- 『泪川奇譚2』 作者:オレンジ / ホラー リアル・現代
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全角10301.5文字
容量20603 bytes
原稿用紙約30.25枚
泪川を舞台にした、世にも奇妙な物語。
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薄いクリーム色のカーテンは、今朝のような快晴の日差しを簡単に僕の枕元まで通してしまう。何とも味気ないカーテンだが、男一人の下宿生活にはお似合いである。
硬い敷布団から身を起こし、その地味なカーテンを開けると目に飛び込んできたのは、僕の住む三階建のボロアパートのすぐ脇を流れる、この街でいちばん大きな川、「泪川」の燦々と輝く朝の光の照り返しだった。
寝起きの眼には少々刺激が強い。
目覚まし時計に目を移すと、短針が7を指し示し、長針がほぼ真上を指していた。最近は日差しの所為で目覚ましよりも早く目が覚める。まあ、それはそれで良い事なのかも知れないが、貴重な睡眠時間を削られたような、少し損した気分にもなる。早起きは三文の徳とも言われるが、複雑な心境だ。
そもそも今日、大学は二限目からの講義なので、こんなに早起きする必要もないのだ。加えて昨晩はバイトも忙しかったので、もっとゆっくり寝ていたかったのだ。
しかし、ここは頭を切り替えて、時間が儲かったと思う事にして、いつもより早めのゴミ出しなどしてみる事にした。「早起きは三文の徳」について臨床実験してみる。
流し台の横に放置気味に置いてあるゴミ袋に、部屋中のゴミをかき集め詰め込み、鼻につくつーんとした刺激臭を堪えながら袋の口を縛る。
パンツ一丁はさすがにまずいので、昨日着ていた床に脱ぎ捨てられた白いタンクトップを着て、短パンを穿き、サンダルをひっかけ外へ出た。
朝の新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む筈だったのに、僕の肺に侵入してきたものは泪川から漂ってくる泥臭く生ぬるい風だった。
時折漂ってくるヘドロ臭だが、よくしゃべる近所のおばさんに言わせると、昔よりは全然匂わなくなったらしい。此処に住み始めてかれこれ一年半くらい経つが、最初の頃は、この匂いの所為で食欲が湧かないなんてこともあったが、今ではもう当たり前の生活の匂いの一つと化している。馴れとは怖いなと感じない事もない。
ゴミ収集場所まではおよそ50米くらい。泪川の堤防沿いに、ゴミ袋の山が既に出来あがっていた。ゴミの山が崩れないよう、そっと僕のゴミを山のてっぺんに置く。アンバランスながらも、僕の家のゴミはとりあえずゴミ山の頂点に君臨したのだ。めでたいことだが、どうでもいいほどに自己完結型の満足感ではある。
僕が自己満足の境地で、そのゴミ山を眺めていると、僕のわきから、そっと手が延びてくるのに気付いた。その手は細くて透き通るように白い、女性の手だった。その手は、僕のゴミの上に、いとも簡単にゴミ袋を載せ、あっけなく僕のゴミを頂点の座から引きずり降ろしてしまった。哀れ、僕のゴミは三日天下ならぬ三秒天下で終わってしまったのである。
僕は咄嗟にそちらの方へ顔を向けた。天下を取られて、少々恨めしそうな顔をしていたかもしれないが、そんな表情は一瞬にして消え去り、心臓がどきんと大きく一つ鼓動を打つ感触が全身に伝わった。
そこに立っていたのは、僕のアパートの隣に建つ一軒家に先月引っ越してきた、遠藤さんの奥さんだった。白のブラウスにチャコールグレーのタイトスカートを早朝から見事に着こなしている。ノーメイクだと思われる素顔は、きめ細かくて白く何とも言えない艶を醸し出していた。
近所なので、時々すれ違い挨拶など交わす事もあるが、これほど間近に遠藤さんの奥さんの顔が接近したことは無い。僕の顔にみるみる血が上り、かあっと赤くなっているのが何となくわかる。
「おはようございます」
遠藤さんの奥さんは、僕の目を見つめ微笑みとともにそう囁いた。僅かな動きだが、かすかに開いた口元に目を移す。紅を引いていない素の唇がこれほど艶やかなものであることを僕は初めて知った。
「お、おはよう……ございます」
「ゴミ出し御苦労さまです、若いのに早起きなんですね」
「そ、そうですね、ははは……」
喉が交通渋滞を起こしているかのように、僕の声は詰まり詰まりである。いつもはこんなじゃないのに。
なんでこんな下町にいるのだろうと思うほど、八事、雲雀が丘、東京で言えばシロガネだとか自由が丘だとか、関西で言えば芦屋の辺り、そんな場所が似合う清楚な若奥様。それでいて、女優の如き端正な顔立ち。ああ、僕の貧困な表現力ではこんな程度の言葉しか出て来ないけど、本当に美しいのだ、遠藤さんの奥さんは。まさか、こんな風にお近づきになれるなんて、早起きは三文どころじゃない、百万ドルの価値に相当する。
「今日はナミちゃん、現われるのかしらね」
美しい若奥様は、堤防の方へ顔を向けつぶやくように言った。
「あ、え、ええ、ナミちゃんね。ここ2,3日現われてないですからねえ」
横顔に見とれていた僕は、咄嗟の返事が出来す、少し慌てた感じで応える。
「久しぶりに顔を出してくれるといいですね。みなさん心待ちにしていらっしゃいますから」
「ですよね、ナミちゃんは今やこの街のアイドルですから」
ナミちゃんとは、2週間くらい前に突然この泪川に出現したゴマフアザラシの子どもである。なぜこんな暖かい地域にゴマフアザラシの子どもが突如現れたのか。何処かの水族館から逃げ出したのか、だが、そんなことはまず不可能であるし、天然のゴマフアザラシがオホーツク海を下ってくることが出来るのかだとか、謎は深まるばかりなのだが、何にしてもその愛くるしい容姿から、この街どころか今では日本中のお茶の間を賑わせる国民的アイドルになっている。
この街にとっても明るいニュースとなっていて、この先の橋は、最もナミちゃんが表れるスポットとして、マスコミやら見物人やらでごった返す。最近はそれが行き過ぎて、マスコミの無遠慮な報道やら、マナーの悪い見物客に頭を悩ます事も少なくない。
なので、話し合いの結果、マスコミは午前八時から午後六時の間しか取材をしてはいけないことになっているようだ。もうすぐ八時になれば、橋はふたたびマスコミのカメラでごった返す。
見ようによっては滑稽な景色ではある。いい大人たちが、ゴマフアザラシの子ども一匹に振り回されているのだから。まあ、でも経済効果だとか、いろいろ考えるとナミちゃんの出現はこの街にとってはプラスなのだろう。僕もまだ二年しかこの街に住んでいないけど、やっぱりこの街が良くなって欲しいと願う。
「私、こちらに来たばかりなので、分からない事ばかりですの。またいろいろと教えて下さいね、それでは、ごきげんよう」
そっと会釈をして、奥さんは僕に背を向け歩き始めた。
「ぼ、僕は榎戸ケンスケと言います、何でも聞いて下さい!」
住人歴たかだか二年の男が偉そうに。
遠藤さんの奥さんは、ゆっくり見返り、優しく微笑んだ。
「遠藤……翔子です。よろしくね」
僕は、その姿が遠藤家の門を潜るまで、ゴミ収集場所の前で呆けたように奥さんの後ろ姿を見つめていた。
二限目が終わり、僕と掛井と陽菜子はいつもの様に学食へと向かった。僕らのような、貧乏下宿生活者には、学食のお値打ちなメニューは無くてはならない存在なのだ。ここで、自宅通いの人間との隔たりが出来てしまうのは仕方ないのだろう。この学校は、地元の学生が約半分を占める。金の無い下宿学生と、小金を持っている自宅学生と、その壁は高くて険しいのである。サークルなどに入っていれば、待ち合わせに使う事もあるのだろうけど、小金を持った自宅学生はランチともなると大抵キャンパスの外へと、新たな味覚を求めて出て行ってしまう。
僕は、お昼時の学食の喧騒はそれほど嫌いではない。五、六人から十人くらいの集団がそれぞれ勝手な話題で盛り上がり、くだらない情報達が乱れ飛ぶ無秩序さ。学食だから許される、そんなユルい雰囲気に浸りながら、僕は、陽菜子と一緒に掛井の話に耳を傾けていた。
「で、おじさんが言うにはだな」
掛井の声は張りがある。昼時の学生たちの遠慮ない話し声に紛れても、はっきりとその言葉の一つ一つを聞き取る事が可能だ。
話題に出ている『おじさん』とは、掛井がいつも自慢している親戚のおじさんのことで、警察の相当な偉いさんだそうだ。掛井の話はこのおじさんの出番が非常に多い。
「何があったんだよ、泪川で。もったいぶらすなよ」
泪川ということであれば、僕にとって余りにも身近である。何かあったのなら、知らずに置くことなど出来ない。しかも警察が絡んでいるともなると、不安で不安で仕方ないではないか。
テーブルに向かい合って座ってる掛井が、ぐっと身を乗り出して顔を寄せてきた。僕と陽菜子も、つられて掛井に顔を寄せる。
掛井はさっきまでの大きく張った声から一転して、小さなささやき声で僕らに語った。
「泪川の河川敷で人間の右腕と胴体が見つかったんだ。しかも、その切断痕が、獣のようなものに食いちぎられたような感じだったらしい」
「いやっ」
陽菜子が思わず目を閉じ、耳を塞ぐ。
「おい、掛井。変な冗談はやめろよ」
「冗談なんかじゃない」
掛井の眼は、確かにふざけているようには見えない。
そう言えば、数日前の真夜中、泪川の堤防辺りにパトカーが何台も停まっていた事があった。その後も、時々パトカーが同じ場所に停まっているのを目撃したが、近頃のナミちゃん騒動で、警察も毎夜見回りにでも来ているのだろう、とそれくらいの認識でいた。
掛井の言う事が本当ならば、あれだけ警察が集まったのに、朝にはすっかり何事もなかったかのような風景となり、マスコミはおろか住民でさえ、何も知らないなんて事があり得るのか。
「バカなこと言うなよ。近くに住んでいるけど、何も知らないぞ。そんな事があれば、何か情報が廻ってくるだろ。住民に対しても危険が伴うし」
僕は、全くの正論を掛井に対して返したつもりだ。だが、掛井は態度を変えない。
「今、あの街はナミちゃんの話題で持ち切りだろ? そんなところにこんな話が出て来てみろよ。折角の観光資源が台無しになるだろ? 何処かから圧力がかかってるんだよ」
「そんな、まさか」
俄かに信じられない。人が死んでいるんだろう。しかもかなり猟奇的で危険な形で。観光資源と、住民の安全、どちらを優先するべきかなんて、バカバカしすぎる2択問題だ。
「人間の手やら胴体やら……そんなの大事件だろうが。もしそんな事があれば、絶対警察から何か話がある」
「分からん奴だなあ。警察だって、所詮は国の一組織に過ぎんのだ。上からの圧力があれば、動きようが無いんだって。おじさんの話では、その死体の身元も分かっているらしいんだがな……」
「ねえ、もう止めてよ、その話」
話を遮ったのは、陽菜子だった。辛抱たまらなかったのだろう。陽菜子は普段、男勝りの根性を持ち合わせている活発な女子なのだが、怖い話や残忍な話にはめっぽう弱いのだ。
陽菜子の顔から血の気が失せているのを確認した僕と掛井は、その話題を口にするのを止めて、心の中のもやもやした物を残しつつ、目の前に並んだ昼食を黙々と食した。
おおよそ目の前の食事をたいらげた頃合いに、陽菜子が新たな話題を口にした。
「ねえ、授業が終わったら、今日オープンのアイスクリーム屋さんに寄っていかない? 前々から結構噂になってて。オープンしたら行ってみたいなあって、思ってたんだ」
「ああ、前に陽菜子がチラシ見せてくれたあの店ね。いいね、寄っていこうぜ」
掛井は意外に乗り気だ。甘いものそれ程好きでも無いはずなのだが。
「ケンスケは? ケンスケも行くでしょう?」
陽菜子は僕もアイスクリーム屋に誘う。
「いや、いいよ。今日は学校終わったら速攻でバイト行かなきゃいけないし」
「そうなの……」
「いいじゃん、掛井と二人で行ってきなよ」
「ケンスケがバイトじゃ仕方ないな。授業終わったら二人でいこうぜ」
掛井は陽菜子に同意を求める。
「う、うん……」
「そろそろ三限目が始まるぜ、6号棟だから早いとこ行かないと遅刻だ」
掛井はそう言って、僕らにも席を立ち移動する事を促した。
陽菜子は、僕たち男二人を置いてさっさと歩き始めた。
「おい、陽菜子……」
追いかけようとする僕の肩を掴み、掛井が耳元でつぶやいた。
「ケンスケ、お前、バイトって言うのはウソだろう」
僕は一瞬どきりとしたが、確かに掛井には僕の一週間のバイト予定は筒抜けなのだ。学校がある日はほぼ毎日逢っているのだから、筒抜けもしょうがない。
確かに今日、バイトは遅番なので、アイスクリーム屋に寄る時間くらいは十分ある。だが、さっきの掛井の話が心に引っ掛かって、アイスクリームどころではないのだ。まず、真っ先に泪川へ向かわなければ、そんな焦りにも似た感覚が僕を支配しており、陽菜子の誘いには乗れなかったのである。
「ありがとうな、気を使ってくれて」
そう言うと、ぽんと僕の肩を叩いて、掛井は3メートルくらい先を行く陽菜子を追いかけていった。
僕は、掛井の言葉の意味が理解できず、3メートル先の二人を何となく見つめていた。
↓続き
*
授業が終わり、教室内で掛井と陽菜子と別れると、僕は最短距離と思われる道を移動し、バスに乗り込み、泪川までやってきた。
いつもの橋は、テレビ局のスタッフやカメラ、記者みたいな人や、見物人が歩道を占拠するような形になっていて何とも歩き難い状態だ。一月前のナミちゃんが出現する前のゆったりした時間はそこには存在していない。
僕は、人が丁度途切れた場所を見つけ、手すりに肘を付く格好で泪川の下流方向を見つめていた。太陽は若干傾き、ほんのり赤みを帯びた日差しが川面を照らす。視線を少し遠くに向けると、立ち並ぶ工場の煙突群から白い煙が立ち上がっていた。さながら、真夏の入道雲を彷彿させるが、質感は若干入道雲より柔らかく、何となくクリーミーな印象を受ける。
僕らが住むこの街から下流へ下った先は、工場地帯へと続いている。泪川の河口付近は、古くからの港街であり、貿易の窓口だったらしい。物が集まる場所には生産拠点が出来あがる。戦後、高度成長時代、泪川の河口付近に巨大な工場が乱立される。様々な原料や部品が加工され、次々とモノを生み出し続ける。出来あがった工場群がもたらした利益によって、今僕らが住むこの街が創り上げられる。
比較的新しい街と言えるかも知れない。まあ、何を以って新しい街と比較するのか分からないが。中国四千年の歴史だとか、そもそも天地開闢、地球が生まれてからの歴史などから比べれば、戦後に出来た街も江戸時代から続く街も殆ど差がない。
穏やかな水の流れ。この川はどれ程の昔から人間にその恩恵を与え続けてきたのだろう。何気なく暮らすこの街が出来たのも、この川のお陰である事に間違いは無い。
「偉大だなあ……」
思わず、独り呟いてしまった。
「こんなに川の事を考えた夕暮れは今までにないだろう、そう思えるほど、僕の頭は泪川でいっぱいになっている」
我ながら、何かに心酔した心地で独り呟く。昔、何処かで聞いた歯の浮くようなフレーズを応用した言葉だ。
元のフレーズはこうだ。
「こんなに誰かの事を考えた夜は今までにないだろう、そう思えるほど、僕の頭は君でいっぱいになっている」
いつからそのフレーズが僕の頭の中に存在しているのか定かではないのだが、いつか誰かの為にこの言葉を使える日が来るだろうか。
掛井の話を聞いた後だというのに、意外と僕の頭には余裕があるみたいだった。
この河川敷で、掛井が言う様に本当に猟奇殺人があったのだろうか。掛井とは大学入学すぐに知り合ったので、もう2年くらいの付き合いになるが、あいつは話の誇張はあるけれど、ウソを吐く人間じゃあない。それは良く分かっている。
掛井との付き合いは、大学入学早々の履修届けのガイダンス時、アイウエオ順で5つくらいのグループに分けられたのだが、その時にたまたま近くに居合わせた人間、7〜8人が見知った顔も無かったので、何となく行動を共にするようになったのがきっかけだった。その7〜8人のグループに僕「榎戸(えのきど)ケンスケ」もそして「掛井(かけい)シゲミチ」も「大野陽菜子(おおのひなこ)」もいた。
二、三ヶ月もすると、常時つるんでいた者たちも、サークルだのバイトだの彼女、彼氏との時間だとそれぞれの用事が出来、序々に集まる人数は減っていく。いつしか、いつも顔を合わせるのは僕と掛井と陽菜子だけになっていたのだ。似たもの同士と言う訳ではないのだろうが、僕にとってはこの三人でいる事が学校内で最も落ち着く空間だった。きっと掛井も陽菜子もそうなのだろうと思う。
いろいろ思い返していると、何だか、今日は気分が乗らなかったのもあるが、二人に対して少し気まずい事をしてしまったと反省の念が頭に渦巻いてきた。
明日は朝一からの講義だ。そこで二人にはすまなかったと謝ろう。ゆったりとした川の流れは、人の心を寛容にさせる何か特別な要素を持っているのかもしれない。
川面を眺めつつ、僕があれこれと明日の朝一で二人に会った時の事を脳内ロールプレイしていると
「ちょっと、君、いいかな?」
と、はきはきとした声が僕の耳に届いた。
声がする方を振り向くと、見た目三十代くらいの男性が、首に大きなカメラをぶら下げ、右手には使い込まれたペン、左手にはヨレヨレになったメモ帳を持って僕の方を見つめていた。
「え、僕ですか」
「そうそう、君。君はこの辺りにお住まい? 見物人には見えないけど」
ハッキリとした良く通る声だ。
「ええ、まあ、近くと言えば近くですが」
「そう、それは良かった。ちょっとだけお話を伺いたいんだけど」
男は、そう言いながらペンをたどたどしく左手に持ち替え、着ている濃いベージュ色のジャケットの内ポケットから名刺を取り出し、僕に差し出した。
渡された名刺を見てみると、僕には馴染みの無い週刊誌の名前と、記者という文字と「風祭三郎」(かざまつりさぶろう)という何とも硬派な名前が記されてた。
「言っとくけど、芸名じゃあないから。親から貰った立派な本名だから」
名前には随分コンプレックスがあるのだろうか、聞かれもしないのに目の前の優男は自分から切り出した。細身の高身長で色白な容姿からは想像し難い名前ではある。
「君、職業は? この時間にこんなところにいるって事はニート……いや就活中? 就職難の時代だからねえ、大変だと思うけど」
雑誌の記者とは、デリカシーの無い人間がなる職業なのだろうか。僕を完全に無職の引き籠りニート扱いしている。
「学生です」
「あ、そう。なるほどね。ところで、君は泪川へは良く来るのかな」
マイペースというよりは、人の事を何も考えずに行動へ移すタイプの人間なのか。
「ええ、まあ、近くですから」
「じゃあ、毎日来るの?」
「まあ、ほぼ……」
50米くらい先に部屋があるのに、来る来ないは関係ないような気もする。
「実はね、うちの雑誌で今度、ナミちゃんフィーバーに沸くその裏側で街はどうなったかを特集する事になって、こうして街の人たちからいろいろ話を聞いてるんだけど」
それから続けざまに幾つか質問されたが、この風祭とかいう記者のデリカシーの無い発言と、自分勝手なペースにより僕の体力と気力は凄く消耗させられてしまった。どのタイミングで「もう帰ります」と切り出すか、それだけに神経が集中し、質問の答えなどメチャクチャだ。
「ところで、君、4日前の深夜、何してた?」
帰るタイミングばかりをうかがっていたところ、唐突にその質問が来て、僕ははっとして思わず風祭の顔を見た。
4日前の深夜。それは、確かあの泪川堤防沿いにパトカーが多数停まっているのを見た時。この人、例の事件の事について何かを知っているのか。
「え、えっと、その時に何かあったんですか?」
僕は、質問を質問で返した。平静を装ったつもりだが、明らかに動揺が顔に出ていたに違いない。目の前の男の、僕を見る目が一瞬で変ったのが分かる。
「質問に応えてくれるかな。それとも4日前の深夜は何処かへ行ってたとか」
「お、覚えてません……」
「4日前の事だよ?」
「はい……」
明らかに、風祭は怪訝そうな表情を浮かべて僕を見ている。
「……まあ、いいや。どうもありがとう。記事の参考にさせてもらいます」
そう言って風祭はペンと手帳を内ポケットへ仕舞い込むと、返す手で煙草とライターを取り出した。
「ごめん、ちょっと一服」
などと言いながら、マルボロの黒い箱から煙草一本を取り出し火を点ける。風祭は「一本どう?」と僕に勧めてきたが、禁煙家の僕は、申し訳なさそうに丁重にお断りした。
風祭は、工場地帯の煙突に負けないくらいの煙を鼻と口から吐き出しながら、再び話しかけてきた。
「すまないね。いろいろ嫌な事も質問してしまっただろうね。記者の悪い所だ。でも、我々もこうやって飯を食っていかなきゃならないから、まあその辺も理解してもらいたんだけど」
確かにそうなんだろうが、僕にとっては、それは記者達の都合の良い言い訳にしか聞こえなかった。僕は、ただ押し黙ったまま、風祭の口元、煙草の火の赤い点を見ていた。
「しばらくはこの街に張り付いているんで、また逢う事もあるだろう。その時はよろしくね。それじゃ」
そう言って、細身の高身長で色白の記者、風祭三郎は咥えていた煙草をおもむろに泪川へと投げ捨てた。空気の抵抗を受け、ゆっくりと煙草のすいがらは落下していく。すいがらが川面に着水したかどうかは、橋の上からの高さでは確認出来なかった。
僕は、手すりから身を乗り出してすいがらの行方を追ったが、残念ながらあっという間に見失ってしまう。これだけ大きな川にこんなちっぽけなすいがらだ、当然と言えば当然であろう。
風祭は、きびすを返してさっさと人ごみへ紛れ込んでしまい、こちらももう追う事が出来なかった。
僕は、風祭の取った配慮の無い、無造作な行いに自分でも信じられないくらい憤りを感じていた。煙草のすいがらを川へそのまま捨てる事は確かにマナー違反だ。やってはいけない。でも今までだったら、これほどまでに憤りを感じる事は無かった気がする。
泪川の大きさからしてみれば、すいがらの一本など、人間が埃の一粒でも吸い込んだ程度のことだろう。すいがら一本など、川の流れという自然界の偉大な力によってあっという間に溶けて無くなってしまうのだろうが、でも僕は許せなかった。僕はただ、川面を見つめ、拳を硬く握り締める事しか出来なかった。
その夜、僕は夢を見た。とてもとても、怖い夢だった――
僕は泪川の河川敷にいた。僕の目の先には、ゴマフアザラシの子どもがいて、よちよちと僕に向かって近付いてきていた。僕はその愛くるしい姿に目を細め、しゃがみ込み、目線を同じ高さにして、おいでおいでと手を鳴らした。
よちよちと徐々に近付いてくるゴマフアザラシの子ども。もうすぐ僕の手に届くと言う所で、その生き物は突如、豹変した。
甲高い奇声を発した途端、裂るようにして大きく開かれた口元から、鋭利で凶暴な牙が姿を現した。真っ赤な口の中に白く輝く牙。小さな体からは想像だに出来ない大きく鋭利な牙は、この世の肉と言う肉を引き裂く為にある様に思えた。
「キシャ―」
甲高い奇声を発し、その生き物は僕に飛びかかってきた。
慌てて僕は逃げ出すが、間に合わず、その生き物は僕の右足に喰らいついた。
「ひいっ!!」
右足首の辺りに激痛が走る。
メキメキ、という音と共に僕の右足のアキレス腱とくるぶしから下が骨ごと引きちぎられた。
「いやだ、いやだ……」
それでも尚、僕は逃げる。立つ事が出来ないので、這いつくばって逃げる。僕が逃げた跡には、右足からの絶え間ない流血の所為で赤い一本の筋が出来ていく、生温かく、ぬめぬめした線が。
奴は、僕の右足首をバリバリと喰らっているようだ。今のうちに逃げられる所まで逃げなければ。
僕は這ったまま、逃げ続ける。後ろも見ずに河川敷を這いずる。草陰に隠れているのは、強引に引きちぎられた様な人間の右腕だ。
その他にも、見渡せば、人間のあらゆる部位が血まみれで散乱している。
「僕もこうなるのか? いやだ、絶対いやだ」
草をかき分け、人間の肉塊をかき分け、僕は這いつくばって逃げる。
「キシャ―」
奴の奇声が聞こえる。近い――
そう思った瞬間、奴は右肩辺りに飛びついてきた。そして、そのまま僕の肩に大きな牙を――
バキバキ……という骨の砕ける音と共に、鮮血がほとばしる。
「ぐうっ」
バキボキと骨を砕きながら、奴は僕の肩の肉を食っている。
奴のまん丸い目が僕の目と逢う。ブラックパールの様に純粋な黒目は、無機質で何を考えているのか分からない。
僕は、左手を使って、奴を肩から剥がそうと試みるが、想像以上の力で、なす術が無い。
やがて、奴は僕の首筋にその牙の先を立てた。
頸動脈が圧迫され、皮膚が裂ける――そして
そこで僕は目を覚ました。時計は午前七時丁度を指している。いつもはうざったい薄いカーテンから零れる日差しだが、今日はそれに助けられた気がした。
しっかりとかいた寝汗が、何となく血の跡の様な気がして、僕は一目散に風呂に掛け込んだ。
続く
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2011/01/19(Wed)00:19:26 公開 / オレンジ
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■作者からのメッセージ
もはや、はじめましてと言った方が早いかな。オレンジと申します。以後どうぞよろしくお願い致します。
お読みいただきありがとうございます。感謝致します。
一年以上のブランクですが、久しぶりに連載ものを投稿致します。相変わらずわけのわからないホラーを書いております。リハビリ感覚ですので、様々不備があるかもしれません。気になる事は何でも言って下さい。
第2話更新しました。それから、前回公開分も若干ですが追記修正しました。
どんな意見でも構いません。
ご意見ご感想お待ちしております。