- 『白くはかない光』 作者:アイ / リアル・現代 ショート*2
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全角11053文字
容量22106 bytes
原稿用紙約30.8枚
高校時代に片思いをしていた野球部の彼は、画面越しでしか会えないプロ野球の期待のルーキーになっていた。
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携帯電話のいらない機能トップに君臨していたはずのワンセグが欲しいがために、わざわざ携帯を買い換えた。最新機種。ばか高い。ばかみたい。
手のひらサイズのちいさな画面で手のひらサイズの白球やスコア表がはたして見えるものかと思ったが存外にうつるので、最近の日本の電化製品ってやつぁ、とお約束どおりため息をついた。久志の背中にもたれながらワンセグ用におりたたんだ携帯を見つめていると、段差で自転車が一瞬ガクンと揺れ画面がブレる。三振の瞬間を見のがした。
私は幼なじみの運転手に文句をつけた。
「ちょっと、久志、あんまり段のあるとこ走んないでよ」
「たちの悪いクレーマーだな。現代日本の道路のほぼ全部がコンクリート敷きなだけありがたく思え」
荷台にうしろむきに座ってワンセグでプロ野球中継をながめる私と、その音声だけを聴きながらペダルを漕いでいるいる久志。自転車は薄暗い夜の住宅街をせっせと走り、実況アナウンサーと解説者の声を周囲に無差別にふりまく。比較的まちがいのない、しずかな夜。
試合はダイナソーズ対、我らがブルーラインズ。四回の表、アウェーのダイナソーズ自慢の三番バッターがブルーラインズの剛腕投手相手にファールを連発する。ねばるなねばるなさっさと打ちとられろ、と慟哭をくりかえす私の背中で久志がためいきをつく。
「今何回だっけ」「四回表だよ」「次の打席ってまだ大蔵じゃねえし」
私は頬をふくらませて、絶賛走行中の自転車の荷台で上半身だけ方向転換する。息せききって運転する久志の背中を携帯でちょいとつついた。みだれる前髪を薬指で耳のうしろにかける。
「あのねえ、優斗の前にいるのは松本と名取だよ? あいつらがぽんぽん打ってノーアウトのまま大蔵につないでくれればいいんだから。とにかく一点だよ。まず同点」
「素人はあっさり言ってくれるねえ」久志が額の汗をぬぐいながらあきれる。「そんなふうにうまくいったら全員が打率四割超えるって。ダイナソーズの先発、甘くみんなよ。期待の新人、マックス百五十二キロなんだからな」
「投球なんかいくら早くたってノーコンじゃ意味ない」
「美咲も思いかえすべきブルーラインズ泥沼時代への視点と解釈をいろいろミスってるよな」
ため息をつく久志。ふたり乗りの自転車は大通りに入り、車の往来が激しいなか歩行者道路をゆっくりとすすんでゆく。車が一台、すぐそばをとおりぬけた直後、ダイナソーズのバッターがセカンドゴロに倒れた。チェンジ。優斗の四人ぶん前のバッターからの攻撃だ。私と久志は歓喜の声をあげ、実況アナウンサーが「さて、この状況をどうきりかえていくのか、四回の表が終了しましたクライマックスシリーズファイナルステージ、ブルーラインズ対ダイナソーズの第二戦、四対三、我らがブルーラインズはわずかに一点ビハインドです」と熱のこもった声で叫ぶ。
風はまだあたたかい。が、ペナントレースは日本シリーズ出場をかけてのデスマッチとなってきた。セリーグ制覇をはたし、残り試合数もわずかとなってきたブルーラインズにとって数年ぶりの日本一をかけた戦いだ。
自宅の前に着く。私は自転車の荷台から飛び降りて「送ってくれてありがとう」と久志に笑いかけた。
「いや、悪かったな。無理やり誘ったあげく、こんな時間まで酒につきあわせて」
「いいよ、久しぶりにみんなと飲むの楽しかったし、まだ四回だもん。あとはテレビでじっくり見ることにするよ。試合は逃げない」
私は風でみだれた髪型を直しながら言った。久志は少しだけ笑って「風邪ひくなよ」と私の頭を優しく撫でた。一瞬顔をしかめ、だけど私はにへらと笑う。冗談のようなぬくもりが、今は粉雪のようにはかない。
細い路地を走りさってゆく自転車の背中を見送って、私はヒールを脱ぎ捨てて家の中へ突撃した。「おかあさんおかあさん優斗が出るよ今四回裏っ」娘の帰りを待って鍋の火をとめていた母が台所であきれたようすで笑う。大きなハイビジョンのテレビにかじりつくと、ちょうどワンアウト一塁で三人目のバッターがピッチャー強襲ライナーをはなつところだった。一気に三塁まで走るランナーと一塁どまりのバッター。私は黄色い声をあげて狂喜乱舞した。テレビのむこうの観客がいちように同じヒッティングマーチを歌う。足元からふわふわと浮いてしまうような高揚感。
ウグイス嬢の呼び声に誘われるようにバッターボックスに現れた優斗を見て、私は思わずテレビの前に正座をしてしまう。はっきりうかがえない表情の奥に、かたときも忘れなかったまっすぐな瞳が見える。ライトに一瞬きらりとかがやく、ヘルメットのブルーラインズのロゴマーク。
いつものように左手の中でくるりとバットをまわし、それで右肩をちょんと叩く不思議な動作が、私の目にはあまりにも非現実だったけれど強烈なリアリティをもって網膜を蹂躙する。確かに正面から向きあっているけれど、強烈な隔たりがあることもまた確かで。私はちいさな粒子の壁がまぶしくて、そっと目を細めた。
高校三年生のとき、同じクラスにいた唯一の野球部員が優斗だった。
甲子園に出ることは毎年あってもなぜか優勝歴はない、そんな微妙かつなんともよろこびがたい経歴を持つ野球部で、その実力を認められ早期からバッターボックス入りをゆるされた稀少なアベレージヒッターだった。ホームランを量産するタイプではないが必要とされる場面で完璧なバントをほどこし、計算高くくまれた外野の前進守備を鼻で笑うかのように長打をはなつ。まるでパズルのピースをくむようにそのときのニーズに応じたヒットを打つ力が高く評価され、その年、悲願の甲子園スタメン出場をはたしていた。
絶滅の危惧が叫ばれてひさしい草食系女子、影から見守るタイプ、告白の勇気なんてスズメの涙ほどもない典型的な文学少女だった私は、彼とクラス内でよく話すことはあっても恋愛関係に発展する可能性を永久に失って現在にいたる。
「優斗くんは、どうしてそんなにバントの練習ばっかりするの?」
全力でふりかぶって一年生の投げたボールを遠くへ飛ばすばかりの同学年の選手たちの脇で、ちまちまとバント練習をしていたのが優斗だった。聴くところによると一日千回のバントをくりかえしているらしい。腰がやられないか、というかそれにつきあわされる下級生が哀れだ、と思っていた私は練習後にそうたずねた。
すると優斗は笑うのだ。楽しそうに、「必要なときに確実にバントできないとプロにはなれねえよ」と言いながら。ひとがやるよりずっと多くの地味な練習を積み重ねてこそ、本番でしっかり打てるのだと。
そのときからすでに優斗はプロをこころざしていた。少なからずもっともドラフト指名が期待された部員だったし、本人もその声にこたえるため、そしてそれ以上に己の野望に忠実にしたがいプロの目にかなおうとトレーニングを積んでいた。そのための千回バンドなのだ。素人目には信じられない。
だけどそれがすべてだったのだ。余計な理屈は捨ててしまう。己を信じて誰よりも多く地味なバント練習をする優斗が好きだと自覚し、なにもかもを知ろうとし、だけどなにもかもを知らないままだった。
思えば私は本当に頭の中が文学少女だったのだ。予選のときは朝からお弁当を作って持っていったが試合後、部員や監督がいっせいに近所のファミレスになだれていってしまい、お弁当を渡す空気ではなくなり家に持って帰って涙ながらに食べた。バレンタインに手紙をこっそり渡そうと思えば、靴箱にこれでもかと詰めこまれたラブレターやチョコの包みに気後れして渡せずじまい。そうして甲子園準決勝敗退が決まったときも気がきく言葉のひとつもかけられず、メアドも交換せず、結局、ドラフト三位でブルーラインズに入団した優斗を見送って四年がたった。今も何もできずに、言えずにいる。
大学生になった私と四年目の優斗をへだてるテレビ画面。すでに一軍にのしあがってベテランにまじり六番の位置におさまっている彼は、毎日ワンセグ越しに私が試合を見ているなどおそらく知らないだろう。たまに話しかけるていどの交流しかなかったかつてのクラスメイトなど、名前すら覚えていないかも知れない。応援団の声をBGMに、千回のバント練習は嘘ではなかったと証明するヒットを重ね、着実に打率を伸ばしている。すでに無邪気な高校生の姿は薄れ、その他大勢と同じ、しかし誰とも違うプロのまなざしをしていた。
「美咲、今日はデイゲームなんだ?」
ぼけらーと大学の中庭にあるベンチでブルーラインズの試合を見ていると、久志と夏実が教室棟のほうからひょこひょこ歩いてきた。午前中の授業はすべて終わってしまった土曜日の昼さがり。携帯の画面をのぞきこんで「勝ってるじゃん」とよろこぶ夏実の顔を手でさえぎる。
「あいかわらず、いとしの大蔵選手は打ってるかい」
「夏実、おちょくりに来たんだったらもうちょっとひねりのある言葉でもって圧倒させてよね、凡庸すぎる」
「たしかに美咲目線では凡庸かもね」夏実は私のとなりにどっかり座ってじつに楽しそうに笑う。「初恋の相手が非凡のドラフト三位だなんてファンタジーすぎるよ」
「むしろそのファンタジーを夏実が知らなかったっていうほうが不思議。夏実と美咲、二年からのつきあいだろ?」となりで久志が苦笑する。
優斗への恋心を夏実に話したのはつい昨日のことである。昨夜、夏実と久志その他もろもろで近所のスポーツバーにおもむき、ブルーラインズの試合をテレビで見ながらビールをかわしていた。永久にかなわなかった私の片思いの相手と店内に設置してあるテレビのむこうでまさに打たんとしているバッターが同一人物だと久志がぽろっと口にして、友人いちどうから詰問された。ブルーラインズファンなら誰もが期待する高卒ルーキーだ。世界は狭い同じ丸いただひとつだと痛感した彼女たちはいっさい空気を読まず、路傍の砂粒から一気にお立ち台にひっぱりつれられた私をもちあげ、アナログ放送のむこうで二塁打をかました優斗を黄色い声で応援していた。
「ミーハーめ」
「だって今どきレアすぎる。そりゃ大蔵もあのルックスだしあの打率だし、高校時代がどんなか知らないけどやっぱすごいバッターだったんだなと思う。ファンも多かったと思うけど、そこであきらめちゃう美咲がすごい文系」
「でも、別に野球部のアイドルを彼氏にしてみんなからうらやましがられたかったとかそんなんじゃないし」
「知ってるよ、千本バントでしょ? 時代錯誤の一目ぼれごちそうさま」
なんてことをつらつら話していると手元の画面から歓声がひときわおおきく響く。ガールズトークを傍観していた久志が「打ったぞ」と声をかけた。私たち三人の視線がシングルヒットを放った五番打者に集中する。場内アナウンスが「六番、ショート、大蔵」と告げる。未婚のイケメン高卒バッターを誰もが見逃すわけがなく、女性ファンからの歓声やハート模様のプラカードがめだつめだつ。私はぐっと唇を噛み、バットを回して右肩を叩く儀式を終えた優斗をじっと見つめた。ちいさい画面の中でするどい眼光をピッチャーに一途にむける彼は、ただチームに貢献する一打だけを狙っていた。それだけを純粋に追い求める、左利きの彼。
私は久志と夏実に挟まれて、震える手で携帯のボリュームを大きくした。
久志にじっと見つめられ、つづいて「どんだけ大蔵好きなんだよ」とつっこまれた。たははと笑う私の心中など知るよしもなく、優斗が三球目でライト前ヒットを放った。私と夏実は飛びあがってよろこび、久志は苦笑まじりにため息をついていた。天然芝の上をワンバウンド、ツーバウンドしてゆく白球が、なめらかな曲線をえがく。
告白したことがあった。
いや、正確を期すならば「告白まがい」かも知れない。
放課後の日も暮れた時分、重いスポーツバッグを背負って帰路につく優斗を追いかけて呼び止め、一緒に帰ったことがあった。そんな恋愛小説のワンシーンのような経験はあとにも先にもたった一度だけである。他愛もない話をしていたが、私は何をトチ狂ったか数秒の沈黙のあと、「あの」と声をかけた。今しかチャンスはないと思っていたからこそ、何も考えずにすんなりと言葉をつむぐことができた。
告白の言葉は「好き」だった。
そのときすでにブルーラインズが彼の交渉権を獲得し、世間でも期待のルーキー大蔵優斗の名をとりあげて騒がれていて、彼も心身ともに疲れていただろうに横からそんな発言をしたものだから、優斗はぽかんと馬鹿面さげて私を見おろしていた。あ、やばい、と思ったときはとっくに手遅れで、やっぱり帳消しにしようとした私の耳に、優斗の声がするりとなめらかに、流れる水のようにとどいた。
「何が?」と。
誰が、ではなかった。
最大瞬間風速的になけなしの勇気がしぼんでしまい、私は数秒逡巡したのち、アリの鳴くような声で「ブルーラインズが」と答えていた。何言ってんだトンチキ馬鹿、と思うより早く優斗が本当に、心の底から楽しそうに頬をゆるませた。
「美咲はブルーラインズのファンなのか! ちょうどよかったな、これからも美咲に応援してもらえるわけだ。ファンでもない球団に入って見はなされるよりずっといいもんな。ありがとう、美咲」
よほど嬉しかったのか私の両手をとって縦にぶんぶんふりまわす優斗に、関節が痛い、と抗議するどころか返事のひとつも言えず無言で逃奔し、自室で枕をしとどに泣き濡らしたのだった。
それが彼と言葉をかわした最後だった。
言葉は、とどかない。
はじめから負け試合だと分かっていてもやってみないと分からない、そんな綺麗事が横行していても、結果が負け試合ならばそれは純然たる負け試合に他ならない。こちらがいくら勝つ気でのぞんでも、相手が自分のことをみじんも恋愛対象として見ていなければ、友達Aとして舞台に君臨しているのなら、それは敗戦なのだ。たった一言のありきたりな告白の言葉ですら、それがいくら百五十キロを超える剛速球でもミットにはまらなければただの暴投。
たったひとことですら。
幻影をうつす場所にひたすら言葉を投げつづけても、大学生になってワンセグ越しに彼を応援する現在が物語るように、卒業以来まったく会わないなどという状況にいたってしまえばそれは、ちがうのだ。
ブルーラインズが二勝して同点のまま挑んだCS第四戦、突然の不調、まさかの二十三対八という超絶ウルトラ大逆転負け、嘘か誠か誰もが一瞬頬をつねってしまう非情な現実が待っていた。ダイナソーズに王手がかかる。まがりなりにもセリーグ制覇を果たしたチームの失点数では、ない。
「どうしよう久志! 昨日、ライナー取ろうとしてすっころんでそのまま担架で運ばれてたし、このままじゃ優斗、また来季絶望とか言われる!」
「またっていうか、あれは今年のはじめに骨折して一瞬言われてただけだって。腹打ったぐらいじゃ倒れねえよ二十二歳なのに」
そう電話口でえんえんと久志相手に泣きついたこともあった。それほど、二十三失点は重かった。ドッキリなんじゃないかと思ったほどだ。
「大丈夫だって、優斗はそんなひょろいやつじゃなかっただろ? 俺もお前もあいつとずっと小中高同じだったし、分からないはずないだろうが」
そんな久志の言葉がいちばん説得力があった。半泣きになる私の心を優しくなぐさめてくれる。
スポーツ新聞も過剰にかきたて十二人連続安打の引き金となったブルーラインズの抑えのピッチャーを批判し、朝のスポーツニュースでは元プロ野球選手のおじさんがたがほうとため息をつきながらけだるげに解説をする。もはや一刻の猶予も仮病も夜逃げも許されぬ背水の陣。優勝ラインとにらみっこしていたころとはもう違うが、たった一戦負ければシーズン終了という場面になるとさすがに緊張感が違う。彼らは土壇場に弱い。マジック一がついていながら五連敗したことだってあるのだ。
優斗のチームが、負ける。それはこの四年間で何度もあったが、じんわりと手のひらが汗ばむのは止められない。悔しさで噛みしめた奥歯が折れそうになる。
私はがむしゃらに勝利を信じた。テレビの前でひたすら祈っていた。
なにもかもすべて、とっさについた「ブルーラインズが好き」という優斗への嘘を真実に逆転させるためだった。野球のルールは知っているがプロ野球には興味がなかったいち女子高生が瞬時ににわかブルーラインズファンになり、私はこの四年間ひたすらに優斗を応援していた。ユニフォームや応援用のメガホンを買い、球場に足を運び、覚えたての応援歌を歌った。
「美咲はブルーラインズのファンなのか! これからも美咲に応援してもらえるわけだ」
プロ野球なんて見たこともない私にかけられた、予想もしなかったその言葉。心底うれしそうだったあの笑顔。少年のような無邪気さとこれからプロの仲間入りをする喜びにみちていた。その笑顔を切り裂くことはできなくて、素直になることを許せなくて。すっかりいちブルーラインズファンになった今でも。
まじりけのない、見なれた白球を追いかける。
もう届かない永遠の片思いなのだと痛いほど、分かっている。だからこそ、今でもテレビ越しに二度と会えない彼の勇姿を追っている。見守ることしかできず、ただ一途に彼の活躍を願って。
「美咲! 置いてくよ!」
背後から呼ばれてふりむくより早く首根っこを夏実につかまれた。そのままずるずると校外へひきずられ、野球ファン仲間とともに大学の近くにあるブルーラインズファン御用達のスポーツバーに拉致される。ダイナソーズに王手がかかりCSが佳境にさしかかると、私たちのテンションも地すべりか土砂崩れのようにさがってゆく一方だ。
「今日負けたらブルーラインズ、今シーズン終わっちゃうんだからね! 死ぬ気で応援しないと三月まで毎日が葬式すぎる」
夏実が両手で顔をおおっておいおいと泣く真似をする。どうにもフォローに困った私はダイジョーブ、開幕戦黒星だった年は優勝する確率が高いって福元さんがゆってたし、と肩をすくめて言ってみた。
鬱憤の吹きだまりのようにバーの隅、テレビが一番よく見える特等席に群れをなした私たちは、飲まにゃやってられっかと言わんばかりに酒、酒、酒のエンドレス、アルコール臭と狂気をはらんだ熱血応援をかます。CS第五戦、負けたらすべてが終わる。終わってたまるか。なんでもいいから終わるなこんちくしょう! そんな殺意まじりの応援歌か怒号か皆目分からぬ声にこたえ、一回表に犠牲フライで隅一を食らったが五回裏にホームランで二点をとり逆転。すぐ六回表にソロを打たれ同点に追いつかれるも、ラッキーセブンで優斗がライトスタンドにツーランを打ちこみ勝ち越しの二点を追加。侍の刀のようにふりかぶられたバットの先から飛び出す弾丸を最後まで見送ることなく、私は立ちあがって叫んだ。右腕を回しながら笑顔でダイヤモンドを疾走する優斗がまぶしくて、立ちくらみがしそうになった。
全打点がホームランというファン歓喜の空中戦はブルーラインズの勝利で飾られた。これで互いに王手だ。足踏みと応援メガホンの音が勝利の三三七拍子をかなでる。
「放送席、放送席!」アナウンサーの声が球場に響いてヒーローインタビューがはじまる。最初のツーランを打った選手と、七回に勝ち越しホームランを打った優斗が、ボックス席前にしつらえられたお立ち台にあがっていた。私は歓声を浴びてファンに手をふる優斗を見るにつけ、顔が一気に熱くなり涙があふれそうになった。汗まみれで笑うかつての初恋の人を、にじんだ視界で見つめていた。
「美咲の王子様、久しぶりだね!」
夏実が茶化したが返事ができない。心臓が別の生き物になったように激しく波打つ。
一人目のインタビューが終わり、「そして見事な勝ち越しツーランを放った大蔵選手、お見事でした!」とアナウンサーが優斗にマイクを向ける。彼は少し頭をさげて「ありがとうございました」と応じる。
「三浦選手の盗塁でワンナウト二塁、同点というあの場面で大蔵選手、どのようなお気持ちでバッターボックスに立ったんでしょうか」「そうですねあのー、とにかくダイナソーズに王手がかかった今の状態で、しかもランナーがいてるのなら自分が打たないといけないと思いまして。せっかく巡ってきたチャンスなので、チームの勝利に貢献できてよかったです」
ヒーローインタビューのあいだ、女性ファンの黄色い声が飛ぶ。甘いルックスと確かな実力で人気急上昇中の若手だ、当然だろう。高校のときからむくわれない片思いを続けている自分もどうかと思うが。
何も知らないままでいたらよかったと、四年前から思っていたが。
「そして大蔵選手、先日、ついにご成婚なされたそうで! おめでとうございます!」
――できればあんまり聴きたくなかったその事実。
私の心中など知らぬ他の客は大盛りあがりだ。祝福の大喝采がテレビの砂嵐にしか聴こえない。私は球場のファンとこのスポーツバーに集まるファンがいちように、純粋に優斗の結婚をよろこんでいるその空気を吸うことができず、うまく息ができず、すとんと椅子に腰をおとした。テレビのむこうではまだ歓声が渦をまいている。
思っていたほど冷静だったが、そう自覚できないほどには冷静でなかった。気がつけば私は鞄をひっつかんでバーを飛びだし、一目散に暗い住宅街を走りぬけた。ワンピースの裾がカーテンのようにひるがえる。初秋の涼しい風が私の髪を優しく撫でてゆく。もうシーズンも終わりだ。
何も考えずに、走った。走ることだけに集中した。ヒールが折れたような音がしたが、気にならなかった。両足を交互に前に出していくことだけが、まるでこの瞬間の生きがいであるかのように、走った。
嘘だ、なんて、死んでも口にしない。
そうすればきっと、何もかもを失ってしまうだろうから。
だけどここで「彼が決めたことだから」「私はしょせん文学少女だったから」と無理やり納得してしまっても、これまで何年もかかえていた甘く切ないふわふわとした気持ちがすべて無に帰してしまいそうで。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
一瞬は彼の元にかけだそうとしたが、やがて自分のおかれた立場を思い出して少しずつ、自分に泣くことを科そうとした。
「美咲!」
背中から怒号が響き、間をおかず腕をつかまれる。久志は慣性の法則にしたがって前につんのめる私の上半身を抱きかかえ、耳元で叫ぶ。
「そうじゃないだろ!」と。
私はふりかえって金切り声をあげた。
「何、なんなの!? 久志に分かるわけないじゃん、名前も覚えてもらってるか怪しいのに五年もずっと片思いしてる女の気持ちなんてさ! 一途にひとりの男を思いつづけるけなげな自分が好きなだけだろとか、人気プレイヤーの仲間入りしたから惜しいことしたと思ってんだろとかいろいろ言われても、それでもずっとこのままでいたかった。このまま優斗のことを思ったまま死んでもいいんだ。一生むくわれなくたっていい、それでも私が優斗を好きだったっていうことは今この瞬間だって一ミクロンも変わらない!」
「分かるに決まってんだろ!」
優斗が私の声をさえぎるように叫んだ。私は驚いて肩をふるわせ、涙でじんわりとにじむ視界で久志を見あげた。彼は私の右腕をつかんだまま、悲哀に満ちた、けれど優しいまなざしをしていた。
月日が嘘すらもおおい隠し、真っ白な暗闇の中で呼吸ができずにもがいている。
「分かるに決まってんだろ」
彼の目は私をとらえて離さない。
「告白したんだろ」
「うん」
あれを告白と言うのかどうか分からないけれど。
「それで、勘違いされたんだよな」
「うん」
「それでも告白したんだよな」
「うん」
「じゃあ間違いはない。間違ってない。美咲の思いは、美咲が思ってるとおりのままだ」
ぽろりと涙がひと粒、頬を伝って顎から地面に落ちた。何も言えなかった。もし君がここにいてくれたらどう言うだろうかと思った。
とどかなかった言葉は、暴投になったボールは、ちがうのだと思っていた。
だが野球ファンはみな言う。――見のがし三振より空ぶり三振のほうがいい、と。
久志は顔をふせ、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。「まちがってない、まちがってないんだよ」と。くりかえし、くりかえし。
どれだけ長いあいだそうしていたのか、しばらくすると夏実が探しにきてくれた。住宅街のど真ん中で見つめあう私たちを勘違いしてからかい、つづいて「勝ったからさ」と言ってポケットをまさぐった。
「これは払い戻しにならずにすむってことだから、三人で久しぶりに観戦に行こうよ」
夏実の手ににぎられていたのは、CSファイナルステージ第六戦のチケットだった。
ブルーラインズ本拠地の球場へは電車を二度乗りつげば行ける立地で、私たち三人はそろいもそろってユニフォームとキャップと応援メガホンをしたがえてやってきた。第六戦。同点の現在、勝ったほうが日本一決定戦への切符を手にすることとなる。
一回の裏、いきなりブルーラインズが一点を先取し波に乗るも、三回の表にダイナソーズに二点を奪われた。一点ビハインドのままむかえた八回裏、四番バッターがソロホームランを放って同点に追いつく。ここから私たちはいっせいに立ちあがり回の終わりまで座ることがなかった。五番バッターが先のホームランにつづいて長打を打ち、ワンアウト二塁で優斗に打席がまわってきた。
「六番、セカンド、大蔵」今シーズン最大の期待株のコールと共に、場内が大歓声に包まれる。私はメガホンを叩きならして彼の名を呼んだ。球場の強烈なライトに照らされるユニフォーム姿の優斗。年棒一億円プレイヤーのプロにまじってチームの優勝のために戦う、初恋の相手。
何もとどかないと分かっていながら、私は優斗の姿をじっと見つめていた。何度も空振りやファールをくりかえす彼から、一度たりとも視線を離すまいと。
三打席目の第七球目、優斗がとらえた白球はレフトスタンドに突き刺さった。ダイヤモンドを一周する優斗に最大限の賛辞が送られる。私は久志と夏実とともにメガホンを叩きあいながら、顔の筋肉がひきつるほど笑っていた。
試合は優斗のホームランが決勝打となり、四対二でブルーラインズが日本シリーズ出場権を獲得した。怒涛の嵐のような大歓声の中で、決勝打を放った優斗のヒーローインタビューが行われる。私たちは三人で肩を組み、優斗のいつもどおりの真剣な声に耳をかたむける。
「今日の勝利はすべて、支えてくれたチームメイト、監督、コーチ、ファンのみなさん、そして先日籍をいれた妻がいてくれたからです。本当にありがとうございます!」
祝福の大蔵コールの中、帽子を脱いで無数のフラッシュにこたえる優斗。芝生に反射するライトが彼をとらえ、まるで世界一の場所に君臨する神のように見えた。何も知らないままの賢者。
私は球団歌をみんなで歌いながら、サインボールを客席に投げこむ優斗の無邪気で笑顔を、子供みたい、と笑いながら見ていた。
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2010/10/30(Sat)00:20:03 公開 / アイ
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■作者からのメッセージ
こんにちは。アイです。
ハンカチ王子こと祐ちゃんがどこに行くかで盛りあがっていたドラフト会議の結果をぼんやり見ていたら3秒ぐらいで思いついた話です。
1時間ぐらいでがーっと書きました。
かけた時間が短ければ完成度もきっと低いだろう、と思いつつとりあえず1回は必要に迫られて推敲しました(笑)。
架空の球団を用いたつもりでしたが、身内びいきなのかどうしても阪神タイガースの映像が脳内で再生されてしまう……。
みなさまのご贔屓の球団でご想像くださいませませ(笑)。