- 『超訳:八百屋恋火物語〜NANAKA〜【前編】』 作者:アイ / リアル・現代 恋愛小説
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全角24835文字
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原稿用紙約69.25枚
末摘花女学園に通う女子高生・七花が暮らす学生寮がある日、火事に遭う。その火の手の初期消火のために駆けつけたのは、不良が多いと町中から敬遠されている松山高校の野球部員たち。バケツリレーで火の広がりを食い止めた部員のひとり、吉久を手伝ったことで彼と仲良くなる七花。野蛮で低レベルな学校だという噂に反し、実直で紳士的な吉久に次第に惹かれてゆく七花だったが……―― 1683年4月25日、恋仲の男に会いたいがために江戸に火を放とうとして火刑に処された八百屋お七の史実を元に、まったく別の物語として現代版編成してみました。
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髪にドライヤーをあてすぎると焦げ臭い匂いがした、というのはよくある話で、七花も少なからずその匂いを覚えているひとりだった。髪の毛の燃える異臭。やさしくておおきな何ものかが外側から炎に侵食される気配。食堂からたまに漂う料理が焦げた匂いとは違う。
ロビーでのんびりと至福の放課後を満喫していた七花の耳に、火事、というちいさな声が何度も飛びこむ。疑問形の、焦慮の混ざった語調にまさかそんなとなかばあわてながら首を背後へひねると、夏美もまた別の友達と顔をつきあわせて、火事なのかな、とささやきあっていた。
「ねえ、どうしたの」
できうるかぎり落ちつき払ったトーンでたずねると、なんか臭い、と夏実が言った。言われて注意深く鼻から息を吸う。あ、ドライヤーをあてすぎた髪。まさかだったらどれほどよかっただろう。それから数瞬のあいだにロビーにいた女子全員がその異臭に気づいて立ちあがり、危険を察知して身仕舞いをはじめていた。
やばい火事だ。そう七花が思ったとほぼ同時に火災警報が暴力的な音を響かせる。
これは演習ではありません、本館内にいる生徒のみなさんは落ちついてすみやかに外へ避難してください、火事です、外へ避難してください。逆にパニックを起こしかねない先生の声を荒げたアナウンスに、ロビーにいた女子たち十人ほどが一斉に悲鳴をあげながらドアにむらがる。普段はおしとやかでお嬢様風情の彼女たちを翻弄する非日常。これが集団心理の怖さか、と焦っている自分を自覚できるほどには落ちついていた。我に返った七花も夏美の手をつかむ。「どうしよう、大丈夫かな」「先生がもう消防車を呼んだだろうし、外へ出よう」あわてふためく女の子の集団にもまれながら、七花と夏実は押しだされるように廊下を進んだ。事前の火災訓練の成果はなく、ほとんど全員が駆け足で、ころぶ生徒もいた。とにかく外へ。その同時多発的エゴがチェックのスカートをあちらこちらでひるがえす。
ほうほうのていで外へ出たとき、本館の出口とは反対側からにぶく黒い煙があがっているのを見た。火災の様子は何度も見たことがあるが、身近で被害に遭うのはこれが初めてだった。暦は冬にさしかかっているというのに周囲が暑い。じりじりと太陽光に照らされているときによく似た暑さが肌を焼く。放課後のすぐあとだったからか本館にいた生徒は少なく、三十人もいなかった。その場にしゃがみこんで動けない子を他の子が助け、歩ける子は植え込みの奥まで逃げる。空には美しい夕日がかがやいていた。水色に赤の絵の具をにじませたようなクリアな空が、遊ぶようにゆらめく。
私は本館から道一本を挟んで東側にある二号館まで移動し、桜の木の奥に隠れる。末摘花学園の寮は二階建て十二部屋の離れコテージが五つあり、それらに囲まれるかたちで本館が位置している。本館は大きなテレビをそなえつけた談話室や食堂など、放課後の生徒たちの憩いの場になっている。出火元は煙の場所から察するに食堂の調理場だった。またたく間に黒煙が空を覆う。
「七花、これ使って」
夏美が予備のハンドタオルを手渡してくれた。彼女の口元には愛らしいウサギ柄のハンカチがあてられている。ありがとう、と声をかけようとすると背後で爆音がした。生徒たちの嬌声があがる。割れた窓ガラスから赤い炎がちらつく。燃え広がりが目に見えて顕著になってきた。目がじんわりと痛くなる。あわてて手近なコテージの裏に逃げこんだ。芝生に倒れ、できるだけ頭を低くする。寮にいた職員たちが、腰が抜けて動けない生徒たちをかついで別のコテージの裏に逃げる。
七花と夏美は熱波にその場から移動できずにいた。すこしでもコテージの裏から出ると熱さにおされてしまい、結局夏美と一緒に寄り添って隠れるしかない。火の粉が窓のすぐ近くに植えられた桜の木に燃えうつってさらに炎が広がりをみせ、多くの生徒が身動きをとれずにいる。寮周辺の敷居は高く、とても登って逃げられる高さではない、しかも敷地出入り口の門は燃えあがる本館の横を通ってさらに奥にある。
喉の痛みをこらえてタオルの繊維の隙間から必死に呼吸し、消防車はまだか、と思っていたその矢先、周囲の生徒たちがどよめいた。何度か水音が響く。炎が消える音がそれに重なり、悲鳴と歓声と男子生徒らしき声も聴こえてきた。
「ちょっと、あれ、松高の生徒じゃない?」
近くにいた生徒が本館を指さして叫んだ。夏美が建物の影からそっと顔を出し、「ほんとだ」とつぶやいた。
「松高? なんでここに」
「バケツ持ってるよ」夏美が嬉しそうに叫ぶ。「門の前の川から水をくんできてくれてるんだ。ちょっとだけど、火が消えていってるよ」
熱々に焼けた鉄板の上に肉をならべたときとよく似た音が連続して響く。七花はおそるおそるコテージから顔を出した。
白いジャケットに水色のチェックのスカートが基本の末摘花学園の寮に似つかわしくない、二十人ぶんの泥で汚れた野球のユニフォーム。彼らは各々が学校の備品のバケツに入った水を本館の火元めがけて窓からかけている。文字通り焼け石に水だが、大勢の生徒が寄ってたかって消火にかかるので心なしか火が弱まった気がする。桜の木に燃えうつった火も誰かが消し止めてくれた。寮の前にある川と本館とを走って往復する松高の野球部員たち。七花はコテージの影からそっと顔を出してそのようすをうかがっていた。夏美が両手をにぎって「かっこいい」と叫んだ。
松高の生徒の焼け石に水合戦がはじまって数分後、消防車が到着して本格的な消火活動がはじまった。人ふたりぶんの胴体ほどありそうな幅のホースから水が勢いよく飛び出し、すばやく鎮火されてゆく。あたりに安堵の空気がただよい、泣きだす女子もいた。思わぬ筋トレになった松高の野球部員たちは本館から離れて地面にころがる。ほとんどの生徒が彼らを遠まきに見ていたが、駆けよって声をかける子もいた。
何あれ、松高ってぜんぜん巣窟なんかじゃなかったじゃん。彼らの好プレーを見ていると、すぐ近くで同じように地面にあおむけになって呼吸を整えていた野球部員の男子が突然激しく咳きこみはじめた。七花は立ちあがり、「これ使っていい?」と手もとのハンドタオルをさして夏美にたずねる。彼女はうなずいて答えながら駆けだした。シャワーを浴びた直後のように汗だくの野球部員の顔をハンカチでおさえる。私はコテージの入り口にある水道でハンドタオルを濡らし、それで彼の口元をぬぐった。炎の熱で真っ赤に上気させた彼の顔から汗がチョコレート・ファウンテンのように染み出てくる。やがて彼の咳も落ちつき、うっすらと目を開けた。
「大丈夫ですか?」
七花は濡れタオルで汗を拭いてやりながらたずねた。男子生徒は痛がりながらもゆっくりと起きあがり、その場にあぐらをかいて座った。まだ息が荒れている。七花と夏美も反射的にその場に正座をする。小笠原流礼作法の授業もあるのだ、品を忘れてはいけない。
男子生徒は夏美のタオルでざっと額を拭き、顔をあげないまま「あざっす」と言った。
「え、何?」
夏美の問いかけに、彼は言葉ひとつひとつを確かめるように「ありがとうございました」と訂正した。胸元の背番号は栄光の三。深々と頭をさげられてそれも見えなくなる。
「いえいえいえいえ」七花はあおぐように手をふった。「助けられたのはこちらです。お礼申しあげますわ」
「自分、情けないっす。すげえ煙吸いこんだみたいで。助かりました」
末摘花の生徒と話すこと自体がおそらく初めてなのだろう、彼は顔をあげると照れくさそうに苦笑した。こざっぱりとした髪によく日焼けした肌。膝に手をついて頭をさげるあたりが体育会系らしい。「タオルが駄目んなっちまった」と言う彼に「いいですよ、そのまま使ってください」と答える夏美。
「何があったんですかねえ」
「見てのとおり、火事でしょう。食堂あたりからの」七花はため息をついた。
「早く気づけてよかったです。俺らの使ってるグラウンド、寮のすぐ裏手だから」
「存じておりますわ。本当に危ういところを、よいときに」
「煙も火災報知機の音も全部聴こえてきて、監督が『お前らちょっと走って行ってこい!』って言うから、学校のバケツぜんぶかっぱらってきて。川がすぐ近くでよかった」
彼の子どもっぽい無邪気な笑顔に七花たちも微笑む。火はすっかり消し止められていて、あたりが水びたしになっていた。寮の職員たちが消防隊員と松高の野球部員たちに声をかけ、携帯でどこかと連絡をとる。まだ黒煙はあがっており、熱い空気も一向に冷める気配はないが、七花と夏美と野球部員の男子は談笑に花を咲かせていた。非日常に紛れこんだ偶然の出会い。七花も松高の生徒と話すのは初めてだった。基本的にかかわるなと親から強く言いつけられていたし、末摘花の生徒はそもそも松高をよく思っていない。
学校関係者が敷地に入り、人が増えて騒がしくなってきたころ、男子生徒は立ちあがってもう一度頭をさげた。
「タオルとハンカチ、新しいやつ買って持ってきます。そんなにいいもの買えねえけど。自分、松高一年四組、野球部でショート二番の美津吉久っていいます。また何かしら理由つけて戻って来ます」
彼はそう言ったきり七花たちに返事をさせず走り去った。他の野球部員たちと合流し、肩を叩いてねぎらいあう。野球部の監督らしき人もあらわれ、全員が整列して「はい!」だのなんだの答えている。そこに学校関係者も加わって何か話をしていたが、内容まではっきり聴こえない。
夏美は立ちあがって砂を落としなが、こっちが名乗る暇もなかったね、と苦笑する。
「なあんだ、いいやつらもいるんじゃん、松高って。うちとの因縁強いみたいだし、どんだけ野蛮人の集落なんだって思ってたけど」
そりゃそうさ、人間、完全に悪人なんているわけないんだよ。七花はそう言ってスカートについた砂を払う。遠くのほうではまだ松高の生徒と監督と末摘花の職員たちが話をしている。少しずつ、風が冬の冷たさを取り戻しはじめていた。
これが最初の、松山高校野球部の吉久とのコンタクトだった。
厳かな式というものはどんなジャンルから切り取っても十中八九、眠い。オリンピックのときの、日本の金メダル受賞式ぐらいじゃないだろうか、寝ずに見ていられるのって。
積年の接点がゼロの関係を清算するように、松山高校野球部員一同と末摘花学園の学長が構内中庭で向かいあっている図はいささか滑稽だった。松高の生徒が末摘花の敷地内に入るなんて滅多にないことだ。「大変なところを、命を救われました」などなどと感慨深く語る校長の言葉を、反りかえるほど背筋を伸ばして聴いている野球部員。その中には、昨日七花と夏美が声をかけた吉久もいた。きちんと学ランを着て校長をしっかり見ている、ように見えて実は視線がうつろにも見えなくもない。やっぱり暇なんだな、と思うと苦笑が漏れた。かたむきかけた日があたりをセロファンをかけるようにオレンジ色に染める。
野球部監督と学長が一言二言挨拶を交わし、長ったるい感謝の式は終わった。野球部員たちが一斉に頭をさげる。女子寮生たちは拍手で送る。こんな形で感謝する日が来るとは創設者も思うまい。
結局、食堂全体へ延焼したのみの軽い火災にとどまり、それは駆けつけた松高の生徒たちによるバケツでの川水総攻撃が初期の段階で被害を食い止めていたからだった。怪我人もほとんどいなかった。消防車での消火も迅速に終わり、彼らの栄誉は潰されることなくたたえられた。百年以上の歴史を誇る伝統ありしお嬢様学校の末摘花学園と、数ブロック離れたところにある男子校の松山高校とは、過去に何度かトラブルや諍いがあり因縁が強い。実際、不良だらけの荒れた高校だと市内から苦情が絶えず、偏差値の落差が激しいこともあって必然的に末摘花が松高を下に見る形になり、そんなお嬢様学校に初等部から通うお嬢様は、松高の生徒と一切かかわるなと両親に言いつけられて育った。
学園寮のすぐ裏側にある市民グラウンドは、選抜高校野球の季節を前にすると松高の野球部員たちが借りて練習をするのだが、その位置関係が今回の好プレーを生んだのだから鼻で笑うわけにはいかない。松高に対して、男ばかりだし近寄るのはちょっと嫌、ていどの認識しかなかった七花にとってこのバケツリレーの偉業は、親から飽きるほど聴かされた悪い噂など今となってはオセロと同じだとあらためるほどのパワーがあった。
各々生徒や職員たちが帰路につくなか、七花と夏美は美津吉久の姿をさがした。女子高という未知の場所にいささか緊張ぎみの松高の生徒たちが肩をすぼめて退散してゆく中に、昨日確かにタオルを貸した相手をみとめ、七花はすぐさま名前を呼んだ。
その場にいた野球部員のほぼ全員がふりかえり、つづいて美津吉久をどついて「お前いつのまに末女の子と仲良くなったんだよ」ととからかう。うるせえ、と返事をしながらも彼は駆け足でこちらへ向かってきた。
「昨日の」
「はい、遅れましたが、私は瀬田夏美と申します」
「彼女の友人の木ノ下七花と申します」夏美にならって七花も軽くお辞儀をする。
「夏美ちゃんに七花ちゃん。ふたりともかわいい名前です」
飾らず素直に言ってのける吉久に多少照れくさそうに肩をすくめながら、七花は彼をじっと見つめてしまった。泥まみれのユニフォーム姿だった昨日と違い、ととのえられた黒の詰襟をきちんと着ている。服の上からでも分かるがっしりした体格はさすがに野球部員。春の選抜も思いかえせば、近い。
「てゆうか」吉久が急にフランクな口調で言った。「ふたりとも、そのお嬢様っぽいしゃべりかた、キャラですよね。もうちょっと肩の力抜いてください。俺なんてまだ一年なんですから」
「あらそ? いやー、あたしも一年なんだけどね。気い張ってたわ」すまんねー、と夏美がさっそくいつもどおりの口調に戻る。つられて七花も「そりゃ生粋のお嬢様はここよりもっといいところ行ってますって」と苦笑する。普段どおりの十六歳らしい姿にほっとしたのか、吉久が「昨日はありがとう」と言った。
「いやいやいやいや、いやほんと、助けられたのはこっちだし」
「あーでもこういうの始めたらおたがい感謝合戦になっちゃうよ。やめよう。それぞれにちゃんと意志が伝わってればいいんだ、それで」
「そうそう。ありがとうさぎーだよ。楽しい仲間がぽぽぽぽーんなんだから」
そうしてしばらく火事の後のことで話題に花が咲いていたが、ふと思い出したように「ちょっと待ってて」と吉久が駆けだした。門を出て松高のほうへ走ってゆく。首をかしげながらもとりあえず中庭のベンチに座って待つこと数分、学生鞄を持った吉久が息を荒げて帰ってきた。あの数ブロックの距離をこの短時間で。呼吸を整える間もなく彼は鞄から百貨店の紙袋をふたつ取り出し、七花と夏美の前にさし出した。
「これ、昨日の御礼。貸してくれたやつは一応洗ったけど、球児の汗やら唾やらが染みついたやつなんてもう使いたくないだろうから。そんなにいいものじゃないけど、ごめん」
え、嘘、と声をあげて中身を見ると、ショーケースに飾られているのをよく見かける百貨店ブランドのハンカチだった。かわいらしいデザインで、紙ケースの包装が高級感を漂わせている。お嬢様にあげるものとはいえあまりに高いものは買えないからせめて百貨店で、という彼の思いが痛いほど伝わるが、同じほど痛い出費だったに違いない。夏美のものとは同じデザイナーの色違いで、必然的におそろいのハンカチになった。
「うわ、これほんとにくれるの? なんか悪いよ」夏美が紙袋ごとつきかえしかねない勢いでまくしたてるが、吉久は首をふった。
「あれでマジ助かったし、感謝してるんだから、受けとってくださいって。そんでジャブジャブ洗ってガンガン使いたおして」
「いや、こんなんジャブジャブ洗ったらすぐ色落ちするって」手洗い必須だ。
「そもそも、あたしが吉久くんにあげたやつ、こんなに高いものじゃなかったよ」
「そこは俺の感謝の気持ちが上乗せされてるから。とにかく本気で使ってって。でなきゃ俺、恐縮しきってメアドも聴けないじゃん」
さらりと言ってのけた吉久は少し照れたように目をそらし、ケータイをひらいた。ペットらしい柴犬の待ち受けをひらつかせて「もしよかったらだけど」と言った。
松高の生徒は野蛮だ、不良だ、常識外れだ。そんなふうに教えられて育ったが、昨日の好プレーはそんなことを微塵も感じさせなかった。仮に野蛮で不良で常識外れだとしても、火事の現場を見かけたらバケツを持って飛びだしてくるほどの行動力と勇気はある、ということが確実に証明された。昨日の夜、火災を知らされた実家の両親から電話がかかってきて一時間以上も安否確認に取られてしまったが、「松高の生徒が初期消火に奔走したんだってな、奴らもそれなりに人間らしい面もあるということか」という父の冷たい一言からは、見なおそうという意志が微塵も感じとれなかった。
だけどそれを認めたら、末摘花学園と松山高校はこのままだ。ずっとこのままだ。それでいいのかと誰もが問いかける。確かに近所からの苦情も絶えないし、いい噂も聴かないけれど、松高の生徒はひとり残らず全員不良でヤンキーかと言われればきっとそうではない。そうだと本気で思っている人もいるかも知れないけれど、そんな人がいるかも知れないと思ってしまう人もまた、きっと世界を絶望視しすぎなのだろう。
絶望するということは、望みをかけていたということだ。
七花はケータイを取り出し、赤外線でアドレスを交換した。夏美も同じようにした。吉久は子どものように無邪気に笑って、「ありがとう」と叫んだ。俺、女の友達って高校入ってから初めてかも、男子校だから。そう言って鞄をかかえなおす。
「またメールするよ。練習とかも見に来いよ、歓迎するから」
そこまで言って吉久はしまったと言うように口を閉ざした。末女と松高の因縁を知らないはずがない。七花たちの親や教師が許すかどうかの問題だ。しかしそこは一度の恩がある側だ、多めに見て欲しい。
「大丈夫だよ、練習見に行くぐらい、どうってことないって。絶対行くよ、約束する」七花は言った。
過去には確かに、松高の近くまで行った末女の学生が襲われそうになったという例も少なくないのだけれど。しかし吉久だけはなぜか信用できる気がした。嘘が下手そうな真面目な少年だし、でなければ律儀に百貨店ブランドのハンカチを買ってきたりしない。
吉久は嬉しそうに笑った。「じゃあ走塁中にコケたりしないように、今からトレーニングしないとな」と言い残して、踵をかえした。走り去ってゆく彼の背中を見ながら、七花と夏美は顔を見あわせて微笑んだ。おそらくどこかでまた同じように、松高の男子と末女の女子とが仲良くなっている場面もあったかも知れない。そう思えば頬の筋肉が自然と緩んだ。
ボールを打つ・野手がそれを取って投げかえす・その隙に塁に進む・一周したら一点、という最低限の野球のルールしか知らない七花に夏美が、
「それで内野手がボールで挟みうちしちゃうんだよ。ぽんぽん投げあいしてて超面白い。もちろんタッチしたらアウトね。滅多にないけどすり抜けて塁についたらセーフ」
などと詳細を補足する。またひとつ、キンと金属質な音が鳴ってボールがかっ飛んだ。ピッチャーライナーを受けきれずセカンドが捕球にまわり、一塁でアウトになる。約束どおり、松山高校野球部の練習試合を見学しにきた七花と夏美は、ネットひとつを隔ててがむしゃらにバットを振りまわす部員たちをながめていた。吉久の出番はまだない。ふたり以外に誰も見学者がいない原因の、雪でも降りそうな硬質の寒気団。みてみて息がめっちゃ白いんだけど、と七花がはしゃぐ。
「七花ってさあ」夏美が眉をひそめながら言った。「吉久くんのこと好きなの?」
へっ、と変な声が漏れた。ひとしきり動揺したあと、「なんでもかんでも好いた惚れたの感情に直結させんな思春期っテレビ世代っ」と反論する。あらあらあらまんざらでもなさそうな顔しちゃってこのこの、と夏美がちょっかいをかけてくるので鞄で反撃する。
「だって七花、こないだ吉久くんを最初に見つけたとき、真っ先に名前呼んで走っていったからさあ。よっぽど会いたかったんだなあって。それって好きってことじゃない?」
「会いたかったのは間違いないよ、それは夏美だってそうでしょ。寮の火事を最小限にとどめてくれた人だもん」
「それだったら別に野球部員全員でもいいじゃん。ピンポイントで吉久くんと仲良くなりたくなって、ばっちりメアドも交換しちゃうんだから怪しいったらない」
「もー、夏美ってば!」
そうしてはしゃいでいるあいだに打者がヒットで出塁する。バッターボックスに入ってきたのは美津吉久、その人だった。
ダイレクトに「好きなのか」と訊かれて「好きです」と言えるほど明瞭な気持ちがあるわけではない。むしろまだややこしいままだし、最初に出会ったときから好きだったんだと言ってしまえば真実になり、ただ消火活動に加わって喉を傷めたところを助けてあげただけの縁だと言えばそれも嘘にはならない。何をボーダーとして恋とするか、そもそも別の何かとファイン・ラインである可能性が高すぎて、憧れとか友達になりたいだけとか、それらとの区別の定義が今の七花には分からなかった。
分かろうとしても、多分今は無駄だ――そう信じて七花はネットに手をかけた。
一年にしてバッターボックスにあがっている吉久は、地面を蹴って足元を確かめ、テレビの野球中継で見るようなフォームでバットを構えた。一球、二球と連続してファールをくりだし、三球目で打った。が、高くバウンドしたもののサードに処理されるゴロとなり、一塁で刺される。しかし走者は二塁へ進んだので送りバントと同じ結果だ。
すでに回も押し迫っていたので、吉久の打順はそれきりだった。試合が終わると全員が監督の前に整列し、あざっした、と景気よく頭をさげる。グラウンドの隅に無造作に置かれてあるスポーツバッグのほうへ我先にと駆け足になる部員からひとり、背番号三の吉久が抜けてこちらへ走ってきた。ネット越しに「やあ」とあいさつをする。
「こんばんは。見に来ちゃった」七花はちいさく手をふる。
「最後まで見てるとは思わなかったから、早く帰れよって念送ってたのに」
「何、そんなにあたしらに見て欲しくなかったの?」
「いやそうゆうわけじゃなくって、もう日が落ちたら寒いし暗いし物騒だしで、危ねえじゃん。俺、ちゃちゃっと戻ってくるから。寮まで送るよ」
「そんな、すぐ裏手だからいいのに」七花の弁明を最後まで聞かずに吉久は自分のスポーツバッグを取りに走り去っていった。火事のときといい、大事なところ聞かずにどっか行っちゃうよね。夏美がそう言って笑った。
「てかさあ、さっきの何? まっさきに『見に来ちゃった』って。かっわいい」
「いや、だからああいうのは友達としてのあいさつであって、あーもー」七花はばたばた手をふりまわすが夏美は聞かない。
「仕草とかそぶりとかがいちいち示唆させるんだから。恥ずかしがらなくても、恋愛相談ならあたしに任せなさーい」
「任せないよ、任せるものが何もないよ! てかほんと色恋沙汰とか持ちだすな!」
そうしてふざけている数分のあいだに、荷物をまとめた吉久がグラウンドの門をくぐってきた。「え、何の話してんの?」と無邪気にたずねる彼の笑顔から思いっきり視線をそらす。夏美にほだされた今のこの状況下で彼の顔を直視したら、嘘でも現実になりそうな気がして怖かった。頬をぷにぷにと夏美に指でつつかれたが。
グラウンドのすぐ裏側が末女の寮だというのに、その二分弱ほどの距離をわざわざ送り届けてくれた吉久。ほとんど門限ギリギリだったので、門を閉めようとした警備員のおじさんを慌てて止める。彼は吉久の顔を見るとぱっと表情が華やぎ、「いつぞやはありがとうね」と頭をさげた。いえいえいえ、と慌てて同じようにお辞儀をする吉久の姿につい笑ってしまった。門の入り口にいても分かる、いまだ残る燻った匂い。木が焼ける異臭。外から見える寮の本館は食堂側の壁が黒く染まり、窓ガラスが割れたまま放置されている。しばらく食堂が使えないため、寮生はリフォームが終わるまで学校のカフェテリアで食事をとることになっている。
吉久は眉をひそめて、ほんとにひどかったんだな、と言った。
「すげえ臭い。また喉がやられそう。ほら、こういうときこそ俺のあげたハンカチの出番でしょ、ふたりとも」
彼がうながすので七花はポケットから百貨店のハンカチを出した。ピンクのレースが四辺に施され、蝶の刺繍が隅にちょこんと添えられている。かわいくてなかなか使えずにいたが、そっとそれを口元に当てると焦げ臭い匂いがやわらいだ。夏美も同じようにして「ああこれだとすごく楽」と笑っていた。吉久も満足したように大げさにうなずき、戸締りはしっかりな、と言って手をふった。トレーニングの一環としてなのか颯爽と道路を駆けだしてゆく彼。背中を見送るのはこれで何度めだろう。
口に出せば夏美にからかわれると分かっているから、心の中にそっと閉じこめておく。野蛮で低俗で不良で、町全体の厄介者扱いされていた松高の生徒に、あれほど紳士的な男子がいると分かったら、誰か信じてくれるだろうか。
「いいやつだよね、吉久くんって」
夏美の言葉にそっとうなずいた。馬鹿みたいだとは分かっていても、いいやつ、という言葉はなめらかに耳に届いた。それだけは間違いないのだと、世界中からコールされているような気がして、苦笑がやまない。
カフェテリアで夕食を済ませ、全室施錠時刻寸前まで友達とカードをして遊び、自分の部屋に戻るとケータイをひらいた。新着メールは何もない。七花は優しく、ハムスターの子を撫でるような力でメール作成画面をひらいた。アドレスは吉久。一文字一文字、祈るように丁寧に打ちこんだ。
「今日は送ってくれてありがとう! ちょっとの距離だったけど(笑)楽しかったよ。また練習見に行くね!」
あれこれと書いては消し、書いては消しの果てしない繰りかえしに自分で苛だち「うがー」と声を荒げ、すべて削除した。そうして生き残ったのがこの三行だけである。
――ほら、こういうときこそ俺のあげたハンカチの出番でしょ。
ケータイの画面を額にあてる。ふんわりと背中から覆いかぶさるようなあたたかさ。こんな気持ちになったのはいつぶりだろう。七花はこれまで誰ともつきあったことがない。初等部からずっと末摘花女学園で、そもそも男子との出会いがなかったからかも知れないが、何より両親から「松高の男子生徒は野蛮だ、末摘花の女子も何度か被害にあっている」という話を何度も聞かされていたことが大きい。さすがに高校生にもなると「友達の友達」との交流も増え、男を根っから毛嫌いすることはなかったが、やはり一歩踏み出すことに恐れがあった。恋愛が怖い、何が起こるか分からない、大変そう……そんな気持ちが七花を踏みとどまらせていた。
だけど、ただひとつだけ確信したい。確信している自分を誇りたい。
自分は吉久に恋をしてしまったのだと。
偶然の火事が結びつけ、まだたった三度しか会っていないのに憎らしいほど惹きこまれてしまう。何が、何を、こんなふうにしてしまったのだろう。
時限爆弾のスイッチを押すような気分でメールを送信する。返事が来たのは、歯を磨いて日記をつけ、ベッドに入ったときだった。
「おっすーお疲れ! いやいや、こちらこそ楽しかったよ。今日は珍プレーばっかりで超カッコ悪かったな俺(笑)。次に七花が見に来るまでに、もちょっと打てるようになっとくわ! んじゃ、おやすみ〜」
四季の中では冬がいちばん好きだ。夏は恋だが、冬は愛の季節だと思う。恋人たちが愛をささやき、溜めこんだめいっぱいの思いを相手にぶつけ、心をこめた贈り物があちこちでかわされる季節。寒くて凍え死にそうになることは何度もあるけれど、やっぱり冬が一番好きだ。
七花はそんなふうに思いながらベンチに腰かけ、膝のうえに弁当をひろげ、ぼんやりと空を見あげた。これからやってくるであろう爛漫の春をまったく想起させない枝ばかりの桜の木と、それらにからめとられるようなすがすがしい青色を見せつける空。子ども連れの母親軍団も見あたらない、寮の裏手にある公園。冬将軍を連れたからっ風が骨身にしみるが、スコンと空がひらけていて園芸種の花もたくさん植えられているこの公園が好きで、一週間に何日か、季節を問わずここでお昼ご飯を食べる。
狭っ苦しい教室は嫌だもんね、と七花はひとりごちる。別に女子高に不満はないが、女同士の黒い笑顔が腹の奥底にひそんだ取引をいまだ受けいれられずにいる。トイレのために教室を出ていった瞬間にその子の悪口を言いはじめるような集団のどこが居心地よいのか。
そんなこんなで土曜の午前授業を終え、一旦寮に帰る前にここでお弁当を食べていこうという算段で一時間近くぼへっとしている七花の耳に、甘ったるい鳥の鳴き声が届けられる。冬でも元気だねきみたち、とぼやくと彼らが飛び去る羽音が重なった。音が連結されたようにつづいた砂利をゆく足音に、七花の意識は空から地上へ戻される。
緑に囲まれてひとりぼっちお昼ごはんタイム、のつもりだったが。
「あれ、七花ちゃん」
大きなスポーツバッグを背負ったユニフォーム姿を公園の入り口にみとめ、危うく手もとの箸を落としそうになった。心臓がひっくりかえるかと。
吉久はヘッドスライディングを思わせる胸元の泥を払おうともせずにてってってと小走りにやってきた。こちらが何かを言おうとして口をあけっぱなしのまま硬直していると、「隣いい?」とこちらの返事を聴かずにベンチの端に座った。二人がけなので教室の隣席ほどしか間隔があいていない。
「吉久くん」やっとのことで声が出た。「練習中じゃないの?」
「今は昼休憩だよ。テキッと飯食ってパキッと戻るけど」
それよりなんで七花ちゃんがここに、とたずねられてふいと視線をそらした。顔が熱い。
「私は元々、ここでお昼ごはん食べてることが多いから」
「そうなんだ、偶然。俺もここでよく飯食うんだよ。みんなと一緒に食ってもいいんだけど、男ばっかし汗臭くてムサくてウザくて息してられないよ」
そう言いながら彼がひらいた弁当箱、というより巨大なタッパーは、一面に焼きそばがぎっちり詰まっていた。高校球児、恐るべし。その焼きそばをホースで吸いあげるようにガツガツと口の中に放りこんでいく姿を、呆然と見ていた。
「さすがだねえ」
何が、と嚥下ののちにききかえされ、食べっぷり、と答えた。
「食べたぶんしか動けねえもん。守備についてるとき、ピッチャーに聴こえるぐらいでかい音で腹鳴らしてるのってカッコ悪いし」
経験者かよ、と心の中で笑う。思っていた以上に天然なのかも知れない、吉久は。
俺なんかひとくちだな、と彼が七花のお弁当箱をさして言う。ペンケースほどの横幅で二段のそれは、七花がちょうど腹八分目になる量だ。
「歴史と品格ある女子高のお嬢様と一緒にしないでよ」
「それ、口に出して言うとものっそい安っぽく聴こえるよ」
「うわー、狙ったとおりにツッコミ入れてきた。やっぱ面白いね、吉久くん」七花は笑って彼の肩をどついた。
さりげなく触れた彼の身体はやはり筋肉質で、岩のように固い。ひろげれば七花が三人は入りそうな大きな腕に、思いがけずドキリとしてしまう。その心臓を必死で押さえつけながら、「なんで野球部に入ったの?」と他愛もないことをたずねる。
「俺? 小学校のときから野球ずっとやってるから」
「野球好きなんだ」
「実はそうでもない。親父がプロ野球好きで、子どもが男だったら絶対少年野球チームに入れるって決めてたみたいで。ちょろっとやって終わるつもりだったけど、思った以上にうまくできるようになったし楽しくなってきたから、どうせなら甲子園目指してやろうと」
「すごいね、そこまで本格的にやれるっていうのが」
「ほとんどのやつらは甲子園目指す前に諦めちゃうからなあ」吉久が苦笑する。
「七花ちゃんは」タッパーの四隅に寄ったキャベツを箸で集めながら彼が言った。「将来なりたいものとかあるの?」
「んー、特に今めちゃくちゃ目指したいっていうのがあるわけじゃないけど、美容とかコスメとか結構好きだから、メーキャップアーティストとか、化粧品のBAさんとかは漠然といいなって思ってる」
「へえ、いいじゃん、女の子っぽくて」
「メーキャップアーティストって言っても、私は舞台メイクとか映画の特殊メイクみたいなのがやりたいな。お化粧とかって、やっぱり女子の特権って感じだし、好き」
「うん。七花ちゃん、肌に気をつかってんだなってのは見て分かるよ」
吉久の指の背がそっと七花の頬に触れた。しゅっ、と表面を撫でていくかすかな音に、絵筆で脇腹をくすぐられたような衝撃が伝う。きゅっと口をひきむすび、動揺を悟られないようにうつむいた。「どしたの?」という吉久の声を合図にするように慌てて膝のお弁当箱を片づけ、鞄の中に押しこんだ。たった一度触れられただけなのに、全身の筋肉が跳ねあがるほど緊張してしまった。
こわばった目を指先でほぐし、吉久に向きなおった。
「じゃあ、私、帰るね」
このまま一緒にいたら、心臓から血液が逆流しかねない。すこし首をかしげた吉久は何も疑わず「風邪ひかないように」と笑った。
からになったタッパーをスポーツバッグに放りこむ姿をぼんやり見つめて、やっぱり、と思う。やっぱり好きなんだ、と。
単純でありたいわけじゃない。だけど単純なことに一喜一憂し、そのたび質量を増していく理解不能なものに怒鳴りかえす気力も奪われる、それが恋なんじゃないだろうか。非経験者には分からない。夏美に訊いたほうがいい。だけどこれは、ただの憧れとは確実に違う。それは肩をどついたときに感じた手のひらの感触が証明する。
落ちる、というよりも、恋に突進された気分だ。
あー腹ふくれた、と言いながら立ちあがった吉久と一緒に公園を出る。すぐ西側にまわれば寮、東側に市民グラウンドがあるので、入り口を出たところで別れる。「じゃあまた」と言ってすぐに気恥ずかしさから逃奔しようとした七花の背に、初恋の相手の声が降る。
「七花ちゃん、俺はさ」
ふりかえると、泥まみれのズボンに両手を突っこんだ吉久が笑顔で立っていた。何の邪気もやましさもない、純粋な満面の笑みだった。
「七花ちゃんがすごくいい子だと思ってるよ。冗談じゃなく、やっぱ末女の生徒なんだなって感じがするし。なんかさ、俺ら松高の生徒って煙たがられてると思ってたから、仲良くしてくれる七花ちゃんには感謝してるんだ。あ、夏美ちゃんも。おたがいにがんばろう。そして、今度は一緒にどこかへ遊びに行こう。普段着の七花ちゃん、見てみたいし」
それだけ言って手をふり、吉久は走ってグラウンドに戻っていった。取り残された七花の全身を冷たい風が撫ぜてゆく。だけど血液ぜんぶが沸騰しているような、言い知れぬ熱さに顔がかっと紅潮した。
天然だ、あいつは。
そう確信してその場にしゃがみこむ。だけど、その天然さに天然の情はたぶん、ない。そう思ったら急にむなしさがこみあげて、喪失感にさいなまれて、涙が出そうになった。必死でそれをこらえながら、吉久の笑顔を思い出す。自分がなんとか理解できる新鮮な情すら、そこからはちっとも読みとれなかった。空回りしているのがもしかしたら自分だけかも知れないと思ってしまえば、それらに飲みこまれてしまいそうだった。
好き。
一度自覚すれば、もう戻れない。
この、ふわふわのマシュマロのような思いを。
昨日の今日だ。
『松高の生徒から何もひどいことされてない?』
過保護な家に生まれたものだ、とつくづく境遇を呪いたくなる。ただでさえ「松高の生徒にもまともな人間がいたんだな」という具合の、一瞬我が耳を疑いたくなるような父の冷酷な言葉を昨日の電話ぐちで聴いているというのに、今度は母親からケータイに怒涛の着信。頭から大量の崩れた冷奴を浴びているような気分だ。されてないされてない、と二回否定しても母は納得しない。キャミソールにショートパンツという寝間着のまま、ベッドにあぐらをかいて、ケータイから聴こえてくる壊れたラジオのような積年のリフレインを聴き流す。
『お母さんが末女にいたとき、同じクラスの子が松高の生徒にからまれてお金とられたっていう事件があったのよ』
その話は何十回も聴きました。
「だからって、火事の消火を手伝ったことをえんえんと弱みにしてワガママふっかけようなんて、そんなの考えすぎだよ」
『それをやりかねないから松高の生徒は怖いのよ。いい? もし松高の生徒に、消火活動に貢献したんだからどうのこうのって脅迫されそうになったら、すぐに誰かに助けを求めるのよ。もしくは、誰も頼んでません、って言って全力で逃げなさい』
それもどうかと思います。
「あーのーねえ」七花は手もとの大きなパンダのぬいぐるみを胸の中にひきよせてぶーたれる。「ほんとに考えすぎだし、時代も違うんだよ。全員が全員不良ってわけじゃないんだから。それに、そのとき手伝ってくれた野球部の人たちもみんな親切で、いい人たちだよ」
言ってから、あ、と息をのんだ。電波のむこうで母が眉をひそめる気配がびしばし伝わってくる。
『やけに知ったふうな言いかたじゃない。仲良くなったの?』
「てゆうかあの」慌ててとりつくろう。「こっちの代表者とあっちの野球部とで集まって謝礼式みたいなのがあって、そのときちょろっとむこうの人たちとしゃべったんだよ。みんな紳士的でいい人ばっかで、さすが規律の厳しい野球部って感じだった」
嘘は言っていない。だから声音に怪しい雰囲気をたたえずにいられて、母が安堵するため息が聴こえた。
『まったく、末女の生徒に手を出したら警察沙汰じゃすませないったら』
「お母さん、言いすぎ。やつらも誰かがお腹を痛めて産んだ尊厳ある人間だよ」
『言いすぎどころか足りないぐらいよ。そりゃ火事を見つけて全員で初期消火に奔走したっていうのはいいことだけど、やっぱり性根が性根なのよ。あそこは偏差値も低いし、家柄もよくない。統計的に見て頭がいい人って優しい人が多いように、偏差値の低い領域には社会的常識も守れてない人が多いのよ。もちろん全員じゃないけど』
それも一理ある。だけどこの話のすべてじゃない。母の価値観は時代錯誤もはなはだしいし、偏見の塊だ。
それでも松高だからねえ、と話をなおもつづけようとする母に「ごめん、宿題するから」とことわって電話を切った。ふいに電子音から解放された静寂に、心がついていかない。
ばたん、とベッドに倒れた。耳元できしむスプリング。誰かを責めたくなったけれど、そうしてももう何もかもが遅いのだ。止める方法があるなら教えて欲しい。恋することが罪だというのなら、人間はきっとすでに尊厳を失っているだろう。それでも同時多発的に、ふわふわと浮く泡のように生まれくる気持ちがあるから、自分だってここにいるんだということを自覚すれば、口元に笑みが浮かんだ。
郊外は土砂崩れが起こりやすい。緑いっぱいの田舎に放りこまれた末摘花女学園は、すぐ北側に山をおがみ、普段ののどかさが嘘のように牙をむく悪天候を今日まで何度も乗りこえてきた。コンクリート舗装されていない地面が多いので洪水にならない代わりに土がゆるみ、登下校の際にころんで泥まみれになりジャージ姿で授業を受ける、なんていう光景が梅雨と台風の時期には後をたたない。実家から通学している学生は、途中、幅五十メートルあまりの大きな川にかけられた橋をわたってくるのだからさらに危険度が増す。
景色をすすぐようなどしゃぶりの雨は、最後の授業が終わってしばらくしたのちに突然降りだした。七花は窓の外を見て変化を楽しんでいた。中庭の木が風の変化球にあおられて右へ左へと翻弄されるさまがおもしろい。非日常的な天候は遠足前でなければテンションがあがる。
夏美が鏡を机に立てて髪をあれこれといじりながら「湿気がああ」と慟哭している。毛先までゆるくカーブした彼女の黒髪は普段の針金ストレートさを失って姿勢悪く垂れさがっている。もういいやおだんごにしてやる、と意気込んで前かがみになりゴムですべてまとめてしまう。そんな彼女のひとり奮闘をため息で送り、窓の外に目をやる。湯船をひっくりかえしたような雨が容赦なく降っている。とおり雨にしては雲が広く厚い。しばらく崩れるかなあ、とかんがえると憂鬱になった。
毛束を順ぐりにおだんごにしてゆく夏美が、外をぼんやりながめている七花を見て「こりゃ野球部もやってないね」とつぶやく。
「松高の?」
「寮の裏のグラウンド。土がダメになったら野球って絶対やらないでしょ。正直、あそこってゆるそうだからさ、これだけ雨が降れば解散になるんじゃない」
「そこまでゆるいかなあ。室内で練習ぐらいするだろうに」
「野蛮で不良とは思わないけど、ゆるいなって思うことはたまにあるよ、はたで見てて」ホイップクリームのようなおだんごを完成させた夏美が、指をくるくるまわしながら言う。
ゆるいから野蛮な学校って言われるようになったのか、その逆なのか、ぼけらーと適当にかんがえながら外を見た。冬の雨は凍るほど寒い。夏美は室内なのにマフラーを巻きはじめた。七花もコートを着て、傘とか意味ないんじゃないかなあ、と思いながら立ちあがる。
クリスマスの気配も漂ってきているというのにムードゼロの、雪に変わる気配すらない、変わったとしても今度は豪雪でそれはそれで迷惑、という豪雨をみあげ、「朝は降水確率二十パーセントだったのにね」とつぶやいた。テレビの天気予報は毎朝欠かさず見るが、こうかんがえると頼りにならない。「だよねえ、気象予報士ってめっちゃ難関試験クリアしてなる職業のはずなのにアタリハズレあるのってどうなの」「人間だもの、ってよく言うじゃん、飛行機雲の消え具合を見てるほうがアタリかもよ」そんな他愛もない話をしているとき、七花がふと気がついた。
「そういやさ」夏美にたずねる。「松高の野球部、やっぱりやってないよね」
「だから言ったじゃん、土が駄目なら試合も駄目なんだって」
「朝の天気予報が超ハズレってことは、吉久くん、傘持ってないんじゃないかな」
あ、と一歩遅れて夏美も気づく。自分達は寮が近くにあるから走ればどうにでもなる。野球部員なんてそうそう風邪をひくものじゃないだろうが、大木もはり倒しそうなこの豪雨ではたして帰宅はのぞめるのか。もし傘を持ってきていないとしたら、ただでさえ学校からも離れたあの市営グラウンドで足踏みしているかも知れない。
学校の下駄箱の傘立てを探してみたが、忘れ物の傘などなかった。あったとしてもこの雨では、他の誰かが勝手に拝借して持ちかえっているはずだ。どうしよう、と思うまもなく、七花は夏美に「ごめん、先帰ってて」と一言残して昇降口で傘をひらく。
「どうするの?」
「様子見に行ってくる。傘持ってないんだったら、いれてってあげることにした」
「ことにしたって、ちょっと」
「大丈夫だよ、私たちは寮もすぐ近くだし」
なんかあったらケータイで連絡入れるから、と言って、七花は雨の中に飛びだした。くるぶしまで冷たい雨水に浸かり、走るたびに足元でしぶきがあがる。傘の端から垂れる水も、横から殴りかかってくる粒も容赦がない。冬の雨は地獄だ。とおくで雷がかすかに鳴っている。指先や耳などの血の気が少ない箇所から冷えて痛みをともなう。鞄も端から濡れてくる。しかし七花は全力疾走だ。敷地を出て右に曲がり、寮の脇をぬけて市営グラウンドへむかう。
いつぞや野球部の練習を観戦していたネット越しにグラウンドを見ると、ベースにビニールシートがかかっているだけで、やはり誰もいなかった。とおくのちいさな更衣室にあかりがまだついていて、松高野球部が授業終了後にここへ来て練習をはじめようとしたことが分かった。その直後に降りだして、やむなく中止せざるをえなかったのだろう。
窓越しに数人の部員たちの影がうつり、時たま傘を持った部員がユニフォーム姿のまま出てくる。「おつかれっした」という間延びした声が響く。七花はネットに沿って走り、門をかえてグラウンドに入ると更衣室のドアを軽くノックした。「おう、どした?」というやわらかい声が聴こえ、七花はやにわにこわばったが、絞り出すように「末摘花女学園の者です」と返事をした。急に冷えた自分の身体をみとめ、傘を持っていないほうの手で腕を抱いた。
息をのむような声が聴こえ、やがてドアがそっとひらかれる。
「七花ちゃん?」
出てきたのは吉久だった。すこし濡れたユニフォームを着て、首からタオルをかけている。ドッキリを見たような顔でぽかんとその場に往生する吉久に、七花もどう説明すればいいのか探しあぐねて、とりあえず傘をそっととじた。
「傘」
目をそらして言う。「持ってきてるかどうか、心配になって」
怪しい沈黙が降りた。
吉久はさらに口をあけて呆然と立ち尽くし、七花は手もとの傘の柄をいじりながら足元を見ている。泥が跳ねてローファーがだいなしだ。一時間以上にも感じられる長い沈黙のあと、ふいに吉久が吹きだした。おかしくてしかたないといったように笑う彼の姿に、七花はかっと紅潮して「心配して悪いかっ」と反論する。
「いやいや、違う違う」吉久が腹をかかえながら言った。「まあとにかく、入って入って。汗臭くてどうしようもないだろうけど、このまま帰すのも嫌だし」
うながされるままに更衣室に入った。壁一面のロッカーと作業机と数脚の椅子があるだけで他には何もない簡素な室内。ついさっきまでここで雨を拭いていたのだろう部員たちの汗の匂いがかなりきつい。失礼だと分かってはいるがつい息を止めてしまう。七花の様子に気づいた吉久が「ハンカチ使えよ」と笑って言う。
「なんのためにあるの、存在意義を認めさせてやれよ」
「でも、なんか失礼かと思って」
「俺だって事情は分かってるからいいんだよ、そういうの。外は雨だし仕方ないとはいえ、窮屈な思いさせてるから、女子にはきついだろうし」
おためごかしで言っているわけではない、ということは分かるが、これ以上気を使わせるのも悪いので、鞄からそそくさとハンカチを出すとそっと口元にあてた。窓の真下にあるベンチに腰をおろし、ぐっしょり濡れたローファーと靴下を脱ぐ。他の部員は? とたずねると、この雨だから試合もできないしちゃっちゃと帰宅、とかえってきた。部屋の隅にある自動販売機でホットのミルクティーを買った吉久は、その缶を七花にさしだした。
「ほら、指先真っ赤じゃないか、あっためろよ」
「え、でも、悪いし」
「たった百二十円であれこれ気にしないでって」からからと笑う吉久に缶を押しつけられて戸惑う。
結局、ミルクティーのあたたかさに誘惑されて受けとり、震える手指を添えた。じんわりとしびれをほぐしてゆく熱さにほっと一息つく。缶を頬や耳にあてながら壁にもたれかかってため息をついた。地面にぽろっとこぼれている蝉の死体を見るたびに、夏は死の季節だ、と思うことが多いがやはり熱やぬくもりは心をいやす。
「汗臭かったらごめん」吉久がすぐ隣に座った。その言葉に首を振りながら「傘持ってきてないの?」と、ここへ来た最大の目的をたずねた。
「こっち来ていざ練習はじめようぜってときになっていきなりザーっと降りだしたからなあ。みんな先に帰っちまった。俺は学校まで戻れば置き傘あるんだけど、めんどくせーって思って」
「いや、戻りなよ」
「やむの待つわー」
「とおり雨じゃないよ、これ。絶対。ちょっと雷鳴ってるっぽいし、やばい」
まじで、やっべえ、と言いながら吉久はのんきに手もとのパックジュースを飲んでいる。七花はそのときになってようやく缶のプルタブをあけた。パキン、と小気味よい音をたてて紅茶の香りが漂う。隣でジュースを飲む吉久を横目で見やると、ストローをくわえた口元を妙に意識してしまい、慌ててそらす。
缶に口をつけながら思った。自分が思っている以上に、いや、無自覚な子よりはずっと自覚しているけれど、この人のことが好きだから、ちょっとしたことでドキドキしている。座高の違い。床に垂直についている七花の足と、すっと伸ばされた吉久の長い足。末摘花の白いジャケットと泥まみれの野球ユニフォーム。ジュースを飲むたびに上下する喉。汗で束になっている髪。そんなちいさなことを逐一気にしてしまい、落ちつかないでいる。無言でひたすらにミルクティーを口に運んでいると、吉久もまた無言でジュースをすする。雨の音と、かすかな雷の音と、嚥下の音。
一向にやむ気配を見せない雨に、「ねえ」と七花は声を絞りだした。
「学校まで行ったら、置き傘があるんだよね」
「あ、うん」
「じゃあ、松高まで送るよ。私の傘、ちいさいからふたりはきついかも知れないけど」
結果的に相合傘になってしまうが、吉久がそれをあまり気にするような性格に見えなかったのでしずかに提案する。七花はむしろ、そうしていたかった。同じ傘の中ですこしでも近くにいられるなら、そうしていたいと思った。
ドライだと思っていた吉久がその提案に「えっと」と動揺を見せるので、七花もつられて目をそらした。まさか断られるのか、と覚悟した七花の耳に「そういうのって」というちいさなささやきが届けられる。
「好きな男じゃないと、女子って嫌がるんじゃないの」
そっとふりむくと、吉久の困ったような顔が間近にあった。ズクン、と心臓が痛む。
そんなの。
「好きな人じゃないと、嫌がるよ」
膝の上でぎゅっと拳をにぎった。熱をもった目元が徐々にツンと痛みだし、耐えきれずに目から涙がぽろりと、雨粒が乾きはじめた頬を伝う。慌てて手で隠すも間に合わなかった。吉久が驚いて目を見ひらき、七花の手をとる。何か言いたそうな口はひらかれたまま何も語らずに閉じられ、冷えて赤くなっている彼女の手をそっとさすった。
「こんなに指を冷たくして」
じんわりあたたかい、子ども体温の吉久の大きな手のひらにつつまれて、ミルクティーでも芯までほぐせなかった指が過敏に反応する。指先に血の気が集まる。彼のごつごつした手の中でそっと指を折りこみ、強く目をつむる。
「誰のせいだと思ってるの」
そっとつぶやいた言葉は、とおい場所で悲鳴をあげる雷と共にふたりの領域を響かせ、膨張していった。
心臓の音がうるさい。
言うべきかどうかさんざん逡巡しながら口にしただけに、直後は瞬時に顔が紅潮した。言葉にしてしまえば急に恥ずかしさがこみあげてくる。慌てて吉久の手をふりほどこうとした七花の指を、彼がさらに強くつかんだ。驚いて顔をあげると同時に、二粒目の涙がしずかにこぼれる。
吉久は困惑しているような、だが真剣なまなざしで、まっすぐに七花を見ていた。一瞬光った雷光に照らされ、そこまで絶世のイケメンでもない彼の平凡な顔立ちが、やにわに七花の心をかき乱す。いつからこんなに。
どうしてこんなに、彼のひとつひとつがいとおしいのだろう。
まずいことを言った、訂正しないと、と内心パニックになった七花は「違うの」と言って腰をひこうとした。だが身をよじればそれだけ吉久の顔がなお近づいてくる。じんわりと涙を溜めた目で見あげると、彼は「ねえ」とつぶやいた。
「それって、俺のせい?」
吉久はしずかに――信じられないほどしずかに、ささやいた。
雷光が室内を照らす。数秒遅れて雷鳴が響く。その音に呼応するように、吉久の唇が近づいた。
二度目の雷を、七花はおぼえていない。
――ギィ。
空気を端からフォークで崩すような音が響いて、ふたりは我にかえった。
更衣室の入り口から呆然とこちらを見ている私服姿の男子の姿に、七花と吉久は硬直する。反発しあう磁石のように唇を離すふたり。
「わー!」
「ぎゃー!」
「お邪魔しましたー!」
ごゆっくりっ、と叫んで男子生徒は外へ飛び出していった。そのあとを吉久があわてて追いかけ「お前何しにきたんだ!」と怒鳴る。あれこれどやどやと押し問答をしている声を、七花はベンチで呆然として聴いていた。何が、起こったのだろう。これまで一度も踏みこんだことのなかった領域への不法侵入。近づいてくる吉久の顔を思い出して、湯を沸かしたケトルのように全身が熱くなる。
思わず強く目をつぶった。何してたんだ、私。さっそく自殺したくなった。
もつれあいながら部屋に入ってきた吉久と闖入者。松高の制服を着ている背の高いその男子は、吉久に胸倉をつかまれながら「だってお前、野球部の練習中止になったってなっても全然戻ってこねえんだもんよ」とぼやいている。硬直している七花に吉久が「これは」と男子生徒を指さして紹介する。
「うちの先輩。でも俺の従兄」
「千斗っていいますー。松高二年。吉久の彼女?」
「特技は裁縫と犬かき」
「こらー吉久ー!」
えええ裁縫ですか。そのへんの目立ちたがりなやつの新学期自己紹介タイムよりずっと面喰らった七花は、その場にぽつんと立ちつくしてしまう。「だいたい千斗の紹介ってどこでもインパクトあるから便利だよな」「うっせえイチャついてたくせに」一見仲が悪そうに見えて実はただじゃれあってるだけだと分かる口げんかを見てつい苦笑すると、千斗が七花の前に立って肩をつかむ。
「君、正気に戻るんだ。吉久とつきあうなんてナンセンス、身を滅ぼしかねない大エクスペンタブル、そのかわいい身体が男汁で汚れてしまう」
「こら黙れ」後ろから千斗の頭を思いっきり殴りつける吉久。何がなんだか。
涙目になりながら頭をさする千斗に、「ほんとにこんなんでいいの?」とたずねられる。
「え、えっと」
「千斗、そういうのやめろって。相手は女の子なんだから」
「じゃあさっきのなんだよ、まだ気持ちはっきりしてないのに手出したのお前?」
「そういうわけじゃないけど」
「あの」
七花がそっと顔をあげると、吉久と視線がばっちり合ってしまう。反射的にそらしてしまいそうになったが、そこをぐっとこらえる。七花と吉久を交互に見て首をかしげる千斗。スカートの端をつかみ、両足をふんばる。
そんな曖昧な気持ちのままじゃ、いられないんだ。
別に不可抗力でもなんでもなかったんだから。受けいれたのは私なんだから。
すうっと息を吸って、「こんなんでいいと言うか」と零す。
「吉久くんだから、いいんです」
最後の最後にうつむいてしまった。床と自分のローファーしか見えないなか、吉久の表情が全く読めない。
千斗が息をのむ気配が伝わった。しばらく、実際には一分にも満たないあいだ、雨音と遠くの雷の音だけが空間を支配していた。緊迫した沈黙の末に、鈍い音と「いってえ!」という声が更衣室じゅうに響いてぱっと顔をあげる。
「帰れ千斗! 間髪いれずに帰れ! つか空気読め読解力つけろ!」
「うるせえ痛えよ! はいはい分かりましたかわいい従弟の将来に俺は口出しする権利も義務も法的拘束力もございませんからね、ごゆっくりー」
殴られた箇所をさする千斗の背を吉久が押して追い出そうとする。入り口のドアから出てゆく間際、千斗は「じゃあまたね」と七花に手を振った。それに動揺しつつもちいさく会釈し、吉久にどつかれるままになっている彼を見送った。結局こちらが名乗ることはできなかった。
外界と空気を遮断するように勢いよくドアをしめた吉久が、息を切らしながら右手でOKサインを作る。私は立ちつくして、立ちつくして、破顔した。雷鳴も、雨音も、時間が流れてゆく音さえ、今の私にはすべてが歓喜の歌に聴こえた。
「じゃあ、つきあうことになったんだ」
おかげさまで、と頭をさげる。バスケットからサンドイッチをひとつ、またひとつと出しては数口でどんどん食べてしまう夏美の胃袋を分解したい衝動に駆られながら、事の顛末を話して聴かせた。昨日の豪雨はなんだったんだと天に問う気も失せるうららかな陽気の昼休み、各々が教室や食堂やイレギュラーな場所で食事にかかるなか、ガールズトークや恋バナに花を咲かせる時間帯。小説や少女漫画なら何の変哲もない普通の男女の告白シーンだろうが、当の本人は緊張に緊張を強いられていたので体力をすっかり消耗してしまった。そんな徒労など知っていても我関せずとばかりに「おおーまじでかー」で済ませた夏美の恋愛経験値を知りたい。
「よかったじゃん、なんか最初っから好きだったみたいな感じだったし」
「さすがにそれはないよ。なんだかんだ言っても松高だったからさ、先入観はあったし多少びびってはいたよ。今はまあ、そこまで傾いて見てないけど。目下の心配事は親かなあ」
「でも順当だよ、別に悪いことしてるわけじゃない。七花はここぞってところでしっかり意見もって堂々としてるし、大正時代とか旧家とかじゃないんだから恋愛ぐらいは自由だよ。結婚ってなると当人も周囲もディスカッション必要だけどさ。今はそれで正解だと思ってるなら大丈夫だよ、七花」
ふたつほどサンドイッチを食べながら言う夏美。思いがけず背を押された気がして「ありがとう」とつぶやくと、「なーに言ってんの親友でしょ」と頬をつつかれる。報告してもあれこれと口を出さない親友でよかった。もし「松高なんて野蛮だよ!」なんて言いかねない相手だったらそもそも打ち明けなかっただろうけど。
最初から好きだったのかと問われれば決してそうではない。だけどどこかで惹かれていたのは確かだ、と告白後になって気づく。自分の気持ちを正直にぶつけてしまえば同類の情感があかるみに出る。いつから好きになったのか、なんていうガールズトークにはきっとこたえられないだろうけど、どこかで私は彼を好きになり、彼も私を好きでいてくれた、それでいいじゃないか。七花はきっぱり割り切って、両親の説得などはもう少しあとでもいい、と楽観視し、夏美と恋の成就を祝っていた。
そのとき、ふと鞄の中のケータイが震えていることに気づく。吉久からのメールだった。
「何?」
「吉久くんから。今日の晩、ごはん食べに行こうだって」
「おーおー、昨日の今日でさっそくデートですか。行ってこい振りむくな」
「いや、みんなで行こうって書いてある。夏美も来れるなら誘っていいよだって」
えーマジで? お邪魔じゃない? と色々言いながらも夏美は嬉しそうだ。七花はケータイの画面を見て軽く吹きだす。「夏美ちゃんも誘っておいでよ」の文字のあとに満面の笑みの顔文字があって、意表をつかれた。あとあとになって、こんな些細な瞬間が最も幸せだったと実感する日が来るのかも知れないけれど、それならそうで思いっきり幸せをかみしめなければ損だ。なんだって冷めたらおいしくない。
まだ昨日つきあいはじめたばかりなのだ。これから少しずつ、少しずつ信頼や居場所を作っていきたい。そうすることで何かあるのかも知れない、という些末な願いからすでに基礎はできあがっているんだ。
夏美も参加することをメールし、放課後、七花は教室を出る前に一度だけスカートを折った。本来校則で禁止されているが誰も守っておらず、授業が終われば必ず丈を詰める。七花はそれまで一度もスカートを折ったことがなかったが、今回ばかりは特別だ。膝上五センチほどまで短くなった水色のプリーツスカート。襟を整え、リボンを結びなおす。恋することで生まれた女子としての矜持。女子しか持ちえない最強の武器は、恋をしなければ構えることはほとんどない。アイドル級のイケメンでもなければ野球がめっぽううまいわけでもない吉久に恋をしたことで、彼が自分にとって世界一かっこいい男の子に見え、また彼にとって自分が世界でいちばんかわいい女の子であるようにと願う。そんな些細な一瞬一瞬がすべていとおしくて、苦しいほど胸がいっぱいになる。
服装を整えた私のとなりで唇にグロスを塗る夏美。彼女のもともと綺麗な顔立ちがさらに垢ぬけてかがやいてゆくさまをじっと見つめ、「ねえ」と声をかける。
「私にもそれ、やり方教えてくれない?」
夏美は一瞬目を見開き、その後ぱっと破顔した。「いいよいいよむしろやってあげるよ」とはしゃいでポーチの中のメイク道具を机に並べる。ベビーピンクのアイカラーやブラウンのマスカラを準備しながら、「すごいね」と彼女がつぶやいた。
「自分のときは意識しなかったけど、女の第二次思春期ってこういうのなんだ」
私にむけられるブラシの切っ先を見て、それが永遠の変化ってやつだよ、とつぶやいた。
続く。
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2011/07/14(Thu)18:26:23 公開 / アイ
■この作品の著作権はアイさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
こんにちは、アイです。
お芝居が有名なのでフィクションだと勘違いしてる友達が意外と多かったんですが、八百屋お七の話って実話なんですよね。私も中学にあがるまでしりませんでした。
展開のベースは、ありきたりですが井原西鶴の「好色五人女」巻四「恋草からげし八百屋物語」をはじめに、子どものころ見た八百屋お七のお芝居などから拾ってきています。(史実なのでいちいちフィクションから持ってくる必要はないのですが……
彼女の本意はどのようなものだったのか分かりませんが、数々の作家が創作してきたようにまっすぐ一途な愛を貫いたのだとしたら、同じ女として共感の限りです。
いろいろここに書きたいことはありますが、それは後編にて記述させて頂きます。