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『あの日』 作者:緋者そーや / 未分類 未分類
全角5675文字
容量11350 bytes
原稿用紙約18.5枚
 結局帰りは十時をまわった。
 大学四年の春。教育実習で母校の中学校に通うようになって、まだ二日目。今日は指導担当の柳沢先生に誘われて先生の行きつけ店に連れて行かれた。それは、柳沢先生の教え子が経営している居酒屋。定年が近いおじいさん先生の柳沢先生にはこういった繋がりが広い。実のところ、俺も先生の教え子だったりするわけで。
そこで少し苦い酒をそこで飲んでしまった俺は教育実習の期間だけ戻ってきている実家への道をゆっくりと歩いている。左手には川。こんな時間帯に街灯も無いようなところにいる奴などいない。
 「月……」
 俺はふと空を見上げた。
 そこには丸い月が浮かんでいた。
 風が吹き、河川敷一帯に広がっている雑草がさわさわと音を立てる。その音が妙に懐かしかった。
 恐らく上空ではこの場所なんかとは比べ物にならないほど強い風が吹いているのだろう。空は春と思えないほどに澄んでいる。
 そしてその空は月を映えさせている。
 俺は足を止め、空をじっと見た。
 次に俺は身なりを確認する。買ってから数えるほどしか袖を通していないスーツ姿。明日も着なければいけない一張羅だ。
 一呼吸置き、俺は雑草の上に腰掛ける。そのまま身体を倒して寝転んだ。何故か、服が汚れることはどうでも良かった。



                 1


 部活に入っていない俺は学校が終わると塾に行って高校受験のための勉強に励む。
 自分で言うのもなんだが出来は良い方だ。現在の志望校は私立の進学校。名前を出すだけで地元の人だけじゃなくて、県内外の人も「凄いね」といってくれるような学校だ。(まぁ、何が凄いのかという突っ込みを入れるのはよしておこう)
 そんな俺の最近の楽しみといえば、昔々に親から買ってもらった天体望遠鏡を持って近くの川に行って空を眺めることだ。
 きっかけは一つの小説を読んだことと、夜にならば時間があるということだった。それ以来、俺は空を眺めることが好きになった。今では立派に趣味と言える。「そうですか」の一言で片付けられてしまいそうな、あまり多くの人が共感するような趣味ではないかもしれないが、俺は空を眺めるのが好きなのだ。ただしどんな空でも良い訳ではなく、夜の空が好きなのだ。藍色とも黒ともつかない、日によって違うその微妙な色に輝く星や月が好きなのだ。 
 しかし実際、俺にとって天体望遠鏡は飾りでしかない。別に特定の星を見たいというわけでも、月のクレーターを観察したいというわけでもないからだ。俺が使うことは月に一度あるかないかというところ。

 俺が使うのは、な。

 いつもこの天体望遠鏡を覗きに来るやつがいる。俺とは違う中学校に通っている女子で、名前を須藤のぞみという。
 須藤との出会い(出会いというほどたいそうなものではないが)は本当に単純で、俺が望遠鏡を横に置いて空を眺めていたところに来たのだ。最初の一言が、「望遠鏡、覗いていいですか?」だったと思う。未だに不思議なやつだ。
 雨でも降らない限り、約束もしていないのに俺は須藤と会っていた。何するでもなく、会話だって殆ど交わすことも無く。普通の人なら十五分も持たないような事をするだけだが。
 今日も今日とて俺が天体望遠鏡を傍においていつもの場所で空を眺めていると水筒を持って須藤が来た。

 「こんばんは」
 もうとっくに夜だというのに、須藤は相変らずの制服姿だった。祭日祝日関係なく制服。制服以外の服を着ているところを見たことが無い。
 「よぅ」
 俺は須藤を一瞥し、片手を挙げて挨拶を返す。いつも通りのやり取りだ。
 須藤は持ってきた水筒を俺のそばに置くと、てくてくと天体望遠鏡の元へと向かった。これもいつも通り。
 たまにコツコツという音がする。須藤のかけている眼鏡が天体望遠鏡の接眼レンズにあたる音だ。これも、いつも通り。
 「見えない……」
 がっかりしたように須藤がつぶやく。なにを見ているのか、俺は知らない。だから何でがっかりしているのかも知らない。俺が知っているのは、須藤がこうやって毎日がっかりするということだけだ。それでもまた、須藤はコツコツと音を立てながら天体望遠鏡を覗き始める。
 始めの頃は調節ねじを締めることに全力を注いでいた須藤が、自分の見たい星に望遠鏡を調節できるようになったことは大きな進歩だ。良くぞ独りで頑張ったと心の中で褒めてやる。
 須藤がたてるコツコツという音を聞きながら、俺は須藤が持ってきた水筒の中身の麦茶を飲む。やっていることは、ずっと空を眺めているだけ。たまに思いついた数学の問題を頭の中で解いてみるが、それもすぐ飽きる。街灯の無いこの場所では本も読めない。(第一、それがしたいならこんな場所には来ないが)


 そんなことがずっと続いた。雨の日や曇りの日以外のずっと。



                2

 河川敷に寝そべった俺は、透き通るように白い月を見上げた。上空の強い風が雲を押している。
「満月か……」
 ふと呟いてしまった。
 「いえ、満月は昨日です」
 俺のつぶやきに誰かが答えた。
 「今日は十六夜です」
 その声の主は小柄な女性。スーツ姿から会社員か何かなのだろうと思う。
 「こんばんは」
 女性はそういうと地面にペットボトルを置き、バッグから双眼鏡を取り出した。
 そんな行動に既視感を感じながらも、俺はただただ空を見ていた。今は何故か、それ以外のことをしたくなかった。周りの草を揺らす風が心地よい。
 「覚えていませんか?」
 女性はなにやら語りだした。周りには人がいないのだから、俺に向かってに間違いない。ただ、俺は答えなかった。
 「今、何をしているんですか?」
 無視。
 「どこに住んでいるんですか?」
 これにも答えない。
 しばらく女性も黙った。そして、思い出したように言う。
 「昔みたいに、空を見ていますか?」
 「……昔みたいに?」
 俺はついに女性の問いかけに答えてしまった。
 女性はうれしそうに笑い、頷いた。「はい」と歯切れのいい返事をして。
 「いや……そういえば、何年ぶりだろう」
 途端、恥ずかしさが出てきた。
 自分が満月と十六夜を間違えたという、そんな些細なことに恥ずかしさを感じてしまっている。
 「今、どんな仕事をしているんですか?」
 質問が変わった。
 「教育実習で、中学校に行ってる」
 「あっ」
 何故かうれしそうな顔で俺の方を見る。
 「やっぱり学校の先生が目標ですか?」
 
 酒の味が甦った。
 飲み屋で柳沢先生にも聞かれた質問だ。口の中一帯に苦さが広がる。

 何故だろう?何で俺は教育実習なんてしているだ?

 だって実際、教育実習をしたからといって自動的に教師になれるわけでもないし、教員にならなくてはいけないという義務も無い。今の時代は資格社会だからという短絡的な理由で選んだだけだ。

 俺は答えた。
 「いや、そんなつもりはない」
 女性は小さく「えっ?」と漏らした。そして、心なしかついさっきよりも元気が無い。
 「そうですか」
 声から明らかに落胆している様子がわかった。
 俺はその様子に腹が立った。見ず知らずの人がいちいち他人の進路に口を挟むのは非常識すぎる。追い討ちをかけるように不機嫌な声で「そんなことどうでもいいじゃないか」とだけ言い返し、また空を見た。
 「……変わりましたね」
 女性は多分、俺の顔を見て言った。



                 3
 
 ここ三日間ずっと天気が悪かった。今日だってついさっきまで小雨が降っていた。
 小雨が止むと俺は堪えられずにいつもの河川敷に向かっていた。今日ならきっと見えるだろう。さっきまで小雨が降っていたのだから。
 春の初めの夜風が冷たい。
 「ハァ、ハァ……」
 肩で息をする。それだけ急がなくてはならなかった。
 空を見上げる。少し霧がかった空気を挟んで白い月が浮かぶ。それを確認して、河川敷の土手を下る。
 「あれ?」
 目の前には懐中電灯を持った須藤がいた。須藤は俺に気づくとぬかるんだ足元に注意しながら小走りで近づいてきた。
 「こんばんは」
 「何でいるの?」
 今まで雨の日にはこの場所に来たことが無かった。それはもちろん空を眺めることが出来ないからだ。当然、俺が来ないということはいつも須藤が覗いている天体望遠鏡は無い。ということは須藤が来る理由など無いのではないだろうか?
 もちろん今日も天体望遠鏡を持ってきてはいない。須藤はいないだろうと思っていたから。
 「…雨がやんだから来ました」
 「それだけ?」
 須藤は首を縦に振る。
 不思議な奴だということで納得をして、俺は今日この場所に来た目的を果たすために月の反対方向を見た。
 「…あっ」
 俺は誰とも無く漏らした。
 本当は見ることができるはずないと思っていたものが、そこにはあった。
 「月虹……」
 暗い夜の空に、月の光に反射した霧の水滴が虹を作っている。極々まれに観測することが出来る自然現象。満月に近い、月が強い光を放つ日にしか見ることが出来ない。そして、普通なら見ることが出来るはずも無い。
 見た目は普通の虹と変わらない。しかし太陽が作った虹を見るよりも一層綺麗に見える。暗い空があまりにも神秘的だからだろう。
 「綺麗…」 
 須藤が呟いた。
 「見れるわけ無いと思ってた。月の光が強くて、霧がかった日にしか見れないし…」
 「今日は満月ですよね?」
 俺の言葉を受けて須藤が聞いてきた。俺はそれに対して「十六夜」と短く答えた。
 須藤は俺の答えにあわてて月を見た。しかし月が霧に阻まれて詳細をつかめず、須藤はじっと目を凝らしていた。
 「間違いない、毎日空を見てた俺が保障する」
 自信があった。一年近くも空を見ていたので見間違えるはずが無い。
 俺と須藤は再び月虹に視線を戻した。
 「よかったですね、見れて」
 「そうだな……最後だからな」
 最後という言葉に須藤が反応した。じっと俺の顔を見てくる。
 「最後って、どういうことですか?」
 「俺さ、高校受かったんだ。全寮の」
 須藤は小さく呟いた。「全寮、なんですか」
 「そこ、進学率がよくってさ。そこで勉強したいんだ。先生になるために」
 「先生に?」
 「そう、先生。楽しそうじゃん、先生って。でも、先生になるにはいい学校入ったほうが絶対有利なんだよ。ほら、新任の先生とかって有名な大学ばかりだし」
 少し熱の入った俺の言葉に須藤は寂しげに頷いていた。
 「あ、ごめん。そうか、今日でもう望遠鏡は……」
 そんな須藤の様子に罪悪感が沸いた。
 「いえ、いいんです」
 須藤は笑って言った。
 「頑張ってください」
 須藤はポットから温かいコーヒーをカップに淹れ、俺に渡した。湯気が須藤のメガネを曇らす。
 「ありがと」
 俺はそれを受け取って口をつけた。美味い。一日ごとに俺の好みの味に近づいている。今日のはもう完璧といって良い。
 そのまま朝日が昇るまでずっと話していた。最後の日、今までで一番話した。

 月虹はすぐに消えてしまった。



                4
 
 「変わったって、何でそんなことがわかるんだ?」
 俺は女性の言葉に食って掛かった。
 「憶えていませんか?私のこと」
 女性はバッグからメガネを取り出し、掛けた。
 「あっ……」

 頭の中で何かが疼く。風が身体を抜けた。
 そうか、ずっと忘れていた……。

 「この場所……そうか、この場所だったんだ…」
 今まで何気なく座っていた場所、それは中学時代にずっといた場所だった。
 「須藤」 
 目の前にいる成長した女性の名を呼んだ。須藤は嬉しそうに頷いた。
 暫くお互いに何も言わなかった。ただ風が草を揺らした。
 「俺、そんなに変わったか?」
 さっき言われたことがどうも気になっていた。
 「はい、昔はもっと目標がありましたよ」
 「目標って、何の目標?」
 「先生になることの」
 考えてみたが、思い出せない。

 「憶えてないな」
 消えそうな呟きに笑いを堪えながら須藤が答えた。
 「先生が楽しそうだから、って」
 言い切ると須藤は笑った。俺も、苦笑いした。暫く笑いが止まらなかった。
 「本当にそんな理由?」
 俺の問いかけに、笑いによってできた涙を浮かべながら須藤は頷いた。
 それがどうしてもおかしくて、俺は笑い続けた。
 「どうして忘れてたんだろう」
 俺は呟き、空を見た。そこには月があり、月のすぐ近くには雲があった。月が放つ白く強い光を雲が反射する。それが、虹のようなものを作った。七色を誇る輪。
 「月虹みたいですね」
 須藤が言った。
 あの日の光景が浮かぶ。
 「……綺麗だったな、あれ」
 「はい」

 あの日以降、俺は空を見なくなっていた。高校の寮は規則が厳しくて、夜中に外へ行くということができなくなったのだ。
 そしてその間に、進学校と呼ばれる学校の殺人的なスケジュールに、その忙しさに何もかもを奪われたのだ。そして俺は空を見るという趣味があったことを忘れてしまっていた。
高校を卒業してもずっと空を見ることなく過ごした。
 今の今まで。

 「ありがとうな」
 俺は須藤に向かって言った。須藤はキョトンとした顔で俺を見る。
 「多分、今日会わなかったら一生忘れてたから。空を見てたことも、あのヘンテコな目標も」
 ようやく美味い酒の味がした。
 「だから、ありがとう」
 月を見ながら言った。恥ずかしくて、顔なんか見られない。
 「どういたしまして」
 そんな俺を須藤は笑っていた。そして、そんな俺に
 「清水さん、どうして先生になりたいんですか?」
 須藤は敢えてもう一度聞いてきた。
俺は笑って言った。
 「楽しそうじゃん、先生って」
 あの日自分自身が言った言葉を、そして今日初めて人から教えてもらった言葉を。


                              終わり
2004/10/14(Thu)01:51:44 公開 / 緋者そーや
■この作品の著作権は緋者そーやさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
始めまして。緋者そーやと申します。
色々書いた中でも結構気に入っているのをだしました。気に入っていただけると嬉しいです。
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