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『牛 鬼 15』 作者:オレンジ / ファンタジー ファンタジー
全角23198文字
容量46396 bytes
原稿用紙約66枚
 
           9
 
 
 日差しが僅かに西に傾き掛けた頃には既に、畑仕事をしていた重蔵は昼休みを取る為、お松のいる自分の家へと戻っていた。良く晴れ渡った空は、体を動かすには少しだけ厳しい熱気を大地に振りまいていて、重蔵もそれ程重労働をこなした訳でもないのに体のだるさを感じ、午前の仕事をいつもより早めに切り上げてきたのだった。
 裁縫するお松の傍で重蔵は浅い寝息を立てる。昼下がりのまどろみの中、重蔵はその心を全て開放させている。お松の膝元という自分だけの特別な場所は、重蔵の身も心も癒してくれる。
 そんな重蔵の無防備な心をぶん殴るようにして、昼下がりの平穏が破壊される瞬間が訪れた。家の扉を容赦なく叩く音、そして重蔵を呼ぶ大声。緊張感と共に引き戻される現実の世界。重蔵は、不機嫌この上ない表情を見せながら家の入り口へと向かった。
「重蔵、重蔵!いるか? 」
 入り口のかんぬきは外れていた。重蔵は、面倒くさそうに木の戸を引く。戸の向こうに見えた顔は、大滝家の使用人の一人政(まさ)であった。知らぬ顔ではない。しかし、その焦燥感漂う表情は、今までに無いただならぬ事態を容易に連想させるものであった。
「どうした、政。何かあったのか? 」
 使用人の政は、重蔵の質問に質問で返す。重蔵の質問に答える余裕も無いといったところだ。
「源治は……源治は此処に来ていないか? 」
「源治?源治がどうかしたのか? 」
「此処には、居ないのか?どうなんだ? 」
 お互いに質問の答えを返さないままに、会話が続く。しかしまだ重蔵の方が落ち着いていた様だ。重蔵は『源治、源治』とただ繰り返すばかりの政の肩をぽんと叩いて、「まあ、まずは中に入れ」と一呼吸入れる。政の方も重蔵が与えてくれた間のお陰で少し落ち着いたようである。引戸を潜り家の中へと入り込み、小縁に座り込んだ。
「ふう」と政は一息ついた。どうやらこれでまともな会話に臨めそうである。
「なあ政。一体何があったんだ?源治がどうかしたのか? 」
 そう言いながら重蔵も、政のすぐ脇に腰を下ろして会話をする体勢を整えた。大滝家に随分以前から仕えている政は、重蔵よりも年下ではあるが良く大滝家の為に働いていた。ただ、昔から彼を見てきた重蔵からすると、その早とちりな所と落ち着きの無い性格が彼の評価を少し下げていたのも事実である。重蔵は、諭す様に政の目を見やる。幾分か落ち着いた様だ。政は、一呼吸して喋り始めた。
「そうだな、何から話したらいいか……ええと、まず若旦那の奥さんが妖怪を産んで、それで人を喰う妖怪とかで源治を捕まえようとしたら、家を壊して逃げてしまって、先手必勝のつもりが失敗で大旦那にお目玉食らってみんな必死に走り回って、そいつはお坊さんが教えてくれたんだけど、牛鬼とか言うらしくて、で源治が居そうな所を探してるんだけど此処に源治は居るのかい? 」
「は? 」
 支離滅裂である。彼の脳内ではよくまとまっているのだろうが、重蔵がこの言葉から全てを理解する事はどうあがいても不可能だろう。
「何だ一体、お梅がどうしたって?妖怪?まあ、水でも飲んで落ち着け。お松、政に水持ってきてやってくれないか」
 振り向いた重蔵の瞳が捉えたものは、手に持った布切れを膝に落とし、顔面を蒼白にしたお松の姿であった。
「お松、どうかしたのか? 」
 お松は何故か相当狼狽しているようで、視線も定まっていない。夫の呼びかけにも反応が無かった。
「お松、どうした?顔色悪いぞ」
 はっと我に返ってお松は『何でもありません』と不自然に視線を逸らした。どうも様子がおかしい。お松は『水をお持ちします』と言ってそそくさと奥へ消えて行ってしまった。重蔵は、お松の事が気になってしばらく奥の部屋の方をじっと見つめていたが、多分お松の様子など全く気にしていないであろう政が再び何やら喋りだしたので、仕方なく政の相手をしてやる事にした。相変わらず政の話は的外れな言動ばかりであったが、お松が持ってきた少し大きめの茶碗に汲まれた水で喉を潤すと少しは頭も冷えたのか、重蔵は何とか事の顛末だけは理解する事が出来た。
 政の話を要約すると、こんな事の様である。
 話の始まりは、自分達の子とほぼ同じ時期に産まれた、助清とお梅の子の異変からであった。半月程前から、助清とお梅の子には角と牙が生え、見るも禍々しき姿となってしまったらしい。困り果てた大滝家の人々は、国一番とも噂される退魔師『松庵』という人物に原因の究明と魔物の退治を依頼した。退魔師の松庵は祈祷の末に、赤子が牛鬼と呼ばれる妖怪であるという事をつき止める。牛鬼とは、海辺に住む巨大な妖怪で、どうやら人を襲っては喰らうとても危険な妖怪らしい。赤子が牛鬼という妖怪だとしたら、それを産んだお梅もまた妖怪なのだろう。そこで、大滝家の人々はお梅を納屋へと閉じ込め、またその兄の源治も同じく妖怪の血を引いているに違いないと、屋敷の人間から村人総出で源治を捕まえに東奔西走しているのだそうだ。
 話のいきさつは理解出来た重蔵だったが、その内容はとても納得できる物では無かった。妖怪だの退魔師だの、全く持って現実離れした話である。しかも、お梅と源治が人を喰らう妖怪とは、冗談にしても悪ふざけが酷いと思う。お梅も源治も幼い頃から一緒にこの村の田畑や森の中を走り回り、その匂いを嗅ぎながら成長してきた間柄である。断言しても良い、あの二人が妖怪である筈が無い。
「なあ、政よ。そんな馬鹿げた話があると思うか?お前も小僧の頃からお梅も源治も知っているだろう。よく考えてみろよ」
 重蔵は、少し呆れた呈で、昔から見知った使用人である政に語りかける。
「お前はあれを見てないから、信じる事が出来ないかもしれないが、あの赤子の恐ろしい形相を見ればきっと思い直す筈だ。俺は、あれを見ちまったからな。放っておいたら村中の人間はあいつらに皆食い殺されちまうぞ」
 政は、自分の脳内で思考した事象に対して何ら疑いを持っていない。きっと彼の心中は不安と恐怖に満ち溢れているのだろう。一刻も早く妖怪『源治』を見つけ出し、この村を魔の手から救わねばという崇高で勇猛果敢な信念が政を突き動かしているのだ。
「お前の方こそ、頭を冷やせ。そんな事ある訳ないだろ。大方その退魔師とかいう輩に、まやかしでも見せられたんだろう。皆そいつに騙されているんじゃないか? 」
 重蔵も、己の信念は曲げるつもりは無いようだ。政はその重蔵の態度に腹を立てたのか、少しだけ言葉を荒げた。
「もういい。重蔵、お前とは話にならん。邪魔したな。俺は他を当るが、まさか源治の身を隠してはいまいな? 」
「ここには源治はおらん」
「ふん、まあいい。隠すと為にはならんぞ」
 政は、そう吐き捨てて重蔵の家から去って行った。
「全く、何だというんだ」
 重蔵は、そう言って腹の底から溜め込んだため息を吐き出した。その時、ふと彼の頭に、今朝大滝家で聞いたあの奇妙な呻き声が響き渡った。
「まさか……な」
 そう独り呟いて、重蔵は後ろに控えている最愛の妻お松の方を見やる。お松は、先程よりも顔色を悪くし、脂汗さえ額に浮かび上がらせて板の間に座していた。
「どうした、お松。具合が良くないのか?奥で少し休んだらどうだ」
 重蔵はお松のすぐ脇に座り、心配そうな眼でその顔を見つめる。しかしお松は、心配ない、大丈夫だなどと言って、再び裁縫をし始めるのだ。子供の着物を繕うその手は小刻みに震え、全くおぼつかない。普段では在り得ないお松の様子に、重蔵の心配はますます募っていく。
「やっぱり様子がおかしいな。無理するな。奥で休んでいろ。お前にもしもの事があったら俺は……。さあ、ほら」
 そう言って重蔵はお松の手から裁縫道具を取り上げた。お松は、観念したかの様に『わかりました』と頭を下げた。そして、お松が立ち上がり奥の間へ向かおうとした、その時、再び重蔵の家の戸を叩く音がしたのである。先程政の時とは違い、物静かな中にも力強く迫力のある音のように聞こえる。
「誰だ! 」
 重蔵は、戸を開けに向かう事無くその場で来訪者の素性を問うた。
 しゃりん――
 金属同士が擦れ合う甲高い音が、重蔵の耳を刺激した。
「松庵と申します。しがない祓屋では御座いますが――この世の真実を知る為、やって参りました。――」 


              10

 源治は今、薄暗く冷たい洞穴に身を隠していた。村外れの小高い山の中腹には、源治や重蔵、助清が幼い頃に隠れ家にしていた洞穴がぽっかりと口を開いている。当時は随分と広く感じた洞穴も、今となっては窮屈極まりない。いつもつるんでいた四人と妹のお梅を混ぜた計五名が、この穴に寄り集まっても十分に体を動かす事が出来たのが、何だか不思議な程である。
 頭を岩にぶつけながら洞穴を進み、源治は洞穴のいちばん奥に陣取っていた。奥行きなどは、せいぜい一間半程度であるが、身を隠すには十分な長さである。そこは、当時遊び場であり、隠れ家であり、宝物の保管場所でもあった。その宝物の名残が今でもこの場所には残っている。中でも、源治がどこかの偉い武家屋敷からくすねて来た長刀は、鞘にきちんと収まったまま仕舞われており、その輝きを失ってはいなかった。
「源治、源治! 」
 一人の男が、騒がしく洞穴に侵入してきた。男は幼馴染の真悟であった。
「真悟か?どうだった村の様子は? 」
「どうもこうもねえよ。村中が、お前を血眼で捜してる」
「そうか……しばらくは此処から出られんな」
 昔から、小柄で腕力も無い真悟は、同い年でありながら源治に手下の様に扱われていた。その関係は十数年経った今でも、続いている。
「源治に逢ったら肝を刺せとか言ってるぜ。ギュウキは肝を刺さないととどめに成らないとかって……」
「とどめだと?奴ら、俺を狩の標的にでもしてるみたいだな。妖怪狩りか……随分と面白そうな祭りじゃないか、まったく」
 真悟の言葉は源治の失笑を誘った。
「まずいぞ源治……どうする? 」
「俺はしばらく此処にいる。真悟、悪いが村の様子を探りにいってくれ。そうだな、特に大滝の屋敷なんかを念入りにな」
「ああ、解ったよ」
 源治の言い付けはとても素直に聞く真悟であった。きっと彼は一目散に大滝家へと向かうだろう。この洞穴の存在を知る者は、自分以外には真悟、助清、重蔵、そしてお梅のみの筈である。そして、真悟が逐一事態を報告してくれる。さしあたり見つけられる事は無いだろう。だが、ずっとこの洞穴に居る訳にはいかない。まずは、たった一人の身内、お梅を何としてでも助けなければならない。お梅を助け出したら最早こんな村に居てもしようが無い、さっさと放浪の旅にでも出るか。正直、お梅には辛い目ばかり逢わせてきた。旅先では、妹を労わってやろう。親の顔も知らずに生きてきて、嫁いだ先では、化け物呼ばわりされ、何一つ幸せを味わった事のないお梅が不憫でならない。
しかし、相手はあの大庄屋、大滝家である。生半可な事ではお梅を助けるどころか、この村を出る事も敵わぬ。
 源治は暗闇の中、その手に長刀を握り締めた。柄を持ち『くいっ』と引く。すると、鞘から白く鋭い刀身が顔を覗かせた。刀身に源治の真っ黒な瞳が歪んで映る。
「いざとなれば、こいつで……」
 勢い良く鞘から抜かれた長刀が、暗闇の中でひらりと妖しい光を放った。

              *

 重蔵が家の戸を力強く開くと、そこに立っていたのは今朝大滝家の裏口で出逢った体格の良い坊主であった。坊主は、左の掌を顔の前で立て、右手には金色に深く輝く錫丈を握りながら、重蔵より少し高い位置にあるその頭を垂れていた。黒い着物に手甲、脚絆、そして、深紅の縁取りの袈裟を被り、物静かにたたずむその姿に重蔵は少し気圧されたが、彼には、この坊主に問い質さねばならない事があるゆえ、思わず一歩引きそうになる体をしっかりと地に着けて、渾身の言葉を吐く。
「あんたか……お梅を妖怪だのと言い触らし、村人を混乱させている不届きな坊主ってのは……」
 禿頭の退魔師、松庵がその頭を上げた。重蔵の視線が、松庵の眼差しを捉えた時、退魔師の眼差しは深く悲しみに沈んでいた。
「左様、この度は拙僧の不用意な言動により、村の衆に多大な誤解を与え、不本意なる混乱を招いてしまいました。特にお梅殿には申し開きの無い程の迷惑をお掛けしてしまい、誠に申し訳なく思っております」
 重蔵は、松庵の慇懃な態度とその悲しみに沈んだ眼差しにすっかり気圧され、完全に気勢を削がれてしまった様で、上手く言葉が出てこなくなってしまった。
「あ、謝って済む事じゃ、無いだろ。あんたの所為で……お梅が酷い目にあってるんだぞ。ど、どうするつもりだ。あ、あんたの所為だぞ」
「確かに、謝って済む問題ではありませぬ。拙僧が此処へ参ったのは、お梅殿への誤解を一刻も早く解く為、真実を掴む為で御座います」
「し、真実だと? 」
「そうです。あなたの奥方、お松殿が握っておられる真実で御座います」
「お松が……」
 重蔵は、後ろを振り向いた。お松は奥の間につながる扉のすぐ傍で顔面を蒼白にして立ち竦んでいた。先程、政が来て妖怪だの何だのの話をしていった時から、お松は様子がおかしい。本当に何かを知っていて隠しているのか。
「お松、お前……まさか」
 重蔵は、お松に駆け寄る。お松の細い肩が小刻みに震えているのが解る。
「お松殿、拙僧の推測が正しければ、いつかはこうなる事は解っていた筈です。こうなってしまったからには、全てをお話になるべきでしょう……何の罪も無いお梅殿の為にもです……」
 重蔵は、再び松庵を見る。その眼差しは更に悲しみを蓄え、涙さえ浮かべているのかと思えた。何故、それ程までに悲しい眼をするのか、重蔵には解らない。ただ、この異様な雰囲気にただ独り取り残された観は否めなかった。
「お松殿、――あなたは、牛鬼なのですね――」
 その言葉は、唐突に松庵の口から吐き出された。重蔵はその言葉の持つ真実を理解する事が出来ないでいる。ギュウキ……お松が牛鬼?お松はお松だろう。我が最愛の妻で、息子の良き母、自分にとって居なくてはならない掛け替えの無い存在。それ以外の何者でも無い筈じゃないか。お松はしかし、更に体を震わせ、何かに耐えている様相を見せる。
 すると突然、お松は床に座り込んで、その頭を床に擦り付ける様に土下座を始めた。床に着いた美しい黒髪が、お松の頭を中心にさらりと扇型に広がる。
「申し訳御座いません……全てを……お話致します……」
「お、お松……」
 妻の突然の行為に、重蔵はただただその成り行きを見守るしか術が無かった。松庵が、戸を潜り家屋の中へ入ってきた。小縁の手前で立ち止まり、お松に語りかける。
「まずは頭をお上げ下さい。辛い事でしょうが、全てを打ち明けなさいませ」
 顔を上げたお松の瞳は涙が溢れていた。
「重蔵様、私は今から全てをお話致します。きっと、この話が終わった時、我々は一緒に生きてゆく事が出来なくなりましょう。それが、辛くて……今まで黙っておりました。本当に申し訳御座いません」
 涙ながらにお松が重蔵に語りかける。
「何を言ってるんだ。俺が、おまえと離れる訳無いだろう。変な事言うのは止せ」
「ああ、重蔵様、本当に申し訳御座いません……ですが、私は話さなければならないのです……どうか、しばらく私の話をお聞き下さいませ」
「お松殿――よく決心なさいました」
 松庵は、土間に佇んだまま、渦中にある夫婦をじっと見守っている。
「私は……人間では御座いません。ずっと昔から、確かに牛鬼と呼ばれておりました。もう、三百と五十年生きております……」
 重蔵は、ただ呆然と理解を超えた妻の話を聞くしか他に何も出来ないでいた。
「まずは、我々牛鬼の事からお話させて頂きましょうか……」


             11


              *

 なあ、どうしてお前は、歳を取らぬのだ。わしはもう、日干しの様な体だというのに、お前は何故其れほどまでに瑞々しいのだ。わしは、あの頃と何一つ変わらぬお前が恐ろしゅうてならん――
『そう、私は人間ではありませんから、あなたと共に墓へは入れないのです』
 早く、この家から出て行ってくれ。その鬼の子を連れて。もし、こんな事が村中に知れ渡ったら――
『解りました、あなたに迷惑はお掛けしません』
 鬼は出て行け!――
『出て行きます』
 俺は、妖怪と夫婦の契りを交わしていたのか、なんと罪深い事をしてしまったのか――
『私たちの関係、やはり、それは罪なのですね』
 逃げろ、喰われちまうぞ、頭からばりばりと――
『そんな粗暴な事は……致しませぬ』
 殺せ!鬼の子を産む女を、そしてその子供を――
『この子はあなたと私の間に産まれた子……なのですよ』
 海に落ちたぞ!この高さから落ちたら、いくら牛鬼でも助かるまい――
『死なせて下さい、この程度で死ねるのなら……』
 俺の所に一生住んだらええ。なあ、俺の傍にずっといてくれないか――
『それは出来ませぬ。また、同じ過ちを繰り返すだけですから……どうかこのまま行かせて下さい』
 いいんだ、そこに座ってちょいと微笑んでいてくれれば――
『重蔵様、優しい言葉を掛けないで下さいませ、優しくされればされる程――辛くなるのです』
 お松、お前は何者なんだ――
『重蔵様……ああ、愛おしい重蔵様、私は、私は……』

               *

「私は女の牛鬼なのです。男の牛鬼は、牛の頭に鬼の体を持つ巨体をしており、やがて歳を重ねてゆくと、六本足の蜘蛛の様な姿へと変体するのです。しかし、私の様に女の牛鬼は、姿形が人間の女と何一つ変わらないのです。ただ、人間の魂を抜き取る事など、人間とは違った事は出来るのですが。だから、人間の集団に紛れ込んでいたとしても、誰も私が妖怪と呼ばれる物である事など気付きもしません。現に、重蔵様は、今でも私を人間だと思っておられるでしょう」
 お松は、俯き加減の顔を少し上げて、未だ焦点の定まらぬ様な顔をした重蔵を伺う。重蔵から何も返答が無いと解ると、お松は再び語り始めた。
「私は、元々身寄りの無い牛鬼で御座いました。産まれた時からずっと一人ぼっちで、あちこちの村や町を放浪していたのです。女一人で生きてゆくには、世間の風当たりはとても厳しゅう御座います。私は拠り所を求め、人間の男とつがう様になっていきました。行く先々で、人間の男達は私を嫁だの養子だのと歓迎してくれました。それも当然でしょう、私の事を人間だと思っているのですから。私は、時には養子として、時には嫁として、それぞれの拠り所で精一杯尽くしてきました。しかし、それも男との間に子が産まれるまでの間です。所詮は牛鬼と人間の間に産まれた子、半月もしたら、立派な角や牙が生え揃います。その姿を目の当たりにする男や家族、村人達は皆その時、私が妖怪である事を知るのです。そして、迫害が始まります。殺されかけ、村を追われ、私はまた独りになるのです。そんな事をもう三百五十年続けて参りました。同じ過ちを繰り返し、何度も死のうと思いました。しかし、牛鬼は自分で死ぬ事は出来ないのです。我々の本体は魂、たとえ自分で肝を刺したところで、魂は、牛鬼を殺した者に再び宿るのですから、結局自分に帰ってきてしまうのです。なので、これが定めと言い聞かせ、この生き方しか私には無いのだと、強く生きてゆく事を決めたのです。人間には迷惑な話かもしれませんが」
 お松は、三百五十年の思い全てをぶつける様に松庵と重蔵に語っている。いつしか、肩の震えも止まり、お松のその眼には少し力強さも戻って来ている様だ。過去を吐き出す事で少しは楽になったのか。
 お松の語りが少し途切れた頃合を見計らって、松庵が少し口調を強めて話出した。
「そうやって生きて来たあなたが、何故、今回はあの様な事をなさったのですか?あれは、やってはならぬ事です、牛鬼として、そして親として。いくら牛鬼が魂を扱えるからと言って、お梅殿の子と、あなたの子の魂を入れ替てしまうとは――一歩間違えば、お梅殿の子は魂を完全に失う所だったのですよ。そして、お梅殿は誤解を受け、酷い仕打ちに苛まれているのです」
「申し訳御座いません。ですが、ですが……」
 少し戸惑うお松を見ながら、松庵は更に続ける。
「最初は、解りませんでした。何故なら、あの赤子には鬼の魂ともう一つ人間の赤子の魂の痕跡、両方ともあったからです。なので、赤子が鬼に憑依されているものだと思っておりました。しかし、どうもおかしい。いくら祈祷を行っても、憑依された側の赤子の声が聞こえてこないのです。そこで、赤子にカマをかけてみたのです。貴様は牛鬼か?と。肝を刺すぞ、と。すると、赤子は、母親は牛鬼と呼ばれていたと言うではないですか。もしや、と思い、赤子の脇腹、肝のある辺りを良く見てみたのです。すると、そこにはかすかに刺し傷が残っているではありませんか。それで全てが解りました。お梅殿の子とほぼ同じ時期に産まれた男子を授かった所といえば、此処しかありませんでしたので」
「な、何を言ってるんだ、二人とも。何が起きて、どうなったというのだ?なあ、お松、教えてくれ」
 重蔵は、妻と坊主の不可思議で理解不能な会話の狭間に取り残されてた。口をつぐんだままのお松に何かしらの返答を求めるが、言葉は無い。代わりに松庵が、再び語り始める。
「あなたは、お梅殿の子を殺し、魂を抜き取った。その体を使い、今度は自分の子を魂の抜けたお梅殿の子を使って殺し、魂を入れ替えた。そして、抜き取ったお梅の子の魂を自分の子の体に無理矢理入れ込んだのでしょう。自分の子が牛鬼の子である事を隠す為に。こんな事は、人間だろうと妖怪だろうと、親のする事では無い!何故、そんな事をしてまで……。もし、この事がばれずにいたら、お梅殿を見殺しにするおつもりだったのですか?お松殿! 」
「今まで生きてきて、この様な気持ちになったのは初めてで御座いました」
 お松が、再びしっとりと口を開く。
「重蔵様と、離れたくない。このまま、ずっと重蔵様と共に生きてゆけたらと……その思いが、私に邪念を作ってしまったのです。この子が人間の子であったなら、と。私は本当に許されない事をしてしまいました。最早、重蔵様のお傍にも、この村にも留まる事はできません」
「愛の深さゆえ――ですか」
 松庵の眼差しは、先程よりもずっと深い悲しみの中にあった。
「重蔵様、今までありがとう御座いました。あなたから受けた優しさ、愛情は忘れる事は無いでしょう、これから何百年と過ぎようとも。私は、今を限りにこの村を出てゆきます。どうぞ、お達者で……」
 お松が深々と頭を下げる。
「ち、ちょっと待て。何故出てゆく?お松、お前が妖怪だ等と俺は信じないぞ。子供だってほら、元気ですくすくと育っておる。お前の何処に妖怪のよの字がある?」
 重蔵は、土下座するお松の上半身を起して、訴える。
「重蔵様……半月程前、私たちの子の額に瘤の様なものが二つ現れた事を覚えておられますか?三日もすると、いつの間にか額の瘤は消えておりましたでしょう。その瘤こそが、牛鬼の子の証、角の芽だったのです。角の芽が消えたのは、私が、この子の魂を入れ替えたからで御座います。この子は、本当はお梅ちゃんの……子なのです」
「そんなバカな!俺は信じないぞ。そんな瘤くらい出来る事だってある。それにお前のその姿、一体何処が妖怪だと、鬼だと言うんだ」
「頭を鍬の刃で割られて、生きている人間がおりましょうか?首が反対に折れ曲がってまで、こうして生きている人間が、何処におりましょうか。重蔵様、あなたは、しっかりとその目で見ている筈で御座います」
「し、しかし……」
「まだ疑われるのならば、今此処で重蔵様の魂を抜き取って差し上げましょうか」
 お松の眼が豹変した。その鋭い眼光は、狙った獲物は逃さない獣の眼そのもの。この世では見ることなど出来ないと思える程に恐ろしい瞳に重蔵は、お松の中の鬼を見た。背筋が凍りつき、指先さえ動かす事が出来ない。重蔵は、その一瞬で死を覚悟した。
「ひ、ひい〜」と、重蔵から声にならない悲鳴が上がる。
 しかし、お松はその豹変ぶりをすぐに収めて、再び物憂げな目を自分の夫に向け直す。重蔵は、床にへばり付く様に脱力し、腰を落としたまま身動きすら出来ないでいた。
「解って頂けましたか?重蔵様、私は本当はあなたと一緒になってはいけなかったのです……。お別れで、御座います」
 お松がきびすを返し、家から出ようとした時、松庵が呼び止めた。
「お松殿、あなたは、まだ行くべき所がある――大滝家に――」
「そうでしたね。けじめを……。松庵殿とおっしゃいましたね。一緒に行って下さいますか?」
「参りましょう」
 先に、お松が家の戸を潜り外に出て、松庵が後を追うようにした。
「ちょっとまってくれ! 」
 背中越しに聞こえた声は、お松の夫のものであった。



               12



 初夏の眩しい木漏れ日を浴びながら、お松は自分を呼び止める声がする方を振り返った。頬を伝う涙の雫が、木漏れ日に反射する。
 重蔵は、裸足のまま家を飛び出そうとして、入り口の敷居に足をつまずかせて勢い良く倒れこんでしまった。しかし、そんな事は構いもせず重蔵はお松の元へ全力で駆けて行く。
「お松、待ってくれ」
 僅かに後ろを見返り再び歩き出すお松の肩を、重蔵はおもむろに掴んだ。
「俺も行くぞ。妖怪だか物の怪だか知らんが、お松、お前は俺の妻で、俺はお前の夫だ。だからお前がやった事は俺も見届けなきゃいけない。それが、例え村を追われるほどの事だったとしても、俺はお前と一緒に村を出ていくつもりだ。だってそれが、夫婦ってもんだろう? 」
 重蔵はお松を強引に振り向かせて、妻のその真っ赤に腫らした眼をじっと見据えた。
 お松も必至に重蔵の眼を見返して応える。
「そう仰って下さった方も過去には何人かおりました……。でも、誰一人として、牛鬼の子を育てる事は出来ませんでした。それから、どうぞ考えてみて下さい。私はこれからもずっと今と変わらぬ姿のままなのですよ。あなたは、その間に老いて衰え朽ちてゆくというのに。夫婦なのにその生活や生き方は徐々にかけ離れてゆくのです。これがどれ程悲しい事か、きっと今のあなたには解らないかも知れません。それは、お互い身を引き裂かれる様な思いを……。それが解っていて、一時の情だけで軽はずみな決断は出来ません。不幸な結末は目に見えていますから……」
「ばかやろう、そんな何百年も昔の事なんて言うな! 」
 重蔵はそう言って、お松を自分の胸に引き寄せ、きつく抱きしめた。
「そんな昔の事をいつまでも引き摺るなよ。俺が忘れさせてやる、絶対に」
 お松は、その言葉を重蔵の厚い胸板の中で聞いている。なんだかとても心地良い暖かさがお松の身を包む。『私は、このぬくもりがいつか消えて無くなってしまうのが怖かったんだ。でも……』お松は、意を決した。
「一緒に来てくれますか?この村を捨ててまでも、この私と共に生きて下さいますか」
 もう迷う事は無い。この暖かい胸に抱かれながら、宛ての無い旅路を夫婦で少しずつ歩いていく。その思いが、まるで自分の生まれてきた意味であるかのように心を満たす。ほんの一瞬前、あれほど怯えていた思いは、全て重蔵という太陽が溶かしてくれた。後の事を悲観して、今この人の前から消える事の方が、今の私にとっては間違いなく不幸な事。どうか、私の闇をあなたのその陽だまりの様な優しさで照らして下さいませ。
「ああ、一緒に行こう」
 重蔵は、自分を育ててくれたこの小さな村が大好きだった。この村に住む人々も、この村の風景も、この村の風も、もちろん幼馴染のお梅も、その兄源治も、助清も、父も母も、この村を構成する全ての物に感謝している。だが、それ以上のものが出来てしまったのだ。決して村を捨てる訳ではない。自分自身もそれは解っているし、村人もきっと理解してくれる筈だ。二人ならきっと何も怖いものなど無い。
「行こう、まずは大滝の屋敷へ」
 重蔵とお松は、二人の赤ん坊を連れ、肩を並べて松庵に先導されながら、大滝家へと向かった。

 源治は、闇の中で息を潜めながらまんじりともせず時を過ごしていた。左手に握り締められた長刀の鞘は、彼の手から滲み出る油汗にまみれている、今にもその掌から滑り落ちそうな程に。
 洞穴の入り口付近で、石を蹴飛ばした様な音が響いた。源治は咄嗟に身構えるが、その音の発生者が、自分の舎弟的存在の真悟である事が解ると『なんだ、真悟か』と言って緊張の糸をほんの僅かだけ緩めた。真悟は、息を切らしている所為か肩を大きく揺らして洞穴の最深部にいる源治の下へとやってきた。
「真悟、外の様子はどうだ? 」
 源治は、長刀を握り締めたまま真悟に尋ねる。
「どうやら、騒ぎは収まったみたいだぞ。さっき重蔵とお松が、庄屋の屋敷に入っていったんだ、坊さんと一緒にね。そうしたら、屋敷の人間は皆戻ってしまった。どういう事だろうなあ」
「なんだと、重蔵とお松が……? 」
 源治は、思わず真悟の顔に目を向けた。重蔵とお松が何か係わっているのだろうか。一緒に居た坊主というのは、屋敷の人間が呼んだ退魔師とかいう胡散臭い坊主の事だろう。どうも引っかかる所がある。
「よし、真悟。大滝の屋敷へ行ってみるぞ。一体何があったのか、この目で見届けてやる」
 もう自分を狙う奴が居なくなったのならば、こんな薄暗い場所にいる必要は無い。源治は地べたに降ろした尻を持ち上げた。左手に握られた長刀は、少々物騒なので置いていく事として、源治と真悟は洞穴を出て山を降り、大滝家へと向かったのである。
 村は、驚くほどに静かであった。山の洞穴から大滝家まで、源治と真悟は何事も無く順調にたどり着く事が出来た。しかし、屋敷の中は、多分そうはいかないだろう。そう思った源治は、慣れ親しんだ屋敷内の事なので、木々や建物の隙間など屋敷の住人の死角部分に身を隠しながら、重蔵とお松を探した。重蔵とお松は意外と目立つ場所である広間の座敷に、屋敷の主人や助清達、大滝家の一族、そして退魔師松庵とその弟子達と共に居た。源治と真悟は、庭に生えた座敷の様子が見渡せる大きな欅の木に登って、身を隠す。だが、この場所では、座敷にいる人間達の声は殆ど聞き取る事が出来なかった。何やら、赤子を中心にして話は進められている様だ。片方の赤子には角が生え、顔面に奇妙なお札が貼られている。お梅から聞かされていた源治は、その赤子がお梅と助清の間の子だと直に解った。初めて見たが、やはり異様な姿であると源治は思った。あの姿を見れば、この屋敷の人間(特にあの主人)なら排除したいと思うであろう。身勝手極まりないこの屋敷の住人であれば……。
 源治がそんな事を考えていると、庭の欅のすぐ下を、この屋敷の使用人で、昔から良く顔の知っている政が通りかかった。政は、木の上にいる源治と真悟には全く気付いていない。源治は、政に話を聞こうと思い、欅の枝を五寸程の長さに折ってそれを政の頭めがけて投げつけた。政ならば、事の顛末はかなりの所まで知っている筈だ。枝は見事に政の脳天を直撃した。枝の直撃を受けて政は、欅の木を見上げた。そこには、見覚えのある右頬の古傷、小柄だが厳つい体系をした男が、欅の枝に座っているではないか。
 源治は、政が自分に気がついた事を確認して、素早い動きで木を降りていった。
「源治、お前一体此処で何を……」
 政の地声はかなり響く。屋敷の者に気付かれない様に、源治は、政に小声で話すように人差し指を口の前に持ってきて合図をした。その時になってやっと源治に随分と遅れて、真悟が枝によって擦り傷を作りながら、欅の木から下りてきた。
「なあ政、この屋敷で何が起こってるんだ?お前の知ってる事を教えてくれ」
 源治は、政に小声で訊ねた。政は、ほんのつい先程まで、源治を妖怪呼ばわりし、捕まえようとしていた事に少し引け目を感じていた。なので、源治の問いかけにもとても素直に対応した。
「そうだな、何から話そうか……まあ、俺の知る限りでは……」
 政が話し始めてから、源治がその内容全てを理解するのに、やはり相当の時間を費やす事となった様だ。内容を全て把握すると、源治は、重蔵の妻お松の所業に酷く憤慨した。
「そうか、お松……あいつが妖怪だったとはな。しかし何てことしてくれたんだ!あいつの所為でお梅はどんなめにあったと思ってるんだ! 」
 今にも、座敷のお松達の所へ殴りこみそうな勢いの源治を、政と真悟がなだめながら必至に制止する。
「まあ落ち着けよ源治。お松と重蔵は、明日この村を出て行くと言っているんだ、あの赤子を連れてな。それでけじめは十分じゃないかな。お松もすごく反省しているみたいだし、ここはどうか収めてくれないか。それで旦那様も納得している所なんだ」
 源治は、とりあえず怒りの矛を心の中に収めて考えた。確かにお松のした事は酷い事だ。これほどの騒ぎを起し、何のお咎めも無しと言う訳にはいくまい。だが、牛鬼という妖怪の性質上、お松が死んで詫びる事も出来ない。ならば、自分の犯した罪を洗いざらい吐露したうえで、村から早々に去っていくというのが、おそらくいちばんすっきりとしたけじめの取り方なのだろう。最後に我が妹のお梅にしっかりと詫びの言葉を掛けてさえくれたら、それで十分ではないだろうか。どちらにしても、我々兄妹も、この村からは出て行かねばなるまい。住み慣れた家も壊れてしまったし、お梅に関して言えば、こんな事があった屋敷では、最早暮らしてはいけないだろう。何だかんだと言っても住み慣れた良い村だったと思うがこれからは、重蔵とお松同様、我ら兄妹も新天地で新たな生活を始めるのだ。まあ、これで一応の決着はついたとみるべきだろう。
「解ってくれたか、源治? 」
「まあ、こんな所だろう。これ以上何を言っても仕方ないさ。……ところでお梅はどうした? 」
「ああ、お梅は納屋にいる。今見張りの奴が鍵を開けに行ってる所だが……」
と、政が喋った矢先の事だった――
 突然、座敷がざわめき出したと思ったら、お梅の夫である助清が突如立ち上がり、納屋のある裏庭の方へ一目散に走り出したのである。源治と政は、遠くからではあるが、確実に助清の顔が青ざめているのが解った。
 源治の胸中に言い表せない程の不安が過ぎる。

 大滝家の座敷に、少し打ち解けた雰囲気が流れ出し、話し合いも間もなく終わりを告げようとした、そんな時だった。
 納屋の鍵を開けに行っていた使用人が顔面蒼白で座敷の輪の中へ飛び込んできたのである。
「大変です!お梅殿が……」
 使用人の報告を聞いた助清の額から一気に油汗が噴出し『そんな、ばかな!』という言葉と共に立ち上がると、彼は一目散に納屋へと駆けて行った。次に重蔵、松庵、屋敷の主人が続いた。やがて、大滝の一族もわらわらと納屋へと向かって走り出したのである。お松も、その中に紛れ、赤子を抱いて納屋へと向かう。
 助清は、納屋の大きな扉と土間の隙間から流れ出る流血により裏庭に出来上がった真っ赤な血だまりを呆然と見つめていた。納屋の扉は開かれ、そこから差し込んだ太陽の光は、その凄惨な光景をあからさまに浮き上がらせている。お梅の体は、己の体内から流れ出た鮮血にまみれ、真っ暗な天井を見つめる様な格好で仰向けに倒れていた。その首筋に突き立てられた緋い珠の付いたかんざしは、お梅自身の右手で握り締められていた。



           13


 その場所だけは、真っ暗な納屋の中にあって陽の光が勢い良く入ってくる。それが、この悲しい現場を一層際立たせるのだ。松庵は、お梅の体を血まみれになりながら抱きかかえる助清を、やり場の無い思いで見つめていた。納屋の入り口付近に集まった人だかりも一様に閉口したままで、その周囲であれこれと指示を出している使用人の声が遥か遠くの物であるように思えた。今、この世界で発することが許される音は、きっと助清の嗚咽だけなのだろう。助清の、妻の名を繰り返し叫ぶ声だけが納屋に響いている。
 既にお梅は息絶えていた。助清の抱きかかえているモノは、お梅という人格を持った人間ではなく、魂の抜け殻であるただの肉の塊でしかない。お梅の歴史は、残念ながら永久に更新される事が無くなったのである。お梅の歴史を他人が推し量った所で真実など何も見えては来ないのだろう。お梅の人生が幸せな人生だったのか、不幸な人生だったのかという問いは、お梅自身の心の中でしか正解を導き出す事は出来ない物で、今となっては、それは答えが永遠に閉ざされた愚問の類である。この歳で、この場所で自ら息を引き取った事はさぞ無念であっただろう。ただ、そう思うのも生きている人間の傲慢に過ぎない。お梅の心の中にしかその答えは見出せないのだから。結局、生きている者はその記憶にある死者の想い出の中でしか、死者の人格や面影を生み出す事が出来ない。それは、決して死者の本当の姿ではないのだ。想い出や記憶という名の虚構が、人の死に対する寂寥感を増幅させる要因となっている事は事実だろう。二度と掴む事の出来ない真実に、人間は寂しさと恐れを抱く。それは、仕事がら人の死に直面する事の多い松庵にとっても同じ事であった。この切なさは、松庵が松庵である限り例え何万もの死に直面したとしても、付き纏うものに違いない。特に、お梅の事については、自分の軽率な言動が結果として最悪の事態を招いてしまったものである。
 自己嫌悪の念が松庵の脳裏に渦巻く。それは、己の失敗により結果として人を死に追いやった事実に起因する要因と、もう一つの要因が引き起こす思いであった。『何故、絶望を抱きながら監禁されている人間の元に、命を絶つ事の可能な道具を置いていたのか。あの緋い珠の付いたかんざしを、何故納屋にお梅を閉じ込める前に抜き取っていなかったのか』その事実に松庵は、未必の故意を感じずにはいられないのである。人を疑う事に関して、これほど自己嫌悪に陥った事は無かった。松庵の生業は、元来ある程度人を疑わねばやっていけない性質を持ち合わせている。しかし、この屋敷に訪れた時から少しずつ自分の中で何かがずれ始めたのか、人を疑う事に非常な抵抗感を覚える様になってしまったのだ。それは、お松と重蔵の人間や妖怪という立場を超越した深い信頼関係を目の当たりにした時からだろうか。それとも、あの雨の中で赤子を抱いた女の心の底からの微笑みを見た時からか。
 松庵の人生観に広がった波紋は、此処に来て彼自身を自己嫌悪と言う形で苦しめる事となった。
「お梅……許してくれ……許してくれ……」
 助清が繰り返すその言葉を、松庵はただ立ち尽くして聞くのみであった。

 やがて日が落ち、澄んだ闇夜に月明かりがぼんやり浮かび出す。
 村の大庄屋、大滝家も少し落ち着きを取り戻し、物静かな夜を迎えていた。
 重蔵とお松は、お梅の死を受けて明日の朝、日の出と共にこの村から出て行く事を決め、今頃は、未だ術が解けずに動く事の出来ない赤子と共に、旅支度を整えている事であろう。
 松庵一行は、弟子の肩の傷の事もあり、もう一晩だけこの屋敷に泊まる事にした。一行に与えられた部屋で、三人は重苦しい時間を共有する。そこで出た結論は、明朝は日が昇り始めたらすぐにこの屋敷を発とうという事であった。最早、誰一人としてこの屋敷に長居しようとするものはいない。肩を負傷した弟子ですら、一刻も早くこの屋敷を出たいと願い出た。
 松庵達は、早々に寝床に入り込み、昼間の惨劇を眠りが忘れさせてくれる事を願う。ところが、睡魔は一向に襲ってくる気配は無い。随分と長い間悶々とした時を過ごした松庵が、やっとの事でうとうととし始めた頃は、普段であれば既に床から起き出している時刻であった。そんな時分、再び大滝家を混乱の渦が駆け巡ったのである。
 廊下を慌しく行き交う人々の足音や、ざわめき声に松庵はまどろみからすっかり引き戻されてしまった。弟子の二人も同様に、すっかり目を覚ましていた様である。
 松庵は、その雑多な音を耳を澄まして聞き分ける。
『若旦那が……赤子を巻き添えに……鴨居に縄を……』
 松庵は、夜着のまま部屋の襖を開ける。そこには慌しく駆け回る大滝家の使用人たちの姿が確認出来た。
「どうなさった?何かあったのか? 」
 使用人達の慌てふためきぶりは尋常ではなかった。松庵の姿を横目で見たが、何も答えずただ、一目散にその部屋へと駆けていく。見てみると、その他の人々も皆同じ部屋を目指して駆けている。あの部屋は……お梅殿が安置されている部屋ではないか。松庵は、慌てふためく人々に釣られる様にして夜着のまま、その部屋へと向かって行ったのである。
「『お梅と二人きりにさせてくれ』若旦那様がそう仰いましたので、私は自分の部屋へ行っておりました……。申し訳御座いません。本当に申し訳御座いません」
 部屋の中では、使用人の一人が屋敷の主人の足元で土下座をして何やら必死の形相で謝罪をしていた。そして、そのすぐ脇にはお梅の遺体が寝かされていた。顔にかけられた白い布がめくられて、青白いお梅の顔がろうそくの灯りに浮かび上がる。そしてその隣に、お梅と並んで寝ているかのように、緋い珠の付いたかんざしで額を貫かれた赤子の遺体があり、更に視線を横へずらしていくと、部屋の鴨居に麻縄を縛りつけ、麻縄で首を吊るこの屋敷の若旦那、助清の変わり果てた姿がそこにはあった。
 妻の死を苦にしての子供を道連れにした無理心中である。助清の中には、あの時妖怪であると疑われたお梅をかばう事の出来なかった罪の意識があったのだろう。それが一人になったのがきっかけで一気に爆発してしまったのだと、松庵は思った。しかし、本当の事を知るモノは既に、何も答えない。これが助清の、愛する者を救う事が出来なかった己に対するけじめだったのだ。最も愚かなけじめであると松庵は思うが、最早、そう言って助清を責める事も出来ない。
 事態は加速度を増して更に大きく酷く、この件に係わった人間の思惑に反する方向へと突き進んでいく。



          14


「この馬鹿者が!こんな事で死によって! 」
 土下座する使用人をあしらい、屋敷の主人が吊られたままの助清の前に来て怒鳴り散らす。
「助清、お前がこんな腑抜けだったとはな!これで、渋沢様の娘さんとの縁談も無くなってしまったではないか。せっかくお梅が勝手に死んでくれたというのに……」
 屋敷の主人がそこまで言うと、助清の母親、主人の妻が青い顔をしてその言動を制止しようと主人の袖を引いた。『それは、この場では言ってはいけない』そんな意味合いを視線に宿しながら妻は、旦那の暴走に歯止めをかけようとする。しかし、主人はその手を強引に振りほどき更に捲くし立てる。
「貴様一人で死ぬならまだしも、子供まで道連れにして……このままでは、この家がわしの代で途絶えてしまうではないか!どこまでわしに恥をかかせるのか!この親不孝者が……! 」
 言いながら、屋敷の主人は自分の内から湧いてくる怒りを抑えきれなくなったのか、突然大きく右腕を振り上げたのである。その拳は己の怒気を内包し、硬く握りしめられていた。その怒気を含んだ拳が狙う先は、吊るされた助清の死体であった。だが、その拳は狙う場所には届かなかった。背後から、何者かの手が屋敷の主人の手をしっかりと捕まえる。
 屋敷の主人が振り返ると、そこには退魔師松庵の寂しげな顔があった。
「お止めなさい。亡くなった方に手をあげるなど、冒涜の極みで御座いましょう」
 屋敷の主人は松庵の顔を睨みつける。しかし、松庵の眼力に気おされ、不意にその目を逸らすのであった。
「ふん」と鼻を鳴らして屋敷の主人は、松庵に捕まえられた腕を振り払った。そして、その場に座り込み、何やら独り呟き始めた。
「……ああ、大滝家が途絶える……わしの代で……そんな……十五代続いた、我が屋が……くうぅ」
 背中を丸め、息子の首吊り死体の前で座り込む屋敷の主人の姿を見ながら、松庵は思った。この人は、人間である前に、親である前に、この屋敷の主人なのだ。彼は知らず知らずの内に、この何代も続く大滝家という『家』を護り後世へ残していく為のいわば道具に仕立てられていたに違いない。それは、何十年、何百年と続くこの『家』の伝統やら格式と言った因襲が屋敷の主人に及ぼした影響、それが怨念にも似た形で、屋敷の主人を人間でもない、無論妖怪でもない、単なる屋敷を護る道具に作り変えたのであろう。思えば、この男も悲しい宿命の元に生まれたものである。屋敷を護る為なら妖怪にもなれるであろうし、心優しい庄屋様にもなれた。無論、力強く包容力のある父親にもなれたのだろう。しかし、それは屋敷を護る為の方便でしかない。世継の無くなったこの『家』は、自然的に崩壊していくだろう。そして、護る物が無くなった事で、この悲しい宿命を背負った男も、間もなく内部から崩壊していくのだ。
「……出発の準備だ。早々にこの屋敷を発つぞ」
 と、松庵は後ろに控えていた弟子二人に言った。
「最早、この屋敷で我らが出来る事は何も無い……」
 人の輪を掻き分け、部屋に戻ろうとする松庵に弟子が訊ねる。
「良いのですか?これで……」
 人の輪を抜け出した松庵は、背を向けたまま答える。
「良くはない……だが、これがこの屋敷の本来の姿だったのだろう」
 後から慌ててやってきた使用人とぶつかりそうになりながら、松庵は廊下を進む。その後を、弟子達が追う。
「悲しい……仕事でございます、やり切れません」
「ああ、そうだな……」
 そう言ったきり、松庵は沈黙を続けた。部屋に戻り、帰り支度をしている時もその中に会話は発生しなかった。やがて、帰りの身支度が済んだ頃、弟子が松庵に報告をするまでその沈黙は続いた。
「お師匠様、帰りの支度が済みました。しかし、まだ外は暗うございます……いかがなさいますか? 」
「出かけよう。間も無く朝日が昇る。何があろうと、日は必ず昇るのだから……何があろうとな」
 
 大滝家の玄関でわらじを履く退魔師一行を見送る者は誰一人としていなかった。
「さあ、行こう」
 傘を被り、錫丈を携え松庵一行は歩き出す。玄関を出て暗闇の中に立派な庭を見ながら白壁の門を潜ると、誰かが一行を呼ぶ声が聞こえた。
「おーい、ちょっと坊さん待ってくれ」
 松庵が振り返ると、そこにはまだ若い大滝家の使用人がこちらに向かって走ってくる姿があった。あれは、確か政とか言う男だ。松庵一行が、門を出てすぐの所で立ち止まると程なく政が追いついた。
「どうかなさいましたか? 」
 松庵は、政に問いかけた。
「こんな事頼めるのは、坊さんあんたしかいないと思ってさ。実は……」
 政は、息を切らしながらまくし立てる様に話始めた。しかし、松庵とその弟子が、彼の話した内容を全て理解するのに、相当の時間が掛かった事は言うまでも無い。
 彼の言いたい事を要約すると、こう言った事の様だ。詰まる所、お梅の兄である源治という男が、お松によってお梅は殺されたのだと言い出し、復讐しようとしているらしい。未だ源治は、重蔵とお松の元に来てはいな様だが、あの夫婦がこの村から出るまで、源治から護ってやってくれないだろうかと、政は松庵達に頼みに来たという訳だ。
 それを理解する頃には、既に空は薄く白んでいた。未明から明け方へと移り変わる丁度狭間だ。
 松庵は、政の申し出を快く承諾し、早速重蔵の家へと向かった。ひょっとしたらもう既にこの村から旅立っているかも知れない。はたまた、お梅の兄源治が乗り込んでいるやも知れぬ。だが、せめてあの夫婦だけはこのまま静かに見送ってやりたい。妖怪と人間が手を取合って生きていく事が果たしてどの様な結果を生むのかは解らない。しかし、せめてこの場所からは、気持ちよく旅立って欲しい。それが、せめてもの救いになる筈だから。
 しかし、松庵のその思いは叶う事は無かった。松庵が重蔵の屋敷にたどり着いて、そこで見たものは、地獄絵図そのものであった。胴を真っ二つに切断された、牛鬼の赤子と、その脇で傷を追ってしゃがみ込む重蔵と、腹の辺りを長刀に貫かれ、血の海に沈んでいるお松……そして、体中に剛毛を生やした巨体に、牛の頭をした妖怪。その頭には凶暴にひね曲った禍々しい角が生えている。どうやら、まだ妖怪には成りきれていない様だ。よく見ると牛の頭ほど鼻先が尖っていない。少しだけ人間の顔の面影がある。そして松庵は、その右頬に大きな古い傷跡がある事を確認した。
 妖怪の咆哮が、唖然としていた松庵の腹に響く。
「牛鬼……! 」
 松庵は、その禿頭に被った傘を投げ捨て臨戦態勢に入った。
 
 そして話は、今から半刻ほど前に遡る――

          

           15


 旅に出るのに特に準備など必要の無いお松は、念入りな事前準備が必要な重蔵の為の旅支度を整えながら、まだ術によって身動きの出来ない自分たちの赤子に目を落としていた。
 人間と牛鬼の間に産まれた赤子。この子が果たして立派に成長してくれるだろうか。わが子の成長をこれ程心待ちにした事は今まで無かった。仕方なく生きていた今までとは違い、生きる楽しみと将来の希望を重蔵から与えられたのである。
 お松は、我が子のすぐ傍までやってきて、その頭を撫でた。やはり未だ反応は無い様だ。今度は、髭にまみれた頬を触ってみた。髭の生えていない部分はとてもふくよかで柔らかい、真っ白なきめ細かい肌であった。人差し指で髭の無い部分をつついてみると、その肌の弾力に何ともいえぬ快感を抱く。その指先の刺激にお松は思わず目を細め、口元を緩める。昼間の惨劇は、絶対に忘れられぬ出来事だが、子供の寝顔はやはり癒しの効果があるのだろうか。
 ――ぴくり――と赤子の目元が動いたのをお松は見逃さなかった。
「動いた! 」
 思わずお松は、嬉しげに言葉を漏らす。退魔師の掛けた術が解けかけているのだろう。もうすぐわが子が目を覚ます。そうしたら、まず謝ろう、自分の都合で見捨ててしまった事を。自分が為した愚かな選択を。そして、心を入れ替えた事を伝えるのだ。そして、この胸いっぱいに抱きしめよう。そして……
 お松が、赤子の頬に再び手を伸ばしたその時、家の戸が勢い良く開かれる音が聞こえた。そのけたたましい音に反応して、お松が戸の方を振り向いた時に目に入ってきたそれは、鬼神の如き形相でこちらを睨む、一人の男であった。お松は、その男を良く知っている。それは、お松の犯した過ちによって自ら命を絶った女お梅、その兄で村のはみ出し者で気性の荒い乱暴者として知れ渡った男源治、その人である。
 源治は、お松を睨みつけたまま敷居をまたぎ家の中へと入り込んできた。右手に握った狂気を孕む長刀が、青白く光っている。家の外は、闇の中に白いもやがかかり始め、日の出の一瞬を待ちわびる緊張感の様なものが、村中を覆っている。
 源治は未明の闇を背景に、じりじりとお松に接近していく。
「重蔵は、居ないのか? 」
 くぐもってはいるが、腹の底に響く声で源治がお松に問う。にじり寄る源治から距離を保つ様に後ずさりしながら、お松は源治の問いに答える。
「重蔵様は、ご先祖の墓を参ると言って出て行きました。今は居りません」
 少しだけ声を震わせながらも、お松は気丈に振舞った。
「そうか、重蔵は居ないのか……丁度良い。あいつに邪魔される事も無いな。……それに、自分の女房が目の前で殺される所を見たくは無かろう……」
 お松の視線が、源治の持つ長刀へと注がれた。長刀から立ち込める殺気を感じ取りながらお松は、更に源治と距離を取ろうとするが、いよいよ壁にその行く手を阻まれてしまう。源治が長刀を持った右手を翳して、いよいよ事を始める体勢を取った。
「お、お止め下さい」
 背中を壁にへばりつかせる格好で、お松は源治の仕草を見守る。
「貴様、妖怪だってな。だから肝を壊さないと死なねえらしいじゃねえか……。この化け物風情が、よくもお梅を……!あの世でお梅に詫びてこい」
 源治は、お松が死んでも、再び殺した者の体を使って蘇る事を認識していない様である。使用人の政の説明がややこしかったのか、その部分だけは理解が出来なかったのかもしれない。お松の肝を刺した所で、結局は、その体をお松に乗っ取られてしまうだけである。源治の復讐は、どうやっても叶えられそうにない情況だ。
 そしてお松は、身を護る為に反射的に源治の魂を抜き取る事を試んだ。殺意を持った男一人くらいなら、魂を抜き取る事はた易い。多対一でない限り、例え牛鬼の女であろうと、人間に肝を刺される事などは在り得ない。
 お松が源治の魂を抜き取ろうとすると、あの昼間の惨状が脳裏を掠めた。薄暗い納屋で、首筋に緋い珠の付いたかんざしを突き立てた若い女性の死体。この世を悲観して自ら命を絶ったお梅、その原因を作った罪悪感が脳を掠め、体じゅうを駆け巡る。
 そんな心が産んだ刹那の隙を、殺気に満ちた源治が突いた。右手の長刀が、青白い閃きと共にお松の腹部を貫く。お松の背中から顔を覗かせた凶暴な刃先は、土壁まで達している。源治が更に刃先をねじ込もうとしても、土壁が邪魔をしてそれ以上行かなかった。
 長刀が、お松の腹から抜き取られると、どろりとした濁った血と、さらりとした鮮やかな血が同時に噴出した。腹部の鈍い痛みにより、お松の足は己の体を支える事が出来なくなり、自らの血だまりにその体を沈める格好となる。
 間もなく意識を失うのだろう。そして、再び気がつけば、先程私の腹を刺したあの男の体を、生前と変わらぬ容姿に作り変えて私が復活しているだけ。何度か体験しているが、自分で自分の死体を見るのはあまり気持ち良いものでは無い。でも、未だ意識ははっきりとしている。どうやら、僅かに肝を外した様だ。
 お松は、その様に結論を出すと、しばらく死んだ振りをしてほとぼりが冷めるのを待つ事にした。やがて、復讐の鬼と化した源治が、事を成し遂げたと思ってこの家から出ていくまで、息を殺して待っていればいいのだ。それで全てが済む。
 お松の息が途切れている事を確認すると、源治は長刀を振り、刃に付いた血を落とす。そのまま家を出ようとお松に背を向けると、そこに源治の行く手を阻む様にして、牛鬼の赤子が立ち塞がっていた。
「キサマ、ナニヲシテイル……! 」
 退魔師の術が解けたのだろう。赤子はしっかりと地に足を付け、出口を塞ぐように仁王立ちをしている。
「化け物のガキか……邪魔だ、其処をどけ」
「オレノ母親二ナニヲスル、キサマ、許サンゾ! 」
 言うが早いか、赤子は源治に向かって飛び掛る。
 流石の源治も、赤子の素早さには反応しきれない。赤子は、源治の左肩に取り付き、その鋭い牙を突き立てた。源治の肩から赤いものが流れ出て、その手を伝う。
「う、ぐう……」
 赤子の荒い鼻息が聞こえる。何やらごりごりと硬い物同士が擦れ合う音が聞こえる。赤子の牙は、源治の肩の骨に当っている様だ。源治は、長刀を振りかざし、何のためらいも無く肩にへばり付く赤子をその刃で切りつけた。
 赤子は、その痛みに顔を歪めた。
 源治は、痛みによって赤子の意識が肩に食い込んだ顎から少し分散した事を察知すると、その襟首をむんずと掴み、肩から引き剥がした。そして、その返す手で、赤子を土間へ叩き付けたのである。
『きゅう……』と奇妙な呻き声を発して、赤子は土間に突っ伏したまま動かなくなった。源治は、動かなくなった赤子を蹴飛ばし、仰向けにする。そして、右手の長刀を容赦なく赤子の胴体へと振り下ろしたのである。
 源治は、返り血を物ともせず幾度も刀を振り下ろす。やがて赤子の体は、上半身と下半身が完全に離れてしまった。
 お松は、その一部始終を目の当たりにしていたが、何もする事が出来なかった。酷い傷で体の自由が利かないのである。肩で息をする源治の背中を、涙で溢れた瞳で見つめる事しか出来ない。
「いやあぁ……」
 思わず、お松の心の叫びが口を突いてしまう。源治の耳はその微かな叫び声を聞き逃さなかった。源治の血走った眼が、お松の涙で濡れた瞳を捕らえた。
「未だ、生きていやがったのか……」
 源治は、壁にへたり込んだお松の元へやって来て、その血にまみれた体を見下ろす。源治の刀が、お松の腹に突きたてられたその時である。
「げ、源治か……」
 源治が振り向くと、そこには先祖の墓参りから戻ってきた重蔵がその大きな体を棒の様に固まらせて立ち尽くす姿があった。
 

続く


2005/06/04(Sat)10:20:01 公開 / オレンジ
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■作者からのメッセージ
第15話アップです。ひょっとしたら後2回になるかも知れませんが、もうすぐこの話も終わろうとしています。今回は、かなり過激な場面がありますので、苦手な方は注意して読んでいただけたらと思います。
 仕事も忙しく、なかなか更新出来ません(涙。でもあと少し、気合入れて頑張ろうと思います。


皆様のご感想、ご批判お待ち申し上げております。
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