- 『籠の鳥、柚島雪歩@「教科書小切手」』 作者:上田0 / ミステリ 未分類
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全角27107.5文字
容量54215 bytes
原稿用紙約80.35枚
柚島雪歩は籠の鳥である。彼女は常に新聞部の部室でスポーツドリンクを飲んでいる。僕はそんな彼女と僅かな時間、一緒の空間で過ごす。僕の日常は謎に満ち満ちているわけではないが、路傍の石ほどには転がっていて――だれも死なない、日常の謎系ミステリ
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1、「教科書小切手」
「籠の鳥、柚島雪歩」
柚島雪歩は籠の鳥である。
注釈を加えるまでもないが、念には念を入れ、明言をしておくことにする。彼女はれっきとした人間であり、呼称の通り鳥類に属するということはない。籠に入っているわけでもなければ鳥語を自由自在に扱うというわけでもない。
身長一五九センチ、体重不詳。色素の薄い肌に同じく色素の薄い髪の毛は、細く軽い髪質で肩甲骨まで垂れている。使用言語は日本語。厳密にいえば少しばかり北海道弁が混じっているだろう。一人称は「わたし」、二人称は「きみ」もしくは「あなた」、三人称は「あの人」。新聞部の部長で三年生。椅子の上に正座をする癖がある。新聞部なのにリソグラフの使い方がわからない。好きな言葉は「王水」、好きな色は水色、好きなものはスポーツ飲料。本人曰く、体水分量が低いからとのことではあるが、僕はそれが嘘ではないかと常々思っている。
一体彼女のどこに籠の鳥と称されるべき由縁があるのか、パーソナルデータをつらつらと軒並み上げていったところで、全く無為な行いである。身体、容姿の問題でもなければ、嗜好の問題でもない。言葉遊びを弄するならば指向の問題と表現できるだろう。嗜好でも志向でもなく、指向。それはつまり、そういうものであるということに他ならない。鳥が生まれた時から羽を生やしているように、柚島雪歩、彼女もまた生まれた時からそういうもの――籠の鳥なのだ、と。
だからこそ、先ほどの疑いが出てくるのである。「それが嘘ではないかと常々思っている」という疑い。籠の鳥であるはずの彼女が、どうして体水分量など計れよう。僕はそのことを疑問視してはいるけれど疑問としたことはなかったし、彼女は彼女で実に堂々とした振舞いだ。まるで悠々自適にスポーツドリンクを飲む。
スポーツドリンク。彼女の大好物。それはいつも部室に常備してあって、それを飲むためのマグカップも常備されている。デフォルメされた熊のイラストがプリントされている、茶色い、何の変哲もないマグカップである。
部室に備え付けの小型冷蔵庫からスポーツ飲料を取り出し、マグカップに注いで飲む彼女の唇に、僕はいつもどきりとせずにはいられない。肌と髪の毛の色素が薄い彼女は、当然のように唇も薄い。色素も、厚みも。そのくせ瞳だけは濃い黒色をしているのである。
マグカップから口を離すと、彼女の唇に水の珠が残っている。僕はたまに――僕の名誉のために強調させてもらうが、本当にごくたまに――その水の珠になりたいと思う。舌で舐めとられ、嚥下される水の珠に。
マグカップを傍らにおいて、大抵彼女は本を読んでいた。平日のうち三日は本、一日は携帯ゲーム、もう一日はランダム、そんな時間の潰し方をしている。新聞部は名前こそ部活動を冠しているが、実体は生徒会の機関誌を発行するだけの傘下団体にすぎない。彼女のそんな時間の潰し方は実に手慣れていると思う。
「草野」と彼女は僕を呼んだ。
「なんですか先輩」と僕も返す。
彼女は僕のことを名字で呼び捨てにする。他の人は「くん」だの「さん」だの敬称をつけるので、その差は親密度の差であると考えてもいいだろう。これでも一年間、ともに無為に時間を潰してきたのである。
「もうそろそろ五時半になるね」
窓の外では夕日が赤々と輝いていた。五月の夕日はセンチメンタリズムの増大を促す。五月と言う空気は光を屈折させ、陽光に別の価値を付加させる。一体どんな化学反応がそこには起こっているというのか。
僕は椅子から腰を浮かせた。今まで呼んでいた文庫本は、スチールの戸棚にしまう。これは僕のものではなく、先代か先々代か、それとも更にその前かの部員が置いていったものである。そうでないならば柚島雪歩、彼女のものかもしれない。
「そうですね、そろそろ帰りますわ」
「そう。気をつけてね」
にこり、と微笑む。
僕は鞄を掴んで、新聞部の扉をスライドさせる。彼女は手を振って僕を押し出した。
扉の閉まる音を聞いて、僕は一度息を吐き出す。
柚島雪歩は籠の鳥である。
彼女は部室から出ることが出来ない。
籠の鳥は言葉通りに受け取ってもらっては困るが、後者の一文は言葉通りに受け取ってもらいたい。彼女は部室から出ることが出来ない。穿った見方も行間紙背もそこには介在せず、言葉をコミュニケーションたらしめるコンテクストもそこには存在しない。
嗜好でもなく志向でもなく指向であると前述したのも、まさにそのままである。彼女は部室が好きだから部室にいるのでもなく、それ以外の理由で部室にいるのでもなく、初めからそういうものだから部室にいる。部室から出ない。僕にはそう思えてならない。
「籠の鳥」という比喩は、まさに当意即妙極まれり、である。とはいえ彼女が本当に籠の鳥であるのか――部室と言うたった六畳程度の空間から出られないのか――僕は知らない。僕が知らないところでは、籠から出て自由に飛び回っているのかもしれなかった。
ただ、僕がこの新聞部に入部して一年。彼女は一度だって部室から外に出たことがない。ただの一度もである。
僕よりも先に部室にいて、必ず僕を先に帰らせる。トイレにだって、他の用事でだって、部室を出たところは見たことがない。昼休みにだって部室にいるのだ。これはもう、そういうものであると思うしかない。柚島雪歩は籠の鳥なのだ。
となると、彼女が本当にこの学校の学生なのか、そもそも人間なのか知りたくなるのが人の業というものである。過去にそう思った人がいないとは思わない。だが、過去にそう思った人がいるであろうのに彼女がいまだ籠の鳥足りえているということは、疑問の終着点は推して知るべしということだろう。と僕は曖昧な表現に徹することでお茶を濁す。さすがにくわばらくわばらとまではいかないけれど。
謎は謎のままにすべきだ、とはそのまま籠の鳥の言葉である。それはもしかしたら脅しなのかもしれないという思慮くらいは僕にだってある。彼女の笑顔は魅力的で、決してその深奥を見せようとはしない。
恐らく僕が進級しようが彼女はあそこにいて、スポーツドリンクを注いだマグカップに口をつけ、本を読んでいるのだろう。僕が卒業しようがそれは普遍で、不滅で。
そんなふうに益体もないことを考えていると、本屋の前だった。街に一つはある、大規模チェーンの本屋。漫画の新刊が出ていることも考慮に入れて足を向ける。
平日の夕方でも人はいるものだった。やはり学生が多い。セーラー服に学ランに、ブレザー。
白いセーラー服と学ランは僕が通う県立高校、ブレザーは近所の有名私立高校のものである。校則が厳しいと噂のブレザーたちでも下校時の道草は許されているらしい。それともお忍びで来ているのだろうか。だとしたらご苦労なことだと思う。
入口に入るあたりで、店に入るセーラー服と、出ていくブレザーがニアミスを起こす。スクールバッグ同士がぶつかり、お互いの中身が多少ばらまかれた。どうやら二人とも口を締めていなかったようだ。
慌てて落ちたものを拾っていく二人。僕も一応手伝おうと小走りになるが、どうやらそこまでたくさんのものは落ちなかったようだ、そこへたどり着くまでには二人ともものを拾い終えている。
「あ、すいませんでした」
セーラー服が言うと、ブレザーも頭を下げ、歩いていく。そういえば鞄同士がすれ違う際、お互いのキーホルダーが絡まって云々という話を聞くけれど、今回のこともそういうことだったのだろうか。僕はいつの間に関わっていた店内の内装を見やりながら、ぼんやりと考える。
店内にはポップや店員からのおすすめ紹介などがひしめいていて、実に自己主張の強い場となっていた。躍る惹句は「ゴールデンウィークに本を読もう! 春の読書フェア!」を筆頭に、五月の長期連休にちなんだものばかりだ。
他に目につくのは映画化の紹介や万引き防止を促す張り紙である。しかし僕が見たいのはそれではなかった。あまり忙しなく見て回るのも怪しいため、僕はのんびりと店内を散策する。それほど時間に追われる身でもない。
残念ながら新刊は出ていなかった。僕はようやく見つけた、壁に貼ってあった今月の新刊のチラシを見て、そう結論付ける。月に一回は必ず来るので、先月の分で買い逃しはないはずである。
とはいえせっかく来てしまったのだ、店内を一瞥してはいさようなら、というのは何となく寂しい。目的もなしにさまよっていると、見知った人影を発見する。クラスメイトの二ノ宮雄太である。
僕が向こうを発見すると同時、向こうもこちらを発見する。二ノ宮雄太は私服であった。一度家に帰ってから来たのだろう。ということは、もしかしたら家はこの近くなのかもしれない。
彼とは話題がそれほどあうわけではなかったが、去年も同じクラスであり、席順も近かったので会話する機会自体はそれなりにあった。親友とは呼べないが、友達とは問題なく呼べる、それくらいの絶妙な間柄である。
「よう。今帰りか」
「そうだねぇ。ほら、新聞部」
「あぁ、そういえばそうだっけな。そんなのもあったっけな」
どうやら彼の中では、新聞部の知名度はその程度らしかった。部員数二名、新入生ゼロ名、増える見込み無しの部活ではその程度が限界かもしれない。
「新聞部ってなにやってんの」
「名前の通り。新聞作ってるよ」
「でも、俺、見たことねぇよ?」
ごもっともである。わが新聞部は、前期と後期に一回ずつ発行する生徒会便りをまとめるために存在すると言っても過言ではない。その生徒会便りだって職員室前の掲示板に張られるくらいで、全校生徒に配られるという類のものではない。知名度と入部希望者が地を這うのも当然だろう。
僕はさもありなん、とでもいうふうに苦笑する。説明したってしようのないことだ。そういうときはぼんやりとした態度で誤魔化すに限る。
「そう言う二ノ宮は、私服でどうしたの。帰宅部だっけ」
彼の恰好は長袖シャツに半袖のワイシャツを組み合わせ、下はジーパンという実にカジュアルな格好だ。肩から鞄をかけているが、いわゆるスポーツバッグではない。布でできた、同じくカジュアルなものである。
ははは、と笑って彼は言った。
「まぁそうだな。栄えある帰宅部のエースだよ。家近いんだよな、ここからも学校からも」
どうやら僕の予想は的中していたようだった。だからどうなんだと言われればそれまでだが、それは無粋というものだろう。
「へぇ、じゃあよく来るんだ」
「いや、そう来るわけじゃないけど。金があるわけでもねぇしさ。でもふらっと寄っちゃうんだよなぁ」
またもははは、と彼は笑った。前々から思っていたが、二ノ宮雄太、よく笑う性格である。しかもその笑顔に厭味が全然ない。快活だ。
「そう言うお前はよくくるの、ここ」
「僕もそれほどじゃないよ。月に一回とか二回くらい。新しい本が出たから確認するだけだからさ」
「なに読んでるの」
僕は購読している本の中で、比較的メジャーなものを二つ三つ挙げて、「とかね」と言葉を切る。後ろ暗い本を読んでいるわけではないが、幾分マニアックな本もあるため、誤解されてもまずい。距離感の取り方は適切に。
「じゃあ今日はふらっと寄っただけ? 暇なんだ」
本屋で見かけた僕と会話を興じるほどには手持無沙汰なのだ、暇には違いあるまい。
「まぁそうなんだけどさ、金はないってさっき言ったけど、図書券が残ってるんだよな。かさばるから早く使い切ろうと思って来たんだけど」
と財布の中から十枚ほどの図書券を抜き出す二ノ宮雄太。一枚が五〇〇円分で、計十枚、五千円ぶん。二つ折りの財布に入っているものだから少々折りたたみが窮屈そうだった。
話を聞けば、どうやら高校入学時に貰った一万円分の図書券の残りであるらしい。一年で五千円ぶんということだが、一般よりは本を読むと自認する僕として、それは少ないように感じられる。
「しまっておけばいいんじゃないの?」
「でも、いざ欲しい本があったときに、いちいち家に取りに戻るのめんどうくさいじゃん」
家へ取りに戻ることと財布の窮屈さを天秤にかけて、前者に傾いたということだろう。その気持ちはわからなくもない。店頭に並んでいるものとは一期一会の趣きで付き合わなければいけないのである。
「あ、そうだ」と彼が手を打つ。「お前ってけっこう本読む?」
「そこそこ、って感じ」
僕のその応対が、彼にとってクリティカルであったかどうか。表情を見る限りは渋い顔をしていた。今度は的中とまでは行かなかったか。
「同じ本を何冊も買うことってあると思う?」
急にそんなことを聞いてくる。それはつまり、いわゆる観賞用、保存用、布教用と言う意味だろうか。僕は本こそそれなりに読むけれど、さすがにそこまでするような愛読書には出会えたことがない。
「いや、そういうことはしないけど、どうしたの」
「どうしたの、っていうか」依然として渋い顔の彼は続けた「うちの姉ちゃんが大学の中の本屋で働いてるんだけど、なんかそういう客がいたらしくて」
「でも、別に珍しいわけじゃないでしょ。世の中にはそういう人もいるって聞くよ」
「最後まで聞けって。その客が買っていったの、学術書らしいんだよ。教科書、って言ったほうがわかるかもしれないけど」
「教科書」
鸚鵡返しに呟く。教科書を観賞用、保存用、布教用に購入するだろうか。どんな界隈にだって奇特な人は一人くらいいるものだから、理解も共感もできないけど、そういうものとして見ることも可能だ。
それはどこかの籠の鳥にも当てはまることだと言える。
「珍しい人がいるもんだね」
「だから最後まで聞けって。次の日、買った本を返品しに来たんだって、その客。驚きだろ。凄い変な話じゃねぇ?」
「え……?」
意味が少しわからない。次の日に、複数冊買ったにもかかわらず、本を返しに来た。そこにどんな目的があるのか。これはもう奇特を通り越して、逆にそこに意味を見出したくなるほどだ。
それはどうやら彼も同じであるようだ。腕組みをしつつ、難しい顔をして考えている。
まず、この問題には、二つの注目点がある。一つは「同じ本を複数冊購入した」という点。もう一つは「それらを翌日返本した」という点だ。
順当に考えて、本を複数冊購入するということには、必ず何らかの目的がある。前述した複数用途のための購入であったり、それを必要とする人が複数人いたりする場合が顕著だ。件の客がそのような目的を持っていた可能性は大いにありうる。
しかし、それらを翌日返本したという事実は、少なくとも購入したうちのいくつかが不必要であったか、不必要となったことを示している。すると、複数用途に基づいた複数冊の購入とは、聊か矛盾するような感じも受ける。
僕は寡聞にして、同じ本を複数冊購入する人々から用途を聞いたことはない。しかし彼らは自分の用途の種類数を間違えるだろうか。その疑問を肯定するのは実に難しい。却下はしないまでも望み薄だろう。
そして何より、この仮定の第一の問題は、教科書を用途別に購入する人間なんて皆無だろうということである。
となると友人の分もまとめて買ったが、友人もしくは自分が必要としなくなった線が濃厚だろうか。これならば二つの注目点の両方を満たしつつ、シンプルな解答を用意することが出来る。今まで少々思考が硬い方向に向かっていた可能性は否定できない。事実は想像よりずっと単純であることが多いのだから。
それこそ、教科書を必要とする友人の数が変わったという仮定は大いにあり得る話である。大学の先輩からもらうことが出来たとか、古本屋で安く見つけたとか、可能性はいくらでもある。
「まぁちょっと考えてみてくれよ。暇つぶしがてらにでもさ。俺にはよくわかんねぇんだわ」
僕の肩を気安く叩いて、じゃあなと一言、彼は店を後にしていった。快活な笑顔が脳裏に残っている。
「まぁちょっと考えてみてくれよ」と彼は言ったが、どうせ謎を出すならば解答もセットであってほしかった。腹が立つというほどではないが、気にならないと言えば嘘になる。
何よりこの話題、余りにも情報が少ないのである。想像の余地がありすぎる。思考の枠、限界がないと、人間の思考というものは大気圏すら突破できる推進力を持っている。
恐らく答えとしては、件の客が友人の分もまとめて購入したが、誰かが必要としなくなったでほぼ間違いないだろう。あとはディテールを詰めるだけだが、ここまで考えたのだからきっちりと終わらせたいという気持ちがないわけではない。
だからこそ彼は暇つぶしという言葉を使ったのかもしれなかった。彼にとってこの話題は単なる世間話であり、それ以上の意味を持たないのだろう。ならば僕がそれにまじめに付き合うのは無為なことだ。無為なことは好きだけれど、このような無為さは好みの範疇外だ。
お目当ての本は収穫できなかったが、変わりに何とも言えない気分を収穫してしまった。何たるマイナスの収穫だろうか。
僕は推理に引っ張られる思考の指向を無理やり空腹へ向け、足早に本屋を後にした。
主体性がないと言われることが多い。それはなるほど確かにそうだろう、と僕は思う。僕に対してのその感覚は実に的中していて、彼ら彼女らの人を見る目を評価せずにはいられない。
幼い時分からそういう性分なのである。自ら行動を起こすことの頻度の少なさは、僕のパーソナリティにおいて特筆すべき事柄だろう。ただし一言注記をしておくならば、決して僕は面倒くさいわけではない。人によっては僕をまるで七大罪の一柱であるかのように扱い、揶揄するが、まさかそんなことはない。
つまるところ、僕は単にのんびりとした一時が欲しいだけなのである。それは無為な時間と言い換えてもよい。為すことの無い時間が僕に至福を運んでくれる。僕が新聞部を辞めないのも、籠の鳥への淡い恋慕も含めた上で、あの時間と空間が気に入っているからなのだ。その点においては、僕はあの場を主体的に選択し選び取ったことになる。
昼休みも半分を過ぎ、南から日差しが差し込んでいる。陽光は教室の半分を照らす。僕の席は廊下側だったので、陽光の恩恵を受けることが出来てはいなかった。
この学校はほとんどすべての教室が南向きの窓を有している。それはわが新聞部の部室も例外ではない。恐らく彼女は、今この時間も部室でスポーツドリンクを飲んでいるのだろう。そうでなければ本を読んでいるか。
何ら変哲のない日常であった。日常は日常であるだけで金の価値を持つ。そして無為な時間の価値すらも増幅させる。
無為な時間という意味では、答えの出ない問いに思考を巡らせるのも、その一種である。
複数冊購入された教科書。翌日返品されたそのうちのいくつか。昨日二ノ宮雄太によってもたらされたミステリーは、すでに僕の脳の片隅に移住している。情報不足によって答えの出ないその問いは、考えすぎないことに注意すれば、実によい無為な時間を提供してくれていた。
あのあと多少頭をひねって見たが、仮定や推論はいくつか浮かんでくるものの、それだけでありそこまでである。それ以上の進展はないし、進展を望むべくもなかった。その気になればいくらでも追加情報なんて手に入るだろうけれど、そんな主体的行いに身を窶しているほど暇ではない。
「ぼーっとしてるな。どうした」
声をかけてきたのは二ノ宮雄太である。彼が僕に声をかけてくるのは珍しかった。彼には僕よりも仲の良いクラスメイトが数人いるのである。
「こないだの話だよ。それで、どうした?」
あまり素っ気なくならないように返答する。どうも僕は笑顔と言うやつが苦手なのだった。
「人が呼んでるぞ。ほれ。生徒会の」
指で指示した先は教室の前の扉で、そこにいたのは小柄な少女だった。名前は葛原花梨。生徒会の書記担当で、僕と同学年である。
彼女はとにかく背が低い。男子の中で平均的な身長を持つ僕と並んでも、頭一つくらいは差ができてしまう。前髪が直線的にそろえられているショートボブの髪型を有しているため、小柄な体形と合わせると、まるでからくり人形かのようにも見える。
ただしそんな彼女にもギャップの生ずる部分はあった。ノンフレームの眼鏡の奥の瞳は切れ長で、外見と不相応に怜悧な印象である。口調もまた突き放すような喋り方が多い。
彼女は生徒会だより担当と言うことで、僕と細いつながりがあった。彼女がこのクラスに来るということは、つまりそういうことである。
そしてそれは僕にとって幸せなことではなかった。
なるべくゆっくり机から立ち上がり、彼女の元へと歩く。
「忙しかったらごめんだけど」
それは所謂皮肉と言うやつか、悪くとるなら厭味なのだろう。僕が忙しいことなどそれこそテスト前くらいしかない。
こうして無意味に人の神経を逆撫でするのが葛原花梨のパーソナリティだった。何に苛立っているのか知らないが、彼女は自身の苛立ちを隠そうともせずぶつけてくる。
「どうした。生徒会だより、次の発行は再来月だろ」
僕が不思議だったのはそこなのである。生徒会だよりの発行はまだ先だ。それなのに、生徒会だよりを通じての関係性しかない葛原花梨が僕を尋ねたということは、どういうことなのか。
彼女は身長差のせいか、苛立ちのせいか、それともそれら両方か、僕を睨みながら言った。
「生徒会だよりじゃないんだけど」
バカじゃないの、とでも言いたげな態度。僕は辟易するが、悲しきかな慣れてしまった部分も多分にある。怒気を押し殺しながら応対する。
「それこそ、じゃあどうした。僕に用事があるなんて珍しいこともそうそうないだろ」
「私だって来たくて来たわけじゃないんだけど」
じゃあ来なければいいのに、という言葉は何とか呑み込んだ。
「大体あんたのせいなんだけど?」
だけどだけどだけど。三回も「だけど」と彼女は繰り返した。もしかしたら口癖なのかもしれない。
それにしても、僕のせいとは一体どういうことだろうか。
「今度の生徒総会で、予算の議決があるんだけど。それで、あんまりにも部費が予算を圧迫してるってことで、なんとかしなくちゃだめだってことになったの。活動の少ない部活とか人数の少ない部活が対象で、聞き取り調査するから。結果いかんによっては、最悪部活動の停止とか部活動予算の削減とかもあるって。その連絡」
生徒総会とは学生による最高議決集会を指している。確かそれは、うろ覚えだが来月頭にあった気がする。
この学校は決してたくさんの部活があるというわけではないが、何の活動をしているのか定かではない部活も多い。そんな部活にも当然部活動費は生徒会より支給される。確かに生徒会としては厄介な存在だったのだろう。
そして我が新聞部も、厄介な存在の片割れであったということだ。年に二回ほどの活動が頻繁であると認められないことくらい、僕だってわかっている。それでも生徒会と繋がりのある僕らにお達しが回ってくるということは、少しばかり意外ではある。
まぁ生徒会にだってリソグラフくらいあるだろうから、編集業務などを除けば、僕らの仕事は彼らにだってできる程度のものだ。そういう意味では僕らの存在が必須と言うわけでもないのだろう。
「話し合いっていつごろあるの?」
「まだわかんないんだけどね。顧問の先生からでも連絡があるんじゃないの」
ぶっきらぼうにそう言って、挨拶もなく葛原花梨はその場を後にする。まるで一緒の空気を吸う時間を一秒でも減らしたいかのように。
僕はしかし、今度は彼女のその態度に腹を立てることはなかった。僕の思考を占拠していたのは、彼女ではなく籠の鳥だったからだ。
籠の鳥、柚島雪歩。籠を取り上げられてしまえば、彼女は一体どうなってしまうのだろうか。
放課後。葛原花梨との一連のやり取りを説明しても、彼女は全く動じることなく、スポーツドリンクを嚥下したのちに「そう」と呟くだけだった。口元にはたおやかな笑みが浮かんでいる。
もしかしたら彼女は僕が説明する前から話を知っていたのではないか。そんな疑問がよぎるくらい、彼女はいつもと同様に平然としていて、かつ泰然ともしていた。さらに言うならば、この新聞部の処遇がどうなるのかも、すでに裏で話がついているのではと疑ってしまう。それは無論邪推に過ぎないのだけれど。
「大丈夫なんですかね」
ついそんな言葉が口から洩れてしまう。そんな僕の言葉を受けて、彼女は文庫本から視線を上げて僕へと向けた。
「大丈夫か大丈夫じゃないかなんて、草野、きみが気にしていても無為なことだよ。それを決めるのはきみでもわたしでもなく、先生たち。あとは生徒会もかな。そう言う無為がきみは好きなんだっけ?」
「いいえ、そういうわけではないですけど」
「まぁ新聞部の心配をしてくれるのはうれしいよ。それでもなるようにしかならいこともあるんだからさ、今のこのときをだらだらしなきゃ」
「そうですね。だらだらします」
そんな僕の応答を受けて、彼女はくつくつと笑った。
「なんですか」
「なんですか、って言われてもね。面白いなって、それだけだよ。別に意味はなくてさ」
笑いを噛み殺し、文庫本に視線を戻す柚島雪歩。僕はきっと一生彼女のことを理解なぞ出来ないのだと、そのときふと思った。
ふと思ったついでに想起された暇つぶしを、折角なので彼女にも向けてみることにする。
「先輩は、同じ本を何冊も買うことってありますか?」
「それは所謂読書用、保存用、布教用ってこと? 残念だけど、それほど執心したタイトルや作家はいないんだよね」
彼女の返答は、僕が二ノ宮雄太に返したものと概ね同じ内容であった。やはりそれほどまでのビブリオマニアは、大して広くもない交友関係をあさったくらいではでてこないか。
「それがどうかしたの?」
「クラスメイトが話していたんですよ、同じ本を何冊も買ったくせに、次の日に返しに来た人がいるって。それで思って。先輩もやっぱりそこまで買うわけではないんですね」
「本当に気に入ったものがあったら、文庫版と新書版の両方買うくらいはするのかもしれないけどね。それでもそんなに沢山は買わないかな。布教なんてするつもりもないし、一人くらいいればそれで、ね」
それはできないの間違いではないのですか、とは口が裂けても言えなかった。
彼女は「ね」で僕を見た。その「一人」が僕のことを指していることに、僕はそれで遅ればせながら気がつく。不覚ながらも顔が赤くなるのを隠せない。
彼女の目が微かに細められる。
「それで、なに。同じ本を何冊も買って、次の日に返したの?」
「あぁ、はい。そういうお客がいたみたいで」
彼女はまたもくつくつと笑った。
「奇特な人がいるものね」
「でも珍しくないんじゃないですか、そういうのは。友達の分買ったりするでしょうし」
「それは違うわ」
ぴしゃりと言われた。それが余りにも毅然としたもの言いだったので、僕は思わず呆けてしまう。
彼女は僕のそんな機微を知ってか知らずか、細めていた目はそのまま、しばらく机の上に置いたままだったマグカップに手を伸ばす。しかし中は空であったようで、冷蔵庫の中からスポーツドリンクを取り出す。
とくとくと透明な液体がマグカップの中に注がれていく。
彼女は暫くマグカップにスポーツドリンクを注いでいたが、唐突に振り返って僕を見た。
「もう少しきみは頭がいいと思っていたのだけどね。残念」
「……どういうことですか」
馬鹿にされた気はしていても、それほど不快ではなかった。それよりもまず彼女の言っていることの意味を把握することが重要だった。
「そのお客さんに応対したのって、きみの友達?」
彼女は全く僕の問いに答えてくれなかった。返事は質問で、しかも全くかすっていない。しかし尋ねられたことに意思を持って答えない理由もなかった。
頭を回す。思い出す。昨日の今日だ、すぐに出てきた。
「違います、友達の、お姉さんだったと思います」
「結構慣れてるのかな」
「さぁ、どうでしょう。そこまでは言ってなかった気が……」
スポーツドリンクのキャップを閉める。ペットボトルを冷蔵庫にしまう。一連の動作を終えてから、彼女は優雅にマグカップに口をつけた。
ぷは、とそれから口を離して、唇を舐めた。
「お願いしていい?」
「……なんですか」
「ちょっとそのところ、訊いて来てくれないかな。気になっちゃって」
とはいえ、どうすればいいのだろうか。僕は帰路につきながら思いを巡らせる。二ノ宮雄太の姉に連絡をとる手段など、当然ながら僕が持っているはずもない。しかし言われた手前連絡をとるポーズくらいはしておくべきだろう。瓢箪から駒が出ることもある。
問題は、僕がそのポーズすら取り方がわからないということである。一番楽で確実なのは二ノ宮雄太を経由することだ。だがそれにしたってどういえばいいのか。前の話について聞きたいことがあるからお姉さんを紹介してくれと聞けばいいのか。
大体彼も言ったではないか、あれは暇つぶしであると。暇つぶしに躍起になるのは本末転倒で、それは無為を通り越して無意味なことである。ならばそんなことはしなくてもいいのではないか。
柚島雪歩、彼女の言葉を思い出す。「気になっちゃって」。
彼女は一体なにを「気になった」というのだろうか。僕がいくら頭をひねっても解答など出てくるはずがなかった。
とりあえず、少なくともポーズ程度はつけなければいけない。それが本末転倒の末の無意味な行為だとしても、僕が彼女の頼みを断れる道理はないし、彼女の期待を裏切ることもできない。
またある意味では僕も「気になって」いた。彼女が一体何を気になっているのか、二ノ宮雄太の姉を聞くことによって僕がそれを共有できるならば、それはとても幸福なことだと思った。
期限は別段定められていない。だから明日教室で二ノ宮雄太に話を聞けば十分である。だが、僕はなんとなくあの本屋へと足を運んだ。
全ての始まりの地――と呼称するにはあまりにも大仰であるが、昨日の今日でこんなにもやることが増えるのは、もしかしたら人生初ではないだろうか。
流石に今日は入り口でのニアミスを見ることもなく、そして二ノ宮雄太が店内にいるわけでもなかった。当然買う書籍があるわけではない。
すぐに店内を後にしてもいいのだが、折角脚を運んですぐ帰るのも癪である。そのままゆっくりと店内を見回す。平積みされている本の冊数が変わっているかどうか、というくらいの店内の変化。ただし今日は学ランもセーラーも、そしてブレザーもいなかった。
そのまま二階へと向かう。一階は書籍、二階はレンタルビデオ・CDを担当している。僕にとって重要なのはもっぱら一階で、二階はあまり通うことのない場所であった。僕は最近の邦楽には疎いし、洋楽なんて推して知るべしという状況なのだ。
店内では女性ヴォーカルのポップスがかかっていた。素人の僕でもわかるくらいに歌がうまくなかった。これが店内でかかっているということは、それなりに有名な曲なのだろう。僕の感性がずれているのかもしれない。
「珍しいね」
最初は僕に声をかけているとは気付かなかった。やけに声が近かったために振り向けば、そこには知り合いがいた。
「元気? ってか、あたしのこと覚えてる?」
「忘れたりはしないけど」
少し眠そうな瞳。眉のあたりできっちりと揃えられた前髪。後ろで束ねられたポニーテイルのできそこないが揺れている。そこに染色の気配は微塵も認められない。
身長は女子にしては高いほうだろう、僕より僅かに低いくらいで、一六〇センチの後半はある。ブレザーの裾が少し足りていないような気もするが、それでいてスカートはきっちり膝丈。
名前は神谷三香。上から読んでも下から読んでも「かみやみか」。僕のアパート、そのお隣さん家族の娘である。年齢は僕より一つ低い十五歳で、ブレザーが示す通り高偏差値の私立高校に通っている。
彼女とはお隣さんであり、子供のころはそれなりに交流もあった。しかし小学校の高学年あたりを境に交流がめっきり減って、今や年に一回偶然会うか会わないかと言う程度になっている。
今年に入ってこれが最初の邂逅であった。そして彼女と出会うのは大体ここの本屋の二階だ。
「なにやってるの」
「暇つぶしだよ」
彼女はまるでつまらなさそうに「ふぅん」とだけ呟いた。
「学校はどう? そっちは勉強厳しかったり、校則厳しかったりって聞くけど」
「まぁね。中学と比べたら全然だし、草野のとこと比べてもそうじゃないかな。勉強ばっかするの。本当は下校時にここ来るとか、道草も禁止なんだ」
「大変なんだな」
「うん」
「高校生だしな」
「そうだね」
「今日はCD借りに来たのか」
「うんにゃ。DVD。アニメの」
「へぇ。なにみてるの」
「いろいろとね」
「そっか」
「うん」
「……」
「……」
あまり会話も続かない。自然と一問一答形式になってしまう。
そのうちどちらともなく「じゃあね」と言って、彼女はレジへ、僕は棚の後ろへと歩を進めた。後ろを振り向きたい思いと、振り向きたくない居心地の悪さが同居している。
きっと僕は彼女と会話をする能力と言うものを、必要ない能力として成長の過程で切り捨ててしまったのだろう。いくら過去は仲が良かったと言っても、もう彼女は別の世界の住人だ。会話や振る舞いにぎこちなさが出ても仕方がない。
それはとても悲しいことのような気がした。友達が友達じゃなくなってしまったかのような感覚。それは喪失感と呼称しても差し支えはないだろう。
あまり後ろ髪を引かれてもしょうがない。僕はかぶりを振って、借りるつもりのないCDを見て回る。
名前の聞いた事のある歌手もいるが、ほとんどが聞いたことのない名前だった。クラスメイト、たとえば二ノ宮雄太はどれくらい周知しているのだろう。僕が普通なのか、それとも無知なだけなのか。
そういえば籠の鳥、彼女は一体音楽を聴くのだろうか。部室は常に静寂に満たされている。まるで彼女の培養液であるかのように、あの部室は音がしない。グラウンドにも面しておらず、人通りの少ない旧校舎の四階。静かになりうる条件はあまりにも揃いすぎていた。お膳立てされたかのように。
それはしかし穿ちすぎだというものだろう。理屈と膏薬はどこにでもつくとはいえども、そこまで無理やりにつけた理屈と膏薬に効き目があるか甚だ疑問だ。
僕はどうやら彼女を超常の存在とみなしたがるきらいがあるようだった。実は彼女に惹かれるのも、異性としてのそれではなく、超常現象としてのそれなのかもしれない。そう考えること自体がばかばかしくて、自嘲気味に笑う。
「何笑ってんだよ、気持ち悪いなぁ」
視線の先に、二ノ宮雄太。
「あ、いた」
「え?」
思わずもれた呟きに、彼はよくわからないような顔をした。
どうやらCDなりDVDなりを返却しに来たようだった。手に青い布の袋を持っている。それはこの店でレンタルした時に、商品を入れてもらえるエコバッグのようなものである。
「最近よく会うな」
「なんか返すの?」
「俺のじゃないんだけどな。けっこう家族、ここで借りるんだよ。母さんはDVD、姉ちゃんと父さんはCD。なぜか俺が使いっぱしりなんだ」
二ノ宮雄太の姉に話を聞くこと。本来の僕の目的はそれだ。まさかこんなタイミングで彼と出会うとは思っていなかったため、一瞬戸惑う。
「あのさ」
なんといって切り出そうか。僕は最初の言葉を用意していなかった。喉が言葉を絞り出すとするけれど、出てくるのは「あー」や「いや、その」という曖昧な遊びの部分だけ。
そもそも彼女のことを話して、僕以外はわかるのだろうか。周知と言う意味で、知覚可能かどうかという意味でも。
言葉を選びながら、怪しまれないように喋る。
「昨日……昨日だよな。うん、昨日お前がしてくれたあの話、暇つぶしだけど、気になったことがあって」
「え? あれいちいち考えてたの? お前も暇だねぇ」
なんとでも言ってくれ。僕は彼の言葉を意に介さず、続ける。
「それで、お前のお姉さんの話みたいじゃん? だから、直接お前のお姉さんが話を聞きたいって思って」
「もしかして俺探してここに?」
見抜かれていた。しかし僕はかぶりを振る。
「僕はCDとか探そうと思ってて。どうせ明日会うんだから、別に明日でいいやって。まぁでも、せっかく会えたし、なんかいま? いるみたい? だし」
両親と父のレンタル品を返しに来たというのだから、少なくとも誰かは家にいるだろう。それが姉である可能性は決して低くない。借りにいなかったとしても、アポイントメントをとりつけることができれば任務は半分終わったようなものだ。
「姉ちゃん? 今は確かにいるけど、時間かかりそう?」
「話次第だと思うけど、なんかあるの?」
「わかんないけど、飯の時間もあるしな。結構早いんだよ、うち。とりあえず姉ちゃんに聞いてみようか」
そういって彼は携帯電話をとりだした。黒いスライド式の携帯電話。一般的な携帯電話より一回り小さい。
「あ、姉ちゃん? うん、今店内。今返す。うん。それでなんか、友達と会って。いや、俺の。うん、俺の高校の。それで、こないだの話、本をたくさん買って、返しに来た人の話。その話をこないだ聞かせたんだけど、それで気になることがあるって、訊きたいって姉ちゃんに。……うん。今、だよな?」
だよな、で携帯電話から口を離し、僕に聞いてきた。僕はできるなら今がいいという旨を伝える。
その後すぐに電話を終わらせ、彼は階段を登りながら喋る。
「いいってさ。ちょっと待ってて。返してくるから」
二ノ宮雄太の家は十階建てマンションの三階だった。それなりに新しいようで色彩やデザインがモダン風だ。クリームとアイボリーを基調とした造形で、日照権の問題なのか、四階相当の高さしかない部分もある。正面から見たらちょうど凸の形をしている。
前に彼が言っていた、本屋が近いというのは嘘ではなかった。信号を一つ渡り、路地を入ったところにこのマンションは位置している。徒歩で五分くらいしかかからない。
インターフォンがエントランスホールにあったが、彼はそれを使うことなく鍵で自動扉を開閉させる。
「それにしても」
思い出したように彼は言った。
「昨日の今日だよな。なに訊きたいんだ」
エレベーターはすでに一階に止まっていた。上昇のボタンを押し、扉が開いたのを待って乗り込む。
僕は一瞬答えに詰まった。柚島雪歩の考えの具体的な部分を、僕はなに一つ知らないのである。
「いろいろあるんだけどね。お姉さんがそこで働いてどれくらいするのか、とか」
「ふぅん」興味なさげに呟く「なに、お前って結構、考えるの得意なほうだったりするの? 探偵と言うか」
「僕が探偵だとしたら、ホームズっていうかワトスンだねぇ……」
寧ろこの現在が、すでにその様相を呈していると言えるだろう。籠から出ることが出来ない鳥は、籠の中から僕へと指示を送り、外界へと干渉するのだ。そして彼女の思考や話を聞き、留めておけるのも、僕を置いて他にはいない。
「新聞部って暇なの?」
「暇っちゃ暇。部員も少ないし、仕事も多いわけではないし。まぁ帰宅部に言われたくも――あ」
エレベーターが止まる。体にわずかにかかる重力加速度。階を知らせる電光掲示板が、デジタル数字で3を表示していた。二ノ宮雄太がエレベーターから出る。僕も当然送れないように後へと続く。
扉はすぐそこだった。彼は自宅だから当然だろう、インターフォンを鳴らすこともなく扉をあける。僕は「お邪魔します」と言いながら入った。
「ただいま。返してきたよ」
「あらー、お疲れ、ありがとうね」
廊下の向こうから母親らしき声が聞こえてきた。思ったより若い声をしている。
「姉ちゃんは」
「お姉ちゃんは自分の部屋にいるよ。どうかしたの」
「いや、ちょっとね。あ、友達来てるから」
「あ、お邪魔します」
僕はいるはずもない人に向かって、なんとなく会釈した。
と、廊下をぱたぱたと歩く音が聞こえたと思ったら、すぐに人影が姿を現した。
優しそうな瞳をした、快活な表情をしている女性だった。二ノ宮雄太の特徴は快活な笑みだと僕は評価していたが、なるほどこれは遺伝ということか。
「あら、珍しい。どうも、はじめまして。くつろいでいってね。雄太、予め言っておいてくれたらよかったのに」
「本屋で会ったんだよ」
「そんな長居はしませんので……」
「そうなの? 遠慮しなくていいからね。じゃあ、ごゆっくり」
そう言って二ノ宮母は廊下の奥へとぱたぱた走って行った。やたらと小走りな気がするが、そういう性格なのか、それとも忙しいのか。
「ごめんな」
一体なにに対して謝っているのか、彼は僕を見ることなく言った。そしてそのまま家へとあがる。
ようやく見回す機会に巡り合えたが、なるほどどうして洒落たものだ。玄関の棚には花瓶があって、僕の全くわからない花が数種類活けられている。その隣にはラベンダーのドライフラワーと、小さな袋に入ったもの――恐らくポプリがおいてある。
当然ながら廊下はフローリング。白い壁には小さな額縁が飾ってあって、絵本の原画、だろうか。ロット番号が三八/五〇と書いてあるということは、きっとそうだろう。
「一回荷物俺の部屋においとけよ。ここだから」
廊下の曲がり角を越え、さらに角。少し間隔をあけて二つの扉が並んでいる。彼はそのうち右側の扉を開けた。ということは残る一つが彼の姉の部屋なのだ。
「汚くて悪いけどな」
念を押すように言った彼の部屋は、しかし存外と片付いていた。床に敷かれたカーペット、二段ベッドの下に置かれた勉強机。漫画本の納められている棚。いかにも男子学生の部屋である。エロ本の場所などさぞかし単純なはずだ。
僕は背負っていた鞄をようやくおろし、手持無沙汰に「どこ置けばいい?」と尋ねる。彼は「どこでもいいよ」と別段気にしない風に言うが、僕が鞄を置かないのを見やって、ベッドの脚を顎でしゃくった。
僕のような人間に対して「どこでもいいよ」なんて、まったく、事態を進展させない言葉ではないか。
そのまま廊下へと出る。彼の指示に従って、隣室へ。
二ノ宮雄太の姉の部屋がそこだ。
すでに事情は呑み込めているのだろう、緊張気味にノックした僕に対して、部屋の中から極めて軽い声が帰ってきた。それとも僕のことを家族だと勘違いしているのか。
「姉ちゃん、俺。言ってた友達連れてきたから」
背後から彼が声を出す。姉は「どうぞー」と間延びした声で了承、入室を促す。
「失礼します」と努めて礼儀正しくなるようにして僕は部屋へと足を踏み入れた。間取りは彼の部屋と変わらない。ただ、女性の性というものなのだろう、枕元にはファンシーなぬいぐるみが置いてあり、色調も全体的に暖色で統一されている。
二ノ宮雄太の姉はベッドに腰掛けて本を読んでいたらしい。らしい、というのは彼女の足元に本が平積みにされていたからである。今は僕を真っ直ぐに見て、にやにや笑いを口元に携えているばかりだ。
それにしても彼女の視線はどこか値踏みを孕むものだった。興味津津という言葉で表すには、どこか試されているような感じを受ける。
「はじめまして。草野って言います」
「こちらこそどうも。わたしは二ノ宮桜子っていいます。よろしく」
彼女――二ノ宮桜子はそう言うだけであった。僕は手持無沙汰にその場に突っ立っている。
なんとなくやりにくさを覚える。飄々としている風情は、僕にとっては扱いづらい。そもそも僕が積極性を出さなければいけないという状況そのものがやりにくくはあるのだが。
どう感じたのだろうか、難敵の弟が助け船を出す。
「適当に座っていいから。いいよな、姉ちゃん」
「あぁ、うん。いいよ。ごめんね汚くて」
「あ、いえ。ぜんぜんです」
「っていうか、あんたもいるの?」
指摘されて気づく。二ノ宮雄太は部屋から出る気配を見せていない。
「別にいいじゃん。俺も気になるんだし」
彼女は軽く「ふぅん」と頷いて、喋り始める。
「あれでしょ、こないだの話。それが聞きたいんだったよね。じゃあさっそく喋るけど。
……わたし、大学の生協で働いてるの。生協って色々部署にわかれてて、まぁそれは普通の会社とかと同じなんだろうけど。食品部、経理部、事務、旅行代理部とかね。で、わたしは書籍部。販売書籍の管理と、教科書発注とか」
大学とは、電車で四つ過ぎた先にある総合大学のことである。地方国公立大学の中では割と高い偏差値を有しているらしく、ブレザーたちの目標は大抵ここか、もしくは東京だ。
「春先と秋先って、教科書を売る時期でしょ。それで特設会場を作るの。普通に販売してたらスペースが足りないから。わたしが勤めている大学は総合大学だから、人文、理工、教育、医学の四つの学部があって、そうだな、全部で二〇〇種類くらいの本を取り扱うんだ。春はしかもそれに加えて英語もやるから、二五〇くらいになる。バイトとかも雇うんだけど、それはおいといて。
特設会場はわたしもレジ打ちのシフトに入っていて、金曜日昼ごろだったかな、そのお客が来たのは。普通の子だったよ。男の子で、結構会場内をきょろきょろしてて。『お探しの教科書ありませんか』って声かけたけど、断られた。結構、でも、探してたんじゃないかな、教科書。買ったのは五冊で、全部同じ教科書。他に覚えているのは、一冊二〇〇〇円で、ちょうど一〇〇〇〇円になったのとかかな。反面、あんまり顔とかは覚えてないんだけど。変なのはさ、聞いてると思うけど、次の日に全部返しに来たんだよね。返品してくださいって」
「全部?」
思わず口をついて出た。
「そう、全部。その子の応対したのはバイトの子だったんだけど、わたしがやってね。同じ子で、ちょっとそわそわしてた。本当は返品はできないっていう決まりではあるんだけど、約束事程度だから、わたしが手続きして全部返品したの。変だなってのはあったし、それ見てたバイトの子も変だなって思ったらしいよ」
「……何があったんですかね」
思考を巡らせながら尋ねる。並列で籠の鳥のことを考える。彼女は一体何を思い、何を考え、僕に指示を出したのか。
「いまだにわかんないなぁ」
「必要なくなった、とかは」
最初に思いついた考えだ。そして最もオーソドックスと言ってもよい。
しかし、二ノ宮雄太の姉は、笑いながら手を横にひらひらとさせる。全然違うよ、とでもいう風に。
「授業でどの教科書を使うかは当然こっちだって把握してるから、その教科書が使わなくなったんだったら、わたしだってそういうことなんだなって思うよ」
「っていうことは……」
「そう、その教科書は授業で普通に使う教科書。返品する必要はない」
食い下がる。
「じゃあ先輩とか知り合いからもらった、っていう線はどうですか」
「それもないかな。その授業は今年から担当が変わって教科書も一新したの。手に入れようと思えば手に入らないこともないだろうけど、昨日の今日で、しかも五冊もってことは考えにくいかな」
どうやら最初に考えていた方向は大幅な修正を迫られそうだった。そのような状況では、確かに返本の必要性がないだろう。とはいえ他にどんな可能性があるか。
そしてもう一つの問題。なぜ彼女は――籠の鳥は、この事実を知っていたのかということ。
いや、知っているかのように言い当てて見せたのかということ。
彼女は僕の、そのオーソドックスな意見を軽く一蹴した。当然先ほどの話を聞いたうえでは、その意見が間違いであることは容易くわかる。しかし彼女はそんな話を知らなかった。知らなかったのに一蹴出来た。僕の意見が間違いだと言い当てることは、彼女にはできないはずなのに。
「他に同じようなお客はいなかったんですか? たくさん買ってたくさん返本するようなお客さんは」
「いなかったね。わたしもずっと会場にいるわけじゃないから断言はできないけど、返品するお客さんはいなかった。バイトの子も、別に話してなかったな。だから多分、変な返品したのは、わたしが担当した分でもバイトが担当した分でも、その彼のぶんだけだと思う」
まったくヒントがない。情報が詳細になればなるだけ、その「彼」の像や目的と言うものが不鮮明になっていく。
幽霊の正体見たり枯れ尾花とは言うが、正体を見破ろうとすればするほど霧中に紛れ込む現状は、実に頭を悩ませる。
「桜子さんは、その、いつごろから大学の生協でバイトしてるんですか?」
「わたし? わたしは、三年前からかな。わたしもあそこの大学なんだよ。生協のバイトやってて、多少コネもあったしね。ずっと書籍部だけど、来年あたりは別部署かもしれない」
「普通に間違えただけなんじゃねぇの?」
声を出したのは二ノ宮雄太である。そしてその発言は実に快刀乱麻を断つがごときであった。下手すれば思考停止とも取られかねないその意見は、けれど否定することは困難である。
「まぁそうかもしれないけどね」と彼の姉は苦笑しながら肯定し「個人的には違うと思うけどね。いろんなところぐるぐる見て回って、店員にも聞かないっていうのは、なんか気に食わないかな。そういう人って、最初から間違って覚えてるもんだから」
そういうものなのかもしれない。彼女の言葉に、僕は是とも非ともとれぬ感情しか抱くことが出来ない。僕は経験者ではないのだから、経験者の言葉を「そういうものなのかな」と思うだけだ。
と、部屋の扉が唐突に開いた。姿を現したのは先ほどあった母親である。
「お友達の、なんていうんだっけ?」
「草野です」
僕は本日二度目となる自己紹介をする。
「あ、そうそう、そうだったわね。話長くなりそう? 夜ごはん食べていく?」
そもそも僕はこの母親に対して名を名乗っていない。きっとその事実すら、目の前の人物は気にしていないのだろう。そういうおおらかさがある性格なのは、雰囲気からなんとなく察せられた。
僕は「夜ごはん」という単語を聞いて、時計を見る。時刻はもう夜といっても差し支えのない時間だ。窓の外の風景も薄暗がりに飲まれている。
「いえ、そろそろ帰ります。親も心配するでしょうし」
話を提供してくれたお礼をして、僕は立ち上がった。二ノ宮雄太は「そうか」とだけ言って、続いて立ち上がる。
「もし何か考え付いたら教えてよ」
にやにや笑いを浮かべながら、彼の姉が言った。僕は「わかりました」とステレオタイプな返答をする。
それにしても。僕は脳内を回す。
問題は大きく分けて二つある。一つは本を買い、翌日に返本しに来た男子大学生について。もう一つは、僕の過去の意見を一蹴した籠の鳥について。
前者は僕にはもうどうしようもない問題であった。二ノ宮雄太の姉がわからないのであれば、僕のこの陳腐な脳細胞では、決して解を導くことはできないだろう。論理も想像も、僕をそこへたどり着かせてはくれない。
後者は、逆に僕の問題でもあった。僕は気になるのである。なぜ彼女が僕の意見を一蹴したのか。無論それは昨日の部室で彼女がそうした時から抱いている疑問ではあるが、今回の話を聞いて、僕は彼女が、二ノ宮雄太の姉が話したことを想定していたのではないかと思えてならない。そして、もしそうなのだとしたら、一体なにがその想定に至らせたのか。
脳内は、事態は、僕の中でのみ混迷を深める。それはまるでとっぷりと暮れていく一日の、暗闇のようでもあった。
次の日は少し学校へと早めに登校することにした。というよりかは、登校することを決めていた。僕には籠の鳥への報告の義務がある。
いや、寧ろ、僕が一刻も早く聞きたかっただけなのかもしれない。昨日生まれた様々な疑問。彼女ならば、それにきっちりとした解答を導き出してくれると信じていた。
学校へ向かう脚も、階段を上る脚も、自然と回転数が上がる。疲労など苦にならない。僕は早く彼女に会いたかった。
恐らくほとんどの生徒がその存在すら知らないのだろう新聞部室。その扉へ手をかけ、一気に引きあける。
無論施錠はされていなかった。
パイプ椅子に腰掛け、籠の鳥がゲームをしていた。上下二画面でプレイできる、携帯ゲーム機。しかし世代は一世代古い。一体どこで買って来たのだろうか。
僕が始業前にここへ来たことは、恐らくないだろう。それだのに彼女はまるで僕が来ることを予期していたかのように、全く驚く様子を見せなかった。視線は真っ直ぐにゲームの画面。言葉を発することも気配を揺らがすこともない。
ただ一言、「おはよう」とだけ呟いた。
「おはようございます」
「ちょっと待っててね。今いいところだから」
「なにやってんですか」
「テトリス、もうちょっとで、あ、ミスった、あ、あぁ!」
どうやら手違いの場所にブロックを落としてしまったらしかった。それで一気にやる気が落ちたのか、ぱたんとゲーム機を畳んで机の上へと置く。
「聞いて来てくれたんだね」
「わかるんですか」
「だって、そりゃね。珍しいじゃない。朝から来るなんてさ」
全然珍しさを感じていないような口調だった。僕はそれを指摘することはせずに、言葉を濁しながらパイプ椅子へと腰を下ろす。
「何を聞いたんだっけ、そうだ、仕事の経験を聞いて来てって言ったんだっけ」
「はい。話を聞いた限り、正社員で、数年はそこの仕事――大学生協の書籍部に所属しているみたいでした」
「じゃあ慣れてるんだね」
「でしょうね。バイトを統括してる、みたいな話もしてましたし。なんか、教科書を売る時は、それ専用の会場を作るみたいで。そういうときは学生のバイトを雇っているみたいですよ」
「ふぅん。それで」
当然他のことも聞いているのでしょう、とでもいうふうな籠の鳥。僕は昨日必死で忘れまいとした会話の内容を、なるべく漏らさずに伝えていく。
購入したのは男性であること。会場内をきょろきょろしていたということ。二〇〇〇円の本を全部で五冊購入し、それを翌日返品しに来たということ。授業で使う教科書で、変更などがあったわけではないということ。教科書は今年から新しくなったらしく、知人から譲り受けた可能性は低いということ。純粋な勘違いと言う可能性もまた低いということ。
籠の鳥は一通り聞いて、「まぁそうでしょうね」と言った。それがあまりにもあっさりとした口調だったので、僕は思わず口を開く。
「え、それどういうことですか」
「どういうことって、なにが」
「知ってたんですか?」
「知ってたって何を。落ち着いてよ」
「だから、僕が聞いてきたことですよ」
「いや、知らないけど、なんとなくはそうじゃないかなぁって思ってはいたかな」
やはり彼女は、この情報を想定していたのだ。僕は先日の一蹴に関して得心が言ったが、しかし、ならば彼女はなぜその情報を想定するにいたったのか。
「そんな驚いた顔しないでよ。え、本当にわからないの?」
心底驚いたような顔をする籠の鳥。あまりに素直な反応に、僕は少しだけ心が痛む。いっそ馬鹿にしてくれたほうがよかったのに。
彼女がここまで驚くということは、彼女にとってはほぼ自明のことだったということだろうか。僕が出向いたのは、新しい情報の入手ではなく、単なる確認であったと。
「っていうか、大したことじゃないよ、こんなこと。事実は小説より奇なりなんていうけど、嘘っぱちだよ」
「……そうなんですか」
何一つわかっていない僕としては、そんなことを言われても困るというのが本音の部分だ。大したこともわからないような僕はどうすればいいのか。
「じゃあ一問一答形式で進めてこうか。まぁ、まだ時間もちょっとはあるみたいだし。
……じゃあまず一つ目。根本的なところからいこうか。『これは謎でしょうか?』」
これは、なぞ、でしょうか。
いまいち彼女の意図するところがわからないが、ここはこの会話をつづけていくのが無難だろう。思考を回す。
五冊の本を購入し、翌日にそれらを全て返品した。それは実に不可解であり、謎と言っても問題はないだろう。彼女が『謎』の定義をどういうものとしているのかは定かではないけれど、恐らく今はそのような言葉遊びをすべき場合ではないはずだ。
仮にそれが僕の主観的判断と言われても、そう思っているのは僕だけではない。二ノ宮雄太も、その姉も、一連の出来事を不可解なものとして捉えている。だからこれは客観的に見ても『謎』で間違いないはずだ。
「……『はい、これは謎です』」
「じゃあ、二つ目。『なんでこれは謎なのでしょうか?』」
なぜ、謎なのか。
そんなものは思考を俟たない。五冊の本を購入し、翌日にそれらを全て返品する。それが不可解な謎でなくて何なのか。
「『五冊の本を、次の日に返品するなんておかしいから』」
「本当に?」
返す刀で彼女は僕へと言葉を向ける。彼女の言葉は鋭利で、問答無用に容赦なく、僕の喉元へとつきつけてくる。
「それはきみの主観的な問題でしょう?」
「……『当事者である、僕の友人の姉が、謎であると思っていたから』」
「そうだね。それは間違いない。問題は問題化されなければ問題じゃないから。
じゃあ三つめ。『なぜ問題化されたのでしょうか?』」
「……『五冊の本を、次の日に返品するなんておかしいから』……?」
よくわからない。この問答の着陸地点を僕はまだ見つけることが出来ない。
先ほどと同じ返答を、しかし彼女は、今度は満足そうにうなずいて受け入れた。
「そう。当事者の人は『そう思った』。『不可解だ』、『変だ』、『謎』だ、と思った。
じゃあここで質問の雰囲気を変えるけど、四つ目、『前提に与えられていた情報が入れ替わっていることに草野は気付いている?』」
「え?」
思わず言葉が漏れた。どういうことだ。
「その様子じゃわかってないみたいだけど。まず草野、なんてこの話を聞いたんだっけ」
「本を買って、次の日に返品した人がいたって……」
そう、確かにそうだ。一昨日に本屋で二ノ宮雄太に出会って聞いたのだ、それは間違いない。
「でしょう?」
彼女はずい、とテーブルから身を乗り出し、僕の瞳を覗き込んでいた。色素の薄い彼女が僕の視界いっぱいに広がる。その気になれば、彼女の瞳に映り込んでいる僕の姿だって見ることが出来ただろう。
喋り疲れたのか、一拍置いてから傍らのスポーツドリンクへと手を伸ばす。それを勢いよく飲みほし、新たな一杯をまた注いだ。
「草野。最初にきみは私に言った。知人からもらっていらなくなったんじゃないか、とかなんとか。それは覚えているでしょ」
当然覚えているに決まっている。それを彼女が一蹴したからこそ、僕は始業の鐘が始まる前の部室にこうしているのだ。
「その時点では、草野はまだ『五冊全て返品した』ことを知らない」
「……あ?」
呆けた声が出る。確かにそれはその通りである。僕は「本を複数冊購入」して、「翌日に返品」したということしか聞いていない。何冊購入して、そのうち何冊を返品したということは、僕はその時点ではまだ知らないのである。
でも。
「だからといって、それが一体なんだって言うんですか。そのことを知っていたって、知っていなくたって、そんなに関係はないじゃないですか」
「じゃあたとえば」
すっと彼女は開いた掌を前に出した。ほっそりとした白い指が五本、僕の目の前に立っている。
そのうちの一本、親指が倒される。
「五冊買って、一冊返した。もし草野がそういう客に逢ったら、どう思う?」
「どう思うって言われても。間違ったんだな、とか、知り合いからもらったんだなって思うんじゃないですか。五冊買ったのは、友達の分も一緒に買ったから、って」
人差し指が倒される。
「二冊だったら?」
「まぁ、二冊でも、同じじゃないですかね」
中指が倒される。
「三冊だったら?」
「……微妙なところですけど。ちょっと変じゃないかな、って思いますね」
薬指。
「四冊は」
「不思議だと思います」
最後の小指が倒され、彼女は拳を握りしめる格好となった。
「五冊全部」
「そりゃ、まぁ、変ですよね」
「でしょうね」
そう言って、彼女はスポーツドリンクをまたも飲み干す。
「……どういうことなんですか」
「だからこういうことよ」
ふぅ、とため息をつく籠の鳥。まるで僕はできの悪い教え子だ。
「『間違ったんだな、とか、知り合いからもらったんだな』って思える程度のことが、正社員に問題化されると思う?」
ゆっくりと僕の脳内で、理解と言う名の扉が開いていく。
彼女はその間も語るのをやめない。
「草野は五冊すべてを返品したという情報が入っていなかった。最初はね。だからそういう考えに至った。それは当然のことだとは思う。けど、それは当然すぎる。普通すぎる。普通すぎることが問題化されるのは、理屈として間違っている。
逆説的に考えれば、問題化されるほど普通ではないことが起こっている。一冊や二冊程度じゃ、それが問題として扱われるには不十分。草野自身がそう言ったようにね。
これが入って日の浅いアルバイト程度ならわからない。けど、少なくともある程度のベテランがそう思うっていうことは、そういうこと。それは『その程度』ではないことなんだなって思う。だから、普通すぎる草野の意見は、私は間違っていると思った」
だから彼女は僕に、二ノ宮雄太の姉がそこでどれだけ働いているのかを聞いて来て欲しがったのだ。
聞いてしまえばなんと単純なことか。確かに、すぐに納得のいく答えを弾き出せそうな事件が、不可解な謎として伝聞されるはずもない。奇しくも僕がそうであったように、自分自身の中で答えを出し、納得してしまうはずだ。
そうでないということは、すぐに納得の答えが、誰にも出せなかったということに他ならない。そしてそのような不可解な出来事は、一冊二冊の返品ではないだろう。
もっと、より、不可解な出来事。
「じゃあ、なんなんですか。五冊全部返すような何かが、その人にはあったんですよね。先輩が僕の言ったことを一蹴した理由はわかりました。でも、じゃあ、なんでその人は五冊全部返すような変なことを?」
僕は知りたかった。それは実に主体的な、いわゆる好奇心と言うものであった。こんなにも主体的な行為に及んだのはいつ以来だろう。
彼女は苦笑しつつ、パイプ椅子を軋ませながら脚を組む。
「きみは私がなんでも知っているみたいに勘違いしているんじゃないの? 私は単なる新聞部部長で、そんなに期待されても困るんだけど」
余りの正論で、僕はようやく自分が熱くなっていたことを悟る。先輩の種明かしは聞いてみれば当然のことだ。純粋に先輩が冷静で、理性的であったということ以外に理由はない。
僕の意見を軽く一蹴して見せたからと言って、そのまま事実を知っていることにつながるわけではない。混同してしまえば失礼にあたる。
彼女はスポーツドリンクをさらに飲みほし、冷蔵庫から新たな二リットルのものを出した。キャップを外し、僕が見ているだけでも三杯目を注ぐ。
「私は推論しかできないからさ。それに……そうだね。謎は謎のままにしておくのがいいこともある。一体誰が殺したのか――『藪の中』を明らかにしたって浪漫が一つなくなるだけだよ。こうじゃないのかってのはあるけど、まぁ、私はあんまり気分が良くない感じ。それでも聞きたいなら、言うこと自体はかまわないけど」
舌を嫌な感じに出した彼女は、それきり何もしゃべらなくなった。スポーツドリンクに満たされたマグカップの中を覗き込んでいる。
二つの驚きがあった。まず、彼女が、いわゆる「真相」というものに指先を触れているという事実についての驚きである。
無論彼女の考えが、全て丸ごと十割正しいかと言われれば、それはわからない。もしかしたら全て丸ごと十割が見当違いということもありうる。だからこそ先ほど、彼女は「推論」という言葉を使ったのだろう。
理屈というものは正しい解答を導き出すのではない。間違っていない解答を導き出すものだ。そして間違っていないということは事実に即していることとイコールではない。言葉を渋るのは、そのような側面も強いと思われる。
驚きの二つ目は、彼女の中で導き出された答えに対し、彼女が「気分が良くない」と述べたことである。僕は彼女について多くを知らない。しかし、部室で共に過ごす中で、彼女は困惑をしたことや不機嫌になった事はあれど、不快感をあからさまに表現したことはなかった。
彼女は一体何に対して不快感を覚えたのか。そして、購入した本を全て返品するという出来事から、彼女は一体どのような結論を導き出したのか。それが気にならないと言えば嘘になった。
タイミング良くチャイムが鳴る。
鞄を背負って僕は立ち上がる。彼女――籠の鳥へと視線を移すと、それに気付いた彼女は苦笑して、
「折角注いじゃったからね。一応全部飲んでから行くよ」
と説明した。
何を言うべきか僕は一瞬悩むものの、とりあえず無難にそうですか、とだけ返事をしておくことにした。
扉を後ろ手に閉める。僕は彼女の所属学級を知らない。考えても無為なことなのだろう。
それよりも、現在頭の中を占拠しているのは、不可解な出来事についての納得のいく解答であった。それが正しいかどうかはともかくとし、間違っていない解答までは、彼女も導き出せたということになる。僕と同じ情報量しか持たない彼女が、である。
能力が違うのは理解している。恐らく僕はちゃんとした手順を踏んで思考することができない。少なくとも彼女レベルには。
ただ、そう、気になったのである。この主体性の芽生えは特筆すべきことであった。
一体彼女が何を不快に思ったのか。それを知ることは、とても有意義なことであるように思われた。籠の鳥、柚島雪歩。彼女にとって世界はどのように見えているのだろうか。
そしてある意味では、このような思考の回転は、とてつもなく無為なことであるようにも思われた。日常生活における路傍の石に思考を奪い取られるのである。これが無為なことでなくて何なのだろうか。
「まぁ、きっと答えは出ないんだろうな」
呟き、僕は階段を下りる。振り向いたら彼女が部室を出ている最中なのかもしれないなんて妄想しながら。
to be continued...
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2011/02/14(Mon)05:05:42 公開 / 上田0
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■作者からのメッセージ
解答編その1。
ロジックには細心の注意を払っておりますが、破綻、矛盾等あればご指摘よろしくお願いいたします。