- 『切り裂きジャックと最後の晩餐』 作者:翔太郎 / ミステリ ショート*2
-
全角6479文字
容量12958 bytes
原稿用紙約17.35枚
一八八八年八月三一日から十一月九日までの約二ヶ月間、イースト・エンドのホワイトチャペル周辺で連続娼婦殺人事件が発生する。犯人は切り裂きジャックと呼ばれ、事件が終わったにも係わらず未だ逮捕されていない――うん。全て筋書き通りだよ。おじいちゃん。
-
一八八八年十一月九日、倫敦(ロンドン)の空には雲一つ見当たらず。それを知ってか知らずか、数多の星々が自己主張をし始め、やがて夜の街はその輝きによって淡く照らされる。その美しさに心を潤される人々もこの街には少なからず存在しているわけだ。メアリー・ジェイン・ケリーもその一人で、わざわざ街灯が少なく人気の無い道を選び、いつも通り星を眺めながら帰宅していた。彼女は娼婦であった。別に借金が返せなくて仕方なくだとかそういうんじゃない。 楽して金を稼ぎたい。それだけだった。娼婦という仕事に抵抗を持った事はない。彼女は初めからそれを単なる一つの手段として認識していて、結局それを選んだ。仕事に娼婦を考慮するだけあって、顔も体も悪くない。結果彼女は娼婦として成功を収める事になったのだ。メアリー・ジェイン・ケリーとはそんな女だった。
彼女は現在家に向かっているわけなのだが、さっきまでゆっくりと星を眺めていたというのに、顔から血の気が引き蒼白になったかと思えば突然駆け出したんだ。その様子を見たところ、どうにも普通ではない事が窺える。トイレにでも行きたくなってしまったのだろうかと心配してやったが、よく見ると彼女を後ろから追いかけている人物の姿が確認でき、俺はようやく彼女の現状を把握した。彼女は必死な様子で駆けているようだが、段々距離が縮められているのが遠目でもよく分かる。このまま放っておけば直に捕まり殺されてしまう事だろう。だが、しかしだ。いや、別に女が殺される事に関してはどうでもいいのだが。しかし、一つだけ。俺には許せない事があった。
そいつは全身を黒いレインコートで覆い隠し、手にはナイフをちらつかせている、いかにもって感じの変質者だったわけだ。ああ、なんて無様な姿だろう。全く、呆れて言葉も出ない。それでは今から貴方を殺しますよと言っているようなものではないか。そりゃあ獲物にも逃げられるわけだ。それとも追いかけっこがしたいのか? 気が知れない。殺人はもっとスタイリッシュ且つクールに魅せなければ意味がないのだ。それを奴は分かっていないようだ。それではただの自慰行為と同じじゃないか。奴にそう言い聞かせてやりたいところだが……
「た、たすけて! たすけてください!」
ほら来た。
「あ、あ、あいつ! あいつに、殺されそうなの! おねがい! たすけてぇ!」
参ったな。まだあいつにどう説教垂れてやろうかと考えていた途中だというのに、この女は。俺に助けを乞うメアリー・ジェイン・ケリーを渋々抱き寄せ、いよいよ困ったチャンとの御対面となった。奴は俺と目が合うとすぐに立ち止まりナイフを此方に向けた。どうやら威嚇しているようだ。顔は大きなマスクで隠れていて目しか判別出来ないが、図体や息遣いからして確実に男だと分かる。それにしても、さっき走ったばかりだとはいえ呼吸が乱れすぎではないか?
「クソッ! ついてねぇな、クソッ! だがな、やってやるぞ! テメェも、その女も、まとめて、ブチ殺してやるッ!」
おいおい、冗談も大概にして欲しい。片手持ちだったナイフを両手持ちに変えながら男は吠えた。吠えたのだ。普通殺人中に犯人が大声を出すか? その上、大口を叩く割には中々襲ってくる気配がみえない。どういうつもりなんだ? はてさてどうしたものかと首を傾げてやると、男は両目を大きく見開き、また吠え始めた。まるでしつけのなっていない……
「な、なんだよ、俺はやるぞ! 本気だ、本気で殺すッ! 殺すぞぉ!」
その吠え面をなんとなく観察していると、俺は男に対してある確証を得たわけだ。今までの傾向を纏めるとこうだ。威嚇。呼吸の乱れ。ナイフの切っ先が定まっていない。現状維持を保とうとしている様子からかなりの根性無しと見える。その調子だと呼吸困難でそちらが先にくたばってしまうのでは、と思わせる程の焦りっぷりとくれば……そう。
こいつ、今日がハジメテなのだ。うん、でもね、残念だ。ハジメテはみんな痛いっていうじゃないか。初夜はみんな等しく処女ってわけさ。だからみんなそれに手を染めるのを恐れている。自分でも触れた事のない、触れようとも思わない、その膜を破るのはとても痛くて苦しい事だろう。そうだろうそうであろう。それをこの男は頑張って遂げようとした。恐らく念入りに計画を立てたのだろう。しかしソレでイクべきか否か最後まで悩んだはずだ。しかしお前はイケなかった。想定外な事態が起こった。俺が現れてしまったのだ。この状況をどう突破して良いか正しい判断が出来ない。だからとりあえず威嚇してみた。しかし効いている様子はみえない。
さァどうする!? ここで無様に尻尾巻いて逃げ出すか? 玉砕覚悟で正面から突っ切るか? ひたすら威嚇し続け俺が逃げ出すのを待つか? 自殺でもしてみるかァ? ああ、哀れよ哀れ。だが、それもこれも自分のセンスの無さが招いた事。正直殺人をシようなどと思うべきでは無かったのだ、この男は。殺人のセンスが無さ過ぎる。ハジメテだったから融通が利かなかった事は認めよう。だがな、そこで割り切るな。そこで終わるな。仕方ないでは済まされない。殺人は甘くない。唯一、この女に目を付けた事は褒めてやろう。だがな、その程度だ。出直せ三下!
よし、上手く頭の中で言いたい事が纏まったぞ。ついでに一昨日きやがれとも言ってやろう。コホンと一つ咳払いをしてみせ、さてこれから頭の中で渦巻いているこの鬱憤を晴らすべく、それを言葉として放とうとした時だ。
「そ、そうだ、俺は切り裂きジャック! 切り裂きジャックだぞ! 死にたくなけりゃ、そこに金置いて失せやがれぇ!」
はて、今のはなんだ? 幻聴か? 今この男が切り裂きジャックを名乗ったような気がしたのだけれど。
「聞こえなかったのかテメェ! もう一度言う、俺ぁ切り裂きジャックだぞ! さっさと言う通りにしろッ!」
ああ、まさか、気のせいではなかった――そう解った途端に俺の中の線のような物がいよいよ千切れるのを感じとる。真に纏まった。云うのではなく魅せるのだ。今までだってそうしてきたじゃないか。しかし彼は罪深いよ。如何せん阿呆過ぎたのだ。だからこそ俺を前に平然と息が出来ていたのだと、今気が付かせてくれたわけだ。なんと可笑しな事か、彼には殺人のセンスは皆無だが笑いのセンスは有る! 久しぶりに思い切り笑えるジョークを聞いてしまった。腹がよじれて死にそうだ、どうしてくれる! しかしメアリー・ジェイン・ケリーも俺を笑わせた張本人も、一人爆笑している俺の姿を見て呆気にとられているようだ。そりゃそうか、俺以外にこのジョークを笑える奴なんてそうはいない。
しかし機転は利いたなジャック君、金を置いて失せろとは。確かに本末転倒、三下の台詞ではあるが、素人が咄嗟に考え付いた逃げ口上としてはギリギリ合格ラインってところだろう。だけどな、そこで切り裂きジャックの名を出すのは頂けない。切り裂きジャックはいずれ伝説となる殺人鬼だ。それが女に金を出せって、ありえないでしょう。切り裂きジャックの神秘性は絶対でなければならないのだよ、ジャック君。
売春婦のみを標的とする倫敦の怪人は、ただの一度も失敗は許されない。何故なら彼は永遠に生き続けなければならないのだ。一人の人間としてではなく、一つの物語として。ああ、煌びやかに空を彩っていた星達は、どこからか姿を現した意地悪な雲の大群によって隠されてしまったよ。暗闇の中で俺の笑い声だけが一際目立っているようだった。そろそろ良い頃合いだという事だろう、ゆっくりと笑うのを止めてみせる。途端に目の前のジャック君は血走った両目を剥き出しにして怒号を浴びせてくる。まぁそう怯える事もあるまい、別に君を取って食らうわけではないんだ。必死に右往左往している君にホンモノを魅せてあげようと言っているんだよ。ホンモノ中のホンモノ、切り裂きジャックをリアルタイムでね。ただし一つ忠告はしておくけど、路上ライブはハジメテなんだ。だから加減が分からない。少し熱くなりすぎてしまうかもしれないけれど、そこは御了承願いたい。
それでは、世界中で最も稀な意味の在る殺人を御覧頂こう。
メアリを殺そうとしていたはずの自分、アーロン・コスミンスキーはこの異常な状況を把握出来ずにいた。今夜決行しようと決めたのは紛れも無く昨日の自分だったわけなのだが、当時の自分はまさかこんな事になるとは予想すらしていなかったに違いない。彼女を殺そうとしたキッカケは単純なもので、金を貢がされるだけ貢がされた挙句捨てられてしまったから、だ。その上彼女が売春婦だと知ったその時、彼女の事を本気で愛していた自分が馬鹿らしくなり、そして彼女を憎たらしくなり、殺しを決意したのだった。彼女の帰り道は分かっていた、後は一人になる頃合いに現れさっさと始末して終了。
のはずだった! しかしなんだこの状況は!? 彼女は殺せていないし、その原因である奴はさっきからずっと腹に手を当て大笑いしている! 自分が切り裂きジャックだと脅しを掛けてからずっとだ! もしかして恐怖で頭がおかしくなったのか? もしそうだとすればこれはチャンスなのかピンチなのか!? 見事なまでに冷静さを失っているのが自分自身分かってはいたのだが、それでもどう行動すればいいのか正直なところ判断に苦しんでいた。
奴の腕の中でメアリは困惑しているようだった。奴に対し小声で大丈夫かなどと呟いているようだが、奴はそれに全然気が付いていないようだった。その焦っているメアリの表情を見て、ニヤリとしている自分。ああ、ようやく理解した。現在優位なのは自分なのだと。少しずつ頭が冷静さを取り戻していく。奴は恐らく恐怖による錯乱状態。そう、今ならやれる! このまま一直線に駆け出し、メアリの額にこのナイフをズブリと一刺しで仕舞い。上手くやれば奴を犯人だと見立てる事だって出来そうだ。そうだ、それがいい、そうしよう! そうと決まると不意に笑みが零れた。一時はどうなる事かと思ったが、なんだ、なんとかなったじゃないか。ざまぁみろ。ナイフを再び片手に持ち替え、切っ先をメアリに合わせる。よし、いくぞ!
こうして自分がメアリへの第一歩を進めようとしたその時だ……周りの景色が一段と暗くなったのを感じた。
「な、なんだよ……?」
酷く敏感になってしまっているのだろう、歩みを止めてすぐにその原因を探し出す。そしてそれが空を覆った雲の所為だと分かると、安堵の表情を隠しきれないでいた。この雲の様子だと直に雨が降り出しそうだ。それの前兆だと言われている蛙の鳴き声も聞こえてきて…………
静かだ。何故だ。誰も喋っていないからだ。どういうことだ? 恐る恐る笑う事を止めた奴へと視線をやると、どうだろう、やはり奴は笑っていたのだ。声には出さなくなっただけで、口角を鋭く上げ自分を嘲笑っている表情。まさに笑顔そのものであったが、奴の眼だけは自分を笑ってはいなかった。まるで獲物を前にした獣の如く、その赤い瞳はアーロン・コスミンスキーをしっかりと捕えていたのだ。それを目の当たりにしてしまった自分は一気にその冷静さを失っていた。
「な、なっ、んだ、てめ、どっ、ど、どういう事なんだよ!? あぁ!?」
自分でもなにを言っているのかよくわからなかった。ただ、奴が自分を見ているというだけで、どうしようもない、この、不安。全てを見透かされているようなあの赤い瞳に観られる事が何よりも恐ろしかった。とうとうその場から逃げ出したくなった自分に、そうさせた張本人である奴はここにきて初めて、言葉を発したのだ。
「メアリー・ジェイン・ケリー、安心すると良い」
悪魔の囁きだ。まるでその口から闇を吐き出しているかのような、明らかな悪意。身を委ねては絶対に駄目だと今の自分でも分かった。
「今から俺が御前をタスケテあげよう」
しかしメアリはその言葉を聞くや否や、今までの疲れ切っていた表情と打って変わって、妖艶すら感じさせるその安心し切った表情になっていたのだ。
「君はこれをしっかり観ておくんだ」
そして、自分も。その言葉の前に自然と膝が折れる。表情が緩む。なにも考えられない。彼が何処からか取り出した刃物をメアリの首に突き付けていても尚、自分は彼に対して首を縦に振る事しか出来ないのだ。
殺人とは芸術だ。これこそ真の意味に値する。いつ、なにを、どう殺すかは勿論の事、誰が何故殺すのか、死因は、武器、状況、言葉、立ち位置、第三者、血、臓器、病、名前、住所、年齢、性格、仕事、今日食べた物、昨日食べた物、十年前に食べた物、明日食べる物、そういったあらゆる要素が噛み合えばその殺しはただの殺しでは無くなるわけだ。それ以外の目的で行われるただの殺しなんて所詮自己中心的な考えによって齎された紛い物に過ぎない。少なくとも切り裂きジャックはそう考えていた。
今回五人目の被害者となるメアリー・ジェイン・ケリーは喉を裂いておしまいのハズだったのだけれど、今夜はせっかくの初ライブなのだ。もっと贅沢に頂く事にしよう。ちなみに生まれてこの方音楽を嗜んだ事など一度も無いのだが、確か友人はヴァイオリンをこんな風に弾いていたような気がする。あんな物よりこの肉を引き千切る音色の方が何倍も心地良いがね。返り血がまるであの大喝采を浴びているようだ。
そうさ、俺は酔っていた。この素晴らしき最後の晩餐に。しかし決して終わる事のない、切り裂きジャック最後の殺人に。ああ、久しぶりの演奏なんだ。どうか、最後まで聴いていってくれ!
と言いたいところだったが……どうにも熱が入りすぎてしまったようである。気が付くと周りは土砂降りの大雨だったわけで、せっかくの飾りが全て洗い流されてしまった後だったのだ。なんと勿体無い事か。もう少しあの快楽を堪能しておきたかったのだけれど、さっさと帰れと言わんばかりの豪雨だ。おとなしく引き上げる事にする。本来の目的は達成しているわけだし、これ以上筆を進める必要は無いのだけれど。しかし、ああ、なんとも口惜しい。今更嘆こうが喚こうが仕方のない事だとは解っているのだけれど、ああ、これで本当におしまいなのか。だが、今回ばかりは割り切ろうと思っている。それがルールである以上、天下の切り裂きジャック様もそれまでだ。終点は迎えた。さぁ帰ろう。明日から切り裂きジャックの活動は無期限停止。代わりに今から七六年後、俺の息子が活動を開始する予定だ。其方を楽しみにしていると良い。其処のジャック君もね。
「ま、まて……」
そうそうジャック君と言えば! 俺がせっかく鑑賞を許したっていうのに、それをなんと吐瀉物を垂れ流しながら観ていたのだ。最近の英国紳士とやらはマナーがなっていない証拠だな。食事もロクに出来ないとなれば女王もさぞかし御嘆きになられるであろうよ。で、この俺を呼び止めて何のつもりか。
「あ、あんた、まさか……!」
今更か。まぁそういえば名乗ってはいなかったなと俺も今更それに気付く。というより俺は誰かに切り裂きジャックですと名乗った事など一度も無かったわけで、そもそもこの切り裂きジャックとは本名では無いわけであって――いや、この物語にそれは不要か。切り裂きジャックを仮初として生きる人間などなんの価値も無ければ興味も湧かない。切り裂きジャックは切り裂きジャックだからこそ物語として完結する。人は別に真実を求めているわけではない。
まるで冒頭に登場したメアリー・ジェイン・ケリーのように彼の顔面は蒼白く変化していった。ああ、結局最後まで君は駄目人間だったな。
「嗚呼、切り裂きジャックだ。そういえば君も切り裂きジャックだったかな?」
そして時計の針は零を示した。
世界の筋書き通りに切り裂きジャックは始まり――静かに終わりを告げるのだ。
-
2010/11/29(Mon)18:31:00 公開 / 翔太郎
■この作品の著作権は翔太郎さんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
今回初投稿ということで早速「切り裂きジャックが主役の物語を短編で収めてみよう」をコンセプトに執筆を試みてみました。
切り裂きジャック自体ありふれた題材ではありますが、彼の神秘性にはやはり浪漫を感じてしまう方もいるのではないかな、と思います。
彼は何故六人目の被害者を出さなかったのか、そこから妄想を膨らまし独自の切り裂きジャックを描いていきました。
内容はかなり暗いものになってしまいました。万人受けとは程遠いなぁと反省しています。
あと作中では詳しく語られていない要素が幾つかあって、それを謎として推理する、という程では無いかもしれないけど、そういった要素を敢て残してみました。どうなんでしょう。
世界中に数多く存在する彼の物語の一つとして、楽しんで頂ければ幸いです。