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『ウィーンを吹く風』 作者:豊田一郎 / 未分類 未分類
全角26344文字
容量52688 bytes
原稿用紙約72.4枚


  序章


 ここにウィーンの町を俯瞰した一枚の写真がある。
 この写真は、ウィーンの北部に聳え立つ、標高四百二十五メートル程度のレオポルド山の頂上付近から撮られたものらしかった。写真の中央には、ドナウ川と新ドナウ川が上下に並んで横たわり、新ドナウ川の向こう側には、緑に囲まれたウィーンの建築物がマダラに点在している。写真は国連施設UNOシティーの方を向いて撮られていたが、あいにく霧のため写真の上部は模糊としていて――あるいはUNOシティーがレオポルド山から遠すぎたため――、それらしき姿を確認することはできない。
 このあまり好い出来とは言いがたい写真は、ジオシティーズ内の或るホームページに掲載されていた。ホームページの作成者兼運営者は野田ミノルという名前のフリーターで、つい二、三ヶ月前にウィーンから日本に帰国したようであった。野田ミノルによると、ホームページは、思い出深いウィーンでの体験を記録するために作成したらしく、決して第三者から訪問されることに重点をおかない、謂わば自分自身のためといった色彩を色濃く帯びたものらしかった。確かにホームページを見ていると、作成者の色彩感覚には並々ならぬ芸術的な才能を感じさせはするが、全体の構成からいうと、色んなものがごっちゃ混ぜになっていて、雑然としている。例えば、前述のレオポルド山から撮られた写真が、縦四百ピクセル、横五百二十ピクセルとやや大きめに画面を埋めている下に、「この写真は、ジョゼ・デ・カマルゴという名前のブラジル青年によって撮られた」という文章が書かれていて、「ジョゼ・デ・カマルゴ」の部分がリンクになっている。そこで、「ジョゼ・デ・カマルゴ」をクリックすると、このブラジル青年の写真と彼のメール・アドレスがスクリーン上に現れるのであるが、さらにジョゼ・デ・カマルゴが撮った他の写真へのリンクやら、ジョゼ・デ・カマルゴが運営しているらしい、ウィーンとは全く無関係な「コンピューター・ウイルスをプログラムする(または、爆弾を作る)方法」という題の、ポルトガル語で書かれたホームページへのリンクまである。他にも例をあげればキリがないが、とにかく野田ミノルのホームページには色々雑多なものが複雑に入り混じっていて、あまり訪問者への配慮が見られない。また、「思い出深いウィーンでの体験を記録する」という主題も、どちらかというと漠然としている。やはり自分自身のために作成したのであろうか、という感じがする。ただ、このホームページを見ていて、一言、言えることは、野田ミノルという名前の小太りの男は――ホームページ内に、彼が鼻に指を突っこんだ写真が掲載されている――、ジョゼ・デ・カマルゴという名前のブラジル青年に、尋常でない思い入れがあるのではないか、ということである。それには、ちゃんとした理由がある。まず第一に、野田ミノルはジョゼ・デ・カマルゴのことを「愛しの友」と呼んでいた。次に、このブラジル青年が絶世の美男子であったから。野田ミノルのホームページには、ジョゼ・デ・カマルゴの写真は一枚しか掲載されていなかったが、その一枚だけで充分過ぎるほどに、ジョゼ・デ・カマルゴの美貌を知ることができた。ジョゼ・デ・カマルゴは、新ドナウ川を背景として、煙草を吸っていたが、微かに濡れた金髪の下から――今まで水泳をしていたのであろう――こちらを見つめる青い眼は澄みわたり、すらりと伸びた鼻梁に、不敵そうに微笑む唇から作られた顔は、世の女性たちをすぐさま虜にしてしまいそうなほど、端麗であった。しかも長身のようである。なんとなく、ハリウッド・スターのレオナルド・ディカプリオに似ていた。野田ミノルは、彼がウィーンにいたとき、この美貌のブラジル青年と約五ヶ月間、同じ部屋で暮らしたとホームページ上に書いていた。


  第一章


 野田ミノルは、西暦一九七九年、羊年の生まれで、幼少時代を大阪で過ごした。彼の父は、祖父から受け継いだ米屋を、阿部野橋の近くにある商店街で営んでいたが、スーパーなどで米が売られ始めたのを契機として、徐々に経営状態が悪化したため、店を畳んで奈良の田舎で隠遁生活を送ることになった。それはちょうどミノルが高校を卒業した年のことであった。もともとミノルの祖先は、奈良の田舎にそれ相応の土地を所有していたため、彼の父が店を畳んだ後も、家族が生活に窮するといったことはなかった。ミノルの母は父の隠遁生活につきあうことになったが、ミノル自身は大阪に残り、大学受験のための予備校の寮に入った。彼の予備校代は、父が負担した。父からは、毎月の小遣いさえ送られてきた。傍から見ると、ミノルは何一つ苦労することなく生活しているようであった。誰もミノルが、幼少の頃より胸中に陰鬱な影を落としたまま、大きくなったとは思わなかった。しかし、これはよくあることであるが、ミノルは金銭的な面では恵まれていたが、精神的な面では辛い過去を背負っていたのである。彼の父は、世間への体裁をひどく重んじ、見栄だけはイッチョマエによく張るが、家の中では酒を飲んでは、人の悪評ばかりしていた(ミノルの父は後年、酒のため肝臓を悪くした。これが彼を隠遁生活に追いやった理由でもあった)。母は、そんな父に嫌悪の念を抱きながらも、愛想笑いだけは忘れなかった。高校を卒業するや否や、すぐさま家を飛び出した姉は、「ウチの家族には、愛なんてもんはないよ」と言った。彼女は中学生のとき、勇敢にも、「なんで父さんは家族を愛しとらんの?」と酔っぱらった父に問いただした。すると、酒癖の悪い父はイキナリ彼女の頬っぺたを殴った。姉はこのことをいつまでも恨んでいた。彼女は父の暴行を母に訴えたところ、「父さんは本当はいい人なんよ。だから、許してやってね」と相手にしてくれなかった母も、ゴキブリのように嫌っていた。ミノルは、こんな荒れ果てた家庭で育ったのである。しかし不思議なことに、ミノルは両親と一緒に暮らしていたときは、何とも感じなかった。自分の家庭に欠陥があるとは、露にも思わなかった。それが、予備校の寮で一人暮らしをするようになってから、突然、今まで殻に覆われていた彼の感受性が、噴水のようにどっと噴き出し、ああ、自分はなんて悲惨な家庭に生まれたのだろう、とセンチメンタルな思いに耽り始めたのである。父に殴られた姉の泣き顔が夢にまで現れ、ミノルは度々、ベットの上で啜り泣きをした……
 ミノルは苦しんだ。苦しんで、苦しんで、もうだめだ、受験勉強さえ、ろくにできそうにない、とせっぱ詰まった頃、彼は幼いとき好きだったピアノをもう一度習うことにした。クラシック音楽は彼の心を慰めた。彼は心に傷を抱えながらも、なんとか予備校に出席し、受験勉強に精を出すことができた。
 さて、ミノルがピアノを習い始めてから、三ヶ月ほどの月日が流れた。ある日、ミノルは、英文法の強化に的を置いた予備校の授業が終わった後、「大学に入学したら、海外に留学するんだ」と予備校の友人に、屈託のない声で言った。
 「ミノやん。海外って言っても色々あるで。一体、外国のどこに行きたいんや?」と関西の訛りが強い友人は、いやらしい微笑を顔に浮かべながら、穿鑿してきた。ミノルにとって、この質問は不意打ちだったらしい。「さあ、まだ知らない」と彼は答えた。
 「ハハハ、ミノやん。海外に留学したいが、どこに行きたいか知らんっていうのは、阿呆なことやで。どうせ、あれやろ。どいつもこいつも、鼠からゴリラにいたるまで、留学や、海外やって言っとるから、ミノやんもそうしたいだけなんやろ。やめとき、やめとき。どうせ、留学してもイッショやって。何にもない。ただ、金を損するだけや。まあ、ミノやんはどうせ、自分で働かんと、親父さんにお金をもらうんやから、みのやんは損せんけどな。親父さんにとっちゃ不幸なことやで。ハハハ」
 ミノルの友人は、あたり構わず大声で笑った。普段あまり怒らないミノルとはいえ、このときばかりは腹が立った。
 「いいか、徹。僕のことを他の阿呆な連中と一緒にするな。僕にはちゃんとした目的がある。目的があって、海外に行くんだ」
 「なんや、その目的って? 試しに言ってみ」
 「徹。お前、信用せんのか?」
 「いや、ミノやん。悪い、悪い、俺が悪かった。そう、怒らんといてくれ。俺はただ、みのやんが何で留学したいのか、知りたいだけなんや」
 徹が態度を豹変させ、下手にでてくると、ミノルは言葉に窮した。実際ミノル自身にも、自分が何で留学したいのか、はっきりしたことは分からなかったから。
 「うん、その、そう、ほら、僕、音楽が好きなんだ。僕、クラシック音楽が好きなんだ。だから、海外で音楽を勉強したいんだ」
 「あ、そっか。クラシック音楽か。ミノやんらしいな。じゃあ、ウィーンあたりか。モーツアルトもシューベルトも、ウィーン出身らしいしな。そういや、俺の姉ちゃんの知り合いも、声楽を勉強しにウィーンに行ったらしいんや。ミノやん、もしかして、ビッグになるかもな。今のうちに、サイン貰っとかなあかんな」
 徹はあくまでフザケタ調子を崩さなかったが、ミノルは徹との会話からインスピレーションを得たようであった。クラシック音楽界の巨匠モーツアルトやシューベルトの出身地、ウィーン。そこは自分にとって「運命の町」と呼べる場所ではないか? 自分には日本は向かない。日本には、煩わしいことが多過ぎる。一方、ウィーンはどうだろう? きっとそこは、クラシック音楽の揺籃地という名前に相応しく、清く澄んだ場所なのだろう。そうだ、ウィーンだ。ウィーンに行くしかない……
 あれこれと思索し始めたミノルは、徹に誘われて、マクドナルドの店内に入った。そこで彼は、「次の方、何にしますか?」と尋ねてきた店員に「クラシック・バーガー、一つ」と答えてしまった。


    ☆


 数年後、ミノルのウィーン留学は実現したが、それは彼が当初計画していた「輝かしい海外進出」とは、かなり様相を異にするものであった。
 ミノルは、大阪の予備校で熱心に受験勉強をした甲斐あって、浪人生活を一年送っただけで、早稲田大学第一文学部に入学できた。ミノルの友人たちのなかで、それこそ臥薪嘗胆といった生活を送って受験勉強をしてきた浪人生は、裕福な浪人生活を送ったくせに、ミノルが早稲田に入ったと聞くと、内心悔しがった。彼らの中には、もう一年浪人しないといけない者もいた。
 ミノルは早稲田大学第一文学部から合格の手紙を受け取ると、真っ先に奈良にいる両親に、この吉報を知らた。特に、学歴コンプレックスの強かった父は、息子の早稲田合格に、飛びあがらんばかりに喜んだ。父はミノルに大学の学費はもちろん、東京での生活費も全部負担してやる、と約束した。
 このようにして、東京での新生活が始まった。運よく、浪人仲間の徹も、早稲田大学政治経済学部に合格したため、ミノルは徹と一緒に大隈講堂で行われた入学式に出席した――学部によって入学式が始まる時間帯が違ったが、彼らは両方に出席した――。サークルの勧誘も一緒に受けた。
 この時期、早稲田大学の本部キャンパス内は、何千人(あるいは何万人?)もの人間が缶詰のなかに押し込められたような状態になる。前に進むためには、それこそ人間の海の中を掻き分けて、遮二無二、進まなくてはならない。ミノルたちが、人間を掻き分けるように歩きながら、早稲田にどのようなサークルがあるのか探検していたところ、徹がミノルのスーツの袖を引っ張り、「見ろ見ろ」と言って、或るサークルが陣取った机を指差した。「早稲田大学少年漫画クラブ」というサークルであった。サークルの部員は、南門近くにある、満開に咲いた桜の木の下で、退屈そうに勧誘活動をしていた。
 「あの、いいっすか? ここは、あの有名な早稲田大学少年漫画クラブさんですよね?」
 徹は、関西弁を捨てて、男子部員の一人に丁寧語で尋ねた。
 「そうだけど、君、僕らのサークルに興味あるのかな」
 部員は、机の前に置かれた樫の長椅子に座るよう、ミノルたちを促した。
 「ええ、まあ。俺、『瑪羅門の家族』の大ファンなんです」
 「ははは。君、酒鬼薔薇君の従兄弟かい?」
 「おや、感づかれました? いやだな、あまり顔は似ていないと思っていたんですけどね」
 部員はボロ雑巾のように顔を皺くちゃにして笑い、「君、酒鬼薔薇君の写真は見たことがあるの?」と続けた。
 「そりゃ、もちろん」
 「いや、まいった。なかなかレベルが高いね。実は僕らの部室には、彼の写真が飾られていてね。いや、何、ただの仏像みたいなものさ。部室に入るごとに、僕たちはみんな、彼に向かって拝むんだ」
 ミノルは、このテの会話が嫌いだった。道徳的に許せなかった。彼は徹と部員が話している最中、ひどくムカムカしていたのだが、ずっと黙っていた。
 「ねえ、君」
 部員は、なんだか不貞腐れている様子のミノルに声をかけた。
 「何でしょう」
 「君は、漫画には興味がないのかな?」
 「いえ、ありません」
 ここで、徹が横槍を入れた。
 「先輩。ミノやんはクラシック音楽しか興味がないから、だめですよ」
 「クラシック音楽ねえ。悪いが僕には、クラシック音楽だけは理解できないんだ。アニメ・ソングなら話は別なんだけど。それにしても、君は何でまた、クラシック音楽が好きなの?」
 「クラシック音楽は心を癒してくれます」
 いやに真面目な顔のミノルとは対照的に、部員はプププと吹きだした。
 「心の癒しね。君は何か宗教でも入っているのかな? オウム真理教徒なら、ウチもお断りしているからね」
 今度は徹が、部員の言葉にプププと吹きだした。部員も再び、ボロ雑巾のような顔を作ったかと思うと、腹を抱えて笑い出した。ミノルは自分が侮辱されたと感じた。
 「ねえ、先輩。新勧コンパはいつですか?」
 「次の日曜日。ここにコンパの詳細が書かれたチラシがあるから、持っていきなよ。ほら、君も。二次会でカラオケに行くから、クラシック音楽君も楽しめるんじゃない。カラオケにだって、クラシック音楽があるからね」
 ミノルは徹にしろ、ボロ雑巾顔の部員にしろ、一生軽蔑してやろうと誓った。数日後、この軽蔑は、早大生全体に拡がった。
 ミノルは乗り気ではなかったが、徹に誘われるまま、早稲田大学少年漫画クラブの新勧コンパに出席した。参加費がたった五百円で、美味しいものをタラフク食べれるという徹の言葉に屈したのであった。しかしそこで見たものは、ミノルの脆く壊れやすい心に、人間不信やら、人間恐怖といった種を植え込むのに十分であった。まず、早稲田通りにある居酒屋で行われた一次会では、酔った五年生の小久保という男が、服を全部脱いで、わざわざこの日のために締めてきた褌をひらひらさせ、なんとも奇妙な踊りを踊ってみせた。それは他の新入生には大うけであったが、ミノルには興ざめであった。しかも小久保は、踊りながら『タイタニック』のテーマ・ソングを可愛らしげに歌ったではないか。小久保に負けじと、新入生の中でも、服を脱いでパンツ一枚になるものが続出した。なかには、パンツ姿の男が五、六人束になって、集団でコマネチをやったり、下手なバレーを踊ってみたりしたのである。この勢いは二次会でも続いた。ミノルは多少酔ってもいたし、徹の誘いも執拗だったので、二次会にも参加した。高田馬場駅近くにあるカラオケ・ボックスでは、狂態を晒しながらも、犬が吠えたような大声をあげて、みんな歌を歌った。またも小久保が、うけ狙いで『セーラームーン』を歌ったときの、騒ぎようときたら! それこそ合唱団のごとく、新入生も、先輩や OB も、小久保に合わせて『セーラームーン』を歌ったのであった。もはやミノルには、三次会を御免して家に帰ることはできなくなっていた。徹だけでなく、他の連中のシツコイ誘いを振り切ることができなかったから。あるいは、ミノル自身、ここまで来ては最後まで見なくてならない、と覚悟していたのかもしれない。三次会の会場は、高田馬場駅から少し新宿方面に歩いたところにある、畳敷きの居酒屋であった。ここでミノルは心から戦慄した。サークルの幹事と呼ばれる男が、女性たちが見ている前で、酔いつぶれた男子新入生のパンツをずらし、陰茎の皮を割り箸でむいたのである。この恥を晒された男は、次の日の朝、そのことを聞かされると、「いや、まいった。もう、このサークルで彼女をつくるのは、難しくなったなあ」と平然と言ってのけた。ミノルが愚かであったのは、早大生はみんな、こんな人間だかりだと信じ込んでしまったことである。彼は、早大生の中でも特に変わった連中を見て、早大生は誰もかれも区別なく、こんな奴らなんだ、と早合点をしてしまった。さらには早大生だけでなく、日本の大学生全体、いや、日本人全ては、軽蔑すべき存在だ、狂人同然だ、と思い込んでしまった。
 ミノルは、早く日本を脱出しなくてはならないと焦燥し、大学の授業をサボっては、コンビニやビデオ・レンタル店などで必死になってバイトをした。ウィーンへ「逃亡」するための資金を稼ぐために。三年後、彼はそれを実現した。その頃には、左翼思想の強いサークルの幹事になっていた徹の、執拗な自宅訪問が続いたこともあり、ミノルは激しい被害妄想にも襲われていた。彼が部屋を借りるときに契約した不動産会社には、奈良の実家に帰ると嘘をつき、区役所に引越し届けを出さぬまま、しかも家族にも、友人の誰一人にも告げず、ミノルはウィーンへと旅立ったのであった。


  第二章


 ウィーンへ留学、というよりウィーンへ「逃亡」してきたミノルであったが、なんの準備もせずに外国行きの飛行機に乗るほど、彼は馬鹿ではなかった。ウィーン大学が、外国人のために主催するドイツ語の授業に登録していたし、学生寮も確保していた。ただ、ヴィザは取得してこなかった。日本人はヴィザなしでもオーストリアに六ヶ月間も滞在できるし、六ヶ月経ちそうになったら、近隣の国に行って帰ってくればいいや、と気軽に考えていた。
 ミノルは毎朝、タイガー通りにある学生寮から、第九区内の小さな通りに立つ建物まで歩いていって、そこでドイツ語を習った。ミノルは、やがて全てが落ち着いてきたら、ドイツ語だけでなく、音楽学校でピアノも習おうと考えていた……
 そんなミノルがジョゼ・デ・カマルゴと出会ったのは、ウィーン到着後、一ヶ月ほど月日が流れてからである。
 ミノルのドイツ語の授業はインテンシブ・コースであったため、僅か三週間で終了してしまった。日本でドイツ語文法の基礎をマスターしたと信じていた彼は、この三週間で、ある程度の会話はできるようになるだろうと期待していたが、それがただの甘い考えであることを知った。そこで、三月の頭から六月の終わりにかけて、同じくウィーン大学が主催するセメスター・コースに参加し、ドイツ語に磨きをかけることにした。場所はインテンシブ・コースと同じ建物内であった。ただ、冬期休暇を終えたウィーン大学の学生たちがそろそろウィーンに戻って来るため、ミノルはこれ以上、学生寮に滞在することは許されなくなった。そこで彼は、第十二区にあるコルピング・ハウスという名前のホステルで寝起きすることにした。
 その日は朝から、眩しいばかりの日の光が、どこまでも透き通った群青色の大空からウィーンに降り注いでいた。冬の間中、ウィーンの町を灰色に染めていた雪も、今や全部溶けてしまい、街路樹や公園などに植えられた木々の梢などから、そろそろ春の息吹が聞こえてきそうな、そんな時候であった。
 ミノルは朝の八時に起床し、まだ同じ部屋で眠っているトルコ人に気遣いながら、歯を磨いて、髭をそった。彼はいつものように、ジェルを大量に塗って、癖の悪い髪の毛を整えた。その後、鏡に映るポッチャリとした自分の顔を眺め、よし、と奮い立って、林檎を齧りながら、第九区内の建物に向かった。今日はセメスター・コース初日であった。ミノルは初日が最も嫌いだ。彼はいつも決まって緊張する。しかもイタリア人やら、スロヴェニア人やら、ハンガリー人やら、自分が今まで喋ったこともない人間に囲まれての初日は、なおさら緊張する。そこで彼は、つい臆病風に吹かれがちな自分を鼓舞するために、よし、と言ったのである。
 さて、ミノルが教室に着いたときには、既に室内は生徒たちのザワメキに満ちていた。どうも彼が見渡したところ、日本人はおろか、東洋人らしき者は一人も居ないようであった。彼はいつにも増してヒソヒソと凹型の机の隅に腰を下ろした。とりあえず隣に座っている男に、ミノルは我ながら情けないドイツ語で話しかけた。
 「あの、ここ三○五教室だよね」
 「うん」と言って、振り向いた男の顔を見たとき、ミノルの心臓は物凄い轟音をあげ、今にも破裂しそうな勢いで、脈打ち始めた。この男がジョゼ・デ・カマルゴだったのである。少しばかりカールした金髪は中央で綺麗に分けられていて、青く大きな眼は、それこそ妖艶な光を湛えているかのようであった。ミノルは何よりも、この美しい金色の髪と宝石のような青い眼に心を奪われてしまった。彼が無意識のうちに、何度も唾を飲みこんだのは言うまでもない。
 しかしミノルには、自分がなぜこんなにも凄まじい緊張と興奮に襲わているのか、さっぱり分からなかった。今日がドイツ語の授業の初日だからという理由は、役に立ちそうになかった。ミノルは、日本に居たとき一度たりとも同性愛を体験したことはない。だから彼自身にも、自分がなぜジョゼ・デ・カマルゴを見て、胸をときめかしてしまったのか、見当もつかなかったのである……
 ジョゼ・デ・カマルゴとミノルの会話はそれきり途切れてしまい、やがて頭の禿げた長身の男が教室内に入ってきた。先生であった。先生は生徒に挨拶をすませると、隣のもの同士、ドイツ語で自己紹介しなさいと言った。ミノルは勇気を奮い起こして、再度ジョゼ・デ・カマルゴに話しかけた。
 「やあ」とミノルは言った。
 「やあ」とジョゼ・デ・カマルゴが答えた。
 「君、何ていう名前かな?」とミノル。
 「僕かい。僕はジョゼ・デ・カマルゴ。君は?」とジョゼ・デ・カマルゴ。
 「僕は、野田ミノル」
 「ふううん。ミノル君はどこから来たの?」
 「日本から。それでジョゼ…… 」
 「ジョゼ・デ・カマルゴ。でも、ジョゼでいいよ。ジョゼ・デ・カマルゴじゃ、長いからね」
 「じゃ、ジョゼ君。君はどこから来たの?」
 「ブラジルから。君はクルチバって町を知っているかな?」
 「いや、知らない」
 「クルチバはね、僕の故郷で、ブラジルの南部にある町なんだ。人口約百六十万人で、広くて清潔な公園がいっぱいある」
 「へえ、そうなの。ところで、ジョゼ君は学生かな?」
 「そうだよ。昔、インターネット関係の仕事をしていた時期もあったけど、今は学生。それで、君は?」
 「僕も学生。西洋の歴史を勉強している。ハプスブルク家とかね」
 このように非常に単純な会話が取りとめもなく、だらだらと続いていったが、ミノルがピアノを習っていると言ったとき、変化が起こった。ジョゼ・デ・カマルゴは興奮のためか、顔を赤くし、「本当かい? いや、奇遇だね。僕も音楽をやってるんだ。コンピューター・ミュージックの作曲が僕の専門だ。あと、ギターを少しばかりね。いや、本当に僕たちは運がいい。こうして、音楽を愛するもの同士、音楽とは関係のないドイツ語の授業で出会えたのだから。どうだい、今日の午後、暇があったら、僕の部屋に遊びに来ないかい? ゆっくりと音楽について語り合おうじゃないか」と言った。ミノルの心は躍り上がった。彼は息をするのも精一杯なほど、気分が高揚していたが、何とか心を落ち着けてから、「もちろんだとも!」と答えた。
 さて、ジョゼ・デ・カマルゴの部屋があるマンションは、ドナウ運河とドナウ川に囲まれた第二区内を走るグロッケン通りに、みすぼらしく立っていた。このマンションの管理人は黒服ずくめのユダヤ人らしいのだが、マンション内もまさに、黒服ずくめと形容できるぐらい暗かった。しかも各階の天井の隅には、蜘蛛の巣がはびこり、壁の漆喰に亀裂が走っている箇所さえあった。ジョゼ・デ・カマルゴの部屋はマンションの二階にあった。ミノルはジョゼ・デ・カマルゴの後を追うように、部屋の中に入った。「なんて汚い部屋だろう」、これが部屋にお邪魔をしたミノルの第一印象であった。まず最初に、部屋を入ってすぐのところに備えつけられたキッチン。ここには、みじん切りにされたキャベツやら、玉ねぎの皮やら、卵の殻などがゴミとなって散らばり、微かながらも腐臭をさえ放っていた。もう一、二ヶ月経って暖かくなると、蚊や蝿やらが何百匹と群がってきても、おかしくはなかった。次にキッチンの隣にあった風呂桶だが、これがまた不潔極まりなく、桶の縁には、洗ったときに抜け落ちた髪の毛がたくさんこびりついていた。キッチンを抜けると、大きな居間があった。ここには、家具らしい家具もなく、書籍や衣類が、黒檀のように黒い床の上に雑然と置かれていた。ジョゼ・デ・カマルゴは居間の向こう側にある寝室へ、何かを取りに入っていった。ミノルは黙っていた。彼は口を滑らすことで、ジョゼ・デ・カマルゴの神経に触るようなことはすまい、と黙っていた。
 「ねえ、ミノル君。君はギターを弾くのかな?」
 ジョゼ・デ・カマルゴは寝室から、彼愛用のギターを持ってきて、ミノルにそう尋ねた。
 「いや、弾かない」とミノルは答えた。
 「そうか」と呟いたジョゼ・デ・カマルゴは、窓際にあった籐の椅子に腰を下ろし、「何か、リクエストはないかな?」と言った。
 「リクエスト? うん、そうだね、何がいいだろう?」
 ミノルは、一体ジョゼ君はどのような曲を普段弾くのだろう、クラシック音楽は好きかな……と考えを巡らすあまり、長い間沈黙を続けた。ミノルがあまりに長い間、黙り込んでいたので、ジョゼ・デ・カマルゴの方から提案してきた。
 「ジョアン・ジルベルトは知っているかな?」
 「ああ、ボサノバかい」
 「僕の十八番なんだ」
 ジョゼ・デ・カマルゴは二、三回深呼吸をした後、唇を引き締めて、青い眼をほんの心持ち閉じてから、ギターを弾き始めた……
 「いや、ジョゼ君、やるねえ。なかなかうまいじゃないか」
 「そうか、ありがとう。気に入ってくれて嬉しいよ」
 ジョゼ・デ・カマルゴはギターを籐の椅子の横に立ててから、ちょっと照れくさそうな仕草をした。
 「そうだ、ミノル君。僕と一緒にこの部屋で暮らさないか? 実は僕、ルームメイトを探していたんだ。一人で暮らすより、ルームメイトと一緒の方が楽しいだろうからね。それに実際的な意味から言っても、安上がりだし」
 「もちろんだとも! 僕、ホステルに泊まっていて、部屋を探していたところなんだ」
 「そう、それは良かった。で、いつ、ここに引っ越してくる?」
 「今すぐにでも!」とミノルは欣喜雀躍として答えた。
 「本当? それは…… あ、そうだ、ミノル君。実は八月の頭に、まあ、だいぶ先のことなんだけど、僕の友人のチリ人が三、四人、この部屋に来ることになってるんだ。彼らは人形劇を開きながら、世界中を旅して回ってる、愉快なやつらさ。ただ今は、人形劇をお休みして、スイスのジュネーブにある麻薬関連の工場で肉体労働をしているんだけどね。ミノル君、別に気にしないよね?」
 「もちろんだとも!」とミノルは無邪気に頭を縦に振ったが、心の中では不安であった。麻薬関連の工場で働いている人間なのだから、彼ら自身も中毒患者のように危険な輩かもしれない。でも、まあ、ジョゼ君が友人と呼ぶぐらいだから、大丈夫だろう、とすぐに心の迷いを追い払った。


    ☆


 ミノルがジョゼ・デ・カマルゴと一緒に暮らし始めた最初の三ヶ月間は、ミノルにとって幸福でもあり、同時に或る葛藤に煩悶し、妙にヒステリィックにもなる、そんな時期であった。確かにミノルは、ジョゼ・デ・カマルゴの美貌に一目惚れしてしまったのだから、ジョゼ・デ・カマルゴと一緒に寝起きすることは、彼にとって心からの喜びに違いなかった。しかしミノルには、自分がホモセクシャルだと認めることは、死んでもできなかった。彼の自尊心が、あるいは彼の道徳が、それに反発したのである。そこでミノルはこう考えた。自分はジョゼ・デ・カマルゴを愛しているが、それはホモセクシャリティとは断じて無縁である、なぜなら自分の愛は、友情の究極の形として得られた、至極純粋なものだから。ホモセクシャルとは、同性の人間と肉体的な快楽を堪能する者のことで、自分はジョゼ・デ・カマルゴとは一切、肉体的な関係は持たない。いや、持ってはならない、と。ミノルにとって幸運だったのは(あるいは不運?)、ジョゼ・デ・カマルゴがその道の男ではなかったことだ。彼はあくまでミノルのことを、ルームメイトと考え、性的な関係を持とうとはしなかった。
 とにかく、良くも悪くもミノルは、ジョゼ・デ・カマルゴという格好の遊び仲間ができ、一人では家にこもりがちだったはずの彼も、レオポルド山にハイキングに行ったり、新ドナウ川に水泳しに行ったり、プラターの大観覧車に乗りに行ったりできたのである。冒頭の写真は、この時期に撮られた。ミノルはジョゼ・デ・カマルゴとお金を半分づつ出し合って、デジカメを買ったのだった。
 さて、ここにジョゼ・デ・カマルゴの人生を少しばかり浮き彫りにしてくれる挿話がある。それは六月の上旬に、ミノルがジョゼ・デ・カマルゴと新ドナウ川に泳ぎに行ったときのことであった。その日は、ジョゼ・デ・カマルゴが心待ちにしていた、二○○二年サッカーワールドカップのブラジル戦がなかったこともあり、また、雲ひとつない爽快な天候に恵まれたこともあり、ミノルとジョゼ・デ・カマルゴは新ドナウ川に向かった。ミノルは、ほとんどカナヅチ同然だったが、水につかることは好きであった。彼らはプラター近くにある駅から地下鉄に乗り、ドナウインゼル(ドナウ川と新ドナウ川に挟まれた中洲のこと)と呼ばれる駅で下車した。新ドナウ川の自然の水泳場は、ここから十五分ほど歩いたところにあった。
 「ねえ、ミノル君。見たかい、赤シャツの女を。ほら、僕たちのすぐ横で新聞を読んでいたお姉さんを」
 ジョゼ・デ・カマルゴは地下鉄を下りると、ミノルが着ていたシャツの裾をひっぱり、囁いた。
 「ああ、見たよ。あの赤シャツのお姉さんだろ」
 「美人だったと思わないか?」
 「うん、確かに、美人だったね。でもちょっと化粧が濃かったかな」
 「なあに、化粧が濃いのはいい印さ。売春婦かもしれないからね。それにしても美人だったなあ」
 「ジョゼ君、その、君はいつも女のことばかり考えているね」
 「うん、そうなんだ。これが僕の悪い癖なんだ。でも僕は、女なしには生きていけないんだ」
 ジョゼ・デ・カマルゴはここで口を閉ざした。彼はその後、何も言わなくなった。黙然としたまま、ミノルたちは新ドナウ川沿いの捩れた道を、せっせと歩いた。すぐに、葉叢を揉む木立がたくさん立つ水泳場に着いた。ジョゼ・デ・カマルゴは何の迷いもなく丸裸になって、水着を穿き、新ドナウ川の中に飛び込んだ。一方、ミノルはぐずぐずしていた。ミノルの背後にある菩提樹の木の下で、仰向けになって寝転んでいる女性が二人ばかりいたから。彼は、脂肪でブヨブヨした醜い腹を彼女たちに見られるのが恥ずかしかった。もちろん彼のお粗末な陰茎も。それでも何とか、彼女たちに尻を向けながら、裸になって、水着を穿いた。ミノルはクスクスという笑い声を聞くと、茹でた蛸のように赤くなった。もう既にジョゼ・デ・カマルゴは向こう岸近くまで泳いで行ったらしく、姿は見えなかった……
 新ドナウ川での水泳は二、三十分で終わった。ミノルは岸辺近くで、バタバタしていただけであったが、十分満足した。ミノルが岸に上がった時には、菩提樹の木の下で寝転がっていた女たちは姿を消していた。ミノルはほっと溜息をついて、水着を脱いだ。ジョゼ・デ・カマルゴも、向こう岸まで泳いでは引き返す、というハードな運動を何度か繰り返したため、多少疲れた様子を見せながら、普段着に着替えた。その後、ミノルは新ドナウ川を背景にしたジョゼ・デ・カマルゴの写真を何枚か撮った。彼は、煙草を吸っているところを撮ってくれと頼んだ。ジョゼ・デ・カマルゴもミノルの写真を何枚か撮った……
 新ドナウ川での水泳が終わり、もと来た道を反対方向に歩いていたとき、突然ジョゼ・デ・カマルゴは潅木の隙間から見える女性を指差した。ジョゼ・デ・カマルゴはなぜか悲しそうであった。
 「ミノル君。あの女が見えるかな? あの黒髪の女さ。彼女、僕の妹にそっくりなんだ」
 「そう、ジョゼ君は妹がいたのか」
 「うん、でも僕が十二歳のとき、交通事故で死んじゃったんだけどね。母さんと一緒に」
 これにはミノルもびっくり仰天した。明朗快活で何一つ屈託なさそうに振舞っていたジョゼ・デ・カマルゴの母と妹は、彼が幼いときに交通事故で死んだ!? 本当だろうか? でも、仮に嘘だったとして、そこにどんな得がある?
 「だから僕は、どうしても女性が必要なんだ。いつも傍にいてくれないと寂しくてね。ブラジルに居たときや、ボリビアに旅行したときは、何人か彼女がいたんだけど、ここでは難しいね。外人さんはあまり歓迎されないから。でも、僕はここで音楽を勉強しなくてはいけない。そのために、わざわざウィーンに来たんだから」
 この突然のジョゼ・デ・カマルゴの告白は、ミノルの心を打った。ミノルはこのとき、ジョゼ・デ・カマルゴとの友情が、以前よりも遥かに深まった気がした。


  第三章


 チリ人たちは、ブラジルがワールドカップを制覇してから約一ヵ月経った八月二日の夜に、ウィーンへやって来た。彼らがミノルたちの部屋に到着したのは夜中の二時過ぎであった。彼ら所有のワゴン車を運転して、スイスのジュネーブからウィーンへ休むことなく飛ばしてきたのであったが、彼らは疲れを知らなかった。車を下りて、マンションの前まで迎えに来たジョゼ・デ・カマルゴの顔を見るや否や、雪崩の如く、留まることを知らず喋りまくり、マンションに入ってからも、これっぽっちも周囲を気にすることなしに口を動かした。ミノルは、チリ人たちが部屋に到着したとき、ジョゼ・デ・カマルゴが寝起きするロフト・ベットの下の押入れ部屋みたいなところで、寝息を立てて眠っていたが、あまりの喧騒に目を覚ました。何度も寝返りを打っては、「うるさい」と通じもしない日本語で小言を言ったが、効果はなかった。チリ人たちは、ジョゼ・デ・カマルゴを仲間に一時間近く喋り続けた後、漸く静かになった。
 その日、ミノルは奇妙な夢を見た。ミノルは、夏の太陽が空の下に沈もうとして、紅の光を四方八方に放ち始めた時刻、靖国神社の境内にいた。ちょうどそこは、第一の鳥居と青銅製の第二の鳥居の真ん中あたりの参道で、有名な大村益次郎の像が、三條実美の銘文が彫られた台座の上に立っているのが見えた。さっきまでミノルは、幼馴染みのキリナちゃんと一緒に遊んでいたはずだが、キリナちゃんはいつの間にか居なくなっていた。ミノルはただ意味もなく、大村益次郎の袴姿をぼおっと眺めていた。太陽が空の下に沈んだ。あたりは闇に覆われ始めた。
 ちょうどそのときである。いままで、超然と台座の上で空を見つめていた大村益次郎が、突然太刀を抜いた。彼が抜いた太刀は、月の光を反射させて鈍く光った。呆気に取られていたミノルに構うことなしに、大村益次郎は台座から飛び上がり、地面に着地した。銀杏の葉っぱが、突然吹いた風に運ばれてきて、ミノルの髪の上に落ちた。
 大村益次郎は太刀の鋭い刃をミノルの首筋に当てた。ミノルは金縛りに襲われていたため、身動き一つできなかった。ただなぜか、目だけは動かすことができた。ミノルは恐怖を噛み締めながら、大村益次郎を見た。だが、大村益次郎はもはや大村益次郎ではなかった。上野彰義隊の戦争を江戸城本丸から指揮した大村益次郎とやらの顔はどこにもなかった。彼の頭部からは金色の髪が生えていた。眼は青かった。どうもジョゼ・デ・カマルゴらしかった。ジョゼ・デ・カマルゴは、自分は母親と妹を幼い時に失った、だからとても寂しい、この寂しさで自分は死んでしまいそうだ、頼む、君と性交することで、この寂しさを忘れたい、と懇願した。声はキリナちゃんの声であった。ミノルは最初、「はい」と言いかけたが、ジョゼ・デ・カマルゴが男であることを思い出し慄然とした。ミノルの全身から冷や汗がどっと噴き出してきた。ミノルは苦しくて堪らなくなった。ミノルが、もうだめだ、自分はジョゼ君と性交しないといけない、と思ったとき、彼は目を覚ました……
 「ジョゼ、ジョゼ、日本人が目を覚ましたぞ」
 ミノルが寝ぼけ眼で居間に入っていくと、窓際で煙草のようなものを吸っていたマッチョな男が、大声をあげた。このマッチョは、開襟シャツのボタンを全部開けっぱなしにして、筋肉の上に蔓延る胸毛をこれ見よがしに開放していた。
 「お、ようやく眼を覚ましたか。いや、ミノル君はよく眠るね」
 ジョゼ・デ・カマルゴがキッチンから姿を見せた。彼の髪は、いつの間にかスポーツマンのように短くカットされていた。
 「紹介するよ。彼がマネージャーのパブロ」
 窓際のマッチョのこと。
 「彼がラファエル」
 窓と反対側の壁の前に寝袋を敷いて、その上で胡坐を組みながらポルノ雑誌を読んでいた男のこと。白人だが日に焼けていたため、顔は浅黒く、すらりとした体つきの男であった。容貌から推察して二十五、六歳であろう。
 「彼女がエレン」
 エレンと呼ばれた女が、キッチンから顔を出した。小ぶりだがプリンとした胸は魅力的で、ウエストも引き締まり、細長い足は男性の賛嘆の的になること間違いなしだが、惜しいことに、目や唇の周りが皺だらけであった。生まれながらの顔立ちは悪くなかったのだろうが、この多すぎる皺が、すべてを台無しにしていた。
 「今、エレンと僕が朝食兼昼食の準備をしているところなんだ。ミノル君、それまで…… そうだパブロ。まだ、例のものあるだろ。この日本人に一本分けてやってくれないか?」
 ジョゼ・デ・カマルゴは、普段このチリ人の来客と話すときはスペイン語を使うのだが、今回はミノルが理解できるように英語で言った。
 パブロは口に咥えていた煙草らしきものを指先で摘み、胸毛をボリボリと掻きながら、ジョゼ・デ・カマルゴとアイコンタクトを交した。ジョゼ・デ・カマルゴは「ああ」と言って頷いた。するとパブロはラファエルの脇に置かれていた皮の鞄の中から、煙草よりも少し大きめな深緑色の物体を取り出した。それはパブロ自身が、ちょうど今まで吸っていたものと同一のものらしかった。
 「さあ、日本人君。確かミノル君でよかったよな? これは僕たちがスイスからお土産代わりに持ってきたものなんだ。試しに吸ってごらんよ」
 パブロは半ズボンの下から覗く脛毛を何度か掻いてから、ミノルの口に深緑色の物体を咥えさせ、ライターで火をつけようとした。
 「ちょっと待って。これ、危険なものじゃないよね?」
 ミノルは慌てふためいた。自分の知らない人間に、自分の知らない変なものを、突然口に咥えさせられ、吸わされようとしている。しかもミノルは、パブロの目の焦点が合っていないことに、ふと気づいた。これは何か、やばいものに間違いない。彼は震える指先で深緑色の物体を摘みあげ、ヒステリックな声で叫んだ。
 「ねえ、ジョゼ君。教えてよ。これが何なのか、はっきりと。そうじゃないと、僕、吸いたくない」
 ジョゼ・デ・カマルゴは意味ありげに、ほくそ笑んだ。しかし何も答えなかった。すると、今まで黙然とポルノ雑誌を読んでいたラファエルが澄ました顔で、「なに、ただのマリワナさ」と言った。
 「げ、マリワナ!?」
 「ははは、これだから日本人は面白いと思わないか? マリワナという言葉を聞いただけで、ヒステリックに取り乱しちゃって」
 ジョゼ・デ・カマルゴは腹を抱えて笑い始めた。パブロとラファエルも笑った。エレンが俎板の上で野菜を切るのをやめて、ジョゼ・デ・カマルゴの背後から姿を見せた。
 「ねえ、ミノル君でよかったわね? ほら、吸ってみなさいよ。別にあなたが思っているほど危険なものじゃないわよ」
 エレンの声は優しかった。ミノルは今まで、女性のこんな優しい声を聞いたことはなかった。ミノルはつい照れてしまった。彼は同性のジョゼ・デ・カマルゴに恋をしていたが、女性にも案外弱かったのである。しかもエレンのすらりと伸びた足が、デニムのズボンにぴったりと張りつき、エロティックな曲線を描いているのを目にしたときには、ゴクリと唾を飲んでしまった。
 「いや、僕は、その、吸いたくないなあ」とミノルは、か細い声で言った。
 「ははは、よせよせ。日本人はみんな臆病者だから、だめさ。いくら口説いても、何の効果もないよ」
 ジョゼ・デ・カマルゴはマンション全体に鳴り響くような大声で笑った。ミノルはひどく腹が立った。
 「そうなの? 吸いたくないの?」
 エレンの濡れた黒い眼に見つめられたミノルは、マリワナを口に咥えなおした。その後、パブロに火をつけるように、指で合図をした。ミノルは自暴自棄になっていた。「どうにでもなれ」と胸中で咆哮しながら、彼はマリワナを吸った。マリワナの澱んだ煙がミノルの肺に容赦なく侵入してきた。あまりの気持ち悪さに、ミノルは胃の中のものを全部吐き出しそうになった。だが徐々にマリワナの煙にも慣れてくると、気持ちよくなってきた。意識が朦朧とし、なにもかもが、気だるく感じられた……
 やがて、エレンとジョゼ・デ・カマルゴが料理を居間に運んできた。椅子を二脚並べて、その上に洗ったまな板を乗せて作った食卓に、こんがりといい色に焼けた鶏肉を乗せた皿と、野菜たっぷりの、少しカレー風味をきかせたスープを入れた碗が乱雑に置かれた。ポルノ雑誌を読むのをやめたラファエルが碗に手を伸ばした。みんなラファエルに見習って、料理に手をつけ始めた。ミノルは最初、ひどく気だるく、料理を食べたくなかったが、それも失礼かと思い、鶏肉に齧りついた。鶏肉は塩コショウがよくきいていて、美味かった。ミノルは結局、むしゃむしゃと全部平らげてしまった……
 その日は、とても活動的な一日だった。朝食兼昼食を食べ終えたミノルたちは、チリ人のワゴン車に乗って、ウィーンの名所を見て回った。まず最初に彼らが訪れたのは、第一区のど真ん中に立つシュテファン大聖堂であった。大聖堂は十二世紀にロマネスク様式にて建築されたのが、後にゴッシク様式にて再建されたため、ロマネスク時代の面影はほとんどない。ただ、リーゼン門と呼ばれる大聖堂の入り口はロマネスク様式のままである。ミノルたちは、このどでかいリーゼン門から大聖堂の中に入った。大聖堂の中は薄暗く、静粛な雰囲気が漂っていた。チリ人たちは、大聖堂の内部を何枚か写真に撮ると、五分も経たないうちに外に出た。ジョゼ・デ・カマルゴとミノルも彼らの後を追って外に出た。この後、ミノルたちはジョゼ・デ・カマルゴの提案で百三十六メートルもの高さを誇る大聖堂の南塔に上った。この日は、どんよりとした雲が空一面に立ちこめていて、ウィーンの町を俯瞰するには絶好の条件ではなかったが、それでも南塔から見下ろしたウィーンは、やはり芸術の町ウィーンに相応しく美しかった。南塔から下りて、大聖堂を後にしたミノルたちは、チリ人のワゴン車には戻らず、近くにあるホッフブルク王宮を見物しに行った。王宮の北東側にある入り口に、ミヒャエル広場と呼ばれる広場があり、ここにローマ帝国時代の遺跡がある。パブロはこのローマ帝国時代の遺跡に興味を覚えたらしかった。そこでミノルは、彼のありったけの知識を披露して、これはヴィンドボナと呼ばれるローマ帝国時代の駐屯地の跡で、北方の蛮族の侵入を妨げるために創設されたのだ、などとパブロに説明した。ミノルは話している最中、パブロと気が合うことを発見した。パブロは脛毛を掻きながらも、優しい笑みを浮かべることだけは忘れなかった。
 このホッフブルク王宮見物も、約三十分後に終了し、ワゴン車に乗り込んだミノルたちは、とにかく色んなところを見た。最後に彼らは、ブルク劇場に足を運んだ。チリ人たちは、どうもこのブルク劇場の脇で、人形劇を開きたいらしかった。こんなところで、いきなり劇を始めて、果たして客が集まってくるのかな、とミノルには疑問であった。ところがミノルのそんな考えをせせら笑うかのように、五十人近くもの観客が、舞台を準備している段階で、群がり始めたのである。その日は恒例の映画祭がブルク劇場の前の市庁舎公園で行われていたため、映画祭を楽しみにきた若者や、子供づれの家族たちが、チリ人が準備する人形劇の舞台に好奇心をかきたてられたためだ。
 マネージャーのパブロをはじめ、チリ人たちがゆっくりながらも手際よく舞台を整え終えると、ラファエルが観客に、一言二言、自己紹介の挨拶をした。その後すぐに、拡声器からロック音楽が流れ始めた。ミノルはこのチリ人たちの人形劇を見て、胸を打たれた。特に彼はラファエルのことを、ポルノ雑誌を読むことしか能のない人間と軽蔑していたのだが、人形を巧みに操る彼は、なんて真面目な顔つきをしていたことか! しかも彼ら、エレンとラファエルによって、生命を吹きこまれた人形たちが、舞台の上で踊ったり歌ったりしているのに感銘し、観客は惜しむことなく拍手を浴びせかけたのである。チリ人たちはこの日、日本円にして二万円も稼いだらしかった。
 「ミノル君。向こうでバレーを見たくないか?」
 人形劇が一通り終了し、ラファエルたちが同じ場所で、もう一度同じものを繰り返し披露し始めた頃、パブロがミノルに声をかけた。ミノルも市庁舎公園から流れてくるチャイコフスキーの音楽が気になっていた。そこでミノルは、パブロと二人で――ジョゼ・デ・カマルゴはとっくの昔に、疲れたと言って帰宅していた――、人形劇の観客の群れから抜けだし、市庁舎公園に向かった。
 ミノルはこのとき既に、漠然とパブロに対して友情のようなものを感じていた。それは、ジョゼ・デ・カマルゴに対する恋愛感情とは少し違う、心の作用であった。パブロは、ジョゼ・デ・カマルゴとは比べものにならないほど醜い。ミノルが公園内の屋台で鉄板焼きを買ったとき、屋台の照明に照らされたパブロの顔を見れば、それは一目瞭然である。しかしミノルはパブロのことを、好きだな、と思った。男同士、本当の意味で純粋に好きだな と思った。
 ミノルはチャイコフスキーの音楽に合わせて、スクリーンの上で優雅に踊り続けるダンサーを見ながら、パブロは本当にいいやつだ、とも思った。
 バレーが終了し、ミノルたちは、ラファエルとエレンに合流するべく、人形劇の舞台の方に歩き始めた。ミノルはバレーに大満足だった。ミノルと同じく、クラシック音楽好きのパブロも満足げに見えた。彼は胸毛を掻きながらも、チャイコフスキーの音楽を口笛で吹いていたぐらいだ。そんなパブロが、ふと囁くように、「チリに来たときはいつでも、僕の家によってくれ」と言った。
 ミノルは心から喜んだ。そっか、パブロも自分のことを友達と思ってくれているのか、と思った。
 しかしミノルの喜びは一種のぬか喜びだった。後日ミノルは、パブロが本物のホモセクシャルだと聞かされた。彼はあまりの驚きに呆然とし、声さえ出なかった。


  第四章


 チリ人たちがウィーンに来てからちょうど一週間後、ミノルたちは例のワゴン車に乗って、ソプロンという町に日帰り旅行をした。ソプロンはハンガリー西部にある町で、オーストリアとの国境沿いに位置し、作曲家フランツ・リストの出生地として有名である。
 チリ人たちはジュネーブからウィーンに来たとき、マリワナを車に積んでいたらしいのだが、この日までに全部吸い尽くしていた。ただミノルはそのことを知らずにいたので、オーストリアとハンガリーの国境で待機している警官に、マリワナを嗅ぎあてられはしないかと、緊張しつづけであった。万が一、ワゴン車内にマリワナがあることが発見されでもしたら、ミノルは牢獄行きである。ミノルが緊張するのも無理はない。
 しかしミノルの緊張も、ありがたい取りこし苦労に終わり、彼らは難なくハンガリーに入国できた。ミノルは安堵のため息をつきながら、あくまで陽気なジョゼ・デ・カマルゴやチリ人たちと一緒にソプロンを散策した。
 「ねえ、ミノル君。ジョゼから聞いたよ。君、ピアノを習っているんだって?」
 サングラスに赤シャツのパブロが、いつものように胸毛を掻きながら尋ねてきた。ミノルはまだ、パブロが本物のホモセクシャルだとは知らなかったので、これっぽちも警戒することなしに、「うん、そうなんだ」と答えた。
 「でも今はちょっと休憩しているんだけどね。いずれまた、習い始めることは間違いない」
 「ふううん、そっか。いや、実は僕も一昔前にね、音楽学校で声楽を四、五年習ったんだ。コーラスなんかに積極的に参加していた時期もあったんだよ」
 「へえ、そうなの。それでパブロはバリトンかな、それともテノール?」
 「僕はテノールだ」
 ミノルは思わず吹きだしそうになった。正装したパブロが、筋肉隆々とした体をぴんと張り、テノールの高い、謂わば女性っぽい声で、シューベルトの『アヴェ・マリア』なんかを歌っている光景を想像したためである。もちろん、息を吸うたびに胸毛を掻きながら……
 「本当かな?」
 「うん、本当さ。ただこの二、三年、マリワナを吸いすぎたため、ガラガラ声になっちゃってね。ハハハ、昔はドミンゴのように、いい声が出たんだけどなあ。でもね、スイスでの仕事が一段落ついたら、サンティアゴに帰って、また声楽を勉強しようと思ってるんだ。コーラスにも…… おや、ミノル君。ラファエルたち、レストランに入った行ったみたいだぞ。僕たちに声もかけないで、自分勝手な奴らだ。さあ、走ろう。食事に遅れたら、大変だ」
 パブロとミノルは全速力で石敷きの歩道を走り、ラファエルたちが入っていったレストランの前に着いた。パブロがミノルのために扉を開けた。
 レストランは、ホイリゲを想起させるような木作りの店で、ほのぼのとした雰囲気が漂い、小さいながらもクレマチスやインパチェンスが咲いた中庭があった。ジョゼ・デ・カマルゴたちは、この中庭に置かれたテーブルに陣取っていた。テーブルの上には、薔薇の造花が置かれていて、ジョゼ・デ・カマルゴはこの造花の花弁をいじくりまわしていた。ラファエルは便所にでも行ったのか、姿は見えなかった。
 「やあ、やっと来たか。僕たちはもう料理を注文したよ」
 ジョゼ・デ・カマルゴは何一つ悪びれた様子もなく、快活に言った。ミノルはジョゼ・デ・カマルゴの隣に腰を下ろし――パブロはエレンの隣に座った――、ウェイトレスに、豚肉のクリームソース煮を注文した。
 「いや、実はね。今までエレンと話していたんだけど……」
 ジョゼ・デ・カマルゴは、本当に愉快そうに、何一つ罪悪感を感じないといった様子で、こう続けた。
 「僕たち、今度爆弾を作ることにしたんだ。僕、クルチバにいたとき色々な爆弾を作って――コンピューター・ウィルスもだけど――、遊んだことがあるから、今回の爆弾作りも、なあに、造作もないことさ。こんなこともあろうかと、ちゃんと準備よくブラジルから、必要なものを持ってきておいたしね。おいおい、勘違いしないでくれよ。別に僕たちは、この爆弾でもって悪いことを企んでいるわけじゃないんだ。ただ、僕とエレンにとって犬猿の仲ともいえる、ネオ・ナチスどもを懲らしめてやろうと思ってね。僕はウィーンのケルントナー通りに、ネオ・ナチスどもが決まって集まるディスコを、インターネットで突きとめたんだ。君は、ネオ・ナチスどもが、どれだけ非情な犯罪を平然とやってのけているか知っているか? 僕は、あいつらが、堪らなく嫌いだ。一度、がつんと思い知らせてやらなくては、気がすまない。といっても、僕たちが作ろうとしている爆弾は殺傷能力のあるやつじゃないんだ。ただ、鼻水やら、涙やらを大量に誘発させる効果のあるものでしかない。僕たちだって、あんなくだらない連中のために、わざわざ刑務所に入れられたくないからね」
 ジョゼ・デ・カマルゴは自分の言葉に酔ったような口調で話した。彼は話し終えた後も、未だ興奮が醒めていないかのように、ハアハアと荒い呼吸を繰り返した。
 ミノルは、このジョゼ・デ・カマルゴの計画を聞いたとき、そこにレィアリィティを見出せなかった。何か、映画の中で起こりそうな出来事だ、と思った。エレンにしろ、パブロにしろ、ジョゼ・デ・カマルゴの話を興味深く聞き、相槌を打ったり、愛想笑いを浮かべたりしてはいたが、それが将来、実際に起こるものとして傾聴している、といった風には見えなかった。
 さて、ちょうどジョゼ・デ・カマルゴが彼の計画を話し終えたとき、ラファエルが便所から戻ってきた。ラファエルは、店内に流れるヴェルディのオペラに合わせて、よく素人がオペラ歌手を真似たときにするみたいに、腹を奇妙に震わせながら、蛙が呻いたような歌声を発した。このラファエルのひどい歌声が、パブロの癪に障ったらしかった――もともとパブロとラファエルは仲がよくなかった――。
 「やめろ、下手糞。おまえのひどい歌声を聴いていると、むかむかする」
 ラファエルは、パブロの悪評を聞くと、皮肉めいた笑みを浮かべ、「ふん。俺はただ、どこかのホモセクシャルの真似をしただけで、別に真剣に歌ったわけじゃない。いやいやこれは失礼しました。女の嬌声で歌を歌うどこかのホモセクシャルを怒らせてしまったようで」と言った。
 「ふん、お前にはテノールの価値がわからんのさ。男性の高音がどれだけ貴重かということをな」
 「いや俺には分からんね。ベットの中で他の男に抱かれて、ああん、ああん、っていう、男の高音がどれだけ貴重かは」
 これらの会話はスペイン語で行われた。南米の人間らしい、率直極まりないものであった。エレンとジョゼ・デ・カマルゴは、このパブロとラファエルの会話を楽しんでいたようであったが、ミノルには理解できなかった。ミノルはスペイン語の「私」という単語さえ知らなかったから。ただ、「ホモセクシャル」や「テノール」という言葉は聞き取れた。
 パブロとラファエルはそれっきり口喧嘩をやめて、運ばれてきた料理を食べ始めた。他の者も、黙々と料理を食べた。
 やがてジョゼ・デ・カマルゴが、ハンガリー人は、ゲルマン系のオーストリア人に比べると、美人が多いなどと言って話の口火を切った。するとみんな、パブロとラファエルの口喧嘩なんか忘れたように喋り、笑った。当のパブロとラファエルも忘れたようであった。唯一、ミノルだけは忘れることができなかった。魚の骨が喉に引っかかったような気分であった。パブロとラファエルの口喧嘩の内容を明白に知るまでは、骨は喉に引っかかったままで、なかなか離れようとはしなかった。
 ミノルは後日、このパブロとラファエルの口喧嘩の内容を詳しく知ろうと、ジョゼ・デ・カマルゴに問いただした。彼はそのとき初めて、パブロが本物のホモセクシャルだと知ったのである。


    ☆


 ミノルたちがソプロンからウィーンに戻ってきた次の日の夜、ジョゼ・デ・カマルゴは例の爆弾を作った。プールの殺菌に使われる二酸化塩素の粉末を使用して、化学反応を起こさせるらしい。化学反応が始まれば、一、二分後に爆発が起こり、大量の涙と鼻水を誘発させる効果がある。
 「エレン、準備はできたか?」
 ジョゼ・デ・カマルゴはサングラスと、テニス・プレーヤーが被るような鍔のある帽子で変装していた。キッチンにある鏡と対峙し、変装した自分の姿を様々な角度から眺めていた。
 「うん、私はもう準備できたよ」と返事をしたエレンも、ジョゼ・デ・カマルゴと似たような格好をしていた。彼女は居間で手鏡を覗いていた。もちろんジョゼ・デ・カマルゴたちは、ディスコに向かう道中では、サングラスも帽子もつけて歩く気はない。
 エレンはキッチンにいるジョゼ・デ・カマルゴの方に向かう間際、すぐ横でぼんやりとしているミノルを一瞥した。ミノルは敏感にも、エレンの言わんとすることを察しとった。
 「うん、僕も同行するよ」
 ミノルはエレンと視線が合うと顔を赤らめた。エレンは仲間が一人増えたことを、無邪気に喜んでいるみたいだった。
 「本当? じゃあ、もう一つサングラスがいるわね」
 「いや、いらない。僕はディスコまでは同行するけど、すぐその後、帰るつもりだから」
 「そうなの」と言ってエレンは、ジョゼ・デ・カマルゴが居るキッチンに入っていった。ミノルは、デニムのズボンを穿いたエレンの尻が、官能的に盛り上げっているのを見て、再度顔を赤らめた。
 「じゃあ、ミノル君。そろそろ出発しようか」
 ジョゼ・デ・カマルゴがそう合図すると、ミノルたちは部屋を出た。このネオ・ナチス討伐とでも呼べる計画を実行する戦士たちは、ミノルを含めた三人だけであった――もちろんミノルは、最後までジョゼ・デ・カマルゴたちと一緒にいる気はなかったが――。放蕩者のラファエルは売春宿に行ったらしく、パブロはゲイ・チャットで知り合った同属のものとデートをエンジョイしているようであった。
 その日は満月であった。空は晴れていたため、雲に煩わされることなく皓皓と照る月に見下ろされた町中を、ミノルたちは歩いていった。ケルントナー通りには、地下鉄に乗れば早く着くはずであるが、彼らはわざと徒歩で行くことを選んだ。途中、シュベーデン広場でピザを買って腹ごしらえをした。ミノルはジョゼ・デ・カマルゴがエレンと話す語気から、彼がいつにも増して意気高揚していることに気づいた。ミノルには、ついさっきまで、ディスコに爆弾を仕掛けるということが一体どういうことなのか、はっきりと把握できていなかった。それは映画の中でしか起こらないもの、というイメージがあったからだ。しかし、徐々にウィーンの中心街を走るケルントナー通りに近づくにつれて、背筋に悪寒の走るほどの恐怖感に襲われ始めた。自分はこれから、ひどく危険なことに巻き込まれようとしているのではないか、と思い、小便がちびりそうになった。そこで彼は、シュテファン大聖堂を通り越したあたりで、ジョゼ・デ・カマルゴたちに、「あ、そうだ。市庁舎公園で放映される今日のコンサートで、パヴァロティが歌うことを思い出した。ジョゼ君、本当にすまない。僕はパヴァロティの大ファンで、どうしてもこれは見逃せそうにない」と言って彼らと別れ、ケルントナー通りに入らず、右側のグラーベンの方に折れた。ホッフブルク王宮内を通り、市庁舎公園に向かう途中、ミノルは陰鬱な気分であった。ジョゼ君は今頃、自分のことを臆病者呼ばわりしているに違いない、と想像を巡らしていたからだ。ミノルは、以前ジョゼ・デ・カマルゴが、「ははは、よせよせ。日本人はみんな臆病者だから、だめさ。いくら口説いても、何の効果もないよ」と言ったことを思い出してもいた。
 ミノルが憂鬱ながらも、左手に新王宮が立つヘルデン広場を抜けると、パヴァロティの美声が、ウィーンを吹く風に運ばれて、聞こえてきた。今日放映されるコンサートでは、実際パヴァロティが歌っていたのである。ミノルはジョゼ・デ・カマルゴたちに、全くの出鱈目を言ったわけではなかった。
 パヴァロティの美声を耳にすると、ミノルの心は少しばかり軽くなった。市庁舎公園には、相変わらず、蟻の大群さながら膨大な数の人が集まっていたが、ミノルは幸運にも、スクリーンの前に並べられた椅子の中から空いたものを見つけ、そこに座った。コンサートが終わる頃には、彼の陰鬱な気分とやらは、全部どこかに吹き飛んでいた。彼は来たときとは全く逆の、晴れ晴れとした気分で家路に着いた……
 ミノルにとって不幸だったのは、彼がまさに絶好のタイミングで、グロッケン通りに立つ彼のマンションに着いたことである。
 ミノルは気分爽快に、鼻歌を歌いながら階段を上り、彼の部屋の前に着いた。突然、彼の心は嫌な予感に襲われた。それは、何とも得たいの知れないもので、ミノルはこのような予感に襲われたことはかつてなかった。彼は、オドオドとしながら、真鍮のノブを?み、ゆっくりと扉を開いた。
 ミノルはこのとき、生まれて初めて女が性交しているときにあげる嬌声を、ナマで聞いた。女の喘ぎ声は、寝室の方から連続的に聞こえてきた。ミノルはすべてを了解した。彼は震える指先で、ノブを引っ張り、扉を閉めた。その後、忍び足でマンションの外に出た。
「ああ、ジョゼ君。君というやつは……」
 ジョゼ・デ・カマルゴはエレンを愛していない。エレンもまたジョゼ・デ・カマルゴを愛していないだろう。彼らはただ肉体の欲求に従って、交わったのである。ミノルには何もかもが不潔に思えた。同時に敗北感を感じた。彼が夢想していた純粋な愛は、肉体の快楽の前に倒れた。ミノルは、自分がジョゼ・デ・カマルゴに純粋な愛を感じているのだから、ジョゼ・デ・カマルゴは必ずや、その愛に応えてくれるだろう、と勝手な希望を抱いていたのである。ただ、この愛は至極純粋なものでなくてはならない。そうでなければ、自分もジョゼ・デ・カマルゴもホモセクシャルと同様の卑しき存在になる。それを防ぐためにも、ジョゼ・デ・カマルゴは性を超えた存在となって、自分の愛に応えてほしい、それはジョゼ・デ・カマルゴが自分と性的な関係を持たないという段階にとどまらず、全ての人間と性的な関係を持たないでほしい、といった利己的な思いを、ミノルは無意識の内に抱いていたのであった。それが、である。ジョゼ・デ・カマルゴはエレンという女性と肉体関係を持ったのみならず、肉体的な欲求から、関係を持った。愛からではなく、肉体的な欲求から。要するに、ジョゼ・デ・カマルゴはミノルがイメージしていたような男ではなかった。ミノルは、ジョゼ・デ・カマルゴのイメージを容赦なく破壊されたことに、またそれと同時に、彼の希望がもはや望みのないものに変わったことに敗北感を感じたのである。


    ☆


 ミノルがジョゼ・デ・カマルゴとエレンの性交の現場を耳にしてから三日後、チリ人たちはウィーンを去った。彼らは再びスイスのジュネーブに戻って、麻薬関連の工場で肉体労働に従事するらしかった。ミノルにとって不意打ちであったのは、ジョゼ・デ・カマルゴも彼らのワゴン車に同乗したことである。彼はチリ人たちと一緒にジュネーブで働くと言った。ちょうどパブロが工場の責任者と交友関係があったため、彼が親切にもウィーンに滞在していたとき、メールでジョゼ・デ・カマルゴが工場で働けるかどうか、その友人に問い合わせたところ、 O.K ということになったらしい。このためミノルは、どでかく汚れた部屋に一人取り残される格好になった。彼は呆然としながら時を過ごした。
 さらに一週間後、オーストリア銀行からジョゼ・デ・カマルゴ宛てに手紙が届いた。ミノルは、好奇心から封筒を破いて、手紙を読むと、なんとジョゼ・デ・カマルゴは銀行から多額の借金をしているというではないか。ミノルが来たときから部屋にあったコンピューターやテレビは、どうもこの借金で買ったものらしかった。されにミノルに追い討ちをかけるように、机の引き出しから、家賃の振込用紙が何枚も見つかった。ジョゼ・デ・カマルゴは、ミノルが来る前は、家賃をほとんど支払っていなかったらしい。
 これらのことを知るとミノルは笑った。心から笑った。いかにもジョゼ君らしいと笑った。彼はその後、溜息をつきながら、ペンを持ち、手紙を認めた。自分は今、ウィーンに居るが、九月の中旬頃にそっちに帰るという旨を、奈良の田舎で生活する両親に書いて速達で送った。ミノルはウィーンに来る前、日本人はみんな狂人だと思っていたが、もはやそんな思いはどこにもなかった。

2003/01/30(Thu)20:12:05秒 公開 / 豊田一郎
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■作者からのメッセージ
 作品は、自分のウィーンでの体験をもとにして書きました。ただ、作品に登場する人物や大学のサークルなどはすべて実在しません。
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