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『ママはおでかけ』 作者:バニラダヌキ / 未分類 未分類
全角28888.5文字
容量57777 bytes
原稿用紙約85.8枚
  
                 {1}


 「それじゃあ、ママは、夕方までおでかけしますからね。知らない人がきても、おうちに入れちゃあだめよ。おやつは3時。ちゃんとお昼寝するのよ」
「はあい、ママ。いってらっしゃい」
 たかちゃんは、もうすぐおっきいお姉さんになるので、ちゃんとひとりでお留守番ができます。


 台所の椅子にちょこんとすわって、たかちゃんは、さっきからじっと、テーブルの上のケーキを見つめています。
 きのうの夜に、パパがおみやげに買ってきてくれた、不二家の苺ミルフィーユです。
 ほんとうはパパやママといっしょに食べたかったのですが、パパはいつもたかちゃんが眠ってからしか帰ってこれません。朝も、ママやたかちゃんが起きる前に、ひとりさびしくかいしゃにでかけます。
 ふけいきでざんぎょうてあてもでないのに、いちにちごひゃくえんしかおこづかいをもらえないのに、それでもひゃくえんきんいつではなく、不二家の苺ミルフィーユを買ってきてくれる、やさしいパパです。
 それではせめて、ママといっしょに食べれば楽しいだろうな、とも思うのですが、よのなかというものは、そんな甘い物ではありません。ママは、だいえっと、という、いっかのだんらんよりも、大事な仕事があるのです。
 さて、たかちゃんは、まだじっと、テーブルの上のケーキを見ています。
 さっきから、もう何時間もたったと思うのに、なかなか3時になりません。
 お昼寝もあとにして、ずっと3時になるのをまっているのですが、それでも時計の針は、さっきからずっと1時と2時の間で、ほんの少しづつ、ぴくりと震えているだけです。
 このままでは、テーブルの上がたかちゃんのよだれの海になって、ケーキは沈没してしまうか、はるか海の沖まで、流れていってしまいそうです。
 そういうときには、もうすぐおっきいお姉さんのたかちゃんですから、それなりに小知恵がはたらきます。
 たかちゃんは居間のクローゼットから踏み台をかかえてくると、時計の下に置き、その踏み台にヨイショとよじのぼり、猫みたいに背伸びして、時計に手をのばしました。その時計は、ママがリサイクルショップから買ってきた古い柱時計なので、ちゃんと前からふたが開くのです。
「……2じ、……2じ半、……3じ……」
 これでもう3時だもん、と、たかちゃんが時計のふたを閉めたとき、玄関のブザーが、ブザー、と鳴りました。これは、ごしょくやタッチミスではありません。パパがこのお家を買ったとき、それまでのちとなみだのろうどうを思い、さらに、たかちゃんがお嫁にいってもまだ続いているであろう、たがくのろーんのじゅうあつかんを少しでも軽くしようと、必要以上にひょうきんなブザーを注文してしまったのです。
 さて、たとえ、あおのたけしさんの声によく似た、ひょうきんなブザーの音でも、今のたかちゃんには、夜道でいきなりスタンガンをかまされたくらいの、いわゆる晴天の霹靂です。
 たかちゃんは、びっくりしたときの猫みたいに小さいからだをすくめ、それから、おそるおそるふりかえりました。
 あくじがろけんしたときの、おとなみたいな顔です。
 でも、たかちゃんは、いつまでも自分の恥ずかしい過去にこだわり続けるような、弱い女ではありません。とととととと玄関まで走り、ママにいつも言われているとおり、チェーンはかけたまま、少しだけドアを開けて、元気にご挨拶します。
「はあい、どなたですか」
 ドアの外は、いきなり、黒い毛皮でした。
 いつものように見上げても、まだ黒い毛皮です。
 下を見ても黒い毛皮です。
 でも、足元だけは、白くてりっぱにとがったおおきな爪が、指の数だけ並んでいます。
「こんにちは。むかしママさんにお世話になった、森のひぐまです。ママさんは、いらっしゃいますか」
 たかちゃんの目の前に、大きな黒いお鼻がおりてきました。
思わず手をのばして、うりうりと撫でまわしてみたくなるような、たかちゃんごのみの、立派なお鼻でした。
「ママはおでかけ。夕方には帰ってくるの」


 ママのお客様なんだわ。そう思ったたかちゃんは、チェーンをはずして、お行儀よく、森の羆さんを、お家の中に招きました。
「どうぞ、おはいりください」
 森の羆さんは、人ではありませんね。だから、知らない人ではありません。知らない人は、お家に入れてはいけないのですが、森の羆さんをお家に入れてはいけないとは、一度もママに言われたことがありません。それよりなにより、このお鼻がとても素敵。
 でも、その羆さんは、一般常識というものを、とてもよくわきまえている羆さんでした。
「では、また来ます。いえいえ、ほんの通りすがりに、お邪魔しただけですから。これ、つまらないものですが、おみやげです」
 羆さんはそう言って、荒縄でくくった大きなしゃけを、たかちゃんにさしだしました。
 しゃけさんは、まだ元気にぴちぴちと、跳ねまわっています。
「ども、ありがと」
 ぴちぴちと跳ねまわるしゃけさんを両腕で胸にかかえて、お行儀よくお礼しながら、内心、たかちゃんは思いました。……ほんとは、ちょっとだけ、困ってるかな。
「それでは、貴子ちゃんでしたね、ママさんに、どうぞよろしく」
 羆さんは、そう言ってむこうを向きました。
 けれど、またすぐに、たかちゃんの目の前にお鼻を突き出して、
「それから、たかちゃん、知らないひぐまが来ても、お家に入れちゃあ、いけないよ」
 そう言って、たかちゃんの顔を覗きこむ羆さんの目は、何を考えているんだかよくわからない、野生動物の瞳そのものでした。
「……う、うん。あ、まちがえちゃった。はーい」
 たかちゃんは、もうすぐおっきいお姉さんなので、困ったときは元気よくご返事すれば、たいがいの問題には対処できるという、それくらいの世渡りは知っています。
 羆さんは、今度はにっこりと笑いました。
 そして、たかちゃんの顔を、大きなピンク色の舌でぺろりとなめてから、のそりのそりと、お外に帰っていきました。


「えへへー、ひぐまさんに、なめられちゃった」
 ぴちぴちと跳ね回るしゃけさんをかかえて、たかちゃんは上機嫌で台所にもどります。
「しゃっけさん、しゃっけさん、おっおきいのー」
 作詞作曲編曲ともに片桐貴子の歌を口ずさみながら、とりあえずしゃけさんをテーブルの上に寝かせて、しゃけさん用のお皿をさがします。
 なにしろまだぴちぴち元気なのですから、冷蔵庫に入れてしまうのは、かわいそうです。
 第一、大きすぎて、冷蔵庫にはおさまりそうもありません。冷蔵庫におさまりそうにないということは、そんな大きなお皿も、一般的な日本の家庭には、存在しません。
 しゃけさんはテーブルの上で、なお元気に跳ね回り、ケーキのお皿をひっくりかえしてしまいそうです。
 たかちゃんは、あわててケーキのお皿をシンクの横に移すと、腕組みをしてしばらくしゃけさんを見つめていました。
 そして、やがてあるひとつの結論に達し、びしっ、と、しゃけさんを指さしました。
「しゃけさん、あなた、おっきい」
 結論は出たのですが、だからといって、それが解決策に直結するとは限りません。むしろ、結論が出た時点で満足してしまい、解決策は他人任せ、というのが、この社会では、ありがちなことです。
 でも、たかちゃんは、そんな国会議員のような子ではありません。
 とはいえ、まだおっきいお姉さんでもないので、とりあえず優先的な懸案事項である、3時のおやつ問題の処理を開始することにしました。
 まずは初期段階の基礎固めとして、大きな苺をぱくりと一口にほおばり、にんまし、と笑う。
 ちょっぴりおしりにクリームのついた苺さんの、甘味と酸味の絶妙な余韻をしばし楽しんだのち、パイ皮とクリームと薄切りの苺さんが幾重にも連なって織り成す、みごとな中間処理のアンサンブルを……。
 と、中間処理のただなかで、たかちゃんの手と口が、ぴたりと止まりました。
 糖分の摂取は、脳の働きを活性化させます。
 たかちゃんは、半分残ったケーキをまたシンクの横にもどすと、シンクにじゃあじゃあとお水をはりはじめました。
 どうでしょう、良い子の皆さん。皆さんには、ケーキを食べるのを途中でやめて、羆さんのお土産にすぎないしゃけさんのために敢然と立ち上がる、そんなことができますか?
 わたしには、とてもできません。
「おっさかっなさっんはー、うっみのっなかー、うっみっはひっろいっなおっおきっいなー」
 作詞作曲の一部に、他の著作者の作品との類似点が見受けられますが、そこはそれ、ちゃんとリズムセクションで別物っぽくしてありますから、ノープロブレムです。
 たかちゃんは、ひとりライブを続けながら、シンクに水をはりおわると、戸棚からお塩のびんを取りだしました。
 そして、大さじをかまえたところで、またたかちゃんの手と口が、ぴたりと止まりました。
『おっさかっなさっんはー、うっみのっなかー』よりも、『おっさかっなさっんはー、みっずのっなかー』のほうが、この世界の真実をより普遍的に表現できるのではないか、そんなふうに、気がついてしまったのでした。
 たしか、この前の日曜日にパパやママといっしょに見たテレビでも、しゃけさんは大勢の仲間たちといっしょに、元気に北国の川をさかのぼっていたはずです。
「……どっちが、いい?」
 たかちゃんは、テーブルの上のしゃけさんにたずねてみました。
 しゃけさんはさっきよりちょっと元気がなくなったみたいで、答えてくれません。
 もっとも、しゃべるとギャラが発生して、予算上キャラそのものをカットされてしまう心配があるため、遠慮していたのかもしれません。
 たかちゃんは、熟慮の末、大さじ3杯の添加を断行しました。
 そして、じゃばじゃばとシンクの水をかき回したあと、しゃけさんをかかえてきて、お水の中に放してあげました。
 放した、というより、思いきりほうりこんでしまった、というのが正しいのですが、これはたかちゃんとシンクの高度差を考えれば、やむをえない処置なのであって、けして某国の行政府のように、丸投げしたわけではないのです。
「……どお? お塩、ちょうどいい?」
 しゃけさんは、内心なにか思うところもあるのでしょうが、とりあえず水の中にもどれたので、いちおうほっとしているようでした。
「えへへー、しゃけさんのおうちい」
 うれしくなったたかちゃんが、、3時のおやつの続きをしようと、半分残ったケーキの皿を手にしたときです。
 また、玄関のブザーが、ブザー、と鳴りました。
 こうなると、ふだんはもっぱらごきげん娘のたかちゃんも、まゆげとまゆげのあいだに、ちょっとだけしわをよせたりします。
「むー」
 それでも、お客様はお客様。たかちゃんは、おるすばん。ご用事だけは、聞いておかなければいけません。それをママが帰るまで覚えていられるかどうかは、また、別の問題です。
 たかちゃんは、こんどはケーキの皿をしっかりと手にしたまま、とととととと玄関まで、走っていきました。
「はあい、どなたですか」
 そして、ケーキの皿を、玄関の靴箱の上に置き、さっきみたいに、ドアを開きました。
 こんどのお客様は、ドアのすきまからでも、とてもわかりやすいお客様でした。
 ちゃんと、たかちゃんの顔の前に、お客様の顔があったからです。
 でもそれは、さっきのお客様よりも、ずいぶんと大きな顔でした。
 あらららら、やっぱしテレビってほんとなんだな、と、たかちゃんは思いました。
 そのお客様は、前の前の日曜日に、パパやママといっしょに見たテレビに出ていたのと、そっくりな顔をしていたのです。
「こんにちは。むかしアフリカのサバンナでママさんにお世話になった、アフリカライオンです。ママさんは、いらっしゃいますか」



                {2}



 ライオンさんのお鼻も、思わず手をのばして、うりうりと撫でまわしてみたくなるような、たかちゃんごのみの、立派なお鼻でした。
「ママはおでかけ。夕方に帰るの」
 ライオンさんは、人ではありませんね。そして、羆でもありません。ですから、知らない人ではありませんし、もちろん、知らない羆でもありません。
 それよりなにより、このお鼻がとても素敵。
「どうぞ、お上がりください」
 たかちゃんがチェーンをはずすと、ライオンさんは、のっしのっしと、玄関に入ってきました。
 ライオンさんは、なにしろサバンナ育ちでしたので、あまり日本の一般常識や、住宅事情には、くわしくありません。
 それに、ライオンさんのお土産が、玄関口でたかちゃんにあずけるには、ちょっと大きすぎたのです。
「これはおみやげです。とてもおいしいですよ」
 ライオンさんは、背中にしょっていたガゼルさんを、どさりと玄関の三和土に、転がしました。
「……ど、ども、あ、ありがと」
 たかちゃんは、しゃがんでガゼルさんのおなかのあたりを、そっとなでてみました。
 ガゼルさんも、ライオンさんといっしょに、この前のテレビに出ていました。たしか、ライオンさん一家の、お昼ご飯になっていたはずです。
 たかちゃんは、とってもやさしい女の子です。だから、わざわざしょってきてくれたライオンさんにはもうしわけないとも思ったのですが、やっぱり、こう考えてしまいました。……ガゼルさん、かわいそう。
 でも、たかちゃんは、とってもかしこい子です。……でも、これがきっと、テレビの人がいってた、じゃくにくきょうしょくのきびしいしぜんかいのおきて。
 そんな、悲しそうなたかちゃんの顔を見て、ライオンさんは、豪放に笑います。
「わははは、心配はいりませんよ。ちゃんとまだ、活きてますからね。ガゼルは、なんと言っても、踊り食いがいちば……」
 さいごまで聞かないうちに、たかちゃんは、思わずライオンさんの首に、抱きついてしまいました。
「ライオンさん、ありがとう」
「わははは、こんなによろこんでいただけるとは」
 おたがい誤解しあったままのほうが、幸せに生きられる、そんなことが、男と女の間には、数多く存在します。
 たかちゃんも、どさくさにまぎれて、気になっていたライオンさんのお鼻をなでてみるくらいには、したたかな女です。思ったほど柔らかくはなかったのですが、たかちゃんのてのひらではつつみきれないほどの、やっぱり立派なお鼻でした。
「じつはわたくし、こんどようやく就職先が決まりまして、昔お世話になったママさんに、ちょっとご挨拶だけでもと、おうかがいしたのですが。ああ、そうだ。貴子ちゃん、でしたね。たかちゃん、これも、お母さんにお渡ししておいてもらえますか」
 ライオンさんはそう言って、名刺を1枚、たかちゃんにさしだしました。
『タンザニア観光局 自然環境保護課 草原管理一般職員 雄ライオンNo.42』
 そう印刷してあります。
「はあい!]
 たかちゃんは、まだカタカナと数字以外、ほとんど読めなかったのですが、大人の人や大人のライオンから、ちゃんとした名刺をもらうのは初めてだったので、またうれしくなりました。
「それでは、またおうかがいしま……。……いやあ、成田からの道は、相変わらず混みますなあ」
 お帰りのご挨拶をはじめたライオンさんの言葉の調子が、なんだか、急に変わったみたいです。
 たかちゃんは、名刺から顔を上げて、ライオンさんの様子をうかがいました。
 ライオンさんは、ちょうど靴箱の上に顔を向けたところでした。その鼻先には、さっきたかちゃんが台所から持ってきてしまった、ケーキの残りのお皿が置いてあります。
「……さっきそこの煙草屋の前で、羆の奴にも会ったんですよ。やっぱりレンタで、青梅街道に出るっていってましたが、彼はたしか千歳空港だから、羽田ですか。羽田までは、どうなんでしょうなあ」
 なにをいっているのか、たかちゃんには、よくわかりません。
 でも、ライオンさんの言動に、なにかとても不穏な空気が漂いはじめたことは、まだおっきいお姉さんになっていないたかちゃんでも、さすがに敏感に感じ取ります。
「……一般職員なんて言っても、しょせん、田舎の、実を言えば契約ですわ。老後の蓄えを考えますとね、かわいい妻子に甘いものを買って帰ることもままならず、この前密猟者を食い殺してもらった特別賞与も、ホームセンターで自家発電機を買ったらそれでおしまい、それもこれが日替わりのうんとガソリンを食う安い奴で、それにしたってご近所ではうちが一番最後で……」
 ああ、この人、いや、このライオンさんは、ただ会話を続けるためにのみ、会話を続けようとしているのだわ。その証拠に、切実な内容を含んでいながら、言葉にはなんの感情も込められていない。ただ日頃の言外の無意識が、口から流れ出しているだけ。ああ、私ってなんて不幸な幼児。わたしの小さな日常に許された数少ない生きる意欲の糧を、この人は、いや、このライオンさんは、私自ら放棄するよう、しむけている……。
 たかちゃんは、そんなことはかんがえませんでした。あたりまえですね。でも、良い子のみなさん。たとえ、今は自分自身にさえ、自分の言葉で説明できなくとも、きっともっと大きくなったら、自分にも他の人にも自分の言葉で伝えられるようになる、そんな気持ちになったことは、ありませんか。はい、そこの、齢にしてはちょっと育ち過ぎの良い子、それから、そちらの、めっきり白髪の増えてきた良い子、うなずいてくれていますね。
「……それ、すごおく甘そうですね。甘いものって、実は、わたくし、好きなんですね」
 ついに来てしまった、と、たかちゃんは、諦念しました。おっきいお姉さんをめざすからには、たとえ自分を偽ってでも、しなければならないこともあるのです。
 たかちゃんは、ケーキのお皿を、ライオンさんの前にさしだしました。
「……食べる?」
 ぺろり。
 ただのひとなめで、半分のケーキの乗ったお皿は、ただのお皿になってしまいました。
「ああ、おいしかった。それでは、ごきげんよう。ああ、そうだ、たかちゃん。これからは、知らないライオンが来ても、お家に入れちゃあ、いけないよ」
 なにをいまさら、と内心思っても、そこはそれ、おりこうなたかちゃんです。
「はあい!」
 と、げんきにお返事します。
 ライオンさんは、上機嫌な足取りで、ご門のお外へ、帰っていきました。
 たかちゃんは、空になったお皿をながめながら、ライオンさんのざらざらした舌の舌ざわりを思いだし、ちょっと、ほっとしたのでした。
「……ライオンさんのベロ、お顔なめられなくて、よかったなあ」


 ガゼルさんは、玄関の三和土で、まだ気絶しています。
 たかちゃんは、ガゼルさんの胸のあたりに耳をあてて、ちゃんと息をしているのを、確かめました。
 それからお顔の方にまわって、
「おーい」
と頭をゆすってみました。
 二本のきれいな角も、いっしょにゆらゆら揺れましたが、それでもガゼルさんは、目をさましてくれません。
 えーと、きぜつしているひとを、おこしたいときは……。たかちゃんは、テレビで見た色々な事を、思い出そうとしました。
 それから、とととととと台所までもどり、シンクのしゃけさんの無事を確認したあと、コップに水を入れて、こんどはそろそろそろそろと、玄関にもどりました。
 ガゼルさんのお口のなかに、そっと、コップのお水をたらしてみます。
 でもまだガゼルさんは、目をさましてくれません。
 たかちゃんは、ガゼルさんの前脚のほうにまわり、上側になっているほうの足の先をつかみ、ひっぱってみました。
「……よいしょ」
微動だにしません。
 たかちゃんは、ガゼルさんに背を向けて、その前脚を持ったまま、かつぎ上げようとしました。
「……どおすこいっ!!」
 びくともしません。
 たかちゃんは、ぜいぜいと労働者のような息をつきながら、ガゼルさんの顔の前に、しゃがみこんでしまいました。
 ママが帰るまで、ここにいてもらってもいいのでしょうが、それでは、ほかのお客さんが来たときに、じゃまになってしまいます。
「おーい」
 よく見れば、ガゼルさんのお鼻も、羆さんやライオンさんほど立派ではないものの、手頃な大きさで、なかなかのお鼻です。
 たかちゃんは、ガゼルさんが寝たきりなのをいいことに、わしっ、と、そのお鼻をつかんでみました。
 これには寝たきりのガゼルさんも、さすがにびっくりしたのでしょう。ぴくりと耳を震わせたあと、ゆっくりと目をひらきました。
 草食獣特有の、なにかしら憂いをおびた、優しそうな瞳です。
「ここは……」
「こんにちわ。あたし、たかちゃん。あなた、ライオンさんのおみやげの、ガゼルさん」
「……また、生きながらえてしまいましたか。まあ、本来なら、あんな蒙昧なライオンの牙などにかかるほど、愚鈍ではないつもりなのですが、今回は、不覚をとりました。少々、思索に浸りすぎていたものですから」
 ガゼルさんは、ふだんから、難しい言葉でしゃべっているみたいです。
 でも、落ち着いた青年の声ですので、たかちゃんは、とてもきもちがいいと思いました。意味がわかるのかどうかと、それがきもちいいかどうかは、まったく別のことです。
 ガゼルさんは、そろそろと立ち上がり、それから、ゆっくりとまわりをうかがいました。
「……どうやら、東洋の風物のようだ。失礼ですが、お嬢さん」
「あたし、たかちゃん」
「それでは、たかちゃん、たかちゃんのお家では、ガゼルなどは、食されますか」
 やさしい声でいいきもちなのと、意味がわかるかどうかは、やっぱり、まったく別の事です。
「うー」
 おこまりモードに入ってしまったたかちゃんに、ガゼルさんは、やさしくほほ笑んでくれました。
「ごめんごめん。じゃあ、たかちゃんのおうちでは、ご飯のとき、ガゼルのお肉を、食べるかな」
 これならばわかります。
「うーんとね、鳥さん、豚さん、牛さん、お魚さん、あと、うーんと、マトン? あれ? マトンって、なにさん?」
「さあ、それは、お兄さんもみたことないな。でも、僕は、安心して良さそうだね」
「うん、だいじょぶ。パパもママもたかちゃんも、ガゼルさん、食べたりしないよ」
 たかちゃんは、ここで、大事なことに気がつきました。
 お客様を、玄関先に、立たせたままです。ほんとうはおみやげさんだったのですが、これだけお客様っぽいのですから、きっとお客様です。
「マアマア、ダイジナオキャクサマヲ、ゲンカンサキニオタタ……オタタタセ……」
「?]
 ガゼルさんは、ちょっと小首をかしげます。
「うーんと、オタタタセ……オタタタタセ……」
「お立たせして、かな」
「うん! どうぞ、おあがりください」
「はい、よく言えた」
 ちゃんと誠意だけは認めてくれる、やさしいガゼルさんでした。
 ガゼルさんを応接間に案内しながら、たかちゃんは上機嫌です。
「えへへー、ガゼルさんに、ほめられちゃった」


 「はいどーぞ、どーぞおすわりください」
 ガゼルさんを応接間に案内したたかちゃんは、わくわくしながら、ソファーをすすめます。
 ガゼルさんは、少しこまった顔をしています。
「僕は、長椅子のほうは……体型の都合で」
 そういえば、たしかにたかちゃんの見たテレビでも、椅子に座っているガゼルさんは、いなかったみたいです。
 たかちゃんは、せっかく応接間にお通しできるお客様が来てくれたのに、ちょっとつまんないと思いました。でも、まだまだ、できるお仕事はたくさんあります。
「コーヒーになさいますか。それとも、おこうちゃ?」
 こんども、ガゼルさんは、少し困った顔をしています。
「そ、それじゃあ、お水と、あと、草か潅木の葉がありましたら、おねがいできますか」
「……カンボクって、なあに」
 こんどは、たかちゃんのお困りの番です。
「ごめんごめん。たかちゃん、どうかおかまいなく」
 たとえお客様がおかまいなくと言っても、なにがなんでもおかまいしてしまうのが、お客様に対する正しいお仕事だと、いつもママを見ているたかちゃんは、よく知っています。
「お水、いっぱいあるよ。草も、たぶん。」
 そう言って、たかちゃんは、台所に下がっていきました。
 あとに残ったガゼルさんは、唇の端に、微笑を浮かべます。
『ふふ、子供というものは、まったくかわいいものだ。お客様ごっこ、それとも、お店やさんごっこでも、しているつもりなのだろうな』
 もしガゼルさんに前髪があったら、ふっ、と掻き上げてみたりするところです。
『私にも、たしかに子供のころがあった。あの大草原を、なんの憂いもなく、駆け回っていた日々。しかし、所詮、食物連鎖の一部にしかすぎないガゼルにとって、追憶や郷愁に、なんの意味があるというのだろう。私は何を思い何を為せば、ガゼルであることを越えることができるのか…」
 ふだん草ばかり食べているだけあって、思索の方向も、きわめて穏当なようです。
 その頃、台所に下がったたかちゃんは、冷蔵庫から取り出したホウレン草とキャベツとレタスを、ガゼルさんが食べやすいようにと、むしってお皿に盛りつけていました。
 ほんとうは、包丁を使って、とんとんとんとん、の練習もやってみたいのですが、それはおっきいお姉さんになってから、と、ママにもパパにも、まだゆるしてもらえません。
 たかちゃんが、こんなもんかなあ、と、お皿のお野菜の山を前に、腕を組んでチェックしていると、玄関のブザーが、またまた、ブザー、と鳴りました。
「どなたか、お客様のようですね」
 ひょうきんなブザーの音に、思索の腰を折られたガゼルさんが、応接間から、声をかけます。
「はあい、ちょっと、おまちくださーい」
 たかちゃんは、あわててお盆をかかえて、まずは、先客のガゼルさんに、おかまいの続きです。
「さあ、どうぞ、ごゆっくり、めしあがれ」
「あ、ありがとう」
 ガゼルさんは、コーヒーカップに入ったお水と、お皿に山盛りのお野菜を前に、これはちょっとまた、考えるべき命題が生じてしまったなあ、と思いました。
 それでも、やさしいガゼルさんのことですから、
「知らないガゼルは、お家に入れちゃあ、いけないよ。ライオンやチータやハイエナは、知ってても、絶対入れちゃあ、いけないよ」
 ちゃんと、たかちゃんへのご注意も、忘れません。
「はあい」
 たかちゃんは、またまた、元気にととととと玄関に走っていきました。
 ――えーと、さいしょがひぐまさん、つぎが、らいおんさん。おみやげは、しゃけさんと、がぜるさん。だったら、つぎは、ぞうさんがいいな。でもって、おみやげは、バナナさんがいいな。
 しかし、期待という感情の八割がたは、裏切られるべく存在するものです。
「はあい、どなたですか」
 たかちゃんが、忘れずにチェーンをかけたままドアを明けると、お外は、ちょっと変でした。
 まず、お客様がいません。
 それに、いつも庭のすぐ向こうに見えるはずの、お家の門もありません。
 そのかわり、なんだかでこぼとと灰色っぽくて茶色っぽい、ママのトカゲ皮のバッグを一面に広げたようなものが、庭先でゆらゆら揺れています。
 首をかしげるたかちゃんに、お二階よりも高いところから、お客様の声が聞こえてきました。
 のんきそうな、もごもごとなにかお口にくわえているような、でも、とても大きい声でした。
「こんにちわ。むかしサイトBの相撲部屋でママさんにお世話になった、ティラノサウルスでごわす。ママさんは、いらっしゃいますかいのう」



               {3}


 「これはおみやげでごわす。食べてつかあさい」
 こんどのお客様は、ライオンさんよりも、もっと一般常識に欠けるお客様みたいでした。
 ドアがみしみしと、お家の中の方に押し込まれて来たので、たかちゃんは、あわててお客様に言いました。
「い、いまあけますので、ちょ、ちょおっと、おまちい」
 良い子の皆さんは、もう、お気づきですね。
 そう、こんな時には、応接間のガゼルさんにご相談するとか、おまわりさん、消防署のおじさん、自衛隊のおじさん、あるいはかとくたいのはやたさんなどに、お電話するのが、ほんとうは、おりこうさんです。もし、皆さんの中に、しょうわよんじゅうねんだいこうはんのごじらなどを知っている、ふるいおたくな良い子がいらっしゃったら、『ごじら、たすけて』と大声で叫ぶだけで、いままでどこにいたのかわからないごじらが、すぐに助けに来てくれる、そんなことも、知っていますね。
 でも、たかちゃんは、まだおっきいお姉さんではないので、とてもあわててしまったのです。
 ドアが壊れてしまったら、こまる。あわてたときに、そういった、めさきのことを優先してしまうのは、たかちゃんのようなお子さんだけでなく、まともなきょういくをうけられなかった、せいしんねんれい18さいいかの、いっけんおとなの良い子などにも、ありがちな間違いですので、皆さんも、注意してくださいね。
 たかちゃんは、とてもあわててしまったので、ドアのチェーンを、はずしてしまいました。
 そして、壊されそうなドアを、おもいきり、外に押し出しました。
「……どおすこいっ!!」
 たかちゃんが、おもいきったのとおんなじタイミングで、お客様は、すばやく、少々お待ちしていました。
 今度のお客様は、サイトBではまともなきょういくも受けられなかったのですが、映像上のおやくそくなどは、よくこころえたお客様でした。きっと、角界にはいったあと、すぴるばあぐの親方に、きたえられたのでしょう。
 たかちゃんは、玄関前の庭先へ、ころころところがってしまいました。。
 とてもはしたないかっこうでころがってしまったので、まっしろなパンツや、おしりのくまさんのワンポイントのプリントなども、丸見えになってしまいました。でも、これはあくまでも、DVDはんばいそくしんのための、おたくな良い子のためのさあびすなので、ほんの1ふれーむか2ふれーむのできごとです。
「おやおやおや、こりゃあこりゃあ」
 お二階よりも、もっと高いところから、のんきそうな声が聞こえてきます。
 たかちゃんは、声の方を見上げました。
 あし、あし、あし、おまた、おなか、おなか、まだおなか。
 胸のあたりまで見上げたときには、たかちゃんは、ほんとうは、おもらししそうになっていました。でも、もうすぐおっきいお姉さんなのに、おもらしはいけません。そんな深層心理がはたらいて、ぐっとおもらしをこらえます。
 良い子の皆さん、たとえ深層心理のなせる技だといっても、たかちゃんは、ほんとうに、えらいと思いませんか。女の子の皆さんは、女の子がおもらしをこらえるのがどんなに大変か、よく知っていますね。
 男の子の皆さんは、どうでもいいです。肉体構造上、よほどの精神的破綻がない限り、がまんできるはずです。たとえば、やくざのけりがいまにもきまりそうである、とか、やみきんのとりたてがしょくばのまえまできている、とか、おくたんいのとりひきさきのたんとうしゃにつけたなんばーわんのほすてすを、さけにみだれてそのばでくどいてしまい、たんとうしゃはげきどしてさきにかえってしまい、よいがさめたらそのほすてすがとなりでねており、じぶんにはさいしがあり、あまつさえそのひまたおなじたんとうしゃとのかいごうがあることをおもいだしてしまった、とか、男の子の皆さんにも、長い人生の中ではちびりそうになることも多々あるでしょうが、死んでもちびってはいけません。でも、不幸にしてちびってしまったときは、ああ、これまでの俺は今死んだ、これからの俺は、もう生きる死人として存在していくしかないのだ、そんなふうに考えて、充分敗北感に打ちひしがれてくださいね。ひとりでトイレで泣くのも、よいことです。そうやって、男の子は、おっきい男の子になってゆくのです。
 さて、たかちゃんは、ティラノサウルスさんの胸あたりに視線が達したところで、おもらしをこらえることができましたが、首、そしてお顔まで見上げたころには、もう頭の中は真っ白になっていました。
 あらららら、やっぱり、テレビってほんとなんだ。前の前の前の日曜日に、パパやママといっしょに見た、サヨナラおじさんのえいがと、そっくりだ。
「ママハヲデカケ、ユウガタニハカエルノ」
 なんだか、たかちゃんの目が、しろっぽくぼやけているようです。
 良い子のみなさん、こういう状態を、ゲシュタルト崩壊、といいます。それは……はい、ブラウザをもうひとつ開いて、コピペして、けんさくしてくださいね。
「それは残念ですのう。これはおみやげでごわす」
 ティラノサウルスさんは、たかちゃんの前までお顔をおろすと、お口にくわえていたヴェロキラプトルさんを、ぺ、と吐き出しました。
 ヴェロキラプトルさんは、それまではぐったりしていたのですが、こっそりたかちゃんを見上げると、ぴょこんと立ち上がり、お行儀よくごあいさつのポーズをとったあと、元気に家の中へ走りこんでいきました。
 ティラノサウルスさんは、ぶわぶわぶわと笑いながら、
「おやおや、ヴェロキラプトルのやつ、死んだまねをしてやがったのか。しようのないやつだ」
 また、ぶわぶわぶわと笑います。
「でも、でえこや白菜や豆腐といっしょにちゃんこにすると、それはそれはうまいものでごわす。味噌は合わんから、醤油と味醂、ダシはあいつのガラだけで充分。嬢ちゃん、ママさんにも、そう教えてあげてくれんかな」
 角界引退後は、ちゃんこ屋さんを開業する予定の、ティラノサウルスさんなのかもしれません。。
 たかちゃんのしろっぽかった目も、いつのまにかまたちゃんと黒目がもどってきました。
「はあい!」
「おうおう、いいご返事じゃのう。じゃあ、ごほうびに、面白いことをしてあげよう」
 そう言うと、ティラノサウルスさんは、たかちゃんの顔のすぐ前まで自分の顔を持ってきて、その大きなお口を、ばっくりと開きました。
「がおう!!」
 ティラノサウルスさんの吼える声は、台風みたいです。
 でも、たかちゃんは、怖くありません。
 すでにゲシュタルト崩壊からは回復していますし、ここはサヨナラおじさんの映画ではなく、あくまでもたかちゃんの家の庭先で、だとしたら、むしろずーっと前の日曜に、パパやママと駅前のツタヤに行って借りて観た、ダンボやピノキオのほうに近いのではないか、そんな希望的観測さえ、抱いています。
「たかちゃん、こわくないもん」
 とがった牙の林のむこうに手を伸ばして、ざぶとんみたいに大きいベロを、ぺんぺんたたいてみたりします。
「ティラノサウルスさんのおなかのなかは、誰のおうち?」
 ぶわぶわぶわ、と笑うティラノサウルスさんの声も、こんどは台風ほどではありません。
「ううむ、さすがは、ママさんの娘さん。たいしたお嬢ちゃんだ」
「うん。たかちゃんつよいこげんきなこ」
 ティラノサウルスさんは、体のわりにはみょうに小さい腕を、かなりの努力で伸ばし、たかちゃんの頭を、なでてくれました。
「では、またうかがうでごわす。いやいや、ちょいと、平安閣で義理の妹の結婚式があって、ついでに寄っただけでごわす。それでは、ママさんに、よろしく」
 そう言って、ティラノサウルスさんは、入ってきたとき壊してしまったらしい、門の残骸を蹴散らしながら、ずしんずしんと帰っていきました。
 ……あらららら、ご門は、こわれちゃってたんだ。じゃあ、ドアもこわれても、おんなじだったかな、と、たかちゃんは思いました。
 だったら、ティラノサウルスさんも、お家にいれてあげれば、よかったな……。
 たかちゃんは、上機嫌で応接間にもどります。
「えへへー、ティラノサウルスさんに、なでられちゃった」


 さて、応接間にもどりながら、たかちゃんは、ちょっと心配になりました。
 さっき、ヴェロキラプトルさんが、家のなかに駆けていってしまったままです。
 たかちゃんにきちんとごあいさつしたくらいですから、きっと悪いヴェロキラプトルさんではないと思うのですが、なんといっても、サヨナラおじさんの時には、大人を食べたり子供を追いかけたりしていた、あくやくの恐竜さんです。ダンボやピノキオにだって、わるいひとはでてきます。たかちゃんにはきちんとごあいさつするヴェロキラプトルさんでも、ガゼルさんやしゃけさんを、いじめないとは限りません。
 たかちゃんは、ととととと足をはやめ、あわてて応接間をのぞきました。
 ガゼルさんとヴェロキラプトルさんが、テーブルの上の碁盤をはさんで、碁を打っています。
 パパがときどきお客様と使っている、たかちゃんもときどきいたずらしてみる、ぱちんぱちんと、おもしろい音のするおはじきです。
「……いやあ、これはいけません。投げですよ」
 ガゼルさんは立ったまま考え込んでいますが、
「……なにをおっしゃる。私の方が悪いでしょう。どっちにしても、細かいです」
 ヴェロキラプトルさんは、ゆったりとソファーにくつろいで、ときどき、お皿のホウレン草やレタスを、つまんで食べています。
 たかちゃんが見ているのに気がつくと、ヴェロキラプトルさんは、鷹揚に会釈をして、
「やあ、お嬢さん。これはパパの碁盤かな。無断でお借りしてしまって、どうか、御容赦を」
 なんだか、今までの中で、いちばんできたお客様のようです。
「……うーんと、……えーの」
 もの問いたげなたかちゃんの様子を見て、ヴェロキラプトルさんは、すかさずその場の空気を読み取ります。
「ああ、お嬢さん、ご心配なく。私、宗教上の理由で、鳥獣の類は、いっさい絶っておりますので」
 たかちゃんには、ガゼルさんの最初のころと同じように、なにをいっているのかよくわかりませんでしたが、ガゼルさんよりすこし年配の、やっぱり落ちついたきもちのいい声です。
「たかちゃん、だいじょうぶだよ。このおじさんは、僕とおんなじで、お野菜しか食べないそうだ」
 ガゼルさんが、通訳してくれました。
 たかちゃんは、ほっとして、あらためてごあいさつします。
「えーと、どーぞ、おくつろぎください」
「はい、えらいね、たかちゃん。この草、とってもおいしいね。なんていう草なのかな」
 ヴェロキラプトルさんも、調子をあわせてくれます。
「うーんとね、いまたべてるのが、ほーれんそー。さっきたべてたのが、れたす」
「うーん、この香りだと、純粋に無農薬の、有機栽培だね。ママが買ってきてくれるの?」
「うん!」
「すばらしいお母さんだ。たかちゃん、いいママがいて、幸せだね」
「うん!たかちゃん、しやわせだよ」
 大好きなママをほめられて、たかちゃんは、とってもうれしくなってしまいます。
「お台所に、まだ、いっぱいあるよ。まっててね」
「ありがとう。そうだ、お水も、もう1杯いただけるかな、たかちゃん」
「うん!」
 台所に走っていくたかちゃんを見送りながら、ヴェロキラプトルさんは、優しく目を細めます。
「そうか、まだそんなに子供だったのか。どうも人間の年齢や性別は、我々には、ちょっと測りかねますなあ」
「そうですね。私たちガゼルなら、半歳くらいでしょうか。ヴェロキラプトルさんだと……」
「ははははは、卵を出て母親の顔をやっと覚えたくらいでしょうよ。我々は、短かいからねえ」
「でも、私などから見れば、失礼ながら、ずっとお若いはずのあなたが、まるでこう、なにか、旧知の師でもあるかのような……」
 ガゼルさんは、ほんのさっきから碁を打っているだけなのに、ヴェロキラプトルさんには、なにか私淑に近い感情を、抱きはじめているようです。
「言葉にだまされちゃあ、いけませんよ、ガゼルさん。宗教などときどって言っても、あなた、サイトBに昔の気風は残っちゃいません。父などは、学究施設時代の頃を、よく懐かしんでおりましたが、今では、ただの小島の遊園地ですからね。おまけに例の件以降、ティラの連中のレスリングごっこくらいしか、売り物もないような田舎です。まあ、みんないつまでもティラの餌になって納得して死んでいくわけじゃなし、観光客が置いて言ったバイブルやら、雑多な本やらなにやらをみてみると、どうも東洋の仏教とかいうもの、読みかじりですが、真言宗か曹洞宗あたりが、ああいうところで死んでいくには、ちょっと良さそうと思っただけでしてね」
「でも、それだけで、肉食恐竜であるあなたが、草食の道を、進み得ていらっしゃる」
「ははははは、あなた、お若い。あんまり考えこんじゃあいけません」
 そう言って、ヴェロキラプトルさんは、ガゼルさんに、台所の方を顎で示してみせます。
 台所からは、たかちゃんが冷蔵庫をあけたりしめたり、戸棚から新しいカップを出したり、ふと気になってしゃけさんのシンクをかきまわしてお味見をしてみたり、あちこち踏み台をかかえてとたぱたしている音が、さっきから聞こえてきます。
「たとえば、あなた、……あと一晩で飢え死にしようというとき、あなた、あの草が、食べられますか?」
「……あのお嬢さんは、草ではないでしょう」
「草は草、人も草、ヴェロキラプトルも草、ガゼルも草、羆だってライオンだってティラの奴らだってしゃけだって、みーんな草」
「……はあ」
「そこはまだ関心するとこじゃありませんよ。ただのたとえ話じゃありませんか。で、あなた、食べられますか?」
「……食べられっこないでしょう」
「そうですね。あなたは草食だが、もしサバンナにあの片桐貴子という草が生えていても、たぶん食べられない。たとえ飢え死にしそうでも、やっぱり食べられない。では、その草が、もう枯れていたとしたら、いかがですか。もう花も実もつけられない、草としてはもう生きていない、でも腐ってしまっている訳ではないから、食って食えないことはない、そんな草だったら、いかがですか」
「……でも、枯れてしまっていたら、それはたかちゃんという草では、ないのではないでしょうか」
「だからただのたとえ話と言っております。人の子という草も、いずれは枯れます」
「……やっぱり、食べないでしょう」
「なら、結構。はい、それが、あなたの生きる空(くう)、ただそれだけのことですよ。あとは飢え死にしたらしたで、それはやっぱり、あなたの空。で、あなたという草が、枯れて土に帰ってしまっても、そこもやっぱり、あなたの空」
「……それは、なぜ?」
「なぜって、あなた、あの子食べなかったじゃないですか。ということは、あとに残った世界も、ひっくるめてみーんな、あなたの空」
「……なんだか、よくわかりません。禅問答みたいだ」
 真剣に考えこんでしまうガゼルさんを見て、ヴェロキラプトルさんは、思わず吹き出します。
「だから、禅問答なんですってば。さあさあ、もう一局いきましょう。己を律するのが、己ばかりだと思っていると、大間違いですよ。対局、ってくらいですからね。いやあ、でも、その空に、ティラの奴らだけは、いてほしくないものですなあ」
 そう言って、ヴェロキラプトルさんは、また鷹揚に笑います。ガゼルさんを、からかっていただけなのかもしれませんね。


 その頃、うわさのティラノサウルスさんは、駅前の松屋で豚めしの大盛りを食べながら、内心、深く自らの欲望を恥じていました。
「……ふう、危なかった。また人を食っちまうところだった。おいらもまだまだ、修業が足りねえ。見ていてくれ、ママさん。いつかはきっとジュラ相撲の横綱になって、あんたへの恩義に報いてみせる。見ていてくれ、ママさん。次にあんたやたかちゃんを訪ねる時が、今はしがねえこのおいらの、一世一代の土俵入りだあ」
 そうして、豚めしの上に熱い男の涙を流しながら、たとえ知らずにパパさんを食べてしまうことがあったとしても、ママさんとたかちゃんだけは絶対に食べるまい、そう心に誓うティラノサウルスさんでした。



               {4}


 なんか中盤はいってから、あたし、影うすくなっちゃった? これって、やっぱ、出し惜しみ、しすぎ?
 などとよけいなことを考えないのが、たかちゃんの、よいところです。
 あいかわらずのマイペースで、おるすばんとしてのお仕事に、邁進しています。
『ヴェロキラプトルさんは、お肉は食べないと言ってたけど、ほんとは、ごえんりょしてるだけなんじゃないのかなあ』
 サヨナラおじさんの映画がまた気になって、お野菜の上にベーコンを乗せてみたり、
『でも、ほんとにきらいなのかもしれないなあ』
 またベーコンをどけて、それだとなんだかものたりない気がして、意味もなく味塩をちょっとふりかけてみたり、大忙しです。
 シンクのしゃけさんは、ゆらゆらと泳ぎながら、水道のお水の酸素不足と塩素臭いのに閉口しています。もう完成時には出番をカットされてもいいから、アドリブやって現場の受けだけ狙っちゃおうか、などと、不穏なことも考えています。
 と、玄関のブザーが、またまたまた、ブザ……良い子のみなさん、もう、飽きましたね。
 はい。ブザーが鳴った、それだけです。
 応接間のガゼルさんとヴェロキラプトルさんは、囲碁に夢中のようなので、たかちゃんはそのまま、とととととと……はい、これも飽きましたね。でも念のために、ご説明しますと、ととととと、までがたかちゃんの走る音で、そのあとの、と、が、走る、にかかります。はい、お勉強になりましたね。
 さて、さすがに四度目になると、いくらまだおっきいお姉……良い子の皆さん、人間には、忍耐というものが、とても大切なものなのですよ。これくらいで飽きたなんて言っていては、とても将来、皆さんのお母さんやお父さんがあるつはいまーを発症したとき、無限に続く全く同じ愚痴と質問や、毎晩の狂ったような行動に、おつきあいすることは、とてもできません。誰ですか、そこで俺は次男だから、とか、私はお嫁に行くから、などと言っている、頭の悪い良い子は。いいですか、これからもしょーしかが進む限り、あなたがたがほーむれすにでもならない限り、あなたがたがおとなになったとき、めんどうをみなければならないおとしよりは、なんらかのかたちで、かくじつに身近にそんざいする計算なのですよ。
 どなたですか、そこでかいごほけんなどと、のーてんきなことを言っている良い子は。日本中がおとしよりだらけになったとき、日本中をろうじんほーむやぐるーぷほーむにできるとおもいますか。たとえできたとしても、そのぜいきんは、だれがはらうのですか。
 はい、それでは、すべてをあきらめて、おとなしく続きを聞きましょうね。
 さて、さすがに四度目になると、いくらまだおっきいお姉さんではないたかちゃんでも、おやくそく、というものが、なんとなくわかってきます。
「はあい、どなたですか」
 たかちゃんは、さいしょから、こんどのお客様のお顔の位置を推定して、ある程度の仰角をとりながら、ドアを開けました。
「あれ、だあれもいない」
 そうです。大きいものが続いたあとは、まんねりを避けるため、いきなり小さいものがでてきたりします。さすがのたかちゃんも、そうしたふぇいんとまでは、予想できなかったのですね。
 今度のお客様の声は、たかちゃんのお膝のあたりから、聞こえてきました。
「こんにちわ。ここにいます。旅の行商の、バニラダヌキです。おいしいバニラシェイクは、いかがですか」
 はじめての、たかちゃんより小さいお客様です。
 小さい狸のような、子犬のような猫のような、洗熊ともレッサーパンダともにている、茶色の毛皮でおなかが白く、目のまわりだけ黒い、なんだかよくわからないどうぶつです。
 まるまるとしたおおきなしっぽを、ぽふぽふと振ったりしています。
「あなたは、ちいさくて、かわいいのね」
 たかちゃんはうれしくなってしまい、思わずバニラダヌキさんを抱き上げ、ほっぺたすりすり攻撃をしかけます。
「はい、バニラダヌキですから!」
 答えになっていないような気もしますが、たかちゃんにとっては、とにかくかわいいので、りっぱな答えです。
 バニラダヌキさんは、その後ろに、小さい屋台を引いていました。そこに白くて小さいシェイクの機械がのっているので、あとは重ねたカップだけで、荷台はいっぱいです。
「ほんとにお店やさん?」
「はい、バニラダヌキですから!」
 やっぱり会話になっていませんが、そんなことは、たかちゃんにとって、どうでもいいことです。
 たかちゃんは、おやつをライオンさんにはんぶん食べられてしまっていたので、バニラシェイク屋さんなら、大歓迎です。
「おいくらですか」
「はい! ひとつ250円です!」
 たかちゃんのにこにこモードが、急に、お眉の間しわしわモードに、変換されました。
 250円などという天文学的な財産は、まだおっきいお姉さんではないたかちゃんのこと、まだ持たせてもらったことがありません。だいじなお年玉は、3カ月におよぶ熟慮と悩乱のすえに、先月、どれみのバトンに化けてしまいました。
 ママは、まだ帰ってきていません。
 応接間にガゼルさんやヴェロキラプトルさんがいますが、初めてのお客様にお小遣いをおねだりするなんて、もうすぐおっきいお姉さんとしての、沽券にかかわる問題です。
 たかちゃんは、バニラダヌキさんをぎゅうっとだきしめたまま、感傷にひたりはじめました。
 ああ、わたしって、なんて貧しく不幸な幼女。
 そんなたかちゃんに、バニラダヌキさんは、けろりとして後を続けます。
「大人は250円、子供さんは5銭です」
「ご、ごせんえん!?」
 もはや天文学で処理できる数字ではありません。たぶん量子力学の分野です。
「いいえ、5銭です」
 バニラダヌキさんは、たかちゃんにだかれたまま、おなかのどこかのポケットから、小さな小さな算盤をとりだしました。そして、しばらくぱちぱち弾いてみせてから、
「えーと、現在の地球の日本の通貨に換算しますと、1円の20分の1なり」
「……ごめんなさあい。よくわかんない」
「つまり、1円で、20杯買えます」
 こんどは、シェイクのほうが、天文学的に膨張しています。
「でも、残念ながら、本日のシェイクは、もう1杯分しか残っておりません」
「たかちゃん、いっぱいでいいもん。ちょっとまっててね」
 まっててね、といいながらも、たかちゃんは喜びのあまり、バニラダヌキさんを抱いたまま、居間まで駆けもどりました。
 居間の茶箪笥の上には、たかちゃん専用の、ぶたさん型の貯金箱があります。
 お金がいっぱいになるまで使ってしまわないように、ふたなどついていない、せともののりっぱな貯金箱です。
 でも、もうすぐおっきいお姉さんになるたかちゃんですから、そこはそれ、それなりの裏技、戦略などを、すでに学習しています。
 たかちゃんは、いつものようにうーんと背伸びしようとしました。
 でも、そこで、バニラダヌキさんを抱いたままなのに、気がつきました。
 お店屋さんの人を、居間まで、持ち運んできてしまったのです。
 しばしのちんもくののち、たかちゃんは、バニラダヌキさんを、ぽふっとちゃぶ台の上に置いて、意味のない微笑を浮かべることにしました。
「えへへー」
 ついでに、バニラダヌキさんの小さいお鼻を、くりくりしてみたりします。
 さいわいバニラダヌキさんも、とくになにも考えていないみたいでした。
「もうちょっと、まっててね」
 過ぎ去った過去のあやまちは忘れて、ぶたさんの貯金箱という、明るい未来をめざします。
 まずは、おもいきりうーんと背伸びをして、ぶたさんに手をのばします。
 踏み台がなくても、この茶箪笥の上のものは、経験上たかちゃんの回収範囲にあったはずなのですが、ちょっと緊張していたのでしょう、今日はぶたさんをつかみそこねてしまいました。
 ころりと転がったぶたさんは、畳の上にどすんと落ちたあと、ころころと縁側の方に転がっていきます。
「きゃあきゃあきゃあきゃあ」
 ぶたさんはころころころころころがって、お池にはまってさあたいへん、とはなりません。
 いくらお池のある庭が、たかちゃんのパパの子供のころからの夢だったといっても、そして、えいえんにつづくかとおもわれるろーんのじゅうあつ、かたみちにじかんのつうきんじかん、いちにちごひゃくえんのおこづかい、かいものがたいへんとまいにちくりかえされるつまのふへいふまん、そういったあくまのけいやくをむすんでしまったとしても、いっかいのさらりーまんであるたかちゃんのパパには、到底かなわぬ淡い夢だったのです。
 でも、お池はありませんが、猫ちゃんのおでこくらいの庭はありますし、縁側の下には、縁石もおいてあります。ぶたさんが縁石に落ちて割れてしまったら、よいこのはずのたかちゃんが、じつはずうっと仮面の人生を歩んでいたことが、せけんにばくろされてしまいます。
 たかちゃんは、これからの長い人生のすべてをかける覚悟で、ぶたさんに向かってダッシュしました。
「おうりゃああっ」
 でも、すべては、遅すぎました。
 ぶたさんは、縁側にすべりこんだたかちゃんの指先にはわずかにとどかず、ころり、と、縁石にむかって落ちて行きます。
 ……ああ、砂の器が、崩れてゆく。
 たかちゃんは、まつもとせいちょうさんのごほんは、まだ、読んだことがありません。昔のパパのように、かとうごうさんやたんばてつろうさんやおがたけんさんのせいとうはのえんぎと、べすととはいえないにしろえんじゅくしたのむらよしたろうかんとくのえんしゅつに、号泣したこともありませんし、ママのように、ああらなかいくんってやっぱりいいおとこ、それにひきかえ、うちのだんなは……あら、でも、ちょっと見、わたなべけんさんににてないこともないから、まあ、いいか、などと、ちょっぴりずれた感慨をもったこともありません。でも、なんとなく、そんな感じだったのです。
 たかちゃんは、そうして、今後の人生をはかなく案じながら、縁石を見下ろしました。
 すると、そこには、さっきちゃぶ台の上にいたはずのバニラダヌキさんが、ぶたさんの貯金箱をかかえて、にこにこ笑っていました。
「はい、どうぞ」
「ど、ども」
 なんだか、おかしいなあ。
 そう首をかしげながらも、たかちゃんは、残りの人生にふたたび輝いた希望の星、ぶたさんの貯金箱を、ちゃぶ台に運びます。
 ちゃぶ台の上では、バニラダヌキさんが、にこにこ笑っています。
 やっぱり、おかしいなあ。
「……あっちに、いた?」
 おずおずとたずねるたかちゃんに、
「はい! バニラダヌキですから!」
 たかちゃんは、この際、それ以上深く考えないことにしました。
 良い子のみなさん、こういったたかちゃんのわりきりのいい考え方は、とても正しいことです。
 世の中には、周囲の事象すべてに妥当な関連性を見出そうとすると、結局自分が鴨居で首を括らねばならない、電車が近づくのを見計らって線路に身をおどらせねばならない、そうした結論にならざるを得ない場合が、多々あります。こういうときは、良い子のみなさん、なにも考えないのがいちばんです。お酒を一升買ってきて、一気飲みして寝る、などというのも、正しいことです。ただし、焼酎、ジン、ウォッカ、それから沖縄の古酒などは、ちびちびと飲みましょう。鴨居で首や、線路で電車と、おなじことになる場合があります。なお、いずれの場合にも、そのまま雪道で寝てしまったり、冬の駅のベンチで横になってしまったりしては、いけません。ネルロとパトラッシュなどは、ほんとうは、つぎはもっとがんばりましょう、なのです。なお、幸福の王子とツバメさんなどは、たいへんよくできました、です。
 さて、気をとりなおしたたかちゃんは、バニラダヌキさんの前で、ぶたさんの貯金箱を、つぎのようにとりあつかいました。
 右斜め前に四十五度、それから左方向にさかさに回し、指1本ぶんくらい底面を後方へ傾け、それから、今度は右方向にさかさに回す。
 これが、ひみつのたかちゃん方式です。
 ものごころついて以来、なんどもこっそり練習して体得した、ぶたさんから1円玉を返してもらうときの、正式な作法です。
 でも、この方式だと、出てくるのはほとんど1円玉だけです。たまに5円玉が出てくることもありますが、10円玉はまだいちども出てきません。
 良い子の皆さんは、なあんだ、1円玉や5円玉だけ出てきても、なんにも買えないじゃないか、そうおっしゃるかもしれません。それはそうです。いまどき、いくらたかちゃんのほしいのが梅ジャムひとつだったとしても、10円玉がひとつないと、買えません。
 ちょっとかしこい良い子なら、1円玉10こ、それとも1円玉5こと5円玉1こ、それでも買えるよ、とおっしゃるかもしれません。でも、かんがえてみてくださいね。たかちゃんは、まだおっきいお姉さんでは、ありません。ママもいないパパもいない、きょうのおるすばんも、ほんとうはまだたったの2かいめなのです。おうちにいるときは、たいていママがいっしょです。日曜日やしゅくじつには、たいていパパもいっしょです。そんなに長いこと、ぶたさんの貯金箱で遊んでいるふりをするわけには、いきませんよね。
 おやおや、それでは、1こづつ何回も出して、ためておけばいい、そんなすばらしいことを言っている、良い子もいらっしゃいますね。わたしは、そういう、おさなくしてすでにざいあくかんのまもうした良い子は、大好きです。あとでわたしのおへやに、ひとりでいらしてくださいね。いいですか。あなたひとりでですよ。それはもう、すぐに天国にいきたくなるほど、かわいがってあげますからね。
 でも、そんな苦労をするよりは、おねだりしてしまったほうが、よりこうりつてきです。とくに、たかちゃんのお家では、パパがもとおたくのひとなので、きょねんのクリスマスに買ってもらったどれみのドレスを着て、パパのせなかにすりすりすれば、ごひゃくえんいないのおねだりでしたら、まずいっぱつです。このあいだ手にいれたどれみのバトンというひっさつのアイテムもへいようすれば、だりつ十わりです。でも、かていないのきょういくもんだい、という、むずかしいふうふげんかのもとがありますので、ママにはないしょです。
 ……さて、たかちゃんの、有事に備えた一見無駄とも思える不断の鍛練が、実を結ぶ時がついにやってきました。
 貯金箱のぶたさんが、ちゃりん、と、1円玉を1こ、返してくれます。
「はい、バニラダヌキさん、くーださーいなっ」
 たかちゃんが顔を上げると、もう、バニラダヌキさんがいません。
「あらららら」
 でも、もう1円玉をちゃんと持っているので、たかちゃんは、あわてません。
 なんとなく、バニラダヌキさんの行動原理が、理解できたような気がします。
 ぶたさんを、こんどは落とさないようにそっと茶箪笥の上に戻して、とととととと玄関に駆けていきます。
「あ、やっぱり、いたあ」
「はい! バニラダヌキですから!」
 バニラダヌキさんは、もうバニラシェイクのはいったカップを用意して、親切にストローもぷすんとさしたりしてくれています。
「くーださーいなっ」
 たかちゃんは、元気に1円玉をさしだします。
「はい! バニラダヌキですから!」
 バニラダヌキさんは、受け取った1円玉を、おなかのどこかのポケットにしまうと、おなかのどこかのべつのポケットから、じゃらじゃらとおつりをとりだします。
「はい、九十五銭のおかえしです!」
 そう言って、たかちゃんが見たこともないお金を、いっぱい返してくれます。
 ちょっとこまってしまったたかちゃんでしたが、まあ、よのなかには、まだ小さい自分の知らないお金だって、たくさんあるんだろうな、そう思って、スカートのポケットに、きちんとしまいました。
 これで、ようやく、ライオンさんに食べられてしまった苺ミルフィーユ半分の、雪辱戦が開始できます。
 じゅるるるるるる……。
「ん−」
 ごくらく、ごくらく。
 もひとつ、じゅるるるる……。
「むふー」
 ああ、ごぞうろっぷに、しみわたる。
 おいおい、あたしゃばあさんか、と、たかちゃんはお話のひとに、つっこみをいれたりします。
 もう一回じゅるるるしたところで、たかちゃんは、足元にいるバニラダヌキさんの、ほんわりとした視線に気がつきました。
 バニラダヌキさんは、なにかとても希望に満ちた、なんの隘路もないくりくりしたおめめで、シェイクをすするたかちゃんを、じっと見上げています。
 そこには、なんの邪念も感じられません。
 バニラ関係のものと、バニラ関係でないものが、いま歓喜とともに結びつきつつある、これ以上の至福が存在しえようか、そんな視線です。
 たかちゃんのこころに、ライオンさんのときとはまた異質の、ある感情が生じました。
 ……このひとになら、あげてもいい。
 はい、良い子の皆さん、さっきのそこの白髪のめっきりふえはじめた良い子のひとなどは、うなずいていらっしゃいますね。そう、これは、むかしあかつかふじおせんせいなども絶賛なされた、つくもはじめさんというこめでぃあんのおじさんが聞かせてくれた、ひとりせいしゅんらじおどらまのなかのぎゃぐです。つくもはじめさんというこめでぃあんさんは、ひところはたもりさんに肉薄するかと思われるほど切れがあったのですが、残念ながら、大成なされませんでした。そう、切れはあったのですが、飛び、が足りなかったのです。この点が、みっしつげいで、て〇のう〇いかまでぎゃぐにしておいて、のちにお茶の間の中年アイドルまでに出世されたたもりさんや、みゅーじしゃんばたけでは、らいぶでおきゃくさまのまえでうんこまでしてみせて、いまはぷろじぇくとえっくすのなれえしょんまでたんとうしているたぐちともろをさんなどとの、おおきなちがいです。皆さんも、しょうらいめじゃあをめざしたいならば、切れ、かつ、飛ぶ、これを心に止めておきましょうね。たけなかなおとさんなども、いい参考になりますね。
 さて、たかちゃんは、女性としての本能にめざめてしまったので、しゃがんでバニラダヌキさんに話しかけます。
「……はんぶん、のむ?」
「はい! バニラダヌキですから!」
 バニラダヌキさんは、シェイクのカップを、元気よくたかちゃんから受けとりました。
 でも、すぐには、ストローをくわえません。
 まるまるとしたおおきなしっぽが、ぱふぱふと地面をたたいています。
 頭の上に、わくわく、という暖色系のPOP書体が、いくつも浮かんでいます。
 なんだか、おめめも、うるうるしているようです。
「のんだこと、ないの?」
「……はい。ぼくは、3つのときに、鎮守の森の夏祭りの晩、鬼のような今の親方に、さらわれてしまったのです。鬼のような親方は、バニラをただの商売物としか、考えていないのです。商売物に手をつけたりした仲間は、物置に吊るされて、鞭でしばかれるのです」
 衝撃の告白でした。
 ……このひとは、わたしがいないと、だめになってしまう。
 たかちゃんは、こうして、すべてをささげるけっしんをしました。
「……ぜんぶのんでも、いいよ」
「はい! バニラダヌキですから!」
 バニラダヌキさんは、ちゅうちゅうとストローを使いはじめます。
 しっぽのぱふぱふが、さっきよりふえています。
「……しっぽ、さわっても、いい?」
 バニラダヌキさんは、お食事に夢中なので、お口がきけません。でも、ちょっとしっぽがうなずいたようにみえたので、たかちゃんは、たしっ、としっぽをつかまえました。
 そして、ふわふわのしっぽで、ぶらんこぶらぶらしたりしながら、
 ……ああ、このひとは、あたしがあげただいじなものを、こんなによろこんでくれている。はじめてなのね。ああ、あたしにも、はじめてのころがあった。そう、たしかあれは、16歳の、サントロペの夏……。
 って、おいおい、あたし、いくつやねん、と、たかちゃんはお話のひとに、また、つっこみをいれます。
 そうしているうちに、バニラダヌキさんのしっぽが、なんだかさわりごこちが変わってきました。
 なんだか、ゴムみたいな感じです。色も、銀色に変わっていきます。
 あれ、と、たかちゃんがお顔をあげると、
「しゅわっち!!」
 バニラダヌキさんは、いつのまにか、M78ファッションで、アルカイックに決めています。
「あらららら、シェイク飲んだら、へんしんしちゃった」
「はい! バニラダヌキですから! さようなら、たかちゃん。これから、鬼のような親方を、やっつけにいきます。む、3分しかない、急がねば!」
「がんばってね、また、いらっしゃい」
「はい! バニラダヌキですから!」
 じゅわ、と一声を残し、バニラダヌキさんは、お空のかなたに、去っていきました。


 ……ふーん、こんどは、こぱんだみたいなのと思ってたのに、うるとらまんだったんだ。
 たかちゃんは、もとおたくのパパに、がんそうるとらまんのDVDをぜんぶ見せられているので、バニラダヌキさんのコスプレの出典も、ちゃんとわかります。でも、うるとらせぶんは、さすがに見ているうちにいつも眠ってしまうので、今の自分の気持ちが、あんぬたいいんみたいなのになっていることには、まだ気がつきません。
 ……でも、悪い親方をやっつけたら、またきてくれるかな。だって、シェイクのお店屋さんセット、置いてっちゃったもん。
 たかちゃんは、バニラダヌキさんのお屋台をからからとひっぱりながら、玄関にもどります。
 もう、お外は、すっかり暗くなっています。
 あれ、もう、夜だ。でも、ママ、まだ帰ってきてないのにな、お外でまいごになっちゃったかな。
 そう思ってまたお庭に出てみると、夜がきたのではなくて、またまたお客様がいらっしゃったのでした。
 ……あ、こんどは、げげげみたいなの。
 たかちゃんは、もう、すっかり耐性ができています。
 こんどのお客様は、たかちゃんが、前の前の前の前の日曜日に、パパやママと水族館やプラネタリウムを見に行った、池袋サンシャインくらいありそうな、お客様でした。
 まっ黒くてびしょびしょだし、おめめがお皿みたいにまんまるだし、お口にはくじらさんをくわえているので、きたろうのだいすきなたかちゃんは、ちゃあんと、こんどのお客様がどなたなのか、すぐわかります。
 でも、こんどのお客様は、はずかしがりやさんみたいで、なんにもしゃべってくれません。
 まあ、さすがに、くじらさんをくわえていては、たとえおしゃべりさんだったとしても、ごあいさつは無理でしょう。
「こんにちは、むかしうみでママさんにおせわになった、うみぼうずです、っていいたいの?」
 海坊主さんは、首をこくこくしてみせます。
「ママさんは、いらっしゃいますか、っていいたいの?」
 また、首をこくこくしてみせます。
「ママはおでかけ。夕方には帰ってくるの」
 まんまるお皿のおめめが、ちょっと残念そうにみえます。
 海坊主さんは、お口にくわえていたくじらを、ぬうっとお家の方へ、さしだしてきました。
「これはおみやげです、みなさんでたべてください、って、いいたいの?」
 こくり、とうなずいて、海坊主さんが、お口を開きます。
 どどどどどと、千鳥が淵の貯水量ほどもあろうかと思われるほどの海水が、たかちゃんのお家を飲みこみます。
「きゃう、きゃう、もが」
 たかちゃんも、どうどうと流れるお水に押し流されて、ご門の跡を通りこし、隣町方向へ流れていきそうになりましたが、ちゃんと、海坊主さんは助け上げてくれました。
 びしょぬれのたかちゃんは、海坊主さんのてのひらの上から、お家の方を見下ろしました。
 お二階はもうなくなっていて、一階の上で、くじらさんが、ぴちぴちとはねています。
 一階の応接間のあたりから、ガゼルさんとヴェロキラプトルさんが、たかちゃんに手を振りながら、流れ出ていきます。しゃけさんはもともとおさかなさんでみずのなかなので、心配ないとおもいます。
 みんな無事に流れ出たところで、こんどは、一階もぺちゃんこにつぶれてしまい、くじらさんだけが、元気にぴちぴちはねまわっています。
「……心配いりません。ミンククジラですから、調査捕鯨対象ですので」
 蚊の鳴くようなかわいい声で、海坊主さんが言いました。
 そして、たかちゃんをご門の前におろしてくれると、
「さようなら。またきます。いえいえ、ちょっと、泉岳寺で叔父の法要がありまして、帰りにお寄りしただけですので。ママさんに、よろしく」
 そう言って、東京のほうではなく、お山のほうに、ずるずるごうごうと帰って行きます。
 日本海の海坊主さんだったのですね。
 あとに残ったたかちゃんは、元気にはねまわるミンククジラさんをながめながら、どうやっておもてなししようかと、考えこんでしまいました。
 ……お紅茶のお道具も、みんな流れて行っちゃったかな。
 すると、ちょうどそこに、ママがお買い物から帰ってきました。
「ただいま。たかちゃん、ちゃんといい子にしてた? あらあら、ずいぶん、散らかっちゃったのねえ」
 いつものやさしいママです。
 たかちゃんは、なんだかいままででいちばん好きなママだとおもいました。
「うーんとね、ひぐまさんと、らいおんさんと、なんとかさうるすさんと、ばにらだぬきさんと、あと、いまね、うみぼうずさん。そいでね、おみやげのしゃけさんでしょ。がぜるさん、なんとからぷとるさん……でもいまいるのは、みんくくじらさんだけなの」
 たかちゃんは、もうすぐおっきいお姉さんなので、指おりかぞえながら、ちゃんとママにご報告します。
「……でも、お家、もうないの」
 たかちゃんが、ちょっと心配になって、ママのお顔をのぞきこむと、
「だいじょうぶよ。パパがちゃあんと保険に入ってますからね。でも、今夜は、おじいちゃんのところに、お泊まりしないとねえ」
「わーい、おとまりおとまり」
 たかちゃんは、ママのスカートにつかまりながら、ふと、お留守番のあいだ、お昼寝するのをわすれていたことに、気がついてしまいした。
 ……ママには、ないしょにしとこ。だって、いっぱいおきゃくさまだったんだから、しょうがないもん……。


 はい、良い子の皆さん、きょうのお話は、これでおしまい。
 なにか、ごしつもんや、くじょうがあっても、せんせいはいっさいおこたえできませんので、ごりょうしょうくださいね。
 あらあら、どなたですか、こうちょうせんせいや、おうちのひとにいいつける、なんていってる悪いよいこのひとは。
 はい、せんせいは、いっこうかまいません。うふふふふ、いたくもかゆくもありません。
 うふふふふ、に〇きょ〇そをあまくみては、いけませんよ。




                           {おしまい}                     
2006/04/11(Tue)10:49:25 公開 / バニラダヌキ
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■作者からのメッセージ
童話のパロディです。
中年のおたくの人に、冨永みーなさんの朗読を想像して読んでいただければ、そんな気分で打鍵しました。
もちろん、一般の方にも笑っていただけたら、幸甚です。
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