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『超訳:八百屋恋火物語〜NANAKA〜【後編】』 作者:アイ / リアル・現代 恋愛小説
全角37803文字
容量75606 bytes
原稿用紙約105.1枚
http://novelist.eldorado-project.com/temp/viewer.cgi?mode=read&id=2011_07_14_18_26_23&log=novelist【前編はこちらです】ようやく心を通じあわせ、つきあうことになった七花と吉久。夏美と、吉久の従兄である千斗も加わって遊び、しあわせな日々を送っていた。しかし、松山高校の生徒と町で遊んでいる、ということを両親に知られた七花は、寮からの外出禁止令を半ば強制的に食らうことになる。それでもメールや電話で連絡を取りつづけ、卒業まで会えない間も愛しあうことを深く誓うが、ある日、吉久の連絡が突然途絶え音信不通となる。会いたくて、それでも会えない、七花の悲痛な叫びは届かない。そしてついに、悲惨な歴史が平成の現代でくりかえされようとしていた―――…… 江戸時代に実際に起こった放火事件「八百屋お七」を元に現代版編成しました。
 ごはんを食べに行く、と言っても高校生ではマクドナルド、よくてファミレスが定番だ。脂っこく塩っぽくいかにも不健康な食べ物をおなかいっぱい食べてこその若者。七花は根気よい手入れが実を結んで長らくニキビの出来ていない肌を手鏡でチェックしながら、まあ今日ぐらいはお肉食べてもいいよね、と夏美に提案した。おっしゃステーキじゃー、と騒ぐ細身の彼女はダイエットなどとは無縁である。
 メールで指定された駅前のロータリーへ向かうと、吉久と千斗がすでに待っていた。千斗に夏美を紹介すると、「やっぱ末女の子ってかっわいいねえ」と鼻の下を伸ばした。私のときは何も言わなかったくせに、と文句を言うと、彼氏の前で彼女口説いたら悪いでしょ? とかえってきた。反射的に吉久のほうを見て、すぐに視線をそらす。彼も同様だった。
 いまだにその言葉の響きに慣れない。「彼氏」「彼女」だなんて、これまでの人生で少女漫画でしかお目にかかれないような、人種の違う生き物に与えられた称号だと思っていた。今、その肩書きを手にして初めて会う吉久に、なんて声をかければいいのか分からなかった。どんな表情で会えばいいのか分からなかった。笑えばいいのか神妙にしていればいいのか。自分がどうしたいのかも分からない。世のカップルはいかにして乗りこえているのか、先輩たちによる攻略本が欲しい。結局ろくなあいさつも口にできず「じゃあ行こうか」と言うことしかできない。
 近所の中高生の誰もが利用する駅前のファミレスになだれこみ、それぞれピラフやカレーやステーキやからあげなど好き勝手に注文し、ドリンクバーを何度もおかわりしながらさまざまな話に花を咲かせた。趣味、学校のこと、好きな芸能人やドラマのこと、おたがいの生い立ちや子どものころの思い出話。いくらでも話は広がるし、止まらない。臨界点を知らない。ただ延々と蛇口から流れる水のように滂沱とあふれる笑い声。
 初等部からずっと今の末摘花女学園ですごしてきた七花にとって、同世代の男子と話せる機会はすくない。友達の男友達をまじえて遊びに行くことはたまにあるので、まったく接しないわけではないが、慣れない。学校帰りにおやつを食べに行くときはいつも女友達と一緒で、カラオケや花火や旅行も同じだった。今こうして吉久と千斗が四人がけ席の向かいを陣取り、気後れすることなく無邪気に雑談ができるのは新鮮だったが、だけど同時に安心もしていた。彼氏になったばかりの吉久がいることは、その中で重要な位置にあった。
 それだけで世界が変わって見える不思議。ただファミレスでごはんを食べているだけなのに、甘く煮つめたような空気が一帯を包む。
 二時間以上も入り浸ってグダグダと非真剣しゃべり場を展開すると、一息ついた隙を狙って千斗が切りだした。
「そういや、さっき七花ちゃん、読書好きって言ってたけど具体的にどういうの読むの?」
 趣味の話になったときに何気なくぽろんと口にしたことだったが、就職面接で聞かれたら落とされるようなありきたりな趣味にそこまで突っこまれるとは思わなかった。実際、月に十冊以上は読む本好きだが、いざ言われると戸惑ってしまう。
「わりと何でも読むよー。一番好きなのは芥川龍之介かな。あの人の短編、どれも心があったかくなって切ない」
「うわ、俺『羅生門』ぐらいしか読んだことねえし」
「文学少女だ」吉久がため息をつく。
「いや、七花ってむしろ古典とか近代文学とかが現代文学より多いよね」夏美がオレンジジュースのストローから口を離して笑う。「現代文学はみんな古典の延長だとかよく分かんないこと言って、村上春樹すらもノータッチじゃん」
「だってそうだもん。それに文豪の小説だったら青空文庫でタダ読みできるし?」
「うわわわ、ますます文学少女際立った! すっげー!」
 大正時代の大和撫子みたいだ、などとわめいて今度は千斗が吉久を揺さぶる。おまえええっ、こんな絶滅寸前のいい子つかまえて彼女とかいい気になってんじゃねえぞおっ! 揺さぶられるがままに吉久はああハイハイと適当にあしらう。そのようすがおかしくて夏美とふたりで笑った。従兄弟同士、仲がいいらしい。
「あ、でも全部が全部タダ読みってわけじゃないよ」七花はミルクティーをひとくち飲んでふと思いあたり、付け加える。「江戸川乱歩とか三島由紀夫とか、著作権が切れてない人の本は文庫買うし。あと源氏物語とか万葉集とか、江戸時代の浮世草子とか、読みたいやつが載ってなかったら古本屋で買うよ」
 堅実ぅ、と夏美がため息をつく。そりゃそうだ。
 私は鞄の中から花柄のブックカバーにつつまれた文庫本を出した。これが今読んでるやつ、と言って中表紙をひらく。井原西鶴の「好色五人女」。それを見て吉久が眉をひそめる。
「これってエロ本じゃないの?」
「まさか! 好色ってそういう意味じゃないよ。現代で言うところの純愛とか、愛に生きるとかそういうことだし。身分違いとか同性愛とか、色んな複雑な事情を抱えつつも一途な恋をつらぬく女性五人の物語」
「あ、それ知ってるわ俺」
 唐突にそう言って千斗が次のページをめくった。目次の四行目を指さす。第四章「恋草からげし八百屋物語」だ。
「これドラマかなんかで見たことある。好きになった男に会いたくて町に放火した女の子のやつでしょ? やぐらにのぼってガンガン半鐘鳴らしてるシーンめっちゃ覚えてる」
 千斗の言う概略に「あ、それは有名だよね」と夏美が手を叩く。「ごめん俺知らんわ」と吉久が照れくさそうに笑う。七花は読む前から、大まかなストーリーだけは知っていた。
 通称「八百屋お七物語」。
 江戸の本郷で大きな火事が起こり、八百屋の看板娘・お七とその家族は吉祥寺に避難する。そのとき知りあった寺小姓・吉三郎の指に刺さったトゲを抜いてやったことからふたりは恋に落ちた。事態が収束して自宅に戻るまでのあいだ、避難所で逢引きを続け、急速に関係を深めてゆく。しかし、両親はお七が寺小姓などと恋仲になることを許さず、彼女を新しい家にひきもどして逢引きを禁じる。文通を続け、何度か変装してお七に会いに来ていた吉三郎だったが、やがてその密会もできなくなってしまう。親に交際を反対され続けるお七は、もう一度火事になればあの寺に避難して吉三郎に会えるかも知れない、と思い自宅にみずから放火する。江戸じゅうが炎に包まれ、半鐘を鳴らすお七はすぐに火付けの罪でお縄となり、市中引廻しの末に火あぶりの刑に処された。その一途な愛の深さに涙をのんだ町人たちは、彼女の遺体を丁重に葬った。吉三郎は出家して生涯お七を愛しぬき、明王院から浅草観音までの道のりを三十年近くかけて行脚しお七の菩提を弔って生きた。
 これは元禄時代に起きた実話であり、東京都文京区にある処刑場跡地には今も八百屋お七の墓が残っていて、さらに目黒区には吉三郎が造ったお七地蔵尊もある。この事件を井原西鶴はじめさまざまな作家が小説や歌舞伎や人形浄瑠璃に仕立てあげ、現代まで語り継がれることとなった。そのため脚色も多く、例えば半鐘を鳴らすシーンなどは最も有名でありながら実はフィクションであり、お七が火をつけようとしたところを町人に見つかってボヤ騒ぎにとどまった放火未遂が実状である。また当時の記録が少ないことから謎も多く、八百屋お七の悲恋物語を解明しようとする研究者や歴史小説家も多い。
 だいたいのストーリーを説明すると、吉久は「まさに燃えるような純愛だなあ」と感嘆の声を漏らした。
「でも、好きな男のために放火なんてする? なんとかして親を言いくるめるとかすればいいのにさ。江戸っ子なのに」
 夏美が悩ましげに言うと、身分とか厳しい時代だったんでしょ、と千斗がため息まじりに言う。それなりに大きな八百屋の美しく若い娘と寺小姓なんて、確かに当時は考えられない身分差の恋だったのかも知れない。そう考えると現代なんて楽だなあ、と七花はぼんやり思った。例え会えなくなってもメールや電話でそれなりに事足りる。が、声が聴ける現代だからこそよけいに会いたくなるのかなあ、と気づいてなんとも文句にできない。恋しい人に一目会いたい、というのは百人一首にも何首か書かれてある。いつの時代でも人は同じだ。
 恋をする気持ちは何千年も変わらない。誰もが誰かにとっての何者かになろうとし、恋に狂い、愛に生き、惑い、結ばれ、誓い、あるいは不幸にも自滅してゆく。冷静な判断力を失った一途な恋が悲劇を生み、物語は時代を越えて平成までバトンタッチされてゆく。十代の若者がはからずも生んだ恋の暴走は、周囲の迷惑なんてかえりみない。自分たちのしあわせのためにひたすら奔走する。夢中で、一途で、ただ灰を残すだけだと分かっていても炎に油を注ぎつづける。
 恋に堕ちて何かを失ったとき、決してごまかしたり、自分をあわれんで悲劇のヒロインを演じたり、後悔したりしない。自分が愛した男への思いはひとかけらも間違っていないと胸を張り、信じつづけた。ためらうことも悩むこともなかった。「好色五人女」の主人公たちのような本気の恋を、冷めきった平成の高校生がするだろうか。いっときも迷わず、破滅や心中を覚悟しながらも、死の瞬間までつないだ手を決して離さなかった、そんな恋を。……果たして。
 しばらく井原西鶴から古今東西の名恋愛小説の話をしていたが、そうこうしているうちに時間が八時半をまわりつつあった。七花と夏美は寮の門限がある。あわただしく精算をすませて外に出ると、風が少し穏やかだった。刺すような冷たさは、ない。
「悪い、俺、課題残ってんだ!」
 私と夏美のアドレスを手早く赤外線で交換すると、ほんとにごめん、と言って千斗は先に自宅のほうへ駆けだしていった。せわしないねえ、と夏美が笑う。受験生だもんな、と吉久がつけたした。
「ああ見えて超絶頭のいい大学狙ってんだよ。しかも医学部」
「日本の医療も滅んだな」七花はぼそっとつぶやいた。
「でも、頭よさそうな感じはするよ。学校の勉強じゃなくて、人間的にさ。なるほど、だから同じ血が通ってる吉久くんもこんななんだね」夏美が言うと、なんのこっちゃと吉久が頭を掻く。
 確かに、不良の巣窟だと言われる松高の生徒にしては、かなりいい物件だけど。
 くらい帰り道をまたも延々と無駄話をしながら寮まで戻る。女子ふたりを送り届けた吉久は、門の前で「それじゃあ」と踵をかえそうとしたが、それを夏美がおしとどめた。
「あたし、先に部屋に戻ってるよ。まだ閉門まで時間あるし、ふたりでちょっとしゃべってたら? 春の選抜もあるし、次いつじっくり会えるか分かんないよ」
 そう言って夏美はさっさと門をくぐって行ってしまった。その背中を呆然と見送りながら、初心者になんたる、と絶望する。いきなり薄暗い住宅街の、ひと気のない通りにぽつんと残され、どうしたもんかと吉久をうかがい見る。彼は肩をすくめて、「もらっちゃったもんはありがたく享受しとこう」と言った。
「もらっちゃったもんって、何その貧乏根性」
「あ、末女のお嬢様だからって下に見てんなこのやろう」
「見てないよ。この状況に接して何言えばきれいなベストプレーなのかわかんなくなってるだけ」
 だれか恋愛の攻略本をください。
 彼氏彼女になったのは昨日の今日だ。ファッション雑誌にある恋愛特集やリアルタイムのアンケート集計結果などは興味深く読んでいたし、恋愛小説も、少女漫画も大好きだ。だけど漫画や小説はあくまでフィクションであり、読者の理想やノンフィクションを超越したシチュエーションもざらにある。雑誌の特集は捏造もあるし、アンケート結果もいじくって当然だろう。信用ならない。
 少女漫画のようにロマンティックで胸が締めつけられるような展開があればどれほどいいだろうかと思う。だけどそうもいかない。何が絵的に見て良いのか、世間様に顔向けできるお付き合いになるのか、それが何も分からない。
 悶々とかんがえている七花の耳に、「ベストプレーなんてないよ」と吉久が言う。顔をあげると、彼は照れくさそうにうつむいて言った。
「野球ってさ、ホームランがいちばんの花型だろ。見てるほうもやってるほうも盛りあがるし、絵としても様になる。でもさ、野球見てると分かるだろうけど、例えばかっ飛んだショートライナーを超ジャンプで捕ったりとか、ダブルスチールとか、前転しながらボール捕って内野安打にしたりとか、そういうプレーもめちゃくちゃかっこいいんだよ。言っちゃえば0−0の投手戦で最後、満塁でデッドボールして押し出しサヨナラ勝利なんて、見ため的プレー的には微妙だしちょっとカッコ悪いぐらいだけど、勝ちは勝ちだし観客の記憶に残る。何よりあとで笑いのネタになる」
 そういえば、そんなプロ野球の試合を父のスポーツ新聞でちらりと読んだことがある。九回二死二塁三塁、明らかに試合を終わらせると思われた高い外野フライがドーム球場の天井にひっかかってしまい、押し出しサヨナラエンタイトルツーベースとなり話題になった。その突拍子もない偶然で負けゲームをひっくりかえしたことで、のちのち長くギャグ試合として語り継がれることになったらしい。
「だからさ、格好とか常識とか平均なんて気にしなくていいんだよ。やりたいようにやればいい。変化球だってかまわないんだ。結局、大事なのはおたがいの気持ちと、最期まで貫き通すだけの心の強さだ。それがあれば恋愛でも野球でも、その人にとってのベストプレーが叶うんだから」
 言ったあとに「なんかくすぐったい」と照れくさそうに笑う吉久。だが七花は笑う気になれなかった。何度か見た吉久の練習試合。ホームランなど華々しいプレーはなかったが、飛んできた球を全力で打ちかえしたいという気迫が伝わるスイング。どんなに望みがなくても一塁まで全力疾走。アウトになっても彼は笑い、次の打席のためにストレッチをする。
 べつにホームランバッターだけが優秀なんじゃない。
「分かってるよ」
 七花はそっと吉久の服の裾をつかんだ。
「好きな気持ちは、おんなじだよ」
 子猫がひっぱるような、微弱な力で。
 一瞬動揺していた吉久だったが、やがて探るように七花の手をとり、隠すように両手で包んだ。ひきよせて、七花が目を閉じるまで待って、そっとキスをした。ふたりにとって、初めての相手だった。ただそれだけのシンプルな熱。
 このあたたかさを孕んだ空気の名前を、ふたりはまだ知らずにいる。


「嫌な予感しかしない」
 トイレから戻ってきた七花を、ガルボを噛みながら「もっかえりー」と迎える夏美。七花は閉じられた携帯電話をいぶかしげに見つめ、買ったばかりのグロスでうっすらかがやく唇をきゅっとひきむすぶ。手にちょうど収まるサイズの文明の利器は、時代錯誤な言葉を伝えるために使われるにはあまりに不格好だ。
 どしたん、と夏美にたずねられ、自分の席にどっかり座って答える。
「親から電話」
「へえ珍しい。寮に入ったんだから自立しろーみたいなこと言って放置状態だったんじゃないの?」
「一応そうなんだけど、なんだかんだ言って名の知れた旧家だからさ、世間体ってものにこだわるんじゃないかな。昭和の発想だよ」
 七花は両親からの電話の内容を説明した。
 いわく、先日松山高校の生徒とファミレスで食事をしているところを母の友人に目撃され、写メまで撮られて報告されてしまったらしい。松山高校の生徒を毛嫌いしている両親は、当然のごとく激怒した。母も現役末女生時代、周辺の生徒が被害に遭う事件をリアルタイムで知っている。悪い印象を持ってしまうのは仕方ないが、よりによって娘が松高の生徒と親しげに放課後、遊びに行っているなどついぞ思わなかったに違いない。確かに男友達は少ないが、まったくいないわけでもない。先の消火活動の件で多少は丸くなったのかと思えば、休み時間を狙ってかかってきた電話で激しくまくしたてられた。「どうしてそう簡単に人に心を許すんだ」と。そうして実家へ呼びだされてしまったのだった。
 仕方がない。確かに実際、松高はガラが悪い。しかし吉久や千斗は別だ。話せば分かるはず、と信じるしかない。
 明日は土曜日なので放課後、そのまま実家に戻ることになった。
「学歴とか世間体なんてね、物理的に形あるものじゃなくて、目に見えないでしょ?」夏美がガルボを私の手に乗せながら言う。「だけど心も目に見えないから、不可視のもの同士、いちばんひどく攻撃されるのは心。人は目に見えて納得できるものしか信じないなんて言いながら、得体の知れない、手でつかめないものを恐れる。恐れは人を畏怖させ、誘導し、従わせる、ってやつ。心を守るには、不可視のもので対抗するしかない。覚悟や決意の言葉や願いは、同じように人の心に直接響くから、物理的な癒しよりずっと効果があるんだよ」
 がんばって、と夏美に背中を押され、七花はバスに乗りこんだ。
 実家までは終点まで行き、さらにもうひとつ乗りついで四つ目にある。のどかな郊外から少し建物の多い下町。バス停から住宅街の隙間をぐるぐる歩いた。古い木造住宅が近代的なマンションに建て替えられていたり、公園の遊具が取り壊されていたりと、寮に入るまでに毎日のように見ていた町の景色は変わっている。かつての住人だった自分をいささか恐れるようなその空気に、七花は歩く速度を速めた。
 実家は高級住宅街のマンションに挟まれるように建つ、東西に伸びた盛り土の上の屋敷。大正のはじめに建てられたその立派な家は、きらびやかな高校で無邪気に女子高生生活を満喫している七花にはにつかわなかった。ここから出荷された自分が、たかが高校の違いだけで交際を止められるようなことになるとは思わなかった。
 玄関の引き戸をスライドさせると、カラコロとなつかしい音が鳴った。「ただいま」「あらあらおかえり、待ってたのよ」母が迎えに出てくる。七花は鞄を肩からおろしながら居間につづく古い廊下を、ギシギシとうならせながら歩く。
 畳敷きの居間にはすでに父がいた。テレビは旧式のブラウン管からすっかりデジタル放送対応のプラズマテレビに変わっている。そこで流れるニュース番組から目を離し、父は「おう、帰ったか」と笑いもせずに言う。母は「お茶いれてくるわね」と台所に消えた。七花は「うん」としか言えなかった。呼吸がうまくできない。
 しばらく母の淹れたお茶を飲みながら卓袱台をはさみ、学校生活のことなどについて雑談をした。大きくなった飼い猫のシーバスが七花の膝の上に乗って、ごろんと体勢を崩す。彼の腹をくすぐってやっていると、「お前を今日呼んだことだが」と父が言う。ついに切りだされた、と絶望に目を伏せた。
「松山高校の生徒ふたりと夏美ちゃんと、四人で遊びに行っているところを、お母さんの友達が見たという。写真も送ってきてくれた。嫌だろうから写真はすぐに消したが、男のほうは松高の制服と野球部のユニフォームだったぞ」
「そうだよ、そんなことでわざわざ呼びだしたの」
 そんなことって、と母が噛みつこうとしたところを父が押しとどめる。彼は手元の茶をひとくち飲んで、私の反抗的な態度に対抗するように少し声を荒げた。
「ずっとこの家で言われてきたことを忘れたのか。お母さんだって友達が松高の生徒にひどいことをされたんだ。あの学校は偏差値も低いし、部活だってろくな成績を残していない。昔から何かと警察の厄介になることが多いのがあそこの生徒なんだ」
「そういう事実があったことまで否定してないし、したこともないでしょ。でもそんなことをしたのはその事件の加害者の生徒だけ。お父さんもお母さんも、松高に入学して、在籍して、卒業していく全生徒みんながひとり残らずそういう人たちだと思ってるの? 全校生徒が何百人いると思ってるの。八百人近いよ。八百人もみんながみんな偏差値が低くて部活に所属していてもろくに成績残せなくっていずれは必ず警察の厄介になるって思ってるの? 卒業生もみーんな?」
「そんなわけないだろ。もちろん真面目で優秀な、人柄がいい生徒さんだって少なからずいるだろうとは思っている。だけどその区別がお前につくか? 末女は両家の娘さんが多いし、松高の生徒はいつも末女の生徒ばかり狙う。男は女を騙す生き物なんだ。松高の生徒が好青年の皮をかぶって女の子に近づき、危害を加えることがないと誰に分かる? どの生徒が悪質なのか分からない以上、そもそも関わりさえしなければはじめから何もおこらない」
「確かに私が一緒にいたふたりはめちゃくちゃ好青年だよ。とてもいい友達」ことを荒立てたくないので、その片割れとつきあっていることは伏せた。「それがもし本当にお父さんの言う人柄がいい生徒さんだとしたら、それはいいんじゃない? 人間、悪質なところのひとつやふたつ、誰にでもあるでしょ。それぐらいのことは許容するのが友達じゃない」
「分かろうとしても無理だから言うんじゃないか。それほど男は巧みに女にいい顔を見せるんだ。何もかもを信じて疑わないことは、聖人君子かも知れないが良識的な大人の考えじゃない。疑うと言えば言葉は悪いが、もし松高の生徒と深い友人関係を結びたいのなら、相手をよく見て判断し、贔屓目なしで善悪を見極め、危害が加えられそうなら身を引く。それは自分が幸せになるための方法のひとつなんだ」
「お父さん、それって松高の生徒とかそういう悪いイメージがつきまとう集団や組織だけにしか思わないんじゃない? 相手がエリート高校の生徒や一流企業勤務で好青年だったら、裏の顔なんて疑いもしないでしょ、どうせ」
「まさか、そんなことするわけがないだろう。今はお前の行動の話をしているんだ。第一、松山の生徒は悪質すぎる。こちらが見抜こうと思っても皮が厚い」
「だから学校でひとまとめにして批判するの? それこそ考えることを放棄した汚い大人の結論じゃない。そんなこと言い出したら色んなものが消去法で消えていくよ? 人を殺せるからって刃物屋さんを一斉検挙するのとおんなじ発想。それに、相手をよく見て判断するとか言ってるけど、外面がいい人が実は悪い人じゃないかって疑うこと中心で、悪い人にもいいところがあるかも知れないって探ることはしないの? 服装が乱れてると頭も悪いなんて決めつける人いまだにいるし。お父さんは松高の固定観念に踊らされすぎ。私が一緒に遊んでる友達が名門高校の生徒会長で学年ナンバーワンの成績だったら、こうして裏の顔なんて疑わずに許すんじゃない? 優秀で身なりがきちんとしてる高学歴の人が実は隠れた悪人だったなんてよくあるし、その人が何か問題起こしたら、日本も終わったとか嘆くんでしょ」
「屁理屈を言うんじゃない!」
 出た。父の口癖だ。反論に困る、もしくは反論の内容を考えるための時間稼ぎによく使われる。勝った。
 母がそっと父をたしなめる。七花は膝の上のシーバスを撫でながら、なんだかなあ、と思う。もちろん荒れた学校は各地に存在するし、そこの生徒と関わらないようにと子どもに言いつける親がいるのも仕方ない。だがあまりにも強固にすべてを否定してしまえば、そこから一切の、髪の毛ほどの可能性も自ら手放すことになる。それはあまりに、おたがいにとってむなしいことじゃないのか。吉久と一緒にいることで固定観念を覆された七花は、あわれみを含んだ目で両親を見る。
「別に、仲良くするなって言ってるわけじゃないのよ、お父さんは」母が弁解するが、それに近い物言いだったことは間違いない。「ただ、いい人か悪い人かを判断する力を身につけるか、出来なさそうなら傷つかない手段をとりなさいって言ってるのよ。いい人なら一緒に遊んだって何も言わないわ。だけどじゅうぶんに気をつけなさい」
「そんなの言ったって、うちの高校の生徒にも隠れて援交とかやってるギャルいるよ。一概に松高の生徒は、松高の生徒はって考えないでよ。私の友達のことなのに悪く言わないで。一緒に遊ぼうがごはん食べようがつきあおうが、私が決めてそうしたことなんだから」
 両親の目の色が変わった。一秒遅れて私も気づく。
 急に非難のまなざしがあわれみを含んだ好奇心のかたまりになる。「ちょっと、それって」と母が言ったのを皮切りに、父が慌てたようすで身を乗り出す。
「おい、つきあってるのか、松高の生徒と」
 違うよ例えだよ、ととっさに嘘をつこうと思ったが、ふと夏美の言葉を思い出す。『覚悟や決意の言葉や願いは、同じように人の心に直接響くから』と。
 七花はぐっと唇をひきむすび、胸の前で拳を握る。震える膝を居心地悪く感じたのか、シーバスがするりと降りて卓袱台の下にもぐる。
「そうだよ」
 口に出してみればどんな言葉も重くない。「つきあってるよ」
 両親があっけにとられるのが音になって聴こえた気がした。もう引きかえせない。だけど、だから何、という気持ちのほうが強かった。何も悪いことはしていない。自分の責任だ。もう親にあれこれ言われるような歳じゃない。嘘もつきたくない。七花はどんなに反対されても押し通すつもりで、覚悟をたたえた目でふたりをにらんだ。
 正しい道をゆくことだけが正しいんじゃない。安全策が必ずしも安全とは限らない。
 すべては納得いくかどうかだ。
 何時間にも思える長い沈黙のあと、父がふうっとため息をついた。胡坐を組みなおし、じっと畳を見つめる。そうして「分かった」と父が言ったときは、受けいれてもらえた、と一瞬は喜んだが、彼のアイスピックのように鋭い言葉が突き刺さる。
「学校に連絡する。関係者も松高とのかかわりを避けているから、事情を話せば理解してもらえるはずだ。授業が終わり次第、つき添いの先生と共にすみやかに寮に戻るように。放課後や休日も、寮長への申請が適切だと承認されなければ門外へ出ることはできないことにしよう。もちろん松高の生徒の寮訪問も受け付けない。今後、外出禁止だ」


 雨がふっていた。
 駅前でバスを降り、寮への道を力なく歩く。途中のコンビニでビニール傘を買い、夜闇と自分とを遮断する。足元で何度も爆ぜる雨粒は元気よく、遊ぶようにじゃれている。そんな無邪気さはどこに忘れてきたんだろう、と小学校の頃の自分を回顧する。が、無駄だと思って、やめた。
 父は宣言したその場で学校に電話し、即決となった。今日、寮に帰ればすぐに施行される。今夜から寮と学校の往復だけになる。そんな大げさな、とは思ったが父は本気だった。そして長年、松山高校の生徒による暴虐に苦しめられてきた学校側も、生徒から被害者を出して世間の批判を浴びることを避けた。スケープゴートになったのは自分だけだ。
 どうすればいいんだろう、とぼんやり考える。別れたわけじゃない。吉久のことは何も話していないので、彼の家に連絡が行くわけではないだろう。だが不安だった。
 どうして自分じゃない誰かに、右足と左足の出しかたまで教えられなきゃならないんだろう。高校二年生なのに。携帯にGPS機能が必要な年でもないのに。ひとりで生活してるのに。過干渉より無関心のほうが、今は絶対に気楽だ。
 ゆっくりとした足取りで寮の裏手へまわり、野球部のグラウンドへ向かった。練習はすでに終わっていて、傘を持たない部員たちが走って家路へつく。更衣室から吐きだされるたくさんのユニフォーム姿の中から吉久の姿を探す。やがてほぼ最後のグループの中に彼を見つけ、名前を呼んだ。
 ちいさな声だったが彼には届いていたらしく、吉久はあっけにとられてこちらへ走ってきた。「どしたの、また傘持ってきてくれたの?」少しおどけたように言う彼の胸に飛びこみ、泣きそうになるのをこらえた。しばらく戸惑っていた吉久だったが、そっと七花を抱きしめた。口に出せる覚悟の言葉に合わない本心の不安があまりにも強すぎて、気丈にふるまっていられる自信がなかった。
 ふられてしまうかも知れない。……何よりもそれがいちばん危惧しているところだった。だけど、話さないわけにはいかない。
 いつぞや一緒にお昼を食べていた公園へ行き、傘のついているベンチに並んで座る。七花は事情を細かく説明した。寮外へ出かけることは禁止になること、今後会えなくなること。吉久は相槌も打たず、目の前で傘から垂れる水滴をじっと見つめている。すべて話し終えると、彼は深いため息をついた。
「末女の生徒だからいいとこの子なんだろうなとは思ってたけど、そんなに厳しい良家だったのか」
「あんな明治時代の価値観をひきずってるのが良家とは思えないけど」
「こらこら、自分の親を悪く言うなって」吉久が笑う。「でも、俺も悪かったな。そういう世間体とか親の心配とか考えないで、七花ちゃんとつきあうことにしたのは軽薄だった」
「そんなことないよ、おたがいに好きになっちゃったんだから。身分とか学歴なんてあとからついてきたものだよ」
「そりゃね、恋愛にナントカは関係ない、とかよく言われるからそれはそうだと思う。だけど、やっぱり誰かを犠牲にしたり傷つけたり大切なものを奪ったりして、その血の上に築く幸せは本当の幸せなんかじゃない。本人が、それでも幸せ、なんつって罪悪感を持たなかったらもはや狂気だよ。いつか誰かの血で足元をすべらせる」
 誰にも祝福されない恋愛。誰かを傷つけて育んだ愛。
 それでも幸せだと開き直ってしまえばただの自己満足、自己完結だ。傷つけられた人間は、ひらきなおった彼らに復讐することもできず、一体どこでその痛みを癒せばいいのだろう。ただ泣き寝入りするしかない。一生ふたりを恨みながら生きてゆくしかないのだ。それは親を不安がらせて、それを解消させてあげられないまま自分のわがままだけを突きとおすことも同じ。
 両親も七花を傷つけたくないという思いで外出禁止にしたのだろうが、同時にそれは自分が傷つきたくないという願いも同居している。同じ痛みだ。まったく同じ刃物で、同じ箇所を切り、同じだけの血を流す。
 七花は膝の上でスカートをつかんだ。「どうすればいいんだろう」とつぶやく。
 長い沈黙ののち、吉久は七花の手に自分の手のひらをそっと乗せた。雨のヴェールに閉じこめられ、見つめあうふたり。吉久はもう片方の手で七花の頭を優しく撫でた。湿気のせいでべったりと頭皮に貼りついた髪ごしに、彼のぬくもりを感じる。
「大丈夫だよ」
 彼はホイップクリームのような、優しく、やわらかい笑顔を浮かべた。
「卒業して寮を出たら解禁でしょ? それまで待つよ。たった一年とちょびっとで別れたりなんかしない。いつでもメールして。あと、電話も。会えなくたっていくらでも連絡がつくんだよ、現代は」
 苦笑する彼につられて笑うが、まだ不安がぬぐえない。本当に、今こうして言葉にしていても、一年以上も会えないことが彼にとって負担にならないのかどうか。少しずつ情けなくなってきて、いっそ別れてしまおうかと思ったが、そう考えた瞬間に目元が熱くなった。充血した目をそっとそらして、「ごめんね」とつぶやく。
「なんで? これもいっそ愛を確かめる試練だと思えばいいんだよ」
 無邪気に話す吉久。「近いのに遠距離恋愛、って感じだよな。こんなに離れてても七花ちゃんが好きだって、何度でも実感すると思う。それに、卒業してもつきあいをつづけられるように、今からでも七花ちゃんの御両親に信頼してもらわなきゃならねえな。お嬢さんを傷つけるような野蛮な生徒じゃないです、真剣におつきあいしてますって。卒業するときにあいさつに行くよ。あと、真面目に部活に取り組んでますって言えるように、春の選抜でいい結果残さないと。今よりもっと練習するよ。成績も見せびらかせるていどにあげなきゃな。いや、違うか、それより」
 七花の耳にそっと唇を寄せてささやく。
 離れてたって、俺たちずっとつながってるよな、と。
 雨はまだしばらくつづきそうだった。しとしとと降るちいさな空のかけらの音が、銀色の粒になってあちこちを転がる。その音を忘れないように。忘れられなくなるようにと。優しい口づけをかわした。どこにも消えることのない痛みを、甘いハチミツで隠す仕草。
 親の猛烈な反対を受けて圧倒されそうになり、世界から見捨てられひとりぼっちなのだと思っていた。恋愛小説の中にある禁断の恋に憧れたりしたけれど、現実はあんなに情熱的でロマンチックなものじゃない。いくら「それでも純粋に恋している、反対されたって離れない」と少女漫画の主人公のような科白をとなえて強くなろうとしても、周りの人みんなが自分たちの恋を蔑み、小馬鹿にし、見下すのかと思えば心寂しくなる。
 現実を生きる自分たちの恋は、夢は小説や漫画ではない。自分のことだ。フィクションでも、他の誰でもなく、自分が貫きとおすこと。向き合うべきは自分。
 だからこそ、戦う決心が必要だった。吉久のあたたかい手は、味方がかならずいるのだと信じさせるにじゅうぶんだった。別れようと言われたらもう立ち直れないかも知れない、と不安に駆られて泣きそうになったことは、きっと忘れられない。だけどその痛みを覚えているから、この真剣な恋を、真正面から抱きとめられる。
 震えて熱を帯び、溶けてゆく不安。ああ、だからこの人が好きになったんだ、と思わずにはいられないぬくもり。吉久の胸に抱かれながら、これから先の一年強がおだやかで、しあわせなものでありますようにと、願わずにはいられなかった。


 夏美の口の中でガルボがばきりと砕かれる。
「やっぱり腑に落ちねええっ!」
 大正時代じゃねんだよ気色悪い、と口悪く叫ぶ彼女の醜態にクラス中の視線が集まる。集まる。虫めがねを置いたらきっと焦げる。落ちつけお嬢、と七花は彼女の肩を押さえるが怒りにまかせて手足をバタつかせるのでままならない。誰か猛獣使いを呼んでくれ。
 机の上に置いた箱からガルボをひとつ取って口に放りこみ、緩慢な動作でそれを噛む。自分だって頭にくる。だけどこればかりはどうしようもなかった。別れろと言われたわけじゃないことが救いだった。
 門の入り口にいる警備員にも話は届き、「家柄がすごいと大変だろうけど、僕も仕事だから出してあげられないんだ」と苦笑されてしまった。寮長へなんとかして外出申請を通そうとしても、「友達に買ってきてもらいなさい」などさまざまな理由で却下される。寮敷地内は自由に動きまわれたので、昨日は友達の部屋から部屋へわたり歩いて愚痴を聞いてもらった。
 まさかこんな強硬手段に出られるとは思わず、七花も怒り、焦り、意気消沈しきった。机に顎を乗せ、ガルボを嚥下する。「なんなんだろ」とつぶやくと、夏美が机を手のひらでバンバン叩く。
「こういうふうに自分の子どもを縛りつけてなんかいいことあると思ってんのかね人の親ってのは! ああ腹立つ腹立つ、何回思い出しても腹立つ。七花の親に直訴しに行きたい」
「やめときなって、平成の田中正造になっちゃうよ」
「それでもやっぱり駄目でしょ。七花もさあ、別につきあうのをやめさせられたわけじゃないからって安心しきってちゃいかんぜよ。これはもうほとんど強制的に別れさせてんのと同じようなものだから」
「大丈夫だよ、ぶっちゃけ卒業まであと一年ちょいだし、そうなれば自由になれるんだから、それまでメールとか電話とかでどうにか連絡つかせとくよ。会えなくたって、たぶん、」
 私たちは別れたりしない。それは一昨日交わした約束。
 その言葉を強く、強く腹の底から伝えると、夏美は不安そうに眉をひそめた。うなりながらしばらく悶絶していた彼女だったが、いきなり身を乗りだして私の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。髪が四方八方に飛ぶ。「やめんかこら」と叫ぶと彼女は真剣な目で私を見ていた。
「その覚悟は凄い。こないだつきあったばかりなのに、信頼、半端じゃないね。その強さが誰しもにあればいいんだろうけど、そうもいかない御時世だからね。七花は強いよ。うん。負けないでね」
 あいかわらず髪を乱す彼女の笑顔に半ば呆然としながら、「いや、負けないし」とこたえた。それは本心だ。まぎれもない、言葉だった。
 卒業すればなんとでもなる。それまで少し離れてしまうけれど、吉久との絆がこんなことで壊れたりするはずがない。根拠も確信もないけれど意志は果てしなくあるその自信。おそらくは過去に誰かが何人も歩んで、ころんだりすべったりして、何人かは最奥に到達した道。通る人が多くなれば、その道に靴跡だってなんだって残るのだ。
 放課後、ホームルームが終わると担任の先生に職員室まで呼びだされ、今後は図書室司書の先生に付き添って下校するようにと言われた。寄り道はいっさい禁止。寮の門をくぐればもう外出はできない。内心いらだっていたがもう何も言えない。一年強、校外の友人には会えないのだ。吉久はもちろん、千斗とも。
 別にメールや電話まで禁じられているわけじゃない、と七花はひらきなおる。父が失念していたのかも知れないが、現代の女子高生ならこれだけあればなんとでもなる、と楽観視していた。スカイプのテレビ電話だって、誰かにカメラを買ってきてもらって、ソフトをダウンロードすれば使える。大掛かりだが仕方ない。
 希望を伝えると夏美も一緒に帰れるようになった。正門前昇降口で、顔なじみの図書室司書の女性が待っていた。「大変だよね、家が厳しいと」と、警備員のおじさんと同じことを言われる。元々よく話す仲だったので、中傷にならない程度に愚痴をこぼしながら、五分ほどかかる通学路を歩いて帰る。いい天気なのに、風がいやに冷たい。寮の門の前に立っていた警備員のおじさんに挨拶をした司書の先生は、業務が残っているからとすぐに帰っていった。「また相談に乗ってあげるからね」と言い残して。私は夏美に呼ばれるまで彼女の背中を見送っていた。
 いまどき古臭い考え方だとは思う。だがまだ家を出て自活できるような人間ではない。どんなに長くても卒業までだ。たった一年と少しで嫌気がさして別れてしまうような関係であれば、それまでだということになる。七花は夏美の部屋であいかわらず互いの両親の愚痴大会をしながら、そう考えていた。
 全室施錠時間がすぎてから、七花は自分の部屋で吉久に電話をかけた。会えなくなってしまったことは事前に伝えてある。電話帳から番号を呼びだすその動作は一瞬のためらいもない。二コール後の『もしもし?』の声が、世界中のイケメンシンガー全員の美声を結集してもかなわないほどいとおしく思えた。
「起きてた?」
『いや、大丈夫。ストレッチしてた』
「お疲れ様。大変なんだね、スポーツ部って。毎日毎日練習だらけで、忙しそう」
『急遽、甲子園で成績残して自慢しなきゃならないノルマができたからなあ。俺も打席でハンカチとか出したら、多少打てなくても知名度あがるかな』
 こらこらパクリはいかん、ならポケットティッシュはどうだ、などと馬鹿げた会話をえんえんと十二時近くまでしていた。文明の利器に乾杯。もしかしたら手紙なんて古風な方法をとっても面白かったかも知れないが、時間はたくさん用意されているんだ、いくらでも書けばいい。今はとにかく、あいた時間を吉久との会話で埋めたかった。
 一日何百通だってメールを交換していたい。手紙で写真を送りあいたい。スカイプでテレビ電話をしたい。野球部相手にすべては不可能だと思ったが、吉久の『俺も出来る限り七花としゃべっていたいよ』という言葉が、いつまでも砂糖水のように口の中を甘くとろかす。
 一年なんてすぐにすぎてしまえばいい。吉久を親に紹介して、正式に認めてもらおう。その夢だけを抱きしめて、眠って、起きた。日々は何もかものために巡ってくる。


 電波が悪いときに携帯を振るとメールが届きやすいというのは幻想だ。それを分かっていても、ついつい雪がぱらつく空に向かって窓から携帯を高々とかかげ、届け、と願ってしまう。君に届け、風早、爽子。そんなことをぶつくさ言いながらメール回線の不調に文句を垂れる。寮周辺は電波が入りにくい。
「もうちょっとあとにしなよ、別に今日の夜に送ったっていいんだし」
 夏美が肩をすくめて言ったが、七花は「やだ、今送るの」と反論する。年があけてからもう三十分が経っている。本当は0時ちょうどに送りたかったのだが、回線が今よりさらに混んでいて「メール送信中」の画面は見飽きてしまった。
 吉久への、たった一通の「あけましておめでとう!」のメールすら、届かない。
 送信はいったんあきらめ、携帯をとじる。ベッドにあおむけに倒れこむと、すぐ隣に夏美が座った。
「もうどれぐらい経つっけ? 外出禁止令が出てから」
「えっと、三週間ぐらいかなあ」あまり覚えていない。「あっという間に過ぎてったから、もう年明けかーな気分だよ。遠距離恋愛してると時間たつの早いってよく言うけど、あれほんとだったわ」
「七花の場合は遠距離恋愛じゃなくて親に反対される時代錯誤の恋愛だけどね」
 どこのハーレクインかケータイ小説かっつー、と夏美は手元のホットコーヒーをぐびぐび飲みながらまだ文句を言っている。年末、誰もが帰省する中で私はそれでも寮から出ることを許されなかった。夏美に事情を話すと彼女は一緒に残ると言ってくれた。実家に電話して「友達がこんなときに熱出したからさ」と言い訳をする彼女の背中が、抱きつきたいほど広く見えた。そうして私の部屋で年越しそばを食べ、テレビ番組でカウントダウンし、今にいたる。
「あと一年三ヶ月かあ」ガラスポットからコーヒーのおかわりをいれながら夏美が言う。「やっと三週間がたったのに、まだまだ先があるなんて」
「うん、でも、ほんとに体内時計、すっごく早かったから。たぶんあっという間じゃないかな」コーヒー私もちょうだい、と自分用のコップを差し出す。
「そうだね、待ってる間はいろいろ楽しくてすぐすぎるかも知れない。自分磨きに励め十七歳。ミルクなみなみで砂糖いらないんだっけ?」
「八百屋お七じゃないんだから、親に引き離されたってメールも電話もいくらでもできるしね。へっへーん。コーヒーとミルクは四対六でよろしく」「それってほとんどコーヒー風味の牛乳だし」
 あ、と私のコップを持って立ちつくす夏美。停止した彼女の手からコップを抜き取り、どしたん、とたずねる。
「そっか」コップがなくなった手で口元をおさえる夏美。「どっかでデジャヴュってるなと思ったら、そうだよ、八百屋お七とおんなじなんじゃん」
 井原西鶴の? とつぶやいてストーリーを思い出す。今まさに読んでいる文庫本。大きな八百屋の看板娘が寺小姓に恋をするも、両親に反対され家に軟禁される女の子の話。
「あ」「ね?」「やばい」
「まあ、だからどうだっていうわけじゃないんだけど、こういう昔からの文学作品と現代人の行動が似てると、いつだって人間はおんなじなんだなって実感するわ」夏美は納得したように深くうなずいた。「なんていうんだっけ、紀元前の人が書いた文章とかで、現代語に解読してみたら『最近の若いやつはー』って書いてあったってやつ」
「ああ、あったあった。はーい、最近の若いやつでーす。江戸時代の人とおんなじ恋愛してまーす」
「八百屋お七も当時、その純愛に感動した人もいれば、若者の幼稚な恋の破滅だってさげすんだ人もいるんだろうね。今と何も変わらない。人のこころはホントに変わらないなあ」
 だからこそ人間にやりがいを感じるんだよ、と七花はぼやいた。
 くだらない話ばかりているうちに一時になってしまった。そろそろいいんじゃないかと思ってメールを再度送ろうとすると、少し時間はかかったものの無事送信できた。夏美に抱きついてよろこぶ七花。はしゃぐ暇なく、返事はすぐに来た。
『おめでとう! こっちは男だらけの年明けパーティーでムサ苦しい(笑)七花ちゃんもこんな時間まで起きてたら身体に障るぞ? しっかり寝て新学期までに体調整えとけよ!』
 自分の身体を気遣うメールに、胸の奥がきゅっと締まった。やっぱり優しい、野蛮なんかじゃない、親にこのメールを転送してやりたい。ふわふわと夢見心地の七花の頭を夏美が力強く叩く。
「こら、恋に恋する愚かな思春期。メールいっこぐらいで一喜一憂しないの」
「だって、ぜんぜん会えないんだからメールの一通一通が貴重なんだって。夏美には思春期の恋愛衝動が分かんないんだよう」
「そりゃ私だって絶賛思春期なうだもん。だけどね、おつきあいのはじめからメールで喜んでたりしてたら、つきあいが長くなってメールの内容がそっけなくなったり回数が減ったりしたときにダメージ受けるよ? しかも自分の激しい思いこみのせいで」
「うっわ、経験者的発言。勉強になります」手をあわせて夏美をおがむ。何がなんだか。
 七花はもう一度携帯をひらいて、メールを読みかえした。こんな些細なことでいちいち喜べるなんて、どれだけ子どもなんだろう。だけど、自分はまだ女の子でいられた、恋してかわいくなれる権利があるんだ、と思えば元旦の寒さも人肌のぬくもりに変わる。
 手のひらで両の頬をつつみ、吉久にさわってもらったときの感触を思い出そうとした。途中で夏美が「うわあ完全に少女漫画の主人公になっちゃってる」とからかったので夢はシャボン玉のごとくはじけてしまったのだが。
 こうしちゃいられない。
「夏美、私はもう寝る!」
「え、これからターミネーター全シリーズ一気鑑賞して初日の出を拝むんじゃ」
「身体に障るの。しっかり寝て新学期までに体調整えるの。さっき悟りをひらいた!」
 朝起きたら出家するわ、と言ってそのままベッドにもぐりこんだ。布団で団子になると、その背中を夏美がぽんぽんと叩いた。子どものころ、児童ホームのお昼寝の時間に先生がしてくれたような仕草だった。軽く苦笑するのが気配で分かる。
「まあ、実際そうだよね。恋愛はときどき体力勝負だから、離れてるからってうじうじしないで、まずは自分の生活のことを第一にかんがえることだね。生活が恋愛中心じゃない女の子はめちゃくちゃ魅力的だよ。おやすみ、七花」
 おやすみ、と返事をする。本寝に入る前に戸締りしなよ、と言い残して夏美は部屋を出ていった。七花は親友の手のひらが思っていた以上にあたたかく優しいこと、決して敵ばかりではないという事実に、羽毛でつつまれているような居心地の良さを感じた。親に許されなかった恋は、誰もが同じように反対し、ふたりで戦っていかなくてはならないのかと思っていた。だけど、そうじゃない。親友が要る。
 どうすればいいのか分からず雨の中をグラウンドへ歩いていったあのときとは違う。少なくとも、一年後にふたたび笑顔でふたりが会えるしあわせな未来を夢想できるほどには、今の状況でもしあわせだった。


 そうしてさらに一ヶ月があっという間に過ぎた。
 新学期もはじまり、学校と寮の往復がつづく。寄り道もできない。平凡な女子高生としての生活を失ってしまったかと一時はセンチメンタルになったこともあったが、たかがこれぐらいのこと、愛する人の前ではなんのこれしき、と己を奮い立たせて立ち直ってきた。
 親に言い訳させないためにも学校では必死に勉強し、一月末の実力テストでは学年二十五位にまでのぼりつめた。下駄箱前に貼りだされた成績表を見て七花と夏美は抱きあって喜んだ。親の反対を振りきって恋をしているのだから、納得させるだけの材料は多いほうがいい。
 一月二十七日の七花の誕生日には、夏美がバレンタイン前限定で発売されていた有名ブランドのコフレセットをプレゼントした。アイシャドウやグロスなど、七花が雑誌で見ているだけで実際には使ったことのない化粧品がたくさん詰まったかわいい箱を、ずっと抱きしめて眠った。その週末、夏美と一緒に部屋で化粧の練習をした。とにかくかわいくなりたい、かわいいって言われたい。一年後の再会を目指して、ひたすらに七花は雑誌とにらみあい、夏美のアドヴァイスを必死でのみこもうとする。
 毎日、夜にはかならずメールをした。吉久の部活が忙しいので一往復のみの、ちょっとした「今日の報告」に似たような、短文日記に近いものだった。七花が「屋上で夏美とお弁当食べたら飛行機雲がのびててきれいだったよ!」と写真を添付して送れば、吉久が「今日はじめてスリーベース打った。ほとんどエラーにつけこんだんだけど」とかえしてくる。ただそれだけだが、些細な日常を共有しあっているという喜びが七花の意識をささえていた。たまに吉久のメールの末尾に「好きだよ。泣かないで」と書いてあり、うっかり目頭が熱くなるのだった。
 勉強に、おしゃれに、自分磨きに、教養に、毎日のメール交換に。両親に反対された恋を成就させるために女子高生ができることは、あまりにも少なかった。ただ一途に、好きな人から愛される女の子になりたい。その一心だった。
 どうして人はここまで夢中になれるのだろう。恋は人を狂気にもかりたてる。愛は歴史を火の海にし、血だまりをいくつも作り、国を滅ぼした。人の屍の上に築かれる愛は長くつづかない、と吉久が言ったように、確かにそれらの歴史上の純愛はほとんどがみな成就されずに死にゆくばかりであった。
 彼ら彼女らが求めたものはなんだったのか。誰にも祝福されなくてもいいと全てを捨て去り、そうしてまで求めるものに、それなりの価値や存在理由があったのか。善か悪かも分からない。ただ、似合わず大人っぽい理屈をつけて逃げ回ることはいつでもできる。命をもってしてでも愛を貫きたい。その気持ちは現代の七花にも確かにあった。
 だからこそ、だ。勉強した。おしゃれをした。本を読んだ。身体を磨いた。すべてはたったひとりの男のために。
 夏美はたまに学校帰り、着替えてすぐに駅前に出かけていって、私の大好物のショートケーキを買ってきてくれる。「強い子だよ、七花は」と言われても、苦笑するしかない。別に褒められたいわけじゃない。
 二月も半ばのある日、七花が部屋で読書をしていると、寮の本館から内線が入った。手もとの江戸川乱歩のキリが悪く、受話器に手を伸ばすまでにずいぶんと時間がかかったが、最初に「もしもし」と答えたときはわりかし声がはっきりしていた。
「小包来てるよ、親展」
 実家かなあ、めんどくさいなあ、と思いながら印鑑を持ってふらふらとコテージから本館へ移動すると、正面玄関前の受付窓口に座っている事務員さんが、ドアと外のちょうど境目に立っている緑色の制服を着た配達員を指さした。
「佐河急便でーす。印鑑お願いします」
 はいはーい、と寒さに身を震わせながら印鑑を押す。受けとった受領書をたしかめ、あれっ、と声を漏らしてしまった。差出人は吉久だった。郵便物は学校側からも検挙されないんだ、と顔じゅうに笑顔が浮かぶのが分かり、思わず受領書で口元を隠す。「御苦労さまでした」と言うと、配達員が帽子の庇を少し指で押しあげた。
「七花」
 その声がつるんと耳に入ってきた瞬間、七花は地面に呼ばれたリンゴが砕けるような衝撃を鼓膜に感じた。顔をあげると、緑色の庇からのぞく配達員の顔は、確かに、吉久だった。人さし指を口元に当てて「しっ」と言う。事務員さんは手もとの作業に集中していて気づかない。七花は思わず声をあげそうになり、しかしぐっと我慢する。目にみるみるうちに涙が溜まり、声には出さず「会いたかった」と唇を動かした。吉久は優しく笑い、「俺も」とまた口パクでこたえる。おそらく長居はできない。この一瞬の時間で、ただ言えることをひとつずつ。ほんとうは今すぐにでも抱きしめたい、このまま連れ去って欲しい。だけどそれは、これまで努力してきた自分と、受けいれてくれた吉久への裏切り行為だと思い、ただ笑うあうことしか許されなかった。
 吉久は制服のポケットからちいさなメモを出し、七花の手に握らせた。そしてふっと、いつも見せてくれていた無邪気な笑顔をむける。「ありがとうございましたー」と元気よく頭をさげ、不自然にならないようにその場から走り去った。寮の正門に置いてある配達用の自転車に乗りこみ、すぐに塀のむこうへ消えてゆく。その背中を最後まで見送り、七花は手もとの受領書と荷物を見た。男子らしい不器用な字で書かれたこの寮の住所と部屋番号と「木ノ下七花」の文字。これほど自分の名前がいとおしくなったことはかつてないだろう。荷物はテレビゲーム機ほどの大きさで、赤字で「親展」と書かれてある。
 部屋に戻ってメモをあけると、伝票と同じ字で、まず言いわけからはじまっていた。
「あの制服、佐河でバイトしてる友達から借りたやつ(笑)。似合ってんだろ(笑)。というのは余談で、今日は七花に会いたくてこの恰好をすることにしました。このメモを書いてる時点でどうなるかは分からないけど、七花との再会を願って。離れてても俺はずっと七花が好きだよ。 三津吉久」
 その手紙を三十回読んだ。本当に三十回読みかえした。幼稚だと言われてもかまわない、子どもの恋愛だと笑われてもそんなのは事実だ。ただ、好きな人から好きだと言ってもらえるこの喜びを、ベッドに転がって何十回もため息をつくほど味わえるような日々は、今日を抜いてもう来ないだろうと思った。干したてでふわふわの布団はあたたかくて気持ちいい。つつまれているような気分になる。優しい布団にくるまりながら、七花は簡素なケースを包装紙でくるんだだけの小包をあける。
 中には「誕生日おめでとう」の字の横に「ちょっと遅いけど」と書きくわえられてあるかわいらしいイラストのポストカードと、七花の趣味をよく分かっている、白いレースつきのワンピースが入っていた。
 
 ――吉久と会えたのは、これが最後だった。


「飾るなよ」
 崇めるなこら、と夏美から頭にチョップを入れられる。ていねいにハンガーにかけられた白のワンピースは今、部屋の西側の壁に吊ってある。ほとんど祠をたててあがめたてまつりそうな七花の勢いに、夏美が早々にハンガーをおろしてしまった。いくらもう日が落ちて色落ちの心配がないとはいえ、服を裏返さないまま窓の近くに晒すことはしたくない。
「ああっ、なんてことを、恐ろしい子!」
「いや、わけ分かんないって。こんなの吊るして着てあげない子のほうが恐ろしいわ」
「もうなんかね、感極まったって感じ。世はまさに私の時代」
「極まるなよまだ一年残ってるのに」
 そうなんだよねえ、とぼやきながらベッドに倒れこむ。そんな七花の部屋着用Tシャツの裾をぺろんとめくって、「どうせなら着て吉久くんに写メ送ってあげたら?」と言う夏美。
「その手があったか」パブロフの犬のように起きあがる七花。「でかしたぞ夏美。褒美をとらそう」「ありがたきしあわせ」「はいカントリーマアム」「うわ一枚だけかよ」
 いそいそと服を脱いでキャミソールとレギンスに着替えた七花は、震える手で吉久からもらったワンピースの背中のチャックを少しおろす。一度も使われていない、真っ白のレースのワンピース。胸元にピンク色のリボンがついていて、腰も絞れるように背中で結ぶリボンが通っていた。袖は七分丈で真夏以外ならいつでも着れそうな長さ。ちょっと少女趣味すぎやしないか、と夏美は苦笑したが、吉久がくれたものだというだけで触れるのもためらわれるほど大切な宝物になってしまった。
 頭からかぶり、袖に腕をとおす。顔を出して襟もとを整え、スカートの裾を張る。腰のリボンを調節すれば、エプロンをはずした不思議の国のアリスのようだった。部屋にそなえつけの全身鏡をのぞきこんだ瞬間、かあっと顔が熱くなる。ついついいつもひらいて立っている足をぴっちり閉じる。
「やだ、ほんとに少女趣味だ、かわいすぎる」
「これはレギンスじゃなくて白のソックスとかタイツとかと合わせたほうがいいね」夏美が背中で皺を張りながら言う。「で、茶色のパンプスはいてさ。これだけだとガーリーしすぎるから、デニム地かチェックのシャツを羽織ったり、濃い色のジレつけたりしたら甘さ抑えられるんじゃない。デートのときだけレースのカーディガンを合わせたらいいと思うけど」
「夏美、ここ最近ずっと研究してる私よりファッションとか詳しくない? 確かに夏美の私服、おしゃれだと思ってたけど」
「七花はそのかわり歩くスキンケア百科じゃん。最近輪をかけて肌の手入れに凝ってるみたいだし、恋してるなあって思うよ。その点、負けるわ」
 七花は肩越しに夏美を振りかえる。夏美は大人っぽい美人で、他校の生徒とつきあったことが何度かある。どちらとも別れてしまって今はフリーだが、決して傷つかずに別れを迎えたわけではない。甘さ以上に酸っぱさをよく知っている。彼女が自分の恋を全力で応援してくれることからも、決して妬みを孕んでいるわけではないと、長年親友をやっているから、分かる。
「七花はさ、もっと背中伸ばしていいんだよ」
 肩に手を置いて話しはじめる夏美。「前も言ったけど、親にあんだけ反対されてさ、それでも思いを貫ける人はそうそういないよ、現代。飽きて他のもっとかっこいい人に流されちゃったりするのがほとんどだもん。そのことだけは間違ってない。それだけひとりの人間を愛せるっていうのは、誰にでもできることじゃないよ。もっと自信持って。肌がきれいなのは七花のいいところのひとつだよ。白い服がよく似合う。今よりずっといい女になって、吉久くんを癒してあげて、親を納得させて、しあわせになりなよ」
 ね、と笑う。
 目の端にじわりと涙がにじんだ気がしたが、気づかれないように「そうだね」と笑いかえした。しあわせになる、という単純な夢を、自分じゃない誰かの事情で捨てたくなかった。
 少し慣れてきたナチュラルメイクを施し、夏美に携帯を託す。カメラを向けられてふと、どういうポーズをとればいいのか分からず、とりあえずモデルっぽく足を交差して両手でピースを作ると「子どもか」と夏美に笑われた。だがそのポーズを崩して「にゃにをう」と反論する前にシャッターを切られてしまい、結局そのモデルまがいの写真を吉久に送ることになった。
 メールに添付して、「誕プレありがとう! 着てみました」と書いて、送る。窓の外にむけて高々と手をあげ、ボタンを押すその手はかろやかだった。
 もう夜十時近い。いつもならすぐに吉久からの返信が来るのだが、雑談をしたりふたりで漫画を読んでいてもいっこうに返事が来ない。やがて施錠時間が近づき「疲れて寝ちゃってるんじゃないかな、大丈夫だよ」と言って退室する夏美。彼女に「また明日」と笑って手をふるが、不安は晴れない。落ちつきなく何度も携帯をひらいて、新着メールを確認してしまう。そうだ寝ちゃったんだ、と自分に言い聞かせて勉強をはじめたが、頭に入らない。
 画像フォルダをひらいて、吉久に送った写真を見た。足を組んでピースサインをする自分が、もらったばかりのワンピースを着てしあわせそうに笑っている。自信を持てと言われたばかりなのに、早くも折れてしまいそうになった。
 どうしたのかな。
 そのつぶやきは、春を待望する夜風のざわめきにかき消された。


 ノックの音にうまく答えることができなかった。
「七花、食堂行こうよ」
 夏美の声だ。布団の中で身じろぎし、丸くなる。外に少しでも指先を出すと刺すような寒さが襲う。出たくない。手にはぎゅっと携帯をにぎったままだ。
「今日はいい」
 外にも聴こえるように大きな声でそう言うと、そっとドアをあける音がした。「七花?」夏美の呼びかけに目をあけると、部屋着の夏美に顔をのぞきこまれた。
「どうしたの、いつもちゃんと朝ごはん食べてるのに」
「食欲ないの」そうこたえて布団を頭からかぶる。
 が、思いっきり毛布をひっぱがされてかなわなかった。
「ぎゃー寒い、なんて恐ろしい子!」
「そのネタも二回目だから鮮度落ちてる。なんかあったの?」
 ベッドに座って不安げにたずねる夏美に、またもじんわりと涙がにじんできた。寒さに身震いする。右手の携帯電話を壊れるほど強くつかむ。夏美はその手を見て「まだ返事来ないんだ」とちいさな声で言った。七花が大きくうなずくと、涙がひとつ、舞った。
 とりあえず部屋着に着替えて本館へ移動し、食堂で朝ごはんのセットを食べる。
「男はメール不精ってよく言うけど」
 机に行儀悪く肘をつき、ハッシュドポテトにフォークを突きさしながら言う夏美。「自分があげたワンピ着てる彼女の写真つきのメールなのに。何回も送ったんでしょ? もう一週間ぐらいたつのに。さすがにちょっと単なるめんどくさがりだとは思えないよ。何かあったんだよ」
 七花は何も言えなかった。手もとの味噌汁の椀に箸をいれたまま動かない。味噌が沈んで二層に分かれている。分離して、混ざらない。また涙が出そうになる。
「実は昨日さ」
 夏美の言葉にそっと顔をあげる七花。最低限のドレッシングで素材の味を生かしたサラダが、彼女の口に消えてゆくのをじっと見る。何度か噛んで、嚥下し、夏美は指で寮の裏手を指さす。
「野球部の練習を見に行ってみたの。吉久くんいないかなって。そしたらさ、どこ探してもいないの。グラウンドはもちろん、ベンチにもいなかったし、夜、みんなが帰っていくところも更衣室の電気が消えるまで見てた。でも、いなかった」
 手が一瞬、感電したように震えた。振動が箸に伝わり、底に溜まった味噌が少し、砂埃のように舞って混ざる。
 いない? いないって、野球部に? あれだけ必死になって練習して、成績残そうとしてたのに?
「一週間もメールの連絡がつかないのと、野球部に顔ださないのと、まあ普通に考えて関連性あるよね。多分、単にメールをかえさないっていうより、運動部にも出れないような事情が今あるから、メールの返事どころじゃないっていうことだと思う」
「私」
 今にも立ちあがらんばかりに血気迫る七花。「松高に行ってくる」
「落ちつきなよ、今は外に出れないんだから」
「うまい理由考えて夏美付き添いで外出許可とって、野球部の人に聞いてくる」
「それにしても危なすぎるよ。どこで見られるか分かったもんじゃないし、松高の人から噂がこっちの学校関係者に流れてこないとも限らないでしょう? 吉久くんや千斗さんはいい人だけどさ、松高には噂どおりのド不良も山ほどいるんだから、末女の生徒が自主的に接触したらあっという間に広まるよ。そうなったら、一年我慢して正式につきあうっていうふたりの約束も結局やぶることになるし、親の信頼も一生勝ち取れなくなるよ!」
 何も言い返せなかった。下唇を噛む。泣きそうになったけれど、死ぬ気で耐えた。瞼をきつく閉じて目尻をぬぐい、焼き魚を小骨ごとかきこむ。みじめだった。自分の非力さが情けなくてしょうがなかった。
 例えば吉久が松高の生徒じゃなければ、すんなり親に認めてもらえたのだろうか。何の先入観もなく好きになれただろうか。誰の目も気にすることなく、自由に好きだと言えただろうか。あるいは自分が末摘花などではなく、旧家の娘ではなく、一般の、普通の女子高生だったら。自分がちょっと不良っぽい女の子だったら。ふたりとも同じ共学の公立高校に通っていれば。クラスメイトだったら。
 好きだという気持ちを絶対に捨てたくない。だけど、できれば友達や家族から「おめでとう」「しあわせになってね」と喜んでもらえるような恋がしたい。心から祝福され、しあわせで胸がいっぱいになるような恋がしたい。それがどうしても叶わないのは、自分が旧家のお嬢様で、名門女子高の生徒だから? 相手が近所から嫌われている荒れた高校の生徒だから? 両親はいまだに、吉久の名前も顔も素性も知らないまま、松高の生徒だというだけで毛嫌いし、自分から遠ざけようとしている。何も知らないくせに、という怒りがふつふつと湧き起こる。こんな時代錯誤な差別もいい加減にして欲しい。それで被害を受けるのは、いつだって差別意識を持たない新世代の子どもだ。
 悔しくて、悔しくて、悲しくて、寂しくて、こらえていた涙がぼろぼろとこぼれた。それでも朝ごはんをひたすらに口に運びつづけた。気を紛らわせるように、何も言わず。夏美は隣に座って、七花の頭を優しく撫でつづけた。

「しばらく学校を休んだっていいんだよ。無理して気分転換しようと思わなくても、悲しいときはそりゃ誰だって我慢できないもん。だけど、何かしてないと潰れそうっていうときは、いつでも戻っておいで」
 夏美はそう言って食堂を出ていった。彼女の言葉は赤ん坊をあやすように優しかったが、七花は後者だった。何度「どうしたの?」とメールを送っても、一週間以上返事が来ない。電話をかけても電源を切ったままになっている。春の選抜が近いのに野球部の練習にも出ていない。ずっとそのことばかり考えていたら、本当に寮を飛びだして松山高校まで走っていってしまいそうだった。何か別のことに集中していないと、気が狂いそうだ。それに、夏美の言うとおり、ふたりの約束と決心は絶対に崩したくない。親を認めさせるためにも、学校の勉強だっておろそかにしてはいけないのだ。
 七花は授業中にも、「心配しています、返事をください」という類のメールを日々送ったが、携帯は一度も吉久指定の着メロを鳴らさない。授業はつとめて集中しようとしたが、少しでも気をゆるめると泣いてしまいそうになり、携帯を見ずにはいられない。いつひらいても待ち受けに「新着メールが一件あります」という文字は、最初からなかったかのように、忘れてしまったかのように、現れない。休み時間は夏美と机を並べてお弁当を食べながら、痛みを吐露し、慰められる時間だった。
 日々が流れ、時間がたつごと、七花は「自分が何かしたのか」という不安に駆られるようになった。悪いことを言ったのかもしれない、嫌われるようなことをしたのかも知れない。そんな不安要素は日に日に肥大し、自分の身を呪うようになった。自分がお嬢様だから、つきあいきれないと思ったのかも知れない、面倒だと思われたのかもしれない。どうすればいいんだろう、家を縁を切ればいいのか、自立すればいいのか……。それが他人による圧力や強要ではなくすべて自分の中から生まれてくるものだと分かってはいたが、不安はそう簡単にはおさまらない。不安を増大させるのは、間違いなく己自身だ。誰もそんなことを言っていないのに、メールが来ない、野球部にいない、会えない、という目に見えない要素が人を恐怖におとしいれる。何か形のある答えが欲しい。吉久が元気に町を歩いていたとか、野球部の練習に復帰していたとか。
 音沙汰がなくなって三週間が過ぎた。寒さもほとんど弱まり、雑誌は桜の名所特集で埋め尽くされ、誰もがお花見をしに外へ飛び出す。末摘花は三年生の卒業式を終え、七花たちも二年生へ進級する。終業式当日、七花は講堂でクラスごとに整列し、校長の話を聞き流し、ぞろぞろと教室に戻るその一時間あまりのあいだ、ひたすらに吉久のことを考えていた。起きてから寝るまで彼のことを考えない時間は一分とない。足取りも弱く、ほとんど靴裏をひきずるように歩いている。日を追うごとに食事の量も減って、肌にニキビなども目立つようになる七花を、クラスメイトの誰もが心配した。「スキンケアだけは絶対に怠らない七花が」とみんなが驚いたが、夏美が彼女たちをうまくブロックする。七花はただ、ぼんやりと虚空を見つめているだけだった。
 なんの連絡もなく、予兆もなく、突然切られてしまった連絡。外に出れない自分の身分。いまだに野球部には顔を出していないらしい吉久の身を、命を、危惧するばかりの毎日。
 一年間会えないという試練も、毎日のメールや連絡があるから耐えられた。それなのに。どうなってもいいから一目会いたい、寮を出たい、と決心を固めるのは早かったが。
「そうだ、七花!」
 帰る準備をしていたところに、七花が机の前に立ってまくしたてる。「千斗さんだよ、メアド交換したでしょ? あの人に連絡してみようよ!」
 ふわっ、と身体が浮くような感覚がした。黒い布をかぶっているような自分の背中が急に軽くなった気がした。顔をゆがめて笑うようなことがしばらくなかったからか、目を見開くと頬のあたりがつっぱった。
「そうか」口元にそっと手を添える。「あの人、吉久くんの従兄なんだっけ。何か知ってるかも」
「でしょ? ほらほら、早く電話してきなさいって」
 どやどやと七花の背中を押して教室から追い出す。肩にかかる鞄が妙に重い。ふいに心臓が緊張して早いビートを刻む。鞄からだした携帯をひらき、千斗のデータを呼びだした。彼と同じ名字が、どこかなつかしい。
 なんで今まで気づかなかったんだろう。
 思いきって女子トイレで電話をかけると、相手はすぐに出た。
『おー、七花ちゃん。久しぶり。ってゆうか電話は初めてだよね』
「千斗さん、ちょっと聴きたいんだけど、吉久くんって今どうしてる?」
 あいさつもそこそこに本題を切りだすと、千斗は『んー』と悩ましげな声を出す。電話機
を耳に押しつけて、どんな気配も見逃すまいとする。チッと舌打ちする音が聴こえて、『俺もさ』とこたえる千斗。
『受験だからもう全然連絡とってないのよ、吉久と。遊びに行けないぐらい忙しいし』
「私、ここしばらくずっと連絡がとれてなくって」
『嘘? あいつ、マメだからメールとか特急なのに。電話は?』
「通じない。なんかずっと電源切ってるみたいで、メールも何回も送ってるのに」
 彼の言葉に七花は膝を崩しそうになった。従兄だったら何か知っているかも、という期待はもろくも崩落する。届いたメールにはかならず返事をするらしい吉久がここまで連絡を切ってしまうのは珍しいという。例えば野球部の遠征や合宿などで長期的に地元を離れることはあっても、三週間も電源を切りっぱなしだなんてありえない、と言われ、七花はふたたび濡れた絶望の幕が背中に覆いかぶさるのが分かった。
『分かった。こっちも連絡とってみる。俺の携帯にも返事が来なかったらやばいな。俺、あいつの家がどこかも家電の番号も知らないけど、先生に住所聞いて行ってみるわ。さすがになんかあったのかも知れない。俺も親とケンカして家出たっきり、ひとり暮らしだから、親戚の状況はっきりつかめないわ』
「うん、ありがとう、千斗さん」
『しっかし七花ちゃん。ほんとに吉久のこと好きなんだねえ』
 おちゃらけた声で言われ、ぼぼぼっ、と頭が沸騰する。夏美と同類か、こいつ。七花が「おっさん発言しないでくださいっ」と叫ぶと、電話のむこうからおかしくてしょうがないらしい笑い声が聴こえてきた。
『いや、だって、ねえ』
「そりゃ、好きですけど」
『うん、いいことだ。そうやって素直に好きだって言いあえるような関係が本当はいいんだろうね。俺、吉久の家のことってあんまり知らないけどさ、あんなやつが生まれてくるような親なんだからきっといい両親だよ。七花ちゃんのことも歓迎してくれると思う。それぐらい正直なほうが、報われるかどうかは分からないけど気持ち的にはかなり楽だよ』
 俺が楽観的で正直に生きてるからね、と言われつい笑ってしまう。目尻の涙をぬぐって「ありがとう」と言うと、「吉久に飽きたらいつでもおいでー」と茶化される。このチャラい雰囲気が今は救いだった。嘘でも笑っているだけで、なんでもうまくいきそうな気がする。そうして気分が少しではあるが晴れ、千斗からの続報を待つべく話を切り上げて電話を終えようとしたとき。
『あ、なんかあれみたいだよな。それこそまた火事とか起こったら吉久もすっ飛んでくるんじゃないかな。知ってるよ、末女の寮が火事になったとき、吉久ふくめ野球部員がかっ飛んできて消火活動に参加したんだって。それでふたりが出会ったんだから、まさに燃える炎のような恋だよなあ。運命だねえ』
 ちなみに冗談だよ? 火事なんてそうそうしょっちゅう起こったら困るしね、と笑う千斗に苦笑でこたえた。電話を切ると、誰かの騒ぎ声が遠くからかすかに聴こえる女子トイレの空気が戻る。サブディスプレイの時刻表示が消えた携帯を少し強く握り、残像のように耳の中で反響する千斗の言葉に集中した。ちいさな窓の外で小鳥が鳴く。葉擦れの音が耳に甘い。ドライヤーを当てすぎたときの、髪が焦げる異臭。


 八百屋お七が自宅に火をつけた理由は、厳密には解明されていないままだ。
 そもそも江戸の娘に「好いた男のために家に火を放つなんて」という考えを持つ者が多いこともそうだが、すべてにおいて八百屋お七の伝説は謎だらけである。
 お七は本当に、吉三郎に会いたいがために火をつけたのか?
 本気で「また火事が起これば会えるかも知れない」などと考えたのか?
 江戸の奉行所に連れてゆかれたお七が、町奉行に「お前の年は十五(十五歳以下は死刑にはならない)にちがいないであろう」と謎をかけた、つまり情けをかけられたにも関わらず実際の年齢の十六歳を頑固に主張し、あえて死刑に身を投じたことも不自然だ。そのまま情けに甘えて刑を逃れれば、ふたたび吉三郎に会えたやも知れないのに。
 なぜ八百屋お七は火をつけたのか。なぜ自ら死を選んだのか。
 さまざまな歴史研究家たちが追いかけたが、現在も謎につつまれたままである。江戸の町に咲いたたったひとつの恋の花が、町を火の海に変えようとした。ひとりの少女の一途な愛が、彼女の命を桜の花びらのごとく散らしてしまった。火刑となるその瞬間、お七は誰を思って死を受けいれたのか。
 しかし、誰がこの事件を幼い恋の結末だと決めたのだろうか?
 お七の放った炎は、なんという名前の灰を残したのだろうか?


 深夜三時。
 七花はそのとき、音を立てないように部屋の鍵をあけ、そっと廊下へ出た。
 足元についている非常灯とトイレの看板の光と窓からさしこむ月光以外、あかりが何もない。学校に履いていくローファーだと足音が大きすぎる、ということで靴下のまま廊下に踏み出し、ひたひたと非常階段のほうへ歩いてゆく。東側にならぶ部屋は自室もふくめてぜんぶで四つあり、どこも電気が落ちて寝静まっているのが分かる。
 他に何も音が聴こえない。かすかに春の虫が鳴いているような気がするが、分からない。空気はキンと冷たく、ノックしようと思えばできるんじゃないかというほど硬質。いくら春が近いといってもまだコートが手放せない。一応カーディガンを羽織ってきたが、少し肌寒い。一旦戻ろうかと思ったが、できなかった。
 非常階段の手前に若干のエアポケットがあり、幅二十センチほどくぼんだその空間にしゃがみこむ。両手をこすりあわせ、息を吐きかける。暗い廊下にぼんやり浮かぶ緑色の非常灯が少し不気味で、そっと目をそらした。静かに眠る他の三人の生徒の顔を、ひとりひとり思い浮かべる。もう何が何だか分からない。
 分からないのは、何より自分のことだ。
 じっと座っていると、外で鳴いている虫の声が聴こえる。つかの間の静けさに、呼吸の仕方を忘れそうになる。非常階段の窓から見える夜闇にそっと手を伸ばすが、高すぎて、あきらめた。
 携帯をひらき、吉久の番号を呼びだした。コールボタンを押す指が震えている。寒いだけじゃないだろう。電子音があきれるほど単調に響き、「この電話は電波の届かないところに」と流れた瞬間、力をこめて切った。通話時間と料金が表示されている画面をじっと見つめ、目を伏せた。
 誰がそうさせたのだろう。
 非常階段の前には、何が入っているのかも分からない段ボールがすっかり忘れられて置き去りにされていた。消防法にひっかかっている。中をひらくと誰かが放置したのか小テストのプリントと、薄汚れた雑巾が入っていた。段ボールの表面は埃をかぶって、水分も油分も泥も吸いこんでいる。触るとざらりとして、手のひらが黒く汚れる。
 誰のせいにもしたくない。だけど誰かがかならず誰かのせいにするのだろう。
 七花はパジャマのポケットから、手のひらサイズのライターを出した。中等部時代、夏美と一緒に近くの公園でハンバーガーを食べているとき、ベンチの下に落ちているのを七花が見つけたものだ。オイルが十分入っていたので、夏場の花火などでおおいに活躍した。毎年かならず花火で遊ぶので、拾い主の七花が大事に持っていた。まさかこんなことに使う日が来るとは、持ち主だって思うまい。
 ライターにそっと火をつける。丸くてあたたかい光が身体を包んだ。人々はこの火に命を救われ、また命を奪われた。七花は中腰になり、その火をそっと段ボールの中に落とした。無残な姿になっている小テストに燃えうつり、ゆっくりではあるが徐々に広がっていった。
 七花は吉久にもらったハンカチを口元にあてて背をかがめ、しばらくそのままじっと耐えた。プリントが燃えあがり、古い雑巾にも炎が燃えうつるところを見たとき、颯爽と立ちあがって一階へ降りる階段のほうへ走った。途中何度もころびそうになりながら、ほとんどタックルするように真っ赤な非常ベルのボタンを押す。割れたボタンのガラスが指に刺さり、同時に槍のような鐘の音が響いた。去年の年末に本館で聴いたものとまったく同じ音。思わず耳をふさぎ、すぐ隣の部屋のドアを叩いた。
「火事だよ、早く出てきて! 火が出てるよ!」
 すでに非常ベルでたたき起こされていたらしい友人が慌てて扉から出てきて、さらに隣の部屋のドアも同じように叩く。七花は部屋から飛び出してきた夏美の手をとった。
「また火が出てたんだよ、早く外へ逃げよう!」
 着の身着のままの夏美は「なんでまたそう何回も!」と叫んだ。七花と夏美はならんで階段を降り、正面玄関前で寮長と対峙した。彼女は悪夢の再来に青ざめて、慌てて二階へあがった。七花は寮の中庭へころがり出た。非常階段の近くの窓から白い煙がかすかにあがっている。去年と同じだ。あの焦げた匂いも、喉が痛くなる煙も、何もかも覚えている。
 もっと。
 もっと、煙が高く、太くあがってくれれば。
 しかし、やがて消火栓の破裂音が聴こえ、炎の煙に交じって消火器の粉が窓から吹きだしてくる。中庭に集まっていた生徒が安堵の声をもらし、ピリピリしていた空気がおさまる。夜風が責めるように七花をあおるなか、夏美が肩腕に飛びついて「よかったああ」と叫ぶ。その言葉にどうにも返事ができないまま、ちいさなボヤ騒ぎは終わってしまった。
「なんだ」
「え?」夏美が顔をあげる。
「あ、ううん、なんでもない」
 笑って手を振るも、どうにも不安でしょうがなかった。
 煙の量が、少ない。
 もっと本格的な火災になって、消防車がサイレンを鳴らしながら寮へ向かってくるほどの騒動を、かんがえていたのに。しっかり燃えるところまで見届けたのに。段ボールが湿りすぎていたのか。
 どうして?
 騒ぎがひと段落し、おそるおそる建物内へ戻る生徒たち。消防車を呼ぶまでもない、備えつけの消火栓で完全に消えてしまったちいさなちいさなボヤ。七花は困惑に眉をひそめ、だが騒ぎだしたいのをぐっと耐える。
 できなかったのだ。自分は、歴史のようにはいかない。
 二階へ戻ると、真っ白な消火器の粉にまみれた非常階段側の壁が目に入った。その中で白く染まりながらも、ほとんど原形をとどめたままの段ボールの姿にがく然とする。正確な長方形のシルエットを見て、立ち止まりそうになった。それを取り囲んで、寮長と事務員の先生が軍手をはめてあちこち調べている。「どうしてこんなところから火が出るの」彼女たちの会話は聴こえないふりをして、七花は野次馬の生徒たちの一番後ろでうつむいた。
 寮長の指示により、今日いっぱいは他の棟の空き部屋や友人の部屋に泊めてもらうよう指示が入った。警察を呼び、詳細な出火原因を調べることになるらしい。一瞬は戦慄したが、まさか簡単に放火だなんて分かるわけがない、と首をふる。ライターはポケットに入れているので現場に残らない。明日の朝になったとき、指紋を拭って学校のダストシュートに捨ててしまえばもう放火犯の特定はできないだろう。なんとか逃げきれる。もはやこのとき、七花は吉久のことなど考えもしなかった。自分がいかに放火の容疑から逃れられるか、それだけのために試行錯誤していた。
 夏美と一緒に別の棟の友人の部屋に泊めてもらうことにした。他の棟の生徒もほとんど起きているので電話をしても問題ないだろうと思い、七花が携帯を出したとき。
「このハンカチ、誰の?」
 背中に氷を落とされた。ような気がした。決して春先の空気だけでない寒さに、凍える。
 寮長は片手に百貨店ブランドのハンカチをひらつかせて、野次馬の生徒たちに聞く。七花は気がつかなかったふりをして電話をかけようとした。しかし、すぐに「木ノ下さん」と声をかけられた。
 やばい。平静を装って振りかえるが、唇がこわばる。
「これ、水原さんが木ノ下さんのハンカチだって言ってたんだけど」
 彼女の手の中でひときわ存在感を放つ、吉久がくれたハンカチ。大切に、ていねいに洗いながら使っていたもの。以前の火災で起きあがるのを手伝っただけなのに、律儀にも百貨店で買ってきてくれたもの。
 七花は泣きだしそうになるのをこらえて、「ああほんとだ」と笑った。
「なくなってたと思ったんです。よかったあ」
「あのね、木ノ下さん、そこの段ボールの横にこれが落ちてたんだけど、あんな場所に行くことがあったの?」
 さらに問いつめられて返事に詰まる。確かに非常階段は廊下の一番西端にあり、そこには非常階段以外の何もなく部屋からも離れているので、埃をかぶったままで誰も近づかない。窓もない。何もない。「えっと」となんとか答えをつなごうとしていたとき、遠くからパトカーのサイレンが聴こえてきた。「ああ、やっと来たんだね」と寮長が嬉しそうに言うが、七花はその場から動けなかった。冷や汗が頬を伝う。足が震えてまともに立っていられない。迫りくるサイレンの音がすぐ真下で途切れ、人のざわめきが聴こえる。
 どうしよう。
 どうしようどうしようどうしようどうしよう。
 完全に鎮火したのだから、現場検証なんて次の日の朝にするものだと思っていた。ポケットにまだライターが入ったままだ。部屋へ戻るタイミングを失って、なんとかしなきゃ、と焦っているうちに冷静な判断ができなくなり、思わず夏美の腕にしがみついた。
「七花?」
 彼女の落ちつき払った声が逆に恐ろしい。
 二階に何人かの警察官がやってきて、寮長さんと一言二言かわし、出火元の段ボールを手早く調べはじめた。七花は数歩後ずさりし、「早く他の棟に行って寝ようよ、疲れちゃった」と夏美に笑いかける。彼女の手を引いて階段を降りようとしたとき、「ああちょっと待って」と警察官に呼びとめられた。
 手にしっかり握っていたハンカチが、地面にはらりと落ちる。
「まだ誰かの放火の可能性があるからね。生徒さんを疑ってるわけじゃないんですが、一応この棟に住んでいる人たちを全員集めてください。事情聴取をしますので」
 事情聴取。
 その言葉に全身の血液が凍った。七花は夏美の手を離して走り出し、階段の踊り場にある窓をあけた。ポケットの中のライターをそこから豪快なスローイングをもって投げる。大きな弧をえがいたライターはそのまま誰の目にも触れられず、どこかの茂みにでも落ちて証拠隠滅となる、
 ……はずだった。
 窓の下には何台かのパトカーと警察官がいて、こちらを何事かと見あげている。踊り場の窓の真下は中庭だったことを、パニックに陥っていて失念していた。彼らは七花が投げたライターが落ちたほうを目で追い、ざわめいている。夜風が唐突に、窓から強く入りこむ。七花の髪を揺らし、服を揺らし、もてあそぶ。
 ひとりの警察官が近くの棟の植え込みを探し、七花の持っていた花火用のライターを見つけだした。白いハンカチにつつんだそれを「ありました」と叫んで、二階の窓から中庭を見おろす警官にかかげて見せる。人の焦燥感を煽る赤いパトライトが、馬鹿みたいに同じ所作でくるくるとまわり、半透明のライターの表面を照らす。白いプラスチックに反射して、まるで桜の花びらのような、桃色に見えた。
 その後、末摘花学園女子寮で一発の銃声が響いたことは、生徒の誰もが忘れていない。



 世のあはれ 春ふく風に名をのこし おくれ桜の けふ散りし身は



 天気を問われれば決して笑顔では答えられない曇天。黒い画用紙の上に白い水彩絵の具を塗ったような空。今にも泣き出しそうで、涙を必死でこらえている、空。
 足を踏み出すごとに靴の下でさくり、さくりと音を立てる生え放題の草。それらの中から顔を出す石段を、吉久は右手に松葉杖、左手を夏美に支えられながらのぼっていた。夏美の左手には仏花の入ったビニール袋。風がときおり強く吹いて、不安定な二人をあおる。
 健康な人間なら数秒でかけあがってしまうような石段を十分以上かけてのぼりきり、ようやく目的の墓地についた。夏美は吉久の手を離し、水を汲みにゆく。吉久は松葉杖をきちんとついて体勢を立てなおすと、目の前に広がる墓石の列を前にして呆然とした。
 お盆のころになると、よく祖母の実家に帰って先祖の墓参りに連れて行かれた。中学にあがる年頃には面倒になって自宅で留守番をするようになったが。子どものころから、墓地の空気は肌に合わない。
 桶に水をくんだ夏美が「行こうか」と声をかける。吉久は彼女のあとについて墓石のあいだをぬって歩いた。寂しげにゆれる夏美のポニーテール。黒い服に包まれたちいさなその身体が、失ったものの大きさを無言で物語る。
 彼女が立ち止まったのは、「木ノ下家之墓」と書かれた立派な石だった。山奥の寺の裏山に沿うように作られたこの墓地は、元々江戸時代からつづく由緒正しき旧家の先祖ばかりが眠る場所らしいが、周囲の似たような墓石に比べて木ノ下家の墓石は輪をかけて高級そうだった。夏美はその墓石をていねいに磨き、割れた茶碗を洗って新しい水を入れ、枯れた花を取り換えた。足の悪い吉久はただ後ろに立って見ているしかなかった。
 線香に火をつけたのを合図に、夏美と吉久は同時に手をあわせる。少し弱まった風が、かすかに赤い火種をちらつかせる線香の煙を雲のむこうへさらっていった。
 七花が死んでから四十九日が経つ。
 末摘花女学園女子寮のボヤ事件があったとき、放火の発覚を恐れた七花が窓から投げ捨てたライター。彼女は半狂乱になり、逮捕されれば吉久に会うことも長く叶わなくなるとおそれたのか、それとも何か別の理由があったのか、コテージ二階で出火元の調査をしていた警官の腰の拳銃を抜き、自らのこめかみを撃ち抜いたのだった。
 加害者が自殺したことで放火の動機は分からないままとなり、警察もとまどい、結局は丁重に七花の魂を葬ることで事件はすべて終わってしまった。ライターに七花の指紋がついていたことから彼女が放火犯であることは確定されたが、どうして火をつけ、どうして自殺をはかったのか、いまだに謎に包まれている。
 吉久は七花の死後、病院で意識をとり戻した。宅急便の配達員に変装して七花に会いにいったその翌日、野球部の練習中に飛んできたライナーのボールが頭部を直撃し、意識不明の重体に陥っていたのだった。七花との連絡が途絶えたのもちょうどそのころである。彼は目覚めたとき、真っ先に日付をたずね、そして七花に連絡をとろうとしたという。
 だが、七花はすでに帰らぬ人となっていた。自分を一年間待ち続けると誓った愛する女の子が、倒れている間に連絡がとれないことで鬱状態にあったことを聞き、吉久は病院でただひたすら泣いた。一週間、昼も夜も泣いていた。夏美が持ってきた「平成の八百屋お七、非業の死を遂げる」という見出しの新聞記事を読んで、悔しくなって、それをめちゃくちゃに丸めて壁に投げつけた。
 彼は左足のひざから下の感覚を失い、野球部を退いた。春の選抜には、二度と出られなくなってしまった。動かない足をひきずって、吉久は泣いた。なぜこんなことになるのだろうと神を憎んだ。運命を呪った。倒れると分かっているなら事前に連絡でも入れられるのに。最後にもう一度抱きしめてあげたかった。愛してるよと言ってあげたかった。自分のことを思いつづけて死んだ女の子が帰ってくることだけを、吉久は祈りつづけた。あるいは病院のキャスターを右足で蹴飛ばしたり、病院の窓から夜空に向かって叫んだり。自分がもっとボールの行方に注意していれば。もっと早く目覚めていれば、七花が暴走する前に自分が行って、何度でも好きだと言ってあげられたのに。会えなくてごめんと謝れたのに。
 ただの石になってしまった七花を前に、吉久はていねいに手を合わせた。戻ってきてくれと願うばかりだった悲しみはもうほとんどが薄れてしまった。その代わり、寮から出られてよかった、そっちでしあわせに暮らして欲しい、と切に祈るようになった。
 平成の八百屋お七。マスコミはうまいことを言ったものだ。
 寺小姓である吉三郎との交際を反対されたお七が、彼に会いたいがために自宅に火を放ち、江戸を火の海にする。彼女もまた自ら死罪を選んだひとりであり、その動機はいまだ不明のままだ。
 それでも、どうして。
 どうして自殺なんてしたんだ、七花ちゃん。
 生きていてくれたら、もっとたくさん会えて、もっとたくさんおしゃべりできたのに。
 知らず知らずのうちに涙が出た。自分が眠っているあいだに死んでしまった恋人の笑顔が、いつまでも脳裏に焼き付いてはがれてくれない。嗚咽を漏らす吉久の背を、夏美がずっとさすっていた。松葉杖がカランと音を立てて地面に落ち、その場に崩れ落ちた。涙が止まらなかった。止める方法を知らなかったし、今は知らなくてもいいと思った。
 風が強く吹く。ふたりの服を乱してゆく。ボヤ事件の日はこんなに風が吹いていなかった、と夏美は思いだした。絶望の目であの白い煙を見つめる七花の横顔を、忘れられない。
 七花が放った炎は、なんという名前の灰を残したのだろう。
 忘れられない。忘れてはいけない。
「こんなに手足を冷たくして」
「誰のせいだと思ってるの」
「好きな気持ちは、おんなじだよ」
 忘れることなんて、できない。
 吉久は声をあげて泣いた。自分のことを好きになってくれた女の子を、自分のためにその身を犠牲にした女の子のことを、最後まで抱きしめてあげられなかったことが、悔しかった。冷たい風の中、じっと縮こまりながら、寒さに震えながら、自分の名前を呼んでいた七花を思えば、一緒に死んでしまいたかった。だけど、それはできない。これからも生きて、生きて、生きて、生きて、死ぬまで生きて、何もかもをかかえて生きて、七花がくれた優しさや愛やいとしさを、すべてを宝箱にしまって歩きださなきゃいけない。その罪を問うことなんて今はできない。確かに犯罪を犯したかも知れない。それでも吉久はいとおしかった。自分の汚れた野球部の手をちいさな手でにぎりかえしてくれたあのあたたかさを。照れたように笑うあの頬の赤みを。頬を伝う涙を。自分を求めて名前を呼んだその声を。いとおしい何もかもを背負って、これからも生き続けなければならないのだ。
 もう一度、会えるならただ一言、伝えたい。
「好きになってくれてありがとう」と。
 こんな形で別れてしまうことになっても、七花ちゃんを愛している。

「帰ろうか」
 吉久は泥を払って立ちあがり、松葉杖をひきずって体勢を整えた。夏美は彼の手を支えようとしたが、優しく振りはらわれた。
「大丈夫?」
「うん、早く帰らないと」
 ふらふらと危なっかしい足取りで、曇り空の下、背中を丸めて歩く吉久。夏美は七花の墓から離れ、彼がいつ倒れてもいいようにすぐ後ろを歩いた。
 吉久の足元に、一歩ごとに、雫が落ちる。
「早く、帰って、着替えなきゃ。もっともっと練習して、春の選抜で、結果を残して、七花ちゃんの御両親に、認めてもらうんだ」
 ひとりごとのように呟きながら、墓地の外へつづく階段へ這うように歩く。夏美は階段の手前で彼の手をとり、またゆっくりと一段ずつ、ていねいに降りていった。
 吉久の涙は、枯れるまで止まらない。鼻をすすりながら、泣いて、泣いて、泣いた。
「認めてもらって、ちゃんと挨拶して、ちゃんと、つきあうんだ。好きですって。七花ちゃんのことが好きですって。真剣におつきあいしてますって。そしたら、一緒に堂々と遊びにも行けるし、手もつなげるし、抱きしめてあげられる。もっともっと、七花ちゃんに、好きだって、何度でも言ってあげたいんだ」
 思い出を背負った死者がまた泣きだしてしまいそうな、重くちいさなうわごとが、いつまでも空にこだまする。



<完>
2011/08/05(Fri)00:41:38 公開 / アイ
■この作品の著作権はアイさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
子どもの頃、八百屋お七のお芝居を見に行きました。
子どもだったので話の細かいところまでは分からずにいたのですが、それでも好きな人に会いたくて町に火をつけたこと、必死になって半鐘を鳴らしたことは理解できて、はっきりと覚えています。
大人になり、あの八百屋お七の物語が実は実際に起こったことなのだと知って、ひどくショックを受けました。
ここまで一人の男を愛し続け、愛を貫いた女性がいたというのは、いろんな意味で信じがたいことだったからです。

私にも、恥ずかしながら、というか僭越ながら、おつきあいしていた男性がいました。
今も心に思っている方がいます(↑の人とは別ですが)。
だけど、例えば自分が愛した男のために家に火をつけられるか?と言われればきっと微妙です(笑)。
そこまでする根性もないし、勇気がないだけです。たぶん。
けれどきっと、特に八百屋お七の場合ですが、恋は人を狂気に変えてしまいますしそれぐらいのことをしてもしょうがないんじゃないのかなー……なんて思ったりしてしまうのです。
それがいいことかどうかは別にして。

メンタル面だけを切り取ってみるなら、それほどのことをするぐらい相手の男性を好きだったということになって、それはそれで美しい愛の形だと思うのです。
世の中がどうなのかしりませんが、特に私なんかやっぱりどうしても恋愛には保守的になってしまうので(笑)。
何もかもを捨ててでも一緒にいたい、そばにいたい、と心から思えるような男性に巡りあえることがどれだけ幸せか、私もお別れを経験して痛感しました。
一緒にいられただけで幸せなんだと、当時の自分を殴りたいぐらいです(笑)。
この小説を書いているあいだ、つきあってくれてありがとう、好きになってくれてありがとう、とすべての元彼氏(ってひとりだけですが)に伝えたくなりました。

だからこそかも知れませんが、会えないことが悲しくて、家に火をつけたらまた会いにきてくれるかも知れない!と思ったお七の恋も、羨ましくてしかたないのです。
それだけ本気で愛された男性はきっと幸せだろうなと。
あくまでメンタル面だけの話です(笑)。放火はいけません(笑)。
1683年に火あぶりの刑で亡くなられたお七は、今も物語や人形浄瑠璃となって人々に語り継がれ、生きています。
彼女の純愛には謎も多いですが、分かっている事だけ集めてみても、やっぱり途轍もない愛を貫き通した女性だなと思うのです。

できるだけ史実に忠実にしたかったので途中、いろいろとむちゃくちゃな設定になってしまったところがありますが、どうかご容赦ください(汗)。
この小説自体、あまり考えずにさらさら〜っと短期間で書いたものなので(というか完全に自分の趣味用)、ところどころ文章がオカシイです。ほんとごめんなさい。
お七が実際にあえて死罪を選んだことは事実なので、その気持ちに敬意を表して、今回のストーリーも同じような結末にしました。
七花ちゃんがどうして自殺を選んだのか、私の中ではだいたい答えが出ていますが、みなさまもどうぞ七花ちゃんの気持ちになって色々想像してみてくださいませ。
どれが答えなのか分からないですが、たぶん、彼女は僕がいちばんなりたかった女の子像なんだと思います。

死者を愚弄するような書き方になってしまいましたが、このたびこのように現代版に編成させてもらいました。
すべての原点であるお七さんのご冥福を祈り、敬意を表してこの作品を捧げます。
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確かに色々突っ込みどころはあった気がします。
やっぱり突然私という一人称がひょいと混ざったり、そんなタイミングで火をつけるのかい!とか、ハンカチ落としちゃうのかい!とか、特にそんなに簡単に拳銃は奪えないし撃てないんじゃないかとか。
でも、それ以上になにか言霊というものを感じました。作者様の心の奥から取り出したような言葉が胸を打つんですよね。
まず、吉久が宅配業者に化けてきたところに胸キュンでやられちゃいましたよ。帽子をひょいと上げると愛しい人の顔。っか〜、たまんないっす(おい。
あと火をつけたあとの七花が、もう吉久のことじゃなく自分のことだけしか考えられなかったというのが、すごくよかった。この一文で全体にリアルさが出たと思います。確かにお七事件の謎を解くカギがこの辺にあるかも知れませんね。
そしてそして最後の吉久の独白、ここはすごい。マジで目頭が熱くなりました。何度読んでも泣けてくる。
いいお話をありがとうございました!
2011/08/11(Thu)09:38:501玉里千尋
>玉里千尋さま
コメントとポイントありがとうございます!
実際の出来事を無理やり現代にねじ込んだので、知識不足もありかなり無理な展開になってしまったことは自覚しています。
今後はより自然なストーリーを目指し鍛錬するのみです。ありがとうございます。
あと、吉久のことを気にいって頂けたようで嬉しいです。
宅配業者に化けて出るのはお七の事件でも実際にあったことらしく、物売りに変装してやってきたお七と、バレないように筆談で「愛しております」「私もです」と会話をしたそうです。
かわいらしいエピソードなのでここでも盛り込ませていただきました。
色々ボロが出ている拙作ですが、読んでくださりありがとうございました。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
2011/08/16(Tue)17:10:320点アイ
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