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『天国にはいかせない(完)』 作者:笑子 / 未分類 未分類
全角38598.5文字
容量77197 bytes
原稿用紙約122.1枚
 天国にはいかせない


作者 笑子
制作協力者 TVで見た数々の幽霊さんたち
ゲスト出演 トイレの花子さん


      人は目に映らないもの全てを否定する。
      時にそれが見えるものが現れると多数の力で否定する。
      だがそれで「それ」がいなくなるわけではない。
      それで見えない人が守られるわけでもない。
      見えない人が、否定したところで「それ」に干渉することは
      不可能なのだから。

1 山荘千草

 小さな街の商店街を抜けて、立ち並ぶ民家とマンションの中に、それはあった。
山荘千草(ちぐさ)。山にあるわけではない。旅館でもない。れっきとしたアパートである。
1階の家賃は月7万円。2階は7万五千円。3階は8万円。すべて1LDKである。
高いかもしれないがここが東京の下町であることを考慮すればそれなりといえる。
今日は7月3日。
日差しはかなり強くなっている。そこらじゅうの無機質な建物から灼熱のエネルギーが外に排出され、外の温度を上昇させていた。中にいる人間は自分は涼しく過ごしているわけだからそれに気付かない。
外にいるだけでじんわりと汗が噴出してくる。
そして山荘の前に、一人の青年がいた。名前は篠原孝之(たかゆき)。今年で大学二年になっている。肩にリュックをかけ、お決まりの黒のジーンズ姿はまだ健在だった。お決まりの黒のジーンズ姿、とは後輩の高藤優奈(ゆうな)が言ったことである。
もっともこれは彼のポリシーでも何でもなく、ただ彼は黒のジーンズ2枚しか持っていないだけのことなのだが。
彼は今日からここの2階の住人になるのだ。
「ちょっとボロそうだけど…、冷暖房完備なんだよな」彼は確認するように山荘を見つめる。
「ま、よろしく。山荘千草さん」
彼は新しい住居に挨拶をする癖があるのかもしれない…。
玄関のドアはもちろんオートロックではなく、鍵穴だった。しかも木製だからかなり古い。
ドアを引くとギィィー、とクラシックな音がした。
「何か、お化け屋敷みたいでいいよなー、この音」
そう言って3回もドアを引いたり押したりする。
引越し屋はまだ来ていない。連絡ではあと10分ほどかかるとのことだった。
彼は玄関で靴を脱ぎ、部屋の中へと浸入する。窓の外の木が風に吹かれ、葉だけがサワサワと踊っていた。一応改装された部屋のフローリングは差し込む日光を反射し、光沢を放っている。孝之は初めてこの部屋に訪れたときからここに何か引き寄せられるような魅力を感じていた。それが何なのかはわからない。それがまたよりいっそう興味を引き立てた。
青年は満足げに部屋を見渡す。そのとき、プルルルル、と携帯の着信音が鳴った。

「はい、もしもし」
『あ、孝之せんぱーい! 優奈ですよぉ! 引越し、終わりました?』
甲高く、明るい声が響く。あまりの元気のよさに孝之は苦笑した。
「まだ引越し屋も来てないよ。っていうか、俺、優奈ちゃんに引っ越すこと言ってたっけ?」
『ひっどーい。一昨日、新歓(新入生歓迎コンパ)で教えてくれたじゃないですかぁ!』
「え、言ったっけ。そんなこと」
孝之は必死にそのときの記憶を拾い集めた。
『言いましたぁ! 私、怒りますよぉ。まぁ、それは置いといて、引越し祝いもってそっちに行くので待っててくださいねぇ!』
「え、それは……」
やだな、と言いかけて電話は切れた。彼女が強引なのはいつものことである。サークルで週に一度しか彼女と顔を合わせない孝之はまだそのペースに馴染めないでいた。
「引越しの日は静かに過ごしたかったのに……」
孝之はため息をついた。
ん? と孝之は首を傾げる。部屋の中が涼しくなっている気がするのだ。すでに完備されているエアコンに目を向ける。電源は入っていなかった。
「ちょっと前に管理人さんが入ってつけていたのかな……。それもやだなぁ」
孝之は窓を開けた。なぜそうするのかわからなかった。ただ彼にとって夏に喜ばしいはずの涼しい空気が、このときちっともうれしくなかったのだ。何か汚染された、不吉な空気であるように感じられた。ガラっと音がして開いた窓から蒸し暑い夏独特の匂いを持った空気が入ってくる。
それなのに背中に押し寄せる、部屋の中から沸き起こる冷たい空気はいっそう強くなった気がした。
「な……なんなんだよ……」
孝之は部屋を見渡した。部屋はなんの変哲もない。ただ寒いと思うほど涼しかった。
ピンポーン、とチャイムが鳴る。
「すいませーん。黒犬ヤマトですがー! 引越しのお荷物お届けに来ましたー!」
「はいはーい」
孝之はすぐに玄関に向かった。その間中、背中に突き刺さるような何かを彼は感じずにいられなかった。

 引越し屋が帰ると、すぐに優奈がやってきた。迷惑に思っていた客なのだが、不安になっていた孝之はうれしかった。
「じゃーん! 孝之先輩と食べようと思ってコンビニで焼き鳥とビール買ってきちゃいましたぁ!」そう言ってずかずかと部屋に上がりこみ、ダイニングのチェアーに腰かけた。
エアコンのついていない涼しさに彼女は気付いていない。
「昼間から飲むの?」
「じゃあ、飲むのは夜になってからでもいいですよぉ。夜のなるまで何してましょうか」
そう言って優奈はうっとりするような目で孝之を上目遣いに見た。
優奈は孝之に対してしばしばこのような挑発的な態度を取ることがあった。
「今から飲んでもいいよ……っていうか、優奈ちゃん今日サークルあったんじゃない?」
孝之は落ちついてそれを切り返す。
「先輩だって引越しで今日休んだでしょ。私はそのお手伝い。そうだ、ダンボール開けるの手伝いまーす」
そう言って突然立ち上がると手近のダンボールについたガムテープを剥がし始める。
孝之ははっとした。
「駄目! 自分でするから!」
慌てて駆け寄る。しかし、ときすでに遅く、
「きゃっ」と言う短い悲鳴が上がる。

孝之は無言で優奈を睨み付けた。
少しだけ頬を染めた優奈が孝之を見上げる。

「先輩って……、トランクスだったんですねぇ」

「それ以上言ったら、怒るよ」

孝之はあまりの恥ずかしさを隠すため、窓の外に顔を向けた。

2 この部屋、います

 結局その後、夜になるまで一方的に優奈がしゃべり続け、孝之はたまに頷いたり返事を返すだけだった。
「孝之先輩。そろそろビールでも飲みましょうかー」
優奈がちらりと時計を見て言った。
そうだね、と言って孝之は立ち上がり、冷蔵庫に向かう。冷蔵庫は前のアパートで使っていた時と同じものだった。
結局今日は彼女のペースに呑まれっぱなしだった。追い返せばいいのだが今日は昼間のことで不安になりそれができない自分がいる。あの冷気は引越し屋が部屋に入ってきてすぐ収まった。今は優奈が勝手にエアコンをつけて24度に設定している。
「……何を考えているんだ、俺は。大学生にもなって」
孝之は一瞬思いついたことに自分で苦笑いした。
そんなものを信じたことはない。あれはただの幻想だ。程度の低い人間が作りだした戯言だ。
妄想を振り払うように頭を振り、冷蔵庫を開ける。中には優奈が買ってきたビールと焼き鳥とウーロン茶しか入っていない。孝之はつまみとビール二缶を取り出し、一缶を彼女に渡した。
「先輩、サーンクス!」
優奈はプシュッと音を立てて缶を開けると半分ほど一気飲みする。
小さな顔が天井を向くと、短い髪から見え隠れする鎖のように長いピアスがゆらゆらと動いた。孝之は無意識に彼女に見入っていた。
優奈の白い顔がみるみる赤くなる。そういえば、彼女は大飲みの割りに酒の周りが早かったな、と人事のように思い出した。
「何ー? 孝之先輩。私に見とれてるんですかぁ?」
優奈がうれしそうに孝之を見て微笑んだ。
「ち、違うよ」
孝之は慌てて顔を背けた。
「否定しなくても、一言、言ってくれれば私ずーっとずーっと孝之先輩の傍にいてあげるのにぃー」
優奈は小さな口をすぼめてすねるような素振りを見せる。
「優奈ちゃん、もう酔ったの?」孝之は聞いた。
「私は酔っても酔わなくても変わらないんですよ。もともとテンション高いですから」
そう言ってあははっと笑った。
その通りだと、孝之も納得した。

「ねぇ、孝之先輩って幽霊って信じます?」
二人とも缶を空にした後、優奈がぽつりと言った。
「いきなり何?」
孝之は驚いた。今自分が考えていたことを見透かされたような気がしたのだ。
確かに、それは今日孝之がずっと考えていたことだったのだ。もっとも、国立大学の理工に進む彼はそんな存在を信じるほど勉学に不真面目ではなかったが。
「信じます? 幽霊」
優奈はじっと孝之を見つめる。そう言えば彼女は文学部だった。
「信じないよ。死体から魂が抜け出るなんて」
「ふーん。じゃぁ孝之先輩、幽霊に会ったことないんだ」
そのセリフに孝之はびっくりした。
「優奈ちゃん、君、幽霊に会ったことあるの?」思わず声が上ずる。
優奈は得意そうに頷く。
「私、小さいときからそういうのわかっちゃうんですよ。もう何十人とそういうのに出会ってるから怖くもないし……。言っても誰も信じてくれないんですけどね」
そう言って少し悲しそうに微笑む。その表情がひどく自然に見えることに孝之はより驚きを感じた。
「うそだろう?」
「本当です……。もう、こんなこと真剣に言うのって孝之先輩だからなんですからね……」
優奈が不機嫌な顔をしたので孝之はそれ以上疑いを口にするのを止めた。

「初めて、それに会ったときってどうだった?」
孝之は質問の内容を変えた。
「よーっく、覚えてますよ。私が幼稚園の年長のときですね。はじめ、私はそれが幽霊だって気が付かなかったんです。だって、私幽霊って白い着物を着て足が透けてるって信じてたから……。その幽霊はちゃんと足が二本会って、洋服を着ていたんです。実はそれ、園長先生だったんですけど」
「園長先生が幽霊だったの!?」
孝之が話しにのめりこみ始めたのがわかって、優奈はにやりと笑った。それに気付いて、孝之が一歩身を引く。
「私、幼稚園の時から明るいほうで友達も多かったんですけど、一時期仲のいい子と喧嘩して、仲間はずれになったことがあるんです。さみしかったし、悲しかったんですけど、幼稚園の先生も助けてくれなくて……。みんなで遠足に行ったときも私一人で……。そのとき声をかけてくれたのが園長先生でした。今思うと怪しいですよね。入園式にもいたのに一言もしゃべらない園長先生なんて。彼女、私のお友達になってくれるって言ってくれました。だから私、とても楽しい遠足ができました。その後も授業中に教室の窓から皆を見渡していたり、放課後はピアノを弾いてくれたり……」
そう言ってにっこりと幸せそうに笑う。
「幽霊と一緒に遊んでいたわけ?」
「そう。しばらくは、しょっちゅう親に注意されました。周りには見えていなかったんですね。一人で笑うな、とか一人で駆け回るな、とか。私、親が何言ってるのか全然わかりませんでした。園長先生がここにいるのよって言っても怒られただけだし……」
「いつ、気が付いたの?」
「しばらくして、園長先生が私に教えてくれたんです。帰りの送迎バスに乗る前に私の肩を叩いて、明日、教室の裏の桜の木のところにきなさいって。私、次の日すぐにそこへ行きました……。そしたら……」
「そしたら?」
孝之は冷静さを取り戻して、もう半分以上信じていなかった。
「桜の木の下で、園長先生が首から血を流して倒れていたんです。首には斧が刺さっていて、半分取れかかってました……。私、すぐに他の先生を呼びました。園長先生が桜の木の下で血を流して倒れてるって。そしたら先生が、悪い冗談は止めなさいって突然怒り出したんです。なぜ? って泣いて訊いたら、逆に、あなた知ってて言ったんじゃないの? って訊きかえされて。桜の木の下に先生を連れて行ったら、そこに園長先生はいませんでした。血のあとも無くて……。先生が私に向かっていったんです。園長先生はね、あなたが入園する少し前に亡くなってしまったの。遠い天国に行ってしまったのよ。でもあなた、なんで園長先生がここで亡くなったって知っているの? って。それで私、気付いたんです。園長先生は私に自分は幽霊だったんだって教えるために今日ここに呼んだんだって」
「ふーん……」
孝之は鼻を鳴らした。
「信じてないですねぇ……。もういいです。私、そろそろ帰ります」
優奈は少し怒ったように時計を見て立ち上がった。時刻は21時をまわっていた。
「駅まで送ろうか?」
玄関先で孝之が言う。
「孝之先輩が親切なんてめずらしぃ。でも、今日はいいですよぉ。また今度」
「そう」
特に送りたいと思ったわけではなかった。夜遅くだったので少し、心配しただけだ。でもすぐ下にバス停もあるし、心配もいらないだろう。

ミュールをつっかけながら思い出したように優奈は顔をあげた。それは少しだけ悩んでいるようでもあった。
「どうしたの?」
「孝之先輩、幽霊見たことないんでしたよね」
「そうだけど? もうその話はいいよ」
孝之はいい加減うんざりしてきた。
優奈はそれを気にもかけずにうれしそうに笑う。
「きっと先輩、もうすぐ会えますよ」
「え?」
「この部屋、いますから」
「……見たの?」
「いいえ。姿を現してはくれませんでした。でもいることだけはわかりましたよ。……そうだ、孝之先輩にいいことおしえてあげちゃいます。幽霊が出るときってちゃんと前触れがあるんですよ」
「へぇ。どんな?」
「意味も無く寒く感じたり、とにかく背筋が凍るような冷気を感じるんです。ぶるぶると震えてしまうくらいの。わかりやすいでしょう?」

孝之の、心臓が止まった。

「特に突き刺さるような冷たさを感じたときは気をつけたほうがいいですよぉ。そういう時って悪霊であることが多いんです。ではでは〜」
言いたいことだけ言って、にこりと笑うと優奈は部屋を出て、階段を下りていった。

 彼女はうそをついているのか?

この疑問に昨日までの孝之なら間髪いれずにイエス! シー、イズ、ア、ライヤー! と言えただろう。

 一体自分は何に怯えているんだ?

答えは明確だったが、彼のかすかに残った冷静な意識がそれを懸命に否定する。

 でも、この寒気は?

孝之は部屋を振り返った。彼女が帰った途端、凍りつくような冷気が再び部屋を満たし始める。孝之は急いでリモコンを取って、暖房を入れた。七月の東京で、である。

 うそだ。いるわけない。でも、この寒さをお前はどうやって証明する? 

孝之の体が一瞬、ぶるっと震えた。びっくりした孝之はすぐに布団を取り出し、それを敷いて中にもぐりこんだ。布団の中は温かかった。

 気のせいだ。これはきっと自分が勉強不足なために説明できない突発的な自然現象の一つにちがいない。すぐに止む。そうだ、明日大学に行って調べてみよう。

孝之の頭はフル回転してそれがただの自然現象だと思い込むことに必死だった。そして、驚くべきことに、孝之はその夜、突き刺さるような冷気に包まれながらも、ちゃんと朝まで寝ることができた。


3 自然現象

 孝之の寝顔は穏やかだった。きっといい夢を見ているのだろう。エアコンもつけずに毛布に包まっているのに、汗ひとつかいていない。
突然ガラっと音がして押入れが開く。「それ」はじっと孝之を見つめた。ゆっくりと床を這い、孝之に近づく。ズルズルと衣擦れの音がした。
孝之は目を覚まさない。

 彼は「契約者」ではない。

 彼は「呪われた者」でもない。

そんな信号が、それの頭の中を横切っているに違いない。それはズルズルと押入れの中に戻ると、ガラッと襖を閉めた。それがその名を呼ばれる、その時を心待ちにして。

 朝、孝之はぱちっと目を覚ました。驚いたことによく寝た。しかし、残念なことに寝覚めは最悪だった……。
「寒い……」孝之はぶるっと震えた。一応エアコンを見てみる。やはり電源は入っていない。
「うそだろ……」
孝之は毛布をかぶったままズルズルとダンボールのところまで行き、冬用のジャージを着込んだ。ついでにマフラーも巻いてみる。
「まるで冷蔵庫の中だな」
そう言ったときに吐いた息は、白かった。
部屋の全ての窓を開ける。外の暑さが心地いい。こんなミステリーにも孝之は決して取り乱さない。

 自然現象、自然現象。

孝之は顔を洗い、キッチンに立って湯を沸かす。そしてクローゼットを開けいつものジーンズとTシャツ。それに部屋用に毛皮のジャンパーを取り出し、着替えた。

 この謎が解けたら、俺は将来教授になれるかもしれない……。

あくまで科学的現象と思い込むことが、彼のこの未知なる恐怖に対する唯一のプロテクトだった。それは砂上の楼閣の如く脆いものでしかなかったが……。
孝之は布団をたたみ、両手で抱えて、
押入れの前へと移動する。片方の手を伸ばして取っ手を掴み、引く。

ガタッ。

「え? 何で開かないの?」今度は力をこめて引く。

ガタッ。

「……欠陥アパート。今ならキャンセル料も安いな」孝之は本気だ。
布団を下ろし、両手を取っ手にかけて、深呼吸。
「せーのッ!」

ガラッ!

予想外の無抵抗な戸に孝之はよろけて尻餅をついた。
「ってぇ……」尻をさすりながら、押入れの中を睨み付けた孝之は一瞬絶句した。
大きな体に真っ赤なワンピース、顔を隠すように前に垂らされた、長さがわからないほど長い黒髪。
裂けた袖口から突き出した真っ黒な腕。それは細く干からびている。体育座りをした彼女は風も無いのにゆらゆらと揺れていた。なのに、とても生きているとは思えない。
「なっ……」孝之は目をこすった。そして、もう一度押し入れの中を見る。

……そこには何もなかった。

「え?」孝之はもう一度目をこする。それでも、もう何も映らなかった。
代わりに、はっきりと押入れの中からとわかる冷気が彼を襲った。
彼は慌てて立ち上がってそこから離れた。洗面台に行き、自分の顔を見て愕然とする。
「眉が……、凍っている……」そっと指先で触れた眉は固い針のような感触を示した。
凍った眉をお湯で溶かし、慎重に再び押入れの方を盗み見る。
なんと、「戸が……、閉まっている……」
まるで孝之が戸を開ける前の状態だった。戸の前で凍りかけた布団が放置されている以外は。
「……」
孝之は結局その日、大学の図書館でなく優奈のところへと足を運んだ。

4 隠された真実

 孝之は大学の裏手にある弓道場の前にいた。時刻はまだ朝の7時だが、優奈はここで朝練をしているはずだった。何て言って入ろうかと思案していたら、戸が開いて女子生徒が一人出てきた。見覚えのある顔だった。確か新歓で彼女とも一度会ったことがある。
「あ! 孝之先輩じゃないですか」
丸いめがねをかけたロングヘアーの女の子が言う。
「あの……」
「待っててください。今、優奈呼んできますから!」そう言ってバタバタと中に戻っていく。
 何で彼女に用事があるとわかったんだろう。
孝之に心当たりは無かった。弓道場の中ではキャー、とかヤッター、とか黄色いノイズが飛び交っている。
「あの、孝之先輩っ……」すぐに中から優奈が飛び出してきた。
孝之は胴着姿の彼女が新鮮で少しドキドキしたが、顔には出さない。
なぜか彼女の顔は、熟したトマトのように真っ赤だった。
「……そんな息を切らしてまで急がなくてもよかったんだけど……」
孝之は、少し練習のし過ぎではないかと心配した。
「いいえ! これが私の誠意ですから!」
優奈はぶんぶんと首をふり、微笑んだ。
「誠意?」孝之には何のことかわからなかった。
「うれしいです……。こんな朝から私に会いに来て下さるなんて……。私、てっきり孝之先輩には苦手意識持たれてるんだとばっかり思ってたから……」そう言って照れたように両手を頬にあてる。
孝之は彼女が何か大きな誤解をしているような気がした。
「あの、優奈ちゃん?」
優奈はそれを無視して続ける。完全に自分の世界に入っていた。
「私も、ずっと大学に入ったときから孝之先輩のこと……」
「ストーっプ! 待って待って!」孝之は慌てて制止した。
「何ですか。今更照れなくても……」優奈は不審な顔をする。
「俺は、昨日のアパートのことで君と話をしにきたんだよ。朝早いのは済まないと思ってるけど、それは早く今朝のことを話したかったからであって……」孝之は慌てて早口にまくしたてた。
優奈の顔信号が赤から青へと変わる。
「え……、それじゃあ……」彼女はショックのあまり、口を押さえる。
「その……、何というか……」孝之は適当なセリフが見つからず、口ごもるだけだった。
彼女はキッと孝之を睨み据える。
「先輩のぉ、馬鹿ぁ!! 乙女の気も知らないで!!」
今度は怒りと恥ずかしさで熟したトマトが、コブシを上げて孝之に襲い掛かかった……。


 「孝之先輩なんか、その幽霊に取り憑かれて死んじゃえばいいんだわ」
孝之に侘びで奢ってもらったイチゴミルクジュースを飲んでもなお、彼女の機嫌は直らなかった。彼女は道着を着たままだ。
「幽霊だって決め付けるなよ」孝之は反論した。
「じゃぁ、図書館に行かずに何で私のところへ来たんです?」優奈が間髪いれずに言った。
何だか、今朝の彼女はいつもよりずっと口調がしっかりしている気がした。
孝之は言い返せない。
「先輩、その真っ赤なワンピースを着た女性を見たんでしょう? もう、絶対じゃないですか」そう言ってまたストローを咥える。
その動作は小学生のように初々しく映った。ちなみに孝之はウーロン茶を飲んでいる。同じストローを咥える、という動作でも男女ではここまで愛らしさが違うのか、と孝之は改めて実感した。
「優奈ちゃんってこっちが地? 何だか雰囲気が大分違うけど……」
孝之は勇気を出して訊いた。
「え? あ……」そう言って優奈は少し俯く。
「……こっちが地です。私って怒りっぽくて泣きやすいし……。仲良くない子の前では別のキャラ作ってるんです。まぁ、今となってはハイテンションの時間のほうが長かったりしますけど……」
よくある話だ。実際、本当の孝之も、この場合、決して他の誰一人にも明かさないが、臆病で泣き虫で短気な本質があった。
「俺は、別にどっちでもいいよ」
「ありがとうございます」彼女は少し微笑んだ。
「でも、これで先輩も私の仲間ですね。うれしいなぁ。きっとすぐまた見えるようになりますよ」
「うれしそうに微笑んで、しかも幽霊だってまた断言しない。たとえ幻覚だとしても俺はもうあんなの、見たくないんだから……」一瞬またあの黒い肌を思い出して、孝之は苦い顔をした。
「先輩が一瞬でも幽霊が見えたのは、そのときたまたま先輩が何の先入観も持たずに押入れをあけたから、あるがままが見えたんだと思います。次に見たときは、幽霊なんかいるわけない! って思ってみたから映らなかったんですよ。先入観や偏見の少ない子供のほうが霊を視やすいのと同じですね。霊視ってすごくデリケートなんです」
「レイシ?」
「霊を視るってことです」
「何? その変な専門用語は……。大体、本当にいるんだったら俺の思い込みぐらいで見えなくなるわけ無いじゃないか」孝之は思わず眉をひそめた。
「人は、視力のほとんどを偏見と先入観に頼ってるって生物でやったじゃないですか。先輩は霊がいる、という事実を霊なんかいない、という先入観で修正しているんです。だから、目に映らなくても、感じた、でしょう?」
感じた、のセリフには背筋を凍らせるような響きがあった。
確かに、信じがたいがそれならば全てが説明がつく。
「でも、それってつまり……」
「はいな。先輩はちゃんと見えていなかっただけで、幽霊はきっと部屋にいる間中、ずっと押入れの中にいたんですよ」優奈は得意げに言った。
「おえぇぇぇ」孝之は座り込んでしまった。
「ちょっと! 先輩! 大丈夫ですか!?」優奈が慌てて孝之の顔を覗き込む。
全てを信じることはできないが、さすがにもうあのアパートに戻る気はおこらない。
「大丈夫。先輩。その手の友達にお祓い頼んであげますから……」
「お祓い? またそんなインチキくさい……ブツブツ」
「先輩! いい加減事実を認めなさい!」優奈が一喝する。

 そのころ、同じ市の中学校で孝之の部屋に住む幽霊を使った恐ろしい呪いの儀式が行われていることに、二人はまったく気付いていなかった。

5 明かされる正体、見えた。

 授業が終わると、ビデオカメラを持って優奈がやってきた。その目はキラキラと光っている。
「さ、先輩の家にレッツ・ゴー!」
「そのカメラは何? 大体、俺、しばらくはあの部屋に戻りたくないし……」
明らかに楽しんでいる優奈を、孝之は一瞥した。
「先輩引っ越したばかりのくせに何情けないこと言ってるんですかぁ。そんなんじゃ、住むところが無くなっちゃいますよぉ。それに、これ設置しとけばもしかしたらその幽霊が映るかもしれないでしょ?」
ついでにテンションもいつも通り上がっている様子だ。
「映るかなぁ。見たことないよ」
「折角、演劇サークルから借りたんですからそんな空しいこと言わないでくださいよぉ」
優奈は膨れた。
「え? 優奈ちゃん、演劇サークルにも入っていたの?」
孝之は少し驚いた。ここの演劇サークルは練習がきつくて有名なのだ。週3回は練習日がある。しかし優奈は週1回の孝之のいるサークルにも必ず出席しているし、弓道部にも入っていたはずだ。
「放課後は随分忙しいだろう?」
「やだな、名義だけですよ。実際活動しているのは孝之先輩のサークルと弓道部だけです」
優奈は孝之先輩の、というところだけ強調する。
「名義だけ? 部費は? 無意味なことするするなぁ」孝之は呆れたような声を上げた。
「何言ってるんですか。先輩とのコネクションは多ければ多いほどいいんですよぉ。それに、誘われたから何となく入っただけだし」
そう言って彼女はくすりと笑った。
「あー、そうだね。確かに、優奈ちゃんは誘われやすいかもね」孝之はうなずいた。
「え? 何でです?」
優奈の不思議そうな瞳が孝之のほうを向く。
「それは……」
君が人受けする顔をしているから、と喉まで出掛かって、孝之は慌てて飲み込んだ。
それは彼にとって、かわいい、と同値の誉め言葉だったからだ。

何でそんなことが思いついたんだろう?

「何です? 孝之先輩?」優奈は身を乗り出した。
「いや、何でもない……。じゃあ、アパートに行こうか……」
「あー、なんか気になるなぁ、そういうのぉ……」
優奈は頬を膨らませて、恨めしそうに孝之を睨みつけた。
孝之といえば……先ほど言いかけた自分の発言について必死に分析中だった……。

 孝之のアパートは、大学から電車で乗り継いで30分のところにあった。
2階の自室に向かうため、非常階段(通常も使用している)を上る。孝之は気が進まなかった。階段を一段上がるごとに、足に重りがついているような負担がかかる。
「先輩? 大丈夫ですか? 顔色悪いですよ?」
そういう優奈の表情も幾分固かった。
そして自室のドアの前に到着する。
「……やっぱり、引っ越そうかな」キーを捜しながら孝之が言った。
「引っ越すならなおさら御祓いしてもらわないと。次の人がかわいそうでしょう?」
孝之は一瞬、すごく驚いたような顔をした。
「すっごくまともな意見だ。恥ずかしいことに、そこまで考えて無かったよ。そうだね。じゃ、カメラを設置しようか」
そういって先ほどとは打って変わって機敏にキーを差し込む。
当たり前だが、ドアは簡単に開いた。ひんやりとした空気が漏れ出す。初夏のその部屋は凍えるほどではないものの、かなりすずしかった。
孝之はそれに臆することなく、すぐに部屋に上がりこむ。
「先輩って、やっぱり優しいんですね」優奈が後からついてきた。
「優しくないよ。こういの、責任感って言うんだよ」そう言って孝之は少し、微笑んだ。
取りあえず中央のダイニングまで歩き、暖房を入れる。
「どこにカメラを設置すればいい?」孝之は振り返った。
「どこにいるんですか? その、「それ」って……」優奈はあたりを見回しながら言った。
「それって、幽霊のこと?」
優奈の肩がびくっと震える。そして怒ったように自分の口元に人差し指を当てた。
「なっ何? 何か変なこと言った?」
「(本人がいる前で言うことないじゃないですかぁ!)」
「(いると決まったわけじゃないだろう?)」つられて孝之も小声になる。
「(まだそんなこと言ってるんですか! びびって引っ越そうとしてるクセに!)」
「…………」孝之は言い返せなかった。勝ち誇ったように優奈が微笑む。
「(……押入れの中)」そう言って指差す。
優奈はその方向をじっと見た。
「(わかる?)」
「(いいえ……いるのはわかるんですけど……)」
「(取りあえず、押入れの見えるところに置いておこうか)」孝之は椅子に乗ってワイヤーで天井からつるそうとした。
「優奈ちゃん、ネジ取ってきてくれる?」返事は無い。
「…………」優奈はじっとキッチンを見ていた。
「何? どうしたの?」
「……この、丸い紋章みたいな絵、先輩が描いたんですか? どこかで見たことがあるような……」優奈は首をかしげた。
孝之は椅子から降りて駆け寄った。
「何だこれ? 俺じゃないよ。……気付かなかった……」
蛇口の上に赤く丸い円が書いてあって、中にはアラビア文字のようなものが羅列してあった。いや、文字というよりは絵に近い。

ガラッと音がする。

「前の住居人が描いたのかな?」
「そうでしょうね……。でも、何だっけ……これ、すごく有名な気が……」
ひんやりと冷たい風が背中に突き刺さる。優奈は振り返った。孝之は慣れているので振り向かない。
「気になるなぁ、前の人に連絡取れるかな……。気味悪いし……」そう言ってそっと指先で紋章に触れる。その紋章は氷のように冷たかった。

「きゃああああぁああああ!!」突然、優奈が叫んだ。
「どうした!?」孝之はびっくりして振り向く。
全身に冷気が突き刺さる感触。
「いやああぁああああ!!」優奈は叫びながら孝之に抱きついた。
彼女の全身が震えていた。孝之は部屋を見渡す。……何も目に見える異変は無い。
「どうしたの? 俺には見えないんだ……」
孝之は一瞬、ためらったが、ゆっくりと震える彼女の背中をさすった。
「あ……あれ……あそこ……」そう言って優奈は押入れを指差す。
押入れは4分の1ほど、開いていた。

 おかしい。入ってきたときは確かに完全に閉まっていたはずだ。

「こっち、こっちを中から覗いてる!!」優奈はさらに叫びたてる。
孝之にはやはり何も見えない。ただ冷気だけはどんどんその存在感を誇示しはじめた。
優奈は視線だけ押入れにむけたまま、泣きじゃくっている。
「わかった……取りあえず部屋から出よう」
このままじゃ、彼女が可哀想だ。
孝之は優奈の腕を引いたが、腰を抜かしてしまっているようなので、仕方なく彼女を抱えて部屋をでた。
部屋を出ると両隣の住民がドアを開けてこちらの様子を伺っていた。優奈の叫び声を聞いて驚いたのだろう。孝之は罰が悪そうな会釈をして、アパート「山荘千草」を離れた。

優奈は泣きながら、孝之の腕の中で長い髪、赤いワンピース、紋章、長い髪、赤いワンピース、紋章、と何度も繰り返した。孝之は気味が悪いのでやめて欲しかったが、彼女が興奮しているのがわかるので、落ち着くまで待った。
アパートの前ではなく、少し離れたバスの停留所のベンチに彼女を座らせる。
そのころには彼女もとりあえず、泣き止んでいた。
「落ち着いた?」孝之は自分のTシャツを掴んでいる優奈の手を慎重に剥がしながら言う。
彼女の体はまだ震えていた。
「ごめん……怖い思いさせて……」孝之は頭を掻いた。
「花子さん……」優菜が俯いたままポツリとつぶやく。
「え?」
「花子さんです……やっと、思い出した……」優菜は顔を上げた。
「花子さんって?」
「トイレの花子さんですよ……。一番、有名な幽霊じゃないですか。孝之先輩の部屋にいたのは花子さんです」
「なっ何で花子さんが俺のアパートの、しかも押入れにいるんだよ……。あれって小学校の女子トイレにいるもんだろう? たしか」
「学校のトイレは花子さんの最終召喚場所なんです。あぁ、駄目だわ……詳しく思い出せない……、ちょっと待ってくださいね」そう言って優菜はバッグから携帯を取り出した。
「……もしもし、恵子(けいこ)? うん、わかったの、トイレの花子さんよ……。今からそっち行っていい? ……うん、ありがと」ボタンを押して、再びバッグにしまう。
「今のが、もしかしてそっち系の友達?」孝之は訊いた。
「そっち系って……まぁ、そんなところです。私よりずーっと頼りになる子ですよ」
「途中で泣き出さない子なら、どんな子でも構わないよ」孝之はわざとおどけて言った。
優奈が頬を膨らませて、それを睨み付ける。
駅に向かうバスがやってきた。
「……コホン。とにかく、恵子の家にいきますよ。彼女、花子さんについて詳しく書かれている本を持っているはずだから」優奈はバスに乗り込んだ。
孝之もそれに続く。
「ねぇ、何でトイレの花子さんだってわかったの? 前に見たことがあるとか?」
十字路のカーブを曲がり、バスが揺れた。流れていく外の景色を、孝之はじっと見つめる。
「紋章ですよ。あれ、花子さんを呼ぶ最初の紋章なんです。小学生のときに、それを調べたことがあって……」
「……もしかして、呼んだとか?」
自分からわざわざあんなものを呼び出そうとする心境が、孝之にはわからない。興味本位、なんて言葉で片付けられるレベルじゃないだろう。
「いえ、花子さんを呼ぶには3つの紋章が必要なんです。それを知らなくて、最初の紋章だけでやったから、失敗しちゃいました。……子供って恐ろしい事しますよねぇ」
てへっと言って、彼女は笑った。
「……ほんと、そうだね」その通りだと、孝之も納得した。

6 トイレの花子さん

 恵子の家は、孝之のマンションから更に30分ほど離れた千葉と東京の境のところにあった。
一見、普通の2階建ての家である。
「彼女、私と同い年なんですけど、一人でこの家に住んでるんですよ」
「それは、すごいね」
ピンポーン、とインターホンを鳴らす。
『はい、もしもし鈴木ですが』
聞こえてきた声は、驚くほど落ち着きを払った女性の声だった。普段の優奈とは正反対だ。
「私、優奈だよぉ。開けてー」
すぐにガチャリ、と音がして、恵子が姿を見せる。
夏だというのに黒いワンピースに腰まである黒髪。優奈と同じくらいの白さに、優奈とは対照的にまったく化粧の施されていない顔。これは、落ち着いているというより……、
「あいっかわらず、陰気なオーラ出しちゃってぇ」そう言って優奈が恵子に抱きついた。
「久しぶりなのに、とんだ挨拶ね。はっきり言ってかなり失礼よ」そう言いながらも恵子は微笑んでいる。彼女は、ちらりと孝之を見た。
「あなたは、どちら様?」
「篠原孝之です。初めまして」
「私の大学の先輩ー。花子さんで困ってる人だよ」
恵子が孝之をつま先から頭までジロリ、と見る。
「優奈の彼氏ですか?」
「違います」孝之は即答した。
優奈が不満げな視線を送る。
「……ふふ。優奈、大変ね。ま、いいわ。あがってあがって」そう言って玄関の奥に入っていく。二人も、それにつづいた。

 「これが花子さんの本」恵子は分厚い本を一冊、テーブルの上に置く。
優奈がすぐにそれを取ってページをめくった。
「……あったぁ。これです、これ。この紋章、ほら」
優菜がページが開いた本を孝之に差し出した。
そこには先ほどマンションで見た赤い紋章のほか、二つの紋章も記してあった。
孝之はそのページを見てびっくりした。そのページに記してある「花子さん」の挿絵が、孝之が一度見た、あの押入れの中にいたものとそっくりだったからだ。顔がまったく見えないほど前に垂らされた長い黒髪。ミイラのように干からびた黒く、細い腕。丸く猫背な背中。身長は170センチもあると記してある。
「そんな……、まさか……」孝之は絶句した。
「やっと、信じたみたいですね」優奈がポンポン、と孝之の背中を叩く。
「……花子さんの姿が見えた、ってことは、紋章は第二段階まで来ているってことね」
恵子がテーブルの向こうから本を覗き込んで言った。
本には、花子さんの呪いを行うには、最初学校とは違う場所で第一紋章を使って花子さんに呼びかけ、そののちまた違う場所で第二紋章を使って花子さんを呼び出し、最後に学校で第三紋章を使って召喚する必要があると書いてあった。第二紋章を使ってから第三紋章を使うまでは第一紋章を使った場所に、花子さんが現れるということも。
「先輩、花子さんの生い立ちって知ってます?」
「いや……」
「じゃ、ここ読んで読んで」そう言って2・3ページめくる。

 花子さん
1938年、東京で小学校のトイレで6歳の時死亡(推定)。
花子さんは大人しく、静かないい子でした。しかし彼女にはヤミ子さん、といういじめっ子がいました。ヤミ子さんはいつも花子さんをいじめていました。花子さんは毎日泣いてばかりでした。ある日、ヤミ子さんが花子さんを学校の左側、左から2番目のトイレに閉じ込めてしまいます。弱虫、ここから出ておいで、と。花子さんは泣いて助けを求めましたが、ヤミ子さんはそれに応じません。やがて、呼ばれた友達のほうへ行ってしまい、そのことをすっかり忘れてしまったのです。それは夏休みが始まる前日のことでした。捜索隊が動き、たまたまヤミ子さんに事情を訊いた時はもう遅かったのです。花子さんはトイレの中で、死んでいました。脱水症状のため、顔は扱けて、ドアを引っ掻いたために爪は全て剥がれ落ちていました。その目は恐怖と絶望のため引きつり、白目だったそうです。後日、ヤミ子さんが弔いにそのトイレに向かうと、花子さんが現れました。驚きを隠せないヤミ子さんをたくさんの人の前で、花子さんは2番目のトイレに引きずり込み、殺してしまいました。こうして、2番目のトイレには「花子さん」そして一番目のトイレには「闇子(ヤミ子)さん」が住み着くようになったのです。

「…………」
「でも、今、花子さんの呪いをしている人って、誰を呪っているんでしょうねぇ」優奈が神妙な面持ちで言った。
「俺、大家さんに訊いて、その人と話してみるよ」
「え?」優奈が驚いた顔をした。
「あんな物騒なもの、何も知らない人にけしかけるなんて酷いじゃないか。人のすることじゃない」孝之は怒っているようだった。
「止めるのはいいけど、怒らせて自分が呪われないようにね」恵子が忠告する。
「わかっているよ。……恵子さん。今日はありがとう。お邪魔しました」ペコリ、と頭を下げ、孝之は玄関に向かう。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、孝之先輩!」慌ててその後を優奈が追った。

そのままバスに乗り、駅に向かう。
「私も行きます!」
「君は来ないほうがいい」
「何でですか!?」優奈が悲鳴のような怒声をあげた。
「また、泣くかもしれないだろう?」そう言って孝之は微笑む。
「そんなの、私は構いません!」
「俺は構う」
「先輩が……心配なんです」優奈は孝之の腕を掴んだ。
「呪いをかけようとしている人と、ちょっと話すだけだよ。別に危ないことなんてない」
「じゃあ、私がいたっていいじゃないですか」優奈の目には涙が溜まっていた。
「……万が一、君に何かあった場合、俺は君の家族に顔向けできない」孝之は真剣な顔で言った。優奈はクスリと笑う。
「私の恋人でもない孝之先輩が、私に何かあったとして、どうして私の親に謝らなければならないんです? これは自己責任です。私が勝手に行きたくて行くんです」
孝之は、しばらく優奈を睨んだ。
「私、絶対引きませんから……」優奈も必死で孝之を睨み返す。
「……わかった」孝之は諦めたように息を吐いた。
「でも、その人と話をするだけだ。何かありそうだったらすぐ帰ってくれよ」
「先輩も一緒に、でしょう?」
「俺は、その人が呪いを止めるまで帰らない。説得するつもり」
「どうしてそこまで……」優奈は首を振った。
「……呪いなんてものの力を借りて人を祟ることが許せないだけだ。殺したいなら自らの手を汚せばいい。……それを幽霊を呼び出して代わりに呪ってもらうなんて……」
優奈はしばらく孝之をじっと見て、言った。
「先輩、その人に怒っているんですね」その顔は微笑んでいる。
「……そうかもしれない」窓の外に目を向けたまま、孝之は答えた。
その風景を、優奈が追う。
「……好きです」突然の発言だった。

バスが、ガタン、と揺れる。

「……は?」間の抜けた返事が返ってくる。
「だから、私、孝之先輩が好きですって、言ったんです」
「……どうしてそんな話になるわけ?」孝之はわからない、といった表情をした。
「何となーく、今先輩と会話してたら、そう思ったんです」そう言って孝之に極上のスマイルを向ける。
孝之は慌てて顔を逸らした。孝之の鼓動は死にそうなほど高鳴っている。
「俺は……、そういうの、何となーく、とか雰囲気で答えるタイプの人間じゃない」
「知ってますよ。だから好きになったんです」優奈はさらりと言った。
「返事を求めているわけじゃありません。ちゃんと言っておきたかっただけです」
「…………」

ゆっくりと、バスが駅ターミナルへ入っていく。

「じゃ、行きましょうか!」そう言って優奈はバスの外に飛び出す。

 その後姿を、孝之は目で追った。
微かに見えた、彼女の耳が真っ赤になっていることに気付き、微笑む。

「じゃあ、行きますか」そう言って、ゆっくりとバスから降りる。
外には真っ赤になった顔をハンカチで恥ずかしそうに覆いながらも、はにかみながら待っている彼女がいた。見上げる空は雲ひとつなく、眩しいほどの太陽の光が孝之を包み込んでいる。

 何故だろう、こんなにも心が軽いのは。と孝之は思った。もしかしたら、「幸せ」というのはこういうことをいうのかもしれない。

 俺はいつか、彼女を愛することができるだろうか?

孝之の思考の50パーセントがイエス、と答え、あとの50パーセントは沈黙を守っている。50パーセントは別のことを考えているのだ。

 この間にも、人を呪おうとしている人がいる。心を憎しみに一杯にして。人を呪うほど憎む、とはどんな気持ちなんだろう? 
その人は、この雲ひとつない青い空を見ているのだろうか。それとも、こんな青空もその人には雷雲にしか映らないのか。

「せんぱーい。何ぼーっとしてるんですかぁ? 日射病?」優奈が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「いや、考え事……じゃあ、行こうか」孝之は笑ってごまかし、改札口に向かった。

 わからないから、確かめに行くんだと思う。少なくとも、俺は関わってしまった人間なのだから。

7 別に強制じゃないぜ

 日は暮れかけていた。山荘千草の前に再び現れると、さすがに優奈の顔が強張る。
「無理して来なくてもいいよ」孝之が優奈の顔を見て言った。
「そういう先輩だって、顔が険しいですよ」優奈が負けじと言い返す。
その表情が子供がすねるようなしぐさに見えて、孝之は思わず苦笑した。
大家さんは山荘千草の一階に住んでいる。顔を合わせたことは一度しかない。最近はこれぐらい小さなアパートでも、仲介業者がほとんど全てをしてくれるから大家と話す必要も実質ない。
インターホンを鳴らすと、大家は家にいた。
中年の、少しふっくらした女性が戸をあける。その髪は短く刈り上げられ、こざっぱりとしている。その顔は孝之の来訪に、少し驚いてる風だった。
「夜分遅くにすいません」孝之はペコリと頭を下げた。
それにつられるようにして優奈も頭を下げる。
「いいやぁ。別に構わないわよぉ。私は。で、どうしたの? もしかして、水漏れでもしちゃった?」
大家はまるで何回も会ったことがあるように、親しげな口調だった。同じ引き伸ばすような独特な話し方も、若い優奈のものとは別物だ。
部屋の奥から子供の声がする。食事の最中だったようだ。家族の団欒を邪魔したことを孝之は申し訳なく思った。
「いいえ……実は、僕の部屋に僕が入居する前住んでいた人の住所か電話番号を教えて頂きたいのです」
「あらまぁ、どうして? 」大家は大げさとも言えるほどに、驚いた。
「え……それは……」孝之は優奈を見た。優奈は任せてください、と頷いた。
「実は、部屋に幽れ……」……孝之は優奈の口を塞いだ。
「(事実以外のましな言い訳はないかって訊いたんだけど……)」孝之が小声で睨む。
「(先輩が思い浮かばないこと、私が思いつくわけないじゃないですかぁ)」
「あなた、202号室よねぇ?」大家が顎に手をあてて考え込むように言う。
「はい、そうですけど……もしかして教えてもらえるんですか?」孝之は内心驚いた。
「普通は、出て行った後の住民がどこに住んでるか、なんて大家でもわからないのよぉ。もし、わかっても言えないしね。でも、前に202号室の人がね、あなたに自分の電話番号を教えるように私に言い残して言ったのよ」
「え? 僕にですか?」孝之は驚いた。優奈も目を丸くしている。
 どういうことだ?
「あなたに、というよりは次の住人に対して、かしら。もし次の住民が自分のことを訊く様なことがあったら、電話番号を教えてやってほしいって。……ねぇ、大家としても困るのよね。何か部屋に傷でも残していったのかしら? 消毒はしたはずなんだけど……」大家の顔は段々と渋くなる。
「あの、本当に大したことじゃないんです。すいません、電話番号、教えていただけますか?」優奈が会話に入り込んだ。
「……まぁ、しょうがないわね」大家は少し不機嫌そうに部屋の奥に戻って行く。しばらくして一枚のメモを孝之に渡した。
「ありがとうございます。……では、これで」孝之は軽く頭を下げ、すぐに大家を後にした。

「大家さん、最後は不機嫌になっちゃいましたね」優奈がメモを覗き込みながら言った。
「だろうね。俺が大家でもやだよ。前の住居人が言ったとおりに次の住居人が電話番号訊いてくるなんてさ。絶対部屋に何かある、ってことだろ。しかもそれが何かも教えてもらえないなんてさ……」
「……そこまでわかるなら、教えてあげればよかったじゃないですかぁ」優奈が批判の声を上げる。
「……で、少なからず大家さんを巻き込むわけだ。それに、いわくつきのアパートなんて、これから先誰も借りないよ」と、孝之はすぐに突っ込む。。
優奈は黙った。
「さて……かけるとしますか」そう言って、黒いジーンズのポケットから携帯を取り出し、
メモに書いてあるとおりに番号を押す。

プルルルルルル。

プルルルルルル。

『もしもし』電話はすぐにつながった。

それは、男性の声だった。

「こんばんは。夜分遅くにすいません。僕、篠原といいます。榊(さかき)さんですか?」
『はぁ。で、何のようでしょうか』
「山荘千草の202号室の現住人です、と言えば、おわかりいただけますか?」
『…………』電話の向こうで、男の乾いた笑いが響いた。
孝之は、彼があの紋章の張本人なのだと確信する。
「会ってお話がしたい。明日にでもお宅にうかがいたいのですが……」
『あんた、見たのか』男は孝之の声をさえぎるようにして言った。
「……一度」孝之はいきなりあんた、とよばれ一瞬眉をひそめる。
孝之の声しか聞こえない優奈は、じっと孝之の表情を見守っていた。
『そうかぁ、俺はまだ見たことないんだよなぁ。』男は残念そうに嘘吹く。
「だったら、引っ越さなければよかったのに」孝之の声音は無意識に冷たくなる。
『……まぁ、あんたには悪いことしたと思ってるよ。その代わりと言っちゃあ何だが、招待してやるよ。本当、ぎりぎりのグッド・タイミングだ』
「招待? ……まさか」孝之の顔がはっと引き締まった。
『凹凸中学校の体育館だ。別に強制じゃないぜ。明日には綺麗さっぱり終わってるしよ。じゃーな。……俺の次の住居人』
「ちょっと待ってください!」孝之は叫んだ。
ブツっと電話は切られる。
孝之は舌打ちした。
「……どうだったんですか?」優奈は、心配そうな顔を孝之に向けている。
「今夜だ。今夜呼ぶ気なんだ……」孝之は半分絶望したような声を出した。
「えぇ!? 今夜!?」
「…………」孝之は無言でバス停に向かう。
優奈も無言で後を追った。
「君は……」
「行きます」優奈はきっぱりと言った。「今更、諦めてください」
「止められなかったら、来るよ。また」
「大丈夫。孝之先輩なら止められます」優奈は微笑んだ。
「俺にそんな自信はない」孝之は優奈を軽く睨む。
「先輩、普通そういう時は、そうか、ありがとう。自信がついたよ、俺に任せてくれ! とか、君がそこまで言うのなら、全力で止めてみせる! とか言うんですよ」優奈は口をすぼめて忠告した。
孝之はそれを聞いて、声を立てて笑ってしまった。
「笑うことないじゃないですかぁ」優奈は怒った。
「だって、俺がそんなことを言うような人に見える?」孝之はまだ笑っている。
「……いいえ、見えません」優奈は諦めたように、大きくため息をついた。

8 凹凸中学校にて

 結局、孝之は優奈を家に帰らせることはできなかった。
連れて行ってくれないなら、一人でもトイレに乗り込んでやる、という優奈のおどしに孝之が屈したのだ。もちろん、さすがにそんなことを信じる孝之ではないが、もしかしたら、という可能性も、なきにしもあらずだった。
二人は学校の門の前に立つ。外は暗く、時刻は夜の7時を回っていた。東京上空は星一つなく真っ暗だ。
「なんか、懐かしいですねぇ、中学校なんて……」優奈がうれしそうな顔で言う。
「そうだね。こんな状況じゃなかったら、もうちょっと感慨深いものがあったんだろうけど」孝之が残念そうにつぶやいた。
「ところで先輩。門の鍵が閉まってるんですけど、どうします?」
「上るしかないね。大した高さじゃないし」孝之は門に手と片足をかけてよじ登り、大して苦労せずに学校側に着陸した。
「そう、先輩はいいですよねぇ」優奈はじっと門をにらみつけている。
門、といっても、優奈の顔と同じくらいの高さである。
「優奈ちゃん、ジーンズだろう?」
「女の子はね、先輩。門をよじ登ったりなんて、しないんですよ」そう言って優奈は何かねだるような目を孝之に向ける。
「しょうがないなぁ。じゃあ、優奈ちゃんは帰るしかないね。おやすみなさい」孝之はくるりと背を向けて歩き出す。
「え!? ちょっと待ってくださいよぉ!」優奈は慌てて門に手をかけた。

「……孝之先輩〜〜」孝之の後ろから、子供がごねるような声が響く。
「……大声なんか出して、近所迷惑だろう」ため息をつきながら振り返った孝之は、思わず足が止まった。
「……優奈ちゃん、何してるの?」
「本当に上れなかったんですぅ。」
優奈は、門の上に腹の上の辺りまで持ち上げた体を二つに折って、器用にもそのままぶら下がっている。孝之は呆れて一歩引いた。
「やだー! 先輩おいてかないでー!」優奈が学校側に入っている両手をばたつかせた。
ガシャンガシャン、と門がうるさく鳴る。
「わ、わかったよ。頼むから静かにしてよ……」孝之は慌てて優奈のもとに駆け寄った。
優奈が孝之の肩につかまり、そのまま体重をかける。
あまりの軽さに孝之は驚いたが、今時の若い女の子はみんなそうなのだろう。
学校側に無事着陸した優奈は、孝之の肩を掴んだまましばらく腹をさすっていた。
「おー、イタタ……。腸が曲がるかと思いましたよ……」
「腸はもとから曲がっているよ。……ていうか、そろそろ離してくれないかな」孝之は怪訝な顔で、肩を掴んでいる優奈の手を剥がす。
「あっ……チッ」優菜が舌打ちした。
「チッって……」一瞬、孝之は全部ワザとだったんじゃないかと思った。

「あなたたち、ここで何しているの?」
突然二人にライトの光が当たる。
振り返るとライトをこちらに向けた、髪の長い女性が立っている。年の頃は孝之たちと同じくらいに見えた。
「あの、私たち、決して怪しいものでは……」優奈が焦って両手を振る。
十分怪しいだろう、と孝之は突っ込みたかったが堪える。
「……もしかして、篠原さんかしら?」女性が孝之の方を見て言った。
孝之は優奈と顔を見合わせる。
「そうですが、どうして?」
彼女はやっぱり、と微笑み、二人に近づいてきた。
「私も花子さんを呼んでいる仲間の一人だからよ」そう言って、にやりと笑う。
なかなかの美人だと孝之は思ったが、今の笑顔はまるで悪女のような含みを持っていた。
「え……あなたも……!?」優奈が口を押さえる。
「ええ、そうよ。あなたは誰?」彼女は優奈の方を見て微笑んだ。
「私は、優奈です」
「優奈さん、いい響きね。私は美紗子(みさこ)よ。じゃあ、行きましょうか」そう言って返事を待たずに歩き出す。彼女の長いブルーのスカートが、足の動きに合わせてゆらゆらと揺れた。
孝之が目で追う彼女が向かう先に見える体育館の窓からは、オレンジ色の光が漏れていた。

校舎の裏を通り、体育館へと向かう。裏の林から鈴虫の声がした。優奈が林のほうを向く。
リンと鳴く声はとても美しく、素敵な音色だった。東京じゃもうなかなか聴けない。優奈は孝之とこの音色を聴けたことを喜んだ。そしてこの喜びを打ち明けようとちらりと孝之の方に振り返る。
「綺麗な鳴き声ですね」うっとりしたような表情を、孝之に向ける。
「何が? 蛙でもいた?」
孝之は……まったく鈴虫に気付いているようではなかった。
「誰が今回のことを思いついたんですか?」優奈は美紗子に問いかけた。
「……さぁ、三人とも何となーくそれしかないなぁ、と思っていたと思うし。言い出したのは榊、かな……。でも、誰も反論しなかったんだから、同じよね」そう言って、美紗子は笑った。
「そんなに憎い人なんですか? ……呪い殺さなければならないほど……」
優奈は美紗子が苦手だと思った。優奈の想像では、呪おうとしている人はもっと弱弱しい、追い詰められたような顔をしていると思ったのだ。でも、目の前の彼女は違う。笑顔は無邪気なほど明るく見えた。
「そうよ。煮たり焼いたりでなんとかなるような人じゃないんだから……」
優奈がキョトン、とした顔をする。孝之は黙って二人の会話を聞いていた。
「死んでるのよ」美紗子はすぐに続けた。
「……は?」優奈が眉をひそめる。美紗子はふふっとまた微笑んだ。

 体育館の扉を開けると、そこには異様な風景が映っていた。中央には赤いテープで大きな円陣のような紋章が描かれ、テープの上には何十本ものロウソクが並べられ、煌々と火を灯していた。中央にはどこかのクラスから持ってきたのだろうか、懐かしい木の机と椅子が置かれ、机の上には真っ白な紙とえんぴつが置かれている。
円陣の中には、こちらを見てにやにやと笑っている二人の男がいた。これも孝之たちと同じくらいの年の頃で、一人はひょろっとした感じの背の高い男で、一人はがっしりとした少し太めの男だった。
「やっぱり来たな」ひょろっとした男がにやりと笑って孝之と優奈を見る。
その声に孝之は聴き覚えがあった。
「榊さんですね」孝之は挨拶程度に、軽く微笑む。
「もっと年寄りかと思ったけど、俺と同じくらいじゃないか。電話だと、すげぇ老けてるな、お前」男が笑うと、八重歯が見えた。
太めの男が心配そうな顔をしてこちらを見ている。それはまさしく優奈が想像していた動作だ。
「おい、榊。こいつら何しに来たんだ?」太めの男が声をかける。
「ただの見学だよ。な?」榊が孝之を見た。
「いえ、本当はここに来るまでずっと止めるつもりで来たんですけど……」孝之はちらりと美紗子を見る。美紗子は魅惑的に微笑み返した。
優奈が顔をしかめて孝之の腕を掴む。
「美紗子さんが言ってたんですけど、呪う相手がもう死んでいるってどういうことなんです?」
「そのままだよ」榊は笑った。
「呪いたい相手が、死んでいるってことさ」
「幽霊なんだよ」太めの男が付け加える。
「そうよ、もう、それはそれはしつこいんだから……」初めて美紗子が苦々しい顔を見せた。
「…………」
「先輩。フリーズしてますよ……」優菜が腕を突っつく。
「……どうしよう。コメントに困った」
「本気で言ってるんですか。死者への冒涜ですよ」
「死んでる人間が生きてる人間に干渉してもいいのかなぁ。いや、これはもしいるとしたら、の話だけど……」孝之は考え込む。
「あなたたちはあくまで見学者、なんだから決定権なんてないのよ」美紗子が言った。
「ろうそくが消えてしまうわ。早く始めましょう」
どうやら一番乗り気なのは美紗子のようだ。
三人はテープで描かれた紋章の中に入り、美紗子が椅子に座ってえんぴつを握った。
「始めるわよ」そう言って、深く息を吸い込む。
横にいる二人が、深く頷いた。
「どうか、我らの願いを聞き届け給え。我らはあなたの力を借りんと欲する者なり……」
美紗子の緊張した声が体育館に響く。
「(先輩。本当に止めなくていいんですか……)」優菜は孝之を睨んだ。
「…………」孝之は座り込んで、悩んでいるような素振りを見せるだけだった。
「(もう! 孝之先輩には失望しました!)」優菜は大げさにため息をつく。
そして、あっと小さな声をあげる。
「どうしたの?」孝之が振り返った。
優菜は小さくどうしよう、と悲鳴を漏らした。
「先輩……、トイレ行きたくなっちゃった……」優奈が泣きそうな顔を向ける。
「……俺にどうしろと?」
「トイレの前まででいいですからぁ……」優奈は両手を顔の前ですり合わせた。
「当たり前だよ。……しょうがないなぁ……」孝之はジーンズを祓って立ち上がる。
二人はそっと三人のほうを振り返り、静かに体育館を出た。

「全ての用意は整いたり……。我ら等しくあなたを待ちわびる。どうかここにいざ来たまえ……」そう言って、美紗子はえんぴつを握り締め、紙にゆっくりと書き始める。

 花子さん いらっしゃいますか?

次の瞬間、その字は浸み込むようにして消え、同じ場所に今度は文字がにじみ出てきた。

 もう きている

三人の顔に緊張が走る。美紗子は自分を落ち着けるように、ゆっくりと息を吸った。それでも手の震えは止まらなかった。

 花子さんに、呪って欲しい人がいます

 だれ

 静沼 岬 5年前に死んだ女の子です

 わかった

二人は、ほっと息をついた。美紗子だけが緊張の顔を崩さない。

 その人だけです そうしたら、どうかお帰りください

美紗子はこれが一番心配だった。機嫌が悪いとなかなか帰ってくれないときもある、というのを美佐子は知人に聞いたことがあったのだ。

 わかった

その文字を見て、美紗子はやっと息をつく。しかしすぐに次の文字が浮かんできた。
 
いけにえはだれだ

いけにえ? 美紗子が二人のほうを見る。二人も、わからない、と首を振った。
すぐに次の文字が現れた。
 
いきているひとのたましいをだせ

美紗子の背中を汗が伝う。しまった、と唇を噛んだ。
「あの二人の名前知ってる?」
「篠原、だろう。たしか」榊はにやりと笑う。
「馬鹿、だめよ。フルネームじゃなきゃ」美紗子は焦っていた。
すぐにまた文字が浮かび上がる。

 たましい くわせろ

「おい……やばいぜ……」太めの男が次々と文字の現れる紙をみながら呻いた。

 いなきゃ おまえの くうぞ

「ひいっ!」男は後ずさった。
美紗子は舌打ちした。
「太田! あなた死んでよ!」美紗子が叫ぶ。
「何で俺が! 言いだしっぺはお前じゃないか! お前が死ねよ!」太めの男が叫び返す。
「何ですって!? 馬鹿なあんたは考えもなしにほいほい乗ってきたくせに!」
「太田、諦めて死ね」榊が美紗子からえんぴつを奪う。
一瞬、二人が止まった。榊はすぐにえんぴつを走らせた。

 太田 卓(すぐる)

太田の悲鳴とも怒号とも言える雄たけびが上がる。
直後、太田は机に向かって突っ込んできた。
「美紗子! 太田を止めろ!」榊が叫ぶ。
美紗子は立ちはだかったが、体格に差がありすぎた。美紗子は吹っ飛ばされ、榊も押し倒される。
「やめてええぇえええ!!」美紗子がヒステリックに叫ぶ。
「……れだけ、死んでたまるか」太田は紙を手に取り、

 破いた。
びりびりに。

ボウッと突然紙が燃える。

「あ……あ……あぁ」美紗子の顔に絶望の色が映った。
榊が立ち上がり、放心状態で笑っている太田を殴り飛ばす。太田は笑ったまま、床に大の字に倒れた。
突然、体育館の明かりが全て消える。
「きゃっ!」美紗子は悲鳴を上げた。
数秒後、すぐにまた明かりがつく。
「何だったんだ……?」榊はあたりを見回し、それを見つけた。
美紗子の目が大きく見開く。

 けいやくは しっぱいした 

壁に大きな赤い文字が浮かび上がっていた。
すぐその下にまた文字が現れる。

 けいやくは しっぱい くう たましい くう

「落ち着け美紗子! 紋章を描けばいいんだ! 花子さんが入ってこられない紋章を!」
榊が美紗子の肩を掴んで大きく揺らす。その言葉はゆっくりと美紗子の脳に届いて消化された。
「だめよ……。紋章は中央に描かなきゃ……。体育館中のこの紋章はがしてる間に来ちゃう……」
「グランドがあるだろう!」
「……そうか……、グランド。そうよ、それだわ!」
美紗子の目に、再び希望の光がともる。美紗子はちらりと大の字になって正気を失っている太田を振り返った。
「あいつはこのまま死なしておけ」
「……そうね。それで満足してくれるといいけど」
二人は急いで体育館を後にした。

「先輩、いるー?」トイレの中から、大きな声で優奈が叫ぶ。
これで3度目だ。
「いるよ!」孝之も大声で叫び返した。中には入っていないとはいえ、女子トイレの前でじっと待っているのは変な感じがした。
まったく、と孝之は思ったが、確かに心配だった。タイミングがタイミングなだけに。
「先輩ー」また声が中から響く。
 
 ふわっと、空気の流れが変わる。
ゆっくりと、孝之は振り返った。
冷たい空気が、顔に触れる。孝之は首を傾げた。
いつもより、ずっと、柔らかい冷たさだったのだ。
廊下の向こうに目を向ける。
孝之はぴくり、と眉を動かした。

今度は見えた。
何と声をかければいいのだろう。
「こんばんは」不思議と心は落ち着いていた。それぐらい、それから恐怖は感じられなかった。
少女は真っ白なワンピースを着ていた。年の頃は10歳くらいだろうか。クセっ毛の髪に、大きなメガネをかけている。ちゃんと両足もあったが、体中から人じゃない、と宣言するように青白い光を放っていた。
『こんばんは』少女も孝之に近づきながら挨拶を返す。
「きっと、君は花子さんじゃないね」孝之は少女を見ながら言った。
少女は、コクンと頷く。
『彼女はあなたたちも殺すかもしれない。今すぐ学校を離れたほうがいいわ』
「ありがとう。そうするよ」孝之は優しく微笑んだ。
「君、名前は?」
『静沼岬(みさき)だよ。 あいつらに、私は殺されたんだから……』 
「あの三人のこと?」孝之も、呪いたい相手が幽霊だと聞いたときからその可能性はあると思っていた。
『そう。で、私、毎晩三人の枕元に立って、言ってやったの。よくも殺したな! って……。そうしたら、美紗子のやつ、花子さんをよびやがって……』岬は憎憎しげな顔をした。
「大丈夫なの? 岬ちゃんは」
岬はにっこりと笑った。
『あたしは大丈夫……。呪いは失敗したんだからさ。そんなことより早く逃げなよ。』
優奈が外に出て、手を洗う音がした。
「ありがとう。そうする」孝之はもう一度微笑んだ。
岬はにこっと笑い、そして消えた。

9 トイレの花子さん

 優奈と孝之が女子トイレを去った後、外でゴロゴロと雷が鳴る音がした。
数秒後、黒い雲がピカッと光り、どこかに落雷する。ガガガッと何かが振動する音が近くから聞こえた。
「今の、大分近くに落ちたみたいだね」孝之は窓の外を見てつぶやいた。
「今日、天気いいって言ってたのに……私、あんまり雷好きじゃないんですよ」優奈は眉をひそめる。
再びピカッと雲が光ったかと思うと、ドガガガガッと大木を割るような音が前よりもすぐ近くから響いた。
「きゃっ!」優奈は耳を塞いだ。
「……近くに落ちたね。今のは……。雨も降ってきた……急ごう」
孝之は優奈の腕を掴み、小走りで走った。優奈の体は震えていた。

 2階の廊下、奥にある女子トイレは今無人である。
2回目の雷が落ちたとき、右側一番手前のトイレのドアが開いた。それはすぐに閉まった。
続いて2番目のドアが開く。しかしそれもすぐに閉じた。3番目、続いて左側手前と次々にドアが開いては、閉じる。ドアの開閉が一周すると、今度は全てのドアが一斉にゆっくりと開閉を繰り返した。バタンバタンと無機質な音が廊下中に響き渡る。
その瞬間、一つのドアだけが凍りつく。それは左側2番目のトイレだった。

 一番目のトイレから子供の、すすり泣く声が響く。
 まるで許してくれ、と言っているように悲しく、その声は廊下に木霊した。

 2番目のトイレから、まるで獣が咆哮するような二重音声が響いた。
すすり泣く声を打ち消すように大きく、低く、その雄たけびは学校中に響き渡る。
まるで、ここに私がきたぞ、と誇示するかのように。

 その雄たけびは、校内にいるもの全てを震撼させた。
体育館内にいた太田がびくっと目を覚ます。
「あ……れ? 俺、何でこんなところに……」太田は寝ぼけている頭をゆっくりと回転させて、状況を把握しようとした。
「そうだ……俺は、美紗子と榊の野郎にはめられて……!?」太田はキョロキョロと周りを見渡す。
「俺……生きてる? 生きてるんだよな……?」太田は立ち上がった。
「ヤッホウ! やっぱり呪いは失敗したんだ! 俺は死なねぇ!」大きな図体が喜びに打ち震えた。

 ベタッ、と何かが窓にくっつく音がする。

太田はびくっとして後ろの窓を振り返った。激しい雨が窓を叩いている。
それだけだ。
太田はほっと胸をなでおろし、前に振り返り、……硬直した。

 窓に張り付いた両手。太田を見つめる大きな目に白い部分はまったくない。ミイラのように干からびた黒い四肢。赤い、ところどころ裂けたロングドレス。
張り付いた両手から、ミシミシとガラスが軋んでいく。

 太田は、後ずさるしかなかった。

窓はすぐに割れた。長い両手がまず、体育館内に進入する。両手は窓から床につくほど長かった。1メートルは軽く超えている。とても人間の手の長さとは思えなかった。
次に真っ黒な頭が入ってきた。長い髪は、彼女の顔を覆い隠している。
やがて彼女の胴が侵入し、窓からゴトリと滑り落ちた。長い両手を前に伸ばし、這うようにして近づいてくる。その指先に爪はない。

「ちっ近寄るなぁっ!!」
目は逸らせなかった。後ずさる体が、やがて壁にぶつかる。
「あっあぁあああ!!」恐怖にズボンが濡れるのがわかった。

 やがて、ゆっくりと彼女は立ち上がり、長い手を彼に伸ばす。冷たい指先が、彼の首に触れる。
「ああああああぁあああああああ!!」

 ボキッ、という音が館内に響いた。首が折れ、変な方向に頭が垂れた太田の体が、だらりと床に崩れ落ちる。その体の上に彼女はまたがった。
一度、空を掴むような動作をし、それを自分の口元に運んだ。唇の剥げた口元がにやりと微笑む。そしてしばらく、その魂の旨さの余韻に彼女は浸った。

 そして、ここでも絶望のふちに佇む二人がいた。
「どうすんのよ! こんなに雨が降ってちゃ、石灰が使えないじゃない!」美紗子はずぶ濡れになって乱れた髪を、気にする様子もなく叫んだ。
「し、仕方ない。ここは、一度校内に戻って、教室を片付けるしか……」榊の声は上ずっていた。
「花子さんのいる校舎に戻るなんていやよ!」
太田は周りを目を皿にして伺う。
「あ……」
「何!?」美紗子は目を爛々と輝かせた。
榊はグラウンドの奥にある建物を指さす。そこは、凹凸中学の設備されたバッティング練習場だった。
美紗子は榊に飛びついて抱きついた後、駆け出した。榊もその後を追う。
バッティング練習場は完全な室内だった。
「やった……やったわ!」美紗子は小躍りしながら時計を見る。時計は夜の9時を廻っている。
「呪いの有効時間は1時間……。もう30分経ってるから、あと30分ここで紋章の中にいれば、花子さんに殺されることはないわ!」美紗子は体育館でも使った赤いテープを一つ榊に渡す。
二人は急いで床にテープを貼り付け始めた。
「……太田、今頃花子さんにもう殺されてるんだろうな……」榊がつぶやくように言った。
「……そうね。同じ死ぬにしても、花子さんにだけは殺されたくないわ」美紗子はテープを張る手を休めない。
「なぁ、俺、そこんとこよく知らないんだが、普通に死ぬのと花子さんに殺されるのとどう違うんだ?」
「花子さんわね、魂を食うのよ」美紗子は手を止め、榊を見据えた。
「花子さんに食われた魂はあの世にも逝けずに、ずーっと永遠に花子さんの呪いに縛られたままこの世に留まるの」
「…………」榊の表情が曇る。
「私たちは大丈夫よ」美紗子はすぐにそう言った。
「私たちは大丈夫……」もう一度、今度は自分にそう言い聞かせるようにつぶやく。
紋章は、完成した。
 
ふうーっと一息ついた美紗子の後ろで、ペタペタと裸足で近づいてくる足音がした。

美紗子がはっと顔を上げる。後ろを振り返るのを一瞬ためらう。顔を上げた榊の目は、驚きに見開いていた。

『絶対に、許さない……』低く、恨みに満ちた子供の声が、美紗子の背中に突き刺さる。

美紗子はばっと振り向いた。
「岬!」美紗子が叫んだ。
青白い光を放つ子供の幽霊は、美紗子の目の前で憎しみのオーラを放っていた。
『花子さんを呼んでまで私を始末しようとするなんて……あぁ、どうしてくれよう』
岬は怒りのあまりに微笑んでさえいる。
「あ、あなたが成仏しないのが悪いんでしょう! そうすれば、こんなことをしなくても済んだのよ!」美紗子は岬に食って掛かった。
『私を殺したくせに! 憎くって憎くって、成仏なんかできないわよ!』
岬の発した冷気に美紗子はぶるっと体を震わせる。
『でも、これでおしまいね……。死んだ私が言うんだから間違いない……。あなたたち……今日死ぬわよ』岬はにやりと笑う。
「紋章は完成したわ! 花子さんは私たちに指一本触れることもできないのよ!」
『だから何? 花子さんが来たら、私があんたたちをこの紋章から外に引きずり出してやる……』岬は高笑いをして宙に浮き上がった。
そのまま二人の上空をぐるぐると飛び回る。岬の笑い声が、二人の頭に降り注いだ。
「そんなこと、させないわ……」美紗子は唇を強く噛む。
美紗子は頭上を飛び回る岬の足を掴んだ。そのまま岬の体を力いっぱい床に叩きつける。しかし、ドスン、という音はしなくて、ふわっと体が横たわっただけだった。
『……それが肉体を持たない私にとって、どれぐらい無駄なことかわからないの?』
岬は寝そべったまま美紗子を上目遣いに睨んだ。
「うるさい!!」美紗子は岬を一喝した。
「殺してやる……」美紗子の目の焦点が、うつろにぶれはじめる。
『何? 一度殺しても飽き足らず、まだ私を殺したいわけ?』岬はケラケラと笑い転げた。
その冷たく青白い、細い足首を美紗子は強く握り締めたまま離さない。
『私を殺したこと、後悔すればいいんだわ! ふふふっ』岬は体をよじって笑った。
「後悔なんかしてないわ」美紗子はすぐに言い返した。
岬の笑いが止まる。
『……何ですって?』
美紗子は、振り乱れた長い髪を優雅に掻き揚げた。うつろな目は左右に揺れ、岬を見ているのかどうかもわからない。
「あんたなんか……例え生き返ったって何度でも殺してやる……。何度も、何度も……」
岬は美紗子に小さな手を伸ばした。それを美紗子がはらう。岬の手はいとも簡単に床に叩きつけられた。
『…………』
「ふん。あんた、死んでも私に手出し一つできないのね……くっくっ……」美紗子は嘲るように笑った。
岬の表情が口惜しさに歪む。
「無様ね。とっとと成仏していれば、死んでからこんな口惜しさを味わうこともなかったでしょうに……」そう言うと、美紗子は岬の頬を開いた手で平手打ちした。
パーン、という音はしなかった。ただふわりと岬の顔が横を向いた。もう一度、美紗子が反対側から頬を叩く。また岬の顔がふわりと横を向いた。

 私、殴られているの?

岬は美紗子の顔を見た。生前、自分が美紗子に向けられていたときと同じ表情。その目には恐怖もなく、ただただ侮蔑だけが含められていた。

 許せない!

『呪ってやる……』
「ふん……。できるならやってみれば? 死んだあんたに何ができるって言うのよ。言っとくけどね、今回は失敗したけど、いずれ別の手を使って絶対あんたを私の目の前から消し去ってやるんだから……」美紗子は鼻で笑った。
『祟ってやる……』
「お……おい……やばいぞ……」榊が初めて口を挟む。
怒りに震える岬の体からはもはや青白くなく、黒いオーラが放たれていた。
岬は美紗子の腕をすりぬけると、ふわりと空中に舞い上がり、美紗子を見下ろした。
『この世で一番の恐怖を……お前に!!』
岬の体が美紗子に向かって急降下する。さっきまでとは比べ物にならない程の冷気が、美紗子の体を震えさせた。

 ズブリ

確かに、そんな音がした。美紗子は自分に何が起こったのか、理解できない。
目の前には岬の憎らしい顔があり、そして、

 岬の両腕が美紗子の腹の中に入っていた。

痛みはない。唖然としてる間にも、より深く、両手、両足が美紗子の中に進入する。
「な……何?」美紗子は慌てて岬の顔を掴んだ。掴んだ手の平にも、岬の顔が溶けるように侵食していく。
『乗り移ってやる』そう言ってにやりと笑い、岬は美紗子の体の中に完全に消えた。

「おい……大丈夫か? 何があったんだ?」太田が美紗子に近寄る。
「……なんでもないわ……岬は諦めたみたい。さぁ、あと30分、ここで呪いが解けるのを待っていましょう」美紗子はにこりと微笑んだ。それは、少女のごとく。

10 悪霊のSOS

 二人は校舎から出るため、体育館前の通路を通りかかっていた。
「こっちの道は、やめたほうがいいな……」突然、孝之が踵を返す。
「えっ、そんな……早く外に出ましょうよぉ……」優奈は孝之の腕を引っ張る。
優奈は一秒でも早く、この校舎から外に出たかった。
「非現実的な理由で申し訳ないんだけど、寒気がするんだよ……」孝之は顔をしかめて言った。
「寒気って……」優奈の血の気がますます引いていく。
「ね? やめておいたほうがいいと思うだろう?」諭すように言って、孝之はふと視線を体育館に向けた。
優奈もそれにつられる。
「……窓が、割れてる……」孝之がぽつりと言った。
体育館の閉じられたドアが、ガタガタと鳴っている。
「誰か、中にいるのかしら……?」ふらりと前に進もうとする優奈を、孝之が止める。
優奈は孝之の顔を見てびっくりした。孝之の顔は凍えているように震え、腕には鳥肌が立っていたのだ。
「……先輩?」
孝之は首を振った。
「もう……手遅れだ。優奈ちゃん、全力で走るよ」孝之は優奈の手を握ると、全力で体育館とは反対方向へ走り出した。
バターン、とドアが開く音がする。びっくりした優奈は思わず止まりかけた。
「振り返っている暇はない!!」孝之が一喝する。
孝之が怒鳴るように叫ぶのを、優奈は今まで一度も聞いたことがなかった。
優奈は孝之の手を強く握り返し、懸命に孝之の後を走った。

 バタバタ、バタッ、バタッ、ダッダッダッ。

足音はどんどん近づいてくる気がした。二人は本能で振り返ることを拒んだ。目に映れば、走ることが出来なくなるような気がした。
二人の前に下駄箱が映る。二人は全力でそこに駆け込んだ。
「……っ、ハァハァッ……」優奈は苦しくてめまいがした。
「鍵がしまってる……」孝之はすぐそばにある傘立てから全部の傘を放り投げる。
ドアは上半分がガラスで出来ていて、下は黄土色のペンキの塗られた鉄製だった。
孝之はそれを持ち上げると、思い切りガラスドアに打ち付ける。ガラスは簡単に割れた。
孝之はそこから外に足をかけて飛び出す。
すぐに振り返って優奈の腕を掴んだ。
「今更、足上げるのがいやだ、なんて言わないよね」そう言って腕を強く引っ張る。
「言いませんよ!」優奈は孝之の首にしがみついた。

ダッダッダッダッ、ピタッ。

「……優奈ちゃん、絶対振り返るなよ」孝之は強く傘を握り締める。凍えるほど寒気がするのに、額から汗が流れた。
優奈は恐怖で今にも泣きそうだった。急いで割れた窓枠に足をかけ、外に出る。
出た瞬間、何かが後ろから自分に飛び掛ってくるような気配がした。
孝之が握り締めた傘を、力いっぱいそれに突き刺す。
ドスッと肉を破る、鈍い音がした。
優奈は初めて後ろを振り返り、叫び声を上げた。
孝之の傘は、二人が飛び出した窓枠一杯に体を打ち付けている巨大なものの胸に突き刺さっていた。
孝之がそれを押しやろうと更に力をこめる。
真っ黒で長い髪。突き出した白い部分のまったくない目。異様に長い手。黒い肌。真っ赤なワンピース。
そして、何て巨大なんだろうと思った。孝之よりも小さいはずなのに、広がった髪の毛と長い手が彼女を数倍にも巨大にして見せた。あたりの闇を全て彼女が背負ってきている、そんな幻想さえ抱かせる。
「は……花子さん……」優奈の声は掠れていた。
孝之に押されてか、花子さんの体がぐらりと後ろによろめく。
孝之は傘を離し、再び優奈の腕を掴んで駆け出した。

グラウンドの向こうから、男の叫び声が聞こえる。
「もしかして……花子さん?」優奈は恐怖に身をすくませた。
「もし、花子さんがワープまがいなこともできるとしたら、俺と君は助からない」
「……じゃあ、今のは?」
「この寒気には覚えがある」孝之は思い出すように言った。
「……は?」優奈が不思議そうな顔をする。

 孝之! 助けて!

孝之はびっくりしてあたりを見回した。
「どうしたんですか?」優奈は心配になった。

 孝之! 早く来て!

「……子供の声がしない? 耳から、っていうより脳に直接響くみたいな……」
「……? 何も……」
孝之は数秒の間優奈を見て、がっくりとうな垂れた。
「先輩ぃぃ。どうしちゃったんですかぁ……」優奈はしゃがみこんでいる孝之を見て、泣きそうになった。
「あ、ごめん。そんなつもりじゃ……ちょっと落ち込んだだけで……」孝之は慌てて立ち上がる。
「落ちこむ?」優奈は赤い目をこすりながら言った。
「うん。どうやら、優奈ちゃんより俺のほうがよっぽど非現実的な人間だったらしい」
孝之はバッティング練習場を見る。やはりそこは明かりがついていた。
「……それが、ショックなことなんですか……?」
「とっても」孝之は真剣に頷く。
「……それ、私に対してとっても失礼ですね」優奈は孝之をにらみつける。けれども口元は笑っていた。
孝之は練習場を指差す。
「俺はあそこに行かなくちゃ行けない。君は……」
「行きます」
「そう。じゃ、行こうか」孝之はそれ以上粘らなかった。時計を確認してすぐに走り出す。
優奈はそれがうれしくて、遅れまいと必死に走った。

 練習場のドアを開けた孝之と優奈は絶句した。
後ずさる優奈の背中を孝之が支える。
テープの紋章の中で、血を流して縮こまっているやせ細った男が一人。男は震えていた。
孝之はその原因に目を向ける。
彼女はゆらゆらと揺れて空に浮かんでいた。真っ青なドレスにつややかなロング・ヘア。手には先の尖った鉄パイプが握り締められている。しかし彼女の表情に、美紗子の面影は残っていなかった。
榊は孝之を見ると駆け寄ってきた。頭部と鼻から出血し、足もびっこを引いている。血の匂いがした。
「これは、一体どういうことなんです?」
「わからない……岬が美紗子にひっついて、消えちまったんだ……。そしたら、突然鉄パイプもって襲ってきて……しかも宙になんか浮いてるし……なぁ! あれって、やっぱり、やっぱり……」榊は孝之の肩を揺すった。
「岬って?」優奈が割って入る。
「……幽霊だよ。たぶん、美紗子さんに取り憑いてるんだ」孝之が答える。
孝之には実際、二人に見えないものが見えた。宙に浮く美紗子の体からはみでた黒い人影。
それは孝之が一度だけ会った岬という幽霊に違いなかった。

 しかし、どうしてこんなにも雰囲気が違うのだろう?
少女から発せられるオーラは黒く、ゆがんでいた。孝之に気付く様子もない。

 助けて

孝之は少女をじっと見つめる。確かに、彼女から聞こえるのだ。孝之を呼ぶSOSが。
「どうして、岬ちゃんは美紗子さんに取り憑いたんです?」孝之は榊の方に振り返った。
「わからない……ただ二人で言い争って……見た感じ美紗子が優勢だったんだ……。そしたら、いきなり岬が美紗子に……」
「先輩……その子、悪霊になりかけてるんだわ……」優奈が口を開いた。
「悪霊?」孝之が聞き返す。
「だって、どんどん空気が冷たくなってるんだもの……」
たしかに、と孝之も身を震わせた。こうして話している間にも、吐く息が白くなるほどに室内は冷え切っている。
「どうすればいい?」孝之は今度は優奈に訊いた。榊よりも彼女のほうが詳しそうだった。
「彼女が何て言ってるか、わからないと……」

 助けて お願い

孝之の頭に、また岬の声が響く。
「助けてって言ってる」
「……一度一つの体に混ざってしまった魂と魂は、離れにくいんですよ」優奈は考え込みながら言った。
「恐らく、岬さんか美紗子さんのいずれかが死ぬか、意識がなくならない限り離れることはないわ。しかも岬さんは悪霊に成りかけているし……」
ブンっと何かが飛んでくる音がした。孝之は反射的に優奈を引き寄せる。
「ぎゃああぁあああ!!」榊の叫び声が響いた。
美紗子が榊に鉄パイプを投げつけたのだ。鉄パイプは見事に榊の足に突き刺さっていた。
優奈が思わず目を伏せる。

 殺して 悪霊になるくらいなら

その体は君のものじゃないだろう、と孝之は思った。いや、岬が美紗子達に殺されたのならその権利はあるのか。

 悪霊なんかになりたくない!

「…………」孝之は榊の前に座った。
「……先輩? まさか……」
「榊さん。ちょっと痛いですけど我慢してくださいね」孝之は喘いでいる榊に突き刺さった鉄パイプに手を伸ばす。

 ズボッ

「あああああああぁああああぁああ!!」榊の今夜何度目かの絶叫が木霊する。
「せ……先輩ぃ……」
孝之の手には、血まみれの鉄パイプがあった。榊は気を失って倒れる。
孝之は自分のTシャツを脱いで優奈に渡した。白い息が出るほどの室内はかなり寒い。
「……榊さんの足、巻いてあげて」そう言って、少し微笑む。
優奈は怯えながらも頷いた。
「先輩……まさか……」
「打ち落とすだけだよ。出来たら殺さない」

 殺して 殺して 殺して 殺して 殺して 殺して

「だから……」孝之は鉄パイプを思い切り振りかぶる。
美紗子はふらふらと宙に漂って微笑んでいた。孝之の次の行動を心待ちにでもしているように。
「その体は、君のものじゃない!!」孝之は鉄パイプを思い切り美紗子に投げつけた。
ゴンッと鈍い音がした。少し遅れてカランカランと鉄パイプが床に落ちる。
美紗子の体は一瞬ゆらっと大きく揺れたかと思うとそのまま落下した。
「先輩! 今、頭に当たりませんでした!?」さすがに優奈が非難の声を上げる。
「脳震盪を狙ったんだよ」孝之は美紗子の近くに落ちている鉄パイプを拾った。
そのまま美紗子の上に馬乗りになり、首に鉄パイプを突きつける。
「そうか……これで岬さんの意識が一時的でもなくなれば……」
「これで意識が戻ってまだ殺してとか言うのならやるしかないけどね」
孝之は美紗子の意識が戻るのを待った。
「そんな……それって、殺人ですよ!」優奈の声がヒステリックになる。
「仕方がない。警察に捕まるか、美紗子さんに祟られるか、あ、両方か」
孝之の声は淡々としていた。
優奈はしばらくの間孝之を睨みつける。孝之の目は美紗子を見つめたままだった。
「……やるときは私もやります」優奈は目を細くして言った。
鉄パイプを握る孝之の手を、優奈の手の平が上から強く握り締める。
冷たく冷え切っている孝之の手に比べ、優奈の手は温かかった。
「優奈ちゃんってさ、たまに怖いよね」孝之はつぶやく様に小さな声で言った。
「先輩ほどじゃありませんよ。先輩にはもう、脱帽です」優奈は大きくかぶりを振った。
美紗子の眉がぴくりと動いた。二人は息を呑んでそれを見つめる。
そのとき、ふわりと青白いものが彼女の体から離れた。
「あ!!」と優奈が声を上げる。
少女はふわふわと宙に浮かび、孝之を見つめていた。

『ありがとう……』

「どういたしまして」孝之は怒ったように答えた後、少し微笑んで見せた。
優奈は初めてその少女を見た。
「あなたが……岬さん……」
岬は優奈のほうに振り向くと、ペコリと会釈する。
『はじめまして。優奈さん。私、岬です。孝之の傍にいたから、あなたのことはちょっと知ってます』
孝之、と呼び捨てにするところが子供らしくて優奈には可愛らしかった。
「う……うん……」
岬ははっと美紗子を振り返る。
「あら……私……」美紗子は寝ぼけ眼できょろきょろと辺りを見回した。
『殺してやるー!』飛び掛ろうとする岬を優奈が後ろから押さえた。
「岬さん! 落ち着いて! また悪霊になっちゃう!」
『うううぅぅ〜』悪霊になるのが嫌なのか、岬は大人しく優奈に従った。
「美紗子、無事なのか?」どうやら榊も意識を取り戻したようだ。

 部屋の温度は下がり続ける。

ぶるっと孝之が震える。優奈は慌てて自分の羽織っていたカーディガンを孝之にかけた。
「あー……ゴメン」
「風邪なんてひかないでくださいね」優奈は微笑んだ。
美紗子は自分を睨みつける岬を見て、はっと後ずさる。
「寄らないで! あんた、私に何をしたのよ!?」
『ふん。ちょっと取り憑いて脅してやろうとしたら、失敗したのよ。殺してやりたかったのに……』そう言って一歩前に踏み出す。
美紗子は距離が縮まらないよう後ずさった。
岬はにやりと微笑み、また一歩踏み出す。
「美紗子! 下がっちゃ駄目だ!」榊が叫んだ。
その声に気付き、孝之と優奈もはっと顔を上げる。
「「あ……」」

後ずさった美紗子の体にどんっと何かがぶつかる。

美紗子は振り返れなかった。凍りつく指先がそっと美紗子の首筋をなでる。
「美紗子を殺すなぁ!!」榊がテープから飛び出す。
「榊さん!」追おうとした孝之を、優奈が制した。

 蛍光灯によって照らされた彼女の影は、3メートルをゆうに超していた。
 見えるものが花子さんなのか。それとも影のほうが本当の彼女なのか。
 飛び掛る榊の首を、黒い腕がわしづかみにする。
 黒い瞳は喜びに打ち震えていた。そのまま榊は床に叩きつけられる。
榊の頭から黒い血がだらだらと流れ出て、小さな泉を作った。
うぐぅっと美紗子が悲鳴を上げる。それと同時に優奈がか細い悲鳴をあげた。
美紗子の首に、花子さんの指がもぐりこんでいる。
岬はただじっとその様子を見守っていた。

孝之は不思議な光景を見た。
息絶えた二人の体から、何か青白いものがぽわりと浮き上がる。
大量に出血した榊の体から浮かび上がるその人影は……榊だった。
青白いオーラに包まれた榊は、半分ほど体を起こし、倒れたままのもう一体の自分の体を見つめる。
『俺は……あぁっ、来るな! クルナァっ!』
花子さんは榊の青白い腕を掴んだ。そのままそれを自分の口に当てる。
ズルズルと吸い込む音と同時に、榊の幽体は花子さんに吸い込まれていった。
『あ……あ……』それを見た美紗子が急いで自分の体から離れようとする。
しかしまだ慣れない彼女は上手く移動できないようだった。
黒い腕が美紗子の片手を掴む。
『岬っ! 助けてぇ!』美紗子が岬のほうに手を伸ばした。
岬はそれを鼻で笑った。
『どうして私が? こんなに憎いのに。一生苦しむがいいわ……』
『いやぁ! せめて、成仏させてぇ! 天国に逝かせてよぉ!』美紗子は涙を流した。
『まさか。天国になんて逝かせないわ』岬は微笑んだ。
美紗子が絶句する。岬は続けた。
『それが私がここに居た理由だもの。あんたたちは絶対、天国には逝かせない』
その言葉を合図に、花子さんは美紗子を吸い込んだ。

赤いテープの中に、孝之と優奈はいた。
三人の魂を吸い取った彼女はゆっくりと立ち上がる。
『このテープから出ちゃ駄目よ。もうすぐ、時間だから』岬が二人に注意する。

時計が、八時半を廻った。
じっとこちらを見つめていた花子さんがふらふらと揺れ始める。
彼女は顔をあげ、天井を見つめた。
『時間だわ』岬がつぶやく。
花子さんの体の揺れが止まる。その瞬間、彼女はフッと消えた。

しばらくの間、三人は沈黙を保ったままだった。
「……終わった……の?」優奈がぽつりと呟く。
『もう出ても平気よ』岬が元気にテープの外に飛び出した。
孝之もゆっくりと立ち上がる。
『二人とも、今日はありがとう。私、あの世でも忘れない』岬はにっこり微笑んで、二人に手を振った。
「岬さん……逝っちゃうの……?」優奈は涙ぐんでいた。
そうでなくてはならないことはわかっている。それでも別れることは優奈にはつらかった。
『目的は達成しちゃったから……。それにいい加減、恨みだけでこの世に留まることにも疲れちゃったし』ふわりと岬の体が浮かび上がる。
その体は、じょじょに白い光を放ちつつあった。
『さようなら……』岬の体がどんどん上昇する。やがて岬の姿は見えなくなった。
孝之はそれを見上げて静かに微笑む。
優奈は力一杯手を振った。
「さようならーーー!!」優奈の声が、夜の闇に木霊した。

「……いつまでも泣いててもしょうがないと思うけど」帰りのバスの中、孝之が呟いた。
「だって……だって……みんな逝っちゃった……」優奈の涙は止まらなかった。
「今のいっちゃったって漢字変換したらおかしいんだろうなぁ」
「先輩は! 悲しくないんですか!?」優奈は起こって叫んだ。
「悲しいよ。でもしょうがないじゃないか」孝之は即答した。
まるで、何度もその問いかけを自分にしていたように素早く、的確に。
「花子さんを呼んだのはあの三人だし、岬ちゃんだってあのまま恨みを持ったまま彷徨っているわけにはいかないだろう?」
「……岬さん。天国で幸せになってるかな……」優奈は窓の外に目を向けた。
「不幸だったら天国じゃないよね。そもそも天国って表現が微妙だけど……まぁいいや、そんなことは優奈ちゃんが心配することじゃない」
優奈は孝之のほうに振り返った。孝之は前を向いたまま口を開く。
「彼女は行くべきところに行ったんだ。俺たちはあるべきところで自分の生活を生きるべきだろう?」
優奈は少しびっくりして、その言葉をゆっくりと自分の中で消化した。
「あるべきところで自分の生活を生きる……そうですね」優奈は静かに頷く。
振り返った孝之の手を、優奈が強く握り締める。
「先輩、頑張って生きましょうね」
孝之は驚いたような顔をした後、少し、微笑んだ。


             And that’s all ?


               おまけ

 優奈は山荘千草の非常階段(普段も使う)を駆け上っていた。手にはコンビニで買ったビールと焼き鳥とスナックが入っている。
「孝之! 開けてよぉ!」202号室のドアを、優奈はドンドン叩いた。
ガチャリと鍵が開く音がする。優奈は部屋の中に入り込み、キッチンに買ったものを置いた。
「今日、弓道部の練習日じゃなかったっけ?」
孝之はTVのニュースを見ながら言った。
『今日の午前10時ごろ、○○市の凹川で殺人事件がおきました』
「辞めちゃった。てへっ」優奈がペロリと舌を出す。
「……先週、演劇部もそんなこと言ってなかった?」孝之は呆れた顔をする。
「孝之のいるサークルは辞めないよぉ」
「別に辞めてもいいんだけど……」孝之は冷たく言った。
優奈は拗ねたように小さな口をすぼませた。
「ひっどぉい。孝之は、私と一緒に長い時間を過ごしたいとは思わないの!?」
「毎日アパートに寄ってきてるんだから、同じじゃない?」
『目撃情報はありませんが、犯人は大柄の男と思われ、身長は180センチ、体重は100キロほどと予想されています』
「それも、言えてるかも……。うーん、でもやっぱ孝之がいるサークルは辞めたくない」
「別に辞めろ、なんて言ってないよ」孝之は微笑んだ。
『現場の△▽さんにもう一度事件を整理してもらいましょう。△▽さ―ん』
『はい。ではもう一度、専門家の出した犯人の予想から整理したいと思います。身長は180センチ……』
「あ……」孝之が驚きの声を上げた。
「え? 何々?」優奈もTVを覗き込む。
TVでは殺人事件の現場が映し出され、たくさんの捜査官が現場検証に追われていた。
しかし二人が見ているのはそんなことではない。
カメラの前にいるリポーターのすぐ隣で、青白い顔をした少女が叫んでいた。
『違うわ! 私を殺したのは少年よ! 16,7歳くらいの! ちょっとあんた聞いてんの!? そんなんじゃ犯人捕まらないじゃない!』
優奈はすぐに席を立って電話を取る。
孝之はビールを一本開けて、一人で飲み始めた。
「すいません。警察ですか。はい、あの今日の女子高生殺人事件なんですけど……。はい、私見ました。犯人は16・7歳の少年です。えぇ、よろしくお願いします……じゃあ」
優奈は満足げに電話を切った。
「ウソつき。優奈が見たわけじゃないだろう」孝之は優奈を軽く睨む。
「死んだ霊が言ってましたー、何て言ったら警察が相手してくれるわけないでしょう」
「そうだね」孝之はあっさり認めてまたビールを飲んだ。
この孝之のあっさりペースに、優奈はまだついていくことができない。
「悔いの残らないように、この世に未練を残さずに死ぬのって意外と大変なことなのかもしれない」優奈はTV画面に映る少女を見て言った。
「大変だろうね」頷く孝之はとても大変そうには見えなかった。
「孝之は、今死んだら幽霊になってこの世に残っちゃう?」優奈は孝之の顔を覗きこむ。
「いや、間違いなく俺は数秒で成仏するね」孝之は優奈の目を見て即答した。
「……それって、あるべきところで自分の生活を生きてる、から?」
「そういうこと」
「……その生活の中に、ちゃんと私は入っているのかしら?」優奈は意地悪く笑って言った。
孝之はその表情をしばらく睨みつける。


「もちろん、入っているよ」やっとそう言って、苦笑した。


              



               おしまい









2004/07/14(Wed)14:56:15 公開 / 笑子
■この作品の著作権は笑子さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
ふぅ〜〜っ。やっと、完結しました。全力疾走したわりには、反省点が多すぎ・・・。まず、何でハッピーエンドしちゃうんだろうなぁ・・・。書いたときに
絶対主人公死んで幽霊体験してもらうぞ!ってあんなに誓っていたのに・・・。あぁ、私、愛に飢えているのかしら?笑。
今回は信じられないことが実際存在したら、をテーマに幽霊、テレパシー、乗り移り、などをばしばし物語の中で使わせていただきました。これも私の一つの挑戦です・・・。本当はアン・ハッピーエンドにも挑戦したかったのですが(ま、二人とも幸せそうだし、書いてて楽しかったからいいか)。
いたく読者様の反応が気になる、というより怖い作品になっておりますが、楽しんでいただけたなら幸いです。
これからの私めの作品の質向上のため、アドバイスしてくださる方がいらっしゃったら、なおうれしいです。
これで決して息抜きにならなかった熱血作品が無事終了したので、放置状態の連載作品にまた手をつけることにします笑。近いうち更新するので気が向いた方は読んでみてください。


作品終了まで私を支えてくださった感想の数々(それを書いてくださった方々)に厚く、熱く、暑く、感謝します。
本当に、ありがとうございました。

 皆様に愛と念をこめて   笑子
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