- 『Rea『L』 Over〜二番煎じの迷宮〜【後】』 作者:雄矢 / リアル・現代 SF
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全角29416文字
容量58832 bytes
原稿用紙約94.05枚
リアル・オーバーを行なう事で相手の記憶を失ってしまった恭介。彼の心の傷と共に雪花は消えていってしまう。決して誰も救われない事態になつみは毅然と立ち向かうのだが――。SFかホラーかファンタジーか?物語は終わらない。驚きの後編。
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【6】
どうして自分はこんな大切な事を忘れていられたんだろう。
「ここで一つ、ウチは卯月に謝らなあかんことがある」
視界にある、新聞記事が歪み、身体の中にある歯車が一気に逆方向に動き出す。
「リアル・オーバーを起こした人間は、大抵がその対象になる人物の記憶を失ってまう」
自分は、柊雪花を知っている。
誰かの声が聞こえる。
「この現象には諸説色々あるんやけど、問題は、万が一、橋本恭介が思い出してしもた時の話や」
――柊志雪です。
どうして、彼女はそんな事を言ったのだろう。
「前も言った通り、記憶を失うん言うんは、その現象が受け入れられんほど『強い』ショックやからや。そんなに強いショックやなくなれば思い出せる」
柊志雪は柊雪花本人だというのに。
「橋本恭介が柊雪花のことを思い出す時言うんは、彼の中にある『柊雪花に生きていて欲しい』という気持ちが緩まった時や。張本人がそんなに強く望まんようになれば、自然とエネルギー体は霧散して薄くなって消えてまう」
探さないと。
「つまり、橋本恭介が柊雪花を思い出した時点で、柊志雪は消えてまうんよ」
柊雪花を、探さないと――。
* * *
「志雪ちゃん。お待たせお待たせ!」
冬の訪れを感じる、肌寒い風が中間服の隙間から侵入してくる。
「ほら、志雪ちゃんは紅茶だったよね?」
「ありがとうございます。鍬野先輩」
神社の境内に座る志雪は、秋一郎の差し出すミルクティーをありがたく受け取った。
2人は、丘の上にある神社に居た。
今日も恭介を待って校門に佇んでいた志雪を、秋一郎が呼びかけて連れ出したのである。
「いやいや、俺としては可愛い女の子と2人きりでデートできるだけで、紅茶なんか100本でも1000本でも買ってあげられちゃうよ!」
着崩した学ランから入る寒気など気にもとめずに、秋一郎は志雪の前でくるくると踊ってみせる。
その普段と変わらない態度に、志雪は微笑みをこぼした。
「よしよし、笑ってくれた」
「あ……」
「前から言ってるだろ。志雪ちゃんは笑ってる方がいい」
志雪を覗き込む顔が嬉しそうに笑い、暖かな手のひらが頭の上にそっとかぶさった。
いつも、秋一郎はそうなのだ。
決して口に出して説教することも説得することも、自分が率先して人を引っ張ることもない。本当に苦しいとき、真っ先に駆けつけて助けるのではなく、いつの間にかそこにいて、笑えるようになるまで、いつまでもおどけてくれるのである。
「そうなんです。俺は所詮悲しいピエロなんですよ」
自分の身体を自分で抱きしめ、悲しそうな泣きまねをする秋一郎に、志雪はとうとう我慢できずに声を出して笑ってしまった。
「鍬野先輩って本当に面白い人ですよね」
「ふふふふふ。お気に召していただけたようで何より。気に入りついでに俺のことも『秋ちゃん』って呼んでもらえると嬉しいなぁ」
『秋ちゃん』という単語に、志雪は身体を強張らせた。
それは、彼女がまだ『雪花』だった頃に使っていた秋一郎への呼び名だからである。
ミルクティーの熱を帯びた缶を握り、うつむく志雪を見つめ、秋一郎は更におどけて見せた。
「俺さ、見ての通り素直な少年だろ?嘘つくの超苦手っていうか、演技とか超無理というか、ここ5年ぐらい俺は俺自身に鞭打って生きてきたんだよー。可哀想だろ?だろ?俺って超可哀想!だから俺は今日は『志雪ちゃん』じゃなくて『雪ちゃん』と素直にお話がしたい訳さー。頼むよ雪ちゃん!この通り!」
「ちょ、ちょっとやめてよ秋ちゃん!」
言いながら合わせていた両手を地面のうえにつけて土下座を始めようする秋一郎を、志雪こと雪花が慌てて抱えた。
「ふふふ、やっと言ってくれましたね」
「あ……」
してやったり、という顔で秋一郎が笑い出した。おもむろに開けっ放しの学ランの裏地に手を差し込むと、もう一本、スチール缶を取り出した。
「じゃじゃーん!実はこの秋一郎。ちゃんとココアもさりげなく買っていました!」
「秋ちゃん…」
「紅茶なんて春ねぇの趣味、無理して言わなくていーの!ほら!やっぱり雪ちゃんはココアだよね!」
そう言うと、雪花の手にココアを乗せ、既に置かれていた紅茶を取り上げた。勢いの良い音を立ててタブを空けると片手を腰にあてて一気飲みを始める。
「秋ちゃんには、敵わないな…」
「ふっふっふっ、俺に勝とうだなんて、10年早いのです!」
山吹色に染まった紅葉が舞い散る境内に、2人の幼い笑い声が響いた。
2人のいる小雪神社は、昨年建立700年を迎えた。
700年の昔、戦国の世でこの神社は雪龍神社を名乗り、巫女が神に戦勝を願う社だったという。しかし、ある儀式の日、当時の巫女であった小雪が戦に赴く武士を想うあまり、儀式を放棄して会いに行ってしまったことから神の怒りを買い、社ごと雷に打ち砕かれ、戦は敗戦し、愛した武士も戦死してしまった。この事実に心を痛めた巫女・小雪がその日から許しを請うため死ぬまでその場所で祈りを捧げ続けた為、後に再建立された神社は『小雪神社』と名を改め、毎年神に許しを請う儀式を繰り返しているのだ。と雪花たちは伝えられている。
その悲恋の物語に反して、小雪神社は縁結びの神社として人気が高く、毎年年末年始にはカップルが絶えない。
人間というのはどこまでも強かな生き物だと、春子がよくネタにして笑っていた。
「秋ちゃんは、気づいてるんだよね。私が恭ちゃんと夏瀬先輩のこと、気づいてるって…」
「そりゃ、あの2人に関して気づいてない奴が居ないと思ってるよ。気づかれてないって思ってる恭介がバカなんじゃね?」
3本目になるコーラの缶に口をつけながら、秋一郎がボヤいた。
「雪ちゃんこそどうすんのさ。2人のこと気づいてるなら、どうしてまだ恭介を待ちぶせしてんの?今日だって、俺が呼び止めなかったらまだあそこに居るつもりだったんだろ?」
「……どうしてかな。もう癖なのかもしれないね。待ち伏せするのも、恭ちゃんの事好きで居るのも……」
雪花は、小さく笑うと2本目のオレンジジュースの入ったアルミ缶をゆっくり回し始めた。
「秋ちゃんこそ、気づいてるんでしょ。私が、幽霊じゃないんだって」
「俺頭悪いからなぁ。ただ、俺には目の前に居る美少女が雪ちゃんにしか見えなくて、雪ちゃんは雪ちゃんだとしか思わないな」
ふふ、という笑い声が雪花から漏れた。
「秋ちゃんは、ホント優しいね」
「だろ?俺の優しさに涙が出るだろ?」
鈴を鳴らすような笑い声が聞こえる。
(ああ、どうしてなんだろうな)
目の前に居る女の子を必死に笑わせながら、秋一郎は自分自身に問いかけていた。
(どうして雪ちゃんの笑顔って、こんなに張り裂けそうな気持ちにさせられるんだろ……)
「秋ちゃん、聞いてくれるかな」
「どーぞどーぞ、何でも言ってくださいな」
言いながら、秋一郎は鞄からマフラーを取り出すと、雪花の首にさりげなく巻きつけた。
「私ね、たぶん、恭ちゃんの力でできた雪花の複製品なんだ」
「…………」
何を言っているんだ、と言う言葉を秋一郎は飲み込むことで精一杯だった。
「恭ちゃんが私の事忘れてた時点で、何か分かったんだ。私ね、死ぬ前あの洞穴で恭ちゃんと約束したの。『ずっと一緒だ』って。何度も何度も約束したの。でも、私はその約束を破っちゃったんだ。恭ちゃんは、きっと嘘つきだった私を許してくれなかったんだよ」
だから、と続ける雪花の声が、涙でにじみ始めた。
「これは、罰なんだよ。恭ちゃんが、私の事忘れたのも、お母さんが、私の事見てくれないのも、私が、雪花が居ちゃいけない世界に強引に生かされているのも、逃げたくて逃げたくて堪らないのに、それでも私が恭ちゃんの事が好きで憎くてたまらなくて、恭ちゃんを私から奪っていく夏瀬先輩が、物凄く良い人で、私が夏瀬先輩を嫌いになれないのも、全部、全部――」
その後の言葉は嗚咽で聞き取れなかった。
雪花は、秋一郎のもらった缶を横に置くと、膝をかかえてうずくまっていた。
「私、消えたくないよぉ!消えてしまいたいのにっ消えたくないんだよっ!おかしいよね?おかしいよね、こんな世界で…っ、私は居ないほうがいいって言われてっ、こんな苦痛…もう味わいたくないのに、私…っ、生きていたくてたまらないよ!消えてっいなかったことにされて…良かった良かったって言われたくないよぉ!」
気がつくと、秋一郎は泣きじゃくる雪花を抱きしめていた。
雪花は秋一郎にしがみつくことも抱き返すこともなく、秋一郎の腕の中で声をあげて泣いていた。
『雪花、いいよ。今は思いっきり泣け』
いつかの春子の声が、秋一郎の頭に響いていた。
『大丈夫だ。お前が何回辛い思いをしても、私と秋一郎が何度でも泣き場所になる。だから、泣くことを怯えなくていいんだよ』
(ああ、本当にな……)
腕の中でおびえて泣きじゃくる少女を、秋一郎は再度強く抱きしめた。
こんな、小さな女の子1人の目の前で、鍬野秋一郎は無力だった。
「雪ちゃん」
雪花の背中に回した右腕をはずして、雪花の目の前にこぶしを作ってみせた。
それは、雪花が気づいて瞳を向けた途端、小さな破裂音を立てて指先に小さな花を咲かせた。
「ふぇ?」
その唐突の現象に驚く雪花に追い越されるより先に、今度は秋一郎の左腕から、次々に小さな破裂音と一緒に紙製の小花がポンポンと飛び出してきた。
「じゃじゃーん!吃驚した?俺の新ネタ『突然お花がスペシャル』ですよ!ほらほら、まだまだあるよ!」
秋一郎は、次々に、雪花の髪や服の裾から、小さな紙花を出して見せた。
「あらあら雪ちゃんったら、こんなにあちこちお花を隠しちゃダメじゃん!」
「え?え?」
「雪花だけに花だらけ!なんちゃって!」
もはや秋一郎の出した花に埋もれ出している雪花に向かって、秋一郎は舌を出して笑って見せた。
雪花は暫く呆然と秋一郎と大量の紙花を見つめていたが、プッという音と共にケラケラと笑い始めた。
「もう、秋ちゃんってホント唐突すぎるよー」
「ふふふ、この勢いだと来年には、雪ちゃんを生花まみれに出来そうですな!」
そう言いながら、秋一郎は先ほど雪花が置いたオレンジジュースを持ち上げて、雪花に差し出した。
「昔の約束にこだわる女は美人になれませんよ!そんなに約束にこだわるんだったら、俺と約束してよ」
「え…」
秋一郎はひょいと境内から降りると、雪花の前に両手を広げて立った。
「来年!春に俺とデートしてよ!今の紅葉デートも落ち着いていいけどさ!本物の花に囲まれて明るく華やかに行こうぜ!俺が雪花ちゃんを今度こそ本当の花でいっぱいにしてやんよ!ついでに俺に紅茶を入れてくれまいか!俺知ってるんだぜ!雪花ちゃんが春ねぇ直伝の紅茶テクを持ってるってことを!そして2人だけのお茶会さ!ヒュー!ロマンチックーッ!」
そう言って、くるくると回る秋一郎の周囲を、冷たい風にまかれた紙花と紅葉が舞っていた。
「どうですか?お姫様」
綺麗に回転に着地をつけて、じっと見つめてくる秋一郎に、雪花はたまらず笑い出した。
「分かった分かった。うん、いいよ。約束する。来年の春に2人でお茶会ね。実は誰にも言ってないけど、私、紅茶淹れる腕は結構自慢なんだ」
「よっしゃぁああああ!やったね!」
秋一郎は再びくるくると両手をあげて回ると、雪花の隣に飛び乗った。
「じゃあ、今度一緒に春物の洋服買いに行こうぜ!俺、いい店知ってんだよ」
「ちょ…冬飛び越えちゃってるよ秋ちゃん」
「冬なんてサササのサーッで!おっと、ただしクリスマスとイヴと年末年始はゆっくりで!」
再び境内に2人の笑い声が響いた。
(ああ、俺って意外に不器用だったんだな)
冬の気配と一緒に舞い上がる枯葉が、秋一郎の本音すらもかき消してしまうようだ。
これからの話題と他愛も無い会話が続く。
「それでさ、商店街の真ん中らへんにある『喫茶タナカ』をちょっと曲がったあたりにさー」
突然、大きな音がした。
甲高い音がして、アルミが石畳にぶつかって跳ね返る。
その音が、不自然にゆっくりに聞こえた。
秋一郎が振り返ると、花に埋もれた境内と、オレンジジュースが零れるアルミ缶が転がっている。
雪花は、いない。
「雪ちゃん?」
秋一郎は笑って、首をかしげた。
(ああ、俺、やっぱり不器用だわ)
どこかで自分の声が聞こえる。
秋一郎は辺りを見回した。
境内、鳥居、参道、水のみ場…沢山のおみくじが結び付けられた木。しかしそこに雪花の姿だけが無かった。
秋一郎は黙って境内を降りた。
オレンジジュースが流れるアルミ缶を拾い上げる。すっかりオレンジジュースにまみれたアルミ缶からは、まだ誰かが握っていた温もりが残っていた。
「だっせぇ…」
誰に言うでもなく、自嘲の言葉が漏れた。
「ホント、女は魔性ですね。約束しといて放置プレイですか」
冗談めかして笑ってみせる。
しかし、いつもの笑い声は帰ってこない。
「……雪」
秋一郎の持っているオレンジジュースの空き缶が、乾いた音を立ててへこんだ。
「秋一郎!」
こぼれたオレンジジュースが石畳を伝って溝に落ちる頃、目の前にある紙花の群れと反対側の方から、恭介の声が聞こえた。
振るかえる必要もない。
「秋一郎!雪花ちゃんを知らないか?俺、思い出して、彼女を探さないと――」
高い秋空に乾いた音がした。
肩に乗せられた恭介の手を、秋一郎が払いのけた音だ。
「秋……」
想像もできなかった秋一郎の態度に、恭介が戸惑う。
振り返る視界に、鳥居と、複数人の人影が確認できた。
恭介、春子、なつみ、あともう1人は秋一郎の知らない人物だった。白衣を着て秋一郎と同じ制服を着ているので、同じ高校である事は確かだが、それが誰か考える気にもなれなかった。
(制服…)
再度振り返って確認する境内には、秋一郎の出した紙花だけが折り重なって積もっている。
「遅ぇんだよ」
吐き捨てるような言葉だった。
秋一郎はそれだけ言うと、ジリリと音を立てて踵を返し、鳥居の方へ歩き出した。
春子たちの横を通りすぎるとき、春子が何かを言おうとして、飲み込む姿が見えた。
(もう、どうでもいい)
秋一郎の顔から、笑顔が消えていた。
風が吹いた。
鳥居から眺める町並みは、まるで何も変化がなかったかのように当たり前に存在していた。
右手にはオレンジジュースの缶がベタベタと張り付いてくる。
秋一郎は、そのまま缶を握り締めた。
その後、柊雪花が姿を現すことは二度となかった。
* * *
それが、去年の話である。
(どうして、こんな事になっちゃったんだろう)
けたたましいサイレンの音が聞こえる。
――おい!大丈夫か!救急車が来たぞ!
――軽トラックが横断歩道に!
――大丈夫ですかっ?
――ええ、交通事故です!男の子と女の子の2人です!
――ストレッチャーで運びます!どいて下さい!
視界の端に赤いランプが回転していた。
オレンジ色の服を身にまとった白いヘルメットの人物が映る。
頬に冷たい、アスファルト。
(……恭介くん)
上手く反対側が見れない、痛みとも重みとも分からない感覚が頭を支配する。
手を握ろうと伸ばした指が、気がつくと少しも動いていなかった。
指先に、ぬるい水の感触。
(恭介くん……)
空はどこまでも青く透き通っていた。
鮮やかなパステルブルーが、春を終え、夏の訪れを知らせていた。
【7】
(どうしてこんな哀しい事が世の中に存在しているんだろう)
オレンジ色に染まった光の中で、なつみが横たわる机だけが黒い影を残していた。
何度、同じことを考えてきただろう。
机の上に転がした携帯から2つのストラップが伸びる。淡いパステルブルーとパステルピンクのうさぎ。そこから2つの長い黒い影が伸びていた。
妹とお揃いで買ったストラップ。
本当はなつみもパステルピンクのうさぎが欲しかった。しかし、ストラップは2つでセットになっており、何より妹がピンクの方が欲しいと駄々をこねた為、譲るしかなかった。携帯もないのにストラップだけが欲しいと言う妹を苦々しく思う気持ちが無かった訳ではない。しかし、そんな些細な自分の欲求は、ピンクのうさぎを手に入れた瞬間に妹が見せた笑顔の前で、吹き飛んでいた。ただそれだけの事だ。
罰が当たったとするのならば、そのぐらいしか思い当たらない。
ピンクのうさぎのストラップを転がしながら思う。
(私が、内心でこっちを欲しがってたから、妹が死んでこれがが手に入ったの…?)
そんなバカな事があるだろうか。
もし本当にそうなら、こんなストラップなど要らなかった。
むしろ、このストラップ一つと妹の命が対価などとふざけた意見が通用するのならば、何十本でも何百本でも差し出せるだろう。
しかし、なつみが何千本何万本のストラップを差し出そうとも、自分の命を投げ出そうとも、自分を憎しみ家族を憎しみ、両親が離婚して、友達を失うことになっても、妹はもう二度も戻ってきてはくれないのである。
いつも『運命』というものは身勝手だ。
あっちから勝手にやってきて、良い行いをしてようが悪い行いをしていようが、容赦なく壊していってしまう。
情け容赦ない仕打ちの前で、一生懸命粗探しをしても、自分がそんな仕打ちを受けねばらなないような悪行はどこにも見当たらない。それでも人間は、どうしても理由付けしないと安心できない生き物なのだろう。常に自分に、他人に、自分の身に起きた不幸の原因を探そうとする。不幸はいつもその『出来事』に限らず、それに理由付けをこじつけたい人間の解釈まで延々と続いていくものなのだ。
「リアルオーバーは『死を悲しむ気持ち』から生まれるもんやない」
黄金色の夕陽を背に、ストラップの影を見つめるなつみの頭に、いつかの九条の声が響く。
「『寂しさ』が原因なんや。大切な人を失って寂しい『自分の為』やないとリアルオーバーは起きん」
九条の言いたいことが分からない。
(私の気持ちじゃ駄目なのかな)
細い指先でピンクのうさぎが転がっている。
(私には、妹をリアルオーバーさせることはできないのかな)
雪花をリアルオーバーさせるほどの喪失感だ、少なからず恭介は雪花に恋心なりの強い気持ちを抱いていたのだろう。
家族愛が、恋愛に劣るとは思えない。例え、いずれ家族になり最後まで連れそうのは伴侶であったとしても、最後まで連れそう覚悟を決める時は結婚して『家族』になった時だ。
(何考えてるんだろ、私)
うつむいたまま、なつみは首をふる。
大切な人と死別した条件では、なつみも恭介は同じだというのに、哀しみの優劣をつける事の何と愚かな事か。
「夏瀬先輩、私、夏瀬先輩の事、応援します!」
いつかの志雪の声が聞こえる。
「私、夏瀬先輩の良い所、いっぱい知ってますから。夏瀬先輩だったら全然大丈夫です!私の分もいっぱい橋本先輩を支えてあげて下さい!」
明るい声。制服にうずもれてしまいそうな小さな身体のどこにそんな元気があるのだろうといつも不思議だった。
(どうして、柊さんはあんなに明るくいられたの?)
リアルオーバーの発動条件に『寂しさ』が伴うのならば、あの神社で志雪が消えた原因は、なつみの存在によって恭介の寂しさ軽減したからに他ならない。柊志雪という別人格を振舞ってまで恭介の傍に居ようとした雪花を差し置いて、恭介の傍に現れ出して志雪の存在自体を危機に立たせたなつみの前に、どうして雪花は明るく振舞うことができたのだろう。
(もし、私が柊さんの立場だったら…)
「志雪ちゃんは夏瀬さんのことなんて恨んでないよ」
いつかの秋一郎の声がする。
あれから、秋一郎は殆ど学校に来ないまま3年生を迎えた。去年卒業した春子の卒業式には顔を出したらしいが、恭介が現れる前に帰宅してしまったのだと春子は笑っていた。春子はいつも通りだった。いつも通り恭介と一緒に、九条と一緒に、彼女なりに気丈に明るく振舞っていたのである。
見かねたなつみが単独で秋一郎の家に押しかけると、秋一郎が困ったような笑顔で迎えてくれた。
「俺も正直、恭介が全面的に悪いとは思ってないんだよ。リアルオーバーが何か俺にはよく分からないけど、どんな状態にかかわらず恭介の哀しさっていうか寂しさって言うか、そういう思いが計り知れない程大きかったって事には変わりないじゃん」
たださ。と秋一郎は笑った。
「俺には俺の都合があるから。ちょっと泣かせてくれたっていいじゃん?今の俺じゃ、恭介を見た瞬間に殴っちまいそうなんだよ。今の恭介なら俺が居なくても夏瀬さんが居るし、俺もこれでいて一応無理して明るくしてたタイプだからさー。今までの清算って感じで1人にしてくんないかな?」
いつかまた笑顔で戻ってくるからさ。と言って秋一郎は笑っていた。
(仕方の無い、事なのかな)
柊雪花を失った恭介の哀しみ。リアルオーバーとして生まれ、消された柊志雪の哀しみ。その姿を見ているしかできなかった春子の哀しみ。柊志雪を目の前で失った秋一郎の哀しみ。全員が全員、自分の哀しみを一番辛いと主張することなく相手を尊重しようとして傷つき、失っていく。誰もが自分可愛さに他人をないがしろにせず、思いやりに満ちているというのに、どうして誰も幸せになれないのだろう。
どうして誰も自分だけでも幸せになろうと思わないのだろう。
(恭介くん)
なつみは、恋人の橋本恭介を思い出した。
「そう言うなつみだって同じだろ?」
なつみの集めた新聞記事と、春子にもらった雪花の写真を抱きしめながら、恭介が呟いた。
「なつみだって大切な妹さんを亡くしたのに、それを誰にも話さずに明るく生きてた。自分可愛さに雪花をリアルオーバーさせて苦しめてた俺とは大違いだよ」
そんなこと、ない。
コツ、と小さな音を立ててなつみの額が冷たい机にあたる。
傷を抱えた人間に、傷を抱えた人間を支えることなんてできない。共倒れが目に見えておきながら表面の美しさにとらわれて具体的な解決策を探そうとしない事をなつみは良いことだとは思わない。そういう考えがあったからこそ、なつみの両親は離婚せざるを得ないほどに心がバラバラになってしまったのだ。
「私たちは幸せにならなくちゃいけないんだよ」
誰も居なくなった図書室に、なつみの小さな呟きだけが広がって消えていった。
辛くても生きて幸せにならなくちゃいけない。相手の文句一つ受け止められずに潰れてしまうような人間には、なっちゃいけないんだ。
なつみは立ち上がった。
ストラップのゆれる携帯をつかむと、ゆるやかな動きで鞄にしまい、図書室を後にした。
閉まるドアの隙間からより一層強い光が、一瞬だけ廊下に広がっていた。
* * *
哀しい出来事というのはえてして客観的な第三者によって決められることだ。
(ああ、お母さんに晩御飯間に合わないって連絡しないと)
恭介を乗せた救急車を見送りながら、なつみはぼんやりとそんな事を考えていた。
なつみと恭介が交通事故に巻き込まれたのは、蝉の声も賑わう夏の盛りの話である。
3年生にも夏休みが訪れ、受験に備えて2人で図書館に向かう途中だった。商店街の交差点を渡ろうとした時、なつみの真横から大きなクラクションと共に軽トラックが襲いかかり、とっさになつみをかばった恭介ごと数メートルに渡って引きずられたのである。
恭介を手早くストレッチャーに乗せて救急車に乗せた救急隊員から「居眠り運転」という単語が漏れていたようにも思えるが、その記憶も既にノイズの彼方に消えようとしていた。
どうして自分は青信号でももう少し確認して渡ろうとしなかったのだろう。
どうして自分はとっさに庇おうとした恭介を突き飛ばさなかったのだろう。
どうして自分だけ無傷なんだろう。
どうしようもない思考ばかりが脳内を侵食していき、そして空中に霧散するように消えていった。
そう思っているだけなのだろう。空中に霧散するように消える意識が、消えているものなのか、自分が考えたくないのかも、今はよく分からない。
「お母さんに、連絡しないと」
なつみは商店街の入り口に立ち、今度は声に出して呟いた。
なつみの母は、妹の事故があってからすっかり心配症になっていた。
恭介の番号もアドレスも行き先も教えているのに、デートと言っても連絡なしで遅くなろうものならば、凄まじい量の着信とメールを送ってくる。下の娘を亡くし、夫と離別し、唯一残る娘すら失いたくないという気持ちは分かるが、その歪んだ愛情表現もあって母親とは度々トラブルになっていた。しかし、そのトラブルも両者が両者を思いやってのことである。できれば母親とのトラブルは避けたい。
(既に日も傾き始めているし、これから恭介くんの運ばれた病院を探して、恭介くんのご両親に連絡して謝って……と考えると、今日の帰宅が夕暮れを過ぎる事は間違いないか……)
なつみはアーチの内側へと歩き出しながら、チェックのスカートから青色の携帯を取り出した。
(お母さんの携帯番号は…)
携帯を広げると、外側を飾るパステルブルーとは対照的な黒の液晶と文字盤が現れ、なつみと妹の写真が待ちうけ画面で笑顔を見せている。アドレス帳を示す両開きの本のマークが描かれたボタンを押し、『な』の欄を見るか『は』の欄を見るかで悩んでいると、携帯の縁から見える商店街の通行人たちの中に、見慣れた女性の姿が見えた。
「あ」
それはなつみの母親だった。商店街の帰りなのだろう食材のスーパーを下げ、いつも通りのゆったりとした足取りでこちらに向かってきている。
「お母さん」
前方の女性に、笑顔で片手を振りながら、なつみの頭にカタカタと計算するような音が鳴る。
(交通事故の話を抜いて事情を説明しよう)
ただでさえ繊細な母である。いたずらに交通事故の話題など出して混乱させてはいけない。
そう決意したのも空しく、母親はなつみの声が届かなかったのか、ややうつむいた顔を上げることなく、手前の八百屋に足を止め、外に並んだ野菜を物色し始めた。
平日とは言え、夕食前の商店街は人が多い。これ以上大きな声を出しても恥ずかしいという思いもあり、なつみはやや面倒くさい気持ちを抱えたまま、母親の居る八百屋まで早足で向かった。
八百屋に近づくと、そこに佇む女性の丁寧に束ねた髪から、嗅ぎなれたシャンプーの香りが届いてくる。
夏の盛りであっても、夕暮れ時は寒いのだろう。母親は半そでから伸びる白い二の腕を抱えていた。
「お・か・あ・さ・ん」
さっきの声かけに反応しない母親を脅かしてやろうという気持ちから、なつみは隣に同じように立って、悪戯っぽく母親を呼んでみせた。
「ふふ、驚いたー?」
そう言いながら、なつみは足元にある『激安!』と赤字で書かれた黄色のポップの群れを見渡した。
どうしてその時、隣に居る女性の顔を確認しなかったのだろう、と悔やまれるばかりである。
しかし、なつみはその時これから言う帰り時間が遅れるという報告に、母親が顔を濁らせる姿を見たくなかった。それは娘であるなつみを心配する、というよりも、泣き妹を思い出す表情が、まるで自分の表情を見るかのように不愉快に感じるからだった。
「えっとね、今日の晩御飯なんだけど。今日はこの後恭介くんと隣町の映画館で映画を見に行くことになっちゃってね。晩御飯まで間に合いそうにないんだ、だから…」
嘘をつくときは、どうしても早口になる。
自身の後ろめたさに耐えられず、一気に話してしまおうと、言い訳を並べ立てるなつみの隣で突然、甲高い電子音が鳴った。一瞬自分のポケットの中身を見たが、直ぐにその聞きなれた電子音の正体に気づいた。
母親の携帯電話である。
「…はい、夏瀬です」
見ると、なつみの隣で母親が携帯を取り出し、耳元に当てていた。
「あら、春子ちゃん」
ぱっと母親の表情が明るくなった。どうやら電話の相手は春子らしい。
「そうなの、今商店街に居てね。今日は凄く冷えるわよー。春子ちゃんも外に居るなら気をつけて……なつみ?なつみは今日は恭介くんとデートよ?…うふふ」
「……」
すぐ隣で母親に『デート』と言われると恥ずかしい。なつみは何となく視線を母親からそらした。
母親は嬉しそうに会話を続けている。
「まだ帰ってきてるかは分からないけど、あの子の事だからまた『帰りが遅くなりそうだから晩御飯いらない』ってメールでも来るんじゃないかしら」
目をそらした視界の後ろから、母親の声が続いた。
「そうなのよ、最近週末になるとよくデートで帰りが遅くなってね。私も母親として強く言いたいんだけど、力いっぱい恋愛できるのって若い内だけだし、応援してあげたいって言うか…あらやだ私ったら何話してるのかしら」
クスクスと笑う声が聞こえる。
なつみの目の前で、小松菜が風に揺られていた。
「春子ちゃんも、なつみに会ったら『お母さんが寂しがってた』って伝えておいてね。あと今夜は凄く冷えるみたいだから早く帰ってきなさいって言ってね。じゃあ、うん。うん。またね」
ピッと携帯の通話終了ボタンを押す音だけが一際甲高く聞こえた。
「…………」
「……」
なつみの隣で、母親は何も言わない。
なつみも、何も言わない。
夕暮れ時のオレンジ色の光が、2人の足元から黒い影を伸ばし、足元の小松菜と特売ポップを塗りつぶしていた。
『お母さん』とただ一声かける事が、これほど怖い事があっただろうか。
(私、ひと間違いした?)
ごくり、と飲み込むのど元に、嫌な汗が流れる感触がした。
訂正したくない冷静な思考が、なつみの逃避を阻止するように立ちふさがっている。
確かに隣に立つ時に、なつみは隣の女性の顔を殆ど確認しなかった。しかし、今隣で通話していた女性は『なつみ』『春子』『恭介』という単語を口にした限り、この小さな町で偶然はあり得ないだろう。
隣に立っているのは、間違いなく自分の母親なのである。
「……」
飲み込む固唾もなくなった喉から、張り付くような痛みが走る。
――冗談、だよね?
悪い夢なんだろう。と、再度逃避のささやきが頭の中に響いた。
先ほどから、隣に立つ母親は何を言っているのだろう。何故隣に居るなつみに声をかけてくれないのだろう。何故、まるでなつみが今隣に居ないかのような口調で、電話で会話していたのだろう。何故今この時ですら、母親は自分に声をかけてくれないんだろう。
「……っ」
声が、出ない。
ただ単純に『お母さん』と言って、隣の女性の顔を見るだけである。
たったそれだけが、出来ない。
小刻みに震える身体の前で、小松菜だけが何事も起きてないかのようにゆるやかに揺れていた。
(嘘だよね、嘘だよね?)
困惑と恐怖が割れた音楽のように頭の奥までガンガンと響き渡っていた。
「あ、すみません。小松菜2つお願いします」
母親が隣で、自分の足元にある小松菜を指差した。
なつみの視界に母親の横顔が入り込む。
いつもの、顔――。
いつも通りの、母親――。
見慣れた母親の姿をした女性が、なつみの足元にある足元から小松菜を持ち上げ、なつみの方を向いた。
「お母……」
自分を見る母親の視線に、安堵したなつみが声を上げた時である。
なつみの身体中に、生暖かい感触がすり抜けていった。
「……………………え?」
最初、なつみは自分の身体に起きた現象を理解できなかった。
何が起きたのか分からなかった。
呆然と立ち尽くすなつみの背中から「230円です」「ありがとう」というやり取りが聞こえる。
目の前には、誰も居ない。
「あ……」
振り返ると、小松菜を抱えた母親の背中が見えた。その脇に、母親に頭を下げる店員の姿。
母親に頭を下げていた店員が、なつみの方を振り返る。
「いやー今日は冷えるねー」
「ちょっと今日の冷えはやばくないか?もうお客も来ないし、外の野菜は下げようか」
なつみの後ろからも店員の声が聞こえる。
もう一度、生ぬるい感触がした。
ゾッと、音がするように全身が総毛立つ。
なつみの背中から、店員が目の前に通り抜けたのである。
「うわ、寒。今日マジで寒いわ」
「異常気象って奴かねー。もう7月なのに、たまらんなぁ」
目の前で店員が、何事もないような笑顔で笑っている。
「……あ」
なつみの喉が悲鳴のように、やっとの思いで小さな音を出した。
その自分の小さな声に弾かれるように、なつみは母親と逆方向に走り出していた。
張り裂けるような胸元から、ちぎれるような感情が今にも噴出しそうであった。
その日は、季節で一番を謳うほどの赤い夕陽だった。
* * *
一体あれからどうして、どのくらい経ったのか、何故ここに居るのかも分からない。
気がつくと、なつみは丘の上の神社に居た。
皮肉にも、柊志雪が消えた神社である。
「ふ、ふふ…」
駆け上がった荒い息を整えることもなく、階段の上で笑う膝を押さえつきえながら、鳥居の下でなつみは自嘲した。
(ああ、やっぱり、自分も、ここに来るんだ)
論理的な理解とは関係ない直感で、諦めにも似た感情が存在している。
どうして自分は、柊志雪の消失に、あそこまで冷静でいられたんだろう。
答えは分かっていた。
『柊志雪の気持ちが分からなかった』からに決まっている。
(私、消えるのかな)
寒くもないのに身体が震えていた。
なつみは、ガタガタに震える両腕を互いの両腕で抱きかかえた。
(私、消えちゃうのかな)
どうして、自分は恭介の乗った救急車に乗らなかったのか、どうしてその疑問を感じなかったのか。
当然である。
なつみは、その時、恭介と同じく血まみれで地面に倒れていた筈なのだ。
抱きかかえる身体はまだ温かく、身体のどこにも怪我もなければ痛みもない。
その現象に安堵の気持ちなんてない。
恐怖しかない。
(お母さん……)
思い出す。
沈黙だけの母親。
自分を振り返らない母親。
通り抜けた身体。
「……ふぐっ」
言葉にならない音が、口から漏れた。食いしばりたい歯が食いしばれずに宙に縛られている。
どうして、涙が出ないんだろう――。
もういっそ、大声を上げて泣きじゃくることができれば、どれだけ楽になれるんだろう。
いっそ、今思い切り声を上げて泣いてしまいたいのに――。
「久しぶりやなぁ、卒業式ぶりやないか?」
突然の声に、なつみは一瞬飛び跳ねるように身体を起こした。
人が居たのだ。
「確か夏瀬なつみさんやろ?」
視界に広がる石畳の、本道まで続く道の間に、白衣姿の男が1人立っていた。
夏場だというのに長袖の真新しい白衣の下にはごくごく普通の黒シャツにジーンズ姿が見える。
「九条…先輩…?」
混乱しきっていた脳内が急に整頓されていくような気がした。
やっとの事で搾り出した名前に、九条は笑うと、白衣の内側から缶コーヒーを差し出した。
「良かったら飲む?うっかり2本買ってもうて困っとったんやわ」
(ああ……)
なつみは真っ直ぐ九条を見つめた。
九条は真っ直ぐなつみを見ている。
(人と、会話できるってこんなに幸せな事なんだ――)
神社は、夕陽で既に真っ赤に染められていた。
その燃え上がるような赤さは、2人の存在も赤の中へとかき消してしまいそうだった。
なつみは九条の缶コーヒーに手を伸ばした。
【8】
――おねーたん。おねーたん。
まだたどたどしさの残る幼い声が聞こえる。
妹は、喋る事ができる時期が他の子より遅かった。喋るまでの期間が長かった事が、焦らされていた期間のように、妹が私を呼ぶ声は、他の人の何倍も何十倍も嬉しく感じた。
実際、他の人の立場にたったことはないのだから、他の人の喜びなど知る由もない訳だが、それでもなつみは妹に対して自分が受ける喜びは人よりも上だと信じて疑わなかった。
――おねーたーん。
――はいはい、お姉ちゃんはここですよ。
台所から、母と一緒に作った市松模様のクッキーを重ねた器をもって、なつみは笑顔でリビングに顔を覗かせた。
途端に足元にしがみついてきた小さな身体に、なつみは一瞬驚き、そして笑顔がこぼれた。
――全く、恭子はすっかりお姉ちゃんっ子になったなぁ。
リビングから、参ったと言う声で父親が笑っている。
――お父さんよりお姉ちゃんの方が頼りがいがあるものね。ねぇ?恭子。
――あい!
なつみの後ろから同じく笑顔でティーカップを運んできた母親に応じるように、恭子は勢いよく小さな手を伸ばして返事をした。
その動き一つが可愛くて仕方がなかった。
10歳以上の年齢差で妹が出来ると聞いた時は、喜びよりも恥ずかしさの方が上で、なかなか素直になれなかったものだが、実際生まれて見ると妹というより自分に子どもが出来たかのように愛しくてたまらないものである。
この小さな命を守る為だったら、何でもしよう。
なつみは、小さな決意をしていた。
それは決して大袈裟な事でもなく、ごく当たり前のことのようだった。妹を愛する自分も、妹を守る自分も、ごく当たり前に続いていくのだと思っていた。
――私は、何があっても恭子のお姉ちゃんなんだから。
――逞しいなぁ、流石俺の娘だ!
――うふふ、お父さんったら調子がいいんだから。さて、お茶にしましょうかね。
――美味そうなクッキーだなぁ。料理上手のお母さんと娘に囲まれてお父さんは幸せ者だよ。な?恭子。
――あい!
ごくごく当たり前の家庭、ごく当たり前のリビングが、小さな家族の談笑に包まれていた。
『夏瀬恭子』
それが、夏瀬なつみが愛してやまなかった妹の名前である。
* * *
「恭介くん」
夜の病室は、ガラスの迷路のように青く、冷たい。
窓から覗く外の景色は、まるで天国のように綺麗だ。
青白く光る夜の病室。
なつみは、恭介の病室の中で、恭介の隣に佇んでいた。
「恭介くん、聞いてくれる?って言っても自分で話しちゃうんだけどね」
ピッピッピッと規則正しい音を立てて、恭介の枕元に置かれた小さなテレビの黒画面から、緑色に光るラインが角ばった波を打っている。
恭介は目覚めない。
なつみは、その反応に応じることなく、笑顔のまま恭介の眠るベットの横に置いてあった椅子に腰掛けた。
既に消灯時間は過ぎている。
しかし、なつみを咎める者は誰も居ない。誰かがこの病室を覗きに来ても、なつみを咎める人は居ないだろう。
「初めて会った時の事覚えてる?私が転校してきた日」
恭介の反応に構わず、なつみは続けた。
「あの時は驚いたよ。だって恭介くん、私の妹と同じ名前なんだもん。しかも漢字まで一緒でしょ?」
恭介と恭子。
そのどこにでもありそうな偶然の一致に、なつみは沢山の想いを重ねていた。
「変な事だって自分でも思うんだけど、初めて名前見た時に思ったんだ。『ああ、これは神様がチャンスをくれたんだ』って」
安っぽい『神様』というフレーズを自ら口に出しながら、なつみはくすぐったそうに笑った。
「神様が、妹を守れなかった私に最後のチャンスをくれたんじゃないかって思ったの」
だから、何があっても恭介くんを守りたかったの。となつみは続けた。
なつみは冷たい鉄パイプに腰掛けながら、ゆっくり瞳を閉じた。
あの日の文化祭が浮かぶ。
照れくさそうに、それでも一生懸命を顔で描いたかのようになつみを好きだと言って付き合って欲しいと頼ってきた姿。
頷いたなつみに、溢れるほどの笑顔を見せて抱きついてくれた温もり。
わっと周囲のクラスメイトに驚かされて、慌てふためく素直な姿。
自分の感情に正直で、喜びも、怒りも、悲しみも、楽しさも素直に表してくれる姿は、一生懸命『姉』として『娘』として『転校生』として取り繕って生きるなつみとは正反対のように映った。
「最初はね、恭介くんみたいになりたかったの。何があっても素直に表に出して言える人に」
小さな初恋の人を失った恭介と、最愛の妹を失ったなつみ。
2人は同じようで全く違う人生の歩き方をしていた。
なつみの脳裏に、いつかの図書館がよぎる。
まるで小さな子どものようになつみに縋ってきた恭介の小さな温もり。
「でも何でかな、守ってあげたいって思っちゃったんだよ。自分が素直に辛い苦しいって言える人生より、カッコ良く生きて恭介くんを守っていける人生の方が、私には幸せな気がしたんだ」
恭介の苦しみが、初恋の人を思うゆえのものであっても構わなかった。
だったらその初恋の人も含めて、愛していこうと思っていた。
「だから、私をリアルオーバーさせるほど、私を必要としてくれたのは、凄く嬉しいよ。私、死んじゃダメなんだね」
柊志雪を思い出す。
――私の分もいっぱい橋本先輩を支えてあげて下さい!
鍬野秋一郎を思い出す。
――今の恭介なら俺が居なくても夏瀬さんが居るし。
2人の言葉が頭を巡る。
「本当に、そうなのかな…?」
なつみは、うつむいたままチェックのスカートを握り締めた。
――リアルオーバーは『寂しさ』が原因なんや。
いつかの九条の声が聞こえる。
「私は、恭介くんの『寂しさ』を埋めるためだけに創られたんだよね?私がこのまま一緒に恭介くんと生きていけばそれが恭介くんの望みなんだよね?」
ひょっとしたら、目覚めた恭介はなつみを覚えていないかもしれないのに。
スカートを握りしめた指先がスカート越しに太ももに爪を立てた。
「怖いよ…」
呟くように、なつみの口から震える声が漏れた。
「酷いよ…」
震える両手に、熱を帯びた雫がぽたりと落ちて、青白い肌を伝った。
ゆっくり、なつみは立ち上がると、恭介の眠るシーツを掴んでいた。
正式には掴めないシーツを前に、血が滲むほど拳を握り締めていた。
「起きてよ、恭介くん。怖いよ。私、怖いんだよ?傍に居てよ。忘れないでよ、私の事」
恭介からの返事はない。
なつみの口から、ギリリという何かをかみ締める音が聞こえた。
「嘘つき。酷いよ恭介くん。私とずっと一緒だって約束したじゃない…っ」
少しずつ。
少しずつ、なつみの口から零れていく。
「このまま恭介くんと一緒に居たって、私、全然幸せじゃないんだよ?私、柊さんとは違うもん。自分犠牲にしてお母さんに見てもらえない身体にされて、それでも好きな人の為なら平気とか笑って綺麗にしてられないよ?」
嘘つき…。と再度なつみの口から震えるように言葉がもれた。
「一緒に居てよ!私を見てよ!私を頼るんだったら、私も幸せにしてみせてよ!自分だけ他人犠牲にして可哀想とか泣かないでよ!」
いつからだろうか。
自分の顔から、一滴とは言わず、大量の雫が零れ落ちていた。
シーツの上で握り絞めた拳が、自分の涙に濡れていた。
恭介からの返事はない。
「だいきらい…」
歯はすでに削れるぐらいに噛み締めている。
額を、涙にまみれた拳に押し当てて、なつみは叫んだ。
「アンタなんか大嫌いっ!」
その声に呼応するように、堰を切ったように嗚咽が漏れた。
縋りつくように、なつみは青白く光るベットの脇に座り込んで泣きじゃくっていた。
(漸く気がついた)
自分でもこれほど声が出るのかと思うほどの大声で泣きじゃくりながら、なつみはその態度とは反比例するほど冷静に考えていた。
(私が一番、無理してたんだ)
何が恭介の為だ。
何が妹の為だ。
いつだって、一生懸命やって誰かに『よく頑張ったね』って褒めてもらいたかっただけだ。
その本音すら隠す為に何重にも自分を偽って優等生に生きてただけだ。
恭介の為に自分が居たんじゃない。自分が生きて行く為に恭介が必要だっただけだ。
「起きてよ…」
掴めないシーツにしがみつきながら、なつみが声を漏らした。
「一緒に居てよぉ…」
夜の病室は、天国のように綺麗だ。
いつの間にそうなっていたのか、なつみは気づかなかった。
どのぐらいの時間が過ぎたのだろう。
一通り泣き終えて、冷静になったなつみの頭に、不自然な温もりが存在していた。
それが、誰かの手の平の温もりだと気づくのに、どのぐらいの時間を有しただろう。
「恭介、くん…?」
慌てて顔をあげるなつみの視界に、青く光る世界が広がっていた。
横たわっている恭介の瞳が、真っ直ぐなつみを見ている。
「え…?恭……」
理解しがたい現象に、なつみが戸惑うのも待たずに、恭介の口が開いた。
小さな小さな声で。
「ごめん」と。
そのはっきりと聞こえた言葉に、なつみは暫くぽかんと恭介を見つめ思わず噴出した。
「遅いよ…」
そう答えるなつみの顔は涙と笑顔で埋め尽くされていた。
夜の病室は天国のように綺麗だ。
このまま、なつみは消え去って、本当の天国に行くのかもしれない。
それでも良かった。
「ありがとう」
どちらともつかない声が、輝く病室の中へと消えていった。
* * *
強い光が突き刺してくる。
「なつみ?……なつみ聞こえる?」
白く輝く光の向こうから、懐かしい女性の声が聞こえた。
「……お母さん?」
「なつみ!なつみ、良かったっ!」
瞳を開けるや否や、目の前に居た母親が抱きついてきた。
白い光だと思ったものは、白い病室のカーテンとシーツの色だった。
女性の後ろで慌しく動く白い制服の人間が複数人見える。
「良かった…良かった。あんたが交通事故って聞いて…もう…良かった、良かった」
「交通、事故…?」
「商店街の交通事故で、意識不明の重体だったんだよ、なつみ」
ベットをはさんで母親と反対の方向から、更に男性の声が聞こえた。
その声を振り返って、なつみは目を疑った。
「お父…さん」
そこには数年ぶりに会う父親が涙をうるませながら、笑顔を浮かべていた。なつみの視線を受けると、更に一際笑顔を見せて、そして、母親と同じくなつみを抱きしめた。
「なつみ…すまなかった。お父さんは自分のことばっかり考えてた。なつみが恭子と同じ境遇になるまで、自分の本当に大切にしたいものも気づけないなんて、お父さんは馬鹿だ」
気丈で優しい父親の声は、僅かに震えているように聞こえた。
「お父さんはもう二度とお前達と離れたくない。なつみ、お前さえ良ければ、お父さんとまた一緒に暮らしてくれないか…?」
「……何言ってるのよ、お父さん」
なつみを抱きしめ震える父親に、なつみは恭介にそうしたように微笑んだ。
「当然じゃない」
なつみを抱きしめる腕に更に力がこめられた。
「痛い、痛いよ!お父さん!」
助けを求めるように脇に立つ母親を見ると、母親が涙を大量に浮かべたまま、嬉しそうに笑っていた。
その笑顔に、なつみもつられて笑った。
(私、帰ってこれたんだ)
白く輝く病室が、天国のように思えた。
よく見ると、自分の身体のあちこちに白い包帯が巻きついており、足に至っては、骨折したらしく痛々しいギブスごと上から吊り下げられている。ずいぶん所帯じみた生々しい所が天国なもんだな、となつみは考えて更に苦笑した。
暫くすると、主治医がやってきて、採血や血圧などといった検査を沢山受けさせられた。一番心配された脳波にも異常は見当たらなかったらしく、主治医が検査結果の用紙を前に首をかしげていたが、念の為、来週にカウンセラーを受けて、異常がなければ退院にする、との事だった。
渡された用紙には、来週の日付の下に『カウンセリング予約:宮内心理士』と書かれていた。
「なつみ、食べたいものとか欲しいものないか?お父さん売店まで買ってくるぞ。よしプリンだな!行って来る!」
一通り抱きしめ終えた父親が、なつみの答えも聞かずに飛び出した。
その父親もスーツ姿のままで、母親から、職場から駆けつけてなつみが目覚めるまでずっと隣に居たのだと聞いた。
「あの人、なつみの好物がプリンだなんてよく覚えていたわね…」
呆れたように笑う母親から、照れたような恥ずかしそうな笑顔が覗いていた。
(ああ、お母さんも、やっぱりお父さんのこと、好きなんだな)
この年齢になって、母親に対して更なる発見をした気分だった。
「そういえば、もうすぐ恭介くんも来るわよ」
「え…?」
「恭介くん今朝やっと歩けるようになったみたいでね。どうしてもお見舞いに来たいって。うふふ、お父さんも居るのに修羅場ね」
「修羅場って…」
「あらあら、ならお母さんもこうしていられないわ。お化粧直さないと。お母さんちょっと化粧室に行って来るわね」
「ちょ、ちょっと、お母さん」
足早に笑顔で退室する母親を追いかけようとして、ギブスの足では追いかけられないという事に気がついた。
(これは…リハビリとか必要なレベルよね)
大人しくベットに横たわりながら、現実的な未来予想を考えていた。
3年生の夏だというのに、これからの受験勉強を考えると憂鬱この上ない状況である。
(うわぁ…どうしよう、事故のショックで単語が飛んでませんように)
後で父親に参考書を買ってきてもらおうと考えていた矢先、病室のドアをノックする音が聞こえた。
「はいどうぞー?……あ」
ごく当たり前に返事をしてから、なつみはそのノックの正体に気がついた。
ノックをした主は、起きてドアを開けられないなつみの反応が読めないらしく、暫く黙って曇りガラスの向こうに立ち尽くしていたが、何かを決意したかのように、病室のドアをスライドさせた。
その分かりやすい態度に、なつみは懐かしさとも言えぬ微笑ましさを感じていた。
病室には夏を告げる日差しがさんさんと降り注いでいる。
夏の空は、高く青く澄み渡っていた。
【9】
いつものメンバー、と言われたら、誰を思い浮かべるだろう。
「恭介、秋一郎、なつみ、卒業おめでとう」
「ありがとう、春ねぇ」
「ありがとうございます、卯月先輩」
「どうも!春ねぇ!俺凄いでしょ?もっと褒めてくれたっていいんだぜ!というかもっと褒めて!褒め…あいたたたたた」
桜舞い散る校門で、相も変わらずふざけて見せる秋一郎の右頬をスーツ姿の春子が掴んで持ち上げた。
「俺のイケメンな顔がぁああああ」
「よりイケメンになって嬉しかろう?」
「ふぁい!嬉ひいです!めっちゃ嬉ひいです!だから離ひで下しゃいまひぇんか!」
秋一郎と春子の前で、紙花をつけた恭介となつみが微笑ましく見守っている。
恭介、春子、秋一郎、なつみ。
これが、今の恭介が思う『いつものメンバー』だ。
「しかし、私は正直驚いているよ。秋一郎が卒業できるとは考えてもいなかった」
「ふふふ、それは心外ですね。こう見えてもボクは優等生ですよ?」
乱れた学ランを直しながら、秋一郎がこりもせずに不敵に笑っている。
「そして4月から晴れて大学生の仲間入りさ!」
秋一郎はその後に合コンするぞーっ!と続け、再度春子によって吊るされた。
恭介、秋一郎、なつみは3人とも同じ大学に進学が決まった。春子のいる総合大学であり、4人の居る町の中には大学はそこしか存在しない。
「同じ大学行けて良かったね、恭介くん」
「そうだね」
3人の門出を祝うように、桜の花びらが雪のように風に吹き上げられ空へと舞が上がっていた。
恭介は、その桜吹雪に腕をかざしながら、誰に言うでもなく呟いた。
「皆で、同じ大学院…だっけ」
その言葉に、春子と秋一郎が、動きを止めて恭介を見つめた。
なつみだけが、その動きの意味が分からず、きょとんと3人を見つめている。
「恭介…やる気なのか?」
「だって春ねぇ、ここまで来たら仕方ないだろ?秋一郎も進学しちゃった事だし」
真っ直ぐな視線で答える恭介は、小さな笑顔を残していた。
わずかな沈黙が経ち、春子はゆっくりと笑う。
「仕方ないな。乗りかかった船だ」
「何の話ですか?さっきから。私も混ぜて下さいよー」
しびれを切らして問いかけるなつみに、2人は笑顔で迎えた。
「ああ、4人全員で同じ大学院に行こうって話だよ」
「ふぇ?」
「俺となつみが理系で、秋一郎と春ねぇは文系だから、ちょっと差はでるけど、まぁ大丈夫なんじゃないかな?」
目を白黒させるなつみの後ろで、秋一郎が「はーい」と右手をあげた。
「何だ、秋一郎。言ってみろ」
「この鍬野秋一郎。全力で大学院に行かせてもらいます!」
その返事に、春子と恭一郎が度肝を抜かれた。
「おい…秋一郎、お前自分が何を言っているのか分かってるのか?」
「ちょっと!どういう事ですか?人がたまに素直に賛同してみせたらっ!チックショー!見てろよ!この中で一番の成績で入ってやんよ!」
「おおう、それは凄いな。私も負けてられないな」
4人に再び和やかな笑いが生まれた。
桜の花は空を舞い、薄い青空の中へ冬の終わりを告げていた。
* * *
「なんや卯月、まだ化学実験準備室に立ち寄る趣味なんか持ってたんか?」
「…………それをお前が言うのか?」
未だに白衣姿の九条を前に、春子はため息をついた。
卒業式も終わり、それぞれが解散したり2次会へと足を運ぶ中、春子は1年ぶりに母校の化学実験準備室に足を運んでいた。特に九条と待ち合わせをしていた訳ではない。それどころか1年ぶりに見た九条の姿に、驚きを隠せないというのもある。
さも自分が居るのが当然のように春子を見ていた九条は、「まぁええわ」とぼやくと、棚からビーカーを2つと三角フラスコを取り出し始めた。
「卯月、今日は何にする?珈琲、紅茶、玄米茶、ココアからポタージュまで取り揃えとるで」
「お前、いつでもそのチョイスじゃないか。いつものを頼む」
「たまに減ることもあるんやで。アールグレイやな。ミルクは勘弁してくれ、今日はあいにくの品薄や」
慣れた手つきでアルコールランプに火をつけると、九条は引き出しからコーヒーの瓶とティーパックの袋を取り出した。
合間に見える白衣の下は、黒のハイネックにジーンズと言った姿で、少なくとも九条が留年した訳ではない事が分かる。
「九条、お前今はどうしてるんだ?まさか就職とかふざけたことは言わないよな?」
「まさか。一応大学でお勉強してるで」
町内では唯一の国立大学に春子は通っている。同じ文系でありながら九条の姿を見かけたことがない。
県内か県外か、遠くの大学に通っているという事になると、それなりの偏差値の大学に行っているのだろう。
「ああ、そうだ九条。これをお前に返そうと思って今日はきたんだ」
春子は、小さな手提げ鞄から1冊の紫色の本を取り出した。教科書サイズの本の表紙から『リアル・オーバー』という単語が読み取れた。
「ああ、これか。律儀やなぁ」
九条は笑いながら受け取ると、懐かしそうにパラパラとめくって本を閉じた。
ふらりと立ち上がると、慣れた手つきで本を元の位置に直す。
「分かりやすかったやろ?少しは役に立てたんか?」
「ああ、そしてお前が居るなら都合がいい。何点か聞きたいことがある」
春子の慎重な声に、九条は春子を一瞥すると、小さく笑って元の席に座った。
その態度に答えるように、春子は一度スーツの前に両手を組んでから、顔を上げた。
「夏瀬なつみの事だ。去年の夏ぐらいの話なんだが、なつみが恭介と一緒に交通事故に巻き込まれて怪我したことがあってな。2人とも重傷で、特になつみは意識が1日なくなるぐらいだったんだが。……その1日の間に、なつみがリアル・オーバーを起こしたって言うんだ」
「そんで?」
「それでじゃないだろう?九条。お前がリアル・オーバーを起こしてるなつみを助けてくれたんだと私は聞いた」
「助けた訳とちゃう。あそこで会うたんも偶然やし。むしろ差し出したコーヒーが落ちてもうて…泣かせてしもたぐらいや」
苦虫を噛み潰したような顔で「ありゃウチも驚きやったな」と言うと、九条はガーゼごしに三角フラスコを持ち上げ、2つのビーカーに注いだ。
「いや、それでも。お前が居なかったらなつみはリアル・オーバーとして雪花と同じように消えていたのかもしれないんだろう?その…お前には、感謝している」
「せやからウチは何もしてへん言うてるやろ?ちょっとお話ししただけや」
バツが悪そうに、九条はティーパック入りのビーカーを差し出すと自分の手元にあるビーカーにインスタントコーヒーの粉を入れてガラス棒でかき回し始めた。
「夏瀬なつみの事はウチもはっきり覚えてる。あれから無事に戻れたんやな」
「ああ、あれから恭介もしっかりした子になって。秋一郎も戻ってきてくれて…いや、そういう話題ではなかったな。すまない」
「卯月、あんさんまだ渡した参考書、ちゃんと読んでへんやろ?」
受け取ったビーカーに緑のスケジュール帳を乗せながら、春子が怪訝そうに九条を見つめた。もはや標準装備らしい砂時計をテーブルの上に乗せる。
「リアル・オーバーが元に戻ることは絶対にあらへんよ。リアル・オーバーは『生まれるか』『消えるか』や。オリジナルの生死とは何の関係もあらへん」
「……どういう事だ?なつみがリアル・オーバーじゃないなら何だと言うんだ?」
ウチも後から気がついたんやけどな。と言うと、九条は春子の手元の砂時計を指差した。慌てて手帳をどける春子にビーカーを差し出す。
「まず、ウチと会うた時の夏瀬なつみは『人が身体をすりぬける』『缶コーヒーが身体をすりぬける』て言う『物に触れない』状態やったんや。別にそれだけは構わへん。リアル・オーバーでも『創り主』の意思が弱けりゃエネルギー体も弱なるもんやし。ただ、更に彼女の居る空間は『温度が下がる』状態やった。それが気になってな」
春子は夏の事故があった日を思い出す。
事故を知る前、諸用でなつみの母親に電話をかけた時、なつみの母親がしきりと『寒い』と繰り返していた。その日は寒いどころか最高気温が例年より高いと騒いだ日で、商店街に居ながら正反対の事を言うなんておかしなものだと思っていた。
「いまいち言っている事が掴めない。夕暮れ時に会ったんだろう?温度が下がって当然じゃないのか?」
「ウチ、普段から温度計を持ち歩いてんやけどな」
言いながら、九条は白衣の内ポケットから温度計を取り出した。「そんな物を持ち歩くなよ」と春子が呟く。
「夏瀬なつみと会話しよった時の温度、何度やったと思う?マイナスや」
「マイナス…?」
「最初ウチも驚いてな。温度計の故障かと思うたけど実際に寒いやろ?ウチもまさかなぁと思うてたんやけど、今の卯月の話でよう分かったわ」
「いやいや、待て。お前1人だけで納得してもらっては困る。なつみに何が起きてたんだ?」
「幽霊や」
「………………は?」
話は終わったと言わんばかりに珈琲を口に運ぶ九条に、春子は思わず立ち上がった。
「お前、幽霊は信じないんだろ?何を言ってるんだ」
「よう覚えてるな。そうや幽霊はまだ証明されてへん。せやけど、リアル・オーバーやないオリジナルに戻れる、物に触れられへんほど希薄な存在で、周囲の温度を急激に下げるモノ言うたら、ウチらの世界では幽霊ってなってるんや。オリジナルに戻れた言うことは生霊?臨死体験ぐらいになるんやないかな」
そう分かってたらもっと真剣に話し相手になったんやけどなぁ、と九条はぼやいた。
「存在の薄いリアル・オーバーやと思てたわ。ホンマ自分の目に見えるものやからて信じたらアカンな」
言ってから、九条は面白そうに笑った。
「ほんまに。本当に不思議なものは結構目に見える世界にあるんやな」
「…………」
春子は、次から次へと突飛な答えを出す目の前の変人に、言葉も出なかった。しかし、少なからずこの九条という男は自分のまだ知らない学問の世界に居るのだという事だけが分かっていた。
「せや、卯月。鍬野秋一郎くんがどこの大学に行ったんか知ってるか?」
「え?……秋一郎は私と同じ雪龍大学の心理学部だが…」
「意外や。卯月心理学なんかに興味あったんか」
「……私としては、お前が秋一郎の話題を口にする方が意外な事だ」
九条の言っている事を少しでも早く理解したくて心理学部を目指した。秋一郎も同じ心理学部を目指していると聞いた時は驚いたが、九条にその話をすると「まぁちょっと鍬野くんとは仲良うさせてもらってるんや」と言って笑った。
彼の返事は常に突飛なもので、回答の詳細を聞くと1時間だけでは追われそうにない。
春子はため息をつくと、とりあえず手持ちの質問をぶつけることだけに専念することにした。
「なんであの時、お前は小雪神社にいたんだ?」
「調べ物や。ちょっと依頼された仕事があってな」
「何でお前はいつも白衣を着て、変な関西弁を喋るんだ?」
「男のロマンや」
「何でお前の一人称は『ウチ』なんだ?それって関西じゃ女性の一人称じゃないのか?」
「筆者の凡ミスや」
「……お前、そもそも下の名前は何て言うんだ?」
「ミヤウチや」
「……は?」
「九条はウチの上の名前やあらへん。九条はウチの下の名前や。苗字は宮内。宮内九条がウチのフルネームや」
「…………意外だ」
「せやろ?」
目に見える世界の方が、不思議な事だらけなんやて。と言って宮内九条が笑った。
「そろそろ質問攻めはええか?ウチも一応暇人と違てこの後予定あるんよ」
言うと苦情は立ち上がって、ビーカーと三角フラスコを片付け始めた。
「最後に一つだけ質問させてくれ」
「なんや?」
「あの時、小雪神社でお前は夏瀬なつみとどんな話をしたんだ?」
春子の質問に、九条は一度手元を止めて春子を見上げると、小さく笑って答えた。
「恋愛の話や」
「…………は?」
最も意外な回答に、春子は思わずキョトンと九条を見つめた。
「これ以上はプライベートやから教えられへんよ。話は終わりやな。またどっかで会ったらお茶入れるわ」
九条はビーカーや三角フラスコを洗い終えると、慣れた手つきで棚に戻し「戸締りよろしくな」と言って化学実験準備室を立ち去って行った。
「れんあい?」
誰も居なくなった化学実験準備室で、春子は九条の回答を繰り返した。
九条の立ち去った廊下の方角をマジマジと見つめると、もう見えぬ九条に向けて呟いた。
「……私には、お前の存在自体が不思議そのものだよ」
廊下で、誰かが笑う声が聞こえる。
窓の向こうでは、桜が空を舞い上がっていた。
4月はもう直ぐそこまで近づいている。
新しい季節の始まりを前に、春子はもう一度立ち上がった。
〜エピローグ〜
「じゃあ、夏瀬さんはリアル・オーバーじゃなくて幽霊だったから元に戻れた訳ね」
カウンセラーの宮内都はそう言うと、持っていた本を閉じた。
「橋本くんがリアル・オーバーを起こして居なければ分かりやすかったに、紛らわしい子ねぇ」
そう言って大袈裟にため息をつくと、右手のテーブルから2枚のカルテを取り出し、腰掛けていた竹椅子を揺らし始めた。カルテには、それぞれ『橋本恭介』『夏瀬なつみ』と記載されている。
夏も終わりだというのに、窓際の居間にも強い風が吹き込んでいた。
長い柔らかな茶の髪が強い風に揺れるのも気にせず、都はぼんやりと窓から緑の木々に包まれた自然溢れる庭を眺めている。木々のざわめきに合わせるように彼女の竹椅子が小さな軋み音を鳴らしていた。
その今にも消え入りそうな細い肩に、宮内九条はゆっくりと落ちていたストールをかける。
「あら、ありがとう九条」
「いや。それより姉さん。もう3時だけど、何飲む?珈琲?紅茶?」
「珈琲お願いしていいかしら。さっき作り置きしたからキッチンに行けばあると思うんだけど」
「分かった」
九条はそう言うと、着ていた白衣を脱いでキッチンへ向かった。そこには、春子の前で使っていた訛りも、ふざけた態度も存在していない。それが、宮内都の弟としての九条の姿だった。
女性らしいアンティークの食器棚で包まれたキッチンに入ると、珈琲メーカーが丁度良い具合にコポコポと音を立てて珈琲のドリップを終えていた。九条はとりあえずガラス扉の食器棚を見渡し、和風テイストのティーカップを取り出すと、珈琲を注ぎ、棚の下からカロリーオフと記載されたシュガースティックとコーヒーホワイトを付け、銀色のスプーンを添えて居間へと運んだ。
「姉さん、珈琲だよ」
「ありがとう…あら、気が利くわね」
膝の上に2枚のカルテ、右手にレポートの束を持ちながら、都は脇のテーブルに出されたティーカップを見て笑った。
最近、体重が気になってね。と言いながらローカロリーシュガーを珈琲の中へ注いでいる。
その脇では九条が、マグカップに入れた珈琲を立ったまま口に運んでいた。
「そうそう九条、貴方の書いたレポートの話なんだけど」
都はそう言うと、ティーカップを置いて、右手に持っていたレポートをひらひらと揺らした。
「幽霊って仮説は凄く面白いんだけど、流石にうちのゼミ選考には使えないわよ?」
「分かってるよ」
九条はそう言うと「それはまた別にレポート提出するよ」と繋げた。
「あーあ、しかしやっぱり創造主は自分の創ったリアル・オーバーの記憶を失くしちゃうのねぇ。橋本くんが最初目が覚めてなつみちゃんの記憶どころかなつみちゃんが病室に来た記憶まで持ってた時は『やった』って思ったのになぁ」
幽霊じゃ当たり前なのよねぇ…と呟くと都はため息をついた。
「その後のカウンセリングでも、橋本くんは雪花ちゃんの記憶を全部取り戻してちゃんと立ち直ってるし、それどころかなつみちゃんの体験を受け止めて前よりしっかりした子になっちゃってるし。なつみちゃんもいつも通りどころか家庭環境も丸く収まって…ああ、いいことなんだけど」
手持ちのサンプルが居なくなったことが余程残念なのだろう。相変わらずのマッド・サイエンティストぶりである。
「誰か私みたいに、リアル・オーバーの記憶を持つ創造主が居れば、論文も書きやすいのに…ねえ?九条」
「…………」
九条は答えず、ゆっくりと都に笑ってみせた。
宮内都は、幼い頃の交通事故で両親と弟の九条を亡くした。そのリアル・オーバーとして存在している九条の記憶を、彼女は失うことなく持ち続け、九条自身も誰かに「見えない」という現象を起こさせることなく今の年齢まで順調に成長している。しかし、彼には戻れる本体はない。オリジナルは両親と共に火葬場で既に焼かれているのである。
都はこの現象を「より強い意思によるリアル・オーバー」と名づけ、自分自身の身体ごと被験対象として研究している。
「まぁでも今回は俺が『幽霊』自身を体験できたから上出来なんじゃないかな。専門外の分野だけど、リアル・オーバーが幽霊を認識できるって事は、俺に霊感なりの特異な感受性があるのか、リアル・オーバー自身が幽霊と同質の成分なのかって話になるし…姉さん?」
言い終えるより先に、九条は竹椅子の上で寝息を立てている姉の存在に気づいた。
彼女がこの街で柊雪花を契機にリアル・オーバーの研究を本格化させてから、彼女がベットで眠っている姿は殆ど見たことがない。彼女自身は「研究の為」だと息巻いているが、その後ろに大切な弟のリアル・オーバーを失いたくないという強い意思があることを九条は知っていた。
「全く…姉さん。こんな所で寝てたら風邪ひくよ」
九条はそうため息をつくと、傍らのタンスから夏用の毛布を取り出して竹椅子の上にかけた。慣れた手つきで窓を閉め、都の周りに散らかっているゴミを片付け始める。
床に落ちた『橋本恭介』のカルテを持ち上げ、『夏瀬なつみ』のカルテを持った手を、一度止めてからテーブルに置いた。その2枚のカルテの下に重たい表紙と背表紙に包まれた彼女の愛読書である『Real Over』の参考書が出てきた。その裏表紙には彼女が万年筆で書いたのであろう走り書きが書かれている。
『ReaL Over〜二番煎じの迷宮〜』
「L……?迷宮(Labyrinth)は既に後ろに書かれてるから……嘘(Lie)か、Lov……」
言いかけて、九条は自分の発想の稚拙さに自嘲した。
「駄目だな俺は、悪い影響を受けすぎたかな?」
そう誰に言うでもなく呟くと、その本を持って横の書斎に向かった。その後ろでは相変わらず姉の都が小さな寝息を立てている。
(彼女が、気づくわけがない)
九条は、都の言うような弟のリアル・オーバーではない。
宮内都には弟そのものが存在していない。それどころか彼女の言う両親すらも虚偽のものである。
彼女は幼い頃に、両親の虐待が原因で児童養護施設に預けられた。その後に両親が児童擁護施設に迎えに来たことも迎えにこれるだけの状態になっているとも聞いていない。彼女は新しい住処となった施設内のいじめや虐待に耐えられず、12歳の若さで施設を飛び出し、半ばホームレス状態で路上生活していた所を精神科医の宮内御門に保護されたのである。
彼女が初めて九条を『創った』のは14歳の時、突如庭に創りだされた九条を見て「私の死んだはずの弟が居る」と御門に告げたのである。
この時、既に都は自身の生い立ちに耐えられず、保護した後見人の宮内御門を『祖父』だと思いこみ、自分の両親は事故死したのだと主張していたという。何もない所から人間1人を創り上げるという過去類を見ないリアル・オーバーに、祖父である御門は彼女に『被験者』としての多大なる期待を強いた。
その拘束は、祖父が死してもなお強大なものとなっており、都は仕事のカウンセリングをしに病院に行く時以外にこの家を出ることは殆どない。
皮肉なことに、彼女は自身が想像している以上に、家族に愛されずに今まで生きているのである。
九条は、都の眠る竹椅子を振り返った。都は穏やかな顔で眠り続けている。
誰にも愛されずに生き続けていても、『九条』という弟を創っている限り、彼女は表面上では決して孤独にならずに生きていけるのだ。
「創造主がリアル・オーバーのオリジナルを思い出す事なんて絶対にないんだよ、姉さん」
自らがリアル・オーバーである九条には、リアル・オーバーにしか分からない複数の事柄を確信している。
一つは、創造主がリアル・オーバーのオリジナルを思い出す事は、リアル・オーバーの消失時以外あり得ないのだと言う事。
一つは、リアル・オーバーは発生時ないしは発生1日以内に、自身がリアル・オーバーである自覚を持つ事。
そして一つは――。
都の眠る竹椅子に、九条は手を伸ばした。触れようと思えば触れられる都の、その身体を受け止めている竹椅子に手を乗せ、その自身の手のひらに唇を重ねた。
「愛してるよ、姉さん」
リアル・オーバーは必ず、その創造主に絶対的な愛情を持つ。
自身が、創造主の記憶と共に消される、その日まで――。
「さて…いい加減連絡しないとな」
都の眠る竹椅子から手を離すと、九条は置いていた白衣を持ち上げ、勢いよく羽織った。
玄関の外に出て、白衣のポケットから真っ赤な携帯を取り出すと、発信履歴から『鍬野秋一郎』という名前を検索して通話ボタンを押した。
「ああ、鍬野くん。今ええか?前依頼されとった柊雪花の再構築の話なんやけど……」
風が吹き上がる。
緑に包まれた広大な庭の木々が、互いにぶつかり居ながら夜の帳に覆われた空へ、秋の訪れを告げていた。
《終》
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2011/04/23(Sat)20:55:19 公開 / 雄矢
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■作者からのメッセージ
まず、ここまで読んでくださった方に、心から感謝の気持ちを伝えたいと思います。本当に有難う御座いました。
そして「驚いた?ねぇ驚いた?」と聞きたくて仕方がありません。
現代でもファンタジーでも恋愛でも「あっと驚く展開」を入れたいタイプなのですが、2番煎じや3番煎じにならないよう気をつけたいと思っています。
もし余裕がありましたら、感想・苦情・アドバイス等頂けると狂喜乱舞して喜びます。厳しい言葉でも構いません。宜しくお願いいたします。
そして、大事なことなので2回言いますが、本当に読んで下さって有難う御座いました。