- 『豆電球の照らす世界』 作者:さと / リアル・現代 未分類
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全角9116文字
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原稿用紙約27.5枚
彼の視界は、中心を豆電球で照らしたほどでしかない。そこから、彼は「マメ」と呼ばれている。見えなければ何もできない、そう思って中学に入学し、最初の行事である遠足にも無気力でいた。そんな彼に、学級委員の美樹が声を掛ける。
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マメ。
何のことかと聞かれたら、学生時代の自分のあだ名だと答えるほかない。
マメとは、豆電球の略だ。理由は、僕を知っている人なら誰でもわかることだろうと思う。僕は、目が悪かった。視力がどうということではない。視力なら平均よりいいくらいだ。しかし、視界の狭さとなると、常人の比ではなかった。
僕に見える世界はほんの真ん中だけ。豆電球の明かりのように、狭い、狭い世界だった。
「おはよ、マメくん」
そんな風に話しかけられるのが日課だった。僕にとって、声の主はあくまで声の主であり、僕はその顔をしっかりと見ることすらできない。その声の主の全体を視界に入れることは難しくて、僕はほとんど声だけで人を判別していた。
僕の目は、近視や遠視という類のものではないらしい。生まれてからずっとこんな目なのだが、医者も首を傾げていた。この症状の仕組みがわからないのに、治療法などあるわけがない。僕は早々に諦めて、この豆電球と一生を共にすることにしたのだ。
今は学活の時間。来週ある遠足の班決めに充てられている。この中学校、というか学年は、四つの小学校区から生徒が通学している。隣の地区の中学校が急遽取り壊しになるとかで、新しい学校ができるまで、隣の校区の生徒もこの中学に入学することになっているのだ。それでも一クラスしかないのだが。そうした理由もあって、オリエンテーションも兼ねてか、グループにすべての小学校出身者を混ぜるのが条件らしい。僕はぼうっとしていた。
見えないのも同然なこの教室で、何が起ころうと僕には関係ない。あぶれるのはいつものことだった。グループの人間に煙たがられるのも慣れっこで、目が疲れる、という理由でいつも遠足はバスの中で、一人で過ごしていた。
だから、どうだってよかったのだ。むしろ「一緒に組もうよ」だなんて言われる方が面倒くさい。
頬杖をついていると、目の前に制服の一部が映った。ボタンの合わせをみると、女子のようだ。
「ねえ、マメくん、同じ班になろうよ」
僕は視線をあげた。机にズイと身を乗り出しているから、顔は一部しか見えない。僕の不思議そうな顔を見たのだろう、さっきの声の主は喋り始めた。
「私は加藤美樹。一応学級委員です! で、私たち、あと南部小の子がいなくて探してるんだけど、マメくんって南部小だよね?」
「……そうだけど」
加藤さんは学級委員にありがちな、明るくて人を引きつけそうな声をしていた。
しかし、これは一番面倒なパターンだ。この学級委員は、その使命の元に、僕の所に来たのだろう。クラスで浮いてしまった、かわいそうな子とでもいったところか。
「でも、いいよ。僕、どうせバスで待ってるし」
相変わらず僕からは、彼女の顔の半分位しか見えていない。それでも彼女はかまわず話続ける。
「どうして?」
「僕は、目が悪いから。山なんて登ったら百回は転けるよ、きっと」
僕は、僕の目のことを知らない人がいることに驚いた。違う小学校の人の方が多いおだから、当然と言えば当然のことか。
学級委員は眉を潜めている。「かわいそうな子」の対処法を考えているのだろうか。
「じゃあさ、一緒に登ろうよ。私たちがサポートするから、絶対大丈夫だよ!」
彼女が一気に笑顔になったのが、僕にでもわかった。人懐っこそうな笑い顔だ。
他の物音から察するに、班決めが終わっていないのは、僕だけらしい。先週覚えた教師の声が、少し離れたところから飛んでくる。
「いいじゃないか、相模。せっかくの遠足なんだから、バスにいるより外に出た方が体にもいいぞ。遅くなってもいいようにするから、体の調子がよかったらぜひ登りなさい」
教師はいつも無責任だ。僕の視界がどんなのかもわからないくせに。そう言われてしまっては、僕はわかりました、と答える他ない。話を引き延ばしてクラスメイトの注目を集めるのも嫌だった。
「じゃあ、そうします」
僕は力なく答えた。学級委員は僕の手を取った。
「それじゃあマメくん、よろしくね!」
顔が近く、目くらいしか見えなかったが、世の残酷さを一カ所に集めたような笑顔だった。本人は知らないのだろうけれど。
それから一週間、僕は遠足の恐怖に苛まれることになった。
***
ついにこの日が来た。遠足の集合は学校、制服ではなくジャージで登校しなければならない。僕が遠足に参加することを伝えると、母さんは大いに喜んだ。僕はそれどころではない。
当日、うまい具合に雨が降らないかと願っていたが、その考えも吹っ飛ばすほどの晴天だった。
「お、マメくん来た来た!」
遠くにいる、青ジャージの群衆の中から声が聞こえた。数人がこちらに歩いてくる。
「全員揃ったら先生のとこに行かなきゃいけないんだ、行こうよ」
加藤さんの声がする。その隣には、背の低い、髪を二つに束ねた女子と、眼鏡を掛けた長身の男子が並んでいた。こんなに人の顔をじっくり見るのは久しぶりかもしれない。
僕は三人に連れられて――文字通り、加藤さんに手を繋がれ、担任の元まで行った。その心遣いはありがたいのだが、こっちとしては危なっかしい限りだ。まず、歩くペースが早い。そして方向転換が急だから、正面だけを見ていると面食らう。でも僕の場合、正面以外も見ることは不可能に近いのだ。
胸中で悪態を吐きながらも、久々に感じた「普通」のテンポに少し心地よくもなった。
「二組、八班全員揃いました」
「そうか、じゃあ列に並んで座りなさい」
点呼が終わり、クラスの列に並ぶときも、僕の手は自由ではなくて、ふと周りを見てみると多くの級友と目があった。ほとんど視たことのない顔だったけれど、僕は急に恥ずかしくなって顔を伏せた。
八班は最高尾のようだ。女子二人が前、僕ともう一人が後ろになるように座った。ここで、僕の手はようやく離されたのだ。
「置いてっていいから」
僕は、自分が山を登りきれるなどとは思っていない。前に座る同級生の、背中の全体すら見ることができないのだ。この狭い視界でできるわけがない。
「なんで置いてくんだよ、マメは全部登るんだろ?」
左隣に座った男子生徒が僕に問いかける。この声は聞いたことがある、確か、男子の学級委員だ。
「そうだよ、今年の山はリタイアできないんだよ。今年は道が狭いからバスがついていけないんだって、先生言ってたじゃない」
加藤さんが振り向き様に言う。どうやら僕は、いよいよ逃げ道を無くしたらしい。
「私も体力ないから、相模くんも置いていかないでね……」
そう答えたのは残る一人の女子だ。弱々しい声だった。それでも、僕を気遣っての言葉だろう。ここまで言われて、断れるほど僕は気が強くない。ある種の投げやりさをもって、僕は首肯した。
「じゃあ、できるとこまで頑張るよ」
いきなり背中をたたかれる。
「おう、いつでも手助けしてやるからな、マメよ!」
思わず左隣を見つめる。一週間前に見たのと同じような、人懐っこい笑顔だった。
「えっと、名前……」
「あ、俺? 俺は加藤佑樹。美樹の弟だよ」
僕が余程驚いた顔をしていたらしく、佑樹は困ったような顔をして笑って、「なんてね」と付け足した。
「で、こっちは……」
「星野深雪、です。中部小出身なんだ」
「中部小かあ、遠いんだね」
加藤――美樹の方が口を挟む。中部小からだと、近くても家から三十分はかかるだろう。
「あ、美樹。もうバスに乗るらしいぞ」
ふと見上げてみると、高いところまで青いジャージが見える。僕も立ち上がった。
「マメ、見えるか?」
「……大丈夫、多分」
列に沿って進んで行くだけだから、大事ではない。佑樹のような気遣いも、小さい頃はしてくれる友達もいたが、最近はそんな人もいなくなっていた。
僕がバスに乗った背後で、ドアが閉められた。いよいよ、遠足が始まる。まっすぐ通路を見ると、後ろの方で加藤さんが手を振っているのが見えた。
バスは目的地に到着したようだった。僕は、隣の席の佑樹についてバスを降りる。
先生の配慮なのか、班決めが遅かったからか、僕たちはやはり列の最後尾だった。
「よっしゃ、出発!」
佑樹が大声を出す。遠足といっても、どうやら列は意味を成さないらしい。スタートしてまだ十分ほどしか経っていないのに、班ごとでバラバラになっている。少し、安心した。
「マメくん、大丈夫? ここから階段だよ、見えてる?」
「ああ、うん。大丈夫」
僕は終始、足下の観察に徹していた。それでも、たまに前を向くと、他の班は遠くに行ってしまっている。歯痒くて、視線を上げる度に歩調を早めた。今までろくに運動をしてこなかったせいだろう、既に息が上がっていた。
僕たちが山登りをするコースは初心者用の登山道で、健康な人が歩けばいい運動になりそうな場所だった。山頂までは階段がうねりながら伸びている。見上げれば鬱蒼としげる木々が、木漏れ日をちらつかせていた。
「そういや、マメの目ってさ、どんな風に見えてんの?」
佑樹が僕の目の前で立ち止まって言った。僕と星野さん、少し先を歩いていた加藤さんも立ち止まる。
僕は深く息を吸って、小さい頃から考えてきた答え方を、業務的に彼らに話した。
「……手で双眼鏡みたいに筒を作って、その状態で見た感じ、というか」
残り三人が興味深そうに声を漏らして、みんな同じように手で輪っかを作った。それから、きょろきょろと辺りを見回したり、下を向いたりしている。ちょっとした驚きだった。
「これ、かなり歩きにくいね」
星野が頭上の森を見上げながら呟いた。
「でも、ずっとこれだから、慣れたというか」
「これじゃあ、人の顔もよく見えねえな。真ん中しか見えないんだろ? 他のとこはどうなってんの?」
僕は、佑樹の方を向いた。僕の豆電球は、佑樹の肩までしか照らしてくれていない。
「境界線がぼんやりしてるの。その外側は真っ暗。だから、僕は豆電球のマメなんだ」
こんな風に自分を説明するのは初めてだった。このあだ名は、小学校の同級生が付けたもので、中学に入学して自己紹介をするときに、誰かが僕に向かって「マメ!」と叫んだのだ。そんなからかいのせいで、僕は今もマメのままでいる。
「そうなんだ、私、てっきり相模くんがちっっちゃいからだと……あ、ごめんね」
僕のすぐ目の前にいた星野は申し訳なさそうに言う割に、顔は笑っている。そこに悪意は感じられない。
「俺もそうだと思ってた」
佑樹が双眼鏡のポーズを続けながら、笑い掛けてくる。彼は、本当に陽気な人だ。
全く、ばからしい。僕は、豆電球などではなかったということか。
「私も、知らなかった。マメくん、目がキラキラ光ってるからそう呼ばれてるんだって思ってたよ!」
加藤さんも少し離れた場所から、双眼鏡のポーズのまま喋った。
「目が、光ってる?」
「そう、豆電球みたいに」
背丈が僕の二十倍はあるであろう、木々が一つの生き物のように揺れた。
一瞬、彼女が何を言っているのか、理解できなかった。加藤さんに、少し天然が混じっているのはわかってきていたけれど、これもその類だろうか。純粋に、褒めてくれたのだろうか。落ち着いてきたはずの呼吸が、また荒くなった気がした。
「そう言われれば、確かに綺麗かもな。よかったじゃねえか」
佑樹が僕に向かって言う。僕は初めて、「マメ」というあだ名と向き合えそうだと思った。
「……うん」
佑樹が、手を叩いて続けた。
「それじゃあさ、こっからは階段が急になるし、俺がマメの後ろを歩くよ。それで、障害物があったら教える。じゃあ、休憩は終わりにして登り切ろうぜ」
星野さんも、双眼鏡を外して、
「そうだね、まだ半分も来てないみたいだし」
と言った。
「私らはマメくんの前を歩くね。マメくんが私たちの足下を見てればいいように歩くから!」
もしかしたら、これも疲れていた僕に対する彼らなりの配慮なのだろうか。僕は、こんなに一方的な優しさを受け取ってもいいのだろうか。僕は、今まであまりに自分のことしか考えてこなさすぎた。全部、目のせいにして、一人になった振りをして、いつも誰かからの助けを待っていた。
そんな僕は、こんな言葉しか言うことができなかった。
「ありがとう」
それだけ言うと、僕は一歩を踏み出した。皆も合わせて前を向き、足を動かした。
***
もう三人に迷惑を掛けないように歩こう、と決意をしたものの、それから三十分も登ったら息が切れてしょうがない。僕が登りきらなければいけないお粗末な石段は、予想より遙か長く、高く、僕の前に立ちはだかっていた。
体力の限界を感じていたときに、前方の二人が立ち止まった。僕が加藤さんの頭らへんまで視線を上げると、ポニーテールが揺れていた。
「まじかよ……」
後ろから佑樹の声がため息混じりに聞こえた。
僕は女子二人よりもっと前を覗いた。見えるのは岩の、壁。もちろん僕では一目でその全貌を見ることはできなかった。もっと上を向いてみると、壁が切れてまた森が続いていた。
「三メートルちょいってとこかな」
加藤さんの手が腰に置かれる。
「私も……登れるかなあ」
星野さんもおののいている。それよりも、問題はやっぱり僕だ。どうやら僕らはこれから、階段百段分ほどの高さを一気に登らなければならないようだ。
「僕、登る。大丈夫だから、……加藤さんと星野さんは、先に登ってくれる?」
切れ切れの息で僕は言った。他の三人は少し驚いているようだった。
一歩一歩に積み重なっていくのは、疲労でも憂鬱でもなく、重い重い優しさなのだ。それに潰れてしまうのが、その優しさの分の働きができないのが、なにより怖かった。
「……うん。じゃあ深雪ちゃん、私が登るとこを見ててね」
加藤さんが岩壁に手を掛ける。僕は後ずさりして、加藤さんの全身が視界に入るようにした。彼女がどこに手足を掛けているかを観察した。加藤さんは身軽に、本当に颯爽と岩壁を登ってみせた。
加藤さんは岩壁の上から下をのぞき、星野さんに助言をし始めた。星野さんも少々危なっかしいが、加藤さんの言うとおりに登り切れたようだ。星野さんは、上で足を投げ出している。
次は、僕の番だ。心臓が嫌な鼓動の打ち方をしている。
後ろから、背中を押された。
「俺が後ろにいるから。落ちてきても受け止めるからな! 安心して登れよ」
僕は今更、どうして彼が学級委員に選ばれたのかが分かった。
「……うん」
呼吸を整えて、壁に近づく。近づいてみると、前の二人がどこに手を掛けていたかが分からなくなった。最初の一手に悩んでいると、上から声が降ってきた。
「もうちょっと右上に窪みがあるよ!」
加藤さんの声だった。僕はその言葉の通りに右腕を動かした。引っかかるところを見つけ、今度は足を上げる。
「右足をもうちょい左」
今度は下からだ。僕はスイカ割りをするように、加藤さんと比べると恐ろしい程の時間を掛けて岩壁を登った。他人から見れば、その風景はさぞ愉快なものだっただろう。僕は唇を噛みしめた。最後は加藤さんと星野さんが手を取ってくれた。しゃがみこんで下を向くと、佑樹が手を振っている。
「お疲れ!」
そして、彼は僕の十分の一程度の時間で僕らの元に登ってきた。同じだけ生きているのに、この違いはなんなのだろう。僕は久しぶりに、豆電球を恨んだ。
気づけば、世の中はどうでもいいことに溢れていたのだ。僕と無関係なところで、僕には見えないところで回る世間が、僕の無関心を加速させた。僕がモーターを回さなければ止まってしまう地球なら、僕はもう少しこの豆電球を呪いながら、しかしうまく付き合うことができた気がする。大人たちはありがたいことにいつも、僕の視野の外で問題を解決してくれた。
僕は乱れたまま戻らない呼吸を無理矢理抑えて、前へ進もうと立ち上がった。
「頂上まで、あとどれくらい?」
僕の問いに、加藤さんが微笑を浮かべて答えた。
「あと、半分ってとこかな。もしかして、もうバテた?」
「まさか」
加藤さんは僕の強がりに笑って、双眼鏡のポーズをした。
「そうこなくちゃ!」
彼女からも、僕の顔は見れているのだろうか。
もう三十分も歩くと、僕はいよいよ足が上がらなくなり、背中を佑樹に押してもらっていた。僕は前半戦のように喋る気力もなくなり、ただ二酸化炭素を吐き出すだけの機械になったようだった。
女の子二人はだいぶ前を歩いている。何かを喋っているのだろうか、そんなことを考えていたら、急に背後から飛んできた声に驚いてしまった。
「なあ、マメ。お前さ、好きな子とかいんの?」
僕は思わず足を止めてしまった。それにも関わらず、佑樹は背中を押すのをやめなかった。
「……よく、わかんない。かな」
実際その通りだった。恋愛感情がどんなものなのか、想像もつかなかったし、勿論経験したこともなかった。正確に言うならば、人に特別な感情を覚えるほど、人と関わってこなかった。
「そっか」
どうしてか、うるさく騒ぐ心臓の奥で、汗の染みたジャージの奥で触れている手から、佑樹の脈が感じられそうな気がした。
僕と彼の間に横たわったのは、あまりに中途半端な沈黙だった。理由はわからないけれど、本能が中途半端だ! と叫んでいた。
「マメもそのうち分かるようになるよ」
その声は、ザリザリと引きずるような足音にさえ埋もれそうだった。
「佑樹くんは……」
「俺? 聞きたい?」
「いや、そういうわけじゃなくて」
しどろもどろになった僕を、きっと笑ったんだろう。
「俺は、美樹のことが好きだよ」
あまりにも当然のように佑樹が言うから、一瞬思考が働かなくなって、それから、今日の朝学校で佑樹が言った冗談と、そのときの彼の表情を思い出した。
「朝の、あれは……」
「ん? ああ、あれね。お前本気にしてたのかよ。ほんとだったら、好きだなんて言わねえって」
佑樹は笑って、僕の背中を強く押した。このとき、僕は振り向くことができなかった。これも、動物的な感覚なんだろう。僕はひたすら、足下に集中した。
「マメも、すぐに分かるよ」
二度目の台詞が、背中に染み込んだ。僕は、その言葉を聞くしかできなかった。
ふと前を向けば、前の二人がこちらに手を振っている。
「二人とも! あとは真っ直ぐっぽいよ、もう少し!」
加藤さんが大声で叫んでいた。僕たちを纏っていた空気が一瞬で解けていったのが分かった。
僕たちは止まってくれた二人に追いついて、そこからは四人で登ることになった。じんわりと土から感じる湿気を踏みしめて、前へ前へと進もうとする。視界の中心には、細い光の出口が見えた。その光が、一歩を進める度に大きくなっていく。
おどろおどろしい深緑をたたえていた森は、光と同心円上に薄く輝いている。肋骨の中で暴れる心臓に、これまでとは違う高まりが芽生える。
光が僕の視界と同じくらいの大きさになったとき、加藤さんが走り出した。星野さんも、佑樹も、そして僕も、気づいたら小走りになっていた。加藤さんの足の裏を見ながら「きれいだなあ」と思った。ただ、その姿をずっと見ていたかった。
残りの体力がマイナスに針が振れていた僕は、へとへとになりながら山頂へと向かった。
光に飛び込んで、一番最初に目に映ったのは、山頂にたどり着いてこちらに向かって幸せそうに笑う加藤さんと、その後ろに、電波塔に絡みつくように立つ巨大な桜。そして視界の端から端までを埋め尽くす青空だった。それらが、ぼくの狭い世界に、堰を切ったように流れ込んできた。
「あ……」
何かを言おうとしたのだが、言葉にならないまましぼんでしまった。
大きな桜の木は、強い春風に吹かれ花を散らしながらも、堂々と僕の目の前に立っていた。ほんの少し近づいてみただけで、一目でその全体を見ることができない。
その花たちの隙間から覗く青空は、青空というのに一番ふさわしいと思った。考えてみれば、僕は今までろくに空も見てこなかったのだ。桃色の間を縫う、僕の視界より遙かに狭いパッチワークのような空も、一つ一つが愛しいと思える程に色を持っている。
「マメくん、やったね!」
加藤さんは、僕の手を握った。本当に嬉しそうなその声が僕の耳に届いた瞬間に、僕は佑樹が呟いた言葉の意味を理解した。
桜のピンクより、空の青色より、彼女が見せた笑顔が、僕の豆電球に色濃く反射されたのだ。
「そうよ、マメ! やればできるじゃねえか!」
佑樹が勢いよく肩に腕を回してきた。佑樹も僕も汗だくだった。僕は佑樹に助けてもらったことも忘れて、口を開けた。
「ありがとう……!」
星野さんも輪に加わり、気づけば全員が笑顔を灯していた。狭い視界なんて、思いっきり笑っていたら、気にならないほどだった。
「ね、どうにかなるもんでしょ? 四人もいたら、できないことなんてないんだから」
「目がちょっとくらい悪くてもな、ちゃんと見ようとすれば見えるんだよ」
加藤コンビが、そっくりな笑い顔で僕に言う。佑樹が僕の髪をくしゃくしゃにした。
僕は、今度は泣いていた。星野さんの「大丈夫?」という声に何回も頷く。どうして自分が泣いているのかわからない。山登りの達成感だろうか、級友の優しさにだろうか。僕はこの遠足で、わけのわからないものばかりを拾った気がする。
佑樹にからかわれ、加藤さんに「よくやったね」と褒められ、星野さんに慰めてもらう。僕は、最後の最後まで彼らからもらってばかりのようだ。
僕はもう一度、しっかりと目を開いてみた。視界の広さは山の下にいたときと何一つ変わってはいない。しかし三六〇度ぐるっと景色を見てみると、確実に何かが変わっていた。
僕が照らせる世界なんてたかがしれている。そんなことはとうの昔から分かっていた。そしてその事実に甘えて、誰かが僕の道を照らしてくれるだろうと、照らしてくれよと、周りに求めていた。人に照らされた世界の、なんとつまらないことか。
今日、初めて僕は自分の世界を自分で「視た」。狭くて薄暗いそこに、僕は一人ではなかった。ひときわ美しく光を反射する人にも出会えた。
豆電球が、光るのを諦めることはもうないだろう。
「マメくーん、ご飯取りに行こうよ!」
三人は、荷物を置いてきたバスが停めてある駐車場に向かおうとしているらしい。
僕はこけそうになるのも構わず、前を向いて駆け出した。
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2011/09/04(Sun)16:00:06 公開 / さと
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■作者からのメッセージ
こちらで投稿させていただくのは2作目になります。今まで書いてきたものが、登場人物が2人しかいない、という話ばかりだったので、もう少し大人数な話に挑戦してみました。
未熟な作品ですが、よりよくできたらと思っています。読んでいただけたら幸いです。