- 『サビレの神に物申す(仮)【トイレット(略)のリメイク版&二話を少し】』 作者:一日君 / リアル・現代 未分類
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全角24697文字
容量49394 bytes
原稿用紙約71.85枚
寂れたトイレに閉じ込められた佐伯 徹は、涙を忍んでとある決断をする。
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一話:トイレットペーパー不使用の受容
1.
と、とととととと、トイレットペーパーが無いっ!?
落ち着け、佐伯 徹(さえき とおる)! これは幻覚だ。だってほら、考えてもみろよ、『洋式トイレ軟禁事件!』なんて身近に起こるわけがないだろ。きっとそうだ、この強烈なアンモニア臭に、頭がいかれちまっただけなんだ。
あははは、あはははははっ! トイレットーペーパーのカバーに手を伸ばしてみたよ。そしたらね、本当はあるけど幻覚のせいで目には見えないトイレットペーパーに、何故か触ることもできない。あれれ、可笑しいな。
しかしなるほど、つまりはこういうことか。
――トイレットペーパーが無い!?
「ま、マジかよ。違うよな? このクソみたいな状況は、何かの手違いなんだよな」
やばい、体中から変な液が出てきた。どこからともなく耳鳴りが聞こえてくる。
この不吉な感覚は、ドラクエの百時間プレイデータの消失を告げる呪いの効果音を聞いたとき以来だ。コツコツと積み上げてきた平凡高校生キャラの崩壊音が、聞こえる。寂れたトイレ――通称サビレの個室が、俺の墓場だとでもいうのか!?
「れれ、冷静になれ。サビレ臭に惑わされるな! ……そ、そうだ。そうだよ、ふははははははっ! なんで俺はこんな当たり前のことを確かめずにうろたえていたんだ」
見える、希望の光が俺には見える。そこかっ、俺の左背後! ……どうやらこちらではないようだな。ふははははっ。となれば、トイレットペーパーのストックは、右背後にあるはずだっ。
ほれ見たことか、って何もねぇじゃねぇかっ! これは幻覚ですか? いいえ、現実です。薄々分かっていたよ。うん、だからショックは少ない、無いと言っても過言ではない。
「れれれれれれっ、冷静さ俺は! 違う、違うんだよ。俺に限って、サビレで軟禁とか、んな物騒な事件に関わるわけないじゃん」
――神様だってそう思いますよね。
天井を見上げますと、長期にわたり黄ばんできた蛍光灯の光を好む蛾が舞っていまいるのが見えました。とりあえず、神の化身かもしれないので、挨拶くらいはしておきましょう。
「こんにちは。蛾の分際で、良いご身分ですね。高みの見物は気分が良いですか、それはそれは、良かった良かったこんちきしょーが! どうして俺がこんな目にっ!?」
思えば、野中から貰ったバレンタインデーチョコを食べたのが、事の始まりだった。
俺の幼馴染と黒歴史の両方を司る悪魔のような女、それが野中 藍(のなか あい)。この世に悪をくじく魔法少女または○○戦隊・レンジャーがいるのなら、登場早々で可憐かつダイナミックに野中を駆除すべきだ。世のため人のため、主に俺のためっ。
「野中の邪魔が入らなければ、今頃の俺は、良子と陰でいそいそとラブメールをやり合っていたはずなのに……」
2.
学校のトイレは眩しいくらいに綺麗だ。一つの芸術品と言ってもいい。佐伯家のトイレもこうでありたものだ。
これから俺が、良子の愛の告白を受けに行くと思うと、緊張しすぎて腹が痛くなってくる。結局、小便はあまり出なかった。けどまあ、洗面台で身だしなみを整えられるだけで、トイレに入った意味は大いにある。
今朝つけてきたワックスにプラスアルファして、これで完璧。俺、イケメン! 制服にも何時も以上に気を遣っておこう。特にこの袖の部分、変に曲がる癖があるのが頂けない。ワックスをつけようか、ワックスつければ制服の袖も髪の毛のように整うんじゃね?
「るんるんるーん。ワックスさーん。るんるんるーん。だいすっきさー。うわっ、汚れた!? てめぇこのワックス! ああもう最悪だ、つけなきゃ良かった……」
約束の放課後の時間まで、後二十分。少し早いけど、行っておくか、遅れるよりましだ。男子たるもの、待ち合わせの体育館裏まで先に行って待つのが礼儀。
今朝、下駄箱でラブレターを発見したときの興奮が、まだ忘れられない。最初にラブレターを読んだとき、差出人が『結城 良子(ゆうき りょうこ)』で宛先がなんと『親愛なる佐伯 徹様』なのだから、本気で夢オチを疑った。透かさず一から読み直したときの、脳が沸騰していくあの感覚は病みつきになる。
ふはははは、ふはははははははっ。
ピンク色のラブレターに詰まった俺への熱い気持ち。好きで始まり大好きで締めくくられた内容は、俺がこの一年間でどんなに努力しても、そう容易く手に入れられるものじゃなかった。
振り返ってみれば、長い道のりだった。
良子の細くて柔らかそうな手を握りたいがために、登下校は出来るだけ一緒になるようタイミングを合わせてきた。結局、握れなかったけど……。でもそれは、清楚で恥ずかしがり屋な良子ならではの照れに違いなかった。
授業の合間や昼飯の時は、無理やりにでも話のネタを作って話しかけてきた。その都度、良子は眉をひそめて立体的な唇を軽く引き締める、その可愛さで俺を誘惑した。結局、まともに話せたのは業務に関する連絡くらいだったけど……。でもそれも、好きな人の前では冷静になれない良子ならではの照れのせいに違いなかった。
どれもこれも、なんてことはない。恥ずかしがり屋の良子と俺は、今日でついに結ばれる。ふははははっ。これで年齢=彼女暦無しとはおさらばだ。
3.
約束の時間よりも早く、体育館の裏までやって来てしまった。
体育館と林に囲まれた体育館裏は、恥ずかしがり屋の良子が誰か愛の告白をするには打ってつけの場所だ。
呼吸を整えて、後は良子の到着を待っていればいい。
今日はバレンタインデーだから、やっぱりチョコ持参でやってくるのかな? ホワイトデーはどうしようか。良子は「最近なんだか肩が凝っちゃって」と野中に愚痴っていたから、奮発してマッサージチェアー辺りが無難だろうか。
「き、来た!?」
体育館を曲がって、こっちに向かってくる女子生徒。否、可愛い女の子! アレが良子! ……あれ、良子か? なんか、ちがくね?
小さな体の天辺で盛り上がっているポニーテイルをゆっさゆっさと揺らしているアレは、良子ではないような。怪訝そうに下唇をぬっと突き出し歩く姿は、侍が「どうして私が買出しに行かなきゃならんのだ!」と不服そうに歩いているかのようだ。相変わらずの無愛想キャラ。
「野中! お前が何故ここにっ!?」
「手紙は読んだな?」
「え、ああ。まあそりゃ、読んだけど……」
手紙にこんな演出があるなんて、書いてなかったぞ。
「これ、リョウから」
紙袋? 中から、仄かに甘いチョコの匂いが漂ってくるようだけど。
というかリョウって……ああ、はいはい、リョウは良子のリョウだ。野中と良子が「おはよう、リョウ!」「おはようアイさん」などと親しげに呼び合っているのを毎朝注意深く聞いてきたから、当然この俺が分からないわけないしっ。
となるとこの紙袋は、リョウ――つまり良子から俺への差し入れということでいいのか? いいんだな?
「なるほど、読めてきた」
良子のことだ、俺を呼び出したはいいが、寸でまで来て恥ずかしくなったのだろう。だから代わりに、親友である野中がチョコを渡しにやって来た。うん、納得。
大丈夫だよ、良子! この手紙から、君の切実な気持ちは痛いほど良く伝わってきているから。これから少しずつ、お互いの距離を縮めていこうじゃないか! ふははははははっ。
「デレデレすんな、キモい」
「うるせぇ」
紙袋を奪い返して、その中に手を突っ込む。良子のチョコ、良子のチョコはどこだ。袋の右の方か? 違う。なら左か……あった!
取り出して見ればなるほど、これぞバレンタインデーチョコだ。赤い包装紙に包まれたハート型の入れ物。真ん中にぐるっと引かれた白いラインが、なんともお洒落。
包装紙を取っ払う作業に命を懸けろ、俺! そっと、慎重に、丁寧にやれ。破いたら即拷問ものだ! クリスマスツリーの天辺にボンドで星を着けた、あのつま先立ちして三分くらい静止したときの集中力を、今こそ思い出せ! そいやあれ、今にして思うと軽い児童虐待だよな。辛すぎて最後の方なんて、ガン泣きした憶えあるし……
「顔が暗い。大好きなリョウからのチョコは、お気に召さなかったか」
「そうじゃない。この顔はデフォルトなんだ、気にしないでくれ」
「どうでもいいけど、あんた手が遅いんだよ。私が代わりに開けてやるから、貸してみな」
「黙れ黙れ。なんでお前に命令されにゃならんのだ! これは俺のチョコだっ」
「なら早く開けて食えよ。でなきゃ、あんたの恥ずかしい過去をリョウにばらす」
「な、なにを仰る野中様!」
「あれはそう……」
野中様が俺から視線をお逸らしになられた!? 何か良くないことが起きる前兆に違いない!
「小一の春、体育館で校長先生の話を聞いていたときにお漏らしをした。同じく小一の秋、遠足にバナナの束――十本付きを持ってきた。小二の冬、雪に足を滑らせて転び、どさくさに紛れて私のズボンを――」
「食うよ? 俺、マジでここで今すぐ食うよ? お願いだから淡々と語らないで野中さん、俺とお前の仲じゃないか! あんまりほじくり返されると、ほんとに泣けてきちゃうから。見てみろ俺の眼球を、うるってなってからっ! 包装紙、なにそれ? あははははっ! 単なる紙だし、丁寧に開ける必要とか皆無だしー!」
クソーーー! この俺に愛する者から貰った包装紙を、豪快に引き千切らせるとはっ。泣く泣く、引き千切らせるとはっ。引き千切ざるを得なかったんだ、許してくれ良子。そして野中、お前にはこの借りを何時か必ず返すんだからな、絶対だかんな! 覚えとけよ!?
「包装紙ごときに、何をそんなムキになって引き千切っているのやら」
「お前のせいだろうが!」
「私の、せい? あれはそう……小四の春、リコーダーを忘れたあんたは――」
「全ては僕の独断であり、野中様とは一切関係ありませんっ」
「よろしい」
手のひらでぐちゃぐちゃになった包装紙の成れの果てが、妙に重たく感じます。
「取っ払ったぞ。これで一先ず、暴露するのは控えてくれるんだよな? なっ!? 悪いことは言わない、もうこれ以上、罪を重ねるような真似はよせ! お願いします、マジで」
「次は箱を開けて、中にあるありがた〜いチョコを食え」
「なんでお前の前で食わないといけないんだ……。ここは流れ的に、良子と夜景の綺麗なレストランで、微笑を交し合いながら、ワインを片手に――」
「黙れ未成年。ぐだぐだうっさいんだよ。あんたMなの? ばらされたいの?」
「野中様様!」
箱を開ると、思った通りの可愛らしいハート型のチョコが、申し訳なさそうに一個だけ入っていた。ずっと眺めていられないのが、残念でならない。また来年に期待して、今回は仕方なく、素直に口の中に運んでおこう。
トロける〜美味い〜ヤバイ〜。おぉ神よ! 俺を存在させてくれてありがとう! この瞬間、俺は死んでも構わない。うひょっ!? 味覚を支配する強烈な甘酸っぱさ! 果物でも入れたのかな。にしても、少し入れすぎな感があるけど、良子のチョコなら無問題。うげっ!? 口に入れた瞬間、べちゃべちゃに潰れる食感! もう少し歯応えを味わいたかったけど、これはこれで儚い感じが出てて良い。素晴らしい、これこそ完璧なチョコレイトーだ!
たとえこのチョコが泥で出来ていようと、俺の評価は変わらない。チョコ最高、チョコを作った良子はもっともっと最高!
「お前のことだから、俺のハッピーエンドを苦虫でも噛んだような顔で祝福してくれると思ったのに、意外と嬉しそうだな」
「まあね、良かったじゃん。そういえば、リョウが紙袋と包装紙とかのゴミは返して欲しいって言ってた」
「そうか。残念といえば残念だけど、良子が言うなら仕方ない」
持っていた物一式を手渡した。その際に、野中の顔が一瞬微笑んだのが引っ掛かる。それを隠すようにして、ニッコリと笑って繕ったのもまた気になる。まさか、こいつ……やっぱり俺の恋が自分より先に成就して悔しいんだ! ふははははは、野中ざまあ! 笑いてぇ、けど、流石に野中に悪いしな。こいつも一応は乙女なのだから、ふはははは、この俺くらいは気を遣ってあげないとな!
「言っとくけど、そのチョコは義理チョコなんかじゃないからね」
「ぷふっ。あ、当たり前だろ、そんなの食べれば身に沁みて分かる」
「じゃあ、あんたは何チョコだと思う?」
「は?」
そんなこと俺の口から言わないと分からないの? 馬鹿なの? 真性の馬鹿だろお前! 駄目だ、もう笑いを堪え切れねぇ。
「義理じゃないんだから……ふは、ふはははははっ! 本命に決まってんだろ。なんだお前、俺の春が先に来たからって、嫉妬で頭が悪くなったのか? ドンマイドンマイ! お前にもいつか、良き理解者に巡り合える日が来るって。たぶんな。ふははははっ! ……は、ん?」
なんか、腹の調子が急に悪くなってきた……。つーか、痛いんですけど、お腹。ぐほっ、波だ。この腹の中を引いては返す不快と愉快のヒット&アウェー。まさか、ここに来てなんで急に……
「正解はゲリチョコでしたー。あははははー。下剤をふんだんに入れてあるのでしたー」
ゲリチョコ? What? 何それ。Why? 何故にゲリ?
「なんで、良子の、チョコに、ひゃう! 下剤が?」
野中の虫をいたぶって愉悦に浸る精神異常者のような微笑みは、間違いない、俺はこいつに謀られたんだっ。
「これがリョウの答えだ。これに懲りたら、今後一切のストーカー活動を停止しろ、この芋虫人間がっ」
最後の方は何を言われたのか良く分からん、どうせ罵声の類だろう。そんなことより、トイレ、トイレはどこだっ!? 股に両手を挟むことを余儀なくさせるほどの、壮絶な排泄感。尻は突き出すべきか、引っ込めるべきか、そんなことよりトイレはどこだっ!?
「トイレなら、あんたの後ろだ」
「ナイスアドバイス、野中!」
後ろを振り向くと、たしかにトイレはあった。体育館の裏には、掃除区域から公式に除外された伝説のトイレ――通称サビレがあると、今はもう卒業していない先輩から聞いたことがある。まさか、これがあの伝説の……。大きさは教室の半分くらいだろうか。足元にコケを生やしたコンクリートは、長年にわたる放置を物語っている。見ているだけでばい菌が飛んできそうだ。
あれをトイレと呼ぶかどうか、ちょっとした議論ができそうだが、汚物を吐き出せる場なら、俺はもうどこでもいい。早く決断しないと、トイレと呼べない場所でも、汚物を吐き出していいような気がしてくる。
だがこんな俺にも平凡男子キャラとしてのプライドが……。ふは、ふははははっひゃう! あれ、プライドってなんだっけ? 学校の敷地で汚物を撒き散らすのを防ぐことより大事なプライドって、この世にあったっけ? 良いじゃないかサビレ。ビバ、サビレ! 砂漠に出来た湖が濁っていたとして、それを汚いと言える人間なんているか? いや、いない。今のサビレこそ、俺にとってのオアシスなんだ!
進め、いざサビレ。今の俺の生存権は、サビレにあることと見つけたり!
「下衆が」
背後から、野中の吐き捨てるような声が、否、腹痛のあまり聞こえなかったことにしておこう。
4.
「思い出したら腹が立ってきた!」
野中だけは許せねぇ。俺を辱め、苦しめるだけならまだしも、俺と良子の仲を引き裂こうとするなんて。何がゲリチョコだ、んな答え出るわけないだろ! マジであのキチ女――ぐほっ!
「しかしこのゲリ、まるで止まる所を知らない……」
全身をきつく縛り上げられたかのような痺れと痛みに、開いてはいけない魔性の扉が開きそうになる。だが、この辛さがあってこそ、野中に対する復讐心も高まるというものだ。
「ふははははっ、後悔させてやる。後悔させてやるぞ。百倍返しだ、ふはは――」
「へ〜。この私にお返しを企んでいるんだ。それは楽しみ〜」
ドア越しから、語尾に「くくくっ」とでも付いてきそうな声が聞こえた。あれだ、幻聴だな。
「しっかし、噂通りの臭い所だな」
「その声はやっぱり、野中……さん?」
待て待て待てっ! ここ一応、男子便所ですよ! なんで野中が居るんだ? というか、何しに居るんだろうか。何故だろう、なんとなく想像できてしまう。やめろ、やめるんだ野中っ!
「今のあんたの惨状をリョウが知れば、もう目も当てられない酷い結末を迎えることになるんだろうな〜」
せめてその嬉々とした声色はどうにかしてください。人として、最低だとは思わないのですか? そうですか。ですよね〜。
さっきから口角のぴくぴくが止まない。顔の筋肉が疲れて痛くなってきたし。どうすればいいの、これ。ストレスのせいだよ、これ。とりあえず、ベリベリに剥がれたドアをぶん殴ってみるか。ストレス発散っ。痛っ! この野郎、俺の手が痛いじゃないか、この野郎、この野郎が! くそ、折角整えた髪も馬鹿みたいだ。ぐしゃぐしゃにしてやるっ! 痛い、頭皮痛い、髪の毛抜ける!
「さっきからドカドカうっさい! 私を不機嫌にしていいのか? リョウに今日のことを洗いざらい話すけど」
「先ずは俺と話し合おう。話せば分かる、何事も。あの、野中さんの目的はなんですか? というか、何時からいらっしゃっていたんですか、野中様。――ん、野中様?」
……おかしい、返事が返ってこない。もしかして、怒って出て行ったとか。行き先は良子のところか。いやいやちょっと待て、洒落になってなくね? ラブレターを貰っておいて、良子に嫌われるとか。プロ野球選手がチビッコ草野球チームに逆転満塁ホームランを打たれることくらい、あり得ないからっ!
「目的なんて決まってる」
良かった、野中の声だ。まだ見限らずに居てくれたんだ。野中、お前は懐の深い良い奴だ。
「リョウにまとわり付くあんたがウザいんだよ。リョウはゲリチョコでどうにか撃退できると考えたみたいだけど、それじゃ甘い。甘すぎる。ゲリチョコ程度で懲りるはずがない、そう踏んだ私の勘の勝利だ」
「お前は何と戦っているんだ!?」
「もちろん、世の中の悪と」
なら、真っ先に自身の首を絞めるなり頭蓋骨をハンマーで叩き割るなりした方がいい。そうすることで、お前は初めて正義の一員になれるんだ。誰もがお前の正義を否定しても、俺はお前の正義を信じる。俺の信じるお前を信じろ! だから今すぐここで死んでくれっ!
「トイレットペーパー」
「ん?」
なんだトイレットペーパーって。何かの呪文か? 呟けばトイレットペーパーが降ってくるとか。いや、それはもう全力で実行済みだ。ならどういう意味だ。まさかまさか、「トイレットペーパーがなくてあたふたしているあんたの現状を、私は全て知っている。これがどういう意味か、お分かり?」という意味深な言葉だったりしないよな?
「実は今私、持っているんだよね。何故か」
「そ、そうなんですか。トイレットペーパーを、ですか? 本当に、何故お持ちになられていらっしゃることやら、てんで見当もつきません」
「声が上擦っているようだけど」
「気のせいでございます」
嫌な予感が的中したっ。ばれてる、完全に見透かされてる。落ち着け、こんなときは手をコネコネするんだ。そうすると落ち着くって、どっかのスポ根野球漫画に書いてあった。
ここからの選択肢は、俺の平凡な高校生ライフを左右する重大なものとなるはずだ。どんな罵詈雑言を浴びても、キレることだけはあってはならない。
「ときに野中様。その何故かお持ちになられているトイレットペーパーを、哀れな子羊めに恵んでは頂けませんでしょうか?」
「七百七十七だ」
「はい?」
「七百七十七万で売ってやる。早くしな、三分間だけ待ってやる」
「代わりの物では駄目ですか?」
「ガリガリ君の当たり棒を今ここで何本捧げられるかによっては、こちらの交渉の窓口も変ってくる」
ぷっちんプリン。とても良い響きの文字列だ。はて、なんでこんな不可思議な文字列が脳裏に浮かんだのだろう。
「野中」
「なに?」
「分かる? 俺今サビレなう! んな大金、三分で出せるかボケェ! 代わりのもん出してやろうか? あぁ!? ケツの穴から出るものでよければ、出血大サービスでご提供してやろうか? つーか、なんだよその適当な価格設定は! どこぞの家の値段じゃあるまいしっ」
「キリが良いでしょ」
「胃がキリキリと良い具合に痛むよ……。こんなときこそ、助けにきやがれアソパソマソ!」
今のやり取りで気力が底を突いた。もう駄目だ、もう終わりだ。ああ死にたい……。野中はほぼ確実に、今日のことを良子に報告するつもりだよ。茶菓子でも齧りながら、和気藹々と、楽しげに、話すつもりだよ。心の底から嬉しそうに話す野中の顔が浮かんでくる。口元を手で軽く隠して恥ずかしそうに聞き入る良子の顔も。そして、全てを知った良子は、おもむろにこう呟くんだ。
「キモっ」
俺の妄想する良子の台詞すら、お前には筒抜けなのか!?
「もう嫌だ、こんな救いのない世界……。何もしたくない、何も考えたくない。このまま寝て、気付いたら死んでて、そしたら幸せなのに。そしたら幽霊になって、色々あって神様にまで昇格してさ。サビレの神に、俺はなる! みたいな。いや、俺はなった! みたいな? もうさ、そんなことしか頭にない俺は、やっぱり死んだほうが良いと思うんだよ」
俺はヒマワリ、枯れてしまってげんなりするヒマワリ。ときたま垂れた頭が持ち上がるときあらば、それはヒマワリが風に揺れるように、ゲリが俺の腸を刺激したときだろう。この不快な感覚、少し慣れてきた。つーか、不快を通り越して愉快になってきた。長らく出しっ放しの尻の汚れが、乾燥してきて、良い気持ち。
「あはっ!? あはははは、あははははははっ! 死にてぇよぉ……」
「もういいじゃない、ゲリした尻を拭かないくらいが何よっ!」
「俺を勇気付ける振りをして、心の底では腹を抱えて笑ってんだろ!?」
「なんだよ、ばれてんのかよ」というあっけらかんとした空耳が、タイミング悪く聞こえた気がした。
「そいやあんた、トイレットペーパーの代わりになる物は、何か持ってないのか?」
「それだっ!」
野中、またしてもグッジョブ! どうして今まで気付かなかったのか。佐伯 徹十七歳、お前は馬鹿かっ!? こんな真っ先に思いつきそうなことを、言われるまで気付かないなんて!
先ずは上着だ。右ポケット、異常なし。左ポケット、異常なし。希望が遠のくのを感じる。次はズボンだ。たしかこっちの右ポケットには……あった!
「財布があったぞ。へへ、様を見ろ野中。このクソ野中! へい野中ちゃ〜ん! この中に札が一枚くらい入って――」
あった!
「ヒャッハー! さて、これで俺は救われ、晴れて自由の身。シャバの空気が待ち遠し――いっ?」
なんだこれは、なんだこれは、なんだこれはっ! なんでよりにもよって、俺の財布には諭吉先生しかご在宅でないんだ? 他の奴らはどこへ行った。家出か、非行なのか? 樋口も野口もいい年こいて、家出とか、お母さんと俺が泣くぞ!
何度財布を確かめても、使えそうなモノは諭吉先生だけだ。今月残り二週間の生活を快適にしてくれる、俺の命短しパートナー。品行方正な彼を、尻のゴミにしていいのだろうか。
「あのー、野中様。先ほどは大変失礼な言葉の数々、誠に申し訳ございませんでした。さて、気持ちよく仲直りができたところで、一つご相談があるのですが」
「私、野口を二枚しか持ってないけど、それでもいい?」
野口が二枚、だと!? それと諭吉先生とでは、いくらなんでも釣り合わない。かといって、ここで諭吉先生を生贄に捧げてしまうより、手元に一枚の野口が残ったほうが出費は少ないっ!
「というか、どうして俺が相談する前に頼みごとが分かったんだ?」
「女の勘がね、そう告げたのよ」
絶対嘘だ!
財布の中身までサーチ済みだったとは、もう何を企んでも勝てる気がしない。チョコの箱の包装紙が手元にあれば、ここで使うのだけど、既に野中に没収されている。すべて計算し尽くされていたんだ。哀れだ、哀れすぎる、俺。野中という果てしなく強大かつ凶悪な生物の餌食に、哀れにも選ばれた一匹の蝶。いや、蝶というのも憚られる、俺は一匹の汚らしい蛾だ。
ふと天井を見上げると、黄ばんだ蛍光灯に二匹の蛾が舞を踊っていた。一匹増えたな、と思いながらも、その理由を頭の片隅で探る。ああそうか。なんだかんだあって、外も暗くなってきているんだな。存在感を増した蛍光灯の光に、馬鹿正直に二匹目も誘われてきたんだろう。
過度の期待はもう抱かない、仏になったつもりで、最後のポケットを確認しよう。
ん? 何かが触れた……。制服の生地とは違う、もっと薄っぺらい。
――これは紙だっ!
「ふは、ふははははははっ……は?」
たしかに紙だったけど、これは、駄目だろ。いくら必要に迫られているからって、人としてやって良いことと悪いことの分別はなくしたくない。
「どうかした?」
「ら、ラブレターのようなものがポケットから出てきた」
「あら素敵、誰からのラブレターのようなものなのかしら」
悦に浸るぞっとした声で「素敵」とか言わないでくれ。全然素敵じゃないから! ケツの汚れに良子への一途な想いが試されるという、謎の大ピンチだからっ!
「それが、良子のラブレターなんですよ」
「あら素敵」
白々しい、白々しいぜ野中さんよ! ぐおおおおぉぉぉぉーーー!!
大好きな良子からの手紙。たとえその内容の一割二割、いや九割がお世辞で構成されていようとも、残りの一割くらいは本心であるはずだ。どんな理由であれ、書き手が相手を思いながら綴ったことに違いはない。そうでなければ、ラブレターは書けない!
駄目だ、これだけは尻のゴミにしては駄目なんだ。良子が手書きで書いてくれたラブレターなんだぞ、穢していいはずがない! ならどうする、やはり諭吉先生に大人しく水に流れてもらうのか? 馬鹿なっ! そんな粗末なことをしてみろ、きっと後悔するぞ。絶対に後悔するぞ! 一万円だよ、捨てられるわけなくね?
「野中、頼む。冥土の土産に教えてくれ。俺はどうすればいい」
「決まってんじゃん。そのラブレターで汚い尻を拭け。そうすれば、あんたは背徳感に苛まれ、もう二度とリョウを好きでいられなくなる。ストーカーもなくなり、万事解決だ」
「それが狙いだったのか……」
「あんたは単純だからね、少し甘い汁を嗅ぐわせれば、喜んで飛んでくるのは目に見えていた。嘘とも知らずラブレターで体育館裏に来るのも、その後サビレに向かうのも、トイレットペーパーが無いのも、全ては計画通りっ」
ドアの向こうで悪党面してニヤリと笑う野中の顔が、鮮明に浮かんでくる。
俺の心理の変化から行動パターンまで、全てが把握されている。そのクライマックスでは、ラブレターで尻を拭く俺の残念な光景すらも、見えているのか?
『あなたのことが好きで好きで、考えると夜も眠れません』とか書かれているこの手紙は、嘘だったのか。『毎朝、あなたからクラスの誰よりも早く挨拶を交わしてもらえる度に、今日も一日頑張ろうという気力が湧いてきます』というのも嘘なのか。嘘嘘嘘、全部嘘……。でも、どうしよう、捨てたくない。良子からの手紙……。嘘でも、好きで始まり大好きで締めくくられた手紙。急いで書いたのか、良子にしては字が汚い、なんか泣ける。せめて、もう少し丁寧に書いて欲しかった。
心の深いところで、何かが燃え尽きるのを感じる。もういいだろ、俺はよく頑張った。
「決心は着いた?」
「わ、わがった。もう、良子のごとは……良子のごとは……」
「ちょっと、高校生にもなって泣かないでよ。そういうの勘弁なんだけど」
泣く? 俺が? どうにも視界が滲んできて、折角の手紙が読めないや。胸の奥がめちゃくちゃ苦しい。これが失恋なのか? 嘘のラブレターでも嬉しかった。下剤の入ったチョコでも美味しく食べれたんだ。でも、それは幻だったと気が付いた。もう終わりにしよう、終わりにしないといけない。自分のためにも、良子のためにも。
「こ、これだけは、分かってぐれ。俺は、良子に、迷惑をかけるつもりなんて……本の、少しも……」
「なかったんでしょ? 分かってる、あんたの考えていることくらい。一応、リョウにはフォローしてあげるから、とりあえず泣くな。鬱陶しい」
「フォロー? お前が?」
悪魔のような女の、お前がか? そう付け加えようとしたけど、言えなかった。今回、野中が居なければ、俺は良子に迷惑をかけ続けるところだった。それを野中は自ら悪役になって、俺の良子への行き過ぎた想いを正してくれたんだ。
「俺、お前のこと誤解してたかもしれない」
「どうせ、悪魔のような女、とでも思っていたんでしょ。別にいいよ、間違ってないし」
何時もと変わらない冷めた口調。でも、俺には分かる。お前が俺を気遣ってくれていることが。ちくしょう、今までの悪態が無性に申し訳なく思えてきた。
「お前にも、迷惑かけたな……」
「うっ、うるさい変態がっ!」
野中が早口で怒鳴るなんて珍しいこともあるもんだ。
「照れるなよ」
「……死ね」
茶化すつもりで言ったんだけどな。気を悪くしたのか、本気で照れていてるのか、どっちにしろ野中からの応答はそれ以降なくなった。
この隙に、ちゃちゃっと尻を拭いてしまおうか。未練が全くないといえば、嘘になるけど、ここまできて駄々を捏ねるほど俺は幼稚じゃない。今だけは「これは単なる紙、価値のない紙なんだ」と思い込んでも、罰は当たらないだろう。
これはまた、トイレットペーパーにはないザラザラとした感触が気持ち悪い。とはいえ、気分は清々しいものだ。
長居した便座を立って、水洗バーを上げて水を流す。渦の中に紙と汚物が吸い込まれていくのを見送れば、もうここに閉じこもっている理由もないわけで。
「終わったみたいね」
ベリベリのドアを開けると、照れくさそうにしている野中がいる、なんとも不思議な流れだ。俺はどうしてこんな可愛い奴を、悪魔のような女だと思ってしまったのか。
5.
「諦めはついたんでしょうね」
「お蔭様で、目が覚めた。待たせて悪かったな」
サビレを出て、新鮮な空気を肺に取り込む。ああ、俺ってば生きてる。色々あったけど、大地に立って呼吸してる。夜の空気は冷たいけど、俺にはむしろちょうどいい。
「野中、お前はそんなに太ももを出していて、寒くはならないのか? 俺の制服、良かったら貸そうか?」
「サビレ臭のする制服なんて、まっぴらごめんだ」
「それもそうか。そういうお前の制服にも、立派にサビレ臭が――」
脱臭スプレーを使いやがった! どっから取り出した? なんて羨ましい物を持ち歩いているんだ! そんな子はアレだぞ!
「俺にも貸してください!」
「近づいて来るな、あんたはただでさえ臭いんだからっ」
まるでゴキブリに毒を撒くような扱いで、俺に脱臭スプレーを撒き散らかさないでください。できれば、自分に撒かせてください。
「ったく。あんたのせいでもう夜になってんじゃない。寒いし、早く帰ろっと」
「もう帰るのか?」
「学校に残ってもやることないしね」
ずいぶんとまあ、平然と言ってくれるな。お前はこれで全て終わったと思っているようだけど、俺はまだ終わらせるつもりはない。
「お前に話しておきたいことがあるんだ」
突然腕を掴まれてビックリしたのは分かるけど、キョロキョロと辺りを見渡している姿は、まるで小動物のリスだな。
「へ、変なことしたら顔面を踏んづけるっ!」
「変なこと?」
なんだそりゃ? 俺がここでお前のパンツでも覗けば、変なことなのか? んな破廉恥なことするもんか。俺はもっと大事なことを、お前に伝えたいだけだ。
「お金、をさ」
「――おかね、おさ?」
「そうお金、マネーとも言うが。日本銀行が発行したものならどっちでもいい、貸していただけません? 野口を二枚。いや、一枚でもいいんだ」
こうなれば、背に腹はかえられない。くらえっ、奥義、九十度お辞儀!
野中からの反応はない、ただのお辞儀損のようだ。なんだこの間は……。この奥義に唯一欠点があるとすれば、頭を下げているために相手の状況が把握できないことだろう。
「顔を上げな」
「はい、野中様。佐伯 徹、顔を上げさせていただきます!」
欠点回避! と思ったら、なんでそんなに怒ってるの? 俺のお辞儀角度は、たしかに九十度だったはず。何が悪かったんだ……
「ふざけんなっ!」
「やり直します、ごめんなさいっ!」
「このド変態がっ。エロ本代くらい自分でどうにかしろよ。あんたなら妄想で頑張れる、と私は信じてる。だから寄るな、汚らわしい」
「いや、野中? お前は何の話をしているんだ? 妄想で飯は食えないだろ」
「あんたには安心の一万円札があるだろ。飯食うだけなら一万円でこと足りる。ゴキブリのようなあんたなら、尚更だ」
たしかに一万円あれば、ゴキブリのような俺は今月を優に乗り切れる。だがそれは、あくまでも仮定の話だ。むろん、俺がゴキブリかどうかの仮定ではなく、俺が一万円を持っていればという話だ。
「正直に話すから、聞いてくれ」
踵を返して去ろうとする野中のポニーテイルを、ぐっと掴む。若干の悪意を込めて。意外と触り心地が良い……。あまり悪意が伝わりすぎても返り討ちにされるから、すぐに放して怒らせ過ぎないよう、注意を払うのがコツだ。キャッチ&リリースの精神だ、なんか違う?
「痛いな! 私のポニテに触るなよっ! 悪いけど、もうあんたと話すことなんて――」
「聞いてくれ野中っ!」
「なによ、その真剣な表情は。そ、そんなに大事なことなの? 今ここで話さないといけないようなことなのか?」
「俺、実はさ」
「なによ。言いたいことがあるのなら、ハッキリ言えばいいじゃない!」
何をそんなに大声出して取り乱しているのか知らないが、言っていいというのなら、言わせて貰おう。
「ラブレターをだな、まだ持っているんだ」
「は?」
うん、予想通りの反応だ。
「なに、そっち方面の話しなの? ――そう、分かった。で、あんたはゲリした尻をまだ拭いていないんだね」
「ちがう、拭いたよ! 一万円を使ったんだ。諭吉先生の最後は潔かったぞ! 男らしく、顔色一つ変えずにだな、まるで運命を受け入れている戦士のように、静かに流れて行った。それで、そっち方面って、どっち方面? ってか、そもそも何の話?」
「うるさいうるさいうるさいっ! あんた馬鹿!? どうしてラブレターじゃなくて、一万円なの!? あんたがリョウからのラブレターをトイレットペーパーの代わりにしなきゃ、リョウも私も納得しない、完結しないっていうのに……。ほんと馬鹿だ。まだリョウのこと諦めてないって言うんだな? よし分かった、私も女だ、何かあるとすぐに警察を頼らせてもらう。三分間だけ待っていな、詳しい事情は刑務所内で聞いたげるっ」
冗談にしては、本気で携帯電話に番号を入力している。また手が込んでいるな。お前はたまに、冗談を本気で実行しちまう天然なところがある。俺は幼馴染として、それがとても心配だ。ああ、心配だ。心配すぎるっ!
「違う違う、通話ボタンは押さないで! 先ずは話し合おう! こんな些細なことで警察の方々を呼んだら、迷惑千万って怒られること請け合いで御座います」
「何が違うんだよ、生粋のストーカーがっ」
「良子のことは諦めた、これは本当だ。マジで、サビレに誓って本当だ!」
たとえじっくりと睨るような目で威圧されても、俺の気持ちは変わらないっ。
「……嘘はついてない」
「本当に分かってくれた! 嬉しいよ、野中。いや、野中様!」
「じゃあなんでラブレターじゃなく、一万円を使ったんだよ。それってつまり、一万円よりも良子から貰ったラブレターの方が大切だってことじゃないか」
私間違ったこと言ってる? と言わんばかりに、歩み寄って来るなっ! お前のそういった態度は、たまに本気で怖いから……
「ギリギリになって気が付いた。あのラブレターは良子の書いたモノじゃないんじゃないかって。良子の字体は知っていたから言うが、良子があんなガキみたく汚い字を書くとは到底思えない。いや、あの真面目な良子の性格じゃ、書こうとしても書けないと思ったんだ」
「ガキみたいな汚い字で悪かったな!」
「語るに落ちたな。やっぱり、お前が書いたラブレターだったか」
「しまっ! だったら何よ……」
暗がりからでも、こいつが顔を赤くしていくのがわかる。笑える。俺はもしかして、生まれて初めて野中を出し抜けたのかもしれない。これまで散々騙され、その度に弱みを握られてきた俺が、報いた一矢。一万円を捧げてまでして得た、貴重な手紙。この野中が認めた恥ずかしいラブレターを翳せば、野中はたまらず俺の命令に従うようになるはずだ。「お願いします徹様、何卒、何卒その秘密は他言無用でお願いします。私に出来ることならば、なんなりとお申し付けください。馬車馬のように働かせて頂きます」とか言ったりしてな。存分に楽しませてもらうぞ! ふはははははっ!
「俺は良子のことは諦めたし、これで手紙を捨てなかったのも筋が通るだろ? で、お金貸してくれませんか。いや、金貸せや、野中ゴラァ!」
体格差を活かして、上から睨みつけてやったのに、まるで動じないとはどういうことだ。俺がお前だったら、財布から有り金出したうえに土下座までするぞ!?
「筋? 筋なんて通ってない! どうして手紙を捨てなかったのか、ちゃんとした説明をなせ」
「そんなの決まってんだろ」
「決まってるって?」
「諭吉先生よりも、お前の書いたラブレターの方が、何千倍も価値がある。それを捨てずに持っていて、何か変なことでもあるか?」
「まさか、なんでよ……。私があんたに認めた、その、ら、ラブレター、なのに?」
手をもじもじし始めた、こんな野中は見たことがない。心なしか、体が一回り小さく見える。リスみたいに首を忙しく動かしやがって、ジッとしやがれ! なんだこの守ってくださいオーラは。俺はお前の親じゃないぞ!
「お前が俺宛に書いたラブレターだからこそ、持っていることに価値があるんだろ」
言っててこの台詞、なんか恥ずかしくね? 俺、変なこと言ってないよな?
「つまり、ななな、何が言いたいのよ」
「なんだ、本気で分からないのか。頼むから理解してくれ」
「うるひゃーい!」
――野中が噛んだ?
「噛んでない死ね変態!」
――心の声に突っ込まれた!?
弱みを握って脅してやろうと思っていたのに、予想外な展開に面白くなってきたな……
「悪い、なんの話だっけ?」
「あんたがラブレターを持っている明確な理由についてだ。私のだと分かっていながら、ど、どどどうして持っているんだよ。それも一万円以上も価値があるって、何よ……。私はね、その手紙を書くとき、たしかに考えたよ、あんたのこと。まあ、どう書けば喜ぶかーとか、この行を読んでいるときはこんな気持ちだろうなーとか、なんとなく分かっちゃったから、意外とスラスラ。ってそうじゃなくて、あんたの説明が聴きたいの! どうして私が書いたラブレターを、大切に、するのよ……」
もしかしてこいつ、デレてる? いやいや無いわ。急に息苦しくなってきた。どうしたんだ野中、お前はそういうキャラじゃないだろ!? 目を覚ませ、こっちまで気が変になりそうだ。いつものお前は、不貞腐れている侍みたくに顔をきっと吊り上げ、俺の悲しみを喜びとするような外道じゃないか!
「お前の恥ずかしいラブレターを持っていれば、お前を脅すことができる。だから捨てなかった。長い目で見れば、一万円以上の仕事をするのは明白だ。これでお前に扱き使われる心配もなくなるってもんだ。分かったら金を出せ! さもなくば、この恥ずかしいラブレターをクラスの奴らにばら撒くぞ! 俺に平伏せっ。ふは、ふはははははははっ。あはははは、あはは……はは?」
「本当にそっち? そっちでいいの?」
「ん? そっちって、どっちだ? それ以外に何かある? 馬鹿野中、クソ野中、黙って俺の言うことを聞けっ! 金を出せ、金をっ」
「ふ、ふふふふふふふふふふふっ。私の思い違い? そう、なるほどね。……やってくれるじゃない」
リス訂正のお知らせ。野中さんはリスなどではなく、この世にあるモノの特に開いてはいけない扉を開いてしまった精神異常者に見えます。侍というより落ち武者に近い。周りが暗いからそう見えるのかもしれないな。うん、きっとそう。
「野中さん? この世の者とは思えない顔をしてますけど、正気でしょうか?」
「土下座だ」
「Why? なぜに」
「欲しいんだろ? こ、れ、がっ」
それは野口兄弟じゃないか! 二人揃って俺の財布に来てくれるのか?
「欲しいでございます! 貸してくれるのか?」
小躍りしたくなるくらい嬉しいよ。でもね、下から顎を持ち上げられて、これでは踊るに踊れない。というか、野中さん顔が近いです。それと目がマジで怖いんだけど。目ってそんなに見開いて大丈夫なものなんですか? 充血してますよ。せめて俺のためだと思って、瞬きくらいしてください。ほら、そんなにしてるから、目が慌てて涙を作ってますよ。
「土下座だ。貸すなんてことせず、くれてやる」
「土下座をすれば野口兄弟をこちら側に引き渡すという保証は?」
「早くしろ、一分間だけ待ってやる」
「短っ! く、くそ! 人の弱みに付け込みやがって。いいか良く聞いとけ、このどS女! 俺は屈するわけじゃない! ただちょっと、お金が欲しいだけなんだからな。いいか、勘違いすんなよ、俺はお前の弱みも握っているんだからな! あんまり下手なことばっかするとアレだぞ? アレなんだぞっ!?」
牽制しつつ土下座を完成させてしまった。流石に情けない。
ぐっ! 頭に重い何かが。――この敗北感から察するに、野中の奴、俺の頭を革靴で踏みつけてやがったな。ぬお、更に踏み付けが強まった!
「痛い、マジで痛いから! 顎が、顎がアレだ、顎の骨がメリメリ言ってからっ!」
「死ね、死ねこのクズ! 人間のカス、カス人間が! 痛みを語ることすら許されないような下衆がっ。私の初めて作ったチョコ、下剤入りとはいえ、あんたに食わせたことが一生の汚点よ!」
「汚点で真っ黒になっても、いいじゃないか、人間だもの。by佐伯 徹。ってか、いい加減、本当に顎の骨が砕けそうなんだけど。あまりズに乗るな、この悪魔女っ!」
おっ、頭が軽くなった。ようやく俺の怖さを理解したか。
野口兄弟が落ちてくる! まずい、風に飛ばされる前に、地面に這いつくばってでも救助せねば! 一枚でも逃せば死活問題だっ。
「か、勘違いすんじゃないわよ! ラブレターは私の本心で書いたわけじゃ、ないんだからねっ!?」
「はいはい、分かってる分かってる」
つーか、本心であってたまるか! ボケェ! そんなことより、野口兄弟GETだぜっ!
金の弱みがなくなったところで、そろそろ俺も一度くらいは攻撃に転じたい。先ずは挨拶程度に、地面に這い蹲った低姿勢を活用して、足元から睨み上げてやるか。震え上がれ野中! こ、こここの脳天を揺さぶる光景は! 女の子の初生白パンツ!? クソ、野中の奴、これを見越して白パンツを履いていたとは……抜け目のない奴! とりあえず、眼福眼福――
「ななな、何見てんだ!? 地獄に落ちろ、この変態がっ!」
第二話:(未定)
1.
ここから退屈な一日は始まるんだよな、と心で悪態をつき、下駄箱の蓋を開けるまでは、本当に退屈だった。
しかし、これはなんだろう? 封筒、いや手紙か? 下駄箱に置手紙ってことは、ラブレターだろうか? ラブレターというと、自然と三ヶ月前の苦い失恋を思い出してしまうのだけど。あれはそう、大好きだった結城 良子にラブレターで呼び出され、想像を絶する裏切りで見事に振られてしまった。出来ることなら、トイレがレバー一つで汚物を洗い流すように、あの時の記憶も綺麗さっぱり洗い流したい。
「今時の高校生が手紙って、古くないか。いったい誰からだよ。名前、名前はっと……」
名前なし、名無しか。封筒の裏に差出人の名前くらい載せておけよな。
封を開けるとあら不思議、清潔感のある白くて無地の封筒には似つかわしくない、大学ノートの端を千切ったような紙が。俺に対する礼儀を知らないのか。
「なになに……。佐伯 徹(さえき とおる)へ、貴様のポエムは預かった。預かった!? おいおい、冒頭から爆弾発言かよ。馬鹿言っちゃいけねぇって。どこでポエムノートの情報を得たかは知らないけどな、そんなことあるはずがっ」
バッグの小さな隙間に手を突っ込みーの、指先がバッグの生地を滑るーの、あるべきポエムノートが、あは、あははははははっ。
――ないーのっ! え、マジで? 嘘だ、冗談だよな?
「全校生徒に晒されたくなければ、今日の五時に女子テニス部の更衣室に来い」
だと!? なんて破廉恥な! 女子テニス部というと、野中の奴がそうだったな。部活終了が五時ちょいらしいから、五時となると、ちょうど女の子たちがユニフォームから制服に着替えている時間帯じゃなかろうか。うむ、良かろう。その挑戦、カメラ持参で受けて立つ!
カメラは冗談として、ポエムノートは取り返す。全校生徒のためにも、取り返さなければならない。特に、中二の頃に綴ったポエムは、精神の弱い者から順に鳥肌を立たせていく程度の力がある。少なくても、俺は最初の一行で鳥肌が立つ。もしかして俺の精神ってめちゃ脆い?
良い匂い漂ってくる。男心を刺激する甘い香水の香り、いやこれはシャンプーとリンスの香りだろうか。
「険しい顔をして、どうかしたの?」
良子さん、何時の間に俺の隣に居らしたのですか!? よければ私めに、ご使用になられている香水またはシャンプーとリンスの商品名をご教授ください。そうすれば、今すぐにでもポエムノートのことなんぞ忘れてみせましょう。
「佐伯君?」
「いや、違うってこれは。また前みたくストーカーしようとか、企んでるわけじゃないんだよ? ただちょっと、あなた様の愛用になられている香水やらシャンプーやらリンスの商品名が知りたいなーって、いやいやそうじゃないんだよ? 勘違いされると困るんだけど」
勘違いなんてしないよと、白い歯を見せて笑う良子は、やっぱり可愛い……
「あの日から佐伯君、変わったよね。なんというか、私とも普通の距離感で接してくれるようなったと思う。お陰で、前みたく避けなくても平気になった。あの時は、私もごめんね。結構、切羽詰ってしまっていて」
眉をひそめて立体的な唇を軽く引き締めるその表情、駄目だよ、俺にそんな顔を見せたら危険なんだって! 誘ってんのか? この俺を誘っちゃってんのか?
「先に行くね。今日も一日よろしくねっ」
「あ、うん! よろしく……」
これだけ愛想を振りまいておいて、途端に踵を返して去って行くなんて、生殺しとはまさにこのことだ。まだ俺のこと根に持っているのかな。でも、根に持っていたら「今日も一日よろしくね」とは言えないよな。ふふふ、ふはははははっ! はぁ。一度振られた身としては、もう脈はないと分かっていながら萌えてしまう脳内環境が不憫でならない……。
にしても、良子の後ろ姿はまた映えるな。あの長い髪に触れてみたいと思う男子は、俺だけじゃないはずだ。明るいし、こんな俺にも優しく接してくれるし、そしてなにより器量の良さが魅力的だ。
良子にはこれ以上俺のことで失望させたくない。たとえ俺の恋心が悲鳴をあげようと、ぐっと堪えて日常を演じてみせる。ポエムノートの一件もそうだ、良子にこれ以上変人だと思われて失望させたくない。
なんか、犯人に対して怒りを覚えてきたな。俺を辱めるだけなら未だしも、どうして全校生徒に、ひいては良子に俺の黒歴史を晒す必要がある? 俺が憎いなら、俺だけを対象しろっ!
2.
一時間目の授業で現代国語の先生は仰った。
「言葉や文字は触れないが、心で感じ取ることはできる。その際に、注意しなければならないことがある」
教科書を片手に教室を歩き回り、丸鼻に掛けた銀縁の眼鏡を余った手で押し上げて。
「僕がここに居ることに経緯があるように、どんなに短い言葉や文字にもそうなった経緯がある。経緯は過去を知れば分かります」
ではこの問の二に対する解答を教えてください、と手近な女子生徒の肩を叩いた。そこまでは良い流れだった。よりにもよってその女子生徒が野中とは、先生には同情する。
「触らないでください。聞くなら他の人に聞いて」
「酷いな……。じゃー、結城 良子さんは分かりますか?」
野中の後ろの席に座る良子に、妙な視線と期待が集まった。俺も負けじと妙な視線を送る!
「答えはaの『精神的に向上心がないものは馬鹿だ』だと思います」
後ろから眺めていたから顔は見えなかったけど、堂に入った涼しげな声から察するに、きっと眉一つ動かさずに答えたことだろう。良子なら、家の玄関に見知らぬ赤ん坊が泣いていたとしても、慌てることなく平然と先ずは抱き上げてあやすに違いない。なんという淑やかさと包容力。うん、さすが良子!
「正解です」
先生も満足したところで、計らったみたくに授業終了を告げるチャイムが鳴った。
先生には悪いけど、授業の内容はまるで頭に入って来なかったな。あの手紙は誰がどんな目的で書いたのか。そして、現国の教科書を忘れたのに咎められなくて助かったー。ではなくそう、あの手紙の意味はなんだ? 丸秘ポエムノートの存在を知っていた人物となると、犯人は限定される。やっぱり怪しいのはあいつだ。でも、怪しいやつにはなんて訊けばいい? あいつが犯人だとして、「この中に心配性な犯人がいる!」「どうして私だと分かった!?」「犯人はお前だーーー!」「やられた〜」とは成りえない、無理無理っ。相手が相手なだけに、尚のこと有り得ない図だ。
「おい、ゴミ虫。虫のくせに私を無視すんな。首をへし折られたいのか?」
「人が気持ちよく机とフォーリンラブよろしく抱きついて寝ている所を、耳元で恐怖ばら撒いて起すなっ」
野中てめえ、やっぱりこいつが犯人だ。幼馴染の野中なら、俺のポエムノートとその収納場所くらい知り得て当然。こいつに違いない。こいつが犯人で決定なら、俺の寿命は三年分くらい延びる。よって、犯人はやっぱりこいつ。
「ユキが言ってたけど、あんたうっとりした顔でリョウの後姿を観てたんだってな。いい加減やめろ、気持ち悪い。主に人生を辞めてしまえ」
ユキは宝田 雪美(たからだ せつみ)のことだろうか。名前に『雪』がつくからユキ、本当は『せつ』と読むのに、何度聞いても分かりづらいニックネームだ。
「ああ、観てたさ。清く正しく美しいクラスメイトを眼福にあずかって、何が悪い!」
「その台詞、リョウにも伝えとく。あんたがまだ自分を好きだって分かったら、またストーカーされるんじゃないかって、怯えちゃうんだろうなー。酷いやつ、許せないなあんた。いっそ死ねばいいのに」
「後で土下座でもなんでもするので、今回だけは見逃してください!」
「次はないと思えよな」
腕を組んで人を見下げるその姿、今をときめく女子高生の格好としてどうよ。構えたりせず、頬を膨らませるくらいがお前にはちょうど良いのに、勿体無い。小さい体の天辺からひょっこりと生えたポニーテイルは似合っているけど、そんなに顔をしかめていると、侍が「どうして私がガキの子守をせにゃならんのだ!」と不貞腐れているみたいに見えてくるぞ。折角の女の子が台無しだ。野中の前世は、さぞかし名のある武将に違いないな。
「そういえばあんた、今朝の下駄箱で、何か読んでたでしょ。あれ、何?」
まさか犯人から事件に関することを訊いてくるとは! まだ誰にも話していない情報を知っているのは犯人の証、このお間抜けさんめっ! これで一層、野中が犯人らしくなってきた。
どれ、ちょっくらカマを掛けてみるか。
「お前が入れたのか、あのラブレター」
ラブラブレター!? と野中は悲鳴めいた声を上げて、後ろの机までよろけた。これが演技なら、偉くわざとらしい。しかし、野中にしては臭い芝居だ。逆に、本気で動揺したようにも思えるのだから困る。
野中はぶつかった机の主に平謝りし、喝のような咳払いをしつつ体勢を整えた。野中の生まれたての子を泣く泣く手放す親のような表情は、どうにもらしくない。
「ラブラブれたーとはまた気が早い。そんなに驚くほど衝撃的だったか?」
「馬鹿野郎がっ。変態のあんたが、ラブレター? 白昼夢を見た罪で切腹しろ。介錯は私がやったげる。夢の世界で死ねば、現実に戻れるはずだ」
「このまま夢の住人であり続けたい!」
「なんだよ。ちょっとモテ始めたからって、図に乗んなっ。あんたの行く末は私が握っているんだからな」
たとえばそう、と窓から遠くの景色に視線を移した野中の頬を、俺は咄嗟に引っ張った。引っ張る、引っ張る! この場で俺の恥ずかしい過去を語らせてなるものか! たとえばそう、俺は小一のとき、学校の全校集会でお漏らしをした。小四の秋、友人から駄菓子と言われて手渡された小さな火薬を食べ、救急車に搬送された。あうあう、恥ずかしい。
「痛いら(だ)ろうは(が)っ、乙女の頬に手垢付けんじゃない!」
さすが現役テニス部、ナイス腰の捻りっぷり! 思うが早いか、野中の肘鉄が即頭部に飛んできました。今朝食べた秋刀魚の死んだ目が浮かんでくるよ。
秋刀魚さん、俺も今逝くよ〜、あはははははっ。
もう一発、今度は逆の即頭部から固い何かがぶつかりました。おそらく、野中の肘鉄とかそんなところだ。
「やってみると、介錯も悪くない」
あれれ野中様? 介錯ってたしか、この場合は俺が刀を腹に突き刺すと同時に、その首を斬って死を助けてやる人のことじゃなかったっけ? あはははははっ!
「次は鼻をへし折ったげる」
「俺を改造人間にするつもりかっ!? 俺、まだ切腹してないから! 介錯される前に、俺の考えるところの介錯の解釈を訊いてくれ! 後生だからっ」
「聞くまでもなく知ってる」
振り上げた拳を名残惜しそうにポケットに収めて頂き、ありがとうございます。あの腕はまるで、歯切れの悪い日本刀だ、人を嬲るためにある。野中 藍、恐ろしい子!
「痛てて。まあアレだ。マジごめん、ラブレターってのは嘘だ」
「へっ? ――あ、分かってるし。あんたのつく嘘なんて、大概見破れるし」
「どうして早口になってんだよ。少なくても今回は、見抜けていなかっただろうが」
見抜けない振りをした、と小さい胸を心なしか張って威張られてもな、説得力をまるで感じない。本当に小さい胸だ、もっと大きければ説得力も増しただろうに。
「んで、ラブレターじゃないなら何なのよ、ったく」
「ああ、紙切れだった、それも脅し文句の詰まったな」
「やっぱりか……」
「なんだそのやっぱりって!? お前、心当たりでもあるのか?」
ある、と小さく断言した野中は、腐れ縁をやってきた仲だからこそ分かる、本気で怒っている顔だ。一見すると、何時ものムスっとした仏頂面だが、眉間に軽くシワを寄せるのと平行して口元を固く結ぶ仕草は、燃え盛るような怒りの表れだ。
「悪かった。お前が犯人かと思ったけど、どうも違うみたいだ」
「死ねクソ虫。で、紙切れが入っていたんだろ? 私にも見せろ」
その命令口調はどうにかならんのか? この流れで例の紙を取り出すのに、凄い抵抗を感じるんだが。それでも情報は共有するに限ると思うから、渋々机に広げてやるけど。
目が悪いのか、むむっと机に顔を近づけてきた野中を、「顔が近い! 持って読め、しっし!」と払いのけたところで、あえなく休憩時間終了のチャイムが鳴った。
「これは私が預かる」
「好きにしてくれ」
立ち去る野中の後姿も、良子に負けないくらい印象的なんだがな。可愛いとか綺麗とか言うより、格好良いとか頼れそうっていうイメージだが。それでも、性格を考慮しなければ、野中も野中でそれなりにモテそうなのに。まあ、俺は好きになったりしないがな、あんな悪魔のような女。いったい何をどう好めというのか。
3.
二時間目の授業が終わると、野中がポニーテイルを揺らしながらやってきた。しかし、なんだその方羽をもがれた蝶を哀れむような眼差しはっ。俺ってそんなに哀れまれて当然の人間なのか、そうなのか?
「丸秘ポエムノートが無くなったのは、本当なわけ?」
「残念ながら。つーか、勝手に丸秘とか付けないでくれないか。俺のポエムノートが言うたびに薄っぺらいモノのように聞こえてくるから」
「授業中、丸秘について色々と考えてみた」
「いっそ清々しいですね、その言い方。丸秘ですか、お洒落です! ――とでも言うと思ったかくされ外道女っ! しかし、それはそれはありがとう御座いました。野中さん、何か分かりましたか?」
まあな、と息を吐きながら頷いて、野中は続けた。自棄にテンションが低い。
「あんたの丸秘を知っている者は、同じ学年の女子テニス部全員だ」
「全員? なんでまたっ」
「一週間くらい前に私が話した。皆も盛り上がってくれて、話した甲斐があったんだ」
淡々と暗い面持ちで語っているはずなのに、とても満足気に話しているように聞こえてしまう俺の感性は、間違っていますか?
しかしなるほど、こうして俺の好感度は着実に下がっていっているわけだな。
「俺も子供じゃないし、今更怒らないから、先を話せこの口軽最低女っ」
「だな。更にそこから広まった可能性も、低いとは言え、考えられる。折角、私の携帯電話を盗んだ犯人の手がかり、掴めると思ったのに、残念だ」
「お前のローテンションの原因はそれかっ!? つーか携帯盗まれたの? 無くしたんじゃなくてか? 何時の話だよ」
「昨日だ。ちなみに、一昨日はコンタクトレンズをやられた。どっちも盗んだ旨が書かれたノートの切れ端が、下駄箱に入ってた。いったいどのタイミングで盗まれたのかさえ、気付かなかった。今回の事件は、おそらく同一犯。それも、私たちが嫌がることを厭わずに実行するような」
「まるでお前のような奴だな」
「そして、あんたの様な下手を踏まない奴だ」
「だな」
「だね」
なんだなんだ、この連帯感は! 野中、お前……。赤ん坊の頃から一緒だったけど、意見が合うことなんて一度もなかった。同じ道を走っていても、お前は常に先へ先へと走って行ってしまう。「近道だ」と不意に道を逸れやがったなと思えば、何時の間にやら俺の正面から突っ込んで来て、必ずと言っていいほど俺が当たり負けをしてきた。
そんなこいつと、今初めて、全く同じ道を並列して走れている気がする。
「今回は協力し合おう。俺もお前も出し惜しみはなしだ。いいな?」
「仕方ない」
敵にすると厄介だが、味方だと思うとこれほど頼もしいパートナーは他にいない。何か大きな難関が立ちふさがっても、こいつが居れば乗り越えていける。
「女子テニス部だ。先ずはそこから犯人を探る」
「俺も同意見だ。俺のポエムを盗んだ理由は分からないが、お前を恨む部員の一人や十人くらい居ても不思議は無い」
「……私の思う一番有力な犯人候補は、副部長のユキだ。同じクラスだし、あんたを恨む理由の一個や百個、あるのが当然」
「百個あるのが当然なのか!? それって、平均すると一人百個くらいになるって意味なのか? 多い人だと最高で何個くらいあるんだ?」
せめて十桁台であって欲しかったです。
「六百六十六だ。ぶっちぎりでリョウがトップ」
「一人だけ桁が違う!? とても嫌味な数字ですね」
「恨むのなら神を恨め」
「神すらも俺の敵なのか!」
しかし、冗談を混ぜて話していても、一向に野中の顔は暗いままだ。理由は携帯やコンタクトレンズのせいなんかじゃない。たぶんだけど、同じ女子テニス部を疑わないといけないから、なのだろう。疑うだけなら未だしも、本当に犯人がいる可能性だってあるわけで。そしたら野中は、犯人をどうするのだろうか。野中の人を苦しめるビジョンは浮かんできても、人を許すビジョンは想像できない。気になるのなら、ここで一言、軽い感じで聞いてみればいいのだろうけど。
「なによ」
「いや……なんでもない。次は体育だったな。その時に探りを入れてみるか」
「分かってる、私もそのつもりだし」
んな無粋なこと、とても聞ける雰囲気ではなかった。
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2011/04/10(Sun)23:37:45 公開 / 一日君
■この作品の著作権は一日君さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
ギャグ・コメディが書いてみたかった。
書いていて分かったけど、ツンデレってめちゃ難しい……
※4/10:
大幅に改めました。
・バラバラだった視点を、完全一人称にしてリメイク。
・短編から中編・長編向きに作り変えました(そのため、一話の文量だけでも十枚くらい増えましたっ)。
・初期タイトルだった『トイレットペーパー不使用の受容』を一話のサブタイトルに起用し、新タイトルを設定(仮)。
・二話目の一部を公開。
リメイク前を読んでくださった方々、本当にありがとうございました!
自分なりに頂いた感想を取り入れてみました。(ツンデレはやっぱりまだ難しい(汗))
「既に一度読んだし……」という方は、流し読みで読んでもらえればと思います。
また、二話目も少し載せておきました。(upしたところまでが、今書いている全てです)
どうしても既に読んだ一話目を飛ばしたい方は、飛ばしてしまっても二話目に支障はありません。
ギャグ・コメディ、中編・長編化、二話目でまさかの推理小説に路線変更(?)、ということで、未知の領域を愉快に突っ走っています。
続きを書く作業は本当に楽しいのですが、後ろを振り返って唖然としますね。やっぱり長くするなら伏線とか必要だと思うし、他にも細かい設定とかもちゃんと考えないといけない……
基本的にぼんやりとした設定を頭に浮かべて突っ走るタイプなので、この先の展開が、もしかしたら自分が一番楽しみかもしれません(笑)
次回up時に、細かな内容が変更になる可能性があります(特に二話目)