- 『文字喰い少年』 作者:あけがらす。 / ファンタジー リアル・現代
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全角3448.5文字
容量6897 bytes
原稿用紙約9.65枚
それは、生きていくためにアップルパイを食べるのと同じ理屈。僕は、息をするために、言葉を食べた。
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ひょい、と『ドップラー効果』をひとつつまんで、僕はくちゃくちゃとそれを口の中で転がした。湿気たプラスチックの味、雨上がりの濡れたゴムの味がする。噛んでも味やビタミンの出るものではなさそうなので、もう一度それを一噛みすると、ぺいっと惜しみなく吐き出した。こんなものを消化しても、まともな台詞にならないだろう、と思いながら。
「あんたはそうやって、言葉を噛み捨てるのが好きだな」ショボショボと情けなさそうに消えてゆく『ドップラー効果』を眺めながら、幼馴染の黒ウサギはクックと笑って呟いた。
「よくもまあ、飽きずにそう口にできるものだ」
「百粒イチゴがあったら、一粒くらい甘くたっていいだろう?」僕はそう応えると、足元に群れを成して行進している小さな『ハ行』を一掴み、コーンフレークのようにザラザラッと口の中にまた放り込む。これは何度も食べているので味を知っている筈なのだが、全体的に渋く、劣化した茶葉を食べている気分になることにどうしても顔をしかめずにはいられない。しばらく『ハ行』は、突然自分達にまとわりつく唾液と粘膜に驚いていたようだった、が、やがて状況に慣れてきたのか、好き勝手に言葉として合併し始めた。歯茎の隙間に『パブ』が挟まる。『父母』が仲良さげにスキップをする。舌の上でヒとビが手をつなぐと、『罅』という小難しい漢字になってザルザルと突起を生やし、渋味を惜しむことなく撒き散らしながら震えだした。不味い!
僕は口の中に指を突っ込み、『罅』を取り出すと「一刻も早く消えちまえ!」という感想と共に放り出した。黒ずんだ色がアスファルトに紛れて見えなくなる。
「ほれ見ろ、きっと美味い言葉なんて見つからないんだ」
黒ウサギは僕が言葉を噛んだように、クセの強いハーブの臭いがする煙草を、口をすぼめて吸い込んだ。「煙草や酒のほうがよっぽど味を楽しむには効率が良いよ。あんた、ブラックジャックの途中で『ブタ』とか『パンデモニウム』とか吐き出されてみろ、こっちはたまんないんだぜ」
「悪かったな」でも、と僕は黒ウサギに食って掛かった。「美味い言葉なんてものはこの世の全ての言葉を消化しないとわからないだろ。それに、」
僕はヒとビが家出した、不完全な『ハ行』を今一度噛み直しながら続けた。歯茎の隙間でまだ『パブ』がもさもさと足掻いている。「それに、俺は言葉が好きなんだ。美味いかどうかは別にして、愛してるから」
「……歪んだ愛だな」黒ウサギはそう言うと、口から零れ出す煙草の煙を風と中和させた。
十一月の柔らかい風が、頬に冷たくぶつかるとそのまま何処かへたなびいてゆく。あの風は何処から来たのだろう、と僕は風を目で追いながら考えた。あれはひょっとしたら、七月に僕の家の扇風機から生まれた風かもしれない。もしくは、将棋の盤上を暴れ回った猫の尻尾が原因かもしれない。とりあえずその風を『愛』と形容することにして、僕はさっき自分の口から吐き出された言葉の中からやさしく『愛』を助け出すと、口に含んだ。無味無臭。
どうやらさっきの僕の『愛』は、しなびた涙なんかに言うような、軽々しくて薄っぺらいもののようだ。意味を違えた言葉は特に使うこともないのだが、選り好みはしていられないのでそのまま噛みくだした。ふにゃりとしたクレープのように、そのまま『愛』は胃の中に落ちてゆく。
黒ウサギはその様子に理不尽なくらい黒い瞳を細めると、しばらく何も言わずに煙草の煙をプカプカさせていた。もしかしたら、彼も愛が欲しかったのかもしれない。
最初に食べた言葉は『Thanks』だった。仄かに太陽の色を隠したそいつは、ゆっくりと……アプリコットなんかより比べ物にならないくらいゆっくりと……僕の喉を通ってゆき、それよりももっとゆっくりと、胃袋でフカフカしていた。ほんの少しだけ丸みを帯びた『Thanks』は、きっと温厚な性格なのだろう。性格どころか、そのもの自体が温厚だとでもいうように、呑み込んだときに僕の食道をほんのりと暖めていったのを覚えている。
そいつが何処から来たのかは、今でもわからない。サハラ砂漠からかもしれないし、マサチューセッツの食堂からかもしれなかった。ただとりあえず、僕が今まで食べた中で一番美味しかったことを覚えている。言葉を言葉で表現することはできないから、僕は今になってもその味を表現できない。が、ただとりあえず、美味しかったのだ。
それからだったのかもしれない。僕が言葉を食べ続けたのは。
それからだったのかもしれない。僕を言葉が抱きしめたのは。
不意に、黒ウサギは僕のほうへ向かって道端を歩いていた『シュレディンガー』を投げてよこした。「ほらよ。お前、こういう珍しいやつ好きだろ」
「お。……確かに、見慣れない言葉だな」サンキュ、と短く口笛を吹くと、僕は『シュレディンガー』をつまんで、無遠慮にジロジロと眺め回した。初めて見る言葉だ。ほのかにジンジャークッキーの匂いがする『シュレディンガー』は、しっぽを触られているのが気に入らないのか、僕の手の先で空気をたくさん含んだ悲鳴を上げて暴れ回っている。彼女の細く鋭い爪が、カリリと小さな傷を手の甲に作った。隣で、黒ウサギが、「案外凶暴なんだな」と面白そうにその様子を眺めていた。
「……全くだ」僕も言った。ジンジンとした鈍い、プラスチックのような痛みが手の甲から振動してくる。彼女の未熟な目が、陽の光を受けてしばたいていた。「美味そうだが、こんな風にして口の中で暴れられたらもう二度と文字が食えなくなってしまいそうだな」
『シュレディンガー』は相変わらず牙を剥いて手足を乱暴に振り回し続けている。味見程度に舐めることすら躊躇われ、地面にそっと『シュレディンガー』を逃がしてやった。柔らかいしっぽの感触が一瞬指先に触れ、またすぐに離れてゆく。彼女は水溜りに二つの濁点が濡れるのも構わずに、ジンジャークッキーの匂いだけ残してあっという間に僕のもとから去っていった。なんだか素っ気ない。
「あれが百粒目かもしれなかったのに」黒ウサギは『シュレディンガー』の行方を目で追いながら呟いた。
「何、百一粒目を探すさ」僕は黒ウサギに応えると、チューインガムのようにだらしなく噛み続けていた『ハ行』をぐっ、と呑み込んだ。これもそんなに美味くないが、なにしろ僕には栄養が必要なのだ。僕が口を開く度に言葉はやたらと浪費されるのだから、僕は相当な量の言葉を食べてゆかねばならない。それは他の生き物にも共通の筈なのに、なぜかせっせと取り込んでいるのは僕だけだった。
きっと、他の人たち(勿論、黒ウサギも含めて)は、大人になったら使い古して手垢のついた言葉しか喋れなくなるのだろう。僕はそんなの御免だ。腐ったドブのような言葉を一生ボテボテと溢し続けるなんて。そんな大人なんかに、僕は絶対なりたくない。
遠くで教会の鐘が午後二時を告げる。神を信じる生き物が少なくなっているというのに、彼は僕が生まれた時よりもずっと、ずっと前から、これが俺の仕事だとでも言わんばかりに鈍い金属の声で吼えている。「……二時、か」黒ウサギが、見えもしない教会の方向に目を細めると、そう呟いた。
「もうそろそろ出発しないか?」黒ウサギはすっくとベンチから立ち上がると、グレーのスーツケースを握り直した。「次のフライトに間に合わなくなるぞ」
「……そうだな」僕も自分のスーツケースを持つと、黒ウサギに続く。ヴェネチア。水の都という幻想的な異名を持つその都市は、その迷路のような運河に人魚というものを抱えている。僕が大好きな生き物のひとつだ。
「久々のヴェネチアだ。楽しみだな」
「ああ」
「金に余裕もあるし、人魚のゴンドラに乗ろうぜ」
「それはダメだ。今度のは魔女の遊覧飛行に使うんだよ」
「ちぇっ」
「……とりあえずまあ、飛行機が落っこちないことを祈ろう」
「機内食はミートボールかな」
「俺は鮭のマリネに賭けるよ」
「一回だって当たったこと無いくせに」
「あんたこそ」
「俺が期待してるのが、食後のコーヒーだけだからかな」僕は胸元を飛んでゆく、誰かの口から出たてなのであろう『キャンディー』を手のひらで静かに受け止めながら言った。「知ってるか?あの湯気からほんの時々出てくる言葉、すごく美味いんだ」
「知ってる」黒ウサギも言った。「食ったことはないけど、それくらい予想はつくよ。なんたって、俺は六月生まれのウサギだからな」
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■作者からのメッセージ
初めまして。拙い作品ではありますが、アドバイス等があればズバズバお願いします。
また、作品中に
「○○○」僕は言った。「×××」
のように、改行させていない括弧が多数ありますが、あえての表記なのであしからず。