- 『アリストテレス机上論』 作者:あけがらす。 / ファンタジー リアル・現代
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全角9573.5文字
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原稿用紙約25.1枚
感情干渉感慨無量、言葉は果たしてナンセンス? それともちゃっかりハイセンス? それはまるでアリストテレスの机上の空論。答えは出ない。
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眠れる程疲れているわけでは無いが、かといって起き上がれる程元気ではない。熱で浮ついた思考回路がとめどなく泡のように膨らんでは弾けて、こういう日は憂鬱だ、と囁いた。陰鬱突発かといって恍惚?若しくは退屈。
買ってから一度も洗っていない(彼女が文句を言わないのだから仕方が無い)カーテンが揺れる。ドラマのワンシーンみたいに安っぽく揺れる。隙間から、黄砂で濁った窓越しに、星がひとつも見られない、スモッグまみれの空が見えた。色、黒、紺青。そして白とも灰ともいえない曖昧な色の煙。シルエットの如く空から切り取られ、現実味をのっぺりと無くした電線の群れ。彼らはいたく疲弊した様子で、無気力に窓の外に張り付いていた。
仕様も無い言葉が、フリーズしたコピー機からだらしなく溢れ出したインクジェット紙のようにだらだらと流れ出す。例えばそれって便宜的で普遍的で効率的で能動的。例えばそれって陽性で容易で用無し、要するに要領が良い。例えばそれって静寂閑寂虚弱貧弱ハイジャック(本当に出来るのか? 何故ならパイロットは常に正義のヒーローだ)。意味がありそうで無いような、無さそうでありげな言葉の群れ。こういった無気力な日には、仄暗い中であらゆる言葉が好き勝手に浮かび、沈み、ワルツを踊り、トランペットを吹き、サーベルを振り回し、宙を舞い、気にいった相手を見つけてはそれまで寄り添っていた相棒を突き放し、所属していたグループから孤立しては離れていく。離れて往く。
喉が渇いたので、百十円で購入した微糖のコーヒーを飲み込んだ。ぬるい。むせ返りそうになるのを無理して、一気に飲み干す。ぬるいコーヒーが喉を渋々と潤し、それに感化されるように食道と胃がタップダンスを始める。たかがコーヒー、されどコーヒー、食道と胃がナイフとフォークを構えて、コーヒーをばらばらに引き千切り、噛み砕き、呑み込んでいった。カフェインが胃酸と融け、けだるい思考回路をささやかに押し潰す。皮膚がコーヒーの色に染まるかのように感じられる。汚い、儚い。なぜなら、ぬるいコーヒーとは非常識だから。中途半端で優柔不断な、つまるところ感傷を観賞する干渉の輪唱(まるでコードが延びっぱなしの電球とか、プラグを挿しっぱなしの扇風機のような)だから。コーヒーの輪唱はぐるりぐるりとじれったく僕の体内を回りだし、なかなか終わりそうにない。逆に言えば、終わらないのが輪唱、である。汚い、儚い。それを聞いて、「汚い」と「儚い」は、少しだけ寂しそうな顔をして、空へふわふわ飛んでいった。
その点、言葉は美しい。たとえ彼らが着飾っていようと、ドレスが埃に塗れていようと、リボンをつけていようと(例えそのセンスが悪かろうと)、赤毛だろうと、そばかすがついていようと、捻くれ者であろうと、言葉は美しい。時に薔薇を咥えた踊り子のように、時にラム酒を飲む兵隊のように、時に携帯を弄る女子高生のように、時に寝たきりの老人のように、言葉は表情を変え、それこそ猫の目のように変え、まさに春風のように変え、彼らを見る人やそれまで手のひらに乗せていた人たちを驚愕させ、困憊させ、魅了させる(大した身分である)。僕に限らず、自由気ままでつかみどころの無い言葉の虜になった人は数多くいるだろう。過去、現在、未来の文豪たちは、言葉の種類こそ違えども、文字をていねいに拾い上げ、柔らかい布で長年の埃や垢を落とし、静かにキスをし、そして大きく振りかぶって言葉を広い、広い宙へと送り出した。間違って言葉を踏み潰さないようにしながら、途方も無い樹海のような空間をさまよい続け、最終的に自分自身が言葉の塊になったかのように思ってしまう、否、思い込んでしまうのだ。そうすると、たとえどんなに頭の切れる文豪であっても無力になり、手にしていた糸玉を放り投げ、我を忘れて駆け出し、言葉の樹海がクノッソス宮殿よりも複雑なことを忘れ(若しくは、気づかないふりをして)、両手を大きく広げてもっと奥へと入り込む。途方も無い快楽と興奮。そうやって、言葉に魅了された人は、そのまま囚われてしまうも多い。言葉とは、美しくもあるとぴったり同じだけ、危険であり狡猾である。その天秤は決して揺らぐことなどない。そして、今晩の僕は、まさしく樹海に迷い込む寸前だった。手にした糸玉をもう一度見直して、しっかりと握りしめる。使い古されて擦り切れた空は、色、黒、紺青。
*
相変わらず、何度も言葉を吐く。冷蔵庫の中身を全部洗濯機に移し変え、洗濯機の中身を全部胃袋に移し変えるかのように言葉をゴリゴリと吐く。耐え切れず、いくつかの言葉はパンクを起こす。頭から薄っすらと黒い煙を吐き、長く干からびた舌を垂らし、足を引きずって、鉛筆削り器の屑入れの上に、主に消しゴムのカスとボールペンのインクのダマから出来た墓石を立ててその下に潜り込む。そして、祭りが終わって満足し、疲れ切った幼い子供のように、すやすやと彼らは眠る。悄然呆然不完全。言葉という不完全な容器に盛り付けた料理(文章)は更に不完全となる。駄目だ、と僕は頭を振った。言葉の墓はこんなちゃちなものじゃない。言葉のひとつひとつは、まるで(少し田舎の、寂れた)駅のプラットホームに佇む人間のようだからだ。それぞれ好きな時に駅へとやって来て、電車を待つ。電車は例えるとしたら紙、或いはハイスペックなタイプライター。ただ日本における電車とは違い、運行時間はいたって不規則だ。そして駅に到着すると同時に一気に、プラットホームに溜まった言葉をかっさらう。反対側のプラットホームにいた言葉たちは、一瞬にして現れた電車に、向かい側の言葉がさらわれたのを見て、ある言葉は哀しくなり、ある言葉は興奮を覚え、あるいは胸のすくような思いをする。それを永遠に繰り返したら、いつしか文章が出来上がり、びっしりと列を成して並ぶという仕組み。更にその合間に時々、とある言葉はプラットホームの向こう側に自分のお目当ての言葉が立っているのを見つける。すると、彼は線路をまたいでその言葉に抱きつこうとするのだ。線路を向かい合わせる互いのプラットホームは、近いようで意外と遠い。その距離感、虚無感を補おうと、言葉は線路をまたぐ。僕の中で、今電車は轟音を立てて数十秒、へたすると数秒おきに煌々とやってきては、消えていっていた。そして電車が通り去ると、反対側のプラットホームに愛する者を見つけた小さな言葉が、線路をまたぎ損ねて轢かれたのがいくつか見られる。彼らは実に可哀想だ、何故なら、彼らに墓は(決して!)用意されないから。だから、どれだけ渇望しようと、彼らはミンチになって判読できなくなった自分を惨めに見つめ、やがて灰のようにボロボロになって消えてゆくのを見守るしかないのだ。僕には彼らが何故、そこまでして相手に寄り添いたいのかが分からない。言葉の性か、それとも僕が鈍感なのか。それすらも分からなかった。僕はそんな奴だ。
そういった、一途で情熱的な言葉の屑は、戦争の傭兵が使うような機関銃で、戦争の傭兵が好むような銃弾で、戦争の傭兵が酔いしれるような火薬で、戦争の傭兵が持つような心で、戦争の傭兵が敵兵を撃つようにやたらめったら撃ってはいけない。不可能、不可能、つまりやってはいけないということ。そんなことをしたら言葉は膨れ、膨れ、更に膨れ、いびつな形に捩じれ、ひねくれ、べそをかき、爪をひん剥き(決して「剥き」で済ませられるものでは無いのだ)、最終的に爆発して好き勝手自己中心な方向に飛び散り回り、廻り、周りに対しべっとりと居酒屋のタレのような濃度でへばりつき、なかなか消えなくなってしまう。そして、意地汚いケチな温床となり、別の言葉の屑がブヨブヨと生えてくるって訳。バックアップなどはとれない。
「かといって放り出して老いてもいいのかい?」時間のせいでカチカチになり、既に食べられる代物で無くなった皿の上の食べ残したトーストが言った。「さあ、ブリッジでもしようや。ウサギのあの重ったい黄金色の時計が喚きだす前に!」トーストはパン屑を撒き散らし、大きな、下品な声で嗤う。どうやら自分のジョークが気に入ったらしい。
トーストとは、もう長い付き合いだった。時に彼は僕に食べられ、時に彼はゴミ箱の中に放置された。栄養素は偏っていたしバターが無ければ使い物にならないものの、僕はトーストの味と、彼のジョークがそこそこ好きだったので、度々トーストを焼いては彼を白い玉座(つまるところ、皿)に置いておくのだ。トースト。なんだか間の抜けた響きである。
彼と遊んだり話したりするのは軽快なので、僕は大抵トーストの提案は受け入れて一緒に遊んでいる。けれどあいにく、此処に在るトランプは三枚しかない。ジョーカーと、コレクション用のカードと、ジョーカー(何故ジョーカーが二枚あるのか……)。ブリッジなど出来るはずも無く。否。そもそも僕はブリッジのルールを知らない。
「そうかい、そいつは残念」言葉とは裏腹に、軽快にあばよ、とトーストは巷で流行っているやけに洒落た挨拶をして、大きすぎる蜂蜜製の靴をがっぽがっぽと騒がせ(それこそウサギの分針より五月蝿いのでは??)、「レモンとアップルを絞り込んだ素ゥ晴らしい紅茶を、遊女の如く侍らせていたのにな」と呟いた。だが僕の見る限り、彼はお茶会用のティーカップを、そして素ゥ晴らしい紅茶を仕込んだティーポットを持っていない。ソーサーは持っていたが、それこそ金箔の素晴らしい装飾が施された、西洋風のソーサーは。ただ残念なのは、ソーサーの美しさがパン屑で半減していることだった。そうしてまたトーストはいなくなり、テーブルの上には彼が散らかしたパン屑と、彼の玉座、白い皿だけが残された。
そして僕はまた一人になる。一人、独り。嫌な響きだ。一人とはすなわち孤独。孤独とはすなわち独り、しかし、まず前もって、そいつは尺取虫とどんぐりとロイヤルミルクティをすり潰してぶちまけたかのような不味いものであることを説明しなければならない。独りという言葉は誰に対しても寄り添わない(寄り添われもしない、彼が嫌っていたから)。虚数のように、現実にも非現実にも存在しない言葉、たった一つの言葉を捜し求めているのだ。それが彼を更に孤独たらしめているのか、それとも憐れみを請わせているのかは誰にだって判らない。否。判る筈が無い。独りという言葉は無口だ。自尊心が高く、他人に背を向けることでしか自分の涙を隠す術を知らない。硬い、硬いタマゴの殻に閉じこもった「独り」に向かって、もしもし、と問いかけても、きっと応えは帰ってこないだろう。そもそも、タマゴの殻に到達することが、不可能に近いのだ。彼のバリケードは強靭なのだから。
そんな、ツンケンしている「独り」を侍らせることは、僕の細胞ひとつひとつを刺繍針で乱切り風味に刺激するかの如く嫌であった。殆どの人間は、一匹になると情緒不安定になる。僕なんかは過度の二匹以上依存症で、もうなんでもいいから何かと一緒にいたい。けれど、トーストは行ってしまった。
うずくまり、腕を掻き毟り、それでもまだ身体に蛆虫が這いずり回るような感覚は収まらなかった。どうしようもなくなり、立ち上がる。まだ足りない。体中のエネルギーがもう一匹を求めてモシャモシャする。ので、まず枕を壁に打ち付けた。次にシーツ。テレビ。ブラウン管が弾け飛んだ。明日着る筈のワイシャツ。「痛い!」と胸ポケットのペンが苦情をインクと一緒に撒き散らした。どうやら僕は、何かを打ちつけることで熱を冷やそうとしているらしい、と客観的に脳内を診断した(それくらいに、禁断症状は駆け足で僕の中でぺちゃくちゃと喋っている)。考えている間もどんどんと何かを投げつけ続ける。冷蔵庫。三枚のトランプ。そのうち一枚のジョーカーを選り分け、他の二枚は百五円の薄汚れたライター(税金が重くなったせいで、長い間使っていなかった)で燃やし、作りたてほやほやの灰を握り締めてそれも吹っ飛ばした。それを見て、「ありがとよ」と生き残ったジョーカーが呟く。僕はそれも無視してさらに物を放り出す。ヘッドフォン。ティッシュの箱。ライターの油が染みた。携帯の充電器。アタッシュケース。サルの置物。もうやけくそ気味になって、壁だろうが床だろうが天井だろうが右だろうが左だろうが上だろうが下だろうがこっちだろうがあっちだろうが構わずに、やたらめったら投げつけた。麦茶の入りかけたグラス。ジャンクフードが包まれていた紙。レタスが不憫なペンに張り付いた(が、タルタルソースでなかっただけ幸いと思って貰おう)。旧式ではあるがまだ十分使える、滑り止めのステッカーが貼ってあるゲーム機。いや、そういえば彼はディスプレイの一部がサイケデリックに変色していたっけ。じゃあ駄目だ。ゲーム機が真っ二つになる音をきっかけに我慢が爆発したのか、「五月蝿いぞ!」と隣の部屋の住人が壁を叩いた。それが反響してまたブラウン管が弾ける(五月蝿いのはそっちだ、僕の音は彼を弾けさせるほどではなかったのだから)。
やっとこさっとこした後に、久々に暴れ回った反動で疲れが一気に僕の脳へと到達した。脳に到達した疲れは、逆流して首の太い神経を通り、脊髄を流れ、皮膚に、細胞に、擦り傷に、ヘモグロビンに、眼球の粘膜に、爪に、指の皺に、とにかく身体中に痺れてゆく。一種の快感、傍観叫喚。僕は倒れこむようにして、またベッドの上(既に枕もシーツも無かったが)へ戻った。まるでへびつかい座を呑み込んだかのような眩暈がする。迷惑な奴だ。何故ならへびつかい座は、皆して同じようなまともでない顔をして、僕の言葉をつまみ食いするから。
やる事もないので、少しずつくすんでいく楽園に誤魔化しをふりかけようと言葉を吐く。電線をいちいち蝶結びにしてシュレッダーにかけるようにモサモサと言葉を吐く。結局は何も変えられなかった楽園を誤魔化すかのように、繰り返し浮き上がった言葉を捕まえ、捏ね合わせ、次々と放り投げていく。
手付かずの言葉は、まるで枯れ葉の積もった海の中を泳ぐ銀色の魚のようだ。潮と生き、大きな魚に怯え、食べられるか子供を作って死ぬかしか運命の選択肢が存在しない、そんな魚。魚はキャラキャラと笑うと銀の腹をくねらせ、僅かな残像と一緒に部屋を出て行った。挨拶も何もない。無礼な奴だ、と相手の都合も考えずに僕は思った。けれど、僕のほうが勝手にそう思っただけなのだから仕方が無い。
「思っただけなのだから仕方が無い」不意に、足元に転がっていたジョーカーがむくりと起き上がって言った。「なら、俺とゲームをしよう」
「ゲームって、どんなゲームさ?」僕は訊いた。まだベッドからは起き上がらない。寝そべったままぐるりと体の向きだけを変え、ジョーカーのほうへ向き直る。ジョーカーは理不尽なくらいに黒い色をした瞳をぱちくりとさせながら、じっと僕のほうを見つめていた。彼は「何、簡単なゲームだよ」と呟いて僕の腹の上に乗ってきた。へその上に足をかけ、三又の槍を杖のようにして立っている。僕が呼吸をすると、その動きに合わせてジョーカーは静かに上下した。「簡単なゲームだよ」ジョーカーは繰り返した。ジョーカーが言うには、二人で言葉を吐き続け、先に言葉の樹海から抜け出せなくなったほうが勝ちというゲームをしよう、というらしい。
「却下」僕は糸玉がまだあることを一度確かめて、注意深くジョーカーを見つめた。へそに乗っているので存外難しい。「勝手にやってろ」
そう言うと、ジョーカーは「なら、勝手にやらせてもらおう」と答えた。そのままヒラリと身をひるがえし、僕のへそから降りた。三又の槍を片手にジョーカーが口笛を吹く。嫌な奴だ、と僕は思った。けれど彼のおかげで、また独りにならずに済むようだ。
部屋の中でほとんど唯一、無傷を保っているカーテンから覗く空はもうじき黒になろうとしていた。のっぺりとした、濃淡の無い、炭を混ぜたような黒。黒、紺青。月はスモッグの花粉症でくしゃみをして飛んでいったのか、見当たらない。
*
ジョーカーの鼻歌を聞きながらひたすら言葉を吐き出し続けている時、ふと、トーストの時と同じように、どこからともなく突然ウサギがやってきた。雪よりも白い毛で、丈の短いフロックコート(ブラウンシュガーのチェック模様)を着ている。懐中時計はどうやらその中に仕舞ってあるようだ。待てよ、どこかに「不思議の国のアリス」が手付かずのまま放られていた筈だ。そこから出てきたのだろうか、否、それとも幻覚か。僕が頭をもたげると、シロウサギはその様子を気にすることなく僕に向かって帽子を脱いだ。礼儀正しいウサギだ。そしてそのまま、シロウサギは言った。
「残念無念、時間切れさ」シロウサギは呟いた。「残念無念、時間切れさ」
時間切れ。それは僕が一番恐れていた言葉だ。なんてことをしてくれる! 時間切れ、すなわち一人、独り、また一人。結局独り。時間切れ。シロウサギの一言は(彼が意識していたかどうかは知らないが)残酷にも、僕の身体、僕の部屋、僕の吐いた言葉に対して、機関銃で兵士が敵を、女子供を侵すようにやたらめったら撃ちつけられる。どうやらウサギは幻覚では無いらしい。僕が今晩、散々に築いた言葉たちは撃たれてしまった。紙、或いはハイスペックなタイプライターの電車も急停止し、プラットホームに佇んでいた言葉たちも電車に乗り込んでいた言葉たちも一斉に轢かれ、もみくちゃにされ、ぺたんこになってしまった。時間切れ。時間切れなのだ(「そうさ、時間切れさ」とジョーカーまでもが言うようにさえ思われてきた)。
撃たれたので、言葉は膨らむ。膨れ、膨れ、更に膨れ、いびつな形に捩じれ、ひねくれ、べそをかき、爪をひん剥き(決して「剥き」で済ませられるものでは無いのだ)、最終的に爆発して好き勝手自己中心な方向に飛び散り回り、廻り、周りに対しべっとりと居酒屋のタレのような濃度でへばりつき、なかなか消えなくなってしまう。そして意地汚いケチな温床となり、別の言葉の屑がブヨブヨと生えてくる。ああ、時間切れだ。ジョーカーはシロウサギと顔を合わせたくないのか、どこかへ見えなくなってしまった。
「残念無念、時間切れさ」シロウサギは三度呟いた。
金色の懐中時計の針が喚きだすのが、呆然と思考回路を強制停止した僕にでさえ判る。フロックコートの第二ボタンが小刻みに揺れている。「さあ、行こうか、以降か。ああ、うん。行くんだ」シロウサギは宣告した。時間切れ。どうしようもないほどに、その言葉が僕に食い込む。そうだ、時間切れだ。時間切れなのだ。
僕はまた立ち上がる。元気な訳でも無いが立ち上がる。眠るのはもうお終い。お仕舞い。シロウサギが僕の裾を掴んだ(あの肉球でどう掴んだのかとか、とかは知らない)、しっかりと掴んだ。
ジョーカーと会った時まで(絶対に)手にしていた筈の糸玉は、いつの間にか遥か遠く(それが僕の足元のずっと前なのかずっと後ろなのかは分からないが、とにかく遥か遠く)に、置き去りにされていた。
背後で枕が、シーツが、ブラウン管の弾けたテレビが、ワイシャツとレタスのついたペンが、冷蔵庫が、割れて中身が空っぽになったライターが、プラグのひしゃげたヘッドフォンが、びしゃびしゃになったティッシュの箱が、携帯の充電器が、アタッシュケースが、サルの置物が、麦茶と別れる運命に落ちたグラスが、タルタルソースの油で偏食したジャンクフードの紙が、ゲーム機が、隣の住人の声が、ばらばらと憐れに崩れていくのを感じた。「枕」は「ま」「く」「ら」に分解され、その文字を形成する曲線や結び目、点やはらいがウィンクをして離れてゆき、意味を成さなくなり、蚊取り線香の受け皿に残った灰のように跡形もなくなり、まあ、簡略化すると、僕が紡いだと思っていた言葉は全て列を成して、僕のことなど見向きもせず、言葉の樹海に口笛を吹きながら帰ってしまったという訳だ。時間切れだ。
シロウサギが歩き始める。僕もつられて歩き始める、というよりは、裾を掴まれているので歩くしかないのだが。まず右足。左足。そして右足。左足。右足。左足。また右足。決して狂うことはない。
僕は歩く。楽園の残骸を踏みしめて歩く。へばりついた言葉の屑の残骸を粘らせながら歩く。生えてきた言葉の屑の残骸を踏み折って歩く。歩く。歩く。歩く。歩いているだけだというのに、世界が加速していくように感じる。否、正確に言えば、僕の部屋という定義の中だけでの世界。シロウサギも僕の両腕も見えるというのに、世界が霞んでいく。言葉が渦巻いているのか、それとも僕の網膜が渦巻いているのか。どちらにせよ、世界は間違いなく加速していた。時間切れだからだろうか? 世界が加速する。加速する。加速する、加速する加速する加速する加速する世界が滲む加速する加速する世界が吹っ飛んでゆく加速する加速する加速する加速するひたすらに加速する、そして、
見えなくなる。
最後には誰も理解でき得ない、流れて溢れて渦を巻いた言葉の屑だけが残される。虚無、悪夢、否。言葉に虚無など無い。限りなく虚無に近くてもパンドラのように砂粒がいつも混じっている。それを見つけられないから虚無と誤認識をしてしまうのだ。虚無、悪夢、否。違う。僕はそれすらも分からなくなってしまった。思考回路すらもが時間切れ、時間切れだ。
「残念無念、時間切れさ」シロウサギが最後にまた呟いた。「そればっかりは、さいころの目と同じくらい操れないものでね」
*
部屋の中央で、言葉の中から今にも挫けそうな弱々しい鼻歌が聞こえてきた。三又の槍が言葉から突き出す。やがてそれは言葉を掻き分けると、中から主を引っ張り出した。ジョーカーだ。
「さあ、独りだ」ジョーカーは言った。「俺がゲームに勝ったのだ」
ジョーカーは辺りを見回し、もう一度得意げに鼻歌を歌った。が、すぐに消えた。彼以外にそれを聴く者がいないことに気づいたのだ。ジョーカーは若干震える声でああ、当たり前のことだ、と呟いた。「俺がゲームに勝ったのだから」
独り、一人。ジョーカーは独り。加速を止めた世界で、ジョーカーはもう一度言った。「俺がゲームに勝ったのだ」
その声は、言葉にすらならずに部屋をしばらく漂って消えた。ジョーカーはさらに大きい声で言った。「俺がゲームに勝ったのだ!」
けれど、やはり彼の声は言葉にならなかった。ジョーカーの周りは、つい先ほどまで一緒にいた少年の言葉で埋め尽くされている。王者になった筈のジョーカーの言葉は、ひとつもなかった。ひとつだって、ありはしなかった。ジョーカーは叫んだ。
「俺がゲームに勝ったのだ!」
叫び声は一種の泣き声のように震え、しばらく部屋の中を漂った。その声は独りきりの勝者に哀れみを感じたのか、するりと言葉になって情けなくぺしゃりと落ちた。
その様子を見て、ゲームの勝者、王者、否、独りというものにそのような称号も地位も名誉も与えられはしないから……ゲームの参加者は、笑った。安らかに笑った。
「俺がゲームに勝ったのだ!」
彼はもう一度そう満足げに呟くと、目を閉じて溢れかえった言葉の屑の上に倒れこんだ。彼はしばらく涙を流していた、が、やがて彼も彼の槍も鼻歌も、元の、少年が生み出したただの言葉の産物に戻り、そしてそこに静寂が訪れた。
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■作者からのメッセージ
言葉遊びがきっかけで、この作品を書き上げました。
どこまで改善が可能かは分かりませんが、少しでも皆さんの意見に触れて、小説を書く糧にしていきたいと思います。
よろしくお願い致します。
【1/7 追記】本文の一部を修正しました。