- 『ウタタネ荘』 作者:ヒサキ / リアル・現代 未分類
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全角11595.5文字
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原稿用紙約32.65枚
おはよう、またはこんにちは、あるいはこんばんは。
はじめまして、もしかしたら久しぶり、読者諸賢。
私である。
まごうことなく本物の私である。偽者だったり、ましてや読者諸賢の白昼夢ないし夢ではない。
御田切町等活通り裏ウタタネ荘一丸一号室の住人であり、現在久木高等学校二年生。愛すべき隣人達が華の青春真っ只中、私はただ一人冴えない日常を肩で風を切りながら謳歌し、他人の不幸をニヤケながら傍観する。学校内での友人関係は百倍に薄めたカルピスの如く希薄だが、悪友が三人居て、近所付き合いならばそこそこである。
私の部屋はウタタネ荘で(管理人室を除き)もっとも玄関近くにあるが、玄関はもう何年も前から使われていないらしく、立て付けが悪いどころか南京錠で施錠されたままびくともしない。
そのため私は毎朝こうしてわざわざ裏口から玄関前まで足を運び、自分宛に届いているかもしれない手紙とまちがいなく自分宛に届いている牛乳の瓶を回収しに行くのである。
あまり大きくないアパートなどではこの程度まったく苦にならぬ道程ではあるのだろうが、ウタタネ荘はいかんせん住人数の割りに大きすぎるうえに、なぜか裏口が三階の廊下の突き当たりにあり、日頃の運動不足解消にしてはちょっと厳しいくらいの運動をしなければならない。だが、この毎朝のウォーキングのおかげで、私は部活もしていないのにしなやかな体型を維持できているような気がするのだから文句は言えまい。感謝である。
階段を上がり三階のロビーに上がると、汚い床に寝そべって新聞を読む青年と目が合った。異様に細く切れ長の糸目が面長でくっきりとした輪郭線とあいまって狐を思わせる彼は、ウタタネ荘三丸八号室の住人、宮尾立道氏である。彼は自分のことを妖怪だといって譲らず、なんとなく他の住人から距離を置かれているが、カジュアル路線のダメージジーンズに何故か和服系の上着を羽織るという奇抜な服装がピッタリと嵌ってしまう辺り、私には時代と慣習を錯誤した狐の妖怪のように思えた。
「ありゃ、おはよう。なんだなんだい、君が三階に上がってくるとは珍しい」
「……何を言っているのですか、私は毎朝毎晩何度となくここを通っているではありませんか。私が上がってくることが珍しいのではなく宮尾さんが部屋から出てくることが珍しいのでしょう。というか三階に上がらねばこの建物から出ることも出来ないではないですか」
私が言うと、宮尾氏はうっすらと笑った。その様は欠伸をする狐に似ている。
「それもそうだねぇ。ま、いいや、こんな僕にまともに取り合ってくれるのは君くらいなものだしなぁ。ああそうだ、朝食は食べたかい? どうだい? 僕の部屋でお茶でも」
宮尾氏は新聞を畳みすばやく起き上がった。私の身長も低くは無いのだけれど、宮尾氏はそれ以上に身長が高い、立ち上がり、背筋を伸ばすと私を見下ろす形になる。
私は宮尾氏を見上げながら数秒思案し、お茶の誘いを丁重にお断りすることにした。
「嫌です」
何故なら、宮尾氏の部屋は正直言って汚いからだ。ウタタネ荘の住人は私を除きあまり部屋を綺麗にしていないが、宮尾氏の部屋はその中でも群を抜いて汚い。初めて入ったときはゴミ収集車が通り過ぎた時と似た香りを嗅がされて私は思わずなみだ目になったものだ。だがしかし、部屋は異常な臭いがするのに宮尾氏本人からは清潔な麻の香りしかしないのは何故か。甚だ疑問である。
「そうかい……残念だなぁ……静岡産の新茶があったんだけど。残念だ……」
静岡茶の誘惑に押され、部屋で無ければ喜んでご一緒させていただきますけどね、と私は一瞬そう言おうと思ったが。やめた。のんびりとお茶を濁されるくらいなら部屋の異臭をどうにかしてから誘って欲しかったからだ。
私は再び玄関前に向かった。一度振り返ると、宮尾氏ががっかりと肩を落としていた、本当に残念そうに項垂れるその姿は、やっぱり狐に似ていた。
▽
私は、名を耶麻野望と言い、ウタタネ荘二○三号室住んでいます。
身長は百五十六センチ、体重は最重要機密、スリーサイズは極秘事項です。
私の住むウタタネ荘というのは、御田切町という町の端っこにある等活通りという桜の綺麗な道の裏に横綱の如き重量感で佇む古い建物です。築何十年なのかは最早想像もつきませんが、聞いた話では戦前からあるものだとかそうではないとか。
外見は西洋のお城に日本の屋敷を足して三で割ったらよくないものだけが残ってしまったような、そんな外見をしています。昔見た幻想映画に出てくる屋敷によく似ています。
ウタタネ荘は、幻想映画のお屋敷に似ているだけあって不思議がいっぱいです。まず、何故かウタタネ荘の玄関は常に施錠されています。使おうと思えば南京錠を外してなんとでもなるそうです。早く外せばよいのにと思います。
よって、不承ながら三階の裏口から出入りをしているのですが、なんとこのウタタネ荘、部屋が二十六もありまして、三階建て、正直広すぎるのです。毎朝何十段も階段を上り下りするというのは正直つらいです。そして、このウタタネ荘という建物、部屋の数の割りに、住んでいる方が私を含めて八人ほどしか居ないのが不思議です。こんなに素晴らしい建物ですのに、こんなに部屋も余っているのに!
「大家さんは一体何をしているのでしょうか、もっと人を呼び込みウタタネ荘を賑やかにしちぇ……していこうという気持ちは無いのでしょうか!」
思わず口に出して思わず噛みました。
噛んだので朝からテンションが少し落ちました。何か損をした気分です。
と、噛んでまで持論を発表してみたところで、何も意味の無いことだということは私にも分かっております。
このウタタネ荘には、どうやら管理人が居ないようなのです。
いえ、居る事には居るのでしょうが誰もその姿を見たことがないのです。私達住人は、皆思い思いの時間帯に思い思いの行動をしています。一階に住まう九打さんなどはよく裏口前に陣取って転寝などを嗜んでおりますが、管理人らしき人がウタタネ荘に入ってくるところを見かけたことが無いそうです。
九打さんが見たことが無いのならば、二階に住む誇り高き万年ニートの実花家忠子さんならば、と思って問うて見ても結果は変わらず。
「私、もうここ八年くらいここにいるけどさ、そんな人見たことも聞いたことも無いね。案外大金持ちで、こんなボロ屋敷のことなんか忘れてんのかもしれないわよ。ほら、だってこんなどでかい建物に住人八人じゃ割に合わないでしょ、家賃も安いし。私だったらとっとと取り壊してるよ――あっ、でもそれじゃ家賃回収してんのは誰なんだろうね……?」
とのことでした。
ちなみに家賃は、月初めの日曜日に各人がポストに入れて、その日の晩になると『受け取りました』と書いた手紙に変わっているのです。
そんなほとんどウタタネ荘に関心の無い管理人に何を主張したとしても、何も変わったりはしないのでしょう。
はてさて、話は変わってウタタネ荘の二階と三階にはとても広いロビーがあるのですが、なにせ住人の数が部屋数に対して少ないので、ほとんど使われていないません。ですが本日はちょっと違ったようです。私が玄関前に設置してある共同ポストに足を運ぼうと三階に上がると、妖怪の宮尾さんががっくりと全身で落ち込んでなにやら独り言を言っておりました。宮尾さんは妖怪なのですが、何の妖怪なのか聞いても『騙したり、化かしたりする妖怪だよ』としか教えてくれず、肝心の名前を一切教えてくれない意地悪さんです。
私は、何故宮尾さんがこんなにも落ち込んでいるのか知りたいという好奇心に駆られました。自分勝手な感情ですが、私はまだまだ若いのです、乙女は猫の如く好奇心旺盛でなければならないのです。そうすることで運命の男性とめぐり合う確率も上がろうというものです。思い立っていたら行動せねばならないのです。恋の急行には駆け込み乗車をするくらいでないと乗り込めないのです。
もちろん、宮尾さんが運命の人ではないという確信がありますが。
「宮尾さん。何を落ち込んでいるんですか宮尾さんらしくも無い。頑張って、ほら頑張って! あしーたがあるーさー明日があるー――ところであなたは一体何の妖怪なんですか?」
「そうだよねぇ、僕はまだずっと生きていけるものねぇ……けれど明日誘ってもなんだか断られそうなんだよねぇ。というか頑張っている人に対して頑張ってって言うのは禁句だったような気がするなぁ……」
宮尾さんは一瞬何かを思い出すような顔になりましたが、再びぶつぶつと独白を始めてしまいました。私が話しかけているのにも気づいているのか居ないのか、ふんふんうんうんと相槌を打つばかりです。
つまらなくなってしまった私は、宮尾さんをその場に放置して当初の予定通りポストに向かうことにしました、宮尾さんの相手は、もう一度ここに来てもまだうじうじしている様であったらしてあげましょうと思いました。
三○四号室の前を通ったとき、賑やかな話し声が聞こえました。三○四号室と言えば、仲良しカップルの粳さんと三室さんの部屋です。朝からお盛んなことではありますが、なんと言ってもほほえましいその声に、私の頬は自然と緩んでしまいました。
少々暑いですが、今日もまた、よい日になりそうな気がします。
▽
定職に就かず、フリーターとしてただ毎日を退廃的に、かつ堕落的に生きることに全力を尽くしている俺が、こんな早朝に枕で顔を覆われるという窒息しかねない方法でたたき起こされ、同居人の小言を聞かされなければならないのか、それは何故か。
それはなんと、俺が昨日の晩同居人の朝食を用意せずに眠ってしまったからだ――……確か、そうだ、そんなきがする。というか、そんなことでいちいち人の呼吸を止めようとしないでほしい。俺はまだまだ先が長いから自堕落に生きているだけであって、人生最後の日となればそれこそ熱い液体の分子の如くはじけて動きまわるに違いないと思っている、うそじゃない。
まぁ、同居人との約束をいとも容易く破り、怒られるというのもなんとなく自堕落な生活のせいな気がするので、小言ぐらい甘んじて受けねばならないとはおもう。真には受けない。
同居人は今、ガキみたいなセンスの青いパジャマを上下で着て、俺を睨みすぎたのか黒目が何処かへ行ってしまい、ほぼ白目になった逆三角形の瞳をあちらこちらへぐるんぐるんと回しながら、近所迷惑もここに極まれりという感じでハイトーンボイスを撒き散らしている。気がする。
気がする、というのもいかんせん俺は朝が弱く起床してから三十分は何も頭に入らない、入れる気も無い。そんなものは締め出すしかない。
「だから、聴いてるかい!?」
粳が正座している俺の顔をのぞき込みながら言った。正直眠くて焦点が定まらず、なんだか煎餅にゴマを飛ばしたような前衛的で美味しそうな情景が広がっている……あっ、煎餅みたいに見えるのは粳の顔か。
「聞いているともさぁーぁ……」
ぼへぇーとしたまま俺がそう答えると、粳はない胸をそらせて俺の額に人差し指を就きたてた「ならば、今言ったことを復唱したまえよ!」
どうでもいいが、眉間の前に尖ったものを置かれると、なんだが眉間がぬわんぬわんする。先端恐怖症という奴だろうか。ちょっと違うか……? そう言えば俺めがねも駄目だったな……ぬわんぬわんするから。
「おーぅともさぁー。えーと煎餅みたいな眉間がぬわんぬわんする。だっけ?」
「ふざけるなぁ! なんで君はそう愚鈍なんだ。あぁぁあぁ信じがたい! 朝が弱いのならしっかりと生活習慣を整えたまえ、そもそも夜が遅いからそんなことになる! だいたいなんだい、今夜も朝帰りだったようじゃないか、なにをこの私を差し置いてなにを悠々自適にに遊びほうけているんだなにを! 私だって本当はもっと二人の時間を大切にしたいんだぞ! というかそもそも君は堕落しすぎだ! 人間というものは、えてして自分がが思う以上に素晴らしいはず――」
あ、駄目だこれ。寝るわ。なんか高校時代の校長の話し聞いてる気分だわ。
「――おい聴いているのか、おーい、起きて、ね、起きて、おーぃ……だめだ、きいちゃいない。もういいから、ご飯炊いてなかったことなんていいから、いやよくないけど。もうパンでいいから、お腹減ったから早くパンを焼いてくれたまえ。ホラッ、焼いてっ、焼いてっ、早く」
「痛い、痛い、ごめん。シャーペンで指先を刺すな」
桃源郷に旅立ちかけていた俺の魂は、目の前の小さい女に無理やり現実に引き戻された、どうやら俺にはまだ使命が残っていたらしい、パンを焼いて粳に食わせるという使命が……
粳にせかされるまま、俺は汚いキッチンに立った。
キッチンに立って、手を洗うついでに顔もバシャバシャと洗うと、ほんの少しだけ頭がすっきりしてきた。
「あーぁ、眠いっ」
けど、水周りがしっかり整っているというのは幸せなことだなぁ……
現在俺らの暮らしているウタタネ荘という下宿は不気味かつおどろおどろしい外装に反して、内面は汚いことを除いて存外きっちりとしている、風呂場はあるし、コンセントだって多くて使いやすい。キッチンも一人で料理する分には全然窮屈には感じない(少なくとも俺らの部屋は)。
「ほら早く! パンだパンッ、なにかこの前セールだとかで君が買ってきた安物のパンがそこの棚の中のしこたま詰め込まれているだろう。もうそれでいいから、パリッと焼いてたっぷりとチョコを塗ってくれ、甘くないとパンなんて食べられたものじゃいないからな。なんだアレ、パサパサする。日本人ならばやはり米だろうが、米。なんで炊いておいてくれなかったんだ米……」
「はいはい――あっ……チョコない、買いそびれてるわ……砂糖水でいい? 甘いし」
「ふざけるなぁっ――――!」
今だ後ろで長い黒髪を前後左右縦横無尽にしならせながら、朝から絶好調の舌を、さながらマシンガンの如く打ち鳴らす小さい女は、粳銘という。現在俺が付き合っている女で、いずれは結婚、とかなればいいなぁ。と思っている女でもある。
粳とは、三年ほど前にウタタネ荘の前で知りあったのが馴れ初めで、それゆえか粳は同棲するならばココに決めていた。
粳は非常にいい女だ、スタイルは中学生みたいだけど、まず美人だし、性格だってしっかりしているし(多少わがままな面を除けば)服装だって外出するときはお洒落だし、料理やら家事やらはほとんど出来ないけれど(というかそんなものは俺がすればいい)、数字やPCなどの機械関連滅法強い。
俺らの総合収入の多くを占めているのは俺のバイト代ではなく、粳のよく分からない会社からもらってきた仕事の報酬である。
仕事の内容はよく分からないけれど、プログラミングとかそういうものらしい。確か前見たときはPCの画面いっぱいに大量の数字が流れていたような気がする。そのときは丁度前の日にテレビでマトリックスの再放送をやっていただけに、少し不気味になった。別にエージェントさんが仲間を増やしに乗り込んで来るわけでも無いんだが。
と、考えながら俺はフライパンの上でこんがりと焼けた一斤百円しないパンを皿の上に移動させ、冷蔵庫の置くからメイプルシロップを引っ張り出してこれでもかというほど塗った――いや、それでも足りないかと思い、自分でも引くくらいぶっ掛けてしまった。
なんだかメイプルシロップを塗ったパンではなくメイプルシロップの中に突っ込まれたパンみたいになってしまった。見るからに体に悪そうだ……なんだか、パンに申し訳なくなってきた。
「ホレ」
と、部屋の中央に置かれているちゃぶ台にパンのメイプルシロップ漬けを置き、俺は再び桃源郷に旅立つべく布団の上に倒れ付し睡魔の到来を心待ちにしていた。
粳は、なんだかべちゃべちゃするとかやっぱりチョコがいいから今度買って来いだとか言いながらも、皿にこびり付いたメイプルシロップまで綺麗に指でなめとった頃にはすっかり機嫌も直っていたようだった。
少しすると、うつぶせに倒れた俺の横に、粳がもすっと倒れてきた。
「……二度寝はしない主義じゃなかったっけぇ……?」
「……二度寝じゃない休んでるだけ」
なんか心なし不貞腐れているような気がしないでもないが、とりあえず、
「……あぁ、もう暑い――もうちょっと離れて寝てくれ、今日は暑い」
手で粳の小さな肩を押し少しだけ遠くに押しやる。
が、そのときである。
隣で、聴こえるはずの無いブチッという擬音がした。恐る恐る顔を横に向ける、すると黒目がまた何処かに消えうせ、こめかみに青筋が浮かび、けれど口元は薄ら笑いの粳が……
「……お前は……お前は乙女心をなんだとおもってんだこのばかっつらぁぁあ!!」
封印しているはずの、地元静岡県の方言まで飛び出し、右手が異常な速さで床に転がっていた俺の二キロダンベルに伸びていた。
俺はせまりくる危険をいち早く察知し、靴を履くことすらせず一目散に部屋から逃亡した。
▽
「というわけで匿って欲しいっ」
「どういうわけかよく分からないけど、なるほどねぇ、痴話喧嘩か……微笑ましい限りだねぇ。ふむ、でも私の部屋は向こうだし、どうしたものかな」
僕は今、一人の青年に頼みごとをされている。匿って欲しいと聞くと力になってやりたいと思うが、それが痴話喧嘩ともなるとどうにも他人が干渉していい範疇であろうか、僕としては非常に判断に悩むところだ。
つい先程の話である。時間にして六秒ほど前、僕が三階のロビーにて今後のあの子に対するアプローチの方法を三十六通り程思案していたところ、隣人である三室遼くんが、まさにそっ首叩き落されんという形相で走ってきた。
三室遼くんとは、愛すべき我が居城ウタタネ荘の三○四号室に彼の恋仲であるところの粳銘くんと共に自堕落に(あくまで彼が堕落しているだけであって、粳くんはとてもしっかりとした女性である。彼女の名誉のために言っておく)に暮らすフリーターの青年だ。彼は、実は気がよく回り能力も高い豊臣秀吉のような男であるのだけど、いかんせん鈍感で空気を読まない行動をすることがあり、そのせいでしばしば繊細な粳くんの心を逆なですることがあるようだった。
今回もまたそのような事だと思ったけど、一応の事情は説明してもらった。
そこまで急く事も無かろうに。三室くんは粳くんの朝食を作るのを忘れたからだとか、パン食にしようと思ったら好物のチョコを買い忘れていただとかよく分からない事を捲くし立て要領を得なかったが、要約すると、彼が持ち前の適当さと我道を行く精神をいかんなく発揮し、粳くんの機嫌を損ね、そこそこ命にかかわるかもしれないピンチだ、ということでいいのだろうか。
耳を済ませてみると、遠くからスン、スン、さん、たんと少し遅い感覚の足音が聞こえた。どうやら誰かがこちらに向かって歩いてきているらしい。
話と歩き方から察するに、恐らく怒り心頭の粳くんだろう。寝起きの粳くんだとするとパジャマを着ているはずだから……パジャマならいつもより軽い音がするはずだけど、今は少しばかり重い。普段より体重が数キロ増えていると考えて良いのかな……? ん、若干右足の足取りが芳しくない、ふむ、体重も増えているし右手になにか重いものを持っているのかな、バックかなにかかな?
「ふむ、粳くんがゆっくりとこっちに来ているね。何か持っている……重いものだ、何かな」
三室君がハッとして答える。
「うわっ、それ俺のダンベルだ。プラスチック製で持ちやすいから持って出てきたのか。くそう、普段は『そんな重いものは乙女の持つものではない』とか言って触れさえしないくせに! 食べ物に対してのなんて執念だ……」
「とりあえずこちらに来たまえ、匿ってしんぜよう。話はその後でゆっくりとしようじゃないか」
僕は小走りしながら三室君を連れ立って二階へと降りることにした。僕の部屋へ連れて行こうとすれば必然的に粳くんと遭遇することになるだろうし、ここは二階の実花家くんの部屋にお邪魔させてもらうとしよう。
とりあえずは階段に向かう。
「ちょっ、どこ行くんだ!?」
「大きな声を出すものじゃない、悟られるぞ。安心したまえ、実花家くんの部屋さ」
言って僕は跳んだ。粳くんの足ならたとえ走って追って来ようとも追いつかれるれることは無いだろうが念には念を押すに限る。いそぐのならば十段飛ばしが望ましい。
「実花家さんの部屋!? アンタ前勝手に入って下着ドロと間違えられてしばかれてなかったか!? ――ていうかアンタ早い! ちょっと待てちょっと待てよ!」
三室くんは今だ階段の中ごろを降りている最中のようだった。追われる者が追う者から逃げようとしているのに何をとろとろしているのか。僕は二階のロビーに軟着地し、振り返ることなく言った。
「何を戯言を、大の男なら階段の十段や二十段くらいすっ飛ばして降りるくらいの気概を持っているだろう」
「ふざけんなそんなことしたら膝が大ダメージを負うわ!」
実花家くんの部屋は確か……二○六だったかな?
「ほら、早く早く、巻いてしまわねば意味が無い」
んむ、遠くて確証はないが、恐らく実花家くんは今部屋にいない。早起きの実花家くんの部屋からこの時間帯に生活音がしないということは……今頃いつもの蕎麦屋で趣味の博打にでも興じているのかな?
早足で実花家くんの部屋の近くまでいくと、ドアの前まで来てようやく確信を得ることが出来た。中には誰もいない、生活音はおろか寝息さえ聴こえない。大丈夫だろう。
「おぅ、三室くんが運が良いねぇ。実花家くんは今外出中のようだ」
ようやく追いついてきた三室君は焦りに焦っていた。いずれは家庭を守る男が何をうろたえているのか。もっと芯を持って生きて欲しいものだ。
「オイオイ居ないってことは鍵が掛かってんじゃないか? ヤバイ、袋のねずみだ。強行突破で外まで走るしかないか……運が良くてダンベル一発、耐えられるか俺……?」
「まぁまぁ落ち着いて、確かに鍵は掛かっているけど……よっ、むっ実花家くんめ、また鍵を変えたな……? よいしょ――」
「……おい、アンタ一体なにしてるんだ?」
「――ホラ、開いた」
「アンタそれ立派な犯ざ――」
何を失敬な、妖怪が人間の住処に入り茶を飲むのはもはや礼儀だ。ぬらりひょんという妖怪の存在を知らないのか。
僕は三室君の上着の襟を掴み半ば無理やり部屋に引っ張り込み鍵をかけた。
これで良いだろう、粳くんもウタタネ荘の中を三室くん目当てにしばらく探し回ればそのうちお腹が減っておとなしくなるに違いない。
後は……願わくば僕たちがここに居る間に実花家くんが帰ってこないことを祈るばかりだ。
▽
はてさて、読者諸賢。再び話し手の役が私に戻ってきたわけではあるが、どうやらこちらはこちらで、私個人の情報を開示するような話をするわけにもいかない状況になってしまっているようだ。
とても面白い。
私も日常生活をまっとうかつ社会的に暮らしをしているからには、最低限のルールを守り、モラルを考えて生きているわけである。ルールを守っていればルールに守られるというのはよく言ったもので、逆説、ルールを守らないものはルールから手痛い攻撃を受けるのである。それはもう致命傷になりかねない攻撃を。出来ればそんなものは生涯ごめんこうむりたいものである。
まぁ、実際彼らが今までルールを守ってきたか否かは私の知り及ぶところではないが、まっとうに生きていればこんな所でこんなに面白いことに合う事もなかったであろうからまぁ守らなかったという方向でよいだろう――まぁそんなものはどうでもいい。彼らは今、ウタタネ荘の玄関前に土下座をさせられ、現在所在不明の管理人に代わり『ウタタネ荘のルール』を定める二階の住人、実花家忠子氏に長々と説教をされているわけである。
ちなみに、私は存在を悟られぬよう共同ポストの裏で暗躍している。具体的に何をどう暗躍しているかと問われれば、今にもこぼれてきそうな笑い声を肺活量と精神力を総動員して堪えているわけである。これが存外重労働でお腹に来る、よじれて千切れてしまいそうである。
何故彼らがアレほど惨めな状況になっているのか興味がわいただろうか。なに、たいしたことは無い。私の読みでは彼ら、実花家氏に賭博関係のイザコザで吹っかけたのだと見える。愚にもつかない実に浅はかで先走った行動である。
土下座させられているのは二人、一人は若く見えもう一人は隣の青年より若干体格の良い青年である。どちらもまだ少なく見積もっても高校卒業目前、社会に出る前にこのような経験が出来たのは良いことと捉えられる度量が彼らにはあるだろうか、ないだろう。あればそもそも賭け事に熱くなったりなんかしない。
「酒におぼれ女におぼれ、世の荒波に揉まれても! 捨てちゃならねぇ男の意地を! てめぇら一体どこに落としてきやがった!? 歩き続けた人の道! 踏み外したのは――」
さっきから永遠とこの調子である。実花家氏は説教をする際何故か短歌(本人曰くである、私は最初聞いたとき気づかなかったし、今もよく分からない)を連発するが、どれも出来が低くありきたりで、しかも後から後から切りまくるものだからどうにも印象が薄くなってしまう。短歌とはここぞというところで魂を込めて言うのが正解であって決して全ての言葉に魂を乗せなくとも良いではないか。近頃私はそう思い始めたのだが――まぁどうでもいい。
それから少しの間実花家氏の説教劇場を眺めていたのだが、そんな私の視界の端に、写りこむ小さい人が他の影が一つ。風に乗ってふわふわ波打つピンク色のワンピース、短く茶色がかった髪に、化粧もせずに人の目を引く丹精で色白の顔。そして何より特徴的なのはいつも手をワタワタと動かすその仕草。こちらに困った表情を向ける彼女は、いつもニコニコ脳内お花畑、実花家さんと同じく二階に住む、摩耶野望氏ではないか。
何故ここに、とは思うまい。摩耶野氏もまた、裏口から出てここに新聞ないし郵便物の回収に来たに違いない。だがしかし、残念ながら玄関前は謎の面白短歌乱発劇場になってしまっている、どうしたものかと私に問いかけてきているに違いない。
私はどうしようか数秒思案したが、結局はポストの裏から出て実花家氏に歩み寄った。
「人の道は業の道! されど――あ?」
実花家氏は大きい、恐らくは宮尾氏と同じくらいか。褐色の肌に凄まじく似合う黒いタンクトップから伸びる腕は長くしなやかでかつ強靭であり、ムチを思わせる。その伝家の宝刀たる右の腕には、肩から手の甲にまでかけて幾何学模様の白いタトゥーが縦横無尽に走っている。髪は染めたとすぐに判断できる目に痛い真っ赤で、まるで男性のように短く刈り込んでいる。けれど良く似合う。
銜えて人相もお世辞にもよいとは言えず、正直、実花家氏は怖い。町ですれ違ったら二度見してしまうくらい怖い。だがしかし、怖いのは所詮外見だけである。
「実花家さん、アレ」
実花家氏は私の登場にいささか戸惑い気味であったが、私がちょいちょいと摩耶野氏の方を指差すとすぐさま状況を把握したらしく、土下座させていた青年二人に向かって二千円札を一枚づつ投げてよこした。
「――まぁ、初めてのアンタらに本気を出したアタシも悪かったよ。今回はこの辺にしといてあげるから、今日はこれでなんかうまいもんでも食べて、また挑戦しにきな。私はいつでも夢想仙にいるから。くれぐれも、腹いせに人様に暴力なんて振るうんじゃないよ」
夢想仙とは、実花家氏行きつけの蕎麦屋であり、定期的に小金をかけた賭場が開催される場所でもある。どうやら近頃その手の仕事の皆さんに目をつけられているらしいが、宮尾氏をしてまるで本物の仙人、と言わせしめるたる大将ならば、なんの問題も無かろう。
二千円札を受け取った青年達は何度も実花家氏に礼を言い、なんだか哀愁と充実感に満ち溢れた背中をさらしながらウタタネ荘の敷地から出て行った。まるで安いドラマである。
私としては、もう少し面白短歌劇場を観覧しておきたかったところなのだが……まぁ仕方があるまい。
近所づきあいのための布石は打って置くことに越したことは無いのだ、私はそう確信する。特にこの、ウタタネ荘では。
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2011/03/09(Wed)19:46:00 公開 / ヒサキ
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■作者からのメッセージ
始めまして、このたび友人に進められこのサイトに小説を書いてみることになりました。
拙い文章ではございますが、頑張って最後まで書き続けていきます!
習作なため、至らぬ点多々あると思います、アドバイス等々もぜひお願いいたします。
それではよろしくお願いいたします。