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『「僕らの地面は乾かない」 前・後編』 作者:笹井リョウ / 未分類 未分類
全角103516.5文字
容量207033 bytes
原稿用紙約292.75枚


















 カラン、という涼しい音をたてて、グラスの中で積み重なっていた歪な氷達が列を乱した。篠原真衣は、気だるそうにストローで氷を弄ぶと、もう一度コーラを口に含んだ。ほとんど溶けてしまった氷の水分が、コーラの味を曖昧にする。
「別れて欲しいの」
 いつもは耳障りだと感じる蝉の声が、何故か一瞬だけ聞こえなくなった。クーラーの効いた喫茶店の中では感じられない熱風を、何故か感じた。真衣の表情が、グラスの周りに凝結して出てきた水滴よりも、冷たい。
「どうしてだよ」
 岩崎亮介は、真衣の目を睨むようにして言った。真衣は亮介を見ようともしないで、まだ氷を弄んでいる。もう、コーラはコーラの色をしていなかった。汚れた川のように、何かが焦げたような色。こんがり焼けた真衣の二の腕なんかよりももっと、濁った焦げ目。
「ほら、私達受験生だし、もうすぐ夏休みに入るでしょ?」
「だから、なんだよ」
「そろそろ私も勉強に専念しないとな、って思い始めて。そりゃ岩崎君は頭いいから大丈夫かもしれないけど、私はそうはいかないの」
 真衣の泳いでいる目を見ていると、全てが言い訳のように聞こえてしょうがない。せめて、俺の目を見て話してくれ。亮介がそう願うたびに、真衣の視線は外れていくような気がした。
「もうメールしたり電話したり、こうやって会ったりだとか、そういう時間はとれないから、だから」
 真衣は、何かに妥協したかのような溜め息を、グラスに吹きかけた。ふわり、と白く曇ったグラスは、数秒も経たないうちに元の透明さを取り戻す。
「別れて欲しいの」
「受験だからって別れる必要はないだろ。メールだって電話だって、時間を減らせばいいだけのことだし」
「それでも私は岩崎君のこと考えちゃうから。勉強とか、集中出来無いから」
 何かを責めたてるような真衣の言葉は、無駄に説得力があった。そう言われてしまっては、亮介もどう返していいかわからない。からんからん。喫茶店のドアが開く音がした。そういえば、俺達は今どれくらいの声量で別れ話をしているのだろうか。蝉の声など、もう耳に届いていない。
「だから……ホント、ごめん」
 真衣はそう言うと、ガタンと音を鳴らし席を立った。亮介の前には、真衣の残したコーラと自分が頼んだ麦茶だけが残っていた。微かに残っているかに見えた真衣の残像は、人工的なクーラーの風に流されて、消えた。きっとはじめからうまくいかなかったんだ、と言い聞かす自分だけが、酷くその場に浮き彫りにされた。


 ◎


 机に向かっていると、夏の風物詩とされる蝉の声でさえ耳障りに聞こえる。景色が、熱による波に揺れている。白いコンクリートを突き刺す太陽の光が、目に痛い。七月の席替えで窓際の一番後ろの席を獲得した亮介は、机に右肘をつき、大きな掌に顎を載せていた。少しずつ汗ばんでいく掌が、かすかに前髪を揺らす風に酷く感謝している。
 中学三年生の夏。そろそろ受験生だということを実感しなければならないことを、一番実感したくない季節だ。もう子供ではない。だけど、こんな気持ち大人にはわからない。
 亮介の通う中学は、頭が堅くマニュアル通りにしか授業をしない先生が多いせいか、成績も県内で普通クラス、部活もさほど好成績を残しているわけでもない、平々凡々な中学校だ。平行線を指でなぞるような授業を三年間も受けていると、目を瞑っていても線をなぞれるようになる。湿気を帯びた風が、亮介の制服を優しく撫でた。公民なんて、あんな板書をされたら遠い世界にしか見えない。
 不意に、隣の席から、「はい」という凛とした声が聞こえた。夏の湿気を追い払うように、涼しげな声だ。南条実果は、教科書に並べられている文字の羅列をさらさらと読むと、先生の反応も待たずに腰を下ろした。
「岩崎君、今凄いぼーっとしてたでしょ」
 実果はくすくす笑いながらそう言った。
「だって、公民とかつまんなくね?」
「まあ確かにそうだけど、私前の期末で公民が一番やばかったから、これからちゃんとやらなきゃだめなの」
 実果は、左手を机に肘をつき、小さな掌に顎を載せた。「あんな家庭の私が公民苦手とか、ちょっとばかみたいだよね」と、シャープペンシルを弄びながら、実果はグラウンドに目をやった。亮介と実果は、まるで間に鏡を挟んでいるかのように、対照的な姿勢をとっていた。
「岩崎君は頭いいから良いけどさー、私ら凡人はやばいんだよね。特に私は親がうるさいし。前の模試だって、岩崎君は北高A判定だったんでしょ?」
「……どうだったかな」
「……岩崎君が、私ん家の子供だったらよかったのかもね」
 実果は独り言のようにそう呟くと、寂しそうに目を伏せた。長い睫毛が肌にかかって、その横顔は彫刻のようだった。その、汗の滲み出た焦げた肌の色は、消えかかっていた真衣の残像を蘇らせるには充分だった。
 少しだけ、会話が途切れた。それを見破られるのが恐くて、亮介は平静を装った。
「ああ、やっぱり親うるさいのか?」
「当たり前じゃない。お前がちゃんとしていないと俺は街を歩けないんだー、って。いっそのこと私グレて、親が部屋に引き篭もるくらいにしてやろうかと思ったくらいよ」
 亮介は少し笑ったが、実果の表情は真顔そのものだった。窓から流れ込むあたたかな風が、実果の高い鼻を象っている輪郭線を撫でる。空気と、肌との境目を見出せなくなる程の、自然なライン。空気へと融けこんでしまいそうな実果の横顔は、存在というものを漠然と表している。
 グラウンドからは、黄色い声をあげながらハードルを飛び越える、一年生女子の活気が漂ってくる。キャッキャ、と戯れながら細い足がハードルを飛び越えていく。悩みなど何も感じない、満たされた夏の時間。羨望に似た憎しみのようなものが、亮介の心にぽっかりと穴を開けた。最近、あんな風に思いっきり笑ったこと、あったかな。人差し指と中指の間で、持ちなれたペンを回してみても、答えは見つからなかった。


 ◎


 亮介の家での生活は、まずパソコンをチェックすることから始まる。家に帰ると直接自分の部屋へ行き、パソコンを起動させている間に着替えをすます。独特の音で目覚めを告げるパソコンのディスプレイに、マウスで矢印を走らせる。きっと目を瞑っていたとしても、亮介はホットメールを起動させる事が出来るだろう。亮介の掌は、その感触や距離感をもう覚えている。
 新着メールをチェックし、全てに返信し終えているころには、大抵目が相当疲れてしまっているので、そのまま後ろに身体を倒す。予め開けておいた窓からの風が、酷く心地よい。授業中に感じる風の心地よさとは、全く違う心地よさだ。両手を頭の後ろに持っていき、何もない天井を見上げていると、その先に広がっている空まで見える気がする。雲が流れる際に、空を掠る摩擦の音でさえも。この世界に蓋をしている、神様の溜め息さえも。
 階段をあがってくる足音が聞こえる。自分の思考を邪魔された事が酷く不快になり、亮介は倒していた上半身を元に戻した。ディスプレイに映っている文字の羅列に、ピントを合わせるのに少し時間がかかる。
 コンコン
「亮介」
 まるでノックの意味が無い。返事も待たずに、母はドアを開ける。右手には、天井と同じくらい白い封筒を持っている。亮介は瞬間的に察知した。封筒の封はもう、切られていた。やっぱりだ。
「来たわよ。前の模試の結果」
 母はそう言いながら、亮介の傍に腰を下ろした。母は必ず、こうして亮介の部屋に来ると、何かとパソコンを凝視する。勉強の邪魔だ、という怨念にも似た視線が毎回注がれるパソコンが、いつか壊れてしまわないかと不安になる。ごめんなさい、掃除機かけてたらコードを巻きこんじゃって、壊れちゃったの。残念ね。わざとじゃないのよ。
「結果、もう見たんだろ?どうだった?」
「判定はAだったけれど……前より点数も順位も下がっていたわ」
 母は封筒の中に入っていたであろう、結果の書かれた用紙を広げながら、そう言った。がさがさと音を立てながら開かれていくそれは、あまりに白く、決して嘘など表記されていないといった感じだった。
「ほら、特に理科の地学の部分かしらね……」
 母は、それぞれの教科の単元ごとに正答率が分析されている部分を指差して、続けた。
「結構ここはいつも間違えているわ……しっかりがんばりなさいね」
 亮介が全く視線を合わそうとしないことに気付いたのか、母は足早に部屋から立ち去った。母のいう「がんばりなさいね」は、全く応援の台詞に聞こえない。背中に背負う荷物が、どんどん増えていく感触がする。「がんばれ」と言われた事は何百回とある。だけれど、「がんばったね」と言われた事は一度も無かった。
 前に、母が亮介の部屋から立ち去る際、母は亮介のバッシュを部屋から持ち出した。鞄に立てかけていたバッシュの濁った影は、部屋から消えた。確かあれは期末テストの結果を報告した時だったか。その頃には、三年生はもう部活も引退してしまっていた。母はきと、勉強の妨げになると思ったのだろう。母は、もう何も関係の無いものよねと言わんばかりの無表情で、それを部屋から持ち出した。確かに亮介が所属していたバスケ部は弱小で、今年も地区大会で敗退してしまったけれども、亮介はまだボールの感触や、バッシュによる夏らしい足音に浸っていた。少なくとも、バスケをしている時は、勉強とは違い、確かな何かを掴んでいるような気がしていた。
 亮介はもう一度、模試の結果を見つめた。綺麗過ぎる白に、機械じみた文字と数字の羅列。見なれた数の組み合わせと、もう見たくない志望校の名。大きく表記されているのは、Aというアルファベット。
 どうしてだろう。亮介は、その用紙をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱へ投げ込んだ。それは綺麗に弧を描き、紙切れの群れの中へと消えた。どうしてだろう。何も掴んでいる気がしない。むしろ、スリーポイントが決まった時のようなあの感触は、掌から零れ落ちてしまっているような気がした。いくら良い順位をとっても、A判定を貰っていても、何かを掴んでいる感触は、まるで無かった。自分が今どうするべきなのか、解っているけれど解らない振りをしているかのような、何かから目を反らしているあの気持ちの歪みのような、ぽっかりとした虚無が、今の亮介を満たしていた。


 ◎


「……あぁ、そういうのわかる」
 銀色をしたシャーペンの先端部分から伸びる、おしゃれなチェーンを掌で弄びながら、実果は言った。綺麗に折り目をつけて開けられている教科書には、長々しい問題文と複雑な図形が描かれていた。亮介の苦手な、証明の応用問題だ。
「何かがカラッポなんだよね。いくら勉強がんばっててもさ」
 さらさらと繊細な字を、ノートに走らせる実果の長い睫毛が、頬にかかる。
「でもそれは親にはわからないんだよね。うまく言葉にできないし、できたとしても絶対わかってもらえないよ」
 親は成績しか見てないんだから、そう言いながら、実果は二回、シャーペンをノックした。亮介は、遠くに見える工場の煙突を眺めていた。先端から涌き出るように吹き出ている黒い煙が、空に生きる雲の居場所を、黒く染めていた。
「……どんなにいい成績とったとしても、何か足りないんだよな。部活やってた時には、凄い体中が何かに漲ってたのに」
 亮介が遠い目をしながら呟くそうにそう言うと、実果は黙って頷いた。
「部活やってたときは、シュート入れる度に何かを掴んでいける気がしたし、一秒一秒が凄く満たされてて、結果が出た時には皆で喜んだり、出なかった時には皆で泣いたり…そういう中で、足りないものなんかひとつもなかったのに」
 亮介はそう言いながら、バレー部のキャプテンだった実果の姿を思い出していた。同じ体育館部活だったため、実果の部活姿は何度も目にしていた。声を張り上げてボールを追いかける実果の姿は、とても瑞々しかった。
「引退してからは、もうそんな気持ち忘れちゃったな」
 なんてね、と、実果は笑ったが、目元は笑っていなかった。記憶の隙間を垣間見て、亮介も少し、物悲しくなる。あの更衣室の匂いに顔を歪める事も、もう無い。
 遠くの煙突から出る煙が、空を覆う。徐々に穢されていく、雲の住み処。
「いつからこんなカラッポの世界になっちゃったんだろうね」
 実果は、続ける。
 空から、雲が消えたような気がした。澱みが広がり、空が落ちてきそうなほどに、見ていて酷く重い。
「一度、全く違う世界に行ってみたいな」
 音も無く、雨は降り始めた。


 ◎


 錆び付いたチャイムの音が、授業時間の終わりを告げた。降り始めた雨が、街を濡らす。亮介は、降り始めの雨による街の匂いが、嫌いだった。埃っぽいようで、鼻につく。
「俺も、この匂い嫌い」
 藤田宏樹が、さっきまで実果が座っていた椅子に、どかっと腰を下ろした。宏樹は、シマダの授業やる気なくす、と言いながら大きなあくびをした。
「俺も、って……なんで俺がこの匂い嫌いってわかったんだよ」
 亮介は立ち上がり、開いていた窓を閉め、席に座った。亮介と宏樹は、隣同士の席に座っている。
「だって亮介、顔をすげぇしかめるんだもん。誰だってわかるよ」
 からからと軽い宏樹の笑い声は、聞いていて気持ちが良い。晴れ渡った夏の空というよりは、風の駆ける五月の空といった感じだ。亮介はいつも、気持ちが顔に出るんだよ、と良いながら、宏樹はもう一度小さく笑った。
「ところで、俺新しい彼女できたよ」
 宏樹の話はいつも唐突だ。
「は?もう出来たの?前のと別れてまだ二週間経ってねぇよ」
「来る者拒まず去る者追わず」
 最悪だな、と冗談めかして亮介が言うと、宏樹はこんな俺だって知ってただろ?と言い返す。宏樹との会話のキャッチボールは、卓球のピンポン玉のように軽やかに進む。
「亮介は最近、真衣ちゃんとどうなの?」
 不意に、ピンポン玉は小さなラケットの淵に当たって、どこかへ飛んでいった。黄色く跳ねるピンポン玉を、身体をたたんで拾うように、亮介は項垂れた。
「あー……振られたよ」
「……そっか。きっと何か考える事があったんだろうな」
 宏樹はそれだけ言うと、もうなにも追求してこなかった。
 宏樹は、人を傷付けることがない。それは、他人に遠慮しているわけでもなく、酷く自然な行為だった。宏樹は、俺の中身を知っている、と亮介は感じた。どこまでが共有できる領域で、どこからが自分自身の領域なのかを、宏樹は知っている。絶妙な位置に立ち続ける宏樹の言葉が、亮介は好きだった。例えるならば、白い波に呑まれることも、砂のやわらかさに埋もれることもない、波打ち際で揺れる貝殻。夜の黒に覆われることもなく、周りの光に霞むわけでもなく、さり気なく存在する冬の星。
「……なあ、最近どう?」
「え、なにその主婦仲間のような話題の提示方は」
「いいから。最近どうよ?」
 亮介は、両腕を机の上に投げ出した。
「どうって、何がどうなの?」
 言っていることがよくわからなくなってきた、と宏樹は天井を見つめながら、付け加えた。
「んー……だからさ、部活も終わったわけだし、夏休みだって勉強ばっかだなーみたいな感じは、どうって聞いてんの」
 我ながら言っている事が漠然としすぎているなと感じたが、亮介は宏樹の言葉を待った。宏樹が天井を見つめる時は、言葉を選んでいる時だ。自分自身、答えづらい質問を他人に投げかけている自分が、なぜだか少し恥ずかしくなった。
「俺はもともと帰宅部だし、部活のことはわからんけど、もうなんかこんな状況は嫌!って感じ。勉強ばっかで逃げ出したいー」
 宏樹はそう言いながら、亮介のように両手を机の上に投げ出した。ふたりは隣同士、全く同じ体勢をとっている。
「さっき、南条ともそういう話しててさぁ」
「篠原サンの次は南条サンですか」
「俺は、最近自分がカラッポだ、って言ったんだよ」
「無視ですか」
「そしたら南条は、私もって言ったあとに、全く違う世界に行ってみたいって言ったんだよな」
「全く違う世界?」
 宏樹は、そう聞き返しながら顔をあげた。
「そう、全く違う世界……俺、なんかすごい納得っていうか、行きてーなって思った」
 亮介がそう言うと、宏樹は自分の腕の中に顎を埋め、黙った。亮介の言葉の意味を、少しずつ噛み砕いているようだった。授業中にも、そういう心構えで臨めば良いのに、と思ったが、口には出さなかった。
 やがて宏樹は口を開き、
「全く違う……って例えば、どんな感じ?」
と、顎を腕の中に埋めたまま、言った。
「例えばぁ?……まず、住む場所は家じゃだめってことは確か。束縛されることがなにひとつないっていうか…勉強以外にやりたいって思っていたことが、出来る世界?」
「いや、最終的に質問されても」
 亮介は、両手を組み、それを頭の後ろへと持っていった。椅子の背に体重をかける。椅子の前足二本が浮き、後ろ足二本だけで絶妙なバランスを取る。かすかに前後に揺れながら、空気が揺らぐような感触を楽しむ。
「でも、住む場所が家じゃだめっていうの、わかる」
 宏樹は、続ける。
「もうすぐ夏休みだし、一泊くらい旅行でも行くかぁ?」
 亮介は、一瞬、自分の胸が跳ねたのを感じたが、それはすぐに萎んでいった。
「でもそれって、たった一日の現実逃避だよな」


 ◎


 亮介が住む市は、岐阜県にある大垣という市で、近辺では比較的「都会」に属している。といってもある一点から離れてしまえばそこは閑散としているし、商店街だってすでに閉まっている店が多い。昔は別名「大垣銀座」と呼ばれていた駅前の商店街も、今やもう虫の巣と化していた。
 中学校は、「都会」とされる一点のすぐ近くに位置している。外見は凝った造りだが、内装は実に質素なもので、そしてそれをカバーしようと先生お手製のちらしがそこら中に掲示してあるため、質素さをより際立たせている。夏はコンクリートがゆらゆら揺れる程に暑く、冬は女子がスカートからジャージを覗かせている程に寒い。どちらに関しても、全く対策は練っていないようだ。まぁ、冷暖房完備で休暇無しとされた方が困るのだが。
 生徒はいつも放課後、「都会」に寄ってから家路につく。駅の周辺に広がる「都会」には、学校帰りの生徒に嬉しい店が並んでいる。亮介はいつも、宏樹とCDや本を物色しに駅ビルに行くのだが、大半の生徒は裏通りにあるクレープ屋に立ち寄るみたいだ。亮介も一度、そのクレープ屋に立ち寄った事はあるのだが、あまりの女子生徒の多さに居辛くなり、おつりを忘れて立ち去った記憶しかない。
 先生達は、毎日「都会」の見回りをしていた。相当暇なのだろうか。六時以降にも「都会」を徘徊している生徒を見ると、さっさと生徒を帰らせることが目的な筈なのに、学校に逆戻りさせ、学年指導が始まる。(学年指導とは、学年担当全ての先生が作る円の中に立たされ、説教を食らうことだ)いやいや、生徒を見つけて早く帰らせるために見回ってるんじゃないんですか?亮介の友達には、先生に見つかった為に家路についたのは八時を過ぎたという奴もいる。もう、溜め息しか出ない。
「やっべぇ、ゴーダがいるよゴーダが。まだ五時半だってのに」
 宏樹が、漫画雑誌から顔半分を覗かせた。ゴーダというのは生活指導の先生のあだ名だ。説教の時に、顎に青く残っている不精髭が異様に近づくらしい。
「どうする?そろそろ帰る?」
 亮介は読んでいた音楽雑誌を閉じると、本棚へと戻した。女子生徒が、ゴーダからスカートの長さを指摘されている映像が、視界の隅に入ってくる。
「ゴーダも厳しいよな。別にスカートが膝上だからって何が起こるわけでもないのに」
 亮介の視線を察知したのか、宏樹は呟くそうにそう言った。先生達の前でそう叫べない自分を、悔やんでいるようにも見えた。
 亮介は時計に目をやった。五時半過ぎ。今走らないと、五時後半の電車に乗れない。六時過ぎの電車に乗って帰ったら、親がうるさい。亮介の小さな溜め息と、宏樹の踏み出す第一歩目が重なった。
 駅に着くと、沢山の生徒が思い思いにグループを作っていた。この時間帯に帰る生徒が最も多いためだろう、一番線は制服の色で埋め尽くされていた。確かにゴーダやらなんやらが目を光らせているあの空間には、居たくないと感じるものだ。さっきスカートの丈を注意されていた女子グループが、ホームに座りこんで、早速ゴーダの悪口(「まじありえなくね?アイツ」「つーかキモイし」「うぜぇし黙っとれって感じ」)を吐いているのが聞こえた。
「あっ、松永と高橋だ!」
 隣にいた宏樹が、急に駆け出した。宏樹の走る先には、クラスメイトの松永武士と高橋淳也がいた。松永は、こちらに向かって手を振っている。
「藤田と岩崎じゃん。お前らも今帰るとこ?」
 武士の声は、猫のように人懐っこく、聞いていて心地良い。言わなくても良い冗談を口走ってしまいそうなほどに、武士がいるとテンションがあがる。
「そう。ゴーダの視線が痛かったからさ」
 亮介がそう言うと、「俺達もめっちゃ睨まれたよな」と、淳也が低い声を響かせる。淳也は武士と違い、完全に声変わりを済ませた大人の声をしている。
「まじゴーダとか指導原とかって暇だよな……そんな暇あんだったらあの校舎建てかえてろ!って感じ」
 宏樹がそう良いながら、ふ、と視線を泳がせた。(ちなみに、指導原というのは堂原という名字の先生の事だ。)
「なぁ、あそこにいるのって南条サンだよな」
 宏樹は、くいくい、と顎で三番線の方向を示す。そこには、一番線の人ごみから離れた場所に、ぽつんと一人で立っている実果の姿が在った。ホームを駆ける風に、抱え込むように持っている本のページをめくられ、少し、鬱陶しそうにしている。
「なんで三番線なんかにいるんだろ」
 淳也はそう言ったあと、右手に持っていた缶コーヒーを一口飲んだ。その妙に手馴れた仕草が、無駄に親父臭いなと亮介は感じた。
「塾だろ?」
 武士はそう呟くと、もう実果に関心が無くなったらしく、宏樹とじゃれ合い始めた。武士と宏樹を見ていると、中学三年生ってまだ子供なんだなと改めて実感させられる。
 日当で遊ぶ子猫のような二人を横目に、亮介はまだ、実果を見ていた。あれは公民の教科書だろうか。少し大きめの本を小さな右手にかかえ、絶え間無くそれに視線を落としつづけている。たまに髪の毛を整える左手の指はすぐに、本のページを支える為、丁寧に位置を探す。その姿はこの生活への不満の塊にも見えたし、その環境の中で、今にも取れそうになっている堅い仮面を必死にかぶり、国会議員の娘を精一杯演じている人形のようにも見えた。どっちにしろ、三番線に立っているのが、必死に見えた。
「亮介、電車来たよ」
 宏樹が、亮介の袖を引っ張った。亮介は、「ん」とだけ頷くと、流れるように電車に乗りこんだ。実果はまだ、その場に立ちつづけている。文字の羅列を追っている瞳は、迷路の出口を探しているようにも見えた。やがて実果の姿は、流れゆく景色の渦に呑まれていった。


 ◎


 その日実果が家に着いた頃には、限りなく十一時に近かった。実果は毎日、闇に包まれた街を、一人歩いて帰る事になる。もう一年以上も前からのことなので、恐さなどは薄くなっているのだが、虚しさだけは毎夜濃密になっていく。
 実果の父親は、国会議員だ。聳える様に立つ門を開け、大きな扉を開ける。家に父親が帰っている可能性は、限りなくゼロに近い。母親も既に眠りに就いており、テーブルの上には冷めきった夕食が置いてある。きっとこの夕食は、母親が作ったものではないのだろう。あの人が、こんなに全く同じ形をしたコロッケを作れる筈が無い。
 実果は、溜め息をつきながら制服を脱いだ。からだが、なめらかな曲線を失い、制服を象ってしまっていそうだ。コキ、と首の骨を鳴らし、錆びた味のする水道水でうがいをした。口の中を満たす水が、口内の温度に負け、生温かくなってくる。酷く気持ち悪くなってきたので、実果は水を吐き、一口だけコロッケを齧った。くちゅり、と嫌らしい音をたてながら、油が舌に纏わりつく。不快感が口の中を満たす。スーパーで売っている、パック入り三個で百九十八円ってとこだろうか。実果は何の迷いもなく、皿に並べられていた夕食を三角コーナーに捨てると、そこに水道水を滝のように落とした。コロッケには汚い穴があき、水の勢いがそれを拡張していく。
 全く違う世界、か。
 水道水を止めると、実果は歯ブラシを握った。夕食なんて、もう要らない。実果の食道は、意識的に蓋をしていた。
 全く違う世界って、一体どんな世界なんだろ。
 実果は、頭の隅っこで自問自答を繰り返す。歯ブラシに乗せた歯磨き粉の固まりが、くらりと歪んだ。それが落ちてしまう前に、実果は歯ブラシを口に含んだ。
 ……少なくとも、こんなまずいコロッケが出てくる世界じゃないな。
 実果は、奥歯にしつこく挟まっている衣も歯ブラシで擦り取りながら、そんなことを考えていた。右手を忙しく動かしながら、左手でコップを掴み、水道水をコップに注ぐ。またこの水でうがいをしなければならないと思うと少し憂鬱になるが、さっきのコロッケの味を思い出すとその憂鬱さは消えた。
 今の環境から抜け出されば、どこでもいいかもしれない。
 顔を下に向け、口を開いた。口内の汚れを掠め取るように、うがいを繰り返す。水の音以外、何も聞こえない。夜の静寂は、酷く重い。空気の動きさえ抑制するような、静寂という圧迫感。この静寂を好むようになってしまった私は、やはり少しおかしいのだろうかと、実果はもう一度溜め息をついた。
 今日と変わらない明日は、すぐそこに来ている。


 ◎


 心地よい温度が、そこには存在した。そこは確実に、夏ではなかった。だけれど、冬でもなかった。人間が過ごす上で、一番心地よい温度。春の体温のようにリアルで、真夏の水温のようにずっと触れて居たいと感じる。ここが室内なのか屋外なのかもわからない。ただわかることは、ここは今まで住んでいた星とは全く違う環境にあるということだけだった
ネバーランド。二次元の世界にしか存在しない、子供だけの国。亮介はそこに立っていた。太陽はあるけれど、一向に沈まない。雲は浮いているけれど、一向に流れない。そこだけ、時間が止まってしまったような、空間だった。だけれど、風は吹き花は揺れる。空は色を変えていく。時間は確実に流れているのだ。空が、うっすらとオレンジ色にグラデーションし始めたかと思うと、世界は闇に包まれ、星の光が街を照らす。スポットライトを浴びているような感覚だ。亮介は、空を見上げた。右隣には、宏樹が居た。左隣には、実果が居た。実果はもう、教科書なんて持っていない。三人はただ、空を見上げていた。
 ネバーランドの空の色は、学校の天井に似ていた。薄く、透き通るような碧。水の中から色だけを掬い取ってきたような、優しい碧だった。オーロラのように、それは揺れている。光の網が、色の波を創っている。そこに浮かぶ雲は、真っ白な綿飴のようにやわらかで、だけれど一向に動かない。形だけをもくもくと変え、存在感を培っていた。亮介は、太陽の光に目を伏せた。目を刺激することなく、やさしく蓄積されていた光の蕾が、亮介の中で花びらを開いた。
 いつのまにか、繋いでいた手。宏樹と実果の掌の温もりが、ふわりと消えた。亮介は、閉じていた目を開いた。そこにはまだ碧が広がっていると信じていたが、亮介の視界を染めたのは、薄汚れた白だった。亮介の部屋の天井が、そこには存在した。
 目覚まし時計も無しに、自然に目を覚ませたのはどれぐらい振りだろう。亮介のからだは抵抗する事なく、眠りから覚めた。頭の中が、酷くすっきりと澄んでいる。掌を、開いたり閉じたりしてみる。まだどことなく、あの温もりが残っている気がした。
 亮介は顔を洗った。鏡を見た。自分が居た。
 全く違う世界は、そこに存在した。


 ◎


「おはよ」
 がたん、と音を鳴らし、実果が席に座った。実果はいつも、学校に来るのが早い。まぁ、それを毎朝見ている亮介はもっと早いのだが。
「昨日、塾だったんだろ?大変だな」
「うん。え、ていうかなんで知ってるの?」
 実果は鞄の中身を取り出し、それを引き出しの中に詰めた。各教科ごとに分別されているらしく、見栄えが美しかった。
「昨日、駅でひとりだけ違うとこに立ってたからさ。塾なんかなって宏樹とかと言ってたんだよ」
 亮介がそう言うと、実果は突然両手を組み、頭上へ持っていった。伸びをしながら、からだを左右に揺らす。
「あー……うん。塾。親が中一の終わりに、勝手に申しこんだんだ。別に私行きたくなかったのにさ。」
「勝手に?」
「うん。しかも終わるの十時半近いの。家帰ったらほぼ十一時だよ? しかも親は寝てたり帰ってなかったり……もう慣れたけどねー」
 ひとりで歩く夜道のスリルだって、楽しめる余裕さえ出来てきたの、と笑う実果の目は、笑顔を作れば作るほどに哀しく見えた。
 亮介は、そんな実果の横顔を見ながら、ネバーランドのことを思い出していた。天井の薄い碧と、ネバーランドの空の色が、重なる。隣同士手を繋いでいた、宏樹と実果。亮介は、今自分の中にある考えを実果に伝えてみようと、口を開いた。
「南じょ」
「おはよー。南条サン昨日塾だったの?」
 亮介と宏樹の声が重なった。「うん、そう。藤田君は塾行ってないの?」「俺が行ってるわけないじゃん」宏樹と実果の会話が、遠くに聞こえる。
 やはり言うのはやめようか。こんなこと、現実的に考えて不可能だ。あぁだけれど、やはり聞いてもらいたい気もする。やっと、全く違う世界が少し見えた気がしたのだ。聞いてもらわないと、今の日常から何も変わらない。天井の薄い碧が透け、空の奥を突き抜けるように、気分が高揚していく。
「なあ、夏休み、学校に住んでみないか?」
 あまりにも、亮介の発言は唐突だったらしい。普通に会話をしていた実果と宏樹の顔が、止まった。
「岩崎君、なに言ってんの?」
 亮介の言葉を充分に噛み砕き、実果が最も適切とされる第一声を発した。窓からの光が碧を照らして、少しだけ白く見えた。
「……あのさ、前こんな環境は嫌だーとか、違う世界に行きたいーとか話してたじゃん。宏樹とも話してたんだけどさ、俺なりに考えたんだよね」
「その結果が、なに、引越し?」
 宏樹がとぼけた声を出す。
「いや、別に引越しとかじゃないんだけど」
「今流行りのプチ家出ってやつですかい? まるでギャルだね。超ありえなーい」
「やっぱ現実的には無理かな……昨日ふっと考えが浮かんでさ」
「え、無視ですかい?」
「岩崎君はなんでそんな考えが浮かんだの?」
 宏樹とは違い、実果の表情は真顔だった。きっと南条は、俺と同じ事を感じている。亮介はそう感じた。
「あれだよ、なんか俺の夢の中にネバーランドっぽいのが出てきてさぁ……その空がこの学校の天井と全く同じ色だったんだよね。それで、俺の両隣には宏樹と南条が居て……ああ、こういう世界いいなぁって思ったんだ。みんなで過ごせる場所ってやっぱ学校だ、そして夏休みだ、みたいな」
「そっか……」
 亮介は冗談に聞こえるように話したつもりだったのだが、実果はその言葉をそのまま受け取ったようだ。それだけ呟くと、目を伏せ、何かを考えているらしい顔をする。
「でもさ、現実的に考えてみようぜ。まず許可なんて絶対おりないから、秘密でってことになるよな。バレる確率が高すぎる。それに、食料はどうする? 風呂は? 洗濯は? 日常生活を送るうえで学校ってのはちょっと不便すぎねえ?」
 宏樹は、ほとんど息継ぎをせずにそれだけ言い放つと、後ろの机に両肘をつき、椅子の前足を浮かせ、身体を揺らし始めた。宏樹の言っている事はもっともだ。もっともだからこそ、なぜだか異様に覆したくなる。亮介がどうにか何かを言おうと疼いていると、実果が口を開いた。
「私は、不可能じゃないと思うな。ていうか聞いてて、実際にやりたい! って思ったし。だけど実際、私にそこまで勇気があると思えなくって。先生の見回りだってあるだろうし、校舎内で部活動するとこもあるだろうしさ。……もしバレたら、親がなんて言うかわからないし」
 きっと、結局実果の心に引っかかっている点は、最後の部分だけだろう。やはり、実果の心に浮かんでいるものは、自分と酷似している。亮介は思った。
「俺も、気になってるのはバレた時ってことだけなんだ。食料は買えばいい。冷蔵庫は保健室にある。風呂は近くの銭湯にでもいけばいい。洗濯は水道があれば出来る。生活自体は、できると思うんだ。親もいない、俺達だけの世界」
 実果は、頷いた。宏樹は、動かない。
「そうだよね……ていうか、実際のリビングみたいなところを保健室にしたらどうかな。ベッドもあるし、冷房完備だし、冷蔵庫もあるし……うん、家庭科室でご飯も作れるし、洗濯だって手洗いでなんとかなる」
 実果はまるで、自分に言い聞かせているようだった。きっと実果も、亮介と同じように、高揚している気分を必死に落ちつかせているのだろう。やだ、なんだかドキドキしてきちゃった、とはにかむ実果の顔が、不覚にも、かわいく思えた。
 宏樹はまだ、考え込んでいるようだった。言葉の意味と現実の影を、頭の中で重ね合わせているかのように、宏樹の視線は揺るがない。どうしよう、メンバーは私達だけなの?もっと集めようよ、私達と同じ事思ってる人はもっといるはずよ、と隣ではしゃぐ実果の声が、宏樹の思考を遮っている事は目にも明らかだった。
「実果、次移動だよ。行こ」
 実果と仲の良い遠藤奈央が、待ちくたびれたようにそう言った。あ、ごめん、私行くね、と実果は口早に言うと、奈央と教室を出ていった。妙に肩を弾ませながら歩く実果。あの後ろ姿では、きっと今の話を奈央に聞かせているのだろう。
「宏樹、俺達も行こうよ」
 亮介は宏樹の目を見ながらそう言った。しかし、宏樹の視線は揺るがない。まっすぐに何かを見つめているようだった。きっと宏樹は、さっき話していたことを考えているのではない、と亮介は直感的に思った。
「次、サボんの?」
「うん。悪い」
 宏樹はそれだけ言うと、跳ねるように椅子から立ちあがった。「俺、屋上行ってるから」と吐き捨てると、宏樹は亮介と全く正反対の方向へと歩き出した。宏樹の心の内は、きっと誰にもわからない。それは時にガラス細工のように繊細で、時に木の幹のように頑固なのだろう。宏樹は誰の心にも深く干渉しなかったが、それと同じように、自分のことを深く干渉されることを嫌った。


 ◎


両手両足を、投げ出した。見えるものは、空、雲をつくりだす光。少し眩しくて、目を閉じた。感じるものは、コンクリートを駆ける風。
 こうして屋上で寝転び目を閉じると、目が見えない代わりに、他の器官が研ぎ澄まされるのを感じる。普段は聞こえないようなコンクリートの軋みや、人々の呼吸が、聞こえてくるというよりはからだに染み込んでくるような気がするのだ。宏樹は、眠ってしまわない程度に目を瞑り、瞼の向こう側にある空を見ていた。目を閉じていても見える空は、光に霞んだかすかな蒼。
 この学校の屋上は、開放されているわけではない。鍵は職員室に管理されているし、先生の許可を得て屋上を使用するときなんて、美術の授業で街並みをスケッチするときくらいだ。しかし、一部の生徒にとっては開放されているといえよう。あまり知られていないが、この古い屋上のドアの右下を思いっきり蹴ると、なぜだかドアが開くのだ。一瞬だけ、古い学校でよかった、と思うが、汚れている屋上のコンクリートを見ると、その考えは瞬時に葬られる。
 宏樹は過去に一度、サボりがバレて、屋上の使用を咎められたことがあった。しかも、バレた相手が生徒指導のゴーダだったのだ。屋上に足を踏み入れるなり酷い剣幕で宏樹を怒鳴ったため、虚ろに街を見下ろしていた宏樹は、不覚にも飛びあがるほどに驚いた。その後、いわゆる「学年指導」に処せられ、もう二度と授業をサボらないことと勝手に屋上に入らないことを誓わされたが、そんな有名無実な誓いはもう宏樹の中には存在していなかった。
 学校で一緒に暮らそう、か……。
 宏樹は閉じていた目を開け、上半身を起こした。胡座をかいて、両手は背中の後ろに持っていき、三点でからだを支えるような姿勢をとる。掌に、コンクリート独特の冷たさが広がり、とても心地良い。屋上で考え事をするときは、この姿勢がベストなのだ。
 亮介って、時々とんでもないこと言い出すんだよな。まぁそれが面白いんだけれど。宏樹は、制服の胸ポケットの裏から、煙草とライターを取り出した。手馴れた手つきで、煙を体内に送り込んでいく。
 煙草を吸うと、からだも脳も落ちつく。考えていた事を一段落させ、宏樹は空を見た。やっぱり眩しかったが、さっき右端にあったうさぎに似ている雲が、今は自分の真上に流れてきた事を見つけ、もう少しだけ空を見ていようと思った。それは少しだけ形を変え、今ではもううさぎとは呼べないかもしれないが、その不器用さがかわいかった。
  煙草の先が、ズボンの上に落ちた。やべぇ、宏樹は右手でそれを落とす。もう幾つ目の焼け焦げだろう。親にバレるのはもう慣れたが、さすがに先生にバレるとやばい。宏樹は右手で、それを丹念に擦りながら落とす。少しだけまだ、熱かった。指が汚れる。親指と人差し指を擦り合わせ、指についた汚れをとる。
 宏樹の右腕にはめられている、黒いリストバンド。あの日から、宏樹はこのリストバンドを取っていない。少なくとも、人前では取っていない。ひとりで煙草を吸っている時には、時々それを取って眺めていた。煙草を吸っていれば、忘れる事はない。あの匂い、あの熱さ、あの色。
 宏樹はゆっくりと、右腕のリストバンドを外した。
 ――あんたが、悪いんだよ――
 それを外せばいつも、蘇る声。しゃがれたような声。女性離れした、低くて深い声。そこに在る物の存在を、突き放すような声。
 母の、声。
 宏樹はリストバンドをはめ、煙草とライターを胸ポケットの裏に閉まった。
 そのときだった。屋上のドアが、開いた。


 ◎


 古谷先生は、背が小さい。授業が終わり白く汚れた黒板を消そうとしても、なかなかうまく消えてくれない。そうなるとわかっているのなら、自分で上の方に書かなければいいのに……古谷先生がぴょんぴょん飛び跳ねる様を見ながら、生徒の間には形にならない団結が生まれていた。
 亮介は実験の結果が書かれたグラフをノートに挟みながら、屋上を見た。ここからは屋上全体を見る事は出来なかったが、きっと宏樹は屋上にいるだろうと思っていた。いつも、なにか考える事があると、宏樹は屋上に行っているはずだ。鍵がないと入れないはずの屋上に、(先生に「悩み事があるので屋上の鍵を貸してください」なんて言ったって絶対に鍵を貸してはくれないし)毎回どうやって侵入しているかはわからないが。
 宏樹だけではなく、他にも悩み事のある生徒や、授業をサボる生徒はよく屋上に足を運ぶらしい。だから、先客がいる、なんてことも時々あるらしく、屋上で普通の友達とは違った「同志」が見つかることもしばしばらしい。なんだかそこらへんにある青春漫画みたいだ。亮介は、少しそれに憧れている自分に恥ずかしくなった。
ああきっと、屋上には、俺達と同じことを感じている「同志」が沢山いるんだろうな。亮介は漠然とそう感じながら、今その場所にいる宏樹のことを考えた。悩みを空に打ち明けるように、あぐらをかいている宏樹の姿が目に浮かぶ。きっと、さっき俺が言ったことを考えているんだろう。亮介は考える。宏樹は、他人から詮索されるのを嫌う。だから、今まで聞いた事がなかったが、きっと宏樹の家庭には何か事情がある。これは殆ど勘だったが、ほぼ確信に近かった。実果とは違う種類の、家庭の「事情」。
 実果とは違う、種類、の。
「やまちー、私達が黒板消してあげるよ」
 そう思った途端、実果の高い声が亮介の耳に届いた。やまち、というのは古谷先生のあだ名で、名前が真知子ということからそうなった。と思う。
 実果と奈央が、先生から黒板消しを受け取る。「ありがとう君達」古谷先生の声が聞こえる。
「南条」
 亮介は席を立ち、実果の腕をつかんでいた。奈央が隣で、驚いたように手の動きを止めた。
「屋上、行こう」
 亮介は、それだけ言った。
「……わかった」
 実果も、それだけ言った。実果の「わかった」は、「わかってる」に酷似している気がした。亮介は実果の腕をつかんだまま、屋上へと走った。


 ◎


「……誰?」
 少女は、言った。少女は、屋上のドアを風に任せて閉め、茶色く染まった髪の毛を、耳にかけた。ゴーダが目の色を変えて叫び出しそうなスカートのから覗くものは、すらりと伸びる細い足。手首には、光を受けてきらりと光るブレスレットが、ふたつ。
 少女の声は、鈴のように凛としていた。
「……人に名前聞く時は、まず自分が名乗ってからだろ」
 宏樹はからだの向きをそのままに、言い放つようにそう呟いた。
「三E。倉田葉月」
「三B。藤田宏樹」
 葉月の凛とした声に、宏樹の低い声が乗っかる。葉月はふっ微笑むと、宏樹の隣にふわりと腰をおろした。そんな葉月を、訝しげに見つめる宏樹。
「なんなの、お前」
「あんただってサボり組でしょ? おんなじじゃん」
「ここ、鍵ないと入れねえじゃん」
「あんたと同じ方法で入ってきましたー」
 葉月の弾むような軽い声が、宏樹には心地よかった。雲の流れが速くなったように感じた。宏樹は、両手を頭の後ろに組み、横になった。誰かが隣にいるだけで、妙な安心感が沸く。ひとりで見上げる空よりも、誰かの隣で見上げる空の方が、深く、遠く、広く見えた。
 葉月は隣で、小さく体操座りをしていた。
「あんたは、どーして?」
「なに、突然」
「あんたはどーして、ここに来たの?」
 葉月の言葉は突然だ。他人からの言葉の意味を噛み砕く癖がある宏樹に、その時間を与えない。他人から詮索されることが嫌いでも、単刀を直入されたら質問に答えるしかない。
「ちょっとな、考え事。おまえは?」
「じゃあ、あたしも考え事」
 なんだよそれ、と宏樹が言うと、いいじゃんそれで、と葉月は笑う。今会ったばかりだが、なぜだか心は溶けていく。まるで、日なたに置いたアイスクリームのような時間だった。
「ねえ、あんた煙草吸うの?」
 葉月の言葉は、やはり突然だ。
「煙草? 吸うけど……なんで?」
「いや、だって匂いしたから。不良だね、あんた」
「おまえだって髪染めてんじゃん」
「それとこれとは別デス。あなたのは触法行為デス」
 こんなふざけたナリの葉月から、「触法行為」なんて言葉が出てきた事に宏樹は驚いた。こいつ、多分、根はしっかりとした奴なんだな。宏樹は店じまいのシャッターのように下りてきた瞼の裏で、かすかにそう思った。
 少しずつ、薄れていく宏樹の思考。かすかにだが確実に、眠りの沼に墜ちていく。誰かが隣にいるという安心感と、この世界に溢れるものすべてを抱きかかえているかのような暖かい空気が、宏樹を包み込んでいるからだった。さっき見つけたうさぎの形をした雲は、もうこの場所から旅立っていた。
 隣にいる葉月は、酷く大人に、そして幼く見えた。葉月の瞳は、空を見ているというよりは、空の向こうにある何かを見透かしているといった感じだった。この世界にある汚点すべてを、洗い流すような、視線。そして、風になびく茶色い髪が、大人っぽさを際立てていた。
 一方で、高い声に子供っぽい喋り方が、葉月の幼さを装飾していた。耳に光るピアスが、葉月の凛とした声をさらに輝かせている気がした。この大人っぽさと幼さを共存させている葉月は、きっと相当な何かを背負っているのだろう。昔、何か大きな傷を負ったのかもしれない。それを他人に気付かせないために、わざと幼く見せているのだろう。宏樹の思考は、もう蜘蛛の糸のように細く、今にも千切れそうになっていた。
 そのとき、錆び付いたチャイムの音が、時の流れを急かすように鳴り響いた。そのチャイムは、この屋上での時の流れをも、止めてしまう。
「あ、チャイム鳴っちゃったね」
「そういえばお前、授業の途中から来たんだな」
「保健室―って言ってここに来た。あたしにとって、屋上は保健室よりも元気になれるとこだから」
 あんた、授業のはじめからここにいたの? やっぱ不良だっ。葉月はそう言って、からからと笑う。だからお前だって不良だから。茶色のクセして。宏樹がそう言うと、なんだと煙草やろう、と言い、葉月はコツンと宏樹を殴った。
「じゃあそろそろ、あたし戻ろうかな。決して不良なんかじゃないマヂメな子ですからっ」
 葉月はからかうようにそう言うと、立ちあがった。葉月の上靴には、かかとを踏んでいるような跡がない。やはり、芯はしっかりとしたやつなんだな、と宏樹は思った。そして気付かなかったが、葉月はかなりの長身のようだ。一六〇後半はあるだろう。モデルのようにすらりとした四肢に、暖かい空気を纏い、葉月の姿はまるで陽炎のようだった。
 やがて、屋上の扉へと歩いていた葉月の動きが、止まった。
「……ねえ、あれ、あんたの友達じゃないの」
 宏樹はがばっと上半身をあげた。俺がここにいることを知っているやつなんて、亮介しかいないじゃないか。扉を、ダンダンと叩く音が聞こえる。宏樹も、扉へと近づく。
 そこには、亮介と実果がいた。右腕にノートやペンケースを抱え、ダンダンとガラスが割れんばかりに扉を叩いている。
「亮介、おまえ何やってんの?」
「入れないんだって。開けろ!」
 亮介の声は、ガラス一枚を挟んだ向こう側から発せられているため、少しくぐもって聞こえた。
「はいはい。今開けますよ」
 宏樹が扉を強く蹴ると、扉は開いた。少し驚くように屋上に入ってくる亮介と実果を、葉月はきょとんとして見つめている。それと同じように、亮介と実果も葉月のことを「これ、誰?」といった目で見つめていた。亮介と実果にとって、葉月のようなナリをした生徒は異色の存在なのだろう。それに気付かずに、当たり前のようにそこに立っている葉月が無性におかしかった。
「……宏樹、このひとは、誰?」
 遂に耐えきれなくなったようだ。亮介が、恐る恐るそう言った。実果は、亮介の背中に隠れるようにして立っている。ああ、もしかしたらこれがいわゆる「同志」なのかもしれない。亮介はうっすらとそう感じていた。
「ああ、このひとは今知り合ったばっかの不良チャン。E組の倉田……なんだっけ?」
「あたしは不良チャンなんかじゃありません。そして名前は葉月です」
「そうそう。倉田葉月。あ、あと亮介、俺、さっき言ってた夏休み学校で暮らすってやつ、参加するから」
 宏樹は、葉月の紹介のついでといった感じに、そう言った。実果が思わず、「え」と言葉を漏らし、亮介の背中から姿を現した。亮介は、「この少女の名は倉田葉月」ということをインプットした後、宏樹の発した言葉の意味をじっくりと噛み砕いた。
「え、今お前なんて言った?」
「いやだから、俺、夏休みのアレ参加するから」
「……まぁ俺らも、宏樹がそれ考えるために屋上行ったんだろうなって思ってここ来たんだけど……なんでまたそんな結論に?」
「なんだよ、俺参加しない方がいいのか?」
「違うって。さっきあんなに嫌がってたっぽかったのに……なんでかなって思って」
 亮介がそう言うと、実果も二回頷いた。葉月は未だ、隣できょとんとしている。
「いや、いろいろ考えてたんだけど……俺もやっぱ逃げ出したくってさ。忘れなきゃいけないけど、忘れちゃいけないことっていうか、いろいろなことから、逃げ出したくなったんだ」
 宏樹はそう言いながら、自分の腕にはめられているリストバンドを横目に見た。皮膚が溶ける傷みが蘇る。母の声が、頭を揺さぶる。
 ――あんたが、悪いんだよ―― 頭の中が、震える。
「……ねえ」
 張り詰めていた糸を、はさみでちょんと切るような、葉月の声。まだ頭の中が整理できていないといった顔で、続ける。
「さっきから話が読めないんだけど、なんの話? 夏休み学校で暮らすとか……さっきから何言ってんの?」
 葉月がそう言うと、亮介がそれを受けとめ、宏樹の代わりに答えた。
「俺達、夏休み、学校で暮らそうって計画立ててんだ。もちろん先生には内緒でな。部活終わってあとは受験だけで、もうこんな環境から逃げ出したくなったんだ」
「私もー。私は親がうるさいから、ほとんど親から逃げ出すって感じなんだけどね」
 今まで葉月に怯えるようにしていた実果が、亮介に代わって続ける。
「それで、そのメンバーに藤田君もいれようって話だよ。ちなみに私は南条実果。よろしくね」
 実果がそう言って右手を差し出すと、葉月はただでさえ大きな目をさらに大きく見開かせた。そして、差し出された実果の右手を力強く握ると、それを上下に激しく揺らしながら、こう言った。
「ねえ、それってあたしも参加しちゃだめかな?」


 ◎


 夏休みは、もう明日となっていた。暑さは日に日に勢いを増し、亮介達の神経に埃を押しつけていく。生きる事にすら、疲労を感じるようになる。去年は冷夏だと騒がれていたが、今年は打って変わって猛暑らしい。全開にされた窓からなだれ込む風は、掌で掴めそうなほどに生暖かい。きっとこの空気を映像化するならば、どろりとした油のような液状のものだろう。
 宏樹は暑さのあまり、学校にうちわを持参している。当然ゴーダが目の色変えてぶつぶつ小言を放ってくるわけだが、宏樹は聞く耳をもたない。(「まぁた文句言い人形がなんかいってるよ」)宏樹の隣に座っていると、宏樹の扇ぐうちわの風が自分にも当たり、非常に心地よい。うちわ禁止令なんて出されたら自分も困るので、亮介はあえて何も言わなかった。むしろ宏樹はうちわ持参の支持を集めようと、「うちわ同盟」たるものを結成し、会員を集めてはうちわに名前を書かせていた。すでに二十人あまりの会員が集まったらしい。当然亮介も実果もその中のひとりだ。その会員の中に、先生がふたりほど入っているところがなんともおかしい。
 そして、その中には葉月の名前もあった。葉月の字は酷く崩れており、ぱっと見ただけでは何が書いてあるかわからなかった。更になぜか「実果の隣」という地雷ともいうべき場所に記名してしまったため、字の崩れが余計目立って見えた。
 あれから、葉月も「アレ」に参加するメンバーとなっている。あれから何度も四人で屋上に集まり、打ち合わせを重ねてきた―――といいたいのだが、四人が集まった時点で打ち合わせは塵を化す。他愛もない話をし、ほとんど毎日のように屋上で騒ぐ日々が続いた。そのうち何人かの「同志」と出会い、アレの話をしてみたが、この話に乗る生徒はなかなかいなかった。あんなに軽軽しく、しかも自分からアレに乗っかった葉月が異常なのだろうか。そんなことも話しながら、亮介達は笑った。
 放課後は毎日、誰もなにも言わなくても屋上に集まるようになった。扉の開け方も宏樹から学び、亮介達は不法侵入を繰り返した。わざと扉を開け、同志を待つ日もあった。そんな毎日の中で、四人の輪はやがて五人となり、六人となった。アレに参加する同志が、もう二人増えたのだ。
「南条、亮介、行くぞ」
 終業式が終わり、通知表が渡され、ざわめく教室の中で宏樹の声がした。顔をあげると、かばんをかついだ宏樹が立っていた。隣にいる実果は成績表を見て重い溜め息をひとつ、ついている。きっと宏樹の声なんて聞こえていないのだろう。
「ああ、行こう。今日が最後の集まりだな」
 亮介がそう言うと、宏樹が「おう」と言い、実果の背中を叩いた。「いったいな! 何なのよ」「屋上行くって」「あ、そっか」
 三人は、屋上までの階段を、思いっきり駆け上がった。長い、長い階段。この息切れの感触が、癖になる。バレー部がオールコートを使用し、バスケ部が筋トレとなった日は、よく階段を駆け上がったりしていた。その感触が、亮介の中のなにかを沸き立たせていた。きっと実果の同じなのだろう。男に負けない脚力で階段を駆け上がる実果の目は、キャンプファイヤーを待つ子供みたいに、きらきらしていた。
 屋上の扉は、もう開いていた。もう来てますよ、という合図だ。三人は我先にと扉からからだを突き出し、屋上にからだを放り投げた。
「ハイ来たー!」
 ぱちぱちぱち、と乾いたような音を鳴らし拍手をする香太。香太の隣には、葉月があぐらをかいて座っていた。「馬鹿じゃんっ」
「矢崎君と葉月、早いね。私達、ホームルーム終わってからダッシュで来たんだけどなっ」
 実果が肩で息をしながらそう言うと、背後から、たんたんたんと軽い足音が聞こえてきた。「浅水じゃない?」宏樹がそう言ったのと同時に、陽菜がひょっこりと顔を出した。短く切った黒い髪の毛が、少しだけ耳にかかる。「こんにちは」
 六人は、中心にある何かを囲むかのように、円を描いて座った。亮介の両隣は、宏樹と香太。目の前には、実果がいる。実果と手を繋ぐように寄り添っている、葉月と陽菜の髪が、風にさらさらと流される。春の小川のように、光の網をつくりながら、風によって流れを変える。
「さて、と」宏樹は一息おいて、
「一学期終わりました――――っ!」
 と、叫んだ。宏樹が通知表を投げ出すと、「終わりました――!」と香太と葉月が叫び、同じように通知表を空へと預けた。亮介がいち早く駆けだし、三人の通知表を開いた。三人とも、似たりよったりの成績だった。「おい亮介、勝手に見んなよ!」香太がそう叫ぶのをよそに、亮介は実果と陽菜にそれを見せる。「まじやばくね?」「うわやっばい特に藤田君!」「高校行けるのかな、それ」
「ハイお前等、好き勝手やってんなー」
 葉月に「お前だろ」と突っ込まれながらも、宏樹は続けた。
「ついに来ました。夏休み! 明日から、俺達の計画が始まるんだ」
 宏樹の声が、深く、低くなった。まるで、張り詰めはじめたその空気自体を、大きく撫でるような、声だった。五人は、激しくなった動悸を抑え、宏樹の声に耳を傾けた。
「今まで夢物語みたいに話してきたことが、明日ついに現実になるんだ」
 自分自身が放った言葉の意味を、自分自身が一番噛み砕いている。宏樹はゆっくりと、自分の言葉を呑み込んだ。その瞳は、明日から新しく広がる道の先を見とおしているようだった。森の奥深くにある湖を見つめる、神のように。視線自体が、全く可塑性を持ち合わせていなかった。
「俺達がこうやって集まったことは、多分偶然とかじゃないと思う」
 宏樹の視線を受けとって、亮介が言葉を続けた。
「俺達は同じこと考えて、ここに集まった。香太とか、浅水や倉田だって、初対面とは思えないほどに、打ち解けた。俺、こういうのはじめてなんだ」
 亮介がゆっくりそう言い一息おくと、五人は同時に頷く。
「今まで型にはまった生活しかしてなくて、こうやって仲間と一緒にレール踏み外すのとか、はじめてなんだ。だから今、すごいどきどきしてる」
「わ、私も」
 亮介の言葉が終わるが早いか、実果が言葉を受け取った。
「私も、こういうのはじめて。今まで親に言いなりばっかりで、もういやだったの。だけどいつまでたっても抜け出せなくて……今年は、がんばるよ。なんか、今までの分、取り戻そうって思ってる」
 実果がそう言うと、陽菜が「うん」と小さく呟き、続けた。
「私……は、病弱で入院とけ結構してて、ちゃんとした友達……親友とか、いなくて、こういう友達ははじめてなんだ。だから今年の夏は、もうからだも壊さないようにして、皆とがんばるって、思うよ」
 亮介は、こうやって陽菜がちゃんと語るのをはじめて聞いた気がした。今までの集まりでも、陽菜は自分から進んで発言しようとはしなかった。なぜ、これに参加する気になったのだろうと思ったことも、あった。だけど、こういうわけだったんだな。まだ友達に慣れていないがために、一歩退いてる部分があったんだ。少し、恥ずかしそうにはにかむ陽菜の言葉を、今度は香太が受け取った。
「おーれーは……あれだよ、家でいても一人だからさ、なぁんとなく寂しかったりとかしてたんだよね。だからこれにも参加しようって思ったんだけどさ。今年の夏は楽しくなりそうだなって思ってマス。ハイ」
 香太は、いや、俺こういう真面目に話す場面とかホントダメなんだけど、と呟きながら、葉月へとバトンタッチした。
 葉月は、自分の右手をマイクに見たて、勢いよくたちあがった。そして、思いっきり息を吸い、
「本気で、青春するから! 嫌なこととか全部、忘れちゃおーぜ!」
 と、叫んだ。
 宏樹は、「オッケー!」と叫びながら拍手をした。葉月は満足そうに座りなおすと、実果が「葉月の言うとおり! 嫌なことなんて捨てる!」と言って、何も持っていない右手で乾杯の真似をした。陽菜が隣でくすくす笑っている。香太は葉月と肩を組み、ブルーハーツの「リンダリンダ」を歌いながら左右に揺れている。亮介は五人を見て、世界が回るということを感じていた。今こうやって皆で騒いでいる時間は確実に流れており、上から見てしまえば今も昔も全て同じだということを。今日が来て、また「今日」が来て今日が巡り、それは全てのものに対して平等だということを。今までの今日が、流れ去ったはずの今日が、今と平等に輝き出すことを。
 亮介は、感じていた。










2 







 夕陽が、揺れている。虹彩を麻痺させるかのような紅色をした光が、街全体を撫でるように広がっていく。光の愛撫が、街の角ばった部分を全て削り落としていくような、そんな錯覚に襲われる。確実に、時の流れを告げているはずの夕陽の傾きが、寧ろ時の流れを忘れさせてくれるほどに、非現実的に見える。ゆらゆらと揺れる光の網が、少しずつ山の輪郭を編みこんでいく。空に溶けていくように、輪郭線をなくしていく山に、烏の影がふたつ、消えていった。
 鞄の重さなど、忘れていた。細い両腕に大きなボストンバッグを抱え、浅水陽菜は、ひとり学校へと歩いていた。なんとなく着てしまった制服にバッグが擦れ、制服には無数のしわが出来てしまった。別に公式な学校行事ではないのだから、制服なんて着てくるんざなかった。きっとみんな、かわいい私服で来るんだろうな。陽菜は、中を見透かすように鞄を見た。どんな着替えを入れたっけ。どきどきしすぎて覚えてないや。
 外灯の光に群がっている虫が、力もなく舞っている。ふわんふわん、となめらかな曲線を描きながら、虫は飛ぶ。外灯の光に時々姿を消されながらも、ぱっと現れ、またぱっと消える。虫の描く曲線を、正確になぞることは出来ない。虫は、陽菜の真っ黒な髪にも群がってくる。うっとうしいなぁ。陽菜は、かろうじて片手を鞄から放し、自分の頭上で掌を動かした。虫は去っていったかのように見えたが、きっとまだふわんふわんと飛んでいるのだろう。陽菜は、自分の頭のうえを見上げた。そこには、二匹の虫と、自分の白くて細い腕があった。
 白く透け、腕の向こうに広がる空の色が見えてしまいそうな、腕。
 ――三日に一度は、必ず来て下さい。そうじゃないと――
 ぼすん、と鈍い音をたてて、ボストンバッグが路上に落下した。陽菜は、自分の右腕を抱き、その場にしゃがみ込んでいた。あの、白い薬臭い部屋での言葉を思い出すと、いつもこうして体の力が抜ける。体の芯をすっぽりと抜かれたように、陽菜は自分のからだを守るようにして、その場に崩れ落ちていた。
 ――そうじゃないと、もたないかもしれません――
 さっきの虫達のように、頭の中で曲線を描きながら飛びまわる言葉達。鼓動の速まりと共に、頭の中が大きな掌でぐちゃぐちゃに掻き乱されていくような感触に溺れた。左腕で、右腕を強く握り締めた。肉の軋みが、聞こえる気がした。
 大丈夫、大丈夫。きっと私は、大丈夫。そう言い聞かせながら、自分の掌が、酷く汗ばんでいる事に気がついた。左掌から涌き出た汗が、右腕にしつこく付着する。陽菜は、制服で汗をふくと、鞄を抱えもう一度歩き出した。重さを忘れていた先ほどとは裏腹に、鞄はとても大きく、そして重く感じた。それを抱え込むように歩く陽菜の背中を、夕陽は先ほどと同じように、やさしく撫でていた。


 ◎


 亮介は、予め開けておいた三つの窓を、順に回っていた。一つ目は、一階の一番西に位置している家庭科準備室の窓。二つ目は、一階中央にある生徒用中央トイレの窓。三つ目は、一回の一番東にある第一多目的室の窓だ。六人で、先生の見まわりの際に死角になりそうな窓を話し合い、そこの鍵を予め開けておいたのだ。昨日の放課後、家庭科準備室を亮介、生徒用中央トイレを香太、第一多目的室を宏樹、といったように分担をし、先生に見つからないように鍵を開けた。この作戦がうまくいかなければ、全ての企みは全く形を無くす。亮介は速まる鼓動を抑え、一つずつ窓を回っていた。
 二つ目の、生徒用中央トイレの窓の鍵は、かかっていなかった。亮介は心の中で、よくやった香太、とガッツポーズをし、待ち合わせとなっている体育館脇の自転車置き場へと急いだ。
 自転車置き場の手すりに、ボストンバッグを置いた。ふう、と大きく息をつき、亮介はその場にあぐらをかいた。自転車は一台もなく、未だかつて見た事の無い自転車置き場となっていた。このボストンバッグは小学生の修学旅行の時使用したもので、昨日の夜、この準備をする際、中から「六年二組 岩崎亮介」と書かれた下着が出てきた時は声を殺して笑った。
 皆は、親にはなんて言って出てきたのだろう。香太は親にいう必要がないからよしとする。きっと、倉田や宏樹も親には言わずに来たのだろう。問題は、浅水と実果……。浅水の家庭事情はわからないが、実果の家はアレだ。すんなりと家を出られるとは思えない。もしかしたら、今日ここに辿り着けないかもしれない。考えれば考えるほどに、現実的な焦りが亮介を襲う。まぁ、といっても俺だってほぼ家出同然で出てきたんだけど。
 今日の夜、母親が仕事から帰ってきたらどれだけ驚くだろうか。広いリビングの中心に位置しているテーブル、の中心に置いてある紙、の中心に書いてある文字。それを見た瞬間、きっと母の顔の中心に位置している鼻の穴は大きく膨らむことだろう。亮介はできるだけギャグタッチにその顔を想像したが、どうしても笑えなかった。
 でも、ま、大丈夫かな。勉強道具は全て鞄の中に入っているし、そのことだって書置きにちゃんと書いておいたし。亮介は、一晩中考えて書いた書置きの内容を思い出した。何度も推敲して書き上げたため、ほぼ全文を暗記していた。「尚、勉強の事については心配しないでください。勉強道具は全て持参して行きますし、家庭にいるときと同じように、いや更に仲間と切磋琢磨しながら……」そこまで思い出して、亮介はもう一度ため息をついた。きっとうちの母親は、成績と内申さえよければ、「岩崎亮介」が息子じゃなくても構わないんだ。だからきっと、勉強さえきちんとしていれば、俺は俺を維持できる。落胆にも似た格言が、亮介の中には存在していた。
 俺の母親は、高校の判定でAを取り、内申点四十以上を持続し続ける十五歳の子供ならばきっと、マネキンだろうが抱き締めるだろう。こっそりと俺とマネキンがすりかわったとしても、気付かないんじゃないだろうか。亮介は空を見上げた。俺はここにいる。岩崎亮介は、ここにいる。大きな声で叫びたかった。俺はひとりしかいない。そして俺は、ここにいる。必死に必死に、こうやって祈りを飛ばさない限り、自分自身をマネキンと見間違えてしまうような気がした。
「岩崎君」
 ふと、頭上から凛とした声が聞こえた。雨が降った次の朝、庭の葉から零れ落ちる雫のように、その声は落ちてきた。それは、あまりにも自然で、ありふれた映像すぎたため、亮介は少し反応が遅れた。
「南条?」
 顎を突き出すようにして、上目づかいで声の主を見た。「声だけで、わかっちゃった?」実果が、はにかむように笑っていた。汗によって、束となり固まってしまった髪の毛を、ピンで綺麗にまとめている。少し闇を帯び始めてきた空をバックに、実果の笑顔は少し眩しかった。
 実果は、「皆、まだ来てないんだね」と言いながら、亮介の隣に腰をおろした。「私、てっきり一番最後かと思ったよ。あまりに荷物が重くって」そういう実果の脇には、大きなスーツケースがあった。「いやお前、重かったっていってもゴロゴロ転がしてきたんだろ?」亮介がそういうと、実果は「バレた?」と言って、いたずらっ子のようなやんちゃな笑顔を見せた。かすかに、星が見える。太陽や雲なんかよりも、もっともっと奥深くで光っているような、かすかな光。「星だ」「きれいだね」亮介がひとりごとのように何か呟くと、実果はすかさず言葉を返してくれる。それは、冬の夜、誰も知らない森に静かに降り積もる雪のように、深くやわらかな時間だった。


 ◎


「ここが、あたし達の家?」
 葉月が、どさり、と乱暴に鞄を置いた。「あたし、保健室より屋上の方が元気になれるんだけどな」ぶつぶつ言いながらも、葉月は満足そうに床へと腰を下ろした。
「俺、保健室なんて来た事ねぇ」
 香太は、俺って健康優良児だからさ、などと冗談ぽくいいながら、ベッドへ飛びこんだ。ベッドの強い弾力によって、香太のからだが跳ねるようにして浮いた。「えっ保健室のベッドってこんなに固いの!」
 実果と陽菜は、もうここは私達の家ですからといった顔で、保健室内を物色しまくっていた。まず手始めは冷蔵庫から。「あ、やっぱなんにも入ってないんだ」「一応学校の備品だから……」「私一応飲み物とかは持ってきたんだ」遠足のようなノリの会話を繰り返したのち、ベッドではしゃぐ香太を横目に他のベッドへと足を運ぶ。「いくつあるんだろ」「三つだ。三人は床で寝なきゃ」「やっぱここはオンナノコがベッドを使わせていただくべきよねぇ」実果がそう言いながら、亮介と宏樹へと向かってあやしく微笑んだ。亮介と宏樹は目を反らした。
 あれから、小さなからだに大きな鞄を抱えた陽菜、本当にそれだけで足りるのかというくらいのサイズの鞄で現れた香太、というように全員が待ち合わせ場所に集まった。宏樹がなかなか現れなかったので、亮介は内心ひやりとしていたがそれを表情に出さないように平静を保っていた。悪ィ悪ィ、と手を振って現れた宏樹を見た時は、一発小突いてやりたくなった。
 亮介は事前に開いている窓を調べておいたと報告し、五人を生徒用中央トイレまで連れて行った。「えっよりによってココ?」という五人の表情を完全に無視し、亮介は鞄を窓から投げ入れ、器用にからだを捻じ込ませた。やはりトイレの窓は狭く、中学生男子のからだでは少し肩幅がきつかったが、からだをくねらせ、なんとかそれを乗りきった。「早く来いよ」とトイレの中から顔を出すと、ちょうど葉月が鞄を投げ入れる場面だったらしく、亮介の顔に鞄が激突した。
 まるで、墓場の奥深くで見つけた廃墟を探検しているかのように、六人は警戒して学校内を探索した。先頭は亮介。亮介の背中に自分の命を委ねるようにして、宏樹、香太、実果、葉月、陽菜と続く。かたん、とどこかで音がするたびに、後ろの女子は飛びあがる。「ははは、なにビビってんだよ。幽霊なんて出るわけねえじゃん」「香太の手震えてるよ」「……」「ていうか幽霊じゃなくて先生かどうかに怯えてるんだよ」
 亮介達は、とりあえず保健室を「家」とした。ベッドもあるし冷蔵庫もあるし、なによりクーラーがあることが決め手となった。(「どっかの教室なんて絶対嫌! なんで休みなのに暑い思いしなきゃなんないのよ」……葉月の発言にはなんともいえない権力がある)ご飯などはいちいち家庭科室まで行って作る事になった。(「しょうがないわね、こればっかりは。ていうか誰が作るんだろう」「女子だろ」当たり前のようにそう言った香太を、実果が睨んだ)
 銭湯の場所を、陽菜が持ってきた地図で確認し、六人はとりあえず一段落ついた、と大きく息をした。濃いオレンジ色だった空は、もう黒いマントをかぶっていた。それは、ピアノの黒鍵のように、鮮やかでクリアな闇だった。全ての存在を切り捨てるかのような、だけれど自分以外の存在をより際立たせるような、そんな色。陽炎のように揺れるかすかな星の光が、窓から家へと小さく降り注ぐ。こんぺいとうのような光の粒が、六人の顔を照らした。
 なぜか、六人は黙っていた。なにを話せばいいのか、わからない。ひとりずつ、暗闇の中に蝕まれていくような感触がした。ひとを象っている輪郭線が闇に触れると、じわりと滲んで消えた。
「……あのさ」
 口火をきったのは、葉月だった。
「夏休みっていっても、先生たちはまぁ割と仕事してるわけじゃん。学習相談日とかもあるしさ。確か、日直の先生が、毎日日替わりで来るんだよね?」
 葉月が確かめるように皆を見れば、香太が怯えたように頷く。
「だったらさ、そういう日直の先生が書いてある表とか、持っといたほうがいいんじゃない? そのほうが絶対動きやすいしさ。ゴーダの日は気をつけろ! みたいな。できたらどの部活がいつ活動するのかってやつも、ほしいな」
「あっ部活のやつは特に必要かも。だって、ブラスバンド部とかいろんな教室使ってパート練習するじゃん? まぁまさか保健室使うことはないと思うけどさ……とにかく、ブラスバンド部は危険だよ」
 葉月の言葉を受けとって、実果がそう言った。そして宏樹が「じゃあ、取ってこようぜ」と言い早速立ちあがった香太の尻をぱちんと叩き、「ここで生活してるときは、そんな勝手に行動すんな。連帯責任なんだぜ」と咎めるように言った。
 ここで生活する。この意味が、亮介のからだにじわじわと染み込んでいく。自分の行動は、全て返ってくる。自分に、そして皆に。ここで生活するということは、自分自身を自分自身が一番見つめなければいけないということだ。授業よりも部活よりも、学校生活の中で学ばなければいけないことが、なによりもこの生活に凝縮されている気がした。
「今日はまだきっと、日直の先生がいるだろ。……あーでも時間的に微妙かもしれないな。三つ開けておいた鍵が一つしか開いてなかったってことは、もう鍵の見まわりは終わったんだよな……じゃあもう日直もいないか。じゃあ、職員室も入れないんじゃねぇか?」
「なら明日でもよくない?」そういう実果に、
「いや、明日になったからといって職員室に侵入できるわけじゃねえよ」
 と、宏樹は独り言のようにぶつぶつと呟く。宏樹って案外、こういう場面ではリーダーに向いているのかもしれない、と亮介は感じた。なんとなく、頼れる。なんとなく、信じられる。そういう「なんとなく」なオーラが、宏樹には漂っている。これはきっと、本人も気付いていない微妙な匙加減によるものなのだろう。
「……あのさ」
 また、暗闇に蝕まれつつあった雰囲気を救ったのは、陽菜の幼い声だった。
「印刷室とかに残ってるかもしれないよ。だって、先生達全員に配るじゃん、日直や部活の表なんかは。てことは、印刷だってもちろんするよね……だから、印刷のときに失敗したやつとか、捨ててあるかもしれないよ」


 ◎


「ていうか、なんで俺……」
 懐中電灯で照らす道の先は、どうしても不安の塊にしか見えない。ひとりごとのように呟きながら、香太は印刷室へと歩いていた。自分自身で言葉を発したりしながら、自分の存在を確かめていないと、この異様な雰囲気に呑まれてしまうような気がした。夜の学校って、こんなに恐いんだな……。
 印刷室は、一階の東奥に位置していた。保健室は西寄りなため、結構な距離を直線に歩かなければならない。意外と小心者の香太は、この話が出たときに絶対俺は行かないぞと心に決めていたのだが、葉月の話があったのち早速立ちあがってしまった身としては、懐中電灯を差し出す実果の手を振り払えなかった。
 徐々に第一多目的室が見えてきた。一番東にある教室だ。もうすぐだ、もうすぐ印刷室に着けるぞ。少しの安堵感と、さらなる不安が香太を襲う。これでもし日直の表がなかったらどうしよう。なんだか俺が悪いみたいだぞ。自分でその場で書いちまうか。……いや、無理。
 やがて見えてきた印刷室の扉から、中を覗いた。真っっっっっ暗だ。暗く狭い場所なので、廊下よりも尚更真っ暗に見える。ピアノの黒鍵の黒さとは違い、どろどろとした墨汁のような黒さだった。あーもう絶対嫌。入るの、絶対嫌なんですけど。
 そんなとき、背中に冷たい風がふいた。ひぃぃぃぃっ。冷静に考えれば、ただの隙間風だということに気付けるのだが、こんな状況にこんな小心者だ。悪魔の吐息だぁと意味のわからない考えが香太の脳内を駆け抜け、香太は迷わず印刷室の扉に手をかけた。逃げなきゃ、絶対逃げなきゃ!
 ガラリ。
 扉を開ける感触は、香太の家とそっくりだった。電気もついていない、真っ暗になった部屋。おかえりなさいの言葉も、もう無い。もう二度と、聞く事は無い。懐中電灯で照らされる、印刷室の一部。そこに映った白い壁が、家の壁の色と重なった。キキキキキ。耳を劈くような車のブレーキ音と、枯れた薔薇のようにして泣く母の涙声が、蘇った。そしてあの日もこうやって、ひとり家の扉を開けた。
 ――香太、ごめんなさい。お母さんは、もう無理です――
 もう忘れたはずだった、ピアスの穴の痛みが、突然ずきずきと悲鳴をあげた。
 香太はゴミ箱をあさった。懐中電灯を口にくわえ、ゴミ箱の中を照らしながら、両手でがむしゃらに紙の山をあさった。その中から、くしゃくしゃになった印刷ミスの表を引っ掴むと、懐中電灯で先を照らさずに走った。保健室へと、走った。





「……なんていうか、この表には本当に「印刷をミスしました」という気持ちが出ているわね」
実果はそういいながら、くしゃくしゃになった紙を丁寧に広げた。亮介がそれを覗くと、そこには黒インクが颯爽と走り去りましたといったような状況が広がっていた。印刷中に、勢いよく紙を横に引っ張ったといった感じだ。先生達の邪悪な企み、いやかわいい悪戯が露になったようで、なぜだか不快な気持ちになる。
「だけど、読めないこともないよ。ほら、今日は指導原だったみたいだし」
 亮介の隣から紙をのぞいでいた陽菜が、今日の部分を指差して言った。おいおいおい、今日は指導原だったのかよ。今日早速見つかっていたら完全に終わりだったな、と、心のうちで亮介は思った。
「なあ、これ見やすいようにちゃんと書きなおして、壁に貼っとこうぜ」
 宏樹は、人ごみの中心にある紙をひょいと持っていってしまうと、早速新しい紙に定規で線を引き出した。不意に紙を持って行かれたときの、「あっ」という陽菜の声がなんだかかわいくて、宏樹はちょっと躊躇ったようだった。そういう、なんでもないちょっとした場面が妙におかしくて、亮介は小さく笑った。「ねー、明日の日直と部活はなに?」「……えっと、日直はやまちで部活はハンドボール。ちなみにハンドボールは中体連まで毎日来ます」
 香太は、印刷室から帰ってくるなり、「これ」とだけ言って表を実果に渡すと、ベッドに寝転がってしゃべらなくなってしまった。両足を投げ出すようにし、両手は頭の後ろに置いている。どこか一点を見つめるような視線と、なんともいえない雰囲気から、誰も香太に話しかけなかった。「本当に幽霊でも見たんじゃないの」からかうようにそういう葉月を、実果が咎めるように見つめた。
 それぞれが抱えているものの重さなんて、誰にも測れない。見る事も出来無いし、きっと一緒に抱え込む事も出来無いだろう。それぞれが、違う大きさの掌に、それぞれの、荷物を抱えている。きっとそれは無駄に干渉していいものではないし、自分としても勝手に詮索されたくないものだろう。だけどこのままでは、持て余していたはずの両手はどんどんそれに蝕まれていってしまい、掴めるものももう掴めなくなってしまう。だけど誰かに頼る事も、出来無い。誰かの両手を蝕んでいい権利なんて、誰も持ち合わせていない。誰とも手を繋ぐ事の無いままに、時は過ぎていく。
「痛い、って誰にも言えない事が、一番痛いんじゃないのかな」
 陽菜が、ぽつりと呟くようにそう言った。陽菜の声は、小さく舞う花弁のように、心地よく鼓膜を震わす。
「誰にも言えない事って、誰でも持ってると思うんだ。もちろん、矢崎君だって。矢崎君は普段あんなに明るいから、尚更誰にも言えなくなってるんだと思う……それってなによりも、痛い……よね」
 陽菜は、まるで自分自身に言い聞かせているようにして、そう言った。陽菜の声が温度をもって、ひとつひとつ香り始める。
「誰にも言えない事、か」
 葉月がそう言いながら、入り口の脇にあるタンスのようなクローゼットのようなものの扉を開けた。案の定、そこには何枚かの薄い布団が入っていた。「床で寝る人は、これで寝るしかしょうがないわね」
 宏樹が、葉月から受け取った布団を床に敷き始める。亮介もそれに続く。動かない香太を見て、「今日は私が床で寝るわ」と、実果も布団を受け取った。なぜだか、誰も何も喋らなかった。
 まるで修学旅行の夜のような、映像だった。布団が並べられており、その周りには大きな鞄が適当に置かれている。今年の五月に行った修学旅行。なにもわからない東京で迷いながらも電車を乗り継ぎ、ディズニーランドまで辿り着いたんだっけ……亮介は、今自分がいる場所が学校だということを、なかなか実感できないで居た。なんだか、みんなでもう一度旅行にでも来ているみたいだ。
「枕はどうする?」「あの中にないの?」「ない」「……今日のところは鞄で我慢しようよ」実果と宏樹の会話を片耳で受け取る。三人は、暗闇の中でごそごそと自分の鞄を探し出し、自ら頭の下にそれを置いた。鞄の中身からくる凸凹が非常に不快だったが、そんなこといってられない。
 薄い布団でからだを包み、天井を見上げる。普段、保健室に来た時にはなんて白いんだろうと思っていた天井も、今は闇に霞んでいる。閉めればいいのに、誰も閉めなかったカーテン。窓から差し込む星、そして月の光が、六人の輪郭線を保っていた。実果の形のいい鼻、宏樹のつんつんに尖った髪の毛が、昼間よりも余計艶っぽく見える。
 月の光の温度は、夕陽の温度とは違っていた。全てを撫でるような夕陽の光とは違い、月の光は全てを浮き彫りにした。闇に隠されていた街の汚れでさえも、平等に照らし出す。光と闇の両極端なものの差が、そのまま美しいものと汚れてしまったものの差を表しているかのように、月の光はとりつく島もない。だけどそれが妙に心地よくて、月に照らされた保健室の角張りが、亮介は好きだった。
「……なぁ」
 ふと、香太の声が聞こえた。少しずつ降りてきていた亮介の瞼は、ぴたりと動きを止めた。
「皆は、何か人に言えない事を抱えて、ここに来たのか? ここに来た理由、みたいなものは、あるのか?」
 香太は、自分自身、一言一言の意味をじっくりと噛み砕いていた。理由。ここに来た、理由。ここに来なければ、自分自身ではどうしようもなかった、理由。
「矢崎君には、あるんでしょう?」
 陽菜の、ハープのような声が聞こえてきた。夜の闇の中で聞く陽菜の声は、子守唄のように暖かかった。
「矢崎君には、ひとりじゃどうしようもなくて、だけど誰にも言えない事があったから、ここに来たんでしょう? さっき、そんな目してた」
 ゆっくりと、ゆっくりと、発される陽菜の声。本当に、ひとつひとつの言葉が温度を持っている。それは空気中に放された瞬間に蕾を開き、ふわりと心地よい空気の波を創り出してくれる。
「水臭いじゃん」凛、と響いてきたのは、葉月の声。
「言っちゃえば? ここに集まったのもなんかの縁だしさ。この際みんな言っちゃおうよ。その方がこれからの生活もしやすいって」
 葉月は言い捨てるかのようにそういうと、自らさっさと話し始めた。
「あたしがこれに参加した直接的な理由は、家族……ていうか、父親なんだ。あたしの父親、ちょっとおかしくって、休みの日とか一日中一緒にいるわけじゃん? そんなのあたしには到底耐えられないから、ここに来ちゃったんだよね。忘れなきゃいけないこともあるし、ちょっと父親から離れようかなって感じかな」
 ハイ、じゃあ次は誰? と言葉を投げかける葉月。「みんな言っちゃおう」といった葉月でさえ、何かを覆い隠しているかのような話し方だった。重要なところが何一つ話されていない。葉月がたくさん言葉を発すたびに、その言葉が余計壁を作っているような気がした。やはり全ては、明かせないのだろうか。
「じゃあ次は俺が言うわ」宏樹が、葉月の言葉を受け取った。
「俺も、言ってしまえば家族が原因なんだよね。俺、こんなナリじゃん? 茶髪ピアス煙草……まぁスキでこうなったわけじゃないんだけどさ。俺の場合、倉田とは違って、忘れちゃいけないことがあるんだ。だけど、あの家族の中に居たらそれを忘れてしまいそうだから、ここに来た。もっともっと、再確認しなければならないことが、あるんだ」
 少し照れくさそうに話す、宏樹の胸の内は酷く新鮮だった。宏樹が他人に、自分自身について話すことを見たことは一度も無かった。しかしやはり、核となる部分を覆い隠していたが、それだけで亮介は嬉しかった。「次は誰だ? 亮介か?」宏樹がそう言うので、亮介は話した。
「言い出しっぺの俺は、もうとにかく全然違う世界に飛び出したかったからなんだ。勉強ばっかの日々、同じ服同じ髪型同じルールでの生活……部活も終わったし、自分自身がどこにいるかわからなくなってたんだ。俺の親は、成績さえよければ子供なんて誰でもいいって考え方だしさ。そんな世界から、思いきって飛び出してみたかったんだ」
 亮介は自分で話しながら、鼓動が速くなっていくのを感じていた。さっき、宏樹が他人に自分のことを話しているのを見て嬉しく感じたが、自分自身、自分のことをこれだけ他人に話したのは初めてかもしれなかった。今まできっと、こんなことを真剣に聞いてくれる人なんていないと思っていた。だけど今は、隣で頷いてくれる誰かがいる。鼓動は、高鳴る。
「じゃあ次は私ね」ベッドから、実果の声が聞こえた。
「私……の父親は、国会議員なんだ。だからなんていうの? いわゆる堅物ってやつね。理想の娘像ってのを、私にぶつけてくるの。学力、成績はもちろん、生活態度、服装、言葉づかい、髪型、礼の角度までよ? もうやってらんないっての。お前がちゃんとしなきゃ、俺は街を歩けないんだ。なんて言うんだから。じゃあ一生引き篭もってろって感じ。今までは頑張ってこれたんだけどね、ちょっとパンク寸前かな。もう、無理……もう嫌なの、あんな生活は」
 自分で話しながら、親への怒りが再び沸いてきたのだろうか。実果の声の蕾は少しずつ開いていき、感情の高ぶりは溢れんばかりに蕾の中へ蓄積されていた。実果は、今までずっと心に溜まっていた何かを言葉にすることで蕾を開こうとしているように、見えた。
「じゃあ次は、陽菜ちゃんだね」実果がそう言うと、陽菜は小さく息を吸った。その呼吸の響きは、ただ淡々と陽菜が生きているということを伝えていた。
「……私は、生まれつきからだが弱くて、昔から入退院を繰り返す生活を続けていたんだ。だから学校も途切れ途切れにしか行けなくて、……友達とか、全然いなくて、毎日がずっと同じだった。楽しい事なんて何一つ無くて、毎日まずい薬ばっかり飲まされて、そんな日々から抜け出したかった。だけど、その日々から抜け出すってことは、私にとっては死を意味してるの」
 陽菜のか細い声が繋がって、一本の線となる。
「一日でいい。一日でいいから、友達と一緒に笑い合いながら過ごす日々が欲しかったの。親は日に日に強烈な過保護になっていって、休みの日になっても私を家から出してくれなくなった。……でも、中学二年生の頃からはからだも安定してきて、学校にも長期間行けるようになったんだ。だから夏休みの期間くらいは大丈夫。親は絶対反対するだろうから、家出同然で出てきちゃった。……たった一日で良かったんだけどね、初めは」
 言葉が点として存在し、そしてその点と点が繋がって線になるのなら、すべての点には意味がある。たった一日が点として存在し、そしてその点と点が繋がって理想の日々を描けるのなら、一日一日は意味がある。
「じゃあ次は、矢崎だよ」陽菜の話が終わり、森の奥深くで息を潜めているかのように重くなった空気を割ったのは、葉月の声だった。それは、香太に何か決意を迫るような、むしろ安心して話すことを促すようにも、聞こえた。
「……俺には」香太の低い声が、闇を切り裂いた。
「俺には、両親がいないんだ。俺が小さい頃に、父は交通事故で他界して……女手ひとつで、母さんは俺を育ててくれたんだ。安い給料で、だけど頑張って切り詰めて切り詰めて、俺を育ててきてくれた。だけど俺は、そんな母さんの苦労も知らずに、非行に走った」
 香太のピアスが、月の光を浴びてきらりと光った。
「ピアスを開けたのは中一のころだった。友達とピアッサーを買ってきて、学校で開けた。痛くて痛くてどうしようもなかったけど、皆には痛くないって言ってたりして……馬鹿だったな。それからはそういうヤツらとしかツルまなくなって、集会にもたくさん出たし薬に手を出したこともあった」
 香太の声の震えが、空気に波を創り出す。それすらも優しく照らし出す月の光が、涙の水面を攫って行く。
「俺は母さんを、何度も何度も警察へ行かせてしまった。補導された俺を迎えに来させる為に。母さんはいつも笑っていた。髪の毛を振り乱して、汚れた作業着で警察まで走ってきた。だけど、落ちるところまで落ちた俺を見て、毎回こう言うんだ。「よかった。香太まで交通事故に遭ったのかと思った」って……安心したように、笑いながら、言うんだ」
 ああ、そうか。亮介は悟った。香太が今まで、許せない、絶対に許せないと感じ、誰にも話すことのなかった事実とは、自分自身のことだったのか。だから今まで誰にも言えずに、全てを背負っていたのか。水面に一石を投じたあと、じわじわと広がる波紋のように、香太の声の震えがゆっくりと保健室を満たす。
「ねえ、でも、お母さんは頑張って頑張って、今まで矢崎を育ててきたんでしょ? 今の矢崎はそんな薬とかやってるように見えないし、補導されるようにも見えないし……これから、これから矢崎が母さんを助けていけばいいんじゃ」
 葉月は、自分の言葉を自分で封じた。気付いたのだ。香太が、一番はじめに言った言葉を。
「……母さんは、もういないんだ。日に日に手に負えなくなった俺を置いて、どこかへ行ってしまった。今生きているか死んでいるかもわからない。俺が仲間とツルんで帰りが真夜中になったとき、真っ暗の部屋の中に置手紙が一枚だけ置いてあったんだ。そこには、「香太、ごめんなさい。お母さんは、もう無理です」……それだけ書かれていた。母さんの服も鞄も写真も何もかも、母さんの存在を示すものは全部、母さんが持っていってしまった」
 香太の声は、淡々としていた。だがそれは、隠しきれないほどに震えていた。それは真夜中の空、薄く千切れた雲の流れに合わせて、見え隠れする月のようだった。香太の視線は天井を越え、闇を見透かしているようだった。その向こうに見えるのは母の幻影なのか、自分の罪なのかは誰にもわからない。
「どうして俺は、こんなことになっちまったんだろう。どこから間違っちまったんだろう。ひとりで家にいると、どうしても耐えられない。見えるんだ、俺には。もうここにはいないはずの母さんが、父の胸を叩きながら泣いている姿が。どうしてあんな子供になってしまったの、あなたのせいよ、って叫びながら泣いている姿が。あの家で一ヶ月もひとりで過ごすなんて、俺には出来無いんだ」
 亮介は、目を閉じていた。瞼の裏で鮮明に思い描かれる、香太の姿。学校が終わり、夜にひとり帰宅しても、家に迎え入れてくれる存在はない。いつも笑っていたはずの母親の、泣き顔しかもう見えない。その感情の痛みはすべて、自分に帰ってくる。もう小さな自分のからだでは、抱えきれない。
 もう、抱えきれない。
「――香太は、大丈夫だよ」
 それは突然だった。突然、宏樹のはっきりとした声が聞こえてきた。
「香太は大丈夫だよ。自分の弱さを自分で認められるやつは、その時点で自分に勝ってんだよ。そんだけ悪いって思ってんなら、これから香太はどうにだって変われる。ほら、人って高く飛ぼうとするとしゃがむじゃん。今香太は、しゃがんでんだよ」
「……私も、そう思う」宏樹の言葉を受けて、陽菜が続けた。
「私は逆に、親が異常なほど過保護だから、親の愛情なんてうざったいなって思うときもあったんだけどさ。矢崎君の話聞くと、やっぱり家族ってかけがえのないものなんだなって思えた。それってやっぱり矢崎君が一番わかってることだと思う。だからこれからはそれを誰かに向けていこうよ。誰か、かけがえのないひとりの人を見つけて、その人と、今度は自分が家族を作っていくの」
 どことなく夢を見ているかのような陽菜の口調は、なぜだか自然と頷いてしまうほどの説得力を持っていた。香太が布団の中に顔をうずめた。亮介はそれ以上、香太を見ないようにした。
「矢崎は、いい父親になれるっしょ!」
 葉月が、学校全体に響き渡るほどの大声でそう叫んだ。からだを横にしているからか自然と腹式呼吸になり、声も酷く大きくなる。
「ちょっと葉月なにしてんの」「いいじゃん別に。こんな時間だったら絶対誰もいないし。実果はやっぱり頭がかたいのね。親譲り?」「あっむかつく。葉月のファザコン!」実果も負けずに大声で叫ぶ。「待ってあたしがいつファザコンだなんて言った?」
 香太は、布団の中に顔をうずめており、表情を読み取る事は出来ない。しかし、かすかに聞こえてくる小刻みな嗚咽と、小さく震える肩の動きから、香太の溢れるような感情は手に取るようにしてわかった。亮介をはじめとする五人はそれに気付いたうえで、自然に会話を繋げていた。誰も香太に対して粘っこい同情の視線を送ることもなければ、頭を撫でてやるようなこともなかった。きっとそれが、一番の優しさだった。
「そろそろ、寝よっか」
 亮介がそう言うと、「はぁい」と言って、陽菜がカーテンを閉めた。月の光が遮られ、保健室は完全な闇と化す。「待って、こんなに真っ暗になると私ベッドに戻れないんだけど」「痛ッ」「ごめん藤田君、今足踏んだかも」そう呟く陽菜の姿がおかしくて、亮介は少し笑った。



















「え、ちょっと待って。なんでゆでたまご作るのに卵割ろうとしてんの?」
香太の声にハッとしたように、実果は手の動きを止めた。実果の手には卵が握られており、その真下には黄色いボウルが用意されていた。ご丁寧にも、卵の殻を入れる生ゴミ入れまで用意されている。
「君は今、サラダを作ろうとしてるんだよねぇ? そしてそのために卵をゆでようとしているんだよねぇ? なのになんでお湯の中に黄身をぶちこもうとしてるわけ?」
 からかうようにそう言う香太の声を、卵を持っていない方の手で振り払いながら、実果は卵をそのままお湯の中へぶちこんだ。「うるさいうるさい黙れ黙れ」小さく聞こえてくる実果の抵抗が、小屋から脱走しようとして暴れるハムスターのように虚しい。
「実果って、そんなに料理できないわけ……女のクセにどうすんのよ、これから」
 開かれた窓から吹き込む風に前髪を躍らせながら、葉月が足を組む。なんだか場違いセレブといった感じだ。
「葉月! 傍観してないで手伝ってよ! あんただって女じゃんっていうかそういう考え方はいけないんだからね!」
 あんただって女じゃん、って自分で言っておきながらその発言はないよな、と宏樹が小さく耳打ちしてくる。頼むから黙っていてくれ、宏樹。それが南条に聞こえていたら俺にとばっちりが飛んでくる。
 案の定、なんかいった? という視線を宏樹と亮介に浴びせた後、実果はトマトを睨みつける。トマトを包丁で切るのは非常に難しい。トマトが潰れる可能性が高いからだ。お願いだ、潰れたトマトなんて食べたくない。ここはしっかりとした角度で包丁をトマトに入れて……潰れた。
「実果ちゃん、貸して」
 今まで、サンドウィッチを作っていた陽菜が、見かねたように実果から包丁を受け取った。(サンドウィッチはもう完璧に出来あがったらしい)陽菜は、実果により酷く不細工になったトマトを器用に切り分け、きゅうりを機械仕掛けのような正確さと速さで輪切りにした。手首しか動いていない、といった感じだ。手首どころか周りの人間が動いてしまう実果とは天と地の差である。
 家庭科室の朝は、毎日かなり騒がしい。ここで迎える朝ご飯も四回目となった今日でも、スムーズに料理は進まない。少量で済む朝ご飯だけでもこうなのだ。夕飯などはちょっとしたイベントと化す。(昨日、実果が作ったハヤシライスはちょっと凄かった。)
 食料は保健室の冷蔵庫で保存されている。しかし、やはり学校の備品ということで、家の冷蔵庫よりかなり小さいため、かなりこまめに買出しに行かなくてはならない。毎週火曜日に安売りをする近くのスーパーに、週一回出向かなければならなくなった。夏なので飲み物も結構必要となり、帰り道はかなりの重労働だ。
 食事以外にも、生活するうえでクリアしなければならない課題は幾つもあった。問題は服の洗濯だ。二日目の夜話合った結果、風呂(学校の近くの銭湯)の帰りに、外にある水道場で服を洗い(もちろん手洗い。こうなると予想していたのか、なぜか洗濯板を持参してきた陽菜の板を皆で使う事になった)それを出来るだけ絞って保健室へ持ちかえり、夜中は室内に干す、ということになった。寝ている時、自分の頭上に他人の服がぶらぶらしていると思うとなんだかやりきれないが、この生活だからしかたがない。
 今までとは違って、何事も自分でこなしていかなければならない。少なくとも、亮介にとっては酷く新鮮なことだった。しかしやはり、いつも自分で家事をしている香太の動きは誰よりも手早かった。料理も出来れば荒い者も素早い。手洗い洗濯のコツまで教えてくれる始末だ。なんということだろう。完全に実果や葉月よりも家庭的である。
 サンドウィッチとサラダ、牛乳とヨーグルトというおなじみの朝食を摂り終えると、皆で洗い物や片づけをし、余った食料を保健室まで持って帰り、冷蔵庫へ保存しておく。亮介は、この後片付けをしている風景を妙に気に入っていた。窓からは朝陽が差しこんでおり、いつもは気にならない窓の汚れが目立つほどだ。心地よい水道の音と蒸し暑い家庭科室で、忙しく動き回る六人。なんだか合宿みたいじゃないか。少しだけ、部活のことを思い出すのは、亮介だけだろうか。


 ◎


 雑音と雑音の間から聞こえてくるようなラジオDJの声が、鼓膜のところどころを揺らす。ラジオのスピーカーを蝕み、その隙間から零れてくるようなラジオの声が、実果は好きだった。なんだか、蝉の声にも似ているような気がする。うるさいほどに聞こえてくる蝉の声とラジオのノイズが混ざり、なんともいえないしゃがれた声が曲の紹介をしている。もちろん、歌声もしゃがれた蝉の声だ。
「ちょっと音量あげてくれる?」「いいよ……えっと、こんくらい?」「ちょっとでかすぎるわよ」「……ごめん」
 陽菜と香太の会話を聞いていると、完全に主従関係が成り立っているように感じる。まるで女王様と家来のように……もしかしてふたりとも、そっちのケがあるのかな。実果は、ふと深く考えてしまいそうになった頭を揺らし、視線を問題集に戻す。集中集中!
 朝食が終わると、六人はそれぞれが持ってきたワークや問題集で、受験勉強に精を出した。家にいると全く捗らなかった勉強も、なぜだかここでやれば苦に感じなかった。陽菜が、新聞もない生活では辛いと言って持ってきたラジオを片隅でかけながら、六人はそれぞれの学習を進める。特に亮介には、香太や葉月などが問題集片手に寄ってくる。「ねえねえ、ここの意味がわかんないんだけど……」
 夏の名曲リクエストとかそういう感じの番組なのだろうか。さっきから、サザンオールスターズの曲がかかることが多い。真夏の果実、チャコの海岸物語……個人的には「希望の轍」をかけてほしいんだけどな、実果が脳裏の隅っこでそう思ったとき、福山雅治の「虹」が流れ始めた。ああそういえば、ウォーターボーイズどうなったんだろう……前までは欠かさず見てたけど、最近は見れないからな。今度葉月や陽菜ちゃん誘って、どっかの教室にでも忍びこもうか。
 クーラーの効いた保健室というのは、学校の中にある個室で一番居心地のいい場所かもしれない。ベッドに敷かれた白いシーツの冷たい感触が独り占めできるのもここだけだし、扇風機に顔をあてて「我々は宇宙人だ」なんてことが出来るのもここだけだ。外とここは壁一枚しか挟んでいないはずなのに、外は全く別世界に見える。ここからなら、ゆらゆら揺れる逃げ水だってすぐ掴めてしまえそうな気がする。
 かりかりかり、と紙面を削り取るような音が、様々な方向から聞こえてくる。まるで、シャープペンシルの芯の先が四角く削り取られた氷の塊を巧みに彫っていき、器用にある形を浮き彫りにしていくようだ。かりかり、かりかり、かりかりかり。ハムスターがくるみをかじっているようにも聞こえる。
 実果は、数学の文章題が好きだった。四行以上の問題文を見ると拒否反応が出るのだが、問題文を読みながら、図を頭で描き、計算式が見事に成り立った時のあの快感は何にも変えられないと思う。ノンストップで二ページほどをやりきり、心地よい疲労感と共に伸びをするのが最高に気持ちいいのだ。あれは疲労感というのだろうか。何時間もかけてジクソーパズルを全て埋めたときのような、何度も何度も練習したピアノソナタを弾ききったときのような、脱力感にも似た疲労感。からだの中にある内臓が全てすっぽりなくなってしまったような、妙にすっきりとした感触。それは、この生活の初日、家から抜け出した時に感じたものと酷似していた。
 なんで今まで、あんな勉強漬けの生活が耐えられたのだろうか。今になって実果は思う。勉強することが苦しくて仕方が無かった日々。真夜中にひとりで歩いた黒い道。きっと私はどこがで、父の求める娘像を必死に追っていたのかもしれない。完成させなきゃ、お父さんの「娘」を。上手に演じなきゃ、「南条実果」を。必死に必死に、道の先に立っている自分自身を、止まらずに走って、いくら息切れしても休むことなく追い続けていたのだろう。だから、走る事をやめた今、勉強する事が苦じゃないんだ。上手に呼吸する方法を、覚えた気がする。
「ねえ、花火がしたい」
 突然だった。葉月が問題集から顔をあげて、ふと思いついたようにそう言ったのは。その声は、かりかりかり、という氷を削るようなシャープペンシルの音と、じーじーじー、という陽炎の揺らぎに拍車をかけているような蝉の声にもみ消されそうになったが、五人は少なからず言葉を受けとめたようだ。並々ならぬ集中力を発揮している亮介は、手の動きを止めさえもしなかったが。
「ねえ、花火しようよ。花火。夏といえば、花火じゃん? しかも今あたしらは自由の身なんだしさ、いつだって花火とか出来るわけ。屋上っていういい場所があるし、夜中にやれば絶対にばれないよ!」
 亮介の止まらない手の動きが、出来るだけ姿を現すような言動を起こさないってのがこの生活の暗黙の了解だ、と息継ぎ無しで言っている。ラジオからは、細い声で平川地一丁目の「せんこうの華」が聞こえてくる。なるほど、葉月はこれを聞いて花火をしたいと思ったのか。
「でもさぁ、ただでさえ姿隠してる身だってのに、屋上で花火とか目立つ事極まりねぇじゃん? やっぱそれって危なくね? バレたらもう終わりなわけだしさ」
 宏樹が、亮介の手の動きを代弁するかのように言う。隣で亮介が、問題集から視線を外さずに頷いている。確かに藤田君と岩崎君の言いたい事がわかるけど……実果は心の中で思っていた。やっぱり少しくらい、そういうイベント的なものがほしいな。ってもうこの生活自体がイベントのようなものだけど。
 葉月の「でも……」という、小さな抵抗を最後にして、この話は終わったかのように見えた。ラジオの曲も、「せんこうの華」から安室奈美恵の「NEVER END」に変わっていた。しかし、
「ねえ、私も花火がしたい」
 という、陽菜の絞り出すような声が聞こえてきた。陽菜の声は、周りの景色に同化してしまいそうな程に、自然に時の流れに乗っかるようにして聞こえる時もあれば、今みたいに必死に必死に出口を探して、そこからやっと音を絞り出したように聞こえる時もある。感情がそのまま声として表れるのだろう。
「まだ言ってるのか浅水。俺達は――」
「お願い。私、一度でいいから友達と一緒に花火ってのをしてみたかったの」
 説得するように喋り出した亮介の声を遮るようにして、陽菜は言った。陽菜の声からは、ただならぬ焦りのようなものを感じた。
「私今までこういう友達みたいなの居なかったし……花火どころか、映画とかただ街へ出かけることもしたことなかったんだ。親もそんなこと許してくれなかったから。だから、お願い。今年の夏が、最後のチャンスかもしれないの」
 陽菜は、問題集から顔をあげていなかった。俯いたままで、まるで自分自身に語りかけているようにそう言った。淡々と、抑揚のない声だったが、そこには陽菜の感情が凝縮されているような気がした。「最後のチャンス」。実果の頭の中には、この言葉がオーロラのようにゆらゆらと漂っていた。しっかりと意味を確認することもないまま、ゆらゆらと。
「しよーぜ、花火」今まで発言のなかった香太が、ふ、と顔をあげてそう言った。
「いいじゃん。花火しよーぜ。夜中にやれば誰も気付かないし。ま、打ち上げ花火はやめといたほうがいいだろうけどな。みんなで円になってさ、線香花火とかしてーじゃん。な?」
 香太はそう言うと、陽菜に首を傾けた。そして、「うん」とはにかむようにして頷く陽菜をみて、満足そうに微笑んだ。今まで見た事の無い、香太のやさしい笑みだった。
 おっ、たまにはあんたもイイコト言うじゃんっ! と言いながら香太の背中をばしばし叩く葉月とちらりと目を合わせ、実果は最後の駄目押しに出た。
「ね、岩崎君藤田君。私もみんなと花火したいな。矢崎君のいうとおり、夜中に学校の屋上見てる人なんていないよ。マッチなら理科室にあるし、バケツだって水道にあるよ。写真とか撮ってさ、五年後とかにみんなでそれ見て笑い合いたくない?」
 ね? と実果が上目づかいで亮介を見つめる。亮介はやっと、問題集から視線を外してくれた。実果とばっちり目が合うと、恥ずかしかったのかすぐに反らし、「あぁわかったわかった!」と慌てたように吐き捨てた。


 ◎


 首に巻いたタオルで、頬を伝う汗をふいた。風が吹いたとしても、その風自体が熱を持っているのだから意味が無い。もう七時を回っているといっても、全く太陽が隠れる様子もなければ気温が下がる見こみもない。むしろ白夜を期待してしまうほどである。銭湯で一日の汗を流したとしても、帰り道に汗だくになってしまうのだから、この生活上の風呂はかなり意味の無い行為といえる。
 すれ違う人々の視線に、いちいち心臓を叩かれる。それが先生や同級生、むしろ家族だったらと考えると、街を歩くだけでかなり恐い。どこかから視線を感じたり、背後から声が聞こえるたびに、心臓はバスケットボールのようにぼこんぼこんと音をたてて弾む。もうドリブルはいいから、早くどこかにシュートしてしまってくれ。その方がどれだけ楽な事か。
 しかも今日は、花火を買う為にどこかの店に寄らないといけない。女子が「やりたい」と言い出したと言うのに、自分で買う気など到底なかったらしい。「じゃあ花火よろしくね」と、微笑みつつ手をひらひらと振りながら、絶対的な存在感を見せるける神の言伝の如く吐き捨て、颯爽と保健室から出ていってしまった。
「どこにすっかな……店」亮介がそう呟くと、宏樹がうちわをぱたぱたしながら「人がいっぱいいるトコはまじ勘弁。あそこのスーパーとかぜってぇ誰かいそう」という。すると、「でも、逆にコンビニとかだったら同級生に合う率高くね? そこ考えたらシケたスーパーのがいいかも」と、香太がTシャツで風をあおぎながらスーパーを顎で差す。どちらの言い分にも納得できてしまう。「……だけど、親に会うより同級生に会った方が言い訳きくべ。コンビニにしたほうがいいって」三人はこれを聞いてコンビニに行く事に決めた。最も、決め手となった部分はこのあと宏樹が呟いた、「コンビニの方がクーラーが涼しいしな」という一言だったが。
 三人はコンビニに入り、出来るだけ長居する。冷たい空気が、三人のからだの輪郭をなぞる。からだの内部が、頭から順にいつもよりも冷たい海の水に満たされていく感じだ。からだ中にこびりついていた汗が、一瞬にして空気中へ放たれていく。
 一番大きな花火を買い、三人はコンビニを出た。突如、シャーベットから蒸しパンになった気分になる。しかも、さつまいも入り蒸しパンだ。
「浅水って、からだ弱いんだよな」香太が、さっきコンビニで買ったアイスキャンディーを舐めながら言う。この暑さでは氷だって歯が立たないだろう。ものすごい勢いで液状と化していくアイスを、香太は大きな口に閉じ込めた。
「うん……そうみたいだな。確かに今まで、あんまり、ってか一回も学校で見た事なかったかもしれねぇ。俺は」宏樹はそう言って、ソレ少しちょうだいと言いながら香太の方に振りかえったが、頬を思いきり膨らませて「頭が痛い!」と叫んでいる香太の姿を見て呆然とした。
「なんか、食後はいっつも薬飲んでるしな。お風呂だって、毎日は入れないらしいぜ。さっきだって、花火のこと最後のチャンスとか言ってたし……」亮介は自分でそう言って、自分で口を噤んだ。いや、この言葉は、そういう意味ではないはずだ。
 それが伝わったのか、三人はもう何も言わなかった。最後のチャンスっていうのは、友達と一緒に花火をするという行為に対してだろう。浅水陽菜という人間の、存在自体の話ではない。きっとそうだ。そんなわけない。
「そんなわけ、ないよ」いつのまにか、アイスを胃の中に流し込んだ香太の声が、静かに響いた。その声は、叫び声を上げる胃の中に冷たいアイスを流し込んだときのように、その空間にたっぷりと浸透していった。そうだ、きっとそんなわけない。だってさっきも陽菜は、笑っていた。


 ◎


 日も少しずつ暮れてきた。濃いオレンジ色にグラデーションし始めた空が、何故だか酷く空虚に感じる。美しいのは、空の表面を飾っている色だけで、その向こうはぽっかりと穴が開いているような、そんな感じ。綺麗に見えるのは、必死に必死に生きている上辺の姿だけで、実は何の意味も見出せずに呆然と立ち尽くしている私のような、そんな感じ。
 陽菜はひとり、保健室の中に居た。今日はお風呂に入ってはいけない日だった。銭湯に行く途中まで葉月と実果についていった陽菜だったが、途中で「じゃあね」と手を振り身を翻した。できるだけひとりにはなりたくなかった。誰かと一緒にいたかった。そんな陽菜の後姿を、二人は申し訳なさそうに見送っていた。
 部屋の隅っこに並べて置いてある、六つの鞄の中から、陽菜は自分の鞄を取り出した。ゆっくりとチャックを開け、中に入っているはずの薬を確認する。出来るだけ皆に見られたくなくて、隠れて飲んでいたつもりだったが、今や五人全員が陽菜の薬の事を知っていた。今日の分は全部飲んだよな、と、残っている薬の数を数えて確認する。三日前まではかなりの量があったはずなのに、もうあと三食分しかない。明日には、病院に取りに行った方がいいかな。
 鞄の外側についているポケットの中にそれをしまい、陽菜は溜め息をひとつ、床に落とす。今、打たなきゃ。陽菜は体勢を立て直し、鞄の底にある二重ポケットの奥から、注射器と液状の薬品を取り出した。薬品を、注射器の胴体の部分に入れ、少しだけ針の先から薬品を出す。よし、大丈夫。一度深く深呼吸をする。空気が、自分のからだの中を走り回っている感触がする。ただ、自分が生きている事を実感する。たったそれだけのことだけれど、陽菜は酷く安心した。大丈夫。大丈夫。
 左腕を、光に照らす。青白く透き通る、陽菜の細い左手首。微かに見える、血が駆ける道の藍。細く尖った注射針を、そこにゆっくりと刺した。腕を走り抜けるような痛みが、薬品が減る量と比例する。全ての薬品を血に紛れさせ、注射針を素早く抜く。酷く動悸の乱れている心臓を右手で抑え、左手にガーゼを貼った。まだ少しだけ、痛みが残っている。何回も何回も、左手首を揉む。痛みが少しずつ和らいでいく。だけど陽菜にはその痛みこそが、自分が生きている証のような気がしていた。
「たっだいまー」
 香太が保健室のドアを激しく開けたのと、陽菜が注射針を鞄の底の二重ポケットに閉まったのは、同時の出来事だった。
「おかえり」陽菜は微笑んだ。「あ、まさか藤田君が持ってるのって……花火?」「おう! 買ってきてやったぜ。女子組は?」「まだ帰って来てないみたい」陽菜はそう言うと、見せて見せて、と宏樹に近づく。
 かなり暗くなってきた。さっきまで橙色だった空が、もう深い藍色に変わろうとしている。そろそろ、先生の最終見まわりが行われる時間だ。亮介がちらりと時計を見た時、廊下から小さく足音が聞こえてきた。遠くのほうから、近づいてくるといった感じだ。葉月と実果だろうか。「おい宏樹、今日に日直誰?」「えっと、待って……亮介は心配性だな、今日はドクター長谷川だから大丈夫だ」宏樹はそういうと、一番多そうなの買ってきたんだぜ、と誇らしげな口調で陽菜に花火を見せ始めた。
 心配性だな、とかそういうことではない。葉月と実果が、見まわりの先生と遭遇なんてことに、ならなければいいのだが……いやでも、この近づいてくる足音が二人ならば心配ないのだが。亮介がそう思った矢先、「あ、あそこにいんの倉田達じゃね?」というのんきな香太の声が聞こえてきた。香太の指差す方向――一階の中央渡り廊下――には、タオルで長い髪をふく葉月と実果の姿が在った。
 待て。亮介の思考が一時停止する。今保健室に近づいてくるこの足音は、実果達のものではない。実果達は今から保健室に歩いてくる。この足音(おそらくドクター長谷川だろう)は今この保健室を通り過ぎようとしている――完全に、邂逅じゃないか!
「やべぇ!」先に立ちあがったのは宏樹だった。「このままじゃ葉月達、長谷川に会うぜ!」宏樹の持っていた花火が、その場に散乱する。だからといって、今保健室から出て葉月達のもとへ走っては、自分達が長谷川に見つかることになる。「裏口から出て中庭を抜けて――」香太が言い終わる前に、宏樹はもう裏口から姿を消していた。陽菜は、口を開けたままその場に座りこんでいる。「香太、浅水を頼む」亮介はそう言って、宏樹と同様に走り出した。
 足には自信があった。伊達に三年間バスケをやっちゃいない。中庭も終盤に差し掛かったとき、亮介はすでに宏樹に追いついていた。ここの角を曲がれば、中央渡り廊下に入る。緊張と、突然のダッシュの為に激しく弾む鼓動が、肋骨を叩いて酷く痛い。間に合ってくれ。我先にと角を曲がった二人の目に飛び込んできたのは、保健室へと続く坂をのぼりはじめた二人の後姿だった。
「止まれ!」
 宏樹が叫ぶ。二人は驚いたように振りかえる。亮介は、中庭と中央渡り廊下の境目にある倉庫のドアを、蹴飛ばして開けた。
「こっちだ!」
 宏樹が二人のからだを乱暴に掴み、倉庫の中へと連れこんだ。亮介は三人のからだが倉庫に入ったことを見届けると、思い切りドアを閉めた。その振動で、中に詰めこまれていたがらくた達の山が音をたてて崩れた。
「なに…どうしたの……?」怯えたようにそう呟く実果の口を塞ぎ、亮介は耳を塞いだ。心臓が痛い。どくんどくん、と早鐘のように動く心臓がからだ中を叩く。厚いドア越しに耳をすます。葉月はそこにしゃがみ崩れていた。そんな葉月に、宏樹が覆い被さるようにしている。心なしか、葉月の肩が震えて見えた。
 今四人が息を殺して潜んでいる、この小さな空間が、世界から切り離されてしまったように感じた。あまりの静けさと緊迫感に、がらくた達の呼吸も聞こえる気がした。そしてそれすらも、うるさく聞こえる。お願いだ、今だけは息を殺していてくれ。
「やだぁ……」突然、宏樹の胸の下で疼くように、葉月の涙声が聞こえた。「やだぁ……やだぁ!」葉月は全身で抵抗するように暴れ、宏樹のからだの下から抜け出そうとしている。まるで小さな子供のように、からだ全体を使って無我夢中で暴れている。「いや……いやだぁぁっ!」男のからだが目の前にある! 男の胸が目の前にある! 男の低い声が耳元でする……!
 ――葉月、お母さんには内緒だよ――
「いやぁぁぁぁっっ!」
 葉月が宏樹を突き飛ばした。宏樹のからだがくらりと歪み、がらくたの山へと崩れ落ちた。ガランガラン。酷く大きな音がする。「葉月!」亮介は、震える葉月の肩を両手で掴んだ。「やだ……やだ……やだぁ……!」葉月の大きな目からはぼろぼろと涙が溢れており、震えの波は尋常じゃないほどに膨張していた。
 実果が葉月の口を押さえた。「…ふっぁ……」声が出ない分、それは動きとなってからだに表れた。肩を掴む亮介の両手を振り払うと、亮介のからだを足で蹴り上げ、実果に抱きついた。実果の胸に顔を埋めながらも、まだ泣いている。「あああぁあ……」その後ろ姿は、敗戦した戦士のように痛々しく見えた。
 コンコン
 ノックの音がした。長谷川だ。一瞬にして、倉庫の中の空気が凍り付くのを感じた。亮介は宏樹に目くばせする。宏樹は小さく頷くと、音をたてないようにゆっくりと鍵を閉めた。実果は、小さな掌で葉月の背中をゆっくりと撫で回していた。「大丈夫よ、もう大丈夫」葉月の耳元でかすかにつぶやかれている声が、細くちぎれそうになって亮介まで届いた。
 亮介は、倉庫のドアに片耳を当てる。相当厚いドアだったが、足音くらいは聞こえるはずだ。長谷川はまだ、その場に立っているらしい。立ち去るような足音がなかなか聞こえない。葉月は、少し落ち着いたようだった。大きく深呼吸するように背中を上下させながら、実果のからだに身を委ねている。それは、彼女が初めて見せた自分の弱い部分だった。
 やがて「気のせいか」という長谷川の声と、だんだん小さくなっていく足音が聞こえた。消えていく足音と比例するように、葉月のパニックは収まっているようだった。もう背中は激しく上下していないし、肩も震えていない。涙は止まったらしい。突き飛ばされた宏樹が、少し呆然としたように葉月を見つめている。
「葉月……?」
 実果が、今まで背中を撫でていた掌で葉月の頬をそっと包み、顔をあげさせた。親指で頬をぬらしている涙をふき、「もう大丈夫だよ」と微笑む実果。それは、今まで見た微笑みの中で一番、安心感を感じるものだった。
 葉月は実果の微笑みを見て、今自分が置かれていた状況に気がついたようだ。申し訳なさそうに宏樹を見て、「ごめん、藤田」と呟き目を伏せた。実果には、「ありがとう」と独り言のように言ったっきり、もう葉月は何も言わなかった。他人には見えない涙が、葉月の目からはこぼれていた。それは葉月の肌を透き通り、感情そのものを濡らしていた。
 四人は、世界から置き去りにされたように、その場から出ようとしなかった。きっと今この空間は、世界の一部分として完全に孤立している気がする。時の流れも、ここの空間だけは避けて通っている気がする。今もし季節が変わったとしても、ここだけはきっと、ずっとずっと真夏の夜であるかのように。
「ごめん、三人とも……ほんとに」
 葉月はその場にしゃがみこんだまま、もう一度そうつぶやいた。それは二人に対して懺悔しているようには見えず、自分に対して自分のしたことを確認しているように見えた。
「……なぁ、お前一体どうしたんだよ? さっきのお前……いつもと全然違ったよ。一体、何があったんだよ」
 宏樹は、その場にあぐらをかいて座り直した。完全に、葉月の話を聞くという前提の姿勢だ。実果も亮介もそれに続く。それを見た葉月は、当たり前のように自分も座り直し、そして、話し始めた。
「あたし……あたし、小さい頃に、父親に犯されたの」
 葉月の声は、いつも凛としている。陽菜の声とは違い、自分の感情を全て覆い隠しているような、凛とした声だ。だがそれは時に、全ての真実を語るとりつく島もない声となる。誰も、葉月の話に相づちを打つことも出来ずに、ただ葉月の声に鼓膜を震わせていた。
「はじめは、そんなこと全然なかった。ただあたしを愛してくれているんだなって想ってた。毎日お風呂に一緒に入って、同じ布団で寝た。あたしのからだを抱き寄せるようにして寝てくれる父の腕は、太くて暖かくて、あたしを安心させるには十分すぎたの」
 無音、だった。葉月が言葉を切る間は、沈黙という音しか聞こえなかった。
「だけど……あたしが十歳になった頃だったかな。お風呂に入ってる時に、あたしのからだの細部まで異様に触ってくるようになったの。あたし、少しずつ恐くなって、だけどやっぱり父の大きな手は気持ちよかったから、何も言わずに過ごしていたんだ。だけどね、ある日の夜中目が覚めて、偶然気づいたの。父は、あたしが寝入ってからは全裸になってた」
 きっと今、雲は時の流れに乗って流れている。だけどここには、時の流れを示すものは、何ひとつとして存在しなかった。
「あたし、恐くなって、逃げるようにして部屋の扉に手をかけた。だけど鍵が閉まってた。後ろにはお父さんが立ってた。あたしの口を押さえて、あたしの上に乗った。汗にまみれた顔をぎりぎりまで近づけて、少し笑ってこう言った。「お母さんには、内緒だよ」って。こう言って、あたしのからだに重なった」
 ひゅう、と風が吹いて、倉庫の扉をかたかたと揺らした。少しだけ目が覚めるような、感覚。
「それからはほとんど毎日のように犯されたわ。お母さんは気づいてた。だけど何も言わなかった。いつも、朝になると首筋に新しい跡をつけてくるあたしを見て、目を伏せるようにして黙り込んでた。朝の食卓はいつものように過ぎていった。だけど、みんなが知っていることをみんなが承知の上でみんなが隠してるのよ。そんな家族……そんな家族、有り得ない」
 葉月の声が、かすかに震えた。それは悲しみからくるものなのか、怒りからくるものなのかはわからない。ただ、寂しさが共鳴していることだけが伝わってきた。実果が、葉月の肩を抱き寄せた。もう一度風が吹いて、倉庫の扉がかたかたと泣いた。
 父親は、ただ自分を愛してくれているんだと感じていた。だけどその愛情は、性欲の塊でしかなかった。
 太くてたくましい指。広い背中。名前を呼ぶ、低い声。頭を撫でてくれた、掌。寄っかかった肩。揺れる髪。からかうように動く唇。笑ったときに細くなる、瞳。
 どれかひとつでいいから、本物の家族愛でいてほしかった。
「…ふっ……う…」実果の肩に身を委ね、葉月はまた涙を流した。今度は、実果のからだに顔をうずめることもなく、全てを明かすような泣き方だった。「……っふ…ぁ……あぁああ…」それはやがて声へと変わっていき、葉月の心の内側を露にする。葉月の涙は、心の内側に溜められており、もうそれに耐えられなくなった心がついに叫び声をあげているかのようだった。感情の全てが、外へ放り出されている。そこにいる誰も、それを拾い集めることなど出来なかった。
「葉月、恐かったんだね、ずっと。我慢してたんだね、今まで……誰にも言えずに」
 実果は、頭を撫でながら言う。それは、葉月を慰めるというよりは、哀しみがこれ以上膨らまないように哀しみ自体を掌で包んでいるという感じだった。
「誰にも言えずに、ひとりで耐えてきたんだね。恐かっただろうね。……ごめんね、気づかなくって。こんなこと葉月自身から言わせて、ごめ」実果の言葉が終わるよりも、それは早かった。葉月は実果の掌を振り払い、涙を散らしながら叫んだ。
「なんであんたがそれを言うのよ? なんであたしのお母さんはそうやって言ってくれなかったのよ!」
 そしてまた、大声をあげながら泣き叫ぶ。まるで子供のように。道路で転んで血を流し、痛みを紛らわすために泣く子供のように。それが泣きやむには、母という存在が子供の傷に治療をしてあげなければいけない。たとえ傷は治らなくても、母親がそこにいるという安心感だけで子供は泣きやむのだ。
 だけどもうここには、バンドエイドしかない。葉月の傷口を塞ぐのは、もう母じゃない。
「葉月、花火しようぜ」
 あぐらをかいていた宏樹が、突然立ち上がってそう言った。一瞬葉月は泣くのをやめた。実果も、ただでさえ大きな目をさらに大きく開けた。
「俺達、この暑い中わざわざ買ってきたんだからよ、やらなきゃもったいねぇじゃん。ほら、やろうぜ」
 野放しになっていた葉月の腕を掴むと、宏樹はよいしょ、と言いながら葉月を立ち上がらせた。葉月はまるであやつり人形のように力無く立ち上がり、骨の抜けたような腕はだらんと垂れ下がっている。
 亮介は立ち上がって、服についた汚れを手で払った。実果もそれに続く。やっと、倉庫の中に時の流れが戻ってきたように思えた。今まで無情に過ぎ去っていた時間を取り戻すかのように、鼓動は駆け抜けるほど速く命を刻む。
「ほら、行くよ」宏樹が倉庫の扉を蹴飛ばした。鍵が吹っ飛び、扉が勢いよく開く。そこには、数少ない星が精一杯に自分を主張している夜空が広がっていた。「絶好の花火日和じゃん!」宏樹はそう言って笑うと、葉月の腕を掴んだまま保健室へと走っていく。亮介と実果は一瞬目を合わせたあと、ふたりに続く。時の流れの上を、逆向きに走り抜けるかのような新鮮な感覚がした。


 ◎


「キレー!」
 陽菜が夜空に両手を広げる。「ここからだと、星がこんなにきれいに見えるんだね!」まるで星空をはじめて見た少女のように、陽菜ははしゃぐ。その様子がとてもかわいくて、香太は「そんなにはしゃがなくても……お前はあほの子かよ」と言いながらもその姿をずっと見ていたいという気持ちになった。
「まずは何からにする?」
 袋から投げ出された花火を手に取り、陽菜が葉月に話しかける。「線香花火や打ち上げもいいけど、やっぱそういうのは最後に取っておきたいよね」きっと陽菜も香太も、葉月の赤い目の腫れには気付いていることだろう。だけどそれに気付かないふりをして、いつも通りに振る舞う二人は、精神的に凄く大人だなと亮介は思う。
「もうはじめはテキトーに取ったやつからやろうぜ! はい、マッチはここ、バケツはここにあるから!」
 宏樹はそう言って、誰よりも早く火をつけると花火から勢いよく火花を散らした。「すっげー!」そう言って、指揮者のほうに花火を振り回す。「ちょっと飛ぶっ火が飛ぶって!」
 宏樹の行動が引き金となったように、他の五人も我先にとマッチ棒を擦り合わす。「よっしゃ俺、五本一気!」「ちょっと岩崎君そういうのもったいないからやめてくれる?」なかなか火がつかない陽菜に、香太が自分の花火の火をあげている。なんだか妙にほほえましい映像だ。
「葉月、一緒にやろ!」実果がそういうと、「うん!」と葉月は答える。そしてやがて、それは黄色いはしゃぎ声へと変わっていく。
 六人がそれぞれ放つ光の色が混ざり合って、夜空へと融けていく。心の中にあった蟠りや悩みなどが、全て火花となって散りゆき、消えていく気がした。光の加減で、ちらちらと見え隠れする笑顔のパーツ。そのパーツの欠片を拾い集めると、何かが完成してしまうような気がした。俺達はまだ、こんな風に未完成のまま騒いでいるのが丁度いい。亮介は深く考えることをやめ、花火を振り回すことだけにからだを使った。
「キャーっ、花火持ちながら走り回るな矢崎っ!」「うるへー、このほうが綺麗じゃんか!」「やっべーあそこで一人しゃがんで線香花火してんのって藤田君じゃない?」「宏樹、適当に取ったら線香花火だったんだ!」「うけるー!」「おい何見てんだよ!」「やばいこっち見たよ!」
 きっと、酷く不器用な子供の傷口を塞ぐのは、バンドエイドだけじゃない。母親だけじゃない。亮介は、そう思った。
「ねえ、打ち上げやろうよ打ち上げ!」葉月が、両手に持った花火を振り回しながらそう言う。
「え、打ち上げるの? 誰かに見られてたらやばくない?」そういう陽菜の顔が、火花によって見え隠れする。
「でもなんか今の気分は打ち上げねぇと収まらねぇって!」香太が、葉月に負けじと花火を振り回す。「おっやるか?」「やるか?」「そこっ、花火の振り回しで張り合わない!」
「ねえ、もういいじゃん、打ち上げよ打ち上げよ!」実果はすでに打ち上げ花火の選択に取りかかっていた。
 亮介と宏樹は顔を見回す。ま、いいんじゃねぇの? 宏樹の顔がそう言っている。亮介の心の中にも完全に、「打ち上げ決定」という文字が既に打ち上がっていた。
「よっしゃー打ち上げるか! 一人一本打ち上げ花火を持てー!」「えっ手で持って打ち上げるの?」「あたぼー!」「恐いって!」「手で持って打ち上げなきゃ打ち上げ花火じゃない!」「どこの世界のルールよ!」
 五人がぎゃーぎゃー騒いでいるうちに、亮介は手頃な打ち上げ花火を六つ選ぶと、手渡しで有無を言わせずみんなに渡していった。女子も気合いを入れたようだ。意外にも一番やる気なのは陽菜で、「大丈夫よ、爆弾じゃないのよこれは」なんて言って実果と葉月を勇気づけている。
「じゃあ、せーのでマッチの火をつけることな?」宏樹がそう言って五人の顔を見回す。五人は、こくり、と頷く。五人全員にマッチ棒と箱が行き渡ったのを確認する。無駄な緊張感が五人を切り裂いた。
「せーのっ!」
 宏樹の声が空を貫く。六人は一斉に、マッチの先を箱の側面に擦りつけた。
























 「なーんであたし達がこんなことしなきゃいけないわけ?」
 葉月が、デッキブラシでからだを支えるようにして立ちながら、首にかけたタオルで顔を拭く。水で湿らせたタオルが皮膚に触れたその瞬間は冷たいのだが、タオルを外すと一気にその水分は蒸発する。本当にそれは一瞬だ。むわりとした夏の熱気は、なによりも絶対的な権力を持っている気がする。
「葉月、そのダル声で不満タラタラ言わないでくれる? こっちまでやる気なくすんだから」
 実果が、大きく息を吐きながら葉月を睨む。「全くあんたはブラシなんだから、雑巾の私に比べれば楽でしょ?」「なによ、婆さんみたいなくせして。最近実果が自然と早く起きちゃってるの知ってるんだから!」「不良!」「ばばぁ!」目の前で,低レベルな争いが繰り広げられる。全く、見ているこっちが疲れてきそうだ。亮介は掴んでいた雑巾を投げ捨てると、その場で大の字に寝ころんだ。じりじりと照りつける太陽の光が、亮介の肌を炙り焼きにする。暑いというよりは、痛いという感触だった。屋上には、影となる物が何もない。「サボってんなよ」上からそう言う宏樹の顔が、逆光で真っ黒なシルエットになる。
 六人は朝から、屋上に出向いていた。夜中中、花火片手に屋上で騒いだ昨日の夜。あんなに、何の翳りもなく騒いだのは六人とも初めてだった。しかし夜が明け、屋上という空間が闇から解き放たれていくごとに、六人は気がついていった。昨夜は真っ白だった屋上のタイルが、花火の焼け焦げでところどころ黒ずんでいることに。
「…きったな……」
 身を洗われるような、神聖な朝陽に照らされながら呟いた第一声は、それだった。昨夜は気にならなかった暑さが、太陽の目覚めと共にからだを浸食していく。海の水全てが一瞬にして蒸発するように、夢から醒める瞬間はあまりにもあっさりとしていた。
 その瞬間、今日の午前中は屋上の掃除ということに決定した。
 香太、陽菜、葉月がデッキブラシを担当し、亮介、宏樹、実果が雑巾を担当した。(「葉月、デッキブラシずるい! 雑巾と交換してよー」「やだね。ジャンケンに弱いあんたが悪いんじゃない?」「不良!」「ばばぁ!」)やはり、思っていたよりも気温はあがり、汚れは落ちない。体力ばかりが順調に削ぎ落とされていく。汗の滴が、皮膚の上を我先にと競いながら駆け抜ける。瞬きをするたびに、汗が目の中に入ってちりちりと痛い。
「ねえ、お腹すかねえ?」
 シルエットと化した宏樹の顔に重なって、太い声がした。香太だ。
「考えてみれば、もう十時近いけど、みんな昨日から寝てないし朝御飯だって食べてないし……これじゃあからだがもたねえよ。一回ちゃんと休もうぜ。な?」これまた逆光で香太の顔は全く見えなかったが、肉体労働によりかなり疲れていることだけはわかった。そして香太の目線が、陽菜の方に向いていることも。
 そうだ、こんな景色も揺らぐ炎天下の中、長時間肉体労働をしていては、陽菜のからだが悲鳴をあげるに決まっている。だけど陽菜は自分から「休みたい」だなんて言えない性格の持ち主なのだ。なぜそれに気がつかなかったのだろう。亮介はからだを起こした。自分自身を情けなく思うのと同時に、香太の洞察力に驚いた。まだ言い争いをしている実果と葉月の姿が、なんだか妙にやるせない。
「おーしみんな休憩! 遅い朝飯にしようぜ」
 亮介は立ちあがり、大きく手を叩きながらそう伝える。「やった!」実果が雑巾を投げ捨て、ひたすらタイルを磨いている陽菜の背中をとんとんと叩いた。「陽菜ちゃん、行こ」実果の声に「うん」と頷き立ち上がろうとした陽菜のからだが、一瞬くらりと歪んだのが見えた。「大丈夫?」「うん、平気」亮介には、そういって弱々しく微笑む陽菜よりも、そんな姿を目を細めて見ている香太の姿の方が気になった。


 ◎


 屋上の掃除は、また後日ということになった。陽菜のからだが、午前中の掃除のせいで弱ってしまったのだ。「薬飲んで、寝ていれば治るから」陽菜はそう言って笑ったが、その微笑みは空気よりもなによりも透き通って見えた。どうしてもっと早く気付いてあげられなかったのだろうか。香太は自分を責めるようにして陽菜のからだに布団をかけた。自分が看病することで、その情けなさをカバーするかのように。
 他の四人は、いつものように勉強をしていた。クーラーをいつもより低めの温度に設定し、部屋を急速に冷やす。その気持ちもわかるが、それによって陽菜がもう一枚布団をかぶったことに気がつかなかったのだろうか。香太は、それぞれの課題に取り組む四人を見て、なんともいえない沸々としたものが沸き上がってきた。今そこでシャーペンを握っている人達と、ベッドの上で目を閉じている一人の少女は、全く違う世界に生きているように思えて仕方がなかった。
 昨日の夜、宏樹と亮介が突然保健室を飛び出したあの日、香太と陽菜は保健室に二人で取り残された。今まで一緒に過ごしてきたとはいえ、二人きりではなかなか会話を交わすことがなかったため、香太は言葉に出来ない気まずさを感じていた。陽菜もそれは同じだったらしい。お互いに一歩を踏み出せず、顔色を伺いあう散歩中の猫のように、二人の間には堅くピンとした空気が流れていた。
 そんな空気を先に崩した猫は、香太の方だった。陽菜の右足近くに、ほんのりと血の染み込んだガーゼが落ちていることに気がついたのだ。
「……ガーゼ、落ちてるよ」
 香太が指を指してそう言うと、陽菜は異常な反応を見せた。ばっと乱暴にそのガーゼを掴むと、そのまま鞄の中へと押し込んだ。「注射も、してるんだ」確かめるように話しかける香太に対して、陽菜は「内緒だよ」とだけ言った。それは本当に他愛もない小さな秘密のようで、だけど密度が高くずっしりと重い約束だった。
「痛くない? 自分で自分に針刺すなんて」
 香太は、その言葉を発しながら、もうその言葉を悔いていた。こんな馬鹿みたいな質問、するんじゃなかった。寂しそうに目を伏せた陽菜を見ると、なぜだかごめんと謝りたくなる。
「痛いよ……すごく。だけど、注射をしないと、私のからだと心はおかしくなっちゃうから」
「……こころ?」香太は聞き返す。
「そう。定期的にこの痛みを感じないと、恐くなるの。私はちゃんと生きているのか不安になるの。からだがおかしくなる前に、不安で心がつぶれちゃうんだ。だから、痛いけど、その痛みが生きていることに等しいから、耐えられるの」
 陽菜の言葉は、必死に必死に自分を説得しているかのようだった。針が皮膚を貫く痛みがないと、不安になる。薬が足りなくなって、死んでしまうんじゃないかと。だから薬を打ち続ける。だから薬を打ち続けている間は、私は生きていられる。必死に必死に、春の小雨の波紋のように広がっていく矛盾を打ち消しているかのように見えた。
 痛みによって、生を感じる。
 痛みに、よって。
「……もっと、違うことで、生きていることを実感できるようにはならないのか? 例えば、楽しさとか嬉しさとか、そういうことでさ。今まではろくに家から出させてもらえなかったり友達もできなかったりで、楽しさなんて知らなかったかもしれないけど、今は違うだろ?」
 香太は、元気づけようと思いその言葉を口にしたのだが、陽菜は余計寂しそうに微笑んだだけだった。
 月が息を潜める小さな小さな空間を、二人の吐息が満たす。静寂が重く、頭が自然と垂れていく。静寂の重さとは反比例するような空間の透明さが、二人が今生きているという事実を鮮明に映し出していた。ただ、深々とそこに存在するという、命。いくら世界が壊れても、決して闇には埋もれない太陽のように、絶対的な存在。輪郭線がないが、確かにそこに存在する陽菜の生は、本当に痛みによってでないと浮き彫りにされないのだろうか。他人には、こんなにも重く感じることが出来るというのに。
 時間が、刻々と足跡を残して去っていく。砂時計のように、当たり前だといわんばかりにさらさらとこぼれていく、陽菜の時間。その砂に埋もれていくように見えなくなっていく、彼女の青白く細い腕。睫毛を伏せ、まるで自分の歩む道の先が見えているかのように、寂しく微笑む。
 どうして鉄の塊が空を飛ぶ時代に、こんなたった一人の少女を救うことが出来ないのだろうか。
 香太は、小さく寝息をたてている陽菜の寝顔に、昨夜の会話を重ねていた。かりかり、かりかり。忙しく走らされている、四人の思考の音が妙に耳障りだ。小さく上下する胸には、生を感じ取ることは出来ないのだろうか。今からだを休めているという状況に、生を感じることは出来ないのだろうか。
 出来るはずだと信じていても、自分でそれを見つけてあげることのできない無力さが、香太には妙に腹立たしかった。こんなことなら、自分が実感している生の感触を陽菜にもわけてあげたいと願った。だけど、それすらも叶わない情けなさは、生の感触を完全に凌駕していた。


 ◎


 気付けば、冷たい冷たい廊下をひとり、陽菜は裸足で歩いていた。そこは、学校が全て凍結し、白く塗り替えられてしまったかのような場所だった。廊下は酷く長く、先に何があるのかはわからない。光が見えるわけでもなく、闇を感じるわけでもない。ただ氷のように清潔な白が、永遠に続いているような空間だった。
 歩く度に、ぺたり、ぺたり、と足の裏が吸い付くような音がする。後ろを振り返ると、一歩一歩の足跡が連なっていた。陽菜はかなり体重が少ないので、足跡もはっきりとはしていなかったが、それは確かに存在した。なんなのだろう、この床は、固まりかけのセメントのようだが、独特の気持ち悪さを感じない。もしかしてゼラチンかな。いや、そんなわけはない。
 歩いていくと、やがて、脇に見覚えのあるドアがあることに気がついた。なんだろう、このドアは……私、このドア絶対知ってる。見覚えがあるどころか、これは私の家のドアだ。なんでこんなところに、私の家のドアが設置されているのだろう。陽菜は疑いながらも、扉に手をかけた。鍵はかかっていなかった。
 少しだけドアを開け、隙間から中を覗いた。そこには、陽菜の家のリビングが広がっていた。実際は、玄関がありリビングに繋がるドアがあるのだが、ここではいきなりリビングがある。いつも食事をするテーブルに、陽菜、そして陽菜の母親と父親が向き合うようにして座っている。自分が、そこに座っている。実に奇妙な光景だった。もしかして私、幽体離脱とかしちゃったのかな。時計の針は、五時半を指している。そんな朝早くから家族が顔を合わすことはないから、きっとこれは夕方の五時半の光景なのだろう。自分をとりまく環境を、客観的に自分が見て冷静に分析している自分がおかしかった。いや、なにを言っているんだろう私は。
「多分、思い出を作れる体力が残ってる夏休みが、今年が最後だと思う」
 両親と向き合っている方の自分が、何か話し出した。陽菜は思い出していた。このせりふ、このシチュエーション。これは、私がこれに出発する前日の夜だ。
「だからお願いします。今年の夏休みだけは、私を自由にして下さい」
 「私」が、頭を下げた。
 どうして、今この場面を私は傍観しているのだろうか。陽菜には全く理解できなかった。きっとこの世界は夢の中だろうということは漠然と悟っていたが、その内容を見せる理由が見あたらない。ただ、陽菜自身も忘れかけていた皆に偽っていた部分が、剥き出しになって心に浮かびはじめていた。胸に、ちくりと針を刺すような痛みが走る。陽菜は家から飛び出すと、長く冷たい道を踏みしめた。
 陽菜は今、家の玄関を背にして立っている。家の向かいには、陽菜が通っている病院が立ちはだかっていた。おかしい。病院には車で三十分以上かかるはずなのに、やっぱりこれは少し異常な夢なのだ。
 陽菜は導かれるように病院へと進んだ。足の裏に染みわたる冷たさが、少しだけ懐かしい。重い扉に手をかけ、ゆっくりと病院の中へと入る。すぐそこに位置している診察室から、(本当の病院ならこんなところに位置していない)陽菜の担当医の声が漏れてくる。聞き慣れた低い声。担当医、岡野医師の声は、淡々としており事実だけを正確に伝えるロボットのようだ。陽菜は足音を潜め、診察室と廊下を隔てている扉に耳を押し当てた。先程より鮮明に、岡野医師の声が聞こえてくる。
「三日に一度は、必ず来て下さい。そうじゃないと……」
 陽菜は瞬時にして、扉から身を離した。鍵をかけて閉ざされていたはずの鼓膜を、ゆっくりとノックする、必死に必死に忘れようとしていた言葉。蓋をしてしまっておいた筈の記憶が、突然勢いよく脳裏で爆発した。水風船のように、それはぱしゃりと音をたてて脳内を一瞬にして染め上げた。
「そうじゃないと、もたないかもしれません――あなたの身体が」
 扉から耳を外しても、岡野医師の声は聞こえてくる。陽菜は、耳を塞いで病院から駆け出した。左腕の注射の跡が、今になって痛み始めた。病院の重い扉を思い切り開け、冷たい道へと飛び出した。
 果てしなく広がっていた筈の道は、そこには存在しなかった。陽菜はそのままブラックホールのような空間へと落下した。岡野医師の言葉が、からだ中に張り巡らされている毛細血管を駆け抜ける。血液がうまく流れない。陽菜は、墜ちていく意識の中で、自分のからだの機能が止まったことをうっすらと感じていた。


 ◎


 寝汗により、からだ中がべたべたに濡れていた。からだの下に敷かれているシーツですら、汗によるシミで不快な模様を描いていた。夢から醒めた、というよりは、夢の世界から抜けだした、という達成感にも近い妙な感覚が、陽菜を包んでいた。寝ていた筈なのに、なぜだか体力がかなり消耗されているように感じる。だけどその疲れも、爽快さに似た妙なものだった。
 時計を見ると、もう八時近かった。保健室に誰もいないところから考えて、皆は今夕食を摂っているのだろう。いや、銭湯に行っているのかもしれないな。どっちにしろ、私を寝かせておいてくれたのは皆の優しさからだろう。冷房もつけたままにしておいてくれている。からだを撫で回す羽根のようにスイングする風が、汗の粒子を空気中へと飛び立たせてくれる。寒いというよりも、冷たいといった感覚だ。
 冷たい、と思った途端、足の裏が妙に気になりはじめた。あの冷たい道の上を歩いた感触は、まだ鮮明に感覚器官に残っている。岡野医師の声も、今さっき実際に耳にしたかのように、大きさや音程まで鮮やかに蘇ってくる。何だったのだろう、さっきの夢は。そう考えながら足の裏を掌で撫でてみる。掌の体温で、ゆっくりと足の裏を温めた。血の流れている人間のぬくみが、深々と伝わってくる。
「ただいま。浅水、起きたか?」
 がらりと保健室の戸が開かれ、亮介がひょっこりと顔を出した。首に巻いてあるタオルから見て、もう銭湯に行ってきたのだろう。亮介に続いて、宏樹と香太も顔を出す。「涼しー!」「やっぱ冷房だな」そんな会話を聞いていると、まだ夢心地だった意識が完全に現実世界へと帰っていくのを感じた。
「かなり寝てたんだな、お前」
 香太がそう言いながら、「ほら、これ」といってコンビニの袋を差し出した。中を覗くと、大きめのフルーツゼリーが入っていた。「俺が具合悪くなった時とか、おふくろが絶対買ってきてくれたんだ。だからお前も食えよ」そういう香太に陽菜は「うん」と頷くと、「ありがとう」と伝えた。何気ないやりとりだったが、それはとても微笑ましい様子だった。
「浅水、腹減ってない?」そういう亮介に、陽菜は首を振る。
「実はお前分の夕食もちゃんと作ったんだけどさ……今日作ったの、南条と倉田だろ? だからかなりスゴくてさ……食べたらお前の体調もっと悪くなるかもしれないと思って、処分しちまったんだ。腹減ってないなら、よかったよかった」からからと笑う亮介の背後には、銭湯から帰ってきた実果と葉月が立っていた。
「私達だってがんばって作ったのよ!」「文句言うなら食わなきゃいいじゃん」「そりゃちょっと下手だったかもしれないけどさ」「作ってもらってるんだから感謝くらいしたらどう?」「もう明日からは男子に作ってもらうからね」「まずかったら承知しないよ」
 弾丸のように発される実果と葉月の言葉に、亮介は見る見るうちに萎んでいく。「女の子も気持ちだってわかれっての、ねえ?」腕を組み憤慨している実果の姿が妙にかわいくて、陽菜は少し笑った。
 香太は、陽菜の注射の件をまだ誰にも話していなかった。別にこれからも話すつもりはなかったし、意識的に秘密にしているつもりもなかった。ただ話したところでなにも状況は変わらないからだ。現に、陽菜は今普通に元気だし皆だって普通に接している。不器用な同情を抱き接される方が、陽菜は嫌だろう。だから香太も、注射のことは知らないように振る舞っていた。だけれど、あの夜交わした会話の内容はどうしても忘れられなかった。
 ――痛いけど、その痛みが生きていることに等しいから、耐えられるの――
「ねえ、さっきから藤田なにもしゃべんないけど……どうしちゃったわけ?」
 葉月が、冷蔵庫から取り出したポカリスエットを飲みながら、顎でくいくいと宏樹を指す。宏樹は、冷房をつけているにも関わらず窓をあけ、そこから腕をだらりと垂らしていた。夜空の星を見上げるわけでもなく、地に咲く花を見つめるわけでもなく、ただ夜という空間の状態に視線を泳がせていた。闇を泳ぐ粒子の動きを監視しているかのようにも見えた。
「……別に」
 宏樹は、ぶっきらぼうにそれだけ言うと、夜という状態を監視し続けた。葉月は、「そう。ならいいけど」と冷たくあしらうとポカリスエットを勢いよく胃に流し込む。別に、って、一体何が「別に」なんだろう。どうしたの、と聞かれて別に、と答える。何の答えにもなっていない気がする。
「ねえ、私ずーっと思ってたんだけど、インターネット使えないのって辛いよね。テレビも見られないわけだし、まぁ教室行ったら見られるけど、ラジオだけじゃ情報収集しにくいし。実はマスメディアの中で一番、ネットが世界のニュースをより早く配信してるんだよ。映像ないけどテレビよりかなり早いよ。だから、パソコン室って使えないかなぁ」
 葉月からポカリスエットを奪いながら、実果が言う。「ちょっ取らないでよ!」「いいじゃん分け合って飲めば。そういう考え方出来ないわけ?」実果が葉月の手を振り払う。亮介も、この生活に入る前では完全なるネット中毒者だった気がする。毎日なにかしらのサイトにアクセスしなければ落ち着かなかった。実果のいうように、ネットは情報の出回りが非常に早いため、情報収集にも酷く役に立つ。それが使えないのは確かに不便だけれど、実際ネットを使えない生活が始まってみれば、なんてことない。
「ていうかあたしは、ネットとか携帯メールとか、そういうのぶっちゃけ反対なんだよね」
 葉月が、「ほら、返しな」と言って無理矢理ポカリスエットを取り返す。そして、これ見よがしに残りわずかだったポカリスエットを一気飲みした。「うわっちょっと馬鹿! 葉月なんてポカリ飲みまくってポカリに溺れて死ねばいいんだ!」
「チャットとかメッセとか色々あるけどさ、やっぱ顔と顔を合わせて会話するのが人間じゃん。フェイストゥフェイスっていうの? よくわかんないけどさ」亮介は、葉月の語りを聞くとよく思う。葉月の言うことは非常に筋が通っている。そしてなぜだか、かっこいい。
「でも、チャットはチャットの楽しさがあるよ? 全然知らなかった人とも出会えるし、実際に顔見たら話せないことだって、チャットだったら軽く話せちゃったりもするよ?」実果が空っぽになったペットボトルを恨めしそうに見ながら、言う。
「何かそれって嘘に聞こえる。面と向かって言えないことをさらっと言えるってことは、その言葉の意味自体が軽くなっちゃってる気がするんだよね。やっぱ会話ってのは、相手の目を見てすることなの! だからあたしはメールも嫌い。電話もあんまり好きじゃない。最近はさ、皆メールで告白して付き合ったりとかしてるけど、そういうのって絶対ありえない気がする。軽いよ。好きって言葉も、それを受け取っちゃった方もさ」
 ばしっと言い切る葉月に対して尊敬に眼差しを送ると共に、亮介は視界の隅に宏樹を捕らえていた。今の葉月の言葉にだけ、宏樹の背中は微妙に反応した。少し耳を傾けるようにからだをずらした宏樹は、葉月の言葉を聞き終わるとまた同じ体勢に戻った。
 はいはいすいませんねえ、もう二度とネットしたいだなんて言いませんよ、実果はおばあさんみたいにそう言いながら、冷蔵庫を開けた。あーフルーツゼリーがあるーと感嘆の声を漏らしたが、すぐにそれは香太の買ってきた陽菜へのゼリーだということに気がついたらしく、スプーンと共にゼリーを陽菜に渡す。いいよ、一緒に食べよ? という陽菜の呼びかけに、実果はありがとうと即答し、ふたりでゼリーをつっつき始めた。
 窓の外にだらんと垂らしてある宏樹の手に、携帯が握られていることには誰も気がつかなかった。


 ◎


 薄っぺらだってことは、始めから知っていた。あいつが俺を、そして何よりも俺があいつを真剣に想っていなかったことくらい、始めから気付いていた。だけどこうでもしなければ寂しさは埋められなかったし、行き場のない感情は空をさまようばかりだった。宏樹にはそれが耐えられなかった。
 宏樹の隣にはいつも、女の影があった。いつだったろうか、中一の頃だったろうか、初めて女に告白されて初めての彼女が出来たのは。そのときは、実際に呼び出されて告白された。名前も知らない他のクラスの女子生徒だった。宏樹もそのころは、告白に対して心臓を激しく動かすという純粋さを持ち合わせていたため、どもりながらもオーケーを出した記憶がある。
 そして、これが過ちだったのかどうなのかは、わからない。その子とは三ヶ月くらいで別れた。向こうが、他に好きな人ができたという。子供心ながら(今でもまだ子供だが)勝手だな、と感じたのを覚えている。そしてこれが人生初の「振られ」経験であり、今までの彼女の中で一番長く続いた恋愛だった。
 それからというもの、「彼女が居る」という肩書きに甘い密の味を覚えた宏樹は、代わる代わる「彼女」をつくっていった。まるで回転寿司のように、選び取っては消化し選び取っては消化していった。女は途切れることなく、宏樹のもとへと流れ込んでくる。もうほとんど一夫多妻制といった感じだった。そんなことを繰り返すうちに、宏樹は女の対して心臓を激しく動かすという純粋さを見失った。
 時折、そんな自分を酷く虚しく感じることもあった。あるべきはずの感情が、あまりにも薄っぺらくなりすぎてもう立っていられなくなることもあった。そんなときは、言い寄ってくる女達を全て切り捨てていった。「藤田君はすぐあたしのこと忘れるだろうね。だけどあたしもすぐ忘れるよ」何人目かの彼女に言われた言葉が、今でも胸に痛い。
 だけれど、自分の周りにいざ誰もいなくなってみると、今まで存在していた支えが全て取り払われ、またうまく立っていられなくなる。からだ中に溢れる寂しさが重すぎて、バランスが取れなくなる。誰かに、その寂しさを委ねたくなる。そうしてまた宏樹は、自分の周りに支えを立てていく。まるでそれは薬物依存者のようだった。もう宏樹は、ひとりでは立っていられないのだ。
 窓の外に垂れている右手に握られている、携帯。今の彼女とお揃いで買ったシルバーのストラップが、月光を浴びて凛とした輪郭線を魅せる。22:27と示されている、携帯の画面。もう寝てしまった五人を背後に、宏樹はまだ夜を監視し続けていた。誰も起こさないようにと、マナーモードに設定された携帯が、ぶるぶると寒そうに震えた。
 会えないんでしょ。夏休み中。だったらもう、別れようよ。あたしはいいから。
 白く光る画面に映し出されている、細く黒い文字が、闇に融けそうになる。いっそのこと、融けてしまえばいいのに。一瞬にして、多大なる寂しさが宏樹を襲う。寂しさ、なのかこれは。空虚切なさ情けなさ、苛立ち嫌悪焦燥感。胸の中にあるものすべてをむしり取られるような、からだの内部が今にも飛び跳ねだしそうな感触。一体俺は、どこから間違ってしまったのだろう。浮かび上がるものは疑問詞ばかりで、返ってくる答えも疑問詞ばかり。どうして。どうして。なぜ。どうして。
 携帯を握っている右腕。に、しっかりとはめられている黒いリストバンド。夜の闇に消えてしまいそうに、黒い繊維と空気は手を繋ぎ合っている。融けてしまえ。全て。融けて無くなってしまえ。こんな自分なんか。まるで痛みのように、脳裏を走り抜ける声。リストバンドを見ると、必ず蘇ってくる母の声。
 ――あんたが、悪いんだよ――
 もうなにも、わからない。
「……宏樹?」
 突然背後から、声がした。それは本当に不意だったため、飛び上がるほど驚いた宏樹だったが、肩を少しだけびくつかせるということでその驚きを必死に鎮圧した。
「まだ起きてたの、お前。しかもずっとこの体勢で」ははっ、と太陽の光を浴びて乾いた大地ように笑いながら、亮介は宏樹の隣にあぐらをかいて座った。そして宏樹と同じように、両腕を窓からだらんと垂らした。なるほど、これは楽な体勢だな、と亮介は思った。
「宏樹、お前、今日の夕方からなんかおかしかったろ。倉田が話しかけても妙にぶっきらぼうでさ。なにかあったんだ、って見え見えだって」あれ、お前ここに携帯なんか持ってきてたんだ、宏樹の握っている携帯にようやく気づき、亮介はすっとんきょうな声をあげる。皆が背後で寝息をたてているというのに、亮介は声のトーンを下げようとしない。
 ほら、何があったか話してみ? 亮介はそう言うと、ツンツンに立たせてある宏樹の髪の毛を怖々と撫でた。「やっぱりちくちくする」そう言って手を引っ込める亮介の姿が、なぜだか妙に幼く見えた。
「俺さ、新しい彼女出来たって言ったじゃん。お前が篠原真衣と別れたときに」懐かしい名前が出てきたな、と亮介は舌を巻いた。
「その彼女と、今さっき別れたところ。わけアリで夏休み中は会えないってメールしたら、じゃあ別れましょう、だってさ。今まではあんなにくっついてきたってのに、去り際だけ妙にあっさりしやがって」
 宏樹がそうやって憎まれ口を叩けば叩くほどに、宏樹の空虚さのようなものが強く伝わってきた。そうやって台詞を吐くことで、自分の心に空いたぽっかりとした穴を、必死に埋めているように見えた。
「そーんなことであっさり別れようって言われて、別れちゃったわけ? そんなのはじめから愛なんてなかったんだよ、絶対そう。女なんてそんなもんよ」
「や、いきなりそんな事言わなくてもいいんじゃないの葉月」どさり、と宏樹の隣に腰を下ろす葉月と、亮介の隣に座りこむ実果。突然の登場だったが、なぜか二人の登場は酷く必然に感じた。「お前ら、起きてたのかよ」亮介がそういうと、「あら、矢崎君も陽菜ちゃんも起きちゃったわよ。二人とも声でかいから」と当たり前のように答える実果。言い終わるが早いか、ぱっと保健室の電気が点く。後ろを見ると、陽菜が眠たそうに目をこすりながら電気のスイッチを押していた。
「まじかよ」そう呟く宏樹の背中をばしばしと叩きながら、「まぁまぁ、この際皆に話しちゃおうぜ!」と酔っぱらいのようになだめるのは香太だ。「ほら、丁度人数分の缶ジュースがあることだし、今日はぱーっと飲みながら語り明かそうや」ばふん、と冷蔵庫の開く音がする。陽菜が細い腕の中に六本の缶ジュースを抱え、よたよたと五人の元へと歩み寄ってきた。
 実果の「こんな窓際で六人固まってるのもなんだし、ちゃんと中央に集まろうよ」といったのがきっかけとなり、六人は誰のかもわからない布団の上で、円になって腰を下ろした。それぞれが右手に一本、缶ジュースを持っている。まるで修学旅行の夜恒例の暴露大会のようである。宏樹にとってはほとんど暴露大会同然だったが。
「今日のテーマは恋愛、だね!」実果がそう言って、プルトップを開けた。ぷしゅっと爽やかな音がして、しゅわしゅわと泡が水面で弾ける音が次々と聞こえてくる。実果に続き、五人はそれぞれプルトップに手をかけた。開かない、と嘆く陽菜のものは、香太が代わりに開けていた。
「で? なんだっけ、わけアリで夏休み中会えないっつったらソッコー振られたんだっけか?」
 葉月の言葉には、遠慮がない。だけどそれは確実に真実を射抜いており、こっちも遠慮というものを捨てきれるため、鶴の一声にはもってこいの人材だった。「それってやっぱ軽かったんだよね、はじめっからさ。別れの言葉がメールなら始まりもどうせメールだろ?」
「でもさ、私思うんだけど、女の子にとっては「わけアリ」って言葉もちょっと気にかかったんだと思うな」葉月の棘の角張を、少しずつ削ぎ落として行くかのような声で、陽菜が控え目に意見を言う。「そこにちゃんとした理由があれば、まだましだったのかもしれないよ。わけアリって聞くとついよからぬ方向へと考えちゃうじゃん」よからぬ方向。その言葉のニュアンスがなんだかおかしくて、亮介は苦笑する。
「女子って、どんなちっさい言葉でも深く意味考えてさ、気にするよな」香太はシーシーレモンに口をつける。「あれってかなり迷惑なんだけど。こっちはそんなつもりで言ったわけじゃないのに、勝手に被害妄想されてもなぁ」そんな香太に実果が噛みつく。「被害妄想じゃないよ、女の子は皆デリケートな生き物なの。常にひとりじめしてないと、不安になってしょうがないのよ」実果の言葉に、ああ、男でもそれはある、と亮介は頷いた。
「ただでさえ被害妄想癖のある女の子に対して、メールで始まりや終わりの手段をつくるのはどうかと思うよ。女の子に対してだけじゃないけど」葉月はどうしても、メールや電話など面と向かわないものが許せないらしい。何度か、宏樹の握っている携帯を嫌そうに流し見る。もしかしたら返事が来るかもしれない、と握っている宏樹の掌が、汗ばんでいる。
「あたし、今になって本気で思う。携帯電話のない時代に、青春時代を送りたかったな。皆誰かとしゃべってても、他の誰かとメールしてたり、携帯にばっかり振り回されてる。メモリの数が友達の数で、代金の量が遊んだ多さ? ほんとに、もったいない。あたし達の時間ってなんなんだろうって思う。そんな電子機器に時間を左右されまくるのって、ばかみたい」葉月の言葉は鉛のように重い。だけれど痛くはない。じんわりと言葉の重さが浸透していく。宏樹の握っている携帯が、宏樹の汗で壊れてしまわないかと心配になる。いや、いっそ壊れてしまった方がいい。壊れてしまえ。葉月の視線は鋭かった。
「というか、大前提として最近の恋愛は軽すぎると俺は思うね」ここで亮介もこの戦争に参戦した。「俺の友達でもいるんだけど、なんやすぐ付き合ってなんやすぐ別れてさ。一週間や二週間そこらで次々と女を変えていくんだよな。あれって一体どういうつもりなんだろう。ていうか女の方も、すぐ捨てられるとわかっててなんで付き合う?」中学生の恋愛なんてゴッコだろ? 結婚するわけでもないし。そういう亮介に、女の子は夢見がちな生き物なの、と噛みついたのは意外にも陽菜だった。
「皆、信じてるんだよ。私とは本気で想い合ってくれる、私は今までの女とは違うんだ、って。これもまぁ勘違いに似た妄想だって言われたらおしまいなんだけどね」陽菜の喉が、こくこくと動く。午後の紅茶の流れゆく軌跡が見えるようだ。
「それに何より、寂しいの」
 陽菜が、午後の紅茶を床に置いた。凝結して雫となった水滴が、缶の側面についている他の雫を喰いながら伝い、床に綺麗な円を描く。
「皆々、寂しいの。どうしようもなく寂しくなって、ひとりじゃいられない時期があるんだ。それは家族や友達には埋められなくて、自分を好きだと言ってくれるひとにしか埋められない。そんな寂しさが、誰にでもあるのよ」
 布団の上にちょこんと座っている陽菜は、少しだけ項垂れた。今、陽菜の頭を優しく撫でてやらないと、陽菜はそこから消えてしまうような気がした。そんな陽菜のことを、香太は見ていた。ずっと、見ている。人工的に創られたプラネタリウムの端っこで、消えそうになっている二等星を見つめているかのように。そしてその二等星に気付いたのは、溢れそうな群衆の中で香太ただひとりだけなのだ。
 寂しい。この言葉に、宏樹は過剰に反応した。そうだ、寂しいんだ。俺だって寂しいんだ。誰だって寂しいんだ。誰もが持ち余らせている寂しさを、誰かと寄せ合って何が悪い。例えそれが一時しのぎの恋であったとしても、錯覚であったとしても、二人が想い合ったことは事実だ。その事実に軽いも糞もあるのか。焼けそうな感情は心の中で沸騰するだけで、うまく言葉には現れなかった。
「でも、もう寂しいから恋愛をするってことだけじゃ、取り返しのつかない年齢になってきてるのよ、あたし達は。寂しいから男つくって、寂しいから一緒にいる。今まではそれだけで済むかもしれないけど、これからはそうはいかないの」
 言い切るように吐き捨てる葉月の台詞の意味を、まだ誰も理解していなかった。こういう恋愛を主とする討論になると、なぜか女子勢の意見が妙に説得力を持つ。これは女子という種族の人類がもつ特権なのだろうか。
「これからは、好きだから相手をつくる。好きだから相手と一緒にいる。好きだからからだを重ね合わせる。そうなっていくのよ。寂しいということだけで性行為を繰り返して、空っぽになったからだの中に新しい命を授かったらどうする気? もう後戻りはできないのよ。道は、ひとつの命を殺すか、生かすかになるの」
 葉月の言葉には刺がある。だけどその棘は、決して他者の急所を串刺しにし他者を殺すような棘ではない。微妙に急所を外すのだ。そして弱った心の中に、自分の意見を擦りつける。相手に考える時間を与えるのだ。そんな、残酷かつ頭の良い無数の棘。
「あたしはもう処女じゃない。だからこういう意見を言うの。あたしの相手は滅多に避妊なんてしてくれなかった。今みたいに軽く男女交際が始まるような時代になって、あたしみたいな人が増えて欲しくないのよ。愛のない性行為だなんて、痛いだけよ」
 誰も、何も言わなかった。誰も、何も言えなかった。陽菜は明らかに、自分が言ってしまった意見を恥じていた。もう、寂しさを理由にして人に甘えることの出来ない位置に立っている事に気付いた自分が、一番甘かったんじゃないかと感じた。それは宏樹も同じだった。葉月の棘は、宏樹の心の一番やわらかいところを貫く。さくり、と、それはやわらかいところの奥深くを突き上げる。
「……俺も」
 宏樹の低い声を、久々に聞いた気がした。
「俺も、もう童貞じゃない。葉月とは違って、愛のない行為だったわけじゃないけれど、もう戻れないことは葉月と同じだ。もう俺は戻れない。想うだけで満たされる恋愛なんて、もう出来ない。想うということは、行為に至るまでの階段のたった一段にしか過ぎなくて、あとはもう全速力で階段を駆け抜けるだけだ」
 香太は陽菜を見ていた。もうきっと、眠くなってきてしまったのだろう。こっくり、こっくり、と危なげに頭が揺れている。だけど、必死に必死に寝ないようにしていることが分かる。
「ねえ、それは、想うだけでは満たされなかったの?」
 実果が尋ねる。
「余計、辛いよ」
 宏樹は答える。
「どうして?」
 実果が、もう一度尋ねる。
「……いつか、わかるよ」
 宏樹は、もう一度答える。そして、少しだけ笑った。だけどそれは笑う程に、空虚の膨張に見えた。
 きっと宏樹には、証というものが見つからないのだ。亮介は思った。互いを想う証はもう性行為でしかなくて、他の何にでもないのだ。人間とは弱いもので、常に安心していたいために常に証を確認したくなる。そうじゃないと、相手が離れていってしまいそうで恐いのだ。宏樹にとって性行為とは、互いに想っているという証であり、相手を繋ぎ止める唯一の術なのであろう。だから想うだけでは余計辛いと答えたのだ。満たされない、と。亮介は宏樹の言葉からそう解釈したが、本当の意味は誰にもわからなかった。
 こくりこくり、と不規則的に揺れる陽菜の頭の動きに、やがて皆が気付いたようだ。「寝ようか。陽菜ちゃんもこんなんになってることだし」葉月の言葉に、皆がくすくすと笑う。香太も笑う。陽菜がもう一度だけ、がんばって目を覚ます。その様子に、もう一度皆は笑った。
 多分きっと、俺はこのままでいられる。香太は思った。想うだけで満たされるうちは、それ以上は望まなくてもいい。この恋が「ふたり」にとって始まることがなくても、想うことで満たされるならそれでいい。陽菜の寝顔を見ながら、香太はそう感じていた。










5 









 カレンダーを破ってから、十何日かが過ぎた。月の変わり目というものは、カレンダーを破ることでは全く実感できないが、他のことでも全く実感できないことに亮介は気がついた。太陽の光も七月と変わらず容赦ないし、冷房の温度も変わらない。ラジオからも毎日さほど変化のないニュースが垂れ流されているばかりだ。日に日に、良いニュースが聞かれなくなってきたような気はするが。
 八月になってから、(いや七月の後半辺りからだったかもしれないが)ラジオからは洋楽がよく流れるようになった。なるほど、洋楽というものはなんだか夏に合う気がする。毎日聴いているという事からの洗脳かもしれないが、亮介はそう感じていた。毎日流れる様々な洋楽は、聴いていて気持ちがいい。邦楽とは違う、新鮮な華やかさがある。おかげで亮介は、かなり洋楽に詳しくなってきた。
 最近の亮介のお気に入りはロウスト・プロフェッツである。「ラスト・トレイン・ホーム」や「ア・マイル・ミリオン」などから湧き出る、飛び跳ねたくなるような疾走感が亮介は大好きだった。丁度今流れている時の上に乗っかって、時の流れのスピード以上の速さで走り抜けていく感触。まさに青春時代を生きる少年達の雄叫びを、ロウスト・プロフェッツは代弁してくれている。
「お、やった、バックストリート・ボーイズじゃん。俺このグループが一番好き」香太の軽快なペン回しと共に、ラジオからは「ザ・ワン」が流れる。疾走感溢れるサウンドと、良い意味で軽く聞き易い歌声が非常に心地よく、亮介もバックストリート・ボーイズは好きであった。専ら亮介が好きなのは、「オール・アイ・ハブ・トゥ・ギブ」などのバラードであったが。
「えー、私こいつらよりもブリトニーとかアヴリルの方が好きだな。男性歌手の歌声ってなんだかうずうずするんだよね。女性のピンの方が聴きやすいよ」実果がそう言いながら、勝手にラジオ局を変えようと操作する。「おい、ザ・ワンが終わってからでもいいだろ」香太と低レベルな争いが始まる。俺は、女性ピン歌手だったらアヴリルよりもヒラリー派だな、「カム・クリーン」とか最高、と宏樹は思考の隅っこで思っていた。その向こうに座っている陽菜は、私はエンヤの「ワイルド・チャイルド」が一番好き、と思っていた。
 ただひとりビートルズ溺愛の葉月は、誰にもそのことを言わずにひたすら問題集と格闘していた。何でみんなビートルズの良さに気付かないんだろう。洋楽だったらまずビートルズからでしょ。「レット・イット・ビー」や「イエスタディ」を聴いたら、きっと皆びっくりするのに。だけれど、親父臭いと思われるのが嫌で、葉月は決してそのことを口に出さなかった。そして、実果がやがて探し当てたラジオ局で流れていたレッド・ツェッペリンの曲は、誰も気に入らなかった。
 気温を記録した折れ線グラフは、溢れかえる企業の商業成績とは反比例するかの如く右上がりをキープしていた。そしてそのグラフに比例していくのが日々の生活の辛さ。保健室にいる間はいいのだが、三度のご飯や服の洗濯、そして銭湯への行き帰りなど保健室を離れる場面では、本当に融けそうになる。汗が少しずつ皮膚を蝕んでいくんじゃないかという恐怖。このまま気温が上がれば十二月には百度近くに……あ、いやいや十二月になれば真冬だ、ハハハハハという暑さにやられた自分の脳への恐怖。どちらかというと、後者への恐怖感の方が強烈な右上がりだ。
 そして夏休みは、曜日の感覚がなくなる。家で過ごす夏休みの場合は、テレビ番組の内容でかろうじて曜日の感覚を取り戻していたのだが、ここにはテレビが無い。世界の情報を知る術はラジオしかない。そうして曜日の感覚を失った男子三人組は、今日がスーパーの定休日だということも知らずにはるばるとスーパーへと出向いたわけである。
「休みだな」
「休みだって」
「休んでるよ」
 三人は閑散とした駐車場を前に、呆然と立ちつくす。
 いや、ここにたどり着く遥か前から、こういう結末になるんじゃないかということは予想がついていた。スーパーの袋両手に掴んでふらふらと家路につく主婦とすれ違わないのは不自然だし、スーパーに野菜を出荷するトラックが三人を追い抜かさないのも不自然だった。少しずつ見えてきたスーパーに人気がないことはだいぶ前から気付いていたし、駐車場に車が一台も止まっていないことはかなり前から気付いていた。だけれど今それを確かめたくない、もしかしたらもしかしたらという一心で、三人はあえて自分の目の前に広がる光景を突っ込まずに歩いてきたのだ。そしてたどり着いたのは、赤文字で思い切り「本日は定休日です」と書かれた看板。もう突っ込まずにはいられない。
「今日は客が誰もいないだけだな」
「ここは俺達だけにしか見えないスーパーなんだ!」
「きっとまだ開店前なんだよ。今すっげぇ早朝なんだよ。きっと」
 三人は項垂れて家路についた。時々肩をたたき合った。大丈夫だって、落ち込むなよ。ドンマイドンマイ! 誰にだって失敗はあるさ。地区予選一回戦目で負けた弱小野球部のような光景であった。三人は笑った。そしてまた項垂れた。途中でコンビニに寄って買ったソフトクリームも、暑さによって土台をなくしすぐに道路へ落下した。べちゃり。白く汚れた路上を見て、三人はまた笑った。そしてまた項垂れた。なんだかもうどうしようもなかった。
「おーい、藤田、岩崎! 藤田だろ?」
 撓っていた三人の背中が、一瞬にして向日葵のようにしゃんとした瞬間だった。背後で誰かが呼んでいる。やばい。今はあの生活の直線上に立っているというのに。だけどそれを感じさせる物的証拠はないよな。ないない。三人は目線で会話する。大丈夫だ、声的にも同級生みたいだし、ただ遊びに来ていると思わせとけばいい。「岩崎? だろ?」二人目の声がした。相手は複数だぞ。気をつけろ、絶対にボロ出すなよ。最後に光った宏樹の鋭い目線を最後に、三人は後ろを振り返った。
「やっぱり藤田と岩崎だ!」後ろにいたのは、亮介と宏樹のクラスメイトである松永武士と高橋淳也だった。松永は、今まで見たことのない香太の存在を少し怪訝そうに見つめた後、いつもの声で二人に話しかけた。
「ひっさしぶりー。お前ら家に連絡入れても二人とも全然いねぇんだもん。何度も遊びに誘ったのによー。挙げ句の果てに岩崎の親からは、「もう電話しても意味無いですから」なんて言われちまったよ。一体どういうことなんだよ?」
 松永は無邪気だ。だからこそ恐い。一体どういうことなんだ、こっちが聞きたいくらいだよ。
「あ、ホラ、松永と高橋は知らないだろ? こいつのこと。こいつは矢崎香太って言って、違うクラスのやつなんだけど、俺達とは仲がいいんだ。今日も一緒に遊びに来ててさ。な、香太」
 お、おうと無駄に何度も頷いてしまった香太の足をさりげなく踏んづけると、宏樹はうまいこと話を続ける。「それで? お前らはなんでここにいるんだよ」こういう時の頭の回転は、確実に亮介よりも宏樹の方が優れている。教科書にしか載っていない典型的な思考回路を埋め込まれた亮介の脳では、決して思いつけない回路の繋ぎ方を宏樹は知っている。
「俺達も適当に遊びに出てたんだよ」そういう淳也に、話を自然に盛り上げるために「なんで誘ってくれなかったんだよ」と言おうとして、亮介は瞬時に自粛した。危ない危ない、さっき松永がそのことに対して愚痴ったばかりじゃないか。全くほんとこういう時に限って機転が効かないな、俺は。
「何かお前らって他クラスに知り合い多いよな」ぼそりと言葉をこぼす淳也。知り合いっていうか一緒に暮らしてます。頭の中で、煙のようにもわもわと沸き上がってきたその言葉を、亮介は急いでもみ消した。
「まぁ、くされ縁って感じで……」お前が言うなという感じだったが、香太のその言葉でこの手の話題は流された。かのように思えた。
「そういえば、俺、お前らと仲いい……何組かは忘れたけどさ、アサミってやつとも、こないだ会ったぜ。会ったトコは病院だったけど」
 ほら、お前らなんか最近よく一緒にいたじゃん、と、武士は必死にクラスを思い出そうとしている。誰それ、と武士の思考を乱すような相づちを打つ淳也をよそに、三人は固まっていた。病院。確かに今、武士はそう言った。
「いつぐらい? どこの病院?」宏樹が訊く。
「んーと、いつだったっけな。割と最近。一週間前くらい。ハゴロモ総合病院ってとこ。俺のバァちゃんがそこに入院してっから、そこにお見舞いに行ったら居たんだよな。なんか見覚えある顔だなーと思ってさ」名前呼ばれるの待ってたら、アサミさんって言われてたから、あぁ岩崎達と仲良いやつかって思って。三人は、もう武士の言葉を聞いていなかった。だから、誰なんだよそのアサミってやつ。女子? 男子? 淳也の声も耳に届いてこなかった。
 羽衣総合病院。学校からは、徒歩で二十分はかかる場所に位置する、この辺りで一番大きな病院だ。そこに一週間前、立ち寄ったという陽菜。これは確実に、武士のような見舞いによるものではない。自分自身を療養するために病院へ行ったのだ。でも、何故? もう長期間学校にも通えるからだになったと言っていたし、薬を飲んでいるから心配ないと言っていたのに。背中を、何かが駆け抜ける。悪寒というには曖昧すぎるし、予感と認めてしまうには恐すぎる何かが。
 頭の中に、真っ白い病棟でひとり立っている陽菜の姿が浮かぶ。だめだ、陽菜の細く白いからだに、真っ白な病棟はあまりにも似合いすぎている。香太は目を閉じた。注射針の痛々しい跡が、鮮明に蘇る。落ちていたガーゼを掌で隠しながら、陽菜は呟く。
 ――内緒だよ――
「帰ろう」
 香太は突然、身を翻した。「おい香太!」宏樹の声が、香太の背中を引っ張る。それでも香太は振り返らなかった。
「ごめんな松永、高橋。また会ったら声かけてくれな、じゃ!」亮介の声がする。二人分、走り寄ってくる足音が聞こえる。「お前、去り際はもっと自然にしろよ。変な疑い持たれちまうだろ」今の香太にとって、そんな事はどうでもいい事だった。今の二人に不審がられた。そんな事どうだっていい。今日の分の食料は無いに等しい。そんな事どうだっていい。陽菜が一週間前に病院に行っていた。全然どうでもいい事じゃない。


 ◎


 鍋からは湯気が立ち上っていた。野菜に含まれていた旨味が気体となって湯気に紛れ、家庭科室を隅から隅まで浮遊する。それは一瞬にして、三人の鼻孔を塞いだ。
「いい匂い! やっぱ陽菜ちゃんが一番料理うまいよね。この中で」両手をぱん、と合わせて感嘆の声をもらす実果は、もう一度大きく湯気を吸い込んだ。「めちゃくちゃおいしそうじゃん!」
 小麦粉と牛乳を練ったものを置いておいたら、自然に蒸しパンが出来上がるんじゃないかという家庭科室の中で、温かいスープを作ることは少し躊躇した。だけれど、暑い日にこそ熱いものを、一体どこから学んだのかわからないような教訓が躊躇心を蹴り飛ばした。じゃあ、今日の昼はお母さんから教えてもらった、野菜たっぷり栄養たっぷりのスープを作ろう。陽菜はそう決めていた。作っている最中、少しだけ頭の中がのぼせているような感触に陥ったが、きっとこれもスープのせいだろう。陽菜はそう信じていた。だってこんなに湯気が出ているんだもの、のぼせたって仕方がないわ。
「ねえ、味見していい? 陽菜ちゃん」媚びるように擦り寄ってくる実果の頬を撫で、「いいよ」と微笑む。やったー、と手をあげて喜ぶ実果を、葉月がお尻ではねのけた。「どいてよ、あんた仕事しないくせに無駄に動き回るもんだから、食器並べるのにヒジョーに邪魔なのよね」ほらほら、働かざる者喰うべからずよ、葉月はそう言いながら、不器用ながらも食器を並べる。いつも二つ三つ何かが足りないのだが、陽菜はあえてそれを黙っておく。「なによ、数も数えられないくせにー」実果が一番気持ちのいい言葉で指摘してくれるからだ。
 この生活は、ちょっとした度胸がつくのかもしれない。陽菜は思った。校庭から聞こえてくるサッカー部の声にも、もういちいち飛び上がらなくなった。窓を開けて風を送り込むくらいの余裕さえ生まれた。この生活が始まった頃は、料理をしている最中に誰か来たらどうしようと気が気じゃなく、かすかな物音にもからだが敏感に反応し卵を無駄に割っていた。だけど今は、窓からサッカー部を応援するという有様だ。少し方向が間違っているかもしれないが、小心者の根源となっている度胸のなさは埋められそう。陽菜は思った。
「じゃあそろそろウィンナでも焼こうかな」葉月が、そう言って窓のそばから離れる。「ねえ葉月、今日はタコさんウィンナにして」「自分でやって」ほぼ実果の声の上に乗っかるような形で、葉月が実果の要望を切り捨てる。ぷぅ、と風船のように頬を膨らませる実果は、妙に幼くて可愛い。葉月と入れ替わり、陽菜が窓際へ寄った。窓際に取り付けられている、長机のような場所に腰をおろす。「サッカー部の先生、カッコいいよね。生徒より」そういう実果に、あ、ほんとだ、と悪戯っぽく笑いながら頷くと、さっきまで感じていたのぼせた感触が消えていくのを感じた。やっぱり、さっきの湯気のせいだったんだな。風に当たればきっと治る。
 大丈夫、きっと治る。まだきっと、ひとりで立っていられる筈だ。
「ここか?」
 不意に、がらりと家庭科室のドアが開かれた。さすがに、この生活への慣れで度胸が据わってきたといっても、これには驚く。三人は一瞬、肩に電流が走ったかのようにびくりと動くと、やがて安堵の息をもらした。「もう、ほんとにびっくりしたじゃん。やめてよそういうことは」葉月が、ウィンナを転がす作業を再開する。ぱちぱちぱち、とウィンナの皮が弾ける花火のような音がした。
「ごめんごめん、保健室行っても誰もいなかったからさ。時計見たら昼飯時だったし、ここかなーと思ったんだよ」亮介が、すまんね嬢ちゃん達、と小刻みに頭を下げながら家庭科室に入ってくる。それに、宏樹、香太と続く。
「つーかスーパー休みだったぜ。どうすんだよ今日の分の食料……つってもまだ夕食分くらいは残ってるだろ? 野菜も結構残ってたし」宏樹がそう言いながら、どさっと腰を下ろす。外は本当に暑かったみたいだ。シャツが背中にぴったりとしがみついているし、色もところどころが濃く変色している。宏樹は、さらっと言ったつもりだったようだが、女子三人組は目を見開いた。
「いや、あの、夕食分とか残ってないから」葉月がガスコンロの火を止めた。ウィンナが焼き上がったようだ。
「は? 残ってないって……どういうことだよ、結構野菜残ってたじゃん。肉なくても野菜あればちょっとは乗り切れるだろ?」どこから持ち出してきたのだろうか、うちわで汗を乾かしながら宏樹が言う。
「だから、その「結構残っていた野菜」を昼に使っちゃってるのよ。陽菜ちゃんが気をきかせて、こんな暑い日には栄養たっぷりの野菜スープだね、って作ってくれたのよ。それが、コレ」すでに、陽菜によって皿に取り分けられたスープを指さす葉月。何種類もの色とりどりの野菜が、形を崩すか崩さないかの微妙なやわらかさでスープを纏っている。空腹に襲われていた男子にとってそれはとても美味しそうに見えたのだが、食料がないという事実と美味しさの期待は比例していた。
 食卓は静寂だった。陽菜が作った野菜スープは絶品だったが、皆の頭は夕食のことしか考えていなかった。確か、あと冷蔵庫に残っている食材は、たまねぎ一玉、キュウリ半分、柳葉魚七尾、トマトが二つと卵が七つ。そして牛乳、お茶、米。なんとも統一感のない食材が残っており、さらに残量もかなり少ない。こんな食材ではどう組み合わせてもひとつの料理が誕生するなんて思えない。卵七つというところから、夕食はみんなゆで卵ひとつずつかな、などという悲しい献立さえ浮かんできてしまう。
 陽菜は、あまり食事に手をつけなかった。口数も少なければ、あまり顔をあげなかった。黙って俯いている。周りの五人が陽菜を見れば、きっと責任を感じて落ち込んでいるという風に思うのだろう。だけど違った。あの、のぼせたような感触が再び陽菜を襲っていた。今度は、のぼせる、というようなぬるい表現ではなく、眩暈や頭痛といった表現のほうが痛みを的確に表していた。どうしよう、なんだかおかしい。注射も毎日しているのに。薬も忘れず飲んでいるのに。……やっぱり、一週間前から病院に行くのをさぼっているのがいけなかったのかな。からだが、オーロラのように揺らめいている気がする。でも、ここで皆に心配をかけちゃいけない。皆には、私のからだは長期間学校に通えるからだと言ってある。だめ、倒れるな、私。皆に迷惑かけちゃだめ、まだひとりで過ごしていられるはずよ。大丈夫、大丈夫だから、もう少しだけ、時間を。
 不安は蝕んでいく。空間を、会話を、表情を、スープに輪郭を溶かす野菜を。愛する仲間との信頼を。そして、その仲間達と過ごす残された時間を。砂時計の中にある砂は、水に浸されて瞬時に消える。そんな、どうしようもない蝕み。


 ◎


 消える予感がした。
 それはふと、全てを襲った。予感は、今、という状態を包み込み、もう明日など見えなくなった。黒い布で、後ろから目隠しをされたような、どこかやわらかい予感。人間味があるからこそリアルな気がして身が震えた。自分がこの場所から、「消えなくてはならない」予感がした。それは誰に言われたわけでもなく、ただ自分でそう思っただけかもしれない。だけれど陽菜には神の声に聞こえた。
 私はここから消えなくちゃいけない。
 横目で、隣に座っている実果を見た。すらりと氷細工のように美しい鼻筋に、触れてみたい衝動に駆られた。昼食の片づけに労力を使ったのか、少しだけ草臥れたような表情だ。それでも視線は、文字の羅列を休むことなく追っている。一直線上を這うようにして動く視線の中に、自分も入りたいと思った。自分のことを見て欲しいと思った。脳裏に焼き付けて欲しいと願った。陽菜はもう一度、視線を落とした。皆と同じように。
 皆、視線を落としている。誰も陽菜の視線には気付かない。皆がそれぞれ自分の殻の中に閉じ籠もってしまったように見えた。誰も、誰も見ていない。ただ文字の羅列を追い続ける。私は今、あの人達には見えていない。陽菜は願った。私を見て、私がここにいることを確認して欲しい。私が、ここに「いた」という事実を忘れないでいて欲しい。
 消えなくちゃ。早く。皆には迷惑をかけられない。でもどうやって消えたらいいんだろう。この生活では、誰にも気付かれずに去るということは無理に等しい気がする。だからといって理由を旨く説明する自信もない。ここにいるひとたちは優しすぎるから、きっと聞く耳を持たないだろう。それに、私にはきっと旨く説明できない。皆には知らないでいて欲しいことが、たくさんありすぎる。
 私はそうして、また嘘をつく。
 それが、嫌だった。もう嫌だった。辛かった。私の嘘に気づき始めているのは、多分矢崎君だけだ。嘘で固めた説明を、旨く皆に説得したとしても、きっと矢崎君は本当の事に気がつくだろう。きっと矢崎君は、私の病院通いについても勘づいてる筈。注射を打つワクチンの夏休み中の分を大量に保存しておくなんて、私には到底無理な話だから、定期的に病院に通わなければならないことに多分気付いている。そもそも、私は本当に消えたいのかな。消えなくちゃいけないのかな。
 私がもしこのまま、この場所から消えなかったら、この生活がこのまま続く。いつものように朝が来て、昼が過ぎ、夜が明ける。そのうちにやがて私の終わりが来る。自然にそう消えるのが一番いいことなのかもしれない。でも、私が消えたあとの皆はどうなるのかな。
 蝉の声が聞こえなくなった気がした。
 私が消える。六人が五人になる。崩れる。何もかもが。一瞬にして。この生活も絆も皆も時間もラジオもご飯も花火も朝も昼も夜も夏も。六人で作っていた輪が五人分の大きさになるということは、そういうことだ。だめだ、最大限の迷惑が皆にかかってしまう。眩暈がする。蝉の声が波のように聞こえる。だめだ、やっぱり私は今消えなくちゃいけない。陽菜はもう一度顔を上げた。香太も顔を上げていた。
 香太と目があった。
 香太が少しだけ、はにかむようにして微笑んだ。言葉は交わさなかった。交わさなくてもいいと思った。矢崎君はきっと、私のことを忘れないと感じた。陽菜は微笑み返すと、もう一度視線を落とした。目を閉じた。沁み入るように感じた。
 だめ。皆には迷惑をかけられない。かけたくない。
 蝉の声の波が、やんだ。だけれどそれは、波打ち際にいると聞こえてくるような波のノイズが、少しずつ蝉の声を打ち消しているのだった。蝉の声は、小さく聞こえる。あるはずもない音によって、蝉の声は潰されていく。眩暈はしなくなった。しなくなったと陽菜は感じた。しかし実際は、眩暈の感触がからだ中を浸していた。これがもう通常の感覚だと陽菜は錯覚していた。


 ◎


 炎天下ではなかった。景色も、逃げ水によって水浸しになることは無い。今はもう午後五時を回っていた。だけれど日は全く落ちていなく、夕方と呼ぶにも相応しくないような明るさに街は包まれている。炎天下ではないが、辛いことには変わりはなかった。まぁ、前の状況よりはいいかな。汚れもかなり消えてきているし。亮介は、自らの毛根が汗によって濡れていくのを感じた。汗の粒が手を繋ぎ、少しずつからだを浸していく。汗が体内に入り込み、血液と融合するような感触がする。
 亮介達は屋上にいた。それぞれが、おなじみのブラシや雑巾を持って、ひたすらに屋上の床を擦っている。葉月の、「……そういえばあれから、屋上掃除の続きしてないよねー」という他人事感丸だしの発言により亮介達はここにいることになる。本当にすっかりと忘れていた。ぽっかりと都合良くその部分の記憶だけ抜け落ちたように、忘れていた。やらなければいけない、という落胆にも似た義務感により重い腰をあげ、亮介達は今ここにいる。たったひとり、陽菜を除いて。
 前の掃除のことから、体力的に危ないと判断された陽菜は自ら引き下がった。「私は、夕食の準備でもしてるね。お腹空かせて帰ってきてよ」そういって陽菜は手を振った。陽菜は間違いなく笑っていたが、間違いなく笑っていなかった。この妙な違和感は、未だに拭い去れない。(「あたしも残る!」と大騒ぎした葉月は、実果に背中を掴まれ引きずられた)あの広い家庭科室でひとり料理を作るだなんて、陽菜も根性がすわってきたな、と亮介は勝手に感心した。そしてまた、あの笑顔の違和感が亮介の心を内側から破る。「だるい! やめよう!」葉月の言葉に鼓膜を破られそうになる。
 五人はある程度のレベルまで掃除を終えると、芯の抜けたようなからだを屋上に転がした。あんなに明るかった空も今は、夜へのグラデーションをはじめていた。五人は、「川」の字ならぬ「州」の字(この時陽菜がいれば完全なる「州」の字だった)のように寝転がると、空を見た。微妙に色を変えはじめた空は、地球は本当に球なんだ、ということを漠然と思わせてくれるような形をしていた。五人は、同じ場所に寝転がりながら、違う雲を追いかけていた。無音。誰もしゃべらなかった。雲が空を流れる時の摩擦すら聞こえてくるような、静寂が満ちた。
「夏休みも、もう半分ないんだね」
 静寂を破ったのは葉月だった。きっと、この無音という空間に慣れていないのだろう。無理をして声を弾ませているように聞こえる。少しくすんで見えていた空の色が、一気に明るいオレンジに見える。葉月はそんな声をしている。
「あたし、こんなにあっという間の夏休みなんて初めて」へへへ、と照れるように笑う葉月。「家にいても居づらかったからさ、こうやって誰かとフツーにくつろげる休みって、憧れてたんだ」葉月が大きく伸びをする。肘が宏樹に当たったようだ、「痛ぇな」「あはは、ごめんごめん」というやりとりが聞こえる。
 そしてまた、無音が訪れる。亮介は、この空間を心地よいと感じていた。音が消え、時が止まり、雲は流れ、空は回り、鼓動は打たれる。ただそれだけのことだった。生きているという感触を心地よいと感じた。今、陽菜の作ってくれている料理を、またこの皆で食べているところを想像すると、なぜだか泣きたくなる衝動にかられる。幸せのかたまりが、一気に押し寄せてくるようだ。嬉し涙とも感涙とも違う、胸を掻きむしられるような涙。甘酸っぱい何かが、胸の中で弾ける。
「戻ろうぜ。浅水が待ってる」
 香太が、よっ、と声をもらしながら立ち上がる。立ち上がるというよりは、飛び上がるという感じだった。手を使わずに、からだをバネのようにして反動をつけ飛び上がる。一種のブレイクダンスのようにも見える。「えっ矢崎かっこいいーあたしも!」葉月の挑戦を見て、実果も負けじと飛び上がる。だけれどどうしても、二人を見ていると死にかけのバッタを連想してしまう。あまりにもかっこ悪くて、宏樹と亮介は目を合わせた瞬間に声をあげて笑ってしまった。屋上に撒いた水が、オレンジ色の空を映し出している。少しずつ蒸発し、空気中へと還っていく粒。それは、胸の中で弾けた甘酸っぱい何かに、似ていた。
 保健室に戻った頃には、空は暗闇を帯びていた。星は出ていなかったかが、夜の訪れを感じさせる闇だった。雑巾を洗い、外に干しておく。ブラシは、保健室から一番近いトイレの中にある、掃除道具入れの中に放り投げた。ぱち、と乾いた音をたて、電気を点ける。その瞬間、またあの妙な違和感が亮介を襲った。
 何かが、違う。
 亮介は感じた。ここを出る前の、陽菜の笑顔でない笑顔を見たときに感じた違和感と、それは酷似していた。この保健室は、今まで見てきた保健室とは何かが違う。砂の入っていない砂時計のように、圧倒的に足りないものがある。だけどそれがなんなのかは、亮介にはわからなかった。亮介以外の四人も、それを感じ取っていた。だけれど核となる部分が、わからない。いくら追いかけても決してくぐれない虹のように、その違和感は絶対的な存在感を示していた。
 子供は、必死で虹を追いかける。あの虹は、くぐれるものだと信じていた。やがて子供は、いくら追いかけても虹を絶対にくぐれないことを知る。自分が近づくたびに、虹は離れていく。子供はどうしようもなくなり、泣く。ただそこに、取り残される。亮介は、感じた。この核となる部分には、気付かない方がいいのかもしれない。ほぼ直感的にそう感じた。
 家庭科室で待っている筈の陽菜の姿が、なぜだか虹と重なった。
「……行こうよ、家庭科室」
 香太が、保健室の電気を消した。そこに残された違和感も全て、闇が包み込んだ。


 ◎

 
 家庭科室のドアから、鼻孔を撫で回すような香りが漏れてくる。陽菜が、かなりの時間をかけて作ってくれた料理が、このドアの向こうには並べられている。香太はドアに手をかけた。後ろに立っている四人は、恐いほど何も話さない。それは香太も同じだった。誰もが感じた筈なのに、誰もあの違和感のことを口にはしなかった。口にしてしまえば、信じたくなかったものが現実になってしまうような気がしていた。掴みたくなくて、手に届く距離にあるはずがないと思っていたものを、不意に掴んでしまうような、そんな気がしていた。
 香太は腕に力を込める。ドアが開いた。
「おかえりなさい」
 立ち尽くすようにしていた五人を目の前にして、陽菜がそう言った。今まで感じていた違和感を全て取り払ってゆく風のような声だった。「陽菜ちゃん」実果と葉月が、どこか安心したように名前を呼んだ。二人もきっと、俺と似たようなことを考えていたのだろう。香太は思った。だけれどそんな考えともおさらばだ。香太は信じた。
 五人は席についた。もう、屋上での労働によりお腹はぺこぺこだった。「陽菜ちゃん、今日のメニューは?」目の前に広がる料理に目を輝かす実果に対し、「ビーフシチューを作ってみたの」と答える陽菜。そういえば、と香太は思う。確か、食材はほとんど切らしていたんじゃなかったっけ。
「ちょっと遠くのスーパーまで行って買ってきたの。そう、あの羽衣病院の通りのところ」質問した香太に対し、陽菜はゆっくりと答えた。羽衣病院。陽菜の口からその単語が出た瞬間に、香太は気付いてしまった。保健室に感じた違和感よりももっと絶対的な違和感に。
 食事は、五人分しか並べられていなかった。
「陽菜ちゃん……?」
 陽菜の分の食事は、無い。そして椅子も五つしか置かれていない。陽菜はさっきから座らずに、立ったまま、そこに居た。
 確実に微笑みながら。だけど陽菜は確実に微笑んではいなかった。
「今まで、ありがとう」
 陽菜はそう言って頭を下げた。五人は気がついた。陽菜の横には、陽菜の荷物が固めて置かれていた。保健室で感じた違和感と、それは一本の線のように繋がった。絶対的に足りない何かとは、陽菜の荷物だったのか。香太は、頭を下げている陽菜を見つめることしかできなかった。陽菜の表情が見えない。だけれど、ぽたぽたと床に模様を作っている涙が、陽菜の表情を物語っていた。
「陽菜ちゃん、何言ってんの」「ごめんなさい」
 差し伸べられた実果の手を、陽菜は振り払った。脆く、今にも崩れてしまいそうな細い陽菜のからだからは、そのからだのどこに眠っていたのだろうと感じさせるような強い決意が滲み出ていた。
 空には、星が出始めていた。
「私はもうこれ以上ここにはいられません。皆に迷惑をかけることはしたくありません」
 陽菜は早口で捲し立てた。まだ、頭を垂らしたままだ。ぽたぽたとこぼれる涙に、全ての感情を委ねているようだった。陽菜の言葉からは、哀しみや別離を惜しむ感情を感じ取れなかった。陽菜の声は、自分への怒りに満ちていた。
  香太の鼻孔を、ビーフシチューの湯気がくすぐる。ああ、なんてうまそうなんだ。陽菜が作ってくれたシチュー。せめて一言、「おいしかったよ」って言ってあげたいのに。香太は、自分の頬の筋肉が震えているのを感じた。表情をうまくコントロール出来ない。
「迷惑って……ちゃんと説明してくれなきゃ、わからない」実果の横顔。実果の顔も、ぴくぴくと震えていた。驚きと怒りと、哀しみの入り混じった、実に複雑な表情。
「ちゃんと説明なんかしたら、皆はきっと責任を感じてしまう。私は皆に嘘をつき続けてきた。だけどもうその嘘にも限界が来たの。だから、その嘘がばれないうちに私はここから消えなくちゃいけない。そうじゃないと、皆は責任を感じちゃうから、皆に迷惑がかかっちゃうから」
 もう、陽菜が何を言っているかわからない。きっと本人も、自分が何を言っているかわからないのだろう。陽菜の肩の震えが、声の震えにも繋がってくる。陽菜の言葉を聞き取るのが少しずつ困難になっていく。
「私は皆に迷惑をかけたくない。皆が大好きなの。だからこそここから消えなくちゃいけないの。ほんとはもっと一緒にいたいけど、皆にこれ以上嘘をつくのは辛いの。皆が嫌いになった、なんてことはないよ。私忘れないよ皆のこと。だってはじめての友達だったんだもん。だから皆も私のこと忘れないで」
 陽菜の声を、涙が濡らしている。もう聞き取る事が出来ない。陽菜が、自分の荷物を握った。出ていくつもりだ。香太は席を立った。その勢いで、椅子が後ろへと倒れたのを感じた。「陽菜ちゃん!」実果が、荷物を抱えようとする陽菜の腕を握った。「やめて!」陽菜がそれを力強く振り払った。実果が尻餅をつくように倒れた。陽菜が走り出す。横顔が見えた。涙が横に流れている。陽菜が家庭科室から走り出た。香太も走った。陽菜を追いかける。陽菜との距離が近づく。陽菜に追いつく。
 陽菜の腕を掴んだ。
「やめてっ!」
 陽菜が腕を振り払う。凄い力だ。今までに感じたことの無い、陽菜の精一杯の力。今にも折れそうな腕。香太は暴れる陽菜の腕をもう一度掴み、動きを止めた。香太の力の方が、陽菜よりも強い。
「浅水」香太は陽菜を後ろから抱きしめた。
 陽菜の動きが完全に止まった。かろうじて手に握られていた鞄が、どさりと音をたてて廊下に落ちた。震える肩を抱きしめる、自らの腕が震えている。こうでもしないと、陽菜が消えてしまいそうだった。
「なんで……なんでなの……」
 陽菜の肩が激しく震えだした。さっき聞いた怒りに満ちた声とは裏腹な、脆く儚い声がする。香太は、途切れ途切れに聞こえてくる単語を繋ぎ合わせる。
「なんで皆こんなに優しいの……これ以上、私はここに居ちゃいけないのに……ここに居たいと思わせないで、お願い」
 陽菜が振り向いた。突然のことだったので、香太は一瞬、腕の力を抜いた。陽菜は、その力の隙間からするりと身を逃がせ、鞄を掴んでまた走り出した。暗い廊下の中で、陽菜の後ろ姿はすぐに見えなくなった。
 五人はそこに立ち尽くしていた。香太は、最後の陽菜の顔が忘れられなかった。突然、こっちを向いた陽菜。涙でくしゃくしゃになった顔に、酷く痩せこけた頬。強い眼力を放つ目とは裏腹に、必死に涙を堪えるように噛んでいる下唇。痛々しく、血が滲み出ていた。そして陽菜は、香太にだけ聞こえるような小さな声で呟いた。
「忘れないで、私のこと」
 あまりにも突然の出来事で、五人は何が起こったかまだ把握していなかった。いや、何が起こったかは確実に理解していたが、脳がそれを認めていなかった。陽菜はいなくなった。この場所から。
 陽菜は消えた。


 ◎


 夏の光は、真っ直ぐにコンクリートを突き刺す。景色が陽炎によって揺らぐのは、コンクリートから反射した光が、空から注がれる光と重なるからだと亮介は思った。グラウンドから聞こえてくる野球部のかけ声が、昼のてっぺんまで昇っていく。バットがボールを弾く音が酷く快い。ボールが、強い光の中に消えていく。吸い込まれるようにして、消えていく。
 ラジオからは、野球の中継が流れてくる。そういえば丁度、甲子園の時期だったかもしれない。この、世間から隔離されているような空間ではそれに気付かないのは当たり前かもしれなかった。今年も各都道府県からの代表校が決まったらしい。亮介達の県からは、二年振り十七回目の常連校が名を挙げていた。なんとなく変わり映えがしなくて、亮介はシャーペンを投げ出した。しなければいけないことは沢山あるのに、なぜだか退屈だと感じる。
 陽菜がいなくなってから、もう二週間近くが過ぎようとしていた。あれから亮介達に残されたものは、結局最後まで説明のなかった、陽菜のついた「嘘」と少し冷めたビーフシチューだけだった。皆に迷惑がかかってしまう、というだけの説明でここから消えた陽菜は今、羽衣総合病院の個室に居るという。亮介はそれを聞いて、幾分か安心した。とりあえず、無事なようだ。他の四人は複雑な表情をしていた。
 陽菜の両親が学校まで出向いてきたのは、陽菜がいなくなってから三日後のことだった。


 ◎


 クーラーによる人工的な冷気が、肌に痛い。亮介は、自分の肌がどんどん薄くなっているように感じていた。冷気が、直接に身体を浸す。今まで感じていた間接的な冷涼ではなく、完全に内部から浸されていく冷たさ。勿論外部も、冷気に固められている。体温は完全に消え、人のぬくみというものが一切削ぎ落とされていくように感じる。それは他の四人も同じらしい。シャツ一枚が当たり前だったスタイルも、今は重ね着に変わった。まさか暖を求めてシャツをもう一枚羽織るだなんて考えていなかった亮介は、一枚しか長袖のシャツを持って来ていなかった。だからといって冷房を弱にしてしまうと、やがてべっとりとした暑さが戻ってくる。度々亮介は外に出て、新鮮な暖を求めた。前までは、保健室から外に出る度に感じた恐怖感は、完全に消えていた。もう誰に見つかってもいいと思った。その気持ちは少し、自暴自棄に似ていたかもしれない。
 規則的に敷き詰められた中庭のコンクリートを見ていると、感じ始めていた空腹も少しずつ退き下がっていく。あみだくじをするように、視線でタイルとタイルの接触部分を繋いでいく。規則的な動きに、脳もからだも預けてしまう。そうすると不思議と空腹は退いていくのだ。亮介は暖を求めて保健室から出た。実際に中庭のタイルの上に立つ。真向かいの校舎の三階からは、ブラスバンド部の演奏がもれてくる。こぼれてきた一つ一つの音符を拾い集めると、小さな小さな楽譜が出来上がる。これは確か、「君の瞳に恋してる」だ。ずっと聴いていたい衝動に駆られたが、からだ中が暖に満たされたことにより亮介は保健室へと戻る。また、室内を巡り巡っている使い回された冷気を、新鮮だと感じる。その繰り返しだ。
「ねえ、ごはんにしようよ」実果が立ち上がった。別に断る理由もないので、亮介達はあとに続いた。
 冷蔵庫から食料を取り出し、家庭科室へと向かった。野菜の量などが曖昧にしかわからず、少し手間取う。「今までは陽菜ちゃんがやってくれてたから」葉月の、舞い落ちる雪のような声が音もなく積もる。六人分の食事の材料を目分量で測っていた陽菜は、きっと誰よりも皆のことを見ていた。亮介はそう思った。
 オムライスを作るために、ご飯を炊く。香太が、炊飯ジャーを戸棚から取り出す。米を洗おうと、袋から米を取り出す。「なあ、米って何合くらいだ」香太の指の隙間から、さらさらと米粒がこぼれ落ちている。「わかんない。陽菜ちゃんが、いつもご飯炊いてた」実果はそう言うと、溶き卵をフライパンに落とした。出来上がった卵は、いつか食べたものよりも幾分か厚かった。
「あたし、ウィンナだけなら自信があるの」そういう葉月が焼いたウィンナは、確かに焦げ目がほど良くて美味しい。しかし、分量がわからずに適当に炊いてしまったご飯は明らかに少なく、ウィンナの味が無駄に目立った。ケチャップも宏樹がつけている間に切れてしまい、香太と亮介はケチャップを付けずに食べた。そういえば、いつも細かい調味料を買ってきているのは、陽菜が買い出しの時だけだった。陽菜は、誰よりも、全てを深く見ていた。誰も気付いていなかった穴を、さり気なく埋めていた。
 香太は、あまりオムライスに手を付けなかった。べたついて固まってしまったご飯は喉に詰まる。秋の小雨のようにぱらぱらしているオムライスを作れるのは、陽菜だけだった。どのような技を使っているのかは知らなかったが、それが喉に詰まるなんてことは決してなかった。「今食べとかないと、お腹すくよ」実果が、スプーンでかんかん、と香太の皿を鳴らす。香太には聞こえていなかった。いつも陽菜の座っていた、実果の右隣という空間を見ていた。頭のてっぺんから足のつま先まで、陽菜がいなくなったという実感に浸された。
 陽菜がいなくなるということは、野菜の量がわからなくなること。米を何合炊けばいいのかわからなくなること。今まで知らなかったウィンナの美味しさに気付くこと。ケチャップがなくなること。ご飯がべたついて固まってしまうこと。実果の右隣が空っぽになること。御飯時、一人分の椅子を用意しなくてもいいこと。たったそれだけのことだった。それ以上でもそれ以下でもなかった。陽菜がいなくなるということは、生活上陽菜が関わっていたもの全てが抜け落ちるということだった。それは「浅水陽菜」という存在から始まり、陽菜が管理していたケチャップにまで及ぶ。それら全てがこの世界から抜け落ちるということだった。
「サッカー部だね」実果が呟いた。もう、バットがボールを弾く、空を貫くような音は聞こえてこない。野球部は午前中だけで部活を終えたようだ。その代わりに、サッカー部の少年らしい声がかすかに聞こえてくる。香太は、窓の外を見た。
「サッカー部は、生徒じゃなくて先生がかっこいいんだよね、って陽菜ちゃんと話したんだ、この前」実果が、スプーンを置いた。また何かがぽっかりと抜け落ちるのを、香太は感じた。実果の皿の上には、オムライスが半分近く残っていた。
「あぁ、あたしもそれ、聞いてた。はぁ? せんせぇ? って思った記憶があるもん。確か食料がなくなったときで、男子はスーパーまで買いに行ってたんだっけ。あたしはその時、確かウィンナを焼いてた」あたしが料理として参加できるのって、もしかしてウィンナだけ? 葉月のからからとした笑い声が、薄っぺらく聞こえる。
「俺ら暑い中スーパーまで買いに行ったのに、確かスーパーが休みだったんだよな。あのときは呆然としたよな」大口を開けてオムライスを詰め込みながら、宏樹が言う。そうそう、呆然とした、と答える亮介は、コップに注がれていたお茶を一気に飲み干した。
 普段は思い出さないところまで、細かく緻密に思い出される、あの日の出来事。あの後俺達は松永と高橋というやつに出会って、羽衣総合病院の話を聞いたんだ。そしてそれから、浅水を除く五人で屋上を掃除しに行って、皆で屋上に寝転んだりもした。その後、浅水が作ってくれている夕食に期待しながら、だけど変な違和感に胸をざわつかせながらも、家庭科室へ行ったんだ。廊下には、うまそうなビーフシチューの匂いがたちこめていた。
「美味しかったよね、ビーフシチュー」
 実果の言葉に、四人は頭だけで頷いた。何か言葉を発してしまえば、未だうっすらと思い出せるあの甘い風味が消えてしまいそうな気がした。
 五人は何も言わずに食事の片づけをはじめた。食器同士がかちゃかちゃと擦れ合う音と、水の雫が乱れ落ちる音しか聞こえなかった。各皿に小分けされたように残されたオムライスは、何の躊躇もなく流しへと捨てられた。水に分解されて初めて、固まっていたご飯はぱらぱらになった。
 確実に、水は自分の掌を濡らしているのに、水の冷たさを実果は感じていなかった。たださらさらと形を変えるものが、自分の掌を一瞬纏っては消えていくといった感じがした。スポンジから溢れてくる泡も同じだった。いつもは少しぬくみを感じるのだが、今日は違う。ただしゅわしゅわと皮膚を刺激するやわらかいものが、さらさらと水によって流されていく。指と指の間に、泡からなる独特の粘りを感じる。それを水で洗い落とす時にも、冷たいといった感触はなかった。このからだには、血が通っていない気がした。脳だって、もう何も考えていなかった。陽菜がいなくなった時から、原動力の核となる部分がすっぽりと抜け落ちてしまったと実果は感じていた。
 街はいつも通りだった。星が見えなくなったわけでもないし、風が吹かなくなったわけではない。草木が枯れてしまったわけでもないし太陽が消えたわけでもない。だけど、確実に今までの日常を支えてきた屋台骨は崩れていた。噎せ返るほど日常的な日々のかけらでさえ、現実味のない非日常に感じる。
 祭りの屋台で買った、ヘリウムガスの風船は、次の朝には萎んでしまい浮かなくなる。
 夏の底を這うように耳障りなほど啼いていた蝉が、ある日を境にいなくなる。街は秋の静けさを帯びはじめる。
 そんな寂しさ。
 洗いものも終わり、机も布巾で綺麗に拭いた。食べかすももう無い。ここで食事をしたという痕跡を全て切り捨てる。「そろそろ、戻ろうか」宏樹がそういいながら、五つの椅子を元あった場所に元あったように戻す。家庭科室は無に還った。ここで食事をしたという痕跡どころか、食事をしたという事実さえ、五人の胃の中からは消えていた。さっきのオムライスの味など、全く思い出せなかった。
 そんな時、何の抵抗もなく家庭科室のドアが開いた。がらり。気の抜けた音がする。そこには、年老いたと呼ぶには早すぎる男女が立っていた。亮介の心臓が、一瞬だけ飛び跳ねたが、それもすぐやんだ。あぁ、ばれた。その場所から視線を外さなかった。でももうばれてしまっても、自分の中では何の音沙汰も立たない気がする。五人はそのとき、感情の抜けた表情をしていた。逃げようという気が全く起こらなかった。
「すいません。すぐ帰りますから」
 葉月が、その二人の男女を押しのけるようにして家庭科室から出て行く。脳内には、漠然と何かが終わったという感触がねっとりと染み込んでいく。しかし、あの二人は一体誰だろう。妙に落ち着いた身なりからして先生でもなさそうだし、顔に見覚えもない。亮介がそう思ったとき、丁度その女性の方が声をあげた。
「倉田さん……ですか、帰らないで下さい。私達は先生じゃありません」
 年配の女性らしい、水分を含んだようにしっとりとした声だった。小さくなっていた葉月の背中が、そこで止まった。その場で固まっていた他の四人の動きも、止まった。その女性はゆっくりと頭を下げた。隣にいる男性も、それに続いた。
「はじめまして。浅水陽菜の両親です」


 ◎


「この時間に訪ねれば、皆は絶対に家庭科室にいるからって陽菜が教えてくれたんです。陽菜はしきりに昼食の心配をしてましたよ。大丈夫かな、誰が作るんだろう、って」
 その女性、つまり陽菜の母親は、実に楽しそうに含み笑いを漏らしながらそう言った。真っ黒な髪を後ろで束ねているため、ふっくらとした額が露になっている。顔には皺が刻まれているが、それは年齢を感じさせない。輪郭線や顔のパーツそれぞれの形の格調の良さを、更に際だたせるような皺のラインだ。高い鼻の右側面にある黒子が、女性特有のかわいらしさを演出していた。
 隣にいる男性、陽菜の父親はまだ一言も話していない。テンポ良く相槌を打つ実果の横顔を、まるで自分の娘を見るかのような目で見つめている。実果もそれに気付いているのか、肌が緊張したように強張っている。陽菜の父親は、中年という言葉に全く当てはまらなかった。本当に、丁寧に歳を重ねてきたといった感じだ。実果の相槌に合わせて、きちんと整えられた髪が乱れることなく上下し、すっきりとした一重が細くなったり長くなったりしながら表情を作る。服を挟んで見ても、そのからだがすっきりと引き締まっていることがわかる。片づけられていない保健室の内装に、内面から整えられているような陽菜の両親はなんだか似合わなかった。
 あれから亮介達は、陽菜の両親を保健室まで案内した。「お話なら、ここでしますのに」そういう陽菜の母親を宥めるのは実果が一番上手だった。「そう言わずに、お母さん。ここでは暑いでしょうから、保健室まで案内します」さらりとこぼれた「お母さん」という言葉が実に自然に聞こえる。実果は、若女将のような手慣れた口調で陽菜の母親と言葉を交わしながら、保健室まで誘導した。亮介達は何も言わずに、後ろからついていった。
「ここで陽菜は寝ていたんですか」
 母は、妙にぽっかりと空いた一角を見据えてそう言った。上品な二重瞼が、うっすらと細くなる。
「はい」実果はそう言うと、「陽菜さんは六人の中でも一番寝付きが早かったんですよ。布団に入ったら、すぐに寝てしまいました」と続けた。
「……そうですか」
 母は、たんぽぽの綿毛のようにふんわりと微笑むと、黙り込んだ。父親は、視線を落としている。やがて、母が口を開いた。
「陽菜は本当に、ここでの生活のことをよく話します。倉田さん、でしたよね? あなたの名前も、陽菜から聞いたのよ。皆さんの名前もよく聞きました。矢崎君、藤田君、岩崎君、南条さん」
 母は、少し落とした視線を動かさずに、言う。五人に語っているというよりは、物語を朗読しているような口調だった。それほどに落ち着いて聞こえる。自分の娘のことを、これだけ客観視して語れる母親は少ない、と亮介は思った。
「本当に、本当に楽しかったって言っています。毎日が楽しかった、特に皆でやった花火は最高だった、こんな夏休みははじめてだった、と」
 母の言葉は、五人それぞれの記憶に追いつき、それを追い越していく。花火をしたあの夜のことが思い出される。いつもは自分の意見を主張しない陽菜が、「私も花火をしたい」と言い張ったあの日。夜の屋上で、花火の光に照らされた陽菜の笑顔。陽菜の言葉が思い出される。
 ――最後のチャンス――
「……どうして」
 香太が口を開いた。
「どうして陽菜さんは、ここから去らねばならなかったんですか。陽菜さんは、もう嘘をつくのがつらい、皆に迷惑をかけたくない、そういって何の説明もなしにここからいなくなりました。僕はどうしても、それが納得いきません。もう、からだも長期間学校に通えるほどに回復していたはずだし」
「陽菜はもう、高校生にはなれないと言われていた」
 香太の訴えを包み込むような、父の声がした。低く、床の底から響くような声。
「陽菜がついていた嘘というのは、そのことだろう。長期間学校に通えるなんてことは、今の陽菜のからだでは到底ありえない話だった。ちゃんと病院に入院して、最高の治療を受けていれば成人までは生きていられると言われていたが、陽菜はそれを拒否した。入院はしない、家にいると言い張った。これから家庭生活を送るとして、陽菜に残された時間は長くても来年の春まで、だった」
 香太は、口を閉じることを忘れているようだった。自分がさっき発した言葉が、ぽろぽろと小さく砕けて崩れていく様を、見届けているようだった。
「家庭生活でさえ辛かったはずなのに、陽菜は、この生活のことを相談してきた。どうしても皆と一緒にいたい、最後の夏だから。陽菜はそう言って聞かない。説得できなくなった私達は病院の先生に相談した。岡野医師というんだがね。食後の薬も毎日の注射も約束し、三日に一度は病院に検診に来るようにと言われた。それで、ぎりぎり夏中はもつと思う、と」
 銭湯までの行き、帰り。毎日の料理。花火。屋上での掃除。全てのことは、陽菜の命の風化を速めていた。
「それでもやっぱりきつかったんだろうな。迷惑をかけたくないっていうのは、この生活を送っている最中にもし自分が息絶えたときのことを考えていたんだろう。そうすれば、この生活のことが公になるし、更に自分の死によって皆はきっと責任を感じる。どうして気付いてあげられなかった、どうしてこんなことに参加させてしまった。皆がそんな傷を背負っていかなくてもいいように、陽菜は自ら、ここから去ることを決意した」
 父の声は、淡く、単調だった。音の高低や音量の大小、声としての波が無かった。感情の抜け落ちてしまった、声。
 自ら去ることを選んだ陽菜。自らの死期を悟っていた、陽菜。
 ――今まで、ありがとう――
 ビーフシチューから立つ湯気の中で微笑む、陽菜。
 ――……ここに居たいと思わせないで、お願い――
 涙でぐしゃぐしゃになった顔で振り向いた、陽菜。
「楽しかった、って、言ってましたか?」
 実果が、父に尋ねた。「陽菜さん……本当に、楽しかったって、言ってたんですか?」
「あぁ」父が頷いた。
「君たちが責任を感じる理由なんて、少しもないんだよ。それにまだ、君たちとの思い出話は陽菜からたくさん聞ける。ここにあんまり長居してしまうと、陽菜から聞く話が少なくなってしまうな」
 父は、ふ、と緊張の糸が消えたように目を伏せた。睫毛が頬にかかる。その表情は、安堵と切なさの入り混じった複雑なものだった。
「帰ろうか、母さん」
 父が、母の肩に手を置いた。「はい」かろうじて聞こえてきた母の声は、かすかだったが確実に震えていた。掌で表情を隠すようにして立ち上がった母が、そのまま頭を下げた。最後まで、母の表情はわからなかった。


 ◎


 陽菜の両親の訪問からはもう十日以上経っており、八月を告げるカレンダーはもう四段目に突入していた。あの日から、心から美味しいと言える食事は口にしていない気がした。「私達が料理下手だってことくらい、知ってたでしょ?」そう毒づく女子二人ですら自分で作った料理を完食しようとしない。それなのに空腹にあまり襲われないのは、未だどこか無気力に生きているからだと亮介は思った。
 あの日から、確実に抜け落ちてしまった生活の芯となる部分が戻ってきたことはなかった。両親が訪問してきたことにより、陽菜という存在の質感だけが蘇る。だけどそれだけでは、芯の屋台骨にもならなかった。今五人の中に存在する芯は、プラスチックで出来たストローのようなものだった。細く脆く透明であり、何もかも抵抗なく通り過ぎていく。透き通った水が、透明なストローをさらさらと通り過ぎていくように、血液は流れる。透明なものが、透明なものを通り過ぎてもわからない。まるでそんな感じ。
「いい加減、無気力やめない?」
 いつか、葉月が吐き捨てるようにそう言った時があった。
「こんなことしてたってなにも変わんないよ。皆勘違いしてない? 浅水陽菜は死んだわけじゃないよ。入院してるんだよ。なのになんであたし達がこんなに死んでるわけ?」
 葉月は立ち上がった。「飲み物買ってくる」ポケットの中に入っている小銭をちゃらちゃらと鳴らす。「私も行く」続いて立ち上がる実果。この無気力な範囲からどうにかして抜けだそうと、必死に何かにしがみついているように見える。
 亮介はシャーペンを置いた。何だか全てが失せた。シャーペンを持つ握力も暑さを感じる皮膚もあぐらをかいていた足も机についていた肘も光も匂いも色もどれもこれも。それは宏樹も香太も同じようだった。なぜだかあれから、必要最低限なことしか会話をしていない。前のように、他愛もない雑談をすることはなくなった。
 ラジオからこぼれ落ちてくるノイズを拾い集めて、無理やり繋ぎ合わせても何にも成らない。逆さにひっくり返って、ぐちゃぐちゃになってしまったパズルのピースのようだ。例えひとつふたつ欠片が足りなくても、無理に形を出来上がらせる。例えピースが違ったとしても、無理やり隙間にねじ込ませる。そうして、不自然な自分が出来上がる。
「なぁ」
 かなり前に電池が切れてから全く充電していない携帯を、子供のおもちゃのように弄びながら、宏樹が口を開いた。アンテナを最大限にまで伸ばして、それを親指と人差し指で摘み、くるくると回している。アンテナが歪んでしまわないかと心配になる。
「やめようぜ、無気力」
 そういう宏樹が一番無気力に見えたが、どうしようもない説得力が宏樹の声には存在した。携帯を布団の上に投げ捨て、上半身を後ろに倒す宏樹。そして手を伸ばし、大きな窓を開ける。「毎日クーラー漬けで、からだが痛ぇ」窓から入り込んでくる微量な風が、宏樹の茶色い前髪をかすかに揺らした。
 香太が、ラジオのボリュームを上げた。今までに誰に聴かれているわけでもなく無駄に垂れ流されていた曲が、命を持つ。ばらばらになっていた音符達の欠片が、五線の上で繋がる。ステイシー・オリコの「スタック」だ。
「ステイシーじゃん。趣味いいね」
 片手に一本ずつ、アクエリアスの大きなペットボトルを持ち、実果と葉月が帰ってきた。「スタックもいいけど、私はモア・トゥ・ライフの方が好きだな」「あたしは絶対スタック。このしびれるようなメロディラインが好き。ステイシーはバラードじゃなくて絶対アップテンポだよ」葉月が、きゅ、とペットボトルの蓋を回すと、そのままラッパ飲みをした。喉を鳴らしながらアクエリアスを飲む葉月は、さながらCMのようだった。
「俺にもちょうだい」香太が、実果のアクエリアスに向かって手を伸ばす。
「だーめ。これはこの後の褒美のために取っておくんだから」実果が、香太の手の届かないところまでアクエリアスを上に上げた。
「この後の褒美?」転がせていた上半身を起きあがらせ、宏樹が訊く。実果がにっこりと笑った。そして、アクエリアスのラッパ飲みを終えた葉月が、はぁっと大きく息をついた。
「屋上の掃除の、仕上げをするの!」


 ◎


 あの日から、屋上の掃除はしていなかった。屋上にあがってもいなかった。陽菜がいなくなってから、たまに皆で屋上に行って星を数える事も、受験勉強の合間に屋上のホースで水遊びをする事もなくなった。まだ元のようには戻っていない屋上のタイルのことなど、いつの間にか飛ばなくなった蛍のように忘れていた。確か、残っている汚れはほんの少しだった筈だ。亮介は、屋上へと続く長い階段を上る。部活が終わってからこれといった運動をしなくなったため、すぐにからだが息切れをし出す。
「なんか懐かしくない? 屋上」
 誰よりも軽やかに階段を駆け上がりながら、実果が言う。「夏休み前は、ほとんど毎日集まってたのにね。この生活のための会議でさ」私、ほんとはこの生活がうまくいくと思ってなかった、などという本当に今更なカミングアウトをしながら、実果は雑巾を振り回す。
「南条、埃飛ぶ……っ」顔の前でほうきをばさばさと振り回すのは香太だ。「南条の雑巾から埃が飛んでるんだってっ」
 久々に訪れた屋上は、以前よりも風通しがよくなったように感じられた。全く障害物のない白いタイルの上を、透明に近い蒼の風が川の流れのように過ぎ去っていく。それは、夏の終わりの匂いを運んでいた。その匂いは、この生活に終わりが近づいていることを意味していた。
「よーっし、やるか!」
 香太が、ブラシで空を突き上げた。一段と高くなったような空を、好き勝手な方向に伸びるブラシの毛先がつつく。香太の声が合図となったように、葉月が勢いよくホースの水を撒き散らした。白いタイルにますます清潔さが加わり、少しの汚れでもよく目立つ。「終わったら、皆でアクエリアス飲もうよね」
 しゃかしゃかしゃか、とブラシの気持ちのいい音がする。長い間放っておいた黒ずんだ汚れはしっかりとタイルにこびりついており、なかなか落ちない。ここまでくると、汚れのタイルへ対する醜い執着心を感じる。「そんなにこびり付いてたいなら、そのままいればいいじゃん」視界の隅で、葉月の雑巾を投げ捨てる様が見えたようが気がした。
 太陽は今日も眩しい日差しを一直線に注いでいる筈なのに、絶対的な暑さは感じなかった。びっしりと、背中の毛穴全てを埋めるような汗は沸いてこない。ブラシを踊らせる度に足首にかかる、快い雫が爽快だ。五人はいつしか裸足になっていた。思い思いの方向へと背を伸ばすひまわりのように、五人は素足を踊らせた。ぴちゃぴちゃと飛び散る雫が、光に透ける金平糖のように輝いていた。
 心地よい冷たさを保っていた雫達も、太陽の光に負けてぬくみを帯びはじめた頃、屋上のタイルは元の白さを取り戻していた。屋上の水たまりが、すっかり橙色に染まった空を映している。きっと、今屋上全体に水を撒いてしまえば、白いタイルは橙に染まるだろう。亮介は、水たまりに自分の顔を映した。疲れたからだに、「しっかりしろよ」と呟く。
「はい、これ!」
 一歩早く保健室に戻っていた実果が、屋上の扉を蹴り開けた。爽快な音とともに現れた実果は、右腕には大きなペットボトルを二本かかえ、左手には積み重ねられた紙コップを握っていた。「乾杯しようよ!」
 五人は一列に並び、屋上の柵から足を放り出した。空中で、両足をぷらぷらと泳がす。この真空の空間に飛び込んでしまいたいという狂気的な願望とは裏腹に、両掌はがっちりと柵を握っていた。
「お疲れさまでしたー」
 香太はそう言って、二杯目のアクエリアスを男臭く飲み干した。「ほい倉田、入れてくれ」「あんたの分はもうないよ」
「きれいになったねー、花火の汚れ」
 実果の両足の動きが、ぷらぷらと真空の空間を休みなく切り裂いている。遠い山と山の間を見つめているような瞳を、長い睫毛が隠した。
「だな。なんか予想以上に汚れてたし。それも香太、お前がふざけて、床に向かってロケット花火ーなんかするからだぞ」亮介はそう言って、香太の頭をごついた。短く刈った髪の毛が、両手の拳に痛かった。「香太、お前それワックス使ってんの?」「自然自然」「お前はりねずみだったの?」「違う違う」
 遠い山へ、シルエットとなった烏の群が消えていった。雲と空の見分けが、つかなくなってくる。濃いオレンジが、雲と空の境界線を曖昧にする。
「楽しかったよな、花火」
 そんな境界線をさらに曖昧にさせるような優しくやわらかい声が、宏樹から発された。「うん。すごく楽しかった」実果が頷く。夕陽を跳ね返す前髪が、風に遊ばれてかすかに揺れる。
「はじめは倉田が言い出したんだけど、最終的には浅水が必死になってたんだよな」
 宏樹はそう言って、まるで陽菜のようにくすくす笑った。
「そうそう。いざ屋上に来てみたら、ほんとに誰よりもはしゃいでたよね。ほんとに楽しかったんだろうな……最後のチャンス、とも、言ってたしね」
 実果の視線が、空を仰いだ。
「あの時から陽菜ちゃんは、気付いていたのかな」
 雲が、何かを隠すようにして、広がっていく。笑顔の向こうにある、癒えない傷を隠すかのように。
「気付いてたんじゃん? それに、きっと、はじめてだったんだろうね、花火。ああやって仲間とわいわいするのも」
 葉月の茶色がかった目は、ガラス玉のように繊細だった。景色を映すことに精一杯で、それ以上のものを映し出していない。もう戻れない日々も、もう見えない。
「もっと打ち上げたかったよな……でっかいやつ。あんなに空は広いんだし、どんだけでっかいの打ち上げても誰も気付かねえって。な」
 あんときは誰かさんが頭堅かったしな、そう言って香太が、亮介の頭をこづいた。「なんだよ、俺だってこんなことになることわかってたら、オッケー出してたよ」髪の毛をくしゃくしゃと乱す香太の手を振り払いながら、亮介は言う。そんなふたりに挟まれながら、宏樹は言葉をこぼすように言った。
「だけど多分、こんな風になることわかってたら、俺達止めたよな。浅水がこの生活に参加すること」
 宏樹は続ける。
「こうやって、かけがえのない思い出の代わりに命を削ることと、はじめからこの生活への参加を止めて少しでも命を長引かせること。どっちが、正しかったんだろうな。……浅水は思い出を選んだからこそ、俺達に嘘をついてたんだろうけど」
 掌に精一杯掬った水が、指と指の隙間からぽろぽろとこぼれ落ちていくように、宏樹の声は流れた。空の橙色が濃くなっていく度に、投げかけられた質問に答えるのは困難になっていく。
「……わかんない、そんなの。多分、陽菜ちゃんにしか、わかんない」
 葉月が、紙コップに残っていた最後のアクエリアスを飲み干した。
「ちっちゃいよね、私達って。夕陽見てたらほんとにそう思えてきちゃった。自分たちがなにしたって世界は変わらないって感じ。陽菜ちゃんだけじゃなく、私達も皆病気で、皆いっせいに死んじゃうことがあっても、世界は何も変わらないだろうね」
 実果が、空になったペットボトルに蓋をした。伏せた目が、夕陽を映して橙色に染まる。それはまるでミルフィーユのように何重にも折り重なった、繊細な哀しみの露頭に見えた。
「ふ、と消えても誰も気付かないくらいちっちゃくて、繊細で、脆くて……だけど、だからこそ大切に扱われるんだよね。ちっちゃい人間がいっぱい集まってるんだもんね。この世界には」
 自分に言い聞かせるように、実果が言う。私達は確かに小さすぎるかもしれない。だけど決して無意味なんかじゃない。そう、言い聞かせているように見えた。そして陽菜に語りかけているようにも。
 小さすぎた命。小さすぎて包めなくて、救えなかった。たんぽぽの綿毛のように消える、その脆さ。
「……なあ皆、聞いてくれるか」
 宏樹はそう言いながら、上半身をタイルの上に預けた。今まで張っていた気を緩めたような、そんな目をしている。
「俺は自分で、そんな自分の命を、からだを傷つけてきた」
 突然、宏樹の吐き捨てた言葉の意味を、四人は瞬時に理解することなど出来なかった。宏樹は寝ころんだ姿勢のまま、拳を握りしめた右腕を空へ突き出す。そこには、宏樹はいつもつけている黒いリストバンドがある。宏樹は左手で、それを外した。随分長い間日光を浴びていなかったようだ、その部分だけが酷く白く細かった。
 そして、焼け爛れたように皮膚が波うっていた。
「これは煙草を押しつけた痕だ」
 亮介は、宏樹が喫煙者だということを知っていた。からだにはその匂いが染みついていたし、時々屋上で吸っているところを見たことがあった。そして同様に葉月もそれを知っていた。はじめて屋上で出会った時、宏樹は煙草を吸っていた。
 波うった皮膚は、夕陽によって歪な影を生む。
「はじめての痕は、親から付けられたものだった。泣き叫ぶ俺の腕に、あの人はまだ火のついている煙草を押しつけてきた」
 亮介の腕に、皮膚が融けるような痛みが走った。言葉で聞いただけなのに、宏樹の痛みは伝わる。想像の世界では、それは酷く気持ち悪い痛みを持っていた。
「小学校に入る直前だった。学校が嫌だ、と泣き叫ぶ俺に、あの人は言った。あんたが悪いんだ、あんたが悪いんだよ。煙草の痕は毎日増えた。俺がそれによって更に泣き叫べば、あの人は狂ったように叫び続けた。あんたが悪い、あんたが悪い」
 亮介は耳を塞ぎたくなった。想像したくなった。意識だけで耳を塞ごうとしても無理だった。宏樹の流れるような声は、溶岩のように亮介の耳に流れ込んでくる。言い様のない痛みを持ち合わせながら、それは熱く流れる。
「俺が無事に学校に通うようになってから、煙草の押しつけはなくなった。だけれど会話もなくなった。あの人なりに責任を感じていたのかもしれない。だけど俺はあの人のことを許していなかった。そして、それを忘れないために、今度は自分で痕を付け続けた」
 親のことを「あの人」と呼び続ける痛みと、腕に煙草の火を押しつける痛みは、どちらが痛いのだろうか。亮介にはわからなかった。
「煙草を吸っているのは、煙草を所持していることをカモフラージュするためだった。吸ってもいないのにライターや煙草を持っていたら怪しまれるだろ? だから俺は吸った。そして腕に押しつけ続けた。皮膚は焼けた」
 葉月は変わらずに視線で空をなぞっていたし、実果の足はぷらぷらと動き続けている。香太は両腕を後ろについて、三点でからだを支えるような姿勢をとっているし、宏樹は寝ころんだまま話を続ける。皆ただ、変わらぬ様子で宏樹の話に耳を傾けている。そんな姿に、亮介はとてつもなく大きな優しさを見た。
 宏樹は、空へ突き上げ続けていた右手を、ゆっくりと下ろした。そしてまた、リストバンドをはめた。
「浅水に会って、何て俺はばかなんだろうて思ったよ。あんな細いからだで一生懸命な浅水見てると、こんなごついからだ授かったのに自分で傷つけてる俺がばかみたいでさ。煙草の痕で、なにを忘れないようにしてたのかすら忘れちまった。なーにしてんだろ、って、思ったんだ」
 宏樹は、両手を後頭部へと持っていく。そして、空の奥を見透かすように目を細めて、小さく呟いた。
「母さんだって、こんな俺見たら、悲しむよな」
 宏樹の口から「母さん」という単語を聞いたのは、これがはじめてだった。
 あの人。母さん。亮介は、自分の母親のことを思い出していた。母さんは、母さんのもとから逃げだした俺のことを見て、どう思うのだろうか。悲しむだろうか。嘆くだろうか。今どうしているのだろか。あの人。母さん。
「大ばか者ね」
 葉月の凛とした声がした。葉月の視線はまだ、途切れることのない空の曲線をなぞりつづけている。
「確かにあんたは大ばか者だよ。……だけど、それに気付けたんだから、大ばか者から脱出する道が開けたってことじゃん」
 そう言いながら葉月は、「よっと」と力むと柵からぶら下げていた両足を、タイルへと引き抜いた。「そろそろ夕飯時だし、帰りますか!」
「今日は、あたしが腕によりをかけてパスタでも作ってみようかな!」
「それはやめてくれ!」香太が、葉月の言葉が終わるが早いかに立ち上がる。「俺も出来る限り協力するから、「腕によりをかけて」とかいう恐い台詞は言わないでくれ」「はぁ?」凄みの効いた声と眉で、葉月は香太に歩み寄る。屋上のタイルは、葉月の足音と選手宣誓をよく反響させた。「もう決めたの! 今日はあたしが作ります。これは宣誓だから!」
 葉月が空のペットボトルを振り回しながら、屋上を駆ける。「実果行くよっ、女子の底力見せてやるんだから!」「わかってるー!」実果も即座に柵から足を引っこ抜き、葉月に続いて走る。「あたし達先に家庭科室行ってるから! おーいしーパスタを期待しててね」振り向き際の笑顔が酷く恐く、香太は直視出来ずにそこに立ち尽くしていた。
「びっくりした?」
 宏樹が、からだを起こさずに訊く。試すような視線が、懐かしく幼い。
「いや。お前がなんだかわけありだってことは、なんとなく気付いてたから」
 出来るだけの平静を保ちそう言うと、
「そっか」
 とだけ言って宏樹は笑った。夕陽のてっぺんを発見した冒険者のような、笑顔だった。



















 窓の外を向いている熊の人形を、右手で少し動かす。今年二回目の大粒の雪を見ていたかのような熊は、部屋を見直す。暖房で無理に暖められた部屋の窓ガラスには、幾千もの水滴が付着している。時々、手を繋ぎ合っては直線の軌跡を描いて落下する。部屋に入った途端、外で自転車に乗っていたために冷えていた顔が一瞬にして火照るのを感じた。体温のぬくみを密封していたマフラーを外すと、首だけが新鮮な冷たさを纏う。マフラーに弾かれている氷の粒がかすかに痛い。
 実果は、雪に濡れた重い鞄を机の上に投げ出すと、ベッドに仰向けになった。木で造られたベッドには弾力性が備わっていないため、無数ある木目がそれぞれに軋む音がする。準備運動もなくフルに使った脳が、目を閉じることによって少しずつ安らいでいくのを感じた。堅く硬直した脳が、あったかい麺棒で徐々に広げられていく感触がした。
「実果」
 麺棒で伸ばされた生地にぱらぱらとチョコチップでも振りまくように、父の声が聞こえてきた。逞しいバリトンに重なるようにして、コンコンと律儀な二回のノックが響く。
「はい。お父さん」
 ヴァイオリンのような伸びやかなソプラノで、実果は言葉を返した。間もなく、がちゃりと音をたてドアは開かれ、父の厳格な顔が覗いた。久々に見る父の顔だった。
「ご飯だぞ、実果。――久しぶりだな、顔見るのは」
 父は、ドアを開けても決してそれ以上部屋に入ってこない。プライベートゾーンというものを潔癖性のように気にする。実果にとってはありがたいことだったが、それは父の厳格さを尚更際だたせていた。
「久しぶりだね。ところで、今日のご飯はなに」
 実果はそう言って、制服の冬服を脱ぎながら微笑んで見せた。
「今日は寒いから、奮発してしゃぶしゃぶだそうだ」「そっか。楽しみだね」
 実果はこうやって、まだどこか理想の娘像を演じていた。うまく会話を繋げる娘、父親とも他愛のない会話をできる娘を演じ続けていた。ほとんど癖になってしまった仮面は、そう簡単には取り外すことが出来ない。
「ごめん。着替えるからドア閉めて下さい」
 クローゼットからワンサイズ大きいセーターを取り出すと、実果はそう言った。「あぁ、わかった。早く降りて来いよ」というバリトンが、厚い木の板を挟んだ向こう側から、くぐもって聞こえてくる。階段を下りる足音が遠ざかっていく音を確認したのち、実果は大きく息を吐いた。緊張、する。父さんと会話を交わすことは、なぜだか。
 セーターをかぶると、静電気で髪の毛がぱちぱちと音をたて命を持ったかのようにくしゃくしゃと跳ねる。ドアを開ければ、かすかに部屋へと入り込んでくる美味しそうなしゃぶしゃぶの香り。香りにはプライベートゾーンもなにも存在しない。それくらいフランクなつきあいが出来た方が、実果としては気が楽だった。
 だけど、どことなくお父さんも緊張しているみたいだったな。実果は思う。お父さんは少なからずあの日、衝撃を受けた筈だ。今まで従順に微笑み続けていた娘のはじめての反乱だったのだから。あれからの父は、どこか自分自身を創っているように見えて仕方がなかった。さっきだって、わざわざ夕食が出来たなんてことは普段は言いに来ない。今日もきっと無理して早く帰ってきたのだろう。そんな父の姿を見透かしておきながら、実果も期待に応えるかのように笑う。これではあの日より前の生活と何も変わっていないように見えたが、それは違った。積極的にコミュニケーションを取るようになったという事が、実果にとっては大きな第一歩になっていた。このぎこちなさがやがて、自然だと思える日が来るはずだ。
 実果は「あの日」のことを思い出していた。絶対王政に耐えられなくなった、小さな平民による反乱を。
 実果の父が学校に訪れたのは、あの最後の屋上掃除を行った二日後のことだった。それはあまりにも突然の出来事だった。がらりとドアを開け仁王立ちしていた父の姿を、実果は何も言えずに見つめていた。お父さん。どうしてここにいるの。全身から引き潮のように血が引いていくのを感じた。手が冷たくなる。絶対的な終わりの予感が、そこには存在した。
「実果、帰るぞ」
 シャーペンを握ったまま硬直している実果の右腕を、父は乱暴に握った。そしてそのまま強引に実果を立ち上がらせた。父の目は鋭かった。実果はこの時、「父親」の威圧感、そして力強さというものをはじめて感じた。お父さんの掌って、こんなにも広くて歪な形をしていたんだ。振り払えない掌を憎々しげに睨んだ。
「どうしてここにいるんですか」
 実果は手を握られたまま、父の鋭い目を睨んだ。切り裂くような、眼光。父の視線は刀のようだった。だめだ、負けるな。実果は視線を逸らさなかった。ここで視線を逸らしたら、この手に従ってしまっては負けだ。葉月も亮介も宏樹も香太も、何も言えずにそこに座っている。シャーペンを持つ手は全く動いていない。持ち主のいなくなったマリオネットのように、そこに座り崩れていた。
「私が羽衣総合病院に資金を援助していることは知っているな?」
 父は、口だけを動かしてそう言った。顔の角度も眼光も頬の張りも手を握る強さも何も変えず、ただ口の形だけを変えた。蝋人形のような父からの言葉に、実果は動揺を走らせた。羽衣総合病院って、陽菜ちゃんが入院しているところじゃない。実果は何も言わなかった。
「そこの院長の岡野から、素晴らしく感動的な話を聞かせてもらったよ。浅水陽菜という難病の少女が、最後の思い出づくりに、と仲間とともに学校で日々を過ごしたというじゃないか。先生や世間の目を盗んで、仲間との楽しい生活を。彼女にとっては、最後で最高の思い出になったんだろうな。毎日のようにベッドの上で話してくれるらしい。その生活のこと、そして、一緒に過ごした仲間達のことを」
 父は、言葉で実果を折り畳むようにして話を続ける。
「あの人達は私の第二の家族だったと、楽しそうに話していたそうだ。お父さんみたいな大黒柱、岩崎亮介。頼れるかっこいいお兄ちゃん、藤田宏樹。ひょうきん者の末っ子、矢崎香太。そんな男共を統率する長女、倉田葉月。そして、皆を優しく見守るお母さん、南条実果」
 私は、そんな家族に包まれてすくすくと育つ、生まれたばかりの赤ん坊なの。か細く高い陽菜の声が、聞こえてくるような気がした。
 その瞬間、実果の左頬に、勢い良く地面に叩きつけられたような痛みが走った。顔ががくんと横に動いたのがわかった。「南条さん!」亮介の声が揺れて聞こえた。熱を持った頬を押さえてやっとわかる、私はお父さんに殴られた。
「お前はどうしてこんなにも私を困らせるんだ。娘がこんな非行に走ったと知られたら、どんな顔して街を歩けばいい。どんな顔して新しい法案を提示すればいいんだ。お前は少しでも、私の気持ちを考えたことがあるのか」
 南条さんやめてください、と、亮介が実果の手を掴んだ。父のものとは違う、人間味のある体温を感じる。
「お父さんのことなんて考えたことない」
 実果は言い放つ。亮介は止める。
「だってそれ以上に、お父さんが私のこと考えてくれないから」
 もう一度、左頬に痛みが走った。先程の貫くような痛みとは違い、少し免疫力を持った鈍い痛みだった。じわじわと、水面の上を伝わる波紋のように痛みが膨張していく。
 それでも実果は続けた。
「お父さんの方が私のこと考えてない。私が今までどんな気持ちで家にいたと思ってたの? 苦痛でしかなかったよ。家庭なんて。いつもいつも理想の娘像を私に押しつけてきたよね。あんなの私じゃなかった。私は、お父さんのために必死に他人を演じてた。お父さんの気に入るような、南条実果ではない誰かを」
 亮介の手が、実果の腕から離れた。一瞬にして蒸発する、亮介の体温。
「私がお前のことを全く考えていなかっただと?」
 父は、実果の腕をもう一度強く握った。筋肉が軋む感触がする。
「私はお前に全てのものを与えた。学力を育てるための環境、広い部屋、欲しいといったものは全て与えた。高かったものも買った。おいしいものも食べさせた。なのにお前は、そんなことをいうのか」
「私が欲しかったものはそんなものじゃない」
 ほとんど、父の声に乗るようにして実果は言った。
「私がいつそんなもの欲しいって言った。それは、お父さんの見てる幻想の娘が言った言葉よ。私はそんなものいらない……今すぐ返す、そんなもの」
 実果はそう言って、父の手を振り払った。赤く残っている掌の痕が、かすかな痺れをもたらす。
「私は、ひとりじゃない時間が欲しかった。お母さんでもお父さんでも良かった。一緒にいてくれればよかった。塾なんかに放ってほしくなかった。私を私でいさせてくれる時間が欲しかった。成績が良かったからって頭撫でられたって全然嬉しくなかった。新しい勉強机だって壊してしまいたかった。夜中に冷め切ったコロッケ食べても全然おいしくなかった。もう私なんてどこにもいなかったの。私は自分を見失っていた」
 隣で呆然と立ち尽くしている亮介の視線が、実果の横顔をなぞる。亮介は、実果に自分の姿を重ねていた。自分が、自分でいられる環境が欲しかった。その言葉は、まるで亮介の気持ちを代弁してくれているかのようだった。
「俺の両親は、もういない」
 項垂れるようにして座っていた香太が突然、口を開いた。
「親子でいられるうちに、わかりあっておかないと、知り合っておかないと、遅いんです。いなくなってからでは、もう遅いんです。俺は今、猛烈に後悔しています」
 俯き気味の顔をあげるわけでもなく、声は震えているわけでもなかった。だけど、そこには絶対的な説得力と、もう決して埋めることは出来ない大きな空洞の存在を感じた。
「あたしも、思う」
 葉月が、実果の父を見据えた。
「あたしには、父親の愛情が重すぎた。もう自分では身動きが取れないほどに、父からの愛情に縛られた。それが辛くて、あたしはここに逃げだしてきたの。方向性は違うけど、あたしは実果と自分は似ていると思う。家族愛と束縛は、違います。家族愛は、押しつけるものじゃない、お互いに与え合うものです」
 葉月はそう、言い切った。葉月の眼光は、鏡のように、全てのものを平等に映し出す。美しいものも、汚れてしまったものも。
「俺は母さんが憎かった」
 宏樹は、リストバンドを強く握りしめた。
「きっと、母さんも俺のことが憎かったんだと思う。そして俺も母さんを憎んだ。会話もしない、目も合わないような日々が数年間ずっと続いてる。埋めたくても、もうどうにもならない溝が俺達の間にはある。そうなってしまったら、会話をしたくても言葉が見つからなくなる。それは悲しすぎることなんだ。あまり束縛を押しつけてしまうと、憎まれる側に立つことになるかもしれませんよ」
 宏樹はそう言った後、ゆっくりと南条氏を見つめた。それは、その人の在り方を問いただすような、そして咎めているような視線だった。誰も知らないところで、誰にも聞こえないように、徐々に沈降していく土地のように、重く存在感のある視線がこの空間の底を支配した。
 亮介は口を開いた。
「俺は」
 そして続けた。
「俺は、自分が息子じゃなくてもいいんじゃないかと思うことがしょっちゅうある。勉強が出来て成績のいい子供なら、俺以外の人間でも別にいいんじゃないかと思う。母さんが求めているのは俺の成績じゃなくて、「5」が並んだ成績だから。俺は南条と同じように、親の求める理想像をずっと演じ続けてきた。そうじゃないと俺自身、岩崎亮介を保てないと思っていた。だけどそれは違った。もう疲れた。もう、自分以外でいることには、疲れた」
 亮介は、はじめて自分の胸中を口にした。そうすることで、からだ中を巣喰っていた毒素が、す、と抜けていくのを感じた。何かが取り憑いていた背中から、リュックサックを下ろすかのようにすっかりと毒素が落ちていく。
 からだの中がすっかりと空洞になってしまったかのような開放感。実果も今、それを感じているのだろうか。
「帰るぞ」
 南条氏は目を逸らすようにしてそれだけ言うと、強引に実果の手を引っ張った。実果ももう抵抗はしていなかった。「荷物をまとめさせてください」他人に対して吐くような声でそう告げると、実果は無言で自分の荷物をまとめ始めた。「実果」そう言って、実果の肩に手をかける葉月に少しだけ微笑む。「私はもう帰る。お父さんと話をする機会を見つけた今、私がここにいる理由はないから」実果は不思議な義務感を背負っていた。ここにいる理由。実果は確かにそう言った。果たしてここにいることに理由なんてあるのだろうか。だけれど理由もなしにこんなことをしたのでは、自分達はただの現実逃避に酔っているだけだ。六人とも皆、何か理由があってこの生活に参加したことを、亮介は思いだしていた。
 だから陽菜は去った。思い出を作りたいという理由を叶えられたから。だから実果も去る。父親とわかりあう糸口を見つけたから。
 ならば自分は?
 親の束縛から逃げようとしている自分は? 子供が誰でもいいような環境を壊したいと願った自分は?
 実果が去り、残された四人はその場に座り崩れていた。ここにいる理由。四人は見つめた。保健室という場所が、意外に広いということを知らされた。


 ◎


 呆気なく崩れたあの生活の行方を、実果は知らなかった。学校が始まっても誰もあの生活のことは話さなかったし、もう振り返ることもなかった。先生にも全く勘づかれていないようだ。今頃、自分達の手際の良さに敬服する。
 でもきっと、皆は夏休みの最後をあの場所で迎えることなく、家路についたのだろう。実果はそう考えている。あの時皆は、心のうちに溜まっていた毒素を全て吐き出していた。それは実果も同じで、それにより家に帰ることを当たり前のように決心したのだった。きっとそれは皆にも共通していえることだと思う。実果は階段を下りていく。しゃぶしゃぶの香りが、実果のプライベートゾーンを軽々しく崩す。
 食卓はまだ、どこかぎくしゃくしている。母は緊張した面もちでテーブルに皿を並べているし、新聞を広げている父の背中もどこか不自然だ。「実果、お茶」そう言ってガラスのコップを差し出す母の手が、かすかにだが震えていた。実果は今まで見たことのない両親の幼さを垣間見た気がして、感情を隠すように笑った。「お母さんのも入れてあげるからコップ貸して」少しだけ、意地悪もしたくなる。余計に震える母の右手が、妙にかわいかった。
 皆と、その家族が今どうなっているかはわからない。誰とも近況報告をしていない。クラスの違う葉月や香太に至っては、言葉も交わしていなかった。廊下ですれ違う時には、心が擦れるような痛みを感じた。すれ違う度、心がどんどん擦り減っていく。「葉月」一度だけ、すれ違いざまに小声で名前を呼んでみたことはあったが、葉月は振り向かずにそのまま茶色い髪をなびかせ歩いていった。実果の声が小さすぎて届かなかったのか、故意的に振り向かなかったかは未だに分からない。
 香太に至っては学校に来ているかどうかも危うかった。今まで苦労して母を働かせていたことを償おうと、自分でバイトでもしているのかもしれない。学校で香太の姿を見ることはなくなった。もしかしたらまだ陽菜の病院に通っているのかもしれないな。もう、空っぽになった病室を毎日掃除し続けているのかもしれない。実果はそんな香太の姿を想像して、甘酸っぱい切なさを覚えた。
「実果? 食べましょう」
 考えに耽っているように見えたのだろうか、母が、実果の目の前で掌をひらひらと泳がせた。
「うん、ありがとう」
 いつの間にか、自分の取り皿に盛られていた肉を見て、実果は言った。濃厚な垂れに肉をまぶせ、口の中に含む。ほくほくとした暖かさと皮膚を洗うような旨味が、口の中いっぱいに広がった。
「おいしい」実果がそういうと、
「そう」と母は笑った。それは酷く視線な笑みだった。
 父はまだ新聞で顔を隠すようにしていた。時々ひょっこりと顔を出しては、箸で不器用に肉をつまみ、口へ運んでいる。間合いをとるようにこまめにビールを口に含む。つくづくお父さんにはビールが似合わないなと思い、実果はお茶を差し出した。
「なんだ?」
 やがて新聞から顔を出した父は、ビールとすり替えられたお茶の存在に気付き、笑っている実果に対して訝しげな目線を送った。その眉の寄った表情がいかにも「父親」らしく、それがおかしくて実果は更に笑った。
「お父さんにビールは似合わないよ。枝豆も。お茶と豆腐がお似合い」
 実果がそう言うと、母もくすりと声を漏らし、「あなたったら。豆腐ですって」と父の肩に手を置いた。それは実果には酷く自然な動作に見え、なぜだか実果が恥ずかしさを感じた。
 赤く染まり、熱を持った頬に気付かれないように、実果は冷たいお茶をからだに流し込んだ。もう季節は完全なる冬に移っており、受験という二文字はすぐそこにまで迫っていた。毎日保健室で、廃校前の中学校のように六つ机を並べて勉強していたことを思い出す。わからないところがあれば皆が亮介に訊きに行き、少し苛立ったように、だけどどの先生よりもわかりやすく亮介はアドバイスをしてくれた。もしあの時亮介がいてくれなかったら、実果は今頃志望校を変えていたかもしれない。そう思っている。
 今でも全てが鮮明に思い出される、夏。だけどもう思い出してはいけないと、実果は思っていた。私達はもう、あの夏から抜けださなければならない。そこにいる理由はもう完全に消え去っており、それは皆にも等しく言える事だから。そして、あの夏から抜けださないことにはこれ以上前には進めない気がした。本当に、そんな気がした。
「ところで実果、今日だったわよね、御葬式」
 母のところに退けられた枝豆をつまむ動作を止め、母が言った。実果のからだが、もう一度熱を持った。
「うん。今日の八時から」
 秋の終わり、実果は、花束を片手に記憶だけを頼りにしてお見舞いに行った。そのときにはもう、病室が空っぽだったことを思い出す。そして、遠くからでもわかった、空っぽになった病室を掃除している香太の後ろ姿。陽の当たる場所に飾られている、花瓶に生けられた花があんなにもしゃんと背筋を伸ばしているのは、香太がここに通っているからなのだろう。実果は声をかけることができずに、そのまま歩いて来た白い廊下を引き返した。花束は、病室の入り口に立てかけておいた。
「何時くらいに出ればいいんだ」
「車で二十分近くかかるから、七時半には出た方がいいよ」
 父の質問に、一秒の間もおかずに答える。予め住所と場所は調べておいた。
「じゃあそろそろ準備をしないとまずいじゃないか。母さん、コートを取ってきてくれないか」
 父はそう言って席を立ち、皺のついたシャツを伸ばし始めた。実果も父に続いて箸を置いた。二階のクローゼットに閉まってある、冬服の制服を取りに階段を上った。真っ暗な部屋で電気もつけずに、実果は腕を袖に通す。冷たい制服の感触が、実果の心を覆った。
 実果はそのままその場に立ち尽くした。廊下の寒さも気にならなかった。ただ暗闇に意識を落とす。脳内を駆けめぐるというよりは、脳にゆっくりと昇ってくる感情。溶岩のように吹き出さずにはいられない熱を持ち、それは目頭の手前で止まった。
 パッパー
 外からクラクションの音がする。父の、早くしなさいという合図だ。実果は一度堅く目を閉じると、階段を駆け下りた。靴を履き、玄関のドアを開ける。そうすると目に飛び込んでくる星を撒き散らせた冬の空は、あの日皆で見た、屋上の上に広がる星空には重ならなかった。
 重い扉をあけ、車に乗り込む。車独特の匂いが鼻孔を塞ぐ。埃っぽさを充分に帯びた空気が、息をする度にからだの中を徘徊する。
 窓に掌を当てた。冷たい。耳を当てる。何も聞こえない。
「ハンカチ、持った方がいいわね」
 母はそう言って、実果の膝の上にしっとりとした生地のハンカチを載せた。きっと私は、遺影を見る前に涙をこぼすだろう。今あの仲間達に会ったら、きっと心をあの夏の中に置いてきてしまう。あの日から、五人全員が顔を合わせる事は初めてだった。きっとあの人達の顔を見ただけで、私の中で感情の高まりを抑えることは不可能だろう。母から渡されたハンカチの感触が、酷く無機質に感じる。実果は目を閉じた。そして、浅水陽菜の葬式へと向かう車に、身を委ねた。









2004/12/27(Mon)11:25:51 公開 / 笹井リョウ
■この作品の著作権は笹井リョウさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
お疲れ様でした。読まれた方。笑 長かったと思いますが…読んでくださってありがとうございました。
これはもう半年近く前に書いた話。そのときの心情をそのままさらけだして書いたので、今読むとなんとなく恥ずかしい気持ちになります。
青春は楽しい。いっつも笑って、友達と騒いで、でもそれなりに悩みもあって…だけど青春には必ず終わりがあって、それはすっぱくて、切ない。そんなことを感じてもらえたらうれしいと思います。
次の作品はどうしようかな…1年前に書いた「汚れたシーツ」というものを載せようか、ショートでも書こうかなと思っております。
読んでくださった方、ほんとうにありがとうございました♪
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