- 『探偵博士』 作者:プリウス / リアル・現代 未分類
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全角4718文字
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原稿用紙約13.15枚
Chapter 01
伊丹加奈子が部屋に入るなり、つんと据えた臭いが鼻を突いた。地下にあるせいか部屋は少しかび臭く、明かりも落としているので部屋は薄暗かった。地下ではあるが、一応外の光を取り込める作りになっていて、窓の上の方は微かに明るい。かび臭いのはいつものことなので慣れっこだったが、今日はその中にアルコールっぽい臭いが混じっているのだ。一瞬、ひょっとしてオリザエとサケのコラボレーションかなどと訳のわからないことを考えたが、元凶を発見するに至りその発想は諦めた。部屋の奥に博士が眠っていたのだ。
博士と言っても別に髭を生やしたおっさんというわけではない。大学院で学ぶごく一般的な若者だ。博士課程に進んでいればまだ博士と呼ばれるに相応しかったかもしれないが、彼は修士課程に進んだばかりの院1年生であった。どうせまた朝まで友人の豊中と飲んでいたのだろう。テーブルの上には加奈子の知らない様々な銘柄のボトルが並べられていた。加奈子の酒に関する知識はごく一般レベルのもので、テレビCMでやっているものなら知っているという程度のものだ。テーブルの上に並べられた瓶はどれも加奈子の記憶に含まれていないものだった。
「おはよう」
いきなり後ろから声をかけられ、加奈子は驚き振り向く。
「わ、わ、びっくりした。なんだ川西君かあ」
「なんだは酷いな。……ててて、ああ頭痛い。もう完全に二日酔い。こりゃ午前中の授業はサボりかなあ」
「サボりって。川西君、けっこうな頻度でサボってるけど、午前の宗教学は必修でしょ。落として来年に持ち越したらめんどくさいよ」
「宗教学なんて経済学に関係ないのになあ。なんでまたキリスト教がどうとか勉強するはめになったんだか」
「そんなのうちがミッション系だからに決まってるじゃない。入る前から分かってたことでしょ。まあ、単にお洒落なイメージだけで来てる人も多そうだけど、それでも宗教を勉強することは悪いことじゃないわよ。日本人にはぴんと来ないところだけど、世界は宗教で回ってるんだから、経済にだって無関係ってことはないわよ」
「そんなもんかなあ」
「そんなもんよ」
そう言って再度の眠りにつこうとするのは川西悠太郎。加奈子と同じ大学1年生で経済学を学んでいる。基本的に覇気の薄い人間で、今で言う「草食系男子」というやつだろうと加奈子は思っていた。牛の身体をした悠太郎が草をむしゃむしゃしているところを想像して笑ってしまう。
彼らのいるこの部屋は漫画研究部の部室である。それなりの数の部員をそろえているため、比較的広めの部屋を確保することが出来ている。ただしそのほとんどは幽霊部員だが。いつでも好きな時に来て漫画が読めるという触れ込みで部員を集め、実際その通りの活動をしている。だから今でもたまに加奈子の知らない人がふらりとやってきて漫画を読んで去っていく。普通、仲間内で固まっているような場所にふらりと立ち寄るのは躊躇するものだが、どうしてかこの場所はそういった堅苦しさを感じさせなかった。
悠太郎もそうした人たちと同様に、気楽に漫画を読んでくつろぐつもりで漫画研究部に入ったのだ。ただ幸か不幸か博士と豊中が飲んでいるところに遭遇し、巻き込まれる形で常連客となってしまった。それに対して加奈子は積極的なタイプの子であった。いわゆるオタクというやつだ。彼女は大学では心理学を学んでいるが、それはとあるアニメの影響だと公言していた。自身も同人誌を作成し、年に何度かの「祭り」には欠かさず参加しているのだという。
「てか悠太郎、寝るんじゃない! 授業開始まであと20分しかないのよ」
「あと20分もあるじゃないか」
「20分、し、か、よ! つべこべ言わないで顔洗ってきなさい」
「うう、母親みたいだ」
「ははは。かなちゃん、勘弁してやってよ。こいつ昨日はしこたま博士に飲まされてたからな。しかもとびきり強い奴を」
入口に三十路は明らかに超えていそうな背の高い男が立っていた。男はテーブルに並んだボトルの一本を抜き出し、加奈子にラベルの裏を見せた。
「あ、豊中先輩。おはようございます。えーっと……、ろ、60度!?」
「こいつはかの鉄の女、マーガレット・サッチャーが好んだと言われるウィスキーだ。さすが鉄の女って感じの味なんだぜ。こいつをせっせと飲まされたんじゃ、次の日にぶっ倒れるのは仕方ないわな」
そう言いながら一緒に飲んでいたはずの豊中はけろりとしていた。豊中は三十路超えの風貌でありながらその実、20歳の大学3年生である。博士とは飲み友達で、いつも部室で色んな種類の酒を試していた。博士はウィスキー以外にあまり興味は無かったが、豊中は幅広く楽しんでいるらしい。
「てか探偵博士はまだ起きないのか。起きてたら頼みたいことがあったんだがな」
「どうせ酔いつぶれてるんですから、何も頼めないと思いますよ。寝起きの悪さは最低ですし、その上そんなに強いお酒を飲んでたんなら今日は午前中に起きるのは無理ですよ。たぶん、夕方くらいまで寝ちゃうんじゃないかな」
「それもそうだな。仕方ないが、話は今夜、酒でも飲みながらするか」
「え、また飲むんですか」
朝まで飲んで夕方まで寝る生活を繰り返してたら確実に死ぬんじゃないだろうか。加奈子は少しだけ心配したが、まあ博士なら大丈夫かという信頼と言えなくもない突き放し気味な結論に落ち着いた。
豊中は「ちょっと早いがバイトに行ってくる」と言って、部室に置いてあったフルフェイスヘルを持って出て行った。レストランの厨房で働いているらしい。
加奈子も悠太郎を見捨てて部屋を出ることにした。
Chapter 02
外に出るとじめっとした空気がまとわりついてきた。加奈子は気象予報士の梅雨明け宣言はガセネタだったんじゃないかと一人訝りつつ、目的のE会館へと向かった。彼女の通う呉羽学院大学は複数の会館に教室が分かれており、宗教学の授業は教会に近いE会館で行われている。敷地内に教会があるというのも驚きだが、なんとそこで結婚式まで出来るらしい。少なからぬ卒業生が大学の教会で式を挙げていた。
教室の中に入ると、ようやく一息つくことが出来た。冷房のひんやりとした空気が心地いい。すでに教室内には学生の姿がちらほらあり、加奈子は見知った顔を見つけて声をかけた。
「あれ、綾羽先輩。おはようございます」
「ええ。おはよう」
応じたのは石橋綾羽。文学部で哲学を専攻している2年生だった。彼女もまた加奈子と同じく漫画研究部に所属している。2年生ではあるが、入部したのは加奈子よりも後だった。たまに部室に顔を出してはお茶を飲んでいるのだが、誰も綾羽が漫画を読んでいるところを見たことがなかった。どうして漫画研究部に入ったのか謎だったが、誰も深く詮索はしなかった。あるいは博士ならば知っているのかもしれない、と加奈子は思った。
「先輩ってもうこのクラスの単位取ってましたよね。今日はまたどうしてここに」
「今日の授業はゾロアスターについてでしょう。去年の講義ではやらなかったところだから、聞いておこうと思って。二元論の象徴たるアフラ・マズダとアンリ・マユ。そもそもどういう性格の神なのかしらね。ツァラトゥストラは何の関係も無いって聞くけど、本当にそうなのかしら。設定として用いた以上、何かしらの影響は受けてしまうものだと思うのだけれど。そういう常識も通じないほどの天才だったのね。ふふふ、楽しいわ」
相変わらず何を言っているのかさっぱりだったので加奈子は「ははぁ」と苦笑いしつつ綾羽の隣に座った。とにかく少しでも自分の付いていけそうな話題にするべく、加奈子は先ほどの部室でのやり取りを投げてみることにした。
「そうだ。綾羽先輩はどう思いますか」
「え。何を?」
「あ、ごめんなさい。えっとですね。さっきちょっと話に出たんですけど、宗教学を学ぶことは経済に関係するかどうかという質問です。私はなんとなく関係あるんじゃないかなって思うんですけど、具体的にどうこうっていうのはよく分からないんですよね。そりゃあクリスマスとかお正月とか、すっごいお金かかったりしますから関係なくはないんでしょうけど。そういうんじゃなくて、もっと密接なかかわり方というか、なんというか」
「曖昧ね」
「ご、ごめんなさい」
一瞬少し怒られたのかと思って加奈子は委縮した。バカな質問をして呆れられたのではと恐れたが、綾羽の柔らかな笑顔を見つけて安堵する。
「あなたの言いたいことはなんとなく分かるわ。そうね。『ベニスの商人』はご存じ?」
「えっと確か、シェイクスピアでしたっけ。読んだことは無いんですけど」
「私も原文は読んだことないわ。読もうと思ったけれど、古典英語って思ったよりも読みにくくて。そうシェイクスピアよ。あの物語は経済と宗教が密接につながっていることを端的に示しているわ」
綾羽は子どもに教え聴かせる母親のように柔らかな口調で話を続けた。
「金貸しのシャイロックが人の臓腑を借金の肩代わりとして奪おうとするの。金を借りた商人は心臓を担保にしていたというわけ。そして悲しいことに借金は返せない事態となってしまって、裁判が起こされてしまう。シャイロックは証文を盾に商人の心臓を抉り出そうとした。そこで有名な判決がなされたわ。心臓を奪うことを許可する。ただし、それ以外の肉、血の一滴たりとも奪うことは許されない、って。とまあここまでがベニスの商人のおおまかな概要ね。ここからが本題よ。シャイロックはユダヤの金貸しで、商人は敬虔なるクリスチャンだったの。当時、ユダヤの金貸しはクリスチャンから嫌われていたの。何故ならあいつらは金利を取るから」
「金利って、あの銀行とかで付く利子みたいな?」
「そう。厳密には銀行で付くのは利息と呼ぶわ。利子と呼ぶのはゆうちょ銀行だけよ。今でこそ金利なんてあって当たり前みたいに思われているけれど、当時は違ったのね。お金を貸して金利を取ることはクリスチャンの間では罪だと考えられてきたの。ユダヤ教にはそういうタブーは無かったから、自由に金利を取ってお金を貸していたのね。金利を取るのだから当然、ユダヤ人はどんどん金持ちになっていく。そうした背景からユダヤ人に対する恨み、妬みが増していったの」
加奈子は初めて聞く話に感心し、また綾羽の博学さに改めて驚いていた。自分と1年しか違わないのに、この差はなんなのだと少しだけ落ち込んだ。
「今ではクリスチャンも気にせず金利を取って稼いでいるわ。むしろ他のどの宗教よりも積極的なんじゃないかしら。世界に名だたる銀行のほとんどは欧米系でしょ」
「そうなんだ。でもやっぱり不思議。金利って当たり前すぎて、それが悪いことだなんて全然思ったことなかった」
「金利を敵視するのはそれほど珍しいことではないでしょう。たぶん、借金をすれば分かるんじゃない? それに、今でもムスリムでは金利のやり取りは固く禁じられているわ」
「え!? そうなの? でも、そんなんで大丈夫なのかな。やっぱり家を買うのにローン組んだりとか、絶対必要じゃない」
「そのあたりは彼らなりの工夫でうまくやっているみたいね。いわゆるムスリム金融というやつよ。そうね。経済と宗教の絡みで語るならムスリム金融の方が、今の時代にあるものだからリアリティがあったかもしれないわね。この話もしましょうか? ああ、そういえばそもそもどうしてこんな話になったのかしら」
「それは部室で悠太郎が寝てて……」
綾羽はすっくと立ち上がり、「今日のノート、後で見せてね」と言って去って行った。
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2012/01/18(Wed)23:19:44 公開 / プリウス
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■作者からのメッセージ
【主要人物】
池田周造(いけだしゅうぞう)
男22歳
私立呉羽学院大学 大学院修士課程1年 情報工学専攻
通称「探偵博士(親しい間柄では「博士」)」
ウィスキーと女をこよなく愛する堕落した人生を送る。
修士課程に進んだのも自身の好奇心ではなく、単なるモラトリアムである。
大学内の漫画研究会に所属しているが、暇な時間に部屋で漫画を読むことが目的である。
探偵博士などと呼ばれることを本人は気に入っていない。
しかしその通称のため、大学内のくだらないいざこざがよく舞い込んでくる。
嫌々ながらも不思議と義理堅いところがあり、なんとかしてやろうとしてしまう。
伊丹加奈子(いたみかなこ)
女18歳
私立呉羽学院大学 文学部1年 心理学専攻
あだ名「かなちゃん」
エヴァンゲリオンに影響されて心理学を学び始めたという生粋のオタク。
自身も同人誌を手掛けるほどで、当然のように漫画研究会に入会し、池田と出会う。
明るく元気な印象を振りまくがその実、人から嫌われることを極度に恐れている。
悩んでいる友人がいれば率先して手を差し伸べるタイプ。
川西悠太郎(かわにしゆうたろう)
男19歳
私立呉羽学院大学 経済学部1年 ファイナンス専攻
あだ名「悠太郎」
1年浪人し、呉羽学院に入学した1年生。
それほど深く考えることなく、楽ができそうなサークルを探して漫画研究会の門を叩いた。
経済学部に入学したのも、一番社会に適合できそうだという印象だけで決めている。
伊丹加奈子のことが気になっているが、積極的にアプローチするほどの勇気が無い。
石橋綾羽(いしばしあやは)
女19歳
私立呉羽学院大学 文学部2年 哲学専攻
あだ名「にーちぇ」
本人はいたって真面目だが、周囲から「変な人」とよく呼ばれる、残念系美人。
話す言葉は難解で、大抵の男は会って30分で彼女に惚れるが、その後30分で諦める。
川西悠太郎とは幼馴染で高校まで一緒だったが、大学で1年間離れ離れになる。
悠太郎が自分と同じ大学に進学してきたことを密かに嬉しく思っている。
豊中浩二(とよなかこうじ)
男20歳
私立呉羽学院大学 理工学部3年 情報工学専攻
あだ名「おっさん」
外見からよく博士課程の院生に間違われるが、れっきとした20歳の大学3年生。
池田周造と一番親しく、ウィスキーを共に飲み交わす仲。
不況の中、就職活動が悩みの種であり、いっそプログラマーとして自主独立しようかと考えている。
交際範囲が広く、後輩からは尊敬されている。
【更新履歴】
Chapter 01 博士爆睡。悠太郎二日酔い。浩二バイト。加奈子諦め。
Chapter 02 加奈子受講。綾羽退散。