- 『夏色Fan Letter』 作者:いずみ / 恋愛小説 リアル・現代
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全角21729.5文字
容量43459 bytes
原稿用紙約65.15枚
鋭い太陽光線は頭上の針葉樹たちによって浄化され、木漏れ日となって俺や地面に降り注いでいる。俺はある別荘の前の道端で、彼女が出てくるのを今か今かと待ち望んでいた。昨日会ったばかりだというのに、夏みかんの香りやヒマワリのような笑顔にずいぶんご無沙汰している気がする。
それは、七月のある日のことだった。空に広がる濃厚な青色は、いつか彼女からもらった便箋の色に似ていた。
狭い書斎に、真っ白な原稿用紙をじゅうたん代わりに敷きつめて、俺はその上に寝転がっていた。なぜか。現実と向き合いたくないからだ。
「で。FLYDAYの進み具合はどうですか?」
アシスタントの山田が部屋の入り口で仁王立ちになって、俺を見下ろしていた。俺は寝返りを打ち、山田に背を向ける。いい答えが見つからず、俺は口を閉ざしていた。気まずい沈黙が流れる。
「威風先生――」
「ああ、分かってる。なるべく早く仕上げるから……。編集部には、代わりに外伝の原稿を送るって伝えておいてくれ」
山田の言葉をさえぎるように、俺は早口で言葉を続けた。
「今は何も思い浮かばないんだ。ずっと前に書いた外伝を保留しておいてよかったよ、あれがなかったら今頃俺はどうしていることか――」
「威風先生!」
山田がぴしゃりと言い放ち、俺はもう何も言えなくなってしまった。
次に山田の口から出てくる言葉は分かる。――僕も、早くしろとは言いたくありません。でも、来月からアニメ化についての打ち合わせもありますし……。頑張ってくださいよ。
「気分転換をされてはどうです」
「え?」
予想外の言葉と優しい口調に驚き、俺は仰向けになって山田と目を合わせた。
「気分転換です。部屋でゴロゴロしてても、アイデアなんて浮かばないんじゃないですか」
「気分転換というと、例えば?」
「あれを片付けるとか」
山田が指さしたのは、机の隣に置かれていたダンボールだった。俺はむくりと起き上がった。
「なるほど……」
「いい考えでしょう? 結構前から溜まっていましたし、返事を書いていれば自然とアイデアが浮かんでくるかもしれませんよ」
「確かに。そうしよう」
それじゃ、と言い残し、山田は部屋から出て行った。
俺は立ち上がると、ダンボールに歩み寄った。両手で抱えるほどの大きさのダンボールの中にあるのは、全て俺宛のファンレターだった。机に着いて漫画を描いているとき、ちらりとそのダンボールを見るたびに、手にとって読むたびに、ああ頑張らなくてはと励まされた。
返事を書くのは苦手だった。漫画がすらすら描けるときでも、ファンレターの返事を書こうとするとぱたりと手が止まってしまう。でも、こんなスランプの時なら逆に書けるかもしれない。
ダンボールのフタを開ければ、ぎっしりと封筒の山。こんなに読んでくれている人がいるんだなと、思わず口角が上がる。一番奥底にあった封筒を取り出してみれば、なんと三ヶ月も前のものだった。
古い方のファンレターから手をつけよう。俺はそう思い立ち、ダンボールを横倒しにした。長い間眠っていたファンレターたちが、せきを切ったように流れ出す。ファンレターの洪水が終わるころには、原稿用紙で真っ白だった部屋の床が、カラフルな封筒によって花畑のように色づいていた。俺は封筒を潰さないように注意して腰を下ろし、一通ずつ封筒を丁寧に開けて読んでいった。一通読み終えるたびに、挿絵のあるハガキに返事を書いていく。そうして床の花畑が少しずつ片付いていき、その下に敷かれていた原稿用紙が見え始めた時のことだった。
「あっ」
花畑の中に見覚えのある封筒を見つけて、俺は思わず声を上げた。その封筒は夏空のような青色で、表側には、達筆だがクセのある字体で“威風先生へ”と書かれている。その字体にも、俺には見覚えがあった。
「これ、って……」
裏返してみる。送り主の欄に、“花崎 早百合”と書かれていた。
俺は立ち上がり、机の一番下の引き出しを開けた。厚く積もったトーンの束を持ち上げると、引き出しの奥底に一枚の封筒がちょこんと置かれていた。これだ。今回の封筒と同じ、空色の封筒。切手を横切る消印だけが、あの日からどれくらいの時間が経ったのかを教えている。今回送られてきたファンレターの送り主と照らし合わせて、やっぱり同じ子だと確認した。ずっと前――俺がデビューしたばかりの頃に、彼女が初めて俺にファンレターを送ってくれたのだ。
漫画が売れてからも、読んでいてくれたんだ。俺は嬉しくなって、今回のファンレターの封を切った。
『こんにちは。ずっと前にも手紙を出したのですが、覚えていますでしょうか? 今回FLYDAYがアニメ化されるということで、嬉しくなって手紙を出してしまいました。
FLYDAYは、威風先生の漫画の中で一番好きです! いつもワクワクドキドキさせられて、毎号楽しみにしています。私は、主人公のファイが好きです。口より先に手が出るタイプで、がさつでいい加減で自己中だけれど(すみません)、本当はとても優しい心を持った子、という正反対な面を持っているところに、とても惹かれます。アニメ化したら、どんな声優さんがファイの声を担当するのかなと気になっています。ファイは元気な子だし、威勢のいい声が出せる声優さんなんでしょうか――』
私はあの場面が好きですとか、これからの展開の予想など、止まらないおしゃべりのような文章は便箋三枚にもわたった。消し跡だらけの一枚目に比べ、二枚目、三枚目の便箋は勢いで書いたようだ。本当にFLYDAYが好きなのだろう。
俺はその後、ダンボールの中にあったファンレターを全て読み、返事も書き終えた。しかし、やはり一番強く印象に残っていたのは、誰よりも長く俺の作品を知っている、誰よりも熱のこもった文章の、あの空色の封筒のファンレターだった。
「よし」
ファンレターが片付き、再び真っ白になった床の上で、俺は独り呟いた。
「描ける」
五十枚の原稿のあらすじを考え、コマ割を考え、人物を描き(長らく描いていなかったので、メモ帳に何度か練習した)、その人物たちにセリフをしゃべらせ、何ヶ所か直し、それからペン入れをし、黒く塗りつぶすところに墨を入れる。その墨がようやく乾くころには、窓の外は真っ暗になっていた。
できたての原稿を電気スタンドの光に透かし、改めて眺めてみた。さっきまで真っ白だった原稿の上では、ファイがとび蹴りをかまし、ヒロインのメイが物語展開の鍵となる天の守人と出会い、いよいよFLYDAYはクライマックスへと突き進んでいた。
「……できたんだなぁ」
思わず声に出して笑ってしまった。やろうと思えば、こんな数時間で描けたのだ。もっと早くにあのダンボールをひっくり返していれば、もっと早くに原稿を仕上げられただろう。
たかいたかいと、あやすように原稿を真上に掲げた。イスにもたれかかり、首だけ後ろへ反り上がる。そのままの格好で、しばらくの間充実感に浸っていた。
腹が鳴って、昼食をとっていないことに気付いた。食事を忘れるほど原稿に熱中するなんて、何週間ぶりだろう。
数日後、ひょんなことで用事が出来たため、俺は実家の軽井沢へ帰ることになった。
実家に数日帰っても、残りの作業であるトーン貼りはアシスタントの力を借りれば十分間に合うだろう。原稿の締め切りまではまだ時間がある。
でき上がった原稿をしげしげと眺めて感心する山田を残し、俺は東京の家を後にした。
軽井沢は避暑地ということもあり、それなりに賑やかな街だが、俺の実家はそこから外れた所にある。駅前の大通りを抜け、別荘の立ち並ぶ道を抜け、あたり一面が葉の茂る畑になると、俺の実家がようやく見えてくる。砂利道でキャリーバッグを引きずりながら、そういえば実家に帰るのは半年ぶりだなあ、なんて事を考えていた時だった。足元の畑の葉が揺れ、獣の鳴き声が聞こえた。
「……何だ?」
何かを威嚇するような低い声。何がいるんだろう。俺は身を屈めた。
葉が再び揺れて、ぬっとネコの頭が現れた。茶色と白のブチだ。首輪が見えることから、どこかの飼いネコだと分かった、
「なんだ、ネコか」
ほっと肩の力を抜く。しかしその後、畑の土がなぜか赤く染まっていることに気付いた。新種の肥料だろうかと、俺は身を乗り出し、ネコの胴体を隠している葉をかき分けた。するとそこにあったのは、毛が赤く染まったネコの足。新種の肥料なんかじゃない、血だ!
「う、うわわわわわわ!」
俺が驚いている間に、ネコはその場にぱたりと倒れ込んだ。ドキリとしたが、とりあえずまだお腹のあたりが動いている。足が痛くて倒れたらしい。
俺は慌てて辺りを見回し、この近くで知り合いが動物病院をやっていることを思い出した。樹壱動物病院といったかな。でも、このネコを動かすなんて俺にはできない。動物なんて飼ったことのない俺がこのネコを持ち上げたら、逆に怪我が悪化してしまいそうだ。となれば、残る道はただ一つ。
「おいネコ、おとなしく待ってろよ!」
俺は動物病院のある方向へと、全力疾走で駆け出した。
診察を受けたところ、ネコの命に別状はなかったそうだ。数日安静にしていればすぐに治るとのことで、俺は心底安堵した。
知り合いは、ネコを病院で預かって飼い主を捜すと言ってくれたが、俺は自分で飼い主を捜したいと言った。首輪に住所も書いてあるし、それほど捜すのに手間は掛からないだろうと思ったのだ。知り合いはすぐに了解してくれて、ネコの首輪に診察料の請求書をはさみ、ネコを俺に渡してくれた。怪我した足を痛めないような抱き方を教えてもらい、俺は動物病院を後にした。
首輪に書かれた住所をたどって、俺は実家から近い別荘団地を歩いていた。住所の最後に「別荘203」と書かれていることから、どうやらこのネコは、別荘に住んでいる人が飼っているネコらしい。初めてあったときに威嚇していたのが嘘のように、ネコは俺の腕の中でおとなしくしていた。時々傷が痛むらしく、ニャアと鳴いたりするが、それ以外は静かだ。
それぞれの別荘の門の表札下には、三ケタの番号が彫ってある。その番号を確認しながら、俺はどんどん進んで行った。しかし、いまいち別荘の並びがよく分からない。150の次が、どうして167になるのだろう。
困惑しながらも、俺はようやく203の別荘の前に来ることができた。庭はなく、門のすぐ向こうにこぢんまりとした別荘がたたずんでいる。寝りこけているネコを抱えながら、門をくぐり、別荘のインターホンを押そうと――。
「ホラ、いくよ!」
ドアが開いて風が舞い起こる。小さい犬を携えて、一人の少女が別荘の中から飛び出してきた。ツバ付きの帽子を被っているせいで、目はよく見えない。彼女の足元にいる犬はちぎれんばかりにシッポを振り、しきりに鳴いている。
「やっほー!」
少女は俺の目の前をさあっと通り過ぎて行った。淡い風と共に、夏みかんのような甘酸っぱい香りが俺の鼻をくすぐる。その香りをかいだ途端、緩やかな曲線を描く彼女の横顔の輪郭を見た途端、俺の心の奥底で何かが目を覚ました。覚醒というほど大げさなものじゃないが、その感覚は確かだった。
それが恋の始まりだったと気付いたのは、もう少し後のことである。
「あ、あの」
少女はよほど上機嫌なのか、俺の声に気付かず、道に出て、どんどん歩いていってしまう。ちょっと待ってくれ! 俺は心の中で叫んだ。
「すみません!」
予想以上の声が出て、さすがの彼女も俺の方に振り返ってくれた。遠目からでも、二つ縛りの髪がふわりと揺れたのが分かった。耳の奥で、鼓動の高鳴る音が聞こえた。どうしよう。何をすればいいんだ!?
「私ですか?」
「ああ、はい……」
とりあえず話しかけたものの、一体どこから話せば良いのか分からない。そんな俺に助け舟を出したのが、腕に抱いていたネコだった。アクビを一つして、ネコは俺の腕からすり抜けた。足のケガは大丈夫かなと一瞬ひやりとしたが、ネコは器用に怪我をした足だけを上げながら、ひょこひょこと彼女の元へ駆けていった。彼女はしゃがみ、ネコを腕の中に迎え入れた。
「あれ、このケガは?」
独り言のような口調だったが、俺は彼女の方に歩み寄り、答えた。
「向こうの畑に、倒れてたんだ。それで、病院に行ってきた」
「そうなんですか? ありがとうごさいます!」
彼女はネコを抱えて立ち上がり、ぺこりとお辞儀をした。そして頭を上げたときの、彼女が見せた笑顔ときたら! 顔が真っ赤になるのが自分で分かったほどだった。
「この子を助けてくれたんですね」
「ああいや、そんなたいそうなものじゃなくて……。命に別状はなかったみたいだし、治療代払ってないし……」
ろれつが回らない。頭はパンクして空気が抜けてしまった。どうしていいのか分からなくて、俺はきびすを返し、「じゃ!」と言い残してあわててその場を去った。
――花崎。203の別荘の表札には、確かそう書いてあったと思う。
実家の俺の部屋には窓がない。その代わり、小さな縁側がある。その縁側に座って、俺はあの少女について考えていた。
俺は彼女にひとめぼれをしたのだと、自分でも分かっていた。しかし、彼女としゃべった時の自分を思い出すと、情けなくて仕方ない。話しかけたものの、何から話せばいいのか分からなかった自分。ろれつの回らなかった自分。そうだ、どこの動物病院に行ったのかも教えてない。そして最終的に、逃げ出すようにしてその場を去った自分――。全てが情けない。
「ああ、嫌だっ!」
目の前の庭に向かって吐き捨て、俺はばたんと後ろに寝転がった。時間が戻せたなら。庭先で鳴く鈴虫の声を聞きながら、俺はそう思った。
どれくらい、そうして寝転がっていただろう。俺はふといい事を思いついて、ズボンのポケットを探った。気分転換に漫画でも描こう。バッグには原稿も鉛筆もあるし、準備は万端だ。
「ん?」
ポケットを探っていた手が止まる。マンガのネタを書きとめておいたメモ帳がないのだ。おかしいな、いつもここにあるはずなのに。
その時だった。俺の頭の中で光が弾けた。
まさか!
別荘203、花崎。その表札の下で、彼女は門に寄りかかって体育座りをしていた。その細くて綺麗な形をした手の中に、俺の薄汚いメモ帳があった。ああ、やっぱり。
メモ帳の中を覗かれると、今後のネタバレに繋がる可能性がある。だから今すぐにでも取り返したいが、俺はどうしても彼女に近づくことができなかった。そんなわけで、俺は彼女より十メートル離れた木の陰に隠れ、まるでストーカーのようにちらちらと彼女の様子をうかがっていた。俺のいる場所は街灯の光が届かないから、彼女は俺に気付いていない。そして彼女はまだ、メモ帳の中は開いていないようだ。うちわのように軽く扇ぎながら、表紙を見つめてばかりいる。
どうしよう。あれだけ情けなく逃げ去ったというのに、今彼女の前に姿を現して、なんと言えばいいのか。分からない。そして彼女の綺麗な目。笑顔。それらが再び俺に向けられたなら、また真っ赤になって、言葉が出てこなくなるかもしれない。さっきは助け舟となってくれたネコも、今はいないのだ。
音もなくため息をついた。本当に自分が情けない。なんで少女一人に話しかけることができないんだ。俺は幹に寄りかかってずるずるとその場に座り込んだ。その時だった。俺が座ったことで、地面に落ちていた小枝が音を立てて折れた。あっ――、と思ったが、もう手遅れだ。彼女がはっと息を呑んだ音が、木の陰に隠れていても聞こえた。
「威風先生ですか?」
彼女の声が、わずかにうわずっていた。俺は息を殺し、その場で固まった。俺はいない、ここには誰もいないのだ。
「返事してください」
やがて、背後でコンクリートとサンダルが擦れ合うざらりという音がした。彼女が立ち上がったらしい。
「あの。夕方、うちのネコを届けてくれた方ですよね?」
静寂。俺はただ目の前の闇を凝視し続けた。
「あなたが走って行ってしまった後、道端に落ちたメモ帳を見つけたんです。ページをめくってみたら、今までのFLYDAYのストーリーとか、原案みたいなファイが描かれてて。この絵は誰かが真似したものじゃない、正真正銘威風先生の絵だって思って。いつだか雑誌で、この辺りの出身だって書かれていましたよね。それでやっぱり本当だと思って、こうしてずっと待ってたんです」
そう言ってから、彼女は慌てて付け足した。
「あっ、メモ帳の後の方のページは見てないから大丈夫です! せっかく毎月楽しみにしているのに、展開が分かったらつまらないですから……」
それから彼女は沈黙した。彼女が立ち去る気配はない。待っているのだ。
耳鳴りがするような静寂。まばたきの音すら聞こえてしまいそうだ。遠くから、小さな小さな犬の遠吠えが聞こえた。
「……ええと、言い忘れました。私、花崎 早百合です。威風先生がデビューされてから、二回ほど手紙を送ったことがあります……。でも、そう言われても分かりませんよね。あんなに売れてる漫画家さんですし、手紙なんてたくさんもらってて、読者の名前なんて覚えきれないでしょう……」
「いや」
思わず俺の口から飛び出た声は、驚くほど辺りに響いた。
「君の名前は、しっかり覚えてる」
俺は幹に手をついて立ち上がった。振り向くと、彼女と目が合った。頬が火照ったものの、俺は正気のままだった。まるで夢の中のように現実味がない。俺はふわふわした足取りで彼女の方に歩み寄っていった。
「最近、雑誌に外伝しか乗せてなかっただろ。ここのところずっとスランプで、描き溜めておいた外伝を少しずつ載せていくしかできなかったんだ」
いわゆるスランプだった、と、俺は話していた。
「でも、君のファンレターのお陰で、俺はスランプから抜け出すことができた」
静寂。彼女はぼんやりとした目で俺を見つめていた。まだ疑っているのだろうか。
「本当だぞ? ファンレターって、俺にとっては漫画を描くための大事な原動力なんだからな。そのファンレターを二回も、それも一回目は初めて受け取ったファンレターだったんだから、名前も内容もちゃんと覚えてる。達筆な文字も」
「本当ですか?」
「本当だとも」
彼女の口元が緩み、顔から笑みがこぼれる。火照った顔をごまかすよう、俺も笑ってみせた。
「よかった。……これ、お返しします」
彼女が差し出したメモ帳を、俺はそっと受け取った。見慣れたメモ帳が、ちょっと特別になった気がした。
その時だった。203の別荘――すなわち彼女の住む別荘の窓が開いて、おばさんの顔がのぞいた。彼女のお母さんだろうか。
「早百合、いつまでそこにいるの。待ってても誰も来ないんだし、早く中に入りなさいよ」
どうやら俺は、おばさんの見ている角度からだと門の影で丁度見えないらしい。
「はーい」
さて、俺はそろそろ帰るか。
「それじゃあな」
「さようなら」
踵を返し、来た道を戻る。その時の俺が、安堵のためにどれほど間抜けな顔をしていたか、彼女は知らないだろう。
それから後、俺はずっとどたばたしていた。実家での用事を済ませ、東京へ戻って原稿を仕上げ、出版社へ持って行き、それからあわてて軽井沢に戻ってきた。あれだけ忙しかったのに、実家に帰ってきてカレンダーを見たらまだ一週間しか経っていなかった。
そして俺は、再びあの別荘団地に来た。今は夏休みの昼下がりということもあり、道には人が行きかっている。そんな人気のある団地の道端、俺は203の別荘の近くの木(この前よりも距離が近い)に寄りかかり、彼女が別荘から出てくるのを待っていた。そして日が傾いてきた午後三時頃、ようやく彼女が別荘から出てきた。この前と同じように犬を連れ、同じ帽子を被っている。俺は咳払いをして声の調子を確かめ、ゆっくりと彼女の方へ近づいていった。自ら話しかけるのではない。わざとすれ違って、話しかけてもらうのだ。これが俺の考え出した、彼女としゃべる方法だった。
案の定、彼女はすぐに俺の姿を見つけてくれた。
「あっ、先生」
足取り軽く、彼女は俺の元へ駆けてきた。彼女に気付かれぬよう、俺は静かに深呼吸を繰り返した。
「また、会ったな」
なるべく自然に、たまたま出会ったかのように振る舞う。
「偶然ですね。先生はどちらに?」
「ちょっと、散歩。この辺りを歩くと、たまにアイデアが思いついたりするんだ」
「そうなんですか」
そこで会話が止まってしまった。……あれ、次は何を話す予定だったかな。昨日の夜ちゃんと書き留めておいたのに、すっかり忘れてしまった。どうしよう、この沈黙。
隣の別荘で子供とキャッチボールをしていたお父さんが、どうやら子供からのボールを取り損ねたらしい。「おいおい、外しすぎだぞ」という声と共に、俺の背後でボールの弾む音が聞こえた。道に出たボールをお父さんが拾い、親子はキャッチボールを再開させた。
唐突に、「あの」と彼女は言った。
「もしお邪魔でなければ、一緒に散歩してもいいですか?」
楽しい時間だった。昨日メモ帳に書き留めた台本とは全く違う話を、俺たちはいろいろ話した。
「この辺りを散歩してて思いついたアイデアって、例えばどんなものなんですか?」
「例えば……。FLYDAYの冒頭の、ファイとメイが出会う場面かな。ここの景色とは全く関係ないけど」
「ですね。でも……へぇ、あの場面がここで……」
茂る木々を見上げてから、彼女は思い出したように「あっ」と言った。
「そうだ。この前威風先生が、うちのネコを助けてくれましたよね。あのネコの名前、ファイっていうんです」
「ファイって、FLYDAYの主人公の?」
「そうです。ちょうどFLYDAYを読み始めた頃にあの子を家の近くで拾って……。そうだ、FLYDAYの連載が始まってから、ちょうど二年経つんですね」
「山田が家に来てから二年経つのか……」
「え?」
「いや、なんでもない。俺のアシスタントの名前だよ」
「わあ、やっぱりアシスタントさんがいるんですね!」
「いるいる。特にその山田ってヤツは、仕事の給料もらう代わりにずっと俺の家に住んでてさ――」
彼女の飼い犬(名前はホラというらしい)はふさふさのシッポをいつまでも振っている。ベビーカーを押す女の人とすれ違う。頭上からは鳥のさえずりが聞こえる。俺たちの他愛のない会話は、いつまでも続いていく。
その日、俺が彼女と別れたのは午後三時半だった。
それからほぼ毎日、俺と彼女は散歩をした。日を増すごとに緊張がほどけて会話が弾み、散歩の時間は長くなっていった。俺は彼女を別荘の前で待つのが楽しみになり、話している途中、彼女も楽しそうに笑った。そのたびに夏みかんの香りがして、俺は顔を赤くしていた。そしていつしか俺は、この子はもしかして俺のことが好きなのではないだろうかと思い始めていた。そうであったら、いやきっとそうだ。俺は彼女と話しながら、そんな事を考えていたのだった。
彼女と散歩をするようになってから一週間が過ぎ、八月最初の週も今日で終わりとなった。
「そういえば……。君って学校の宿題とかないのか?」
俺が横に目をやると、そこには誰もいなかった。慌てて後ろに振り向けば、彼女は数歩後ろで立ち止まっていた。俺の顔を見るなり、彼女は人差し指を左右に振って見せた。
「先生……。それは禁句ですよ」
「そうか?」
「そういう先生こそ、FLYDAYの締め切りは大丈夫なんですか」
「月刊雑誌だからな。実家で少しずつ描き進めていけば、何とかなる」
「そう……ですか」
彼女が再び歩き始めたので、俺も歩幅を合わせて歩き出した。
「いいですね、先生は。好きなことをやって、それでお金をもらえるなんて」
「今の仕事はいいけど、この仕事に就くまでは大変だったんだよ。最初の頃は自分の漫画が認めてもらえなくて、本当にみじめで……。まあ、親から反対されなかったのは良かったけど」
「そうなんですか」
俺たちの目の前に、彼女の別荘が見えてきた。そろそろお別れかな、と俺が思った矢先だった。
「あの、先生」
彼女の重々しい口調に異変を感じ、俺は彼女の方を見た。彼女は緊張した面持ちで俺の顔を見上げていた。
「先生の家は、門限ってあります?」
「別にないけど……」
彼女は唇をかみ、目を伏せた。俺が「どうした?」と話しかけようと思ったほどだ。
「あの、先生。もう一回り、散歩してきませんか」
「え?」
「嫌なら別にいいんです! あの、この子――ホラのためなんです。肥満気味だからなるべく運動させた方がよくて。この間獣医さんにも言われたんです。ファイを病院に連れて行ったついでに、ホラも診てもらったんです」
「いいよ。FLYDAYのネタもちょっと詰まってきたところだし、もう一回りくらいなら、付き合うよ」
「本当ですか?」
「ああ」
大きなヒマワリの花が咲くように、彼女の顔がぱあっと明るくなった。
「ありがとうございます!」
それから俺たちは、203の別荘を通り過ぎ、別荘団地をもう一回りした。彼女は嬉しそうに顔をほころばせ、一緒にいる俺の方まで幸せになってしまった。
結局その日、散歩を終えたのは午後五時だった。俺たちの背後の空には巨大な入道雲が迫っていた。青い空には不似合いなほど黒々とした入道雲が、俺たちを覆おうとしていた。
翌日の昼下がり、俺はいつものように203の別荘の前で彼女が出てくるのを待っていた。髪は整えてきたよな、今日は何を話そうかと、くだらない事を考えていた。隣の別荘では、いつも通り親子がキャッチボールをしていた。父親が子供に手を振り、「上手くなったなー」と言っている。
ふいに別荘のドアが開いて、俺の胸は一瞬踊った。が、そこにいたのは笑顔の彼女ではなく、いつか見た中年のおばさんだった。
「威風さんですか?」
「はい。……本名は木之下と申します」
「木之下さん、ですね」
おばさんはきびきびと俺に頭を下げた。
「早百合の母の静江です。いつも娘がお世話になっております」
「あの、早百合さんは?」
「昨日夕立ちがあったでしょう。それで体調を崩してしまって、今は二階で寝ています」
「そうなんですか」
それから静江さんは、すっと背筋を伸ばした。
「今日は木之下さんに話があるのですが、お時間はありますか? ……いや、この時間はいつもあの子と散歩をしているから大丈夫でしょう。どうぞ中に上がってください」
「は、はあ」
言われるままに、俺は別荘の中に入っていった。
入ってすぐのところに小さなリビングがあり、俺はそこに通された。テーブルに向き合う形で置かれたイスの一つに腰掛けると、静江さんは「今お茶を入れますからね」と慌しくキッチンへと駆けて行った。
リビングは小奇麗に片付けられていて、家具は最小限に抑えてあった。へえ、あの子はこんなところで過ごしていたのか。
「どうぞ」という声と共に、目の前に麦茶の入ったグラスが置かれた。
「どうも」
静江さんは俺の向かいのイスに座った。
「何ですか? 話って」
静江さんは俺の目をまっすぐ見据え、話し出した。
「早百合のことなんです。あの子について、何か知っていますか?」
「いえ……」
思い返せば、彼女とはたくさん話をしたものの、彼女は自分の身の上のことを一切口にしなかった。
「実はあの子、ここ半年くらい学校に通ってないんです」
それから静江さんは、今までのことを話してくれた。
「中学二年の二学期のことです。体育祭で参加したリレーがきっかけで、あの子は同級生からいじめを受けるようになりました。陰湿ないじめではありませんでしたが、言葉のいじめによって、あの子はずいぶん傷ついたようです。それでも二学期はちゃんと通っていたのですが、冬休み中家にこもっていたせいで、休み明けには学校に行けなくなっていました。あの子は家の中では明るいのですが、学校ではかなり大人しい子なんです。だから、いつこんな状況なってもおかしくなかったのかなって、今ではそう思っています。……ちゃんと通信教育を受けて、高校に行くことを約束して、私はあの子の不登校を認めました。あの子も約束を守ってくれていて、この軽井沢の別荘に来る時も勉強道具を持ってきて、毎日ちゃんと勉強していました」
麦茶の中の氷が徐々に溶け出し、からり、と小さな音を立てる。
夏みかんの香り。ヒマワリのような笑顔。
不登校。いじめ。
両極端にある光と影がつながり、その向こうには俺の知らない彼女がいた。
「夏休みが始まってすぐ、私とあの子は、この別荘に来ました。最初はしっかり勉強していたのですが、最近、ホラの散歩の時間が長くなって、勉強にあまり手をつけなくなりました。昨夜あの子から聞き出したところ、三週間ほど前にあなたと知り合ったことを話しました」
静江さんは、ふと笑った。そうして笑うと、彼女に少しだけ似ている気がした。
「驚きました。あの子が家族以外の人と話したのは、本当に久しぶりなんです。どうです? 木之下さんといる時の、あの子の様子は」
「よくしゃべるし、明るい子ですよ」
「それなら良かったです。……ただ」
「ただ?」
「……勉強がおろそかになってしまうと、あの子が行きたい高校に行けなくなりそうで怖いのです。出席日数が他の子よりずっと少ないから、実力で入らなければいけないのです」
静江さんは身を乗り出した。
「そこで、木之下さんにお願いしたいのです。なるべく、あの子と関わらないようにして頂けませんか」
「えっ」
「もう会わないでくださいということではないのです。あの子が他の人と関わる機会を奪うのも可哀想ですし。だから、時々散歩に付き合う程度にしてほしいのです」
静江さんは、俺の目をじっと見つめてきた。その視線はあまりに鋭いもので、簡単には受け止められなかった。
「……ええと。時々っていうのは、週に一回程度っていうことですか?」
「そうですね。でも、あの子が勉強に身が入らないようだったら、もっと会う頻度を下げてほしいと思います」
「そうですか」
ジーンズに隠れた自分のひざを見つめながら、俺は考えた。彼女には毎日でも会いたかったが、それが彼女に悪い影響を与えるというなら話は別だ。俺の我侭のせいで、彼女が行きたい高校に行けなくなるのなら……。
俺は前を向き、「はい」とうなずいた。
「分かりました」
「ありがとうございます」
静江さんが頭を下げる。その時俺は、静江さんに違和感を感じた。何なのかは分からないが、何かがおかしい。
ふいに真上から、床が軋む音がした。
「あの、すいません。早百合さんの様子を見に行ってもいいですか?」
静江さんは「いいですよ」と認めてくれた。俺は静江さんの視線から逃げるようにリビングを出、二階につながる階段を上った。
俺の知っている彼女の姿を、早く見たかった。
“早百合”というネームプレートの掛かった部屋を開ける。家具はやはりシンプルに、勉強机とスプリング式のベットだけ。そのベットの上で、彼女はタオルケットにくるまっていた。俺に背を向けるような格好で、顔は見えない。
「起きてるかい?」
彼女は返事をしない。寝ているのだろうか。起こしてしまったらかわいそうかと、俺が部屋から出て行こうとした時だった。
「……先生」
かすれて消え入りそうな彼女の声に、俺はすぐに顔を上げた。彼女は相変わらず、俺に背を向ける格好で寝たままだ。それきり彼女は黙り込んでしまったので、俺の方から口を開いた。
「大丈夫か?」
俺は彼女に一歩近づく。
「まさか、あんな夕立ちに遭うとはな」
「先生」
聞こえましたよ、さっきの会話。と、彼女は呟くように言った。
「ここは別荘だし、風通しがいいから声もよく聞こえるんです」
「……そうか」
「すみません、昨日は無理にもう一回りさせてしまって。先生といる間は家で勉強しなくていいから、なるべく長く先生と一緒にいたかったんです。迷惑掛けてしまって、ごめんなさい」
その時、俺の中にあった期待や希望が、風船のように割れた。彼女は俺が好きではなかった。俺と一緒に散歩していたのは、勉強から逃げるためだったのだ。
「……そうか」
先程と同じ言葉を繰り返し、俺は部屋の出口へと歩いていった。
「じゃあ、お大事に」
「さようなら」
彼女の返事は素っ気ないもので、俺はまたショックを受けたのだった。
その夜は、夕飯にあまり手が付かなかった。おふくろに何か言われる前に、俺は逃げるようにして外へ出た。
星の瞬く空の下、一人で歩いてみる。俺の隣には誰もいない。夏みかんの香もなく、辺りには雨上がりのむっとするような土の臭いが漂っている。虫の声は聞こえず、辺りは静かだった。自分の足音に耳を澄ませながら、静江さんの話や、背を向けた彼女の言葉を思い返す。俺が知っていると思っていた彼女は、本当の彼女ではなかった。そして彼女にとって、俺は勉強から逃れるための手段でしかなかったのだ。今まで自分が知っていた彼女が、遠のいていく気がした。
辺りの景色に驚いて、あ、と呟く。俺はいつしか、彼女の別荘の前に来ていたのだ。毎日散歩をするために通っていたから、足がここに来る道を一番覚えていたようだ。しかし俺が驚いたのはそれだけでない。別荘の二階の窓から、パジャマ姿の彼女が顔を覗かせていたのだ。俺の姿に気付くと、微笑んでこちらに手を振ってきた。俺の知っている、いつもの彼女だった。そして気付く。俺が知っている彼女が、偽の彼女ではなく、本当の彼女の一部であるということを。そして、散歩の時に彼女が見せた笑顔が、決して偽物でなかったことを。俺はほっとして、彼女へ手を振り返したのだった。
いいことを思いついた。彼女が俺と散歩することで勉強のやる気を削がれているなら、不登校で家族以外の誰かと話す機会を失っているなら、俺が彼女の家庭教師になってしまえばいいと。俺は頭は悪い方ではないと思う。理数は苦手だが、国語なら教えられる。もちろん彼女と一緒にいることが本当の目的だから、お金はとらない。そのことを静江さんに話したら、静江さんはすぐにオーケーしてくれた。あの子は国語の中で文法が苦手だから、そこを中心に教えてくれとのことだ。
それからというもの、ホラの散歩は彼女一人で行き、俺は違う時間に家庭教師として彼女の家を訪れるようになった。
俺が部屋にいる間、彼女はいつも机に向かい、半ば睨むようにして分厚い問題集と向かい合っていた。家庭教師なんていらないくらい、彼女はすらすらと問題を解いていった。俺の仕事は、たまに国語の質問をされて答える程度で済んでしまった。
そんなわけで、俺はほとんどの時間、彼女の作った漫画を読んでいた。最初に送られてきたファンレターに書いてあったのだが、彼女の趣味は漫画を描くことだそうだ。不登校になり、勉強を一日中強いられてからというもの、あまりそちらは進まなくなってしまったらしいが。小学校の低学年の頃から漫画を描き始め、今までに短長編合わせて二十作以上は描いてきたらしい。主なジャンルはファンタジーや冒険モノ。彼女の漫画を読みあさり、「すごいな」と繰り返し俺が呟いていると、彼女は「漫画を描くのが生きがいだったもので」と言った。
「私、昔はプロの漫画家になることが夢だったんです」
握っていたシャーペンを机に放る。顔を上げた彼女は、遠くを見るようなうつろな目をしていた。
「短編の方が描きやすくて得意なんです。だから、それ専門の漫画家になれたらいいな、って」
叶わない夢ですよと付け加え、ため息をつく。俺は即座に首を横に振った。
「君の漫画はすごい。中学生でこれだけ書けるなら、プロも夢じゃないさ」
お世辞ではない。彼女の漫画は、中学生にしてはかなり完成度の高いものだった。絵はもちろん、場面に合ったアングルやトーンの効果的な使い方、ストーリーの運びなど、感心させられる点がとても多い。これだけ漫画を描くことに情熱を注げるのなら、その情熱を大人になるまで絶やさなければ、きっといい漫画家になれるだろう。本気でそう思っていた。
「それ以上、言わないで下さい」
「え?」
漫画原稿から目を離すと、彼女は顔をしかめてうつむいていた。さっき置いたシャーペンを持ち直し、今では問題を解いている。
「無理なんです。夢はただの夢で、叶うわけありません。私はいい高校に行って、東京のいい大学に行って、いいお医者さんと結婚するんです。それが私の未来です」
うたうようにしゃべりながら、彼女の手に握られたシャーペンは異常な速さでわけの分からない文字を連ねていく。明らかに、彼女の様子はおかしかった。
「ど、どうしたんだよ、いきなり」
「私はお母さんの子だから中学校に行かなくてもこうして家で勉強していれば並みの中学生よりも成績は良くなるわけでお母さんとおなじ高校にいけるからとてもいい人生をあゆめるから毎日ちゃんと勉強しなければいけなくて漫画なんてほんとうはかいちゃいけないのにゆうわくにまけてわたしはまんがをかいていて――」
「早百合!」
何かに操られたような彼女が恐ろしくなって、彼女の中に潜む暗がりが見えた気がして、思わず叫んだ。彼女がはっと黙る。その手からシャーペンが転げ落ちて、冷たいフローリングの床を跳ねた。
黒く重たい静寂が流れる。彼女は正気を取り戻したものの、まだぼんやりとしていて、俺は慌てて沈黙を破る言葉を探した。
「ご、ごめんな。……漫画、返すよ。もう何も言わないから、大丈夫」
自分自身を励ますためにも、大丈夫、ともう一度繰り返す。割れ物を扱うように、漫画の原稿をそっと彼女に差し出した。彼女はゆっくりとそれを受け取る。
「私こそ……すみませんでした。こんなことを先生に話したって、どうにもならないのに……。変ですよね、私」
気まずい沈黙の中で、静江さんが麦茶の差し入れを持ってきた。調子はどう? と、静江さんは彼女に訊いた。だいじょうぶだよ、と、彼女は問題集と向き合ったまま言う。
その様子を見て、俺は前と同じような違和感を感じた。もしかしたら静江さんが、彼女の暗がりの一部を作り出しているのかもしれない。そんな考えが頭をよぎった。
『お久しぶりです、威風先生。お変わりはないですか』
「ああ、大丈夫」
俺が家庭教師になってから三週間経ったある夜のこと、アシスタントの山田から電話が掛かってきた。いつか東京から、こんな電話が来ることは分かっていたが……とうとう来てしまったか。
『――今日は何日ですか』
「ええと……八月二十五日」
『次回の漫画原稿の締め切りはいつですか』
「九月一日」
『漫画の進み具合は』
「ストーリーの細かいところはまとまった。コマ割りと、それぞれのコマのアングルと構図も考えてある」
『原稿の締め切り日とFLYDAYのアニメ化の打ち合わせの日が一緒だってこと、覚えてますよね?』
「え、そうだっけ?」
『……忘れてたんですね』
山田は深くため息をついた。俺としたことが、そんな大事な予定を忘れていたとは……。
『先生。もうこっちに帰ってこないとまずいですよ』
「……」
俺としたことが、すっかりアニメ化の打ち合わせのことを忘れてしまっていた。
『仕事が山積みですよ。先生がアニメ化の打ち合わせについて何も考えてなかったとすると、もう明日にでも帰ってきてほしいくらいです』
「ごめん」
もう時間がない。しかし……。
俺は、自分の机の上にあるメモ帳を見た。それは俺と彼女が最初に出会った日に、彼女が返してくれたメモ帳だった。
「山田。あと一日だけ、俺にくれないか」
『……東京に帰ったら、僕も先生も締め切りまで毎晩徹夜ですよ』
「まじでごめん」
しかし俺は、暗い影を持つ彼女のことが、気掛かりでならなかったのだ。別に俺が何か出来るわけでもないが、とにかくあと一日、一緒にいたかった。
翌日。久しぶりに一緒にホラの散歩しようと誘うと、彼女は二つ返事で俺と共に家を出た。やはり、よほど家が嫌いらしい。俺も、勉強を教えたりするよりは外に出て、こうして彼女と散歩している方が楽しかった。そちらの方が、彼女がよく笑ってくれるのだ。しかし、そんな彼女の笑顔を見られるのも今日が最後となってしまった。そう思うと胸がうずく。
「俺、明日には東京に帰ることになったんだ。昨日アシスタントから電話があって」
「……そう、ですか」
それから少し沈黙があった。彼女との久々の散歩を喜ぶホラとは対照的に、俺と彼女は沈んだ気持ちで歩いていた。
「先生と散歩するの、楽しかったです。色々話ができて。……あっ、別に勉強しなくていいからっていうわけじゃなくて、素直に楽しかったです」
それももう、今日だけなんですね――。そう呟いた彼女の横顔は、ガラスでできた浮き球のようにもろく儚なげな影を潜めていた。楽しかった夏は過ぎ、ヒマワリのような笑顔はいつしか枯れてしまっていた。俺たちには別れの時が近づいている。しかし、今にも泣き出しそうな彼女の顔を見ながら別れたくはなかった。
何か、彼女を笑わせる方法はないだろうか。
「あのさ」
気がついたら、口が勝手にしゃべりだしていた。
「俺がまだ漫画家デビューして間もない頃に、ありえない誤解をされたっていう話、したっけ?」
「誤解? いいえ、聞いてません」
「そうか。じゃあ話すんだけど……」
あの話を思い出すと、今でも吹き出してしまう。
「俺さ。一回だけ、小説家に間違われたことがあったんだよ」
「小説家?」
彼女がきょとんとした目でこちらを見上げてくる。
「そう。当時、俺とよく似たペンネームの作家がいたらしいんだ。そのせいで、どうも出版社の方で書類が行き違えたらしいんだけど、俺に短編小説を書いてくださいっていう依頼が来た。おかしいとは思ったんだけど、初めて依頼された仕事だったから、断るわけにはいかなかった」
「書いたんですか? 小説」
「一応。でも、漫画を描くのとは要領が違って、どういう文を書けばいいのか分からなかった。いや、漫画と小説だけの違いじゃないな。その短編小説のリクエストっていうのがさ、“花”っていうお題で、オチで最後にほろっとくるような現代モノの小説だぜ? はなから俺には絶対無理だったんだ」
「ですね。ファンタジーでギャグが得意な威風先生が、しんみり系の小説なんて」
「笑えるよな?」
くすくすと笑いながら、彼女は頷いた。久々に見る彼女の笑った顔は、何だか特別で、俺の心を和ませてくれる。俺は得意げに話を続けた。
「でも俺は、なんとか仕上げた原稿を出版社に持っていったんだ。自分でもひどい小説だなとは思ってて、案の定、編集者に『こんなもの載せられるか』って原稿を突き返された。それで俺は言った。『僕はマンガ家です、小説は書けません!』。そしたら編集者は慌てて書類を引っかき回して、そこで初めて間違いに気付いたんだ。その人が意外に腰の低い人で、もう何度も頭を下げられてさ」
それから俺は、彼女の方に向いた。視界の片隅には、もう彼女の別荘が見えている。
「変だなって思ったことは、案外言ってみるものなんだって思った。今の話みたいに意外な答えが返ってくることもあるし、そうじゃなくても、相手に自分の気持ちを知ってもらえれば、何か状況は変わると思うんだ」
彼女は黙っていた。急に神妙になってしまったので、俺は笑って頭をかき、そんな雰囲気をごまかした。
「なんか説教くさくなっちまったな。やっぱり、ギャグ漫画家が言うセリフじゃなかったか。 ……さてと。君の家に帰ったら、もう少し勉強に付き合うよ」
別荘の前の塀には、いつか俺が助けたネコのファイがいた。後ろ足のケガは完全に治っていたが、なぜか塀の上から俺たちに向かって威嚇していた。歯をむき出し、蛇に似た声を出している。彼女は何とかファイをなだめようとしたが、ファイは一向に威嚇するばかりだった。
「変ねぇ……」
「またケガでなければいいけど」
その時はまだ、俺たちはファイを心配していられた。思えば、ファイの方が俺たちを心配していたのかもしれない。
別荘のドアを開ければ、目の前には玄関で静江さんが仁王立ちになって通せんぼをしていた。片手には一枚の紙を握り、険しい顔つきをしている。俺の隣で、彼女が小さなうめき声を漏らした。
そうよ、と静江さんは鋭く言い放つ。
「この間の、模擬試験の結果よ」
二ヶ月前、彼女は通信教育の模擬試験を受けていた。五教科とも合格ラインが六十点で、彼女はほとんどの教科で七十点以上を取っていた。しかし静江さんにすると、国語と社会科で六十点代を取ってしまったことが気に食わないらしい。六十点代といっても、かなり七十に近い点数だ。
別荘のリビングで、彼女と俺はイスに座って縮こまっていた。その周りを、ゆっくりと静江さんが回っている。これじゃあまるで、教師と怒られている生徒のようだ。長く粘っこい説教は、すでに二十分も続いていた。漫画を描いていると五時間だろうが十時間だろうがあっという間だが、こういう時の二十分はそれよりもずっと長い。
「こんな簡単な模擬試験で、六十点代をとるようじゃあの高校は無理ね」
「……はい」
「ほら、社会のここ。中学校の公民くらい、楽勝で解けなきゃ駄目よ」
「……はい」
「あなたならもう少し頑張れるでしょう、私とあの人の子なんだから」
「……はい」
彼女は操り人形のように、ただ同じ返事をする。彼女を操る糸を握っているのは、やはり静江さんであった。
静江さんが俺たちの向かいのイスに座る。しばし口をつぐみ、各教科の解答用紙と問題用紙をじっくりと眺め始めた。静江さんの目が国語の解答用紙でぴたりと止まると、俺はこめかみにじわりと汗がにじむのを感じた。
「文法、二問間違え」
静江さんは俺の方を見た。
「どういうことですか、これは」
俺は口を開いたが、顔を上げたときに静江さんと目が合い、何も言えなくなってしまった。静江さんは、蛇のように鋭い目をしていた。怖い。これでは、彼女が何も言えなくなるのも無理はない。
彼女が独り言のようにぼそぼそとしゃべったのはその時だった。
「……国語の問題用紙、見てよ。それ、私が解答欄を間違えただけなの」
蛇の視線が、俺から彼女へ、そしてテーブルの上の問題用紙へと向いた。問題用紙と解答用紙を照らし合わせ、あらまと呟く。ごまかすように顔に笑みを貼り付けた。
「ごめんなさいね、木之下さん。ついこの子の勉強のことになるとピリピリしちゃって」
彼女の言葉が境となり、静江さんはそそくさと模擬テストの結果の書類をまとめはじめた。
「早百合、次回は絶対に七十点以上をとりましょうね。そうすれば、あの高校に行ける。東京のいい大学に行ける。いいところのお医者さんと結婚して、それで――」
「嫌だ」
穏やかになりかけていた空気に、再び緊張が走る。
うつむいたまま、彼女はぐっと唇を噛んでいた。
「私……そんなの、嫌だ」
「何ですって?」
彼女は顔を上げた。実の母親の鋭い視線をしっかりと受け止める。
「私は漫画家になりたい。ずっとそう思ってた。約束通り高校には行くけれど、大学じゃなくて専門学校に行く。漫画の専門学校に」
「漫画家? そんな。プロの漫画家になれる人なんて、ごくわずかなのよ。わざわざそんな危ない道を渡らなくても――」
静江さんは呆れたように首を振る。
「――まさか、木之下さん。あなたがこの子にそう吹き込んだのですか。漫画家になれと」
「え?」
俺の横で、彼女は鋭く「違う!」と言い放った。
「あの高校に入れって、いい大学に入れって、将来はいいお医者さんと結婚しなさいって、私にそう吹き込んできたのは誰よ!」
そのとき俺は、彼女を操っていた糸がブツリと切れる音を聞いた気がした。今まで操っていた糸が切れて、静江さんは怒ったような困惑したような表情をしている。彼女は席を立ち、そんな静江さんを一瞥してから、足早に玄関へと向かった。
乱暴にドアが閉められる音。我に返った俺は、静江さんをリビングに残して彼女の後を追った。
門のすぐ前で、彼女は立ち止まっていた。どうしたらいいのか分からないといった様子だったが、俺の姿を見るとホッとしたようだった。彼女の目は赤かった。
「先生」
「大丈夫、か?」
何が大丈夫なのか分からないが、俺はそう尋ねる。
「はい。さっきはすみませんでした、母があんな失礼なことを言って」
「気にしてないよ。それより……」
辺りを見回してみる。俺たちの周りでは、何事もなかったかのようにいつもと同じ風景が広がっていた。
「もう一度、散歩しようか」
「……そうですね」
俺と彼女は黙って歩き出した。どちらからともなく、いつもの散歩コースを外れ、俺たちは知らない道を歩いていった。別荘に置いてきたホラが、わん、と鳴くのが聞こえた。
商店街の路地にあった小さな喫茶店で、レモンタルトとアイスコーヒーを買って、俺たちは外のイスに向かい合う形で腰掛けた。俺がアイスコーヒーを飲んでいる間、彼女はぼんやりとレモンタルトを見つめていた。時折吹く風で、テーブルの上に落ちた木漏れ日が揺れる。遠くから微かに聞こえる商店街の喧騒も、頭上の梢の音に掻き消された。喫茶店内には数人客がいるものの、今、外のこの空間にいるのは俺と彼女だけだ。
「タルト、食べなよ。元気が出るから」
俺が勧めても、彼女は生返事をするばかりで、一向にタルトを食べようとしない。
「もしかして、店に貼ってあった、巨大パフェのポスターに興味があったとか?」
ふざけてそんなことを言ってみるが、彼女の表情は変わらなかった。やっぱ駄目だよなぁ。
再び沈黙が戻る。次に沈黙を破ったのは、彼女の方だった。
「私の言ったことは……間違って、いませんでしたよね」
俺は大きく頷いた。
「自分が正しいと思えば、それは正しいと思う」
「でも……」
「大丈夫だって! 別に君に漫画家になれって吹き込むつもりじゃないけど、君には本当に素質があると思う。これからもずっと漫画を好きでいれば、プロの漫画家になれると思う。自信持て」
彼女が僅かに顔を上げる。俺はさらに言葉を続けた。
「ああ言えて良かったと思うよ。これで君の思っていることは静江さんに伝わったわけだから、何か事態は変わるだろう。君の言葉で、その事態はいい方向に傾くかもしれない」
彼女は小さく頷いた。
「……そうですね」
ようやく彼女は、タルトに手を伸ばした。
「母に怒られた時、さっきの威風先生の話を思い出したんです。その話の後に、先生、言ってましたよね。『相手に自分の気持ちを知ってもらえれば、何か状況は変わる』って。あの言葉が印象に残っていて……」
威風先生のおかげです、と、彼女は微笑んだ。お礼を言われるほどのことじゃないさ、と、俺は慌てて手を振った。
「事実を話しただけだし、ただ――君の笑顔が、見たかっただけだ」
そう言ってから、あ、しまったと思った。気が付けば、彼女はきょとんとした顔でこちらを見ていて、脊髄反射で俺の顔が燃えるように熱くなった。
「いやあの、その……ええと」
――伝えてしまうべきだろうか、自分の思いを。 そんな自問をする。もし俺がそれを伝えたなら、彼女は一体どんな顔をするだろう。しかし、明日俺は東京へ帰らなければならない。伝えるとすれば、今しかないだろう!
意を決して前を向いて、そして俺は、彼女の綺麗な目が、まだ赤みを帯びていることに気付いた。高ぶっていた気持ちが、ふっと静まる。……そうだ。彼女はついさっき、自分の将来のための大事な戦いをしたばかりなのだ。今、彼女を変に動揺させてしまうのは良くない。
「あのさっ」
自分が作った奇妙な沈黙を叩き破ろうとして、声が裏返った。一瞬の後に彼女が笑い出し、つられて俺も笑い出す。
「何ですか?」
彼女が笑いながら尋ねる。
「……君はまた来年も、ここに来るのかい?」
「そうですね。高校生になったら、夏休みも忙しくなるでしょうけど……。でも、また来ますよ」
「そしたらまた、一緒にホラの散歩でもしよう。家庭教師は、どうも性に合わないから」
「はい」と、彼女は頷いた。
「うちのお母さん、悪い人ではないんです」
タルトの最後の一口を食べて、彼女は話し出した。
「さっきはあんな感じでしたけど……。でも、私が不登校になった時には、ちゃんと話を聞いてくれたんですよ」
「そうか」
俺は、静江さんと初めて話した日を思い出した。静江さんは、笑うと少しだけ彼女に似ていた。
「私、もう一度、お母さんとじっくり話してみます。きっと分かってくれるって、信じてます」
その言葉に、俺は大きく頷く。淡い木漏れ日の光が、俺と彼女に降り注いでいた。
翌朝。203の別荘の前で彼女と短い別れの挨拶を交わしてから、俺は帰りのバスに乗り込んだ。適当な席に腰を下ろし、乗り継ぎの電車を確認するために時刻表を開けば、改めて自分が現実に戻るのだということを痛感した。これから向かう東京には、山田(きっと鬼のような形相)と徹夜と締め切りが待っているだろう。
エンジンが掛かり、バスが動き出す。ふと車窓に目をやれば、去り行く軽井沢の街の上に、夏の濃厚な青空が広がっていた。その空に、彼女の笑顔が重なる。
また来年、あの夏空とヒマワリに、会えますように。
―Fin―
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■作者からのメッセージ
初めまして、いずみと申します。
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