- 『トルヴァータ:『ハジメテノ』』 作者:神夜 / 未分類 未分類
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不定期に、黒い手紙が届いた。
たった一本の消え入りそうな蝋燭の灯りだけが頼りの暗い部屋に、それよりももっと暗い黒の手紙が届けられる。
その手紙が届いた時だけ、この部屋は外の世界と繋がり合う。
外の世界から戻って来ると、温かい食事とスープが出た。食事に関しては日毎時間毎に違っていたけれど、一緒に出て来るスープだけは、いつも決まって同じものだった。
そのスープが無性に美味しくて、大好きだった。
そして今日、また黒い手紙が届く。
小さく暗い部屋が外の世界と繋がり合う。
そうして、外の世界へとゆっくりと歩み出して行く。
今日のスープも、美味しくありますように。
そう、願いながら。
「トルヴァータ:『ハジメテノ』」
触るな変態、と大声で叫びながら頬を引っ叩かれた。
誤解だケツ触っただけじゃねえか、と大声で叫び返したら股間を蹴り上げられた。
お前ちょっと待てそれ反則、と制止する間もなく上段蹴りで薙ぎ倒され、道路に倒れ込んだ瞬間にもう三発蹴りを食らった。最初の平手や蹴り自体は大したことなく我慢もできたのだが、問題はやはり二撃目に襲った股間の痛みで、いくら女性の脚力とは言え急所を攻撃されたらどうしようもなかった。日中の太陽に熱されたアスファルトの上に引っ繰り返ったまま、股間を押さえてしばらく唸っていた。
数分後にようやく身動きが取れるようになったのでのそのそと起き上がる。鼻の下に違和感が湧き上がったために手の甲で拭うと、結構の量の血が付着した。どうやら鼻血が出ているらしい。幸いにして痛みはないから鼻が折れている訳ではないだろうが、生憎としてちり紙なんて上等なものなど持ってないために拭う手段がない。鼻血を垂らしたまま歩いて行くより他に道はなかった。
まったく酷い目に遭った、とニコル・ホーキンスは思う。
たかがケツを触ったくらいでこんな目に遭うとは思ってもみなかった。あわよくばこのままホテルまで直行コースだと半ば確信していたのにも関わらず、このザマだ。計算外である。今まで散々金を貢いでやったのに、ちょっとケツ触ったくらいであれだけぎゃあぎゃあ喚くとは何事か。もう二度と指名なんてしてやるものか、いやむしろ二度とあんな店になど行くものか。
さらに垂れた鼻血を拭う。手の甲が真っ赤に染まる。事情を知らない行き交う一般人がジロジロとこちらを見ながら過ぎ去って行く。見るくらいなら助けろよ鼻血拭けるもんくらい差し出せ、と悪態をつくが、しかし仮に逆の立場だとしたらきっとニコルも手助けなんてしやしないと思う。せいぜい遠巻きに哀れな鼻血野郎を見つめて「ざまあみろ」とほくそ笑むくらいである。
ここは、そういう街だった。
善意で他人に関わってもロクなことなどない。
自分の身は自分で守り、自分と関係無い者とは一切関わらない。そういう暗黙の掟が蔓延る街。
一言で言ってしまえば治安が悪い、それに尽きる。一見平和そうに見える人賑わうメインストリートでも、一歩裏路地に入れば格差社会に叩き潰された連中が住まうスラム街になっているし、巡回している警備隊は賄賂に目が眩んだ権力者の犬であり、そこら辺を歩いているスーツ姿の青年の身包みを剥げば銃の一丁くらいは出て来ても不思議は無く、ついさっき道路の向こうから糞デカイピカピカの車から付き添い人と共に降りて来た高級コートを身に纏ったブタのようなマダムは、そこらに転がる餓鬼を拉致して売り捌く奴隷商人の可能性だってある。だからこそ、こんな白昼堂々と鼻血を噴き出している人間に声など掛けるはずがないし、そんな奴がまともな人間である可能性は限りなく低く、声を掛けた瞬間に奇声を上げて飛び掛って来るかもしれない。
ここでは、自分の身は自分で守るしかないのだ。
下手に他人に関わってはならないのだ。
一度その波に逆らってしまえば最後、どこまでもどこまでも流されてあっと言う間に海の底に沈み、気づいた時には身包みどころか臓器さえも抜き取られた挙句、ホルマリン漬けにされて標本として飾られる。そんな激流の中で今までずっと生きてきた。昔にいた知り合いは皆いなくなっていた。この街を出て行ったのか死んだのかは今となっては不明だが、たぶん後者だと思う。この街を出たところで、ニコルのような底辺に位置する人間が他の街で健全に生きれるとは思えないし、そうであれば黒い世界に足を踏み入れて目指せ一攫千金を胸に抱いて死ぬ以外に道はない。
知り合いは誰もいなかった。
いつしか知り合いを作ることをしなくなっていた。
他人に関わっても、ロクなことなど何ひとつないのだから。
そしてどの道、他人に関わるような時間も、もうほとんど残っていないのだから。
鼻血を啜る。
今日の晩飯何食おう、とニコルは思う。
その日暮の金しか持っていない。一日を通して一食食えたら上出来だ。ただ近頃は金が出来る度に例の店に通っていたため、もっぱら夜しか飯を食っていなかった。しかしそれも今日でお終いである。次はまたどこか面白そうな店を見つけて入浸るしかないであろう。この辺りで他に面白そうな店あったかな、と実に能天気なことを思いながら、ニコルはメインストリートを外れて裏路地へ入って行く。
十歩も行かない内に、一気に空気の質が変わった。
酷い生ゴミの臭い。鼻血のせいで鼻が詰まっていてもなお感じ取れるくらいの悪臭。立ち並ぶ建物の窓から遠慮無くゴミが投げ捨てられ、それに群がる食料を求める人間。そういった連中がいつしか力尽きてゴミの上に倒れ、しかしさらにその上からゴミが投げ捨てられて埋もれて行く。そこら辺のゴミ山を穿ればおそらく一匹か二匹はそういうのが出て来る。月に一度、この辺りのゴミは行政の手によって強制回収され、ゴミだろうが人間だろうがお構い無しに持ち帰り、そのままペシャンコにして一気に燃やしてお終いである。綺麗なメインストリートから一歩裏路地に入って広がるのは、そういう世界だった。
そしてニコルの資金調達の場は、そういう世界。
晩飯の前の金探しだった。裏路地のゴミの隙間を縫ってさらにどんどん歩いて行く。どんどん歩いて行くくせに、その目は散らばるゴミをひとつひとつ確認して行っている。目ぼしいものは特に無い。路地を曲がりさらに奥へと進んで行く。そのまま何回目かの角を曲がろうとした瞬間、数メートル先の方に上から突如としてゴミ袋が落下して来た。
特に何の反応もせず、ニコルはそこへ近づいて行く。真新しいゴミ袋の傍に腰を下ろして遠慮無く破り、中身をぶちまける。くしゃくしゃに丸められた紙切れが手前に転がったので、とりあえずそれを手にして鼻血を拭って捨てる。さらにぶちまけた中身を物色していると、割られていないROMケースが出て来た。ケースを開けるとちゃんと中身の記憶媒体も入っていた。傷も特に見当たらず、おそらくまだ使えるものであろう。これくらいならまだいいか、とニコルはそれを手にしたままポケットに捻じ込もうとして、
違和感を感じた。
頭の隅の方が何かを捉えた。
こういう所で育ったが故に培った、ある種の勘のようなものであった。
音を立てずに立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。今日はツイているのかもしれない。久々にまともな金が工面できそうな気がする。まとまった金が手に入ったら何を食おうか。そんなことを考えながらも、細心の注意を払いながらさらに進んで行く。やがてその気配が大きくなった所でニコルは立ち止まり、路地裏からほんの少しだけ視線を出して、そっと覗き込む。
目を凝らさないと僅かに姿がぼやける距離の所で、誰かと誰かが言い争っている。両方とも顔は判らないしたぶん判ったとしても知らないであろうが、おそらくただの一般人ではないだろう、ということは容易に想像出来た。こんな所で言い争いをする時点で黒い連中だというのは相場が決まっているし、何よりもその二人の雰囲気が一般人のそれとは明らかに異なる。この街の、そういう世界で生きていたのだということを判らせるのには、それだけで十分だった。そしてそういう連中だからこそ、ニコルにとっては逆に好都合だった。
それから随分と長い間言い争いが続いた。今にも始めそうな雰囲気があるのにも関わらず、両者ともその最後の一線をどうしても越えない。いい場面もあるにはあるのだが、最終的にどちらかが踏み止まり、再び言い争いを始めるというのが先ほどからずっと繰り返されている。さっさと始めれば不毛な言い争いなどしなくて済むのに何やってんだ、こっちも暇じゃねえんだぞ、とニコルはため息を吐き出す。いい加減じれったくなって来て、ニコルが野次のひとつでも飛ばそうと思ったその瞬間、
唐突に、
本当に唐突に、言い争っていた片方の首から水が噴射した。
離れていたせいで水かと思った。それほどまでに勢いのある、ドス黒い血だった。
言い争いが一発で無くなり、血を噴射していた片方がよろめいた拍子に首から上が地面に落ち、支える力を失った身体が膝から倒れ込んで行く。それを見つめていたもう片方が数歩後ずさった刹那に、先ほどと同じことが起こった。再び首から血の噴射が始まり、そのまま声すら上げることなく倒れ込んで行く。
やがて静寂だけが辺りを支配し始めた頃、その光景を見ていたニコルがようやく我に返った。
なんだ、あれ。まず最初にそう思った。
殺し合った訳ではあるまい。刺し違えてああなったとも思えない。では自殺かと言えばそうでもない。何者かによって、首を切断された。たぶん、今の光景はそういうことだと思う。ただし他に人の姿なんて見えなかった。遠くて見えなかったとかではなくて、そもそもあの二人以外には誰もいなかった。それは確かだ。銃で狙撃したのならまだ納得できるのだが、銃で首が落とせるとは思えない。しかし近くには誰もいない。なのになぜ、あのようなことが目の前で起こったのか。
まったく判らない。まったく判らないがために、おそらく考えても答えなんて出ないであろうと思う。ならば考えるだけ無駄だった。勝手に両方とも死んだのであれば、それはニコルにとっても願ってもいないことである。むしろ取り分が増えて有難いくらいだった。そんなことをぼんやりと考えつつも、それから念には念を入れて五分以上待機した後、ニコルは角から出て首を落とした二人に向かって歩き始める。
生ゴミの悪臭に混じって感じる、新しい血の臭いだった。
首を恐ろしいまでに綺麗に切断された二人が仲良く転がっていて、流れ出る血は未だに道路を伝っていた。その傍に腰を下ろして、ニコルは一度だけ手を合わせた。祈ったのではなかった。安らかに眠ってくれと声を掛けたのでもなかった。そういうのは神を信じる馬鹿がやればいい。ニコルが手を合わせて死体に声を掛けるのは、たった一言だけ、こう言うためである。
晩飯代、ありがとう。
まだ微かに体温が残る身体へと無造作に手を伸ばし、上着を弄る。一発目でビンゴだった。出て来た財布を広げ、中身を全部抜き取る。現金だけではなくカードもすべて己の懐にしまい込む。空になった財布をその場に捨て、今度は身に付けている時計や指輪を剥がして行く。それが終わったらもう一人の方へ向き直り、先ほどと同じように財布を捜し、身包みを剥いだ。
僅か数分にして、一晩を過ごすには十分過ぎるだけの金が手に入った。さっき手に入れたROMケースは邪魔になったのでその場に捨てた。膨れた己の懐に手を当てて微かに笑う。これだけあれば今夜はさぞかし盛大な晩飯になるであろう。
感謝する、ありがとう。再び一言だけ心の中でつぶやき、立ち上がろうとして、
そしてニコル・ホーキンスは、虚空に向かってこう言った。
「――いるんだろ。出て来いよ」
その一言を言ってから、ニコルは一分間、身動きひとつしなかった。
何の変化も無い一分間が過ぎ去って、身動きもまったくしないまま、ようやっとニコルは微かに胸を撫で下ろす。
本当に何か出て来たらどうしようかと思っていた。先ほどの光景。あれは絶対に、「見えない何か」による仕業だった。そうでなければ、この二体の首がこれほどまでに綺麗に切断されるものか。その「見えない何か」が何であるのかなんて丸っきり見当もつかないが、もしかしたらまだこの場にいるのではないか――、何となくそう危惧して声を掛けてみたのだが、徒労であったらしい。首が切断されてから五分以上経ってから来たのである。その「見えない何か」はとっくの昔に退散していたのであろう。だからこの場にはニコル以外は誰もいなかった。それに「いるんだろ、出て来いよ」なんて誰も居ないのに独り言をつぶやくこんな姿を誰かに見られていたとしたらとんだ赤っ恥であ
子供だった。
年端もいかない子供の、たぶん、女の子。
思考が凍りつく。光景を認識できない。
視界の中。気づいたらそこに、その子がいた。
真っ黒な布のようなもので全身を覆い、そこから伸びる両の細い素足。手は布の中に入っているのか見えず、髪の隙間から僅かに見える顔の輪郭が小さい。子供だから、ということもあるのであろうが、それでも小顔であろう。腰より長いブロンドの髪はぐしゃぐしゃで、前も後ろも関係なく伸びているせいでまるで髪の毛のお化けのような印象を受けた。その髪の僅かな間から覗く蒼色の瞳が二つ、何も言わずにこちらをじっと見つめている。
光景を認識できないままでも、凍っていた思考が僅かに回り出す。
どうすんだよ、とニコルは思った。
本当に何かいた。なんか変なものが出た。これはヤバイ気がする。どう考えても絶対にヤバイ気がする。一般人などという小動物並の可愛いものではまさかあるまい。いやそれ以前に、この子は何だろう。人間なのだろうか。今までヤバイ人間なんていうものは何人も見てきた。こんな街のこんな所を縄張りにしていたら、そういう人間に何度も出遭うのは必然だ。そしてそれらに遭遇した時には、勘のようなものが一斉に警告を弾き飛ばす。しかし今はその警告のレベルが、明らかにおかしい。異常である。頭がガンガンする。これほどまでに「ヤバイもの」を見たのは、この街で生まれ育って、初めてだった。
その警告のレベルに対して、思わず肩がヒクヒクした。
自然と笑みが零れた。
あー。どうしよう。これダメだわ。これヤバイヤツだわ。
そんなことを、他人事のように思った。
視界の中にいるはずの少女の身体がゆらゆら揺れている。いや、これは揺れているように見えているだけか。いきなり視界の中に現れたように、いきなり視界の中から消える瞬間がある。そこにいるはずなのに、なぜかそこにいないように思える瞬間が、確かにある。蜃気楼のようだった。ゆらゆらと揺れる度に少女の存在がこの世界に現れたり消えたりしているかの光景。目を凝らしていないとすぐにでもその姿を消失してしまいそうである。
これは人間なのだろうか。まさか変なものばかり食っているせいで、変なものが見えるようになったのだろうか。
少女の身体が一際大きく揺れた。刹那に、その姿が完全に視界の中から消失した。
あ、と声を出す暇もなかった。気づいた時には少女は真横にいたし、気づいた時には黒い布の奥から鋭利な刃物が覗いていたし、気づいた時には動けなかったし、気づいた時には
口から大量の血が溢れた。無意識の内にその場に蹲り、転がっていた死体の上に胃液と共に血を吐いた。
結果的に、そのおかげで今に死ぬことを免れた。口の中に充満するものを散々死体の上に吐き散らかした後、死体の上着で無造作に口元を拭う。墓の底から蘇った死人のように「あー」と「おー」の中間地点の声が出るが、どうにもそれが自分のものだという実感が無い。
その場に尻餅を着く。建物の隙間から見上げる青空には、小さな雲があった。
ふと横を見ると、少女が先と変わらずにそこにいた。髪の隙間から覗く空のように蒼い瞳が、やはりこちらをじっと見つめている。
そして、ニコルは笑った。
「――なぁ。腹減らねえか? 飯食いに行こうぜ飯」
少女は何も言わない。ニコルは立ち上がる。
「金なら大丈夫だ。気にするな。お前のおかげで余裕がある。おれが奢ってやるよ」
ニコルが歩き出す。
しばらく歩いても付いて来る気配がなかったので振り返ると、本当にすぐそこに少女がいた。
思わず仰け反る。「お、おお……」とつぶやくと同時に、無意識の内に少女の足に視線が移った。やはり裸足である。靴を履いていないせいで足音が出ないのであろうが、いくら裸足と言えどもこんなゴミの上を歩いてここまで音を消せるのだろうか。素直に「凄いな」と感心する。
再び前を向きながら、
「足痛くないのかそれ。靴は?」
返事は無かった。質問を続ける。
「お前、名前は?」
やはり返事は無かった。
まぁいいか、と思う。
「おれはニコル・ホーキンス。一晩限りの付き合いだろうが、よろしく頼むよ」
そう言って、ニコルは振り返りながら、笑った。
とりあえずよく食う。
遠慮せずにがんがん食え、と言ったのはニコルであるが、この少女、とりあえずよく食う。びっくりするくらいに食う。成長期だからという理由を差し引いてももりもり食う。あっと言う間にニコルの三倍以上の皿を積み上げてしまったが、それでも少女はまだまだ食べ続けている。底が無いのかもしれない、とニコルは思ったが、別に金ならあるので気にせず注文を続けた。
少女は特に「美味い」とも「不味い」とも言うことなく、ただ単純に食い続けた。まるで食べること自体が作業であるかのように、ひたすらに食物を口に運んだ。しかしどうしてかその手際が物凄く不慣れで、スプーンで掬い上げて口に運ぶまでにボロボロと落とすし、口の大きさを計算せずに大きな物を入れるせいで唇の周りはすでにベタベタだった。顔に掛かっていた髪にまでソースなどが付着してしまい、それを見た食事を持ってくる従業員が物凄く嫌そうな顔をしていた。が、今さらにこの街で身なりに関して気を払う必要は無かった。少女も少女だが、ニコルもニコルで大概貧乏臭い格好である。ボロ雑巾を絞ったような服装はお互い様なので、正直どうでもよかったし、金を出す側の客として逆にあの従業員の表情が気に食わないくらいである。
そしてひたすらに食い続けていた少女の手が、何の前触れも無く止まった。
許容量を超えた機械のように、本当に唐突に止まってしまった。
「なんだ。もういいのか?」
その様子をぼーっと見ていたニコルがそう尋ねるが、少女は肯定も否定もせず、ただ蒼い瞳でじっとこちらを見つめている。
食い荒らされて汚れた食器を見渡しながら、ふと気づき、
「――なんだ、スープはお気に召さなかったのか?」
すべてが均等に食い荒らされているのにも関わらず、なぜかスープだけがほとんど手付かずだった。あれだけ無表情に食材などもほとんど関係無く食っていたのにも関わらず、変なところで好き嫌いでもあるのだろうか。しかしそこで「勿体無いから残すなよ」なんて説教するつもりはさらさらになく、それどころか「食いたいもんだけ食ってればいい」とニコルは常日頃から思っている。
さて、とニコルが席から立つ。
「とりあえず出るか。次はどうすっかな、」
そこで一瞬だけ考え、まさかこんな年端もいかない少女を抱くわけにもいかねえしなぁ、と頭を掻く。
下から少女を眺め上げていき、やがてまた唐突に、「……まずは汚れ落とすか」とつぶやく。ニコルも生ゴミのような見た目と臭いを発するが、少女も少女でどっこいどっこいである。久々に金が入ったのだから、とりあえずは身体でも洗おうと思う。が、まずは何よりも少女のぐしゃぐしゃでドロドロの髪を何とかしなければならない。このまま湯船にでも浸かられたらさすがに面倒だ。
踵を返して歩きながら、
「ちょっと来いよ。髪切るぞ、髪」
髪のお化けにそんなこと言っていいのか判らなかったが、少女は相変わらず黙って付いて来たので、本当に切ってやろうと思った。
立ったままの少女の後ろから、大雑把にハサミでバサバサ切った。遠慮なく切った。元来手先が器用な方ではなく、人の髪を、ましてや女性の髪などを切ったのは産まれて初めてだったのでみすぼらしくなってしまったが、何とか見れるとは思う。膝丈より下だった髪を肩より短くした。前髪も薄い眉毛より上までバッサリやった。
一言も言葉を発しない少女を後ろに連れて歩いて行く。宿屋の一室を借りて部屋の中に入る。本来ならば昼間に蹴り倒されたあの女と来るはずの場所であったが、仕方が無い。部屋の中でニコルがボロ雑巾のような服を脱いでいる間、少女はずっとこちらをじっと見つめているだけだった。
「? 何してんだ? お前も風呂入るんだから脱げよ」
大丈夫だ、さすがにお前みたいなのを襲いはしねえよ、と補足するより早く、少女は身に纏っていた黒い布を脱いだ。
それがそのまま床に落ちた時、ニコルはここに来て初めて、少女に対して息を呑む。
やっぱりか、とニコルは思った。これコイツ、やっぱりヤバイヤツだった。
布の下から現れた巨大な刃物を見た時、さすがにこれは手に負えないと瞬時に理解する。子供に相応な細く貧相な身体には、本来であれば白かったであろう薄汚れた一枚のシャツだけしか身に付けてはいないが、両の二の腕より少し上から巨大な刃物が二枚、さらに両の太股からも二枚の刃物が下に向かって飛び出している。一瞬、刃物自体が身体に埋め込まれているのかと思ったのだが、どうやら刃の根元に輪のようなものが付いていて、それを腕や足に通して固定しているようだった。
深くは考えないようにした。考えたところで判らないし、この世界には「判らない方がいいこと」や「知らない方がいいこと」も多くある。その最たる例がきっと、この少女なのだと思う。そしてたぶん、この少女が何者なのかを判っても判らなくても、そして知っても知らなくても、遅かれ早かれもう自分はここで殺されるんだろうな、とニコルは思っていた。むしろあの時、倒れ込んでいなければ二コルはすでに死んでいたのだ。どうして未だにこの少女が自分の首を落とさないのかは不思議ではあるが、せっかく生きているのだから今の内に出来ることをしておこう――、そんな風に考えていた。
少女が無造作に装着されていた輪を外すと、支えを失った四枚の刃が順に床に突き刺さっていく。
「あーっ、コラ、傷つけんじゃねえよ、弁償させられるだろっ」
慌てて少女の方へ歩み寄り、床に突き刺さった刃を引き抜こうとした瞬間、
天地が引っ繰り返ってあっと言う間に訳が判らなくなり、気づいた時には一枚の刃を手にした少女に馬乗りに跨られて刃先を喉に突き立てられていた。本当に何がどうなったのかさっぱり判らなかった。どうやってこのような体勢に持っていかれたのかすら判らなかった。唯一判っていることがあるのだとすれば、それはどうやら知らずの内に、この少女の「触れてはいけないところ」に触れてしまったのだということ。おそらくこの刃物に触られることを嫌がったのであろう。さすがに迂闊過ぎた、とニコルはため息を吐く。
馬乗りの少女の下で両手をそっと上げ、
「あー……降参。悪かったよ、勘弁してくれ。ただそれは床に刺すんじゃなくて、壁に置いとけ」
随分と長い間、蒼色の瞳と見詰め合っていた。
やがて唐突に少女が刃を引き、言われた通りに壁に掛けた。残りの三枚も床から引き抜いてそのまま壁に掛ける。そして振り返り、やはりこちらをじっと見つめる。
上体を起こしたニコルは自らの身体の各箇所を少し動かしてみる。大体は特に問題無く動くのだが、刃に手を伸ばした右手の手首が酷いことになっている。痛み自体は無いのだが、少女の手の形に添って、すでに紫色になりつつあった。相当な力で握って捻り返されたみたいだった。痛みを超えてむしろ感覚が麻痺しているのかもしれない。
思考を捻じ切る。のっそりと起き上がる。
「あー……。風呂、行くか」
歩き出したニコルの後を、少女が足音も立てずに付いて来る。
そんな少女を振り返り、ニコルは言った。
「……いや、シャツは脱げよ」
とりあえず汚れていた。
風呂に入るのは汚れを落とすのが目的であるからして、その前が汚れているのは構わないのだが、それを超越するかの如くびっくりするくらいに汚れていた。ニコルもさることながら、少女も酷かった。最後に風呂に入ったのがいつだったのかはもう憶えていないが、この少女も一体いつから風呂に入っていないのか、臭いも垢も凄い。結局二人揃って四回も風呂に入る羽目になり、その頃になってようやく人並みになった。
少女は終始立ち呆けの座り呆けであったため、仕方が無くニコルが少女を洗った。幼い身体つきだった。ただそれでも、少女の身体であったのは間違いなかった。興奮しなかったと言えば嘘になるのだが、生憎として子供にはさほど興味も無かったし、それ以前に、少女の身体に染み込んだ臭いに性欲はまるで勝てなかった。
酷い臭いなのはニコルも同じであるため特には気にならなかったのだが、問題は、その中でニコルに無く少女に有った、たったひとつの臭いだった。何人、という話ではないだろう。何十人、何百人、下手をすれば何千人という数だと思う。それらを浴び続けたが故に発せられる、生臭ぐ明確な、血の臭い。その臭いだけで、この少女がこれまでどのような道を歩んで来たのかを想像するのは難しくなかった。ただ、想像は出来るのだが、おそらくはその想像以上の道を、この少女は歩んで来ているのだと思う。
雨に濡れた犬のように突っ立ったままだった少女の頭の上からタオルを被せ、遠慮無く髪を拭いた。髪もだいぶマシになった。さすがに数回洗った程度では本来の髪質は取り戻せはしなかったが、それでもまだ何とか見れるくらいにはなった。もはや髪のお化けではなくなった少女の頭をタオルで掻き混ぜながら、ニコルは何となく笑う。
それからは特に何かをしていた訳ではなかった。二人の服は風呂に入るついでに洗ってしまったため、やることもなくただ寝床に二人揃って寝転がって天井を見上げていた。互いに何も身につけてはいなかったが、身体を重ねることはしなかった。性欲はいつしか完全に消失していたし、今日はいろいろなことがあったせいで身体の芯から疲労が湧き上がっていた。
寝たかった。少女はやはり何も言わない。呼吸さえしているか判らないくらいに静かだった。
どれくらいそうしていたのかはわからない。電気を消した暗い部屋の中、いつしかまどろみの中へと意識が落ち掛けていたその時、何の前触れも無く隣の少女が起き上がる。沈み掛けていた意識がギリギリで微妙なところを漂う。視線だけで少女の姿を追った。少女はベットから歩み出るとそのまま進み、まだ乾いていないであろう自らの服を手にして身を包み、壁に掛けてあった四枚の刃物を腕と足に装着し始める。
無意識の内に口が開いていた。
「……行くのか」
返事は無かった。
少女は黒い布を纏い、刃物をすっぽりと隠してしまった。もはや髪の毛のお化けではないが、その姿はやっぱりお化けに近いものがあるような気がした。
少女がこちらに向き直って近づいて来る。
その光景を見つめながら、「あー、たぶんこれが最後だろうな」と、実に他人事のように思った。恐くは無かった。これからこの少女が何をするのか、大凡の予想はついていた。それでも恐怖は無かった。なぜなら、死ぬことは、随分前にすでに受け入れていたのだから。だから、ニコルは少女を見ながら、ただ純粋に、笑った。これはこれで、悪くない最期だったと思う。
少女がニコルのすぐ傍で立ち止まり、蒼色の瞳がじっと見つめてくる。
まるで何かを伝えるかのような視線の中、少女の身体が僅かに揺らめき、
そして、
部屋のドアをノックする音を聞いた。
この期に及んでも未だに半覚醒だった脳が一瞬で覚醒する。
上半身だけを起き上がらしたその瞬間、締め切っていたドアが、ほとんどドアと変わらない大きさに切り抜かれて、ゆっくりと室内に倒れ込んで来た。そのドアを足音も立てずに踏み進めながら、何の躊躇いも無くゆっくりと部屋に入って来たのは、少女によく似た黒い布を身に纏った男の三人組だった。大木の如き大男が二人と、優男が一人。
勘が告げていた。たぶんきっと、こいつらは少女の同類。警告のレベルが大きい。少女には劣るだろうが、それでも危険なものなのには変わりなかった。が、逃げ出すのはもはや不可能であったし、どの道にこの連中が来なくても少女に殺されていただろうから、結果は変わらなかったのかもしれない。
そう諦めたせいか、なぜだか妙に落ち着いていた。
寝床に体重を預け直しながら、ニコルは笑う。
「……あんたら、この子のお迎えか何かか?」
男共は何も言わなかった。
そして、その男共の中の大男の一人がこちらに向かって一歩を踏み出し、
瞬きをするような一瞬で、鮮血が散った。天井に当たったことによって速度を失ったそれが床に落ちて転がり終わるまで、ニコルはそれが果たして何であるかをまったく理解できなかった。転がり終わったそれをマジマジと見つめて、ようやく理解する。すぐそこに転がっているのは、どうやら太い腕であるらしい。おまけに、その腕には少女のような巨大な刃物が装着されていた。視線を腕からゆっくりと男共に移していって初めて、こちらに一歩を踏み出した男のすぐ傍に、さっきまで目の前にいたはずの少女が移動していたことに気づいた。
誰も何も言わなかった。腕を切断されたと思わしき男もまた、声を上げるどころか何の表情の変化さえ見せなかった。
夢のような気がして来た。何が起きているのかさえ、正直なところまったく判っていなかった。
「驚きました」
男共の中の一人の優男が、そうつぶやく。
男はニコルを見つめながらさらに口を開き、
「トライキオラがヒトに興味を持つとは意外です」
「トラ……、なんだって?」
思わず聞き返したニコルに向かい、男は再度その名を口にする。
「トライキオラ。その子の名前ですよ」
随分と大層な名前持ってんじゃねえかお前、とニコルはふっと笑う。
男はすぐ傍にいる少女に視線を移しながら、
「本来であれば、ここで貴方を殺しておかなければならないのですが、どうもそうはいかないようです。ここでトライキオラが本気で貴方を守り始めたら、さすがに我々でもそれを止めて貴方を殺すのは骨が折れます。……どうでしょう。取引と言っては何ですが、ひとつ提案があるのですが」
「……まぁ、聞くだけは聞くよ」
「感謝します。何も難しいことではありません。貴方が今日見たことをすべて忘れて、決して他言しないでください。それだけで結構です」
「それ、破ったらどうなる?」
そうですね、と男は笑って言った。
「殺します」
そこで初めて、ニコルも心から笑い返した。
「わかった。その提案を呑もう」
「感謝します。では、もう遭うこともありませんと思いますが、どうか余生を悔い無きようお過ごしください」
男が一度だけ小さく頭を下げた刹那、
出遭ったばかりの少女のようにその姿が揺らめいて、気づいた時には視界から消えていた。床に転がっていた腕もまた、血溜まりだけを残していつの間にかなくなっている。
この部屋に残ったのは少女だけだったが、その少女もまた、いつの間にか姿が揺らめき始めていた。
最初から一夜限りの付き合いだったはずである。予定よりちょっと早いが、お別れだった。
ニコルは笑い掛ける。
「あー。風呂は、ちゃんと入れよ。ああ、あと髪も手入れしろ」
それだけ言って寝床の上に寝転がり、ニコルは最後の一声を告げる。
「――じゃあな」
少女の姿が視界から消える間際、
気のせいであろうが、まったくの無表情のはずだった少女が、どうしてか、泣いているような気がした。
瞬間、その「気がする」ことに対して、少しだけ、胸が痛んだ。
そして部屋に一人残されたニコルは、暗い天井を仰ぎながら一回だけ、小さな咳をする。その拍子に口の中に違和感が湧き上がったため、そっと手で口元を拭うと、結構な量の血が付着した。
血の付いた手を目の前に翳しながら、ニコルは苦笑する。
――もうすぐ尽きる命に、変な期待をするんじゃねえよ。
◎
口から血が出た。
正確には、身体の奥から口を通して血を吐いた。
数週間前、何の前触れも無く胃液が込み上げて来て、堪らずにその場に吐いたら、嘔吐物と一緒に大量の血が混ざっていた。その光景を見た時は正直焦りもしたが、客観的に考えてみればすぐに判ったことだった。お世辞にも良い暮らしをして来たとは言えない。ゴミの中から黴の生えた食料を漁って食うなんてことは日常茶飯事だし、酷い時には数日間を川に流れる泥水だけで過ごすなんていうこともザラだった。そんな生活を続けていれば身体が壊れるのは当然のことで、むしろよくここまで保ったと褒めるべきであろう。
医者には行かなかった。
正確には、医者に診てもらうだけの金を持ってなかったため、行けなかった。
だがもし仮に診察分の金があったとしても、この症状から察するにおそらくは入院、下手をすれば手術なんてものを受けろと言われる可能性もあったし、そうなったら法外な金を要求されるのは当然のことで、一文無しで入院すれば最後、難癖つけて恐喝紛いのことをやらかされた挙句、生きるために必要な最低限の臓器以外を抜き取られることになる。それならば医者になどそもそも行かず、このまま己の身体に身を任せてみようと思った。
時折、発作のように血を吐いた。
正確には、心身に負担が掛かった時などによく血を吐いた。
息が切れるような激しい運動や、ぐったりと疲れるような疲労を感じた時になどに血が出た。血の量はどうやら心身の負担によって変化するらしく、唾程度の時もあれば、地面いっぱいを濡らすような時もあった。ただ、日を追う毎にその量が着実に増えて来ているのだということは判っていたし、もはやどう足掻いたところでこの身体ではそんなに長くは生きられないのだということを自然と理解していた。
そう理解してしまえば、案外気が楽だった。
どうせそう遠くない未来、身体の限界が来る前にいつかは尽き果てる命だと思っていた。それが早いか遅いか、あるいは病気で死ぬか人に殺されるかの違いだけであって、命が絶たれることには変わりなかったのである。それ故に、死ぬのであればそれはそれで納得して、ただ悔いのないように最後までいようと、そう思った。
そう思ったのだが、そのためにそれまでとそれからの生活が何か変わったかと言えば、特に大きな変化は無かった。唯一の変化があるのだとすれば、以前よりも人肌が恋しくなったくらいだろうか。死を受け入れてからというもの、柄にも無く人に無性に触れたくなる瞬間があった。ただ、触れるのなら同性よりも異性の方が良いのは明白で、そして異性と肌を触れ合うのであれば性欲が湧いて来るのは男の性であり、そこに愛情なんていうものを微塵も感じないまま、金の繋がりだけで身体を重ねた。その瞬間だけは、胸に空いた穴のようなものが埋まっている気がした。
しかしそれにもやがて、限界が来た。
あの日を境に、そういう気持ちが消えた。
口から溢れる血の混じった嘔吐物と共に、人間らしさも吐き出しているかのようだった。
どこをどう歩いたのかは記憶に無く、見上げた空には大きく落ちた太陽があって、夕日に照らされた長い影の中、ニコル・ホーキンスはスラム街の奥底の掃き溜めのような場所に座り込んでいた。
立ち上がる気力はすでに尽きていて、もうこのままここで眠ってしまおうかと思う。今ここで寝たら、たぶんもう二度と起き上がれないような気がする。それはそれでいいか、と思わなくもない。悔いの無いよう生きて来たつもりだった。特にしたいことも無かった。もう十分なのではないか。そんな気持ちが浮上して来る。
夜の迫る空を見上げながら、大きな息を吐いた。
目を瞑って開けたら、そこに黒い布を纏ったお化けがいるような気がする。
絵空事であった。一夜限りの付き合いには慣れているはずだった。それに対して未練があるなど、一体いつ以来だろう。
あれから二週間経っていた。あの日のことは、誰にも言っていない。言う必要がなかったし、言う相手もいなかった。ただし、忘れてはいなかった。あの男との約束は「忘れて他言しないこと」であったが、そう簡単に人間の記憶が消えるのであれば苦労はいらない。忘れたくても忘れられるはずがなかった。あれほどまでに「ヤバイ連中」の記憶など、そうそう消えるはずもあるまい。
そして、それ自体がそもそもの「ヤバイ事」であると判っていてなお、その事を思い出している自分の気が知れない。
思わず笑みが零れる。視線を空からゴミの散らばる地面に落として行く。
自分の薄汚れた身体を見ながら、小さく思う。
――……あー……風呂、入りてえなぁ……。
裏路地に風が吹き抜けていく。
足音は聞こえなかった。気配も無かった。
ただ、本能の奥に根付く勘が、けたたましく警報を鳴らしていた。
敢えて視線は上げなかった。
「……約束を破った憶えは、ないんだけどな」
正確には、破った憶えはないが、守っている憶えもない、である。
そして男もまた、追及はしなかった。
「構いませんよ。今日は別件で貴方に遭いに来ただけですので」
知らずの内に肩が震える。何だか可笑しくなって、俯いたまま笑った。
「もう遭うことも無かったんじゃないのか」
そのつもりでした、と男も笑う。
「ただ誤算がありました。どうもトライキオラが貴方に遭いたがっている節があります。こちらとしてもこれは想定外の事態です。貴方は一体、あの子に何をしたのでしょうか。あの子に対して何を言い、何をしたのか。愛を囁き身体を重ねでもしたのでしょうか。参考までにお聞かせ願えないかと思いまして、今日はここへ来ました」
冗談だろ、とニコルは再び笑い、
「何もしてねえよ。ただ飯食って髪切って風呂入って寝てただけだよ。あんたらの想像することなんて、何もしてねえさ」
「そうですか。ならば残念ですが、ここまでです」
風が靡いていた。恐怖は特に無かった。死ぬことはもう、受け入れていた。
だけどただひとつだけ、気になることはあった。
ニコルは小さくつぶやく。
「……なぁ。最後に、ひとつだけいいか」
返事は無かった。それが発言の許可だと受け取る。
たぶんこれが、最期の言葉。
だからニコルは、こう言った。
「――あいつ、ちゃんと風呂入って髪洗ってるか?」
返事は無く、代わりに、男の小さく笑う声が聞こえた気がした。
ニコルが無意識の内に顔を上げようとして、
瞬間に、視界が閉ざされ意識が途絶えた。
◎
ニコル・ホーキンスという名は、本当の名前ではなかった。
いや、「本当の名前」というものがあったのかどうかさえ、今となっては判らない。
親は知らない。生きているのかどうかさえ知らない。気づいた時にはスラム街の一角で、血の繋がらない他の子供達と一緒に当たり前のように生活していた。皆、同じような境遇だった。生まれを知らず、親を知らず、年齢も誕生日も、そして自分の名さえも知らない子供達。いつからそういう集まりが出来たのは判らないが、別に知る必要も無いことだった。ゴミのような場所で、ゴミから産まれたかのような子供達が、ゴミを漁ってゴミを食う生活をしている場所。そこでずっと、生きてきた。
ニコル・ホーキンスという名は、その場所いた一番年長の子供に貰った名前だった。
生きるためには何でもやった。手段を選んでいる余裕なんて、微塵たりとも無かった。弱い子供が強い世界を前にして、己の弱さを嘆き跪いて命乞いをしたところで腹が満たされる訳ではない。食って生きるために行なうことはそれこそ命懸けで、法を犯すことと生きることは同意義であり、仲間を見殺しにしなければならない場面に遭遇することも決して少なくは無かった。
仲間が一人欠ける度、どこからともなく仲間が一人現れた。
まるで建物の窓から投げ捨てられるゴミのように、子供が捨てられていた。入れ替わり立ち代りで、時には大きく仲間が減ることもあったし、時には一気に倍近くまで仲間が増えることもあった。しかし年月を通して全体を見れば、数は平均値で納まっていたと思う。躊躇うことを知っている子供から消えて行った。人道に反する時、躊躇ったが最後、それは終わりを意味していた。その意味を頭で理解していてもなお、精神が一線を越えられない子供から順次、消えて行った。
そこには、たったひとつの「教え」があった。
盗むことは罪ではなかった。殺すことは罪ではなかった。生きるためには盗み、殺さねばならなかった。生きることと法を犯すことが同意義であるように、生きることは盗むことで、生きることは殺すことだった。人を殺す度、人間として最も大切なものをひとつずつ捨てて行く。そうしなければ、生き残ることは出来なかった。そうしなければ、殺される前に見えない重圧に押し潰されて死んでしまうからだ。そのせいで壊れた仲間を何人も見て来て、そしてそういう仲間を、何人も切り捨てて生きて来た。
そこには、「教え」があった。
盗むことは罪ではない。殺すことは罪ではない。そして誰かを見殺しにすることもまた、罪ではない。それは生きるために必要なものだ。必要なことだ。しかしだからこそ、一言だけ言葉を吐け。何でもいい。「ありがとう」でも「ごめんなさい」でも「ざまあみろ」でも何でもいい。たった一言だけ、盗んだモノに、殺したモノに、看取ったモノに、言葉を吐け。それが何も出来ないモノが持つ、唯一の手向けだ。
ゴミのような場所で、ゴミから産まれたかのような子供達が、ゴミを漁ってゴミを食う生活をしている場所。ゴミしか食わずとも、生きていればやがて子供は大人になる。そうした者は皆、いつの間にかその場所から出て行く。決まりがあった訳ではなかった。ただ、自然と理解していた。ここで大人になるということはつまり、もう一人で生きていけるということで、そうであれば態々リスクを背負ってまで集団で行動するメリットは何も無い。だから大人になった子供達は皆、いつの間にか一人でそこから出て行くのである。そこから先に何があるのは知らない。何を目指すのかも知らない。それでも彼らは皆、そうして一人で生きて行く。
ニコル・ホーキンスもまた、例外ではなかった。
昔の知り合いは、もう誰もいなかった。生きているのか死んでいるのかさえ判らない。顔さえも思い出せない。しかしそれでも、おぼろげに憶えていることもある。死に物狂いで奪い取った一切れのパンを分け合って一緒に食べたこと、凍えるような寒い夜に身体を寄せ合って一緒に眠ったこと。そんなちっぽけな、だけど懐かしい記憶は、おぼろげに憶えていた。
それはまだ、ニコルの中に少しだけ残っていた人間らしさが見せる、思い出だった。
◎
ゆっくりと意識が浮き上がる。
何か夢を見ていた気がするのだが思い出せない。
ぼんやりとした脳みそを動かして、ニコルはゆっくりと辺りの光景を見渡して行く。
暗い室内だった。無機質な石造りの小さな部屋の四隅には蝋燭があって、それが辺りを淡く照らしている。何も物が置かれていない。目の前に木のドアがひとつあるだけで、他には何も無かった。ここがどこなのか、検討もつかなかった。見たことも無かった。まさかあの世へ行くための待合室ではあるまい。しかしだとしたら、本当にここはどこだろう。
動き出そうとして初めて、自分の身体が古惚けた椅子に座っていたことを知る。
座ったまま寝ていたことに違和感を覚えながらも立ち上がろうとして、
蝋燭の瞬きに合わせるかのように、視界の中に黒のお化けが現れた。
あの優男だった。
「目が醒めたようですね」
そう言って笑う目をじっと見つめたまま、ニコルはようやく状況を理解する。
立ち上がることを止めて椅子に座り直し、大きな息を吐いた。
「……おかしいな。おれはあんたに殺されたんじゃなかったのか」
そのつもりだったんですけどね、と言いながらも男は笑みを絶やさなかった。
「少々、可能性を信じてみようかと思いまして。質問をしてもよろしいでしょうか?」
返事は返さなかった。男もまた、それを待たなかった。
「ここで死んでみるつもりはありませんか?」
意味がわからず、
「……どういう意味だ、それ」
「難しい意味ではないですよ。言葉通りの意味です。その言葉に肯定して頂けるのであれば、貴方は今ここで、死にます。ただ、誤解の無いように言うのであれば、それは肉体や精神の話ではなく、存在が死ぬということです。ここにいる限り、貴方は二度と外に出ることは出来ませんし、我々以外と言葉を交わすことも出来ません。それは絶対です。しかしその二つを守って頂けるのであれば、我々は今後一切、貴方に危害を加えることをしません」
いつかのような状況だった。
そしてニコルはやはり、笑った。
「その話、蹴ったらおれを殺すって言うんだろ?」
「そうですね」
何の淀みも無く、男は笑顔でそう返して来た。
取るべき道は決まっていた。殺されるのが恐かったからでは無い。死ぬことはすでに受け入れていた。だからこそ、心残りだけは残さないでおこうと、そう思った。
椅子から立ち上がる。
「――わかった。その話、受けるよ」
男が再びに笑い、
「感謝します。申し遅れましたが、わたしはフェインといいます。以後、お見知り置きを」
そう言って差し出される手を、ニコルは最後まで握り返さなかった。
フェインに案内された場所は、ニコルがいた部屋から出て、さらに下へ進んだ所にあった。
人が一人ようやく通り抜けられるような狭い通路を、ただフェインの後に続いてひたすらに歩いた。途中に窓は無く、通路を照らすのは点々と設置されていた蝋燭の灯りだけだった。地上ではないのだということは、何となく判った。窓が無いこともそうだが、気温が恐ろしいまでに低い。たぶんここは、どこかの地下なのだと思う。なぜ地下にこんなものがあるのか。仮説を立てることは可能だったが、それが正解なのかどうか、フェインに質問をしたところで答えてくれるとは思えない。だから途中からニコルは考えることを止め、質問をすることもなく、ただフェインの後に続いて歩き続けた。
そして通路を進む度、階段を下る度、ニコルは眉を潜めていく。
どれくらい前から漂っていたのかはもう判らない。それが酷過ぎてすでに器官は麻痺していたのだと思う。
狭く暗いそこに充満するそれは、恐ろしいまでの、血の臭いだった。
そしてその臭いを、ニコルは知っていた。つい最近、その臭いを嗅いだ記憶がある。最初から薄々気づいてはいたのだが、どうやらそうであるらしい。フェインには何の説明もされないまま、ただ「付いて来てください」と言われただけだった。どこへ行くのかの説明は無かったが、フェインがニコルを案内する場所なんて大凡予想がついたし、加えてこの臭いでほぼ確信が持てた。もはや疑いようは無い。
辿り着いたそこは、通路の最深部。通路とほとんど同じ大きさの鉄の扉が行き止まりにあって、その目前でフェインは初めて立ち止まった。
「――ひとつだけ、言っておかなければならないことがあります」
フェインは鉄の扉をじっと見つめたまま、
「貴方が約束を守って頂いている間は、我々は貴方には危害を加えません。しかし、トライキオラは例外だということを理解してください。あの子は特別です。我々と同じ『トルヴァータ』でありながら、しかし我々とはまったく異なる個体です。この先に関して、貴方が何をしようとも、そして貴方が何をされようとも、我々は一切干渉しません。それを理解した上で、ここからどうするかを決めてください」
質問を返すより早く、すぐ目の前にいたフェインの背中が揺らめいて消えた。
鉄のドアを前にしたまま、ニコルは「……トル……なんだっけ……」と頭を掻く。
しかしここまで連れて来て、今さらにそんな忠告をされても無意味である。取るべき道はひとつしかない。この期に及んで逃げ出すとでも思っていたのだろうか。退路を断つタイミングを随分と間違えている気もするが、もしかしたらもっと別の意味もあったのかもしれない。フェインの姿が消えた今、その真意を確かめる術は無いが、それでも取るべき道はすでに決まっていた。
鉄のドアにあるドアノブに手を掛ける。ゆっくりと回すとロックの外れる音がした。
そのまま押し開けて行き、通路の明かりが室内の奥を照らして行く。人ひとり分ほど扉を広げたところで、刺し込んだ灯りがそれを照らし出した。
無機質な壁に背を預け、抱えた膝に顔を押し付けて座り込んでいる黒いお化けがいる。扉が開かれたことに対しても何の変化も見せず、まるで置物のように一切身動きをしない。生きているのか死んでいるのかさえ判らなかったが、前からそんな感じだったので気にしないことにする。
扉をもう少し押し退け、そのまま中へと入って行く。
完全に室内に入り込んだ後に扉を離すと、支えを失ったそれが自動的に閉まり、その拍子にロックの掛かる音がした。たぶん内側からは開けられない仕組みになっているのだと思う。閉じ込められたのだが、そこまで焦りは感じなかった。扉は内側からは開けられないだろうが、おそらくは元からただの気休めであるのだという気はする。この連中に対して、扉なんて概念がそもそも意味を成しているのかどうかさえ危うい。
扉の閉まった室内は、本当に暗かった。部屋の中央にある尽きる寸前のような蝋燭の灯りだけしか光が無い。こんな所に長くいれば眼が退化してしまいそうである。そして闇に慣れない眼には、目の前にいるはずの黒いお化けが本当に闇と同化しているかのように見えた。その中で色を持つブロンドの短い髪だけが、唯一居場所を知らせる手掛かりになっているかのようだった。
ニコルはゆっくりと歩き出し、膝を抱えて座り込んでいるお化けの横に腰を下ろした。
壁に背を預け、尽きかけの蝋燭の火をぼんやりと見つめる。
隣から漂う鼻に突く臭いには、まだ新しい血の臭いを孕んでいた。
だからこそ、ニコルはこう言った。
「――……あー。とりあえず、風呂入るか」
返事は無かった。それでもニコルは立ち上がる。
そのまま部屋を横切って扉の前に立ってようやく振り返ると、やはり音を一切立てずに本当にすぐ後ろにお化けが居た。今度は仰け反らず、こちらをじっと見つめる蒼色の瞳をじっと見つめ返す。
風呂に入る前に、どうしても聞いておきたいことがあった。
「お前、名前は?」
随分の間を置いた後、お化けが初めて、無表情に言葉を吐く。
「……とら、……い、……きお、……ら……」
発音が歪で、それ以外の言葉なんてまともに話せるのかどうかさえ危うい喋り方だった。
しかし、それだけで満足だった。
「そうか。おれはニコル・ホーキンス。よろしく頼むよ、トライキオラ」
そう言って、ニコルは笑う。
ドアノブに手を添えたが扉はやはり施錠されていて、ニコルではどう足掻いたところで開けることは不可能だった。仕方が無いので扉をガンガン叩いて叫んでいると、ようやく向こう側から扉が開けられた。向こう側から顔を出したのは見たことの無い大柄の男で、何の言葉も発しないまま目で「何の用だ」と問うた。それに対してニコルは「風呂入りたいんたが、場所どこだ?」と尋ねる。男は僅かながらの表情の変化を見せたような気もしたのだが、それが何に対する変化だったのかは最後まで判らなかったし、もしかしたらそれ自体がただの勘違いだったのかもしれない。
男に案内されるまま随分と通路を戻り、迷路のような分かれ道を何度も進んだ。やがて辿り着いた場所は、一応は風呂のような形を成している場所であった。しかし脱衣所は愚か通路とそれを分かつ壁や扉すら無く、奥に水を貯められるような石造りの浴槽のようなものがあるだけで、酷く薄汚れたそれは風呂と言うよりはただの貯水用の施設である気がする。ここにいる連中は風呂に入らないのだろうか、と思う反面、こいつらが悠長に微温湯に浸かって身体を休めている姿なんてまるで想像出来なかった。
しかし、これはこれで困ったことになった。風呂に入るのは汚れを落とすのが目的であるからして、そもそも風呂自体が汚れているのであれば入る意味など無い。普段ならそんなことはお構い無しで入るのだが、どうしてか今はそれでは駄目な気がした。どうしようか、と少しだけ悩みはしたが、結局はいつかはやらねばならないのだから、今しようと決める。
汚れた石鹸が転がっていたことと、蛇口を捻るとお湯が出たことだけが救いだった。ニコルは自らの上着を脱ぎ、お湯で濡らして石鹸で泡立て、それだけを頼りに風呂の掃除に取り掛かった。
随分と長い時間を掛け、風呂掃除を終わらせた。風呂掃除を終わらせるまでに三回も血を吐いた。息も絶え絶えに掃除を終え、小さな湯船にお湯を貯め、ひと段落着いたところで集中力が切れ、堪らずにその場に座り込む。その様子を後ろからずっと立ち呆けでじっと見つめていた蒼い瞳をようやっと振り返って見つめ返し、ニコルは大きなため息を吐く。
「……いや、ちょっとはお前も手伝えよ……」
トライキオラは何も言わず、ただじっと、ニコルを見つめている。
前よりかは酷くは無かったが、それでも結局は二回も風呂に入り直した。
相変わらずトライキオラは立ち呆けの座り呆けであるため、前のようにニコルが身体を洗った。ただしその前に風呂自体を全体的に掃除していたせいで途中で体力が底を尽いてしまい、中途半端に洗ったままの状態でトライキオラを湯船に座らせたまではよかったのだが、そこから先の記憶が僅かに抜け落ちている。
気づいた時には湯船に座り込んだまま眠りに落ちていたようで、ちょうどニコルの足の間に挟まるように座り込んで背中をこちらに預けていたトライキオラの頭がすぐそこにあった。二人揃って何もせず、湯船に浸かったまま水滴が一定間隔で落下し続ける天井を見つめていた。
すぐそこにあるトライキオラの髪からは、まだ僅かに、血の臭いがした。
その臭いを敢えて無視するかのように、ニコルは目の前の頭に手を置き、髪を掻き回す。
トライキオラは何の反応も示さず、ただされるがまま、じっとしている。
◎
どれくらいの間そこで過ごしたのかは、見当もつかなかった。
窓が無いせいで、今が朝なのか昼なのか夜なのかすら判別できなかった。時間の感覚なんてものはとうの昔に失われ、ただずっと、トライキオラの横に座り込んでいるだけの時間が長く続いた。会話は無かった。最初の内はトライキオラに対していくつか質問をしていたニコルであるが、トライキオラはそのどれに対しても一切の返答をせず、そうこうしている内にやがて話の種も尽き、いつしか静寂だけが過ぎ去るようになっていた。
ただ、どうもトライキオラはそれで良いと思っているらしいことが、何となく判った。
直接言われた訳ではもちろん無いし、一切の変化を見せないトライキオラの表情を読み取れるようになったかと言えばそんなことも無い。しかし随分と一緒に過ごす時間が長かったせいか、トライキオラが発する微妙な雰囲気の変化を、何となくではあるが判るようにはなっていた。だからこそ実は会話などは不要で、こうして隣同士で並んで座っているだけで良いのだという雰囲気を、僅かながらに感じ取れた。それを感じ取れるようになってから、ニコルは敢えて何も言わず、トライキオラの隣に居続けた。
静かな空間だった。何の音さえもしない空間。
そんな中で、ニコルとトライキオラは一緒に居続けた。
不定期に、黒い手紙が届いた。
その手紙を届けに来るのは、決まってフェインだった。
無音の世界の中、突如として鉄の扉が開けられ、灯りを背にしたフェインが黒い手紙を手に室内へ入って来る。その時だけ、トライキオラは誰に言われるでもなく座り込むことを止め、ゆっくりと立ち上がる。やがて二人の身体が蝋燭の灯りに揺られるように瞬き、気づいた時には誰も居なくなっていて、そして扉が閉まり、ニコルはひとり、暗い室内に取り残される。
トライキオラが戻って来るまでの時間もまた、不定期だった。
早い時は数時間もせずに帰って来たりするのだが、遅い時は何日も帰って来なかったように思う。
あの黒い手紙が何を意味するのか、それについて考えることを、ニコルは一切しなかった。それについて答えを出したところでトライキオラやフェインが正確な返答を返してくれるとは到底思えないし、それに、手紙が来て出て行き、そして戻って来たトライキオラからは、いつも新しい血の臭いがした。それだけで「黒い手紙には何が書いてあって」、そしてトライキオラがその手紙を受け取って出て行った先で「何をしていたのか」なんていうのは容易に想像出来た。だからニコルはそのことに関して、敢えて一言も触れなかった。
そしてそのことに触れない代わりに、ニコルはトライキオラに対して、「教え」を伝えた。
何も持っていないニコルが、唯一トライキオラに対して伝えられることだった。
それをトライキオラが理解出来たかどうかは判らなかったが、それでも良かった。
そしてトライキオラが帰って来る度に、ニコルはトライキオラを風呂に入れた。
風呂を出て室内に戻って来ると、必ず二人分の食事が出た。
食事の内容は毎回違っていたが、トライキオラにだけ、いつも決まって同じスープが出る。ニコルがそのスープを飲むことに関しては絶対に禁じられていた。ほとんど無臭で、しかし液体が茶色っぽい色をしたそれが、果たして「何のスープ」であったのかを、ニコルが知ることはついに出来なかった。ただ、トライキオラがそのスープを飲む時だけ嬉しそうにしている雰囲気は、何となくだが判ったので、それについても深く追求することはしなかった。
随分と長い間、そんな時間が続いた。
そしてニコルは、自分の身体がもはや限界に近いことを、自然と悟っていた。
近頃では血を吐く頻度が増えて来ている。それに伴って、身体を動かすことすら重く感じることも多くなった。何の変化も無いこんな空間に座り続けていた代償か、あるいはそもそもの限界が近かったのか。たぶん、そのどちらも原因であったのであろう。そう遠く無い未来に、この身体はやがて機能を停止するのだと思う。それが恐いかと言えば、特に恐くなどなかった。血を吐いた時からすでに、死ぬことは受け入れていた。
何もせずにトライキオラの横に座り込んでいるせいで、考える時間が増えた。
暗い部屋の中、揺れる蝋燭を見つめていると、その中に昔の記憶を見ることがあった。振り返ってみると、そう悪い人生ではなかったのではないかと思う。人並みの生活が出来ていた訳でなかった。口が裂けてもそんなことは言えない。しかし、何にも縛られていなかったのは確かである。人道も法も糞食らえだった。やりたいように、したいようにして、今まで生きて来た。これはこれで、悪くない人生だった。悔いは無い。死ぬのなら死ぬで、それは納得出来た。
ただ。
ただ、ひとつだけ、気掛かりなことが、あった。
隣で蹲るトライキオラを見つめる。すぐそこにトライキオラの頭がある。かつてそこから漂っていた血の臭いは、随分落ちたように思う。この空間自体にこびりついた臭いはどうしようもないが、少なくともトライキオラからは新しい血の臭いはしない。自己満足に他ならないことは承知だった。こんなことをしたところで、何かが変わる訳ではないことも判っていた。自分のような人間が何かの行動を起こしたところで、この世界は何の変化も見せはしない。そんなことは判っている。判っているからこそ。
大きな息を吐き出す。
自分の身は自分で守るしかなかった。下手に他人に関わってはならなかった。知り合いは誰もいなかった。いつしか知り合いを作ることもしなくなっていた。他人に関わっても、ロクなことなど何ひとつなかった。今まで散々、それをこの身を持って体験して来た。それはこれから先ずっと、変わらないはずだった。なぜならこの街は、――いや、この世界は、そういうものだったから。
どこで道を間違えてしまったのか、今となっては判らない。しかし間違ってしまったものは、もう諦めるしかないのかもしれない。どうせこれ以上、悪化することは無いと思う。死ぬ結末は何が起ころうとも変わらない。ならば。ならばせめて悔いのないよう、生きようと、そう思っていた。だから。
トライキオラとこうして並んでいる中、言葉を吐くのは、一体どれくらい振りだろう。
「……ひとつ、気になってたことがあるんだ」
返事は無かったが、隣から漂う雰囲気が何となく悪くなったのは、少し判った。
ニコルは苦笑する。
「お前が憶えてるかどうか知らないけど、お前と最初に遭った夜のことだ」
ずっと不思議に思っていたことがあった。
「……あの時、フェイン達が来なかったら……お前は、どうするつもりだった……?」
あの時。あの一夜限りの付き合いだったはずの、あの時のこと。
ニコルを見つめていたあの蒼色の瞳の奥に果たして、この少女は何を思っていたのだろう。一体、何を伝えたかったのだろう。この少女はあの時、果たして本当に、自分を殺そうとしていたのだろうか。殺そうとしていたのだとしたら、なぜフェイン達から自分を守ったのだろうか。それが、ずっと判らなかった。
そしてやはり、トライキオラは何の返答もしなかった。
だからこそ、ニコルは笑った。
息を着いて立ち上がろうとすると、まるで身体に重りが付いているかのように動作が遅い。膝が震え出してまともに立っていられない。しかしもう少しだけでいいのだ。もう少しだけでいいから、動いて欲しい。死ぬのは死ぬで構わない。ただ死に場所くらいは、最期の場所くらいは、選ぶ権利があってもいいと思う。
壁に手を置いて深呼吸を繰り返す。膝の震えが治まり始めたことを確認した後、ニコルは言った。
「……行くか、トライキオラ」
判らないなら、もう一度やればいいだけの話。
未練が残ってしまったあの一夜限りの付き合いを、もう一度だけ。
歩き出す。振り返らずとも判った。すぐ後ろに、トライキオラはいる。戸惑っているような雰囲気が感じ取れるが、もう立ち止まってはいられない。死は受け入れていた。死ぬことは恐く無かった。だからこそ、悔いは残さない。あの夜、果たしてトライキオラは何を伝えようとしていたのか。死ぬのなら、それを知ってからだ。
鉄のドアに手を添え、ドアノブをゆっくりと回すが、やはりロックは掛かったままだった。
ニコルは気だるく笑う、
「……すまん。これ、壊してくれるか?」
肯定も否定も無かったが、一瞬だった。
風が揺らめき部屋の中央の蝋燭の灯りが消えたと同時にニコルの目前で火花が三度散り、一秒の間を置いて鉄のドアの真ん中が歪な逆三角形に切り取られて向こう側に倒れ込んで行く。ニコルが上体を屈めれば何とか通れるくらいの大きさだった。この連中に対して扉なんていう概念が通用するはずがないとは思っていたが、どうやら正解であったらしい。
扉を抜け、トライキオラを後ろに付けたまま薄暗い通路を歩いて行く。ただ、この迷路をどうやって抜ければ出口まで辿り着けるのかは知らなかった。風呂までの道程ならばもう憶えてしまったが、それから先については未知の世界だった。勘で進むより他に道は無いと思っていたのだが、分かれ道で立ち止まる度、後ろのトライキオラが何となくだが進行方向を教えてくれているかのように雰囲気を変えるため、特に迷う事無く歩みを進めた。
道中は、誰とも遭わなかった。いつもの事だった。トライキオラを風呂まで連れて行く間にも、いつも誰とも遭わない。ただし、何かの用事がある時は、呼べば連中はどこからともなく現れる。たぶん、こうしてトライキオラと二人でこの通路を歩いていることも、すでに連中は周知しているのだと思う。それでも何の行動も移して来ないのは、まだニコルが「あの約束」を守っていると判断されているからだろう。
随分と通路を歩いた。どれだけ歩いたのかは判らない。時間の感覚はすでに消えていた。ただ、足から伝わる疲労だけは身体を支配していて、気を抜けばその瞬間に口から血を吐き出しそうになる。通路を歩く度、階段を上がる度、僅かだが着実に命が削られていっているのが感覚として伝わって来る。せめて知るまでは保って欲しいと、そう思った。
そして最後の階段を上り切った時、鉄の扉を見た。トライキオラの居た部屋にあった扉と、よく似ていた。その扉のドアノブに手を掛け、ニコルはゆっくりと押し開けて行く。ロックは掛かっていなかった。扉を開けたことにより、隙間から強烈な光が入り込んで来る。
随分と久しぶりに感じる、太陽の光だった。
かつて見慣れていたはずのその光は、今のニコルにとってあまりに明る過ぎた。思わず顔を顰めて手を翳し、
「――そこから先は、約束に反します」
フェインの声を聞いた。
驚きはしなかった。こうなることは、すでに予想していた。
光に慣れて来た視界を動かして、辺りの光景を整理して行く。
森と瓦礫に囲まれた場所だった。積み上げられた瓦礫のちょうど窪みのような場所に、ニコルが出て来た扉がある。しかしよくよく見てみれば周りのそれは瓦礫というよりは、何かの形を成しているような気がする。遺跡、だろうか。何十年、何百年もの時を経て朽ち果てた、かつては建物であったと思われるそれらが、生い茂った木々と同化している。
そして、扉から距離を隔てた所に、黒い布を身に纏った大木のような大男が二人と、フェインがいた。
「お戻りください。今ならまだ、この件に関しては目を瞑りましょう」
有難い限りの忠告だった。
有難過ぎて思わず笑ってしまった。
「……通してくれないか。少しトライキオラとデートしようと思ってな。野暮なことは遠慮願いたいんだが」
ニコルの冗談に、フェインは笑わなかった。
全くの無表情でこちらを見つめながら、
「忠告するのは最後です。そこから一歩を踏み出せば約束を反故にしたと判断し、貴方を殺します」
脅しではあるまい。この連中に、そんなものは不要だ。
だからこそ、ニコルは笑う。
「悪いな。最後にひとつだけ、知りたいことが出来たんだ」
小さなため息が聞こえる。
「……これでも、トライキオラのことに関しては貴方に感謝をしているのですよ。その子も随分と明るくなりました。それだけで貴方と約束を交わしたことには価値があったと思っています。貴方を殺したくはありません。そのまま引き返しては頂けませんか」
フェインの言葉を聞きながら、何となくだが、判ったことがある。
フェインの今の言葉に、きっと嘘はない。一方的だったとは言え、約束をしたのはこちらも同じである。悪いことをしているとは、少しだけ思う。ただそれでも、どうしても死ぬ前に知っておきたいことがある。そうじゃなきゃ、笑って死ねない。すべては自己満足であることなど承知している。自分勝手で身勝手な振る舞いだ。ただ、今までそうして生きて来たのだ。やりたいようにやって、したいようにして生きて来た。根っこにまで染み付いたその生き方が、そう簡単に変えられるはずがあるまい。
覚悟を決める。ここを抜けられるのであれば、それでいい。
深呼吸の後、ニコルは一歩を踏み出し、
連鎖的に、物事が一気に加速した。
フェインの両側にいた大男二人の姿が消えたと思った瞬間には、ニコルの目前で突如として斬撃音と共に火花が散り、そして、
そこから何がどうなったのかは、まるで判らない。幾つかの刃が交じり合う音と共に、何かが何かにぶつかるかのような音を聞いたように思う。連鎖的に発生した物事は、時間にすれば瞬きをするかのような、僅かな間だけだった。ようやく物事の連鎖に追いついたニコルが気づいた時には、目の前に大柄の二人の男が佇んでいて、その内の片方の口より少し上に赤い線が入ったと思った刹那には、そこから顔の上半分が崩れ落ちて一気に血を噴射して倒れ込んで行く。そして残りのもう片方の胸には水平に一直線の線が入り、恐ろしいまでの血が噴き出す。中途半端にこちらに向かって振り上げられていた右手を戻すこともせず、大男は血を噴き出しながら音も無く倒れ込んで行き、そしてそこでようやく、ニコルよりかなり離れた場所の瓦礫に背中から突っ込んでぐったりと俯くトライキオラを見つけた。
ニコルが無意識の内にトライキオラの元へ駆け寄ろうと
「――残念です」
フェインの声と共に、右肩の辺りを突き飛ばされたかのような衝撃が来て、扉から外れた瓦礫へと叩きつけられた。
背中から伝わった衝撃に背骨が軋む。息がまともに出来ず、それでも何とか状態を起こそうとして、
顔面から地面に落ちた。顔を打ちつけた衝撃はあったが、痛みは感じ無い。否、痛みを感じる云々の前に、恐ろしいまでの違和感が浮上し、それのせいで痛覚が麻痺していた。あるべきものがそこにない。霞む視界で己の右肩に視線を移し、そしてそれがただの違和感ではなく紛れも無い現実なのだと知る。
右肩より下が、無かった。
それを認識した瞬間、肩口から一気に血が噴射する。それと比例するかのように、身体の奥からも出鱈目に込み上げて来るものがあり、その場に跪いてすべてをぶちまけた。嘔吐物に混じって、これまでに吐いたことのないほどの量の血が滴った。限界ギリギリのところで繋ぎ止めていた最後の防波堤が、ついに決壊した。
肩口を左手で押さえて血を吐き、それでもニコルは視線を上げる。
すぐ目の前にいるフェインの姿が霞む。歯を必死で食い縛っていないと意識が途切れそうになる。しかしそれでも。死ぬことはすでに受け入れていた。こんな所で、立ち止まっている訳には行かない。まだ、あの一夜のことが判った訳ではない。ここはまだ、最期を迎えるべき場所ではない。だから、
「――……不思議に思っていたことがあります」
霞む視界の中にいるフェインが、跪くニコルを見下ろしながら言葉を紡ぐ。
「初めて遭った時も、次に遭った時も、そして今もそうです。貴方はなぜ、死ぬことを恐れないのですか?」
馬鹿言うんじゃねえよ、と頭の中でニコルは苦笑する。
恐いに決まっていた。腕を切り落とされ、血は蛇口のように噴き出している。正気の沙汰とは思えない。これが恐くないと言えばこれ以上の嘘など存在しない。それどころかもはや恐怖心に負け、これが自分の身に起きていることなどという事実を否定し始めているくらいだ。失った腕も、そこから溢れ出し続ける血も、まるで他人事のように思えてくる。
でも、だから、笑えるのだ。恐いが、死ぬことはもう、ずっと前に受け入れていたのだから。
真っ直ぐにフェインを見据え返すと、小さな笑い声が聞こえた。
「……なるほど。トライキオラが貴方に惹かれた理由が、少しだけ判りました。あの子は今まで、『死ぬことを恐れるヒト』にしか遭ったことがありません。だから貴方のように、最初から『死を受け入れているヒト』に遭ったのが、珍しかったのでしょう」
フェインの言葉を聞きながら、思う。
理由なんてどうでもよかった。今にしてみれば些細な問題だ。
そんなものは今さらに知る必要などはない。知りたいことは、あの夜のこと。ただ、それだけ。
血を吐きながらも、力の限りに歯を食い縛る。足の力だけで体勢を立て直し、ゆっくりと起き上がって行く。が、すぐに限界が来てふらついた拍子に後ろの瓦礫に凭れ掛かる。血を流し過ぎた、どころの話ではなかった。もはや一歩も歩けない。目の前がチカチカする。これでもまだ意識を保っていられるのが奇跡のようだった。
そしてフェインが、こちらに向かって一歩を踏み出す。
「せめてもの感謝の気持ちです。これで、最期としましょう」
目前の黒い布が揺れ動き、
火花と共にその身体が吹き飛んだ。距離を隔てて体勢を立て直したフェインと、ニコルの目の前に現れた黒いお化け。何の表情の変化も見せないまま、そこにトライキオラがいた。その後姿を見た瞬間、繋ぎ止めていたものまでもが決壊し、足から力が抜けてその場に座り込む。
どうやらトライキオラは無事であったらしい。それがこの状況での、唯一の救いだった。
フェインのため息が響く。
「……トライキオラ。退いてくれませんか。先ほどの通り、貴女の前進を止めるだけで二人が再起不能です。さすがにわたし一人では、『貴女に怪我をさせずに押し退ける』ことは出来ません。だから退いてくれませんか、トライキオラ」
それでもトライキオラは退かない。ニコルの前に立ったまま、無表情にフェインを見つめ続ける。
そしてニコルは、その後姿から発せられる雰囲気を、虚ろな意識の中、何となく、感じ取った。
だからトライキオラが次に取るべき行動もまた、自然と理解できた。
フェインとの対峙の中、ゆっくりと振り返ったトライキオラを見上げたまま、ニコルは晴れた顔をして、笑う。
――……そうか。だからお前は、あの時、
そう思った刹那に、トライキオラがそっと倒れ込んで来て、体重をニコルに預けるかのように寄り掛かり、
一枚の巨大な刃が、ニコルの胸を突き刺した。
それまでとは違う種類の血が口から溢れた。痛みは無かったが、刃物が胸を押し込む感覚だけは、なぜだかはっきりと判った。
身体を預けるように刃を突き刺すトライキオラを見つめたまま、ニコルはそっと左腕を伸ばす。そのまま小さい頭に手を回し、ぎゅっと抱き寄せる。言葉を紡ごうとするのだが、出て来るのは声ではなく血の塊だけだった。
もう何も言えない。だけどそれでもよかった。
あの夜。トライキオラが何をしようとしていたのか。
それが今、ようやく、判った。
あの日のあの時。黒い手紙が届けられて訪れた先で、トライキオラはきっと、初めて『手紙に書いてあるヒト以外のヒト』に遭ったのだと思う。だからトライキオラは、その『ヒト』に対してどう接していいのかが判らなかった。だからまずは、一番慣れしんだ行動を起こした。つまりはただ単純明快に、殺そうと思った。しかしあの時、トライキオラが殺すより早くに、ニコルは血を吐いて倒れた。
戸惑ったであろう。状況の理解が出来なかったであろう。
しかし、だからこそ、そこで悟った。
トライキオラにとって、ニコル・ホーキンスは、『ハジメテノヒト』だった。
自分が殺すより先に、死を受け入れている『ハジメテノヒト』。
そのせいで、トライキオラはどうしていいか判らなくなった。判らなくなったせいで、言われるがまま、ニコルに付いて行った。そこでトライキオラが何を想い、何を感じたのかは判らない。判らないが、たぶん、その何処かで、トライキオラはニコルに対して、今までに無いものを感じ取ったはずである。
だから、
『ハジメテノヒト』に対して、『ハジメテノカンジョウ』に対して、どう接すればいいのか、判らなかった。
判らなかったこそ、唯一出来ることをしようと考えた。
トライキオラが、自分で唯一出来ること。それは、――ヒトを、殺すこと。
それはきっと、何も知らないトライキオラが初めて行なう、感情表現。
言葉には出来なかったのであろう。トライキオラがその言葉を知っていたとも思えない。
ただ漠然とした本能のようなモノ。命を持って生まれたモノなら当たり前の感情。
――「一緒にいたい」という、ありふれた普通の、想い。
しかし何も知らないが故に、トライキオラには、一緒にいられる方法が判らなかった。
判らなかったからこそ、殺すしか、方法がなかった。
ニコルを自らの手で殺すことでしか、一緒にいられる方法を、トライキオラは見出せなかったのだ。
そう、
これはきっと、トライキオラが初めて見せる、不器用なまでの、――『愛情表現』。
胸の中に小さなトライキオラを片手で抱き締めたまま、ニコルはもう一度だけ、笑った。
言葉は吐けない。吐けないからこそ、この手は離さないと決めた。
死に場所はここでいい。最期の場所はここでいい。
どうせもうすぐ終わってしまう命だった。死ぬことは、すでに受け入れていた。
だから。お前が一緒にいて欲しいの望むのであれば。お前がそうしたいと望むのであれば。
くれてやる。こんなちっぽけな命くらい、いくらでも、くれてやる。
安心しろ。ちゃんと、一緒に、いてやる。いてやるから、
だから、
……あー……、泣くんじゃ、……ねえよ……
言葉に出来たかは判らない。
もし仮に言葉に出来ていたとしても、トライキオラがその言葉を理解出来たのかは判らない。
でも、それでも良かった。これでもう、思い残すことは何も無い。
これで、ようやく、笑って、――死ねる。
世界が色褪せて消え逝く中で、トライキオラのもう一枚の刃が、ゆっくりと動き出す。
すべてを悟ったフェインの静止の声はもはや届かない。
太陽の光に照らされて輝く刃が、世界を、断絶する。
すぐそこにあるトライキオラの髪からは、ほんの少しだけ、
――石鹸の、匂いがした。
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2012/02/25(Sat)20:18:44 公開 / 神夜
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■作者からのメッセージ
初めましての方は初めまして、お久しぶりの方はお久しぶり、いつも付き合ってくれている方はどうもどうも、いつもでもどこでも元気一杯、ニーソ履いた女の子を無意識に目で追う神夜です。
そんな訳で、これの「前編」を投稿して随分と立って申し訳ない気持ち一杯ではありますが、そんなこんなで「前後編」合わせての『トルヴァータ:ハジメテノ』でした。今となっては「なぜ貴様はこれを投稿しようとした?なぜこれを読んでもらおうと思った?」としか思えない。前編を読んでくださりました御三方、本当にありがとうございます、そして本当にいろいろごめんなさい。上げるには上げますが、これはもうスルーして頂いて構わない出来でした、すみません。
さて。ラストもラストで読者の方を完璧に置いてけぼり感MAXでありますが、なぜこのような物語になってしまった――?、その答えはつまり、この物語自体がそもそも、「プロローグ」あるいは「番外編」という構想だったから。最初に書きたかったのはこれから数年後、トライキオラが十代後半になった時の物語だった。ただ時間がなかったら、その派生でなんか書こう――、そうして出来上がったのがこれ。本来であれば、これは本編を書いた後、あるいは本編連載中の途中で書くべき物語だった。だから全部が半端なまま終わってしまっている。本当にすみません、前編を投稿した時はなぜか「あれこれ、少しだけ面白くね?」と勘違いした結果です。
申し訳ありません申し訳ありません、それでも読んでくれた方は本当に、本当にありがとうございます。そうただ只管に頭を地面に擦りつけながら、神夜でした。