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『傷口にハチミツ【前編】』 作者:アイ / リアル・現代 恋愛小説
全角46125.5文字
容量92251 bytes
原稿用紙約128.25枚
立浪彰は、女々しい・頼りない・貧弱の3拍子で女子にモテない地味な高校二年生。彼が日ごろ目で追いかけるは、中学時代につきあっていた美少女・片岡夏香。彼女は元カレの彰を冷たく突き放し、新しい彼氏の村山と共に幸せな日々をすごしていた。彰はそんな夏香への未練を断ちきれず、ふたりへの嫉妬と夏香の冷ややかな態度に打ちひしがれる情けない日々をくりかえすばかり。ある日、夏香が学校の階段で足をすべらせて転落し、意識不明の重体となる。目覚めた彼女は、14歳から現在までの3年間の記憶をすべて失っていた。彼女が覚えているのは、彰とつきあっていた中学2年生までの記憶だけだった――― ひとりの女の子を無我夢中で愛しつづけた、カッコ悪くて情けない男の子の、一途でまっすぐな純愛物語。
 片岡夏香 のデータを消去しますか?
 はい/いいえ

 核攻撃のスイッチを前にした気分でその選択肢を焦げつくほど見つめていたが、二十分近くたって僕は電源ボタンを押した。
 何度目かのため息をつき、ケータイを閉じる。ベッドにあおむけにころがり、真っ白で病院じみた天井をぼんやりと見つめた。無機的でまぶしい電灯を、特に意味もなく数秒間凝視する。
 ここ数年、夏香のデータを消す消さないの瀬戸際で必死に命綱にしがみつく夜をくりかえしているような気がする。ケータイをふたたびひらき、シークレットフォルダに移動させてうっかり見ないようにしている夏香の写真を、おおよそ数ヶ月ぶりかにひらいてみた。ずいぶん前にとったプリクラ画像が、見せつけるようにしあわせな空気を画面いっぱいにふりまいていた。白いワンピースにリボンカチューシャといういでたちの夏香が満面の笑みで、ぎこちない笑みを浮かべる僕の腕を強引にとってダブルピースをしている。ピンクのハートがちりばめられた背景。真下には日付スタンプと「ずっとずっと一緒だよ」という文字があった。
 夏香。声に出してつぶやいてみる。
 ただいとしい人の名前を呼びたい。その一心。
 階下から「彰、ごはんよ」という母の声が聞こえた。時期尚早な粉雪が、音もたてずに窓の外で風とたわむれている。今流行りの異常気象、でもこのていどじゃ積もらないだろう、と思った僕は、カーテンを閉めてケータイをベッドに放りだした。少しだけバウンドしたそれは、僕の体温を残す敷布団のうえでいきだおれたように四つん這いになる。


 舌打ちをくらったのはこれが初めてではない。
 高校デビューと称して明るい茶色に染めた髪を自慢げにゆらし、ステップまじりに意気揚々と下駄箱に入ってきた夏香を見て、僕は一瞬、猫ににらまれたハムスターのように身をこわばらせた。つづいて彼女に少女らしからぬ強烈な舌打ちをされる。ツバを吐かないのが不思議なぐらい、下品な舌打ちだった。女の子なのに。
 夏香の舌打ちは本気だった。自分を強く見せるための、逆にカッコ悪く見えるわざとらしいものじゃなく、深い怒りをあらわにする音。彼女はななめ下から僕をにらみ、手早く上靴にはきかえると早々に去ってゆく。そんな彼女の華奢なうしろ姿とつややかな髪と、冬将軍がまさにクラウチングスタートをきりかけているというのに限界までつめられたスカートを見て、僕は呆然と立ちつくすしかできなかった。夏香の耳にはiPodへとつながるイヤフォンが入っていた。
「夏香!」
 野太い声が聞こえて、昇降口の反対側にある廊下からひとりの男子生徒が走ってきた。彼を見るにつけ、夏香の表情がぱっと華やいだ。えらく背の高い色男が、彼女と朝の挨拶をかわし、腕を組んで階段をのぼっていった。美男美女。これほど正確に四字熟語を体現されたことはない。頭の奥で、井戸の底に桶を落としたような音がした。僕は教室にむかうべく、反対側の階段から階上へあがる。
 まだ二十人ほどしか登校していない二年四組の教室で、最初に僕をおちょくったのは賢一だった。
「またはちあったのか、夏香と」
 前のめりにずっこけそうになるのを必死でこらえて、なぜお前がそれを、と問うた。
「まだ何も言ってないんだけど」
「見りゃ分かるだろうが、夏香と村山のやりとり」
 元カレがまた私につきまとってきてんの超うざあい、と棒読みで夏香のまねをする賢一の机に鞄をどすんと落として、世紀末級のため息をついた。これだけ何度もため息をついていればいっそ腹筋がきたえられたかも知れない。
 賢一の前にある自分の席に腰を落とし、「なるべく近づかないようにしてるんだけど」と言いわけする。
「なぜか、はちあう。どこの性格悪い暇人神様のいたずらなんだろうな」
「別に近づかないでいる必要ないだろ」
「無理だし。あんだけ嫌われてたら」
 椅子に逆むきに座り、かたむけて賢一の机に頬杖をつく。暖房のない教室では、机すら氷の板のようだった。賢一はきちんと椅子に座って僕の頭をこづく。
「こりないねえ。彰、昨今の意味分からん滂沱と流れる純愛ブームの濁流に靴とられちゃ駄目だぞ。こんなカビはえた世の中、真実の愛なんていう言葉ほど信用ならないものはない。現実を思い知れ夢見る思春期」
「別に誰もそんなこと言ってねえし。俺だってできれば夏香に会わずにすませたいよ。でも、同じ学校だろ? 同じクラスだろ? 最良の解決策があれば五千円やる」
「俺が最良の解決策を思いつく方法があれば二千円やる」
 それって結局僕がマイナスなんじゃないか。僕は肩を落とし、教室の隅で朝の男、村山と楽しげに歓談する夏香を見つめた。
 村山が夏香の新しい彼氏になってからもう半年ほどたつ。
 今までのように一緒にいられず、見ていて苦しくなるのを承知で同じ高校に入った。夏香と村山が交わす睦言を聴くまい聴くまいと、僕は過去のてろんとした甘味で耳をふさいでいる。呼吸すら億劫になってしまう。いっそ僕はマゾなんじゃないかと思った。何より夏香の、僕に未練がなさそうな態度がいちばん、傷ついた。
 君はもう僕がいなくてもしあわせなのか、と思うと死にたくなった。僕は達観した大人でもなく、無知な子供でもない。だけど一緒に見た映画はよく覚えている。初めて一緒に見た映画は「タイタニック」だった。
 村山と夏香が人目をはばかることなくデートの予定を話している姿は、顔にレモン果汁か生のタマネギの汁を飛ばされている気分だった。僕の視線に気づいた彼女があからさまに顔をしかめるのを見て、僕は慌てて顔をそらす。「ほんとやだ、朝も会ったんだよ、待ちぶせじゃないといいけど」「気にしすぎだって、もう高校生なんだしそんな幼稚なことしないだろ」そんなふたりの会話が耳に入ってきた。僕は机の木目をじっと見つめていた。
 頬を冷たい空気が撫でてゆく。それでも僕は目をそむけつづけた。息を止めた。同じ空気を吸ってしまったら最後、彼女が世界からいなくなってしまいそうな気がした。聴き飽きたチャイムの音が敷地内に響く。

 二年生に進級したのがいっそミラクルかと思うほど、高校に入ってからずっとうわの空で授業を受けていた。僕の成績は中の中の下、といったところだ。苦手な英語はさすがに黒板を書きうつして真剣になっていたが、他の授業では襟元から伸ばしたイヤホンで音楽を聴いていた。ななめ前の席にいる冬服の夏香の背中は、真剣にノートをとっているのか丸くなっている。
 昼休みになるやいなや、教室に村山が突撃してきた。「食堂行こうぜ」と背後を親指でさす村山に満面の笑みをむけ、颯爽と退室する夏香。見せつけやがって、という気はしたが、つきあっている高校生だったら当たり前の光景なのだろう。
 村山と話しているときの夏香はひまわりのように笑顔で、楽しそうだった。かつて僕にそうしてくれたように。
「ああもう見るな見るな。嫌なもんをあえて見ようとするお前の姿、見てらんねえよ」
 賢一が僕のブレザーの裾をひっぱって偉大なる現実にひき戻す。机に置かれた購買のパンをあけようとしたところで、今度は横から井端瞳がえらそうに言った。
「一万円くれるんだったら、打開策も教えなくはないけど」
 彼女は椅子を持ってきて僕と賢一が向かいあっている机のとなりに遠慮会釈なく座り、弁当をひろげはじめた。彼女はピアスが誇らしげに輝く耳に髪をかけて、「どうすんの」と言った。
「方法によっては一万円でも二万円でも払うよ」
「今からあたしが彰をぶん殴って記憶を飛ばす。名付けて『心の旅路』作戦」
「辞退します。ってか古いなそれ。七十年近く前の映画だぞ、名作だけど」
「お前の周囲にいると俺たちは必然的に映画に詳しくなる」賢一が肩をすくめた。
「で、なんで辞退すんの」
「そんな強硬手段じゃ命飛んでもおかしくない。そこまで自分に自信ない」
 ため息をついてパンの袋をあける。ヤキソバパンを食べながらカフェオレというのも悪くない。女の子らしいカラフルな弁当に箸をつっこみながら、瞳は「よくお聞きよ、税金をおさめていない愚民」と言った。
「友達でいたいという元カレはまだしも、自分に未練があるのがだだ漏れのまままわりをウロウロされるのって超絶迷惑なんだよ、女にとって」
「ウロウロしてない。今日はたまたまはちあっただけだし」
「同じことだよ、初めてじゃないくせに。女のほうに多少心残りがあっても、相手がそう何度も視界に入ると嫌いになっちゃうし。夏香に嫌われたからもう絵は描かないとか意地はっちゃってさ。さっさと新しい彼女、作りなよ」
「そう思ってるんだけど、夏香を気にしてるうちに彼女を作ったら、それはそれで失礼だろ。まだ二年しか経ってない。美術部に入るのも嫌味っぽいし」
「じゃあ早く過去と清算すべし」
「方法を知ってたら二年前にやってる。ほっときゃ忘れるだろ」
「そうやって先延ばしにしながらウジウジしてるくせに、女々しいやつ」と行儀悪く口に箸をくわえぼやく賢一。二人に否定されて返す言葉が見つからず、僕は黙ってパックのカフェオレをすすった。ほろ苦い甘さが逆に優しい。
 夏香を忘れたいわけじゃない。むしろこのまま永遠に彼女を愛したまま死ぬのだと今でも勘違いしている。甘くて優しい手軽な幻を追いかけてさえいれば傷つかない、なんていう屁理屈をかかえておぼれているのと同じだ。
 きれいな言葉でうまくコーティングする。それをよしとしてしまっているのは、過ぎたことに「こうであったらよかった」と文句をぶつけるタブーを犯し、相応の制裁を受けたからかも知れない。僕がおいてけぼりにしたプライド。
 入り口で立ち話をしていた夏香と村山が、そろって教室を出てゆく。夏香の肩に添えられた村山の手が露骨で、よくやるよ、と思うと同時にカフェオレが苦みを増した。中身が少なくなっている。

 昼休みも終わりかけのころ、賢一もさそって他のクラスの友達と一緒にグラウンドで野球もどきをやって遊んでいた。各チームに八人ずつしかいない、ショート不在の適当な野球。僕はそんなに交遊がひろいほうじゃないが、彼らは賢一を通じて知りあった同じ野球仲間だった。二番をまかされた僕は二度の打席でそれぞれセカンドにあっさり処理されるゴロを打って一塁でUターンしてしまう。
 中学時代、女子にモテたくて一瞬だけ野球部に在籍していたことがあったが、すぐにやめてしまったし、感覚は何も残っていない。センターに痛烈な長打をかました賢一のほうがどう考えても上手だろう。
 野球部をやめたあとは美術部にいた。夏香をモデルに絵を描いたら県のナントカ賞をとった。絵は夏香の両親にひきわたしたので、今でも彼女の家にあるはずだ。
 靴のつま先で描いただけのネクストバッターズサークルで素振りをしながら、僕は今朝の夏香のことを思い出した。僕を見て露骨に舌打ちをし、見せつけるように新しい彼氏と腕を組んでいた。僕のことなんて眼中にないといったようすだった。眼中にある僕のほうがおかしいのだろう、倫理的に。
 中学時代、背が小さくて世間ズレしていなくて、純粋な子供のようだった夏香。幼い僕の心を太陽のように照らして包みこむ、小さな女神だった。そんな甘ったるい表現でも間違っていないと言えるほど、夏香とつきあっているときはしあわせで、満たされていた。
 僕が初めて手を差し出したとき、手のひらをそっと握りかえしてくれた。誰もいない美術室でファーストキスもした。彼女にとって初彼氏で、僕にとっても初彼女だった。手をつなぐのも必死だったうぶな関係で、僕らは何を作りだしてきたのだろうか。それは今でも彼女の中のどこかにあって、フルーツのように甘い香りをただよわせているのだろうか。
 けれど、結果的には彼女にふられて、理由が分かっているからこそひとりで悶々と悩む羽目になった。その結果がすべてなのだと考えたら、つきあっていた一年弱は今、どこを泳いでいるのだろう。
 彼女の強い光は僕の影を濃くする。点滅する夢幻。真っ黒な血。
 前のバッターがピッチャー強襲ライナーで出塁。僕はバットをひきずってバッターボックスへ立ち、地面をつま先で整えた。たいして打てないのに。だがかつて夏香が「スポーツをしてるときの彰が好き」と体育で声をかけてくれたことを、しつこく覚えている。
 初球、ピッチャーが投げる。甘い。素人の投球はすべて変化球まがいだということを僕は知っている。ボールはふんわりと落下し、低めに来る。まるでフォークボール。タイミングをみはからい、すくいあげるように三塁方向へ打ちかえした。つもりだった。ボールの頭をかすめたバット。やばい。地面にたたきつけられ、ぎりぎりフェアゾーンをころがる打球。僕はバットをほうり投げて走った。サードゴロ。二塁はアウト、必死に走ったが一塁もアウト。絵に描いたような華麗なゲッツー。今はこのざまだ。
 予鈴が鳴り、みんなが「彰、戻ろうぜ」と呼びながら走って校舎へ戻るなか、僕は水道の水を飲もうとグラウンドの隅にあるプールまで走っていった。さびついた五つ並びの水道の蛇口をひねり、出口をひっくりかえし、そろそろ冷たく感じるようになった水を唇で受けとめ嚥下する。
 制服の袖で口元をぬぐい顔をあげると、プールと旧校舎の間、じめっとしていて雑草が生え放題のそこに、
 ――夏香を見た。夏香の隣に、村山も見た。
 彼女は村山にぴったり寄り添い、耳元で言葉をまじえていた。やがて彼らはさぐるように手をとりあい、唇を重ねた。うっとりと紅潮した夏香の頬が魅惑的だった。僕は思わずプールの陰に身を隠した。
 立ち聞きなんて趣味の悪い。そうは思っていても理性が追いつかず、僕はそっと壁から顔だけをのぞかせてみた。夏香と村山の高校生らしからぬ大人びたキスを目のあたりにし、僕は自分から覗き見をしたくせに吐き気をもよおし、おぞましさを感じ、大いなる不本意ながら同時に悔しさもこみあげてきた。
 僕に背を向けている村山の首に手をまわしていた夏香が、僕に気づいて目をあける。僕はとっさに隠れようと思ったが、その前に彼女の大きな瞳がすっと細められたのを確かに見た。そしてふたたび目を閉じ、官能的なキスに没頭する。
 後生だから叫び声なんてあげないでくれと自分の喉に懇願する。僕よりはるかに背が高くてかっこいい村山が、かつて僕が愛した女の子をまるごと包みこんで一段ずつ階段をのぼっているのだと思うと、飛びだして彼の背中に蹴りをいれてしまいそうで。けれど僕は何もできず、何も言えず、その場を走って逃げだした。
 違う、そうじゃないんだ。僕は夏香の視線に返事をしなかった。あざ笑うように細められた目を思い出し、なけなしの勇気や、しょっちゅう顔を出しては僕を叱咤する声が一気に収縮してゆくのを感じた。
 情けない。女々しすぎて目もあてられない。新しい彼氏がなんだっていうんだ、関係ないじゃないか、どうでもいいじゃないか。こんな無様で唾棄すべき青春を、生まれた瞬間の僕ははたして予想していただろうか。だとしたらとっくにへその緒で首をしめて自殺していた。
 夏香。僕はもう一度心の中で呼んだ。
 ひたすらに走った。足の筋肉が悲鳴をあげたけれど、走らなかったら僕が悲鳴をあげそうな気がして、走った。痛みを隠すための痛みを、僕らはきっと別の名前で呼ぶ。


 村山と夏香がキスをするのを目撃して以来、こちらも彼女を直視することができなくなり、意図的に避け、避けられる日々がやはりつづいていた。
 日直でプリントを回収するときに、彼女のところに行って「プリント」と言うと、彼女は机に頬肘をついたまま一度も僕を見ず、黙って片手でプリントをさしだした。他の女子と一緒に廊下を歩いている彼女とすれ違えば、まるで車にひかれかかったかのように大げさに身をひき、三メートル以上あいだをあけて逃げるように去っていった。遠くのほうから「もうやだあ」と村山に泣きつく夏香の声が聴こえた。
 嫌われているけれど完全に他人になった生活よりはずっとマシだ、と思ったのは、僕のエゴ。そんなところに夏香を思いやる気持ちなんてない、と自覚している。彼女の近くにいて、声を聴き、笑顔を見ていたいと願う。自分が傷つきたくないだけ。終焉から目をそらして、錯覚して。
 それでも僕がおおよそ一年ぶりに彼女に声をかけたのは、生キス目撃事件から二週間後の四時間目の直前、日直の夏香が職員室からプリントやノートの類をてんこもりかかえて廊下を歩いているときだった。彼女の小さくて華奢な身体には少し負担ではないかと思われるほどの量。紙の元は樹木、重くないわけがない。日直の片われが三時間目の途中で体調を崩し保健室送りになってしまったのを思い出し、それで彼女がひとりで仕事をうけもっているのだと気づいた。
 律義だ、と元彼女の背中を見て呆れる。もうちょっと崩していたっていいのに、変なところできちんとしているというか。だから彼女は不良になれなかったし、悪いことをするのがかっこいいという価値観を持たない。純粋でかわいらしくて、しっかりしている。
 決してまっすぐではない夏香のふらふら歩きを見ていられず、そろそろ手を貸そうかと思ったとき。あ、あー、と思ったが早いか彼女の腕からプリントがこぼれおち、それを取ろうとして反射的に手を伸ばしたせいですべての荷物が床にばらけた。ばさばさっ、と乾いた音がひびく。すぐ近くを歩いていた上級生の女子たちがさっと避け、「うっわ」と笑いながら去ってゆく。
 僕は必死でプリントをかき集める彼女の傍にしゃがみこんで、一緒になってノート類を拾った。夏香の視線が少しずつあがり、僕の顔をとらえて「きゃっ」と声をあげた。顔が一気に青ざめてゆく。
「何してんの、やめてよ、触らないで」
「ひどい言いようだな」僕はノートを拾う手を止めない。「女の子がこんな重いもの持って、先生も配慮しろと思うよ、危なっかしい。落としたプリントを拾ってあげるぐらいなら、何も減らないと思う」
 もう長いこと夏香と言葉を交わしていないから、手のひらにびっしょり汗をかくほど緊張していた。彼女と言語のやりとりができている。僕の話を聞いて、暴言でも返事をしてくれている。それが嬉しかったと同時に、細いテグス糸をぴんとひっぱるようにはりつめていた。話しかけるだけでHPを半分以上消費している。
 だが、発言はわりと冷静だ。すんなり言葉が出てくる。声が震えないかと危惧する必要はなかった。
「立浪だから嫌なのよ。メンタル的に減る」
「俺は夏香じゃなくても手伝ってあげてるよ、多分」
「片岡」夏香は僕が言い終えるより早く、ことさら強調して呼び名を訂正した。僕はため息をつきながら「じゃあ片岡」と言いなおした。彼女は一年ほど前から僕を「彰」と呼ばなくなった。
 僕が拾おうと手をのばすプリントをかたっぱしから先回りして回収する夏香。その猛烈な拒否っぷりに多少なりとも傷ついた僕は、けれど集めた半分ほどのプリントをそろえて彼女に手渡した。ほとんどひったくるように奪われる。そのまま僕を避けるように、下の階へと続く階段のそばまで後退する夏香。
「こんなことして点数を稼いでも無駄だからね」
「点数ってなんだよ」
「私にはもう新しい彼氏がいるの」
 それとプリントを拾うことって関係あるのだろうか。彼女は僕を下からにらみつけた。背が小さいのであまり迫力がない。グロスを塗った唇がきらきら光って、村山とのキスを想起させた。
「偉人のありがたい言葉を抜粋してあげる」階段の手すりにもたれかかりながら話す夏香。「優越感を他人に向けて露骨に誇示しないような、教養を積んだ人がどこにいようか」
「なんだい、それは」
「ゲーテも知らないの。男らしさアピール的な真似をするなってこと」
 そっぽを向く夏香に、僕は何も言いかえせなかった。何を言っても野暮になってしまうような気がして、何より目の前のガラス細工にひびをいれてしまいそうな気がして、僕は言葉を閉ざす以外に、彼女と自分を守る方法を、知らない。たとえその結果が拒絶しかないとしても。
 僕はしばらく黙りこみ、やがて「悪かったよ」と言った。
「はあ? 何言ってんの、意味分かんないし」
「俺も分かんない。だって、片岡のこと、嫌いなわけじゃないから」
 何かを叫ばんとして威勢よく振りかえる夏香。だが、そのいきおいでふたたび束の一番上のプリントがひらりとこぼれおち、彼女はそれに手を伸ばそうとしてバランスを崩した。たてなおすべく一歩後ろにさがった彼女の右足は床ではなく一段下の階段をとらえ――そのまま後ろに倒れていった。
「夏香!」
 宙を無造作に舞う英語のプリント。夏香の口から小さな悲鳴が聞こえた。慌てて伸ばした僕の手は、一瞬彼女の指先をかすめただけで、むなしく空を掻く。重力に従う彼女の最後の表情は、怯えと、恐怖と、僕に対する恨みでいっぱいだった。

 ……そこから先は、DVDを早送りしているようだった。
 体と階段とがぶつかりあう音が何度も執拗に響いた。落下しながら十回転以上はしたかと思われる彼女の華奢な身は踊り場にたたきつけられた。階段に散る大量のプリントやノート。僕は三段飛ばしで階段を降りて、動かない彼女の身体を抱きあげた。わずかにひらいていた彼女の瞳はすぐに閉じられ、僕の腕の中でぐったりと力をなくす。額から血が筋になって流れた。「夏香! 返事をしろ!」僕は半狂乱になって彼女の上半身をゆさぶったが、ぴくりとも動かない。頭を打ったようだけど、血が出ているからきっと大丈夫。こんなことで死ぬような子じゃない。僕は、それでも目の前が真っ暗になった。僕の愛した女の子の真っ赤な血を見るにつけ、奥歯が岩をかみくだいたような音を鳴らす。
 夏香が階段から落ちた音と僕の声を聴きつけた他の生徒が階段の上にむらがっている。女子たちが悲鳴をあげて逃げだし、男子は「あれ片岡じゃね?」「立浪がなんかしたのか」「先生呼んでこよう」とくちぐちにわめいている。僕はただひたすらに彼女の名前を呼んだ。名字で呼べという彼女の命令も忘れて。
「夏香、どうしたの!」
 瞳が階段をかけおりてきた。僕の横から夏香の肩をつかみ、半泣きになって彼女の名前を呼んでいる。美人の部類に入る夏香の表情は彩を失い、それでも閉じられたまぶたにいろどられたまつ毛が長くて美しい。まるで眠り姫のようだった。
 瞳と動かない夏香の隣で、僕は何もできず、何も言えず、ただ床にぺたりと座りこんで呆然としていた。「まじかよ」とつぶやくのが精いっぱいだった。地球の自転が逆回転をはじめたのかと思った。



 別れを切りだしたのは、夏香からだった。
 夏香が初めての彼女だったので手さぐり半分、Y字路のくりかえしの恋愛だった。失敗を積みかさねて人生の伴侶を探しあてるのだ、とえらい人がどこかで言っていたかも知れないが、そんなことを考える余裕すらないほど、僕は夏香を心から愛していた。高校に進学し、卒業し、結婚し、子供をもうけ、しあわせな家庭をきずくのだと露ほども疑わず、煮つめたカルピスのような甘さを存分に味わっていた。
 別れた原因は間違いなく、僕だ。断言する。
 これもまた運命だとかたづけるには無責任だが、少なくとも、甘い夢を見るには現実の恋愛はとてつもなく、現実的だった。男子、かっこつけロマンチストたるべし。
 僕らは中学二年の秋のはじめにつきあいはじめ、決定的な事件を引き金に、中学三年の夏に別れた。夏香からメールで「もう別れよう」と言われ、僕は返信しないことで承諾した。誤解を解こうと必死になって僕自身も疲れていたし、落ちついたほうがいいと思ったからだ。だけど、一時間もしないうちに、涙が止まらなくなった。
 恋愛に慣れている大人たちからは鼻で笑われるような、些末な事件。どうしてそんな理由で別れるんだと詰問されても答えはでない。
 極東の片隅の恋の崩壊劇が、僕のここ二年ほどの生活を平和たらしめることを妨害しつづけてきた。ただひたすらに彼女は僕を避けた。僕の身体が少しでも彼女の腕に触れようものなら汚いものでも払うような手つきではたき、席替えで隣同士になれば傍目にも分かるほど机を離され始終顔をそむけられ、女子トイレからは僕への罵詈雑言を友人たちに高らかにぶつける声が聞こえた。
 半年前に村山とつきあいはじめたという話を聞いて以来、僕も彼女に話しかけなくなった。彼女を苦しめていたいくつかの事実が、僕の首をしめてひっぱり戻していた。
 最後には彼女のブログに、僕を遠まわしに非難する記事が書かれた。名前は伏せられていたが親しい者が見れば瞬時に僕のことだと分かる愚痴で、人格否定まがいの中傷が書きつらねてあった。女を本気で怒らせるとああなる。僕を知る者からも知らぬ者からも「そいつマジ死ね」「ほっといたらいいよ」「今度夏香に手出ししたらあたしが殺す」というコメントが寄せられ、それ以来ずっと、ただの一言も彼女と言葉をかわしていない。プリントを拾ってあげたときの会話は、本当に、久しぶりすぎた。
 夏香は今も笑っている。痛みを忘れてしまったように。



 奇跡的に骨折などはなく数か所の打撲ですんだが、夏香は階段から落ちたときに頭部を強く打ったらしく、意識不明の状態が続いている。命にかかわる怪我ではないと担任の先生に言われ、クラスメイトたちは一様に安堵のため息をついていたが、僕は授業中も机に突っ伏してずっと夏香のことを考えていた。意識不明って、それは危ないことじゃないのか? 最悪の結果を想定していまにも病院へ走りださんとしていた。彼女が入院している病院は知っていたが、意識をとり戻すまで親族以外の面会は謝絶となっていた。
 事故当時、夏香の身体を抱いて放心状態の僕は先生にひきはがされ、「どうしてこんなことになったの、立浪くん」と問いつめられたが、ショックで何も答えられなかった。先生の声がはるか遠くの選挙カーからの演説のように、僕の耳をスルーしていった。誰もいなければ泣いていたかも知れない。救急車が到着し、夏香は近くの病院へ搬送された。そのあとになって、夏香はプリントを拾おうとして階段から落下したのだと先生に報告したが、二時間近く、僕が彼女を突き飛ばしたという疑惑が晴れずに苦労した。そりゃそうだろう、日ごろの逆恨みだと思われても無理はない。
 夏香の両親からのよい報告を待って、自宅の電話の前でずっと座っていた。子機を枕元に持ちこんで寝た。落ちついていられるわけがない。別れたとはいえ、彼女は僕がかつて愛した女の子なのだ。
 どうしてあの子がこんな目に。僕がもっと早くに手をのばしていれば。そんな粘りけのある感情が僕自身をからめとって離さない。うっかり気をゆるめると泣いてしまいそうになる。夏香のことになると、僕はいつもこうだ。女々しい。
 炊きたてのごはんの上で放置された味つけ海苔のようになってしまった僕の背中を、ノートで元気よく叩く瞳。
「しっかりしなよ、別にあんたが悪いわけじゃないんでしょ。医者が大丈夫だって言ってるんだから、大丈夫だって」
 痛む背中をのばして起きあがると、瞳と、なぜか賢一もいた。ふと周囲を見わたしてみれば時間はすっかり昼休みで、賢一は購買のパンとジュース、瞳はいつもの弁当箱を持っていた。今日に限って僕の机で食べるなんて言いだす二人に、僕はしぶしぶコンビニで買ってきたパンとリプトンのパックを鞄から出す。
「なんでそんなに夏香に固執すんだよ。他にもいい女子、いっぱいいるのに」
 パンの袋をちぎる賢一の不満げな目に威圧され、僕は言葉を失った。固執なんていう泥のような言葉ではないような気が、する。幻なのかも知れないけれど。
「固執じゃない、心配なだけだ。それに、単に偶然会ったりしてるだけの関係だし」僕はパックにストローを差しながら言う。
「本気で、本っ気で夏香が嫌いならさ」瞳がほうれん草のごまあえをはさんだ箸を僕の目の前につきつけた。「他の高校に転校することだってできたでしょ。なのにしないってことは、無意識に夏香のそばにいたいと思ってるからだよ。人間は偉大なる無意識に翻弄されて生きてるんだから」
「なんでそうやっていつも知ったような口調で哲学っぽいこと話すんだよ」
「とりあえず全宇宙の哲学者に謝れ」
 瞳の言うように、僕がもし今でも夏香と一緒にいたいと願っているのだとしたら、それはそれでさらに情けない。
 僕はパンを食べながら携帯電話をひらいた。以前、あれだけ画面とにらめっこして結局消せなかった夏香のアドレス。彼女はすでにアドレスを変えてしまっているから、残しておいてもしかたないのに。
 彼女の夢の中でだけでも、自分がうつっていて欲しいと思った。
「女の恋は上書き保存式、男の恋は名前をつけて保存式」
 瞳がペットボトルのキャップをまわしながら言った。「だからなのかな、元彼氏の存在ってかすんじゃうんだよ。男の人って、ほら、新カノできても元カノと会ったりするし。でも女にはそれがいらつくの」
「おい、瞳、今の俺にそんなことを言って、ナルホドソーデスネって切りかえられると思ってるのか?」
「もちろん思ってないよ、でも、今の彰の態度は夏香を追いつめるだけだと思う。今はただ、固執とか元彼の立場とか、そんなのは忘れて、ひとりの女の子の無事を祈ろうよ」
 生きたままのゴキブリを丸のみしたような気分だった。胃袋の中でカサカサと動きまわられてもおおいに困る。
 その日の授業が全て終わって家に帰ると、ちょうど電話の受話器をおいた母が慌てたようすで言った。
「夏香ちゃん、意識が戻ったそうよ」
 その瞬間、自分の鞄が三キロぐらい、急に重くなったような気がした。母は夕食の準備がまだ途中だから出れないと言い、父がゴルフコンペの景品でもらってきた高級みかんゼリーの箱を僕に手わたした。まだ状況がうまくのみこめず、僕は最後に見た夏香の表情ばかり思い出していた。眼球をえぐるような、恨みのこもった眼差し。同時に、病室で会った瞬間に平手打ちをくらう自分の姿が容易に想像できた。

 ゼリーの入った紙袋をさげ、近所の総合病院の受付で夏香の部屋番号をたずねた。ロビーを横ぎったとき、あんまり見たくなかった顔と偶然でくわす。
 村山信夫。夏香の彼氏。僕は少し前まで彼を「ムラヤマノブオ」だと思っていたが、実際は「シノブ」らしい。
 僕の視線に気づいた彼は、その整った顔をあげて「あっ」と声をあげた。
 広い大病院のロビーは混雑していて、面会時間終了まであと一時間だというのに外部の人間でにぎわっている。そんな中、紙袋を持っている僕と花束をかかえた村山は、巌流島で顔を合わせた武蔵と小次郎のように正面から対峙した。
 自分の彼女の元彼氏が、見舞いにきている。そんな状況に村山はたいして動揺したようすも見せず、「立浪だっけ」と言った。
「直で話をするのはこれが初めてかな」
「特に記憶にないね」僕はブレザーの裾をにぎりしめてうつむいた。スタンリー・キューブリック監督の「シャイニング」にそんなセリフがなかったっけ、と思った。シンプルで優しい花をいくつもかかえている村山は、僕より十センチほど高い場所から優しく笑いかけた。王子だ。かなわない。
「夏香のお見舞いなのか」
 棘のない、やわらかい声をかけられて僕は顔をあげることができず、ちいさくうなずいた。「そこのエレベーターであがろう」と歩きだす彼の後ろにくっついていって、夏香の病室がある三階まであがった。僕の存在を煙たがっているようには見えず、縦に長いエレベーター内で話しかけられても僕ひとりが気まずくてうまく返事ができなかった。
「知ってるだろうけど、夏香がお前のことを過小評価しているんだ。彼女の話してたことに脚色が加わっているのは分かる。普段の立浪は真面目だし、友達を大事にするいいやつに見えたから。でも、こうして見舞いに来てくれてるんだから、立浪にとって夏香は今でも大事な相手だっていうことだろ」
 基準がないので過小過大の幅が分からないが、そのドラマのセリフのような言葉に、僕は肩をすくめた。「大丈夫だよ、俺、夏香とやり直したいとか、そんなやましい気持ちは持っていないから」
「そんなことは問題じゃねえだろ。元恋人とかそんな立場を捨てて、純粋にひとりの人間を心配してるんだから」
「そこまで言われるほど優しいやつじゃねえよ」
「謙遜するねえ」村上が肩をふるわせて笑う。「俺なんか、ひどい別れかたをした元カノとは視界に入れるのも怖くてできないへっぴり腰だよ。すげえな、お前」
 やめてくれ、僕の汚さが浮き彫りになる。これがひとりの女子の元彼氏と現彼氏の会話だとは思えない。なんでこんなにほのぼのとしてるんだ、僕たちは。
 村山と夏香の仲のよさは有名だし、美男美女ということで羨望の的にもなっていた。頭もよく女子にそうとうな人気だが、恋人が夏香だということで大半の女子たちが諦めムード。友達も多く、僕もちょっとかっこいいと思っていた。彼は夏香を大切にしているし、夏香も彼を愛している。そして夏香の元彼氏である僕にこの態度。
 いいやつなんだろうな、と僕は彼を横目で見た。
 夏香のいる三○五号室は一人部屋で、真っ白なドアをスライドさせるとすぐに彼女の両親が気づき、立ちあがって会釈をした。村山につられて僕もぎこちなく頭をさげる。第一だけはずしているシャツのボタンを無意識にしめた。
「夏香の容体は」花束を差しだしながら村山がベッドをのぞきこむ。
 夏香は頭部に包帯を巻いて眠っていた。いくつか強打した箇所があるらしく、腕や肩にもガーゼが貼られてある。花嫁のドレスのように真っ白なベッドの上で寝息をたてる彼女の姿を見て、僕は心底安心した。膝の力がぬけて、その場でへたりこんでしまいそうだった。同時に、ここ数日のだらけっぷりを反省する。無事っぽそうだ、よかった、という言葉ばかりが頭の中でくりかえされる。馬鹿みたいに。
 ほっとしてしまうと気がゆるんで、つい「夏香」と言いそうになる。真っ白な部屋とベッドをあたえられた彼女は、けがれを知らない天使のようだった。実際、村山は知らないが、僕は彼女の身体に手を出したことがないから、あながち間違っていない。
 夏香の両親は、娘の元彼氏と新しい彼氏の夢のコラボレーションに少しとまどっているようだったが、すぐに状況を説明してくれた。
「今は眠っているけれど、意識をとりもどしたのはお昼すぎらしいの。けれど自分が階段から落ちたことはあまり覚えていないらしくて。お医者さまは、頭部外傷で一時的に記憶が混乱しているだけだから、心配はないとおっしゃったのだけど」
 あまり眠れなかったのだろう、うまく化粧がのっていない夏香の母親の言葉は震えていた。喜んでいるのか、まだ息を殺してひそんでいるのかも知れない新たな障害を恐れているのか。
 僕は「たいしたものじゃないですけど」と言って、みかんゼリーを手わたした。中学時代に何度も顔を合わせたふたりはうやうやしく頭をさげた。
 今後の経過観察のことについて話を聴いていると、夏香が身をよじった。衣擦れの音にその場にいた誰もが驚き、ベッドに手をついた。
「夏香」最初に叫んだのは村山だった。
 かけ布団をにぎりしめて、目元を指でこすりながらうめく夏香。半分ほどひらかれた目は少し充血していたが、焦点がしっかりしている。
「よかった、元気そうだな」
 嬉しそうに叫んで夏香の上半身を起こし、抱きしめる村山。肌が少し乾燥していたがいつもと変わらない夏香の姿に安心した。僕はベッドの端に腰かけ、「よかった」と連呼する村山と夏香を見ていた。何も言えなかった。村山がしあわせそうに見えたから。
 だが突然、夏香が驚いたようすで目を見ひらき「離して!」と金切り声をあげて、村山を突き飛ばした。慌ててベッドのそばに立って胸元をおさえる村山。僕ははっと息をのんで、おびえた表情の夏香を見た。身を守るようにかけ布団をひきよせて震える彼女に、彼女の両親が「どうしたの」と声をかける。
「お母さん、この人は誰? 親戚の人じゃないよね、ぜんぜん似てないし」
 慌てふためいて舌がからまっている夏香は、呆然としている村山を指さしてまくしたてる。僕は何か言わなくてはと思い、しかし身体が動かず、ベッドから立ち上がりかけた姿勢のまま硬直してしまった。
 真っ青になってちぢこまっている夏香に再度手をのばし、村山が「何言ってるんだよ」と苦しまぎれに笑った。
「記憶喪失のドラマじゃあるまいし、真似するなって。悪かったよ、お前が階段から落ちたとき、まっさきに駆けつけてやれなくて」
「階段? それじゃあお母さんが言ってた、階段から落ちたっていうのは本当だったの」夏香は警戒している子猫のように枕もとににじりよった。「ていうか、わけ分かんない、何言ってんの。誰なの。その制服、うちの中学じゃないでしょ。馴れ馴れしくしないで」
 そのとき、僕は村山が言った冗談が冗談じゃないような気がして凍りついた。全身の血がざあっと音をたててひいていく。「まさかそんなはずは」と自分に言い聞かせながらそっと腰をベッドからあげると、スプリングがきしむ音に気づいた夏香が僕を見た。
 夏香の表情は一気にゆるみ、笑顔になりかけた。しかし、すぐにそれは元のおびえた形相に変わって、彼女の乾いた唇は僕の下の名前をずいぶん久しぶりに呼んだ。
 夜の街のどまんなかで、泥酔して倒れる自分の姿が脳裏に浮かんだ。
「彰、そこにいるの、彰でしょ? ああよかった、お父さんとお母さん以外にも知ってる人がいた。教えて、この人は一体誰なの。どうして私が男の人に抱きつかれてて平気な顔をしてるの。ねえ、彰ってば」

 かけつけた医師によって僕ら二人は一時、夏香の病室から出るよう指示された。両親がつきそって問診を行うらしい。僕と村山は廊下のソファにならんで座って黙っていた。村山は夏香に拒絶されたことがショックだったらしく、うなだれて顔を両手でおおっている。気分はさぞかし悪かろう。まして、事故を起こして、意識不明で、ようやく目が覚めて喜んでいる矢先なのだから。ヘッドロックをされて、餌をもらって、直後に右ストレートをくらったよう。
 僕はというと、何年かぶりに夏香に名前を呼ばれたことで少しのあいだ、授業中にするよりさらにぼんやりしてしまった。耳の穴にてろりとハチミツを垂らされた甘さ。この感触を、僕はまだ覚えていた。彼女から「彰」と呼ばれていたころのこの気持ちを、僕はまだ、覚えていた。
 突然僕をかつてのように名前で呼んだ夏香の、まっすぐで必死な視線にひるんだ。あんな眼で見つめられるのも久しぶりだ。
 三十分間、僕と村山はソファに座って何も話さず、動かず、目の前のドアがひらくのを待っていた。が、七時過ぎ、ドアのむこうから出てきたのは夏香の担当医だった。
「すみません、面会時間が過ぎましたので、親族以外のかたはおひきとりください。まだ本人は状況を把握していないようですし、我々も検査が必要です。後日、改めて」
 問診って、そんなに長い時間がかかるのか。ふたたび病室に突撃したい思いにかられつつも、軽い会釈をして、僕と村山は医者に背を向けた。廊下を、エレベーターを、ロビーを、無言で通りすぎてゆく。正面玄関をくぐりぬけてようやく村山が口をひらいた。
「立浪って、夏香が中学のときにつきあってたんだよな」
 悪意のない語調。真っ白な闇。僕がうなずくと、彼はたよりなさげにため息をついた。
「つきあってたとき、夏香、お前のことを彰って呼んでたのか」
 数秒逡巡して、ゆっくりと「そうだった気がする」と答えた。
 暗い病院の駐輪場で、僕は自転車を、村山はスクーターをひっぱりだした。ふたたびため息をついた村山は、エンジンをかけながらつぶやいた。
「冗談でも、口にするもんじゃねえな。言霊っていうのか」
 彼の前髪が端正な表情を隠す。僕は自転車の鍵をあけてサドルにまたがった。
「大丈夫だろ、一時的な記憶の混乱って医者も言ってたし。今は夏香の無事を祈ろう」
 村山はヘルメットをかぶりながら笑う。それでも、ベルトをしめる手がかすかに震えていた。夜風はそろそろ冬本番といったところだが、それだけじゃないだろう。僕はぐっとハンドルを両手でにぎった。
 村山はケータイを取り出して、「何かあったら連絡しろよ」と言った。「困ったときは助けを求めるかも知れない」
 赤外線でメールアドレスを交換しながら、僕は「まさに今だろ」と笑った。ケータイを閉じた村山は笑みを浮かべていたけれど、目が切なげに細められていた。恐れを口にすることを恐れているようだった。似た者同士。
 エンジン音をふりまきながら去ってゆくスクーターを見送り、僕はふと夏香のいるあたりの病室を見あげた。どこが彼女の部屋の窓なのかは分からない。けれど、今、彼女は何をしているのだろうと考えたら、胸をフォークでかきまわされるような痛みが走った。
 ライトをつけて、自転車をこぎだす。


 つきあった一ヶ月記念、ということで夏香が僕にCDをくれたことがあった。中学二年の冬前だった。
 女は何かと記念日を作りたがるしやたらと覚えている、とは美術部の先輩から聞いていたのであるていど覚悟はしていたが、まさかの「つきあって一ヶ月たったからその記念」に僕は驚いてしまい、思わず「え、何それ」と返答してしまったのを覚えている。もちろん夏香にぶすくれられてしまったが。
 CDをくれた、というより交換を強要された。CDを交換し、それを思い出にしようということらしいが、大の映画好きの夏香なのにDVDではないあたりが不思議だった。
「エリック・クラプトンの、『ティアーズ・イン・ヘヴン』っていうの。転落事故で亡くなった息子さんのために歌った曲だと言われてるんだよ」
 そう言って彼女は学校で一枚のシングルCDをくれた。記念日にしては縁起が悪いな、と思ったが。ギターを弾いているクラプトンの黒いジャケットが妙に印象的だった。そのCDは今でも僕の部屋のCDラックの中に入っている。
 対する僕は夏香に、諫山美生の「月のワルツ」のシングルをあげた。夏香が好きそうなジャズ風の楽曲。夏香は手を叩いて喜び、「大事にするね」と言って笑った。
 そして僕らは帰り道、なぜかこの二つの曲をあわせて秘密の合い言葉を作ろうなんていう話になった。女の子ってどうしてこういうふうに形ある絆を作りたがるのだろう。男としては少ない言葉で心のつながりがあればじゅうぶんだと思っていて、記念日はもちろん、誕生日だって忘れがちだ。目に見えるものよりはこっぱずかしくないかと思い、僕と夏香はそれぞれの曲の歌詞をあわせて秘密の言葉を作った。
 いわく、こんな具合だ。
 ――どこか見知らぬ森のなか、扉のむこうに安らぎがある。
 脈絡がないし意味も分からないままだけど、僕らはたがいに顔を見あわせてくすくす笑っていた。秘密の合い言葉の内容よりも、そうしていられる時間のほうがしあわせで、つながりをよりいっそう深く感じていられた。
 以来、たとえば喧嘩をして騒いで、少し落ち着いてきたところで僕が言う。「どこか見知らぬ森のなか」と。すると夏香は泣きじゃくりながら「扉の向こうに安らぎがある」と言うのだ。そうすると、僕らはなぜか仲直りができた。不思議なことが起こって、まだ壊れるような関係じゃないんだと自覚できて。
 くだらなくて、ばかばかしくて、誰かに話したらきっと笑われる。でも、それがすべてだった。目に見えない、小さな魔法。
 夏香はボブ・ディランのアルバムジャケットのように僕の左腕にしがみつき、「寒い」と言いながらくっついて歩くのが癖だった。そのくせ、蝶を見つけたらほいほいと追いかけに行く。それを止めるのは僕の役目だった。ルイス・マイルストン監督の名作「西部戦線異状なし」では、蝶をつかまえようとすれば死んでしまう。「車に轢かれるぞ」と彼女の腕をとると、ぷうっと頬をふくらませていた。
 僕は誰もいなくなった今でも、知らない森の中を歩いている。光すらさしこまない。


 数日後、夏香の両親が電話で彼女の容体を教えてくれた。
 一過性の記憶の混乱どころか、夏香は逆行性健忘、記憶喪失だった。落下時の頭部への衝撃が原因だという。通常は数日以内に戻るらしいが、現在も彼女は自分がおかれている状況を把握できずにいる。
 ――そんな、馬鹿な。
 僕は耳にあてた子機をにぎりしめて、自室のベッドに座ってうなだれた。貧血をおこすかと思った。村山の冗談は冗談ではなかった。あれはくだらない恋愛ドラマでおなじみのエッセンスとして用いられるものだと思っていたので、現実でそんな深刻な場面に己が遭遇するとは思わなかった。
 診断の結果、命に関わる外傷ではなかったものの、脳へのショックが激しく過去の記憶の一部を失っている。両親に確認をとると、はっきり境目があるわけではないが、夏香が覚えているのは三年前、十四歳、中学二年生の冬ごろまでだという。中三の新学期をむかえた記憶はないらしい。
 だから夏香は村山を突き飛ばしたのだ。彼女の中では、世界はまだ二〇〇七年で、自分は中二なのだから。村山とつきあっているなんていう事実は彼女の記憶にはないのだから、突然見知らぬ高校生の男に抱きつかれたことになる。
 中二の冬といえば、僕と夏香がつきあってまもないころだ。一番しあわせだった時期。あのときの僕らはまだ恋の甘味におぼれていて、互いの欠点もすんなり許せて、ただひたすらに一緒にいたいと願っていた時期だ。
 何が起こったというのだろう。
 この世界はそんなにリアリティを失ったのか。
 僕は言葉を失い、子機を持っていないほうの手で顔を覆った。呆然とし、何をすればいいのか分からず、「夏香が君に会いたがってるんだ」と電話口で泣きそうな声で言う彼女の父親にも、かえす言葉が見つからなかった。

 翌日、学校帰りに病院をおとずれた僕を見るやいなや、夏香はベッドから落ちんばかりに跳ね起きた。毛布がふわりと空気を含む。
「彰! やっと来てくれた。会えなくて寂しかったんだから。どうしよう、私、昨日の人を彼氏と知らずに突き飛ばしちゃって」
 下駄箱で舌打ちし、プリントを拾ってやろうとしたら気持ち悪がり、新しい彼氏とのキスを見せつけた夏香はいずこへ。こちらがひいてしまう。
 思った以上に現状ののみこみが早い夏香に驚きつつ、僕は一瞬ためらい、しかしゆっくりと夏香に近づいた。こんなに自分を求める夏香が逆に不自然に思えてしまった。ベッドに座って、おずおずと彼女の目をのぞきこむ。
「彼氏だって、聞いたんだ」
「健忘症だとも聞いた。彰、私が高校生って、本当? こないだ着てた制服、うちの中学のじゃないもんね。『ボーン・アイデンティティー』のマット・デイモンみたい。しかも私、茶髪なの、ギャルみたいで嫌だ」
 夏香は身を乗りだして僕の腕にすがりついた。彼女に触れられたことは久しぶりで、肩が少し跳ねた。うっかりふりほどきそうになるのをぐっと我慢する。
 話せている。夏香と、会話をしている。そんな些細なことでいちいち身体がこわばってしまっている。
「どうしたらいいの、私、浦島太郎みたいな気分。タイムスリップしてきたのかな。私は中二だよ。確かにそうなんだよ。なのにどうしてみんな急に、私が高校生で、あのかっこいい人が私の彼氏だなんて言うの。分からないよ、分からなすぎるよ」
 彼女の声がかすれて、今にも泣き出しそうに顔をゆがめている。腕をつかんだ手が小刻みに震えている。
 外傷による健忘で、自然に記憶が戻らない場合、外部から記憶想起をうながすのだとどこかのサイトで見た。好きな音楽を聴かせたり、よく行く場所へ連れて行ったりといったことだ。多くはこの方法で即効性があるらしい。だがそう容易ではないようだ。
 僕はかなり長い間ためらっていたけれど、やがて夏香の髪を優しく梳いた。染めたからか少しいたんでいて、だけど艶を失っていなかった。以前と同じ匂いがした。
 一瞬たりとも忘れなかった。僕が愛した女の子のこと。
 夏香は涙声で必死に訴える。
「分からないよ。さっきまで彰と一緒にいたのに、目が覚めたら知らない人に抱きつかれてるなんて。何もかも分からないよ。お医者さんはきっと思い出せるって言ってたけど、何も分からないの。写真を見せても、何やってるの私としか思えないの。私の話を聞いても、そんなことした覚えが何ひとつないの。自分が自分じゃないみたい。怖いよ、彰。自分が怖いよ。他の誰かの身体にのりうつったみたいで怖いよ。これは私の人生なの? ねえ、彰、私はここにいる?」
 震える彼女を、まっすぐに正面から見つめた。今にも涙がこぼれそうな瞳は、最近の夏香からは信じられないほど、まっすぐで、一途だった。
 僕は軽く混乱していた。彼女は同一人物なのだろうか。いや、今ここにいる夏香は三年前の、十四歳の夏香なんだ。中学三年生のときに別れた、僕の大切な女の子なんだ。にわかには信じがたいけれど、記憶喪失になってしまった女の子なんだ。
 僕はすうっと息を吸って、「大丈夫」と言った。ただ話しているだけなのに、べらぼうに緊張していた。
「君はここにいるじゃないか。夏香は夏香のままだし。安心しなよ。時間はずいぶんたって、いろんなものが変化しちまったけど、世界は今も夏香の知っている世界のままだ。俺だってここにいる。それだけは見て分かるとおり」
 彼女のちいさな震えが少しずつ落ちついてくる。こんなことをするのも二年ぶりだ。ふつふつと湧きあがってくるなつかしい気持ちが、僕の表情を自然とゆるませる。僕が笑うと、夏香も少しだけ笑った。ひきだしの中にしまって、ときどき取りだしてはなつかしさに浸っていた、この空気。このいとしさ。
 記憶喪失。言葉が現実味をおびないのは、ドラマの世界でしか知らないからだ。
 愛する男女のどちらかが記憶を失い、自分のことをまったく覚えていない、それでもめげずに愛し続ける、そんな陳腐な恋愛映画は飽きるほど見た。けれど、夏香はそうじゃない。僕の元恋人である夏香は、記憶を失い、中学生のころまでの記憶しかなく、僕の彼女に戻ってしまったのだ。
 あまりに現実味のない脚本の数々。映写機を止めてしまいたい。
 やがて夏香の両親が入ってきて、笑いあっている僕らを見て安心したように肩を落としていた。立ちあがろうとすると夏香が「待って」と叫んで僕の服の端をつかむ。親においていかれそうになっている幼い子供のような無垢な瞳を見て、彼女の片手をとった。
「いったん帰るよ。おばさんたちとちゃんと話をしたほうがいい。今は何も思い出せなくても大丈夫。中学生の夏香のままで大丈夫。少しずつ治していこう」
 笑顔がひきつっていないか不安だったが、彼女が小さくうなずいたのでふたたび立ちあがった。後ろ髪をめいっぱいひかれる思いで、だけど早く立ち去りたくて、あわただしくドアをあけたとき。
「彰」夏香の呼びとめる声は、震えていた。
 そっとふりかえり、「何?」とたずねる。自分でも信じられないほど優しい声だった。
「こないだの人が私の彼氏なんだよね。でも、私と彰はつきあってるはずだよね? 私と彰は、どうなっちゃったの? 別れちゃったの?」
 強い意志をこめた、けれど弱々しい彼女の声にどう返事をすればいいのか分からず、僕はその場に立ち尽くした。夏香の声はしっかりしていたけれど、瞳は怯える少女のように揺れていた。野暮ったい言葉がいくつもいくつも喉元をかけあがり、僕はそのたびいちいち飲みこむ。彼女が何か言いだす前に「また来るよ」と言って、病室の外へ出てドアをしめた。泣いてしまいそうだった。

 それから夏香の退院まで、二回ほどお見舞いに行った。病院のドアをノックしてあけると、彼女が笑って出迎えてくれる。ちぎれんばかりにふっている尻尾が見えそうだ。いつか夢見ていた、笑顔で僕を受けいれてくれる夏香の姿。その唐突な光景に、僕の頭がまだついていかない。電気のスイッチをぱちんと切り替えるように、リアルがリアルらしからぬ方法で変形していた。
 一度僕が拒否したからか、夏香からの「どうして別れたの」という質問は、二度めはなかった。僕は唇を噛むしかない。
「すごく不思議な気分なの」夏香はベッドに半身をおこし、僕の持ってきたゼリーを紙スプーンで食べながら言った。「私の中では、私は中学二年生なの。高校生になった覚えはないの。でもね、いちばん新しい記憶がさ、確かに一番新しいはずなのに、感覚としてはずいぶん前のことのような気がする」
 だから記憶喪失って聞いてもどっかで納得してたの。夏香は静かにつけたした。病名が分かった直後のときと比べると、自分の意志も目の色もはっきりして落ち着いている。
「その、いちばん新しい記憶って」
「バレンタイン。私、こないだ彰にチョコを作ってプレゼントしたでしょ?」
「こないだって」思わず笑ってしまう。「俺にとってははるか三年前のことなんだけど」
 夏香が困ったように笑うのを見て、しまったと息をのむ。が、彼女は肩をすくめて「気にしないで」と言って笑った。
「私も、ついこないだだったはずのバレンタインが、なんだか何年も前のことだったような気がするの。バレンタインが終わって、それからずっと三年間、眠りつづけていたような気分。だから、頭の中は中学生なんだけど、周りで三年の歳月が経過している。時間がたっている感覚はあるんだけど、何かをした覚えがないの。不思議な感覚」
 そんな映画なかったかな、と自嘲気味に笑う夏香を美しいとすら思ってしまった。こんなふうに何度も会って長話をすること自体が二年ぶりで、かつてひきだしの奥にしまったはずの、彼女との淡い初恋の感触がじんわりと震え、熱をおびてくる。
 夏香は村山の持ってきた花がいけられている花瓶を見て、「でも大切な人がいるんだよね、高校生の私には」と言った。
「彰、あんまり変わってないよね。髪型も、服装の好みも。だから彰と一緒にいるときって、三年の経過をあまり感じさせないな。自分のことは、鏡を見たら茶髪だったりして、すぐに分かるんだけどね」
 屈託なく笑う彼女の笑顔は、肉体年齢よりももっと幼く見えた。化粧をしていないせいもあるけれど。
 夏香の退院の日、学校帰りに花束をかかえて病院へ行くと、入り口で医者に見送られる彼女と彼女の両親を見た。駐車場にとめられてある黒いセダンの後部座席に乗りこむ夏香を呼び止める。
「退院おめでとう」僕はドアに手をかけて花束を彼女に手渡した。
「わざわざ来てくれたんだ、ありがとう、彰」
「あっさり治るもんなんだな。結構な血、出てたけど」
「しょせんは二針だよ。打撲だって、打撲って言うほどでもなかった。これからは、私がなくした記憶を取り戻すことに専念しなきゃね」
 運転席にいる夏香の父親に「乗らないか」と言われたので、彼女とならんで後部座席に座った。この家の車に乗るのは初めてだった。家族団欒の時間を邪魔するのではないかとちぢこまったが、夏香がとなりで「いい匂い」と花束に鼻先をつっこんで笑っていたのですっかり気が抜けてしまった。
 するするとうしろへ流れてゆく窓の外の景色に、夏香はさほど驚いていないようすだった。三年ごときで街の風景が変わったりはしない。が、ときどき「あんな店あったっけ?」とでも言いたげにかしげられる首。僕はそんな彼女の姿を見ないように、前をまっすぐむいて、両腕を組む。何かを言わんと口を半分ひらいては閉じ、ひらいては閉じ、を三回ほどくりかえした。
 最初に静謐をやぶったのは夏香だった。
「彰、私のこと、嫌いになった?」
「そんなこと」慌てて訂正したが、夏香が頬をぷうっと膨らませた。怒ったときの彼女の仕草だ。忘れるわけがない。
「なんていうか、話すのもためらわれてる感じ。私、彰とつきあってるつもりだけど」
 そりゃあ君の記憶ではそうだろうけどさ。僕は言いたいことを全部嚥下して「まあそうだな」とため息まじりに言った。彼女のふくらんだ頬を指で押してぷしゅうと息を吐きださせる。
「でも、気づいてんだろ、俺と夏香はもうつきあっていない」
「うん、分かってる。こないだ抱きついてきた村山さんっていう先輩が、私の新しい彼氏なんでしょ? 三年の空白、大きすぎるよ。何があったの」
「記憶喪失なんて一時的なものだろう。いつかはまた高校二年生の自分を思い出す。そのときにちゃんと村山に謝りさえすれば、大丈夫だろ」
「私が話してるのはそんなことじゃない」
 夏香は僕の鼻先に指をつきつけた。指先が鼻の頭を押す。夏香は身をのりだして、きつく眉をひそめていた。また頬の風船がふくらんでいる。子供か、この子は。
 怒られているのに、また彼女とこんなふうに接することができて、その嬉しさも半分混じっていた。矛盾する、僕の本音。
「ごめんね、私はいまだに中二の感覚なの。彰がいつの間にか、高校生になっちゃってさびしいよ。別れたなんてことになっちゃって、悲しいよ」
「悪い、野暮なこと言った」僕は彼女の手にそっと手をおいて言う。「今は一緒にいてやるよ。仕方ないから、って言ったら聴こえが悪いけど、タイムスリップしたも同然の中学二年生の夏香が今、安心していられるのは、家族と友達と、俺の近くだろ」
 我ながら漫画の受け売りのようなことばかり口にしていると思う。
 何がやりたいのかも分からないまま、僕はこのとき、自分でも間違っているんじゃないかとつねづね思っていたベクトルへ方向転換をしてしまっていたのかも知れない。夏香の幻影をうつしては割れてしまう鏡の破片を拾いあつめて、別れてからの二年間、次から次へと華がそえられてゆく思い出のためだけに生きてきた。
 下手な神の采配だと思う。
 笑って夏香の頭をそっと撫でた。やわらかい、高校デビューと同時に染めた髪。夏香は一瞬きょとんとしていたが、やがてその真っ白な肌をめいっぱいピンク色に染めて、「そうだね」と笑った。
「一緒にいたいよ、彰と」
 純粋で、純朴で、何ものにも染められていない笑顔だった。僕の記憶の甘い部分だけを切りとってきたようだった。
 車が見なれた住宅街に入る。僕は同じように笑った。今日まで考えるまい、考えたくない、こっち来んな、と何度も足蹴にして遠ざけてきた言葉が、ここにきてようやく僕の脳裏を最大瞬間風速的にかすめる。禁断の願い。神の采配。
 ――戻ってきた。
 彼女とのしあわせな時間が、戻ってきたんだ。

 夏香の家の前に立つことすら数年ぶりだった。
 別れてすぐのころは、この家の前を通るたびに夏香の部屋の窓を見あげたりしてすっぱい未練を噛みしめていたのだけれど、避けられるようになってからは逆に迂回するようになった。僕と彼女の両親はすっかり顔なじみで、中学時代、何度も何度も遊びにきては夏香と一緒に本を読んだり、ゲームをしたり、食事をごちそうになったりした。
 今、あらためてこの家の前に立ち、ざあっと一気に心の中へなだれこんでくる冷たい水に、車から降りるのをとまどってしまう。
「さあさあ、あがってちょうだい。退院祝いに、ケーキを買ってきてあるの。彰くんも食べていって」
 彼女の母親に連れられて、別れて以来二年ぶりに居間へ入り、二年ぶりに僕は夏香と並んでケーキと紅茶をいただいた。三年ごときで変わらないのは家も同じで、夏香は全く動揺せずに食器を出したり紅茶をいれたりした。四人であれこれと話し、医者の言いつけをまじえて、夏香の療養のためにしばらく学校を休ませることと、僕が週に何度か夏香のようすを見に来ることで今後の方針は決まった。病院にはこれからも通うことになっているし、まずは経過観察というところなのだろう。
 昔からおだやかで優しい両親で、ひとり娘の夏香にめいっぱい愛情をそそいできたのがよく分かる、仲よし親子だった。夏香が記憶喪失になったと分かったときも、一時は動揺を隠せなかったようだが今はもう落ちつき、冷静に状況を把握しようとしている。夏香はよく笑い、よく食べた。ただならぬ感情におびえているのは僕だけだ。
 流し台で夏香と並んで食器を洗っているとき、洗剤のグレープフルーツの香りに交じっている夏香の匂いにいちいち傷ついた。記憶喪失と聞き、ほんの一瞬「また彼女と恋人同士に戻れた」「あのしあわせな日々が戻ってきたんだ」と喜んだが、ケーキを食べている間にそんな自分の情けなさと女々しさに穴を掘って埋まりたい気分になった。調子に乗りやがって。
 僕は首を横にふり、過去が戻ってきたわけじゃない、夏香が事故で記憶を一時的に失っているだけなんだと何度も自分に言い聞かせた。しかし、一生記憶が戻らないこともあるという可能性が、僕のわき腹をつまようじか何かでしつこくつついている。頭がぐちゃぐちゃだった。
 夏香と一緒に彼女の部屋へあがった。こういう状況に接してすべからく遠慮するのが空気を読むことなのだろうが、夏香が僕の拒否を聞かない。彼女は今までと変わらない調子でドアをあけ、しかし数歩進んだところで歩みをとめた。
 部屋の隅に置かれた二段ベッド、その一段目のデスク。大きなクローゼットに、たくさんのメイク道具がならぶ化粧台。二つの本棚には本と、彼女の好きな坂本龍一とヴァンゲリスのCDがたくさんつまっている。大して変わらないはずなのに、僕が見ても分かるほど、変わっていた。
 夏香がひらいたクローゼットの中には、これまで彼女が好んでいたワンピースなどよりも多く、少し派手な洋服がならんでいた。バッグやアクセサリーもあちこちにある。本棚は文学のほかに少年漫画が増えているが、これは村山の影響だと分かった。
 素朴さが魅力だった夏香も高校デビューと同時にいまどきの女子高生らしくなった。見知らぬものが増えた自室を見て、夏香はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと振りかえり、困ったように笑った。
「なんか、趣味が変わったんだね、私」
 肩をすくめる彼女の上半身を、僕は思わず抱きしめた。一瞬こわばった彼女の身体も、頭を撫でると徐々に力が抜けてきた。立ったまま彼女を抱くと、僕はずいぶん身長が伸びたんだなと思う。
 夏香は僕のシャツの胸元をつかみ、顔を伏せて黙っていた。泣いているのかも知れないが、なら泣き顔を見られたくないだろうと思い、彼女のブラウンの髪に頬を寄せた。中学時代、彼女の髪は漆黒のストレートだった。小さい子をあやすように頭を撫でてやる。
 いつか、彼女の記憶は戻ってしまうのだろうか。すべてをとり戻して、元いた場所に帰ってしまうのだろうか。そしてまた僕を嫌い、このあたたかさを分けてくれなくなるのだろうか。けれど、きっとそれが、彼女にとっての平和で。髪の匂いをかぎながら、僕はぎゅっと唇をひきむすぶ。
「今、何年だっけ」
 僕から離れ、窓際に歩みよりながら夏香がつぶやく。僕はとっさに「二〇一〇年だよ」と答えた。
 窓には霜がついていて、カーテンが少し濡れていた。これから冬がやってくる。僕らはこんな季節につきあいはじめた。中学二年生。二〇〇七年。僕は授業が終わったあと、彼女を美術室に呼びだして、告白した。
 ――君の絵が描きたい。いや、それよりもまず、君と一緒にいたい。どうしても好きなんだ。君のことしか考えられない。
 最初の言葉は何なの、と吹きだした夏香はそのままオーケーしてくれた。人生最高の瞬間だった。死んでもよかった。
 霜をなぞって何か絵を描こうとする夏香。その指はゆっくりと窓をすべり、重力にしたがって窓枠に落ちた。彼女は「『バニラ・スカイ』のラストシーンみたいだね」と言った。
「夢を見ているみたい。そして目覚めたら、私は何年も先を歩いているの」
 高層ビルから地上へまっすぐ堕ちてゆく主人公を、僕は覚えている。


 三年前、中二の秋、彼女に告白した直後、僕は友達の男どもにもみくちゃにされからかわれた。それもそうだ。夏香は学年でも上位に入るほどの美人で、頭がよくて、女子からも人気で、男子にとっては高嶺の花も同然だったからだ。
「君の絵が描きたい。いや、それよりもまず、君と一緒にいたい。どうしても好きなんだ。君のことしか考えられない」
 そのときすでにクラスでよく話す仲になっていた夏香を呼びだして、事前に準備していた言葉よりもちょいと長く、余計なこともつけくわえて告白した。ひとえに緊張していたからで、これまで恋人がいたことのない童貞で女子が苦手な僕がちょいとキザな告白なんていう前代未聞の珍事態となってしまった。
 夏香から笑ってオーケーをもらったとき、気分が一気にエンパイア・ステート・ビルを階段でかけのぼってかけおりてきたばかりのように高揚しきり、もはや何を言っていたのか覚えていない。どう考えても平凡以下のルックスで、成績も大したことがない、根暗で地味な僕が夏香のような学園のマドンナとつきあえるわけがない、とすべてをはなから諦めていた。なので、夏香を姫よ女神よとあがめる周囲の男をかたっぱしからぶっとばし、自分がピラミッドの頂点に立てたのだという高揚感もプラスされ、夏香の彼氏になれた絶頂は東京スカイツリーのてっぺん以上の標高で愛を叫ぶ気分だった。
 しかし、ただそれを報告しただけなのに賢一から、
「夏香が鯛だとしたら、お前は海老どころかアオミドロだ。しょせん水槽の壁にへばりついて気持ち悪い糸状の藻みたいになって人間さまから嫌われる存在。心して不純異種交遊をおこなうように」
 とさんざんにもてあそばれてしまった。誰がアオミドロだ。僕と夏香じゃもはや種族さえ違うのか。美術部の先輩からは「俺狙ってたのに」「ヤリチン」「思春期の探究心だけで勃ってるくせに」「プレイボーイ」「俺が奪うまで中出し禁止」とボコボコに殴られた。もちろん笑われ半分だが。
 すでに並木道の絵を完成させていた僕は、このころに夏香の絵にとりかかった。美術室に招き、イーゼルにキャンバスをたてて絵の具をいじくる。正しい姿勢を指導する本の挿絵さながらにきちんと椅子に座り、「二割増しかわいく描いてよ、画家さん」と笑った夏香の表情は一生忘れない。
 半年かかって完成した絵を見て、夏香が「現物そのままに描いたな」と笑って僕の頭を叩いた。夕焼け色に染まる美術室で、ふたりで並んで絵をながめていた。僕が夏香の顔をのぞきこんだのと彼女がふりむいたのはほぼ同時で、数秒見つめあい、先に目を閉じた夏香と唇を重ねた。ただ触れるだけの優しい口づけ。手元からぴちゃんと水がはねて、波紋が広がるような。ふわりと身体が浮いて無重力をたゆたうような。あたたかくて、しあわせで。
 それが僕と夏香のファースト・キスで、あとにも先にもその一度きりだった。僕らは夢見心地のまま唇を離し、見つめあって、それから僕は彼女の頬に自分の頬をすりよせた。すべての国の言葉をもってしても形容しがたい、甘くて、けれどやさしい時間だった。
 中三の夏、僕らは別れた。僕がひいた引き金がきっかけで銃弾が彼女の胸元を一発でぶち抜き、ついでに流れ弾が彼女の友人にまで被害をおよぼした。僕らの関係を引き裂くにはじゅうぶんだった。
 あの絵は今、夏香の家にあるのだろうか。とっくに捨ててしまっているのだろうか。見ておけばよかった。
 僕は今、不思議でしょうがない。禁断の領域に踏みこんでいるような背徳感。恐怖。僕は何もかもが怖いから、目と耳と口をふさいで、真っ暗な部屋で神にこいねがう。


 担任の先生は医者から夏香の逆行性健忘のことをすでに知らされていて、しかしそれがクラスメイトたちに知られることはなかった。事情を知っている村山も口をつぐんでいるらしい。学校への復帰の予定がないので、今はそっとしておこうという算段だった。
 夏香にとってこの高校は入学していない上級生の学校で、ここで知りあった友人たちは見知らぬ先輩だ。女子たちがお見舞いに押しよせることは想像にかたくなく、過敏になっている当人を刺激しかねない。記憶喪失は立派な脳の損傷なのだ。刺激を与えて病状を悪化させるようなことはしてはならない。突然赤の他人が大量に家におしかけ「夏香、大丈夫?」「記憶喪失なんだってね」「私は夏香の友達だよ」と女子特有の親友ごっこを展開されてしまっては、学校への復帰なんて一生不可能になってしまう。
 僕はその日のすべての授業が終わったあと、賢一と瞳を呼びだした。一号館と学校のフェンスの間にある鯉の池まで連れてゆき、手入れもされていない雑草と木々の間にぽつんと放置されているベンチにふたりを座らせる。僕は立って鯉の池を見つめた。赤白黒のぼんやりとした影が、にごった水の中でからまりあっている。
 僕はここ数日、何度もはぐらかしていたふたりの質問に答えた。
「夏香は、逆行性健忘症だ」
 賢一は目を見ひらいて「そんな」と絶句した。「ぎゃっこうせい、何?」と瞳が首をかしげると、賢一が簡潔に「記憶喪失だ」とひろく世間に膾炙している単語で捕捉してくれた。物騒な四字熟語に瞳が息をのむ。
「幸いにも全健忘じゃないから、ここはどこ? 私は誰? ってな状態じゃない。部分的な損失で、彼女が覚えてるのは中学二年までだ」
「記憶喪失って、現実にあるんだ。私、ドラマでしか見たことないかも」
「よくあるだろ」賢一が腕を組みながら言う。「F1レーサーとかが事故って大怪我を負っても、完治したらまたレースに復帰するっての。あれさ、俺、事故前後の記憶がないからすぐに復帰できるんだと思ってた」
「そんなの、よくあったら困るでしょ。韓流ドラマじゃないんだから」
 しかし、夏香は階段から落ち、しばらく意識が戻らなかった。脳へのショックがひどければ半身付随など、どこかに障害が出てもおかしくない。反射的に頭を防御していただろうが、あの高さから落ちて無傷でいられるほうが不自然だ。
 自宅で療養するという話をすると、案の定瞳が立ちあがった。
「あたし、お見舞いに行く」
「言うと思った。よく考えろ。中学二年までの記憶しかないっていうことは、高校から夏香の友達になった瞳のことは覚えていない」
「それでも、あたしが顔を見せたら思い出すかも知れないじゃん。記憶喪失って、なくした部分にかかわるものを見たり聞いたりしたら思い出すって」
「でも夏香は退院したばかりなんだ。昨日だって、自分の部屋のレイアウトや服装の好みの変化で動揺してたし。そんな中、慌ててあれこれと失った記憶の断片をかきあつめようとしたら、一番苦しむのは本人だろ」
「彰の言うとおりだ」黙っていた賢一が瞳を止める。「今はゆっくり休ませておこうぜ。受験もからんでくる今の時期に、彼女に負担をかけたら余計ダメージになるだろ。少なくとも、三人以上でぞろぞろ見舞いなんていうのはやめておけ。俺と彰はともかく」
 賢一は中学から夏香と顔見知りだ。僕と別れたと聞いたあとは、彼も僕同様、どうすればいいのか分からず彼女と言葉を交わしていないが。しかし瞳は高校一年で夏香と知りあっている。今のふたりは赤の他人に近い。
 瞳はしばらく傷ついたような目をしていたが、やがて「分かった」と肩を落とした。友人に自分のことを覚えていてもらえないというのは、どんな気持ちなのだろう。そこで無理におしかけたりせずに、夏香のことを考えてぐっとこらえるあたり、あまりふたりでいるところを見たことはないが、いい友達なのだろうと分かる。
 僕はほっとしてベンチに座った。賢一が「どうするんだよ」と訊いた。
「学校への復帰はまだ先になりそう」僕は鯉の池に小石を投げこみながら言った。「とりあえず、時間があれば彼女の家に行く。長期戦になりそうだから、今の彼女に必要なのは忘れてしまった三年間の記憶を取り戻すきっかけを与えることじゃなくて、落ちつかせていくことだろうと思う。だから同中だった賢一には、あとで一緒に来てほしい」
「分かった」
「あ、賢一だけずっるいの」
 瞳がぶーすか文句をならべたが、僕らは無視して立ちあがった。「じゃあせめてこれだけでも」と言って瞳は女の子らしいかわいいメモ帳を取りだし、ピンクのペンで何事かをさらさらと書きつづった。それを複雑におりたたむと、表に「夏香へ」とハートマークつきで書く。それを手渡された僕は「りょーかい」と笑った。
 いつまでも名残り惜しそうに「夏香に、高校の友達が心配してるって言っといてね」とくりかえし、自転車に乗って去ってゆく瞳に手をふり、僕と賢一は夏香の家にむかった。同じ中学校だったので歩いて行ける距離だ。
 賢一は夏香の家の前で「久しぶりだな」とつぶやく。彼も夏香の両親に気にいられていて、よく三人で遊んでいた。インターフォンを押すと夏香の母親に中へ招きいれられた。ノックをしたのち夏香の部屋のドアをあける。
「夏香、具合はどう」
 CDプレイヤーから坂本龍一のピアノソロが流れる室内で、夏香はリラックマのカーペットの上にぺそっと座り、本を読んでいた。ふんわりした真っ白なセーターにスカート。その細い身体がぴょこんとはね、満面の笑みを浮かべて「彰!」と叫んだ。
「来てくれたんだ」
「そりゃ、来るって言ったし」
「よう、元気そうだな」賢一が僕の横から出てきて手をあげる。
 夏香は一瞬息をのんだ。彼の全身を下から上へと見て、おずおずと「賢一?」とたずねた。
「忘れたなんて言わせねえぞ。古田賢一」
「やっぱりそうだ! ちょっと髪切った? 背も伸びたよね。そりゃそうか、みんな今は高校生だもんね」
 やはり、中学時代からの友人のことは覚えているようだった。ハイタッチをする二人を見て、屈託なく話す夏香の笑顔がまぶしくて、僕は少し複雑な気分だった。夏香が記憶喪失の現状を受けいれはじめていることは喜ばしいのかも知れないが、自分の周りの人間がみんな大人になっているという現実をここであらためて知り、どんな気分だろうか。
 夏香の母親が持ってきたミルクティーとクッキーを肴に、雑談に華を咲かせる。
「それじゃあ、高校生になった覚えはないのか」
「中三に進級した記憶もないよ。私の中では、私はまだ中二。私が知ってる賢一も中学生のはずなんだけど」
「悪いな、先に大人になっちった」
「てか、夏香だって身体年齢は高二のはずだぞ。胸、でかくなってるし」
「どこ見てんの、馬鹿」
 僕をどつく夏香を見て、賢一が普段、あまり見せない笑顔をうっすらと浮かべた。静かで冗談を言うことも少なく、けれどそれが逆に女子にうけているらしい賢一は、珍しく困惑したような表情で「あのさ」と言った。
「俺はこうして遊びに来てもいいのか? 彰は分かるけど。俺、夏香の彼氏でもなんでもないのに」
 その言葉に、夏香は一瞬たりとも迷わずに答えた。ひまわりのような笑顔をふりまき、自信満々に。
「もちろん、友達だもん。中学の友達だったら、多分みんな覚えてると思う」
 変わらず笑う夏香。僕と賢一も、つい笑ってしまう。中学時代、三人で遊んでいたときの記憶が鮮明に回顧される。僕たちまで記憶を失ってしまったようだった。三人分の笑い声がこだまする部屋に満たされる、空気。
 ここにいる夏香は確かに夏香だった。中学生の、僕が愛した夏香だった。そのことを喜ぶべきなのか嘆くべきなのか、いまだによく分かっていない。しかし、ミルクティーを飲みながら思ったことは、少なくとも彼女と僕が自由に会話をできる関係をとり戻していて、それ自体は悲観すべきことじゃないという前むきな意見。
 確かに彼女の精神世界では、僕は彼女の彼氏なのだ。ふたたび巻き戻された時間。混乱することが多いが、私情もふくめ、この時間は彼女を愛してしかるべきだとすぐに察した。
 今、一時的にでも彼氏として彼女と一緒にいたほうがいいと思った。そばにいればきっと安心するんじゃないかと安易に考えていた。些末なようで重要なことだが、記憶喪失になっている今の彼女には、僕が必要不可欠なんじゃないか。――そんな、大義名分。
「元気そうだったから、安心した」
 そう言う賢一に、夏香は極上の笑みで答えた。「今はね。これからどうなるか分からないけれど」
「なんとかなるだろ。彰もいるし、俺もいる」
「うん、ありがとう。なんか申しわけないね、私がドジったばっかりに」
 ドジったって? と僕がたずねると、夏香は「階段から落ちるなんて、まぬけすぎるじゃん」と答えた。
 僕は走馬灯のように、夏香が僕をにらんでいた目と恐怖の形相とを思いだし、あのとき届かなかった自分の右手をじっと見つめた。ありきたりな悩みだと分かっているが、僕がもっとしっかり手をのばしていれば、彼女は階段から落下して、記憶をなくしたりすることもなかったんじゃないか、と思う。それが免罪符なんだとしても、止められない。
 そのとき、ノックののち夏香の母親が入ってきた。そして「賢一くん、ちょっとお願いしたいことがあるんだけど」と言って賢一を部屋の外へ連れだした。何の用事なのかまったく予想もできない僕らは首をかしげ、顔を見あわせて「なんだろう」と言った。
 夏香は立ちあがってCDをとめ、中身を入れかえた。キャメロン・クロウ監督作品の「バニラ・スカイ」のサントラ。ずいぶん前の映画だが、地上波で一緒に見たことがある。たった一回しか見ていなくて、中学生だった僕にはほとんど意味が分からなかったけれど。
 彼女はミルクティーをひとくち、上品な手つきで飲んで、そっと目を伏せた。
「私が失ったものは記憶」
 そしてつづける。「『バニラ・スカイ』の主人公は、自分の容姿と立場にプライオリティをおいていたから、それが事故でひどい顔になってしまってからは、周りの人がどんどん離れていった。あれはね、顔が醜くなったから嫌われたんじゃないの。ディヴィッドが顔を気にして卑屈で頑固になったから、人の心を失っていったのよ」
 ぼんやりと思いだしたストーリー。これまで、トム・クルーズ演じるディヴィッドがラストシーンでビルから飛び降りるところしか覚えていなかった。イケメンで金持ちのプレイ・ボーイのデイヴィッドが、自分をひきたてるアクセサリーとしか思っていなかった女性のジュリーを捨て、クラブで出会ったソフィアになびき、恋に落ちる。ジュリーは怒り狂い、デイヴィッドとともに車に乗って橋から落ちて、心中しようとする。ジュリーは死んだが、デイヴィッドは顔にひどい怪我を負いハンサムな容姿を失ってしまう。それをきっかけにソフィアに避けられ、友人にも愛想をつかれ、転落してゆく彼の人生。彼の失ったもの、むきあおうとしなかった自分の生きかた。夢と現実の混合。
 夏香はポール・マッカートニーのテーマ曲が流れる中、僕のとなりに座って肩に頭をあずけた。少し重くて、けれどあたたかい。彼女の髪からはシャンプーの香りがした。
「記憶をなくしたことにおびえて、なくさなくてもいい別のものをなくしそうで怖い」夏香がかすかに身をよじった。「このまま私がどうなっていくのか、分からないことが多すぎて、怖い」
 大切なものを失って、主人公が見つけたもの。優しい幻想で耳をふさいでいて、いったい人はどうやって愛を知り、強く生きていけるというのだろう。自分の弱さ。情けなさ。女々しさ。後悔。
 彼女の肩を抱こうとすると、部屋のドアが少しだけひらいた。慌てて反発する磁石のように夏香から離れてドアを見ると、賢一が大きな花束を数束と、小さめの紙袋をかかえて肘でドアノブを押していた。
「夏香が入院してるあいだ、これが届けられてたらしい」賢一は僕らふたりのあいだにその花束と紙袋をどさりと置いた。「ただ、おばさんが夏香に渡していいものか迷ってたらしくて、俺に見せてくれたんだけど。学校に復帰するのはずっとあとでもいいけど、とりあえずこれ、見る? 俺は特に問題あるように見えなかったし」
 賢一が夏香に差しだした紙袋の中には、手紙が何通か入っていた。ざっと二十通近くある。どれも女の子らしい柄で、表に「夏香へ」と書いてある。夏香はしばらくとまどっているように黙って見ていたが、やがて紙袋の中身をカーペットのうえにぶちまけ、ひとつひとつを見ていった。差出人のほとんどが僕らのクラスメイトの女子たちで、夏香の記憶喪失の事情をまだ知らされていない子たちだ。彼女は手紙を開封せず、差出人の名前だけを見て右、左とよりわけてゆく。
 右側には、僕も知っている中学時代からの友人たちが集まった。左側には、高校に入ってから知りあった新しい友人たち。夏香はカーペットに手をついて呆然とその山を見つめた。デスクからカッターナイフを持ってきた夏香は、震える手で知らない差出人の手紙を開封し、便箋を取りだす。
 となりで見ていた僕たちの目に入ったのは、あまりにも明るい口調で、かわいらしいイラストの便せんに、ピンク色のペンで「早く元気になってまた学校で遊ぼう」などと書かれたありきたりな励ましの言葉だった。
 最初の数行に目をとおして動いていた夏香の黒くて大きな目から、涙がひと粒、ぽろりとこぼれた。手紙をとり落として顔を手のひらで覆う。
「夏香」僕と賢一は慌てて彼女の目の前から手紙をよけ、肩を抱いた。子供のようにしゃくりあげる夏香の涙をぬぐい、僕は「無理すんな、大丈夫、俺がいるから」と耳元でささやいた。賢一は夏香を横からきつく抱きしめて頭を撫で、「ごめん、悪かった、許してくれ、夏香」と何度も謝った。
 僕は瞳の手紙を渡せなかった。
 冷たい冬が来るには、まだ少し早い。


 キンチョールのように虫をよせつけないようにする製品がたくさんあるかたわら、虫をよせつけてから退治するものもある。僕をたとえるとしたら後者かも知れない。何せ二度目なのだ、僕が村山信夫にばったり偶然でくわすのは。僕が有害だと分かってて意図的に近づいてくるのだろうか、この人は。別に退治したいわけじゃないけど。
 教科書類をかかえ移動教室で音楽室へ向かう途中、二号館と三号館をつなぐ四階の連絡通路のまんなかで、村山がフェンスにもたれかかって煙草を吸ってるのを見た。確かにここ、ほとんど人は通らないけれど。あまりに堂々としているので、僕は声をかけた。
 今さっき僕の存在に気づいたようにけだるげに頭をあげた村山は、僕の姿を見るなり子供のように笑った。
「大丈夫だって。見つかっても即、隠すから」
「吸うなとは言わないけど、絶対に見つからないところで吸えよな」
 村山はフェンスに煙草を押しつけて火を消し、携帯灰皿に吸いがらを入れて証拠隠滅をはかった。
 村山は僕にむきなおり、「夏香の調子は」ときりだした。
「変わらずだよ。記憶も戻ってない。中学二年生になったままだよ」
「俺のこと、覚えてなかったもんなあ。さすがに突き飛ばされたら、俺もショックだし」
 村山は悔しそうに舌打ちをしつつ、笑った。イケメンだからか絵になっている。彼はフェンスにもたれて「お前のことは覚えてるのか」と言った。
「覚えてるよ。というか、同中の連中はたぶんみんなそう。そいつらの手紙や色紙は、普通に読んでたから」
「普通にって」
「いや、なんでもない」
 それよりお前はこれからどうする。その質問に村山はため息で答えた。だよなあ、聞いた僕が不粋でした。
「問題が多すぎるんだ」村山は眉をひそめて腕を組む。
 僕は言った。「悪いな、現彼氏のお前のことほっといて、夏香としょっちゅう会ったりして。卑怯だと自分でも思うよ」
「しかたないんじゃないか」立浪は僕をまっすぐに見て言う。「今の夏香にしてみれば、立浪が自分の彼氏ってことになってるんだろう? で、俺は見知らぬ高校生。いきなり、俺が三年後のあなたの彼氏でーすって言っても立浪がいる限り、本人も納得いかないだろうさ。フリーならまだしも」
「村山さ、うぬぼれないわけ。自分のルックスだったら今の夏香をあらためてイチから落とすこともできるだろうとか、そんな考えは皆無かよ」
「自信がないからうぬぼれようにも無理だし。俺、顔がいいって人からさんざん言われても、自分の欠点を自覚しまくってるから。第一、夏香は顔で男を選ぶような女の子じゃないだろ」
 イケメンがよく言うよ、とは思ったが、後半は正論である気がした。でなかったら普通以下のルックスの僕とつきあったりしない。
「なんか、俺、村山に申しわけない感が増した気がする」
「気にすんなって。俺がおしかけていったって、夏香が苦しむだけだろうし」フェンスから背中を浮かせて村山が苦笑する。「だったら今俺にできることは、そっとしておくことだけじゃないか。お前とか、夏香が知っている友達とか家族とか、そういう人たちのそばにいて安心させてやらなきゃだろ。だから、申しわけないとか思うな。俺がただ会いたいっていう気持ちだけで、夏香への負担を増やすわけにはいかない。それに」
 村山は、決して僕への悪意でもなんでもない、優しい、けれど少し悲しそうな目で僕を見て、言った。――もし夏香が本当に心から俺を愛してくれているなら、記憶が戻ったとき、俺の元に帰ってくるだろうから。
 背をむけて三号館へと歩いてゆく村山の背中を、僕はじっと見ていた。いろんな文句を喉元で飲みこんでしまう。
 喧嘩をふっかけられているわけじゃない、と思う。村山は女のことでそこまで子供っぽく怒ったりしないだろう。ただ夏香に真剣なだけだ。そして僕も夏香に真剣なだけだ。だから、反語的な意味で都合よく、僕は彼の言葉をとらえてみた。
 もし夏香が本当に僕を愛してくれていたなら、記憶が戻ったとき、どうするのか。
 そんな疑問を払拭するために、そもそも記憶が戻るのか、と関係ないことを考えた。汚いものを風呂敷で隠してしまっているようで、余計に気分が悪くなった。自己嫌悪に潰れそうになる。今すぐフェンスに足をかけて「わあああっ」と叫びたい気分だった。
「あーきら、何してんのっ青天のヘキレキ青春系男子」
 背中から瞳にどつかれて「ぐっは」と変な声が出てしまった。村山のうしろ姿を見て彼女が露骨に嫌そうな顔をする。
「なに、元カノの新カレに喧嘩売ってんの」
「売ってねえよ。むしろテコ入れされた。プライドまるつぶれだ」
瞳は教科書を胸にかかえて、ふうんとつぶやく。嫌そうな顔は止まらない。
「あんた、よく村山に話しかけれるよねえ」
「別にいいだろ、夏香じゃあるまいし、俺は村山とは敵対関係にない」
「その敵対関係にいた夏香を避けてたくせに、手のひらかえして、都合のいいやつ」
 瞳は僕の横をとおって三号館にむかってかけだした。それ以上何も言わず、いちどもふりかえらず。そのうしろ姿をじっと見やる。毛先だけ軽く巻いた髪がふわふわと左右に揺れていた。
 始終夏香を心配し、僕にこまめにようすをたずねてくる彼女は、どちらかというと夏香サイドだった。僕とも友達だけれど、最近は批判的で小言が増えた気がする。賢一は完全に中立なので、むしろそっちのほうがありがたいと思うのだが。そう思ってしまった自分が嫌になった。
 そりゃ、嫌がられるだろうなあ。
 僕は音楽室で瞳に謝ったが、「いいよ、夏香のことを心配してるのは分かるから」と無表情で言われた。彼女の口の中で飴か何かがカロンと音をたてる。


 放課後、二日ぶりに夏香の家に行くと、リヴィングに両親と彼女の三人が集まっていた。
「あ、彰、ちょうどいいところに」
 夏香は椅子から立ちあがって僕の手をひき、自分の部屋につれこんだ。
 そして叫ぶ。「私ね、学校行くことにしたんだ」
 僕は思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。そのことについて両親と話をしていたのか、もしかして。彼女の母親が持ってきたお茶にも手をつけず、まくしたてる。
「何言ってるんだ、まだ記憶も戻ってないのに。退院して二週間ぐらいしかたってないじゃないか。大丈夫なのか」
「でも、二週間たって記憶が戻らないっておかしいよ。私、ずっとこのままかも知れないって考えたら怖くて。でも、学校に行って先生や友達に会えば、少しは何か思い出すかも知れないと思って」
「無理に止めないけど、無茶はするな。このあいだ、クラスの女子からの手紙を見て怖がってただろう」
「無茶じゃないよ、お医者さんだって少しずつなら無理しないていどにって言ってたし」
 僕は額に手をあてて首をふった。昔から頑固な子だった。一度決めたら数秒後には実行にうつさないと気がすまない、猪突猛進タイプ。ジュースが欲しいと思った瞬間に目がコンビニを探している。けれど、そうした性格が災いして後先考えずつっぱしり、ブレーキがきかずに壁に真正面から突撃することもよくある。助走が長ければジャンプも可能だろうがジャンプ台を用意する誰かが必要になる。それが僕だった。
 僕は外国人のように手でジェスチャーしながら言った。
「知らない先輩の女子が大量にいるところにつっこんでいくんだぞ。耐えられるのか」
「中学からの友達だっているでしょ。その子たちと仲良くしてるだけっていうのもアリだから大丈夫」
「そんなつけ焼き刃でいいのかよ。隣のクラスには、今の彼氏の村山もいるんだ」
「彰が同じクラスだから大丈夫だもん」
 あのなあ、と言葉がつづかずに腰に手をやってうなだれる。記憶喪失という、当人にとっては混乱が混乱を呼ぶ状況の中、夏香が行動的になるのはむしろいいことなのかも知れない。僕も糾弾したくない。記憶が戻るまで家に閉じこめておくよりマシだろう。
 それでも、手紙を読んで泣き崩れた夏香を見て、震える肩を抱いた手は、今でもその感触を覚えている。
 夏香が僕の胸元をつかんで訴えた。
「私、学校に行きたいの。今の私がどんな生活をしているのか、知りたいの。だから止めないで。やりたいことをやらせて」
 そして最後につぶやいた。――探しに行きたいの。
 うるんだ瞳で求められ、僕は黙りこんでしまった。明るくて元気で、けれど一度走りだした彼女を止めるには、鋼鉄のタイヤをパンクさせるしかない。
 僕はかけるべき言葉を選んで、選んで、選びかねて、何も言えなかった。ずっとしがみついていた夏香が、だらりと両手をおろす。伏せられた目のまつげが震えている。僕は彼女の肩をつかんだまま見おろすばかりだった。
 ため息をつき、彼女の頭をぽんぽんと叩いて「分かった分かった」と言った。このさい、過保護はやめておこうと思った。
「まったく、どんだけお転婆なんだよ」
「何か問題でも?」夏香が拳で僕の胸を軽く叩く。「世界の美少女、お転婆人魚の夏香ちゃん」
「うわなつかしい。最近ゲームしかやってねえな」
「そうじゃなくて、いいじゃん。元々私自身は高校生なんだから、きっとなんとかなるよ。ならなくても、なんとかする」
「あいかわらず」
 僕はため息をついた。「変わらないのな」
 彼女は笑って胸を張った。
 からになったコップを持って下の階に行くと、夏香の母に廊下で呼びとめられた。彼女は少しやせてしまっているようだった。
「彰くんが心配してくれているのは嬉しいけれど、でも、大丈夫なの」
「何がですか」僕は首をかしげた。「確かに俺は夏香の元彼です。でも、夏香がこんな状況になって苦しいのに、俺がいてやらなくてどうするんですか」
「けれど、それが彰くんの負担になるんじゃないかと心配なの」
「別に負担じゃ」
 言葉を切った。僕はせいいっぱい笑って「平気ですよ」と言った。
「夏香と一緒にいた期間のことは、今でも大切な思い出です。裏をかえせば、ただの思い出です。そんなことを抜きにして、俺は夏香を支えてあげたいだけですよ」
「でもね、彰くん、あの子も学校に行きたいなんて言いだすし」
「うーん、それなんですけど、もう俺も口出しできる立場じゃないし、本人がやりたいって言ってるんだから」
 そうじゃなくて、と母親が言葉をさえぎる。――彰くんがいるから、学校に行くとなってもこっちは安心できるんだけど、気をつかう場面がたくさんあると思うの。そんなとき、夏香もろとも彰くんまで共倒れになったら、
 そう言っている彼女こそ苦しげだった。心配されているのかなんなのか。顔を伏せる彼女に、僕は何も言えず、けれどしばらくしてしぼりだすように「多分」と言った。
「大丈夫です。何かあっても、わりと何でもひとりで解決しちゃう強い子じゃないですか」
「でも、彰くんの協力はどうしても必要だろうし」
「いいですよ、そんなの」僕は笑った。「今のままじゃ、何も変わらないです。状況が状況なのに一歩前に踏み出そうとしてることって、いいことなんだろうし、それなら多少の負担ぐらい苦になりませんよ。共倒れでも、片方だけむなしく倒れるよりマシです。子供の意見で説得力ないでしょうけど」
 それは確かに本音だった。だけど、僕は嘘をついていた。
 夏香の母親は少し心配そうな顔をしたが、やがて「夏香は本当にいい子を選んだのね」と寂しそうに笑った。僕は何も言えなかった。洗っておくと言われてコップを渡し、軽く会釈した。ふたたび夏香の部屋のドアをあける。床にあぐらをかいてふてくされている彼女を見て、つい笑ってしまった。殺気だって「戻ってくるの遅い」と言う夏香の頭を、子供をあやすように撫でた。毛を逆立てて警戒している子猫ほど、抱きしめて甘やかしてやりたくなる。
 鞄から出した瞳の手紙を夏香に渡した。彼女は手紙を読むと、みるみるうちに笑顔になった。メモを両手で持って、口元に当てて嬉しそうに笑う。その手紙の中身を、僕は知らない。

 夏香が、学校に復帰しようとしている。
 僕は彼女の家からの帰り道、中学の近くにある空き地に行った。何もない、ドラえもんに出てくるような空き地。それでも少し広くて、たまに小学生が野球をしたり犬の散歩仲間が立ち話をしていたりする。
 中二の春、終業式の日にここに来た。近くのコンビニで肉まんを買い、地面に座り、食べた。何も言わず、たまに言葉をかわすていどで、ただ黙って、風に揺れる草木をながめながら。
 肉まんをひとつたいらげたあと、夏香が唐突に言ったのを覚えている。
「映画を作りたいな」
 彼女は筋金入りの映画ファンだが、彼女の作る物語は発想の斬新さや表現力にすぐれていて、僕は小説家にでもなればいいのにと常々思っていた。突然そんなことを言われて、だけどいささか納得してしまった。
 僕はたずねた。「脚本家かい?」
「うーん、むしろ演出家になりたい」
「むいてるんじゃないか。専門学校を出て、長い下積みをくりかえせば、きっと夏香も映画の演出をまかされるようになるよ」
 そんな会話をしていた場所に、今、あらためて立ってみると、あらゆる幻影が僕の脳裏をかけめぐって止まらない。当時よりも少し草が伸び放題になってしまっている地面。ときどき目につくタンポポや名前の知らない花。もう寒いというのに、彼らは必死で花びらを天にむけてひらいている。肉まんを買ったコンビニはつぶれて、ケータイショップに変わっていた。
 僕はiPodをつけてイヤフォンを耳に入れた。ダイヤルをくるくるまわして、「月のワルツ」を再生する。冷たい風がふいて、野ざらしになっている草を震えあがらせる。
 誰も、何も言わなかった。


 賢一と瞳にメールを一斉送信する。
『夏香が学校に復帰することになった。フォローよろしく』
 返事は僕が風呂に入っている間に来た。
『了解っす。暫定じゃないんだよな。当日は迎えに行くのか?』賢一から。
 僕は右手で髪を拭きながら左手で返事を打つ。『俺は行くけど、賢一は通学路が同じだからどっかで待ちあわせしよう』
 賢一への返事を打っているそばからケータイが震える。瞳からのメールは長く、絵文字だらけで『マジでー!? どうしよう何か用意したほうがいいのかな? お祝い会的なものやるべき? あーでもそうゆうのってやらないほうがいい系かな』しかじか以下略。
 なんだかんだ言いつつ、と僕は苦笑した。
 ドラゴンボールとスラムダンクのコミックが並ぶ本棚をぼんやりとながめながら、ケータイを何度も開閉させていた。パチン、パコン、とくりかえされる音が響く。あきらめたらそこで試合終了だよ。僕は、もしかしたら友達のままでいるという選択肢もあったかも知れないと、見切り発車で告白した中二の秋を回顧した。賢一と瞳と夏香と僕とでお弁当を食べる光景は、決して手軽な幻想ではなかった。耳ざわりが悪くてもありうることだった。そっちのほうが正しかったのかどうかは、今の僕には否定するしかないのだけれど。「何が正しくて何が間違いなのか、誰にも分からない、あるとしても自分で決められるもの」そんな綺麗事は自分のことしかかんがえられない、深い思考を放棄した人の言いわけだと思っていた。
 少なくとも、今の僕とは違う僕になっていた。


 夏香が登校する当日、僕はいつもより一時間も早く起きた。賢一に借りた雑誌を見ながら髪をワックスで整え、髭を丁寧に剃り、顔を洗ったあとに化粧水をつけた。誰に見られるわけでもないのに鞄の中のゴミを掃除した。ネクタイをしっかり首元まであげて正確に結んだ。全身鏡で隙なく整備した自分の身なりを見て、「よし」とつぶやき、右手をグー、左手をパーにして打ち合わせた。パンと小気味よい音が響く。普段地味でめだたない僕が、ちょっとだけかっこよくなれた気がした。
 かなり早めに夏香の家に行くと、リヴィングに招かれ、朝食までごちそうになってしまう。起きたばかりの夏香が寝ぼけまなこで一階におりてきたとき、「よっ」と手をあげる余裕があった。
 自分がパジャマ姿であることに気づいた夏香が悲鳴をあげる。
「朝早すぎ! 私、まだ髪も起きぬけのままなんだけど」
「気にすんなって。顔洗って、寝グセなおして、着替えて、飯を食え」
「お母さんみたい。彰、私と別れてどうなっちゃったの」
 べー、と舌を出してふざける夏香の背中を見送って、僕はピーナッツバターを塗ったトーストにあらためてかぶりついた。つけっぱなしのテレビでは朝の情報番組がながれていて、やれどこそこの店のスイーツがおいしいだのなんだの、美人アナウンサーがひたすら食べ歩いている。ずたばたと階段をかけあがる夏香を見て「何やってんだ、あの子は、男の子がいるっていうのにはしたない」と夏香の父親があきれる。母親が「まあまあ、彰くんは長いつきあいだから」と笑う。
 僕が朝食を食べきって、食器を洗い終わっても夏香が降りてこないので、部屋にあがってみた。ドアをあけると、夏香は全身鏡の前で高校の制服を着て立っていた。髪をストレートに整え、両側に細い三つ編みをひとつずつ作ってあった。ネクタイをくるくるとてぎわよく結ぶので、僕は少し驚いた。
「不思議なんだよ」夏香がふりかえりながら言う。「中学って、セーラー服でしょ。ネクタイなんて結んだことないはずなのに、何も考えなくても勝手に結べた。すごいね、人間って、記憶をなくしても色んなことを身体が覚えてるんだね」
 ネクタイの結び目を襟元まであげると、ちょっといいところのお嬢さんにも見えなくもない。やることはお転婆だが。
 夏香は嬉しそうにくるりとまわって、「北高の制服だね」と言った。ふくらむスカートの裾と、そこから伸びる柔らかそうな太股。僕はもっと困惑するんじゃないかと思っていたので、その元気そうな姿に安心した。
「なあ、夏香」僕は壁にもたれて腕をくんだ。「本当に行くのか。今なら、学校に電話してやめることも」
「やめるわけないじゃん、何言ってんの。楽しみだよ、新しい学校に行くのが」
 新しい、と付随するあたりにむしろ夏香の動揺が見えて、僕は眉をひそめた。鏡の前でモデルのようにポーズをとってふざける夏香はすっかり新入生気分だが、高校の入学式は一年以上も前に終わってしまった。
 僕は彼女に学校指定の鞄を手わたしながら、「同じクラスだし」と言った。
「俺が近くにいるからあるていどは大丈夫だと思う。友達も、最初は困惑したり奇異の目を向けてくるかも知れないけど、自己紹介からしてもらったらいい。勉強も、多分、ぜんぜんついていけないだろうけど、そこは先生に話がいってるから、補習がある」
「補習ってやだなあ。遊ぶ時間、なくなるじゃん」
「でも、近いうちに記憶が戻るならまだしも、ずっとこのままの可能性だって十分あるんだ。少しずつ追いついていく必要がある」
 夏香は鞄の中身を確認し、しぶしぶ「ひとの二倍は勉強しなきゃなあ」と言った。もしかしたら、僕が危惧する必要なんてまったくないほど、彼女は順応できるのかも知れない。そんなバイタリティー。
 高校の制服を着ている夏香はいつも化粧をしているので、すっぴんのまま、スカートが長いままの姿は少し新鮮だった。僕は彼女の頭を撫でて、「朝ごはんを」と言った。
 彼女が朝食を食べている間、僕は携帯で賢一にメールをした。登校途中にある公園で待ち合わせ、三人で学校へ行こうと。このさい、夏香にとって味方は多いほうがいい。
 ローファーをはいて中庭をつっきってゆく夏香のうしろ姿は、おびえ半分、楽しさ半分で小さく見えた。猫のしっぽのように揺れる二本の三つ編み。マフラーの裾。「ごめんね彰くん、食器まで洗ってもらっちゃって」「いえ、ごちそうさまでした」僕は夏香の両親に挨拶をして彼女のあとを追いかけた。
「お前、高校への道、分かるのかよ」
「北高だったら駅に行く途中で前を通るよ。全部の記憶がなくなったわけじゃないんだから、大丈夫だって」
 その天真爛漫さが危なっかしいと何度言ってもきかない。ちょこまかと走り回り、家電や家具のうしろに隠れて遊んで飼い主を撹乱する小動物。僕は彼女の手をつかみ、「あんまりふらふらすんな」と叱った。夏香は僕の手を死ぬほど強くにぎりかえして「おせっかい」と言った。指の関節が痛い。痛い。
 十分ほど歩いて、高校と夏香の家の中間地点にある小さな公園にたどりついた。ブランコや砂場といった定番の遊具が少しあるだけで、基本的に殺風景、基本的に誰もいない。そこにブレザーを着た男子学生の姿を見とめたとき、夏香の表情がぱっとはなやいだ。
「賢一、久しぶり!」
「おう、夏香、ぜんぜん見舞いに行けなくて悪いな」賢一は座っていた鉄棒から飛びおりて、夏香の肩をばしばしと叩く。
 ――悪くなんかないよ、賢一がメールしてくれるの嬉しいし。しかしどうしたんだ、高校行くなんて決めて。やっぱり家で閉じこもってるのって、悲劇のヒロインごっこしてるみたいでカッコ悪いでしょ? そうだろうけどさ、まあ、夏香が決めたことだし。
 僕らは公園を離れ、雑談をかわしながら登校ルートをたどっていった。途中、同じ制服を着た生徒が同じ方角へ向かっているのを見て、夏香が「飛び級した気分」とふざけた。彼女の額にわずかだが汗が浮いている。学校が見えてくると、目に見えて夏香がおびえたようすを見せた。未踏の世界を前にして歩みをゆるめる。僕と賢一はそろって「ひきかえすか」とたずねたが、彼女は必死で首をふる。長いこと校門の前で立ち止まり、身をちぢめてうつむいている夏香の肩を、僕は片腕でしっかり抱いて「大丈夫」と言い聞かせつづけた。チャイムが鳴った直後、門を走ってくぐりぬける。
 職員室に寄って、担任の先生と会う。医者から事情を聞いているらしい先生は、夏香を見て「お見舞いのときぶりね」と言い、つづいて「あらためて、担任の松永です。よろしくね」と言って握手した。夏香は先生のそんな笑顔にようやく安心したらしく、ほっとしたようすで話をしていた。僕らも肩の力を抜く。
「復帰するって決まったから、クラスのみんなには、片岡さんの病気のことはちゃんと話してあるよ。一応いじめとか警戒はするけど、誰も偏見持ってないみたいだし」
「なんとかなじめるように努力しますけど、勉強が追いつくかどうか」
「そのへんは補習を用意してるから、少しずつ追いかけていけば大丈夫。片岡さん、元から頭いい子だし、大丈夫じゃないかな。早く記憶が戻ることを祈りましょう。それまで、病院にはちゃんと行くこと。あと、学校生活がつらくなったら、いつでも言ってね。無理したら何もならないから」
 先生は笑って「先に教室に行ってて」と言った。にわかに夏香の身体がこわばる。僕と賢一は彼女の肩を抱いて職員室から出た。賢一が「いい先生だろ」と夏香に言うと、かろうじてうなずくがその華奢な身体はそれでも震えている。
 ぎゃあぎゃあうるさい三階の教室の前で、彼女は僕の制服の裾をつかみ「彰がドアあけて」と言った。すがりつく子猫のような瞳だった。
「ここまで来たらブレイクスルーだろ。虎の檻じゃないんだから」
「似たようなもんだよ、みんなが白い目で見てきたらどうするの」
「俺たちがちゃんと説明するって。みんないいやつばかりだよ」
 賢一が夏香の背中を叩き、ドアの取っ手に手をかけさせる。いきおいよくひらいたドアに教室にいた四十人弱の目が一斉にこちらにそそがれる。僕ら三人以外の全員が一瞬にして静まりかえった。先に入って「ほら」とうながす僕と賢一、そしてドアの陰からちょこんと顔をだす夏香。
「あ、夏香」真ん中の席にいた瞳が黄色い声をあげた。
 それを合図にしたように夏香はゆっくりと教室に入り、身体の前で鞄を両手でつかみ、目をつぶって叫んだ。
「おはよう」
 必死さが突き刺さるように伝わってくる、その声。
 騒いだのは主に女子だった。いっせいにつめかけてくる先輩女子の集団に、夏香は予想どおり目を見ひらいて逃げ腰になった。僕と賢一はそんな彼女の前に立って「落ちつけ」と女子たちをさとす。
「聞いてるだろうけど、彼女は記憶喪失なんだ。彼女はみんなのことを覚えてないんだ」
「分かってるよ。立浪よりうちらのほうが夏香のこと、知ってるもん」
「あのなあ、ドラマで見るような生やさしいもんじゃねえんだぞ」
 あきれる僕の横を素通りして、女子たちは夏香に次々つめよった。
「夏香、もうけがは大丈夫?」「記憶喪失とかって、かなり頭打ってんじゃん」「ねえねえ、あたしのことは覚えてる? 思い出せない?」「りなだよ、夏香、あたしだよ」
 放りこまれたエサに食らいつく動物園の虎。これだから女子は。騒ぎの中心にいる夏香は、鞄を胸の前で抱きかかえたまま、集まった顔を見て困惑している。小柄なせいで本当に襲われているようだ。決して全員が分からないというわけではないはずなのだが、それ以上に彼女は殺気立ってすらいる好奇の目にさらされて混乱している。瞳は集団の中に入りこそしなかったが、外側で夏香に声をかけたそうにうろうろしていた。
 半泣き状態になっている夏香を見て、僕が女子の大群をちらそうと思ったとき、夏香が「あの」と声をはりあげた。一斉にしずまりかえる教室。
 彼女はゆっくりと立ちあがり、やおら身体を折り曲げて大きく頭をさげた。
「ごめんなさい、私、誰も覚えてないんです。中学が一緒の子は分かるかも知れないけど、私が覚えてるのは中二まで。ここにいるほとんどのみなさんのこと、顔も名前も分からないんです。知らない先輩たちがいっぱいいるように見えるんです」
 静かな教室に響く夏香の声。涙を流さないことが不思議だった。何か言おうとしたが、賢一に肩をつかんで止められた。どこからか「じゃあ私も忘れられてんのかな」「失礼なやつ」というささやき声が聞こえたが、夏香は唇を噛んでつづけた。
「でも、それでも私はこの学校に戻ってきました。みんなと早くなじみたい。早く記憶をもとに戻したい。私は大丈夫です。まだ少し怖いけれど、少しずつ、クラスの一員になりたいと思ってる。だから」
 夏香の目には、強い意志の色が戻ってきていた。「初めまして、片岡夏香です」
 めいっぱいひらいたひまわりのように笑う夏香。
 僕は彼女のとなりで、呆然とその演説を聞いていた。発症以来、大勢の人の前に出たことがない夏香が、いきなりこうして強く自分の意見を主張するとは思わなかった。
 長いこと静まりかえっていた教室だったが、少しずつ女子たちが夏香の周りに集まりなおし、「ごめんね、驚かせちゃったね」「休み時間にみんなで自己紹介しあおうよ」「大変だったでしょ」「分からないことがあったら訊いてね」と笑いあっている。夏香はほっとしたようすで鞄を床におろし、けれど楽しげな笑顔でみんなの輪の中に入っていった。
 思った以上にあっけなく融和してしまった彼女の姿を見て、僕も胸をなでおろした。賢一が僕の背中を叩いて「よかった」と言った。
「ほらな、あの子は大丈夫って言っただろ。ていうか、俺よりお前のほうが夏香については詳しいはずなのに、過保護なやつめ」
 肩をすくめて苦笑する。女子の集団の中から瞳が出てきて僕の手をとり、「夏香ぜんぜん元気じゃん! 安心したあ」と目に涙をにじませて笑っていた。やっぱりこいつも夏香の大切な友達のひとりなんだな、と思うと僕も嬉しくて。「落ち着いたら、四人で飯でも食いに行こう」と言った。
 他の男友達から「片岡って立浪の元カノなんだろ」「中学までの記憶がないってことは、お前が現彼氏ってことになってんの?」などと詰問されたが、どう答えたらいいのか分からずに軽くはぐらかした。僕たちがかつてつきあっていたことは、同じ中学だった生徒のほとんどが知っている。だけど自分の質問が不粋だと感じた友達は、すぐに僕と夏香の関係をたずねることをやめてくれた。それがありがたい。
 先生が来て、「早くも打ちとけたみたいだね」と笑った。打ちとけたというより、最初の関門を突破したというか。ひとまずは安心していいのだろう。席につくと、となりの賢一が耳打ちした。
「夏香はさ、今は中学二年までの記憶しかないから、なりゆき上は彰とつきあってることになってる。彼女の気持ちの中でな。だけど、実際にそういう状態じゃないだろ、現実では二年前に別れたんだから」
 そして続ける。「お前、夏香とよりを戻すつもりなのか」
 身震いし、シャーペンを持った右の拳をにぎる。確かに、ただ夏香の中で僕が彼氏だというだけだ。実際は彼氏ではない。
 今の夏香が「どうして別れてしまったのか」という疑問で頭がいっぱいなのかもと思うと、いたたまれない。僕がそれに答えてあげたらいいのだろうけれど、言って彼女が傷つくことが怖かった。言わなくても傷つくことが分かっているのに。
 僕と彼女が別れた原因の、つきあった一年間をすべて否定できるほどの崩壊劇。結末。彼女の笑顔が罪悪感でにじむ。水彩絵の具のように。このまま永遠に隠しとおせるとは思えないし、やりなおせるわけがない。きっと両者が受けいれられない。
 僕は少しだけ笑って、「なわけないだろ」と言った。「前から、別に元サヤ狙ってるわけじゃなかったし」
 一時間目の授業の準備をする僕のとなりで、賢一はしばらく僕をじっと見つめたあと、「ふーん」と興味なさげに言った。夏香は女子たちにもみくちゃにされながらも、楽しそうに笑っていた。

 僕はその日の晩、深夜〇時まで夏香とメールをしていた。
 昼休み、お互いにケータイをチェックすると、夏香のケータイにはやはりすでに僕のデータはなかった。夏香は一瞬傷ついたような顔をしていたが、その場で赤外線通信をしたのでふたたび互いのアドレス帳にデータが復活した。
 内容は、あまりにも他愛のないこと。「学校デビューおめでとう」からはじまり、今やっている授業の内容や、彼女の好きなYMOのこと、ターミネーターの続編、僕の近況など。「まだ絵を描いているの?」と訊かれ、僕はここでも素直に答えられず「たまに描くていどだよ。それより」と話をそらしてしまった。
 野球に挫折して美術部に入り、二枚の絵を描いた。一枚は二人でよくデートに行った近所の公園にある並木道、もう一枚は、夏香。両方とも油絵で、並木道の絵はリヴィングのテレビの上に飾ってある。ナイフで荒々しくけずった跡や、絵の具を混ぜて複雑な色になっている箇所、キャンバスの目にそってかすれている部分、それぞれにホコリがつもっていた。記憶がセピア色に溶けてゆくように。
 僕は「そろそろ眠いから寝るわ」とメールを打ってケータイを閉じた。少し考えてふたたびひらき、シークレットフォルダにある夏香との写真を待ち受け画面に設定した。屈託のない笑顔で笑う彼女と、僕。
 しあわせで、何よりしあわせで、恋に夢中になった中学時代。彼女がそばにいてくれたらどんな苦難も乗り越えられると信じていた。悲しいことがあっても、一緒にいればぬくもりをわけあえた。身体がふたつに分かれていることすらもどかしかった。ここにいることだけが真実だと、ただ確信を持てていた。
 そんな時代の夏香が、まるでタイムスリップしてきたかのようにふたたび僕の目の前にあらわれた。こんな状況に接して僕はうまく立ちまわることができず、あしらうこともできず、自分でも分からない感情にひたすらにふりまわされてそれをよしとしていた。
 ケータイが鳴った。夏香からの返信。僕は思わず頬をゆるませた。
『はーい、おやすみぃ。明日も一緒に学校行こうね!』


つづく
2011/08/16(Tue)15:35:18 公開 / アイ
■この作品の著作権はアイさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
お世話になっております。アイです。

世界中の男性陣がムカついてボコボコに殴りたくなるようなカッコ悪い男の子が必死になって女の子を守ろうとするお話が書きたくて、書きました(笑)。
彰を殴りたくなって頂けたのなら幸いです。

中編へつづきます。
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