- 『鐘が鳴る前に』 作者:さと / リアル・現代 未分類
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全角8525.5文字
容量17051 bytes
原稿用紙約27.3枚
父の転勤で、新しい中学校に通うことになった翔。そこで彼を待っていたのは、あまりに唐突ないじめだった。何か理由があるわけでもなく、ただ悪戯を受けることが苦痛になる翔。ある夜、翔の目の前に現れたのは「天使」を名乗る少年。手には「過去に戻れるチケット」が。
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何がいけなかったのだろう。翔は考える。
転校して早々の自己紹介がいけなかったのか、緊張しなさすぎたのがいけなかったのか。
水に濡れた教科書を学校指定のリュックから取り出す。
ため息をつく。こんなことしても誰にも届かないことは知っているし、誰かに届けたいわけでもない。ただ、前の生活に戻りたいと、そう願っていた。
父親の転勤で、この町に引っ越してきた。この地区の中学校は「外見は多少荒れているが、中身は優しい」生徒が多いと聞いていたから大丈夫かと思って普通に暮らしていたらこのざまだ。
特に誰かの恨みを買ったわけでもなく、ただ標的にされた、と。引き算していくとその事実しか残らない。
言葉のナイフの避け方も学んだ。物理的な攻撃には心を閉ざせばいい。幸い、相手も見えるところに暴力は振るってこなかった。
前の町ではどんな風に笑っていたっけ、そんなことを考え出そうものなら学校に行きたくないし前の町に戻りたいしで頭が狂いそうになった。
「はぁ、前の学校に戻りてー」
日に日にその思いは増していった。この頃その自分を嘲笑うかのように、前の町の夢を見る。昔の同級生と一緒に授業を受ける夢。野球をする夢。学校から帰る夢。
制服のままベッドに寝転がると汗のにおいがした。そういえば今日は体育倉庫に閉じ込められたんだっけ。出るのに苦労したな。
思っている以上に疲労を溜め込んでいる翔の体はずっしりと重みを増し、その重みに身を委ね、翔は眠りにつこうとした。もう日付も変わる。
「ねぇ」
薄く目を開け、声のした方向に顔を向ける。そこには、色素の薄い、翔と年の近いように思える少年が立っていた。
夢だと思った。
「……誰だお前?」
「僕は、……天使。このチケット、買わない?」
少年が差し出したのは白い紙切れ。やっぱり夢だ、と翔が口に出す。
「夢じゃないよ。これ、過去に戻れるチケット。 君、昔の町に戻りたいって言ってたろ?」
ゆっくりと頭を上げる翔に、少年がじれったそうに言った。
「ほら、自分の顔をつねってみなよ! これは夢じゃない」
月の光に照らされた少年の髪が金色に見える。
翔は自分の頬を引っ張った。痛みは感じる、しかし今目の前で起きている出来事が現実だとは信じられなかった。あまりにも、現実離れしている。
「ていうかさ、何で俺んちに入ってんの?」
翔がいかにも不快だという目を少年に向ける。
「だから、僕は天使だって言っただろう?それくらい、できるさ」
翔の目が今度は見開かれる。
「なあ、お前さっき『過去にいけるチケット』って言ったよな。何だよそれ」
少年は待っていましたとばかりにニヤリと笑う。
「その名の通り、これを使えが過去に行くことができる。君の望む時代の過去に」
「そ……それ、俺にくれるっていったよな た、タダなのかよ?」
「それが無料って意味なら。ただ――」
少年がうつむく。
「ただ、なんだよ」
「ただ、代償がある」
翔は怪訝そうな顔を浮かべた。
「代償? 何なんだよ、それ」
ただ「代償」と一口に言われても分からない。代償は、「代」わりに「償」うもの。償うこともないのにいじめられている自分は誰かの「代わり」なのではないかとふと思った。
少年はそのまま斜め下を向く。
「それは、……僕にも分からないんだ。ごめん」
翔が立ち上がる。少年は自分より一回り背が低く、線も細かった。
少年が心持ち見上げるようにして言う。
「どうする、買う?」
翔は少年を見据える。少年は笑みを浮かべていた。月明かりのコントラストが少年の影を濃く染めている。なぜだろう、翔をいじめる奴らの顔と重なった。
「今すぐでなくてもいいよ、期限は七日。よーく考えて」
少年は翔に背を向けると、消えていった。
残ったのは少年と同じ色をした月明かりと翔だけ。
***
夢だ。
昨日の夜のことは忘れようもないくらい覚えているが、それが現実だという証拠にはならない。あれが現実なら、この何の変哲もない朝が来るはずがない。
食卓には三人、父洋介とその妻紀子、そして翔が座っている。いつもと何も変わりはない。
「ねえ翔、この頃学校のこと何も話さないじゃない。まだ新しい学校に慣れてないの? それとも何かあったの?」
「え、何もないよ。特別母さんに言わなきゃいけないこともないし。この頃あったことといえば……、鈴本がガラス割ったくらいかな」
「そう?」
納得のいかない顔を浮かべる紀子に洋介が大きな口をあけて言う。
「まあまあ母さん、俺が子供の頃も親に反抗ばっかしとったから、翔もそういう時期なんやろ、な?」
よかった、バレてない。翔は心の中で安堵した。いじめられているということがバレたら、と思うと恐ろしい。
二人がどんな行動をとるのか分からないという点でもそうだが、何故か自尊心が心を抉るのだ。「なんで自殺なんかするんだ。さっさと親にでも言えばいいのに」。自分がいじめられて初めて分かった。
どんなにいじめられても、人間は自尊心を優先するんだ。鬱になって、死にたいと思うまで、いや死ぬまで、独りで自尊心を守る戦い。それがいじめ。
「そんんなこと本人の前でいうなよ」
少し笑う。今日も完璧だ。明るい子供を演じ続ける。
「もうこんな時間だ、母さん、俺もう学校行くから」
バタバタとリュックを背負い、靴を履く。
「はいはい、いってらっしゃい」
「いってきまーす」
重い足取りなんか見せるな、自尊心が囁く。
「毎日学校がそんなに楽しみなのかしらね、いつも元気そうで」
母の言葉を背中で聞き、安堵と絶望、両方を抱えている自分に気が付いた。
***
「へえ、君、いじめられてるの?」
昇降口を抜けたところで背後から声がした。声を出すより先に振り返ってみると、そこには昨日の少年がいた。翔の後ろにピッタリとくっついている。
「お前、昨日の!!」
叫ぶと同時に、周りの視線が翔へ傾く。それはいつものより幾分かひどい、軽蔑のまなざしだった。
その理由を考える暇もないまま、翔は誰かに足で蹴られ、床に突っ伏した。その理由を考える暇もないまま、翔は正面から誰かに突き飛ばされた。
またか。
「おいおい、しょーちゃん。一人で何叫んでるんですかぁ?」
クスクスと嫌味な笑いを浮かべて、尻餅をついた翔の目の前に立つ。学校中でも有名な鈴本だった。
大柄な少年はこれでもかという悪意を翔に突き刺している。
「あらら、上履きが見つからないの? 翔君。まるでシンデレラみたいですねぇ」
周りに引き連れている数人と共に爆笑する。
しかし、翔の頭の中を占領しているのはそれではなく、自分を突き飛ばした同級生と少年が重なっていることだった。
「な、なんで……」
「だから言ったでしょ、僕は天使って。誰にも見えないし、触れないよ」
「おいこら聞いてんのかよ!!」
鈴本が翔の足を踏みつける。胸ぐらを掴まれ、息が出来なくなる。鈴本から煙草の匂いが漂ってきた。
「……っ」
飽きたのか、鈴本は舌打ちをするといきなり手を離した。そして腰ぎんちゃくを連れて校舎から出て行った。
サボるなら朝から学校に来なければいいのに。
鈴本に絡まれるようになってから、翔の日課に新しく「上履き探し」が加わった。最初は恥ずかしかったり、見つからなかったときのことを考えたりして必死に探していたが、最近、奴らのパターンも掴めてきた。しかし、すぐに見つけると隠し場所のレパートリーを増やされるから、予鈴の鳴る5分前くらいに教室に戻るようにしている。
「夢、じゃないんだな」
制服の埃を払いながら立ち上がった翔が小声で言う。
「うん」
さも当たり前の様に笑う少年の体を、幾人もの学生が通り抜けていった。
「僕は、君以外には見えないし、触れない。もちろん聞こえもしない」
「壁は抜けられる?」
少年が首を振る。
「それはできない。皆は僕を認識してないけど、僕にはこの壁がちゃんと見えてるから。意識的に通り抜けることは出来ない。目隠しでもされてたら別だけどね。」
尚も不思議そうな顔で自分を見つめる翔に、笑いかけて続けた。
「逆に言えば、お互いを認識してる君と僕は普通の人間みたいなもの。握手だって出来るよ」
翔は階段のゴミ箱に入っていた上履きを持ち上げ、中に転がっている画鋲を器用に取り出して履くと、教室に向かった。
少年は授業中もちょこちょこ顔を出し、教師の話に真剣に耳を傾けることもあれば、翔にちょっかいを出すこともあった。
「ここ、いいね。たくさん本がある。知らないものばかりだったけど」
そう呟いていたから姿の見えない時は図書室をウロウロしていたのだろう。
「そういえばさ、さっきあの大きな人が言ってた『シンデレラ』って何?」
少年は一日中翔についてきた。登下校の道も、鈴本に殴られる時も。そんな時、決まって少年は寂しそうな、陰のある表情になった。
家ではずっと翔の部屋にいた。ベッドで寝転がっていたり、本を読んでいたりと様々だったがいつも楽しそうにしていた。
そして、寝る前には決まって言うのだ、
「ねぇ、チケット。買う?」
と。
両親が寝静まった頃に、2人でベッドに座ってたくさんのことを喋った。同年代と喋るのは実に半年振りで、少年が自分にしか見えない存在だとか、正体が分からないだとかは翔にとってちっぽけなことに過ぎなかった。
「シンデレラっていうのは、有名な童話でさ、継母にいじめられてた女の子が魔女の魔法の力を借りて王子様の舞踏会に参加するんだ」
少年は途中でへぇ、とかふうんとか相槌を挟みながら話を聞いている。
「魔女が『12時になったら魔法が解けるから、それまでには帰ってきなさい』ってその女の子に言うんだよね。それで彼女は12時の鐘をお城で聞いて、急いで家に戻ったんだ。」
鈴本が言っていたこともあながち外れていないのではないか、そんなことをぼんやり思いながら翔は語り続ける。
「王子は彼女を気に入ってたから『まだ帰らないでくれ』って女の子を追いかけるんだよ。でもそこにあったのは彼女がうっかり落としていったガラスの靴だけ。……あの時僕は上履きを履いてなかっただろ? だからアイツは俺のこと『シンデレラ』なんて言ったんだよ」
話を終えた翔に少年が小さく手を叩く。
「そうなんだ。……ここは僕の知らないことばかり溢れてる。もっと色んなこと、知りたいなぁ」
うつむき、自分の手をまじまじと見つめる少年。そして、
「翔はいじめられてるから過去に行きたいの?」
独り言のように呟いた。
「うん、まあそんなとこ。今はこんなんだけど、前の中学では結構人気者だったんだぜ。それに、暴力振るう奴なんていなかった」
「でも、過去に行ったところでここにくる未来は変わらないよ」
翔が少年に向き直る。
「今度はちゃんと、引越ししたくないことを母さん達に言う。あの時は適当にあしらったからいけなかったんだ。―――今度は、前の町に一人ででも残りたい」
少年が苦笑いをした。
「そうだよ、こんなに苦しい思いをしてるんだ、これを使えばいいんだよ。ね?」
少年は翔に例の白い紙を手渡した。手にとってよく見てみると切り取り線の様なものがついている。
「ここを切り離すと、すぐに過去に行ける」
少年の白い指が切り取り線をなぞった。
切り取り線がわずかに震える。
手が止まる。
「ま、まだ時間はあるよな。今日はいいよ」
「どうして? 君の望む過去なんだよ、すぐ行けばいいじゃないか」
少年の表情が少し険しくなる。
「これは、大きなことだから。ギリギリまで考えないときっと後悔する。今後悔しても遅いんだ。次後悔したら、俺は自分を許せないから」
翔の決意がにじむ顔に捉えられた少年は下を向き、もう一度顔をあげた。
「そうだよね、普通はそうだ。ゆっくり考えてよ!」
月に雲がかかったのだろうか。少年の顔が暗く見えた。
***
「翔、今日だよ」
朝起きてまずそう言われた。少年の顔はいつもより真剣で、これが「夢」だなんてそれこそ非現実的に思えるほどだった。
「分かってる。夜には、決めるよ」
今日はこのこと以外考えられそうになかった。恒例の上履き探しも忘れ、教室に入るときになって気が付いた。恥ずかしい、とも感じなかった。
授業中も、昼ご飯の時も、ずっと考えているのに答えはでない。過去に戻る代償が何か分からない以上、簡単に決断を下すわけにはいかない。自分によっぽどのメリットがなければ。しかし、今を逃せばこのようなチャンスは二度と来ないだろう。こんな、誰に言っても信じてもらえないような出来事が自分に降りかかることなんて。
焦れば焦るほど時間は空を切っていく。泡に似ている、と思った。じっと眺めているときにはゆったり、ゆらゆらと水面へ向かうが、いざ掴もうとなると途端に指を避けていく。自分をあざ笑うかのように水中を泳ぎまわる。
「翔、何ボーッとしてるの。トマト落ちたわよ」
紀子の声で我に返る。
「あ、ごめん」
膝の上に落ちたトマトを頬張る。
「ねぇ母さん」
「ん?」
紀子が箸を止める。
「もし、もしだけど、母さんは昔に戻れるって言ったら、いつに戻る?」
変に思われるかもしれない。でも後悔はしたくなかった。
「私は、独身の頃かな。バブルの絶頂で、何もかもがハイテンションだった頃。あの時は楽しかったぁ。……にしてもいきなりねぇ」
「いやいや、今日友達と話題になっただけだって。父さんは?」
「わしは、母さんとまだラブラブだった頃やな。あの頃はよかった。膝枕してもろたり耳掃除やら……」
「自分何か勘違いしとるんとちゃう?」
紀子が洋介を睨む。関西弁になった紀子を怒らせるのは得策ではない。
「すんまへん!」
その様子がなんだかおかしくて、つい声を上げて笑ってしまった。つられて2人も笑う。そういえば笑ったのって久し振りだっけ。いつも使わない筋肉の痙攣がそれを証明していて辛かった。
「でもね、」
紀子が続ける。
「私はなんだかんだ言って今がいいな。父さんはオマケだけど、3人で居られるのが一番楽しいもの」
洋介も赤い顔で頷く。
「母さんの言う通りだ。メタボになろうが糖尿病になろうが、俺は母さんと翔とビールがあれば生きていける!」
ガハハハと豪快に笑った。
「父さん、冗談に聞こえないから止めて……」
翔はもう一度くすりと笑った。どうしてだろう、トマトの色が、キャベツの色が、家族の顔が今までと違って見える。
『蛍光灯換えた?』と聞こうとして止めた。理由は分かった。どうするべきかも、分かった。
「ごちそうさま」
それだけ言い残すと翔は駆け足で2階の自室へと向かった。
***
出会った時と同じように、少年は窓からの光を浴びていた。
電気は点けなかった。影になっている少年の表情が照らされるのが何故だか怖かったのだ。
「決まった?」
目だけが光っている。その瞳もまた、髪と同じ金色に見えていた。
「決まった」
少年がこちらを向く。
「そう」
少年は笑っていた。
「俺、は」
一度唾を飲み込む。この言葉で全てが終わる。金曜日のSHRの「さようなら」の声と同じだ。一週間が終わるのだ。
この一言を言う為に今まで生きてきたような気さえした。
この一言は、重い。
「僕は過去には、行かない」
目の前で少年の目が見開かれていく様子がスローで見られた。
「僕は、まだ『今』でやりきってない。いじめられて、友達なんて1人しかいないけど、この現在が」
言い終わる前に気道を塞がれた。
僅かに見えた少年の目には深く濃い衝動が刻まれている。
よろけた拍子にベッドに押し倒される。息が出来ない。
「なんだよ! くだくだ悩んで結局行かない? ふざけるなよ! 返せよ時間! ……なんだよ……」
少年の手が緩んだ。しかし翔は手を払おうとはしなかった。
「最後まで言うよ。僕は、この現在が、好きだから。だから僕は過去には行かない」
少年の手に翔の手が重なる。爪が首に食い込んでいるが、それはそのまま少年の想いなのだ。
痛い。
「こんなことになるなら、どっかの博打好きのおっさんにでも押し付ければよかった。お前を選んだばっかりに、お前を……。また……」
少年の真後ろにある月の光の影になっていて見えないが、翔には少年の表情を容易に想像することができた。
自嘲じみた笑いを浮かべた顔。後悔して、自分自身を憎んでいる顔、
翔が、いつもしてきた、顔。
「君は、誰 」
ずっと聞きたかった。自身を「天使」と名乗った少年だが、それは嘘だと分かっていた。彼の表情は、天使というにはあまりに人間らしい。
「僕は……、ごめん。天使なんかじゃない。どっちかって言ったら悪魔かな。このチケットを売りつける、悪魔」
翔の顔に液体が落ちる。予想外にそれは冷たくて、さっき感じた団欒のぬくもりさえ吸い取られていく。
「代償って何なんだ。知ってるんだろ?」
少年がゆっくりと口を開いた。
「死んでも天国にも地獄にも行けないんだ。僕みたいにね。僕は、生きてるときに親を殺した。そのせいでどっちにもいけなくなったんだ。あの世に情状酌量とかって言葉はないらしい。それでいつか、誰かに言われたんだ。『このチケットを人間に売れば、天国に行かせてやる』って!だから待った!何百年もずっとずっと真っ暗な中1人で! 今度は一体どれだけ待つの!? 何百? 何千? じいちゃんに会いたい、ばあちゃんに会いたいよ。僕はどうすればいいんだ!!」
翔の首にあった手はいつの間にかシャツに移動していた。胸ぐらを掴まれている。
喋れなかった。少年がどれほどの後悔を積み上げてここまできたのか。自分はその積み木をまた0にしようとしているのか。
しかしここで「過去に行く」と答えてもそれは傷の舐め合いでしかないのではないか。
「いじめられて、友達だって一人もいない。こんな辛い世界なのになんで! なんで行かない……って」
「言っただろ、僕はこの今が好きだから。それと、友達。いなくなんかない。いるって言ったろ? 君が、いるって」
少年はポカンと口をあけた。少年の涙が顎を伝って翔のシャツに染みをつくる。
「君は、やろうと思えば無理にでも僕にチケットを渡すことができた。それをしなかったのは君が、」
「僕は悪魔だ。天使じゃない。……優しくなんかない」
月は気付けば少年の背後から移動していた。今は少年の顔がはっきりと見える。
「ごめん、僕、貰ってばっかりだ。大切なものばっか貰っといて君に何一つ返せてない」
こんな安っぽい言葉しか紡ぐことのできない自分に嫌気が差す。
「僕が、売りつけたのが悪いんだよ。誰がどう見たってそう言うに決まってる。他人捨てて、自分だけ幸せになろうっていうのがおかしいんだよ。僕は、ずっと、ずっとあそこにいればいいんだね」
少年の目に生気が宿っていない。諦めに似た笑みを浮かべている。
その時、翔は異変に気付いた。少年の向こう側にある窓が透けて見えているのだ。
「お、おい、透けてるぞ」
「あぁ、僕は7日間しかここにいられないんだって。もうすぐ12時だろ? ここから消えてなくなるんだ。シンデレラと一緒」
ハハ、と力なく笑うとそのまま息を吐き出した。
「ねぇ、翔。絶対にこっちに来ちゃ駄目だよ。絶対に罪を犯しちゃ駄目だ。だからさ、天国で待ってて。僕もいつか絶対に行くから。その時は僕に天国を案内してよ。ね?」
縋るような瞳が翔を見つめる。
少年の色はどんどん薄くなり、その涙と同じくらいになった。
「うん、絶対。絶対だからな」
「今度は、誰も傷つけない方法見つけるよ」
「忘れるなよ。お前は、君は僕を救ってくれた。ありがとう。……君は罪人じゃないから」
少年は深く頷いた。
「翔は知ってるよね、シンデレラの結末」
「……、主人公と王子はまた会えるんだろ?」
にやりと笑った翔を見て少年も笑った。ひどく脆い、砂の城の様な笑みだった。
そして少年は月の光に同化した。
ベッドは音を立てて少年の質量を吸収し、翔の制服の染みも消えた。
時計の針はまだ角度を残している。
翔はすっかり乾いてしまったシャツを引っ張って独り言を吐いた。
「……、靴くらい残していけよ」
***
昨日はそのまま寝てしまったようだ。夢も見なかった。
風呂に入る前に寝たため、昨日から制服を脱いでいない。
今日はおかしなことに、上履きは汚れていたがちゃんと下駄箱に入っていた。
いつもよりだいぶ早く教室に入る。鈴本の目なんて気にしない。
そういえばクラスの雰囲気がいつもと違う。浮ついているというか、上ずっているというか。
―――あれ、この空気って、
担任もいつもより早めにSHRを始める。ざわめきは収まらない。
二度手を叩いて生徒の注目を集めた。
「今日は、転校生を紹介します」
再び教室のドアが鳴る。
不意に、翔のシャツの胸の部分が湿った。
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■作者からのメッセージ
私自身、過去にとらわれていた人間なのでこういう話が出来上がりました。
翔君なりの最高の答えだったのだと思います。
例えタイムマシンがあったとして、過去に戻れても何も得るものはないのではないでしょうか。もし、とんでもない対価を払ってでも戻りたい過去があるのなら、その人はそのままでも過去を背負って生きていけると思います。
私なんかは、戻れてもまた同じことを繰り返してしまいそうです。