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『「友達」』 作者:カニ星人 / 未分類 未分類
全角5610文字
容量11220 bytes
原稿用紙約19.4枚
 浴槽の掃除も完璧にした。
 洗剤をつけたスポンジでこすると、ざらざらだったポリエチレン製のそれが、キュッキュッと音がするほどつるつるになる。
 私はお風呂掃除が一番好きだ。
 綺麗になったことが顕著に表れるし、そのことによって気持ちよく入浴できるようになるから。
 でも、今私がここを掃除したのは、それが好きだからでも、気持ちよく入浴するためでもない。

* * *

 首をゆっくり回しながら溜息をつく。
 少し方と腰が痛い。
 運動不足かな、なんて思いながら階段を下りてリビングに向かう。
 誰もいない食卓には、今頃会社で働いているだろう母が用意して行った、私の昼食。
 「一時半。ちょうどいいな」
 そう一人呟いて、革張りの椅子に座る。
 安ぽげな革が柔らかく沈む。
 水滴がしたたるラップの下のハヤシライス。私の好物の一つ。
 あぁ、今日の昼ご飯がハヤシライスでよかった。
 テーブルの大きなスプーンを手に取り、私はそれを食べ始める。
 たった一人の、最後の晩餐と言うところか。

 お腹を満たした私は再び二階に上がり、自分の部屋に入る。
 散らかった室内。片づけが苦手なのは幼い頃からだ。
 本当はきちんと整理した方がいいのだろうけど、そんな時間はない。
 決心が鈍ってしまう。
 椅子の上に乗っている物をどけて座り、机に向かう。
 いつもと同じシャーペンで、横の引き出しから取り出した薄っぺらな一枚のコピー用紙に書き始める。
 遺書なんかじゃない。
 そういうのは、書いていたらきりがなさそうだから。
 だから私は、いくつか詩を書いただけだ。
 友人達へ。家族へ。あの人へ……。
 特に悲しくもなかった。
 そんな感情はこうなる以前の問題だ。
 今は何もかも洗い流されたような心境。
 窓の向こう、遠くの方で、あの人の住む街へ向かう電車の音が聞こえる。
 家の中、すぐ隣の風呂場から、
 「もうすぐ、お風呂が沸きます」
 と言う機械の女の声が聞こえる。

 お湯を張るとき、浴槽の栓をしたかどうか、自分が間抜けだと知っている私は毎度不安になる。
 覗き込むと、何回も確かめたかいあって、白い湯船はなみなみと水で満たされていた。
 水道代を無駄にしなかったことに安心すると同時に、わずかに失望する。
 しかし今更やめる気にはなれない。
 サスペンスドラマのようなシーンを想像してみる。
 この温かい湯の中に、私の髪や体が漂うところを。

* * *

 失恋くらいで、と他人には言われるかも知れない。
 自分が弱い人間だということは、誰よりもわかっている。
 暖かな色の電灯の下、パジャマの袖をめくる。
 たくさんのためらい傷。古いものから最近のものまで。
 だけど今回は本気なのだ。こんな脅しもどきじゃなく。
 淡い水色のゼリーみたいな湯に片腕を突っ込んで、私は思う。
 さぁ、服を脱いで普通に髪や体を洗おう。
 その後は……。
 ピリリリリリ……。
 ん? と私は携帯電話の音に気がつき不思議に思う。
 学校を休んで家にいるのだから、今の時間帯は友人や母からもかかってくるはずないのに。
 私はタオルで濡れた手を拭きながら、部屋に向かった。
 電話のウィンドウには「リカ」の文字。
 なんで? 授業中でしょ。
 通話ボタンを押して受話器を耳にあて、
 「もしもし、どうしたの?」
 と明るく聞く。
 さっきまでしていたことを、悟られないように。
 「もしもし、さつき? 今日学校早く終わったんだよ。ラッキーだよね」
 莉華の声の後ろで、「次は大井、大井に停車です」というアナウンスが聞こえる。
 どうやら電車の中からかけてきたらしい。
 「最近、学校休んでるじゃん。加賀谷のことで何かあった?」
 さすがは友人暦の長い莉華だ、するどい。
 「んー……。何にもないよ。それより急に電話くれたけど、どうしたの?」
 振られたことは莉華にも話していない。
 その次の日から、ずっと学校を休んでいるのだから。
 もっとも、私はちょくちょく休む性質だから、莉華もあまり気にしない。
 その間連絡を取らないこともよくあることなのだ。
 だから、私がここまで思いつめていることも知らない。
 私は電話口で平然を装っているし。
 だが、異変に気づかれてしまったのだろうか、莉華は少し沈黙してから、
 「元気ないね。これからさぁ、さつきの家行ってもいい?」。
 え、と私はつい声を漏らした。
 「あ、この前は部屋が汚いからって断られたけど、別に家で遊ばなくてもいいよ」
 そういうことじゃないんだけど、と心の中で言って、私は悩む。
 こうして電話した後、やろうと思っていたことをするのはなんだか彼女に悪い。
 仕方なく、いいよ、と言って承諾する。
 「じゃあ、今から向かうから、支度しておいてね」
 そう言って彼女は電話を切った。
 私はと言えば、なぜかわずかにほっとして、出かける準備をするのだった。

* * *

 チャイムが鳴ったのは、それから二十分ほど後のことだった。
 私は顔を洗い、着替えも済んでいたので、ドアを開けるまで待たせることはなかった。
 久しぶり、と言って莉華は笑った。
 本当にしばらく会っていない。
 「上がって」
 私は言い、彼女はお邪魔しまーすと慣れた様子で家に入る。
 「あれ、うちが学校帰りだから合わせてくれたの?」
 私が制服姿であることに気づいて彼女は言った。
 私は、
 「着るものがなかった」
 言って、二人で笑った。
 私服買いに行かなきゃね、とかなんとか彼女は言い、ハッと気づいたように問う。
 「そう言えば元気なかったけど、何かあったの? 話してごらんよ。遊びに行くのはそれからでもいいからさ」
 変わってるとか、何を考えているかわからないと言われる私も、莉華には見通される。
 それは、今まで取り巻いていた環境が酷似していたからかも知れない。
 私はうなずいて、彼女の前の床に座る。
 季節は秋だけど、今日は天気がよく、日が当たったフローリングは熱いくらいだ。
 私は莉華にすべてを話した。
 あの人……加賀谷に振られたこと。好きだったためにひどく絶望したこと。
 そして、

 「実は、今日これから死のうと思ってたの」。

 その一言で莉華の顔は更に悲愴になった。
 私は続けた。
 「お風呂、掃除して、お湯まで張ったんだ。ほら、切っただけじゃ血って止まっちゃうでしょ? 水の中に漬けておかないとダメだから。遺書の代わりの詩も書いたよ」
 彼女はものすごく重々しい様子で聞いていた。
 「でも、莉華からの電話でセーフだった」
 と私が話し終わると一言、バカ、と小さく呟いた。
 けれど、決して激しく叱咤したりしなかった。
 それはきっと、彼女も同じ気持ちになったことがあるから。
 もろい精神。繰り返す自傷行為。
 私達はよく似ている。
 話したら泣きそうになってしまった。
 そんな私を見ていた莉華も、涙目になっている。
 フッと糸が切れて、私は泣きだしてしまった。
 熱いものが頬を伝った。何筋も何筋も。
 案の定、目の前の莉華も泣いていた。
 それでも根が明るい彼女は、泣きながら、
 「さつきが死んでも、うちは葬式出てやらないからなぁ」
 などと笑ってはっぱをかけるのだった。
 そう言われて私も、へへっ、と笑った。
 生半可な慰めなんかより、私は彼女の変な励まし方が好きだ。
 窓から見える空は、目にしみるほど青い。

* * *

 鍵をかけて家を後にした私達は、のんびり並んで歩き始めた。
 「うちがさつきの家の近くに住んでたら良かったのになぁ」
 高い空を見上げて声を上げる莉華の横顔を見て、私は、あはは、と笑う。
 そして、死を考えた時彼女の気持ちを考えなかったことをこっそり詫びる。
 「今日はどこ行く? お馴染みの所に行きますか」
 私は、ですね、と答えた。
 お馴染みの所、とはカラオケのことだ。
 「思いっきり叫べば、すっきりするかもよ」
 少し先を行く彼女が、振り向いて言った。

 散々歌って、カラオケから出てきたのは、既に空が暗くなってからだった。
 すっかり秋だなぁ、と一人思う。
 「これからどうする?」
 いつもなら、私はきっと帰るだろう。
 だけどこの日は、まだ一緒にいたかったので、そう告げた。
 大声で歌ったって、どうにかなったわけじゃないけど。
 莉華と笑っている間は、悲しみを忘れていられたから。
 莉華は、
 「ここは空気が悪いよ! 怖い人もいるし。うちの家の方に行こうよ」
 と言った。
 確かにこの辺りは繁華街が多く、日も暮れたので危ない。
 合意して、電車の切符を買う。
 薄汚れた私鉄の車両には、もう暖房がかかっている。
 ガラガラの座席に彼女と二人。
 寒々しい色の蛍光灯で映し出されたやせた顔が、向かいのガラス窓に映る。
 ここから彼女の住む街まで、三十分ほどかかる。

* * *

 「やっぱり空気がいいね。田舎だから」
 そう笑ってから、莉華は真面目に深呼吸したので、私も真似をした。
 本当だ、すがすがしい。
 ふと気がつくと、空には雲ひとつない。
 「こっちに自転車が置いてあるから、どこか行こうよ」
 ドライブだよ、ドライブ、と冗談を言いながら駐輪場へ向かう。
 ごちゃごちゃと絡み合った自転車の中から、彼女は自分のものを見つけ出し無理やり引っ張り出す。
 ガシャンとけたたましい音を立てて何台か倒れた。
 莉華が鍵をはずしている間に、私はそれらを直す。
 「よし、ほらさつき後ろ乗って」
 「うん」
 呼ばれた私は駆け寄って、後輪の上についた荷台にまたがる。
 「じゃあ、健治の所にでも行くか」
 楽しげにそう言って莉華はペダルをこぎ始める。
 健治とは、莉華の彼氏だ。
 「ここから健治君の家まで、どれくらいなの?」
 「チャリで二、三十分」
 自転車はゆっくりと進みだす。
 「軽いなぁ! さつき三十kgくらいしかないでしょ」
 「ありえないよ、普通にもっとある」
 「うちが乗ったらタイヤがパンクしたよ」
 彼女の肩につかまった私は笑う。
 居酒屋の前に集まっている大学生らしき男の人達。
 「俺、高校生いいな」
 と言う話し声が聞こえて、クス、と密かに笑う。
 その横をひんやりとした気持ちいい夜風がすり抜けていく。
 高い高い秋の夜空の下、都心から離れた閑静な住宅街を走る。
 爽快だ。
 景色がどんどん流れて行く。
 民家、車。
 軽いなぁ、といちいち言いながら莉華は足を動かしている。
 その後ろで私は黒い空にきらめく星を数える。
 「あ、お月様」
 家並みの合間に、昇ったばかりの三日月を見つけた。
 「え〜? どこ?」
 前を向いたまま莉華は訊く。
 「右側。家に隠れちゃってるけど」
 「運転してるから見れないや」
 顔は見えなかったけど、彼女はすごく残念そうに言った。
 「うん。でもすごく綺麗だよ」
 私は目を閉じてしみじみそう言った。

 「こうしてると、心が落ち着くね」
 深く息を吸って言う。
 十一月の乾いた冷たい空気も、今の私には心地いい。
 「……癒されるね」
 ふふ、と微笑む。
 すると莉華も満足気にうなずいて、
 「でしょ? ホント、男なんてくそ食らえだよ。バカ健治ー!」
 と叫んだ。
 突然で驚いたけど、すぐに笑顔で私も叫んだ。
 「バカー!!」
 静かな夜の街に自分の声が通る。
 おかしくて、二人で大声で笑い合った。
 「あ、やったぁ、次下り坂だよ」
 彼女がそう言い、自転車が加速し始めた。
 ヒュー! などと口々にわめいて猛スピードで下る。
 次の瞬間、ガコンッと何かにつまづいて私達は自転車ごと倒れた。
 「キャー! 痛い……」
 アスファルトに座り込んで腰をさする。
 おもむろにこっちを向いた莉華が、
 「ごめん、気がつかなくて。びっくりしたぁ〜」
 私達は胸をなでおろして、顔を見合わせると、噴き出して再び笑い始めてしまった。
 「調子乗りすぎたね」
 とか、
 「ヒューとか言ってる場合じゃないし」
 とか言いながら、お腹が痛くなるほど笑い転げる。
 気を取り直して、倒れた自転車を拾い上げると、さっきと同じように乗り出発した。
 「莉華」
 弱々しさのなくなった声で呼ぶ。
 「何?」
 「私、加賀谷のこと忘れられるかも知れない。駅前の居酒屋で、大学生っぽい人達が十人くらいいたんだけど、あれ見たら『世の中男なんていっぱいいるんだなぁ』って」
 莉華は笑って、そうだよ、と言った。
 自転車で駆け抜ける夜。
 体に感じる振動。風の音。
 ざわめく木々のトンネルをくぐる。
 青春ドラマみたいだ。

 莉華がいてくれてよかった。

* * *

 「マジで軽いね」
 何度目かわからないほど言っているのに、彼女はその度にまるでたった今知ったかのような、感動した口調で言う。

 「さつきとなら、どこまでも行けそう」

 一瞬、なんて答えたらいいかわからなかった。
 今日、あんなこと考えていたのに。
 大切に思ってくれる、大切な彼女を置いていこうとしていたのに。
 あぁ、本当……このままどこまでも行ける気がするよ。
 嬉しくて、うつむいて彼女の言葉を噛み締める。
 「うん!」
 元気いっぱいの返事で、私の気持ちすべてを伝える。
 肌を撫でる風。なびいている彼女と私の長い髪。
 「楽しいね」
 「ん」
 彼女の背中におでこをついて、だらしないほどの笑顔で私は答える。
 「どうした?」
 不思議そうに訊く莉華に、ひひひ、と笑う。
 私は今、幸せだ。
 「ありがとう」
 何がなんだかわからない様子だった彼女も、ひひひ、と笑い、そして言う。

 「死ぬの諦めた?」

 私は、これ以上ないくらいくしゃくしゃの笑顔になって、
 「ん」
 と答えた。

 二人を乗せた自転車は、月と並んで秋の夜道を行く。
2003/11/02(Sun)16:26:01 公開 / カニ星人
http://homepage3.nifty.com/kani-kan/
■この作品の著作権はカニ星人さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
友情を描きたかったのですが…、ポイントは最後の「死ぬの諦めた?」と言う莉華のセリフ、のつもりです。
皆様のご意見をもとに磨いていきたいと思うので、何でもおっしゃってください。
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