- 『雨女とドーナツ 修正版』 作者:江保場狂壱 / リアル・現代 恋愛小説
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原稿用紙約14.35枚
雨女である山田晴美と、俺の、奇妙だが、平凡な話を淡々と語る話。
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山田晴美は雨女であった。どこへいくにも雨が降ってイベントを台無しにする女。それが雨女だ。名前は晴なのに、雨女。名前負けしていると周囲に言われていた。生まれた日が梅雨の時期というのも、災いしたのかもしれない。
一度、鳥山石燕の画図百鬼夜行で雨女の絵を見たことがあるが、雨女を実物化したらこうなるだろうという容姿はしていた。
小学校の時から遠足や運動会はいつも雨になった。しとしととうっとうしくなるような小雨であった。不思議にどしゃぶりにはならなかった。もっともどしゃぶりなら諦めもつくが、小雨なのに中止になるのは納得がいかない。どうせならバケツをひっくり返すような景気のいい雨が降れば、マシであった。中止にならないのは学芸会くらいだった。晴美が風邪をこじらせて遠足を休むと雲ひとつない晴天になったので、彼女が雨女に決定付けられたのである。以降中学、高校と学校行事が雨で中止にならないよう、彼女は強制的に休まされていた。
しかし晴美はどこか変な女であった。どことなくピントがずれているのだ。いつも惚けているし、何を考えているのかわからない。人とも溶け合わないからさほど学校行事にも興味を示さず、絶えずそれしか楽しみがない生徒たちには敬遠されていた。それでいてイジメに遭っていないのは妖怪雨女の怒りを買い、旧約聖書のノアの箱舟が必要になるような雨が降るのを恐れたためだ。もしくは日本が沈没することを危惧したのかもしれない。俺はオカルトとかは嫌いなので、クラスメイトがこっくりさんを楽しんでいる姿を見ては軽蔑していた。
そんな晴美の唯一の好物がドーナツであった。穴の開いたドーナツ限定で、アンドーナツは論外であった。
俺は晴美の家の隣に住んでおり、今でも交友は続いている。もっともこいつの両親は仕事でいつも家を留守にしており、晴美の夕食はコンビに弁当か店屋物であった。それを不憫に思ったおふくろは毎日晴美にご飯を食べさせてあげているのだ。ただしこいつが感謝しているどうかは不明だが。一度小声でありがとうといったから、感謝はしているのだろう。
ある日おふくろが某ドーナツ屋のドーナツをお土産に買ってきた。それを晴美と一緒に食べろとおすそ分けに行った。
晴美のドーナツを見る目は異常であった。うっとりとドーナツを眺めるのが大好きなのであった。まるで聖母様のような自愛に満ちた笑みを浮かべていた。ケーキドーナツ、ポン・デ・リング、フレンチ・リングにイーストリング。よくもまあ飽きないもんだとドーナツに手をかければ露骨にこの女は嫌な顔をする。
わかりやすく例えれば般若だな。普段は無表情で能面みたいに顔の筋肉は動かさないくせに、オールドファッションに手をかけた瞬間、くわっと血走った目をむき出しにし、牙をむき出して威嚇するのである。さらに夜叉のように髪の毛が陽炎のように揺れるのだ。
どれを手にしようとそれは変わらず、結局俺は穴の開いてないイースト・シェルやパイ以外食べることができないのが日常だった。
以前うっかりエンゼルフレンチを食べてしまい、一週間は怨念の篭った目でにらまれ続け、辟易していた。慣れている俺だからまだいいが、あれを真正面から見たら魂を抜かれてもおかしくないほどの禍々しい目だ。クラスメイトは晴美は当時流行っていたこっくりさんにとりつかれたのではと、噂していたが、こいつの場合はドーナツだ。ドーナツに自我があるならこの女と話をしてやってもらいたいね。
ちなみにこいつはドーナツ以外の食べ物に興味がなく、晴美が俺の好きなおかずを残しても、「いらないからあげる」というくらいだ。給食のプリンを別の男子が横取したが眉ひとつ動かさなかった。ちなみに好き嫌いはなく、ドーナツだけに異常に愛情を示している。毎日のおやつはドーナツと決まっており、母親に材料を買わせ、自分で毎日作っては食べていた。そのくせ毎日歯磨きを欠かさないのである。虫歯になることを異様に恐れていたのだ。そして毎朝のジョギングと適度な運動は欠かさないのだ。肥満児になってドーナツが食べられなくなるのを避けるためである。
小学校のクラブ活動では迷うことなく料理倶楽部を選んだ。家でも作っているくせに学校でも作りたくなったようだ。
晴美はドーナツを作り続けた。ドーナツだけだ。クッキーとかケーキとか、他のものなどつくりやしない。担当の先生が毎回ドーナツを作り続けるので文句を言えば、ドーナツは私の命だといって無視する。注意するのが面倒くさくなったのか、まったく無視されるようになった。もしかしたら怨念の篭った目でにらまれたのかもしれない。あれは慣れていない人間が見たら腰を抜かすからだ。事実、担任の先生の頭に白いものが増え、実年齢より老けて見えたが、晴美がクラブに入ったあとで、晴美が卒業した後は肌の艶が戻ったそうだから、案外間違いではないだろう。
そのおかげか晴海の作るドーナツは店で買うものよりおいしいと評判だ。もっとも食わせるのは失敗作だけで、後は自分ひとりで食べていたが。失敗作は常に穴が開いてないのに限る。それでもおいしいのだから不思議である。
中学、高校と家庭科の時間では独断でドーナツを作り続けた。もっともドーナツに対する異常な情熱を除けばこの女は人並み以上の器量だし、学校の成績はよい。雨女であることを除けば人気者になってもおかしくなかった。しかしドーナツに対する偏執狂のせいで女子はおろか、男子では俺以外付き合うことはなかった。第一あの般若というか、野獣の攻撃寸前の顔を見たら千年の恋も靄の如く晴れてしまうだろう。もっとも写真部があいつの写真を盗撮して魔除けとして商売していると聞いた時はなるほどと思った。あれの顔ならどんな悪霊だって裸足で逃げ出すこと間違いなしだ。
実際付き合っているといっても彼氏ではない。教師やクラスメイトたちが敬遠しているので、俺を代理にすることが多いのだ。あいつは雨女の機嫌がわかるとか、雨女と心が通じ合っているとか勝手なことばかり言う。
あいつが不機嫌なときはドーナツが原因だ。機嫌を直すには某ドーナツ屋の新作ドーナツを与えれば一発で機嫌が直る。クラスの女子にそう言ったら本当に機嫌が直ったのでびっくりしたらしい。あいつの頭の中はドーナツしかないのだ。
俺はある日家庭科の先生に呼び出された。晴美が今度全国お菓子コンテストに出場することになり、ドーナツを作ることになったという。俺が呼び出されたのは晴美が自作のドーナツを食べないよう監視する役目を押し付けることだった。うちの学校は何の特色もない平凡な学校で、校長としては何か箔をつけたいのだろう。こいつのドーナツ作りの腕は天下一品だと思う。もっともほとんどじぶんで食べてしまうのが欠点だが。周りにドーナツを作る学校がいないことを祈るだけであった。
晴美は見事優勝した。しかし審査員が晴美のドーナツをおいしそうに頬張る姿を見て、晴美が狂犬のように凶暴な顔をカメラに撮られないようにするのは苦労したが。あれの顔が全国紙に載れば確実にうちの学校は呪われた学校と思われるからだ。
進路を決めるときは調理の専門学校を選んだと聞いたときは、ああやっぱりなと思った。あいつはドーナツを作るのが大好きで、ドーナツ屋に就職するために腕を磨くつもりだろう。高校生にもなると晴美は他人にドーナツを与えることに抵抗感がなくなってきた。まあ、就職する以上自分で作ったものを片っ端から食べるわけにはいかないからな。
俺は一度晴美に聞いてみた。どうしてドーナツにこだわるんだと。
俺は大学に進学するし、卒業したら離れ離れになるだろう。聞くなら今しかないと思った。おふくろが晴美のために買ってきたおからドーナツを手土産にして。案の定晴美ははじめて見るおからドーナツをうっとりと眺めており、聞き出すのに時間がかかった。
「あたしの胸ってぽっかり開いてるのよね。ドーナツみたいに」
いきなり何を言い出しやがるのかこの女は。
「あたしの胸がぽっかり開いてるから、雨が降るのよね。ドーナツみたいに穴が開いて晴れたらいいな」
胸がドーナツみたいに、穴が開いているのと、雨との因果関係がわからない。聞くんじゃなかったと俺は後悔した。
「あたしって親と一緒にいた記憶がほとんどないのよね」
晴美はそうつぶやいた。事実そうだった。晴美の両親は小学校の頃から今日に至るまで仕事で家を留守にしていた。実際のところ二人の仲は冷め切っており、二人とも愛人の家に入り浸っていた。そしてうっとうしい子供は金さえ与えておけばいいと、幼い晴美を放置していた。ただ母親が気まぐれに晴美に手作りのドーナツを与えたことが、この女の運命を変えたといっても過言ではなかった。うちのおふくろはクリスマスや正月、水族館やデパートに晴美を連れて行った。その日は雨が降ることがほとんどだが、お袋は雨が降っても平気な場所へ遊びに連れて行くのでそれなりに楽しめた。進路相談のときも自分の母親ではなくおふくろに相談したという。表情には出さないが、おふくろには懐いているようだ。俺もドーナツ以外はこの女はいい女だと思っている。
自分はこの世に望まれない子供だから雨が降るのだと。世界中の人間に嫌われるために神様が自分を雨女にしたのだと。晴美の瞳から真珠色の涙がこぼれた。人に罵倒されても、精神異常者と馬鹿にされても泣くどころか、感情が壊れているのでは?と疑った女が人並みに涙を流したのである。
俺は帰ろうと思ったが、晴美は俺の手を握った。
そしていきなり唇同士を合わせた。本当に突然だった。
「これからはあなたが私の穴をふさいでよね」
初めてのキスは生臭いと思った。どことなく晴美の身体にまとわり付蔭りが薄くなった気がした。
数年後、俺は地元の成人式に出席した。卒業してしばらく別れていた旧友たちと楽しく談話をしていると、そこに晴美がやってきた。あいつとはあの日以来会っていない。キスしただけなのに晴美が別人に変わった気がしたからだ。なんとなくきまずかったのだ。俺は大学に通うためにずっと実家に帰らなかった。休みの日は資格を取るのに勉強で忙しかったからだ。両親はリストラに遭い、家に帰ってきたらしい。今では地元で安月給で働いているそうだが、夫婦仲は回復したと言う。心なしか表情が晴れやかになった気がする。一応晴れ着を着ており、似合っていた。まるで瀬戸物の人形みたいであった。無機質ぽいのは高校時代から変わっていない。そういえば晴美が着ているのに雨が降らないことを周りの俺の学校の卒業生たちは不審に思っていた。
晴美はベビーカーに赤ん坊を乗せていた。ころころした玉のように丸い女の子であった。
「その子は?」
「あなたの子よ」
頭に稲妻が落ちるとしたらこんな感じだなと、俺はそのとき思った。しばらく頭の中がっぐちゃぐちゃになっていた。周りの旧友たちもドン引きしていた。
「うそ。あたしの弟よ。うちの両親ひさしぶりにハッスルして二人目を作っちゃったみたい。今では新婚時代並みにほやほやになったわ。第一キスだけで子どもができると思っているの?」
心臓が止まるかと思った。キスで妊娠するはずないのはわかっているが、この女の冗談は本当にしゃれにならない。しかしその表情はいたずら坊主がいたずらに成功して喜ぶような顔である。能面のように筋肉を動かさない笑いとは雲泥の差であった。
「でもあの時少しだけ穴が縮んだ気がしたわ」
そうかい、それはよかったな。
「お互い社会に出て、三十になったら結婚して子供がほしいな。いいでしょう」
この女突然俺にプロポーズをしやがった。
「いいでしょう?あなたのために毎日ドーナツを揚げてもいいわよ」
ねだる晴美は今まで見せたことのない、さわやかな笑みであった。あの日の出来事が晴美の心の隙間を埋めたのだろうか?俺にはよくわからないが、本人が納得しているのならいいだろう。というかまだドーナツ好きなのか。自分だけでなく、俺にもあげるというから、昔と比べると成長したと言えるだろう。
周りの、俺と晴美を知る人間は俺達に惜しみない拍手をくれた。もっともあの般若と一緒になるなんてなんて冒険者だろうだの、人生をドブに捨てたと散々なことを言ったが、余計なお世話だ。
俺は外を見た。
空は晴天であった。広い広い青色の絨毯に、真っ白な雲がひとつ浮かび、ぽっかりとドーナツのように穴が開いていた。
「子どもができたら、あなたが私の代わりにドーナツを揚げなさい」
命令口調かよ。こいつらしいといえば、こいつらしい。
終わり
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2010/12/07(Tue)19:23:12 公開 /
江保場狂壱
■この作品の著作権は
江保場狂壱さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
夢の中で見た話です。実際は雨女がドーナツが大好物ということしか記憶になく、それだけで執筆した作品です。
恋愛というわけでもなく、奇妙な女を主人公の一人称で淡々と語るといった構成です。雨女がなんでドーナツが好きなのか、それらはほとんど後付け設定なので、結構苦労しました。楽しんでいただけたら幸いです。