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『スリンキングキャット』 作者:clown-crown / 未分類
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スリンキングキャット







 穏やかな二重まぶたに、吸い込まれるような黒瞳。
 でもそれは、海外から取り寄せたカラーコンタクトの色。
 赤みの強いオレンジの頭髪は、肩の上すれすれまで伸びている。
 でもそれは、カラーリングされた上辺だけの色。
 血色の悪い青い薄い唇。
 それを気づかせないように、いつも軽く唇をかんでいる。
 通った鼻筋は少し面長でシャープな印象。
 でも髪形を遊ばせることで顔の輪郭をごまかしている。
 やせた頬に朱がのるのは化粧。
 毛筆で書いたような眉は、その眉は手入れをしているわけではない本物の眉。
 細身で長身。
 それは形の崩れにくい服装と猫背で打ち消している。

 そんなクールでカッコいい容姿をもっていても今は、
「むう」
 相貌をガラスに押さえつけられて、つぶれている。

 変な顔っ。

 アルジ様の顔はつぶされたトカゲみたいにつぶれている。なんか私の言い方、変? アルジ様の顔がつぶれてなければ、つぶれていないトカゲに似ていないわけだから。ええと。とにかく、アルジ様の顔はつぶれている。でもあんな顔でもいいから、アルジ様に頬ずりしたい。私があのガラスだったらいいのに。ほっぺ摺り寄せちゃってさ。アルジ様のホントの姿を知っているのは私だけなんだから。
 アルジ様は電車のドアガラスから顔を引き剥がす。
「これが『ラッシュ』ってやつか」
 瓶詰めにされたイナゴの佃煮ぐらいに、ぎっちり込み合っている電車内。スーツ。スーツ。ベスト。スーツ。ブレザー。ブレザー。スーツ。スーツ。スーツ。イートン。スーツ。スーツ。学生服。スーツ。学生服。ブレザー。スーツ。スーツ。セーラー服。セーラー服。学生服。スーツ。スーツ。ブラウス。スーツ。通勤ラッシュと通学ラッシュの重なる時間。いくら人間大好きなアルジ様でも息苦しそう。
 ッタン。電車が揺れてアルジ様の猫背が押される。アルジ様は真正面からガラスにぶつかる。ガラスとチュウをした。ずるいっ。私だってまだしたことないのに。
 憮然とした面持ちでアルジ様は腕を突っ張り、息する場所を確保する。
「あ」
 腹筋運動を縦にしたような体勢のまま、二重まぶたで黒瞳を九割ほど覆って、一点を睨むアルジ様。恍惚を感じているような、でも鋭い眼光。視線の先には女子高生がいた。旅に出るかのような大荷物を傍らに置いて、座席を占領している。元からなのか焼いているのか、褐色肌。運動場のライン引きを借りたかのように白く太いアイライン。短いスカートとルーズソックスの間からのぞく太ももは鬱血している。右手はケータイ、左手はスカートに伸びている。ん、臀部を掻いているのか? 私の美的感覚を適用させていただくなら、麗しからず。その女子高生の前に立っている、横顔だけ見える赤毛ショートの女子高生のほうが京倍かわいらしい。
 やい、そのバッグ降ろして赤毛の子を座らせてやれっ。アルジ様の獲物でない限り、私はかわいい女の子に寛容。私の心の声が聞こえたのか、重そうな女子高生は重そうなバッグを手繰り寄せた。あ、手繰り寄せただけだった。席を譲る気はないみたい。
 アルジ様は笑った。とても愉しそう。
 今回のアルジ様の獲物はあの女子高生。名前は何だったかな。『予言書』には確か、愛……。上尾愛だったかな。言っとくけど、アルジ様の女性の趣味はいいんだから。ナンパじゃないから。あ、あと。アルジ様の名誉のために言っておくと、チカンでもないから。それだけは、はっきりさせとく。チカンをする情熱なんてアルジ様にはないよ。
 アルジ様はグループに入っている。それが『御神刀』。御神刀でのアルジ様の役割は、粛正のための粛清。悪いやつをやっつける、正義の味方なの。スーパーマーンって感じ。
「スリンキングキャット、行くよ」
 アルジ様は座席に寄りかかっている私の骨をつかんで、引き寄せる。ネーミングセンスが悪い。語呂が悪いし、意味も悪い。信じられる? 『泥棒猫』だよ。私はその名前で呼ばれるたびに鬱になるのだけど、いまさら呼び名は変わらない。もう、十二年そうやって呼ばれ続けている。
 人をかき分けて進む。私たちを邪険そうに睨んでくる人には、アルジ様が視線を合わせる。笑いながら相手の顔を見れば、相手のほうから眼をそらして、道を開けてくれる。アルジ様のその冷笑には耐えられないから。私だって未だにその顔を見るとすくんでしまう。必殺の『クールキラースマイル』。クールじゃないキラースマイルもできる。それは、どんな諍いだって調停できてしまいそうな穏やかな顔。同じ面の皮でこんなにも与える印象が変わるなんて、謎。
 さっきとは反対側のドアの前で私たちは立ち止まる。次の駅のホームがこっち側だから。私たちは次の駅で降りるのです。遅れて、上尾愛も人を押し分けてズカズカやってくる。やっぱりこの駅で上尾愛は降りるのか。でもその制服って、
「あれって怜冴(れいご)高校のブレザーじゃなかったっけ」
 私はアルジ様に話しかける。目的地が怜冴高校なら囹圄本駅で降りるのだろうけど、囹圄本駅は次の次の駅。サボり?
「朝から『援交』ってやつをやるようだね」
 アルジ様は人の耳も気にせずに言う。これだけ人がいれば誰が何を言っていてもわからない。だからこそ私も訊いたんだけど。いつもは私が質問すると怒り出すのに。なんだかアルジ様、機嫌がいい。自分の言った援交って単語で機嫌がよくなったとは思えないし。
「上尾愛がそんなことしてるって、予言書に書いてあった?」
「いや、ハズレ。予言書にはいつもどおり、獲物の名前と時間しか書いてないよ」
 御神刀から届く予言書はいっつも味気ない。もう少し、情報を載せてくれないとわかりづらいんだから。そんなんじゃ、仲間内からインチキ予言者の謗りを受けたって仕方ないよ。
「前の開いたパンツ穿いてたから。あれは『営業用パンツ』だな」
 勝負パンツは聞いたことあるけど、営業用パンツは聞いたことがない。お金を得るためのパンツ、ね。アルジ様にしてはわかりやすいネーミング。でもわかりやす過ぎて、生理的に嫌。って言うか、上尾愛のパンツ見たの? それで機嫌がいいんじゃないよね?
「あれだけスカートが短ければ簡単に見える」
 訊かない疑問にも答えてくれるのはいいんだけど。その誇らしげな顔は何? 簡単に見える、って言ったって、見ようと思わなければ見えないわけだし。なんだか釈然としないな。
 ぷしゅーーーううう。音とともにドアが開く。電車が駅に着いていた。ホームに出る。笹舟のように、私たちは流れに沿って進む。
 人が密集した場所では誰がどこに行こうとしているのか、その立ち位置を見ればわかる。自分の進みたい方向に行く人の、後ろにいるだけ。アリの行列みたいに、前の人についていくだけなんだから。だから、獲物より先を歩いていても私たちは尾行できる。変? 先を歩くのに尾行って。じゃあなんて言えばいいのさ。
 できるって言ったって、その尾行は後ろの様子を確認しながらでなければいけないわけだから、普通にやったら気づかれる。それを振り返らずにできるのがアルジ様。ま、もしアルジ様ができなくなったとしても、私が代わりに後方の様子を実況中継すればいいんだけのことなんだけどね。
「なんで獲物がこの駅で降りるってわかったの?」
 予言書は名前しか報せてくれないのだし、怜冴高校の制服を着ていれば誰だって囹圄本駅で降りると思うはず。
 アルジ様は顔を前に向けたまま笑っている。見ているのは後ろだけど。
 私は回答を促す。
「荷物を手繰り寄せてたから、『次の駅で降りるんだろうな』とは私も思ってたけど。アルジ様はその前からわかってなかった? 『あ』って言ってたじゃん」
 アルジ様は答えてくれなかった。顔に笑みを湛えたまま、関係ないことを口にする。
「後ろ見てごらん」
 まだ私が実況中継する必要はないと思うんだけど。言われるままに後ろを見てみた。上尾愛が私たちより数歩後ろを歩いている。あれ。上尾愛の後ろに隠れるように、あの赤毛の女の子もいる。あの子も怜冴高校のブレザーだから、ここで降りているのはおかしい。
「ねえ。もしかしてあの子も、そういうことやってるの?」
「ハズレ。彼女はかわいらしい猫さんだった」
 私はパンツの柄を訊きたいんじゃないっ。お願いだからアルジ様、パンツを語りながら自慢げにしないで。
「じゃあ何で怜冴高校の生徒がここで降りるのさ?」
「おそらくは──」
 言いかけてやめてしまう。アルジ様は待合のベンチに腰掛けてしまった。
「ちょっと、獲物が行っちゃうよっ」
「大丈夫。眼を離したりしない」
 ズボンのポケットからドロップの缶を取り出してほおばるアルジ様。ちょっとかわいい。って、そんな場合じゃないっ。
「どうせ駅の構内から出たら先行尾行できなひ」
 その四字熟語、最初の二字と後の二字が矛盾してる。呼び名が難しい行為ではあるけど。んでもって、飴舐めてるから語尾が変だよ。んでもって、んでもって、構内を出たらその四字熟語ができなくなるのはホントのことなんだけど。人の流れがバラけてしまえば獲物の進行方向が予想できなくなる。だけど、

 眼の前を上尾愛が通り過ぎていく。
 続いて赤毛の子も通り過ぎていく。
 駅を出て、私の視界からは消えた。

「彼女、今。横目でこちらをうかがってたへ」
 そ? 気づかなかった。って待って。獲物に気づかれたの? マズいんじゃない?
「ハズレ。獲物のほうじゃない。赤毛のほふ」
 あの子が。一体、あの子何なの? アルジ様はいつも一人だけで納得してるんだから。気になる。
「彼女、要チェックだへ」
 私の眼ではもう獲物の姿が見えない。でもアルジ様には見えている。
「彼女、運動靴だっは」
 高校で体育の授業があるからじゃないの? ブレザーには合わせにくい靴だけど、仕方なく履いてるとか。普段はローファーかな。
「ハズレ。似合ってたんだほ」
 わざわざブレザーに合わせて買ったってこと? あの子、正真正銘の運動家だね。
 やっとアルジ様はベンチから立ち上がり、駅のロータリーに出る。遅いよ。コンビニの角を曲がり、眼鏡屋の前で信号を待つ。
「もしかして、赤毛の子のほうを追ってるんじゃないよね?」
「スリンキングキャット。きみはしゃべらないほうがいい。わかるへ?」
 とうとう怒られた。わかってるけどさ。訊かなきゃなかなか教えてくれないじゃん。こっちはわからないことだらけだっていうのに。
 歩行者信号は青になり、歩き出す。
「追ってるよ。赤毛も獲物もへ」
 え、何。二人とも追ってるってことは、二人とも同じ目的地に向かってるわけ? でもさっきは上尾愛は援助……で、あの子はそうじゃないって言ってたのに。もう。アルジ様の説明は聞くたびに、よくわからなくなる。もっとわかりやすく話してくれればいいのに。
「僕たちと彼女との接触については、御神刀も予言できていなかったようだほ」
 脈絡のないことを次から次へと……。えええっ。御神刀が予言できないことなんてあるわけないじゃない。今の予言者メンバーは正規加盟のヒデアキと巽だけじゃなくて、ゲストの蒔間苫人もいるんだよ? それこそ世界がひっくり返らなきゃ、あの三人に予言できないことなんてないよ。あの子が世界をひっくり返すことなんてできると思う?
「彼女は普通の女子高生だほ」
 アルジ様は言葉を切って、
「少しばかり頭が切れるだけだほ」
 建築中の青いビニールをかぶった鉄筋の前を進む。ガソリンスタンドのあるT字路を曲がると、ホテル街。そんなことってあるわけないけど、なんだか期待しちゃう。ね、アルジ様?
「きみは獲物が荷物を手繰り寄せたところで、次の駅で降りるとわかったんだよへ。でもその前に獲物は、スカートの生地越しにポケットに触れていたからへ。そこで僕は、獲物が次の駅で降りることがわかったわけなんだけど、そのときの得心顔を彼女に見られていたようだほ」
 アルジ様の得心顔を見た? アルジ様のホントの表情を見たってこと? そんなの世界がひっくり返ったって無理だよ。猫がザリガニくわえながら哲学するよりは不可能じゃないけどね。アルジ様の得意技はたくさんあって、その中でもすんごいのがポーカーフェイスだよ? アルジ様自身よくわかってると思うけど。
「ポケットを触っただけで次の駅で降りるなんてわかるの?」
 禁止されているけど、訊いてしまった。だって気になるじゃん。アルジ様はそのことについては文句を言わずに答えてくれた。
「切符を確かめたんだほ」
 そっか。切符を確認するってことは、降りる駅が近いってことだよね。ケツをぼりぼり掻いてたんじゃなかったんだね。言われてみればそうだよねっ。
「『ポケットに触った』と言っただけで気づいてほしかったは。彼女はそれを踏まえたうえで、僕の表情に疑念を挟んだんだかは」
 それってさ、頭が切れるってものじゃないよ。洞察力とか観察眼とかいうやつだよ。だから、私を馬鹿扱いするはやめてほしい。そりゃアルジ様は頭がいいからさ、あの子に仲間意識を感じているのかもしれないけど。普通はそんな情報戦みたいなことしないよ。
「獲物の近隣にあれだけ頭の切れる人間がいるのだったら、予言書にもそう書かれるはずだほ。いくら予言書には獲物の名前と時間だけの記載が通例だとしてもへ」
 あの頭の良さは御神刀に加盟できてもおかしくない、とまでアルジ様は付け加える。いくらなんでもそれは言いすぎじゃないの?
「おそらくは無意識に。彼女は予見者の眼をかいくぐっていふ」
 また、愉しそうな顔。
「でも、僕の眼からは逃さなひ」
 パチンコ店を曲がると、二人が歩いていた。
 アルジ様、決め台詞を言うときは飴を口から出してっ。





 いつものように電車に乗って通学していた。
 百二十パーセントを超えているであろう乗車率の車内は息苦しい。そんな中でも迷惑を顧みず新聞紙を広げる馬鹿者はいる。私より年嵩がある中年サラリーマンだ。無駄に年を食ったか、無様だな。眼の前では女子高生が、隣にバッグを置いて座席を陣取っている。そのバッグを網棚に置けば、もうひとり座ることができるというのに、同じ高校に在学するものとして恥ずかしい限りだ。鬱憤は募るばかりか。うん? 妙な男がいるな。いかにも怪しい雰囲気を漂わせている。

 どちらも黒がちであるが見れば左右の瞳の色がわずかに違う。
 燃えるような緋色の髪は地毛ではないようで、生え際は白髪だ。
 引き締められた口元は常に緊張をまとっている。
 髪形で曖昧になりそうなのだが、鼻っ柱は冷徹な印象だ。
 程よい頬の色は、しかし男の癖に化粧か。
 意思のはっきりしていそうな眉だ。あれだけは好感がもてる。
 着ている紺のスーツはサイズが大きく、体格を覆い隠している。
 今日はひねもす快晴だというのに、ビニール傘などを持ってきている。

 何だあれは。変装のつもりだろうか。だが間抜けな格好だな。せっかくの整った鼻っ柱をガラスに押さえつけられているではないか。面白い男だ。見ていて飽きない。





 二人は同じ方向に歩いている。入り組んだ路地をまったく同じほうへと。でもお誘い合わせて、って感じじゃない。獲物よりあの子のほうが一・二歩後ろを歩いている。まるで、まるで私たちがやっているような、
「ねえ、あれって……」
「アタひ」
 やはり尾行なんだ。あの子は上尾愛を尾行してる。見る限り、あの子の尾行は上尾愛にばれていない。そして、私たちの尾行も二人にはばれてない。でもまだ、わからない。あの子は最初っから上尾愛を尾行しようとしてたの? だから靴音の鳴りにくい運動靴を履いてたとか?
「ハズへ。最初は高校に行こうとしては。でも、獲物に対する僕の態度が異常であることを察知して、僕たちを尾けてきは」
 何? それって私たちを尾行してたってことだよね。でも今、あの子が尾行してるのって上尾愛のほうだよ?
 アルジ様は二人を見たまま、私の内なる疑問にはもう答えてくれない。いいもん。だったら自分で考えるから。私たちが尾行されていたのなら、いつから? もちろん、電車の中でアルジ様の得心顔を見たときからだよね。じゃあ、いつまで? あっ、そうか。ふんふん。そういうことか。アルジ様が待合のベンチに座ったのは獲物の後を尾けるためだけじゃなくて、あの子の尾行から逃れる意味もあったのか。で、あの子はアルジ様の尾行ができなくなったから、その代わりに上尾愛を尾けてアルジ様との関係を探ろうとした、かな。
「彼女すごいへ」
 ああっ、もう。さっきからあの子ばっか褒めて。今は私に「アタリ」って言うタイミングでしょうがっ。
「獲物から二メートルも離れてないのに、全然気づかれていなひ」
 うん、すごいのは認める。尾行って言うと、する人とされる人の一対一を思い浮かべるけど、それって結構難しい。獲物が歩きだけとは限らない。途中でタクシーに乗るかもしれないし、それにお店に入ってしまうこともある。尾行は獲物ひとりに対して四、五人がベストだね。まず、後ろを尾ける普通の尾行をする人がひとり。先回りする人が二人。遠くから全体を把握して指示を出す人がひとり。ま、アルジ様はそれをひとりでこなせてしまうんだけどね。……私は、私は私で役割があるんだからっ。
「彼女ほしいなは」
 アルジ様が言うのはアホな男がのたまうような、ただの願望じゃないよ、もちろん。私というものがありながら、そんなことをぬかした日には離縁状たたきつけて実家に帰らせていただきます。だからきっと御神刀に勧誘したいと、そういうこと。って、ええっ。本気でそんなこと考えてたの? 彼女のすごさはわかったけど、御神刀のすごさはその垓倍だよっ。
「じゃ、さっさと仕事を終わらせようは」





 男は目の前の女子高生が切符のありかを確認している様子を見て、意味ありげに笑った。何を笑うのか。男はずっと女子高生を見ている。女子高生はその男に気づいていないようだ。一方的に監視しているというわけか。趣味の悪いことだ。うん? 男は誰かに語りかけている。ひとりではなかったのか。だが、それらしい人影は見当たらない。男は電車のドアの前へ移動する。女子高生も同じドアの前へと向かう。しかし、男を気にしている様子はやはりない。どうも男の行動は気にかかるな。女子高生についても日ごろの行いに疑問をもっていたところ。己はこれまでにも同じ電車に乗るこの女子高生に、監視とは言わないが観察はしていたのだ。電車は駅に着き、男と女子高生は降りた。私も後を追う。また、余計なことに首を突っ込んでしまったな。
 男は女子高生より先を行く。どういうことだ。監視をするのなら女子高生の後ろからが必須だろうに。男が先を行くのは、後を追うこっちにとって好都合なので文句はないがな。男は改札口の脇を通る。女子高生は改札口を通る。己も男に倣って改札口の脇を通る。切符を持っていないのだから致しかたない。むやみに時間をかけている暇はないのだ。
 監視するものが先を行くとはどういうことか。監視していたわけではなかったのか。そんなはずはない。では、男ははじめから女子高生の行く方向に既知であったか。それもない。切符のありかを確認しているところを見て笑ったのなら、それは降りる駅を知らなかったからだ。では、なぜ。よもや、後ろに眼があるわけではないだろうに。二人の関連性も未だ明白にはなっていないのだから考えても仕方ないか。男の眼だけが気にかかる。先を行っているので、今は後頭部しか見えないが、電車内で見た男の眼は尋常のそれではなかった。あの眼、平凡を装ってはいるが深い残虐性を隠している。生来の性質は隠しきれるものではない。訓練を重ねようと、それは滲み出る。
 男は無理解な行動に出た。駅にある待合のベンチに座ってしまったではないか。飴などを舐めている。二人は無関係だったか。前を通るときに男を横目で盗み見ようとした。全身に寒気が走った。男の視線は形をもっているかのように己を突き刺し、えぐった。くそ。睨まれただけで敗北を感じるとは。否、感じさせられたのだ。できる限り平常を保っているように心がけてはいたが、見透かされているだろう。己の軽挙さを省みるほかない。だが、電車を降りてしまったことはどうにもならない。女子高生の動向を探ることにした。





 やっぱりやるんだよね。もう時間もないし。アルジ様がカッコいいのはいいんだけど。御神刀に入ってれば仕方ないことだけど。この瞬間はやっぱり苦手。やだなあ。
 アルジ様の目の前から、ショートケーキの箱ぐらいの大きさの空間がなくなった。それは文字通りの意味。空間を切り取っている。三次元空間を切り取ったってのが正しいんだけどね。三次元を切り取って四次元を浮かび上がらせている。これで入り口は確保できた。うん。入り口。ここと獲物を結ぶトンネルを作る。出口は、たぶん獲物のおなかの前かな。獲物の背後を切り取れば本人には気づかれにくいんだけど、今は後ろにあの子がいるから。おなかでも結構気づかないものだよ。自分のおなかってあまり見ないでしょ。あ、出口も作り終えたみたい。
 私を握るアルジ様の腕。どこか冷たい。アルジ様は私を切り取られた空間の中に差し入れる。ゆっくりと差し入れて、あるところで止まる。四次元の出口を通して、ベストの生地が見える。やっぱり出口はおなかの前だったね。三次元上ではアルジ様から獲物まで届くような長さではないんだけど。四次元空間を通していれば『距離』は障害にならない。この空間はなんだかうねうねしてて気持ち悪いから、早く引き抜いてほしいな。アルジ様の腕が私を少し引く。でもそれは勢いよく前に押し出すための引き。すぐに奥へと突っ込まれる。四次元の出口が近づいて、そこを抜けた。ベストが近づいて、それを突く。ベストの繊維を破って、シャツを突く。シャツを破って、皮膚を突く。皮膚を破って、血管を突く。血管を破って、血が溢れる。まだ獲物は気づいていないだろう、おなかを刺されたことは。だけど、血は知っている。とめどなく溢れる鮮血。赤。赤。赤。赤い。これが人の体内。──暖かい。





 学年は己よりひとつ上。二年F組 出席番号14番 上尾愛。今学期に入って欠席回数が多い。怜冴高校には入学したばかりなので思い出せる情報には限界があるな。高校を行かずにどこに行こうというのか。あの男への興味に比べれば取るに足りないが知っておいて損はない。よい行いではないだろう。大方の予想はつく。ロータリーから程なくしてコンビニに入った。菓子を買っているようだ。これ以上体重を増そうというのか。コンビニから出た愛は交差点をわたり、おそらく青系のビニールのかかった作りかけのビルの前を通る。バッグが重そうだな。そんなにのろくては追い抜かしてしまいそうになる。ガソリンスタンドを曲がったそこは、街の裏の顔。大きな街には必ずこういった一角がある。空気が淀んでいると感じるには、己はそれに慣れすぎた。日の当たらない場所。日を嫌う人々。こんなところに高校の制服で来ようとは。そういう嗜好をもつ男と行為に及ぶか。何も言うまい。
 どことなく愛はうれしそうだった。後ろ姿だけでもそれはわかる。さっきまでのろかった足がテンポよく前に進んでいる。男との待ち合わせ場所が近いということか。はじめは援助交際でもしているかと思っていたが己の思い違いだったようだ。高校を無断欠席するからといって、そうそう悪く捉えるのもかわいそうというものだな。愛の男の趣味はわかりかねるが、思い合っているのなら己は何も言うまい。
 いらないことに手を出したな。ふん、今日はついてない。
 愛の身体が二つに折れた。腹部を抱えてくずおれる。何が起きた? すぐに愛に駆け寄るが、愛は腹部に手を当てて離さない。これでは患部が見えない。ベストは赤く染まる。おびただしい量の出血ではないか。動脈を傷つけられたか。いずれにしても急に腹から血が吹き出るなどありえないことだ。斬られたり刺されたりなどしているのでなければ考えられない。愛の姿はずっとこの眼に入れていた。ゆえにそれはない。ありえない。しかし現実に起こっている。とにかく止血し、病院に運ばなければ。
 背後に、あの男がいた。燃えるような髪に何も語らない唇。残虐を湛える瞳だけを炯々とさせて。
「もう助からないよ」
 処置をすればまだ間に合う。腹部からの出血では間接圧迫止血はできないか。ならば。
「血を流しすぎてる」
 愛の、反応が鈍くなった手をどける。患部にハンカチをかぶせ、圧迫する。愛の顔は青ざめている。
「ものすごい怪我だ」
 心拍数が落ちている。脈も弱くなった。
「何をしようと無駄」
 この男が話していることは。
「まだ救急車を呼んでなかったね。今から呼んだとしても最短で十二分強かかるよ。人間は一時的にでも全体の三分の一の血液量を失えば死が訪れる。その女子高生は大出血に値する失血量だね。直ちに専門の処置を施さなければならない。救急車が来るまではとても……」
「やめろ」
 この男が話しかけているのは己ではなく、愛へ。
「痛みは、それ自体では死に直結しないよ。傷が痛みを誘発する。痛みが本能での嫌悪を起こす。痛みは身体から頭脳への信号になっている。危険を知らしめる信号を無視すれば、傷は化膿し身体を腐らせる。回避すべきは傷であって痛みではない。しかしそれが死に勝る苦悶であれば。死を回避するための信号が、死よりも負担となれば。選択の余地はない。癒えない傷から解き放たれるため、死を選ぶ」
 愛の頚動脈に置いた手のひらからは、何も伝わってこなくなった。愛の身体から熱が引いていく。生命が抜けていく。
「腹の傷を作ったのもお前だな」
「尾行とともに警護も兼ねてたよね。だったらわかるだろう。僕はあの女子高生に近づいてすらいないよ」
 根拠も理由も原因もいらない。
「だったら、それは何だ?」
 結果だけがそこにある。
 男は傘を持っていた。この界隈では空など見上げることができないが、今日は快晴である。ビニール傘では日傘にもなりはしない。それなのに傘を持っている。それも、濡れた傘を。赤く、赤く、赤く染まった傘を。





 救急車を呼ぶために公衆電話を探しているんじゃないだろう。その代わりになるケータイを持っている人を探して、あの子は辺りを見回す。そして私は見る。横顔だったり、上尾愛に隠れていたり、後ろ姿だったから、今の今まで見えなかったけど。あの子の左眼は、髪と同じ色、紅い。
 アルジ様の、御神刀の一員としての眼が光る。
「もう助からないよ」
 アルジ様は言った。
「血を流しすぎてる」
 それは獲物へのとどめの文句。
「ものすごい怪我だ」
 失血死させようなんて思ってない。
「何をしようと無駄」
 おなかを突いたのは、ただの前準備。適切な処置をすれば助かる見込みがある。すぐに死ぬことはない。でも、追い討ちの言葉をかければ。人を殺してしまう言葉はある。それは人によって、状況によって違うけど。使い方を知っていれば、言葉は人殺しの道具にもなってしまう。その言霊を、アルジ様は投げかけた。
 自分から流れ出ている大量の血は、それを見ただけで精神を磨耗する。そこに、残酷な現実を告げる言葉を聴いたなら。弱まっている心は、もろく挫けてしまう。それがショック死。アルジ様は即死させる方法も知っているけど、あの子を苦しめるために、言葉で殺すやり方を選んだ。そばで人が死んでいくのを感じさせるために。自己の与える影響力の少なさを再確認させるために。力の差を実感させるために。御神刀に入れるために。
 アルジ様は私についた血を振り払いながら、
「仔猫ちゃん、僕たちのグループに入りませんか? 怪しい宗教団体ではありませんよ。怪しいグループではありますけどね。正義の味方なんですよ。僕たちは。悪い人をやっつけるんです。今みたいにね」
 アルジ様は『死体』からあの子へと視線を移す。仔猫ちゃん? アルジ様、挑発にしてもそれはちょっと……。あの子は上尾愛から離れてこちらを見る。紅い眼から視線がまっすぐ放たれている。
「僕たちのグループ名を知ってるかな。名前は、御神刀」
 御神刀の名前を聞いて、視線がさらに紅くなる。





「何を勝手なことを言っている。何が正義だと言うんだ。人を殺しただけではないか。腹をつついて、暴言を浴びせて、殺しただけではないか。愛が何をしたという。何をしようと殺されることなどないはずだ。何をもって自分を正義とするんだ。愛を悪とするのはなぜだ。お前に裁く権利などあるものか。なぜだ。なぜ愛を殺した」
 自分でも興奮しているのがわかる。
「疑問が多すぎるよ。どれから答えればいいのかわからない。そうだな、自己弁護は後回しにするとして。仔猫ちゃんのご学友の正体を明かそう。あの女子高生はね、人殺しなんだ。まだ人殺しとは言えないんだけどね。未遂とも違って。信じるかな。未来においてあの女子高生は人を殺すんだよ。今日。時間はいつだったかな。ええと、十時三十一分。それが犯行時刻になっていただろう時間。今が九時半だから今から約一時間か。だとすると殺すのは、待ち合わせている相手かな。女子高生が成人男性を殺すなら、凶器が要るね。たぶん、バッグに入ってるんじゃないのかな。でも、僕は女性の持ち物を探るような真似はしないよ。予想するだけさ」
 未来だと。そんな不確かなもので愛は殺されたのか。
「納得しないかい? 御神刀に聞き覚えがありそうな仔猫ちゃんなら、わかると思ったんだけどな。そうだよ。言ってしまうよ。僕があの女子高生を殺したんだよ。御神刀に入るための資格、常人にはない能力によってね。僕以外にも御神刀のメンバーはたくさんいる。中には、予言のできるものがいてもおかしくないだろう?」
 何が資格だ。常人ではない能力、結構。予言も、もしかしたらできるのかもしれない。しかし、人を殺したからといって、殺していいなんて誰も決められるものでもない。人殺しを殺そうと、それは殺人だ。
「人を殺すとね、痛みが残ってしまうんだよ。殺した本人にね。慙愧と呼ばれる感情かな。それは癒えることのない傷。ずっと抱えていかなくてはならない。それがいくら突発的で衝動的な殺人であってもね。それを苦に自殺してしまうかもしれない。生涯にわたって後ろ指を差されるからね。並大抵の苦悩じゃない。それほどの苦しみがあるのなら、それはひとりに負わせておけばいい。殺しの責め苦を請け負うのは、ひとりいればいい。そう思わないかい? それに耐えられる人格とそれができる技術。そのどちらも備えているのが、この僕『殺人者殺し』なんだ」
 殺人を犯すものを未然に殺すだって。馬鹿な。それが本当なら殺人の回数は変わらない。いや、確実に減る。二人以上殺す人間をあらかじめ殺してしまえば、それは一度の殺人ですむ。それは生命が助かるということ。しかし、そんなことは。そんなことは許されない。許されるはずがないではないか。
「まだ納得しないかい? 既成の常識に、いや違うかな。既成の良識にとらわれ過ぎているんじゃないかな。御神刀は世界に新たなルールを敷く。仔猫ちゃんには御神刀に入る資格があるよ。せっかく世界に生きているのに、ルール作りは蚊帳の外じゃつまらないだろう? 一緒に世界を作り変えないかい?」
 徹頭徹尾、とことん己の理念と反発する男だ。
「戯れ言は終わったか?」
 己は駆け出した。





 あの子が走ってくる。こぶしを構えて。いくらアルジ様でも、素手で女の子が殴りかかってくるとは思わなかったみたい。受ける準備もできてなかった。こぶしはアルジ様のおなかに吸い込まれる。
 その衝撃は私にも伝わってきた。アルジ様の身体が吹っ飛んで、路地を形成するビルの壁に叩きつけられる。ガキッ。何かが砕けた音がする。ちょっと、マジ? グーパンチでアルジ様が吹っ飛ぶはずがなかった。いくら構えずに真正面から受けたとしても。アルジ様は四次元や私がいなくても、仕事をこなせるぐらいには鍛えている。それなのに女の子のパンチが効くはずない。それは吹っ飛んだというよりも、衝撃が走った瞬間、アルジ様の身体が自分で跳ねた。そんな感じだった。
「お前が正義というのならば、これは神の鉄槌。正義と偽ってお前は何人を殺したんだ」
 アルジ様はよろよろと立ち上がる。やっぱり、効いてる。それでも私を手放さないのは愛の力だよねっ。
「あ、飴かんじゃったよ」
 …………。砕けた音がしたと思ったのは、飴ですかっ。
「参ったな。すごいよ。頭の切れのよさだけじゃなかったんだ。ぜひともほしい逸材だよ。でもね、仔猫ちゃんの心証が悪い今日は、残念だけど退散させてもらうよ。僕ひとりでは、どうにも判断ができないしね。いつか必ず、御神刀に入ってもらうよ。そうでないと僕が仔猫ちゃんを殺すことになる。こんどは確実にね」
 アルジ様はそう捨て台詞をはいて、その場から立ち去った。ねえ、その捨て台詞ってさ、悪役っぽいよね。





 男を退けた。
 しかし、愛は救えなかった。愛は道端に横たわっている。通行人はいない。病院か警察に連絡するべきであろうか。病院に運ぼうにも、もう死んでいるし、警察も男を捕まえることなどできないだろう。明言はしていなかったが、これまでにもかなりの数の人間を殺してきたはずだ。いまさら捕まるようなタマではないだろう。また己の前に現れると言っていたな。そのとき己はどうするか。今はまだ、わからない。
 何とはなしに、愛のバッグを開けてみた。男の言っていたことが脳裏に残っていたからかもしれない。ジャージ、参考書、タオル、スナック菓子、ノート、絆創膏、手鏡。一番底に、白い手袋一組とサバイバルナイフがあった。





 予言者ではない己には、その用途など知る由もない。







2005/05/07(Sat)15:29:53 公開 / clown-crown
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■作者からのメッセージ
 読みきり、です。楽しんでいただけたでしょうか?
 ──痛っ。書き手に物を投げつけないで。

「何でこんなもんを書きやがった」と思われているだろうので、その表明。あるいは釈明。
@新たな書き方の模索。
Aストーリーよりキャラクター重視の小説への憧れ。
B書きたい小説より、読んでもらいたい小説。
C泥棒。

 @についてはいろいろありまして、軽いしゃべり口など。キモかったですか? Aはいわゆる『萌え』を意識して。赤毛のあの子は、大失敗(ほかのキャラも未熟だけど)。あと、名前のある名称。『スリンキングキャット』とか『御神刀』とか。B、前作は私にとって完成品でした。今回は@にあるような新しさを取り入れて、世界の広げ方とか視点交代を勉強のつもりで書いてみました。試作だからといって手抜きはしていませんが。バランスのとり方などがまだよくわかっていません。ですので八文字だけでも感想いただければ幸い。『つまらなかった。』ホラ、句読点含めても八文字です。Cは甘木さんへのサービス。ん、怒ってるかな? すみませんです。
 できるだけのことはしたつもりですが、書き手自身なんだか納得できていないものを読ませてしまって申し訳ありません。八文字より多くの言葉で感想やアドバイスをいただけたなら、私はあなたにラブです(誰も書いてくれなくなるからヤメロ!)。
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