- 『マーメイド・ループ【未完結】』 作者:遥 彼方 / リアル・現代 恋愛小説
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全角31129.5文字
容量62259 bytes
原稿用紙約95.05枚
――僕らの音楽は、いつだって心を通わせたものじゃなくちゃいけないんだ。音楽に対して恐怖心を抱いていた私に、彼はそう教えてくれた。一つ一つの言葉に自分の心を乗せて歌えば、それはその人の歌になる……逆に心が通わなければ、どんな歌もただ形骸化したものになってしまう。心を乗せて作った音楽は、必ず誰かの心に残って、空っぽだった心を潤していくはずだ――そんな希望を信じて、私達は駆け抜け続けた――。
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この海に来るのは、七度目だった。
汗で粘ついた首筋を、水平線の彼方から吹き付けてくる暖かな潮風が優しく撫でていき、その湿気を拭い取っていく。
視線を伸ばせば、透き通るような水面が目に染み入ってくる。青空から、夏の日差しが燦燦と降り注いできて、さらに足の指に絡んでくる白砂は、ほんのりとした熱さを纏って、シーツのように柔らかかった。
半月状に続く砂浜と、海底が透けて見える美しい水面が果てしなく続いている。
ここは碧海と言って、碧外村の南東にある大きなビーチだ。この村には僕の親戚が住んでいて、僕は小さい頃から何度もこのビーチを訪れ、遊び尽くした。
あの頃から何一つ変わっていない、その景色。
目にすると、僕は自然と微笑み、息が弾んでくるのを感じた。
そんな中、波打ち際に沿って歩いてくる一人の少女に気付いた。その姿を認めた瞬間、僕は息を呑み、思わず足を止める。
その長い黒髪は、今まで見たことがないような深い黒に染まっていた。日差しを受けた部分が、薄い七色のヴェールを纏っているようで、しっとりと湿っているようにも見えるその房は綺麗な曲線を描いている。
白い半袖からのぞく、その腕は折れてしまいそうに細い。しかしそのラインは細いながらどこか艶かしくもある。
鼓動が激しく高鳴っていく。
なんで、どうしてこんなに切なくて、でも穏やかな感情が湧いてくるんだろう。僕はそっとTシャツの胸の辺りを握りしめる。
オブシディアンのような、真っ黒で艶やかなその瞳。その中から、灰色の凝り固まった何かを見出した。それは不安や恐怖、絶望といった底冷えのする感情だ。
何故、そんなに悲しげな目をしているのだろう、と思う。
彼女が一歩、また一歩と近づいてくる。そして、ようやく僕のことに気付いたのか、彼女は顔を上げた。食い入るように僕を見つめてくる。
僕らの間で、言葉では形容のできない、どこか戦慄するような沈黙が降りた。彼女は何を思っているのだろう――僕も何に対してこんなに驚いているのかわからなかった。
彼女はやがて無表情のまま近づいてきて、僕の目の前に立った。どこか甘ったるい匂いが鼻をくすぐる。
「君は、」
彼女は唇を震わせてぽつりとつぶやく。その、どこか高くて透き通るような声が頭に反響してくると、僕は身が竦んでもう何も言えなくなる。
「初めての人、だね」
彼女は身を乗り出して、じっと僕の顔を見つめてきた。
「君だったら……いいかもしれない」
彼女はそう言ってそっと制服のポケットに手を入れ――。
その瞬間、眩い光の筋が宙を切り裂いた。
喉元に突きつけられた銀色の刃先を呆然と見つめる。呼吸することもできず、ただ身を硬直させる。
「……お願い」
彼女は上目遣いで見てきてそう言う。
「一緒に死んで」
必死にそれを否定しようとしても、ナイフが肌に食い込んできて、言葉が出てこなかった。ツ、と雫が首から伝い落ちていく。
彼女が足を踏み出し、僕は海の方へと後ずさる。
「死んで」
彼女は同じ言葉を繰り返す。水の冷たさに足先から徐々に感覚が消えていく。
僕はようやく「……待って」とつぶやいた。けれど、彼女は進み続け、すぐに僕らの体は胸まで水に浸かってしまう。
「どうして、こんなこと……」
僕が呆然とつぶやくと、彼女は言う。
「この夢を、終わらせたいの」
そうして、ぎり、と歯ぎしりをした。
「同じ悪夢を何度見ればいいのかわからない。もう嫌になったの。だから、一緒に死んで」
彼女は僕の肩をつかみ、押し倒そうとした。僕らの体は重なり、そのまま水面へと倒れ込んでいき――。
その時、僕の中で何か抗いようのない衝動が駆け巡った。
彼女は今、こんなにも悲しそうな目をしてる。生きている意味がわからないと頑なに信じたまま、死なせていいのか?
何一つ、幸せを見つけられないまま、海の藻屑になっていくだけだ。それで、いいのか? いや、
「駄目だ」
右手に痺れが走った。少女が体を震わせ、目を瞠る。
――僕はナイフの刃先を右手で握っていた。ゆっくりと彼女の手から奪い取る。
水面に、絵の具を落としこんだような真っ赤な染みが広がる。僕は彼女の肩をつかんで、足を踏ん張ってバランスを取った。
「捨てる命があるなら、僕にくれ」
彼女の顔に困惑げな表情が浮かぶ。僕はそっと彼女の細い肩を押して、波打ち際へと誘導する。
「その命、僕に預けてくれ。必ず、幸せな人生にしてみせる。生きててよかったって思わせてあげるから。――だから、君の命を僕にくれ」
何を言ってるのだろう、僕は。でも、彼女の命を救いたくて、僕は「お願いだから」と言葉を繰り返す。
すると彼女は僕の顔を見つめ、涙の滲んだ声で「何を言っているの」と震えながらつぶやく。
ただ彼女をまっすぐ見つめる。すると、やがて彼女は視線を伏せた。
「本当に……信じてもいいの?」
躊躇いがちに、途切れ途切れになった声で言う。
僕はうなずいた。すると、彼女は顔を伏せて、押し黙った。やがて、強張っていた肩から力が抜ける。
ようやく波打ち際まで戻ってくると、僕達は砂浜の上に体を投げ出して、へたり込んだ。彼女は息を切らせながらも、「どうしてあんなことしたの」と血に濡れた僕の手を見つめて、言った。
「気付いたら、ナイフをつかんでたんだ」
弱弱しく笑う。そんなことよりも、彼女が生きる道を選んでくれたことが嬉しかった。
彼女はそっと制服のポケットから濡れたハンカチを取り出して、僕の血を拭い取り、それを手に巻きつけてくれる。
「本当に、馬鹿だよ、君は。なんで、素手でナイフをつかむかな」
そもそも君があんな行動を取らなければ、こんなことにはならなかったはずだけど、と思ったけれど、僕はただ「よかった」と言葉を漏らした。
「死んでしまったら、何もかも終わりなんだ。悩むことも、嘆くことも、悲しむことさえできない。生きているからこそ、人は何かを感じることができるんだ」
彼女は視線を逸らし、「説教する気なの?」と言う。
「いや、生きててくれてよかったってただそれだけ」
「初対面なのに、なんでこんなに親しげなのかな」
彼女は溜息を吐き、立ち上がる。
「とにかく手当てしないと」
僕は歩き出そうとする彼女の裾をつかんで引き止める。
「僕のことはいいから。このままだと君が風邪を引いちゃうから、とにかく着替えを用意しなくちゃ。この村には知人がいるから、その人に頼もう」
ビーチを出てすぐのところ、横断している道路を渡り、そのまま道に沿って坂道を上ると、瓦屋根の大きな屋敷が見えてくる。高い塀に囲まれた敷地を半周したところで、その門が現れた。「水簾荘」という見事な達筆で書かれた看板が掛かっていた。
「知り合いがここで働いてるんだ。アポ取ってないけど、きっと温泉に入らせてもらえるよ。ついでに着替えも借りられると思う」
すると、少女は周囲へちらりと視線を向け、「ねえ」とどこか言いにくそうにつぶやいた。
「今日、ここで泊まっていいかな」
僕は首を傾げた。
「別にいいだろうけど、なんで?」
「私、追われてるんだ」
「え?」
彼女は何かを言い掛けて、しかしすぐに俯いてしまう。
僕は彼女の顔を見つめていたけれど、やがてうなずき、「わかったよ」とうなずいた。彼女はそっと顔を上げて弱弱しい笑みを浮べて、「ありがと」とうなずいた。
門をくぐると、手すりつきの石階段があって、そこを上って玄関まで来ると、館主と従業員が明るい声で挨拶してくる。彼らはその途端、僕らの姿を見て、ぎょっとした顔をする。
僕が「美咲さんをお願いします」と言うと、館主と従業員が顔を見合わせ、すぐにうなずいて建物に入っていった。その後すぐに美咲さんが出てきた。
肩で切り揃えたその髪は、琥珀を溶かし込んだような色合いをしている。その目は細くて鋭く、端整な顔と相まって、怜悧で気丈な雰囲気を漂わせていた。
彼女は眉を寄せながらこちらに近づいてきて、目の前で立ち止まった。僕らは見詰め合う。
「お前……光彦か?」
彼女は僕の顔を食い入るように見つめて言った。
「久しぶりだね、美咲さん」
僕が微笑むと、美咲さんはさらに眉間に皺を寄せて顔を近づけてきて、鋭い視線で僕の顔を射抜いた。
「見惚れてるのかな?」
僕は笑う。
「馬鹿か。ていうか、お前本当に……光彦か?」
「見てわかるでしょ?」
「外見は光彦だが、雰囲気が違う」
彼女はそう言ってしばらく僕の顔を見ていたけれど、すぐに身を引いて「まあいい」と首を振る。
「とりあえず用件を聞こうか」
「温泉に入らせて。そして、着替え貸して」
すると、美咲さんは舌打ちをして、「面倒臭いことしたもんだな。こっちに来い」と建物の中に入っていく。
突然大正時代にタイムスリップしたかと錯覚するような、趣深い外観の玄関へと入る。僕らは三和土から館内へと上がり、そんな中、美咲さんが、従業員から受け取ったタオルを僕達に手渡してくる。
廊下のガラス戸から、新緑の鮮やかな庭園が見えた。廊下一帯は静謐な雰囲気に包まれていて、庇や格子、それから障子によって、ほのかな明暗が演出され、落ち着いた雰囲気を形作っている。
「まったく、一番忙しい時間に来やがって」
美咲さんは吐き捨てるようにそう言う。
「いいじゃん、久しぶりに会えたんだからさ。まだ部屋は空いているの?」
すると、美咲さんは僕を睨んできて、「思春期のガキが二人で寝泊りか」と言って、僕の隣にいる彼女を見やった。少女はどこか萎縮したように肩を縮め、
「別に、この人と同じ部屋に泊まるっていうわけじゃ……」
美咲さんは「二つは空いてないぞ」と言った。
「一部屋だけだ。間違いが起きるかもしれないが、私には関係ないことだからな」
「そんな……」
少女は動揺する。
「でもまあ、そこの男はそういうことにはまるで興味がない人間だから、安心していいと思うぞ」
少女がちらりと視線を向けてきて、「本当?」と問いかけてくる。
「大丈夫。もしもの時はちゃんと責任取るから」
「お前、心構えする部分が違うだろ」
「冗談だって」
「まあ、もしもの時は私の部屋に来るといい。一応、館主に事情を説明してみるから」
すると、少女は「ありがとうございます」と深く頭を下げる。
「ふん、まあ光彦には貸しがあるからな。これでチャラだ」
僕らは風呂に入って着替えを済ませた後、「菊」と名付けられた、なかなか上等な部屋に案内された。
主室は八畳間で、テラスへと続く部分は吹き抜けになっていた。床の間は綺麗に磨かれて静謐な雰囲気に包まれており、なかなか趣向が凝らされた部屋だった。
僕は美咲さんから救急セットを借り、少女から手当てを受け、そのまま時刻は六時を過ぎ、夕食時になる。
従業員の方が部屋を訪れ、お膳に料理が並べられた。
食前酒、先付、旬菜、香り、と来たところで彼女が箸を止め、なんでとっとと自己紹介しないかな、と溜息を吐いた。
「私達、同じテーブルについてご飯食べてるけど、まったくの他人なんだよ? この構図は可笑しいぐらいに奇天烈だよ」
「まあ、確かにそうだね」
僕は彼女のグラスに烏龍茶を注ぎながら、
「氷室光彦……僕の名前。今一人旅の最中でね。今日から夏休みだったから」
「……私は矢切音葉って言うの。今日が終業式。でも、嫌になって抜け出してきたの」
「なかなかチャレンジャーだね。僕も昨日、とんずらしてぬいぐるみ買いに行ったよ。アルマジロの」
気持ち悪い趣味だね、と少女は顔をしかめる。
「今頃、父さんと母さんは必死に私を探してると思う。まあ、気にしないけど」
それきり彼女は黙り込んでしまう。僕はとりあえず言うことがないので、
「あ、海老があるよ。あげる。好きでしょ?」
「ありがとう」
「りんごジュースもどう? 好きでしょ?」
「うん」
そうやって彼女の好きそうなものをチョイスして振舞っていると、彼女は眉をひそめ、気味悪がった。
「なんで、私の好きなものを全部知ってるのかな? エスパー?」
「君の顔を見ていると、色んな食べ物が脳裏に浮かんでくるんだ」
「なにそれ、気持ち悪」
そんな他愛もないことを話しながら、料理のコースが止肴まで来たところで、少女が首を傾げながら言った。
「前から言おうと思ってたんだけど、なんで手ぶらなの?」
僕は首を傾げたけれど、やがて大きくうなずいた。
「ホントだね」
「どうするのよ、これから。荷物どこに置いてきたの?」
「最初から持ってこなかったみたいだね。財布もないみたい。今頃海の中かな」
すると、少女は大きく溜息を吐き、「どんだけ抜けてるのよ」と呆れたように言った。
音葉さんはとりあえず、僕の宿泊費も捻出してくれると言う。どこにそんな金があるのかと聞いてみたら、「さっきお金、いっぱいおろしてきたんだ。しばらく困らないぐらいに」とさらっと澄まし顔で言ってのけた。彼女は結構いい育ちをしているのかもしれない。
従業員が食事の後片付けを済ませて出て行くと、部屋の中に僕と彼女だけが取り残される。すると、彼女はどこか決意を滲ませた表情でこちらを見てきて、その真剣な眼差しに自然と僕は畏まった。
「さっき、追われてるって言ったよね?」
彼女はぽつりとつぶやく。僕はうん、と大きくうなずいた。
「今から私、男になる」
「は?」
思わず間抜けな声が出た。男になる?
「だから、君も手伝って」
「まさかその長い髪、切っちゃうの?」
「そう」
音葉さんはうなずいて、さっき美咲さんに借りたのか、大きなハサミを差し出してくる。
「君が切って」
「ほんとにいいの? かなりバッサリいっちゃうけど」
「いいの」
音葉さんはテラスへと降りて椅子に腰かけて、こちらに背中を向けてくる。その長く艶やかな髪が肩から滑り落ち、風にふわりと浮き上がった。
「あそこに戻るくらいなら、すべてをなくしてしまう方がずっといい。……だから、お願い」
僕はやがて息を吐いて、「わかったよ」とうなずいた。差し出された布を受け取り、彼女の肩に置いた。
「バッサリいくよ」
「うん」
そっと刃先を彼女の髪に突き当てた。
微かに彼女の肩が震え、でも僕は構わずに刃をスライドさせた。髪が宙を舞い、地面へはらりと落ちる。
そこでふと手を止める。すると、
「早く。決心が揺らがないうちに」
僕は唇を引き結び、もう迷うことなく作業を進めた。
本当にバッサリとやった。「男になる」と大見得を切って言っていただけあって、彼女はかなり短くすることを要求してきて、僕の方が未練を断つのに苦労したくらいだ。
カットが終わると、彼女は鏡の前で、自分の髪をなでつけながら様々な方向から眺めて、「うん、このくらいでよし!」とうなずいた。
「これで、男の子の格好すれば、変装はバッチリかな」
「ちょっと、やりすぎたんじゃないの? 後頭部とか、スポーツ刈りというよりは五厘刈りに近いよ、これ」
「いいのよ、このくらいで。うん、スースーして気持ちいい!」
彼女はしきりに頭をさすってその感触を確めている。まあ確かに、女の子にとってこのくらいの髪の長さはいっそ新鮮なんだろうけど。
「このシャリシャリ感が病みつきになりそう。君も、私くらいの長さにすれば? それで二人で触りっこしよう」
彼女が僕の頭に手を伸ばしてくるので、僕は避けるように立ち上がって、浴衣一式とタオルを持って歩き出す。
「ちょっと待ってよ。どこに行くの?」
びしっと彼女が服の裾をつかんできて、それでも構わずに歩き出そうとすると、彼女は匍匐前進するようにずるずると引きずられながら粘り強く追ってくる。
「お風呂だよ。君も入ってくればいいだろ」
「私も行く! 一緒に入ろうよ!」
「なんでそうなるの?」
でも、少し期待がもたげてきてしまう。その欲求を体の奥へとねじ込もうとする僕。
「今日のお礼に、背中を流してあげるから。だから、一緒に入ろ?」
「なんでそんなにしつこいの?」
「誰かと一緒にいないと、心が潰れてしまいそうだからだよ」
そのどこか震えた声が聞こえてくると、それまでの動揺は掻き消えてしまう。
「……お願いだから」
僕はゆっくりと振り返り、その不安げに揺らぐ瞳を見つめる。
そんな目をされて、断れる訳ないよ。
僕は大きく息を吐き、「わかった」とうなずいた。
どうして混浴風呂に入るようになったのは定かではないけれど、気付けば彼女と肩を並べて湯船に浸かっていた。貸切の露天風呂ということもあって、辺りは静まり返っていて、わずかに漏れる彼女の息遣いが、妙に艶かしく聞こえる。
僕は緊張でガチゴチになり、視野狭窄に陥った視界の中で木目調の壁をただひたすらに見つめ、思考を巡らせる。
この温泉はメタケイ酸の数値が101.4mgあって、美肌に良いとされるちょうどよい数値を保っていて、風呂上りには肌はすべすべで滑らかになるし、ニキビや肌荒れにも効果があると言われている。五十肩・うちみ・くじき・冷え性・切り傷にも、もちろん効果が、――その泉質はカルシウム・ナトリウム、塩化物泉などからできて、まさに奇跡の産物といってもいい。呼吸器障害・心臓病・貧血などの病状改善にも一役買うらしいし、なによりこの無色透明の水は、見ているだけで心が洗われるようで……。
いや、そんなことよりも。この異常な血圧上昇をどうにかできないものだろうか。今、僕の頭は前代未聞にテンパっている。
そんな中、僕は無性に気になっていたことをぽつりとつぶやいた。
「どうして、真っ裸なの?」
視界の隅で、彼女が首を傾げるのがわかった。ついでに、湯船にぷかぷかと浮いている、小ぶりなその『シルエット』もわずかに見える。
「どうして裸じゃいけないのかな?」
「いやだって、よく知りもしない男に、素肌を晒して嫌でしょ?」
それって絶対におかしいよ。でも、彼女は飾った様子もなく、「嫌じゃないよ」とぽつりとつぶやいた。僕は思わず体を硬直させて、まじまじとその横顔を見つめてしまう。
「君が私の『命をくれ』って言ったんじゃない。命を明け渡すってことは、私の全てをあなたに託すってことでしょ? 裸ぐらい、いくらでも見ればいいんじゃないの? 見たくないなら、目を塞ぐなり背を向けるなりすればいい」
そう言われても、優柔不断な僕は中途半端に壁を見つめるばかりだった。すると突如、ぽちゃんと水を弾く音がして――。
彼女が僕の正面に回りこんできた。その透き通るような肌へ否応なしに目がいく。それだけではなく、彼女は立ち上がって、惜しみもなく全身を晒してきた。
彼女のすべてを目の当たりにして、僕の頭は盥を落とされたように、大音を反響し始める。
「ちょ、何してるの!」
すると、彼女はくすりと悪戯っぽく笑った。
「証をあなたに見せ付けてるの」
僕の視線は彼女の肌に吸い寄せられたままだ。そうして、僕はすぐにそれに気付く。
彼女の体のいたるところに、大小の傷が刻まれていた。既に治っているものも多いけれど、それでもはっきりとその痕を認めることができる。
そして、最も深いそれが、鎖骨の上に走っていた。
「それ……」
僕がつぶやくと、彼女は「ああ、これね」とそれをなでた。
その顔に浮かんだ表情に、僕は激しく戸惑う。傷を忌み嫌うことなく、むしろ喜ばしいものとでもいうかのように、いとおしげに撫でている。
その恍惚とした表情を見ていると、胸が激しくかき乱される心地がした。
なんで、そんな顔をするんだよ。痛みを感じているはずなのに、それが幸せとでもいうかのように。
彼女はどこか懐かしそうに話し始める。
「あの思い出があるから、私は今まで生きてこれたんだ」
彼女がそう言って、そっと振り向く。僕はよっぽど浮かない顔をしていたんだろうか、彼女は僕の顔を認めた途端に表情を曇らせて、視線を水面へと落とした。
「ちょっと気味悪いもの、見せちゃったかな」
「いや……」
僕が視線を逸らせて黙っていると、彼女は再び湯船に体を浸かわせて深い吐息を零した。
「こんなにゆっくりお風呂に入るの、何年ぶりだろうな」
彼女がそっと視線を空へ向ける。
僕はちらりと彼女を見て、どこか躊躇いがちに言う。
「家を飛び出してきたのも、その傷と関係あるの?」
「かもね」
僕は押し黙った後、立ち上がって、「もう出るよ」とお風呂から足を出そうとする。すると、腕をつかまれた。
「もう少しゆっくりしていこうよ」
その瞳があまりにも切実で、孤独に震える幼子のそれに似ていて、僕は思わず足を止めてしまう。
「一緒にいて。……お願い」
その潤んだ瞳と数秒見つめ合い、やがて僕は元の位置に座り直した。彼女の為ならなんでもやる、と誓ったのは他でもない僕だったから。すると、彼女の顔に笑みが浮かぶ。
彼女は浴槽の枠にもたれかかって、熱い吐息を零していた。もやもやした気持ちが一体何なのかわからずに、僕は押し黙って水面を見つめる。
そうして長いこと経った時、突然「お願いだから、ずっと一緒にいてよ」と声がした。
振り向くと、彼女はどこかぼんやりした顔で、とろんとした瞳を水面へ向けていた。
「音葉、さん?」
突如彼女の頭が傾ぎ、僕は慌ててその肩を支える。その顔が、熟れた果実のように真っ赤になっている。もしかして、のぼせたのか?
そのまま彼女は寝入ってしまった。僕は彼女の体を抱えながら呆然とするしかない。
僕が事後処理やらないといけないのか? おい、どんな悪夢だよ!
なんとか彼女を着替えさせ(大事な部分は絶対に見ないようにした)おぶって部屋まで運び、布団に寝かしつけた。彼女が首筋に腕を巻きつけたまま離そうとしないので、それを解くのに苦労した。
彼女はきっと人一倍、孤独を恐れているんだと思う。他人と喋る時の言葉遣い、身のこなしから判断するに、かなりの器量の持ち主なんじゃないかと思う。つまり、どこかいいとこのお嬢様じゃないかってことだ。
そんな彼女と同じ部屋に泊まるなんて、なんだか考えるだけで気分が重くなってくる。どうしよう。今日、眠れるだろうか。
僕はそっと部屋を出て、廊下の奥にある自販機で缶コーヒーを買って、壁にもたれかかってちびちびと飲んだ。缶コーヒーによる調査でたびたび首位を獲得しているあの銘柄だ。バランスよく加味された香料、適度な乳成分……このコーヒーを飲まなくちゃ、僕の朝は始まらない。今は夜だけど。
こんなどうでもいいことを考えているのも、動揺しているせいかな。もう一口飲もうとすると、突然手から缶がもぎ取られた。
振り向くと、美咲さんがぐびぐびと缶をあおっている。
「返してください!」
美咲さんは「何、飲むフリだ」と言って、そのまま半分ぐらいに減った缶を突き返してくる。
彼女は私服を着ていて、ハーフパンツからのぞく滑らかな太ももに目がいって、僕は自然と視線を逸らしてしまう。
「どうだ、彼女の様子は」
「今、風呂でのぼせて、部屋で寝てますけど」
美咲さんは顎に手を添えて、まじまじと僕の顔を見つめてくる。
「もうそこまで気を許すような関係になったのか。お前は昔から女ばかり引っ掛けてそのたびに泣かせていたが、今回はどのくらい続くのか」
「彼女とは、そんなんじゃないって」
僕が唇を尖らせて言うと、美咲さんは「少しからかっただけだ」と言って身を引き、僕の隣に並んで壁にもたれかかった。
「お前に渡しておかなくちゃいけないものがある」
僕はなんとなくそれが何か予想できて、「いりませんよ、そんなもの」と言う。
「なんだ、お前。そんなことで責任持てるのか」
「あんたの頭の中では、僕はどんだけ最低な男なんだよ」
「そうだな、今も昔も、お前は私の心の中ででかい地位を占めている」
そんなことを真顔で言うものだから、僕は挙動不審に視線を逸らしてしまう。
「冗談でもそういうこと言われると、照れるんですけど」
「地位といっても、それがプラスの意味だとは言ってないぞ」
「そうですか!」
そんなに僕、嫌われてるのかな。
「ふむ、嫌ってはいない。というより、好き嫌いをもう超越してる。どれだけ長い付き合いだと思ってるんだ」
「そうですよね、小さい頃からよく一緒に遊んでましたし」
そう言ってちらりと視線を向けると、美咲さんは何故か唇をすぼめていた。
「美咲さん?」
「なんで、今頃になって突然帰ってきたんだ?」
僕はしばらく押し黙る。美咲さんがその無表情を困惑へと変える。
「連絡も寄越さずにいきなり帰ってくるから、動揺したぞ。一体どうしたんだよ。あんなに濡れて、血みどろになって」
「遊んでいたら怪我した……そう言っても、信じてくれませんよね?」
「私はあの子が誰だか知ってるぞ」
僕は勢い良く顔を上げ、彼女の肩をつかんでいた。それでも言葉が出てこなくて、僕は口を開け閉めすることを繰り返す。
「とにかく落ち着けよ」
美咲さんは僕の手を自分の肩から下ろす。
「家の関係者が、今日この旅館にやってきて、彼女の所在を聞いてきた。かなりの剣幕だったぞ。あの子と関わっていて、大丈夫なのか、お前」
僕は再び壁に背をもたせかけ、爪先に視線を落とす。やっぱり彼女はそういう出身なんだな。
彼女を幸せにするって約束したじゃないか。あの言葉は嘘だったのか?
やがて美咲さんはぽんと肩に手を置いて、言った。
「まあ、そんなに心配するな。あいつらが来ても、私がうまく誤魔化して、追い返すからさ」
僕は「すみません」と弱弱しく言葉を漏らす。
「じゃ、私はもう行くわ」
美咲さんは未練もなく背を向けて立ち去ってしまい、僕ものろのろと歩き出した。そのまま飲みかけの缶をごみ箱に突っ込む。反響する足音が脳幹に響いて、心のあぶくを一層溢れさせる。
なんでこんなに不安がっているんだよ、僕。
たぶんこれは、彼女の闇に呑みこまれることを恐れてるのかもしれない。それは思っている以上に根深く、大きいのだと思う。
会って間もないけれど、それを僕は自然と理解していたんだと思う。
でも、それでも。
「菊」のプレートの掲げられたドアに鍵を差し、開いた。そうして、まず聞こえてきたその高音に、僕は瞬間、ブラド・チェぺシェの鉄腕によって心臓に杭を深く打ち込まれた、そんなとてつもない震えと衝撃を感じた。心ではなく、文字通り全身に感じた。
ドアに半身を滑り込ませたまま、動けなくなってしまう。オーロラを描いた美しいビジョンが、僕の脳裏を埋め尽くす。高周波数で震動するその声は力むことなく、潰れることなく柔軟であり続け、その絶妙な周波と自然的な女神の鼓動が全身の血流を湧き立たせる。
最大限に切り詰められた呼吸死空。それでいて、ゆとりのある呼吸。その天性の呼吸法。
哀しみを哀しみとする、言葉を噛み締めるように発音された、そのフレーズ。
無理のないブレス。天界の入り口をのぞくように、高音域に突入する――安定的に、綺麗に響くミックスボイス。
エーリュシオンに降臨した音楽の女神が、七色の恩恵を施していく。レウケーの化身である白ポプラ、なおシルクの歌声を広げる女神達。ハーデスさえも巻き込み、至福者はさらなる歓喜に打ち震える。
どこか幻想的で、しかし魂を轟かせる熱情が含まれている。そこにはプラスもマイナスも存在しない。あるのは、ただ、その女神の微笑みだけだ。
僕はゆっくりと扉を開いて部屋に踏み込み、ゆっくりとテラスへ踏み出していく。欄干に両手をつき、こちらに背を向けて歌っている彼女。黒髪がなびき、横顔は見えない。
きっと彼女は今、目でも歌っている。
僕はそっと窓枠に手を添えて、じっとその細い背中を見つめていた。その一つ一つの声が消え失せても、僕の頭の中でずっと反響していた。鐘のように。海の潮騒のように。葉擦れの音のように。
僕は思わず熱い吐息を深く零した。その音がテラスに響いた途端、突然彼女の歌声が止んだ。その肩が飛び跳ね、ものすごい勢いでこちらに振り向く。
その顔は熟れたトマトのように真っ赤になっている。なんでそんなにびっくりしているの? でも、今はそんなことより、感動するあまり僕は喉を詰まらせていて、彼女の方へ駆け寄ろうとする。けれど、
「なんでここにいるの!? どのくらい前から聞いていたの!?」
その恐ろしい剣幕に、僕は立ち止まり、徐々に後ずさる。「えっと、一分前?」とつぶやく。
「馬鹿! 盗み聞きなんて、本当にタチ悪い……!」
彼女はテラスから出ると、足元にあった枕をつかんで、華麗なフォームで投げてきた。
「ちょ、待って!」
叫ぶのも空しく、それは顔面の中央に激突する。勢い余って、布団に倒れ込む僕。
「何私の布団で寝てるのよ! もう、本当に変態! こそこそして、ムッツリだったんだね!」
「いや……その、」
仕舞いには彼女は僕を足蹴にし始めたので、僕は慌てて玄関まで退散する。
「もう入ってこないで!」
彼女は髪を逆立てながらそう絶叫し、ぴしゃりと襖を閉めた。僕はその芭蕉布の襖紙を呆然と見つめるしかない。
どうして? なんでそんなに怒ってるの?
「変態! 痴漢!」
「そんなこと言われても……僕だって偶然出くわしただけで、」
それに、これじゃあ、寝れないよ……。
「そこで寝れば?」
なんたる仕打ち……。
そうして翌朝。僕は最悪の気分で目を覚ました。眠ったのはつい数時間前で、全然休めなかった。あのまま玄関で寝たという訳ではなくて、ちゃんと真綿布団のほわほわでしなやかな感触に包まれて寝たんだだけど、どうしても眠れなかった。
「す……すう……」
すぐ傍らで眠っている彼女の寝顔をそっと見遣ると、瞼の内で眼球がわずかにきゅるきゅると動いている。僕の両足に、そのしなやかなかかとと太ももが乗っていた。
「……ううん」
彼女がわずかに身じろいだ途端、両足が振り上げられ、僕の腹に食い込んだ。僕は激しく呻いて、畳の上を転げ回った。
彼女の目が開き、「うん……?」とどこか妖艶な声を漏らしながら、起き上がる。
目をぐしぐしと擦って、そのとろんとした瞳を僕の顔へ向けてくる。
「あ、おはよう」
彼女の無防備な姿に僕はもう脱力するしかなく、「おはよう……」と溜息混じりに声を返す。
「うわ、もう七時じゃない! お腹も空いてるし、さっさと着替えよう!」
彼女がそう言って突然浴衣の帯に手を掛けたので、僕は慌てて部屋を出て、襖を閉めた。唐紙障子の向こう、背後からくぐもった衣擦れの音が聞こえてきて、僕はまた動揺し始め、玄関を見渡してインテリア風水を確認する作業に没頭した。
「何恥ずかしがってるの? もうそんなこと気にするような仲じゃないでしょ?」
「あのね……僕らはまだ昨日出会ったばかりなんだよ?」
「いいじゃない。私の肌見たんだし、昨日は一緒に寝たんじゃない」
「いや、本当はそれが問題なんだよ……」
僕がぶつぶつとつぶやいている間に、彼女は手早く着替えて襖を開けた。支えを失って倒れ込みかける僕の目に映ってきたのは、彼女の私服姿だった。思わず声を失ってしまう。
あれ……? もう浴衣しかないはずだけど……。
彼女ははにかむように笑って、「美咲さんに頼んだんだ!」と叫ぶ。
「美咲さん、そんな女の子っぽい服持ってたの?」
モロッコ風のスカーフの柄を全体に散りばめた、肩ひもの付いたなかなか可愛らしいワンピースだった。その上に、シンプルなVネックのサマーカーディガンを羽織っている。
なんというか……正直言って、可愛い。私服を着るだけでここまで変わるもんなんだな。昨日あんなことやそんなことをしてしまった自分に対して激しい罪悪感が湧いてくる。
見入っている僕に、彼女は何故か眉を逆立てて怒り始める。
「あのね、美咲さんはれっきとした女性だよ? この服だって、美咲さんに選んできてもらったんだから。光彦は彼女の何を見ているの? ほんっとに最低だね!」
面と向かって「最低」と言われると、もうへこむしかない。でも、あの美咲さんだよ? お金渡したら、ジャージ一式買ってきそうなものだけど。
「もう! とにかく早く着替えて! 美咲さんが朝食の用意して待ってるんだから!」
彼女は僕の背後に回りこむと、ぐいぐい背中を押してきて、部屋の中へと押し込んでくる。
「とにかく早く! 制限時間は四十五秒! よーい、スタート!」
彼女が掛け声を上げて、ぴしゃりと襖を閉めたので、何に急き立てられているのかわからないまま、僕は浴衣を脱いで急いで着替え始める。
なんで僕、こんなに彼女に尻に敷かれてるんだろう。この立ち位置がずっと続くのか? なんだか不安になってきた……。
朝食を食べ終えると、彼女は今日も海に行きたいと言い出した。
「だって、追われてるんじゃなかったっけ?」
「大丈夫よ。もうこんなに髪の毛短くしたんだもん」
「服装が女の子だから、もろにわかると思うけど……」
「ああもう、うるさいな! 後ですぐに着替えるから!」
じゃあ、何の為に着替えたんだよ……。
すると、彼女は湯飲みを啜りながら顔をしかめて、ぽつりと言った。
「わからないなら、もういい。馬鹿たれ」
ひどい言われようだな、おい。どんどん扱いがひどくなっている気がする。
そういうことで、彼女はTシャツにチノパンツという格好に着替えて、僕達は旅館を出た。
緑のグラデーションが果てしなく続く田舎道へと出ると、虫の重唱が聴覚を覆う。
彼女は近辺に住んでいるはずなのに、ここの界隈の土地柄にはまったく疎いのか、僕の服裾を握ってどこか心細そうに背後から付いてくる。
碧海は、日中なかなか人が集うスポットなので、人目につくことを忌避している今の彼女には、注意深く場所を選んであげないといけない。だから僕はとある場所へ向かっていた。
「そんなにとっておきの場所があるの?」
彼女がどこか気だるそうな声でつぶやいた。
「うん……子供の頃によく行ってた場所なんだけどね。もう人目に触れてるかもしれないから、その時は夜まで待つしかないけど」
舗装されたアスファルトの道路が続く区画へと出ると、中学校の門が見えてきた。
「ここは知ってる。何度も来たから」
彼女が突然ぽつりとつぶやいた。
「もしかして、この中学校に通ってたの?」
「……うん」
彼女はそう言って、突然僕の腕をぐいと引き寄せた。
「気を付けて。周囲に目を光らせていて」
僕は目を丸くする。どういう意味?
「私が前を歩くから、君はその後ろにゆっくりと付いてきて」
そう言って、彼女は中学校の門の前をそっと歩き出した。僕は言われた通り、その背中を追いながら、ちらりとグラウンドを見遣る。
野球部員達が牽制しあうように野太い掛け声を飛び交わせて練習に励んでいた。バッドを打ち鳴らす小気味よい音が断続的に聞こえてくる。
ホームベースの辺りでバッターが豪快な打球を空高く舞い上がらせた。それは斜めの軌道を描いて跳ねて――。
それが突如方向を変え、落下してきた。
悪寒が脊髄を伝い落る。僕は何か声を上げて、彼女へと振り向いた。けれど、間に合わない。打球はまっすぐ彼女へと向かっていき――。
彼女は気付いていないのか、じっと前を向いていて、彼女の脳天がかち割れるまでの最後の刹那――。
そっと彼女の左手が持ち上げられて、『振り向かずに』、手でボールを受け止めた。僕は目を見開く。なんだ……? 素手で、受け止めた?
彼女が足を止め、こちらにゆっくりと振り返る。その、感情の篭もっていない瞳。
「本当に、すごい偶然だね」
彼女はそう言って笑った。そうしてそっと門の先へとボールを放って、腕を伸ばして僕の手をつかんでくる。
「行こう」
彼女は僕の手を引いて、その途端、駆け出した。僕は足がもつれそうになりながら、その後頭部を食い入るように見つめて、精一杯追いついていく。
ようやく学校が見えなくなるところまで来て、再び田舎道の茂みの中へと片足を突っ込んだ。
僕が膝小僧に手を当てて、息を切らせていると、
「だって、あの人達に顔見られたら、まずいからね。私のこと知ってる人いるかもしれないし……」
さっきのボールをつかむ挙動といい、持久力といい、その運動神経は並外れている気がする。
僕はそのことについて問いただしてみたいと思いつつも、どうしても胸に凝縮された鉛がそれを邪魔してしまう。
「で、ここら辺なの……?」
音葉さんはそう言って、鍔つき帽をわずかに上げ、周囲を見渡した。
辺りは一面、茂みに覆われている。まばらに生えた無骨な木の幹が新緑の絨毯に影を落としていた。
「こっちだよ」
僕は途切れがちにそうつぶやき、歩き出す。彼女も無言で茂みを掻き分けて付いてくる。
茂みの囲いを迂回して、最も丈が浅い箇所を見つけると、そこをさらに進んでいく。
夏虫が飛び交い、四色混合されたうなるような羽音と鳴き声、それから雑草をすり潰したような虫の生活臭が鼻をついてくる。
やがて僕達は行き止まりまで来る。彼女が鼻をつまみながら、「何もないじゃない」とつぶやいた。
僕はそれには何も返さないまま、そっと背の高い茂みを掻き分け――その瞬間、輝かしい情景が視界一面に広がった。
彼女が目を見開く。僕は立ち尽くす彼女の腕を引いて、その砂浜へと降りた。
平坦な白い砂の上を、銀色にも見える薄青の波が広がっている。波打ち際で煌めく泡沫の先に見えるのは、どこまでも透き通った海面だった。青空が鏡に映ったような、そんな濁り気のない純粋な色合い。
僕らはそっと波打ち際に立って、それを見つめる。
「どうして、こんなところに」
彼女が唖然として言った。
「ここは岩肌に隠れて見えないから、人が寄ってこないんだ」
その時、背後から楽しげに囁きあう声が聞こえてきて、彼女はびくっと肩を震わせた。声はすぐ間近に迫っている。
「誰も来ないんじゃなかったの?」
彼女が僕の肩をつかんで、すごい剣幕で突っかかってくる。
「いや、そのはずなんだけど……」
とりあえず、ここは戻った方がいいのか?
そう思って彼女の腕を引いて歩き出そうとした時、茂みが揺れ、大きなバックを提げた数人の高校生が現れた。全員、水着の上に軽く上着を羽織った格好をしている。
彼らは砂浜に突っ立っている僕らに気付くと、目を丸くし、そして、互いに顔を見合わせて、かなり困った顔をする。
「ここ、今まで誰も来なかったのに」
「とうとう見つかってしまったのか……」
「我らの聖地が」
僕は「あの……」と声をかける。すると、一人の女子高生が前に出てきて、
「どうぞ、お構いなく! 私達はただ潜りに来ただけなので!」
「シュノーケル部?」
「そうなんですよ! どうですか、あなた達も潜りませんか!?」
「いや、いいよ」
僕はその女子高生をじっと見つめ、何故か彼女を見た瞬間に、胸に暖かい感情が広がるのを感じた。
意志の強そうな、活気に溢れた瞳。なだらかな線を描いた、くっきりと濃い太めの眉。それから、肩でなびくさらさらの茶色の髪。
「おやおや……もしかして見惚れてますか?」
僕がじっと見つめていると、彼女は両頬に手を当て、顔を赤らめる。
「いや……そういう訳じゃ」
「いいんです、慣れてますから」
すると、周囲の学生達が囁きだす。
「この少年、ただものじゃないぞ。会って早々、部長を落としやがった。部長を落とせるのは唯一、ペットのジャンガリアンハムスターの三郎だけだったのに」
「三郎と並ぶなんて、すごいな。我ら人間愛が部長の小動物への愛を超える日も近い」
隣にいる音葉さんを見遣ると、彼女は何故か食い入るようにその女子高生を見つめていた。その驚愕の表情に、僕は面食らう。どうしたんだ?
その時、女子高生がちらりと音葉さんを見やって、そして、同じように目を見開いた。
二人の視線が絡み合い、沈黙が降りる。部員達も、何事だと言わんばかりに二人の様子を見守っている。
「もしかして……音葉なの?」
女子高生が、水面に浮かび上がる泡のように、小さな声を出す。
「穂、夏?」
音葉さんが唇を震わせる。その途端、女子高生の姿が消えた。
周囲の人間が目を瞠る最中、ぼふんと砂浜に倒れ込む音がする。
「音葉ぁ〜〜〜〜! 会いたかったよぉ〜〜〜〜!」
穂夏と呼ばれたその女子高生は、音葉さんをぎゅううと強く抱きしめて、その頬に顔を擦り付けている。
音葉さんは彼女の細い腕の中で、状況が理解できないといったように目を見開いて、あわあわと口を動かしていた。
男子部員達がにわかに色めき立つ。
「部長が、もう一人の少年に飛びついた! 頬擦りしている! 扁平な胸を彼の腕に擦り付けている!」
「いくら部長でも、これはやりすぎだ。やりすぎだが、羨ましすぎる」
僕は「た、助けて……」と手を伸ばしてくる音葉さんに、すぐに止めに入ろうとするのだけれど、穂夏さんが砂場を転げまわってその手をかわすので、最後には脱力して座り込むしかなかった。
なんなんだよ、本当に。なんかすごく面倒なことになった。
ようやく音葉さんにかじりつくその奇天烈な女子高生を突き放し、僕は奇行の理由を問いただした。
「まあ、なんていうか、私達、親友なんですよ。……ね、音葉?」
抱擁をやめたはいいものの、穂夏さんは今度は音葉さんの手を握って、それを自分の胸に置いて熱い吐息を漏らしている。親友というより、ペットと間違えているんじゃないのか。
「う、うん……」
音葉さんは穂夏さんとは目を合わせずに、唇をわななかせている。どうしたんだろう……せっかく知り合いに会えたのに、これじゃまるで怯えているみたいじゃないか。
「ずっと会えなくて、ほんっっとうに寂しかったんだよ? 今までどうしてたの?」
穂夏さんは音葉さんの首筋に鼻先を近づけて囁く。音葉さんはびくっと体を震わせて、助けて、と懇願の視線を向けてくる。そんなこと言ったって……僕にどうしろっていうんだよ。
「私にも、色々あって……」
すると、その瞬間、穂夏さんの目が細まった気がした。僕の背筋に、氷雪を押し当てられたような震えが走る。
見間違い、だろうか? でも、確かに今……。
穂夏さんは天真爛漫な笑顔で、「そっか、色々あるよね! 私も波乱万丈紆余曲折あったもん! 我がシュノーケル部も、もうここまで大きくなったしね!」と部員一同を見渡す。
すると、部員達はどこか居心地が悪そうに視線を逸らした。
「俺達、幽霊部員だけど。今日、部長に脅されてここまで来たんだけど」
「……一度も部員だなんて思ったことないけどな」
すると、穂夏さんは両耳に手を当て、「聞こえない! 聞こえない!」と叫び出す。なんというか、お気楽な人だな。
「おお、もうこんな時間だ! とにかく早く潜ろう!」
破天荒なその部長はそう言って起き上がると、バックを開いてシュノーケルの道具を次々と取り出し始める。他の部員も溜息混じりにそれに続いた。
その時、ぎゅっと服裾を引っ張られた。振り向くと、音葉さんがどこか不安げな目でこちらをじっと見詰めていた。僕はうなずき、穂夏さんへと振り向いて、「じゃあ、僕達はこれで」と音葉さんの手を引いて歩き出す。
「待って」
穂夏さんが不意にそう言った。その底冷えのする強い口調に、僕は自然と足を止めてしまう。部員達も何事かと振り返った。
その時にはもう、穂夏さんの顔には無邪気な笑顔が浮かんでいて、「ちょいちょい」と人差し指を振って近くに来るように促してくる。
僕は「何?」と穂夏さんに歩み寄る。彼女はそのまま茂みの側まで来ると、囁き始める。
「明日、会えないかな?」
「え?」
僕はちらりと音葉さんへと振り返る。音葉さんはどこか不安げな面持ちでこちらを見つめていた。
「音葉さんに予定を聞いてみなくちゃわからないんだけど……」
「ちゃうちゃう。君に聞いてるの」
僕は、え? と再び間抜けた声を上げる。なんで、そんなこと言うんだ?
すると、穂夏さんは「驚いとる、驚いとる。明日の午後四時にここで会わない?」と囁く。
「えっと……どうして?」
「うーん、気になってるというかなんというか」
僕はしばらく呆然とする。彼女の言葉が信じられずに、「熱でもあるの?」と機械的につぶやいてしまう。
「私は昔からずっとその人にだけはお熱だったのです」
そんな謎の言葉を残して、「じゃあ、よろしくね!」と穂夏さんは離れていく。その背中を食い入るように見つめていると、音葉さんが近づいてきて、「何を話してたの?」と聞いてくる。
「いや、ええと、その……」
すると、仕舞いには彼女は地面に視線を落としてしまう。
「とにかく、行こう」
彼女はそう言って歩き出した。僕も黙ってその背中を追うしかなかった。
「潜るぞ、みなの衆!」と穂夏さんの掛け声が聞こえてきて、「おおぅ」と控えめな部員達の声がそれに続いた。
喫茶店でランチを頼み、パスタとブラックコーヒーを口に運ぶ彼女は、終始無言だった。僕も言うべき言葉を見つけられず、ただ無為な時間を過ごした。
本当に、情けなくなってくる。あんなことを豪語しておいて、この有様だ。彼女を元気付けることさえできない。いっそ首に石臼をくくりつけて、海へと沈んでしまいたい気持ちに駆られる。
そうしてやがて彼女は席を立ってしまい、店を出てからも行き先を言うことなく歩き続けるだけだった。
僕はただその幾許も小さく見える背中を追って、金魚のように口を開け閉めするしかない。
やがて彼女は「行きたいところがあるから」とつぶやき、僕の前から姿を消してしまった。熱気でゆらゆら揺れる歩道を進んでいく彼女がそのまま見えなくなると、僕はそこに座り込んで、額に手を当てて溜息を吐いてしまう。
手持ちぶたさな僕は、夕方まで村の中を見て回った。子供の頃に美咲さんと立ち寄った茶堂や、醤油蔵、麹室……燈台などを見て回り、自分でもなかなか渋いチョイスだったと思う。けれど、ずっと彼女のことが頭から離れなかった。
なんでこんなに頭がこんがらがってるんだろう、と思う。脳みその中を開いて見てみると、おそらくほとんどが、彼女についての事柄で埋まっているのだと思う。出会った時から、ずっとそうなのだ。
不安、期待、愛おしさ、色んな感情がごちゃ混ぜになって……そうしていつも、彼女の歌声が幻聴となって聞こえてきて、何度もリピートして耳にする。
僕はどうしてしまったんだろう。もう、心がばらばらになってしまったみたいだ。
地面へ視線を落として歩き、何度も自分の爪先を目に焼き付けて、空の帳に自分の影が溶け込み始めた頃、ようやく旅館に戻ってきた。
「随分とゆっくりしてきたもんだな、浮気者」
着物姿で出迎えてくれた美咲さんは開口一番に、そんな辛辣なことを言う。
「彼女を除け者にして、もう他の女との約束を取り付けておくなんて、どんだけ気が多いんだよ、女ったらし」
僕は激しく面食らい、のけぞる。
「だ、だって……別に僕から誘った訳じゃ……」
「かまかけてみただけなのに、何をそんなに戸惑って襤褸を出している」
「なら、余計なこと言うなよ!」
怒り出す僕を尻目に、美咲さんはふう、と呆れるように溜息を吐くと、「彼女が待ってるぞ」と僕の背中を思い切り叩いてくる。
「なんでそんなに機嫌が悪いんだよ」
僕が言うと、美咲さんは「そう見えるのか?」とあくまでも無表情で言う。
「普通の人には能面にしか見えないだろうけど、僕には美咲さんの感情の機微なんてお見通しだからな」
「気持ち悪いこと言ってないで、さっさと行け」
そう言って彼女は腕を叩いてきて、すぐに立ち去ってしまう。まったく、素直じゃない。
美咲さんはいつも無表情で淡々としたクールな女性と思われることが多いんだけど、幼い頃から付き合ってきた僕には、彼女が今どういう感情を抱いているのか少なからず理解できる。
彼女にも楽しい時やつらい時が必ずある。美咲さんでもそうなんだ、僕のこの不安な気持ちも、彼女のように忍耐強く受け流すことができないのだろうか。
そんなことをだらだらと考えつつ、エレベーターを降りて部屋の前まで来ると、僕はそっとドアをノックした。
すると、走り寄ってくる足音がして、ドアがそっと開いた。
「おかえり」
彼女の顔には、もういつもの笑顔が浮かんでいた。僕はほっと息を吐く。自分では何もできなかった癖に、彼女の笑顔を見た途端に胸を撫で下ろしている自分がいる。どんだけ都合がいいんだよ。
「遅かったじゃない? 他の人と密会かな?」
笑顔のまま鋭い視線を向けてくるので、僕は「村を散策してたんだよ」と乾いた笑みを漏らす。
「音葉さんこそ何してたの?」
「私は……その、」
彼女は言葉を濁してお膳の前の座布団に腰を下ろし、視線を逸らす。
僕は向かいの席に座ってお茶を淹れながら、「今日はどうしたの?」と視線をちらりと向ける。
「別に……私は」
「せっかく友達に、ていうか親友に会えたのに、なんか浮かない顔して」
「うるさいな……こっちはこっちで事情があるの」
彼女は僕が差し出した湯飲みを荒っぽく受け取って、ふーふーと息を吹きかける。
「友達に会いたかったんじゃないのか?」
「別に、そういう訳じゃ、」
「確かに穂夏さんと会った時、嬉しそうな顔見せてたから」
その言葉に、音葉さんは硬直する。僕を食い入るように見つめてくる。
「何を……えらそうに」
「僕の錯覚だったかもしれないけど、やっぱり音葉さんは、」
「うるさい! 黙ってて!」
音葉さんは湯飲みをお膳に叩きつけた。僕はその激昂ぶりに戸惑う。
「私のことなんてこれっぽちも知らないくせに。よくもそんなこと、言えるよね」
そう言って彼女は睨んでくる。
「君の目には、私はどう映ってる? 罪深い人間かな? 狡猾な人間? それとも……」
彼女が前のめりになって、近づいてくる。その途端、手をぎゅっと握り締められた。骨までも捻り折られてしまいそうなほど、強く。
「僕は、」
掠れた声しか出ない。でも、ここで何か言わなくちゃ、僕は僕の責務を全うせず、放り出すことになる。だから、
「音葉さんはいつも明るくて、素直で、人当たりがよくて……何より、なんでもこなせるすごい人だと、思う……」
まだ二日しか時間を共にしてないのに、こんなことを言って意味があるんだろうか。でも、それでも僕は言わなくちゃいけない。彼女の笑顔が消えないように。その微笑が夏の火炙りのような光の中で溶けてしまわないように。
僕の言葉は、彼女に届いたんだろうか……僕はただその目を見つめる。すると、彼女の瞳孔が開かれた。その途端、湯飲みがお膳の上を転げていた。湖面のように鮮やかな緑が広がる。
彼女は鋭利な刃物を振るうように、壮絶な怒りの表情で僕を睨みつけていた。
「音、葉さん?」
「君は本当に、私のことを何一つわかってないんだね」
その表情に反して、零れ出た声は静かで、かすかに震えていた。けれど、そこに込められた激情はおぞましいほど色濃い。
「何一つ理解していない。一体私の何を見ていたの?」
そう言って彼女は僕の胸倉をつかむと、思いっきり引っ張り上げた。僕はそのまま彼女に引きずられていく。足が畳に激しく擦れて、肌が傷ついた。
彼女は無言でドアを開き、僕の体を廊下へ投げ出した。僕は板張りの床に背中を叩きつけられ、呆然と彼女を見つめる。
「……消えてなくなれ」
彼女はぽつりとそうつぶやき、そしてドアを勢い良く閉めた。その声が、いつまでも僕の頭に反響し、胸をごぽごぽと茹だてていく。
その声は、いつもの彼女のものではなく、そう、それはちょうど風呂で彼女がのぼせた時につぶやいた声のトーンに似ていた。禍々しい程に負の感情が込められていて、それでいて力強いその声。
僕は床の冷たく固い感触を背中に受けながら、呆然とドアを見つめる。ノブに映った、ひしゃげた自分の丸顔が泣いているようだった。
僕は情けないことに、彼女に拒絶されたショックから立ち上がることもできず、そのまま床に転がっていた。すると、「おい」と軽蔑したような言葉が響いてきて、視線を上げると、美咲さんがこちらに歩いてくるのが見えた。
「いつまで経っても飯食いに来ないからどうしたのかと思って来てみたが、床に這い蹲って何してる」
そのままげしげしと蹴り始めたので、僕は堪らなくなり、起き上がった。
「すみません。でも、音葉さんも僕も、今日は食事を抜きますので」
すると、美咲さんは突然僕の胸倉をつかんで捻り上げた。
「何言ってんだ、このチンカス。大地の恵みを無碍にするってのか? 地面に額を擦り付けてテラに謝れ!」
そう言ってぐいぐい額を押し付けてくるので、「食べますって!」と半泣きで叫ぶ。すると美咲さんは、
「だったら、早く来い。音葉の奴は一回引き篭もったら出てこないぞ、きっと。今日はこの部屋で寝ることはあきらめろ」
「じゃあ、僕はどうすれば……」
「床で寝ろ」
ふざけるなよ。さっきは床で寝ることが好きで寝転がっていた訳じゃないんだって!
「とにかく同僚を待たせてるから、さっさと行くぞ」
僕は溜息混じりに「わかったよ」とつぶやき、美咲さんの背中を追う。
本当に強引なんだよな、この人。でも、これが彼女なりの気遣いだったりするから。
遅めの夕食を摂った後、僕は美咲さんの申し出に従って、彼女の部屋に泊めてもらうことになった。罵詈雑言の数々を吐露する彼女だけれど、実際はとんでもないお人よしだったりする――なんてことはまるでなくて、
「パソコンの設定がわからないんだ。直してくれ」
実利一辺倒の彼女らしい要求を突きつけられて、僕は思わず嘆息する。
それから彼女が仕事を終えて帰ってくるまで、僕はパソコンの設定変更を手早く終えて、ネットサーフィンに精を出していた。気付くと、村の有名店舗のホームページを全部チェックしていたりする。すると、そっと襖が開かれ、美咲さんが部屋に入ってきた。
「終わったか?」
彼女はそう言って僕の肩に手を乗せて、パソコンの画面を覗き込んだ。開いていたページはこの村でも有名な和菓子屋のホームページで、美咲さんは「ふん」と言ってしばらく画面に見入った。
肩に体重が圧し掛かっている。それだけでなく、首筋に熱い吐息が吹きかかってくるから、わずかに動揺する。早くどいてくれよ。そう思っても、彼女の落ち着いた雰囲気が妙に気分を和ませてきて、何も言えなかった。
「和菓子か」
篝火で炙ったような、熱のこもったその声。
昔僕らは一緒に村を駆け回って、そしてあの店で、季節の香りが花開くあの味を知ったんだ。それは僕らにとって一生に一度だけの感動で、あの時の感覚はいまだに舌から消えずに残っている。それはきっと、美咲さんも同じだ。
「水まんじゅうが食いたいな。あの柚子餡がまた堪らないんだな」
そう言っている美咲さんの顔は無表情のままだけれど、それでも僕にはわかった。無表情の中でもちゃんと笑顔が現れていることに。本当にわずかだけれど、口角が上がってるし、目尻の皺も深くなっている気がする。ほんの少しの変化だけれど。
「材料の良し悪しで言うと、蜜柑屋の原材料の品質は最高級だからな。それでいて自然素材の美味しさもきちんとバランスよく出ているし、ひとつひとつ、丁寧に仕上がっているから、当たり外れなんてものは絶対にない。お茶を引き立てるその味わいに加えて、自然折々の四季の趣を呼び起こすその完成度は食した者を唸らせること間違いなしだ。味、色、形、香り、すべての要素で調和している事実は、まったく芸術品としてもまったく一級品だ」
美咲さんは気づけば、僕の手からマウスを奪って、色んなページを開いていた。
彼女の頬が僕の頬と擦れ合った。その、わずかに火照った肌。
それでようやく美咲さんは我に返ったようで、後ずさって壁に背中を打ちつけた。
「えっと……僕、ここからどいてるから」
そう言って身を引くと、彼女は「いや、いい。パソコンはもう閉じてくれ」と言って洗面所の方へ歩き去ってしまう。
思わず僕は微笑む。あんな楽しそうな美咲さん、久しぶりに見た気がする。
「布団、敷いておいてくれ」
洗面所の方から美咲さんの声がする。うん、と僕はうなずいて襖を開いて布団を出し――。
そうして、布団が一式しかないことに気付く。……あれ?
すると、美咲さんが戸口から顔を出して、「布団は一式しかないから、今夜は一緒に寝るぞ。少々きついかもしれないが、我慢しろ」と言って、戻っていった。
僕は羽毛布団を手にしたまま、硬直するしかない。
おいおい……昨日といい、今日といい、どんな拷問だよ。
いくらなんでも若い女性と同じ布団で寝ることはできないので、僕は座布団を敷いて眠りにつくことにした。やっぱりよく眠れなかった。美咲さんは早朝に起きてきたので、実質数時間しか眠れなかったことになる。
「とにかく彼女に謝れ。それで追い返されたら、もうあきらめろ」
美咲さんはそう言って部屋のドアを施錠し、背中を叩いて僕を送り出して、職場に向かっていった。
……なんだか憂鬱だな。なんて謝ればいいんだよ。
四階のその部屋まで来ると、僕は深呼吸して、そっとドアをノックした。それでも返事はなく、もう一度ノックしても、彼女は出てこなかった。
そっとノブを握る――すると、開いた。僕はなんだか下着泥棒のような心持ちで中へと入る。主室には誰もいなかった。洗面所をのぞく。すると、彼女が鏡と向かい合ってじっと自分の顔を見つめていた。
声をかけるのを躊躇ってしまう。彼女の瞳があまりに切実で、真剣な色に満ちていたから。
「音葉は……ここにいる」
彼女がぽつりとつぶやいた。
「ここに、いるの」
そう言って彼女は鏡に顔を近づけ、微笑んだ。僕はその顔を見て何も言えなくなって、震えてくる足腰を必死に踏ん張らせて立った。
彼女がそっと鏡を離れたので、僕は反射的に玄関まで引き返す。彼女が洗面所から出てきて、「あ」と僕を見つめた。
そうして僕と彼女の視線が繋がった。お互いにどこか居心地の悪さを感じて、目を逸らし合う。それでも、
「昨日は……ごめん」
このまま躊躇っていたら、いつまで経っても謝れそうになかったから、僕は掠れた声でつぶやいた。
「君を傷つけたのなら、謝るよ。ごめん」
すると、彼女がどこか揺れる瞳をこちらに向けてくるのが視界の端に見えた。
「私こそ……突然部屋から叩き出したりして、大人気なかったよ」
彼女はそう言って苦笑して、「まだあの契約は続いているよね?」とつぶやいた。
――その、契約。
今、きっと僕の顔はだらしなく緩んでいるに違いない。僕は人形のように顎をこくこくとうなずかせて、彼女の言葉に肯定した。
すると、ようやく彼女の顔に蕾が開いたような淡い微笑が浮かび、「ご飯食べに行こう」と僕の腕を取った。
行きたい場所があると言ってきたので、別行動を取ることになった。目的地がどこか気になったけれど、追求はせず、例の和菓子屋に寄って美咲さんのお土産を買って、時間を潰した。そして、待ち合わせの時間より少し前に、あの砂浜に到着する。
岩の上に腰を下ろして、彼女が来るのを待つ。海のざわめきだけが鼓膜を濡らして、潮風が全身を洗い流していく。
その時、ぽんと肩に手を置かれたので、僕は飛び上がった。僕の脳天と誰かの顎がぶつかって、互いに「うぐっ」「あぎゃっ」と声を漏らして背後に飛び退き合った。
「ううう……いきなり振り向かないでよ、光彦君」
顎を両手でくるみ、涙目で睨んでくる穂夏さん。
「あ、謝るべきはそっちだろ!」
「……ごめんなさい」
穂夏さんはすりすりと顎をさすりながら、僕の隣に腰を下ろした。
「結構早くに来てたみたいだね。いきなり誘ったりしてごめんね。会って間もないのに」
「いや、それはいいんだけど……」
彼女は僕を見て、「うんうん」と何故かしきりにうなずいた。
「君は音葉の話が聞きたくてここに来たんでしょ? 私のことなんて、一ミクロンも気に掛けてないんでしょ?」
「ええと……そんなつもりじゃ、」
「まあいいんだけどね」
そう言って穂夏さんは自分の膝小僧をぽんと打つ。
「別にこれといった話がある訳じゃないし、聞きたいことがあったらなんでも聞いていいよ」
僕はその言葉を聞いて、一瞬逡巡した後、おずおずと言う。
「音葉さんのことなんだけど、」
「愛する彼女について、やっぱり聞きたいか! いいだろう、話してしんぜよう!」
こほん、と咳払いして彼女は話し始める。
「まず、彼女は処女である」
僕は「いや、そんなことが聞きたいんじゃなくて」と声を上擦らせる。
「あのね、音葉のプライベートだから、私が勝手に話していいのかわからないけど……君は音葉のアレだから、気負わず言うね。音葉が今悩んでいることがあるとしたら、」
穂夏さんはまっすぐ僕を見詰めてきて、どこか真剣な面持ちで言う。
「音葉には昔、双子の姉がいたの。名前を奏って言ってね」
え……?
「けど、彼女は交通事故で死んでしまって、その時から音葉は音葉でなくなったんだ。奏さんは音葉とは違って、ぶっきらぼうで人当たりが悪くて……正直周囲には疎まれていたんだけど、音葉と奏は本当に仲がよかった」
「……待って。それが今、音葉さんを悩ませていることなの?」
「それは私もずっと会ってないからわからないけど、間違いなくそれがトラウマになってると思うよ」
すると、突然背中をバシンと叩かれる。僕は激しく咳き込んだ。
「君が音葉を支えてやれ! 彼女を救えるのは君しかいないのだ、少年!」
そうして彼女は僕に満面の笑顔を向けてきて――。
その顔が、いつか見た、誰かの笑顔と重なった。あれ……。
「光彦君?」
彼女は目をきょとんとさせて僕の顔を見つめてくる。
「もしかして……僕達、昔会わなかった?」
その瞬間、穂夏さんの顔に様々な感情が過ぎるのがわかった。表情がくしゃりと歪み、やっと、と彼女はつぶやく。
「やっと気付いてくれたんだね」
そうして僕の脳裏にあの夏の日々が呼び起こされる。あの、太陽が燃え上がるような昼下がり、僕らは出会い、懸命に言葉を交わし合った。今でも心に残っている、オーロラオーラのように透き通ったあの感情。
何故、会ってすぐに気付かなかったんだろう。あの破天荒な明るさが今でも彼女の中で輝き続けているじゃないか。
「久しぶりだね、光彦君。会いたかった」
彼女はそう言って僕の手を握ってきた。その暖かい手の平は、いつか感じた温もりと重なって、僕は自然とその指を握り返す。
「最初、本当に光彦君だと思わなかった。だって、昔とは本当に変わっていたから」
そう言って彼女は僕の顔をのぞきこんでくる。
「本当に、どうして今になって、君だけがここに戻ってきたのか、不思議だった。誰一人として、この縛りから解放されていないのに、君だけが自由に生きているから」
「え……どういう、こと?」
すると、彼女は苦々しく笑って、「なんでもないよ」と言った。
それから僕は彼女と少し村を散歩することにした。定食屋で昼食を摂り、色々昔とは変わってしまった土地を巡って、夕方まで色んな話をした。いやあ光彦君、これはデートだよ、と穂夏さんが笑いかけてくるので、僕は妙に意識してしまって、声も上擦っていたに違いない。
あの日々を思い返すような、本当に楽しい一日だった。
別れる際、彼女は背中で手を組んで、向日葵のような満面の笑顔を浮かべて言った。
「今日はありがとう。楽しすぎて、鼻血が出てきそうだった」
そう言って、彼女は鼻を擦って、うぐうぐとさせているので、ティッシュを一枚あげると、「うむ、サンキュ」と鼻を拭う。
なんというか、これではデートの雰囲気も台無しだ。でも、彼女のいつも自然体でいられる性格が、僕には本当に羨ましく思える。
「また何かあったら、ここに連絡したまえ」
彼女はそう言って、バッグからメモ用紙を取り出すと、ボールペンを走らせて寄越してきた。
僕はポケットに仕舞って、「ありがとう」と微笑む。
「それじゃあ、私はこれにて」
そう言って彼女は手を振りながら、駆けていく。その背中が幼い頃の彼女のものと重なって、自然と弾んだ吐息が漏れていく。
そのまま帰路につき、ひぐらしが合唱している田舎道を歩いて、旅館まで帰ってきた。そこで、何故か罵声が聞こえてきた。駐車場の方からだ。
その声が、聞き慣れた女性のものだったから、僕は驚いて顔をのぞかせてしまう。
「だから、しつこいって言っているだろ! 会わないって何度言えばわかるんだよ!」
美咲さんが、黒スーツを着たいかつい男達に囲まれて、顔を真っ赤にして叫んでいる。いつもの冷静さは欠片もない、切羽詰った表情だった。
「この間も、もう来るなって言ったよな? 迷惑なんだよ、本当に。警察呼ぶぞ」
「少しの間だけでいいんです。そのまま話を窺がったら、すぐにこちらまでお送りしますから」
黒スーツが慇懃な口上で喋る。
「帰ってくれ」
美咲さんはそう言って、舌打ちをついてその場を去っていく。彼女が建物の中へと消えていくと、黒スーツ達は首を振って黒光りする車の中へと入った。
すぐに、吹き上がるエンジン。僕は物陰に身を寄せて、その車が去るのを見送る。
なんだったんだ、今の。
「おい」
突然首根っこをつかまれ、僕は飛び上がる。振り向くと、美咲さんが冷たい視線をこちらに向けて、仁王立ちしていた。い、いつの間に……。
「何してるんだよ、さっさと部屋に戻れ」
そうして、ぐいぐいと否応なく背中を押してくるので、僕は抵抗できずに玄関の中へと入っていく。
「音葉が、部屋で待ってるぞ」
それだけを言って、美咲さんは歩き去っていった。僕はその背中を見送って息を吐き、歩き出した。
「で、穂夏とのデートはどうだった?」
突然銅鉾のような鋭い視線を向けられ、僕は体を硬直させる。はい?
「仲良く手を繋いで、まことに仲のよろしいことで」
その笑顔があまりに恐ろしくて、僕は徐々に後ずさり、ドアに背中を打ち付ける。
「あ、あれは……僕からやった訳じゃなくて、」
「あれれ? かまかけてみただけなんだけど、手まで繋いだんだ?」
な、なんでそんなに怒ってるの?
「やっぱり昨日、ひそひそ囁き合ってたのは、そういうことだったんだね」
僕が口をもごもご動かせていると、身を乗り出していた彼女はやがて溜息を吐いて、すっと身を引く。
「別に君が何をしようが、止める権利はないんだけどね」
その言葉を聞いた瞬間、僕は何故か激しく胸が掻き立てられて、「僕は」とつぶやく。彼女がどこか不安げな瞳を向けてくる。
「僕は、君を幸せにすると決めたんだ。何かして欲しいことがあったら、なんでも言ってくれればいいんだ。それがどんな頼みでも、僕は聞くよ」
すると、音葉さんはただ「空っぽなんだ」とつぶやく。
「私の心はいつだってそうなんだよ。だから、どんな願いも希望も、夢も、私には手に入れることができないんだ。私の枝には、どんな鳥も止まってくれない。他の枝に美しい鳥が止まるのをただ、見ていることしかできないんだ」
そう言って彼女は板張りの床に膝をついてしまう。
「……なら、輝けばいい」
そこで、独りでに僕の唇が震え、言葉を紡いだ。何か大きな衝動が胸を突き上げてきて、手足が震える。この震えが、大地を切り裂いてしまうんじゃないかと錯覚するほどの、途方もなく大きなその衝動。
「君が木になる必要はないんだ。鳥になればいい。僕が、止まり木になるから。だから、」
僕は彼女の見開いた瞳と向き合う。頭の中で、彼女のあの歌声が響いていた。音と音とが互いに共鳴し合い、新しい音を奏でるように、彼女の歌声の一つ一つが星の煌めきとなって、僕の夜空を流れていく。
「音楽をやろう、音葉さん」
*
僕はこう見えて、幼い頃から音楽に触れ続けた人間だった。両親が音楽関係の仕事をしていて、家に出入りする大人達はいつも音楽の話題ばかり好んでいたし、次第に僕もその恩恵を受けることになり、ピアノを習い始め、ギターを教えられ、仕舞いには弾き語りをやったり、未熟ながらも作詞・作曲などにも精を出すようになった。
僕は僕のやり方で音楽を理解して、つたない技術と声で持って自分の世界を他の人に理解してもらおうとしたんだ。
でも、どんなに巧みな技術を獲得しても、常に何かが欠如しているという感覚に襲われていた。歌がうまくても、演奏技術が素晴らしくても、そこに魂が篭もっていなければ、それはただの精巧にできた外殻でしかない。
だから、僕は彼女に出会って、あの声を耳にしてから、到達すべき唯一の目標として、彼女を位置づけたのだ。
彼女の歌声には、絶大な魂が篭もっている。無数の瓦礫に埋もれるだけの僕が、彼女の魂の灯火を少しでも分けてもらうことで、生まれ変わることができるんじゃないかと期待したんだ。
きっと彼女は自覚してないかもしれないけれど、間違いなく天才だ。才覚や技術、天から授けられたその声、すべてを超える何かを彼女は持っている。
その何かを直感で理解しても、僕の愚鈍な脳みそでは言語化することはできない……だから、僕は彼女の持っているそれをもう一度見てみたいんだ。
歌うことで、演奏することで、彼女が自分の中に秘めている夢に気付けるようにと。だから、僕はもう一度歌って、ギターを弾いて、そして――。
碧外村から列車に乗って数時間、花の匂いが漂う線路の上を移動していくと、やがて山のトンネルをくぐり、近年人口が伸びてきた碧内市へと到着する。
その町では音楽が流行っていて、楽器店やライブハウスがたくさんあり、僕も幼い頃、父親に連れられて楽器店を回ったことがある。素朴な思い出の一つ一つが、今の僕を形作っているのは言うまでもない。
昔の思い出をふつふつと思い出しながら駅に降りたのが十時頃で、まず最初に僕らは楽器店を巡って、適切な価格のギターを買うことにした。そうしているうちに、いつの間にか日が暮れ、ようやく七時頃になってお目当てのギターを見つけた。
ホテル探しへと移り、近場にあったビジネスホテルへと入ってフロントに行くと、何故か胡散臭い目で見られた。
「君達、本当に大学生?」
従業員の男性は僕らをじろじろ見つめながら言う。確かに、僕らは別段大人びて見える訳ではないので、歳相応だと思われてしまうかもしれない。
「確かに外見は幼く見えるかもしれませんが、そういうこと言うのは失礼だと思います」
演技だろう、音葉さんが唇を尖らせてそう言う。うーん、そんなこと言ってもねえ、と男性は渋るが、その時、横から若い女性従業員が「支配人」とつぶやいた。
「ん?」
「彼女達は私の知り合いです」
僕らは顔を見合わせる。知り合い? まじまじとその女性を見つめるが、見覚えはない。隣へ視線を向けると、音葉さんも目を丸くしている。
けれど、音葉さんはすぐに何かを察したようにうなずき、「久しぶりですね」と律儀に女性へ頭を下げた。
僕がきょとんとしていると、音葉さんが靴先を蹴ってきた。とりあえず僕も朗らかな笑顔を形作って、「久方ぶりですね」と頭を下げる。
「あ、なんだ、知り合いなの?」
男性はびっくりした顔をして、女性従業員に、僕らが近辺の大学に通う学生であることを説明されて、「なんだ。疑ったりして申し訳なかったね」とその女性に案内を引き継がせ、離れていった。
女性従業員は無表情で僕らを交互に見て、「じゃあ、そういうことだから」と手続きを進め、あっという間に部屋の鍵を渡してくれた。
「あの……ありがとうございました」
声をひそめて言って、頭を下げる音葉さんに、女性は軽くうなずき、「音楽やるの?」と突然聞いてきた。
僕らは顔を見合わせて、うなずく。
「まあ、頑張って。きっと誰かが君たちのこと、見守っているからさ」
彼女はそんな言葉を残して、「元気でやれよ」と僕らを送り出した。
部屋に荷物を置いて夕食を摂った後、ギターのチューニングを行い、そうして僕は軽く彼女に歌ってもらうことにした。
あの歌声がまた聴けると思うと、鼓動が早鐘を鳴らし始め、どうしても彼女に期待の眼差しを向けてしまう。しかし、彼女は目を伏せて、何故か曇り顔だった。
弾き語りで人気がある曲をいくつか挙げると、彼女は「レミオでいい」と言ってそっとベッドに腰掛ける。彼女と向かい合って、化粧台に浅く腰掛けた。ギターストラップを肩にかけ、太ももを水平にして足を組み、ボディーのくびれを右足の上に置く。
そうして軽く深呼吸する。しっかり彼女を支えられる演奏をできるのか、緊張が走る。僕はゆっくりと彼女と視線を合わせ、「君の心を歌に乗せてくれ」とつぶやく。
「君は君だけの、願いを歌に込めて表現すればいいんだ。下手でもいい、とにかく心を込めて、自分の感情を乗せて歌えばいい。僕は、本心からの声が聞きたいんだ」
僕はそうしてその瞳をまっすぐ見つめる。出会ってから一度だって見せたことがない、思い詰めた表情で彼女は見つめ返してきて、けれど最後には、こくりとうなずいた。
彼女の手が激しく震えているのがわかる。あの夜に見せた彼女の怒りはきっと、自分の歌に自信がないことからきている。だからこそ僕は、彼女の疑心暗鬼を取り除くんだ。
僕はそっとピックをつまみ、ギターに当てた。そうして一呼吸した後、弾き出す。
旋律の上を、彼女の歌声が蝶が羽ばたくように舞っていく。両親の罵声におびえる子供のような、喉の潰れた声。それにはあの時に聞いたような、ムーサの降臨を垣間見るような絶大な存在感はないけれど、それでもこれは彼女の歌声だ。
僕にはわかる――そのシルビアシジミの羽が、焼け付くような太陽と、砂埃を運ぶ強風に炙られながらも、懸命に飛び行く様を。その軌跡には、確かに彼女の想いがたなびいている。
体中の血流が沸き立ち、その福音に、演奏の限界点を超せるような気がしてくる。指が、彼女の声と繋がって、ホテルの一室を熱の篭もった旋風で七色に彩っていく。
僕らの到達点はこんなものじゃない。僕は指を動かせながら、そっと顔を上げる。彼女も薄く微笑んで、僕らの視線は溶け合って、やがて静寂だけが僕らを支配する。
それでも全身の中で、血流と一緒に音楽が跳ね回っていた。僕らはその余韻をお互いの肌で理解し、そうして情熱という名の衝動を胸に抱く。
人魚が、踊っている。繰り返す波の上を舞い、重なり、そうして僕らは光になれる。
その夜は、ネットで弾き語りのスポットを検索して、ひたすら最適な場所を探すことに集中した。そうして朝になると、僕らはすぐに練習を始める。即席ではさすがにメジャーな曲を選択するしかなかったけれど、彼女の声がありさえすれば、僕らの音楽は一歩も二歩も限界点を引き上げることができる。
「本当に大丈夫なの?」
夕方に目的地へと向かいながら、彼女がどこか不安げな面持ちで僕を見つめてくる。すぐに何を言いたいのかわかった。
「大丈夫だよ」
僕は笑ってうなずく。
「緊張して、喉に力を込めすぎちゃってるだけだから。僕はありのままの君の声が好きなんだ。緊張が解ければ、すぐに才能が君を引き上げてくれる。それが例え下手でも、心の篭もった声なら、それは僕らの音楽だ」
すると、彼女の表情がいくらか和らいだ気がした。彼女はそっと僕の服裾を握ってきて、「ありがとう」とぽつりとつぶやく。
僕は微笑んで、清々しい気分になってロータリーを歩いていたけれど、ふと足を止めて振り返った。背後を歩く男性に視線が向く。
「どうしたの?」
音葉さんが聞いてくる。
「いや……さっきから見られてる気がして」
「あの人?」
「わからないけれど、ずっと視線を感じるんだ」
そう言って僕は再び歩き出す。それでも視線が背後から追ってきて、僕は路地裏へと彼女を促した。けれど、しつこくずっとついてくる。いい加減声をかけようとしたその時、その姿はどこかの建物へと消えていった。僕らは同時にほっと息を吐く。
「やっぱり気のせいだよ」
音葉さんはそう言って、「変なの、光彦ったら」とくすくすと笑う。僕は苦笑して頭を掻きながら、それでもどこか違和感を感じていた。
僕の、思い過ごしだろうか。
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2011/11/11(Fri)22:41:56 公開 / 遥 彼方
■この作品の著作権は遥 彼方さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
ある日突然、音楽に関する小説が書きたい! と深く思うようになって、自分では音楽なんてろくにやったことがないのに、見切り発車で書いてしまいました。
ですが、自分の想いだけは文章に込めたつもりなので(まだまだ序盤で物語がどんなものかは語られていませんが)、色々音楽の知識がある人々にはちぐはぐな内容に思われてしまうかもしれませんが、精一杯書かせていただきたいと思っています。
一応もう原稿は完結していますので、推敲が終わり次第、随時掲載したいと思っています。
ということで、少しでも楽しんでいただけたら幸いです。