- 『彼と私とエスペランサーとガニメデの因果関係について【輪舞曲】』 作者:オレンジ / リアル・現代 恋愛小説
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全角15914文字
容量31828 bytes
原稿用紙約47.5枚
初と言っても過言ではない、恋愛小説
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太陽も西に傾き、日中の熱気によって熱せられていた海岸沿いの堤防も、素手でやや暖かいと感じる程度にまで冷めてしまっていた。
私とタカフミ君は、肩を並べてそこに座っていた。穏やかな夕暮れの浜辺が見渡せる堤防の上は、心地よい風がほほを掠めていく。
タカフミ君の透き通る様な白い肌が、夕暮れの日差しを受けて薄いオレンジ色に染まっていた。
彼の端正な顔立ちと容姿は、天地創造の神と美の女神が協同して刻み上げた奇跡の作品ではないかと、いつも一緒にいる私でさえ思う事がある。美男子だとか、イケメンだとか、二枚目だとかそんなありふれた言葉では彼の容姿の例えようは無いと思う。
彼にとっては高校生活最後の夏休みを間近に控えた放課後、文芸部の活動を終え、何時ものように海岸沿いの道を二人で歩いている時、タカフミ君が言った。
「ちょっと座っていこうか」
毎日のように浴びている潮風がその時はとても心地よく感じたので、私はタカフミ君の提案を快諾して、五段ほどあるコンクリートの階段を駆け登り堤防の天端に立った。数瞬遅れて彼が私の右隣にやってきた。
合図したわけではないが二人ほぼ同時に腰を下ろすようなタイミングとなり、顔を見合わせて笑った。
しばらく二人でべた凪の浜辺を見つめていると、ゆったりとした波の音に合わせるようにして、タカフミ君が口を開く。
「なあケイコ、小説登竜門のガニメデさんは、お前じゃないのか?」
小説登竜門、それは、私たち二人を再び結びつけたきっかけである。素人小説家の作品投稿サイト。掲示板に素人作家が自作品をアップし、意見交換をしつつ切磋琢磨し合う、云わば修練の場のようなもの。ガニメデさんとは、その小説掲示板に投稿する素人小説家さんの一人だ。女性の作家さんで、とても優しく暖かな作品を書かれる方。私の作品も、時々ガニメデさんの作風に似ていると言われる事があるのだが、文体は似ているかもしれないが、あんなにセンシティヴで繊細な物語を紡ぐ事は私には到底出来ない。
「どうしたの急に? 私とガニメデさんなんて比較にならないよ。私は、あの人ならきっかけさえあれば、プロの作家さんになれると思ってる。そんな人と一緒に見られてもどうしていいのか……」
「やっぱりケイコじゃないのか」
「うん」
「そうか」
タカフミ君は、そう呟くと水平線の向こうを見つめる様にして、黙り込んでしまった。
「私はね、エスペランサーさんの方がガニメデさんに近いと思うよ」
エスペランサーとは、タカフミ君の小説登竜門でのハンドルネームだ。
「ひょっとしたら、ガニメデはタカフミ君のもう一つのハンドルネームじゃないの?」
私は、会話を続けようとあれこれと逡巡しながら、一人で喋っていた。ガニメデさんは女性なのだから、そんな筈は無いのに、彼は私の言葉に否定も肯定もせず、ただ水平線の向こうを眺めている。
「なあ、ケイコ」
喋り過ぎた私を制する様に、タカフミ君は突然私の名を呼んだ。
「なに?」
突然だった事もあり、その時、私は目を丸くしてとても変な顔をして、彼の目を見つめていたに違いない。
「ケイコがガニメデさんじゃないとなると、ガニメデさんの作品はこれから一切、小説登竜門にアップされなくなる筈だ。そしてそのままあの場所から居なくなるだろう。そうしたら、今度はお前がガニメデさんになって、作品を書き続けて欲しいんだ。お願いだ。ケイコにしか出来ない事なんだ」
タカフミ君の言っている事が全く理解出来なかった。でも、その言葉には彼の心から絞り出された純粋な力があった。
だけど――
「ごめん、タカフミ君。良くわからないよ」
真っすぐで曇りの無い彼の瞳に捉えられ、私は、彼の顔から視線を外す事が出来ない。誰もが美しいと認める彼の顔を今、自分の瞳が独占している。
「順を追って話そう。これからの僕たちの事だから」
そして、彼は、彼らしくもなく饒舌に、語り出す。
私は、彼の瞳に捉えられたまま、夕暮れの堤防で波の音と共に、彼との時間を振り返るのだった。
*
幼馴染みだったタカフミ君とのおよそ5年ぶりの再会は、果たして再会と呼べるものだったのか。世の無常を痛切に感じた瞬間だった。
高校に入学すると程なく、一つ年上の超絶美形先輩の噂は私の周辺にも聞こえてきた。入学当初、同じクラスで席が近くて地元も同じだった事もあり、仲良くなったアヤミからその話を聞いた。
「二年五組って言ってたかな? 文芸部らしいんだけど、チョーかっこいいらしいよ。実際見た子が言ってた、マジやばいって」
「へえ、そう」
アヤミは放っておくと何時までも喋っているから、何となく相槌を打ちつつ、いつ話を切ろうか考えていた時だった。
「でね、その先輩の名前が確か『内山田タカフミ』だったかなあ、そんなチョーかっこいい先輩なのに名字が内山田って、なんかウケルよね、クールファイブ的な」
「えっ」
その名前を聞いた途端に私の脳内に幾つものシーンが映し出される。走馬灯のようにとは本当に良く言ったものだと思う。次から次へと、あの頃の映像が脳髄のスクリーンに映っては消え映っては消え、或いは同時上映的に幾つもの場面が映し出された。
「どうしたの、ケイコ」
多分、私が相槌を打たなかったからだろう、アヤミは私の異変に気がついた様だ。
「どうしたの、急にぼうっとしちゃって」
「え、いや、別に……」
内山田タカフミは間違いなく、私の幼馴染みで小学校五年の時に突然引っ越して私の前から居なくなってしまった男の子の名前。いつも一緒にいた、幼いころ私の時間は、タカフミ君と共にあった。一緒に近所の神社の欅の木に登り、海で泳ぎ、雪だるまを作ってお餅を食べた。宿題だって一緒にやった。しかし、その幼馴染みは突然私の前から居なくなってしまった。未だにその理由も知らないままである。だが、今それをアヤミに打ち明ける必要も無いし、同一人物との確証があるわけでもないので、この場は何も言及しない事にした。
「ねえケイコ、今日授業が終わったら文芸部の部室を覗いてみない?」
アヤミはぐっと顔を私の耳元に近付けて、内緒話の体で呟いた。だが、元々アヤミの喋り声は大きいので普通に女子が会話をしているのと何ら変わらなかった。
「う、うん、いいよ」
断る理由を私は思いつかなかった。
「よし、決まり、ふふっ、ケイコも好きだねえ」
「何言ってるの、別にそんなんじゃないんだからね」
この後は、あまりにも下らない会話が続き、やがて今日一日の授業が終わる。入学間もないので、授業も変則的だ。あっという間に私とアヤミには放課後が訪れた。
文芸部の部室の前には、常に女子の人だかりが出来ているらしい。もちろん超絶美形と噂される先輩目当ての女子達だ。
だが、今日は時間が早かったからだろうか、そんな人だかりは無く、部室の入口辺りに男子が二人立ち話をしているだけだった。
中肉中背の黒ぶち眼鏡の男子の方は知らないが、もう一人、少しブラウンがかった緩いウエーブの髪を持った、高身長のバランスが取れた体躯をした男子の方は、その面影を私は知っていた。間違いない。
アヤミに引かれていた手を振り解き、私は、彼の所へ駆け寄っていった。五年ぶりの再会を確信して。あの頃の淡い時間が再び動き出す事を信じて。
彼の前までやってきて、私は息を整える。
「タカフミ君でしょ?」
その顔立ちから、良く女の子に間違われていた私の一つ年上の幼馴染は、高校二年になり私をすっかり見下ろすほどに背が伸びてはいたが、一目で彼だと認識出来るくらい面影や醸し出す空気や独特な時間の流れのようなものは何一つ変わっていなかった。
彼と目と目が逢う。切れ長の目を丸くして、突然の来訪者を見つめている。驚くのも仕方ないだろう。やがてその驚きの眼も、懐かしの再会によって喜びをおびた視線に変わる。筈だった。
「すみませんが、何処かでお逢いしましたか」
しばらくの沈黙の後、いぶかしそうな表情をして、彼はそう言った。
冗談を言っているとは到底思えないその瞳。
「覚えて……ないの?」
私の言葉に、彼は首を傾げるだけ。
幼馴染みだった内山田タカフミと私の距離は、ほんの一瞬前あれほど近付いていたのに、天の川銀河が二人の間を分断してしまったかのような途方もない距離が出来てしまった。
アヤミが後ろから私のブレザーの袖を引っ張っている。でも、私は動けない。反応出来ない。
「何の用だい、君たち」
私と彼の間に割って入ってきたのは、中肉中背の黒ぶち眼鏡の男だった。
「新入生? 文芸部に入部希望?」
男は、無愛想に眼鏡越しに私とアヤミの顔を交互に見やった。
「えっと、その、内山田タカフミ君ですよね」
「ああそうだよ」黒ぶち眼鏡の男が言う。
「君の中学でも知られていたのかい。有名だからね、タカフミは。申し訳ないけど、入部希望者じゃなければ帰ってくれないかな」
「違うんです、そうじゃなくって」
タカフミ君に近寄ろうとする私を、男は巧みな体技で遮る。
「タカフミは先に入ってろ」
黒ぶち眼鏡の男は、そう言って彼をさっさと部室の中に入るよう促した。長身の彼は、こくりとうなづいて、そのまま文芸部の部室へと姿を消していった。
「困るんだよねえ、こういう追っかけ紛いの事されると。いい迷惑なんだよ」
男は、眼鏡を掛け直す仕草をしつつ、面倒くさそうに喋っている。
「タカフミにも逢えただろ、もう帰ってくれよ。入部希望っていうなら話は別だけど、所詮はタカフミ目当てなんだろ君らも……」
「ごめんなさい、失礼します」
私の後にいたアヤミは、そう言って、茫然としていた私の手を引き、走ってその場から私を連れ出す。
「なに、あのメガネ。チョー感じ悪いよね。ふざけんなっての」
私は、アヤミに引かれるままに文芸部を後にした。アヤミが何か怒っている声が何故だか遠くの方で聞こえる。
タカフミ君は私を覚えていなかった。私と共に過ごしたあの時間が、タカフミ君の中からすっかり消え失せている。私には、脳髄に彫り込まれているかの様に鮮明に、輝いて存在しているあの時間が。
何時しか私の目からは大粒の涙がぼろぼろと零れ落ち、私の通った後を滴が点々と濡らしていった。
「ケイコ、どうしたの」
「何でもないよ……」
「何でもないわけないじゃない」
私のくしゃくしゃの泣き顔を心配そうに見つめるアヤミがいる。
「ねえ、アヤミ。私って小学校の頃とそんなに変わっちゃったかなあ。小学校以来逢ってないコが見て、私と気付かないくらい、変わっちゃったのかなあ」
「ごめん、あたし小学校の頃のケイコ知らないし……でもケイコってさ、童顔だからあまり昔と変わってないと思うよ」
「そうかな……」
「そうだよ、昔からずっと可愛かったと思う。だからさ、そんな顔くしゃくしゃにして泣かないの。……ほら、涙拭いて」
いい香りのするハンカチをアヤミはそっと差し出す。本当にアヤミは良い子だ。ずっと親友でいたい。
*
その後、私はタカフミ君の事について、アヤミに全てを話した。幼馴染だったこと、彼が突然いなくなってしまったこと、そして私が当時タカフミ君に抱いていた淡い想いも。
その後、アヤミの提案で私たち二人は文芸部に入部することになった。
「まだ、忘れられたと決まった訳じゃないじゃん。ひょっとしたら、あの場所では知ってても言えなかったかも知れないし。まずは、彼に近づいて真相を確かめる事が大事だよ」
ひょっとしたら、更に私の傷が深くなるかも知れない。期待よりも怖さの方が先に立つ。でも、私は決心した。ずっと心に残っていたあの事の真相を必ず聞き出すんだ「なぜ、突然私の前から居なくなったの?」と。
そして、出来ればもう一度……
*
文芸部は圧倒的に女子の部員が多かった。殆どの女子部員がきっとタカフミ君目当てなんだろうね、とアヤミに話した事があるが、「取り越し苦労が多いと早く老けちゃうよ」と笑うだけで真剣に取り合わなかった。
文芸部の活動は、それほど忙しく無かった。年に二回程度、詩やらエッセイやら小説を載せた部の冊子を発刊することと、学園祭でのマンガ喫茶の設営と運営くらいのものだった。
マンガ喫茶は、部員が個人で所有しているマンガを持ち寄って部室の中で喫茶店を行うもので、とても評判が良かった。文芸部員が所持するマンガや文庫本の量やその多岐に渡る種類の多さを舐めてはいけない。それはそんじょそこらのマンガ喫茶以上の品ぞろえは保障できる。まあ、漫画喫茶を容認する学校も学校だが。
部活動と言っても、バリバリの体育会系の様に毎日活動があるわけではなかった。週二、三日程度の活動だったので、タカフミ君とはなかなか会話する機会もなく、思う様に事は運ばなかった。タカフミ君の回りには常に誰かがいた。取り巻きの女子や男友達。なかなか私の入る隙間など見当たらない。
そんな中でも、頼りになるのはやはりアヤミだった。何に対しても物怖じしないアヤミは、タカフミ君について、あらゆる諜報活動をしてくれた。
彼女の持ってきた情報で最大級の吉報は二つ、「彼女は今居ない」ということと「小説登竜門という小説投稿サイトにエスペランサーというハンドルネームで作品を投稿している」ということ。
実は私もその頃から、小説登竜門にはつまらないお目汚し的な作品を幾つか投稿していたのである。
エスペランサーさんは、私がサイトの存在を知った頃から既に人気の作家さんだった。丁寧な文章運びと、綺麗な比喩、そしてラストはいつも少しだけ儚い、ほろ苦い結末。
まさか、外で遊ぶのが大好きで「本ばっかり読んでないで外にいこう」と言っていつも私の手を引っ張っていた彼が、自ら作品を投稿する程に小説を書いている事に驚いたが、エスペランサーさんがタカフミ君だと聞いた時、私は妙な納得感を覚えた。
「チャンスだよ。絶対これきっかけで話が出来るじゃん。頑張れ、ケイコ」
アヤミはそう言って私の背中をぐいぐい押してくれた。
「あの、すみません、小説登竜門の事で……」
隣にはアヤミが、タカフミ君の横には中肉中背の黒ぶち眼鏡の男(後に私たちは彼の事をクロブチと呼ぶようになる)がいる中で、私はちっぽけな勇気を振り絞った。
「へえ、君もあのサイトに投稿しているんだ。すごい偶然だなあ」
「そうなんです、まだあまり読んではもらえないですけどね」
「なんていうハンドルネーム使ってるの」
「えっと、『小池さん』っていう……」
「『小池さん』ね、またじっくり読ませてもらうよ」
やっぱり、彼は私の作品を読んではいなかったんだと少なからずショックを受けつつも、彼が読んでくれると言ってくれたことの期待感は私をすこぶる高揚させたのだった。
そして、数日後にエスペランサーさんから私の作品に対する感想が寄せられた。直接感想を聞くよりも、読んでくれた人の想いがそのまま文章になって残るというのは良いものである。その日は感想を何度も何度も読み返しては、叫びたくなる衝動を抑え、部屋中を飛んで廻っていたような気がする。
その後、私とタカフミ君は小説登竜門の話をきっかけにして二人で話をする機会も多くなり、しばしば一緒に下校するようにもなっていった。
そんな日々が続いて、九月の学園祭。私は、タカフミ君に告白された。私とタカフミ君は、漫画喫茶の本棚の脇でキスを初めて交わした。
幼い頃のタカフミ君を知っている私と、幼い頃の私を知らないタカフミ君、こうして二人は付き合うようになったのである。
*
タカフミ君とこうして晴れて付き合う様になっても、私は彼の記憶の真相を聞けずにいた。気の小さい私は、ストレートに聞く事は出来ない。時々彼の小学校の頃の話を聞き出そうとして、いろいろと質問を投げかけてみるのだけど、彼は小学校の頃の話を殆どしなかった。いつも「まあ」だとか「うん」だとか、至ってシンプルな言葉でかわされるのである。
また、今となっては、幼いころの記憶が無かったとしても、それはそれとして受け止め、今のタカフミ君を愛しているのだから、それで十分ではないかという思いが強い。真相を突き詰める不安感を考えるより、未来のタカフミ君との時間の方が大切なんだ。
一度、過去の記憶の事でトラブルがあった。
タカフミ君には、月二、三会程度の割合で、放課後に彼を迎えに来る年上の(多分私より5〜10歳位上だと思う)女性がいた。
名前はカエデさんと言った。
何時も、シルヴァーの高級そうな車(クロブチの情報ではレクサスISFというらしい)で校門の前に乗り付け、タカフミ君を待っていた。車のボディーに腰を寄せ、長い黒髪をなびかせながら、大人の色気を無意識的に振りまくカエデさんは、思春期の男子にとっては刺激的過ぎる存在で、校内でもウワサの人だった。
アヤミの諜報活動を持ってしても、カエデさんの素性は杳として知れなかった。カエデさんという名前もクロブチからそれとなく聞き出したにすぎない。
ある日、私は思いきってカエデさんの事を彼に直接聞いてみた。タカフミ君の彼女としては当然に問い質さねばならない事である。だが、そこへ至るまでには当然アヤミの強烈な後押しがあったのは推し量っていただきたい。
「クロブチは、そんな関係じゃないと言ってたけど、絶対自分の口で確かめた方がいいって。だって、ケイコは彼女でしょ」
「うん、そうだけど」
「気にならないの? 私だったら耐えられない」
「うん……」
そんなアヤミとのやり取りの後、私は彼に訊いてみた。
彼は、あっけらかんとした口調で答えてくれた。
「カエデさんは、病院の先生だよ。昔から随分お世話になってるんだ」
「病院って……」
確かに、タカフミ君は学校を休みがちだった。単位取得が困難なほどでは無いようだが、確かに多かった。学校を休んだ日は、一切連絡が取れなくなるのも心に引っ掛かっているが、それが何かの病気で病院に行っているとなれば、話は繋がる。
「ごめん、心配掛けたく無かったから言わなかったけど。大した事は無いよ、だから、あまり心配しないで」
「どんな病気なの?」
「ケイコは心配しなくていい。機会が出来たらきちんと話すよ」
「いつから病院に?」
「そうだなあ、小学校の四年か五年くらいかなあ。その頃からカエデさんがいろいろと面倒みてくれいてるんだ」
小学生の四年五年? 私の中にはそういった情報は一切無い。
「嘘だよ、タカフミ君はウソ吐いてる。だって、私知らないもん。小学校の頃タカフミ君が病院に通っていた事も、カエデさんの事も!」
私が、小学校の頃のタカフミ君について知らない事なんて何もないのだ。
強い口調で攻め寄る私に戸惑いながらも、彼は落ち着いて話す。
「ケイコには心配かけたく無かったんだ。小学校の頃については話をしていないんだからケイコが知る訳無いだろ。でも、ごめん、黙っていた事は謝るよ」
「違うの、そうじゃなくって……」
「なにが違うの」
「私、知ってるんだもん、タカフミ君の小学生の頃を。神社の欅の木が好きでいつも登ってた事も、一緒に海に行った時、クラゲに刺された私をずっと看病してくれた事も、夕方六時を過ぎると、おじさんに怒られるからっていつも大慌てで帰っていく姿も、みんなみんな知ってるんだから」
そこまで言って、私は息が切れてしまった。はあはあと呼吸が荒い。そんな私を、唖然として見つめていた彼が、おもむろに私の肩を抱く。
「もういいよ、ごめん、僕が悪かった。だから落ち着いてくれ、ケイコ。何を拘っているのか分からないけど、小学校の頃、僕とケイコは知り合いじゃなかった。だけど、今こうして二人愛し合っているじゃないか。僕は、ケイコの居る今が一番幸せだと思っている。だから、もう、いいだろう」
「わからない、なんで覚えていないの?」
私は、タカフミ君の胸を押しのける様にして彼の腕の中から飛び出し、そのまま走り去っていった。
その晩、私は、耳が受話器にくっついてしまうんじゃないかと思うくらい、アヤミと電話で喋った。
「過去の記憶が無いのはもう仕方ないでしょ。それはそれで受け止めて、タカフミ先輩との将来の方が大事だって、アヤミも言ってたじゃん」
「そうだけど……今までの私の人生って何だったのかな。彼は、全く私の記憶と違う時間を持ってるの。……聞かなきゃ良かったのかな。でも、やっぱり好きな人の事って全てを知りたくなるのは当然じゃない。これからの事の方が大事だと言っても、好きな人の過去だって知りたい。そうでしょう。もう、何が本当か、私分からなくなってる。どうしていいのか」
「まあね、いろいろ知りたくて、知らなくてもいい事まで聞いちゃって、例えば元カノの事とかさ、聞いたら絶対イヤな思いすると分かってるのに聞かずにいられなかったり。そうして傷ついたり、もめたりしてさ。それと一緒だと思うよ。過ぎたことは、もうどうにもならないんだから。確かに、幼いころの記憶が無いっていうのは、今まで聞いた事無いし、本人からしてみれば大変なんだと思う。でも、それを受け止める事は出来ないかな? 過去を受け入れる事が出来るようになれば、こう、二人で一つ山を越えたみたいな感じでさ、先は開けるって」
「そうかな……」
「そうだよ。それに、病気の事だってあるし。その記憶が違うっていうのも、病気の所為かもしれないよ。病気が原因で記憶喪失になっているとか。でも、自分ではわからないみたいな」
私はその言葉にはっとした。
彼の病気は記憶障害という可能性。もし、そうであるならば、私は彼に随分酷い仕打ちをしてしまったのではないか。
「そうかな、もしそうだったら」
「可能性の一つだけどね。それに、もしわざと記憶違いを演じてるとして、先輩に何のメリットがあるの?」
確かにそうだ。記憶が違う事をわざと私に見せたところで何になるというのだろう。また、何らかの要因で、幼い頃の記憶が書き変わっていたとして、私がそれを否定して何になるのだろう。
私は、そんな彼を支える存在であるべきで、その事で彼を否定しても全く持って意味の無い事ではないか。
私は、アヤミとの電話が終わると、すぐにタカフミ君にメールをした。「今日はごめんなさい」と。
そして私は、彼に対して幼い頃の記憶について触れないように、そして、彼の為に私が出来る事は何かを探していくことを決意した。
それから、季節は冬になり、春が訪れ、私も高校二年生になった。彼は高校三年生。高校最後の年。私は、失われた過去に負けない位の思い出を作ろうと、出来る限り彼と一緒にいた。そして、春が過ぎ、一学期の期末考査も終わり、夏休みを目前に控えたとある日。今日は一学期最後の文芸部の活動日だった。文芸部の活動が終わり、私とタカフミ君は何時ものように学校からの帰り道を歩いた。街は夕焼けに染まり、フライング気味の蝉が一匹、全ての蝉を代表しているかのように力強い鳴声を発している。やがて、海岸沿いの道に差し掛かると、彼は言った。
「ちょっと、座っていこうか」
*
堤防に腰掛ける二人の後ろを白い軽トラックが走り去っていった。
「順を追って話そう。これからの僕たちの事だから」
と言ったタカフミ君だが、何かを考えている様ないつもの眼差しで遠く水平線の多分向こう側を見つめている。
浜辺には、波打ち際を柴犬を連れて歩いてる少女が一人見えるだけで、静かなものだった。今週末くらいは、この浜も海水浴客だとかレジャーの客で賑わう事だろう。
「これからの僕たちの事って?」
柴犬が波と戯れている様子を見つめたまま、私はタカフミ君に訊ねた。
多分、タカフミ君は、水平線の向こうを見つめたままで答えた。
「うん、これからの事なんだ」
「なに?」
「まず……実は、実はね、ガニメデさんは、僕なんだ」
「えっ、どういう事?」
ゆっくりだが、常に整然とした言葉選びをして分かり易く話す彼が、今日はどうも様子が違う。
先ほど私が小説登竜門の女性作家『ガニメデ』じゃないのかと尋ねたばかりではないか。
「だって、さっきタカフミ君、ガニメデさんは……」
何をどう質問していいか私も分からない。
「ごめん、分かりにくかもしれない。正確には、僕ではない僕がガニメデさんなんだ……つまり、ガニメデさんはもう一人の僕なんだ」
私は何も言葉が出ない、理解が出来ないので反応しようがないのだ。私はただ、タカフミ君のギリシャ彫刻のような堀深で純白な横顔を見つめるだけ。
「ケイコも聞いた事くらいはあるだろう、解離性同一性障害。一つの体に複数の人格が存在する……。ガニメデさんはもう一人の僕の人格で、時々現れては小説登竜門へ小説を投稿していた……らしいんだ」
「前に、タカフミ君が言ってた病気っていうのは」
「うん……」
解離性同一性障害、本などで読んだ事がある程度だが、幼児期などに繰り返し強い心的外傷ストレスを受けた時、自我を守る為に別の人格を形成し、逃れようとする事で、自己の同一性が著しく損なわれた状態、主に幼児期の虐待などが原因で起こる、多重人格等の症状に代表される精神疾患。
「どうして、どうしてタカフミ君が?」
「わからない……でも、確実にガニメデという女性作家と僕のIPアドレスが同じなんだ。つまり、ガニメデは僕のパソコンから作品を投稿していた、僕が気づかないうちに。そんな事が出来るのは、ケイコか僕自身だけだ」
砂浜に寄せては返す波は、時間が絶えず流れている事を知らせる信号の様だ。しかし、その波の何と穏やかな事か。少女と柴犬は波打ち際を走り去っていく。
私と彼は、お互い何も言いだせずに景色を眺めていた。彼はまだ私に伝えなけれならない事があるはずだ。でも、言い出せないのだろう。
私たちの後ろを時折、自動車が走り去っていく。また一台、車の排気音が近づいてきたが、その音は、私たちの真後ろで止まった。
振り向くと、見覚えのあるシルヴァーの高級車があった。エンジンを掛けたまま、運転席側のドアが開く。運転席から伸びた白くてすらりとした綺麗な脚をアスファルトに着け、その美脚の持ち主は車から降り立った。白衣を纏った女性。私はその女性を知っている。カエデさんだ。なぜ、こんなところに。
「タカフミ君、こんな所にいたの」
運転していたからだろう、ハイヒールといってもやや低めの物を履き、長い黒髪を左手でかき上げながら、その女性はカツカツと力強い足取りで堤防の階段を登ってきて、そのままタカフミ君の隣に座った。私とカエデさんとでタカフミ君を挟む恰好になる。
「遅かったから、探しにきたわ」
「カエデさん、ごめんなさい。でも、何もこんな所まで来なくても」
「もう、要件は済んだのかしら」
カエデさんが私に視線を向けた。私とカエデさんの視線が逢う。
「いや、まだ……」
さざ波の音にも負けてしまいそうな程、か細い彼の声。
「いいわ、タカフミ君は言い難いでしょう。あなたにその告白は酷だと思うから、私が言うわ」
「待ってくれ、それは、僕が言う」
タカフミ君の声が、カエデさんの気勢を制した。彼が切り出した。
「なあ、ケイコ。良く聞いてほしい、そしてしっかりと受け止めて欲しいんだ」
僕と別れてくれないか――
彼は、しっかりと受け止めて欲しいと言った。しかし、私がどうしてその言葉を受け止める事が出来る。そのまま夕焼けの空に溶けてしまえば、次の瞬間から、何事も無く、彼と話せる。彼の病気のことは聞いたけど、それくらいの事、二人ならどうにかなる。だが……言葉は夕焼け空にかき消される事無く、私の脳髄を揺さぶる。青天ならぬ夕焼け空の霹靂。
「ごめん、意味がわからないよ」
正直に私は今の心の状態を伝える。
彼は、続けざまに言った。
「今はいい。でも、これから先、僕の症状が悪化していった時、僕は必ずお前を傷つける事になる。そして、僕の廻りのもの全てを傷つけるだろう。そうなる前に、ケイコとは、もう逢わない様にすると決めた。ごめん、本当に勝手だな。でも、わかるんだ僕には何となく、その最悪の状況が。ケイコを傷つけたくない、僕といればお前もダメになる。わかってくれ、ケイコ……わかってくれ」
彼は震えていた。そして、彼は大粒の涙を流した。
「よく言えたわ、タカフミ君」
彼の震える肩に、カエデさんがそっと手を置いた。
「後は、私が説明する。よく頑張ったね」
そう言って、カエデさんは私の隣にやってきて座り直した。
*
確か彼が小学校四年生だっただろうか。外で体を使って遊ぶ事が大好きな彼だったが、逆上がりが出来なかった。周りの友達は皆出来るのに自分だけが出来ない事に悔しさを覚え、彼は近所の公園で逆上がりの特訓をしていた。もちろん友達には内緒で。私は彼の逆上がりを練習する様を見ていた。当然だが私も逆上がりが出来ないのでアドバイスのし様もないし、鉄棒の隅にあったベンチでただ彼を見ていた。
彼の門限は六時だった。それに関しては厳しいらしく、彼は六時には必ず家路についていた。だが、この日は、逆上がりの練習に夢中になり過ぎて、六時を過ぎても彼は気がつかなかった。私は気がついていたのだが、彼のあまりにも真剣な姿に、声を掛けられずにいたのだ。
六時を三十分ほど過ぎた時、遂に彼の努力が実り、逆上がりに成功した。
「やった! やった!」
私と彼は、手を取り合って喜んだ。彼の手はもう皮が破れて血だらけだった。それでも、彼は私の手を握って「ありがとう」と言ってくれた。
「良かったね」
私も心から彼の成功を祝福した。
逆上がりも出来て時間が気になった彼は、公園の時計を見やった。その時、彼の表情が一瞬にして青ざめた。本当に青くなっていく様が私にもわかった。
「六時……過ぎてる……ああ、どうしよう……どうしよう」
彼は自分の肩を抱く様な形で縮こまったまま震えている。ガチガチと歯が鳴るほどの震えが彼の体を襲っていた。
「帰らなきゃ……ごめんなさい……ごめんなさい……」
「どうしたの?」
「早く帰らなきゃ……なんで、教えてくれなかったんだよ」
彼の私を見る眼は生気が無く血走っていた。今までに見た事がない表情に、幼いながら背筋に寒気をもよおした。
彼は、うわごとの様に「帰らなきゃ」と連呼しながら、一人ふらふらと公園を出て行ってしまった。
その日、私は泣きながら一人で家に帰った事を覚えている。
*
私の隣に座ったカエデさんからは、ほんのりと香水のいい香りがした。だが、その香りは何処となく人工的で、浜に漂う潮の香りとはどうもうまく混ざり合う事ができない。
「ケイコさん、ここから先は私が説明させていただきます」
初めて言葉を交わす。カエデさんの話し方は、落ち着いていて聞き手を引き付ける。
「彼の病状については、彼から聞いたかしら。私は、その原因からお話させていただくわ。彼が解離性同一性障害になった原因は、小さい頃の虐待。彼は、父親の弟つまり伯父さんに性的虐待を執拗に受けていたの。当然、肉体的、精神的にも虐げられた。小さな頃から、美しい子どもだったから、目をつけられたみたいね。タカフミ君の両親は、会社経営をしているこの弟さんには頭が上がらなかったみたい。借金だったり、お金絡みだったり、いろいろな面でサポートを受けていたから。いわば、幼いタカフミ少年は、家庭の安住の為に生贄にされたようなものだった。よって、両親からの助けも無く、一人耐えるしかなかった」
カエデさんは潮風で乱れた黒髪を左手で梳いて、もう一度私の方を向き直して、更に続けた。
「今現在、彼にはその記憶は存在していないわ。いや、正確には、今現われている人格には、その記憶は元々存在していない。幼い時の記憶を持つ生まれながらの人格、基本人格は、彼の中で現在も眠り続けているみたい。そして、ひょんな事から解離の疑いを持たれ、彼は私の下へ運び込まれた。最初はね、彼を女の子だと思ったの。元々女の子みたいな顔だったし、言葉も振る舞いも、小学生の女の子だったから。しかしその女の子は、虐待の痛みから逃れる為に、タカフミ少年が生み出した、もう一人の自分だった。そして、この人格のモデルとなったのが、ケイコさん、あなたなの」
まるで、小説か何かの話の様で私には現実味が全く感じられない話だ。でも、カエデさんから伝わる緊迫感や、真剣な眼差しは、この上ない説得力がある。
カエデさんは更に続ける。
「彼は、いちばん身近にいる、優しい心を持ったあなたをモデルとして、虐待を受ける時に現れる人格を創りだした。あなたしか甘えられる人が居なかったのでしょう。あなたなら、この酷い仕打ちさえ、身代りになってくれるかも知れない。そんな思いが、彼の中にもう一人のあなたを創り出した」
「タカフミ君の中に、もう一人の私が」
私は、ふと小説登竜門を思い出した。ガニメデさん、確かに私に文体が良く似ていた。彼女の作品は、暖かい春の縁側のよう、読者を心から和ませる事が出来る。それは、私が目指す作風にそっくり、というか、わたしが目指す理想の形だった。
ガニメデさんは、私が高校の文芸部に入部し、タカフミ君と小説登竜門で意気投合した頃に現われた。この因果関係は何なのだろう。
「彼の中には、あなただけでは無い、複数の人格が存在していたわ。解離だと判定されるとすぐ、彼を身内から引き取り、私たち専門医の施設で治療を始めた。治療の甲斐もあって、彼の症状は徐々に良くなっていった。そして、今の彼の人格に落ち着き、その他の人格が現われなくなった時、経過措置として、高校へ通学させる事にしたの。今の人格は彼の基本人格では無いけれど、落ち着いていたわ。二年近く、安定していた。でも、彼が高校の二年生になった頃、突然女性の人格が現われた。そう、あなたをモデルとした、あの人格が。彼の身辺調査をして驚いた、まさかこんな偶然があるとはね。彼とあなたが、高校で再び出会い、そして交際を始めていた。そして、女性の人格が現われる様になった時期と、あなたたち二人の再会の時期と、ほぼ同時期だった。この因果関係は、ハッキリとした事は分からない。でも、この状態は彼の症状にとっては良くない傾向である事は確か。医師として、あなたと彼をこれ以上接触させる訳にはいかないと判断させていただいた。辛い事ではあるけれど、それが、彼とあなたにとって最良の選択だと私は思う。本来なら、彼の心の為を考慮して、このような場面を設けてお別れの挨拶などはしないのだけど、彼の強い要望で、こうして最後にあなたと面会することを許可させてもらった。……突然、こんな事実を突き付けられて、受け入れられない事も多いでしょう。でも、彼と共に居る事はあなたにとっても辛い事が待ち受けてる。あなたは、解離の本当の怖さを知らない。何も知らないうちに……」
カエデさんはいつしか私に説明をしながら涙を流していた。
「……納得できません」
シルク地の綺麗なハンカチで、涙を拭うカエデさんを見ながら私は呟いた。
「あなたに、どうしてそんな事を言われる筋合いがあるんですか。あなたに私たちの関係をどうこうする権利が、あるのですか」
私たちの関係を引き裂くのか。そんな事、誰だとしても許されない。
「ごめんなさい、私にはあるわ。今は、納得出来ないかもしれない。でもこれが最良の選択だと断言は出来る。あなたと、彼の将来の為なのよ」
将来の為。私は、過去の記憶の無い彼の為に、将来に向かっていっぱいいっぱい新しい思い出を作る事が私の役目だと思っていた。過去の記憶が無い分を帳消しにしてもお釣りがくるくらいの思い出を、これから二人で作っていくのだと、そう思っていた。
でも、それが叶わない。それは、二人の将来を不幸にするのだと、今、目の前で宣告されたのだ。
「ケイコ、お前の為なんだ……このままだと、やがて僕は僕では無くなっていく」
沈黙を続けていた、タカフミ君は口を開く。
「見てくれ……」
タカフミ君は白いカッターシャツの袖を捲くって私に見せた。そこには、幾つもの切り傷の跡が、惨たらしく刻まれている。
「これは、僕の意志ではない……このままだと、こんな奴らが再び現われるんだ。僕の知らないうちに僕の体を傷つける者、僕の知らないうちに近しい者を傷つける者、嘘つきや平気で人を刺す奴らもいる。お前を、巻き込みたくない……ごめん、勝手な言い草だけど、今日で、別れよう……。ただ、我儘ついでにもう一つ聞いてほしい事があるんだ。小説登竜門に、気が向いた時でいい、ガニメデさんとして、小説を残して欲しいんだ。僕はもうあのサイトを覗く事は無いかもしれない、でもあそこが、そしてガニメデさんの存在こそが、唯一僕とケイコを繋いでいた証拠になる。僕はケイコと過ごした小学生の頃を知らない。そして、多分、今こうして二人が付き合っていた思い出も、消えてしまうかもしれない。でも、僕らが繋がっていた証拠は残る。ごめん、最後に我儘ばかりだけど……」
「私は、車で待っているわ」
カエデさんはそう言って、堤防の上に私とタカフミ君を二人きりにさせた。
「ケイコ」
タカフミ君は私のほほを伝う涙の滴を、その指で拭おうと右手を伸ばしたが、私の頬の寸前で、手を止めた。
「今、お前に触ったら、もう戻れなくなる……」
彼は、独り事のように呟いた。
「戻らなくていい、何処へもいかなくていいよ……」
そう、何処へもいかなくていい、私の傍にずっといてくれれば、それでいい、それでいいのに。
「さようなら」
彼の姿を、ゆらゆらとしたオレンジ色の夕日が隠す。
シルヴァーの高級車が、静かに海沿いの道を走り去っていった。
*
あの堤防での別れからはや十年が過ぎていた。あれから私は、タカフミ君とは逢っていないし一切の連絡もしていない。だが、私は最後に彼が残した意志を汲み、ガニメデさんとして小説登竜門に幾つも作品を投稿し続けた。私には、あの言葉が、彼の遺言のように思えた。がむしゃらだった。何がそうさせたかわからないくらい、私はガニメデという女流素人作家を演じつづけた。
その甲斐があり、私は大学の時、とある出版社の小説新人賞の大賞を獲る事が出来た。私は、『小池ケイコ』として、作家デビューを果たす。
今があるのは、彼のお陰だと、今でも感謝している。彼が今何をしてどう暮らしているかわからないけど、私はたぶん、あの頃よりきっと強くなっている。
彼ともし、偶然出会ったとして、私の事を欠片も覚えていなかったとしても、笑顔で居られるだろう。
ありがとう、強くなったよ、私は。
了
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2011/05/11(Wed)09:44:48 公開 / オレンジ
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■作者からのメッセージ
こんにちは。オレンジと申します。
【輪舞曲】の企画、参加させていただきます。
ああ、ようやく、公表しても何とかなるかなという所まで出来ました。
随分遅くなりましたが、投稿させていただきます。
正統派? の学園物の設定です。しかも、恋愛小説などという分不相応なものを書いてしまいました。
慣れない事なので荒もいっぱいあるでしょうが、また、皆さんの様に素晴らしい作品は書けませんが、きたんのない意見をお待ちしております。
どうぞ、よろしくお願い致します。
※お願い※こんな塵屑のような作品が【輪舞曲】のトリを占める作品にならないよう、誰か、続いて下さいね。