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『金の三日月 四章完結』 作者:花檻 / ファンタジー ファンタジー
全角24470.5文字
容量48941 bytes
原稿用紙約77.5枚

 30話

 船は風を受けて真っ暗な夜の海を快調に滑る。いや、その船は快調すぎるくらいに船足が速かった。
「この船はフレンダまで一日でつくよ」
 と走り出してから船の主ににたりと危険な笑顔で言われ、その意味をまったく理解していなかったサティーナはこの船に乗ったことを少なからず後悔した。
「速いのはいいわ。とっても助かる。でも……ううっ…」
 その船はとてつもなく揺れたのだ。今まで水の上を移動するという経験がなかったサティーナにとって揺れというものがこれほど気持ち悪いとは想像もできなかった。左右の揺れはまだましだ、問題なのは上下に動くということだ。
 最初はふわふわとしたものだったのが、走り出して間もなく急に落下と上昇を繰り返すほどの激しい上下移動に胃の内容物が飛び出しそうだった。
「二日酔いってこんな感じかしら…」
 そんな言葉が耳に入ったらしく船の主は豪快に笑った。
「そんなことが言えるならまだ大丈夫だね! 初めて乗った客は普通死んだように寝込むものさ」
 それを最初に言って欲しかったと後悔しても遅すぎた。
 しかし、そのおかげでフレンダ港には宣言通りおよそ一日で着いた。ついた時間は夜中で泊まる場所はもう閉まっていた。そのため朝まで船の中にいてもいいと許しをもらった。
「大丈夫か?」
 船での移動中はあまりの揺れに寝ることもままならなかったサティーナに、これもまた元気なく声をかけたのは人の姿をとっている獣魔だ。
 その獣魔である彼もひどい顔をしていた。人の乗り物など初めて乗ったに違いない獣魔は疲れきった顔をしていた。それでもまだサティーナよりは平気な様子だ。
「今日はもうだめ。一歩も動けない」
 そういうと荷物を抱えて横になった。これから大変になることがわかっているだけに今は英気を養うことにした。


 サティーナがフレンダ港に着いた頃。男は自分の契約魔に向かって激しく罵倒を浴びせていた。
 例により紫色の髪の契約魔は眉一つ動かすことなく男の言葉の針を受け流していた。
「あの小娘が現卿であっても契約魔の名を覚えていないのであれば宝冠は使えないんだ、見つけるのはたやすいだろう!! しかもその契約魔を捕らえたというのに肝心の小娘の行方が知れないとはどういうことだ!!」
 あの日、エントの宿で悠長に構えていた男に余裕などどこにもない。あそこで全てけりがつくと思っていたのに完全に的が外れたのだ。
 それを契約魔に諭され、娘の今の状況を聞かされると男はさらに逆上した。
 しかし、昨夜娘の契約魔を捕らえたと報告に来たときに、娘が命を落としかねない状況にあることで内心安堵した。
 ところが、その娘はその日を上手く切り抜け、それどころかトルムに向かいそこで消息が完全に途絶えたというのだ。到底信じられない話だった。
「お前はそれほど無力だったのか? それともわざと探さないのか? お前の契約者はこの私だということを忘れたか!!?」
 日に日に目が血走り、怒鳴り散らすことの多くなった男に契約魔の青年はため息をつくばかりだ。
 諭してもすかしても落ち着きを取り戻さない。おそらく自分でもどうにもならなくなっているのだろうということが青年には手に取るようにわかっていた。
「彼女に連れがいただろう」
「連れ? ああ、いたな。それがどうした」
 あの日会所まで会いに行ったのは紛れもなく自分なのだ。そのとき確かに娘の隣に青年の姿があった。
「あの男が彼女を隠したとなるとかなり厄介だ。私でもそう簡単に見つける事はできない」
「あの男がいったいなんだと言うんだ! 神官だとでも言うのか?」
 相変わらず説明の少ない契約魔に少しイライラしながら聞き返す。契約魔が容易に見つけられない結界を張れる人間といえば限られている。
「元聖騎士だ」
「元聖騎士? あの若造が?」
 男にはあの会所にいた青年がそんな人物には見えなかった。彼の知っている聖騎士はもっと逞しく覇気があり自信に溢れた存在だからだ。あのお世辞にも逞しいとは言い難い青年のどこをどう見ても聖騎士には見えなかった。
「聖騎士といえども所詮若造だろう」
 契約魔の言い訳に鼻で笑う。聖騎士は神官と違い結界や呪術をあまり得意としないうえ、まだ若い聖騎士が人魔を欺くほどの力を持ち合わせているとは思えない。
「その元聖騎士の名はトリウェル・アキードだ」
 しかし男はその名を聞くと一気に凍りついた。
「トリウェル……まさか…そんなはずは……」
 ないとはなぜか言えなかった。もしあの場にいたのがその彼なら今の状況は十分考えられたからだ。
 元聖騎士のトリウェルといえばジュメル卿の配下であることも当然男は知っていた。そのトリウェルが娘を保護するのは当然の成り行きといえる。
 一点を見つめ考え始めた男を黙って見つめる青年はひっそりため息をついた。
「…その聖騎士は今どこにいる?」
「トルムだ」
「別行動をしてるわけだな?」
「ああ。それは間違いない」
 冷静になった男の顔は久方ぶりに見る。彼は決して愚かな人間ではなかった。少なくともあの時、契約を結んだ時の彼は。
「いるかもしれない場所を探すよりも罠を張ったほうが確実だ。契約魔のいない今の状況ならばマゼクオーシに必ず現れる。そこで待て」
 契約魔がその場から姿を消すのを見送ると男は壁にかかる一枚の絵を見上げた。
「リリアナ。もうすぐだ…」
 男は小さくそう呟くと歪んだ笑みをその口元に刻んだ。


 31話

 ゴワ〜ンゴワ〜ンっと二回、鐘の音で目が覚めた。
「んん〜。お腹すいたぁ」
 サティーナの目覚めの第一声はこうだった。起こしにきてくれた船の主がそんなサティーナに笑いながら声をかける。
「腹が減ってるなら大丈夫そうだね」
「はい。ありがとうございました。おかげでなんとか歩けそうです」
 ずいぶんよくなったがまだ本調子ではない。おまけに前の日は揺れる船の中での食事が喉を通らなかったのでほとんど何も食べていない状態だ。
「昨日は何も食べなかっただろう。そういう時はフレンダ名物のフーリユを頼むといい。消化もいいし、栄養もあるから食べ終わったら調子も戻るさ」
 朝から元気な船の主は女性ならではの気配りを見せてサティーナを送り出してくれた。そんな主にお礼を言い船を降りると、もうすぐ夜明けの港にはすでに働いている人がたくさんいた。
「あの、えっと。私はご飯を食べるけど、あなたはどうする?」
 アキードの代わりの道連れは獣魔という人外の生き物であるため一応聞いてみる。
「オレはその辺にいる」
 まだ調子の戻っていない顔で歩いていく獣魔を見送るとサティーナはお腹を満たすことにした。たくさんの人の間をすり抜けてとりあえず腹ごしらえのできそうな店を探した。
 フレンダ港は決して大きくはないが活気だけは国にも勝るとも劣らない。船に乗っている人のために食堂は朝早くからやっていた。
 一つの店に入り船の主が薦めてくれたフーリユを頼むと注文を取りにきた男性にこう言われた。
「お嬢さん船は初めてだろう」
 どうやらそういう人間の食べ物のようだ。しばらくすると少し深めの皿に薄い黄色のスープのような料理が運ばれてきた。スプーンですくってみるとつぶつぶしたスープで食べると濃厚なチーズのような味がした。
「その粒は麦でね、よ〜く煮込んであるから半分溶けてるんだよ。二日酔いの朝にもこれを食うとだいぶ胃が落ち着く優れもんだ」
 男性が笑いながら料理の説明をしてくれた。
「やっぱり船酔いと二日酔いは似てるのね」
 納得しながらその料理をきれいに平らげた。だいぶ落ち着いた胃をさすりながら料金を払って店を出ると獣魔を探した。
 きょろきょろと周りを見回しながら歩いていると、店の裏道で少年が柄の悪い男にからまれているのが見えた。
「! すみません!!」
 サティーナは慌てて声をかけた。そのからまれている少年は連れの獣魔だったのだ。
「すみません。私の連れなんです。何か失礼なことでもしましたか?」
 獣魔を背に男との間に割り込んでそう尋ねると男は鼻を鳴らして去っていった。
 去っていく男を見てサティーナはほっと胸を撫で下ろす。獣魔が無事でよかったというより男の身の安全に安堵したのだ。いくら少年に見えても獣魔である。ただの人間に敵う相手ではない。
「あの…何がどうしたの?」
 男があまりにあっさりと引き下がった様子になにか不審なものを感じて聞いたのだが、返ってきた答えに思わず頭を抱えてしまった。
「いくらでついてくるかと聞かれただけだ」
「…ああ。なるほどね、よくわかったわ」
 辺りはすでに明るく、その中で見る獣魔の容姿というものに十分納得いく返事でもあった。
 彼はその存在だけで人を惹きつける要素を持っている。その最たるものは一見黒い色の髪である。光のあたる部分が赤く輝き、それはまるで上質の天鵞絨(ビロード)を思わせ人目を引くには十分だった。
 日が高くなるにつれそれはさらに美しさを増すようだった。
「あの、私の用はもう済んだから行きましょう」
 そう言うと獣魔はすたすたと街道へ向かう。その後をため息をつきながら追いかけた。もしかしたらアキードといるよりも大変かもしれないとちらりと思う。
「アキードはちゃんと会えたのかしら?」
 以前の同行者がいるあたりの空をふと見ると雨雲がかかっていた。
 フレンダを出るまでサティーナは獣魔の後ろについて歩いていたのだがその間も人々の視線は獣魔に注がれた。
「あの…」
 あまり目立ちたくないサティーナがなんとかならないかと話しかけようとすると、前を歩いていた獣魔が立ち止まりくるりと振り返った。
「ノア、だ」
「―…は?? の・のあ…??」
 目をぱちくりさせるサティーナをじぃっと見つめてからふいっと顔をそらした。その態度に首を傾げるサティーナを置いて獣魔はさっさと歩き出してしまう。
 その後を追いながら考えることしばし…。
「あ…名前、呼んでもいいの?」
 人魔に獣魔。姿は違っても基本は同じ。彼らは名前を迂闊に教えたりはしない。たとえそれが通り名だとしてもだ。
 あまりの驚きにそう聞くと面倒そうに質問が返ってきた。
「オマエは他人に名前を教えるのはどうしてだ?」
「もちろんそう呼んでほしいからよ」
「だろう? それに、あのあの言われる方が気になる」
 獣魔ノアの答えになにか微笑ましいものを感じた。
「ノア、ね。ありがとう。私はサティーナ。皆サナって呼ぶわ」
「…ありがとうは変だぞ」
 一貫して面倒くさそうな獣魔ノアはサティーナの最高の笑顔を見てため息をついた。
「オマエもう少し自分というものを理解した方がいい」
「え?」
 要約すればアキードの「危機感を持て」と同じ意味だったことにサティーナが気がついたかは定かではない。


 32話

 フレンダ港からロージー川を遡るように一日歩くとヴィーテル国境検問所のあるマゼクオーシへとたどりつく。
 マゼクオーシは都市の真ん中をリーコット街道が貫いており、その街道をロージー川が分断している。橋は都市の真ん中に位置し、その橋を中心に都市ができあがっていった。
 自由都市といわれるだけあり街には門などはなく、どこからでも入ることができた。一歩入ればそこは露店商が立ち並び、まるで市場のような賑わいを見せる。
 しかし橋に近づくにつれ店の格式が上がっていき、店先にはきちんと看板がかかるいわゆる老舗と呼ばれる店だ。
 そんな賑やかな空気に雨の気配が混ざり始めた夕刻、サティーナは苦労することなく街へと入ったのだが…。
「困ったわ」
 街道から入ることを避けたため現在位置がどこなのかまったくわからなくなってしまった。マゼクオーシは今の姿になるまで大きさや形を変えており、街の構造も複雑になっていた。
「街道へ出たほうがいい」
 一人歩きながら呟くサティーナの隣には誰もいない。しかし声だけはしっかりと聞こえてくる。
 マゼクオーシに入る際、獣魔ノアには姿を消してくれるように頼んだ。あれだけ人目を引く獣魔だ。連れて歩くには適していない。
「その街道へ出る道をまず探さないと。ノアにもわからないわよね」
「川のある方角ならわかる。とりあえず橋へ向かうか?」
 それが一番いい方法だと思いノアに案内をされるまま川へと出ると橋のある方角はすぐにわかった。
「あれが橋ね。大きいのね…」
 遠くから見てもその橋は感嘆のため息が出るほど大きく、橋の途中にはいくつも街灯が立っていた。
 橋は長く石造りでかなり幅のあるものだ。そもそもロージー川が半端じゃなく広い。対岸に時々見える人の姿は小指の先程にしか見えない。
 橋が近くになるにつれヴィーテルの兵士を見かけることが多くなっていく。
 検問所は橋の前にあった。しかし検問といっても一つ一つの荷を検(あらた)めたりするのではなく通る人を監視しているだけで、基本的に出入りは自由なようだ。
 決して緩い警備ではないがこれくらいなら何とかなりそうだった。
「街道には出たけど、とりあえず自警本部がどこにあるのか聞かないとダメね」
 アキードの言っていた人物に会うために自警を見つけようと思っていたが、ここマゼクオーシの自警の見分け方が皆目見当もつかない。
 地元の人間に聞くのが一番いいのだが旅人と見分けがつかない。そのため一度街道を戻ることにした。
 たくさんの商人が声を掛けてくる中、気のよさそうな中年男性の店を覗き込む。露店に並んでいるのは装飾品だった。
「いらっしゃい。お嬢さんにはこれなんかいかが?」
 薦められたのはサティーナの瞳と同じ赤い色の石がついた髪挿しだった。
「ありがとう。ところでおじさん、自警本部ってどこにあるのかしら?」
「本部かい? 本部ならこの道を真っ直ぐ行ってフランソワ宝石店を右に曲がったところだよ」
 にこやかに答える店主にお礼を言い宝石商を探した。
「それ今朝の話だろう? 確かジュメル卿だったよな」
 宝石店のありそうな格の高い店の立ち並ぶ辺りで耳に入った言葉にサティーナは思わず足を止めた。
「ああ。その発見された遺体は全身をずたずたにされていたって話だぜ」
「ひえ〜。いやだね。その殺された娘ってのはどこかの貴族の娘なのか?」
「いやそれが、ずいぶん前にそのお偉いさんに娘殺しの容疑がかけられているって書いてあって、もしかしたらそれじゃないかって話だ」
 旅人と思われる二人はいやだいやだと震え上がりながらその話を切り上げた。
 その話を呆然と聞いていたサティーナは立ち去ろうとする旅人に今の話が本当なのか問いただそうした。
 しかし、ふらふらと歩き出したサティーナを後ろから引き止める腕があった。
 その腕はとても強い力で店と店の間の狭い道へと引き込み、サティーナを抱えたまま壁に背を預ける。
 突然後ろから抱えられたにも関わらずサティーナは声を出すことも抵抗することもなかった。この状況で人目のつかない場所へ引き込む腕が誰のものなのかなど考えるまでもなかった。
「…ノアお願い。本当のこと言って」
「オマエの母親は無事だ」
 背中から回された腕を強く握り締めて聞くと、耳元で答える声は紛れもなく獣魔ノアの声だった。
「…見てもいないのにどうしてわかるのよっ」
 予想していた獣魔の答えにサティーナは叫びたいのを必死で押さえて抗議する。喉の奥から絞り出したその声はすでに泣きだしそうだった。
「あの時も大丈夫だって言われたわ。でもロードはお母様についてなにも言わなかった!」
 本当はエントの会所で絶望的な状況がサティーナを襲っていた。そのときはアキードが大丈夫だといい、サティーナ自身もその言葉に一応の納得をし自分をごまかした。確たる証拠もなかったこともある。
 しかし契約魔のロードは母ラジェンヌの生存を語ることはなかった。助けだせるとは言ったが生きているとアキードのようにはっきりとは明言しなかった。
 目の前の壁を睨むその瞳から耐えきれずぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「本当に無事なの?」
 嗚咽混じりに聞こえる声は先ほどと違い力がなく、ノアの腕にかかる負担が強くなった。もう立っていることも一人では無理なようだ。そのくらい打ちのめされていた。
 アキードやロードならばこんな時かける言葉に悩んだりしなかっただろう。しかし、サティーナを支えるノアはどう言葉をかければいいのか悩んでいた。
 顔は見えなくてもサティーナが泣いていることは明らかだったし、このまま放っておくわけにもいかない。
 考えあぐねこう言うしかなかった。
「絶対に口外するな。ノアフェルミスは本当のことしか言わない」
 その言葉の重さにサティーナは泣くのを忘れノアを振り返る。
「…ノア?」
「オマエの母親は契約魔を持つほど力がある。そういう人間は数が少ない上に常に光を放っているものだ。そして最近一つもその光が消えたことはない。だからオマエの母親は無事だ。ただ見たわけではないからオマエの言う通り本当に無事かはわからない…少しは信用したか?」
 サティーナは呆然とほぼ同じ高さにあるノアの瞳を見つめる。見つめ返してくるノアの瞳は全てを吸い込んでしまうような闇色だ。
「オマエには今、他にするべきことがあるだろう」
「…うん」
 サティーナが頷き涙を拭うとノアはまた姿を消した。
「自警本部に行ってトマス・ハリスに会うわ」
 壁があるだけの空間に向かって断言すると、自警本部へ向け再び街道を進みだした。ノアが口にしたものにはサティーナが再び歩き出すのに十分なほどの力を与えていた。
 彼らが決して口外を許さないもの、いわゆる禁句というものはこの世に一つしかない。
 彼らにとってそれは存在そのものであり、だからこそ見返りを求め限られた者にしか教えない。それゆえに『契約』と呼ばれる。
 ノアから無償で与えたれたそれは『最大の信頼』と呼ぶに相応しく、だからこそサティーナはそれに応え前に進んだ。


 33話

 街道沿いにあるフランソワ宝石店を右に曲がりしばらく歩くと自警本部らしき建物が見えてきた。門を兼ねた生垣の前に一人男性が立っている。
「すみません」
「なんだ?」
 厳つい男性はこんな時間に現れた少女をじろりと睨んだ。その顔に話しかけにくそうに少女は切り出した。
「私はハーディス・ウェインの妹で、ロイスといいます。恋人のトマス・ハリスを訪ねてきたのですが彼はいますか?」
「トマスの恋人ぉ?!」
 厳つい男性の大きな声で少女は驚いたように「はい」と答えた。
「ああ、すまん。つい、な」
 鼻の脇を掻きながら気まずそうにそう言うと建物の中に通してくれた。客室と思われる部屋に通され、そこでしばらく待つと扉の向こうから厳つい男性の声が聞こえてきた。
「ハリス! お前一体何人女がいるんだ? 一人くらいこっちに回せってんだ」
「はっはっは。お前には無理だ」
「なんだとぉ!?」
 喧嘩に発展しそうな会話の後に大きな笑い声が響く。どうやらただの悪ふざけのようだ。
 そんな笑い声の後に部屋に入ってきたのは二十代前半くらいの金髪の男性だった。少し長い髪を細い紐で軽く束ね、服の前が半分はだけている。どこからどうみても遊び人だった。
 そんな男性はふむふむと言いながら腕を組んで少女を眺めると面白そうに笑った。
「俺がトマス・ハリスだ。なるほど、話に聞いた通りのべっぴんさんだ。んで? あんたはいつから俺の恋人になったんだ? 悪いが全く覚えがねえ」
 この口調にぽかんと呆気にとられている少女に、少し前のめりになってトマスが尋ねる。
「聞いてるか?」
「あ、はい。ごめんなさい。…なんか想像と違ってて」
 声をかけられてはっとして謝る少女に面白そうに口の端を上げてにやりと笑う。
「ハーディス・ウェインの妹で俺の恋人ね。あんたの紹介人はアキードか」
 それは質問というよりは確認といった感じで知らない恋人が尋ねてくることに慣れているようだった。その確認に素直に頷く。
「はい。トリウェル・アキードの紹介できました。あなたに会えばおじい様に会えると言われたので」
 その言葉にトマスは面白そうな表情を一瞬で真剣なものへと変え、目の前の少女を穴の開くほど見つめた。
 扉の前に立ったままだったトマスは、一度扉の向こう側を気にしてから少女に近づいた。
「…ロイス?」
「いえ、本当はハルミス・サティーナといいます」
 この答えにトマスは大きく頷いた。
「名前を隠したのは賢明です。あなたのことは父から聞きました。…とりあえず出ますか。ここじゃ話しにくい」
「ええ」
 二人が客室から出ると自警の男たちがトマスを冷やかしにきた。
「おい、ハリス。今度は本当に恋人なんだろうな〜」
「お嬢さん、別れるなら今のうちだぜ」
「お前ら、うるせー!」
 トマスが怒鳴ると自警の男たちは大声で笑いながらクモの子を散らすように逃げていった。
「…人気者なんですね」
 あまりの光景に思わずもらしたサティーナの言葉にトマスが苦笑しながら耳打ちする。
「敬語はやめてもらえますか? なんだかこの辺がむず痒くて」
 首筋のあたりを手でさする仕草にサティーナがくすくすと笑う。
「トマスさんもさっきの話し方のほうが似合っているわ」
それを聞くとトマスはにっと笑った。
 自警本部を出るととりあえず落ち着いて話せる場所ということでトマスの家に行くことになったのだがさすがに自警である。かなり複雑な道を難なく歩く。
 その道すがらサティーナのここまでの経緯を聞いていた。
「ということはアキードとはトルムまで一緒だったわけだ。その後は見つかったりしなかったのか?」
「どうかしら? 接触はなかったけど…」
 サティーナは言葉を濁した。ロードが封じられているのだ見つかっていないとは言い切れない。立ち止まった二人に声がかかる。
「それは心配しなくてもいい。あの男の置き土産がある」
 姿は見えないが声だけは近くからした。その声にトマスはふむと顎に手をあてた。
「あんたの結界は?」
「オレが結界を張ると逆に見つかる。経験上向こうのほうが一枚上手だからな」
 突然聞こえてきた声に、以外にもトマスは驚かなかった。サティーナのほうが普通に話しているトマスを見て驚いたくらいだ。
「置き土産ってなんだ?」
 トマスの質問にノアが犬型の姿で現れた。そしてサティーナのマントのポケットを鼻で指し示す。
「?」
 サティーナがとりあえず手を突っ込んでみるとそこに一枚の紙があった。それは手の平に収まるくらいで円形に文字がびっしりと書き込まれている。
「なるほど擬装符か」
「もともと見つかりにくい性質の上に元聖騎士の符があれば見つかる確立はかなり低い。ただ接触はしてるから罠を張ることは十分可能だ」
 ノアの話にしばらく沈黙したトマスを見てサティーナは現れたノアに質問をした。
「擬装符って何?」
「そのままだ。オマエの気配を別の気配に擬装させるものだ。結界の一種だが効果に期限があるため施行者の力量がモノをいう。その点あの男の場合は問題ないがあの茶店からだからな、急ぐに越したことはないぞ」
 最後の言葉はトマスに向けたものだ。それに気がついたのかトマスも考えるのをひとまずやめたようだ。
「そうだな。とりあえず、腹は減ってるか?」
「え? ええ、暖かいものが食べたい」
「よし、いい所がある。話はそれからだな」
 陽気に笑ってまた歩く。そのトマスの後ろをついて歩くサティーナはふとあのアキードと彼の関係がどういったものなのかと考えた。
 普段は無表情だったアキードと違いトマスは常に面白そうな顔をしている。性格もアキードはどちらかというと大人しかったのに対してトマスは賑やかだ。
「あの男と正反対だな」
 いつの間にか姿を消したノアがそう呟いたのが聞こえ、サティーナは無意識に頷いていた。


 34話

 自警本部を出てトマス・ハリスに案内された先はパン屋だった。
「こっちだ」
 繁盛している店の裏手に回り勝手口から入ると中に声をかけた。
「ただいま。メラニー、お客さんだ。何か食べるものあるか?」
 その呼びかけに奥から小柄の五十前後の女性が現れた。
「はいはい。お帰りなさい。あらあら、可愛らしいお嬢さんだこと。今日はシチューよ、ちょっと待ってね。お嬢さん、手はそこで洗えるわ」
 テキパキと食事を用意する女性の横でトマスもテーブルを用意する。その上にシチューにパン、香草のサラダが置かれていく。
 サティーナはとりあえず荷物を床に置き、手を洗うと邪魔にならないように壁にぺったりくっついて立っていた。
「はい。ごめんなさいね。もういいわ。それじゃウェインさん私は店にいますからね」
「ああ。ありがとう」
 慌ただしく女性はまた奥へと消えて行った。どうやらそっちは店舗になっているようだ。
「さて、食べるか。どうした?」
 席につくトマスをサティーナが立ったままじぃっと見つめる。
「ウェインさん?」
 あの女性はトマスを確かにそう呼んだ。
「ああ。説明は食べた後だ」
 にっと笑うトマスの前に座ると久しぶりに暖かい家庭料理をご馳走になった。

「さてと、何から話すかな」
 食事が終わるとテーブルの上を片付け、お茶を出しながらトマス・ハリスと名乗っていた金髪の男性はサティーナを見た。
「改めて自己紹介からするか。俺の本名はハーディス・ウェイン。トマス・ハリスは自警に入り込むための偽名だ。つまりあんたは俺の妹で恋人だって名乗ったわけだな」
「やっぱりそうなのね」
 さっきの女性の発言で考えられることはそれしかない。
「そう落ち込むことはない。そんなこと言わせる人間は一人しかいない」
「それがアキードね」
 ため息をつくサティーナを見てトマスことハーディスは面白そうに笑った。
「まぁ、アキードのことは置いといて。俺の父はジュメル卿の秘書をしていてな、昨日あんたのことを聞かされたんだ。令状の人物がここにきたら即座に保護するようにって」
「令状?」
 お茶を飲みながら話すハーディスの言葉にサティーナは少し緊張した。
「昨日、検問の兵たちに令状が配られたんだ」
 内容はこうだった。黒髪に赤目の十七歳くらいの女を見かけたらすぐに身柄を拘束すること。また、サティーナあるいはサナと名乗った女がいればそれも拘束すること。
「兵たちは自警にも協力を要請して、すでに三人捕まってる。探している人物でないとわかって釈放されてるけどな」
「そう、よかった」
 自分と間違われた女性たちが無事でとりあえずほっと胸を撫で下ろした。
「それはまぁ、いいんだが…」
 ここでハーディスは席を立った。そして紙切れを一枚サティーナに渡した。
「今朝こんなものが出回った。一応自警で回収はしたが全部は無理だろうな」
「………」
 紙には文字が並んでいた。それはヴィーテル国貴族の醜聞を書き綴ったものだった。それを読み進めるサティーナの顔がしだいに固くなる。

【…ジュメル卿邸の地下牢から失踪中とされている娘、ラジェンヌの遺体が発見された。ジュメル卿には兼ねてより娘殺しの容疑がかけられており、このほど屋敷の捜索が入ったところ地下にある牢にラジェンヌと思われる女性の遺体が発見された。なお、ジュメル卿は関与を否定しているもよう…】

 紙面に目を落としたまま動かなくなったサティーナの顔は血の気が失せていた。
「ジュメル卿の裁判は明日だそうだ」
「え!?」
 思わず立ち上がったサティーナにハーディスが手で落ち着くように促す。
「裁判といっても事情を聞くだけのものだと思う。そこには遺体が見つかったとあるが実際は娘殺しの決定的な証拠は何もない。だが今のままだと、次期卿に影響があることは間違いない。もしかしたら最悪、フロストに地位が渡らないとも限らない。そうなると宝冠を持っていても誰も咎めないからな」
 真剣に話すハーディスを見てこれまでずっと疑問だったことを口にした。
「母の兄はそんなに悪い人なの?」
 どうして皆は彼にフォンデスの宝冠を渡したくないのか、その辺の事情を誰も話してくれなかった。
「いいや悪い人間ではない。むしろ慕われている人物だ。ただ、最悪の禁忌を犯そうとしている。それだけは阻止しなければジュメル卿の血筋は完全に閉ざされる。それほどの禁忌だ」
 血筋を完全に閉ざすとは一族全てを断絶するということだ。
「と、いうわけだ。明日の裁判まで時間がない。卿の娘殺しを否定できるのはあんたの存在しかない。すぐジュメル卿には会えないが俺の父には会える」
「ええ。すぐに行きましょう…でも間に合うの?」
 ポンシェルノ育ちのサティーナにヴィーテル国の土地勘はないが、マゼクオーシからヴィーテルの首都までは一日でつける距離ではないことくらいは知っていた。
 ここマゼクオーシから首都までは実に七日くらいの道のりだ。急いでも到底間に合う距離ではない。
 しかしハーディスには何か秘策があるらしい。にやりと笑った。
「そこは大丈夫だ。“ジュメルの月”がある。ヴィーテル国内の特定の扉にちょっとした仕掛けがあって、その扉は首都に直接繋がってる。で、橋の向こうはヴィーテル国領内だ」
 つまり橋を渡ってその扉がある場所まで行けば当面の問題は解決できるということだ。しかし…。
「そこまでに罠がないとは言い切れない。いや、おそらくもうすでに張ってあると見て間違いない。擬装符があるとはいえ早いほうがいい」
「ええ。そうね」
 話が決まるとハーディスは奥にある店舗に声をかけ身支度をし、サティーナとともにパン屋を出た。
「降ってきそうだな。少し急ぐか」
 雨の気配が強くなった星のない空を仰ぐと、少し固い顔のサティーナの手をとってヴィーテルへ続く橋へ向かった。


 35話

「降ってきたな」
 橋が見えるころぽつぽつと雨が降ってきたため早足で街道に出た。
 しかし橋を目の前に雨は一気に土砂降りにまで発展し、必然的に近くの店の軒下を借りて雨宿りをする。
「こんな時に…通り雨だといいけどな」
 空を見上げながら言うハーディスにサティーナが遠慮がちに声をかけた。
「えっと、あの、放してもらえますか?」
「あ?」
 繋いでいる手のことである。少し落ちつかなげなサティーナにハーディスはにやりと笑い、その繋いだ手を口元にもっていく。
「!!」
 口づけられる直前、サティーナは咄嗟に手を引き抜いて警戒心を露わに臨戦態勢をとった。
 するとクスクスと笑い声が聞こえてきた。ハーディスである。
「サティーナは免疫なさそうだな。いくつだ?」
 その笑いにからかわれたのだと気がつき非難の目を向けた。
「…十七よ。そういうからかいかたって失礼だわ」
「ははは。悪かった。ところで一つだけ確かめておきたいことがあるんだ。父の話だとあんたの契約魔は今いないって聞いたが?」
 何事もなかったように笑いを収め、真面目に質問をする切り替えの早いハーディスにサティーナはため息をついた。
「ええ、そう。私が正式名を思い出さない限りどうにもならないみたいなの」
「じゃあ、あの獣魔は契約魔じゃないんだな? どうして契約しないんだ?」
 ハーディスの疑問は当然といえた。契約できる人魔か獣魔がいるのだ、今契約して宝冠を使えるようにしてしまえば話は簡単だ。
「無理だ」
 近くからするノアの声にハーディスが眉を寄せた。
「無理ってどういう意味だ?」
「オレと今現在契約できる人間はいない。フォンデスもあれが最初で最後だからおそらくオレも同じだろう」
「……ちょっと、待て。…お前、もしかしてっ!!」
 説明の内容と意味を把握するにしたがって声が大きくなる。
 ハーディスはノアが姿を現していたら間違いなく掴みかかったに違いないほど興奮していたが、当のノアはいたって冷静だ。
「オレの詮索は後にして急いだらどうだ? 元聖騎士の擬装符でもここにいれば時間の問題だ。橋に問題はない。渡るなら今のうちだぞ」
 いくら擬装符があるとはいえ、それは人魔に対してのもので人間には通じない。サティーナの外見が令状と一致してる以上橋の前でのんびりと雨宿りなどしている場合ではない。
「そうね、雨が降っているうちに向こう側に渡ったほうがいいわ」
 幸い雨である。頭からマントを被っていても見咎められることはないだろう。サティーナにとってはそのほうがありがたい。
「…そうだな。今はそれどころじゃないしな。よし、行くか」
 サティーナにも促されハーディスも落ち着きを取り戻した。
 気を落ち着かせるために一つ深呼吸をしてから頭からマントをすっぽり被って橋へと向かった。
 土砂降りの雨のせいか、街道にも橋にも人は少ない。
 考えてみればもう夕刻でちょうど食事の時間帯でもあった。店からはおいしそうな匂いがしてくるところもある。
 街道の明かりは火球のもの以外は土砂降りの雨で消えてしまったためか通常より暗めだ。店の窓から洩れる光と、各十字路に置いてある道標を兼ねた灯籠(とうろう)が唯一の光源だ。
 しかし橋は等間隔に火球の街灯が設置されていてここだけは常に明るい。
 二人は遅過ぎず早過ぎず、橋の入り口にある検問所の前を通り抜けた。
「話していたその扉はどこにあるの?」
 第一関門を突破すると周りに人がいないこともありサティーナが声をかけた。
「二つ目の十字路を左に曲がったところにあるラフィー書店の表口だ。扉にある三日月に手を置いて開けると首都のウリィー書店の表口に出る」
 それきり二人の会話はなく、橋を渡り終える頃にはあれだけ降っていた雨がしだいに弱まりだした。
「さて、何もなければいいが、間違いなくこの先は何かある。覚悟はいいか?」
 真っ直ぐ前を見据えて言うハーディスにサティーナも頷く。決戦の火蓋があるならまさにこの橋の終わりがそうだった。
 石造りの橋の終わりが近づくにつれ緊張が増す。サティーナは激しく動悸する胸を押さえるようにマントの胸元をぎゅっと握りしめた。
 そして橋の終わりを踏み越えた瞬間、近くで小さく何かが弾けるような音がした。
「なに?」
 サティーナが音の元であるポケットに手を突っ込んで紙を引っ張り出すと、半分になった符が音もなく燃えつきた。
「見つかったみたいだな」
「急げ!」
 それを見たハーディスがサティーナの手を引いて走り出したが一つ目の十字路で立ち止まることになった。
「!!…何?」
 急に止まったハーディスに困惑気味に声をかけると、ハーディスはサティーナを庇うように立った。周りの店には客がいて話し声が聞こえており、特に変わった様子はない。
「…隔離結界か」
「え?!」
 ハーディスの呟きにサティーナは驚いた。一度入ったことのある結界の中とはずいぶん違ったからだ。
「さすがというべきか。あの聖騎士の擬装符は優秀だな。まさかここまで入り込んでいるとは思わなかった」
 突然かかった声に前を見ると今まで誰もいなかったはずの街道に男が一人立っていた。
「ハルミスの娘。私の主に宝冠を渡せ。でなければお前の死が条件になる」
 濃い紫色の髪の青年は真っ直ぐにサティーナを見据えて淡々と告げる。その言葉で彼がフロストの契約魔であることは明白だ。
「それができれば苦労はないぞ。フロストを説得する方法もあるだろう。契約魔のあんたの言葉なら耳に入るんじゃないのか?」
 臆することなく契約魔の青年に声をかけたのはハーディスだった。
「言っても無駄だ。手に入れるまでは止まるまい」
「なるほど。あんたも止まれないってわけか」
 それが最後の制止の声だったが全てはもうすでに始まってしまっている。ハーディスの言葉を受け入れられる場所はどこにもない。
「宝冠を渡す気はないのだな?」
「あったらとっくに渡している」
 交渉は決裂。それと同時に青年の手に急速に光が集まる。間違いなく攻撃だと空気が伝えた。
「ノア!!!」
 サティーナはとっさにできる限り力を込めてそう叫んだ。


 36話

 サティーナが叫んだと同時に二人の目の前で光が弾けた。
「くっ!」「きゃ!!」
 しかし衝撃はなく、ただ強い風が通り抜けていっただけだった。
 目の前が真っ白になり何が起きたのか全くわからない状況でフロストの契約魔の声が聞こえてくる。
「まったく。どれほどの味方がついているんだ? あの聖騎士といい、その男といい。まさかお前まで現れるとはな…」
 最後にため息と同時に聞こえる憂えた声は二人に向けられたものではないようだった。
 サティーナがゆっくり目を開けると目の前にはハーディス、そしてその前に犬型のノアがいた。
「これで楽な死に方はなくなったと思え」
 フロストの契約魔がそういうと他には誰もいなかったはずの街道に、どこからともなく兵士が現れた。その数およそ二十。
 薄暗い街道を敵は速やかにサティーナたちの周りを囲むように移動する。ハーディスは その動きを見ながら背負っていた自警が持つ剣を鞘から抜き払った。
「結界に契約魔だけでも厄介なのに、兵まで出てきたか…さて、どうする?」
 剣を構えながらぼそりと呟く。
 輪を切る形で一点突破を狙えば十字路までなら逃げ切れるかもしれないが、問題はその先にある。結界と最大の敵である契約魔だ。
「結界と兵士なら吹き飛ばせる」
 この絶望的状況で平然というノアの発言に、思わず振り返りたくなるのを制してハーディスが唸った。
「…それができるなら早く言ってくれ!」
「ただ敵の中に護符を持っているヤツがいる。そいつらと契約魔は無理だぞ」
「人間だけならなんとかなる。契約魔は任せた」
 二人(?)のやりとりはそれだけで具体的なことは何も話さなかった。
「サティーナ、合図したら走るからな。遅れないようについてこい」
「うん。わかった」
 頷いたサティーナだったが緊張のせいで足が動くか心配だった。今でもハーディスのマントをしっかりと握り締めていないと崩れてしまいそうだ。
 敵が完全に二人と一匹を包囲すると、乏しい明かりを受けて鈍く光る刃が一斉に向けられた。
「覚悟はいいな?」
 ノアがそう二人に言うと空気が一瞬真っ赤に染まった。そして次の瞬間何かが爆発したような衝撃が二人を襲い思わず目を閉じた。
 押しつぶされるような空気の圧力に壁に叩きつけられる物音や、兵士たちの悲鳴が聞こえる。衝撃がやむと結界がなくなったことを証明するように空気の匂いが変わったのがわかった。
「行くぞ!!」
 ハーディスの大きな声がかかり反射的にサティーナも走り出す。膝が崩れることもつまずくこともなかった。
 衝撃に襲われ大多数の敵は倒れていたが、護符を持っていると思われる敵は二人に襲いかかってきた。
 複数の敵に自警の剣を持つハーディスは誰が見ても不利と思われた。自警の剣は通常の半分しかない。間合いは広いほうが有利に働くため明らかにハーディスが不利だった。
 しかしサティーナを庇いながら戦うハーディスはそんなことを物ともせずに敵を次々倒していく。
 その光景に呆気にとられるサティーナにハーディスが声をかける。
「行け!!」
 その声でサティーナは二つ目の十字路を目指した。そこを左に曲がってラフィー書店まで行けばこの状況を抜け出すことができる。

 結界が壊れ二人が走り出した後もノアはその場を動くことはなかった。
「契約魔でもないのに私の結界を吹き飛ばすとはさすがというべきか。しかし経験不足は否めないな」
「……」
 フロストの契約魔は逃げるサティーナの背を悠然と見送る。
 目の前で牽制していたノアはその余裕のある態度に不審を感じ、十字路に向かった二人を見た。
「! 行くな!!」
 サティーナが向かうその先に、違和感のある場所があることに気がついて叫んでみたが後の祭りだった。
 ハーディスが最後の一人を倒し終え、ノアの声にこちらを向いたがそのときすでにサティーナは十字路を左に曲がっていた。
 とっさにフロストの契約魔を見たがすでに姿はない。
 ノアは猛然と十字路に向かって走った。その様子にハーディスも困惑気味に後を追う。
「やられた」
 十字路を前にしてノアはため息をついた。
 サティーナが曲がったのは一分も前のことではない。姿があって当然なのだがそこにサティーナの姿はない。
「…サティーナ?」
 ハーディスが声をかけてみるが結果は同じだ。
「空間隔離の結界が張られてる。あの隔離結界はただの目隠しに過ぎなかったということだ」
 そう言うと座って目を閉じるノアにハーディスが詰め寄った。
「入れないのか!?」
「無理だな。できてせいぜい穴を開けるくらいだ」
「やってくれ、俺が入る」
 即答するハーディスにノアも即答する。
「オマエが行っても助けにはならない。契約魔の張った結界を切るには人間の力では無理だ」
 冷静に、いや冷徹に状況を伝えるノアにハーディスは沈黙した。
「要はあの契約魔を殺せばいいんだよな?」
 ぽつりと呟く声にノアは目を開け、ゆっくりとハーディスを見た。
「…犬死にって言葉を知ってるか?」
 見上げた先にある面白そうな顔にノアはため息混じりにそう言ったが効果は得られそうにもなかった。
「やるだけやってみるさ。護符もあるしな」
 そういうと倒れている敵の懐をごそごそと探る。紐に通してある金属製の小さな薄い板を見つけるとにっと笑う。
 その笑顔にノアは諦めのため息を吐き出した。
「わかった。穴を開けてやる。中に入ったら契約魔の名を思い出させろ。オマエたちが無事結界から出る唯一の方法だ」
 そう忠告するとノアの姿が変化した。ゆっくりと黒い靄が立ち上がるように人の姿になる。
「……」
「何も言うな。オマエの血を貸せ」
 何か言いたそうに口を開けたハーディスをすかさず黙らせたノアはやはり不機嫌そうだった。


 37話

 サティーナは十字路に走りこんですぐその変化に気がついた。先程までしていた音が突然途絶えたのだ。
 あまりに覚えのある経験に足を止め、唇を噛み締めた。
「…ハーディスさん? ノア? …ロード…」
 いないとわかっていながらとりあえず呼んでみるがやはり返事はない。
「空間隔離…ね」
 忌々しげにそう呟くとサティーナは走り出した。目指すはラフィー書店。ハーディスの説明だとその扉自体空間を移動する特殊なものだ。もしかしたら開くかもしれないと思ったのだ。
 しかし、書店へと続く薄暗い道の真ん中に何か転がっていた。思わず足を止めそれを凝視する。
『なにかしら?』
 周りを警戒しながらゆっくりとそれに近づく。光は街道の灯籠から洩れるわずかなものだけでそれが何かは触れるほど近づかなければわからなかった。
「うそ」
 それはどうやら人のようだった。それも意識なく倒れている。
 サティーナはとっさにその人物から離れた。この状況でありえるとしたらそれは罠でしかないからだ。
 しかし、あれほど近づいたにも関わらずその人物は起き上がりもしない。
 さすがに不審に思いその倒れている人物に触れてみた。
『!!』
 その硬さと冷たさにとっさに手を引いた。
「……死んでる……」
 目が暗さになれるにつれその人はどうやら女性だとわかってきた。さらに髪が明るい色をしているらしくその部分だけがぼんやりと認識できた。女性のわりに短い髪をしているようだった。
「……ダメよ。ダメ。そんなことないわ」
 ここが敵の結界の中であること、さらに橋の前で聞いた噂話とあの記事がサティーナに嫌な予感を覚えさせた。
 暗いせいで顔は見えていない。
『ノアはお母様は無事だと言っていたわ。大丈夫よ』
 しばらくその遺体を見つめていたがいつまでもこうしているわけにもいかず、見切りをつけ書店のある方角へ顔を向けた。
「母親を置いていくとはずいぶんじゃないか?」
『!』
 すぐそこにフロストの契約魔が立っていた。
 サティーナは思わず飛びのきの店の壁にぶつかった。その衝撃と同時に道にかけられているランプに一斉に火が灯った。
 暗さに慣れていた目にその光はとても眩しく、思わず手をかざした。敵である契約魔から目を逸らしてはならないとそちらへ目を向けると必然的に倒れている遺体が視界に入った。
 見ようと思ったわけではない。いや、できることなら見たくなかった。
「……お…母様…」
 呆然と呟いた声はひどく掠れていた。
 そこに横たわる遺体は紛れもなく母だった。
 見開いた目は虚空を見つめ、薄っすら開いた唇は色が悪くカサカサに乾いていた。髪は乱れ散り光を返すこともない。
 旅に出るときに送り出してくれた母の姿が今でも思い浮かぶ。それは今目の前に横たわる母とは似ても似つかない。
 サティーナはその壮絶な姿に言葉もなく壁を支えにずるずると座り込んだ。遺体から目を放せず、瞬きもしない瞳から自然と涙が溢れていく。
 何も考えられなかった。
 目の前にフロストの契約魔がいることなどすでに忘れていた。
「安心しろ。お前もすぐに後を追う」
 フロストの契約魔はそう告げるとサティーナに向け力を放つ。容赦ない力を受けその場に土煙が立ち上がった。サティーナは消えても宝冠はそう簡単に消失しないだろう。フロストの契約魔は目を閉じため息をついた…。
「サティーナ! しっかりしろ!! 契約魔の名を思い出せ!」
 突然響いた怒号に近い声にフロストの契約魔ですら驚いた。収まってきた土煙の中、サティーナは無傷で座っている。
「サティーナ!!」
「…お前は」
 結界の外にいるはずのハーディスが呆然と泣いているサティーナの肩をつかみ激しく揺さぶっていた。
「護符か」
 焼け落ちている金属片に気がつきフロストの契約魔は呟いた。
「サティーナ! ハルミスの子だろう!!」
「……………ハーディス…さん?」
 ハーディスの声にようやく反応したサティーナがぼんやりと視線を上げるとそこににやりと笑う顔があった。
「契約魔の名を思い出せ…」
 笑ってはいるがハーディスは背中をこちらに向け片膝をついていた。
 状況がまったく飲み込めないサティーナはそのとき初めて道に転がるモノの正体を知った。母だと思っていたそれは腕の大きさくらいの人形だった。
「くっそ。これじゃアキードに殺される」
「その前に私が殺してやる。残念だが逃げ場はないぞ。護符ごと消してやる」
 無表情にフロストの契約魔は今までよりも大きな力をその手に集めだしたようだ。
「あの獣魔とあんたの契約魔にも殺されるな」
 自嘲というか皮肉というか、なぜか余裕に見えるところがハーディスなのか。それを受けてサティーナはようやく己を取り戻すことができた。
「何言ってるの! とにかく逃げなきゃ!!」
 ハーディスに手を貸してその場から逃げ出したが、フロストの契約魔の言う通り逃げ場はない。
「…サティーナ、契約魔の名を思い出せ。助かる方法はそれしかない」
 少し苦しそうなハーディスが押さえている場所に手をやると血が滲んでいた。
「サティーナ。逃げろ…」
 出血はかなりひどく膝をついた地面に血溜まりが作られていく。
「ハーディスさん!」『兄様!』
 その姿がなぜか兄のものと重なって見えた。まだ幼い兄は必死で同じようにサティーナに言った。逃げろと。
『逃げ場などないわ。諦めなさい』
 言ったのは金髪の美しい女性だ。その女性の毒牙にかかる直前、彼が現れた。
『僕の名前はロードだよ。ロードリアル。忘れないでね』
『ロード?』
 にこやかに頷いたその顔は間違いなく、あの茶金髪の青年だった。
 走馬灯のように目まぐるしく思い出された記憶の断片。それに混乱するサティーナの目に光の洪水が映った。
 フロストの契約魔が放った力が光と叩きつけるような風とともに二人を襲う。
 結界から出ることはもちろん逃げ出すこともできない。まさに絶体絶命の中。
「…ロード」
 迫る光を見つめサティーナはポツリと呟いた。近くにいたハーディスでさえ聞こえはしなかったのだが、その呟きに応える声があった。
「ようやく思い出したね」


 38話

 応えた声に目をやろうとしたが、あまりの光と風の強さにサティーナは固く目を閉じハーディスを庇って衝撃に備えた。
「………?」
 しかしくるはずの衝撃はなく、周りを騒がしていた風の音もぱたりと止んだ。代わりに聞こえてきたのは聞き覚えのある声。
「大丈夫?」
 その声にそっと顔を上げる。
 見下ろしてくるのは知っている顔。記憶の中にもいた人物。
 サティーナはその姿にほっとしたが言わずにはいられなかった。
「遅いっ!!」
「ごめん」
 サティーナが現れた自分の契約魔に発した第一声に、契約魔は苦笑いをするばかりだった。
「名を思い出したか」
 いつの間にか近くにいたフロストの契約魔の声にサティーナがはっと顔を向け警戒する。
「どうする? キミはサティーナに危害を加えていないから見逃す余地はあるけど、契約者の命を果たす?」
 ロードの言葉にフロストの契約魔は首を振った。
「私はそこまで愚かではない。宝冠を使えるお前に私が敵うはずもなかろう」
 そう言うと姿を消してしまいそうなフロストの契約魔にサティーナが声をかけた。
「待って! お母様は無事なの?」
「お前の母親は生きている」
 そう言葉を残して消え去った。
 フロストの契約魔が消えると同時に周りの音も戻ってくる。どうやら結界も消えたようだ。
「一件落着か…?」
 膝をついた状態にいたハーディスが緊張の糸が切れたのかその場に崩れた。慌ててサティーナが支えるがハーディスの怪我はかなりひどく顔から血の気がなくなっていた。
「ハーディスさん!?」
「大丈夫だよ」
 そう言うとロードは血の滲んでいる場所に手をあてた。するとすり傷のような小さな怪我も見る間に消えていき、顔に血の気も戻ってきた。
「とりあえずここじゃ何だから移動するよ?」
 意識のないハーディスを抱えたサティーナの目を覆うように手をかざす。
 ふわりと空に浮いたような感覚があり周りの音が消えた。視覚以外の感覚でどこかの室内に移動したことがわかった。
「はい。着いたよ」
 ロードが手を下ろすとそこは立派な屋敷の中だった。
「ウェイン!」
 三人を見つけて駆け寄ってきたのは四十代後半のハーディスと同じ色の金髪の男性だった。
「生きてるよ。出血がひどいからしばらくは動かないほうがいい」
 服を真っ赤に染めて倒れているハーディスを心配する男性にロードがそう説明する。すると男性は人を呼んでハーディスを運ぶように言いつけた。
「貴女は大丈夫ですか?」
「あ。はい。あの…」
 サティーナが自己紹介をしようとすると男性はにこやかに頷いた。
「母君によく似てらっしゃる。どうぞ、こちらへ」
 そういうと男性は二人を案内し一つの部屋へと通した。
「失礼します。お連れしました」
 丁寧に声をかけ中に入ると男性が二人立っていた。一人は茶色よりも白いものが多い髪の男性。もう一人は明るい茶色の髪の男性だ。どちらも身なりは大変よかった。
 白髪混じりの男性がサティーナを見て目尻を下げて優しく声をかける。
「サティーナだね。よく来た。怪我はないかね?」
「はい。……おじい様」
 サティーナの言葉にさらに目尻を下げる。そして側近くまでくると手をとった。
「つらい役目をさせてしまった。だがそれももう終わる。心配はせんでいい」
 そういうと後ろにいる男性に目配せをした。
「彼はわしが指名した男だが現卿ではないわしの指名では効力がない。現卿のサティーナから宝冠を渡してやって欲しい。もちろん気に入らなければ渡さんでもいいがな」
「卿…」
 茶目っ気たっぷりにそういうとサティーナの後ろにいた男性が咎める。ジュメル卿の隣にいた男性も苦虫を噛み潰したような顔でため息をついた。
「おじい様が選んだ人でしたら皆さんも文句は言いませんし、私も賛成です」
 サティーナは耳にあるフォンデスの宝冠を外すとジュメル卿の隣に立つ男性へ差し出した。
「受け取ってもらわないと困りますけど一つだけ。あなたは納得しているんですか?」
 サティーナの質問に男性はジュメル卿を見てから答えた。
「納得というよりは仕方がないといった感じだな。俺が受け取らないとまた騒動が始まる。こんな下らないことで人が死ぬよりは俺が犠牲になるほうがましだ」
 なにやら意味深な言葉だがサティーナはにっこり微笑むと男性に宝冠を渡した。
「これで現ジュメル卿はお前さんになったわけだな。ということは、前ジュメル卿のことなど誰も気に止めないだろう。ハーディス」
 そういうとジュメル卿。いや、今ではただのサティーナの祖父である男性は後ろに控えた男性に頷いてみせた。
 それを受けて男性は一つの扉へ向かう。そしてそこから現れたのは明るい栗色の髪をした女性だった。
「サティーナ。よく無事で……ごめんなさいね」
 サティーナを呼ぶ声は優しく柔らかく、その後に続いたのは謝罪だった。
「……お母様!!!」
 サティーナは現れた母の元へと走り、その存在が無事なことを確かめるようにその腕の中に飛びこんだ。

 翌朝。
 ジュメル卿の裁判が執り行われるこの日。朝早いにも関わらず貴族や役職についている者などがこの裁判を見物に集まっていた。
「このたびの騒ぎはジュメル卿の息子フロストが起こした狂言であることが本人の証言で明らかになった。よって前任のジュメル卿は不問とすることになった」
 その言葉に集まった人々は一斉にどよめいた。大臣がわざと大きな咳払いをして静粛を促し言葉を続ける。
「尚、ジュメル・フロストの処遇についてはすでに自ら牢に入り謹慎についておる。よってこれ以上………」
 大臣の話はまだ続いていたが貴族たちの話はすでに違うものへ切り替わっていた。
「前任ということは卿の位は引き継がれたってことか? アレはどうなったんだ?」
「ああ。宝冠ならジュメル卿の孫だと名乗る娘が母親の遺言だと言って持ってきたらしい」
「ではラジェンヌ殿は亡くなっておられるのか」
「亡くなったのは三ヶ月も前と聞いた」
 公式に発表はされなかったが、ジュメルの娘ラジェンヌは死んでいるというのが彼らの間にすでに広まっていた。
「まったく誰が流した話だろうな?」
 貴族の話に耳を傾けていたハーディスが面白そうに隣にいる少女に話しかけた。
「これでポンシェルノの暮らしは守られるわ」
 少女はそう言うとハーディスに向かって最高の笑顔を見せた。
「まぁ、サティーナがいいならそれでいいけどな」
「…現任のジュメル卿はレストア・アシルバである。以上解散」
 ざわめき冷めやらぬ中ジュメル卿の裁判は終了し、サティーナの旅もここで終わりを迎えた。


 最終話

 その部屋はとても暗かった。
 夜だということもあるが光が少ないからだ。広い部屋だというのに燭台に乗った光が一つきり。あとは光源になりうるものなど何もない。
 暗く静かなその部屋に男が一人目を閉じ瞑想していた。
「いくら待っても望むものは来ないぞ」
 突然かけられた声に男は微動だにしなかった。ゆっくりと瞼を持ち上げ声の主を見る。
 黒ずくめの衣装に黒い髪。まるで闇に同化してしまいそうなその人物は困ったように腕を組んで男を見ていた。
「嬢ちゃんがあいつの名を思い出した」
 静かに告げる言葉の意味に男はふぅと組んだ手の中にため息を吐き出した。落ち込んでいるような、ほっとしたような複雑な表情で目の前の燭台の火を見つめる。
「…お前にならできるのか?」
 静寂の中ぽつりと漏らされた言葉はひどく弱々しかった。もう四十も後半という年齢の男がまるで少年のようなか細い質問だった。
「俺にも無理だな」
 きっぱりとためらいもなく言い切った黒ずくめの人物に男は首を横に振った。
「嘘だ。お前は今いる人魔の中でもかなりの古株だろう。できなくても方法なら知っているはずだ」
 何かにすがるような男に黒ずくめの人物は少しだけ考えた。
「火球を知ってるな? 人間はあれと一緒だ。人の手によって生まれ、一度失われると元には戻せない。俺たちは生命を崩すことはできるが元に組みなおすことはできない。そもそも契約によってお前たち人間に力を分けてもらっている俺たちが、源であるお前たちを作れるはずがないだろう」
 畳み掛けるような言葉に男は肩を落とし顔を覆った。
「…それでも私はリリアナを取り戻したかった…」
 この世で最も大きな力。それが吸血王と呼ばれたフォンデスが残した宝冠。
 普通の契約魔には無理でもその宝冠があればもしかしたらなんとかなるのではないか。そして自分はその宝冠をよく知っている。
 彼女がこの世界を旅立ってからそれだけを考えた。
「人は生き返らない。だからこそ沢山のものを残していくわ」
 二人しかいなかった部屋に女性の声が加わった。男ははっとして声の聞こえたほうを見る。
「ラジェンヌ…」
 肩までの短い髪に凛とした目をした女性は自分の妹であった。
「兄上。リリアナはあなたに何も残してはいかなかったのですか? もしそう考えているのでしたらそれは大きな間違いです」
 揺るぎない口調だがその表情は今にも泣き出してしまいそうだった。
「リリーは兄上を愛していたし、死の間際にも兄上を想っていました。自分が死ぬことで兄上が自分を責めるのではとそれだけを心残りに逝ったのに。兄上はそんなリリーをまだ責めるんですか!?」
「責めてなどいない! ただ戻ってきて欲しいだけだ!」
「もし戻ってきたとして兄上は言わずにいられますか!? どうして自分を残して逝ったのだと!」
「それは!………」
 激しい言い合いの末に男は妹の言葉を否定することができなかった。
 言わずにいられるだろうか? どうしてだと。戻ってきてもいずれはまた逝ってしまう彼女に。自分が先ならいいと思う。しかし今度は彼女が残される。そうなった時同じように自分を責めたりはしないだろうか?
「リリーは本当に兄上に何も残してはいかなかったのですか? 思い出も? 言葉も? 愛すらも?」
 同じ質問を繰り返す。静かな問いかけは男を深く考えさせた。
 暗い部屋を静かで重い沈黙が満たした。燭台の上で揺れる火と同じように男の影が揺れる。それはまるで男の気持ちをそのまま表しているように見えた。
「リリアナは幸せだっただろうか?」
 誰にともなく尋ねた。いや、それは自分に向けての質問だった。
「お前は幸せだったのか?」
 黒ずくめの人物の言葉に男は微かに笑った。悲しげにそれでもどこか幸せそうに。
「あたり前だ」
「だったら幸せだっただろう。好意を持った相手が幸せな時は自分も幸せなものだ。違うか?」
「そうだな…そう、だな」
 男は呟くと顔を覆って声を殺して泣き出した。そんな兄を妹が静かに抱きしめた。

 女性と黒ずくめの人物がその場を去ると男は重く息を吐き出した。
 そして何かを吹っ切るようにすっくと立ち上がり壁にあった絵を外した。
「リリアナ、こんな私でもまだお前を愛していてもいいだろうか?」
 答えは返らない。しかし男は絵を見つめふと笑った。
「クラス。いるか」
 契約魔は音も立てずにその場に現れた。
「私は罪を償う。そしてジュメル卿に仕えることにする。今の私にできることはリリアナを忘れずに彼女の分も生きることだ」
 晴れやかな男の表情に契約魔の青年はじぃっと見つめ口の端を上げた。
「そこにたどり着くまでずいぶんと時間を要したな。お前はいつも肝心なことに気がつくのに遅すぎる。だからジュメルには向いていないんだ。自覚しろ」
 契約魔の言葉に男はただただ苦笑した。
「その通りだな。私はいつも肝心なことに気がつかない。父の考えも、ラジェンヌの心配も、リリアナの想いも…」
 そして微笑を浮かべる女性の絵に目を落とす。その様子に契約魔の青年は微笑を浮かべた。
「ようやくお前に戻ったといった感じだな」
「クラス?」
「私は強欲な暴君と契約したわけではないということだ」
 微笑のまま男の浮かべた疑問に答えるとその場から消えた。

 次の朝を向かえることなくジュメル・フロストは国王に謁見した。そして今回の一件の全てを話し終えるとそのまま城の牢へと足を運んだ。
 牢に入る彼はとても穏やかな表情をしていたということだった。

 
 ―終わり―
  
  
2005/03/31(Thu)22:49:15 公開 / 花檻
■この作品の著作権は花檻さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
ようやくこれで金の三日月は完結しました。
アキードの話が終わってないので、実はまだ続きがあります。なのでここでの伏線は謎のままな点が多々あります。

この作品は小学のときにほぼセリフのみの話を中学くらいで物語にしたものです。学校のフロッピー(古っ)をたまたま返してもらって見つけた私の宝物です。
当時未完だったものを加筆修正し、完結させて投稿したのですが、読み返してみて色々と難点を発見。しかし、最初に載せた某サイトではあまり意見感想を聞くことができず悩んでいたのですが、このサイトで他の方の作品のレベルの高さに、ここなら意見を聞けるかもしれないと投稿を決意しました。
本当は一章だけと思ったのですが結局、長々と最後まで投稿させてもらいました。

意見、感想、コメントを寄せてくださった皆様に本当に感謝しています。

今度は読み手として参加しようと思っています。
今まで本当にありがとうございました。
 
あ。私の一番好きだった登場人物はアーサリー神官でした。関係ないですが(笑 では。
 
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