- 『透明になった課長』 作者:アリス / SF ショート*2
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全角4295.5文字
容量8591 bytes
原稿用紙約14枚
退屈な毎日に希望が持てずにいる、うだつのあがらない中年・田淵課長。そんな課長の日常に、ある日突然……!リアルな現代の日常にSFとブラックな笑いがほんのり混じった、さくっと読めるショートショートです。
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「はあ、今日から四月だな」
営業部の田淵正則は、小さなため息をつきながら、警備員に社員証を提示した。表情を変えない警備員の横を通り過ぎて、またため息をつく。
見慣れた灰色の廊下を歩きながら、窓の外に目を遣る。いつもと同じような朝。見慣れた池袋の喧噪。そんな景色を眺めながら、田淵は再びため息をついた。
平凡という名の地獄に突入してから、気付けば十数年が経っていた。面白くなる気配すら見せない仕事に追われ、とっくに愛情の薄れた妻と暮らしてきたこの無意味な年月を思うたびに、田淵はため息をつきたくなった。
沈んだ気持ちを無理やり追い払い、午後の会議やもうすぐ入社してくる新入社員の教育などについて考えているうちに、営業部に着いた。
腕時計は七時二十五分を指している。いつも通り、出社時間の八時には十分余裕を持って到着した。
――しかし。
「あっ、田淵課長」
「課長、おはようございます」
「おはよう、田淵」
ドアを開けると、そこには営業部の社員がほぼ全員揃っていて、既に各自デスクで何らかの作業を始めていた。
「お、おはよう……」
壁に掛かった時計を見ても、時刻はやはり七時二十五分。
田淵は首を傾げた。いつもなら、この時間はまだ二、三人しか人が来ていないはずなのに――。
「あ、あのさ」
田淵は近くのデスクに座っていた女子社員に声を掛けた。
「今日って、何かあるの? みんな早く来てるみたいだけど」
「え、今日ですか? 午後の会議以外は特に何も……。早く来てるのはたまたまじゃないですか?」
「……そうか……」
何となく腑に落ちないまま、田淵は自分のデスクについた。後ろの壁掛けカレンダーが三月のままになっていたので、一枚めくる。四月のページの上半分を彩る満開の桜の写真を見て、田淵はまたため息をついた。
「あーあ、今年も花見あるんだろうなあ……面倒くさいなあ」
ぶつぶつ言いながらも仕事に取りかかろうとした田淵の目に、ふと何かが映った。
いつもは最低限の書類や文房具しか置いていないデスクの上に、何か箱が置いてある。何だろう、と思って持ち上げてみると、箱の上から小さなメモが落ちた。
拾って読むと、「例の品です。是非お試しください」と乱雑な字で書かれていた。裏返してもそれ以上は何も書かれていない。
(うちの会社の新製品か?……いや、それなら俺が知らないはずがないし……)
田淵はこの奇妙な箱に少し興味を持った。
時計を見ると、まだ七時半を回ったところだった。
(――始業まではまだ時間があるな)
田淵は箱をそっと鞄にしまうと、さっき入ってきたばかりのドアを出た。
廊下を見回して誰もいない事を確認すると、使われていない会議室に入り、そっとドアを閉める。
早速箱を取り出すと、田淵はその蓋を開けた。
中に入っていたのは、分厚い説明書と、そして――。
「……首輪……?」
輪の形をしたそれは、田淵の手の中でぴかぴかと銀色に光っていた。よく見ると、スイッチのようなものが付いている。どうやら、何らかの装置のようだった。
付属の説明書を開くと、難しい言葉が小さいフォントで延々とページを埋め尽くしていた。少し閉口した田淵だったが、読み進めていくうちにその目は大きく見開かれていった。
『透明人間製出装置 trans』
説明書によると、この首輪を着けた人間は自分以外の人間からは姿が見えなくなるらしい。しかも――。
『前作の欠点である「吐き気」などの副作用をカバーし、さらにお客様のご希望にお答えして「声」に関する機能もプラスし、さらにパワーアップしたこの製品は――』
どうやら、自分の声も周囲に聞こえなくなるらしい。
「――そんなこと、ある訳ないじゃないか」
田淵は眉間に皺を寄せながら、さらに説明書の貢をめくった。
『首輪の内部から発信される微細な音波が着用者の声帯から発せられる振動に反応し――』
『――のはたらきにより、周囲の人間の死角を拡大し、それを利用することによって――』
やがて田淵は読むのをやめた。文系の彼は、物理だの化学だの、そういった分野を生理的に受け付けなかった。
「……透明人間、か」
金属質の光沢を放つ派手な装置を見つめながら、田淵はしばらく考え込んだ。そして、おもむろに首輪を両手に持ち直すと、自分の首に装着した。
馬鹿馬鹿しい、俺は何をやっているんだろう――。
そう思いながらも、気がつくと田淵の右手は小さなスイッチを探り当て、装置の電源を入れていた。ブイィン、と微かなモーター音が鳴る。しかし、いくら待ってもそれ以上の事は起きなかった。
「――ああ、そうか、他の人に見てもらわないと駄目なんだっけ」
田淵は会議室を出て、廊下を見回した。ちょうど、同僚の佐藤がこちらに向かって歩いてくるところだった。
「あ、佐藤」
声をかけようとして、田淵はふと我に返った。
(――待てよ、この首輪はインチキかもしれないんだ。だとしたら、職場の廊下でこんな首輪を着けていきなり現れるなんて、変態だと思われても仕方ないじゃないか――)
そんな事を考えているうちに、同僚はもう目の前に迫ってきていた。
口に溜まった唾を慌てて飲み込み、軽く咳払いをすると、田淵は思い切って声をかけた。
「……お、おい、佐藤」
緊張で声が裏返る。
佐藤が足を止め、田淵の方を向いた。
冷や汗が田淵の首筋を伝う。
「あ、あれ?……あ、いや、その……これはな、新しい健康器具で――」
「うーん、今日はラーメンにするか」
「……は?」
同僚は田淵を無視して、再び歩き始める。呆気にとられた田淵は、数秒後、はっとして自分の真後ろの壁を見た。第二会議室、と書かれたプレートの下には、「四月一日 今日の食堂menu」と書かれた紙が貼ってあった。
「ラーメンって……え、嘘だろ……?」
田淵は遠ざかっていく同僚をすぐに追いかけた。
「佐藤、おい佐藤! 俺の声が聞こえないのか? ていうか、見えるか? 俺のこと……」
いくら叫んでも、同僚は無反応だった。やがて、廊下の向こうから商品開発部のネームプレートをつけた女子社員がやってくる。
「あ、佐藤さん、おはようございます」
「おはよう、鈴木さん」
女子社員は笑顔で佐藤に挨拶をすると、田淵の横を通り過ぎた。
「……あ、あのさ、鈴木さん」
田淵は佐藤を追いかけるのをやめて、今度はその女子社員に声をかけた。
「あの、俺の声って聞こえてる? 聞こえてたらさ、返事してほしいんだけど」
商品開発の鈴木と言えば、人当たりが抜群に良く、しかもかなりの美人だと社内で評判だった。その鈴木が、年上である自分を無視するはずがないと田淵は思った。
しかし、彼女が田淵の声に反応することはついに無かった。
「……」
田淵は廊下の端で立ち止まり、考え込んだ。
かなり長い時間が経過した。
始業時間など、とっくに始まっていた。
やがてゆっくりと立ち上がると、田淵は無言で再び廊下を歩きだした。歩きながら、田淵の頭の中には、いつしか思い描いた「もしも透明人間になったらやりたいことリスト」が広がっていた。
* * *
昼休みの営業部は、田淵課長の大暴走の話題で爆笑の渦に包まれていた。
「いやいや、大人しい田淵がまさかあんな事をするとは」
田淵の同僚、佐藤は腹を抱えて笑っていた。
「部長のカツラ取って逃げるとか、普通クビだろ!」
「あれは傑作でしたね」
「部長、ぽかーんってしてたよな」
「っていうか、あいつ女子トイレ入ったって本当?」
「マジか! そりゃ、なかなかの変態性を秘めてるな」
「うん。まあ本当に、ちょこっと入っただけだけど。覗きも盗撮も何も無し」
「滞在時間、どう考えても十秒未満でしたよね」
まあ田淵らしいな、と再び笑いが起こる。
「っていうか、いくらエイプリルフールだからって俺たち本気出しすぎだろ」
笑いをこらえながら佐藤が言うと、周りから同意の声が上がる。
「あの首輪作るのに商品開発部とか製造部の人にも協力してもらったんですもんね」
「おいおい、それは知らなかったぞ」
「まさに社を挙げてのプロジェクトだな。ほら、あいつだよ、協力してくれたの」
佐藤が廊下側の窓の外に手を振ると、見目麗しい女子社員がガラス越しに手を振り返した。
「あれ、鈴木さんじゃん!」
「よく協力してくれたな、こんなしょうもない冗談に」
「っていうか、その社を挙げたプロジェクト≠フターゲットが課長って……」
誰かが苦笑交じりに呟いた。
「いやしかし、田淵のため息癖が治っただけでも良かったじゃないか」
「本当だ、そう言えば今日はほとんどため息ついてませんでしたね」
「むしろ子供みたいにはしゃいでいたな」
「……しっかしなあ」」
突然声のトーンを落とした佐藤に注目が集まる。
「あの根暗な田淵がこの悪戯に気付いたらどういう反応するんだろうな。ほら、普段おとなしい奴ほど、いったん吹っ切れると怖いっていうだろ?」
「うわ……なんか俺、怖くなってきたわ(笑)そろそろ種明かししようぜ」
「それもそうですね」
田淵を探そうと一同が腰を上げかけたその時、営業部の扉が勢い良く開いた。
全員が動きを止め、戸口に現れた人影に視線を向ける。
「――なんだ、秋吉か。そういえばお前、どこに行ってたんだ?」
「あ、それが、ちょっと田淵課長に絡まれてたんですけど……」
扉を開けた若い女子社員が、少し困った顔で俯いた。
「ははっ、お前もかよ。何か変なことされなかった?」
「いえ、特には。でもそれより、田淵課長が……」
女子社員の深刻な口調に一同は静まり返った。
「……え、何? どうしたの」
「課長、あの変な首輪つけたまま会社の外出ちゃったんです……」
「うっわ、マジかよ……」
「おいおいおい、あいつ本気で恥かくぞ」
「どこに行くかとか知らないの?」
一気に騒然となった営業部を、女子社員はおどおどと見回した。
「かなりはしゃいでる感じでぶつぶつ独り言を言ってました。ただ、何を言ってるのかは良く聞こえなかったんです。なんか、なんとか女子学園がどうとか、更衣室がどうとか言ってるのは聞こえたんですけど、それ以上は……」
解放されていた窓から、突如、ざあっと一陣の風が吹き込んだ。
静かな部屋の中で、田淵がめくっていった四月のカレンダーだけがぱらぱらと乾いた音を立てて風にそよいでいた。
End
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2010/11/25(Thu)22:10:04 公開 / アリス
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■作者からのメッセージ
某女子校の文化祭にも出品しました。そちらをご覧いただいた方、こちらは盗作ではなく本人が投稿したものなのでご安心を(笑)
楽しんでいただけたなら幸いです。