- 『ひっぱりあいっこ 改』 作者:のんこ / リアル・現代 恋愛小説
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全角60689文字
容量121378 bytes
原稿用紙約172.6枚
コウとタロウはいとこ同士だった。物静かなコウと明るいタロウは正反対の性格をしていたけれど、なぜは二人は惹かれあい、いつも寄り添っていた。 そんな関係が年を重ねるにつれ少しずつ変わっていく。恋を知らない少女と、恋を隠し続けている少年のお話。
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―コウ―
私とタロウはいとこ同士だった。
しかし、私の家族は父の仕事の都合上北海道で暮らしていたため、東京に住んでいる彼と出会えるのは一年のうち、親戚一同が集合するお盆と年末年始の二回だけだった。
父はもともとは一族一同が暮らしている東京出身であり、高校も大学も都内では割と名のある学校に進学していた。
しかしどうしてか就職先には馴染みのない北海道という地を選んだため、私はどさんことして冬の寒さが厳しい北の大地で暮らしている。
一度父に何故北海道を選んだのか聞いたことがあった。わざわざ国の中心から海を渡った広大な土地に移り住む意味が解らなかったからである。
生半可な覚悟だけでは簡単に決断できない問題であるため、大層な理由があるのだろうと期待していたのだが、父から返ってきたのはあっけらかんとしたものだった。
「高校の修学旅行で北海道に来たんだけどさ。大通公園とか、小樽の運河とかが綺麗だったから。もう一度見たくなったんだ。ジンギスカンも美味しかったし」
私にはそれだけの理由で一生の仕事や永住するであろう土地を選んだ若き頃の父が理解できなかった。
しかしながら父のその気まぐれな考えがなければ父と母は出会っておらず、今頃私はこの世に生まれていなかったのだから文句は言えなかった。
世の中には安易な考えのもとで生きる人間がいるのだなと、そう思うことしかできなかった。
ともあれそう言った理由のもとで私は東京に住むいとこ達とは年にたった2回しか会いに行けなかったわけである。
タロウは父のお兄さんの息子だった。二人は歳が二つ離れているが、タロウと私は同い年だった。
父にはタロウのお父さんの他に二人の姉がおり、どちらも子供がいた。私には父方のいとこだけで7人もいるのである。
母にも一人姉がおり、その姉にも二人の子供が居た。なので北海道、東京と合わせて私には9人のいとこがいることになる。「
しかし同じ市内に暮らしているにもかかわらず、母とその姉は折り合いが悪いため、私は小さな頃からめったに二人のいとこには会えずにいた。最後に顔を合わせたのがいつなのか、もはや思い出せないほど付き合いは薄かった。
なので私の親戚との付き合いはそのほとんどが父方の東京に住む人達だった。
北海道から東京までは遠く、海を渡らなければならない。それに加えて自分の家から空港までの距離や、空港から東京の祖父母の家までもそれぞれ一時間ほどかかるので、私たちは結構な時間を乗り物の中で過ごさなければならなかった。
そのため私は随分小さな頃から長旅にも飛行機には慣れっこになっていた。
しかしながら、いくら慣れたとはいってもさすがに祖父母の家に着くころにはもうクタクタになってしまう。
なので私はすぐにでも横になりたい気分になるのだけれど、先に祖父母の家についていたらしいタロウが、私たちが到着したと聞いてバタバタと足音を鳴らしながら走ってくる姿を見ると、どうにもこうにも横になるという行為を忘れてしまう。
「コウ! 久しぶり!」
そう言いながら私の手を引くタロウは、いつもとてもうれしそうな顔をしていた。それは丁度、子犬が飼い主を見つけて尻尾を振って駆け寄ってくる姿に似ていた。
そしてそんなタロウを見て私は「疲れたから休みたい」なんて言えるわけもなく、彼に手を引かれるまま、荷物をほったらかしにして二階の空き部屋までついていってしまうのだ。
そんな私達を見て、皆は呆れながらも「本当にお前たちは仲がいいね」なんて言いながら微笑んでいたけれど、私はその言葉にいつも違和感を抱いていた。そしてたぶん、そう感じていたのは私だけではなかったはずだ。
その証拠に、ある日私の顔を見ながらタロウは呟いた。
「俺達って、仲がいいの?」
その問いかけに、わたしは「さぁ?」と首をかしげただけだった。
本当にわからなかった。いとこ同士である限り、私たちはお互いのことを「友達」とは呼べないし、かと言って「仲のいいいとこ同士」と呼ばれても、普段の私たちの様子を考えると一丸にそうとも言えなかったのだ。
私とタロウは正反対の性格をしていた。
いくつになっても話好きで騒がしいタロウに対して私はいつもあまり感情を露わにしないで、静かに本を読んだりするのが好きだった。
好きなテレビ番組も、好きな漫画も好きな遊びも全く違う。性格上では私たちはあまり気の合う二人とは言えなかった。
お互い住んでいる場所も違うため、私たちには共通点というものもほとんどなかった。流行のものも北海道と東京都では大分ずれているし、生活様式も違いがある。何の話をしても「北海道はそんなのない」「東京ではこうだ」という議論じみたもので終わってしまう。
しかしそんな状況でも、唯一盛り上がった話題というものがあった。それは北海道の雪についてだ。
何年か前のお正月にこちらに来たときに、珍しいことに東京でも雪が降った。初雪だったという。見慣れた大雪や吹雪ではなくて、はらはらとただ舞うだけの雪だった。雪に見慣れた私にとってはそんなの降っていないも同然だったのだけれど、そんな静かな雪を見てタロウはひどく喜んでいた。
「雪だよ、コウ、すごいなぁ、きれいだなぁ」
そう言うタロウの目は新しいおもちゃを前にしたかのようにキラキラと輝いていたけれど、北海道に住む私にとって雪と言うのはもはやうっとうしいような、忌々しいような、出来ることならばもう見たくない物だったので、彼の明るい表情の意味がよく理解できなかった。
私は朝起きてカーテンを開く度見える冬の雪景色に嫌気がさしていた。また凝るような寒さの中あの雪に埋もれながら学校に通わなければならないのかと、苦痛に感じるばかりだった。
なので目の前のかわいらしい雪に目を輝かせるタロウに対して、私は北海道の冬がいかに辛くて嫌なものなのかということを話して聞かせた。
そうすれば愚かにも雪をキレイなどと言うことはないだろうし、私がいかに雪を嫌悪しているのかと言うことが理解できると思ったからである。
しかしながら、何故だかタロウは熱心に私の話に聞き入っていた。そうして私の愚痴に対して、羨ましそうに「いいなぁ。行ってみたいなぁ」と呟くのだ。
そんな彼に、私は「バカね」と呆れたように言葉を返した。
生まれも育ちも東京のタロウは北海道に来たことがない。彼は凍えるような気温がマイナスの世界も、綺麗でもなんでもない顔を叩く激しい雪も、私を転ばせるばかりの凍った道路も知らないのだ。だからそんな風に「冬の北海道に行ってみたいなぁ」なんていうのだと。
だけどそんな私の話を聞いてもなお、彼は「いいなぁ」と呟くものだから、私はこの子は頭がおかしいのだとそう思った。
それから今度は東京の冬の話になった。私は雪の降らない暖かいこの土地を羨ましく思っていたのだが、そんな東京をタロウは「退屈だ」と言った。
「雪も降らないし、寒いだけでなんにも面白くないよ」
「寒くないわよ、こんなの。気温だっていつもプラスだし。コートもいらないじゃない」
「コートはいるよ! 東京の冬だってとっても寒いよ」
私にはタロウのその言葉の意味が全く理解できなかった。そもそも私の中での冬の概念と言うのは、雪が降り、常に気温がマイナスで道路が凍りつき、空がどんよりとしたグレーな世界だ。
それに対して東京は雪も降らなければ道路も凍らない、気温もプラスで厚手の上着さえあればコートなんてものも必要のない温暖な世界だった。私にとっては冬に近い秋の季節である。
だけどそれはタロウにとっては「退屈な冬」なのだという。私にはそういうタロウの考えは理解できなかったし、タロウにも私の考えは理解しがたいものだったようだ。
ともあれ、それが私とタロウの中で一番盛り上がった会話であったと言える。
だけどそんな特殊な話題というのはそれほどないもので、ほとんどの時間を私たちは二階の一室で寄り添いあいながら、別々のことをして過ごしていたいた。
特別なことはしていなかった。あまり二人で一緒に遊んだ記憶と言うものもない。
たまにタロウの妹であるエマを交えて遊ぶことはあったが、二人の時はお互いに静かに過ごすことが多かった。それ以外は気まぐれに相手にいたずらを仕掛けて笑うくらいだった。
例えば私が宿題をしている私に向かってタロウがティッシュペーパーを丸めたごみを投げつけてきたり、仕返しに私がタロウに消しゴムを投げつけたり、寝ているタロウの、母親譲りの明るい色をした珍しい髪の毛を編んで悪戯したりだ。
しかしそんな悪戯にもすぐに飽きてしまうもので、結局はそれぞれ本を読んだりゲームをしたりして過ごしていた。
私がタロウの悪戯に苛立って彼をひっぱたくことはあったが、喧嘩をしたことはなかった。
だから私たちは特に何かするわけでもなく、ただなんとなく一日を一緒に過ごし、二人で布団を並べて眠っていた。
特別なことは何もない。ただひたすらに、穏やかな時間だった。それが幼い頃の、私のタロウとの思い出だ。
そんな関係に小さな変化が訪れはじめたのは、中学生になった頃だった。
ある日学校から帰宅すると母に声をかけられた。学校帰りで制服姿だったため、いったん部屋に上がって着替えを済ませてから一階に向かうと、再び母に声をかけられた。
「ねぇ、コウ。今日これが届いていたんだけど、何か心当たりある?」
言われて母が持っている者に目を向けると、それは私宛の小包だった。
20センチメートル程度の小さなもので、それほど重くはない。軽く上下に振ってみたが、少しばかりがさがさと言う音が鳴るだけだった。
不審に思いながら差出人を見てみると、そこにはタロウの名前が書かれていた。それを見て更に首をかしげてしまう。
私たちは毎年、お互いの誕生日にプレゼントを送りあっていた。しかしそれ以外でタロウからプレゼントが送られてくことは一度もなかった。
私の誕生日はもっと先で、もう何年もやり取りしているのでタロウが今更私の誕生日を間違えるとも思えない。
従って私には、このプレゼントがどのような意図で送られてきたのか分からなかった。
一体何の意味があるのだろう。中身は?
色々な疑問を抱きながら小包を開けると、更に中には陶器などの割れ物が衝撃によって割れることを防ぐためのやわらかい包装紙で厳重に包まれた何かが入っていた。
「……割れ物……?」
その様子を見て、あぁひょっとして何処かからのお土産だろうかと思い至った。
タロウのお母さんはアメリカ人でモデルの仕事をしていたため、今でもたまに海外に出かけることがあった。
お父さんも実業家として各地を忙しなく回っているので、どちらかがが出張先で何かを見つけて、わざわざお土産にと私に送ってくれたのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎったけれど、すぐに私は思い出した。
今まで確かにタロウのお父さんやお母さんがお土産を送ってきてくれたことはあったけれど、そうする場合はいつも私を含めた家族全員に向けてのものだった。
食べ物だったり、珍しい置物だったり、人形だったりと種類は色々あったけれど、どれも特定の誰かに向けたものではなく、私の父の宛名で家族全員分へ送られてきたものだった。
だけどそれならば一体なんなのだろう。タロウは私に何を送ってきたというのだろう。
訝しがりながら恐る恐る包装紙を解いていく。だけど出てきたそれは、私にはまったくと言っていいほど馴染みのないものだった。
はて、と首をかしげながら私の掌より少し大きい長方形のそれを手に取ると、思っていた以上にずっしりとした重みがあり、そしてひんやりと冷たかった。
表面はつるりとしていて、薄いピンク色をしている。北海道で咲く桜よりも少し濃いくらいの色だ。パール感があって、上品な輝きを持っていた。だけど私は、あまりピンク色は好きではなかった。
そんなことを思いながら、恐る恐るそれを開いてみる。下から上に向かって開くそれは、完全に開ききるとカチャリと音がした。
上半分は液晶画面になっている。画面にはパソコンで描いたようなポップな色合いの花が沢山表示されていた。
画面の左上には小さな長方形の電池のような形をしたマークがあり、その中は横に三本の線が引かれている。
そしてその隣には、電波を現した棒が三本立っていた。画面の右上にはデジタルな文字できょうの日にちと今の時刻が現されていた。
液晶画面の下の実際に手に持つところには、上半分に本や手紙、カメラなどのマークやMENUと書かれたボタンがあり、下半分にはアルファベットや数字が書かれたキーボードのような文字盤があった。
ためしに適当に文字盤のほうを押すと、液晶の画面にも今打ったものと同じ文字が現れる。適当にボタンを押して現れたそれは、意味をなさない数字だった。
「……これを私に、どうしろと……?」
送られてきたものは、携帯電話だった。
親が共働きで連絡手段が必要な子や流行を先取りすることに生きがいを感じている何人かの子はもうすでに持っているみたいだったが、クラスメートのほとんどはまだ携帯電話を持っていなかった。
しかし皆電話やメールでのやりとりに憧れと言うものは抱いているようで、友人たちとの会話の中でもしばしばそのことは話題となった。「早く私も携帯電話が欲しいな」と毎度のように呟いている子もいた。
しかし私はと言えば、特別連絡を取る必要があることも学校外で会う意外に連絡を取りたい相手もいなかったので、別段ほしいと思ったことはなかった。
そのため、手の中のそれをどうしたらいいのか正直わからなかった。携帯電話の用途はもちろん知っている。しかしそれ以前に、私には使い道がないのだ。
それに、これまで一度もタロウと携帯電話の話をしたこともない。欲しいだとか、持つ予定だとか、とにかく携帯電話に興味があるというような素振りは見たことはなかった。
それなのに、これが私に送られてきたというのは、一体全体どういうことなのか全く見当もつかなかった。
そう思いながら小包を見直してみると、中にはもう一つ、封筒が入っていた。
封筒は白地にひまわりの写真がプリントされているかわいいものだった。おそらく妹のエマの封筒をもらったのだろう。
男の子が使うような絵柄ではないけれど、明るく元気な印象のその花は、不思議とタロウのイメージにピッタリだった。
彼の髪の毛の色のせいかもしれない。今も昔も変わらず、彼の金色の髪は太陽の下でキラキラ輝いていた。それはまるで、ひまわりの花が太陽を仰いでいる様子を連想させた。
封筒の表には、決して達筆とは言えないタロウの字で「Dear Kou」と書かれている。
中を見てみると、封筒とお揃いらしいひまわりの写真がプリントされた便箋が入っており、そこには「携帯買うことにしたから、コウにもあげる。Please call me!」と殴り書きのような短い文章が書かれていた。
その文章に、当然のことながら眉を寄せてしまう。
「……全然意味が分からないわ」
与えられた携帯電話を持ちながら、金持ちのやることはまったくもって理解できないわね、なんて思いながら父と母にこのことを伝えると、母は驚愕しながらあわててタロウの家に電話をかけ、反対に父は私と同じように「金持ちのやることはまったくもって理解できないな!」とあきれていた。
その後タロウの家に電話を掛けた母の話によると、タロウ一家はお父さんとお母さんがそれぞれ仕事で忙しく、家を留守にしていることが多いので、連絡手段として中学一年生のタロウと小学校4年生の妹に携帯電話を買い与えることにしたらしい。
そうして電気屋に行き携帯電話を選んでいたところ、突然タロウが「俺、コウと電話したいけど、あいつたぶん、携帯なんて買わないだろうなぁ」とつぶやき、それを聞いた親ばかな両親二人が私の分まで買ってしまったのだという。
従って私に与えられた携帯電話の契約も名義もタロウのお父さんの名前になっており、当然支払いも同じらしい。
携帯電話自体の料金や、使用料は具体的にはよく分からなかったけれど、おそらく決して安いものではいだろう。
そのため、母は何度も「受け取れないわよこんなのー」と受け取り拒否の意を示したらしい。
しかしながらそんな母に対してタロウのファンキーなお父さんはと言えば「いつもタロウがお世話になっているから、コウへのお礼だよ!」なんていう軽い返事をするばかりであったらしい。
いくらこちらが押しても引く気配のないその様子に、母はとうとう送り返すことをあきらめたのだという。
そうして私と父に電話の内容を伝え終わったところで、とうとう母までもが「金持ちの考えることはまったくもって理解できないわ……」とため息をついていた。
ともあれそうして私は携帯電話を手に入れたわけだけれど、付属の説明書を読んでも使用方法がよくわからなかったし、そもそも使い道がなかった。
両親に外から連絡を入れることもあまりないし、私の身の回りでは携帯を持っている子がほとんどいなかったからだ。
従って携帯電話は使用されないままに部屋の片隅に放置され、私は部屋に着信音が鳴り響くまでその存在を忘れていた。
ある日の夜、夕食もお風呂も済ませて私は一人、部屋でその日出された宿題をしていた。その日習った数式を思い出しながら良い調子で問題を解いていると、突然聞き覚えのない電子音が鳴り響いた。
「いったい何事だ」と驚き肩を震わせながら音の発信源を探すと、それは今の今まで存在を忘れさられ、部屋の片隅にある小さなタンスの上におきっぱなしになっていた携帯電話からだった。
これがこうして音を立てている様子を見たのは今まではじめてだった。
ピンク色のそれが電子音とともにブルブルと震えている。突然の出来事にびくつきながらそれを手に取り、開いてみると、液晶画面にはいつの間に登録していたのか「タロウさま」と書かれていた。
なんて馬鹿なのだろう、と呆れながらも記憶を頼りに受話器のマークがついた通話ボタンを押し耳に当てると、そこからは数か月ぶりに聞くタロウの声が聞こえてきた。
「Koooooou! ヒドイよ、なんで電話くれなかったんだ! ちゃんと電話してって書いたじゃないか! ずっと待ってたのに!」
「………うるさい……」
「うるさいじゃないだろ! せっかく携帯送ったのに、意味ないよ!」
「はいはいごめんなさいね」
それからもタロウは、軽くあしらう私に対して自分がこの携帯電話を選ぶまでにどれだけ悩んだかだとか、親におねだりをしたか、そんな話をしていた。
「ピンクにしようか水色にしようか、すごく悩んだんだよ」真剣にタロウは話したけれど、私はピンクも水色もそれほど好きではなかった。面倒だったので本人には言わなかった。
それからもふてくされたようにしゃべり続けるタロウの話を聞いていたのだけれど、私は小さな疑問を抱いていた。
東京なら北海道と違って携帯電話を持っている友達も少なくないだろうに、なぜわざわざ私に電話をかけてくるのだろうと。ひょっとしてタロウは友達がいないのだろうか、と。
私もさほど友達が多いとは言えないほうだけれど、タロウにはそんなイメージはなかった。彼は目立つ容姿だけじゃなく、明るくて人好きのする性格をしているから、きっと同年代の子たちには人気だろうと思っていた。
そんなことをぼんやりと考え、適当にタロウをあしらいながらも、確かにせっかくタロウの両親が私に買ってくれたのに使わないというのは二人に申し訳ないと思い、それからはせめてタロウの電話とメールには反応をしてあげようと思った。
「じゃあ、これからはあなたの電話には出てあげるわ」
そう伝えると、電話の向こうからはひどくうれしそうな声が聞こえてきた。
タロウからの連絡は不定期だった。数日間続けて連絡が来ることもあれば、何日か全く音沙汰がない日もある。
しかしかかってくる時間は決まって夜の9時以降だった。彼なりの配慮だったのだと思う。
……もしそうでなかったとすれば、ただ単にタロウがその時間はいつも暇をしているのかもしれない。
ともあれ寝る前の数時間を私はタロウとの電話で過ごすことが多くなった。騒がしい彼の声を聴いた後に眠りにつくのはなかなか困難なため、タロウと電話をした次の日はいつも寝不足だった。
タロウが話す内容はもっぱら彼の日常のことで、きょう学校で何があったかとか何をしただとか、家族で何を食べたとか、お父さんがこんな面白いことを言っただとか、そんな他愛もない話ばかりだった。
だけどいつも話題は尽きなくて、タロウがいかに毎日を楽しく過ごしているのかと言うことが分かった。
学校の話をする際に、タロウはいつも私にもわかりやすいようにと登場人物のことを詳しく教えてくれた。
野球部に所属している体の大きな子、バスケ部なのに身長が伸びなくて悩んでいる小柄な子、いつも遅刻ばかりしてくる子、頭はよくないけれどとにかく面白いことばかりを言う子。とにかく様々な性格のクラスメートがいるらしい。
その話を聞いて私もぼんやりと自分のクラスメートたちを思い出した。意識してみれば、確かに私のクラスにも色々な子がいる。
明るい子、静かな子、いつも笑っている子、いつも不機嫌そうな子。学校と言う場所には色々な生徒が集まるのだ。
しかし私はタロウのように、彼らを一つずつ説明することは出来なかった。話題にできるほど、彼らのことを知らないからだ。
タロウの周りには、いつも人が集まっているようだった。その中でもいつも必ずと言っていいほど話に出てくる男の子が3人ほど居るので、どうやらタロウはその子たちと特に仲が良く、一緒に過ごすことが多いのだということがわかった。
その友人たち以外にも様々なクラスメートや先輩、先生、はたまた違う学校の人の名前まで出てくることがあるので、私はタロウの交友関係に驚かされるばかりだった。
タロウの明るくて人好きのする性格は中学生になっても変わっていないようだった。
しかし、こうして聞かされる学校生活でのタロウは、私が小さな頃から知っている彼とは違う面が多かった。
「こないだの定期試験、世界史が100点だったよ! もちろん英語も!」
「昨日の昼休み、ヨシキたちと騒いでたら体が扉にぶつかっちゃってさ、それで扉が外れて先生にすごい怒られたよ。でも事故だよ? 仕方ないと思わない?」
「掃除サボって帰ったら、次の日のホームルームで皆の前で怒られたんだぜ。それくらいで、いまどき信じられないよ」
「数学の時間、プリントにハゲの落書きしてたら先生にめっちゃ怒られた。確かに先生のてっぺんハゲかかってるけど、別に俺、あいつのこと描いてたわけじゃないんだぜ? なのに俺だけ宿題増やされてさー、さいあくだよ!」
「今日さぁ、英語の授業サボって一人で空き教室に居たら、先生に見つかっちゃって。やんなっちゃうよ、だって今更英語の基礎なんて学んでもしょうがないんだから」
「ねぇ、やっぱりこの髪、目立つのかなあ。未だに珍しがって俺のこと見に来る人とかいるんだよ。あーあ、絡まれたりしないといいけど」
彼の学校での話は、内容の7割くらいが先生に怒られた話だった。しかも実にくだらないことが原因で、聞いていて呆れてしまうようなものばかりだった。
しかし私は、それまでタロウが怒られている姿を見たことはなかった。騒がしい性格なため、いつも「もうちょっと落ち着きなさい」とは言われていたし、私も何度も「うるさい」と頭を叩いたことがあるが、彼を本気で叱る大人は周りにはいなかった。
そしてタロウ自身、怒られるようなことをする子供ではなかったのだ。可愛げのある小さないたずらをすることはあっても「これをしたら注意をされる」と解っているようなことは絶対にしない子供だった。
そのため彼が学校で様々なことをし、先生たちに怒られてばかりいるというのは、私には到底想像しがたい風景だった。
そんな風にして電話をする度に、少しずつ私の知らないタロウが増えていき、私はしばしば自分の中の記憶のタロウと、タロウが話す彼自信との差に戸惑うばかりだった。
電話の中で私が話をすることはあまりなかった。ただタロウのにぎやかな話に頷いたり、呆れたり、少し笑ったりするだけだった。会話のキャッチボールとやらはほとんどしていない。私が言うことと言えば、「バカねぇ」とか「それで?」とか「へぇ、そう」なんて言う、言葉とも言えない物ばかりだったからだ。
それでもタロウはいつも明るい声で、楽しげに話を聞かせてくれた。そんなタロウに対して「こんな受身な相手と電話をしていて楽しいのだろうか」と疑問に思うことは少なくなかったけれど、実際のところ私は助かっていた。
私はタロウのように毎日の出来事を面白おかしく話すことはできなかったからだ。「お前は何か面白いことなかったの?」と聞かれても、私はたぶん何も答えられない。
それというのも、私の生活というのは朝起きて学校に行って勉強をしてご飯を食べて寝る、という機械的で面白味のない平凡なものだったからだ。
別に友達がいないわけではない。男女関係なく、クラスの人とは割とうまくやっている。毎日笑うことがないわけでもなかった。その場で面白いと思ったら素直に笑うし、自分から誰かを笑わすこともできた。そんな風に過ごす毎日は、はたから見ればそれなりに楽しいものだと言えるのかもしれない。だけど私には、それほど特別なことだとは思えなかった。たとえ何か面白いことがあったとしても、人に話すほどのこととは思えないのだ。
だから私は、いつもタロウの話を聞いていた。タロウも何も言わないということは、それでよかったのだと思う。受話器の向こうの騒がしい話声を聞きながら、私が静かに相槌を打つ。それは夏とお正月の、二人で寄り添いあって過ごす日々を連想させた。ゲームをしてひとり盛り上がるタロウの隣で、静かに本を読む私。真剣に宿題をする私を見て、ちょっかいをかけてくるタロウ。なんとなく、携帯電話越しでもあの関係が続いている気がした。
だけど楽しそうに話す彼の姿は、私の記憶の中の彼の姿から遠のいていくばかりだった。
それからも私たちは連絡を取り続けていた。といっても、相変わらず電話をかけてくるのはタロウのほうで、私からかけたことはほとんどないと言っていい。
気づけば中学校生活の夜9時以降ほとんどを、タロウとの電話で過ごしていたように思う。その電話回数の多さに、私はまるで毎日タロウと会っているような、そんな錯覚にとらわれていた。今までは年にたった数回しか会うことも話すこともできなかったせいかもしれない。
だけどやっぱり私たちは声だけの関係であったから、実際に会ったときに以前より身長が伸びていたりだとか、顔つきが変わっていたりだとかいう目に見えた変化をしているタロウの姿を見るたびに、私は奇妙な違和感に襲われていた。
目の前で実際に会うタロウは、記憶の中の小さかったタロウとも、電話で話をしているタロウとも違うのだ。どこが違うのかは分からない。本当は違うところなんてないのかもしれない。だけど何かが変わっているように思えて、私は彼を見て、「以前とは違う」とそう思ってしまった。
しかしタロウはといえば、私が感じた違和感なんてまるで知らないといった様子だった。私も同じように背が伸びていたり、髪が伸びていたりしているはずなのに、まるでそんな変化は気にしていないといった素振りだった。そうして久々に出会ったはずの私に、タロウはただ笑いかけて、それからごく普通に、当たり前のことのように先日電話でした話の続きを話したりするのだ。
昔のように、真っ先に二階の部屋まで手を引かれていくことはなかった。その代わりに彼は、話を続けながら私の荷物を運ぶのを手伝ってくれた。とても自然な動作だった。
その何でもない様子に、ひょっとして彼にはいつも私の姿が見えているのだろうかとさらに奇妙な感覚にとらわれてしまった。
それからも、私の中のタロウへの違和感は募っていくばかりだった。だけど私は結局その原因がわからないまま、気が付けば中学校を卒業していた。
中学を卒業した後、私は成績が良かったのもあり地元では一番学力が高いといわれている高校に進学していた。
別に自分で進路を決めたわけではなかった。私には将来の夢や目標がとくになかったから、ただなんとなく、それなりの高校に行って、それなりの大学に進めたらいいなと考えていた。
そんな私にその高校を進めたのは、担任の教師だった。中学三年生になってすぐに個人面談があり、そこで担任の教師に「お前はどこの高校を狙っているんだ?」と聞かれたが、私は何も考えていなかったのでただ首をかしげた。
するとそんな様子の私に、担任が真剣な面持ちでこう言ったのだ。「お前の学力ならこの高校は十分に狙えるぞ」と。その言葉を聞いて私は、「あぁ、そうなんだ。担任が言うなら、そうなのかもしれないな」とそう思った。
その高校のことはもちろん以前から知っていた。市内で一番学力が高いと言われている公立校で、進学率もとてもいい。卒業生の中には道内だけでなく、本州の有名な大学に進学した生徒も多いという。
確かに「コウならいけるんじゃない?」と両親や周りの友人たちにも勧められたことがあった。だけど私はあまり学力やランクについて考えたことがなかったので、いつも適当にあしらうだけだった。
しかし中学の担任がそう薦めてくるのであるなら、行ってみる価値はあるのかもしれないなと、そう思った。いい加減進路とやらも決めなければいけない時期だったし、それなら皆に後押しされている場所を目指すのは悪いことではないのかもしれないなと。そしてなんとなく、勉強すれば受かるような気がした。何の根拠もなかったけれど。そうして私は、その高校を志望することにいたのだ。
それからはもちろん高校受験のために勉強をしていたのだけれど、特に苦痛だとは思わなかった。昔から勉強をすることは別に嫌いなことではない。というより、特別友達と遊びまわるわけでもないし、部活動にも入っていない私には勉強以外にすることもなかったのである。勉強をすることによってそれなりの未来を手に入れることができるのなら、私はそれを特に不快に感じることはなかった。
そうして勉強を続けて余裕の点数で高校には受かったのだけれど、私は特に何も思わなかった。凄いね、頑張ったなと周りの人たちは私をほめたけれど、私は特別な努力すらした記憶はなかったのである。ただ「あぁ、こんなものか」と、何に対してでもなくただそう思っただけだった。
高校に上がる頃には、タロウにもらった携帯は所々塗料がはげ、ボロボロになっていた。当初はタロウのアドレスしか入っていなかったけれど、そのころには周りの友人たちも携帯を持ち始めていたので、私のメモリにはタロウ以外にたくさんの名前が入っていた。だけど相変わらずその携帯は着信がなるばかりで、私から発信することはほとんどなかった。
「私、返信以外でコウからメールもらったこと一度もないかも」ある日友人の一人がそう言った。その言葉に、皆が「私ももらったことないかも」と言い私を見た。その視線に私は「そうだった?」とごまかしてみたけれど、仕方がないじゃないと胸の内で呟いた。だって、特段用がないのだ。友人たちはタロウと同じように、なんのことはない話をネタによく私にメールを送ってきた。私はそのメールを不快に思うことはなかったけれど、同じことを他人にするということは考えられないことだった。だって、なんでもないことを人に言う必要性が分からなかったからだ。だから私は、人にメールを送らなかった。
ボロボロになった携帯は、高校に入る前に新しいものに変わった。しかし今度はタロウの両親が買ってくれたのではなく、私の両親が買ってくれた。もともと両親も私が高校に入るころには携帯を買い与えるつもりでいたらしい。なのでタロウのお父さん名義で購入した以前の携帯は解約してもらい、父の名義で新たに手続きをすることになった。正真正銘、私の携帯を持つことになったのである。古い携帯は、机の中にしまっておいた。そこは思い入れのあるものをしまっておく場所だった。なんとなしにその机にしまっていた自分を見て、あぁ私はこの携帯に思い入れがあるのかと、そう感じた。
携帯の色は白にした。ピンク色のそれも目にはついたけれど、選ばなかった。それをタロウに伝えると、不満げな声で「ピンクのほうがかわいいのに」と言っていた。だけど私は白い携帯に妙な居心地の良さを感じていた。かわいいもの、というのはあまり私に合わないような気がしていたからだ。
高校に上がってからも私たちの電話は続いた。タロウは気づけば都内のとても有名な高校に進学していた。私はその話を聞いたとき、真っ先に「嘘でしょう?」と聞いたのだけれど、そのあと直ぐに携帯から合格証書の画像が送られてきたので信じざるを得なかった。
それを両親に伝えると、母は私と同じように信じられないというように呆けていたけれど、父は違った。「あぁ、やっぱり父親に似たんだな」と、そう呟いた。
父の話によると、どうやらタロウのお父さんもその高校を卒業しているらしい。「馬鹿な性格も頭の良さも一緒ってわけだな」その言葉に、なんとなく納得してしまった。確かに、タロウと彼のお父さんはよく似ている。ひょうひょうとして掴みどころがないのに、どこか知らないところで確実に目標を達成しているような、そんな所が。実業家の父親の頭脳と、アメリカ人でモデルの母二つの遺伝子をタロウは十分に受け継いでいるらしい。
「今日、卒業式ぶりにヨシキにあったんだ。なんかあいつ、ちょっと雰囲気が変わってた。たった数か月でそんな変わるもんなのかな」
ある日の電話でタロウがそう言った。彼は中学校時代の仲の良かった友人とはほとんど高校が離れたらしい。だけどまぁ仕方がないだろう。中学校時代のタロウの話を聞く限り、彼の周りにはそれほど頭のいい友人はいなかったからだ。
だけど相変わらず彼は人気者なようで、高校に入学してすぐに友達はできたらしい。中学時代と同じように、次から次へと新しい登場人物が出てきて、私は最初覚えるのが大変だった。
中学時代よりも高校のほうがタロウには楽しいようだった。久々に中学の友達に会ったと話す声からも、それは伺えた。懐かしむ様子はあったが、それほど嬉しそうには聞こえなかったからだ。
高校に入学してからは、以前にもまして電話から聞こえてくるタロウの声は明るかった。頭のいい高校の割には、それなりの自由が認められているらしく、少しのことで教師からうるさく言われることはあまりないらしい。
以前タロウは「義務教育じゃないから、自分の行動には自分で責任持てってことなんだよ。教師はくどくど言わない。でもちゃんとやってないと大変な目に合うのは自分だから、ある程度はやらなきゃいけないけどね」と言っていた。まぁ簡単に言うと、やるべきことはちゃんとやって、何かやらかすときにはこっそりやれということなのだそうだ。ともあれ彼は、中学の頃よりは自重しつつも、自由に高校生活を送っているらしい。
その証拠に、授業中にも関わらず頻繁にタロウからメールが来るようになった。だけど書かれているのはどれもくだらない内容だった。「数学が面白くない」だとか、「今更英語なんて教えられても逆に困る」とか、ほとんどが授業に対しての不平だった。その内容に思わず嫌味かと顔をしかめてしまったけれど、納得せざるを得なかった。あの男は普段あんなにおちゃらけて生きているのに、頭のつくりはいいのだと。全く羨ましい限りだ。
しかしながら私のほうも、さほど勉強には苦しまずに生活することが出来ていた。理数系は少しばかり苦手だったけれど、頭を抱えるほどではない。タロウほどではないにしろ、今のところ上手くやれていた。
私の高校も勉強さえちゃんとしていれば口うるさく注意をされるような堅苦しさはなかったので、よく授業中にこっそりタロウに返信メールを送ったりしていた。大抵は前の文章への相槌やら、「ちゃんと授業受けなさいよ」とかいう内容のタロウに対しての注意メールだった。だけどすぐに「コウだって授業ちゃんと聞きなよ」なんていう返事が返ってくるものだから、私はよく授業中に、一人で笑いそうになってしまった。なんだかこのくだらなさが妙に楽しかった。
高校に入ってからも私たちの電話の様子は変わらなかった。タロウが今日の出来事を面白おかしく話し、私はそれに笑ったり、うなずいたり、呆れたりするだけだった。
タロウと同じく私も中学時代の友人とはほとんど高校が離れてしまった。新しい友人は入学してすぐに出来たけれど、これといって変わったことはなかった。
強いて言うなら「あの子が好きだ」とか「あの子が格好いい」だとか「あの二人が付き合い始めたらしい」とか、そんな色めきだった話題をよく聞くようになってきたことくらいである。
「コウはだれか気になる人いないの? 男子の中ではコウのこと、結構噂になってるみたいだよ」
高校に入学してちょうどひと月くらいたった、ある日の昼休みだった。
私はいつも、高校でできた友人3人と空き教室で机を並べてご飯を食べているのだけれど、そんな中突然にミドリがそう尋ねてきたのだ。
だれか気になる人いないの? ミドリの質問を頭の中で復唱する。
だけど今までそう言ったことを聞かれたことはなかったので、私は思わず面喰ってしまった。そんな私に、ミドリはいたずらっ子のような笑みを浮かべながら「ねぇ、どうなの?」と先を促した。
ミドリは出席番号が私のひとつ前だった。なので席も私のひとつ前で、高校で一番最初に言葉を交わした子だった。高校で初めてできた友達と言ってもいい。
肩までの長さのやわらかそうなボブヘアがとてもよく似合っていて、大きな丸い目をしている。
楽しいこととおしゃべりがとにかく大好きで、いつもどこからともなく噂話を拾ってきては私たちに聞かせてくれた。活発で人好きする性格をしていたので、クラスでも男女問わず色々な人と仲が良かった。
「確かに、それ私も気になってた。コウってそういう話、自分から全然しないよね?」
そう聞いてきたのはユカ。彼女はミドリと中学校が一緒だったらしい。私がミドリと仲良くなってからすぐにユカのことを紹介された。胸下まである長いまっすぐな髪の毛がとてもきれいで、ミドリに比べるとだいぶ落ち着いた性格をしていた。
つり気味な一重のせいか一見とっつきにくそうな外見をしているけれど、彼女はいつも穏やかだった。静かに笑う姿が印象的だった。
にもかかわらず、中学時代はバレー部のキャプテンだったというから驚きである。高校に入ってからもバレー部に入部したようだった。
「でもコウって全然恋愛とか興味なさそう! あたしもだけど!」
ひときわ明るい声でそう言い放ったのはマドカ。マドカは本当にエネルギッシュで突拍子もない子で、いつも予想外なことをしたりして私たちを驚かせていた。
まず第一に、彼女との出会いも大変突拍子のないものだった。ある日の休み時間に、ミドリが私に昨日入っていたらしいお笑い番組の話をしていたことがあった。
私はあまりテレビを見ないので、お笑い番組のことはよく分からなかった。だけどそんな私に向かってマドカは、時折あまり上手ではないであろうモノマネを加えながら昨日の番組の話をしてくれた。
そんな彼女の話に私も笑っていると、突然マドカが「あたしも昨日それみたー! 面白かったよね!」と話に割り込んできたのだ。そしておそらくミドリよりも下手であろうモノマネをして、すんなりと私たちの会話の中に混ざりこんでしまったのである。
彼女は明るい性格で、とにかくよく笑う子だった。おまけにバリバリ体育会系と言った感じの大きな声の持ち主だったので、会話をする前から彼女の存在自体は知っていた。
教室のどこかから笑い声が聞こえてきたと思ったらそれは彼女であるケースも多く、見たことがないというのは難しいことだった。
だけど私もミドリも直接話をしたことはなかったので、こうして突然マドカが界隈は言ってきたことには大変驚いた。なのに次の瞬間にはごくごく普通に「あ、そういえば初めましてだったね!」なんて言いながら自己紹介をしてくるものだから、私たちは面食らうばかりだった。そうして気づけば、一緒にお弁当を食べるような中にまでなっていたのである。
マドカは性格がそのまま外見に現れたような子だった。日に焼けた肌がとても健康的だった。クラスで1、2位を争うくらいに小柄な体系をしているけれど、小学校のころからバスケットボールをしていて運動神経は抜群だった。
彼女はいつもショートカットヘアを跳ねさせながら、あわただしく動き回っていた。
「……恋愛は興味ないわね」
ポツリとそう呟くと、ミドリはあからさまに残念そうにした。そんな彼女を見てユカは困ったように笑っている。マドカはと言えば、自分の考えが当たって嬉しいらしく「ほらねー!」と誇らしげに笑っていた。
「えぇええ……コウせっかく美人なのに、もったいない」
「でもそこがコウらしいっていうのもあるよね」
「でもやっぱりもったいない! 今まで好きな人とかもできなかったの?」
「ないわね」
「即答しないでよー!」
ミドリはどうにかしてでも私の話を聞き出したいらしい。だけど私は別に隠しているわけじゃなくて、本当の本当に話すべきことが何もないだけなのだ。
私はこれまで、恋愛ごとというものに興味を持ったことがなかった。好きな人が出来たこともなければ、誰かに対して胸を高鳴らせたこともない。
男の子と全くかかわりがないわけではなかったけれど、かといってそれほど深く関わろうとも思わなかった。話しかけられたら答えたり、用があったら話しかけたり、冗談をいう子に笑いかけたり、それくらいの仲の子ばかりだった。クラスメートでしかなかった。
なんとなくいつも親切な男の子や、やたらと私に話しかけてくる男の子は何人かいた。当時の私は彼らに対して「物好きだなぁ」としか思わなかったけれど、今思うと彼らは私のことが好きだったのかもしれない。
自意識過剰と言われるかもしれないけれど、私は自分が恵まれた容姿をしているのは分かっていた。母譲りの釣り目がちな目と、父譲りの筋の通った鼻を持つ私は、世間一般でいうところの美人という属性に入るのだろうと。もっともこんなこと自分から人には言わないけれど、人には良く言われていた。「コウは美人だね」と。
だからおそらく、男の子たちの目にも私の姿はとまったのだろう。もっともそれは、姿だけでしかないと思うけれど。学校生活での私は可もなく不可もない性格で過ごしていたけれど、特別優しいだとか、特別面白いといった要素はなかった。私の性格だけを好きになるという人は、おそらくいないだろう。
そんなわけで、おそらく昔も今も私のことを気にかけてくれている人はいるのかもしれないけれど、私のほうはまったくと言っていいほど興味を抱いたことがなかった。
私はこれまで、恋愛とは無縁に生きてきたのだ。
「やっぱり、ないわね」
色々と思い出した結果、そう言う答えを導き出して伝えると、友人たちはつまらなさそうな顔をした。「まぁ、興味ない子もいるからね」とうフォローをいれてくれたユカに対し、ミドリは未だに不満げな顔をしている。彼女のその表情に、「私の恋愛話なんかより、お笑い番組のほうが面白いと思うんだけどな」とそう思った。
そう思いながら、ふとタロウの顔が頭に浮かんだ。何故浮かんだのかは分からない。だけど毎日のように電話やメールでやりとりをしているハーフのいとこがいるのだという話をしたら、もしかすると不満げな顔をしているミドリの気もよくなるのではないだろうか。そう思い、なんとなしに私は口を開いた。
「でも、なんとなく電話をするいとこはいるわ」
「いとこ? 男の子?」
「うん。ハーフで金髪のイケメンよ」
「え!?」
私の言葉に、ミドリだけでなくユカとマドカも声を上げた。まぁ確かに、高校生の女の子にとって金髪でハーフのイケメンと言えば一大事なのかもしれない。少なくとも、私が通う子の大学ではそんな男の子はいないから。
「えっ、えっ、同い年なの? 頻繁に会ったりするの?」
私の読み通り、ミドリは先ほどの不服そうな顔は何処へやら、今では目を輝かせていた。そんな彼女を見て、あぁこれはこれで失敗したかもしれないと、そう思う。嫌な予感がした。
「……同い年よ。だけど、東京に住んでいるから。会うのはお盆とお正月のときくらいよ」
「ええーっ、そんな少ししか会えないの?それで? それで? どんな子なの?」
「ミドリ、興奮しすぎ……」
案の定、オーバーヒートしたミドリに質問攻めされていている私を見て、ユカが呆れたように笑った。だけどその眼からは楽しげな色がうかがえたので、おそらく彼女もタロウの話に興味を持ったのだろう。
仕方なしに私はタロウの話をすることにした。だけど別にこれと言って話すような思い出深いことはない。ザックリとタロウの容姿やら性格を説明して、それから小さいころの話だとか、携帯が送られてきた話だとかをした。私にとってはなんでもないことだったのだけれど、3人は熱心に話を聞いていた。
「……なんか……すごいね……」
「ふつう、いとこに携帯なんてあげる?」
「でもお金持ちなんでしょー? だったらいいんじゃない?」
それぞれの感想を聞いて、あぁやっぱりあの子はどこかおかしいんだなと、そう思った。確かにいとこに携帯をプレゼントする人なんてそうそういないだろう。だけどそれもこれも「お金持ちだから」と言ってしまえば、なんとなく済むのである。
そんなことを思いながら「これだけ話したんだからいいだろう」と思い方をすくめると、どうやらまだ聞きたいことがあったらしいミドリが私に問いかけた。
「ねぇ、その子って、いとこ以外のなんでもないの?」
「え?」
「だから、そんなに仲がいいんだったら、なんか気になったりしないの?」
「……私が? タロウを?」
そんなこと、考えたこともない。そう思い「タロウはタロウよ」と答えると「ふうん」という返事が返ってきた。それから「まぁ、いとこはいとこだもんね」という緑の呟きに、ユカもマドカもうんうんと頷いていた。
それからその話はこれで終わったようで、おしゃべり好きの彼女たちはさっさと気持ちを切り替えて、昨日のドラマの話で盛り上がっていた。俳優のあの人がとても格好いいだとか、ヒロイン役のあの子はあまり可愛くないとか。そんな話をする彼女たちを、何故だかとても女の子らしいなと思った。好きな芸能人が居て、気になる男の子が居て、恋の話で盛り上がって。
だけど、私はと言えば。
(……恋愛なんて、考えたこともないわ……)
格好いいと思う俳優はと言えば、海外のアクション映画の主人公を演じる渋くていかついおじさま達くらいで、人気の若手俳優なんかは全く格好いいと思えない。もちろん、周りの同年代の男の子たちにも興味を示したことはない。
そこまで考えて、再びタロウのことが思い浮かんだ。
(……あの子は、どうなのかしら)
いつものように電話で話をしている、小さなころから一緒の男の子。あの子は目立って整った顔立ちをしているし、性格もとても明るくて話し上手だから、きっと男の子だけじゃなく女の子にもとても人気があるだろう。
だけど今まで、タロウの口から恋愛の話は聞いたことがない。私たちは今まで一度もそういった話をしたことがなかった。さんざんくだらない話をしていたにもかかわらずだ。好きな人だとか、あの人がかわいいだとか、好きな芸能人の話さえしたことがない。私たち二人は周りの人たちが色めき立つような話をしたことがなかったのだ。
「……そんなものなのかしら」
いとこなんて、そんなものよね。
思わずつぶやくと、ミドリがいぶかしげに「何が?」と聞いてきた。私はそれになんでもないわ、と返し、残っていたお弁当を食べ始めた。お昼休みが終わろうとしていた。
それから数日たったある日の放課後だった。中学同様部活に入っていない私は、授業が終わってホームルームの後、ミドリ達と遊ぶ予定がない限りはまっすぐ家に帰っていた。
学校までは自転車で登校している。学校から自宅までは歩くと随分時間がかかるけれど、自転車だと15分ほどで着く距離にあった。
大抵いつも一人で登下校をするので、私はぼんやりと景色を見ながら自転車を走らせていた。
そしてその日もいつものように帰宅しようと玄関に向かっていると、不意に私の名前を呼ぶ人物が居た。
帰り際に声をかけられることは少なかった。友人3人を含め、知り合いのほとんどは部活動に入っているため、授業が終わってすぐに帰宅する子は少ないのだ。
一体誰が私に声をかけているのだろう。不思議に思いながら振り返ると、そこには同じクラスの男の子がいた。名前は確か、後藤くん。出席番号が私の2つ前だった。よく後ろの席のミドリにちょっかいをかけられて、困ったように笑っていた。
彼はサッカー部に所属していて、とても背の高い男の子だった。私も女の子の中では背が高いほうだったけれど、彼とは見上げなければ目が合わなかった。おそらくクラスで一番背が高いのも彼だと思う。
しかしながら、体格の割にその表情は子供のようだった。子供がそのまま大きくなったような、そんな幼さが残っている。そう見える原因の一つには、彼のその優しげな丸い目があるのかもしれない。人懐っこい印象を与えるその眼は、なんだか大きな体で甘えてくるゴールデンレトリーバーを連想させた。スポーツマンの割には、とげとげしさやいかつさがなく、いつもやわらかい雰囲気をまとっている男の子だった。
そんな彼を見て、不意にミドリが「後藤くんはたぶん、磨けば光るよ。後輩とかにモテる系」と言っていたのを思い出す。なんとなくわかるような気がした。表情だけでなく、程よい高さの声は優しげで面倒見の良いお兄さんのようなそんな印象を受けた
しかしながら、何故今彼がここにいるのか分からなかった。大抵の運動部は毎日のように部活動をしているので、サッカー部の彼も例外ではないはずだ。一瞬これからグラウンドに行くのだろうか、とも思ったが、彼は学生服姿だった。
一体何故? 首を傾げる私に、後藤君は笑いかけた。
「渋谷さん、今帰るの?」
「ええ。私、部活に入ってないから。……後藤君は?今日は部活ないの?」
「うん。先生が風邪で休んじゃったんだ。ほかにも何人か休んじゃってて。うちの部、人が少なくてさ。 今日は練習にならなさそうだから、って休みになったんだ」
「そう。大変なのねぇ」
「急に休みになったから、友達皆は部活だし。こんなに早く帰るの、久しぶりだよ」
「何をして過ごせばいいのかわからないや」そう呟きながらも、彼はどこか嬉しそうな顔をしていた。久しぶりの休みはやっぱりうれしいものなのかもしれない。私は毎日が休みだったので、よくわからなかった。
こうして彼と二人きりで話すのは初めてのことだった。いつもミドリが後藤君にちょっかいをかけているのを私は眺めていて、時々話をフラれて二人の会話に混ざることがある程度だった。
そんな私に、彼はまた笑いかけた。優しい表情だった。
「渋谷さん、家はどっちの方向なの?」
「○△町よ」
「あ、じゃあ途中まで一緒だ。俺、□○町なんだ。自転車?」
「うん」
「……一緒に帰っていい?」
「いいわよ」
ためらうように問いかけられてそう答えると、大変うれしそうな顔で彼は笑った。人好きのするその絵笑顔に、私は内心「ミドリ、あんたの読みは当たってるわ。彼は本当に、磨けば光る男の子よ」なんてことを思った。恐らくこの人懐っこい笑顔を浮かべる男の子を嫌いになる人はいないだろうと、そう思った。
家までの帰り道を、私たちは自転車をこぎながら他愛もない話をして過ごした。
今日の授業の話をしたり、彼の部活動の様子を聞いたりしていると、不意に私の友人であるマドカについての話になった。
なんでも今日の休み時間に友人とサッカー選手の話題で盛り上がっていたら、いきなりマドカが割って入ってきたらしい。そうして自分の好きなサッカー選手の話をし始めて、後藤君とその友人は思わず彼女の勢いに圧倒されてしまったのだという。だけどそう話す彼の表情はとても楽しげだった。
「女子であんなにサッカーについて語る子、初めて見たよ。あの人本当にスポーツが好きなんだね」
「みたいね。だけど流石に私たちの前ではしないから、物足りなかったのかも」
「そっか。じゃあ俺たち、格好の餌食だったんだね」
「これからも話し相手になってあげて」
「ハハッ、うん、そうだね。……にしても、なんだか渋谷さんの周りにいる人たちって、皆個性が強いよね」
「……言われてみれば、確かにそうかも」
とにかく明るいクラスのムードメーカーのような存在のミドリに、ひときわ大人っぽいバレー部エースのユカ、そしてどこまでも予測不能な行動をとるマドカ。確かに私の友人たちは皆、個性にあふれた子たちだった。
そうしてふと思い立つ。どうして私、あの子たちと一緒にいるのだろう。
特に個性も面白みもなく生きている私が彼女たちの中にいるというのは、ひょっとしたらとてもおかしなことなのではないだろうか。
「……私、もしかしてあの中で浮いてる?」
思わず後藤君にそう問いかけると、彼は「えっ」と驚いたように声を上げた。それから必死な様子で「そんなことないよ!」と言う彼に、私は思わず笑ってしまった。この子は本当に優しい子なのだなと感じた。
「ていうか、渋谷さんも十分個性的だと思うよ」
「私が?」
「うん……」
どこかはにかみながら頷く彼に、私は首をかしげるばかりだった。これまで「個性的」という言葉は私に似つかわしくないものと思っていた。面白みもなくただ規則的に生活をしているだけの私には合わない言葉だと。
それなのに、彼は違うという。私を個性的だと。一体それは何故? そう疑問を抱きジッと彼を見つめると、後藤君はため息のような声で言葉を続けた。
「なんか、こう……高嶺の花みたいな……」
「……あぁ、とっつきにくい?」
「いや、そういうんでもないんだ。だって実際、こうして俺も普通に話ができるし。……でもなぁ、えーっと……なんていえばいいのか分からないや」
「…………」
あきらめたように笑う彼に、私はなんと返せばいいのかわからなかった。それ以上聞き返すわけにもいかなくて口を閉じると、沈黙が訪れてしまった。
ひどく居心地が悪い。何か喋らなければと、妙に胸が騒いだ。だけど特に言葉は出てこなくて、誰かと二人きりの時の沈黙はこんなに気まずいものだっただろうかと疑問に思った。
そうしてふと思い立つ。私とタロウの間は沈黙だらけだったけど、一度も息が詰まったことはなかったなと。タロウと後藤君。二人の間にはいったいどんな差があるのだろう。
「ねぇ、渋谷さん」
ぼんやりとしていると、控えめな声音で後藤君が私の名前を呼んだ。それにハッとして顔を向けると、彼は困ったような顔で少しだけ笑っていた。その表情の意味がわからなくて首をかしげると、そんな様子の私を見て彼はさらに笑った。
「……こんなこと言うのもなんだけど……渋谷さん、男子の間ですごい人気なんだよ」
「え?」
唐突な後藤君の言葉に、私は目を丸くした。そういえばついこの間ミドリもそんなことを言っていた。私を質問攻めにしたあの日だ。だけどその言葉を、まさか後藤君の口から聞くとは思わなかった。
「こないだ違うクラスのサッカー部のヤツにも「渋谷さんって美人だな」って言われたよ。やっぱり皆の目につくんだね」
「…………」
「渋谷さんすごいなぁ、モテモテだねぇ」
「……変なの。私なんかよりいい子がたくさんいるのにね」
そう言うと「そんなことないよ」という返事が返ってきたけれど、私はそれに小さく笑って返してしまった。
好きだとか好かれているだとか、私にとってそれはさほど重要なことではなかった。もちろん嫌われるよりはいいと思うけれど、特別なこともしていないのに好かれても「だからなに?」と言った感じだった。
「どうせこの外見が目に付いただけでしょう」と。もしそこに私以上にかわいい子がいたとしたら、すぐに私の存在なんて薄れてしまうのだ。そんな無意味な好意は煩わしいだけだった。
私に対して、意味のある好意を抱いた人はいるのだろうか。恐らくいないだろう。何故ならそう思われるようなことをして生きた記憶がないからだ。後藤君は私を個性的だといったけれど、私はミドリたちのようには生きていない。ただ当たり障りなく生きているだけだ。そんな人生に、個性なんてあるのだろうか。
そんな私を、好きになる人なんているはずがない。恐らく私は、私のことを好きだという人が現れたとしても、きっとその気持ちを理解することができないだろう。
「……渋谷さんは、そういう……その、恋愛とか、興味ないの?」
そんなことを考えている私に、言いにくそうな顔をしながら後藤くんが問いかけてきた。その表情を見て、ひょっとしたら周りの子に聞いてくるように言われたのかもしれないなと思った。彼の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったからだ。
色めき立っているのは女の子だけではないのだ。この年の子たちは、皆恋愛に興味がある。誰が好きだとか、だれが格好いいだとか、誰がかわいいだとか。
そんな話題の中で、恵まれた容姿をしている私はどうやら格好の的らしい。だけどやっぱり、私はそういったことに対して興味を抱くことが出来なかった。
「……ないわね。ついこないだも、ミドリに聞かれたんだけど。私はほかの子たちに比べると、恋愛意識が低いみたい」
「……これまで、好きになった人とかもいないの?」
「いないわね」
「……そっか」
心なしかしょんぼりとしたような、でもなんだかほっとしているような微妙な顔をしながら、彼はうつむいた。心なしか頬が赤く染まっているように思える。
その様子を見て、もしかして、と思う。もしかして彼は、私のことが好きなのではないか、と。色めき立つ周りの子たちと同じように、彼もまた私に対して興味を抱いているのかもしれない。それは性格にたいして? それとも、この容姿にたいして? おそらく後者だろうな。ひょっとしたら勘違いかもしれない憶測をたてたけれど、どうしてか勘違いではないように思われた。彼はたぶん、私のことが好きなのだ。
だから私は、ためしに彼に問いかけた。すこし、意地悪な気持ちがあった。
「後藤君は、好きな子はいるの?」
「……えっ!?」
私の問いかけに、彼はあからさまに驚いた顔で私を見た。その頬は思った通り真っ赤に染まっている。幼い顔立ちが、余計に小さな子供のように見えた。
それから彼は、気まずそうに私から目をそらした。そして小さく、「そんなの、言えないよ」と呟いた。その様子に、あぁそうかと憶測が確信に変わった。
そうして「あぁこれなのか」と、とても客観的に思った。恋をした時、人はこんな風になるのかと。見ているほうが恥ずかしくなるような、そんな様子。好きな人の言動や行動に一挙一動して、心を揺さぶられている感じ。
だけどそれは、今まで私が一度も経験したことのないものだった。私はこれまで、彼のように頬を赤く染めたことも、恥ずかしげにうつむいたこともなかった。
それからすぐに私の家につき、微妙な雰囲気のまま後藤君と別れた。別れ際、彼は恥ずかしそうな、きまずいような、そんな微妙なはにかみ笑顔で私に手を振った。「また明日」と言いながら。私はそれに、いつも通りの返事をした。「ええ、また明日」と。
だけど別れた後に感じたのは、言いようのないものだった。気分がいいのか悪いのかよく分からない。だけど一つだけ確かに言えるのは、あんなにいい子が私のことを好きになってしまったということに対しての罪悪感を感じたことだった。
自分のことを好きな男の子と一緒に帰る。それはもしかしたら、女の子にとっては最高のシチュエーションなのかもしれない。相手の様子を見て、少女マンガのような甘酸っぱさと、奇妙な居心地の悪さを感じ、落ち着かなくなるようなあの雰囲気。
だけどやっぱり、私はそれに対して嬉しいだとか、ドキドキするだとか、そんな感情は抱くことは出来なかった。ただただ彼に対して、申し訳ないような、そんな気持ちになる。私のことなんか好きにならないほうがいいのにと。だって私は、彼に何もしてあげることができないのだ。
(やっぱり、私はほかの女の子たちとは違うのね)
その日の夜。タロウから電話が来た。三日ぶりの電話だった。今でも電話は続いているが、高校時代よりタロウは友人と遊ぶことが多くなったのか、中学時代より電話の頻度は少なくなっていた。だけど相変わらずかかってくる時間帯は同じで、私は次の日を寝不足気味の状態で過ごさなければならなかった。
タロウも私と一緒で部活には所属していないが、友人たちと街の体育館などを借りてバスケットをして遊んでいるらしい。彼は勉強だけでなく、それなりに運動も得意なようだった。よく助っ人として運動部の練習に参加させられると言っていた。たぶん、私よりは充実した毎日を送っているのだろう。
それでも週に2、3回は電話が来て、相も変わらずくだらない話を彼は私に聞かせた。中学時代のような先生に怒られた話は聞かなくなったけれど、それでも彼が毎日やっていることは聞いていて思わず呆れてしまうような、そんな内容ばかりだった。
そして今日も変わらず、タロウは授業中の様子だとか、友人をからかって遊んだ話などをしてきた。私はしばらくそれをいつものように聞いていたけれど、ふと思いたち、それと同時に口を開いていた。
「ねぇ、タロウ」
「でさ、カズマがさ……」
「タロウ」
「……ん? コウ、何か言った?」
「ええ。ちょっと、聞きたいことがあるの」
それまで私がこんな風にタロウに話を切り出したことはなかった。だからタロウは少し驚いているようだった。自分の話を止められたことに対しては特に不満を感じている様子はなかったけれど「コウが口を開くなんてめずらしい」と思っている様子が、受話器越しからも感じ取れた。
私自身、そう思った。私がタロウに話をふるなんて珍しい。それなのに、いったい何が私をそうさせているのだろう。そう思い、口を開いたは良いものの、一体何を言おうかと考えていると、ふと今日一緒に帰った後藤君の姿が思い浮かんだ。私に恋をしている男の子。だけど私は恋をしたことがない。そうしてふと「タロウは?」と思った。確かミドリ達と話した後も、タロウの姿が頭に浮かんだ。この子はいったい、どんなことを考えているのだろう。
そう思うと同時に、言葉が続いた。
「タロウ、あなた恋したことある?」
「…………へ?」
「コイ?」タロウが私に聞き返す。私が言っていることがよくわからない、と言った様子だった。そんな彼に、もう一度同じ質問をした。「恋、したことある?」そう聞くと、しばしの沈黙の後にタロウが口を開いた。
「あー…………それって……loveってこと?」
「そう」
「……コウがそんなこと聞いてくるとは思わなかったなぁ……」
何かあったの? しばしの沈黙の後、タロウは先にした私の質問を無視して、逆にそう問いかけてきた。
なんだかうまくはぐらかされたような気がしたけれど、確かにいきなりこんな質問を投げかけた私も悪いなぁと思い、ことのいきさつを説明することにした。
「今日、クラスの男の子と一緒に帰ったのよ」
「……へぇ?」
「それで、好きな人いるの? って聞かれたの」
「……なんて答えたの?」
「いないわ。って」
「ふうん」
そう。
タロウはつまらなさそうな声でそう答えた。彼にとってはあまり興味のない話題だったのかもしれない。
確かに、小さなころから一緒のいとこの恋愛話なんて、さほど興味が沸くものではないかもしれない。現に私だって、今までタロウの恋愛に興味を示したことはなかった。
他のいとこの中には、高校生に入ったころに彼氏ができた、彼女ができたといっていた人たちも居たけれど、かといってその話題が私たちに回ってきたことはなかった。いとこにも叔母さんたちにも、一度もそういったことを聞かれたことはない。
たぶん、私たちにそう言った話は無縁だと思ったのだろう。四六時中同い年のいとこと遊んでいる二人には、しても無駄な話だと思ったのかもしれない。周りが呆れてしまうほどに、私たちは一緒にいたのだから。
小さなころから私たちを見続けている周囲の人たちは「あの二人は恋愛なんて興味ないんだろう」とそう解釈したのだろう。
そして私に関しては全くその通りだった。これまで恋をしたこともなんて一度もない。周りの男の子たちはあくまでも男の子でしかなくて、その中には私の心を揺さぶるような、そんな特別な人は一人もいなかった。
きっと、タロウもそうなのだろう。なんとなくそう感じた。私以上に周囲の目を引く彼はもちろん女の子にも人気だろうけれど、それに答えるタロウの姿は想像できなかった。
……だけど。
「彼女、いるよ」
「え?」
「3人目」
なんでもないことのように、タロウはそう言った。私はその言葉に、ただ目を見開いてしまった。
「…………初めて聞いたわ」
「うん。言ってないもん」
「……」
私の知らないタロウが、また一つ増えた瞬間だった。
そのあとの会話はあまり覚えていない。私がタロウの話を聞いていなかったのかもしれないし、タロウが話さなかったのかもしれない。詳しいことはよく覚えていないけれど、それからすぐに電話は切れてしまった。どちらが先に切ったのかも、よく覚えていはなかった。こんな電話の終わり方は今までないことだった。
(……あの子は、恋をしたことがあるんだ……)
3人目。タロウの言葉が頭をよぎる。3人。タロウが女の子と付き合ったことがあるという事実ですら私を驚かせたのに、その数字はさらに私を驚愕させた。
高校に入学してからまだほんの数か月しか経っていない。ということは、それ以前の2人は中学時代にできた彼女ということだろうか。考えて、一人目を見開いてしまう。そんなことってあるのだろうか。ちっとも気が付かなかったし、未だにその光景を想像できなくて私は信じられない気持ちのままだった。
そうしてふと思う。
私と過ごした短い夏と冬の間も、タロウには彼女が居たのだろうかと。
(……彼女、かぁ……)
ひょっとしたら、居たのかもしれないな。そう思う。私はタロウがそんなことになっていたなんてちっとも気が付かなかったけれど、思い返せば中学生のころから色々なことが変わっていったのだ。私の知らないことも、たくさんあった。
大人びていくタロウの姿に私はいつも驚いていたけれど、タロウはさほど興味もなさそうな印象だった。昔のように、私の手を引いて歩くこともなかった。タロウと私の間で、少しずついろいろなことが変わっていっているような気はずっとしていた。
そしてそれは、タロウが恋をしていたからなのかもしれない。私の知らないところで、私の知らない誰かに。
だけどそれはたぶん、当たり前のことなのだろう。なんらおかしいことではないのだ。タロウだって男の子で、小さな頃のままではない。私の知らないところで、変わっているのだ。
そう思ってはみたものの、私は未だに先ほどの会話を現実のものとして頭に浮かべることが出来なかった。胸の中にはなんだかポッカリと穴が開いたような、そんな虚無感があった。
「渋谷さん、ちょっといいかな……」
それから数日後のことだった。授業を終えいつものように帰る支度をしていると、不意に名前を呼ばれた。振り返るとそこには後藤君が居た。だけどその表情からはいつもの柔らかさはなくて、真剣そうな少し怖い顔だった。
その様子に思わず私は何か気に入らないことをしてしまっただろうかと思い悩んだけれど、特に何も思い当らなかった。というより、昼休みにミドリと3人で話をしたばかりだった。昨日たまたま見たバラエティ番組の話で、珍しく私も会話に混ざっていたけれど、始終彼は楽しそうに笑ってそれを聞いていた。気分を害した様子はまったく見受けられなかった。
だったら彼の子の表情の意味はなんなのだろう。不思議に思い首をかしげると、サッと後藤君の頬に赤みが増した。その表情を見て、あぁ、とそう思った。
「ちょっと、話があるんだけど……」
告白を、されるのだ。
「……、」
返事をしないままにジッと後藤君を見つめ返していると、業を煮やしたのか、彼は私の右手を取った。骨ばった大きな手だった。男の人の手をしていた。
男の子にこんな風に触れられたのはタロウ以外では初めてだなと思う。だけどタロウがこうして私の腕を取っていたのは、もう随分と前のことだ。あのころは手の大きさも、腕の太さもさほど変わらなかった。今のタロウの手は、私の腕をつかむ後藤君のように大きいのだろうか。
ぼんやりと手を行かれるままについていくと、いつもミドリたちとお弁当を食べている空き教室についた。ここはいつも放課後誰になっても使われていない。誰かが来ることはないだろう。
静かな教室はには明るい陽射しが差し込んでいた。だけど机が後ろのほうに下げられ、閑散とした教室にはその光が無性に物悲しさを感じさせた。
押し黙っていると、私の腕をつかんでいた大きな手がゆっくりと離れていった。解放された腕を、私はなんとなしに撫ぜた。掴まれていた時の違和感が残っていた。
「……ごめん、突然こんなとこ連れてきちゃって……」
「…………」
謝る後藤君に、私は何も言えなかった。なんと言えばいいのかわからなかった。だけど目の前で頬を染めるこの男の子が私に何を言いたいのかは分かってしまった。
言わないほうがいいわ。
そう思う。言ったって、何にもならないのよ。私はあなたに何もしてあげられない。あなたの望む返事を、私はすることはできないわ。
胸の内でそう唱える私に、彼は告げた。
「……渋谷さんのことが、好きです」
告げられた言葉に、私はとても悲しい気持ちになった。世界の一番暗くて狭い悲しみの境地にいうような、そんな気持ちになった。
だって私は、彼とは同じ気持ちにはなれやしないから。私を好きだという彼の気持ちを、一握りも理解できないのだ。なんで? どうして私なの? と。私なんかのことを好きになっても、なんにもならないのに。
心からそう思う。恐らくこの高校に入学してからは男の子の中では一番言葉を交わした男の子かもしれない。だけど彼は、私の何を好きになったというのだろう。 外見だろう。このなんにもない性格だろうか。それとも以前彼が呟いた、私の知らない私の個性だろうか。
なんにせよ、私には理解が出来なかった。理解ができないから、彼の真剣な言葉を嬉しいとも思えなかった。
「……ごめんなさい」
必死に出した答えはまるで砂を飲み込んだようにざらついた声で、私は何故だか泣きたくなった。ごめんなさい。心からそう思う。犬のような可愛い目をした優しい男の子。誰にでも柔らかな物腰で、誰からも好かれる男の。そんな彼を、私は傷つけてしまうのだ。
だけどそんな私の返事に、彼は笑った。とても穏やかに、そして悲しげに。傷ついたはずのその顔は、何故だかとてもキレイだった。
それから後藤君は「うん」と呟いた。その呟きは、まるで断られることを初めからわかっていたみたいだった。
ごめんなさい。そう思う。だけどそれでも私は、目の前のこの男の子に恋心を抱くことができないのだ。
その日の夜タロウから電話が来た。いつものように夜の9時を過ぎたころだった。だけど私は、初めて彼の電話を無視してしまった。
私はあれから、暗い気持ちのままだった。悲しそうに笑う後藤君に、私は笑いかけることも涙を見せることもできなかった。ただ私は俯くことしかできなかったのだ。
他の人ならもっと気の利く言葉をかけられたのかもしれない。だけど私には何もできなくて、その事実が私を余計に悲しい気分にさせた。
そんな気分の状態だったので、その夜の私はいつも聞いているタロウの明るい声もくだらない話を聞く気にはならなかった。人を悲しい気持ちにさせた後に、とても笑えない。到底笑えないような気がした。
だけどむなしく鳴り響く電子音に、私は余計に悲しい気持ちになってしまった。どういう気持ちでタロウは私に電話をかけているのだろうか。ひょっとして私の行動も、あの子を傷つけたりしているのだろうか。
そう考えるともう到底気分が晴れることはないように思われて、私はまだ9時過ぎだというのにベットに潜り込んでしまった。
そんな風に小さな変化の中を生きていた私に、大きな変化が起こった。気づけば私が後藤君に告白をされて一か月半位経ち、夏休みに突入しようとしていた。
その頃にはもう私の気持ちはそれなりに晴れていたけれど、未だに後藤君の姿を見ると気まずいような、居心地の悪さを感じてしまった。
しかしそんな私に反して彼はふっきれたようで、未だに柔らかなあの笑顔で私に接してくれた。そんな彼を見て、本当に彼は素敵な男の子なのだと感じた。彼はどんなと気持ちで私に接していたのだろう。早く後藤君に素敵な女の子が現れればいいのにと、心から私はそう願った。
夏休みに入ると、いつものごとく私たち一家は親戚一同が大集合するお盆シーズンのために東京の祖父母の家に向かった。毎年毎年この時期は道路も空港も混雑しているけれど、もはやそんなのには慣れたものだった。少なくとも、お盆はお正月の時期よりはまだマシだ。お正月は本当に混雑していて、気を抜くと家族と離れそうになってしまい、小さいころはいつも母に手を引かれていた。
そして長旅の末祖父母の家に着くと、いつものように先についていたらしいタロウが私を出迎えてくれた。
お正月に会った時よりもまた背が伸びていて、顔もシャープになっている。普通の男の子より少し背が高いくらいだろうか。Tシャツから出ている腕はそれなりにしっかりしていたけれど、全体的にほっそりとしているその体系は、まるでモデルか何かのようだなと思った。
青い目は相変わらず丸くてかわいらしい印象だったけれど、彼はもうかわいいだけの小さな男の子ではなかった。少年から抜け出して、着実に男の人に近づいていっている。
明るい髪の毛や青い目なんて関係なしに、タロウは思わず誰もが振り返るような格好いい男の子になっていた。
「コウ、いらっしゃい」
「はいはいお邪魔します。荷物運ぶの手伝ってちょうだい」
「ちょ、いきなり雑用をまかせるの? もっと何かあるでしょ、これでも久しぶりに会ったんだよ?」
「毎日会っているようなものじゃない」
毎日、会っているようなもの。
タロウの言葉になんてことはないようにそう返したものの、それは嘘だった。何故なら毎日電話をしているはずなのに、その度に私の知らないタロウが増えていくのだ。
タロウのことを知るたびに、知らないタロウを知っていくことになる。楽しい話でも、くだらない話でも。それを語るタロウに私は違和感を覚えていくのだ。
そうしていつしか私は、電話をするほどに彼が自分から離れていくような、そんな焦燥感を感じていた。
そんな私に、タロウが言った。とてもとても、静かな声で。
「毎日会えたら、いいのにね」
そのつぶやきに、私は振り返ることが出来なかった。
それから私はタロウに荷物を運ぶのを手伝ってもらい、それからクーラーの効いた居間に皆集まり、祖父母と話をして過ごしていた。
私は一人窓際のソファに座り、ほかの皆は居間の真ん中にあるテーブルの周りを囲んで向かい合って座っていた。たとえ慣れ親しんでいる親戚であっても私は密集した空間が苦手で、いつも皆が集まっている時はソファに座っていた。ソファなら最高でも3人しか座らないので、私は圧迫感を受けずに過ごすことができた。
今では昔みたいに、荷物をほったらかしてさっさとタロウと二階に行ってしまうことはなかった。祖父母や親戚と話をして、ご飯を食べて、やることももうないなという頃になったら私たちはどちらからともなく二階に上がり、二人で静かな時間を過ごしていた。
初めは皆の近況について話し合っていた。今も仕事中のタロウの両親の話を聞いたり、これから集まってくる親戚たちの話をしたり、私の父が祖父母の健康を気遣ったりと、何でもない話だった。
そのうち祖父母は私の話を聞きたくなったらしく「学校の調子はどう?」とか、そんな話を投げかけてきた。私には人に話すような面白い話はなかったが、それでも祖父母が聞きたがるならと当たり障りないことを話す。
と言っても、友人のことや勉強のことくらいしか話題はない。毎日友達と一緒に楽しく過ごしているわとか、勉強のほうはまぁまぁ大丈夫よ。なんてことくらいしか。
それでもそんな私のつまらない話を祖父母はとても嬉しそうに聞いていた。優しい人たちだから、孫の顔を見るだけで嬉しいのだろう。
しかも何人かいる孫の中で、私は一年のうち夏とお正月にしか会うことはできないのだ。祖父母の中で、私の存在はほかのいとこたちとは少しばかり違うみたいだった。
「コウちゃんは、とってもキレイになったねぇ……」
ふと、祖母がまぶしそうに私を見ながらつぶやいた。陽だまりのような優しい顔をしている。その眼で見る世の中はいったいどんな姿かたちをしているのだろう。私はおそらく、そんな優しい目で世界を見たことはない。
キレイなのは見た目だけよ。そう思ったけれど、優しいその目を前にしては決して言えなかった。
「お母さんに似たんだろうねぇ」
「やだ、お義母さんったら、うまいんだから」
「いえいえ、サトコさんも本当にきれいだよ。うちのにはもったいない」
「父さん、失礼だぞ」
「コウちゃんも、タロウもエマちゃんも、うちの孫は皆いい子できれいで、自慢の孫たちだよ」
「ははっ、ばあちゃんありがとう。俺もばあちゃん大好きだよ」
歯の浮くようなタロウの言葉に、皆がにこにこと笑う。彼は昔から親戚たちを喜ばせるのがうまかった。明るい笑顔と素直な言葉に、皆が呆れながらも嬉しそうに笑っていた。
だけどその中で妹のエマだけは小さなため息をついていた。その様子に思わず首をかしげてしまう。彼女がタロウの言葉にため息をついている姿なんて、それまで一度も見たことはなかった。
だけどすぐに、ふと思い当たる。あぁもしかして、こんな光景を見飽きてしまったのかもしれないなと。実の兄が周りに愛想を振りまいている姿は、思春期の妹にしてみればあまり見ていて気分のいいものではないのかもしれない。
エマは中学1年生だった。タロウと同様お母さんの血を多く引いていて、明るい色の巻き毛と青い目をもっている。まるでおとぎ話のお姫様のような外見をしていた。小さなころは天使のようにただひたすら可愛かったけれど、中学生になった今では少し大人っぽくなって、これからも物凄い美人になるのだろうなと予想させた。
タロウと過ごす時間が長すぎたため、昔からエマと一緒にいる時間はそれほど多くはなかったけれど、顔を合わせるといつも「コウちゃんあのね」と言って話しかけてくれる優しい子だった。
性格はタロウに比べると落ちついているけれど、それでもやっぱり年相応の、おしゃべりが大好きな性格をしていた。楽しそうに笑う姿はタロウにそっくりだった。
だけどそんなエマが、今は話しを続けている皆の輪をぬけて私の隣に座ってきた。話好きで明るい性格の彼女が話の輪から抜けることは珍しいことだった。タロウと同じように人懐っこい性格をしている彼女は、親戚一同が集まるといつも誰かかしらと話をしていた。
だからそんな彼女が私の隣に来たことに驚いてしまった。
「……どうしたの、エマ。私のところに来るなんて珍しいわね」
そう問いかけるとエマは一度ふて腐れたように唇をとがらせて、それから小さくつぶやいた。
「……うん。なんか、お兄ちゃんの横にいたくなくて」
「…………タロウの?」
「そう。……さいきん、嫌いなの。おにいちゃんのこと」
その言葉に、思わず目を丸くしてしまった。まさか彼女の口からそんなことを聞くことになるとは思わなかった。
タロウの面倒見の良さもあるのか、小さなころから彼女はとてもタロウを慕っているようだった。両親が仕事で家を空けていることが多く、二人きりで過ごすことが多かったせいもあるのかもしれない。
私の姿を見るまではタロウはいつもエマの横にいて、妹の世話を焼いていた。そしてそんな兄に、彼女は嬉しそうな、安心したような顔をしながらいつも微笑んでいた。その様子は仲のいい兄妹そのもので、私ですら「兄妹っていいな」と思た程だった。
しかしながら、そんなエマが今は口をとがらせ不機嫌そうな顔でタロウをにらんでいる。眉間に寄ったしわも、鋭く細められた目も初めて見るものだった。彼女はいつも明るく笑っていたから。
「……なんでタロウがきらいなの?」
「…………ここじゃ言えない」
そう言うエマのその様子からは何かただごとではないものを感じて、どうしたものかとしばし思い悩んだ。だけどこんな風に私の隣に来るということは、話を聞いてほしいということなのかもしれない。言いたくなければ誰にも言わないはずだからだ。
そう思い、私はエマに提案した。
「じゃあ、散歩にでも行く?」
「いいの?」
そう聞くエマの顔は驚きに満ち血たけれど、それと同時に期待の色も見て取れた。その表情に、どうやら提案は正しかったようだと思わず微笑んだ。
「うん。長旅で疲れたし、気分転換したいわ。行きましょ」
そう答えると、彼女はとても明るい顔で笑った。先ほどまでの暗い顔とは一転して、きれいに咲いた花みたいな笑顔だった。
それから、皆にエマと二人で少し散歩に行ってくると伝え家を出た。皆は話の途中でも
「気を付けるんだよ」と声をかけえくれたが、タロウだけがじっと私を見つめていた。だけどその表情からは何の感情も読み取れなかった。
祖父母の家は、東京の近郊から少し離れた閑静な住宅街にあった。田舎というわけではないけれど、都会のようなざわめきもない。家の周りには木々や川、そして公園がある。夏休みのせいもあり、公園では小さな子供とそのお母さんたちがちらほら居て、明るい笑い声が聞こえてきた。
私たちはあてもなくぶらぶらと歩いていた。この辺は小さなころから祖父母と一緒に歩いているので、迷うことはない。家の周りをぐるりと回るだけでも十分な距離があったので、そうしようかなと思った。
「……それで、どうしたの?」
家を出て以来なかなか口を開こうとしないエマに声をかけると、先ほどと同じ機嫌が悪いような、だけどどこか悲しそうな、そんな顔で見つめられた。
その表情の意味が私にはわからなかった。何があの仲の良かった兄妹を変えてしまったのだろう。なにがこの明るい女の子を悲しませているのだろう。私の知らないところで、また一つ何かが変わってしまったのだろうか。
そんなことを思いながら言葉を待っていると、エマは一度うつむいた。伏せた長いまつげがとても綺麗だったけれど、その様子からは寂しさのようなものが感じられた。
それから彼女はぽつりぽつりと、小さな声で話しをし始めた。
「……さいきんお兄ちゃん、変わったんだもん」
エマの言葉に、私は耳を澄ませた。タロウが変わった。それは私も感じていたことだった。電話をする度に、実際に会うたびにいつも思う。彼が変わったなと。
だけど私は、タロウの何が変わったのか具体的には分からなかった。それが私に奇妙な居心地の悪さを与えていた。一体何が変わったというのだろう。私はそれを知りたかった。
「……どんな風に変わったの?」
問いかけると、エマはジッとわたしを見つめた。言おうか言うまいか迷っているような印象だった。だから私はもう一度彼女に問いかけた。「タロウは何が変わったの?」私の言葉に、エマは一度息を飲み、それから唇を開いた。
「…………女の子」
「?」
「頻繁に、女の子を家に連れてくるようになったの」
「…………」
私の知らないタロウが、また増えた。気づけば私は眉間にしわを寄せていた。話の続きを聞きたいような、聞きたくないような、そんな気持ちになった。何故だか喉が詰まったように言葉は出なかった。
「中学生の時にも彼女はいたけど、今みたいな感じじゃなかった。どっかに遊びに行ったりとかで、うちに連れてくるのもたまにだったんだよ。……なのに最近、ほんと頻繁に連れてくるの。それでなんか、私家に居づらくなっちゃって」
だってその女の子、ハデなんだもん。そういう声はなんだか震えていた。私はそれを信じられない出来事のように聞いていた。
確かに依然した電話でタロウは彼女がいると言っていた。過去にも2人、付き合っていた女の子がいたと。その事実は私を驚愕させた。だってタロウとの会話からは、一切そんな様子が見られなかったから。
だからミドリや後藤君に好きな人はいるかと聞かれて「NO」と答えた時、なんとなくタロウの姿が浮かんだ。あの子もきっと、私と同じように恋なんて知らずに生きているのだろうなと。
だけど、実際は違ったのだ。タロウは私と違ってずいぶん前に初めての恋をし、恋人も出来ていた。私とは違っていたのだ。
頭の中で想像をする。タロウの部屋に、タロウと女の子がいる。その女の子は少しハデな印象で、おそらくクラスの中では目立つ存在なのだろう。だけどきっとキレイな顔立ちをしていて、いつもしっかり化粧をしている。タロウの学校では化粧は校則違反ではないのだろうか。だけどたぶん、彼女にはそんなことは関係ないのだろう。教師の注意なんて真に受けず、いつもきれいにまつげをカールさせて、頬をピンク色に彩っている。
そんな女の子が、タロウの部屋で楽しげに声を上げている。聞こえてくるのはタロウと女の子の笑い声。だけどその二人の楽しげな声を隣の部屋で聞いて、エマはうつむき、一人家を出ていく…………。
想像して、思わず眉を寄せてしまった。奇妙な嫌悪感が生まれた。それはエマと同じ種類のものかもしれないし、そうでないかもしれない。分からないけれど、頭の中で想像したその光景は私をとても嫌な気持ちにさせた。
「……コウちゃんは、お兄ちゃんをどう思う?」
不意に、エマが私に尋ねた。ハッとして彼女の顔を見つめると、その眼はやはり沈んだ色をしていた。わたしはいま、彼女の目にどんなふうに映っているのだろう。
「……私?」
「うん」
私がタロウをどう思っているか。
そんなことはこれまで一度も考えたことはなかった。考える余地も、考える必要もなかったから。何故なら私にとってタロウは小さいころと変わらず存在しているのだ。私のいとこであり、なんとなく関係が切れない、そんな存在だ。
だけど、タロウは違うのだ。私の知らないところでどんどん変わっていく。私の知らないタロウが生まれていく。その事実は私をいつも奇妙な気持ちにさせる。さびしいとも悲しいとも怒りとも違う。もちろん喜びとも違う。ただなんとなく、心のどこかに穴をあけられたような、そんな気持ちになるのだ。
何も言えなくなってしまった私に、エマは言葉を続けた。
「……お兄ちゃんは、……コウちゃんのことが好きなんだと思う」
「…………タロウが?」
思わず目を見らいてしまう。だけどすぐに、そんなハズはないわと私は笑った。だってタロウには恋人がいるのだ。そんな彼がどうして、私のことを好きだなんて言えるだろうか。
そう考えた私に対して、エマは真剣な表情で私を見つめていた。その表情に、思わず息を飲んでしまう。
「だってお兄ちゃん、女の子を連れてきた夜、いつもコウちゃんに電話するのよ」
「…………」
「お兄ちゃんが何をしたいのか、全然わかんない」
知らない人みたい。そう呟いて、それっきりエマは口を閉じてしまった。
新目の中、私はうつむくエマの横で今までの話を頭の中で繰り返していた。エマのタロウへの変化。タロウの行動。タロウの気持ち。だけど考えても考えても、私にはわからなかった。
だけどただ一つ言えるのは、私もエマと同じように今のタロウに対して違和感を感じてしまうということだけだった。タロウが何をしたいのか、何を考えているのか、何が彼を変えたのか、彼の何が変わったのか何一つとしてわからない。
だけど思いを巡らせていくうちに、だんだんと面倒くさくなってしまって考えるのをやめてしまった。そうして私は景色を見ながら、散歩を続けた。
自分のこともわからないのに、人のことがわかるわけがないのだ。そう思った。私は自分の中にくすぶる奇妙な感情がなんなのか分からなかった。
祖父母の家に戻ると、夕飯の支度中なのかおいしそうな匂いがした。今夜はタロウの両親やそのほか親戚一同が来ることになっているので、たぶんごちそうの準備をしているのだろう。私たちが東京に来た初日は大抵お刺身やらカニやらエビやら、普段あまり食べることのない魚介料理が食卓に並んだ。
エマと二人で散歩に行ってからは既に一時間近くたっていた。たぶん夕飯は1時間後くらいになるだろう。夕飯前に少し休む時間がある。流石に疲れてしまったので、部屋で横にでもなろうかな。そう思いながらエマを振り返ると、彼女は未だにうつむいたままだった。どうやら気分は晴れないままらしい。彼女にいつもの笑顔を取り戻すことが出来なくて、私は少し残念な気持ちになった。
玄関を開けると、タロウが居た。家の窓から私たちが帰ってくる様子が見えていたのだろう。おかえり。笑顔でそう言われる。だけどその笑顔が、何故だか私には他人のように見えた。
「……ただいま」
そう答える私の横で、エマが無言で靴を脱ぎ、タロウの横をすり抜けていった。今まで一度も見たことがない風景だった。その様子を、タロウは静かに目が追っていた。
「……嫌われたもんだなぁ……」
呟くタロウに、私は何も言えずに彼を見つめた。筋の通った鼻、シャープな輪郭。少女漫画に出てくるヒーローのような、整った顔立ち。だけどやっぱり、その横顔からは何の感情も読み取ることが出来なかった。
居間に行くと、父のお姉さん二人の家族も着いていたようで、家を出る前よりも今が華やいでいた。彼らは私たちが家を出て30分後くらいに着いたらしい。どちらもダンナさんや働いている子供たちは仕事終わりにそれぞれ来ることになっているようだった。
居間では1つ上と2つ上のいとこ二人が暇そうにテレビを見ていた。どちらも男の子だ。彼らは父の姉二人の息子たちで、見た目も性格も正反対だった。
高校3年生のいとこは勉強ができるらしく、まじめで落ち着いた印象だった。来年受験を控えている彼は、東京内の有名な大学を考えて日々勉強をしていると、いつだか父の口から聞いた。
もう一人のいとこは高校二年生で、がっしりとし身体と鋭い目つきのせいか、少しだけ近づきがたい印象だった。不良とまではいかないけれど、あまり素行はよろしくないらしい。
年が近いせいか、昔は二人で遊んでいる姿をよく見かけたけれど、気が付いたころにはそんな二人は見かけなくなっていた。今も二人は同じ空間にいるにも関わらず互いに無言だった。
だけど当たり前かもしれない。こうも正反対な二人だと、会話に花が咲くといったことはあまりないだろう。
そんな二人だったけれど、私の姿を見ると「久しぶり」と声をかけてくれた。想像していたよりも柔らかな声だった。タロウとばかりいた私はあまり彼らと遊んだことはなかったけれど、どうやら嫌われてはいないようだと感じた。
もうひとり、大学生のいとこがいたが、彼女は忙しそうに晩御飯を作る祖母たちの悦台をしていた。昔から気の利く人だったので、手伝わずにはいられなかったのだろう。
忙しそうな様子に声をかけるのをためらっていると、私の存在に気が付いた彼女に先に声をかけられて知った。「コウちゃん久しぶり」そう微笑む姿は、たったの三つしか違わないはずなのにずいぶんと大人びて見えた。
皆以前よりずっと大人っぽくなっている。変わっているのはタロウだけではないのだ。
親戚一同に声をかけた後、私は夕飯までの時間をゆっくり過ごそうと、2階へ向かうことにした。二階には小さなころから使っている私とタロウの部屋がある。
エマの話や先ほどのタロウの表情を見た後だとなんとなくその部屋で過ごすのは気が引ける気がしたけれど、祖父母の家ではいつしか各人が過ごすための部屋が決まっていたので、今更変えることも出来なかった。
もちろん、それは誰かが決めたことではない。昔からの流れと言うか、なんとなく決められたようなそんなものだ。だからどうしても部屋を変えたい場合は、祖父母に言えば簡単にそうしてもらえるだろう。だけど今更そうすることのほうがおかしい気がして帰る気にはならなかった。
祖父母の家はとても広かった。つくり自体は古いけれど、綺麗好きな祖母の影響か家の老化はいつもきれいに磨かれていて、濡れたような光沢を持っていた。
一階にはリビングのほかに部屋が4つあり、祖父母、私の両親、タロウの両親とエマ、そして父の姉家族が使っている部屋があった。どれも和室で、畳のにおいがした。祖父母の寝室以外は全て6から7畳ほどの広さだった。
二階には部屋が3つあり、どれも洋室だった。一つが7畳程度の広さで、あとは6畳程度だ。私とタロウの部屋はもう少し狭いのかもしれない。布団を二つ並べるとあとはもうスペースがなくなってしまうくらいの広さの部屋だった。
一番広い部屋を父の姉家族が使っていた。リビングに居た兄弟の家族である。だけどだれも使っていない空き部屋を一つはさんでいたので、彼らの声が聞こえてきたことはなかった。
しかしながら今はどの部屋もからっぽで、二階は静まり返っていた。恐らく一階もそうだろう。皆リビングに集まって話に花を咲かせているはずだ。私とタロウ以外の皆は、眠るとき以外は部屋に行かなかった。
静かな空間でゆっくり休めそうだ。そう思いながら部屋の扉を開けると、誰もいないはずの部屋には先ほど無言で立ち去ったエマが小さくなって座っていた。
立てた膝に顔をうずめているため、その顔は見えない。胸下まであるきれいな明るい髪がしなやかに垂れ下がっていた。だけどそれが余計に物悲しい印象を与えていた。
そんな彼女の様子を見て私は、驚いて思わず呆けてしまった。エマが居るなんて、想像もしていなかった。リビングにいなかったのは知っていたけれど、てっきり自分の寝室に行っているのだと思っていた。
彼女がこの部屋にいることは珍しかった。うんと小さなころに、タロウに遊んでもらおうと顔を出しに来たのが数回あっただけだったように思う。
「……エマ?」
訝しみながら声をかけると、ピクリと肩が揺れた。それからゆっくりと、彼女は顔をあげる。その顔を見て更に驚いた。タロウと同じ青いきれいな目に、たっぷりの涙がたまっていたからだ。それは今にも溢れて零れ落ちそうだった。
「……どうしたの?」
「…………」
どうしてそんな顔をしているの? 問いかけても、彼女は何も言わないままだった。
そんなエマの様子に少し悩みながらも、私は静かに近づいた。エマは相変わらず涙にぬれた目で私を見上げるだけだった。だけどじっと見つめてくるその瞳は、何かを言いたそうにゆれていた。
彼女の隣にそっと腰を下ろすと、再びエマはうつむいてしまった。長い髪に横顔が隠れてしまった。私はどうすればいいのかわからなかった。こんな時に何と声をかけたらいいのか、私にはわからなかった。
「……お兄ちゃんのこと、無視しちゃった……」
頭を悩ませている私に対して、エマはポツリと呟いた。消え入りそうな小さな声だった。
「…………」
ズズッと、鼻をすする音がする。どうやら本格的に泣き始めてしまったようだ。
それから涙にぬれた声で、「お兄ちゃん何か言っていた?」と聞かれ、私は迷った末に「嫌われたもんだなぁ、って言ってたわ」と答えた。再び鼻をすする音がした。
明るい色の髪の毛が日の光でキラキラと輝いている。夜が近づいているというのに、夏の夕暮れは明るかった。僅かにオレンジがかっているだけで、昼間とさほど変わらない色をしていた。
昔よく、こんな風に光るタロウの髪の毛を弄んでいた。ゆるくウェーブのかかった髪は柔らかで、触っていて飽きなかった。そんな私にタロウは嫌がるでもなく、ただ気持ちよさそうに目を細めながら私に髪を遊ばせていた。
ほんの数年前のことなのに、ずいぶん昔のことのように思い出された。そうして私は、気が付くと遠い昔を手繰り寄せるように彼女の小さな頭を撫でていた。タロウより長い髪の毛は、あの日触れたものと同じさわり心地だった。
「……嫌いなのに、タロウのことで悲しくなるのね」
そう問いかける私に、エマはただ沈黙するだけだった。肩が小さく震えている。その様子を見て、やっぱり彼女はタロウのことを嫌っていないのだなと思った。だけどそれが余計に、この優しい少女を傷つけているのだ。
昔の二人に、戻れたらいいのに。私は心からそう思った。
「……私は、仲のいいあなたたちが好きよ」
絵に描いたようなかわいらしくて仲の良い兄妹。それが私の記憶の中のタロウとエマだった。かわいらしい天使たちがじゃれあうように、あのころの二人は周りの人たちを穏やかな気持ちにさせた。
だからこんな風に泣くエマも、あんな風に無表情でエマを見るタロウも見たくはなかった。確かに昔と同じようにすることはできないかもしれない。だけど二人には、いつでも仲よ下げに笑いあっていてほしかった。明るい二人はいつでも笑っていればいい。正直にそう思った。
だけど、エマは言う。
「……お兄ちゃんとコウちゃんだって、変わったじゃない」
その言葉に、私は眉を寄せてしまった。私が感じていた変化は、私だけではない他の誰かにも伝わっていたのだ。だけどその変化を他人の口から聞くと、何故だか傷つけられたように胸が痛んだ。どうしてかは、分からなかった。
「変わらないなんて、無理なんだよきっと。でも、お兄ちゃんのこと嫌いになれない。だから余計に嫌なの。お兄ちゃんが嫌で嫌でたまらない」
彼女の涙声は、まるで雨みたいに私の体に染み込んでいった。
そうして、私は一つずつ思い出していった。寄り添いあっていた小さなあのころ。携帯電話を手に入れたあのころ。そうして、夜9時の、電話を続けた日々。
携帯電話での交流により、私とタロウの距離は小さなころよりずっと近くなっていたはずだった。会話が増え、笑うことが増え、そうしてたくさんのことも知った。
だけど実際は、私たち二人の距離は遠のいていくばかりだった。毎日のように声を聴いているのに私の知らないところでタロウは成長し、心も体も変わっていった。そうして気づけば、私の前に立つタロウは別人になっていた。
いつ、どこで、どう変わってしまったというのだろう。何故変わってしまったのだろう。何が私たちをそうさせてしまったのだろう。私にはわからなかった。
ぼんやりとする私に、エマが言葉を続けた。
「……一度、お兄ちゃんと女の子が一緒にいるところを見たことがあるの。たまたまお兄ちゃんの部屋の扉が少し空いてて。こっそり、見ちゃったの」
悲しい出来事を思い出すような声だった。震える声に、私は静かに耳を澄ませた。
「だけど、ちっとも楽しそうじゃなかった。女の子は楽しそうだけど、お兄ちゃんはそうじゃなかった。別のことを考えてるみたいだった」
それを聞いて、私は思わず首をかしげてしまった。ちっとも楽しそうじゃなかった? それは一体どうしてだろう。
その女の子がタロウの恋人なのか、それともただの友人なのかは分からないけれど、二人で過ごすからにはそれなりに気心の知れた相手なはずだ。
それなのに、楽しそうではないだなんて。それならば一体、その時間はタロウにとってどんな意味を持っていたのだろう。彼は女の子と二人きりで過ごす時間に、何を考えていたというのだろう。
「……何を、考えていたのかしらね……」
問いかける私に、エマは小さく首を振った。
「わからない。……だけど女の子が帰ると、いつもお兄ちゃんは別人見たくなるの。黙りこくって、話しかけても無駄なの」
そんなタロウの姿は想像できなかった。それに、先ほど散歩の途中にエマは言っていた。女の子と出会った後、タロウはいつも私に電話をすると。
だけどその声はいつも通りだった。明るい声で笑いながら、タロウはいつものように私にくだらない話を聞かせた。そこには少しも普段と違った様子はなかった。
「……私に電話をかけて来るときは、いつものタロウだったわよ」
そう答えると、エマは顔を上げた。その拍子に溜まっていた涙がポロリと零れ落ちたけれど、涙にぬれた目はとても真剣な色をしていた。
「……コウちゃんに電話をかけて、明るくなるの。いつものお兄ちゃんに戻ったみたいに。電話の最中はとても楽しそうだった。……だけど電話の後は、また静かになっちゃう」
「…………」
「……私だって、小さいころのお兄ちゃんとコウちゃんが好きだよ。あのときの二人が、いつも羨ましかったよ」
それなのに、何が変わっちゃったのかな。自問自答のような呟きは、「ご飯が出来たわよ」と叫ぶ声にかき消されてしまった。
それから。夕食を済ませお風呂に入り、私は再び二階へ上がった。他の皆はまだ居間でテレビを見たり、お酒を飲んだり、話したりして過ごしている。年に数回しか訪れないこの宴会を、親戚一同楽しみにしているようだった。普段顔を合わせることのない人たちが互いに近況報告をしながらお酒を飲み、夜遅くまで明るい笑い声が聞こえていた。
タロウの両親も夕食の途中で到着し、際立って目立つ二人はその場を賑わせていた。子供二人はよく遊びに来ているようだが、仕事の関係で両親二人はなかなか都合がつかず、あまり祖父母の家をおとずれることはないらしい。なので二人はひときわ楽しそうで、子供たちよりも楽しそうに笑っていた。
あんなに落ち込んでいたエマも豪華な料理や明るい雰囲気にすっかり元気を取り戻したみたいで、遅れて来たいとこ達と色々な話をしていた。昔からお姉ちゃんを欲しがっていた彼女は、歳の離れた姉妹にとてもなついており、彼女たちもまたエマをとても可愛がっていた。
そんな賑わいの中を抜け、私は二階の静かな部屋で東京に来て初めて息をついた。この部屋は一階の居間とだいぶは離れているので、喧騒は聞こえなかった。とても静かだ。
聞こえてくるのはどこかで鳴いている虫の声と、扇風機の小さな機械音だけだった。祖父母の家でクーラーが設置されているのは居間だけで、後は各部屋に扇風機が一台ずつあるだけだった。皆が居間からでないのは、暑さからの逃避という理由もあるのだろう。
扇風機から生まれるのは生ぬるい風ばかりで、ちっとも涼しさは得られない。扇風機のくせにたった一人の人間にさえ涼を与えられないのかと逆に不快な気分になる。
それに比べると、暑い暑いと漏らす北海道の夏は随分涼しいのかもしれないな、なんて思う。少なくとも扇風機はちゃんと扇風機としての役割を果たしてくれていた。
そんなことを思いながらも、私はこの蒸し暑い東京の夏にもだいぶ慣れていた。
蒸し風呂のような熱い部屋の中で私は一人、壁にもたれ、目を閉じて座っていた。眠たいわけではない。長旅で疲れたわけでもない。ただ体がそうすることを望んでいた。
何も考えたくないような、そんな気持ちになった。脳の一部が施行することを拒んでいるようでもあった。
それなのに、どうしてか頭に浮かぶのだ。あの明るい髪の毛と青い目が。ただ私をじっと見つめていた、あの子の姿が。
それから、気を紛らわすために持ってきていた本を読んでいると、階段を上ってくる音がした。
古い祖父母の家の階段は、のぼるたびにギシギシときしむ音がする。壊れることはないと知りつつも、皆恐る恐ると言った様子でのぼっていた。だけど私は、その音が嫌いではなかった。
ギシギシギシギシ、きしんだ音が近づいてくる。あぁ、来たのね。そう思いながら、私はパタリと本を閉じた。
それからすぐに、私のいる部屋の扉があいた。そうして姿を現したのは、思った通りタロウだった。今最も会いたくなくて、だけどつい先ほどまで頭に浮かんでいた人物だ。
会いたくない。そう思ったところで、この部屋が私たちの部屋である限り、会わずにはいられないのだけれど。
それでもなんといえば良いのかわからなくてじっと見つめていると、彼は一度私をじっと見つめて、それから静かに私の隣に座った。まるでいつもの私たちのように自然な動作だった。
隣に座るタロウの肩が、わずかに私の肩に触れている。暑さのためどちらもタンクトップ姿で、むき出しの肩が直接触れていた。
タロウも入浴を済ませた後なのか、ふわりと石鹸の匂いがした。祖父母の家にもともとあったものを使っているので、おそらく私も同じにおいをしているはずだ。乾きたての髪の毛は空気をはらんでふわりと揺れていた。
触れた先から、タロウの熱が伝わってきた。ひどく熱い。それなのに相も変わらず扇風機の風はぬるく、ちっともこの部屋を冷ましてはくれない。私はめまいがしそうだった。
「……コウ」
顔はむけないままに、タロウは静かに私を呼ぶんだ。私は返事をせずに黙ってそれを聞いていた。何故だか再び、昔のことを思い出した。小さな子供のころ。いつも静かに寄り添いあっていたあのころ。
今と同じだ。なのに昔とは違う。エマの言うとおり、いろいろなものが変わってしまった。何もかもが。変わっていないように見えるのに、実はすべてが変わっているのだ。それはきっと、姿かたちだけじゃない。
私はタロウの変化に戸惑うばかりだったけれど、きっと私も知らないうちに変わっていたのだろう。タロウだけではない。私も。
「……ねぇ、エマとなに話してたの?」
俺の悪口、何個聞いた? 返事をしない私に、可笑しそうに、だけど寂しそうにタロウが問いかけてきた。
その声音に、きっとタロウはすべて解っているのだと感じた。エマが何を私に言ったのか、そして何故エマが自分のことを嫌うのか。全部全部、分かったうえで彼はそうしているのだ。
何故そうするのかは分からない。だけどきっと、タロウにはそうしなければならない理由があるのだろう。そしてそれを、彼はきっと誰にも言いたくないのだ。
そんなタロウに、私は「さあね」とはぐらかすことしかできなかった。
「…………ねぇ、コウ」
「……なに?」
「…………」
私の名前を呼んだきり、タロウは何も言わない。静かな沈黙が続くばかりだ。
私は顔をあげて窓の外を見た。夕暮れ時とは違い、空は濃いインディゴブルーに染まっている。すっかり夜になっていた。この部屋からは月は見えない。星もない夜だった。ただただ吸い込まれそうなくらいに静かで暗い色をしていた。
「……、」
不意に、私の手に何かがふれた。驚いて目を向けると、それはタロウの手だった。小さなころとは違う、ほっそり伸びて骨ばった男の人の手。私より一回り大きかった。不意に後藤君の手を思い出した。私の手を引いた、あの手。あの手よりタロウの指先は長い。整った外見を持つこの子は、手までも美しい形をしていた。
顔をあげると、青い目と目があった。何も言わずじっと私を見つめている。まるでガラス玉のようだった。海の青のように透き通っている。
この目もずいぶん昔から知っていたはずなのに、まるで知らないもののように思えた。とてもきれいなのに、私は何故だか胸の痛みにも似た切なさを感じた。
見つめていると、不意に青い目が揺れた。視界がぼやける。まるで水中の中で目を開けているようだった。世界がぼやけた。その瞬間。
唇が、触れた。
「――……」
一秒にも満たない間触れていた唇はすぐに離れ、それから私たちは何も言わず互いに見つめ合っていた。何も言わず。何も聞けずに。私は一瞬、何が起こったのか分からなかった。だけどすぐに、キスをされたのだと、そう理解した。キスをしたのは初めてだった。
タロウの目は、じっと私を見つめるだけだった。彼が私にしたことへの理由をその目に探そうとしたけれど、それは出来なかった。どうしてか、拒まれているような気がしてしまった。
どうしてか私は、私をじっと見つめる青い目を見て思った。「言葉を発してしまえば、すべてが終わってしまう」と。何故だかわからない。
だけど私をただ見つめる目を見て、自分は今崩壊と修復の瀬戸際に立たされているのだということを感じた。何の根拠もない。ただそう感じただけだ。だけどそれは同時に、確信のようにも思えた。
崩壊か、修復か。そうなることの原因を作ったのは紛れもないタロウであって、私ではない。だけど選ばなければいけないのは私なのだと、そう思った。
そしてタロウがそのどちらを望んでいるのか、何故だか私には解ってしまった。
「…………、」
だから私は、何も言わずに再び本へと目を向けた。どこまで読んだかなんて、もうわからなくなっていた。書かれている小文字の一つですら頭には入ってこなかった。
だけどそんな私の横で、タロウは静かに寝転んだ。触れていた手や肩が離れていく。だけど熱は未だに残ったままだった。タロウの顔は見えない。私に背を向けてしまったから。
だけど部屋を出ていくことをしない彼に、私は自分の選択は間違いではなかったのだと、そう感じた。だけど自分が正しいことをしたのかどうかは、わからなかった。
そうしてふとエマの言葉を思い出す。
「お兄ちゃんは、コウちゃんのことが好きなんだと思う」
思い出して、あぁそうかと、そう思った。
そうして、少し前に私に告白してきた後藤くんの姿を思い出す。あの子は私との関係の中に変化を求めていた。クラスメートでもない、友人でもない、他の関係を求めていた。だから私に「好きだ」と伝えてきたのだ。
だけど、タロウは違ったのだ。
確かに色々なものが変わった。タロウだけじゃなく、私にも自分が自覚していないだけで色々な変化が訪れていた。年齢重ねただけじゃない。体が大きくなっただけじゃない。心も変わっていったのだ。
だけど何もかもが変わっていく中で、それでも変えたくないものがタロウにはあったのだ。そしてそれを守るために、彼は私にもエマにも他人にも、そして自分にさえも嘘をつき続けていたのだ。
僅かに震えるその背中の中に、私は色々なものを見てしまった。
タロウが変えたくなかったもの。それは、私との関係だったのだ。小さなころの、あの寄り添いあって過ごしていた日々を、彼は守りたかったのだ。
そう思うと同時に私はその背中に愛しさを感じて、気が付けば手を伸ばしていた。
―タロウ―
俺の中には、鍵をかけた気持ちがある。
俺はその鍵が外れて、閉じ込めた気持ちが外に出て暴れだしてしまうことが何よりも怖かった。だから外れないようにと、強固に鍵をかけ続けていた。
だけどそうして守り続けていた鍵は、ある日ある時、あっけなく外れてしまった。それは俺がずっと恐れていた事態だったけれど、俺は後悔はしなかった。
何故なら鍵をかけた扉の向こうにある願いを、あいつが拾い上げてくれたからだ。
この年でこんなことを言うと、大人たちは「何を言っているんだ」と怒るかもしれないけれど、俺は人生をうまく生きる方法というのをずいぶん昔から心得ていた。それこそ物心をついたころには知っていたと思う。
そうして事実、その方法のおかげでこれまでさほど大きな失敗もせずに生きてきた。
もちろんそれは、実業家であるオヤジの血とアメリカ人でモデルの母親の血を十分に受け継いだおかげというのもあるかもしれない。
昔から俺は周りの人が自分をどう言った目で見ているのかということをわかっていた。特殊な親を持つ俺を周りの大人たちは好奇な目で見ながらも、その実いつも俺に期待していた。「父親が実業家だものね」「ハーフなんだもの、かわいいのはあたりまえよね」
幼いながらに自分に向けられた期待とやっかみを感じ取った俺は、その中で上手く生きるにはどうしたらいいのかと小さなころからずっと考えていた。
そうして見つけ出した選択肢は、別段難しいことではなかった。それなりに勉強して、それなりにおりこうさんでいればいい。
それからいつなんどきでも自分の本心というものを隠してにこやかに笑い、何か面白いことを言えばそれでよかった。それだけで俺は大人にも子供にも好かれる人間になれたのだ。
だけどそんな俺にも、いつしか解決できないどうしようもないものが出来てしまった。それが他でもない、いとこであるコウのことだった。
思えば俺たち二人は、小さなころから微妙な距離間のある関係だった。出会えばまるで今までずっと一緒にいたかのように振る舞うのに、その実一年のうちたった数日しか一緒に過ごしてはいないのだ。
何故俺たちがあんなにも引かれあっていたのかは分からない。他にもたくさんいとこはいて、中には歳の近い男の子もいたのに、俺はいつもコウの隣を望んでいた。
何故それほど気が合うわけでもなく、性格が似ているわけでもない相手と一緒にいたのか。特に楽しい思い出があるわけでもなかった。ただ一緒にいるだけだった。そうする理由は、当時の俺にはわからなかった。
にもかかわらず、気が付けば俺は遠方からはるばるやってきたコウの姿を見るなり、彼女の手を引いていた。そうして短い時間を二人きりの部屋で一緒に過ごしていたのだ。
中学生になってからは、俺が与えた携帯電話のおかげで毎日連絡を取り合うことができた。だけどやっぱりこの微妙な距離感は変わらなかった。
むしろよけいに奇妙な関係になってしまったといっても過言ではない。何故なら毎日のように声を聴いているにも関わらず、実際に姿を見るのは一年のうちたった数回だけなのだ。近いようで遠い距離の中を、俺たちはいつも過ごしていた。
だけど俺はそれでも別に良かった。この距離感を不快に思ったことはなかった。
ただ電話から聞こえてくるあいつの声が聴きたくて、俺の話に呆れたり笑ったりするその様子が嬉しかった。
そしてそう感じていくうちに、ふと俺は気が付いた。「あぁ、俺はコウのことが好きなのだ」と。あいつは俺にとって特別な存在なのだと。
何故小さなころから彼女の手を引っ張り続けていたのか。少し考えてみれば、それは簡単なことだった。それは俺が、ずいぶん昔から彼女のことを好きだったからなのだと。
だけど中学生になったばかりの俺は、愛だの恋だのというのにはあまり関心がなかったので、コウを好きだと自覚してからも特に変わったことはなかった。
ただただ好きだった。あいつと携帯電話でつながっているのが嬉しくて、早く会いたいと、早く一緒にいたいと、そう思って過ごしていた。
しかしながらそんな俺のピュアな感情が狂い始めたのは、中学に入学して数か月たったころだった。中学入学後も「うまく生きる方法」を実践していた俺は環境が変わってもすぐに友人ができ、いつも友人たちとにぎやかに過ごしていた。
そんなある日の休み時間だった。友人の一人(もはや名前は思い出せない)がこんなことを言ったのだ。
「そういえばさぁ、俺、今まで深く考えたことなかったんだけどさ。実はさ、うちの親いとこ同士なんだよ」
「へ? なにそれ」
「いやだから、俺の父さんと母さん、いとこなんだって」
「……へぇ、いとこ同士って結婚できるんだ」
「いとこは大丈夫なんだって。……だけどさ、親には悪いけど、なんか考えられなくね?」
「………」
俺ははじめ、その話をぼんやりと聞いていた。いとこ同士の結婚。友人たちはさも奇妙そうにきいていたけれど、俺はいとこなんちゃら以前に、生まれてこの方結婚についてなんて考えたことはなかった。
もちろんコウのことは大好きだけれど、結婚なんて考えたことはない。付き合うことさえ考えたことはなかった。
中学生になりたてで、性教育とやらも割とつい最近受けたばかりの当時の俺には、付き合うことだとか結婚することの意味がまだよくわかっていなかったのだ。
だから俺は、ただあいつとつながっていられればそれでいいと思っていた。
そんな風にぼんやり聞いている俺をよそに、友人たちの会話は続いていて。そしてそれらの会話が、俺のコウへの感情に鍵をかけるきっかけとなるそもそもの一因だったのだ。
「んー……確かに俺も同い年のいとこいるけど。……付き合うことさえ考えられないな。幼馴染ならまだしも」
「だろ? なんかさ、いとこって小さいころから知ってるわけじゃん。しかも親戚皆俺とソイツ知ってるのにさ、なんか付き合うとかこわくね?」
「あー……ちょっと分かるかも。っていうか冷静に考えて、いとことセックスとかできなくね?」
「無理だね。つーかキスも無理。なんかいとこって兄妹に近い感覚」
「うん。……って、うあやべぇ、なんかだんだん親が気持ち悪く感じてきた……」
「なぁ、タロウはどう思う?お前もいとこ、いるだろ?」
友人の一人が俺にそう問いかけてきたけれど、俺は何も答えられなくて肩をすくめただけだった。何故だかその会話の中に混ざりたくなかった。
休み時間が終わった後の俺は非常にぼんやりとしていて、それ以降の授業はまったく身に入らなかった。教科書や黒板に見向きもせず、ただひたすらに考えていた。
(……コウにキス? ……考えたことないけど、たぶんしても俺は気持ち悪いと思わない)
だからと言ってほかのいとこにできるかと言えば、それは考えられないことだった。妹にするのとも違う。そもそも妹の唇にキスなんてしない。
体の中に半分流れている血の影響か、あいさつ代わりに頬にキスをすることには抵抗はないけれど、それでもそれが日本では当たり前のことではないというのはわかっているのでそんなことはしない。
じゃあ何故、コウは違うのか。何故俺は、コウへのキスに抵抗感を持たないのか。
そう考えて、ようやく気が付いた。それは俺が、コウに恋をしているからなのだと。俺はコウのことが好き好きで、そしてそれは恋愛感情だったのだと。
今まで抱いていた「好き」が、「恋」に変わった瞬間だった。しかしながらようやく気が付いた恋心は、気づいたと同時に友人たちによって間接的に否定されてしまったのである。
(……俺がコウに恋をするのは、おかしいことなのか……?)
もちろん、法律でいとこ同士が結婚することは許されているのだから、世間一般では何らおかしなことではないのだ。友人の両親のように、実際に結婚した人たちが多くいる。だから俺がコウに恋をするのもなんかおかしいことではない。許されないことではないのだ。
だけど、どうしても俺の頭からはあいつらの会話が離れなかった。当時の俺には自分がコウに恋をしているという事実も、そしてそれを否定する人もいるのだということはとても衝撃的なことだったのだ。
おまけに俺はそれまで他人に非難されたり否定をされることを経験したことがなかったので、余計に自分が常軌を逸しているのだと、おかしいのだと、そう感じてしまった。
しかしながらやっぱり俺はコウの声が聞きたくて、ずいぶんな衝撃を受けたにもかかわらずその晩もまるで何にもなかったかのように電話をかけてくだらない話をしたのだった。
だけど恋を意識した以上、以前と変わらないままでいるというのはやはり無理な話で。夏休みに入り、コウ一家が約半年ぶりに東京に来たとき、俺はもう昔のような心持ちでは彼女と一緒にいられなかった。
だって、たった数か月の間に随分とコウの姿が変わっていたのだ。
短かった髪の毛は鎖骨あたりまで伸びていたし、背も少し伸びていた。顔立ちも少し変わっている。釣り目がちな大きな瞳や細い顎なんかはそのままだけれど、小学生から中学生になるにつれてこんなに変わるのかというくらいに大人っぽくなっていた。
何より一番俺をドキリとさせたのは、彼女の少しばかり膨らんだ胸だった。着実に女になっていくコウを前にして、俺はもう今までのように彼女の手を引くことは出来なかった。ただ必死に何でもない様子で笑いながら「久しぶり」と声をかけて、荷物を運ぶのを手伝うことしかできなかったのだ。
一緒に過ごす時間は変わらなかった。相変わらず俺たちは寄り添うようにして座って思い思いに過ごし、同じ部屋で眠った。
だけどふとした瞬間に丸みがかった肩や腕や骨の浮いた鎖骨を目で追い、触れたいと思っている自分に気づき、俺はごまかすみたいに、なんでもないみたいに昨日の話の続きをしていたのだった。
そう。こうして俺は、自分の気持ちに鍵をかけたわけである。
俺は鍵をかけた扉が開かないようにするのに必死だった。決して開けてはならないと、コウに自分の気持ちを知られてはいけないと、わざと明るい声でくだらない話をした。
小さなころと変わらない様子でコウに接することが、鍵を壊さない唯一の手段だったのだ。
鍵が外れないようにするために、俺は色々なことをした。それまでしなかった悪さもしたし、今まで以上に勉強だってした。ふとした瞬間に思い浮かぶ声や姿をごまかすために、とにかく色々なことをした。
好きでもない女の子とも付き合ったし、キスもセックスもした。そうしていくうちに、他の誰かに恋をすることができるのではないかと期待していたのもあった。
だけど俺の気持ちはこれっぽっちも変わらなかった。いくら誰に好きと言われても心が揺らぐこともなく、ただひたすらに携帯電話越しの、海を渡った先にいるあいつのことばかりを考えていた。
それからまた俺の心の鍵を揺さぶる出来事が起こったのは、高校に上がったころだった。いつものように電話をしていると、珍しくコウが俺の話を止め、話を持ちかけてきたのだ。
しかしながらその話題に、俺は心臓が止まってしまうんじゃないかというほどに驚かされる羽目になってしまって。
何故かと言えば、恋心をひた隠しにしている相手に「恋したことはある?」と聞かれてしまったからである。
心の中の動揺を必死にごまかし、何故そんなことを聞くのかと問いかけたのだけれど、そこでまたコウはオレの心を揺さぶる返答をして。
「今日クラスの男の子と一緒に帰ったの」
それを聞いた俺はもう、ダメだった。自分の恋心を隠してみたはいいけれど、いざコウの周りに自分以外の男の影が現れると、もう平気ではいられないのである。
今すぐにでもコウのもとに行って、彼女を抱きしめて、俺はお前が好きだと、だれにも渡したくないのだと、そう伝えたくなった。
だけどそうすると途端に俺の頭の中には中学時代の友人たちの声がよみがえって、俺に恐怖心を与えた。俺はその恐怖心を前にして鍵を開けることが出来なくなってしまい、ただ必死に興味のないような、コウのことなんか見えていないような、そんな態度をとることしかできなかった。
そのために俺は、自分の恋愛歴を彼女に伝えた。高校に入ってすぐに仲のいい女の子が出来て、頻繁にデートにも誘われた。そうして何回目かのデートで向こうから告白されて、俺はそれに「YES」と答えた。その子はクラスでいうところのギャル系で、塗りたくったマスカラやチークの影響で普通の子に比べると派手な印象の子だったけれど、それほど悪い子ではなかった。そもそも有名進学校に入学できたくらいの子なので、見た目はともかく性格も頭も悪くはなかった。
だけど俺は、そんな彼女のことが別に好きではなかった。かと言って嫌いでもない。嫌いではないから付き合った。ただそれだけの存在だった。そんな曖昧なものであっても彼女であることには違いないので、コウには「彼女が居る」と、そう伝えた。それから中学時代に付き合っていた女の子の数も。
すると電話の向こうからは、明らかに戸惑っているようなコウの声が聞こえた。恐らく、俺には恋愛なんて無縁だと思っていたのだろう。当然だ。そう思われるように、一切そんな話をしないできたのだから
俺はコウと恋愛の話をするのが怖かった。コウの恋愛話なんて聞きたくないし、自分の話だってしたくなかった。だって俺は、自分の本当の恋心を隠すためにただ恋愛ごっこをしている男なのだ。それまで本気で好きになって付き合った子なんて一人もない。俺の心はいつだってコウの方を向いていて、その事実がいつも俺の頭を悩ませていた。
だけどコウのその様子に、俺の心は一切漏れ出てはいないのだと安心した。このまま昔のように接することができるのだと。俺はただ、コウが離れていくのが嫌だった。だから俺は、心に鍵をかけたのだ。
そうして俺はまた自分の気持ちをごまかすために嘘をつき続けた。楽しくないのに笑って、やんちゃをして、好きでもない女の子と付き合って。
そうして気がつけば、かわいい妹のエマにまで嫌われてしまっていた。
ある日彼女に言われた言葉は、今でも忘れられない。
それは彼女が家に遊びに来ていた日のことだ。放課後遊びに来て、晩御飯時を迎え彼女が帰った後のことだった。
礼儀として一応彼女を家の外まで見送り部屋に戻ろうとすると、俺の部屋の扉横にエマが立っていた。
彼女は泣きそうな目で、じっと俺をにらみつけていた。その眼が何を言いたいのかはすぐにわかった。変わっていく俺に、エマが嫌悪感を抱いているのはずいぶん前からわかっていたからである。
だけど俺はもう何も考えたくなくて、彼女を無視して部屋のドアノブに手をかけた。そんな俺に、まるで独り言のようにエマは呟いた。
「おにいちゃん、嘘ばっかり」
その呟きに、俺は「わかっているよ」と胸の内で頷いた。「だけど他に方法がないんだよ」と。
それから俺は彼女に何の返事もせず部屋に戻り、鼻につく香水の残り香がするベットに寝転んで、何故だか無性に泣きたい気分になった。
いつもそうなのだ。好きでもない女の子と過ごした後は、気が紛れるどころかひどく気分が落ち込んでしまう。自分が何をしたいのか、何をしているのか全く分からなくなる。
きっと自分はとても馬鹿なことをしているのだろう、そう解っていてもやめられないのだ。素直にも正直にもなれない。なってはいけないと脳内が命令を出す。決して鍵を開けてはならない、今のままでいなければダメなんだと。
それなのに俺は、傷ついたりするのだ。
そうして俺はまた、記憶の中のあいつをたぐりよせてしまう。あいつを好きになればなるほど俺は嘘を重ねる羽目になるのに、だからこそ自分を好いてくれる女の子たちを利用しているのに、結局はコウを思い出し、声が聴きたくなってしまう。聞かなければこの感情を忘れられるかもしれないのに、それが出来ないのだ。
だから俺は携帯を手に取り、アドレス帳を開き、電話をかける。忘れたい。だけど忘れられない。忘れたくない。電話に出るな。電話に出てくれ。そんな相反する祈りを込めながら。
だけどその日に限って延々とコール音が続くだけで、いつまでたってもコウは電話に出てくれはしなかった。俺は鳴らない携帯電話を握りしめながら、気が付けば涙を流していた。
それから。あの夏の日だ。久々に姿を見る甲は、やっぱりとても綺麗だった。東京の暑い夏のため薄着だった。タンクトップから覗く腕や、七分丈のパンツから覗く細い足首に目がいった。だから俺は、わざと明るい声で彼女に挨拶をしたのだ。そうしていれば、コウの顔だけに目を向けられるから。
直接姿を見るたびにいつも思う。昔のままでいるなんて、到底無理なことなのだと。そしてそれを招いているのはほかでもない俺だ。俺がコウへの恋心に気づいてしまったせいで、一緒に過ごす時間は不自然なものに変わってしまった。
なぜなら俺はいつも、昔と同じように過ごすために変わってしまったものを隠し続けていたから。変わらないために、変わってしまったものをひた隠しにしてコウの隣にいたのだ。
一緒に居られてうれしいはずなのに、そんな作り物の時間はいつも俺をむなしい気持ちにさせた。たった一人の人を好きになるということが、どうしてこれほど難しいものなのだろうと頭を抱えた。だけど俺は、そうすることもできなかった。
しかしながら、俺が作り出してしまった変化にコウも気が付いているようだった。直接言われたわけではない。それどころかコウは何が変わってしまったのかも分からないでいただろう。だけどそれは当たり前だ。分からないように、俺が隠してしまったのだから。
このままずっと、こうしていくんだろうなと思っていた。俺はコウへの恋心をひた隠しにして生きて、そうしていつしか好きでもない女の子と結婚したりするのだろうと。
コウはどうかは分からない。彼女は恋愛に興味がないと言っていたから。だけど綺麗なあいつを放っておく男はいないだろうと、そう思った。だからいつしか彼女も、誰かのものになる日が来るのだろうと、そう思った。それが彼女が好きになった相手なのか、はたまたそうではないのかは分からない。
だけどもしそうなったら、どうなってしまうのだろう。俺はよくそのことについて考えた。お互いに結婚した後は、今の俺たちはどうなってしまうのだろう。俺たちがいとこだという事実は一生変わらない。だけど少なくとも、今のままではいられないだろうなと、そう感じた。寄り添いあって座る日々はもう来ないのだろうなと。
おれはとても、悲しいことのように思えた。だけど今の俺にとっては、目の前のこの関係を壊してしまうことの方が怖かった。いつか来るその日まで一緒に過ごすことが出来たらそれでいいじゃないか。そう思っていた。
だけどその夏は違った。コウ達が家について、あらかた荷物を運び終えた後、皆でなんとなしに居間に集まり話をしていた。他愛もない話だった。オヤジの仕事の話とか、コウのお父さんの仕事だとか、色々。だけどそのうちにばあちゃんが美しく成長したコウをほめたたえて、それから俺たち3人を自慢の孫だと言った。
俺は柔らかく笑うばあちゃんをもっと喜ばせたくなって口を開くと、案の定彼女は嬉しそうに笑った。その場がとても和やかな空気になった。だけどそんな中、隣に座っていたエマが席を立ち、窓際のソファで一人座っていたコウの隣に移動した。
エマはひどく不機嫌な顔をしていた。このころ最上級でエマは俺を嫌悪していたので、先ほどの俺の言葉に耐えられなくなってしまったのだろう。ひょっとしたら「どうせそれも嘘なんでしょ」と思ったのかもしれない。
確かにばあちゃんを喜ばせようと思って言った言葉ではあったけれど、嘘はついていなかった。俺は小さなころから優しくしてくれたじいちゃんばあちゃんが大好きだったから。
突然隣に来たエマに、コウは驚いているようだった。話好きのエマが静かなコウの横に行くのは珍しいことだった。だけどエマにしてみれば、そこが唯一の避難場所だったのだろう。彼女は俺の隣に居たくないのだ。
それから二人はいくらか言葉を交わして、二人で席を立った。コウは散歩に行ってくると、そう言った。ただの散歩ではないことは、エマの顔を見ればすぐにわかった。
コウの言葉に皆は優しい顔で見送りの言葉をかけたけれど、俺は何も言えず、ただコウのことをじっと見つめることしかできなかった。そんな俺を、コウもジッと見つめていた。だけど俺はやっぱり、なにも言えなかった。
散歩に出かけた先で二人が何を話すのか、考えなくてもすぐにわかった。俺の話だ。エマはきっと、変わってしまった俺への嫌悪感をコウに話すに違いない。
それはコウの知らない俺の話だ。いつもふざけたようにおちゃらけている俺ではなくて、好きでもない女の子を連れて遊んでいる俺の話。そんな俺の姿を想像して、コウはどんな感情を抱くのだろうか。軽蔑するだろうか。それとも「そんなことはないはずだ」と否定するだろうか。どちらにせよ、俺があまり知られたくなかったことを彼女は耳にすることになるのだろう。
何故だか途端に、泣きたくなった。そうして一瞬、柔らかに差し込む午後の光も、明るい祖父母たちの声も聞こえなくなった。暗闇の中に一人閉じ込められてしまったような、そんな寂しさが全身を襲う。俺はその正体不明の間隔に一人で恐怖した。
(俺はコウと一緒に居たいだけだ……)
あいつのことがただ好きなだけなのに、どうしてこんなにも俺は無意味なことばかりしているのだろうと、そう思った。楽しくないのに笑って、やりたくもないのにふざけたことをして、好きでもない女の子と付き合って。どれも無意味なばかりだ。ほんとうにしたいことなんて一つもない。
ただ俺の頭の中には、未だに随分前に聞いた友人たちの否定の声が張り付いている。ただそれだけのことが原因で、俺は前にも後ろにも勧めず、ただ左右を行き来しているのだ。
本当に馬鹿なことをしているのだと、そう思う。好きな人に好きだとも言えず、ただ変わらないようにと変わってしまったものに鍵をかけて送る生活なんて、ただ物悲しいだけだ。そんなことはずいぶん前からわかりきっていることだった。
変えてしまえ。そっと耳打ちする声を何度も聞いたことがある。誰の言葉なのか、嘘か本当かもわからない。きっと鍵をかけた向こうの気持ちが、ここから出せと俺に語りかけていたのだと思う。
語りかける声のままにそうしてしまおうかという気持ちになったことは実際何度かあった。コウを電話をしている最中だとか、授業を受けている最中だとか、実際に二人で布団を並べて眠る直前だったりとか、好きでもない女の子と過ごした後だとか。
それによってどういう結末を迎えることになるのかは分からなかったけれど、少なくとも何かが変わるということは分かっていた。こんな無意味なことをすることも、同じ場所で立ち往生することもないのだと。
俺が発する一言によって、たとえどんな結果であれ前に進まなければいけなくなる。そうすれば、もうこんな風に頭を抱えることもなくなるのだろうと、そう思った。
だけどやっぱり、無理なのだ。覚悟を決め、鍵を開けようとしたとたんにまた俺は過去にとらわれる。そうして首を振り、鍵を手放してしまう。
変わってしまうことが、怖かった。とっくの昔にいろいろなものが変わってしまったというのに、それでもまだ俺の隣にはコウが居て欲しかった。いとこでいるうちは俺たちはまだ一緒に居られる。それでいいじゃないかと、俺は自分に言い聞かせた。あいつの隣に居られるんだ。それだけでいいじゃないかと。
俺はただ、臆病だった。鍵を開けてしまった後、俺とコウがどんな関係になるのかわからなかった。たとえ俺の言葉をコウが受け入れても、受け入れなかったとしても、もうきっと単なるいとこではいられなくなるのだ。
でも、だとしたらいったい何になるというのだろう。フラれた後は? 付き合って、万が一別れた後は? その先で俺たちは、これまでのように同じ部屋で過ごせるのだろうか。
だけどその晩、俺はとうとう鍵を開けてしまったのだ。
コウとエマが帰ってきたのは、それから一時間ほどたったころだった。その頃にはまだ来ていなかった親戚たちもちらほら来ていて、俺は歳の近いいとこ達と話をしていた。どちらも男の子で、昔はよく遊んでいたけれど、二人とも昔とはずいぶん印象が変わっていた。
俺と話をしている時はそうでもなかったけれど、それ以外では二人はとても暇そうにしていた。たぶん都心で育った彼らにとっては、静かなだけの祖父母の家は暇なのだろう。俺はそうでもなかったけれど。
親戚たちと話をしていると、窓の向こうにコウとエマが見えた。どうやら帰ってきたようだと思い、立ち上がり玄関へ向かった。
出迎えて声をかけると、コウからは返事が返ってきたけれど、エマは何も言わなかった。黙ったまま靴を脱ぎ、それから俺の存在を無視して走り去ってしまった。その様子に、俺は自業自得だと感じながらもとても悲しい気持ちになった。
大切な人たちほど、俺から離れていってしまう。だけどそれは、全て俺のしていることが原因なのだ。
エマが去ってしまった後をじっと見つめている俺を、コウは静かに見つめていた。
それから晩御飯の時間になって、まだ来ていなかった親戚たちやどうにか都合をつけたらしいオヤジとか母さんも来て、居間は明るい声で満ち溢れていた。楽しげな声と豪華な料理のおかげで、先ほどまでつまらなさそうにしていた人たちも皆笑っていた。
ご飯の前までは暗い顔をしていたエマも、今では楽しそうに笑っている。その笑顔を、ずいぶん久しぶりに見た気がした。
コウはご飯の時でも何一つ変わらない様子だった。これも食べろあれも食べろと進めてくる親戚たちに戸惑いながらも、小さく笑っていた。俺ももちろん楽しそうに笑っていたけれど、実際は一つも楽しいことなんてなかった。大勢の中にいるのにまるで一人ぼっちにされてしまったような、そんな孤独感だけがただ付きまとっていた。
晩御飯が終わると、コウは早々にお風呂に入り、二階に上がってしまった。騒がしいのがそれほど得意ではない彼女はすっかり疲れてしまったのだろう。
すぐに後を追うかどうか迷った。だって、後を追ってなんになるというのか。また一緒にいるために嘘をつくという同じ行動を繰り返すだけだ。そうしてまた、前にも後ろにも勧めなくなる。変わっても変わらなくても、俺は頭を抱える羽目になるのだ。
結局二階に上がったのは、それから一時間ほどたったあとだった。入浴を済ませて幾分すっきりした気持ちになった俺は、ギシギシ悲鳴を上げる階段を上った。グルグルと考えてばかりだった思考回路から解放され、少しだけ晴れやかな気持ちになっていた。今なら本当にいつも通り、コウの横に居られるかもしれないと、そう思った。
だけど、ダメだった。
俺をじっと見つめるその目に、胸をわしづかみにされたような気分になる。昨日の電話の続きでもしようと思っていたのに、俺は何も言えなくなってしまった。
それでも突っ立ったままでいることも引き返すこともできないので、俺は静かにコウに近づいた。そうして彼女の隣に腰を下ろす。出来るだけ自然に、小さなころと変わらないようにと、なんでもないことのように振る舞った。だけど実際は、何一つとして同じものはないのだ。
むき出しの肩と肩が触れていた。そこから伝わる熱に、俺の頭は煮えたぎりそうなほどに熱くなった。
その熱を無視するために、俺はコウの名前を呼んだ。返事は返ってこなかった。そんなコウに、俺は散歩のときエマと何を話していたのかと質問した。そしてわざとおちゃらけた様子で、自分の悪口を何個聞いたのかと問いかけた。だけどその声は思いの外かすれていて、自嘲気味な笑いしか出てこなかった。
そんな俺に、コウは「さあね」とはぐらかした。最初から何か答えを期待していたわけではなかった。何故ならエマが何を話したのか、聞かなくてもわかっていたからだ。
俺の話を聞いて、コウは一体どんなことを思ったのだろう。今隣に俺が居ることを、嫌だと思ってはいないだろうか。俺のことなんて、もう嫌いになってしまっただろうか。
そう思うと同時に耐えきれなくなって、気が付けばおれは再び彼女の名前を呼んでいた。今度はその呼びかけに、彼女は答えてくれた。だけど俺には言うべき言葉は何もなくて、顔を会えることもできず、ただ俯くことしかできなかった。
しばらくコウは黙って俺の続きの言葉を待っていたけれど、それから彼女は顔を上げ、窓の外をぼんやりと見つめていた。月も星もない夜空をじっと眺めている。小野横顔はとても綺麗だった。長いまつげが瞬きをする度に揺れている。扇風機の風に、彼女のコウの髪の毛がサラリと揺れた。
その時、だった。俺は無意識のうちに、コウの手に自分の手を重ねていた。驚いたように彼女が自分の手に触れているものを見る。そしてそれが俺の手だとわかると、ゆっくりと顔を上げた。ずいぶん久しぶりに触れたコウの手は、とても小さく、か細く思えた。
猫のような形の茶色い目が、俺をじっと見つめていた。こんなに近い距離でこの目を見たのはいつぶりだろう。俺の目とも、エマの目とも違う色のそれはとてもきれいな色をしていた。紅茶のような澄んだ茶色をしている。
あぁ、こいつのことが好きだ。その目を見て、心から思った。そう思ったと同時に、どこかで鍵が外れる音を聞いた。
それと同時に、俺はコウにキスをしていた。
「――……」
ほんの一瞬触れただけのそれは、生まれて初めてした本当のキスだった。好きな相手にした、意味を持つキス。だけどその向こうでは、言葉にならないコウの声が聞こえた。
唇を離すと、まるで何が起こったのかわからないといったように目を見開いているコウと目があった。だけどすぐに理解したようで、その唇は一瞬何か言おうと形作って、だけどそのままの形で止まってしまった。
俺は、何も言わなかった。そしてコウにも、何も聞かないでほしかった。ズルいのだ。この期に及んでまだ俺は、変わってしまうことを拒んでいた。
外れてしまった鍵はまだ壊れてはいない。もう一度、かけなおすことができた。そしてそれは、コウの行動次第だった。
本当に、俺はずるい。今度はコウに、鍵をかけさせようとしている。
「…………、」
だけど、コウは。コウは、俺の心を汲み取ってくれた。
見つめあったままの沈黙の後、彼女はそっと俺から目をそらし、読んでいた本へと目を向けた。カチャリ。そのしぐさに、もう一度鍵がかかった音を聞いた。
コウは何も言わない。何も聞かない。まるで何もなかったかのように、いつも通りだった。
その姿を見て俺は、泣きたくなった。こみあげてくる涙を隠すために、俺は彼女に背を向けて寝転んだ。ありがとう。胸の中でコウにお礼を言う。それと一緒に、ごめんなさいも。涙が一滴、頬を伝った。
きっと、コウに俺の気持ちは伝わってしまっただろう。当たり前だ。あんなことをした後なのだから。だけど彼女は、それでも俺の隣に居てくれた。俺の気持ちも、俺の狡さも知ったうえでなお。
コウが俺の真意を悟ってくれたかどうかは分からない。だけどコウは、俺がまだ彼女の隣にいることを許してくれた。それは俺にとって、何よりもの救いだった。
それから俺たちは、今まで通りに時を重ねていった。俺は再び心に鍵をかけて、そんな俺に相変わらずコウは付き合ってくれていた。
あの夜のキスについては、どちらの口からも話題には上がらなかった。俺は当然忘れられることができないでいるけれど、コウもきっと忘れてはいないだろう。だけどあの出来事はまるでなかったかのようにして時は過ぎていった。
俺は以前とは違って、鍵が外れてしまうことをそれほど恐れないようになっていた。もちろんそれなりには気を配っているけれど、そのために昔のようなことをすることはなかった。好きでもない女の子と付き合うこともやめた。だってそんなことをしたって、気が晴れることはないと言うことは分かっていたから。
俺は自由に生きていた。笑いたいときに笑って、怒りたいときに怒って、好きなように生きていた。以前より付き合いが悪くなった俺を友人たちは不満げな顔で見ることがあったけれど、俺はさほど気にしなかった。非難の目を恐ろしいと思うことはなくなっていた。
そんな風に過ごしていた、ある日のことだった。
「え? こっちの大学にくるの?」
その晩、珍しいことにコウから電話がかかってきた。かかってきたのは夜の9時。俺がいつもかける時間と同じだった。
だけどコウから電話がかかってくることはめったにないことだった。これまでに5回もあっただろうか。なかったように思う。
驚きながらもどうしたのかと聞くと、進路についての話だった。どうやらコウは今日学校での進路相談を終えたらしい。俺は昨日、担任との進路相談を終えたばかりだった。
「ええ。まぁ受からないことには行けないけど」
「どこの大学?」
「○大学の英文学科」
「……ふうん」
気が付けば俺たちは高校3年生になっていて、周りの友人たちもちらほらと進路について話し始めているところだった。
だけど俺はといえば特に進路なんて考えておらず、担任にも「お前が何を考えているのかわからないよ」と呆れられたばかりだった。しかしながらそんな風に俺を心配する教師に対し、俺は「進学はします」と答えただけだった。
いずれオヤジの仕事を手伝わなければならない日が来ることは分かっていたので、どのようにでもなるようにと常日頃から勉強はしていた。
なんだかんだで高校も割と簡単に名門に入ることが出来てたので、大学もそこそこのところには進学できるだろうと考えていた。
しかしながらそんな大雑把な計画しか立てていないそんな俺とは違い、コウはまじめだし頭もいいから卒業後はきちんと目標を消えて大学に進学するのだろうなと予想していた。
だけどそれがまさかこっちの大学だなんて、考えもしなかった。北海道の人はあまりこっちに来たがらないから、きっとコウも向こうの大学に行くのだろうと思っていたのだ。北海道にも名の知れた大学があることは知っていた。
「……じゃあ、受験の時はうちに泊まるといいよ。空いてる部屋かすから」
「そうさせてもらうわ。ご両親に伝えておいて」
どうやらそのことを相談するために電話をくれたらしく、電話の向こうでコウが安心している様子が伝わってきた。受験のために位置からこっちにホテルを借りたりするのは大変だろうから、少しでも力になってあげたいと心から思った。
「……そっか、コウ、こっちにくるんだ」
「受かったらの話よ。まだまだ先だしね」
「受かるだろ。……エマが喜ぶよ、きっと」
そういいながらも、そのことを想像して一番喜んでいるのはたぶん俺だった。コウがこっちに来て暮らすなんて信じられないことだった。だってもうずっと会っていないのだ。
それまではお盆とお正月の年に2回東京に訪れていたコウ家族だったけれど、高校一年の夏を境に、お父さんの仕事の都合がつかず、こっちに来ていなかった。だからあれからまる2年間、コウに会っていなかった。
こうして電話は続けているけれど、実際の姿は高校1年生のあの夏以来見ていない。だからきっと、俺の知らないところで彼女はまたさらにキレイになってるのだろう。
早くコウに会いたいなと思った。心から、そう思った。
「……こっちにくるの、待ってるよ」
「……ええ。頑張るわ」
電話を終えて、俺は静かに息をついた。コウがこっちにくる。それはまだ未定のことだけれど、なんとなくそうなるだろうという確信が持てた。
○大学と言えば東京では割と頭のいい大学で、特に彼女が受験する英語学科が強いと有名だ。でも、コウなら多分大丈夫だろう。実際に彼女がどれだけ頭がいいのかは知らないけれど、今の時期の段階で進路が決まったのであれば、受かるようにきちんと準備を進めるはずだ。だからたぶん、大丈夫だろう。
だけどそうなると当然北海道からは通えないわけだから、コウはこっちに住むことになる。部屋を探すのを手伝ってもいいし、我が家の一室を貸してもいいし、オヤジに頼めばひょっとしたらオヤジのマンションの一室を貸してくれるかもしれない。○大学に近いところに、オヤジのマンションはあっただろうか。今度聞いてみよう。
なんにせよ、コウがこっちの大学に通うのであれば今までとは違い、すぐにでも会いに行ける距離になるわけだ。
「……早く、会いたいよ」
とっくの昔に切れてしまった携帯に向かって、俺は小さく笑った。
俺はあの日、鍵が開いてしまったことを後悔してはいなかった。鍵を開けてもなお、コウが隣に居てくれるということを俺は知ったからだ。彼女がどういった気持ちでそうしてくれているのかは分からない。
だけどもしコウがこっちに住むようになって、毎日顔を見合わせることができたとしたら。そうしてもしまた、鍵が開いてしまうようなことがあったとしたら。それでもなお、彼女が俺の隣にいることを拒まないでいてくれたとしたら。
今度は俺は、きちんと前に進もうと思うのだ。
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2012/02/22(Wed)23:27:44 公開 / のんこ
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■作者からのメッセージ
若い二人の、先が見えない感じを書きたくて進めていると、こんな終わり方になってしまいました。歯がゆいような、煮え切らないような、気持ちの悪い感じが伝わればいいのかなぁと思います。
以前投稿したものを加筆修正しました。
いたらぬ点が多々あると思われますが、ご指摘はオブラートに包んでくださると安心します。