったく、俺の頭をなんだと思ってやがる。こんな授業、俺はまっぴらだっつーの。今更何を心配してんだかな。
 手先が器用なおかげで、縄抜けの出来る俺には結局無意味なことに変わりはない。
 だが、さっきから眠気が襲ってきているせいで、上手くロープが解けないでいた。
 その最中に出てしまった欠伸を目ざとく聞きつけた担任が、黒板にわかりきっているような事を書くのをやめて、くるりと振り向いた。
 目は初めから俺だけを凝視していた。どこの誰が欠伸をしたのかさえもわかるとは……教師は侮れないもんだな。
「おい、相模。お前真面目に授業聞いてるのか?」
 ちっ、煩い。こっちはいろいろと忙しいんだよ。
 半分虚ろだった目をこじ開けて答える。
「は〜いはい、ちゃんと聞いてますよ〜……」
 喋った途端にまた欠伸が出た。その返事は、担任の御気に召さなかったらしい。
 くるりとまた黒板の方へ向き直った担任は、今まで書いていたこととはあまり関係のない数字や記号を羅列し始めた。
「この問題の解答を、今すぐに言ってみろ」
「…t+C」
 けっ、俺にはそんな典型的な問題の出し方は通用しないんだよ。口で言わなくちゃわかんねーのか、全く……。
 俺が即答すると、バツが悪かったのか悔しかったのは定かじゃないが、何も言わずにまた担任は授業を再開する。
 そのおかげか、頭の中が冴えてきて、気付けばもう両手を縛っていたロープが解けた。
 まさか手のロープが解けるとは思っていなかったらしい。椅子に俺の体を縛り付けているロープはいとも簡単に解けた。
 そのとき、俺のカバンの中から携帯の着信メロディーが流れた。担任を含めたクラスの視線が俺のほうに集中する。
 誰だよ、こんなときに。授業中は誰もかけてこないはずなのにな。ロープが解けてなかったら、間違いなく俺は担任にタコ殴りにされるところだ。
「まぁたぁお前か〜っ! 授業中は携帯の電源を切っておけと、あれほど言っておいただろうが!! 口だけじゃたり……」
 そこでドスのきいた言葉が途切れたのは、俺が自由になったばかりの手で携帯をカバンから出したからだ。
 液晶画面を見ると、見覚えの無い番号が表示されていた。ちっ、間違い電話か?
「おまっ…ロープで縛っておいたはずじゃ……」
「あぁ、これのことか? 今時こんなんで強制参加させようなんて、センセーも甘いよな」
 立ち上がって、解いたばかりのロープを顔のところまで持っていってから、ハラリと落としてみせ、大きく伸びをした。
「なっ………」
「悪いな。今日はこれで帰らせてもらう。わかりきったことを何度も何度も聞かされるのは、こっちもうんざりなんだよ」
 教室がざわめきだす。煩いクラスメイトと、口をバカ以上にあんぐり開けた担任を尻目に、ルーズリーフと財布と筆記用具しか入っていないやけに薄っぺらなカバンを、鳴り続けている携帯と一緒に持って足早に教室を出た。
 携帯のメロディーが廊下に響きだす。このままじゃ、他のクラスから先公が出てきてまたピーチクパーチク言ってくるぞ……。
 瞬時にそう判断してから走り出す。
 いい加減間違い電話だと気が付けばいいのに、未だ携帯は音を奏でていた。
 俺は埒があかないと、切れてくれることを諦めていささか不機嫌な声で電話に出た。
「誰だ、お前?」
 初っ端からその出方はどうかと突っ込まれそうだが、今は誰もいない。
 携帯から聞こえてきたのは、やけに聞き覚えのある声だった。
「あ、相模祐? ……川瀬清水だけど」
 その名前に数秒考えてから、思い出す。
 そーだ、和穂の+α的存在。
「って、何で俺の番号知ってるんだよ」
 聞かなくても大体予想はつくが……。一華のヤツ、勝手に余計なことまで教えやがって。
 今度はこっちが和穂の番号聞きだしてやる。
 俺が額に怒りマークをつけているのに気付けやしない清水は俺の質問を無視して続ける。
「そんな事より、今から学校出られない?」
「今逃走中。言われなくても、出るところだったんだよ。用件だけ簡潔に述べろ。ただし、1分以内だ」
 はぁ〜、これが和穂の誘いなら断らねーんだけどな。
「そんなこと言ってられないの! 1分以内に話せる内容じゃないし、電話でいうのもなんだから、出来るだけ早く、琳連れて駅に来て! 今うちの学校の最寄り駅にいるから。アンタならわかるでしょ?」
 確かに1分もかからなかった。
 俺は昇降口の目の前で立ち止まった。
「って、おい! 俺だけならまだしも、どうして一華まで連れて行かなきゃいけないんだよ。あいつ今授業……」
 中、とまで言わなかったのは、その途中で既に携帯は切れていたからだ。
 それは俺も同じだが、根本的に一華と俺は態度や立場が違う。
 ホントになんだよ! いきなりかけてきたと思ったら難題押し付けてさっさと切りやがって……! 大体な、テメーになんの義理があるってンだよ。
 俺はこのまま無視って、フラフラしようかと思った。すると妙な胸騒ぎを感じた。
 …………。
 あーっ、くそ!
 川瀬の切羽詰ったような慌てた声を思い出して、俺は一華の教室に行くために、来た道をまた戻り始めた。




「ねー。何で私があんたに拉致られなきゃいけないわけ? 晴哉ならまだしもさ」
 さっきから背中でピーチクパーチク煩い一華と一緒に環状線に乗って、俺達は川瀬がいると言った駅に来ていた。
「知るかよ。川瀬がお前連れてこいって電話寄越しやがったんだ。それに、晴哉がエスケープするわけにはいかねーだろ」
「じゃあ私はいいってわけ!?」
 今度は逆ギレ。何でこんなやつと晴哉が恋人同士なのか、理解に苦しむな。
 しかもヘンなところで性格悪いしよ……。
「そーだ。いい加減黙らねーと、猿轡かますぞ」
 手ぬぐいも紐も持っていなかったが、とりあえず言っておく。俺の心情も少しは理解できたようで、拗ねたように黙った。
 改札を出たところで周りを注意深く見渡すと、制服を着てやけに落ち着かない様子の女がすぐ近くにいた。―――川瀬だ。
 こっちが声をかける前に向こうが気付いて、そんなに距離があるわけでもないのに走ってくる。表情も切羽詰ったような感じだ。
「一体なんだよ、いきなり。一華はともかくとして、何で俺までお前に呼ばれなきゃいけねーんだ。こっちだっていろいろあんのによ」
「よく言うよ。サボった理由なんて、どうせゲーセンのくせに」
 後ろからチクチクとした口調で一華が突っ込む。俺はチラリと目を見やって「煩いな」と返した。
「そんなこと言ってる場合じゃないんだってば。……か、和穂が……誘拐されちゃったの!!」
 さっきよりも少し大きめな声で必死に川瀬が言った。その途端に、一瞬空気が凍る。
「………はぁ? 何だそれ。どんな冗談だよ。大体、おめーら学校にいたんだろ? 誘拐なんて……和穂に個人的な用事があって早退でもしたんじゃねーのか?」
 笑えるようで笑えない冗談に、俺は眉根を顰める。……冗談だけで、川瀬が学校を抜け出すなんてことは考えられないが、冗談を信じたくはない。
 そんな俺の気持ちを裏切るように川瀬が続けた。
「違うって! 先生は何も聞いてないって言うし、帰るときはいつも一緒だから、理由があるなら予め言うはずだよ。それに……」
「それに?」
 関連性を疑うかのように目を伏せて何かを思い出している川瀬に俺は聞き返す。
「それに、昼休み……芦野っていう女子が、今まで何の接点も無かった和穂に話しかけるなんておかしいし……。今の時期にあの芦野なんて……アンタ絡みでしか思いつかないから呼んだの。……ねぇ相模、芦野美紗って人のこと、何か知ってる?」
 川瀬が10センチほど下から、訝しげに俺を見ていた。その瞳には、明らかに俺に疑いの色を浮べている。結構、ニガテで嫌な目だ。最も、その手の視線には慣れていない所為もあるかもしれない。
 芦野……美紗?
 俺は居心地の悪さを感じながらも頭の中にある名前を次々と引っ張り出す。女絡みじゃ、俺の記憶も当てにはならないが、芦野の名前はそう考えないうちに出てきた。
 確か、夏休みの後半あたりに何回か会ったことのあるやつだ。ヒマだったときに逆ナンかけてきたから適当に付き合っておいたが、あんまりタイプじゃなくて携帯を変えたときに縁も切れたんだよな。
「それが何で今になって……」
 俺がボソリと呟くと、後ろから刺すような言葉がかけられる。
「アンタの所為でしょ」
 くるりと振り向くと、事情を察知したらしい一華が俺を睨んでいた。
「どういう意味だよ」
「どうもこうも。自分勝手に好き勝手し放題してるから、椎名ちゃんにちょっかいかけだしたのをその芦野ってヤツが根に持ったんでしょ? 元をたどればアンタの所為だって言ってんのよ」
 伊達の晴哉側から俺のことを見ているだけあって、俺の一言で関係を把握したみたいだ。
 その言い方が気に食わなかった俺は、一華の襟を掴む。周りの人間の目が俺と一華に注がれているが、今は気にならなかった。
「んだと……!」
 さすがは居合をやってるだけのことはある。たとえ襟首をつかまれても、普通の女子のようには怯まない。意志の強さを表すような瞳で俺を見据えながら、一華は続けた。
「アンタのそういうところ、私は大嫌いだった。その場その場で、相手の気持ちを考えることもせずに、自分だけが満たされればそれでいいと思って。そのくせいつも必ず一歩引いて、卑怯な人間だった。人が人を好きになるってことは、それだけリスクを伴うことでもある。人間、本気になれば人一人、いつでも殺せる力は持ってるの。それと同じ。執着や、異常なまでの感情は時として凶器になりうる。きっと、今回のことも同じよ」
「…………っ」
 だから何だ。……以前ならそう言い返していたのかもしれない。「人を信じられなくしたのは、お前ら周りの人間だろ。今更何を本気になる必要がある。本気にならなくても、別に生きてはいける、そうだろ?」と。
 だが今は……俺は一心に自分のことだと受け入れていた。確かに一華の言う通りかもしれない。今までの行動が、俺の我侭だってことも……和穂に会ったことで、和穂を手に入れたいと本気で思えるようになって、一華に言われたことで、やっとわかった気がした。
 俺はフッと力が抜けて、ゆっくりと掴んだ襟を放す。
 乱れた襟を整える一華と、黙りこくった俺を見てオロオロしながらも川瀬が口を開いた。
「と、とえりあえず、和穂を助けに行こう。和穂の携帯、GPS対応型で、メールで現在地の情報を送れるようになってて……さっき、携帯に情報が入ってきたから、それで探そう!」
 二つ折りの携帯の画面に映し出されてた地図を見せながら川瀬は少々困惑しつつも言う。
 そこはここの駅に程遠くないあたりの地図で、赤い点がチカチカと点滅していた。そこが和穂のいる場所なのか。
 俺は地図を食い入るように見た後で、ハッとなる。
 ここは……確か廃ビルがあったはずだ。絶好の夜景スポットだからと、一度誰かに連れてこられた気がする。その「誰か」も思い出せない。それだけ、俺は無駄なことをしてきたんだろうか?
 今はそんなことで悩んでる暇はない。
 俺の頭の中では、一華の言葉が反芻している。
『人間、本気になれば人一人、いつでも殺せる力は持ってるの。それと同じ。執着や、異常なまでの感情は時として凶器になりうる』
 芦野……和穂を連れ去るくらいだ。和穂の身に何があってもおかしい状況じゃない。
「それと……琳には一応コレも渡しておく。護身用にね。学校から失敬してきた」
 思い出したようにそう言って、どこからか川瀬が取り出したのは黒くて少し重たそうな扇子のようなものだった。多分「鉄扇」だ。
 いつだったか、それで一華に頭を殴られた事がある。何をしたのかはサッパリ覚えてないが。
 鉄扇を川瀬から受け取った一華は、表情が一瞬強張ったように見えた。
 そこまで危ない人間だったのか……と疑ってしまうが、用心に越したことは無い。向こうが1人とは限らない。
 準備も整ったところで、早速地図を頼りに駅を出る川瀬を一華と一緒に追う。
 どうしてか、嫌な予感が頭をよぎる。和穂の目が、光を失ったような映像が脳裏に浮かぶ。

 こんなに不安にさせるのは、お前だけだ。

 やっと、人を愛する事ができると確信できたのに。

 その張本人が消えてくれるなよ。

 じゃなきゃ俺は。

 きっと今まで以上に臆病になる。愛するものを手に入れることにいつでも引き腰になる。

 失うことを今まで以上に恐れる。

 信じることも出来ないまま、生きていかなきゃいけないかもしれない。

 まだ、何も言ってないだろう?

 俺も、和穂も。

 俺は最後までお前の言葉が聞きたい。お前の気持ちを。

 だから―――無事でいてくれ!





 「どうか叶うなら」 side:椎名 和穂



「〜〜〜〜っ……」
 茜色に染まり始めた空に照らし出された部屋の中で、幾度目かの溜め息を洩らす。
 奇跡的にポケットに入っていたGPS対応の携帯から、私の現在地を清水にメールで送って既に1時間以上経っている。気を失っていたせいもあって、送信が遅れたのも致し方ないことだが。
 本当は電話をしたいくらいだが、扉の向こう側にはご丁寧にも見張りが立っているらしく、薄いドアから丸聞こえになってしまう。
 随分と体がだるくなっていた。先ほどまで拘束具を外そうと躍起になっていたからだ。
 鎖の大きさや手枷の頑丈を見れば、そんなことをしたところで私の力では外れるわけがないとわかっているはずだというのに。
 途方に暮れたようにしゃがみ込むのは癪に障る。だから立ったまま窓の外に見える景色をボンヤリと眺めていた。
 夕暮れの日差しがいい具合に照りつけていた。まだ暑さの残るこの時期のせいで、何もしなくとも汗が体外へ流れ出していく。
 ……足掻いたのは、不覚にもあんなヤツに会いたいと思ってしまったからだった。
 こんな状況で、そんな単純な情に流されて冷静さを失うなど……情けない。
 私は自分に対する怒りと同時に、自分自身が愚かに見えてしまうような行動をとってしまっていた情けなさに唇を噛んだ。
 その時、ドアノブを回す音がして錆び付いたドアが不快な音を立てて開く。強面の男と共に入ってきたのは芦野だ。
 どうやら、男は芦野のファンか何からしい。それで何でもホイホイ言うことを聞く事に怒りを覚える。「貴様らは本当に男か!」と一喝してやりたいくらいだ。
 眉を吊り上げて睨みつけると、皮肉を言うかのように若干化粧の濃いその顔に、芦野は見下したような不快感を煽る笑みを浮かべた。
「いい格好ね、椎名サン?」
 悪女丸出しのこの口調。……性根が腐っているに決まっている。
 自分中心に物事を強引にでも進めていき、していいことと悪いことの区別すら無視をして。
 それはある意味、相模でも同じことなのに、これほどの不快感を抱いたことはない。何故だろう?
 自問するが、自答はない。あるいは、答えることを何かが阻んでいる。
「……っ、こんなことをして、許されると思っているのか」
「べつに。誰に許してもらうって言うの? あなたに許してもらう必要なんて、初めからないわけだし。それより、まだ自分がどういう状況に置かれているのか理解していないようね」
 それこそ理解する必要もない。元々、こんなところに誘拐されることなんて、考えてもいなかった。理由は……相模の強引な行為に被害を受けている私に対する嫉妬、というところか。
 この手と首が自由なら、今すぐにその化粧面を張り倒してやりたかった。ふざけるな、と。
 どんな言葉が返ってこようと睨み続けていた私に、芦野は笑みを歪めた。
 不意に芦野がカツカツと近づいてきたと思ったら、いきなり腹を蹴られる。あまりの痛さに腰を折った私は横から更に蹴りを入れられ、無様にもその場に倒れこんだ。
 その反動で首を鎖に引っ張られ、息を詰まらせる。
「か、はっ……」
 咽て激しく咳き込む私を前に、さも面白げに芦野は笑っていた。
 笑い声を小さく洩らしながら、芦野は私の髪を掴んで持ち上げた。倒れたときに頭も打ったらしく、私は少し朦朧としていた。
「………っ」
 痛みに顔を歪ませながらも、芦野を睨みつけることは止めなかった。
 それが嫌だったらしく、芦野の顔から不快な笑みが消えた。
「その生意気な顔が気に入らないのよ。……少しは弱々しくなってくれないと、いつまでもなぶりたくなるわね」
「貴様のような人間以下の常識しか持っていないヤツの前で、弱々しくいられるか。貴様などさほど美しいとは思えないその顔にヘコヘコしている男共に、その人間以下の常識を掲げて女王気取りでもしていればいいんだ」
「この状況で、よくもそんな口がきけるわねっ」
 パンッと乾いた音を立てて、私の頬が芦野の平手によって衝撃を受けた。
 音の割には威力が強かったらしく、口の中に鉄の味が広がる。
 先ほどの言葉には多少言い過ぎた部分もあったが、別に反省はしない。
 ただ相手の原理のわからない怒りが増してしまったのはマイナスだろう。
 まったく、どうして早く来ないんだ、清水! そんなに遠いところでもないだろうに。
 何をされるのか予測が出来ない以上、助けが来ないことによって不安は募るばかりだ。
 少しばかりの焦りと不安は一気に肥大していく。不安を感じる要素は、何か別のものではないかと考えてしまう。でなければ、たかがこれくらいのことで冷静さを欠くような不安は生まれない。
 どうでもいいようなことばかりが頭の中をぐるぐると渦巻くのをストップさせる。そんな私を見て何を思ったのか、芦野はポケットから鋏を取り出した。
「その長くて黒い髪もウザッたいのよね。そんなに祐を惹きつけたいわけ? 迷惑なのよね、ソレ」
 そんなつもりは全くない。……どこぞのアイドルか、あいつは。
それにしたって、酔った親父か、この女。いきなり難癖をつけて……鋏は…まさか。
 摑まれたまの髪をチラリと見やったあとで、顔が強張る。
 その様子に満足したのか、芦野の顔にはまた笑みが戻る。皮肉をたたえたような笑みを。
 何をするのか理解した私に見せつけるかのように、髪の端から10センチくらいの場所で鋏を入れる。
 鉄が擦れ合う音がすぐ目の前でして、黒い糸のような髪の塊がはらりと足元に落ちていった。
「こうやって、少しずつ切っていくのも面白いかもね」
 芦野は不気味なほど残酷な笑みを浮かべながら、また別の場所に鋏を入れていく。
「やめろ!!」
「やめろ、と言われてやめるほど、私はバカじゃないの。何を言っても、今のあなたには何の意味もなさないわ。坊主になるまでじっとしていた方が身の為よ。間違えて、目に鋏が刺さったりしたら大変だものね?」
 さも楽しそうに言い放たれる。一瞬、冷たいものが背筋を滑り落ちていった。
 こんなヤツに「恐怖」など抱いてどうする。
 何が「怖い」というのだ。
 震えださないようにするのが精一杯だった私の髪は容赦なく切られていく。
 だんだんと、足元に黒い塊が増えていった。
 どれくらい切られただろうか? 目の前にある鋏の刃と芦野を交互に見ながらそう考えていたときだった。
 薄いドアの外がなにやら騒がしくなる。……誰かが争うような音が聞こえて、次にドサリという重い音が聞こえた。
 さすがの芦野も鋏を動かす手を止めてドアの方を見た。いち早く異変に気が付いた芦野の側にいた男は、物音一つしなくなったドアの向こう側を覗くためにドアノブを回してゆっくりと引く。
 ドアがギギギ……と音を立て始めたのも束の間、いきなりバタンと勢いよく外側から開けられる。蹴破ったのか、最初に見えたのは部屋の外から突き出た足だった。
 それが誰のものなのかすぐにわかった私は、心臓が一回大きく跳ねた。
「このっ……」
 ドアを蹴破られた衝撃で床に倒れこんだ男は、招かれざる来訪者に襲い掛かるが、それが無駄に終わることは予測できていた。
「やああっ!!」
 覇気のある気合いとともに部屋の外から繰り出された蹴りは、男の腹を見事にとらえた。男は腹を抱えるようにしながら倒れこむと、呻き声をあげる。きっとこいつには屈辱的な事になることは間違いないだろうな。女にのされたのだから。
「なっ、何!?」
 慌てた芦野が鋏と髪を放した。床に落ちた衝撃で、鋏はカタカタと音を立てた。
 窓からの陽光によって出来た影でよく見えなかったが、部屋の中に入ってきたのは、思ったとおり清水だった。
 私の姿を目の当たりにした清水の目は大きく見開かれ、そして細くなる。
「やっぱり、あなただったのね、芦野サン。ウチの世間知らずを連れ去って、何をしていたのかな?」
 清水の声はいつもと変わらないが、その目は真っ直ぐに芦野を見据え、怒りが見え隠れしているように感じられた。
 数秒間張り詰めた空気が漂った。が、その空気を破るようにまた新たなる来訪者が部屋に飛び込んできた。 
 それは、清水の友人で以前何度か顔を合わせたことのある一華琳と……相模だった。
 どうしてか心臓が一段と大きく跳ねる。相模が来てくれた……?
 だが、浮かれたその気持ちもすぐに萎んでいった。
 いや……事の状況を把握した清水に問い詰められて、自分がしたことの責任を取るために来ただけなのかもしれない。私だけを思って……来たのではない……?
 そう思うと、胸が締め付けられるようにキリキリと痛んだ。
 それはある意味、当然のことだ。だが、私はそれ以上に相模に何かを求めている。
 ……その気持ちを否定する余力は、最早残ってはいなかった。
 鉄扇を構えていた琳と、息を少し乱しながら立っている相模をただ見上げていただけの私を見た相模は、芦野に何かを言うでもなく、私に静かに歩み寄ってきた。
 芦野は後退るが、相模は気にも留めずに私をずっと見ていて……いきなり抱きしめられる。
「―――――っ!?」
 予想外の出来事に思わず息を詰めた。強張った体を、まるで離すまいとするかのように、相模は腕に力を込めた。
 耳元で聞こえるくらいの声で囁かれる。それは私だけに向けられた、謝罪の言葉だった。
「俺の所為で、こんなことに巻き込んじまって、本当にごめんな。お前を助けに来た。今度こそ、俺を変えてくれるお前の言葉を聞くために、な」
 低く、思いつめた声音で紡がれたその言葉に、胸がジン…と熱くなる。
 私のため……それは本当なのだろうか?
 抱きしめられていては、相模の顔は見えない。真実なのか、偽りなのか、自分で満足に確かめることもままならない。
 慰めの言葉を、ただそれらしく言っているだけなのかもしれない。こんな時にでも、私を落として楽しもうとしている気持ちは変わらない人間なのかもしれない。相模なら、そうであってもおかしくはない。
 そんな疑問が浮かんでは消えを繰り返す。
 それでも最後は、結局信じたい気持ちが上をいった。
 私を抱くその腕がとても暖かくて、何よりも嬉しいと感じて。
「――――遅い……っ。来るならもっと早く来い、ノロマめ……」
 小声で、しかもこんな時に、助けに来てくれた人間に憎まれ口をたたく。
 それだけしか、言える言葉が思い浮かばなかった。
 そうでなければ、知らず知らずのうちに、本当のことを口走ってしまうかもしれない。
 ……本当の気持ちが溢れてしまいそうだったからだ。
 溢れたら、自分でも止めることは出来ないという不安があった。
 ――――母の死、父の再婚、自分の本当の思い。それら全てから、私は目を背け、いつも逃げていた。
 直視しているように思うことで、自身がそれに囚われていることを、それによって人を信じることへの不安を隠そうとしていた。
 そんな自分を好いてくれる人間など、存在するわけがない。
 それでも、今、私を包んでいる心地の良い体温は本物だった。
 失いたくない。
 私は心の底から強く願い、相模をそっと抱き返す。
 きっと……大丈夫なんだ。
 私自身の両手が、相模を、一番大切にしたいものを抱いているんだ。
 大切なものに、強く抱かれているんだ。
 叶うなら、ずっと、このまま。このまま一緒にいて欲しい。
 思えば、私と会ったとき、無意識だろうが……見せていた笑顔は初めて話しかけてきた愛想の良いつくった顔ではなかった。本物の……笑顔だ。
 その笑顔を、私だけにくれないだろうか?
 笑いたくなるようなその問いかけを相模に言うことのないまま、まるで波が引いていくかのように身体の力が抜けていくのを感じていた。
 意識が完全に途絶えるまで、私は相模を離さなかった。




 「つかまえた」 side:相模 祐


 そこは一度行ったことのある、工事が途中で打ち切られた廃ビルだ。
 どんな経緯があってそうなったかなんてこと、デートスポットとしてしか見ていない人間には余分な知識だ。だからよく知らない。
 内部はほぼ完成間近だったらしく、まともに出来ている部屋がほとんどだ。
 噂では、あと数ヵ月後にはビルの解体が行われるらしい。
 俺たち3人は和穂が清水に送ってきたGPSの情報を元にここへ来ていた。
 人の出入りは、この時間だとホームレスか物好き以外はないはずだ。だというのに、その寂びれた風景には不釣合いな真っ黒な学ランを身に纏った高校生らしき人物が2人ほど、1階のフロア部分に立っていた。
 それでも俺が身構え、何をしようかと考えをめぐらせているうちに、川瀬と一華がさっさと片付けて、ついでに和穂の居場所まで拷問のように聞き出してしまっていた。
 その立ち回りを見て、俺は心の底から「こいつ等を敵に回さなくて良かった」と思った。
 和穂がいたのは、2階にある倉庫のような他の部屋より狭い場所だった。
 そこにはやっぱり、久しく顔を見る芦野がいた。壁際にいた和穂は首輪がつけられていて、俺は一瞬理性を失いかけた。足元に落ちている黒い糸のような物の塊は、和穂の髪だということに気付くのにもそう時間はかからなかった。
 俺は芦野の前を素通りし、和穂に駆け寄った。芦野をどうするかよりも、信じられないほど弱り果てている和穂の方が心配だった。だが、何を言っていいのかわからない。
 ただわかるのは、和穂の今の状況があまりにも痛々しいことだった。首と両手首を壁に突き出ていた輪から鎖によって繋がれて体の自由を奪われ、いつも気の強い性格を表すかのようなその瞳には最早弱々しい光しかたたえてはいなかった。
 こんなに…ボロボロにさせたのは、俺の所為だ。
 どうして、こんなに大事なときに大切なモノを守れない? ……何でこんなに情けないんだ。そうであってほしいと思うことが上手くいかない?
 こんな和穂は、和穂じゃない。俺が惚れた女じゃない。
 そうさせたのは俺なんだという事実が、余計に俺の中で大きくのしかかってくる。
 そんなことを考えている場合じゃないことに気が付いて、和穂になるべく今の心情を悟られないように呟く。…そこで抱きしめたのはほとんど衝動的だった。抵抗されると思っていたのに、意外にも和穂は動こうとしなかった。
 それが何故だか悲しかった。
「俺の所為で、こんなことに巻き込んじまって、本当にごめんな。お前を助けに来た。今度こそ、俺を変えてくれるお前の言葉を聞くために、な」
 心臓の音がやけに大きく聞こえる。和穂が何を考えているのかわからない。
 相手の表情が見えない不安を感じたのはこれが初めてだった。俺はまだ、和穂に受け入れられたわけじゃない。どこかで疑われていて当然だ。
「――――遅い……っ。来るならもっと早く来い、ノロマめ……」
 和穂はただそれだけしか言わなかった。いつもの覇気は無いが、それでも和穂らしさはまだ残っていたことに安堵した。
 一度和穂の手に力が入ったが、すぐに和穂の手の感覚は背中からなくなり、ガックリと俺に体を預けるような形で動かなくなった。
 体を離すと、和穂は完全に気を失っていた。度重なる不安や緊張から、俺たちが来たことで解放された所為だろう。
 和穂につけられた鎖が張らないように壁際の床に和穂の体を横たえた後、ゆっくりと立ち上がった。手ぶらな今の状況じゃ和穂の身を完全に助けてやることは出来ない。
 今は決着をつける事が先決だと、芦野に向き直る。
「どういうつもりだ、芦野」
 先ほどとはまるで違う、低く重い声音だった。見なくても険しい事がわかる俺の表情に芦野はたじろいだ。
「どうって……。祐がこの子と仲良いから、誑かしてんじゃないかって心配してたのよ」
 そんなことあるわけがない。言い訳にもほどがある。
 別に訊かなくても俺自身に自覚はあった。大体の予想もついている。
 芦野は俺が和穂に惚れていることを知った。相手にされない事が悔しくて、和穂を連れ去って監禁しようとしたというところだろう。
 その理由を、目の前にいる女は全て和穂の所為にしようとしている。何も知らないくせに、少しでも私利私欲のためじゃなく俺のためを装って。
 もしここで俺が反論すれば、また嘘八百のでっちあげを聞かされて、余計に面倒ないことになりかねない。
 ふつふつと沸き起こる怒りを冷静に抑えて俺は話した。
「はっきり言うがな、俺はもう芦野が知ってる俺じゃない。誰でもいいっていう人間じゃないんだ。だから、もう何をされても芦野の相手はしない。どんな卑劣な手段を使おうとも、俺の中に、お前はもういないんだ」
 自分の身を守るためのプライドなんて、今は必要(いら)ないんだ。
 他人のためにプライドも捨てられるような人間になった俺と、いつまでも固執している芦野は違う人間なんだよ。
「…………」
 言葉にのせた俺自身の気持ちに気付いたのか、その一言で弁解しようと開きかけた口を閉じた。
 俺はその沈黙の間に、養父―――豊が言った母さんの話を思い出していた。
 ずっと前のことで、俺も忘れかけていたことだった。
 その日、俺は珍しく豊と夕飯をとった。いつもは豊のヤツも夜中に帰ってくる事が多かったし、俺は俺で外で済ませていた。
 目の届かないようなところで、色んな人間と好き勝手で切るのは、豊の目がないわけではなく、豊が俺に数人の「監視人」のような人間をつけているからだ。俺もそんなのにはとっくに気が付いていたし、だからといって遠慮するわけでもなく、堂々とホテルに入ってはいたが。
 いざというときに、俺を助けるように指示はしているらしい。本人はどう考えても教えてくれないだろうと、数日の間にそいつらを捕まえて吐かせて知った。
 まぁ何をしても、所詮は豊が愛した母さんの息子ってわけだ。
 豊はそいつらに逐一報告を受けているらしいが、何をしても俺の行動は豊の守備範囲内なのか何も言ってこない。それが普通だとすれば、いつも通りなのにどうして一緒に食べようと言い出したのか、俺は首を傾げていた。
 久しぶりにシェフの作った料理に舌鼓を打ちながら豊が話を切り出してくるのを待っていると、やけに真剣な目で豊が俺を見ていることに気付く。
「な、何だよ。気持ちわりぃな」
 ナイフとフォークを置いて、未成年の俺にまで用意されていたワインを躊躇うことなく口に含む。アルコール度が低いことはわかっていた。
 そんな俺の言葉に豊は苦笑を洩らす。
 本当にこの人のことはよくわからない。のほほんとしているくせに、やることはきっちりこなしているし、感情とか、行動とか、未だによく意図が掴めない。
「祐、最近荒れてるね。そんなにこの環境が嫌?」
「嫌だったら、とっととこんなトコ出てってるよ。いきなりなんだよ、ったく」
 少し不機嫌な顔をすると、向こうは気にした様子もなく、テイスティングをするようにグラスの足を持ってクルクルとワインを回し始める。
 ワインの色を見ているようで、その向こうに見える俺を見ている。俺自身ではなく、俺の中身をはかろうとしている。だからこの人はくえないんだよ……。
「知ってるよ。祐が何に対してそんなにイラついているのか」
「何が言いたい」
「いや……。真美だったら、何て言うだろうかって、考えてたんだよ」
 突然母さんの名前が出されて少なからず反応したが、あえて何も言わなかった。
 十分に回して、俺ごと吟味したワインを上品に飲んでグラスを置いた豊はいつにも増して切なげだった。
「祐は、中身を見ない人間にばかり囲まれている。だから以前の環境の方がいいと思った。だけどそれは僕の考える形じゃない。やっぱり、真美は僕に祐を託してくれたから、できるだけ大切にしたい。だから、よっぽどの事がない限りは、何をしても、今までもこれからも僕は何も言わない」
 豊の目は、俺を見据えていたが、俺の中に映る母さんも一緒に見つめていた気がした。
「真美は、結局最期になるまで僕を信じる事が出来なかった。真美がその時まで何を考えていたのか、今でも僕にはわからない。けれど僕は後悔はしていない。最後には君という希望を僕に託してくれたんだ。……人を信じるということは、その人からも信用されることで初めて気持ちが通じ合うことに繋がるんだ。祐が「この人でなければ嫌だ」と言えるような人がいないのなら、僕はこのままでも仕方ないと思う。今の祐には関係ないと思うかもしれないけど、本当に欲しいものは、どんなことをしてでも追いかける。それが人間なんだ。自分で掴もうと必死になる。少なくとも僕は、真美が初めてだったね」
 言い終えてからまた豊はワインを口に含んだ。俺はわかりきったことを言われているのに、どうしてかその長い言葉が、ずっと鼓膜に焼き付いて離れなかった。
 だから今は出逢えなくても、別に不思議じゃない。けれど見つけたときに、自分と同じようにはならないで欲しい。……心の中で、豊はそう言っているのだと感じた。
 ……豊にとって、母さんは気まぐれに声をかけるような相手じゃなく、たとえどんなことをしていたとしてもただ1人の「信じたい相手」だったんだろうな。
 母さんの何が、そこまで豊を惹きつけたのか俺にはわからない。だけど、人が人に惹きつけられるっていうことを、実際に和穂という1人の人間と出逢って、少しわかったような気がした。
 ほとんど確信できることはない。プライドが邪魔をして素直になれない。けど今は「守りたい」とただそれだけを思って立っていた。
「―――芦野。お前にも、今まで俺と関係を持った奴にも、今は悪いことをしたと思っている。実際、中身を見ていなかったのは俺の方かも知れない。自分の方から相手が何を考えているのかってことを考えるのを拒絶して、一概に「そういう人間」と決めつけて、言いわけを作っていたのかもしれない。けど、和穂と会って、コイツに本当の気持ちに気付かされて、本気になるってことを知った。俺はコイツ以外の人間はきっと愛することは出来ない。興味も持てない。……お前がどんなことをしても、俺は振り向かない。知っててまた和穂に何かしようとしたら、俺は今度こそ、お前を許さない」
 自分の中にある思いを、今はしっかりと見据えている。
 晴哉や一華や川瀬、豊、そして和穂が俺を変えてくれた。これ以上自分や他人を無意味に苦しめる必要はないんだ。
 その場を数分の間静寂が支配する。一華も川瀬も何も言わなかった。
「そ……う…」
 シンと静まり返った室内に、芦野の震えたか細い声が響き、芦野の足元で金属音が鳴った。それは小さな鍵だった。
 俺は何も言わずにそれを拾い上げ、未だに目を覚まさない和穂の首と両手首の輪を外して、和穂の体を抱き上げる。和穂は思いのほか軽かった。
「…帰ろう」
 何も言わずに立っていた一華と川瀬に言って、先に部屋を出る。伸びたままの男を踏まないようによけながら廃ビルの中をただ黙々と進んでいった。
 この気持ちだけは譲れない。和穂と出逢って、俺が手に入れられた何よりも最高なものだ。
 和穂のために、俺は人間一人の気持ちを確実に犠牲にした。それは紛れもない事実だ。
 そいつのために俺が出来るのは、俺と同じように、大切な人間が見つけられることを祈ることだけだ。
 芦野……お前にも、わかるときがくる。きっとな。
 振り向くこともなく、ビルの外に出る。ビルの中へ入って時よりも大分陽が傾いていた。
 出て、最初に口を開いたのは川瀬だった。
「私たち、もうこれで帰るから。……あとは相模一人で何とかしなさいよね。行こ、琳」
「え……う、うん…」
 ろくに俺の顔も見ずに、川瀬は一華を引っ張っていってしまった。
 俺はその背中に「わかってる」と呟く。
 ビルの真後ろにあった噴水のある公園の一角に備え付けられた、小ぢんまりとしたベンチに和穂を寝かせると、空いているスペースに腰掛ける。
 今はまだ閉じたままの目にかかる和穂の髪をそっと掻き分けると、サラリと軽い感触が指先の間をすり抜けた。
 そのすぐ後だった。和穂の瞼がほんの少しだけ震えた。ゆっくりと持ち上げられたその瞼の下に、またいつもの強い光を宿した瞳が現れる。
「大丈夫か?」
「………っっ!?」
 顔を覗き込むと、目覚めたばかりとは思えないスピードで和穂は上体を起こした。危うく額をぶつけそうになる。
 それでも最初の勢いはそれだけで、和穂は顔を顰めて首を押さえた。
「痛むのか? 俺今何も持ってねーんだけど……。ハンカチならあるから冷やすか?」
「だ、大丈夫だ。ちょっと疲れているだけで……。…そ、れより、ここはどこだ? 芦野とはどうなったんだ?」
 首と両手の輪が無いことを確かめるように撫でながら、つい数分前に起きたことを和穂は確認したがる。
 俺はただ「芦野のことは、もう大丈夫だ」と言った。和穂はただ「そうか」と独り言のように呟いただけだった。「ちゃんと知りたい」とも「どうしてだ」とも言わなかった。
 自分の気持ちまで、そんなことを説明する合間に挟みたくはなかった。
 俺は何かをする前にまず言わなければいけないことを言うために……スッと息を吸う。
「和穂、聞いてくれ」
「…………」
 何も答えない和穂は、きっと聞きたくもない『痴情のもつれ』を想像しているんだろうか?
 和穂が何を考えていても、俺の言うべきことは変わらなかった。
「……俺は、自分の母親にあった出来事が災いして、他人を信じられなかった。他人を知ることはした。けど、俺自身のことは踏み込まれたところから崩れていくことを恐れて、浅い付き合いしかしなかった。……それでも、お前を見たとき誰よりも魅力を感じたんだと思う。俺は遊び慣れてるから、最初はただの暇つぶしだった。また俺は椎名和穂という1人の人間の気持ちを弄ぼうとした。だが、お前という人間を知っていくうちに、もっと知りたいっていう欲求の方が強くなっていった。……俺自身が、逆に必死になっていった。俺は、本当の「恋」や「愛」なんて知らない。必要ないとさえ思っていたくらいだ。けど、俺の周りにいる人間が何よりお前が俺を変えてくれたんだ。もう、お前以外の誰も愛さない。求めない。だから、ずっと一緒にいて欲しいって思う」
 そんなどうでもいい前置きにも、和穂は何も言わずにただ目の前の地面を眺めていた。俺は今、その先の気持ちが、言葉が、偽ってはいけない大切なものかを知っている。だから、そこで切って和穂の肩を掴んで、目を真っ直ぐに見据えた。
「俺は今一番、お前が欲しい」
 和穂から目を逸らすこともなく、俺はずっと和穂の答えを待っていた。
 頬がだんだんと赤く染まっていき、うろたえる様子が手に取るようにわかる。
「なっ、き、貴様など……! 手は早いしっ」
 やっと出てきたのが、やっぱり疑っているという心境の現れに心臓が潰れそうだった。
「それは、和穂限定。手に入れたいって強く思わない相手なら、もっと早いぞ」
「口は軽いしっ」
「そういう性格になっちまったんだよ」
「遊び人なんだろうっ。私なんて、すぐに飽きて捨てるんだろう?」
 俺はその言葉に離れていく和穂を想像して怖くなる。俺が捨てるわけないのに、いつかは捨てられると危惧しながら一緒にいられるなんてこと、出来るわけがない。だから、言葉じゃなく体が和穂を掴んでいたくて、そのまま力を込めた腕を引き、抱きしめる。
「『私なんて』とか言うなよ。俺が別に要らないと思っていたような人間なのに、和穂だけはどうしても欲しいと思った。だから、そんなに簡単に手放すわけがない。俺が選んだ女なんだ、もっと自信持てよ」
 俺にとってお前は誰よりも最高だと思う気持ちが届いて欲しい。
 前の自分なら、と考えることももうやめる。
 今の自分と和穂を何より大事にしたい。
「ふ、ふんっ!」
 和穂はそう言って俺の体を引き剥がす。
 油断していた所為で少しよろけて斃れそうになるが、和穂は俺の腕を斃れないように掴んでくれていた。
「そ、そこまで言うのなら……。お前のモノになってやらないこともない。ただし!」
「それって…」と言いかけた俺を制して、ビシッと鼻先に形のいい人差し指を突きつける。
「浮気なんぞしてみろ。末代まで祟ってやるからな!」
 顔を真っ赤にしながら脅迫してくる和穂は、今までの中で一番可愛く、そして何よりも強情で気高かった。俺はフッと笑って突きつけられた指をつまみ、付け根の部分に軽くキスをする。
「ま、そうなる日は来ないだろうな。本気で愛してるのはお前だけだ」
 和穂はキスをした方の手をバッと取り上げて、反対側の手できつく握り締めていた。
 今はまだ不安な要素が和穂にはたくさんあるはずだ。言葉ではそういっていても、やっぱり俺のしてきたことは変わらない事実として残っている。
 だから、その分だけ…いやそれ以上に、和穂を大切にしていこうと決めた。
 本当に心を開いてくれることを信じて。
「さて、帰るか。……の前に、その髪だな。俺、いい美容院知ってるんだけど、行くか?」
「……あぁ。そう、だな」
 先にベンチから立ち上がって伸びをすると、和穂の方に手を差し出す。叩かれることを予想していたが、素直にもその手を取ると、ゆっくりと立ち上がる。
「歩くの、辛いか? なんならお姫様抱っこで行ってもいいけど」
 少しよろけ気味の和穂に冗談交じりに声をかける。
「っ、バカか!!」
 背中を思いっきり殴ってきた和穂を見て、寝ている間にそうされていたことは黙っておいた方が身の為だな、と思った。
 そして、並んで歩く俺たちは、証のように手を繋いだ。

 やっとつかまえられた。

 俺の、たった一つの宝物。

 もう振り返るのはやめよう。

 和穂のために、俺のために。

 これからを大切に生きていく。人を信じる事が辛くても、俺は和穂となら出来る。

 ずっと、大切なものが誰にだってあることを。

 初めて、思えた瞬間だった。



  
2006/01/26(Thu)16:08:21 公開 / 蒼唯
■この作品の著作権は蒼唯さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
一応最終話です……!!

めっちゃ長い&なんだか表現浅い!? ような気がします。

人を好きになるって、形とかにもよりますよね〜。

でも「振り返らせる」っていう強気な姿勢が蒼唯は大好きですw

実は、今風邪を引いております。

弟のをもらってしまいました。

そんな中で、何とか書き上げました。

というか、前回の更新から約2ヶ月経とうとしているので、読んでくれる方もあまりいないんではないか、という気がしてたまらないです。

ここまで読んでいただいた皆様、ありがとうゴザイマシタw

もらったアドバイスなどを大切に、よりよい小説を書いていこうと思います!

それでは、またお会いできることを信じて。

2006年 1月26日 葉月蒼唯
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