- 『船出』 作者:おにこ / リアル・現代 未分類
-
全角2346文字
容量4692 bytes
原稿用紙約6.05枚
確かに、ひと昔前の僕は希望に溢れていたのだ。しかし、今となっては、その僕の原動力の源泉は、今や枯渇してしまっていた。というよりも、その泉自体がただの蜃気楼でしかないことに気がついてしまったのだ。嗚呼、こんなことに気がつかなければ、今頃も阿呆面を引っ提げて、呑気に暮らしていたのかもしれない。それとも、結局、遅かれ早かれ、どうせいずれは気がついてしまうさだめだったのかもしれない。または、このさだめという発想も、過去の信仰の名残であろうか。
端的に言うと、僕から神がいなくなったのだ。神が僕を見捨てたのではなく、僕が神を見捨てたのである。僕は幼少期から、いわゆる宗教的な母親のもとで育てられたので、物心がつくころには、自ずから、自分の運命を神に託すという思想を育んでいた。僕の運命を規定するのは、最終的には神の意向である。神は、別に一人でも多数でも、名前が守護霊でも先祖霊でもハイヤー・セルフでもガイドでも何でもいいのだが、とにかく自分よりも遥かに力の強い、得たいの知れないものが確固として存在し、それの意志によって僕は運命を決められると、信じて疑わなかった。
僕は、同類の思想を有した自己啓発本の類や、精神世界コーナーの本を読みふけり、その思想の正当性を強化していった。毎晩その見えない何かに向かって自分の考えを独白し、善良な自分でこれからも居続けることを約束した。僕が何らかの成功を収めた時は、その神のお陰なのであるから、感謝の意を表し、何か問題が起きた時は、これも神からの試練なのだと、同じく神に感謝した。とにかく、自分の人生の運命の決定権は自分自身でなく神にあるのだとして、彼らの機嫌をとりながら生きていたのである。
しかしそれは全て過去のことである。今となっては、その後遺症に対処しようとすることで精一杯だ。過去の僕は、その挙動の一切を常に神に見られていたのだが、この神の目がないとすると、一人で居る時は文字通り一人ぼっちなのである。それまでこの絶対的な孤独に晒されたことのなかった僕にとって、このことほどの苦痛はなかった。以前ならば、見えない所での努力や献身や善行も、神によって記録されているという思いから、容易く出来たのであるが、誰にも注目されていない僕は最早、それらの行為を無邪気に続けることができなくなった。
神が見ていないという状況に僕は耐えられない。そして、この極端な孤独に、今まで神がいなかった者たちは耐えていたのだと思うと、彼らを驚きの目で見ずにはいられない。僕はこの孤独に対する免疫を一切持たずに、これまで人生の諸事を行ってきた。何をしても、神が見ているのなら、いずれは報われるという保障があった。他人に対する善行だって、その他人が直接恩を返してくれなくとも、神が、または世界のシステムが、僕に返してくれる。その保障があるからこそ、どんな道徳的なことだってできたのだ。しかし、見返りが全く保障されない所で、他人に対して何かをするなどということは、本当に可能なのか。
僕が神を捨て去ったのは、おそらく偶然ではなく、計画においてのことだ。なぜなら、僕は今でもはっきりと、神を疑ってみるかと決めた時のことを覚えているからだ。地面は平らでありその果てまで行くと滝になっていると信じていた中世の人が、それでも地球は丸いかもしれないと信じて船を走らせようとした時の心境が、あの時ほどありありと想像できたことはないと思う。行きつく先は崖か宇宙の果てか。そのような想いで僕は神への謀反を企てたのだ。
今の僕は、過去の神に変わる確固たるものを必死に見つけようとしている。僕は神の国から船出したのはいいが、このままずっと一人で海に漂っていることに我慢ができるのか。このまま長時間耐えられる気がしないので、新たな陸地を見つけようと必死で漕いでいるのである。何度か、このまま海上で尽き果ててしまうのではないかと思ったことがある。しかし、それでも気を取り直して、身を奮い起して、まだ見ぬ大地を探すのである。
僕は善い人間であった。周りからもそう認められていた。その度に僕は謙遜していたのであるが。しかし神が消えうせ、善悪の基準が僕にとって全く相対的になってしまった今、僕は善い人間では最早ない。ただの、ただの人間である。これ以上の屈辱は過去の僕にはなかった。僕は今でも必死に、ただの人間であることに耐えているのである。その度に、足に力が入りすぎて、乗っている船のバランスがおかしくなりそうになる。
嗚呼、神が今でもいるというのなら、また世界は一変するであろう。神によって善いと言われていることを率先して行い、神の期待に沿うように努めよう。なんという完成されたシステムであろう。このシステムを信仰しているのは過去の僕だけではあるまい。彼らはこれからもこのシステム上で、献身的に暮らしていくのだろう。この制度がないかもしれないなどという戯言に耳を貸してみようなどという心の隙間を許さずに、ぜひ自らの神を支持し続けて頂きたい。それが彼らに心理的な幸せをもたらすことは、今の僕にとっては事実なのであるから。
この船にも実は、過去の神とは違う種類の神がいるのではないか。そして、この勇気ある船出を陰で祝福してくれはしまいか。あの国にいた神は実は囮で、本当はこっちに本物がいるのではないだろうか。この思想はしかし、かの過去の神のものの変形に過ぎないのである。僕はもう直接的にも、このように間接的にも、神を認めることはできない。さあでは何を土台として生きてゆくのか。僕はどこへゆくのか。
いや、僕は何かを土台として生きてゆくし、紛れもない自分だけの力で、どこかへゆくのだ。必死に船を漕ぎ続けていくのである。
-
2011/01/02(Sun)02:48:40 公開 / おにこ
■この作品の著作権はおにこさんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
作者からのメッセージはありません。