- 『死ぬ夢を見たことがあるか』 作者:寝不足 / 未分類 未分類
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「死ぬ夢をみたことがあるかい? 実のところ、僕はある。」
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ある一人のハンターがいた。
彼については人種も、名前もさして重要ではない。キリスト教徒である事と、彼がハンターであることが、要は彼には動物を撃つ以外に趣味も職も無い事が最も重要なのだ。
彼は隣人を愛するキリスト教徒であり、尚且つ射撃が得意であった。特に学校の勉強等ができるわけではなく、射撃以外のこれといった特技も無い。凡人程度の職ならば得られるが、それ以上は望めないと知っていた。
世間は彼に冷酷だった。銃が好き、銃社会の中においてもその趣味は歓迎されるものではなく、彼を犯罪者予備軍のように扱う人間も少なからずいた。その筆頭が、彼の両親だった事がさらに彼を歪めた。
殺人願望が無いと言えば嘘になるが、彼には人を殺す度胸は無い。彼は人間という存在を内心蔑み、自然を神聖視し、その一部となることを望んだ。
だから、趣味と仕事の両立を目指し、彼はハンターになる道を選んだ。軍隊への道を選択する事も可能ではあったが、彼は人間を撃ち殺すことに抵抗を感じていたし、体力に自信がある訳ではなかった。
ハンターの需要はあまり多くはない。しかも、彼が求めたのは束縛されない自由な狩り場だった。
結果として、赤道直下の発展途上国の密林地帯で、狩りをすることにした。
母国を飛び出し、未開の地で動物を撃っては毛皮を売り、肉を喰らって生きていく。その夢に一抹の疑問も無く、一欠けらの不満感じない。
だが、彼は凡人的な脳しか持ち合わせていないゆえに、森に入っては手当たり次第に対象を駆除した。毛皮を剥ぐ技術も無く、肉を捌く度胸も無い。しかし、酒場で豪語した駆除数を誰が聞いたか、過剰な評価をされ、地元の大きな会社に専属の狩人として雇われる。
ここでは、主に日本に安価な材木として、もしくは紙として、ここでは木々が刈りだされる。彼の雇い主は、木々を伐採したせいで、多くの動物たちが移動し、減少した森林になだれ込む事で生態系が崩れることを防止するという名目で、伐採前の森での自主的な動物の狩猟を推奨していた。
大量の動物が移動すると、森が荒れ、木々の値段が下がる。過去には動物に作業員が襲われる痛ましい事故も起こっており、伐採の前に駆除するのが適当かという判断に至った。
無論、企業としては非難されないよう、あくまで自主的な活動として、働きには給金を掃い、持って行けば毛皮を買い取る程度だ。それでも相場の数倍近くの買い取り値故に、ハンターである彼の収入は馬鹿にならない。
ただし今は、木々を伐採した跡地に、輸出した金でレジャー施設を作ることに躍起になっている。巨大プールとホテル、ゴルフ場にテニスコートなど、ただしその敷地の大半は未だ整備のされていない森であり、昨今話題のエコとやらを売りにして、自然そのままを目玉に、世界の裕福層を釣る。
今のハンターの仕事は、観光地に相応しい土地にすべく、森の静かさを保つことだ。すなわちうるさい猿や危険な猪の駆除だ。
動物とは不思議なもので、一度駆除しても次から次へと増える。開いた縄張りに次の主が転がり込んでくる。駆除すべき対象は知らぬ内に戻ってきていて、次々と補填される様は自動販売機のようだ。品切れすれば入れ替えてくれる業者たる自然が存在する限り、ハンターは仕事に欠かない。
彼の行いをとがめる者もいない。
動物愛護団体や、環境団体は、愛くるしい、または珍しい動物については保護を叫ぶ。しかし、彼らにとって積極的に守るべき対象はパンダやクジラだけであり、可愛げ無い猿の類は全く興味がない。
クジラやイルカの肉を喰えば可哀想と謗るが、彼らの大半は平気でハンバーガーを口にするし、このように森を切り開いた土地でサマーバケーションと洒落こみ、朝食のバイキングのツナサラダが大好物だ。
ましてや発展途上国と称される未開の地にわざわざ猿どもを救いに出張ってきたりはしない。
なので、ハンターである彼には、世の中には動物を愛する人がおり、彼らから見れば、自分が極悪人に見られるとしても、どうでもよかった。
獲物を撃つ快楽、自分の腕に対する酔い、そしてそれによって金が得られる。得られた金で酒も買えれば、上等な毛皮のコートを女にプレゼントできる。これ以上の幸せは無く、そんな幸せな日常をただ享受していた。
ある一人のハンターがいた。
彼は森の中の獣道を歩いている。周囲の草は彼の背丈を越えている。木々はもっと高くそびえており、落ち葉の下でぬかるむ泥は踏む度に嫌な音を立てた。
湿度も温度も高い赤道直下は草も木も巨大で、得体の知れない虫も多い。おまけにその虫は栄養豊富な草や同類を食し、例によって巨大化する。
彼の仕事着である、長袖で襟の高いジャンパー、革で造られた長ズボンとブーツに、目を保護するためのゴーグルは、虫除けにはなるが暑さが堪える。
しかし彼の職場はここで、彼にとってそこは都会のクーラーの利いたオフィスより快適な職場だった。
彼はポケットから二世代ほど前の音楽プレーヤーを取り出した。イヤホンを耳に当て、お気に入りの曲を流し、鼻歌さえ歌う。
この音楽プレーヤーには、スピーカーもついているのだが、この森は様々な雑音に満ち、音楽鑑賞の場としては相応しくない。
陽気な死神が、鼻歌まじりのご機嫌な気分で侵入してきたことを、森は敏感に感じ取っている。虫達は他の動物たちの痕跡を隠すように葉を揺らめかせ、空を飛ぶ鳥が奇怪な声を上げる。
しかし猿たちはただ縄張りを侵される屈辱に怒っていた。
「
ああ、その時僕は人間ではなかったね。たぶんだけど。
うん、だって四本足で歩いていたし、何より知能が乏しかった。
そうだな、きれいな山だったかな。山に住んでいたと思うな。仲間はいっぱいいたけど、彼らの姿はあまりよく思い出せない。
どうしてかって問われると、困る。彼らがどんな存在かは知れたけど、彼らが何かは良く見なかったからね。
だって、なんて言えばいいのかな。僕らは人間だけど、お互いの姿を思い出す時、人間の誰それって思い出さないよね。
人間であることは確定事項で、その上で顔や背丈や、声を思い出すよね。
それと同じなのかな。
顔を覚えてたら猿かどうか分かるかって?
でも、猿とかの動物から見たら普通の顔だし、そんな、ああこいつ猿っぽい顔だな、なんて印象は持たないよ。
まあ、たぶん猿だと思うよ。
だって攻撃手段が泥を投げるだけだったから、あと、木に登れるのもあるかな。
思い出すと、そのとき僕は森の中を歩いていた。僕は何一つも違和感を覚えなかったね。だって僕はたぶん猿だったし、その猿は、自分が人間だったかもなんて考えないよね。
僕らが自分は実は猿だったかもなんて、自然に考えないようにね。
とにかく、僕は猿として生きてきていて、猿として生きていく途中だった。
僕らが、自分が本当に人間か疑わないように、猿の僕は自分が本当に猿か疑ったりしなかった。
だから僕は心まで猿だったのだろうね。
猿は昨日のことを考えたりしないし、明日のことを考えたりしない。自分の過去を後悔したり、未来を心配したりしない。
だから猿の僕はいつの間にか猿になった事にも気付かなかったし、どうしてここにいるのかも考えなかった。
つまり、深い知能は無いのだろうね。夢の中だけど、猿を体験した僕が言うのだから、きっと間違い無いよ。
」
ハンターたる彼は、自然と共生するということに、深い感銘を抱き、その生き方に憧れていた。
そして自分が、多少なりとも自然と共生できていると思い込んでいた。確証は無い思い込みであった。
それでも彼は、自分が古くのイヌイットやインディアン達と変わらず、狩猟という行為によって、自分の命が森と繋がっていると思っていた。
狩猟中の、本能が焼けるような高揚も、獲物を仕留めた後の達成感も、そして今の森の中を歩いているこの瞬間の、喜びが、自分が人間である以前に一体の動物であり、自然と共にあることを裏付けているような気さえしていた。
その感情は、殺人鬼のものと同じであり、それは動物の本能として肯定されるべきではない。
この森にとってはいきなり転がり込み、寄生を始めた殺人犯に過ぎないが、彼の思い込みは揺るぎなく、その確信を否定する存在も今のところは、いない。
故に、彼は自然と共生している。彼は自然無くしては生きていけない、一方的な依存の関係を、勝手に人の言葉で共生と称している。自然はそれを否定しない。彼は自然の大きな皿から溢れた一部を受け取り、不要なものを刈り取っているだけだ。意思無き自然を調整し、正しい方向に導いている。そう思っている。
その実、彼は森から命を奪い取り、森の愛した動物たちの血肉を汚物へと変え捨てていることに気付いていないし、気付いても認める事は無い。
彼にとっての狩り場は、日によって変わる。
狩り場の選択で最も大切なのは、そこが無線の使用できる場所だということだ。
あとは可能であればの話だが、他の狩人たちとなるべく被らず、獲物を運びやすい場所がいい。特に大物を狩るときは、なるたけ川辺での方が好ましい。未開の密林には車で入る道は無く、大物を運ぶならば、水の流れが作り出した道、川に船を浮かべるのが一番楽だ。
ただし、大体の場合狩る獲物は猿や猪の小物だ。大体の場合彼はそれらを撃つが、死体は持ち帰らない。そうすることで、肉体は森へと還る。森は静かになり、写真を撮れば雇い主からはボーナスが出る。
彼は、同業者達からはエセと謗られていた。動物の毛皮を剥ぎ、肉を捌けてこそと考える野蛮人共から言えば、エセだろう。
だが、自分が必要なのは獲物を狩った数だ。そしてそれが、もっとも高く売れる。他は森に還す。
それこそがあるべき姿で、必要のない物は森に還すことが、彼のもとに新たなる獲物を運んでくる。生命の偉大なサイクルの流れを理解しているからこその行為なのだ。
いつも通りの静かな森の中で、彼はお気に入りの曲を口ずさんだ。
「想像してごらん 天国なんて無いんだと」
音楽プレ―ヤーの、リピートのボタンを押し込む。
彼は古物市で買った愛用の散弾銃の残弾を確認した。古物市の店員が言うには第二次世界大戦頃の銃らしいが、まだまだ現役だ。
散弾銃は、弾によってはさほど殺傷能力は高くない。故に暴徒鎮圧等に使用されることもあるが、鉛玉片を込めた瞬間、凶悪な殺傷能力を持つ。
発射後拡散する鉛片は獲物の肢体をズタズタに引き裂く。その時点で生きていても大体は助からない。狩人から逃れきっても出血死が待っている。または、鉛の毒でだんだんと死ぬ。
鉛は毒だ。水に溶けやすく、拡散した鉛の欠片一つ一つから毒素は水と共に土に吸収される、やがて毒は木々から虫へ、虫から動物へと濃縮されてゆく。
彼はクラッカーのように、散弾銃を斜め前方に撃った。鳥撃ち用の物よりもやや大きい、8ミリ程度の鉛片が、拡散しては周囲の木々にめり込む。
木々は悲鳴こそあげないが、耳を塞いでいる彼にはたとえ上げたとしても聞こえないだろう。
今彼の意識は、獲物に向けられていた。
銃声の後、森はしんと静まり返った。風はただゆっくりと木々を揺らすが、ハンターの視界では木の葉も枝も、不自然なまでに微動だにしない。
ハンターは再度、今度は右の手前に生えていた幹の低いシダに似た若木に向け撃った。至近距離で弾丸を受けた幹は骨の軋むような音と共に折れると、近くの大木の幹に寄り掛かるようにして、動かなくなった。
彼がふっと息を吐いた。
「さあ想像してごらん みんながただ平和に生きているって」
動きがあったのは背後だった。聴覚を自ら塞いでいても、木の葉が跳ねあがる気配には気付く。
背後から、四肢を持った何かが飛び出してくる。彼は上体を捻るようにして、銃身でそれを叩き落とした。
銃の銃身は意外と壊れる精密機器だ。一見頑丈に見えても、実は脆い。見た目には異常がなくとも、歪みは銃弾を曲げる。曲がった銃弾は目的地に到達しない。
それでも、歴戦の中を耐え抜いてきたこの銃は、旧式故に異常な耐久力を有し、今回も耐えた。
地面に転がった、人間の子供ほどの、どこにでもいるような猿が悲鳴をあげた。意味は無論介せないが、苦痛に歪んだ断末魔か、死に逝く戦士が味方を鼓舞したか。その絶叫を合図にしたように、先程までは何も居なかったはずの右の木の幹と、左の岩の上に猿が躍り出る。
「殺す理由も死ぬ理由も無く そして宗教も無い」
それが飛びかかってこないうちに、利き手側、つまりは右側に向かって銃を撃った。
拡散した銃弾は、かなりの距離に威力を削がれたが、数発は猿の皮膚を貫く勢いを残したまま、憐れな獲物に殺到し、絶命にまでは至らなくとも、致命的な傷を負わせ、幹から叩き落とした。
「いつかあなたもみんな仲間になって きっと世界は」
その間に、左の猿は距離を詰めていた。飛びかかってきた猿は、ハンターの上体を抱え込むようにして掴みかかり、爪を立てる。今まで受けたことも無い獲物からの反撃に、ハンターは怯んだ。しかし、猿はありとあらゆる点で人に劣る。
動物に対しては十分すぎる攻撃ではあったが、猿の一撃はハンターの丈夫な上着を引き裂くには至らず、耳からお気に入りの音楽プレーヤーを弾き飛ばす程度だった。
ハンターは腕力に任せ、銃底を猿に叩きつけた。猿の爪に引っかかったままのジャンパーが破け、今まで感じた事の無いほどの生々しい、骨を砕く感触が手から伝わり、寒気が首筋を襲う。
彼が、銃弾でなく自分の手で獲物を殴り、その骨と肉を粉砕する感触を味わったのはこれが初めてだった。それを気味の悪い感覚と取らなかったのは、彼が今怒っていて、冷静さを欠いた脳の奥底がその感覚を快感と認識させたからだった。
弾の無くなった散弾銃を捨て、地面をのたうちながらも、生き延びる為に泥を掻く獲物へと、予備のリボルバータイプの銃を向けた。
その瞬間、後頭部に何かが当たった。それは銃弾でも石でも無く、泥だった。
振り返った視線の先に、彼のお気に入りの音楽プレーヤーを振り上げ、茂みに駆け込んだ猿がいた。
「
ああ、この話をするときにね、言おうと思っていたことがあるんだ。
環境問題ってあるでしょ?
よく、地球の為に自然の為にって言葉を使うでしょ?
でも、それって人間が楽に存続していくためであって、つまりは人の独りよがりなんだよ。
たとえ、この星から人が消え去ったって、地球はそのまま回り続けて、時間をかけて再生する。その再生を阻害しているのも人間だし、破壊しようとしているのも人間だ。
地球や自然にとっては、害虫を駆除できた方が得なのにね。
その話を聞いた時、僕ははっとしたんだ。
あの森を喰らう人間どもは、まさに害虫だった。
そう、僕は猿として怒っていて、仲間たちは怒りに身を任せ立ち向かって行った。
でも僕は猿になっても、臆病だったんだね。僕は、ハンターの武器が無くなるまで待とうと思った。そして、ハンターが武器を捨てた時、初めて、そこで初めて仲間と森の役に立とうと思った。
僕は彼の落とした音楽プレーヤーを使って……いや、あの時はそんな認識はしてなかったな、とりあえず、大切なものだろうと踏んで、注意を引こうと思った。
でも、対決しようという怒りは忘れていなかった。追いだしてやると思っていた。銃から距離を離させれば、敵には攻撃してくる手段はないだろうと思った。
だって、猿だったから、いつもと違う小さな何かが、まさか武器だとは思ってなかった。
僕は、近くの茂みに駆け込んだ。もちろん、相手が追ってきているのを確認して、ただ、駆け込んでからは何も考えてなかった。風と音が彼の位置を僕に教えてくれて、僕は度々茂みから駆けだしては敵に向けて泥や石を投げた。敵はその度こちらに向けて音を立てた。
たぶん、拳銃だろうね。まあ僕は武器の無い人間なんて自分たちとさして変わらず、森の加護を受けている自分の方が優れていると思っていた。拳銃の発砲音は僕の戦意を削ぐことはなかった。
恐怖より怒りが勝っていた。石も泥もさして効果がないと気付いた時、僕は白兵戦……って言うのかな。とにかく、引掻いて、追い返そうと思った。
その間に彼の音楽プレーヤーは泥だらけになっていたね。
僕は茂みから飛び出すと木に登った。音楽プレーヤーはイヤホンの部分を手に引っかけるようにして持っていた。
彼は撃ってこなかった。きっと弾が心もとなかったんだ。だから彼も接近戦を望んだ。必ず当てられる距離で、ってことかな。
僕ら二人の考えは一致した。接近戦でしか勝負が決められない。ただし、彼は僕を殺すために来ていて、僕は彼を追い返すことしか考えてなかった。殺せるとは思ってなかったし、殺されるとも思ってなかった。
僕は木の幹から音楽プレーヤーを投げ捨てた。彼はそれにはさほど反応していなかった。注意を逸らして襲いかかるという僕の作戦は却下された。それでも、今更僕は引けなかった。
木の幹から、他の木へと移って、僕は距離を詰めた。そうして、僕は彼に襲いかかった。僕の右手は彼の頬を捕え、左腕は彼の髪を掴んだ。次の一撃を繰り出そうとした僕の腕を、彼の左手が掴んだ。
彼の銃口は僕の脇腹に押し付けられた。彼が何か囁いた。途端に僕は危険を感じて彼の手を蹴った、野生の勘でね。
彼の銃は外れた。というより、彼は銃を取り落とした。でも僕も彼の服を掴むことができず、地面に落ちた。僕は地面を転がった。
落ちた時、蹴られた。痛くはなかったと思う。わからないや、そのあとすぐに死んだし。
」
宙を舞って、茂みに落ちた音楽プレーヤーは、最早どうでもよくなっていた。
殺してやる。その一念に駆られた頭は、いまや真っ白になり、双眸はただ獲物を見据えていた。
猿は木の上を、踊るように飛び、あっという間に距離を詰めた。
飛びかかってくる。その瞬間は思ったより早く訪れた。相手の猿は銃を警戒することなく、極めて直線的な動作で飛びついてくる。
避ける気は無かった。避けたところで、すぐに茂みにかけ込まれるのが見えている。
音楽プレーヤーのことは、既に頭に残っていなかった。彼は今やそれを取り返すという目的を忘れ、ただこの不愉快な猿を抹殺するために行動していた。
だから待った。猿が自分に組みつき、確実に銃弾を撃ち込める機会が到来する事を。多少の傷を負う事などは、この際二の次となっている。一番重要なのは、この怒りを発散させることだ。
猿の一撃は、彼の眼を狙っていた。
本来ならば抉られてもおかしくなかったはずの眼球は、ゴーグルがあったおかげで無傷だった。
しかし、彼の左頬は抉られた。その代わりに彼は次の一撃を防ぎ、猿の脇腹に銃口を押し付けた。チェックメイトだ、畜生と呟いた。だが、脳髄までもを震えさせる激痛と怒りに、銃口を引く指先に力が入る。
銃を支える他の指から力が抜けた。その瞬間、猿の蹴りが手の甲を直撃した。
手から銃がはじけ飛ぶ。再度走った痛みに、猿を取り落とした。地面を転がる猿をなんとか蹴ろうとするが、靴は泥を掻き、さほど威力が乗らなかった。
勢い余って転びかける、その一瞬に、猿は茂みに駆け込んでいた。
大声で悪態を吐き、彼は猿を追った。
「背後の怒声が、彼が僕を追ってきていることを教えてくれた」
彼は恐れていた。猿がこのまま逃げ、自分の怒りが矛先を失う。その不愉快な感覚を。
「あの時、僕は追われる事を恐れてはいなかった。むしろ、仕切り直せる点を都合よく思った」
彼は猿を見失った。風が周囲の草を揺らし、背の高い草たちは視界を遮る。風と草は、獲物の動きを巧妙に隠す。
「彼は止まった。僕は、それがきっと彼の音楽プレーヤーを持っていないからだと思った」
視覚も聴覚も、憎い猿の痕跡を確認できない。焦りと苛立ちで、彼は周囲の草を引きちぎった。
「慌てたね。彼が諦める前に、探し出さないといけない。まだ彼を逃がすわけにはいかなかった」
叫んだ。相手が驚くことを期待したわけではない。ただ暴言を吐かずには居られなかった。
「何故かって?僕は動物だったから、人間も動物のように、完全に屈服させ、追いだせば、戻ってこないと思っていた」
殺してやると誓った。誰に対して分からないが、彼は叫びながら誓った。
「馬鹿だったよね。屈服させても、また復讐に戻ってくる、それくらい今なら予測できるんだけどね」
彼は負けを認めていない。それは、最初から猿たちと勝負をしたと思っていないからだ。
「でも、その時は彼が逃げても、それで勝負はつかないと思った。彼を屈服させ、敗北を認めさせなくてはならない」
的に歯向われた、飼い犬に手を噛まれた。それだけのことだった。
「彼と戦い、叩きのめし、彼を永久に追放する。それが猿だった僕が、自分に課した使命だった」
彼はこの森を庭程度にしか思っておらず、猿たちは飼い犬どころか、駆除すれば喜ばれる雑草程度としか思っていない。
「だから、僕は彼を逃がすわけにはいかなかった。幸いなことに、僕の鋭敏な聴覚は風の音に交る静かな歌声を捕えた」
肩で息をしながら、彼は叫ぶのを止めた。それは、彼が音楽プレーヤーを思い出したからだ。
「きっと、僕が投げた時に、イヤホンが抜けたんだ。スピーカーから微かな音が漏れていた」
あの猿が、音楽プレーヤーをなかなか手放さなかったことを思い出す。
「それは、僕が登った木のすぐ近くの草むらの中に落ちていて、半分を泥に沈めていた」
あの猿は執拗なまでに音楽プレーヤーを手放さなかった。もしかしたら、あれを回収にくるかもしれない。
「僕は、それを手に取った。そのまま、茂みに駆け込んで、僕は何故かその音色に、何かを感じた」
猿が登っていた木の付近で、彼は周囲を見渡していた。猿の投げた先を見ておけばよかったと後悔する。
「僕は彼に気付いていなかった。彼も僕に気付いてなかった、風が、木々が、森が僕の手の中の音を隠していた。ただし、それは長くは続かなかった」
「人はみんな兄弟なんだって 想像してごらん みんなが」
その音は狩人である彼の耳にたしかに届いた。
そこで、僕は彼に初めて気付いた。
その時には手遅れだった。
僕は、葉の間を裂いて現れた手に顔を鷲掴みにされて、でも、それでも音楽プレーヤーを離さなかった。
宙ぶらりんのまま、腕を振り回したけど、効果は無かった。負けたと思った、かな。やっぱり良く分からないや。すぐに死んだから。
彼の冷えた銃口が僕の喉に押し当てられて、次に轟音が響いて、そして一切の音が消えて、僕の視界が真ん中から真っ白になった。
全ての感覚が消えた。そして、ゆっくりと戻って行く。
一番最初に戻ったのは、触覚……痛覚、かな。痛みじゃない。焼けるような熱さが喉を襲った。声は出なかったと思う。ただ喉が厚くて、咳込もうとしても咳込めなかった。
それが、僕が猿だからか。それとも、猿でも咳はできるが、喉に穴が空いちゃ咳ができないのかわからないけどね。
とりあえず、痛みを感じさせない程の熱さが襲ってきた。
次は視覚だろうね。真っ白は長くは続かなかったよ。すぐに、真ん中からじわじわと木々の葉っぱの合間の、空が見え始めた。
そして、それがほんのすこし遠ざかった。僕は落ちているんだと思った。
続いて、聴覚だ。自分の鼓動の音が無くなっている以外は、いつものような森の音が聞こえ始めた。
視覚と聴覚と触覚を取り戻して、僕は仰向けに地面に転がった。
そして、激痛だ。身体はほんのちょっと動いたね。でも、すぐに力が入らなくなった。
喉を掻きむしりたい程の激痛だ。でも手はちっとも動かず、喉からは声の代わりに泡の噴き出る音がした。やがて、寒くなっていく。
傷口は熱くて痛いままなのに、身体の先から冷えてゆく、寒くなっていく、凍えていく。
猿の僕は凍えた事なんてあまりなかったけどね。
不思議な感覚だった。体中の神経が、もうどうしようも無い傷口に集中してしまったような感覚。そこだけは、熱く痛いのに、他のところは寒くて何も感じない。
僕は生きようとしていた。でも、無理だったね。
ただ、僕が見たのは、僕を見下ろして、去ってゆく殺戮者の背中だった。
僕の掌の中には、まだ、音楽プレーヤーが残されていて、今度は端から視界が白くなっていった。
痛みが引いていく。でも、神経は身体に戻って行かない。地面に流れ出るように、痛みも熱も引いて、寒くなって、そして、何も感じなくなった。
味覚と嗅覚は、最後まで戻らなかった。
それで、つまり、僕は死んだ。
ここまで語り終えると、少年はフローリングの床を見つめていた双眸を静かに私に移した。
私はパソコンのキーボードから手を離した。彼の言葉を録音し続けていた、レコーダーのバッテリーを確認する。
「そうだ、これは夢の話だ」
私の書斎で、彼は木製の揺り椅子に座って、自分の見た夢の話を今まで語っていた。
私も彼と同じ形の揺り椅子に座り、机を挟んで彼と向かい合い、この少年であった猿の末路を聞きながら、私はこの憐れな少年に掛ける言葉を失っていた。
「僕を殺したハンターは、きっと実在しない、想像上の人物だ。」
私が彼の話の聞き手であり、壮大な実験の記録者であることを、そして彼を殺した狩人についての想像を許されたのは、偶然に過ぎないだろう。
それでも私は、心の内で普段はあまり信じていない神に罵倒を放ち、同時にこの少年の救いを乞うた。
「でも、僕にとって重要なのは、僕は彼に殺されることを体験し、彼のような人間がこの世界にいる可能性は否定できないと言う事だ」
私は、動物を殺して回る人か、そう聞いた。
彼は、生命を奪うもの、かな、と答えた。
「僕は人に失望してしまった。いや、だからって、僕は殺人者になるつもりはないよ」
この夢を彼に見せたのは、単なる脳の気まぐれとは思いたくない。
だが、神の意志としても、あまりにも酷過ぎる。
「ただし、僕は知ってほしくなった。死ぬ感触というものを、人に知って欲しくなった」
私は彼を止めようと思ったが、言葉が見つからなかった。彼は確たる使命感を持っている。
そして、その使命を全うすることを躊躇させるような理由を、私は持っていなかった。
「僕らは生きている限り、人は殺さずとも、何かの生き物を殺していく。なら、その痛みを少しでも知るべきだと思った」
私は黙ったままだった。彼は、その静かな意思を湛えた瞳を閉じ、頷いて言った。
「そうすれば、きっと人はもっと優しくなれる」
そうして、彼は胸元から銃を取り出し、自分の喉にあてがった。
私は、カメラを机の引き出しから取り出した。
「僕は、答え合わせをする。あれが、ただの夢でないことを証明する。」
両方の瞳で、私と、その向こうにあるべき多くの人々を見ながら、笑った。
「実は、最後まで動いたのは口だった。だから、同じなら僕は笑って見せる」
私はその写真を撮った。
「これは、二回死ねる、僕の使命だ」
静かに息を吸い込んで、私の息子である彼は最後に、私にこう言った。
「父さん、みんな兄弟なんだって 想像してごらん みんなが」
銃声が響いた。私は両目を閉じて、両手で耳を塞いで、黙っていた。頬を涙が流れた。
私は最後に一枚だけ、彼の肩に手を置いて、写真を撮った。
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2011/02/28(Mon)03:37:02 公開 / 寝不足
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■作者からのメッセージ
短編となります。
実は同じようなシチュエーションで死ぬ夢を見まして、あまりにリアルな感覚だったので
無駄にしたくないと思い、どうにか書いてみました。
やや書いていて無理を感じましたが、読んでいただけたならば幸いです。
ありがとうございました。