- 『姉弟』 作者:塚原弓子 / 未分類 未分類
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全角9229.5文字
容量18459 bytes
原稿用紙約27.7枚
夕日が眩しいビルの屋上に、女が二人いた。片方の女は、柵を背にして、じりじりと後ずさっている。呼吸が荒く、Tシャツには汗が染みこみ、下着が透けて見えていた。
秋子は、女の有様を見て口元をゆがめる。
「あんたはこれから、人を殺した罪に耐え切れずに自殺するの。それで、クソじじいの遺産は、全部、アタシがもらうわけね」
と言って、果物ナイフを構えた。刃を収めていたキャップがコンクリートに着地して乾いた音をたてた。秋子は、足元に転がるキャップを、女に向けて蹴り飛ばした。
「飛び降りるのと落ちるの、どっちが好き?」
女との距離をどんどん縮めていく秋子。女は、逃げ道を探してみて、諦める。階下へと続く扉は、秋子の背中のはるか向こうにあった。『もうどうにでもなれ』そう思うのが速いか、女は駆け出した。
一瞬なにが起こったのか判らない。
女は焦点のあわない目で空を見上げていた。一人だけ地震にあっているのかと思うほど、体が震えている。
地上で鈍い音が聞こえたのは、ほんの数秒後。重量のあるものが落下した、響きの悪い、嫌な音だった。
たぶん、耳の中にするりと蛇が入り込んできて、鼓膜をじわじわと締め上げ――ブチン、と潰してしまったら、同じ音がする。
十五階建てのビルから落ちたそれは、かなりの勢いで地面に叩きつけられただろう。
「わたしは遺産なんていらなかったのに。姉さんが一緒にいてくれたら、それでよかった」涙を流す女。
ビルから落ちたのは秋子だった。女の渾身の体当たりでバランスを崩した秋子は、怒りに身を任せ、女を刺し殺そうとした。だが、体当たりをしたきり、うつ伏せに突っ伏してしまった女につまずき、柵をはるかに越えて、身投げするようにして落ちていった。
しばらくして、パトカーだか救急車だかのサイレンが聞こえてきた。それに合わせるように、十年近く前にヒットした歌が、流れはじめる。
ラララ、ララ……。
アキコがビデオの停止ボタンを押すと、画面は砂嵐なった。
「川原秋子の最後がこれか」
約十年前の自分は、若い、という以外に何も変わっていないように見えた。アキコは、ビデオデッキから取り出したテープを、どこへともなく投げ飛ばした。
テープは、ベランダへと続くガラス戸に命中した。そこには風通しのいい大穴ができた。せっかく効かせていた冷房の冷気は、夏の夜の蒸し暑さに飲み込まれていく。
アキコはいまだに独身で、『バツ』さえ無いことが寂しく思えてしまう年齢に差し掛かっていた。
アキコが経験した恋なんて、片手で数えられるほどだ。そんなだから、好きだった演劇と心中することを心に決め、夜学を卒業した二十二歳で上京し、小劇団に入った。しばらくして、小さな役をまかせられるようになった。他所のオーディションにも出かけていき、良い返事をもらえるようになっていった。三十一歳で二時間ドラマの犯人役が決まった。時間はかけたが順調にキャリアを積んできていた。これからどんどん仕事が増えるだろうと、アキコは思っていた。
体調の悪い日が続くようになったのは、ドラマの撮影が終わって間もなくだった。医者に相談したら軽い鬱だといわれた。その数日後、父親のヨシロウが交通事故で急死した。
アキコは、実家に帰ることを決めた。
「痛ッ」
割れたガラスを片付けていると指を切った。アキコの人差し指からつたわる血が、透明だったガラスを赤く染めてゆく。
アキコが目を覚ましたのは、ほとんど昼になろうかという時刻だった。あんまり寝すぎる娘を起しにきたヒロエの悲鳴が目覚ましになった。
割れたガラス戸。点々と染み付いている血。死んだように壁にもたれている娘。空き巣や強盗、ストーカー殺人なんていう言葉もヒロエは思い浮かべた。幸いというべきなのか、パトカーと救急車が呼ばれる前に、アキコは目を覚ました。
「ガラスが急に割れて、片付けてたら、手、切っちゃったし、いつのまにか眠っちゃったのね」五割ほどしか中身のないアキコの説明にヒロエは首をかしげたが、そういうことで良いのね、と思った。
「下、降りてきなさいよ。消毒しなきゃ。ナツキ昼過ぎにはこっち着くそうだから、部屋もかたしちゃわないとね。ああ、顔も洗ってしゃきっとするのよ。カオリさんも義理の姉がそんなじゃガッカリしちゃうでしょ」快活にまくしたて、すたすたと一階に下りていく。
母に気を使わせてるように思え、アキコは情けない気持ちになった。今朝は、普段より自分が惨めに見えてしまうようだった。昨夜みた夢が幸福なものなら二度寝に逃げ込めたのに、生憎、そんな夢もみれなかった。それどころか、よけいに惨めな気持ちにさせる夢だった。
それは、はるか昔の記憶に寄生したように始まる夢で、アキコは夜学生時代の年恰好をしていた。
三つ編みにした長い髪が、背中で揺れていた。家路を少し早足になって歩くのは、母の作ったコロッケを食べたいからだ。
八百屋を右に曲がってすぐの家。玄関の引き戸に手をかけ「ただいま」と言って開ければ「おかえりなさい」とかえってくるありふれた家庭。
その日は、たまたま「ただいま」を言えなかった。
家に足を踏み入れた瞬間、アキコは殺されたのだから。
死にゆくアキコが見たのは、たたきに仁王立ちするウルトラマンだった。
『死因・スペシウム光線による爆死』
ナツキは、お面をつけて変身すると、十五コ年上の姉をバルタン星人に見立て、毎日三度は地球を救った。
アキコは、試験の前日や、生理痛でのたうち回っている時や、祖母の命日でさえ、スペシウム光線によって殺されなければならなかった。しかも、殺され方に少しでも惰性的な部分があれば、
「おねえ。もっとちゃんとやられてよお」と檄が飛ぶ。アキコの演技に、一番最初のダメだしをしたのはナツキだった。
年の離れたやんちゃな弟と遊んでやる姉。殺される役ばかりだけど、地球を守って誇らしそうにしている弟を見るのは好きだった。
インタビューをされるようなことがあって、『川原さんが役者になろうと思ったきっかけはなんですか?』と聞かれていたら、
「弟とウルトラマンごっこをしたのがきっかけですね」と答えたかった。
二十年以上前の懐かしい思い出。ここらあたりで目が覚めていればよかった、とアキコは思う。セピア色に包まれて気持ちよく起きられるはずだった。それなのに……。
アキコは、いつものように、居間を駆け回るウルトラマンに攻撃されていた。ナツキが普段と違うことに気がついたのは、スペシウム光線をくらおうかというその時だ。ナツキは、ウルトラマンのお面を付けていなかった。見知らぬ男のお面をつけていた。
「ナツキ、そのお面なあに」
と、アキコは聞いたが、答えがかえってくるまで夢が待つことはなかった。アキコが「あっ、場面が変わる」と感づいた瞬間から肉体は三十一歳で、ドラマの撮影現場にいた。
果物ナイフを取り出すのは、目の前にいる奴を脅すため。刃を収めていたキャップがコンクリートに着地して、乾いた音をたてた。
もうすぐで私の撮影は終わる。これほど長くカメラを向けられたのは初めてだ。良い演技をすれば、もっともっと仕事がもらえるかもしれない。川原秋子を有名にできるかもしれない。
冷静にならなければいけないのに、溢れ出てくる興奮を押えるのはなかなかしんどくて、小心者なんだと思い知らされる。
次のセリフはよく覚えている『飛び降りるのと落ちるの、どっちが好き?』これでいいのだ。でも、口が動かないし、喉が響かない。肺から出ていくはずの空気が逆流してきたかのようで、息がつまる。足が震えだしそうだ。
私は、監督にも出演者にもばれないように、少しだけうつむいて、小さな深呼吸をした。呼吸が楽になった。足元にナイフのキャップが落ちていた。私は、それをおもいきり蹴飛ばした。台本には書かれていない動きだけど、問題はないと思った。演技に勢いをつける何かが必要だった。
キャップは、目の前に飛び出してきた男にぶつかった。
男は恥ずかしそうに笑ってうつむいた。色白な肌が、耳朶まで桃色に染まっていく。短く切りそろえた黒い髪と、肌の桃色が、初恋を結晶にしたようで美しかった。
私は、彼を助監督か、それに準ずるなにかなのだろうと思った。 台本を無視した私を注意するために立ちふさがったのだと。
「ごめんなさい。勝手してしまって」私は言った。
「いいんだよ」彼が言った。
「さあ。演技を続けて」
「初めから撮りなおさなくても、大丈夫なんですか」
彼は、ああ、と言うと、演技をうながし、私を見据えながら、一歩、二歩、三歩と後ずさっていった。
私は、彼に良い演技を見せたいと思った。彼に喜んでもらえたら、きっと素敵だ。桃色の肌は喜びに震えるだろう。黒髪は生気を吸い込んだかのように艶やかさを増すのだ。私は、それに触れる。
私は、残りのシーンを精一杯に演じた。でも彼が、
「すばらしい演技だったよ」と褒めてくれることはなかった。
彼は、偉そうにふんぞり返る監督と共に、ワインを飲んでいた。私には見向きもせず、グラスの液体を飲み干していく。もう打ち上げをしているのだろうか。私をのけ者にして。
頑張って演技した私に「ごくろうさま」の一声もないのだ。私だって見返りがほしいのに。桃色の肌に触れたいのに。
私は、手に持ったままだった小道具のナイフを、食い込むほどキツク握り締めると、彼の側へ歩いていった。
「何も知らないから、幸せでいられるのよ」
私の声に振り向いた彼の顔は、アルコールのせいか、紫色だった。ナイフを突き立てたのは冗談だ。彼がどんな反応をするのか見てみたかった。
刺さるなんて思わなかった。小道具のはずなのに、ナイフは彼の腹に深々と沈んでいった。皮膚はやぶれ、肉はきざまれ、臓器は壊れる。
慌てて引き抜いたら血がでた。ワインにそっくりの血だ。彼はひざまずき、倒れると、痙攣しはじめた。血を流す彼の口から、
「怨むからな」という音が漏れた気がした。
「わああああ!!!!!」私は叫ぶ。
そして十五階建てのビルから飛び降りて――目が覚めた。
アキコが一階に下りると、玄関を出ようとするヨシエがいた。
「パン粉切らしちゃって。すぐ戻ってくるわ」
買物に出かけるヨシエを見送りながら、ああ、今日はコロッケなんだ、とアキコは思う。アキコもナツキも、母の手作りコロッケが何よりの好物だった。
ヨシロウの命日であるこの日、東京からナツキが帰ってくる。
本来だったら長男であるナツキが、実家を継ぐのが望ましかったのかもしれない。だが、二十一歳の時、ヒロエの旧友が社長を勤める東京の出版社に就職し、それと同時に上京したナツキにとって、いまでは東京の方が住みよい街になっていた。
三年の交際をえて昨年結婚したカオリとの新居は、都心部から少々はずれていたが、会社との距離や家賃を考えてみての、最良の決断だろう。編集者という職は新人と呼ばれる時期をすぎていた。そろそろ子供がいてもいいな、とナツキは考えているかもしれない。
アキコが最後にナツキと会ったのは結婚式でだ。
豪勢な結婚式でないわりに、二百人以上の出席者がいた。ナツキの仕事柄のせいだろう。
父親が亡くなっていることもあり、親族の代表としてスピーチをしたアキコは、舞台で演技するのとはまた別の緊張感に、足が震えた。
アキコは事前に用意しておいたスピーチの原稿を、半分も読むことができなかった。頬に伝わる熱い雫に気づいた瞬間、嗚咽をこらえなければならなくなった。
ナツキが駆け寄っていき、アキコを抱きしめると、会場からは温かい拍手が送られた。
アキコはそのあとの結婚式がどういう風に進行されたのか、覚えていない。最後までぼーっと、来客者を眺めるだけだった。いろいろな年齢や身分の人間がいた中で、退屈して騒ぎ出した息子を、叩いて黙らせた母親だけが印象に残っていた。
アキコが顔を洗っていると電話が鳴った。タオルで顔を拭きながら音のほうへ向かう。
電話にでると聞きなれない女の声がした。
「いま○○市に入ったんで、もうすぐそちらに着きます」なにを言っているのか意味が判らず、アキコは沈黙してしまう。
「もしもし、義理母さん? カオリです。聞こえてますか」声の主がここまで言って、やっと、ナツキの嫁か、と理解した。
アキコはカオリが苦手だ。嫌いというわけではないし、小姑としていびってやろうなんて考えもない。折り目が正しく良いお嫁さんだな、と思う。ただ、
「ナツキはどうしたの」
「運転中です」
「ちょっとかわってよ」
「でも、危ないですから」
「ちょっとぐらい大丈夫よ」
「でも……」
アキコは、カオリのこういう所が好きになれなかった。『危ないですから』それは十分に判るけれど、ちょっとぐらいなら構わないじゃない。少し折り目がきつすぎるんじゃないの、と。
「じゃ、いいわ。母さんがコロッケ作って待ってるからって、言っといて」カオリが「はい」という頃には、受話器を置いた。
昨夜から続く不快感をカオリに向けて発散してしまったきがして、アキコは心の中で、ごめんなさい、と謝った。
買物から帰ってきたヒロエは庭を見てびっくりした。
埃まみれでよれよれになった汚いダンボール箱。はるか昔に数回だけ使われ、すでに空気の抜けきってしまったタイヤが切ない一輪車。なんの酔狂か知らないが、ヨシロウが買ってきた、小学校低学年の子供ほどの大きさがある、陶器でできた猿の置物――それらが所狭しと並んでいた。
腹の中にこれだけの物を無理やり詰め込まれていた物置は、いまでは洞窟のように口をあけ、四半世紀ぶりともなろう突然の空腹に戸惑っているようだ。
「あら。お帰りなさい」
物置から出て来たアキコは、埃と汗にまみれた顔を手でぬぐったが、かえって汚れてしまった。
田植えでもしたあとのような娘の有様に「いったいなにしてるの」と聞くタイミングを逃したヨシエは、
「甘納豆買ってきたけど、食べる」と言った。アキコは、あとでいいわ、ちょっと探し物があるの、と言って物置の奥へと戻っていった。
なにをそんな熱心に……変な子ね。
割れたガラスといい、目の前の光景といい、普段とは違うように見える娘を取り巻く気配に、ヒロエは少々の戸惑いを覚えた。でもそれは、父親の命日や、久しぶりに帰ってくる弟という、特別な日にある独特のものなんだと思って、深く考えるのをやめた。
アキコの探し物は、ヒロエが声をかけてから間もなく見つかった。すすけた灰色と、赤というには少々渋い色で作られたそれには、二つの黄色い目がついていた。
「やっぱりあったのね、ウルトラマン」
それは二十年以上前、ナツキがかぶり、アキコと遊んだお面だった。
アキコは、ウルトラマンの主題歌を口ずさんだ。ナツキに付き合って、ウルトラマンの放送を観ているうちに、自然と憶えていた。
ナツキは『りゅうせい』という部分がうまく発音できず『ゆうせい』と歌った。そのたびに、
「ちがうよ。りゅ。う。せ。い。でしょ」とアキコは言うのだが。
「うん。ゆ。う。せ。い。だよね」と返ってきた。
ピコン ピコン ピコン
アキコは、カラータイマーが点滅する音を聞いた気がした。ウルトラマンは三分しか地球にいられない。
アキコの瞳は、お面の下から出てきた古いノートをじっと見つめていた。触れたら崩れそうなノートを手に取り、パラパラとめくってみると、ノートと同じぐらい劣化の進んでいるポラロイド写真が出てきた。
お面以上に懐かしく、記憶の奥底にしまっておいたそれは、アキコを、癌の再発を知らされた患者のような気持ちにさせた。
アキコは、写真を挟んだままのノートを胸に抱えると、自分の部屋に向かって駆け出した。うす暗い物置からいきなり飛び出したので、表の光に一瞬目がくらんだ。猿の置物に足を引っ掛けてしまい、倒れた猿は砕けてゴミになったが、アキコには、関係ない。
階段にけつまずき転んだアキコは、肘をしたたか打ちつけた。
騒々しい物音を聞きつけて来たヒロエは、娘の表情を見て、ただ事ではない不安を感じた。
アキコは泣いていた。肘が痛くて泣いているのではなく、心のダムにひびが入り、そこから水が漏れていた。
埃と汗と涙。戦争中に子供を殺されてしまった母親のようなその様子は、ヒロエの心の中にあった爆弾の導火線に火をつけた。
「どうしたの?」「大丈夫?」こんな言葉をかけても意味がないことを、ヒロエは知っている。
アキコは自分の部屋へ向かう。部屋に入って、鍵をかけて、荒い呼吸を落ち着かせる。ノートを、化粧台の引き出しにしまった。
それから初めて、ウルトラマンのお面も持ってきていたことに気がついた。明るい部屋で見るそれは、ヒーローと言うよりも、悪の親玉という感じだった。
ナツキが四歳の頃、ウルトラマンは再放送で放送されていた。ナツキの一番好きな番組だったのだが、しばらくして最終回を迎えた。
それでも、いつもと同じ時間になるとテレビの前にナツキは座った。その瞳にウルトラマンが現れることはない。ナツキは四歳にして、人生の酸いの部分を味わった。アキコが、
「この前最終回だったでしょ。もうやらないのよ」と言っても意味はなく、
「ウルトラマンは自分の星に帰ったの」と言っても、ナツキは疲れるまで座った。
しばらくして、町内恒例の夏祭りがあった。いまだに元気を取り戻さないナツキを見かねたアキコは、
「好きなものなんでも買ってあげるわよ。お祭りいこ」と言って無理やり連れ出した。
自宅から歩いて五分もかからない近所の神社。テントの中で酒を酌み交わす大人達がいた。あんまりガラのよろしくない的屋のおじさん達がいた。両親と手をつないで歩く浴衣を着た女の子がいた。りんごあめをアリに献上してしまい涙を流す男の子と、もう一個かってやるから、という父親がいた。
鳥居に飾られた薄ぼんやりとした明かりを放つ提灯が、祭りが儚いものなんだと告げているようだった。
アキコは人ごみの中、ナツキを引っ張るようにして歩き回った。
「わたあめ食べる」
「いらない」
「金魚すくいする」
「しない」
「なにかほしいものない」
「ない」
ナツキの陰気さに、アキコはあきれた。引っ張られて歩くだけのナツキにうんざりし、もう帰ろうとして人ごみを抜けた。 その時、ナツキの歩みが急に止まった。
「ウルトラマン!!」突然叫ぶナツキに驚き、その視線の先を追ったアキコも、ウルトラマンを見つけた。
来たときとは反対側の入り口には、顔だけのウルトラマンをいくつもぶら下げている出店があった。
それほどこった作りの物ではなく、それぞれ違う顔をしていた。 ナツキは、一番上の右から三番目がほしいと言った。ねじり鉢巻の的屋のおじさんは、ナツキにお面を手渡すと、
「がっはっは。俺はバルタン星人だ」と言ってナツキをからかった。
ナツキは、スペシウム光線でニセバルタン星人をやっつけると、
「わたあめ食べたい」と言った。
その日から毎日、アキコはウルトラマンごっこに付き合わされた。時々うんざりしたが、ナツキの喜ぶ顔をみると、まあいっか、と思えた。
ナツキが小学校に上がり、お面で遊ばなくなると、ヒロエはゴミ箱に捨てた。それをアキコが拾い上げ、物置の奥にしまっておいた。
アキコは、息子を抱くかわりに、お面を抱きしめた。
当時十四歳だったアキコを、ヨシロウは抱いた。
その数ヵ月後、アキコの腹が目立ち始め、ヒロエが妊娠に気づいた。ヒロエは、相手は誰なんだと問い詰めることもなく、
「おろしなさい」とだけ言った。
ヨシエは、自分の亭主が犯した、あってはならない不貞に気づいていたのかもしれない。
部屋に閉じこもり、中学にも行かなくなっていたアキコは、家出をした。妊娠四ヶ月になっていた。行くあてはなかった。一日たたずに、陸橋の下で縮こまっているのを発見された。
泣きはらした顔は、妊娠という事実に臆した涙によるものなのか、「おろしなさい」という言葉にたいしての涙なのか、誰にもわからなかった。
六ヵ月後、ナツキが生まれた。ヒロエの母が産婆をつとめ、名付け親にもなった。
「こいつは俺とヒロエの子供として育てる」
ヨシロウの言葉に、アキコは、そうなんだ、としか思わなかった。
十五歳で妊娠して出産。父親は誰だか知れない。世間に洩れてはいけない秘密だと、ヨシロウが判断した。もっとも、本心は娘を手篭めにしたことを、秘密にしたかっただけなのかもしれない。
アキコは、産後の疲れで朦朧としていた中で、ただただ、自分の中から生まれた命を抱きしめることを幸せに感じていた。
アキコは、ナツキを抱いた写真を撮ってほしいと望んだ。ヨシロウとヒロエはそれを聞き入れなかった。この時、アキコは、幸せとは縁遠い人生になるかもしれないと思った。一日で、天国と地獄を行き来したようだった。
しょんぼりしていたアキコに声をかけたのは祖母だった。ヨシロウとヒロエの姿が見えない時をみはからい、写真を撮ってくれた。その写真をアキコに手渡しながら、祖母はこんなことを言った。
「世間様がきっとお前達を苦しめる。だから、絶対に内緒にしないといけないの。それでも、ナツキはアキコの中で育った命なんだから、きっと、息子として愛したくなるわ。そんな時にはね、この写真を見てグッと堪えるの。秘密がばれたら、この笑顔はなくなっちゃうんだって」
アキコはうなずいて、少しだけ強く、ナツキを抱きしめた。
「可愛い男の子ね」
祖母の言葉がうれしくてなって、アキコは、ふふ、と笑った。
ピンポーン ピンポーン ピンポーン
家のチャイムが三回鳴らされた。カラータイマーのようね、とアキコは思った。ウルトラマンが地球にいられるのは三分間。
ヒロエが駆け出していく足音が聞こえた。玄関の向こう側にはナツキがいるはずだ。鍵を開ければ入ってくるだろう。
「ただいま」と言って入ってくるのだろうか。
「久しぶりだね、母さん」とヒロエに言うのだろうか。
「姉さんはどこ」なんて聞くのだろうか。
アキコは、一度しまったノートを化粧台から取りだし、ポラロイド写真のナツキを見つめた。
「ほら、お母さんて言ってみて」
アキコは、部屋から出ると深呼吸をした。ナツキへの距離はどれくらいだろうか。右足から踏み出して、歩き始める。
――アキコが階段に足をかけた時だった。
「私達、赤ちゃんができたんです」という、カオリの弾んだ声が聞こえた。
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2010/11/27(Sat)20:17:19 公開 / 塚原弓子
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■作者からのメッセージ
読んでみてどうだったでしょうか?
感想を聞かせてくれると嬉しいです。
ええ、読んでくれた方、本当に感謝です!!