- 『ビューティフル・ナイト 【後編】』 作者:アイ / ファンタジー 未分類
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全角41544文字
容量83088 bytes
原稿用紙約114.25枚
何が僕たちをこの島にとどめるのだろう。今の日本はどうして、この『何もない島』を渇望してやまないのか――。本土に強い憧れをいだいていたミナはとうとう、祭りへの参加を表明する。島の最北端の海岸線で和明がとらえた、本土のラジオ放送の電波。東亜戦争、感染症、そしてタカネノハナの強いニーズ。優しく降りつづける雨の中、祭囃子が鳴る。子供たちが、踊る。………そして、脅威が平和な島に牙をむく。隆人は大切な人のために、命をかけた。
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石か何かをふんづけたのか、ごろりとスニーカーの底が転がってすべった。両手をふりまわして体制を立てなおすと、背後からついてきていた利香が「はん」と笑った。鼻で。しめしあわせたように鳥が何匹か、頭上でばさばさと飛びたっていった。
「そのままこけて坂道をごろごろごろーって転がっていけばいいのに」
「時代劇で、階段の上で斬られて階段を転がる侍みたいに?」
「そうそう、しかも隆人の場合は超田舎侍」
フナ侍が、殿中でござる! ただでさえ山道で息があがっているというのに、その疲れで逆にテンションがあがった僕と利香はそのまま松の廊下ごっこを開始する。僕は足元にころがっていた手頃な木の枝を拾って、浅野長矩さながら利香の胸元を切りつける真似をする。「ぐあーっ」とうめき声をあげてみせた吉良上野介は直後に腹をかかえて笑いだす。
数秒間、忠臣蔵をやっていた僕らのあいだに和明が割ってはいって僕らをひきはなした。
「はいはい、遊んでないでさっさと歩く」
疲れているのかそれだけ吐き捨ててひょいひょいとあぜ道をすすんでゆく和明に、僕は「よくやるよ」とつぶやいた。利香がため息をつく。
「ここまで来なくてもいいと思うんだけど」
そうして僕らはふたたび、延々とつづく山道をのぼっていった。
和明が旧米軍基地付近で見つけた古いラジオは、スイッチを入れると奇跡的に機能はするものの、雑音ばかりで何も音を受信しなかった。何度も何度も周波ダイヤルをカチカチまわしている和明を見て、僕は「本土に一番近い陸地でスイッチいれたらいんじゃね」と何気なくつぶやいた。それが和明に標準装備されていた冒険心をかりたて、ならば行こうさあ行こうと身支度をととのえた彼にひっぱりつれられた。目指すは最北の海岸線。村を北上していると利香につかまり、いつもどおり「あたしも行く」と便乗され、三人で小旅行ということになって今に至る。
もともとそんなに大きな島ではないので徒歩でも二時間あれば島の端までたどりつける。僕らの住む港村は島の南西部にあり、その他七十パーセントは山林および湿地帯である。基本的に子供は立ち入り禁止だが、そんなことをいちいち守っているやつはいない。しかし、島の北側にまわりこむとなればちょっとした苦行だ。
港から海岸線沿いに歩いて、浜が途切れると雑木林の中にはいる。舗装されていないあぜ道を一時間も歩けばすぐ島の最北端に着くのだが、その一時間が長すぎた。実際に流れている時間よりもはるかに早く、僕らの体力は無駄に奪われていく。
「もうそろそろなんだけどなあ」
和明がつぶやく。思いたった吉日が命日になりかねん。子供のころに探検しただいたいの記憶をなぞりながらなうえ、雨も届かない深い雑木林の中は方向感覚を狂わせる。足元で何度も折れる木の枝や葉に、雨が染みて軽くぬかるんだ地面。じめじめと不快な空気。人の手がくわわらないだけでこんなにも自然のまま残るものかと唖然とした。僕がひきこもりなだけかも知れないが。
背中にぴちゃりと水滴が落ちて背筋が緊張する。そうして顔をあげた瞬間、長い雑木林の終着点が見えた。先頭を行く和明が「着いたぞ」とふりかえる。視界がひらけ、海岸線に出る。さほど広くもないが砂浜があり、林の中から流れた雨水が自然とちいさな川を作り海に流れている。あちこちで顔を出す大きな岩の隙間を流れる水。それらを飛びこえながら浜に出ると、急に伸びがしたくなった。背をそらせて、久しぶりの雨を身体いっぱいに浴びる。僕らは持ってきた傘をさした。
比較的おだやかな海を前に和明は波打ち際で片膝をつき、ポケットに入れていた旧式のラジオを出した。僕と利香も彼のとなりにしゃがむ。「やるぞ」和明のつぶやきと共にカチリと電源スイッチが入る。とたん、ザーという雑音がめいっぱい流れ、やっぱり駄目かと僕らはいっせいに肩を落とした。そりゃそうだ。ここは本州からかなり離れてるうえに、天気も悪く、受信媒体は旧式のラジオなのだから、条件が悪すぎる。
しょせんは鎖島なのだ。外交をこばんだ、自然がそのまま残っている島。守り主であるところの神は、たったひとつのちいさな米軍の遺物ですら機能することを許さなかった。寵愛ゆえの束縛か、ただの軟禁か。僕らには分からない。
「一応、メイド・イン・ジャパンなんだけどなあ」
和明がラジオをひっくりかえしてつぶやく。関係ないでしょ、とぼやいた利香の声にまじって、ほんの一瞬、雑音がとぎれた。和明は驚いて音量をあげる。ときおり、プツプツと雑音がとぎれて電波を受信する。その断末魔のような声を拾って、僕らはラジオのスピーカーに耳を寄せた。少しずつ鮮明になりつつある音。
<――――ん閣諸……う領はき……未め――――う政権……し日韓米軍事同盟に現在も強く反……る意思……明……――――>
ピー、と雑音に周波数の高い高音がまじり、僕らはいっせいに耳をふさいだ。和明があわてて電源を切ると、ヘッドホンのコードをふいに抜いたように静かになる。波の音が周囲をゆっくりと満たしなおす。ため息をついた和明が、ラジオをからからとふって言う。
「日韓米軍事同盟って、昔できた安保条約的なやつだっけ」
利香がうーんと頭をかかえる。僕も詳しくは知らない。基本的に本土の情報はほとんど入ってこない離島なので、十八年前よりこちらの社会情勢は本土から気まぐれに贈られる文献でしか確認できない。その点、本土からぞんざいに扱われているとも言うが。
強固な安保体制を構築するため日韓米軍事同盟がむすばれ、巨大国家・大華共和国の周辺諸国に対する暴挙に耐えかねた各国政府が反論。やがて二年がかりの東亜戦争に発展し、しかし沖縄や水無孤島に米軍基地を持つ日本はさほど影響されなかった。現在は下火になっている。
僕らが知らされているのはそんなところだ。
「安保条約的というか、なんというか」利香がため息をつく。
「あれって十八年前の話だろ。俺さ、絶対東亜戦争とタカネノハナ、関係あると思うんだよなあ」
「それに関してなら」僕は立ちあがりながら言った。「ミナが水野さんに訊いてた」
「で、回答のほどは」
「答えてくれなかったって。子供が知ることじゃないとかなんとか。そもそもこのこと、役人にしか知られてなさそうじゃね?」
だろうなあ、と和明が肩を落とす。「でもこのラジオ、電波受信できるんだね」と利香が笑う。それだけでも和明にとってはじゅうぶんな収穫だ。おもしろいおもちゃになったに違いない。
二十年前に勃発した東亜戦争。それにともないはじまったタカネノハナの大量出荷。そして島の自然封鎖。
なんとなくそれぞれがつながる理由が見えている。だが確信が持てない。戦争についてもじゅうぶんに知っているわけではない。
僕らは結局外交だってうまくいっていないんだ。そう思えば足元がプリンの上にいるようにふらつく。この島は、今も昔も、日本の島だっていうのに。川をはさんだあちらとこちらの岸のように、僕らは水を盾にしている。広大な海。
和明はもう一度ラジオの電源を入れた。ふたたび雑音があたり一帯を暴力的なまでに浸食し、かすかに聴こえるニュース番組をさえぎる。途切れがちなキャスターの言葉の中に、感染症、という物騒な単語が混じっていることに、僕ら全員が気がついた。頭の中でコンセントを差しこむように、いくつもの多彩な駒があるべきマス目へと移動しつつある。王を狙い、ひとつひとつ。
「この海のむこうには」
和明が坂本竜馬のように水平線を見すえた。「誰がいるんだろうな」
そりゃ日本人だろうぜ、と答えることははばかられた。探検好き、おもしろいこと好きの和明がシンプルな回答を求めているとは思えないし、僕だって嫌いだ。
「かつて大日本共和国は、いろんなものが世界で上から何番目かっていう先進国で」
僕は静かに語りはじめた。子猫に説明するように、静かに。
「車や家電や医学では最先端をひたはしっていたのに、東亜戦争が勃発する十年ほど前から堕落しきって、隣の華国に余裕で追いぬかれた。医学は超絶発達してるけど、それぐらいしか誇れるものがないらしいよ。本土の医大を出た母さんがそう言ってた。臓器移植や難しい脳外科手術で来日する外国人がうんと増えたけど、学力や就職率はあいかわらずの低空飛行。昔と比べるとずいぶん貧富の差も広がったって」
利香はしゃがんだまま、傘の柄をぎゅっとつかんだ。和明は何も言わない。僕はじっと寄せ返しする波を見ていた。雨がぱたぱたと傘の表面を叩く。
「でさ、二億三千万人の日本人口まるごと寂しい人たち的な国になっちゃって、誰もが何かに貪欲で、だけど何かがなんなのかも分からないまま長い寿命を迷走してるのが今の大日本共和国なんだって。日々を生きるのにも疲れて、競うことも向上することも無駄だとはやくから覚えて、そのくせ周囲が仮想敵を相手に混乱している。まるでだだっぴろくてなまあたたかい大海原を大量の食糧をかかえてボートでただよっているような、そんな国だって、ばあちゃんが言ってた。その中で、水無孤島は神様に守られた島だっていう言い伝えが生きていて、神の花であるタカネノハナが今もあちこちで咲いていて、のんびりした時間が流れてて、たとえここに神様がいないんだとしても」
ここは本土にとって未踏の桃源郷扱いなんだよ、と僕は言った。
利香と和明は何も言わなかった。
中学卒業と同時に本土の高校へ進学し、医大を卒業して島に病院をひらいた母と祖母。僕らよりひとつ上の世代の、本土に上陸経験のある大人。彼らの口からは同じ言葉を聴く。水無孤島はすでに本土の教科書に載っていて、さまざまに語られているのだと。神に守られた島、神の花が咲く島、自然のままに残る島、と美辞麗句をならべて。そしておそらく現在は、本土からの上陸も島民の船出も許されない島、と書かれてあるのだろう。
米軍が遺した旧式ラジオは確かに電波を受信した。島の最北端で、ニュース番組を。だけど僕は思う。憧憬れられるようなものなど僕らは持っていない、ここにあるのは雨と田畑と子供たちの笑顔だけだと。たとえ電波が僕らと本土をつなげても、海は船をこばみつづける。
来てみたらいいのに。僕はこれまでに何度でも叫んだ。
日が西の方角へほんのわずかにかたむきはじめていた。帰るか、と言って和明が立ち上がる。何事もなかったようにさくさくと歩き去る彼の背中に、毅然として振る舞っていますと太字のマジックで書いてあった。内心高笑いしたい気分だろう彼の肩に勢いよく手をまわし、顔をのぞきこんで笑った。和明も笑った。子供のように、無邪気に。
「俺の父親の血をひいてるのは、ミナもそうだけど、もしかしたら和明もなのかもな」
「やめろよきっしょく悪い、お前と腹違いの兄弟とかだったら自殺する」
うるせえよ、と笑いながらもう片方の手で彼の頭を殴る。「やめてよ、男の気持ち悪い友情に嫉妬しそうだから」と利香が笑う。雑木林の中はあいかわらず、雨が届かない。だけど僕たちは、笑った。それぞれが高揚感を隠しきれないまま。
港の東側にある公民館に戻ると、二階の大広間ではすでに祭りの衣装の寸法調整がおこなわれていた。畳敷きの広い部屋のあちこちに祭りの参加者である子供たちがちらばり、母親に衣装を合わせてもらっている。シンプルな生成りの生地。基本は日本古来の浴衣と変わらないが、丈が膝上までしかなく、振るほどの袂もない。和太鼓を叩くんじゃないかと勘違いされても笑うしかない。
僕は母に衣紋の抜き幅を見てもらっているミナのところへ行った。僕に気づいた彼女が「お兄ちゃん」と表情をかがやかせる。
「似合ってんな、それ」僕はミナの服をざっと見てほほえんだ。
「でしょ? ミナが選んだんだよ」
ミナの衣装は肌色の生成り生地で縫われた浴衣で、共衿は深い赤でかざられていた。その上から、同じ素材で作られたポンチョのような布地をはおって胸元でとめ、やわらかい布地の帯で腰を固定する。足元はシンプルな合皮のサンダル。髪は当日、すべてまとめあげてキラキラとかがやくかわいらしい髪飾りをつける。
七五三みたいだ、とは、言うまい。
「ちょっと裾が短すぎるんじゃないか。激しく動いたらやばいだろ」
「これぐらいだったら大丈夫よ」母が前をあわせながら笑う。「そもそも、激しく動くことなんてないし。踊るぐらいだから」
「その踊るっていうのがなあ」
ま、うちの妹のお転婆っぷりと変人っぷりは今にはじまったことじゃないから、と肩を落とした。「利香たちに見せてやりたいよ」と苦笑する。利香と和明は村に戻ってすぐ自宅へ帰ってしまった。
ぐるりと室内を見わたすと、ミナより年下の子供たちが何人も集まって、母親に衣装の丈をみてもらい、細かい修正をしてもらっている。千晴さんに帯をむすんでもらっている裕介くんの姿も見受けられた。俺もやったなあ、とため息をつく。僕は十一歳のこの時期に夏風邪をひいてしまったので、最後に祭りに参加したのは五年前だ。
嬉々として衣装あわせをするミナは、長年の拒絶のようすからは想像ができない。海で嵐に巻きこまれかけ、この島からはもう出られないのだと泣いたあの日、祭りに出ると言いだした。水無孤島で何百年も行われてきた伝統行事を、ただひたすらに拒否した島育ちの少女。僕の妹。おぶって自宅まで歩いたあのとき、肩口ですすり泣いていた彼女の声を忘れない。
僕は片膝をついて目線をあわせ、「最後の年だし」と言った。
「って思って強くすすめたけど、なんか今になってちょっと後悔してる」
「なんで」ミナが笑う。鈴がころがるような声で。「ミナがやりたいって思ったんだもん。これはほんとだよ。もう何でも自分で決められるんだから」
えっへんと胸をはるちびっこの頭を「こいつめ」とおさえつける。母が帯をぽんと叩いて「これで髪を結えば完璧ね」と笑った。やさしい生成りの晴れ着につつまれた彼女を見て、自然と顔がほころんだ。この姿で手桶をかかえて水をまく姿はどれほど美しいのだろうと、僕は楽しそうに裾をひるがえしてステップを踏むミナを見て思った。うさぎが跳ねるように、かろやかに、それはまどろみの心地良さ。
夏休みに入る少し前、七月の最初の日曜日が天雨祭の日である。年がら年中雨が降っているこの島で祭りと言っても、露天も盆踊りも何もない。ただこの日限りは島民が自主的に傘をささず、ずぶぬれになる。
桟橋から少し離れた場所にある広い砂浜に、島民のほぼ全員が集結する。全員とはいえ人口三百人もいない島では、一ヶ所に集まっても大仰さはない。防波堤を背に広がり、祭りの開始時間まで待つ。はじまるまでは誰もが傘をさしている。僕は波打ち際にやぐらを組む作業を手伝っていて、手が細かい切り傷でいっぱいになってしまった。その手を何とかすべく、完成したやぐらからおりて港側に設置された関係者用テントに避難した。
水で手を洗っていると、主催者の水野さんが紙コップに入った茶を手渡して「お疲れ」とねぎらってくれた。テーブルに座ってそれを飲んでいると、中島さんと裕介くんをだっこした千晴さんが声をかけてきた。「よお色男」といつもの調子でひらひらと手をふる中島さんにむけてべーっと舌を出す。
「誰が色男だよ、ミスター・イケメン」
「あの頑固なミナちゃんを最後の最後に祭りに勧誘した口説き文句はなんだ? 隆人」
「妹を口説いたつもりはないけど」僕はため息をついて眉間に手をあてた。「あれはあいつが自分から言いだしたんだよ。こないだ港で、いや、ほら、山に遊びに行ってて行方不明未遂おこした日に」
とっさに真実が口をついて出そうになってあわてて訂正する。中島さんはとくにいぶかしんだようすもなく「へーえ」と笑う。
「いいよなあ、信頼されてるもんな、おにーちゃん」
「中島さんの口からおにーちゃんとか言われると心臓が凍る」僕は肩をすくめた。
「本当よ。ミナちゃん、本土の話と同じぐらい隆人くんの話ばかりしてるから」千晴さんはそう言って腕にかかえた裕介くんを地面におろす。「ね、裕介。ミナお姉ちゃんも隆人お兄ちゃんも、大好きだもんねえ」
照れくさそうに無言でうなずく裕介くんを見て苦笑した。五歳児に口説かれた、とつぶやくと中島さんからチョップが飛んできた。
「裕介くんは、これから準備?」
「そう。今年は雪ちゃんもいるし、練習中に年上の子たちと仲良くなったみたいだから、大丈夫だと思うけど」
僕はテーブルからおりてしゃがみ、裕介くんの頭を撫でた。「怖くないよ、練習どおりにやっていれば大丈夫。お父さんとお母さんがちゃあんと見てるから」
少し緊張しているのか表情がこわばっていた裕介くんも、かすかに「うん」と答えて頭を縦にふった。「お兄ちゃんも見てるからね」「うん」
裕介くんは他のスタッフに呼ばれ、参加者の開始位置につれだっていった。ちいさな青い傘がくるくるまわる。その背中を見送り、「じゃあ俺は戻るから」と言って着ていたジャケットのフードをかぶった。
「ああ、見てろよ、俺の華麗な撥さばき」
「毎年飽きるほど見てるからいいよ。もういらねえってぐらい」
げらげら笑う中島さんに頭をぶたれた。反撃できない身長差が悔しい。
「隆人も子供ができたら分かるよ。あの祭りに自分の息子が参加するとなっちゃあ、太鼓も調子のってうなるってもんだ」
「子供できたらって、まだ俺、十五なんだけど」
「でも、ミナちゃんはもちろん、うちの裕介だって相手してくれてるだろ。子供好きだって前に言ってたし。いい親父になると思うんだけどな」
確かに子供の相手は苦痛じゃないけど。僕はフードの裾を首元で締めた。
「中島さんだって」足元の雨水を蹴る。「ミナのこと、すごく大事にしてくれてる」
「おまわりさんだからな、そうするのが当然。和明のところ同様、家族ぐるみで昔からお世話になってるからな、お前の家とは。裕介もいい人たちに恵まれたもんだ」
「もう裕介くんも小学生になるんだし、過干渉になっちゃだめだよ。男は勝手に父親の背中を見て育つんだから、中島さんさえしっかりしてりゃあの子も強靭に育つ」
うちの通称「無邪気なおっさん」は、荒波の奥に消えるその瞬間まで背中を見せず、桟橋で泣きじゃくる僕とミナに手をふっていたけれど。
中島さんは過去に思いを馳せるように空を見あげ、やがて笑った。やさしい、愛情に満ちた笑顔だった。海岸線の西側で待機している子供たちの姿を、じっと見ていた。千晴さんはそんな中島さんの横顔を、おだやかなほほえみをたたえて見つめていた。
「俺の背中を見て大きく強くなれなんて言わない。将来、いくらでも俺をだしに言いわけができちまうからな」
そっと目を伏せて、中島さんはつぶやく。「そうじゃなくて、己の決断や意志に嘘偽りはなかったと自分自身に誇れる強い男になってくれたら、というのが父親としての願いだな。たとえ結果が間違っていても、自分がこれまで生きてきて今もここに生きていることに間違いはないと胸を張れて、そして自分の力で軌道修正ができるように」
雨が降る。祭りのにぎやかな空気を読んだのか、今日はおだやかな小雨だ。空も海も落ちついていて、気温も比較的すごしやすい。海岸でざわめく人だかりを見て、僕は複雑な心境を自覚した。その正体が何者か、よく分からないけれど。
浜の数ヶ所にしつらえられた篝火台に炎がいっせいに焚かれる。ぞんぶんに油をふくんだ木材は雨の影響を受けず、空を焦がす勢いで燃えあがる。その炎を合図に人々が傘をとじた。雨がさらに弱くなる。しかし雲の奥からは雷がとどろき、光をのぞかせる。
中島さんは両手を軽く振って「さてと」とつぶやいた。
「そういうわけだから、息子にかっこつけてくるわ」
おいおい言ってることが真逆じゃないのか、とツッコミをいれる前に中島さんは祭用の法被を豪快に羽織って雨の中に飛びだした。一瞬、足元がふらつく。「大丈夫?」と声をかけたが中島さんは笑うばかりだ。練習のしすぎで寝不足なんじゃないだろうか。僕はため息をついた。
梯子を使ってやぐらにあがる彼を見て、千晴さんがくすくすと笑う。
「馬鹿な旦那でしょ」とても上品な笑顔だった。「でも、ああいう馬鹿は私も大好き。なんだかんだ言って、裕介にかまってあげてるし。頭が固くてお調子者で、自由人」
それでも私がベタ惚れだったの。そう言って笑う千晴さんに、僕も「分かります」と笑いかえした。
やぐらの大きな和太鼓が、ドン、とひとつ鳴る。天空の雷鳴に負けまいと、中島さんのふるう撥が皮をうならせる。僕は千晴さんと一緒に雨の中へ駆けだした。海岸沿いに集まって拍手を送る二百人ほどの島民の先頭に立ち、ジャケットの前ファスナーをしめる。ドン、ドン、ドン。規則正しい間隔で鳴らされる和太鼓。中島さんの奏でる島の胎動。
大太鼓の響きにあわせて、小学五年生の男の子を先頭にした子供たちの集団が観客の前に行進してきた。みな一様に同じ生地の衣装を着て、大きめの木製の手桶を持っている。会場の中央に置かれた車ほどの大きさの水瓶のまわりをぐるりと囲み、手桶を空に向けて高々とかかげる。五歳から十一歳まで、島中の子供たちが集められ催される天雨祭。太鼓の音を合図にはじまる神への祈り。無病息災、世界平和、豊作、子供たちの健やかな成長。何百年も前と比べればはるかに変わってきた趣旨だが、信念は変わらない。年長の男の子が高らかに祝詞をうたい、手にした手桶を剣のようにふるう。他の子供たちも一斉にうたいはじめる。昔の言葉なので意味は僕もよく知らない。ただ単純に、神への感謝の気持ちを言葉にしただけなのだと思っているけれど。太極拳か能のような舞いを、水瓶を囲って踊る。おだやかに、しかし力強く、柔軟に。ミナは右端で踊っていた。人さし指と中指をそろえてぴんと空に向けて立て、僕をにらみ、意地悪っぽく笑う。僕が吹きだすと、千晴さんも笑う。裕介くんはミナのすぐ前で、隣の年長の子たちを見ながらたどたどしく舞を舞っていた。声だけは一丁前にはりあげて、手桶を振りまわす。中島さんの太鼓に合わせて舞いはつづけられ、観衆から手拍子が鳴る。雷鳴が低くとどろく。
「ほんとはね」隣で手を打つ千晴さんがつぶやいた。「大人のほとんどが知ってるの。タカネノハナを、本土の人が何に使っているか」
ヨーヤ、ソーヤ! かけ声がかかる。子供たちは踊りつづける。僕は「ミナがいちばん知りたがってます」と言った。千晴さんは笑って、「でも隆人くんだって変わらないでしょ」と肩をすくめた。
「薬よ。特効薬。東亜戦争のとき、大陸から華国の兵士がつよい感染症のウイルスを持ちこんじゃって、本土で一時期、爆発的に広まったの。致死率は七十パーセント強。詳しくは知らないわ。それに今のところ初期症状で対応できる薬になるのが、タカネノハナの種子」
太鼓が鳴る。僕はぎゅっと拳をにぎった。千晴さんはにこやかな笑顔で僕の肩をぽんと叩いた。かつて島の最北端で聴いたラジオのニュースを思い出した。僕は視線をそらした。
服がしっとりと内側まで濡れてきたころ、舞が終わり、中島さんの大太鼓が激しくうなった。ドドドドドドドン、ドドドン、ドドドン。その重厚な音と激化してゆくリズムに客席から歓声があがる。僕と千晴さんは顔を見あわせて拍手をした。篝火にかこわれたやぐらの上で、法被の裾をはためかせながら大太鼓を叩く姿は猛獣使いのようだった。ききわけのない一枚の皮を叱咤するように、二本の撥をふるう。ドドドドドドドン、ドドドン、ドドドン。強い大太鼓の音に流れてゆくように子供たちが水瓶に駆けより、手にした手桶に中の水を汲む。天雨祭り前の一週間をかけて集められた島の雨水だ。僕らはこの水を「神様の涙」と呼ぶ。
ソーリャ、ソーリャ、ヨーヤ、ソーヤ! 子供たちは神輿をかついでいるときのようなかけ声をかけ、観客のもとに走ってきた。全力疾走。逃げられない。大人たちは腰をひいて何事か叫びながらも笑っている。ソーリャ、ソーリャ、ヨーヤ、ソーヤ! 声とともに手桶の水がめいっぱい島民の頭上にふりかかる。あちこちで叫び声があがった。僕は日ごろの恨みとばかりに突撃してきたミナに顔面から水をかけられ、鼻の痛みに悲鳴をあげた。笑い声がやまない。僕も笑いながらミナを罵倒したが、彼女もけらけらと腹をかかえて笑うばかりで話にならない。裕介くんはよたよたと手桶を持って千晴さんのところへ走っていき、わざわざしゃがんだ彼女の頭に思いっきり水をぶちまけた。よくできたね、と笑う千晴さんに抱きあげられて裕介くんは楽しげに笑う。ドドドドドドドン、ドドドン、ドドドン。中島さんの大太鼓が加速する。子供たちはつぎつぎと水瓶から水をくんで老若男女問わず目の前の人を水攻めにする。「神様の涙」を大量に浴びてびしょぬれになった島民は、誰もが笑い、あるいは爆笑し、逃げまどう。中島さんの大太鼓が鳴る。祭りはつづく。主役の子供たちによる雨水浴びが終わっても、夜が来るまでつづけられる。子供たちが舞い踊り、うたい、笑う。祭囃子が雷の音を凌駕せんばかりに鳴りひびき、僕はずぶぬれになりながら、手拍子をする。ミナは心底楽しそうに笑っていた。祭りの衣装を着て、最前列で伝統舞踊を踊る。雫を浴び、まるで神に祝福された子供のように。
初めてトトロの映画を見たのは小学校にはいる前だった。父親が持っていたVHSで、うつりの悪いテレビで。
ちいさいトトロ二匹を追いかけて草むらの中に突撃していったメイを見て、僕もあんな場所に秘密基地が欲しいと思った。ふと天蓋をみあげる。葉が多い茂って雨が届かないこのトンネル内は、薄暗く湿っぽくはあるが昼寝にちょうどいい場所だと思う。ミナがタカネノハナをひっこ抜いたいわくつきの場所なだけに、少しばかり遠慮はしたが。
地面にあおむけに寝そべると、微細な動きで風をとらえる葉が見てとれた。草と土と雨の匂いが優しくからみあう。風が意識を撫ぜてゆく。完全に機械都市化したという噂の日本の本州は、どこに行けばこんな香りと出会えるのだろう。行ったこともないのにあれこれ夢想する。
雨が弱くなるのが気配で分かった。僕はそっと目をとじて、どこまでつづくのか分かったものじゃない島の歴史を忘れようとする。きっとこの雨は二度とやまない。地球が崩壊してしまうまで、環境破壊がすすみ人類が滅亡するまで。あまりに足元がおぼろげなことに今、気づいた。背中から感じる土のやわらかさが慰めてくれる。枝っきれを持って走ってすっころんで泣いて、母が頭を撫でてくれたときとよく似ていた。
そうしてぼんやりとけだるい午後をすごしていると、ガサガサと草をかきわける音が聞こえてきた。半身を起こすと、土まみれの和明がトンネルの奥からひょっこり顔を出した。
「よう」
「よう、じゃねえ」
へっ、と笑われた。せっかくの昼寝の時間を妨害されておだやかだった気持ちが一気に下降し、文句のひとつでも言ってやろうとした。が、その前に和明が「タカネノハナってさ」と言いだしたので口をつぐむ。
「薬になるんだってな」
「なんでお前がそれを」
「千晴さんと祭りのときに話してただろ」
聴き耳たてんなバカ明、と言うと、聴こえただけでーす、とかえされた。隣にごろんと横になった和明が、咳払いをして目を閉じる。
「いざ聞いてみると、そんなんだったのかよ、って拍子抜けしたな。もっとバイオ的な何かというか、SF映画みたいなのを期待してたんだけど」
「たかだか花に何を言う」
「こないだラジオでニュース聴いたときも、感染症って言葉が出てきてたもんな。あれ、そのことなのかも。まいったな、俺らが触ることすら許されない神の花が、特効薬に化けるなんて」
あー、とうめきながら天蓋に向けて手を伸ばす和明。僕もそのとなりにふたたび寝そべった。確かに、隠れている部分はつい暴きたくなって躍起になるが、中身を知られるとどこかむなしさを禁じえない。あっけなさすら感じる。へー薬草の花ですかソウデスカ、という気分だった。致死率七十パーセントの感染症は確かに恐ろしいが、むしろあんなに華奢でかわいらしい花がそんなトンデモな病気に対抗できるんだという驚きのほうがつよかった。毎日のように見ている僕らからすれば、確かに威厳は感じるが特効薬に化ける代物には到底見えない。純白の花びらはともすれば病院の壁を思い出すが。
太陽の光を浴びずとも美しく成長する花は、本土にわたって初めて太陽をおがむのだろうか。そしてそれは、どれほど残酷で、幸福なのだろう。
「そんなに霊験あらたかなものだとは思わなかった」
「だよなあ」和明が寝がえりをうって言う。「毎日毎日毎日毎日、雨ばっかし、雨ぐらいしか名物のない、万年梅雨まっさかりのここが神様に守られた島扱いってだけで噴飯ものなのに、そこにあるただの花は薬になるんだとさ。あっけねえ」
「あっけないというか、そんなもんかあって思う。まあ、価値のほどは確かなんだろうけど。薬や本土の食べ物や本の代わりになるっていうんだから」
「もっとSFしてくれてたほうが、夢があっていいのに」
男の子してるねえ。そう言うと笑われた。
僕たちは一体どういう扱いをされているのだろう。本土にとってここは桃源郷と同じような、憧憬の目で見られていると言うがそこは「いやいやそんなお高いものじゃない」と手をふって否定したい。いっぺん来てみろよと思う。きっと同じような落胆を味わわせることになる。
その桃源郷もどきの住人扱いされている自分の立ち位置を考えてみる。僕は僕が思っているほど高い場所にいるなんて思わない。墜落の衝撃が大きいなら低木の枝で昼寝をしているほうが楽だ。見知らぬ人間から、僕が自己評価している以上のものを僕の内部に構築されると、暴力的なまでに裏切られるよう仕向けてしまう。僕らにとって本土は憧れだった。青い空が広がっていて、太陽がその真ん中で燦然とかがやく都市。ミナはいつも「こんな島にいつまでもいたくない」と口癖のように言っていた。本土から「ただの花」が求められる図式が、不思議だった。
それは誰もが子供のころから思っていて、おそらくはやがて大人になるにつれ薄れていってしまう感情。怒りにも似た自己防衛。
父親がいなくなったこともあるが、僕はミナの口癖と裏腹に何をどうやっても出られないこの島の鎖国っぷりとタカネノハナの求められっぷりの矛盾にいらだっていた。だから僕はいつも雨の下で傘をさして、ただ立ちつくしている。
千晴さんから真実を聴かされて、僕はどこか安心していたのかも知れない。
起きあがり、匍匐前進でトンネルをぬけた僕を和明が追いかけてくる。傘をさしてとなりにならんだ彼に「もしその話が本当だったら」と言った。
「島の神様だかなんだか知らないけど、なんで水無孤島周辺の海は本土からの船を拒絶するんだよ。本土の人間は感染症でぞんぶんに死ねってか。タカネノハナで特効薬ができるんだったら、こっちも下手に需要関係つくったりしないでどんどん出荷してどんどん外交深めていったらいいのに、わざわざこの島の人間を閉じこめてる」
「神に守られた島の、神の花だもんな。なんか思うとこあるんだろ、神様にも」
「それに」僕はため息をついて、傘の柄をくるくるまわす。「やっぱりどっか気持ち悪い。雨ばっかりで閉鎖的な島のただの花が、本土の人間から死ぬほど希求されてる薬になるなんて。俺たち人間じゃなくて、花だぜ。笑わせる」
はん、と鼻で笑った。和明は肩をすくめて「知らねえよ」と言った。
飽きるほど降る雨。じめじめして鬱陶しくて、太陽の光がいっさい届かない。一度でいいからぬけるほど高い青空を見てみたいと、何度でも願った。鎖島化以降生まれの子供たちはみな一様にそう言う。そして同時に、「この島にいつまでもいられない、いつかは本土とのつながりを復活させたい」とも。
神様は、僕らが思っている以上に厄介だ。
そして僕らが思っている以上に、この島はちいさい。
自宅の玄関で和明と別れ、傘をスタンドにほうりこむ。「ただいま」と声をはりあげると居間で物音がした。障子をあけると卓袱台の前にミナがぺたんと座りこみ、腕にタカネノハナの鉢をかかえていた。花は少し元気をなくしている。ミナの髪はしっとりと濡れていて、服の表面にも雫が浮いていた。
「何やってんだ」僕はため息をつきながら彼女の背中を叩く。「雨に降られたのか。早く身体を拭けよ。風邪ひくから」
うつろな彼女の目が僕をとらえたとき、思わず息をのんだ。生気が失われ、下瞼には涙がうっすらと浮いている。声をかけようとすると、雫がぽろりと彼女の大きな目からこぼれた。
「お兄ちゃん」
そのかすかなつぶやきは、かつて海で聴いたときとよく似ていた。
「中島さんが」
病院の扉を蹴飛ばして中にはいると、すでに待合室に千晴さんと裕介くん、それに和明の母親までも集まっていた。他の島民も何人かいたが、僕は彼らをおしのけて母と祖母の前に出た。
「中島さんが倒れたって」
母は黙ってうなずいた。悔しそうに唇を噛んでいる。
「今、奥の部屋に隔離してるけれど、正直、そんなにもつとは思えない」
「なんだよ、なんで中島さんがそんな」僕は思わず声を荒げた。祖母に「よしなさい」とたしなめられたが、興奮しきって息が乱れる。
僕の前に立ち、母はゆっくりと、自分自身を落ちつかせるように話しはじめた。
「隆人、よく聴きなさい。しばらく私も家に帰れないから。中島さんがかかったのはシェンロン熱。大陸の華国を中心に周辺諸国で流行している、シェンロンウイルス感染による出血熱。重篤化も感染もしやすいから、致死率もとびきり高い。だから、今は面会を許せない」
「シェンロン熱って、東亜戦争のときに日本に持ちこまれたウイルスのことなんじゃ。それなら、タカネノハナの薬を使えばいいだろ」
僕が叫ぶと、母が目をみひらいた。なぜそれを、と無言で叱責していた。彼女が口をひらく前に、千晴さんが前にすすみでて頭をさげた。
「すみません、私が話してしまったんです。シェンロン熱のことも、タカネノハナが唯一の抗ウイルス薬になることも」
千晴さんの声は震えていた。ハンカチで口元をおさえる。そりゃそうだ、夫が死亡率の高い感染症にかかったとなれば、気丈に振るまうことなんてきっとできない。
僕だって内心混乱していた。確か、致死率七十パーセント以上。どうしてそれに中島さんが。というか、鎖島状態の水無孤島にどこからウイルスが侵入してきたというのか。よりによってなんで中島さんにかかるんだ。死ぬかもしれないんだぞ、子供がまだ五歳だっていうのに。これから小学校にはいるのに。
自分がパニックを起こしている、と自覚できるほどには落ちついていた。しかし中島さんが置かれた状況を思えば、過呼吸になってしまいそうだった。じわりとにじみでる汗を、胸元をつかんで耐える。
裕介くんは彼女の足元で、スカートの端をつかんでいた。まだ状況をよく分かっていないようで、あちこちをせわしなく見まわしている。
子供たちに知らされなかったタカネノハナ出荷の目的が漏れたことを、母はさほど問題視していないようだった。彼女は千晴さんの肩を抱いて「大丈夫です、今はそれどころじゃありませんから」と言った。僕は母につかみかからんばかりの勢いで「タカネノハナを摘んできて薬をつくれば」と叫んだ。
「それができればとっくにやってるわよ。だけど、この島の医療技術じゃあれを生薬に加工できないの」
「じゃあ、本土から薬を取り寄せればいい」
「もちろんそうしたいけど」母はため息をついて僕をひきはがした。「知ってるでしょ。本土との連絡手段はあのヘリだけ。しかも二ヶ月に一回しか来ない。つい一ヶ月前に一度来たから、次に来るのは最低でもあと二週間は待たなきゃいけない。来てくれさえすれば、こちらの要請ですぐにでも往復して薬を送ってもらえると思う。けれど」
そして彼女はごくりと唾を飲みこんだ。「おそらく、それまで中島さんがもたない」
身体じゅうの血がまるごと凍ったようだった。力が抜け、その場に尻もちをつく。祭りの当日、足元がおぼつかなかったのはまさかその初期症状だったのか。そのうちに検査していたら、本土の病院に行っていれば。タラレバは何にもならないと分かっているが、禁じえなかった。全身の糖分が一気に沸騰して降下してゆくような感覚に支配される。
僕は立ちあがって廊下の奥へかけだした。待ちなさい、と母がとめるが無視する。最奥の部屋、めったに使われない鍵つきの隔離部屋の壁にはりついた。全面ガラスになっていて室内のようすがうかがえる。中島さんは中央の真っ白なベッドに横たわって、体中にあらゆる点滴のチューブをつながれていた。高熱を出しているのか顔が赤く、呼吸も荒い。傍目にはひどい発熱にも見えるが、異常だ。ときおり痙攣を起こしているのか胴が跳ね、そのたびうめき声をあげている。
「中島さん!」
僕はガラスを両の拳で叩き、力の限り叫んだ。「息子にかっこつけるとか言っといて、なんでこんなざまになってんだよ。らしくねえよ、ふざけんな、自分の言ったこと思い出せよ。理不尽すぎるだろうが。千晴さんと裕介くんに心配かけやがって、死んだら絶対許さねえからな。背中見せんな!」
母と祖母がやってきて僕の手をおさえつけた。千晴さんが右手にしがみついて「もうやめて、隆人くん」と涙声で叫んだ。僕はガラスに額を押しつけてそのままずるりと崩れ、しゃがみこんだ。爪が食いこんで血がでるほど拳をにぎり、力まかせに床を殴った。「ちくしょう」
裕介くんがよたよたと歩いてきて、僕のとなりで泣きだした。おおきな声をあげて、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにして。「お父さん、死んじゃ嫌だ」僕は彼を力のかぎり抱きしめた。五歳のちいさくあたたかい身体は、背負うには重すぎる闇に圧迫されて今にも折れそうだった。僕は裕介くんの頭を右手でつよくつかんで歯をくいしばった。
医大、医局、大学病院とでずっと勉強をつづけてきたという母と祖母は、その蔵書量も半端なかった。床を殴って痛めた手の治療を終え、自宅に戻った僕は母の書庫に行き、床が抜けるかと思うほど大量にある医学書を、本棚から手当たりしだいにはじき落とす。本棚は奥行きがあるので奥と手前、二段になっている。手前の列にはどこにも薬草の本がなかった。背表紙の上に指をかけてバサバサと本を床に捨ててゆく僕を、部屋の入り口でミナが見ていた。
「お兄ちゃん、きっと無理だよ。タカネノハナの加工法は、お母さんが島に戻ってきてからできたんでしょ」
「それでも」僕は勢いあまって顔面を直撃した本をほうり投げて叫んだ。「既存のデータで補える部分があるかも知れない。タカネノハナは生薬になるって母さんが言ってた。だいたいあんなもん、工程は決まってる。この島の医療技術じゃ加工できないなんて嘘だ」
ぶあつい薬用植物学の本を手早くめくり、索引にタカネノハナがないと分かると舌打ちして床に捨てた。そもそもシェンロン熱に対応しうる薬剤の情報がほとんどない。大陸ではやったとはいえ日本には持ちこまれた例がなかったのだ、当時だって文献をそろえようにも困難を極めたのだろう。まして発生源である華国と戦争中だったのなら。
ミナは僕をじっと見ていた。僕があきらめるまで見ているつもりらしい。そうはいかんと必死になって東洋医学の本をくったが、今の僕らでは技術的に不可能な加工が多く、厳密な処理をしなければ逆効果になりうることも思いだして、最後の一冊を床にたたきつけた。その上に崩れ落ちるように腰をおろし、頭をかかえる。
万策尽きたのか、と、絶望が双肩にのしかかる。これだけたくさんのタカネノハナがあるのに、肝心の僕らに何もできないんじゃ。
リナはゆっくりと室内に入ってきて、僕のとなりにちょこんと正座をした。僕は彼女の頭を撫で、ついで腕にかかえているタカネノハナのちいさな鉢植えを見た。花は何も語らず背筋を伸ばし、自慢の純白の花びらを誇らしげにひろげていた。悲しみの涙を一滴たりとも流さない花。自分のおかれている状況を何も理解していないように見えて、何もかもを把握しているような色。ミナは泣きだした。泣きながら「ごめんなさい」と連呼していた。僕はうなだれて、拳をにぎった。
中島さんの一件があってから、島全体が静かになった。雨も荒れることなく、島民も必要以上に外出しなくなった。病室には毎日ようすを見に行ったけれど、中島さんの病状は悪化する一方だった。話しかけても少しずつ口数が減り、僕を見ても「よお、元気そうじゃねえか」とばかりに子供っぽく笑うだけになってしまった。滅菌室を出るといつも、白い壁に囲まれたプールに放りこまれたような気分になる。和明はいつも僕のお見舞いについてきて、くだんのようにしょぼくれる僕の背中を叩いてくれた。
化学療法でなんとかなるものじゃない。タカネノハナがないと。母はいつもうわごとのようにつぶやいていたが、僕はそれを聴くことしかできない。気がつけば一週間が光の速さですぎてゆき、学校は夏休みに入った。宿題なんて、やる気になれなかった。
僕が千晴さんに呼ばれたのは、けだるい夜を三国志の本を読んでつぶしていたある日のことだった。
官舎は駐在所と併設されていて、海から少し遠く波音がうるさくない。時計の秒針の音がやけにおおきく聴こえる静寂の中、子供部屋から出てきた千晴さんが障子をひらく音はことさら僕を驚かせた。彼女の足元では裕介くんが腰にタオルケットをかけて眠っている。電車の模様が描かれた寝間着は、線路がぐるりと彼の身体を縛っているようだった。
千晴さんは卓袱台をはさんで僕の前に正座する。つられて僕もあぐらから正座へくみなおした。柱時計は夜九時をしめしている。ついさっきまで膝にのっていた裕介くんに絵本を読んできかせていたことが信じられないほど、静かだった。「するととつぜん、ねずみばあさんのこえがそらからふってきました」話を最後まで読み終わらないうちに眠ってしまった裕介くん。来年は小学生なんだということを感じさせないほど、幼い子供。
昼間、中島さんのシェンロン熱発症に際し、母の病院で島民全員の採血と予防接種が行われた。とはいえ、まだシェンロンウイルスの正体がつかめていない今、気休め程度のワクチンしか備蓄がないが。今のところ、感染は拡大していない。
ウイルスはヘリで送られる食べ物を媒介として感染したとしか思えない。検閲をくぐってまで上陸をこころみたその生命力には感服する。母を手伝いながら何度も何度もため息をついていた。
ぬるくなってしまった湯呑みのお茶をひと口すすると、目の前で千晴さんがため息をついた。その一瞬一瞬が艶めいている。
「馬鹿な夫だと前からずっと思ってたけど、あれはちょっと馬鹿すぎるわね。はやいとこ言えばいいのに、意地はっちゃって。本人は寝不足か何かだと思ってたんでしょうね。連日、寝食忘れてお祭りの練習にはげんでたし」
僕は何も言えなかった。何を言っても彼女を傷つけてしまいそうな気がした。
「今日、病室に入って少し話をしたわ。裕介と私、そして島民全員にウイルスは感染していなかったって言ったら、ちょっとだけ笑って。あまり話せないのに、よかった、ってつぶやいたのよ。馬鹿でしょ。俺が死ねばもう大丈夫、なんて言うのよ。ほんと、馬鹿」
シェンロンウイルスは宿主である人間と共存し、人間の死は自身の死を意味する。逆を言えば確かに、中島さんが死ねば感染拡大は食い止められる。
だが。
「そんなこと」
もう一度病室に行って、眠る中島さんの顔面を蹴り飛ばしたい。
千晴さんは正座を少し崩して上体をひねり、戸棚から水色の布きれを出した。袋状になっていて、上部の口を紐で絞れるようになっている。表面には新幹線の不器用な刺繍がほどこされてある。
「裕介のお弁当箱入れだって」
さしだされるまま僕はそれを受けとった。いかにも手作りという感じの、ところどころ糸がはみ出している、縫い目もまちまちで決してきれいとは言えない巾着袋。一瞬は首をひねったものの、すぐに合点がいった。
「倒れる少し前にくれたの。半年後の入学祝いのつもりなんでしょうね、本人は」
僕の前で布と針を隠してしまった中島さんの姿が思い浮かぶ。写真でしか見たことがない電車や新幹線にあこがれている裕介くんのために、得意でもない刺繍をする。だから千晴さんに内緒でミナに教えてもらっていたのかと。
ああ、蹴りたい。僕は深くうなだれた。今すぐ中島さんをぶっとばしに行きたい。
巾着袋を千晴さんにかえすと、「うちの馬鹿な妹が」ときりだした。
「タカネノハナをひっこぬいて、部屋の窓辺に今も飾ってるんです。罰当たりなことに」
「あらあら」千晴さんはほんとうに丁寧に笑う人だ。「何も悪いことなんて起こらないでしょ?」
「はい、なんにも。ただの花でした」
「誰かにとっての神の花だとしても、実態はそんなもんよ。大仰に高嶺の花扱いされてたって」
千晴さんはそっとため息をついた。「シェンロンウイルスの特効薬に加工する技術がなけりゃ、何百年もあれはただの花のままだったのよ」
「人命を救う薬になりうるなら、それは別の意味で神の花となるんじゃ」
「そう思う?」
そもそもの神の定義は何かしら。千晴さんは悲しそうに言った。
人ひとり死にそうなのに助けてくれない。そんな神様に守られた島。
すべてにおいて干渉せず、見守っているのかどうかも怪しい、しかしこの島を箱庭たらしめている。その神の花は、ここに生まれたときからずっとただの花だったのに、この二十年ぽっちで突然おおきな意味を成す存在になりかわった。それと同時期に封鎖された島が、本土の教科書に載っている。
昔の人は、何を見てタカネノハナを神の花呼ばわりしたのだろうか。
もし、と僕は思った。ミナの手によって大事に育てられているあの花が、中島さんの命を救うなら、妻の千晴さんや息子の裕介くんにとって、花の意義はおおいに異なってくるだろう。神が不在でも、誰もその名を口にしなくなったとしても。
そして奇跡的にその時期が来ても、この島は変わらず雨ばかりなのだろう。
僕は湯呑みのお茶を一気に飲みほして、ごちそうさまです、と言った。それを台所の流しで洗い、上着を着る。
千晴さんに呼びとめられて玄関でふりかえった。右手首をつかまれる。
「あなたのお父さんは、私欲のために動く人じゃなかったわ」彼女は強く僕の手をつかんで離さなかった。「あれは本気だったのよ。あなたたち兄妹に青い空の写真を見せたかったっていうのは。興味本位なんかじゃなかったの。本気で、この島をもう一度日本本土とつなげようとして」
だけど、とつぶやく千晴さんの声は震えていた。泣きだしそうな表情をしていた。
僕がまだちいさいころ、千晴さんと中島さんが港の桟橋でささやかな結婚式をあげて、しあわせそうに笑っていたことを思い出した。みんなに祝福されて、永遠の愛を誓って。そのとき、僕の父は中島さんにシェイクしまくったビールをおみまいしていた。そのときのふたりの爆笑っぷりは、今でもはっきり覚えている。
一瞬はとまどったが、すぐに僕は千晴さんの手を払い、「中島さんのそばにいてあげてください、親バカだけど妻バカも兼ねてるんで」と言って笑った。
「そこまで後先考えないやつじゃないです。父親の背中を見るなって言ったの、あなたの旦那さんですよ」
千晴さんはもう何も言わなかった。外に出ると、いつもと同じ表情の空からなおも雨が降っていた。
駐在所の官舎がある丘からは、島の反対側にある水力発電所の屋根が見える。北の神社に参拝しようかと思ったが、やめた。村落をゆっくりと南側へくだりながら、周囲の景色を見ていた。ただひたすらに山、林、木、雑多な茂み。田畑によく似合う古い家屋の数々。児童公園と併設された保育園。鎖島化以前まで営業していた観光客向けの民宿。公民館。墓地。島民のお年寄りたちが集まる食堂。道端にぽつんと立つお地蔵さんと、その前に置かれた花と割れた湯呑み。今にも朽ちてしまいそうなベンチと、それを雨から守る大きな樹。子供たちがよく缶蹴りをして遊んでいる更地。閉店したが看板がそのまま残っている煙草屋。診療所にはまだ電気がついていて、母も祖母も忙しいのだと分かる。無病息災を願うはずなのに、天雨祭のあとは風邪や発熱の患者が多い。
町をなぞるように東側へおおきくカーブした道をくだっていると、右手に海がおがめる。小雨の絶えない島の、静かな海。つながれたたくさんの漁船。船客の待合所が桟橋のそばにしつらえられ、海の機嫌をうかがうようにぽつんとちいさなあかりがともされている。
夜闇が眠りから目覚めるように、少しずつ荒れはじめる。風がつよくなり、雷鳴がとおくで鳴りひびく。嵐の前兆。小雨が徐々に顕著な大雨になり、傘からつたわる振動が現実味を増す。もしかしたら雹に変わるかも知れない、という予感は当たらずしも遠からずだった。雨は季節外れのみぞれにかわり、僕は港を走ってつっきった。
船客待合所のドアを力いっぱいひいて、雨から逃れるように中へ転がりこむ。すでにベンチに座って待っていた和明が立ちあがり、僕の手から傘を奪った。
「ほら見ろ、本当に荒れてきたじゃないか」
その言葉に笑ってこたえた。どうやら神様はいるらしい。僕の船出を知っていて、箱庭から出るんじゃないとこうして警告を送る。父が船を出したときとまったく同じだった。みぞれが混じった雨に、不規則に吹く強い風。ぼんやりしていたら波にさらわれて一気に海へひきずりこまれそうな、自然の脅威をあらためて思い知らされる嵐。港育ちでないと分からない、海の恐ろしさ。
和明はポケットから出したものを僕の右手のひらに乗せた。米軍基地の遺物、旧式のラジオ。あいかわらずの汚れっぷりは健在だったが、電源を入れると雑音が流れるばかりとはいえきちんと機能する。僕はそれをつよくつかみ、「ありがとう」と言った。
おそらくもう使うことはないだろう僕の傘をくるくるとまわしてたたみながら、和明がため息をついた。
「今ならまだ引きかえせるぞ。俺、お前の親父さんが島を出たあのとき以来はじめて見たよ、こんな変な嵐。なんで真夏にみぞれが降ってくんだよって感じ」
「この島の気象とか自然について疑問もちはじめたら永遠にとまらねえって」
何千年も雨が降りつづいている時点で、すでに既成概念を超越している。普通なら地盤がゆるみ、島が溶けて消滅していたっておかしくない。
僕は手の中のラジオの電源を切って、「それでも」と言った。
「中島さんが死ぬのは嫌だ。誰もこの島を出ようとしないんだったら、俺が行くほかないじゃんか」
「だから俺もって言っただろ。俺だって、中島さんに死なれたら困りすぎる」
「泳げない和明くんは地べたに這いつくばってなさい。母さんやミナに訊かれたら、なんか適当にうまいこと言っといて」
「その適当にっていうのの適当なテンプレートくれるとありがたい」
「俺の言葉なんか使わないほうがいいって。千晴さんには嘘ついてきたから、余計に言いわけめいてうしろめたいし」
「ラジオをわざわざここまで持ってきた俺にそれ頼む?」
「和明だから言うんだよ。ミナ、絶対泣くから」
タカネノハナの鉢植えを、逃がすまいとしっかり腕にかかえて。
断固としてひきさがらない僕を見て、和明があきれたようにため息をついた。「遺伝だな」と、これまであまり聴きたくなかったことを言われる。が、しかたない、僕はあの無邪気なおっさんの息子なんだ。
雨はさらに激しさを増す。波が高くなり、桟橋を押し流さんばかりにのりあげる。つながれている船のいくつかはすでに転覆目前だった。普通ならすべての船が港へひきかえし、家々は雨戸をしめてしまうスコール。それがむしろ好都合だった。
村役場からロケット信号弾が打ちあがる。かなりの高さまであがると、花火よりはるかにおおきい爆音が連続して周囲にひびいた。赤い煙が発生し、嵐の警報を島じゅうに伝達する。待合所の壁がかすかに振動している。僕はそのどさくさにまぎれるように出入口のドアをひらいた。背後から和明が「忘れんなよ」と叫んだ。
「掃除当番、まだ一ヶ月ぶんやってもらってないんだからな」
むけられた手のひらに、僕は笑って拳をふるった。和明は馬鹿みたいに笑っていた。僕は港の一番端に係留されている、滅多に使われない中島さんの船を使うつもりだった。
雨は完全にみぞれに変わり、くそ暑い水無孤島の夏空が氷点下であることをやかましいまでに知らせる。僕は背負っていた登山用のリュックをおろし、桟橋からいきおいよく投げた。弧を描いてリュックは艫甲板に落ちる。波がうちよせる桟橋を走って助走をつける。上摺に手をかけ、波除を蹴って飛び乗る。とたんに船が揺さぶられて甲板にたたきつけられたが、そんなことをして遊んでいる場合ではない。すぐにビニールシートをはずして操縦席にはいり、さしっぱなしのエンジンキーを回す。時間がないので、燃料、クラッチ、補助エンジン、航海灯などをおおまかに点検する。船舶操縦士の免許など持っていないが、港育ちで漁師の子だ、素人よりは分かる。森の葉擦れの音が子守歌なら船はゆりかご同然だった。
舫いロープを開放し、いざ出航というとき、遠くから自分の名前を呼ばれている気がしてふりかえった。いよいよ波が港ごとさらおうかと勢いを増してきているというのに、桟橋を走ってくる利香。僕はあわてて船から身を乗りだし、「何やってんだ」と叫んだ。
「信号弾出ただろ、家でじっとしてろ。なんでここにいるんだ」
「こんな嵐、どっかのバカが島を出ようとしてるとしか思えないじゃない。そういうそっちこそ」
「俺は見てのとおり、本土に行く。タカネノハナの薬を持って、また戻ってくる」
「戻ってこれると思ってるの。そもそも、上陸なんて」
「できるかどうかなんて、海に出ないと分からないだろ! 俺の親父だって、生死すらはっきりしてねえのに」
船がぐらりと揺れ、海に落ちそうになる。あわてて上体をささえるが、利香が海水をまるごとかぶったらしくびしょぬれになっていた。雷鳴が笑うようにとどろく。
「いいから早く帰れ」僕は口に入る塩水を吐きながら叫んだ。「桟橋に立ってたら、流されるぞ」
「どうして、どうして隆人は本土に行こうとするの。死ぬかも知れないんだよ?」
「俺はこの島に縛られるのが嫌ってわけじゃねえし、本土にめちゃくちゃ憧れてるわけでもねえけど、でも今は、自分のことをいちいち考えていられるような余裕ある状況じゃねえんだ」
利香は今にも泣き出しそうな顔で「でも」と叫んでいた。「でもじゃねえ」と叫びかえした。
本末転倒になってしまうかも知れない、という危惧がないわけじゃない。だけどそんなことで議論している暇はない。
不規則に変わる風向きのせいで波が読めない。雨が四方八方から僕らを邪魔する。さらに高波で船が揺れ、上半身を船の外に投げだされた。転落しそうになるのを両腕で必死に耐え、顔をあげた。利香が桟橋から「無茶だよ」と叫びながら僕に手を差しだしている。
知らないわけがない。
その手を僕はつかまなかった。「幼なじみっていうのも、知られすぎて面倒だな」とつぶやく。
ふたたび操縦席へ立つ僕を、利香が見ていた。何か叫んでいるようだったが、雷鳴にさえぎられた。僕はその隙間を狙って「戻ってくるって言ったろ」と怒鳴った。
利香はその場に泣き崩れた。僕は高波の飛沫をもろに浴びながら、前を向いた。
自然に切れたものもふくめすべてのロープを開放した船のエンジンを、嵐の中無理やりかける。本来出る幕ではないスコールに棹をさすような漁船のペラはたよりないが、なんとか離岸はできそうだった。桟橋で僕のことをずっと見送っている利香のちいさな姿を見て、僕は笑って手をふった。かつて無邪気なおっさんがそうしたように。
岸から離れると前進にきりかえ、海との真っ向勝負に出る。風と波が強すぎてほとんど舵がきかなかった。船のまんなかでまっぷたつに割れてゆく風。すこしでも舵輪から手を離せばうしろにふっとんでしまいそうだった。島から軽く二キロは離れたかというとき、ふとふりかえると僕はため息をついた。
水無孤島は、ただの島だった。
中央がぽっこりふくれたような山と、港と村落。
ガガーリンが地球の青さと神の不在に驚いたように、僕は水無孤島という未踏の桃源郷がどこにでもありそうなただの島だということを知った。守っているはずの神も見あたらなければ、霊験あらたかなオーラも、ない。嵐の中に浮かぶ、ごく普通の島だった。
僕はこの島で生まれ、縛られ、育った。
僕は水無孤島の外観を目に焼きつけようとした。父も同じような気持ちで船の上からふりかえったのかも知れないと思えば、急にこれまで忘れていた郷里へのシンパシーが湧いてきた。だけど、もう後戻りはできない。
舵輪を持つ手が震える。今、僕は水無孤島の海域にいるのだ。ロデオのように揺れる船体に必死にしがみつき、全速前進でフルスロットル。すでに全身はびしょぬれだった。とにかく島から一キロでも遠くまで。ただその一心で僕は舵をきった。先日、床を殴ったときに痛めた手に激痛が走ったが、かまっていられる余裕はなかった。一瞬でも手を離せば操縦席から落下し、甲板に叩きつけられるか、最悪の場合海に転落する。
僕は右手で舵輪をにぎりしめ、左手で和明のラジオのスイッチを入れた。あいかわらず雑音しか流れない。だが雷鳴の隙間をぬうようにその雑音がたまにとぎれるのを、僕は聴き逃さなかった。まだ何の番組なのか、音なのか声なのか、それも分からない。僕はラジオのボリュームを最大まで開放し、ズボンのポケットに入れた。
何十分もロデオ状態だった船が徐々に落ち着きをとりもどしはじめ、波もおさまってきた。あれ、と拍子抜けしたのは僕のほうだ。バラバラバラッ、と飛沫が操縦席をたたく音がやけに鮮明に聴こえた。まさかたった十数キロ離岸しただけで嵐がなくなるのか、と僕はあせった。まさかそんなはずはない。十八年間、何隻もの調査船をこの海にしずめ、何ぴとたりとも上陸を許さなかったスコールだというのに。
ふわり、と船体がかるく沈み、ちいさな水しぶきをあげて安定する。順風満帆。潮風に背をおされるようにゆるゆると丘のような波を越えていく船に、僕は半速前進にきりかえた。座標と海の気分がつかめない。鎖島化以前に計測された情報が正確なら、北北東へ七十キロ前後で和歌山県潮岬に到達するはずだ。一日そこらで着くとは思わないし転覆するのが先だろうとみていたが、もしかしたら、という一縷の期待が脳裏をよぎる。
僕は右舵を一杯にきった。これで雨がやみ、波が安定さえしてくれればと思ったが、どうやら神は僕を泳がせてはくれなかったらしい。
狭い盆地の合間を縫うように先へ進んでいたが、突然、空気を送りこんだように目の前の水面がなだらかに膨れあがり、それは僕がのけぞって見あげなければならないほど高い、高い山になった。どこかとおくの雷光がすけて一瞬美しくかがやく。圧倒される。船体が波の足元へひきずりこまれる。回避せねばと舵をきろうとしたが、一ミリも動かない。やばい飲みこまれる、と思った瞬間にはすでに、波は端からくずれはじめていた。ドミノが倒れるように、白い水しぶきをあげて。
強い力で波へひきずられてゆく船が、徐々にうしろへかたむいてゆく。両足を強く踏んばるが、手も足も水ですべる。
必然的に上を見あげる体裁になった僕の目に、竜が見えた。
有刺鉄線でかこわれた楽園の、主。僕らが神様と呼んで納得していた存在。
その大津波の中腹で、水無孤島を一周できるんじゃないかというような巨大な竜が、しずかに、何も言わずにちいさな僕をみおろしていた。その目は黄金にかがやき、人間をはるかに凌駕する。鉄壁のような鱗に、巨木じみた角。地球をまるがかえしてしまえるほど長い尾。僕は絵本の世界にいる気分で、その竜の目を見ていた。誰も責めず、誰も救わない、威厳は確かにある存在。彼の宝玉のような両目を、僕は無言でにらみかえした。
ざまあみろ、とあざ笑いながら。
土のにおい。葉擦れの音。降りつづく雨。胎動のような雷。純白の花。
神様に守られた島。
ズボンのポケットに入れていたラジオがとつぜん、波音に負けじと電波を受信した。拍子抜けしたそのスイング・ジャズのBGMと司会者の声に驚き、その瞬間、雨で濡れた手から舵輪が抜けた。ほぼ垂直にかたむいていた船からすべりおち、まっさかさまに落下する。冷たい海に投げ出されるその瞬間までの数秒間、ラジオから出演者たちの陽気なトークが僕の耳から離れなかった。
<――……そうですね、当局には打つ手がないですよねえ。ヘリに人間を乗せたら強風にあおられて上陸不可能っていうんですから、本当に鎖国状態ですよ。ええ。地上に残された最後の楽園とでも言いましょうか。前代未聞ですよ、あれほどまでに自然が残っていて、まして雨が地盤に影響しないなんて。そうですよねえ。だからこそ、神の島なんていう言い伝えが信憑性を持つんでしょう。しかし楽園というより、箱庭ですね。こう言っては悪いですが、愛玩動物みた……すよ。かわい……を檻で飼……うな……かし彼らにとってはおそらく、日本本土が楽え……のでしょ……ん後の課題と……を――>
八年前、父が水平線の果てへ去ったあと、母が言った。
「いい? ミナ、隆人。この島は神様に守られた島だけど、神様はここにしかいないわけじゃないのよ。神様はどこにでもいるの。どこにでもいるし、すべての人の心の中にいるの。だから、決してこの島だけが特別なんじゃないの。そのことをよく覚えておいて」
父の背を見送ったばかりでまだ涙もかわかない僕らに、母はさらに語った。
「神様は乗りこえられない試練しか与えない、なんていうのは嘘。理不尽ありきの世界だし、試練は神様が主体じゃない。神様は誰も助けない。与えられたのは、試練を乗りこえるための勇気とか、力とか、乗りこえたいって思うようになれる強い気持ち。そしてそれは神様の力がひきだすものじゃない。自力で表にひっぱりだすものなの。ミナも隆人も、島の神様にお祈りしなさい。私たちの心に、私たちの唯一信じるものをくださいって」
その言葉を聴いた瞬間から、僕は弾を限界まで込めた拳銃を自分の腰にさしていたのかも知れない。それがたとえエゴだったとしても、僕は常に自分の中にいる神様の存在を信じるようになった。信じた末に何が残るかを考えずに、ただ一途に。
本土からやってくる巨大な無人ヘリコプターを見るたび思う。襲撃されているような気分だと。だけどそう思わせているのは、ヘリではなく、僕だった。
雨ばかりの島。他には何もない、ただの島。手つかずの自然と古い日本の生活様式がそのまま生きていて、美しい花が咲く島。この島で生まれ育っていながら、島の神様への同情を禁じ得なかった。悠久の頬笑み。禁断のリンゴをそのまま丸かぶりする、自由。
何かを追いかける夢を、見ていた。気がする。
だがそんなものは目がさめたと同時に、一瞬で瞼の裏から逃げ去ってしまう。うっすらを目をあけるとその瞬間、除夜の鐘を頭蓋骨の中で鳴らされているような激痛が頭部全体を襲った。海の上をボートでたゆたっているような目まいがする。思わず歯をくいしばり、頭を両手でかかえた。脱水症状、と僕は即座に判断できた。海水を大量に飲みこんでしまったのだろう。
自分がベッドに横たわっていることに気づいたのはその数秒後だった。肩までかけられた毛布の中で震える右手を必死に動かし、ベッドの端に手を伸ばした。何度かあちこちをさぐっていると、ぴたりと冷たい感触に触れる。目を凝らすとそれはサイドテーブルに置かれた、透明な水の入ったペットボトルだった。実はペットボトルというものを僕はこのときはじめて見たのだが、そんなことは眼中になかった。僕はすぐさまそれを手にし内容液を一気に飲み干した。甘みがあるが、味はほとんど分からない。紙のようだった喉が徐々にうるおい、気持ちが落ちついてきた。無心にミルクを追う子猫のようにボトルの中身を飲みきると、ひととおり咳きこんで、ふたたびベッドにそのまま倒れる。枕元に空ボトルがころがる。咳のしすぎで顔が熱い。頭痛はまだ消えない。すこし高めのやわらかい枕が、そんな頭蓋骨を丸ごと包んでいるようで心地良かった。
そこまできてようやく、ここはどこだろうと思った。あおむけになると、病院のような白い天井が見えた。六畳ほどの部屋に勉強机や本棚、クローゼットなどが配置されてある。壁にはアイドル歌手らしき少年のポスターが大量に貼られ、床にはお菓子の袋や脱ぎ捨てられた服や雑誌がちらばっていた。机の上には僕が本でしか見たことがないパソコンが鎮座していて、枕元には帳面ほどの薄さの大きな四角いプラスチックの板もある。
どこだろう、ともう一度疑問をめぐらせた。頭がうまくはたらかない。空になったペットボトルをふたたび手にし、ラベルの主成分表示と解説を読んだ。ただの純水かと思ったが、電解質やミネラル分やブドウ糖を含み、効率よく水分を補給するためのスポーツドリンクのようだった。それならそれでいい、と僕は枕に顔をうずめた。今はとにかく休みたい気分だった。ここがどこかは、誰かが来たときに訊けばいい。
が、そのときは思いのほかすぐにやってきた。壁越しに誰かが話す声がかすかに聴こえ、それはドアがひらく音と共にダイレクトに耳を直撃した。きゃははは、というかん高い少女の声。頭に響く。僕が耳をふさぐべく身じろぎすると、少女は「あ、なんか起きてるみたいだから、ちょい話してみるわ、あとでまたメールする」と言って沈黙した。ベッドに座り、僕の顔をのぞきこんでいるその気配。香水のやわらかな匂い。「うわ、あたしのポカリ全部飲んじゃったんだ」とつぶやく声が聴こえる。僕は目を半分だけあけた。
すりガラスをとおしているようなぼんやりした視界の中、掘りが深くみえる化粧をほどこした少女が、僕の顔にかかる長い髪を払いもせずにこちらを見ている。唇がいやに艶めいていて色っぽい。だけど僕とほとんど変わらない年頃のようだった。彼女はさもおもしろそうに笑い、「大丈夫?」と言った。
「君は」
そう声にした途端、砂漠の砂をいっぱいに含んだように口内がきしんだ。眉をひそめる僕を見て、少女はさらに笑う。
「あたしは日本人よ。地球へようこそ。観光?」
現在地をたずねると「日本の和歌山県だよ」と少女が言う。僕はそこでようやく、ここが大日本共和国の本土なのだと認識した。津波に引きこまれた船がひっくりかえり、そのまま海に落ちたことを思い出す。「そうだ、俺」とあわてて上体を起こそうとすると立ちくらみがし、結局枕に轟沈することになってしまった。おもしろがって彼女が笑う。僕は島に残してきたミナ、母、和明に利香、千晴さんと裕介くん、そして誰よりシェンロン熱にかかった中島さんのことを一気に思い出し、起きあがらねば、と思うが身体がいうことをきかなかった。焦慮に冷静さを奪われまいと、ゆっくりと深呼吸をした。どうして海に落下したのに本土まで流れ着いたのか、そのことについては今は考えないようにした。
本土に今、来てるんだ。その信じがたい現実に興奮し、顔を両手でおおった。十八年ものあいだ、誰も脱出できなかった水無孤島を飛びだして、本土に上陸したんだ。その達成感と疲労とで頭がぐちゃぐちゃだ。体力があって頭痛がなければ今すぐ小躍りしてよろこんでいた。
「いよっしゃああああ」
喉の渇きと頭痛をも凌駕し、かすれた声で叫ぶ。
多分たくさん海水を飲んだ、と言うと彼女は部屋を出て、二リットルサイズのペットボトルをかかえて戻ってきた。「こんなんで大丈夫なの」と首をかしげる彼女にうまく説明ができず、とにかく早くこの頭痛と決別したいと中身のスポーツドリンクをめいっぱい飲んだ。一時間もそうしていると体調が安定し、ベッドに半身を起こせるようになった。
ぐらつく頭をおさえながら、彼女の笑い声を聴く。
「なんだ、地球人だったんだ。浜辺で倒れてるから、てっきり空から飛来してきた宇宙人が着陸に失敗して、流れ着いたのかと」
「そういうのって、小説とかだとたいてい、船が沈んで漂流してきたとか思わない」
「小説なんて読まないもん、あたし。字ばっかで読む気しねえし」
近所の浜辺の岩場でぶっ倒れてるから、うっわ今どき何こいつって思って連れて帰ってきたんだけど、漂流してたんだ、へえ。
そう言う彼女の声はすきとおっていて、だけど色っぽかった。ひとり暮らしらしく、騒いでも彼女以外に誰も部屋に入ってこなかった。
彼女はツヤナと名乗った。どういう字を書くのかとたずねると、彼女はかわいらしいストラップが大量にぶらさげられた手のひらサイズの端末機を指先で叩き、僕に画面を見せた。真っ白な画面の左上に「艶菜」という文字が立体的に浮かんでいる。
「その機械は」
「やだ、ケータイも知らないの。ケータイっつか、アイフォーンだけどね。早い話が持ち運びできる電話、というかパソコンに近いかも」
「携帯電話は知識として知ってるけど、俺の認識では、もっとこう」
僕は両手の手首をくっつけ、ぱたぱたとたたむ動作をした。艶菜に笑われ「そんなの何十年前のケータイだよだっせええ」と馬鹿にされた。
「漂流してきたっての、嘘なんじゃないの。隆人くんって実は過去からタイムスリップしてきたとかそれ系の人じゃないの」
「違うって、俺は」
水無孤島から来た、と言う前に艶菜は枕元にあったプラスチックの巨大な板の上部に手をかけた。とたん、漆黒の表面に映像が浮かび、音声が流れてきた。「うわっ」と飛びのいたのは、その薄い板がテレビだったという事実を知らされたことにくわえ、映像が立体的に見えたせいだった。ニュース番組でうつしだされたどこかの戦地の映像は、兵士ひとりひとりや砂埃までもが手前に飛びだして見える。僕は思わず画面の前に手をやって、立体の建物に触れようとした。が、それは空気をつかむばかりで実体を成さないものだった。
ごく普通の日常の動作としてテレビの電源をいれたにすぎないらしく、艶菜はあきれたように「馬鹿みたい」と笑う。
「アイフォーンも知らなければスリーディーテレビも知らないか。この調子だとパソコンなんてもちろん使えないだろうね。えらく原始なとこから来たんだね」
「テレビなんて」僕は観念してベッドにふたたびもぐった。「もう何年も見てねえよ。デジタル放送はじまってから」
艶菜はすらっと細い四肢をおしげもなくさらし、ベッドの端に座った。派手なロゴ入りのタンクトップを重ね着し、足の付け根までロールアップした短いジーンズにごついベルトを通して、チェーンをぶらさげている。そんなに変わらない年齢のはずなのに、ずいぶん大人びて見える。近づけられた顔の両端で、おおきなリングがつらなったピアスがそっと揺れる。テレビのニュースは少子高齢化社会の行く末を危惧するコメントを長々とつづけている。
「ね、君、ほんとに実際、どこから来たの。どっかから陸地に入ろうとして、船がひっくりかえってああなっちゃったんでしょ」
僕は浜の岩場でぐったりとして倒れている自分の姿を想像し、恥ずかしくなった。顔をそらしながら「水無孤島」と言うと、そこから軽く三十秒は沈黙が流れた。艶菜はぽかんと口をひらき、ついでベッドを転げまわって笑った。
「うっそだあ」目尻に溶けたマスカラがにじんでいる。「あそこは隔離された離島なんだよ。あたし、お母さんから聞いたし、学校でも習ったよ。政府が手に負えない、上陸しようとするともれなく嵐で命を落とす地上最後の楽園なんだって」
「地上最後の楽園」と復唱してみるとその語感の気持ち悪さに唖然とする。
艶菜は勉強机の横の本棚から社会科公民の教科書を出して、最後のほうのページを僕に見せてくれた。いくつも蛍光ペンで線がひいてある文字の海の隅に、不鮮明な写真があった。上空から撮影された、海に浮かぶ島。その下にはちいさな字で「水無孤島の航空写真(上図)。現在は上陸禁止。写真は20××年のもの」と書かれてあった。鎖島化する以前のものだ。
本文に「水無孤島」という項目があり、僕の故郷が短い文章で解説されていた。水無孤島は自然に囲まれた離島であり、太古の昔から雨が降りつづいている不思議な島だと。独自の自然環境と珍種の植物が野生のまま残り、ふた昔前の日本の生活文化をそのままに人々が暮らしている貴重な離島であると。十八年前、東亜戦争の開戦とほぼ同時期に特種のタカネノハナの出荷がはじまり、その後、スコールで上陸が不可能になったことも、すべて書かれてあった。
僕らがなんの感慨もなく普通に生活しているあの島のことを、すでにこの国の子供たちは教科書をつうじて勉強するようになっている。母が語っていたことは事実だったが、実際目にするとその図式があまりに不思議すぎて、僕は何も言えなかった。
「雨がやまないって本当なの」
「一応。馬鹿みたいにふってるよ」
「じゃあ、ずっと傘ばっかさしてるんだ。太陽が見えなきゃ空も見えない、一日中じめじめした状態ってことか。鬱陶しいね」
「もう慣れたよ」僕はため息をついた。
教科書を彼女にかえすと、眉間を指でおさえた。まだ頭痛がする。二リットルペットボトルのスポーツドリンクをすでに半分近く飲んでしまったというのに。艶菜はテレビのニュースをぼんやり見つめながら、「水無孤島ってさあ」と言った。
「なんかゲームの世界みたいな感覚だったなあ。実際にあるんだっていう実感がなくて、そんなとこに人が住んでるなんていまいち想像できなくって。上陸も船出も不可能だなんて、現実にありえないと思ってたし」
「でも」僕は毛布をにぎりしめた。「雨は毎日降ってるし、みんな普通に生活してる」
大陸の華国が周辺諸国を占領したというニュースを、無表情の美人キャスターが淡々と伝える。立体的に見えるぶん、軍隊の行進がやたらとリアルだった。体育座りをする彼女のジーンズの裾から下着が少しだけ見えた。「いいんじゃない、肌が乾燥しないし」と艶菜がしれっと吐き捨てる。
「そんなにいいところじゃないよ。来れるようになったら来てみなよ。何もない、雨ばっかりで鬱陶しい」
「でもあたしたちにとって、少なからずちょっとした憧れの田舎な島って感覚だけど」
「それが不思議」僕はため息をついた。「むしろ俺たちにとったら、本土のが憧れ」
「あたしのお母さんはさ、昔、水無孤島に旅行で行ったことがあるんだって。そしたら現地の人はみんな優しくて、明るくて、森にかこまれて自然がいっぱいで、雨ばかりだけどそのぶん空気がきれいだったって言ってた。だからあたしからしたら、水無孤島ってちょっと憧れる」
「だからなんで」
僕は問いかえした。艶菜がぷうっと頬をふくらませる。
「だってそうじゃない。ちょっとした田舎のささやかな暮らしって感じでさ。コンクリートがゆりかごだった都会育ちだと、どうしてもね。ましてあそこは地上最後の楽園。嵐にかこまれて上陸不可能って言われてるけど、そこに行きさえすればいろんな問題や悩みが解決しそうな気がするの」
「単純すぎるんじゃないか。あの島、そんなに霊験あらたかなもんじゃない」
「そうでもないんじゃない。あたしが生まれる前の年ぐらいに、水無孤島周辺でスコールが発生して大量に船が転覆したっつって大騒ぎになったし、『鎖島』現象のトレンドど真ん中育ちなんだよね。島が神格化されたのと同時期に青春をすごしてきたわけ。もう本土には人工栽培のものしか自然が残ってないし、都会はヒートアイランド絶好調。環境汚染も深刻。だから水無孤島上陸っていうそのものが、ある意味でのアイコンというか、夢に近いかも」
無邪気に笑う艶菜が不思議だった。彼女にとっての地上の楽園が。
ふたたびポカリスウェットをラッパ飲みしていると、「そういえば」と艶菜が切りだした。
「隆人くん、どうやって水無孤島を脱出してきたの。そもそも、なんで本土にむかって船なんか出したわけ」
そう、僕は中島さんのシェンロン熱を治すタカネノハナの特効薬を取りに来たんだ。脱水症状がおさまったらすぐにでもここを出たい。
僕は状況をなるべく簡潔に説明した。中島さんが本土からの食べ物か何かを介してシェンロン熱にかかり、その特効薬を探しに来たと。タカネノハナが本土から無人ヘリで出荷されていることと、それがシェンロンウイルスに対応できる特効薬になることも、すでに日本国内では常識になっているらしい。島から船を出し、スコールをぬけたと思ったら大津波に襲われ、海に落ち、気がついたらここにいたことも説明すると、「それをあたしが拾ったわけか」と彼女が納得する。手のひらに拳をぽんと打ちつけた。
だが、艶菜はそのあと首を横に振った。
「確かにシェンロン熱は今もちらほら感染者がいるけどさ、その花から作られる薬は政府支給品で貴重だから、一部の大型病院でしか処方されてないの。しかも発症して入院してきた患者にだけ」
一応自宅療養のときにも服用するようにって、カプセルを持って帰る人もいるらしいけど。艶菜はそう言ってため息をついた。
テレビのニュースがシェンロンウイルスに感染した人数を告げる。それに便乗するように艶菜がシェンロン熱のことについて教えてくれた。二十年前の東亜戦争のとき、日本に上陸してきた華国兵がシェンロンウイルスを持ちこみ、先三年ほど爆発的に流行したこと。水無孤島に自生するタカネノハナの種子から新薬が作れることが分かり、大量に仕入れ、流通したことで死亡件数を激減させたこと。現在はタカネノハナの薬の効能がそうして証明され、早期発見、対処によって感染による死亡者は限りなくゼロに近くなり、国民の脅威となることはほぼなくなったらしい。
気がつけば毎年のインフルエンザみたいな扱いよ、と艶菜が言う。
「ここはてっとり早く、事情を話しちゃえば。別にお役所仕事っつったって人命ほっとくわけにゃいかないでしょ。まして水無孤島から本土に上陸してきた男の子がいるとか、シェンロン熱が離島まで感染拡大なんてことになったら、それだけで騒がれるよ。そういう機関に問い合わせたら、ふた悶着ぐらいでなんとかなるんじゃない」
そう言って艶菜は笑った。
ベッドに轟沈し、ほっと一息つく。神がひきあわせた偶然だろうか。うまくいけばすぐにでも薬が手に入るかも知れない。そうなればあとは島に引きかえすだけだ。
そこまで考えてはたと思い当たる。
そもそも僕がどうやって本土に辿り着いたのかも分からない。波の中に竜を見たあのとき、確かに海に落ちた。そのときの背骨への衝撃も覚えている。そこから記憶がまったくない。気がつけば本土にいて、艶菜に介抱されていた。冷たい水の感触も、何もない。脱出も上陸も不可能と思われていた水無孤島を、ちいさな漁船ひとつで飛びだしてきた自分の無鉄砲さには涙が出るが、あの津波にさらわれて生きている自分も不思議だった。
津波の中に見た竜を思い出す。青い瞳は透きとおっていて、何もかもを知っている賢者の色をしていた。あれがもし島の神だとでも言うのなら、あまりにあっけなさすぎる。だけど自分が今ここで脱水症状ていどですんでいることを思えば、形をなさなかったおぼろげな幻の輪郭が、僕の中ではっきりと形成されてゆく、気がした。
救われないと思っていた。僕は島の伝説や神の存在を信奉していたわけじゃないから。
艶菜はじっと僕を見ていた。視線に耐えかねて「何」とたずねると、彼女は笑う。
「いや、なんかすごいなあって」艶菜の口元はリップグロスで妖艶にかがやいていた。「その中島さんっていう駐在さん、別に隆人くんの身内ってわけじゃないんでしょ」
「でも、島民全員が幼なじみみたいなところだし」
「それでもさあ、あたしらは自分の恋人でもない人のために命かけて嵐の海に船だしたりしねえし。あれこれと綺麗事が蔓延してたって、結局あたしら本土の人間は自分が好きな人のためなら他人が傷つこうと関係ない、ていうか見えなくなっちゃうし。それすら『誰を傷つけることになってでも守りたい』なんていう口当たりのいい言葉で包んじゃってんだよ。自分と、自分の大事な人がしあわせならそれでいい。耳に甘い科白だけど、甘いから享受しちゃう」
そしてつづけた。「みんなは水無孤島のこと、神様に守られた島だって言ってるけど、あたしはなんか違ってたな。水無孤島に行ったお母さんが言ってたよ。あの島はきっと、神様が数少ない心の優しい人間の魂をえらんで、あの島で、森の中でしあわせにすごさせてるんだって。それはたぶん神様の傲慢なんだろうけど、だから本土の人間がタカネノハナを乱獲しはじめたとき、あの島は嵐にかこまれ箱庭になったんだなって」
テレビがにぎやかなバラエティ番組に変わり、にぎやかになる。艶菜は何も言わなかった。僕もベッドに横たわったまま、何も言わなかった。真っ白な電灯の下、艶菜のむきだしの太股がやけになまめかしかった。彼女は吹きだすように笑って、「やっぱりちょっと行ってみたいなあ」と言った。
僕はうんと長いあいだ黙っていたけれど、やがて爪の先をいじりながら、「お祭りが」と言った。
「あるんだ。天雨祭っていうんだけど、溜めた雨水を神様の涙って呼んで、それを島の子供たちが手桶で島民に浴びせるんだ。太鼓鳴らして、舞を踊って、無病息災と世界平和を願う。それぐらいなら、見せられるかも」
艶菜は悲しそうな目で僕を見て、そのあとへにゃりと笑い、「見たい」と言った。
となりの部屋で寝るという艶菜と数分口論し、結局僕が折れてこのままベッドで寝かせてもらうことにした。正直まだ頭痛がしたし、口の中はからからだったから、動かないでこのまま轟沈していたかった。僕は艶菜に救われたことを感謝すべきだと思った。この采配もすべて神の手によるものだとしたら、僕はやっぱりいつだって船を出すことができたんだと、今になって愕然とする。
荒れた海を前にして、最初の一歩が踏み出せなかっただけなのだ。僕も、誰もが。
命を救ったお礼を、と言うと艶菜は爆笑した。よく笑う子だ。
「一宿の恩義とか、あたし、なんもしてねえっつの。もうちょっと世界が平和になってからにしなよ。あたしなんか、親にタンカ切って家出して好きな高校行ってる立場なんだよ。ぶっちゃけ人を救ってもお礼してもらおうってな性分じゃねえし。だからあたしとしては、誰もが誰かのために何かをしたいって無条件に思えるような、隆人くんみたいな人間がもうちょい増えたときに、またこっち戻ってきて、なんかしてよ」
そんときにまた、ポカリでもおごるからさ。
そう言って艶菜はふらつく僕の肩を持ってベッドから起こし、窓辺に立たせた。「今できるのはこれぐらいかな」と言って彼女がブラインドをあけたとたん、僕はすべての呼吸を止めた。息ができなかった。
地上六階ほどの場所からのぞむ本土は、僕が想像していたような機械制御の近未来都市ではなかったが、それに近かった。よく写真で見るような、雑居ビルとマンションとがひしめきあう、車の往来が激しい町、ではなかった。どういう構造になっているのか全面ガラス張りにしか見えないビルが立ち並び、それらがすべて住宅なのだと気づくのに数秒かかった。歩行者は道路を悠然と歩いていたが、車は地上三階付近の空中をなめらかに走っていた。車線もきちんと分けられ、信号も宙に浮いている。点滅する光の線が中央分離帯の役割を果たしている。排気ガスの匂いは、しない。
夜闇に浮かぶ都市はまぶしく、昼のようにあかるい。だけど僕はすぐに町から視線をあげ、窓に顔をくっつけて、空を見あげた。
雨のふらない、よく晴れた夜空だった。
曇り空よりずっと深い紺色の闇の中、ところどころ星がまたたき、ヴェールのように宇宙をおおっている。その真ん中には金色の月がぽつんとひとつ、宝石を落としたようにかがやいていた。写真でしか見たことがない夜空の月。風がとおる、道。町ゆく人は傘なんてさしていなかった。僕はその場にへたりこんで、だけどただひたすらに月をみあげていた。水無孤島の天候の状況を知っている艶菜は、僕の反応もなかば予想できていたのか、僕の身体をささえて苦笑していた。
美しい夜の空に浮かぶ月は、城のようだった。
彼女はもう一度僕をベッドに横たえてくれた。窓とブラインドを閉めながら「とにかくゆっくり寝てな」と言って、それ以上は何も訊かないでくれた。あかりが落とされ、部屋のドアが閉まると、僕は毛布を頭からかぶった。先刻見たばかりの星が、きらきらと音をたてて落ちてきそうな夜。雨音も雷鳴も聴こえない。だけど、故郷に残したミナや友人たちが、傘を持って遊んでいるようすが思い浮かんだ。
地上最後の楽園。
その言葉の気持ち悪さは最上級だったが、本土を勝手に近未来都市化していると想像して憧れていた僕も僕だと思った。
神様がえらんだ魂があの島で暮らしている。その艶菜の言葉がラムネのように口の中ではじけて、溶けて、身体にしみこむ。冗句を盛りこんだフルコース。
この時期なら、布団に入った当初とはまったく違う寝相で蚊帳の中で目が覚めるのがいつもの朝だ。断じて煙草の脂で茶色くなりかけている白い壁紙に電灯、なんてことはなかった。だけどここが艶菜の部屋なのだとすぐに思いだす。地上の楽園って想像以上に重い、とひとりごとすらつぶやいてしまう。重い。
両の手を目の前にかざし、何度かグーパーをくりかえす。血潮がすけて見える、自分の手。生命線短いなあ、と思いながら、ぼんやりとこれまでの経緯を思いだした。船出をしたはいいが波にのまれ、気がつけば本土の女子高生に拾われ、今、ここにいる。溶けかけた生クリームのように現実味のない天井が、ここは本土なんだぞ思い出せと僕を無言で叱責する。片手で目頭をおさえた。そうだ、今僕は本土にいるんだ。どろりと生クリームが耳に流れこんでくる。
時計は朝の八時半をさしていた。隣の部屋から艶菜の笑い声が聴こえた。ひとり暮らしのはずだから、おそらくまた電話をしているのだろう。彼女の手のひらにすっぽりおさまるサイズのアイフォーンは僕の知らないスタイルの携帯電話だった。僕が本で読んだ近未来都市に近い科学技術が、すでにこの列島に浸透している。目にうつるデスクトップパソコンもスリーディーテレビも、僕には非現実的でありながら、強い現実性をもって僕の思考を凌駕する。
やがて艶菜の声がとぎれ、ドアがひらいた。アイフォーン片手に「お、元気そうだね」と笑う彼女。昨日より露出度はひくいがさらに強めのファッション。学校に行かなくていいんだろうかという僕の思考を読んだのか「日曜だっつうの」と艶菜が爆笑する。本当によく笑う子だ。
起きあがれるかと訊かれて上半身を起こし、ベッドの脇に立つ。多少ふらつくが軸はしっかりしているし、倒れることはない。そのとき初めて、自分の着ている服がまったく知らない男物のワイシャツとジーンズであることに気づいた。服をまじまじと見ていると「君の服は洗濯してる、それは前の彼氏のやつだから気にしないで」と言って艶菜が煙草に火をつけた。僕が自力で立てるようになるまでと気をつかわせてしまったようだ。人を見た目で判断してはいけないと子供のころから言い聞かされてきたが、この派手な服装で煙草も吸うギャルが他人の僕を無償で介抱し、世話してくれたのだと思うとことさら身にしみる。
さらに艶菜が惣菜パンとポカリスウェットのボトルが入ったコンビニの袋を投げてよこしたときは、「ありがとう」と三回も言った。艶菜は照れくさそうに笑い煙草を灰皿におしつけた。窓のブラインドがまだしまっていたので、室内は薄暗い。ベッドに腰かけてパンを食べながら、ブラインドの隙間からさしこむ太陽の光を見ていた。
そういえば僕は、太陽を知らない。島は生まれたときから曇り空だし、たまに雲の隙間から光がさすことはあったけれど、あの白い光の塊を直接見ることはなかった。初日の出をおがまずとも新年は平等におとずれたし、島の植物はその環境に合わせて歴史上進化してきたから問題はなかった。だけどどこか、太陽や青空に対する憧憬があり、写真でいくども見たけれどやはり、あたたかい光の粒をこの目で見てみたいという思いはあった。そのあやふやな輪郭の思いをこれまで無視してきたけれど、本土に上陸を果たしてみて急にやわらかいメレンゲがふくらむように自覚した。
そんなふうにパンのあき袋片手にぼんやりとブラインドの光を見ている僕の後頭部を、艶菜が指でちょいとつついた。もう頭はぐらつかないが、「何」とその手をはらった。
「昨日の星空であんだけびびってたんだから」彼女はさも面白そうに笑う。「今外に出たら腰ぬかすんじゃないの」
そう言いながら片手でアイフォーンを操作する。
――ああ、ルナ? ちょっと車だしてくんない。いや、さっき言ってたシータがさあ。あ、違うこの場合はパズーか。わけありっぽいから手伝ってあげることにしたんだあ。とりまうちのマンションの前に車持ってきてよ。
僕は、ミナもあと五年たてばこれぐらいの年の女になるんだろうな、と思った。彼女の腰の曲線美をぼんやりながめながら、ポカリスウェットを一気飲みする。朝とは言えない時間帯になり、太陽の光がじょじょに部屋の気温をあげてゆく。その些末な変化すら、僕には一度立ち止まって宙をあおがせるほどの破壊力があった。
――日本はもう死んでしまったのか?
「そんなことないし」艶菜がまた笑う。「確かにまわりの国にいろいろ抜かれちゃったし、学力低下っぷりも顕著すぎて胸張れねえけどさ、少なくともあたしは勉強してるよ」
「頭いいんだ」
「自慢じゃないけど学年トップは維持してる。あたし、世界遺産を研究したいんだ。クフ王のピラミッドとかナスカの地上絵とか、コロッセオとかね。人間なんてさ、地球のくそ長い時間からしたら瞬間的ポッと出のにわか支配者じゃん。そのにわかが地球に残したものがなんなのか、見てみたいわけ。それは」
彼女は一息ついて言った。水無孤島も同じ。
心優しい人の魂を神様がえらんで、本土からとおくはなれた水無孤島に閉じこめた。
昨日の彼女の言葉が呪縛のように、僕の自由をきかせなくする。
艶菜は僕を部屋から連れだした。そういえば島を出たときに持っていたリュックやラジオはどうしたのだろうかと思ったが、手元にないことを見るとおそらく船と一緒にどこかで沈んでしまったのだと分かった。リュックに大した貴重品は入っていなかったし、別にかまわないのだが、本土に流れ着いたのが自分の身ひとつなのだと思えばそれも不思議な感覚だった。
ぶんぶんまわっている洗濯機がでんと置かれた廊下をとおって、玄関で靴をすすめられる。僕のはいていたスニーカーはドアの脇に斜めに立てかけて干してあった。彼女のバスケシューズは少しちいさかったので、行儀が悪いと分かっているが踵をつぶしてはいた。
ドアをあけると、思わず目をおおってしまった。マンションの通路は東側を向いているので直接太陽の光が入っているわけではないが、コンクリートで攻撃的に照りかえす光が僕の目をさす。空は青く澄んでいて、一体どこまでつづいているのか見当もつかないほど高い。海の青さとも、折り紙の水色とも違う。水分の足りていない筆で絵の具を伸ばしたような雲がかかり、それも太陽の光を照りかえして真っ白にかがやいていた。
写真で何度も見たはずの青空。だけど僕は、ドアから出たその体制のまま、じっと真昼の宇宙をながめることを禁じえなかった。そうすべきだと僕の魂が芯から叫び、渇望していた何者かに指先をギリギリつかまれたような、緊迫した思いでそこに立っていた。
美しい、と。
艶菜が「ほら行くよ」とじれったそうに僕の手を引く。通路のいちばん端にあるエレベーターの上階行きのボタンを押す彼女に、「地上におりるんじゃないのかい」とたずねた。
「公園デビューした赤ちゃんみたいにぽけらーっと空を見てる少年」艶菜がしれっと答える。「そんなもん見せられたら、誰だってちょっと考えるでしょ」
六階にやってきたのは、ワイヤーで吊るされていないエレベーターだった。内部は古い映画で見た宇宙船の狭い通路のように白く、無機質で、逆におもちゃっぽくて、電気にからめとられている気分にさせる。艶菜が押したのは屋上のボタンだった。
地球の重力のなんたるかを忘れてしまうほど早く、ふわりとシャボン玉が浮くようにエレベーターは僕らふたりを二十二階建てマンションの屋上へと運んだ。ひらかれたドアのあいだからゴウと強い風が吹いて、僕と艶菜の服や髪を乱した。屋上には貯水タンク以外何もなく、同じような高さのマンションやビルの屋上がいくつも見える。まるで飛び石のように。このまま飛んでしまえばぽんぽんと建物から建物へジャンプしてゆけるんじゃないかと錯覚すらしてしまう。
二億人をゆうに超える人口の増加にともない狭まった居住地は、天に積みあげることで確保した。その結果、屋上という空間はさらに神の領域へ近くする。
――空は、あまりにも近かった。
さえぎるものが何もない青空。マンションの通路で見たときとは比べものにならない、フルパノラマの宇宙。このむこうには確かに他の惑星も月も太陽もあるのだと思いださせる、高く、高く、高い空。手を伸ばせば届いてしまうんじゃないかと思う低くにごった雨雲は、この空のどこにもない。首が痛くなるほど空を見あげて、そのまま片足を軸にくるりとゆるやかにまわった。雲が視界の端を丸くなぞるだけで、青さは何も変わらない。しらじらしさすら感じる高さ。無言の空。風をそのひろい胸ですべて受けとめてしまえる空。
その青の中にぽろりとこぼれたような、光の惑星。
まだそんなに高くない位置で燦然とかがやき、世界を照らす。白くまぶしい太陽。空の青さにも風にもさえぎられない、すべての生命を見守る光。地球を目覚めさせるあたたかさ。この星を水の惑星たらしめている、誰も救わない神。
水無孤島に、神はいなかった。それは僕が船の上から確かに見た。船を出さなければ分からなかった。
太陽があまりにまぶしすぎて、僕は目をおおった。これまで薄暗い場所にいた人間が、急に明るい場所に出てもまぶしくて目をつぶしてしまうのだと、僕は思った。
くるり、くるりとまわりながら空を見ていて、やがて僕はバランスをくずしてうしろむきに倒れた。床に腰を打ちつける僕を見て艶菜が笑う。「感動しすぎだっつの」と、目尻に涙を浮かべて。
太陽の熱であたためられたコンクリートにあおむけになって、大の字になって、僕は十五年間、何を見てきたのだろうと一瞬思った。だけどすぐに頭をふって消去する。たとえ今この場で青空を見て、その高さに唖然となったとしても、僕にとってはあのタールのような低い雨雲がこれまでの十五年間のすべてで、その下で育った自分の十五年間は否定されるべきではないと思ったからだ。僕たちは日本人で、艶菜も日本人で、ここは日本でそのことに間違いはなかったから。
僕は確信した。――日本の空は、こんなにも美しいのだと。
土のにおい。葉擦れの音。降りつづく雨。胎動のような雷。純白の花。
ミナがタカネノハナを引きぬいた草のトンネル。雨も届かない茂みの中、僕は地面の湿っぽさと冷たさを感じながら、今みたいにあおむけに寝そべっていた。風のとおりみち。確かに同じ星の息吹を、僕は光の熱を浴びたばかりの肌で感じた。同じ風。水無孤島へとつづいている空を、雲が風に乗って旅してゆく。
だけど忘れてはいけない。今もあの島は雨が降っている。
僕は風にあおられながら、青い空とまぶしい太陽をあおいで、みっともなく泣いた。隣にしゃがんだ艶菜にかまわず、泣いた。父さんは今どこにいるのだろう、と思った。僕はカメラを持っていない。だけど、今この瞬間でも水無孤島は雨が降っていて、太陽の光が一度もさしこまなくて、薄暗いままなのだということを思い出してしまえば、このまま太陽の光で目がやられても、僕はきっと僕を許せないと思った。
「艶菜!」
空気砲で撃たれたような音で我にかえった。派手なクラクションに耳をふさぎ、あたりを見わたすと、ちょうど屋上のフェンスのむこうに白塗りのセダンが見えた。僕は思わずまばたきをくりかえす。地上走行用の車は水無孤島にも何台かあるので珍しくないのだが、ここはマンションの屋上のはず。何がどうなって、と内心パニックを起こしていると、フェンスのむこうにいたセダンがふわりと浮き、屋上に着地した。そんな馬鹿な。呆然とする僕を尻目に艶菜が「ルナ」と叫ぶ。
「ごめんごめん、ちょっと寄り道してた」
「ちょっとじゃねえし、てか屋上って寄り道とか言わなくね?」
運転席から出てきたのは艶菜といい勝負の派手なギャルだった。アクセサリーが歩いているようなその茶髪の少女は、僕を見てきょとんとしたのち、にやりと笑う。
「ああ、その子か、艶菜が海で拾ったパズーってのは」
「そうそう。隆人くんっての。イケメンでしょ」
好き勝手に話をひろげる艶菜に背中を叩かれ、「こいつはルナ、あたしのクラスメイトで親友」と半ば強引に紹介された。ぺこりと頭をさげると「やっだ礼儀正しい」と笑われた。
運転席にふたたび乗りこんで、ルナが煙草に火をつけた。窓をあけて「乗りなよ」と言う。艶菜は笑っていた。
「事情は朝に艶菜から聞いたよ。君、友達助けるために荒波越えて本土まで来た水無孤島の住人なんだって」
「友達っていうか」僕は声をはりあげた。「家族も同然です」
「いいね、そういうのって。正義感とかそんな陳腐な言葉も、逆にくっつけないほうがいいね。君みたいな子、あたしは好きだよ。シェンロンが今の水無孤島に広まったっていうのは、苦々しいニュースだけど」
艶菜に背中を押され、僕はルナの車の後部座席に乗りこんだ。つづいて助手席に艶菜が入る。エンジンがかかり、エレベーターに似た浮遊感と共に視界が上昇した。
「あんた、こんなとこまで浮上して、誰かに見つからなかった?」「平気平気。そこの路地裏から下降したら、ばれないって」
どうやらこの高さまで車を持ちあげることは違反らしい。僕はシートベルトをしめた。
中島さんのことを思い出した。こうしている間にも、彼の命はけずられている。出港直前の彼の表情は赤く火照り、苦しげに呼吸をしていた。あれからもう何十時間も経過してしまっている。手遅れにだけは、させたくない。
「とりあえずさ」ルナが車をマンションととなりの同じようなマンションのあいだにすべらせながら、バックミラー越しに言う。「しかるべき処置はNIIDの大阪支部に直訴することからはじまるね。ちんたら電話なんかしてたらまともに対応してくれないから、水無孤島で住民登録してる隆人くんが直接行ったら説得力あるよ」
「NIIDって」
「国立感染症研究所」艶菜が助手席から言い放つ。
地上付近までゆるやかに降下した車は、上空十メートル付近を規則正しく走っている車の流れからさらに一段上を、時速百三十キロ以上のスピードで走りだした。どうやらここが有料の高速道路になるらしい。運転席のスリーディーのタッチパネルで、アイフォーンをかざして精算するルナを後部座席から見ていた。周囲の建物も、立体映像の方面表示板も猛スピードでうしろに流れてゆく。僕はそれらをながめながら両腕をかき抱いた。
中島さん、千晴さん、裕介くん、利香、和明、母さん、ミナ。
脳裏に愛する人々の笑顔が浮かんでは、水の中に溶かした砂糖のようにほろろと消えてゆく。その残像を噛みしめながら、僕は本を読んで想像していた近未来都市が窓の外でめまぐるしく変化してゆくのを、ここに来るために船に飛び乗ったときと同じ気持ちで見ていた。僕は今、ここにいる。確かにここで生きている。冷たい海をただよいながら、長い長い夢を見ているわけではないのだとしたら。
何ができるだろうか、なんて考えている暇はない。できることをするだけだ。
ルナが音楽をかけ、何かのスイッチを入れると同時に、車の天井が一瞬で消えた。嘘だろと息を飲んだが、手を伸ばせば確かに金属質なものに触れることができたので、透明化しただけなのだと分かった。バラバラと流れてゆくビルの先端に撫でられるように、動かない青空。さしこむ太陽の光。それを見あげているうちに、僕は思った。どうか、この国の行く末が、僕たちの願い祈るものにできうるかぎり近いものであるようにと。
僕はずっと水無孤島にいた。だけど僕は大日本共和国の国民で、同じ空の下で誰しもと共に生きていた。
「隆人くんはさ」
助手席から身をのりだす艶菜。「薬が手に入っても、そのあとどうやって水無孤島に帰るつもりなの。昨日みたいに、波にさらわれて偶然流れ着きましたなんていう奇跡、そうそうあったもんじゃないと思うけど」
いちばんいいのは、今ごろ本土と水無孤島との水路がもとどおり安泰になってるってことなんだけど。そんな艶菜のつぶやきに僕は「大丈夫」とこたえた。
大丈夫。僕は、あの島に帰れるんだ。
奇跡のような青空を見あげて、僕はそっと目を閉じた。
<おしまい>
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2011/01/21(Fri)01:08:58 公開 / アイ
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■作者からのメッセージ
遅ればせながら、あけましておめでとうございます。アイです。
成人式でポッと思いついたネタを短期間で一気に書くという暴挙に出ました(笑)。
児童文学っぽいものを意識していたのですが、小学校高学年や中学生が読むにはちと難解すぎたんじゃないかと後悔……。
数学の最低点が8点、理科が12点という根っからの文系人間がほぼ初めて長編でファンタジーものに挑みました。
ファンタジーっつったら本気でファンタジー書いてる人にジャンピング土下座しなきゃいけない内容ですが。
そういう理科の基礎知識が根本的にうっすーい奴が書いたので、色々と荒が目立つと思われますが自分で気づかないぐらい理科弱いのでスルーしてやってください。ほんと絶対今後ファンタジー書きたくない(泣)。
理科といえば自分が好きな分野しか真面目に授業聞いてなかったぜ、やっぱり学校の勉強って必要だぜ……と痛感して怒涛の涙を流して足元すすいだバカ1号です。
これを見た友人が
「あんたギャルゲーのやりすぎ」
って言ってましたが……で、でしょうねえ(汗)
私は基本的に純文学を愛する芥川オタクですがサブカル路線ではギャルゲーを愛する人間なので、普通に書いてるつもりがそうなったというか……って言い訳になってない……。
お兄ちゃん大好きーな妹キャラとかどんだけ俺得なんだと(笑)。
「兄ラブな妹、強気な幼なじみ、美人な人妻、ギャルな女子高生がいっぺんに出てくる児童文学はオカシイ」
って言われてしまいました……orz
もはや私がお兄ちゃんラブなかわいい妹キャラを書きたいがためのものに……。
戯言はこのへんで……(汗)。
「雨のやまない島の話を書こう」と成人式のときに思いつき、そこからむくむくと話がふくらんできて結果的にこーなりました。
最初に思いついたのがラストシーン(青空と太陽を初めて見て涙する主人公)だったので、時系列的には逆流していった形になりますが。
前述のとおり理科と数学が赤点すれすれで高校を卒業したバカ1号なので、調べなきゃいけないことが多くてある意味めちゃくちゃ労力使いました。もう絶対ファンタジー書かな(以下略
自分でも色々納得いかないところがあり、今後の課題です。
こんなふうに「うまくいかない!」ってなっても「でもどこがうまくいってないのか分からない!」よりはずっとマシなんじゃないかと前向きにとらえてます、ハイ。
とにかく色んなテーマと愛情だけはたっぷり込めて書きました。
私自身、コンプレックスの多い人間で「こんな自分なんか」って思うことが多々あるのですが、人様からの意見を聴けば色々といい部分も見つかったりして「そういうもんかな」って思うのです。
逆にすごいと思ってた人が、実は自分と同じように色んな葛藤と闘ってる人だったり、実は逃げたことがある人だったりして。
作中の中島さんが「俺の背中なんか見なくていい。自分のえらんだ道に誇りを持って、間違ってても自分を否定しないで軌道修正していけるような人間になってくれれば」って言ってましたが、それはまるまる自分への叱咤激励にしています(自分で・笑)。
できれば人のせいにしないで生きていきたいものです。
隆人だって実は島から出られない苛立ちよりも、何かにつけて本土に責任転嫁をする自分を毛嫌いしていたんじゃないかなーと思えば、自分と正反対の人間に見えてちょっと親近感あるやつだと思えたり。
そんなふうに、愛だけはたくさんある、個人的には愛着のある話でした。
あえて優しい人たちばかり書きましたが(そういう島だし)、みんな大好きです。特に中島さん(笑)。
小説としてのレベルを問われればおそらく(ファンタジーとしてしまえば)修行が足りないひとつだと思います。
修練が足りず、読んで下さった皆様のお目汚しになってはいないかとビクビクしております。
欠点のいくつかは自覚しておりますので、また修行を積みここに作品を公開できるよう鍛錬するのみです。
感想・批判・批評・指摘・説教、お待ちしております。