- 『夢喫茶』 作者:遥 彼方 / リアル・現代 未分類
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全角4473.5文字
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原稿用紙約12.95枚
人気がない喫茶店の片隅で、静かに読書をするということは、本当に心地良くて、いつまでもそこにいたいと思えるような穏やかな一時だった。私はいつもの通り、端の席に座ってアメリカンコーヒーを飲んでいたが、そんな時、そっと手元の文庫に細長い影がかぶさったのがわかった。振り向くと――。
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私は隅の方でアメリカンコーヒーを飲みながら、ゆっくりと読書をしていた。この喫茶店内に流れる、静謐とした雰囲気が好きで、何度もここに足を運んでいた。
ページをそっと繰ると、その乾いた紙の音がレンガの壁に反響し、店内に流れるスムーズジャズに溶け込んで吹き抜けの天井へと昇っていく。
多くある、そのランタンが周囲を照らし上げ、木陰に佇む少女の絵がこちらに微笑みかけていた。そして、年季が入って黒ずんでいる木の柱、それに使い古されたテーブルと椅子――何もかもが愛着を注がれているようで、とても優しい空気の流れる店だった。
私は本を読みながら、失礼な言い方だが、前に読んだ作品の方が段違いに面白いな、と思った。文庫本を閉じ、鞄に入っているそのハードカバーの書籍を見やった。自然と手を伸ばして、その表紙をなでる。
この本を超える作品は、きっとこれからも出てこないだろう、と心中で独り言をつぶやいた。思えば、私がこうして喫茶店に通うようになったことには、この作品の影響が多分にあるかもしれない……ただそう感じた。この本を読んでから実際、あの世界が忘れられなくなってしまった。そうしていつでも、私はこの本を持ち歩くようになった。
私は軽く息を吐き、再び気を取り直して、その文庫本を読もうとした。その時、どこからかふと甘い香りが漂ってきたのを感じた。それは花弁にそっと顔を近づけた時のような――頭の中が一瞬で冴え渡る気分の良い香りだった。
私は文庫本を捲る手を止め、視線をそっと横へと移動させる。すると、一人の女子高生が隣の席に座るところだった。彼女の髪は丹念に梳かれて川の流れのようで、前髪の隙間から、白百合のようにきめ細かな肌がかすかにのぞいていた。
そして、その目はとろんとしたまま微かに潤んでおり、頬を見ると、それは赤く色づいていた。彼女はこちらに振り向かずその席についたが、明らかにこちらを意識しているのがわかった。
彼女の唇から荒い息が漏れて、そうして彼女は小刻みに震えるその指でメニューを開いている。その姿を見た途端、あの本の風景が浮かび上がってきた。その心地良い雰囲気を思い出して、周りに境界線が引かれて私達が孤立している――何故かそんな感覚が襲ってきた。
私はそうした不思議な気分に浸りながらも、いつも通り文庫本を読み出す。その作品の世界にのめり込み、それと共に言葉では形容できない、心を揺れ動かすその感覚にただ覆われていた。
そうして私は、彼女の視線がこちらへと注がれていることに気付いていた。その強い視線が心の深いところまで突き進んでくるようで、そして、眩暈がするほどの既視感が襲ってくるようでもあった。時間が経つにつれて彼女の息遣いが激しくなっていくのがわかる。
「……あの」
彼女は恥らいを含みつつも、それでいてしっかりした声音で言った。
私はそっと振り向き、少し唇の端が上がった、悲しいような嬉しいような――彼女のそんな歪んだ表情を見遣った。
「どんな時であっても、この席を選ぶんですね。本当にいつでも、ここに」
私は、え、と本当に小さな声を漏らした。その言葉が耳の中に木霊した途端、この不思議な感覚の正体をすべて理解できて、私はそうして俯き笑ってしまう。それから笑顔を浮かべ、
「ここで、ゆったりと過ごすことが好きなんだ」
そう言うと、彼女は宝石のようにきらきらと輝く瞳でじっと見つめ返してきて、うなずいた。
そんな瞳の輝きを見ていると、私にもこんな時代があったな――そのようにどうしても考えてしまう。いつも好きなことに一生懸命で、そのことしか見えなくて、自分でも気付かずにのめりこんでしまう――そんな情熱はもう、どこかへ消えてしまった。
「何の本を読んでいるんですか?」
少女はわずかに息を切らせながら、どこか興奮した様子で言った。頬の赤みがさらに濃くなった気がする。
「私、実はずっとあなたに話しかけたかったんです」
彼女は本当に一語一語を噛み締めるように、どこか切実そうな声で言った。他ならぬ自分でつぶやいたその言葉が、自分自身を打ちのめしてしまったかのような、そんな複雑そうな表情が浮かんでいた。そして、彼女は、あの、とつぶやく。
「何かな?」とつぶやく私に対して、彼女はふと言い淀み、そして視線を逸らしながら「変なことを言うようですが」と言った。
「あなたは兄に――それこそ生き写しのように、本当にそっくりなんです」
顔の険しさと、爛々と輝くその瞳を見ているうちに、どこか優しい気持ちになるのを感じた。
「あなたは……私の兄なんじゃないですか?」
彼女は身を乗り出して、そう言ってくる。私はそれには何も返さず、ただくすりと笑った。すぐに顔を上げて、言う。
「そんなに、君の兄さんに似てるかな?」
「似てる・似てないの問題ではなく、あなたは私の兄さんなのではないですか?」
そうして次の言葉を待つように、じっと潤んだ瞳で見つめてくる。私はただ首を振って、そうしてそっとカップを手に取り、アールグレイティーを一口飲んだ。それから、彼女と向き合った。
「君の兄には、どうやってもなれないよ。それは、君が一番わかってることなんじゃないかな」
その言葉を聞くと、彼女は唇を引き結び、そして自分の不自然な言動にようやく気付いたように、その頬から朱が引いていくのが見えた。
「すみませんでした……ただ言ってみただけです」
彼女はそう言って、何かを堪えるようにぎゅっと目を瞑った。そんな様子を見ていると、私はどうしても可哀想に思ってしまって、
「まあ珈琲でも飲んで、ゆっくりしていったらいいよ」
そう言って、近くの店員を呼んで珈琲をおごってあげた。すると、彼女はようやく顔を綻ばせ、穏やかな表情を浮かべて、「ごちそうさまでした」とつぶやき、席を立った。そのまま離れた席に座った。
私がようやく息を吐いて肩の力を抜いていると、そこで喫茶店の女性店員が近づいてきた。
「さっきの会話聞こえちゃったんだけど、どういうこと?」
店員はあの女子高生を見やって「もしかしたら、あの子はあなたに憧れているんじゃないの?」と言った。
「……それは、ないよ。一体私のどこに、そんなに憧れる要素があるんだよ」
私は自分の頬を叩いてみて、そう言った。すると、女性店員は呆れたような顔を浮かべ、「あなたは、本当に馬鹿ね」と言った。
「とにかくあれは惚れている訳じゃないよ、もっと別のものだ……彼女にとっては当然のことだよ」
「まさか本当に生き別れの兄妹とかじゃないわよね?」
「だから、それもない」
私がそう言うと、店員は溜息を吐いて、つぶやいた。
「なら、なんであの子、さっきからあなたを熱い眼差しで見つめてるの? それに、私なんかは睨まれているのだけれど……」
「確かに君は、彼女が望んでいるもの、すべてをぶち壊してるからな」
「何なの」と女性店員が唇を尖らせているその途中、女子高生がこちらを見つめて一冊の本を取り出し、開いている。
「次にあの子は、たぶん君を呼ぶよ。そして、『あの穏やかで、落ち着いた方の名前は何て言うの?』と聞いてくるよ」
その時、女子高生が顔を上げて、女性店員をそっと呼んだ。店員は驚いたように私を見やって、女子高生に近づき、そうしてその言葉を聞いて呆然とする。目を丸くしながら再び私の元に戻ってきた。
「あなた、何でわかったの?」
「まあ、聞いてくれ……次に、彼女はきっとダージリンティーを頼む。それから席を立って、二つ隣の席に座り直すよ」
そうして、女子高生は店員を呼び、その後、二つ隣の席へ移った。女性店員はぽかんと口を開けて、「どういうことなの?」と掠れた声でつぶやく。
「思春期の女の子というものは、誰だって少しぐらい、夢を見たいものさ。同じ夢を共有している私と彼女が、出会ったのは、本当に運命としか言いようがないだろうけどね」
「だから、どういうことなの?」と迫ってくる彼女に対して、「早く仕事に戻りなさい、ほらほら」と言って彼女を送り出した。そうして、鞄からハードカバーの本を取り出して、開いた。
同時に、この喫茶店の片隅を眺め、私は微笑んだ。作品の舞台は喫茶店であり、文筆家の若者が人気のない店の片隅で本を読んでいると、少女が話しかけてくるという場面があった。彼女は幼い頃に別れた、敬愛する兄とその若者の姿を重ね、いつしか強い恋慕の感情を抱くようになる。
この作品の中では、少女の視点で進行するシーンもあり、彼女は離れた席から若者を眺めて、女性の店員に名前をそっと尋ねるのだ。そうしてダージリンティーを頼み、彼の近くへと移動するのだった。
最近出版されたばかりの本だったが、読書好きの人々にはひそかに傑作として知られており、思春期の少女がいかにも好みそうな内容でもあった。ストーリーは綿密に作りこまれており、文学的価値もあった。
その後のシーンを思い起こすと、意地悪な心がふと湧いてくるのを感じた。紅茶を飲み干して、「さて、行くか」とつぶやいて席を立つが、そんな中、私はどうしても微笑んでしまう。
少女が若者を見つめているその最中、彼がそっと席を立ってしまう、という件があった。そうして彼女はテーブルに置かれたままの、ハードカバーの書籍を見つけ、それを彼に届けるのだ。
私がそっとレジへと歩み寄ると、女性店員がこちらに近づいてきて、「ねえ、さっきのあれは、」とつぶやきかけた――テーブルに置きっぱなしだった私の本を抱えて、女子高生がこちらへと走り寄ってきた。うきうきとした表情でそれを私へ渡しかけ、しかしその表紙を見た瞬間に、これ以上はないという程に目を見開いた。
そこに書かれている題名が、女子高生が大事そうに持っていたもう一冊の本と一致していたからだ。
私は微笑みながら、「ありがとう、楽しかったよ」とつぶやき、その本をそっと受け取った。そうして軽く本を叩いて女性店員に示すと、女性店員はそれらの本を見比べて、「そのヒロインを真似たって訳ね」と納得したような様子でうなずいた。
「あ……う」
女子高生は、私と店員の顔を見比べた後、口を何度も開け閉めして一歩、また一歩と後ろへと下がっていく。そして熟れた果実のように赤い顔で、そのまま化粧室へと走っていってしまった。
私と女性店員は顔を見合わせ、そこで店員が「あなたね」と眉を寄せながらどこか怒った様子で言った。
「好きなヒロインになりきることなんて、恥ずかしいことでも何でもないわ。あなたがあの子にやったことは、明らかにやりすぎだから」
私は視線をそっと彷徨わせながらそうして頭を掻き、「反省するよ」と紙幣を置いて店を出た。煉瓦敷きの道に一歩を踏み出すと共に、「あの子、また来ないかな」と、そっとつぶやいた。どうしても頬が緩んで仕方がなかったが、確かにあの時、私は夢中で登場人物になりきっていたのだ。そのことが、今の私にはただただ嬉しかったのだ。
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2011/12/18(Sun)21:46:53 公開 / 遥 彼方
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■作者からのメッセージ
さらっと読めてしまうような掌編で、喫茶店を舞台にした作品を書いてみました。時間をかけて書いた作品ですが、未熟な点が多々あると思いますので、皆様の批評・感想を是非是非お待ちしています。作品中で、少しでも雰囲気を感じていただけたら幸いです。