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『愛しの金魚』 作者:塩ろく / ショート*2 リアル・現代
全角1855文字
容量3710 bytes
原稿用紙約5.1枚
「金魚なんて、金魚なんて。そんなのどうだっていい」 ――本当はいつもと同じはずだった、ある朝の物語。
 ぶくぶくぶく。水槽に入れたエアポンプが、低い振動音と共に空気を吐き出す。三匹の金魚たちは普段と変わらず、楽しそうに泳ぎ続けている。時刻は午前五時。金魚を飼い始めてから、もうすぐ一年と半年だ。
「今日も元気そうだね」可愛らしい、わが愛しの金魚たちにエサをやりながら微笑む。水面に上がってぱくぱくとエサを食べるその姿が可愛くて、思わずじっと眺めてしまう。水槽の隣に置かれた時計に目をやると、時刻は午前五時十分になろうとしていた。
 五時半には家を出なければならないのに、このままでは大遅刻だ。私はもう一度金魚たちが泳ぐ姿をきっちり確認してから、慌ててキッチンへ向かった。

 そんな覚えはないのに、キッチンは隅々まで掃除されていてとても綺麗だった。まさしく埃一つ無いくらい。
「誰が片づけたんだろう」薬を飲むための水を用意しながら考えていると、テーブルの上に置かれたメモと鍵を発見した。メモは昨日別れたばかりの恋人からだった。
 最後の最後で余計なことしていきやがって――そう思ったが口には出さず、薬と一緒に飲み込んだ。そしてろくに読みもせずに、メモを丸めてゴミ箱に投げた。残念なことに入らなかった。
 時刻は午前五時十五分。どうやら朝食をゆっくり食べることはできないみたいだ。いや、朝食を口に入れるだけの時間があるだけまだマシだろうか。昨日買ってきたサンドイッチを頬張りながら考えたが、すぐにやめた。
 ゆっくり朝食を食べるなんて仕事を辞めない限り不可能だし、私はまだ仕事を辞める気はない。サンドイッチを一緒に買ってきたレモンティーで飲み込んで、私は着替えるために部屋へ戻った。

 あらかじめ昨日のうちに選んでおいた服をクローゼットから取り出し、すぐに着替えて部屋を出る。時刻は午前五時十八分。なんだまだ余裕じゃないか。脱いだパジャマを洗濯機へ放り込みながら、洗面所の鏡に向かって微笑んだ。
 笑顔は大事、母親に言われた言葉を思い出しながら軽い化粧を済ませ、玄関へ向かう。ジャケットを羽織り、二十歳の誕生日に貰った(誰に貰ったかは忘れてしまった)腕時計をはめる。時刻は午前五時二十四分。まだちょっとだけ時間がある。
 家を出る前にもう一度金魚の様子を見て来よう、履いたばかりの靴を脱いで私はもう一度部屋へ向かった。

 薬は飲んだし、着替えも化粧も完璧だ。それに、まだ家を出る時間まで五分もある。まずいことなんて何一つない。それなのに、なぜだか嫌な予感がする。それに妙に部屋への道が長いような気がした。腕時計に目をやると、まだ二十五分を指していた。
「大丈夫、大丈夫」まじないのようにそう唱えてから部屋のドアを開けた。水槽に目をやると金魚が水面に浮いていた。それも四匹ぜんぶ。手足が震えて脳がパンクしそうだった。私は崩れるように床へ座り込んだ。
 どうして、どうしてどうして? さっき見たときは何もなかったし、水質も環境も問題なかったはずだ。怪我も、病気も、さっききっちり確認した限りでは――そして今も――見当たらなかった。
「現実が受け止められなくてパニックになったとき、人ってのはホントに酷い顔で笑うんだ」ふいに、亡くなった父の言葉を思い出した。そして私も例に違わず笑っていた、それもかなりヒステリックに。
 きっと別れた恋人が見たら笑うだろう。「たかが金魚だよ?」彼に言われた言葉が蘇る。誇り一つ持ってないくせに、偉そうに言いやがって。悲しみと怒りと混乱が混ざり合って心の中はどろどろで、彼が作ったコーンスープみたいだった。彼は料理がとてつもなく下手だった。
 けど、彼の言葉だって一理あるのかも――私は金魚に入れ込みすぎた。
「たかが金魚、たかが金魚」ゆっくりと復唱しながら、床に手をついて立ち上がる。自分だって、飼い始めたときはまさかこんなに愛してしまうなんて思わなかった。
「金魚なんてどうだって――」けれど、やはり水面に浮いたままぴくりとも動かない金魚を見たとき、涙があふれてきた。それと同時に強烈な眩暈がして、目の前の景色が徐々にフェード・アウトしていく。
 額を抑えようと腕を上げたとき、はめていた時計が目に入った。

 時刻は午前五時。ベットから飛び起きると、冬だというのに体中が汗でびしょびしょだった。
 私服に着替えながらカレンダーに目をやったとき、あれから今日で三年になることを思い出した。
 テーブルの上に置かれた広い水槽で、一匹の金魚が泳いでいる。エアポンプだけが今も変わらず動き続けている。ぶくぶくぶく。
2011/09/07(Wed)22:53:02 公開 / 塩ろく
■この作品の著作権は塩ろくさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
はじめまして、塩ろくという者です。
数年ぶりに金魚を飼い始めて数日、毎日金魚を溺愛しているうちに完成したのがこの小説です。……溺愛?
感想・指摘・批判などなど、思ったことがありましたらビシッとよろしくお願いします。
ここまで読んでいただき本当にありがとうございました。
この作品に対する感想 - 昇順
作品を読ませていただきました。
金魚でもペットのことになると「たかが金魚」って気持ちなれないのが飼い主というものですよね。
作品を読んで感じたのは、もう少し書き込んだ方がよかったのにです。時間に追われる切迫感、金魚への愛おしさの描写が弱かったため、ばたばたとラストまで来てしまった感があります。この作品の3倍くらいの量があってもよかったと思います。
では、次回作品を期待しています。
2011/09/11(Sun)16:26:170点甘木
>甘木さま

初めまして。作品を読んでいただきありがとうございます。
たかが金魚、されど金魚。例え金魚だろうと、一度飼ったペットは見捨てられないのが飼い主心ですよね。
短く読みやすい小説のつもりが、改めて読むとたしかにラストの辺りがかなりばたばたしてますね……反省。そしてアドバイスありがとうございます。
長い小説はほとんど書いたことが無かったため、3倍と聞いて少し驚きましたが、同時に新しい道があるようで少し嬉しくもあります……。
期待を裏切らないよう、少しずつでも精進していけたらと思います。ご感想、ありがとうございました!
2011/09/14(Wed)22:14:570点塩ろく
良かったですよ。
ちょっと余談ですが・・・
動物病院から、私の大学の研究室(魚病研究室)に金魚やら錦鯉を持ち込まれることがあるんですよ。なんでも、金魚を溺愛する飼い主が「治療してくれ」とお願いするそうです。獣医は魚病の専門ではないから水産学部の教授に治療を依頼するという流れです。
なるほど、この小説に出てくる主人公みたいな心理状態だったのかもしれないですね。どうやら犬や猫にかぎらず、どんなペットでも一緒に暮らせば家族になるみたいですね^^
2011/09/18(Sun)02:44:171鈴木純平
>鈴木純平さま

初めまして、読んでいただきありがとうございます。そしてお返事が遅れてしまい申し訳ありません。
こんな拙作にお褒めの言葉だけでなく点数までいただいてしまって良いのでしょうか、本当に嬉しいです。
うーん。ペットを溺愛する身としては、教授へ治療を依頼しに行くのも少しだけ分かるような気がします。そして魚病研究室とは……かなり気になります。
2011/09/25(Sun)20:54:370点塩ろく
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