- 『バーチャル・コミュニケーション 後編』 作者:神夜 / リアル・現代 リアル・現代
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全角36602文字
容量73204 bytes
原稿用紙約108.1枚
無職35歳職歴無しの本気、見せてやんよ。
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レベルカンストまで後5%。
長かった。本当に、長かった。
後たった5%だ。それでようやく、カンストだ。
どれだけ長い時間を掛けてきたのだろう。一日のプレイ時間は最低15時間。その内の3時間は複数のボス狩りに当てて、その他はすべてレベル上げに費やした。睡眠を取るのはボスの出現時間にもよるが、入念な時間スケジュールを重ねた後の、空白の数時間で済ませる。食事は基本的にはプレイしながら取る。片手で行える作業の時に、簡単に済ませてそれでお終いだ。
レベルカンストまで後4%。
おそらく、数多くあるサーバーの、数万人のプレイヤーの中でも、誰よりも最初にレベルカンストに到達するだろう。それほどまでに効率を重視し、それほどまでにすべてを犠牲にしてプレイし続けてきた。ゲームのBBSで盛大に晒されもしたし、ゲーム内で妨害を受けたことも100回200回の話ではない。それだけのことをして、いまのこのレベルが存在する。嫌われているのもわかっている。邪魔なのもわかっている。ただそれでも、こっちも意地だ。
レベルカンストまで後3%。
装備は誰しもが認める廃人仕様。リアルマネートレードで売りに出したら、それだけでフェラーリが買える額になるだろう。それだけの価値があるものを揃えるのに、フェラーリを数台買ってもお釣りが来るくらいのものを犠牲にしてきた。今更に引き返せる訳なんぞなかったのだ。だったらもう、進むより他に道はあるまい。例え廃人と罵られようが、例え今まで築いてきた友好関係が崩れようが、進むしか道はなかったのだ。
レベルカンストまで後2%。
これが終わったら、どうしようか。決まっている。全サーバー、全プレイヤーの誰よりも先にレベルカンストしたこの様を、見せびらかしに行くのだ。BBSできゃんきゃん吠えるだけの、お前ら凡人が未来永劫辿り着けないであろうこの姿を見て、お前らは羨ましがるのだ。そして妬んで、更に晒しを行うし、妨害も行うだろう。だがすでに時は遅いのだ。もはやレベルカンストした後に、そんなものが通用する訳はない。
レベルカンストまで後1%。
マップに存在する邪魔な他のプレイヤーはすべて轢き殺した。神聖なるレベルカンストの場に、お前らのような凡人が存在していい資格などあるはずはない。お前ら糞パーティーの数人が必死になって戦っている一匹のモンスターを、たった一人で10匹もトレインして殲滅しているこの最強仕様の我がキャラが同一だと思うな。物が違うのだ。格が違うのだ。すべての糞プレイヤーは、我が前に跪いてお零れを貰えることに喜んで涙していればいいのだ。
レベルカンストまで後――
長かった。本当に、長かった。永遠とも呼べる時間の中、ただひたすらに同じことを繰り返し、経験値を稼いだ。その苦悩もようやく終わりを迎える。その努力はついに実を結ぶ。レベルがカンストした後、我がキャラは最強の名を名実共に手に入れる。もはや反抗できる者はいないだろう。すべてのプレイヤーが妬み、羨み、畏怖し、尊敬し、恐怖するであろう。
これが、最後だ。
そうして、レベルはついに、カンストを果たした。
後5%になってから、実に2週間以上が経過した後の、快挙であった。
雄叫びを上げた。
ダンボールのように薄いアパートの壁をぶち抜くかのような勢いで叫びを上げた。
拳を突き上げてテーブルを叩いた。高く積み上げられていたDVD-ROMのケースが雪崩を起こすがそんなことに見向きもしない。奇声を上げ続けながら、椅子を吹き飛ばすように立ち上がり、しかし長時間座りっぱなしだった身体は思うように動かず床に転倒する。しかしすぐに蛆虫のように這いつくばりながら起き上がり、ゲームの画面を見据える。コントロールを失った我がキャラは、さすがにモンスターの量に押し潰されて息絶えてしまっているが関係はなかった。今更に死んだところでペナルティがある訳でもない。
画面内で無残に転がっているが、それでも確かに、今まで見続けてきたキャラとは違う箇所がある。
レベルがカンストしたキャラにのみ、オーラと呼ばれる、光のエフェクトが贈与される。
そのオーラが確かに、我が最強仕様の、最強キャラには、存在する。
思わず涙が出て来た。
ようやく終わった。ようやくカンストした。
もう、終わったのだ――。
マウスを操作し、死んだしまった自らのキャラをセーブポイントに戻す。
戻したそこは、ゲーム内で最も多く人が集まる街で、その中心部である。
戻った瞬間、他のキャラとは明らかに異なる我がキャラを見つめ、完全なる優越感に浸った。その直後、オーラを吹いたキャラに気づいた周りの見知らぬプレイヤーのキャラからショックエモが乱舞する。そして口々にオープンチャットで『オーラwwww』『光ってるwwww』『はじめてみた』『おめー』『廃人乙』『はえーよwwww』『お前か。死ね』『きめええええwwwww』『おつかれさんwwww』などの言葉が舞い込んで来る。もちろんその中には本気の罵倒も含まれていた。当たり前だ。先ほどもPTを轢き殺したばかりなのだから。それでもこの優越感は異常だった。脳内のアドレナリンが大量に分泌されている気がする。興奮で鼻息が荒くなる。
口々に発せられる言葉を受け、しかし一言も発言を返さないまま、普段は走り抜けるだけの街中を、ゆっくりとゆっくりと進んで行く。すれ違うプレイヤーの全員が何かしらの反応を示してくる。その度にアドレナリンが迸る。興奮が止まらない。止まったと思っていた涙を垂れ流したまま、それに加えて鼻水さえも流れ出ているが、もはやその事実には気づかない。
歩いて行く。行く宛てはなかった。しかしそれでも、歩いて行く。
それから約5時間。ボスの沸き時間さえも忘れ、ひたすらに優越感を貪り続けた。
時刻はすでに夜から明け方に近くなっていた。
平日のその時間にプレイしている者は極少数になっており、街中にキャラは溢れ返ってはいるが、それはゲーム内のアイテムや装備を売るための露店を出しているだけのキャラで、中身のプレイヤーはPCを点けたまま、眠りに着いているはずだ。動いているキャラを探すのは難しい時間帯。動いているとしたら、それはおそらく、自らと同じ穴の狢だ。
そうして、長い時間を掛けて貪り続けた優越感が落ち着いた頃、いつも隠れ家にしている、疎開となった街の、一番奥の建物に帰って来た。
ここは誰も知らない、誰にも教えていない隠れ家だ。
BBSに晒され、妨害も日常的に当たり前。そんなキャラが落ち着ける場所など、早々ある訳はない。誰もいないマップの、誰もいない建物の中で、オーラを吹いた我がキャラは、鎮座していた。優越感はこれでもかというほど貪った。涙も鼻水も枯れるまで垂れ流し続けた。装備はこれ以上ない廃人仕様、キャラのレベルも最高に達した、ゲーム内通貨も1キャラで持つにはカンストしてしまうため複数のキャラやアカウントに分けるくらい持っている。手に入らないものはもう何もなかった。ゲーム内の、すべてのものを持っていると言っても過言ではなかった。
頂点に辿り着いたと、おそらくは誰もが認めた。
それが、我がキャラだった。
そして、気づいた。
欲しいものはもう、何も残っていなかった。
ディスプレイに写る、光を放つ我がキャラは、もう何も欲してなどいないのだということに、ようやく気づいた。
目標が消え失せてしまった。
それを自覚した時、襲って来たのは、恐ろしいまでに深い、虚無感だった。
貪った優越感など鼻糞をこねるかのように塗り潰し、虚無感は一気にすべてを覆った。
涙が流れた。さっきまでとは違う種類の涙だった。
無意識の内に、身体が震え出す。嗚咽が溢れて来た。
涙が流れる、鼻水が出る、呼吸が苦しい、胸が痛い。
わかってはいたのだ。最初から、わかっていた。こんなことをしても、残るのはどうしようもない虚無感だけだと。所詮は電子データ上のものでしかないと。そんなことは、わかっていた。そんなことは、最初から全部承知だった。でも、一度進み出したら止まれなかったのだ。止まってしまったら最後、この感情は絶対に追いついて、襲って来るに決まっていた。だから逃げ続けた。逃げ続けることでしか、我が身を守れなかった。
すべてを投げ出して、プレイし続けてきた。
それこそ、人生を捨ててプレイし続けてきたのだ。
もはや現実には帰れない。その域にまで、達してしまっていた。
すべてを投げ出して逃げ続けた結果、残ったものは、最強の装備を携えた、最高レベルのこのキャラと、無職35歳職歴無しの、自分だけだった。
逃げ場はもう、とっくの昔になくなっていたのだ。
ようやく、仮想世界に対して、現実が追いついたのだ。
虚無感は大きくなる一方だった。涙が止まらない。嗚咽が止まらない。呼吸ができなくなってくる。胸が巨大な杭を突き刺されたかのように痛い。失うものはすべて失った。しかしこの手には何も残らなかった。もう目指すべき所、いや、逃げるべき所さえもなくなってしまったのだ。これから先に残っているのは、現実だけである。
末路だった。
それは、無職35歳職歴無しの、哀れな人間の末路。
心の奥底で理解していた。
これ以上はもうどうしようもない。
死ぬ以外にはきっと、道なんて残って、
唐突に、無音を貫き通していたディスプレイに変化が起きた。
誰かが、同一マップにログインした音だった。
涙と鼻水に濡れた顔を上げ、ディスプレイを見つめた。
そこにいたのは、見るからに装備も何もない、このゲームで誰しもが最初に通るべき、初期キャラだった。
その初期キャラはワープポータルから少しだけ歩き始めると、建物内をうろうろと歩き始める。しかしここには隠しアイテムもなければNPCさえもいない。あるとするのであれば、それはオーラを放つ自らのキャラだけである。こんな所に人が来るのを見るのは初めてだった。そもそも、このゲームをプレイしている者の中で、この場所に入れることを知っているのはおそらく、数人しかいないのではないか。
初期キャラはうろうろし続ける。
やがてオーラを吹く我がキャラのちょっと横に立ち竦む。
30秒ほど経ってから、唐突にオープンチャットでこう言った。
『あの』
返事は返さなかった。
いや、返せなかった。
余りに不釣合いなキャラの登場に、状況を理解できなかった。
今度はそれから1分ほど経った後、次の言葉が発せられた。
『フォチャスってコンピューターは、どこにいますか?』
そのキャラは、HNを「奈留(なる)」といった。
「バーチャル・コミュニケーション」
つまりどういうことなのかをまとめると、こういうことらしい。
フォチャスという名前のNPCを探していたが見つからず、街を歩き回っていたところ迷子になり、見知らぬ建物に入り込んだ挙句、どうしようもなくなって、そこにいた自分に話しかけて来た、と。
フォチャスと聞いて思い至ったが、初期キャラから次の職へと転職させる際に話しかけるNPCだ。もちろん初期キャラから転職できる職は様々で、そのひとつひとつに専用のNPCが用意されていて、各街や各フィールドに存在している。ただしそれをすぐに見つけられるのはそういうことを理解している者だけで、最初から始めた知識のない人には街やフィールドの名前を言われた所でさっぱりだろうし、理解できるはずもない。ネットゲームを始めた者が最初にぶつかる壁のようなものだ。
が、WWWが全世界に復旧したこの時代、ちょっとネットで調べればそんな情報すぐにわかる。そんなこともせずに人に聞くとは、最近の奴らはマナーすらなっていない。誰も彼もが素直に教えてくれると思ったら大間違いだ。馬鹿じゃないのか。
奈留という初期キャラは、再び言った。
『フォチャスってこんpytーターは、どこにいますか?』
それから20秒後、
『間違えました。コンピューターです』
何なんだろう。こいつ。
呆然とディスプレイを見つめながら、考える。
パッと見は、ただの初心者に見えなくもない。ただ、今の世の中でそんなものをすぐに信じられるはずがない。わざわざ初心者に成りすましてプレイし、上級者に取り入って装備を借り、そのまま持ち逃げするという手口の詐欺に似たことをする輩が大量に存在する。おまけにこのキャラは女キャラだ。取り入るには都合が良い。初心者に成りすますことのように、現実では男なのに女キャラを使用し、現実でも女だと言ってプレイする、所謂ネカマの可能性だってある。
それに考えても見ろ。ここにいるのは、全サーバー切っての廃人だ。そいつが持っている装備があれば最強になれるだろうし、持ち逃げしてリアルで捌けばフェラーリだって買える。それに散々周りに嫌われるようなことをしてきたのは自分だ。ここで装備を持ち逃げされて喚いたところで、お前が悪い、の一言で済まされるに決まっていた。
だから、警戒はしていた。
ただ、思う。
もう、自分には失うものは何もなかったのだ。
ならばここで装備を持ち逃げされようとも、別に構わないのではないか。
どうせやることもないのだ。この初心者気取りのネカマ野郎の戯言に、付き合ってやろう。そして思いっきり相手を油断させて、いざその状況になったら、力の限りに轢き殺して晒し上げた挙句、本当のアカウントを特定して二度とこのゲームができないようにしてやろう。人生を捨てた廃人に、下種な手が通用すると思うなよ。
そして画面上で変化が起きた。
ぼけっと突っ立っていただけの奈留が、返事を返さないことにいないと判断したのか、ワープポータルの方へ向かって歩き始めた。
逃がすか、と思った。キーボードに指を走らせる。
『おい』
奈留が立ち止まる。
『知ってる。教えてやる』
立ち止まったまま数十秒、
『本当ですか? ありがとうございます』
随分と凝った真似をする奴だな、と思った。
ネットゲームをやっていればタイピングなど自然と身につく。が、初心者がいきなり高速で発言を繰り返したらちょっと違和感を感じるであろう。ゆえに、ネットゲームどころか、PCすらほとんど触ったことがないんです、だからブラインドタッチなんてできないです、わたしは初心者なんです、可愛い女の子の初心者なんです、だから優しくしてね、とアピールをするのだ。反吐が出る。
しかしやることもないのだ。付き合ってやろう。
『付いて来い』
オーラを吹く自キャラを操作し、建物から外に出る。
それから随分遅れて、奈留が付いて来た。そのまま街を横切って行く。それに付いて来る奈留。しかし歩き方がたどたどしい。マウスでキャラを操作するのに慣れていない、本当の初心者のような歩き方だ。なかなか真っ直ぐに歩けないし、たまに見当違いの方向に歩き出して建物にぶつかり、身動きが取れなくなっていたりする。ここまで計算して操っているとなると、こいつはかなりの上級者であろう。油断したら一発で身包みを剥がされるかもしれない。上等だ。受けて立ってやる。
やがて街を抜け、フィールドを横切って、フォチャスというNPCのいるマップに到着した。
フォチャスの横まで来て、発言する。
『これ。この横にいるNPC。これがフォチャス。話しかけてみろ』
随分の間、奈留はフォチャスと話してるかと思いきや、
『ありがとうございました!』
という台詞が返って来た。
すげえなこいつ、と思う。徹底してやがる。
そのまま発言をしなくなった奈留をディスプレイ越しに見つめながら、思い出す。
フォチャスに話しかけて転職できる職、それはプリーストだ。プリーストは戦闘職ではなく、ヒールなどの回復魔法でパーティーメンバーの減ったHPを回復させたり、キャラの移動速度を上げたり、バリアーを使って守ったりすることをメインとする、言わば支援職である。パーティーメンバーに一人は必ず必要となる職だ。その特性上、見た目のグラフィックは可愛いし、パーティーに必要であるため、狩りには誘ってもらい易く、人に取り入るのには最適な職である。ネカマなどが好む職だ。
発言の遅さ、操作性の不慣れ、そのような細部まで演じているのに、ここでこのような職をチョイスするとはどういうことだ。ネカマを演じているからこそ、あえてプリーストを選択しない、という自分の考えの裏の裏を読んでこの職を選んでいるのか? そうならばどこまで裏を読んでいるんだ? 相変わらずすげえなこいつ。
随分と長い間、沈黙を押し通していた。
普通のプレイヤーなら、転職に必要な物や条件はネットで調べてあるため、フォチャスとの会話など、ただのフラグを立てる作業でしかない。なのでエンターキーを連打して会話など読まずにすっ飛ばすものであるのだが、こいつはおそらく、フォチャスとの会話をひとつひとつ読んでいるフリをしているのだろう。恐ろしい限りだ。
やがて沈黙が破られた。奈留が発言する。
『あの』
大体予想はしていた。
『獣の毛、ってどこにあるんですか?』
ビンゴだ。
転職サポートNPCに話しかけると、基本的にはその職に転職するためのクエストを言い渡される。それは特定のマップの誰かに荷物を渡して来いだとか、あのモンスターを倒して来いだとか、特定のモンスターを倒すと落とすアイテムを持って来いとか、そういうものだ。それをクリアすると、晴れて望んだ職に転職できる。
プリーストになるには「獣の毛」が3つ、必要なのだ。
雑魚モンスターが落とすアイテムである。しかしそんなもの、倉庫に腐るほど持っている。
装備をやるのは絶対にしないが、そんなゴミアイテムくらいはくれてやる。
『ちょっと待ってろ』
そう言い残して街を横断し、倉庫NPCに話し掛け、中から「獣の毛」を3つ取り出す。
そのまますぐに引き返して、ぼーっと立ったままの奈留に向かってアイテムを投げる。
フィールドに転がった「獣の毛」の横に立ち、
『これがそう。拾え』
しかし奈留は拾わない。
何で拾わないんだ、と思っていたら案の定、アイテムはタイムアウトしてその場から消えてしまった。
イラッとした。
『おい。なんで拾わないんだ?』
そうして返って来る言葉。
『ありがとうございます。でも、いりません。自分で集めます』
イライラする。ゴミ屑が一丁前のこと言いやがって。
こんなゴミくらいとっとと拾ってプリーストになれよ、面倒臭せえ。
マウスを人差し指でこつこつと叩いていると、再び奈留が、
『あの』
あの、っていうのやめろ。見ててイラつくんだよ。
『獣の毛、ってどこにあるんですか?』
聞くくらいならさっきの拾えよ屑が。
しかしまぁここまで来たらこっちも意地だ。とことん、お前のそのプレイスタイルに付き合ってやろう。どっちが根を上げるか根競べだ。こちとらこのゲームでレベルをカンストさせた程の猛者だ。ちょっとやそっとの根競べで折れると思うなよ。晒し上げてぶち殺してやる。
『付いて来い』
歩き出す。付いて来る奈留。
その街から出て、モンスターのいるフィールドに到着する。
そこをうろうろすると、ウサギのようなモンスターがぴょんぴょん跳ね回っているを見つけた。これが「獣の毛」を落とすモンスターだ。こいつを倒すと、確か40%だか30%だかでそのアイテムを落とす。10匹も狩ればアイテムも揃うだろう。
そして奈留の目の前で、一突きでウサギのモンスターを倒した。すると運良く落ちる「獣の毛」。
『ほれ。拾え』
しかし奈留は、やはり拾わない。
なんだってんだ、と思っていると、奈留はこう言った。
『ありがとうございます。自分でやっつけてみます』
そうかい。どうあっても自分で集めると申すか。
だが思い知れ。いま、目の前で簡単にウサギをぶち殺したが、実際にはそんなに簡単ではない。こっちはレベルカンストした、最上級ダンジョンでも余裕で通用する最強キャラだ。こんな雑魚が数万の大群で襲って来たところで、一撃で葬り去れる。しかしお前が操作しているそれは、装備も何もない最弱キャラだ。如何に雑魚モンスターと言えど、簡単に倒せるわけはない。
案の定、目の前で奈留は新しいウサギのモンスターに殴り掛かり、数発の攻撃の応酬の後、呆気なく死んでしまった。
やがて放たれる言葉。
『あれ? 動かなくなっちゃいました』
死んだんだから当たり前だろ。ざまあ見ろ。
だがこのまま転がしておく訳にもいくまい。
アイテムを使って復活させてやろうと思ったら、なぜかそのままセーブポイントに戻って行ってしまった。意図的にやったことなのか、間違えてそうしてしまったのか。どちらかはわからないが、呆然としていたのは最初の2秒だけで、その後はため息を吐いた。なんだ、もう飽きたのか。せっかく付き合ってやろうと思ったのに、根性無しが。
やっぱり無駄な時間を使うだけで終わってしまった。白けた。帰ろう。
街に引き返して、今度こそこれからどうしようかと思っていたら、街の中でうろうろする奈留を見つけた。
呆れ返った。
『おまえ、何してるんだ』
『あ』と発言され、数十秒の後、『ごめんなさい。暗くなったと思ったら、ここにいました』と言った。
どうやらまだ飽きていないらしい。
しかし相変わらず徹底してやがる。すべては計算されている行動ということか。この街に帰って来ることも予想していたのだろう。なんという策士だ。恐ろしい。が、面白い。お前がそのつもりなら、こっちも最強の暇人なのだ。どこまでも付き合ってやろう。
『ちょっと待ってろ』
そう言って、再度倉庫に向かった。
そして中から、新キャラの育成用に作った装備一式を持ち出す。初期キャラでもこれを使えばどんなに下手でも、雑魚モンスター如きには殺されない装備である。これを最後に使ったのは随分昔のような気がする。もう今のこのキャラ以外、ほとんど触っていなかったことを思い出す。
奈留の下に帰って来て、装備を投げ捨てた。
『使え。倒せるようになるぞ』
そう言ってやったのにも関わらず、奈留はやっぱり拾わない。
さすがにこれは消えられると揃え直すのが面倒なので、タイムアウトする前に拾う。
どういうつもりだこの野郎。
『それもいいです。自分でがんばりますっ』
そう言って、さっきまでいたフィールドまでの道をテクテクと歩いて行く。
ため息を吐き出しながらそれについて行く。
やがてフィールドに出て、先ほどのウサギを発見した奈留は再び殴り掛かり、何発かの攻撃の応酬の後、先ほどの攻撃と合間って、倒すことに成功した。今度も運良く落ちる「獣の毛」。それをなぜかとんでもないレアアイテムのように慌てて拾い、そしてさらに随分と間を置いてから、
『出ました! けももの毛!』
けももって何だよ。
『獣でした』
それから奈留は何度も死に、何度も街に戻っては再び倒しに行くということをひたすらに繰り返し、ゴミアイテムを3つ集め終える頃には1時間も経っていた。しかしアイテムを集め終わった奈留は、見ていてわかるくらいの上機嫌で、時たま訳のわからない発言を繰り返す。どうやら興奮しているみたいで、タイピングがめちゃくちゃになっているらしかった。
唐突に『ぷちがみなttdきたsp』なんて言われても判る訳がない。何度も間違った言葉を発言しては何度も訂正し、ようやく辿り着いた答えが『プリーストになってきます』だった。勝手に行って来いよ。
フォチャスの所に戻って来た奈留は、また随分と時間を掛けて会話をし、やがて唐突に、その場で初期キャラの「ノービス」から「プリースト」へと職をレベルアップさせた。転職なんて随分と呆気ないものである。もっと高レベルの職になると派手になるのだが、最初はこんなもんだ。
礼儀として言っておくことがある。
『おめ』
おめでとう、の略。
今にもキャラが飛び跳ねそうだった。
『ありがとうございますっ!』
その頃にはすでに、窓の外で朝日が昇り始めていた。
やがて『もう寝ます』と奈留が言ったので、『乙』とだけ返した。
再度『ありがとうございました』と言った後、奈留がこの世界からログアウトした。
そうして残されたオーラを吹くキャラは1人、ゆっくりと隠れ家に帰って行く。
◎
ふと目を覚ました。
見慣れた汚い天井を確認した後、のっそりと起き上がる。
習慣みたいなものだった。まず最初に行うことは、点けっぱなしになったPCのディスプレイの前に座ること。そしてボスの出現時間を確認した後、ボス狩りに出掛けて、その後はレベル上げに勤める。今日もそうしようと思ってディスプレイを見て、オーラを吹いた自らのキャラを視界に収めて我に返り、そして次いで、その横にちょこんと座っている見知らぬ女キャラのプリーストを見つけて、目を見開いた。眠気は一発で吹き飛んだ。
会話ログには『おはようございます』の一言だけが残っていた。
時刻を確認する。すでに昼の3時だった。
いつからいたのだろう、こいつ。
キーボードを叩く。
『おい』
奈留にしては珍しく、ちょっと早目に反応が帰って来た。
『こんにちは』
訊ねる、
『おまえ、ずっといたのか』
『10時くらいからですけどね』
10時、って5時間もここでぼーっと待ってたのか。何を考えているんだ。これほどまでに徹底して、ネカマのフリをして装備を掠め取ろうとしているのか。まったくもって恐ろしい限りだ。しかし付き合うと決めたのは自分である。いいだろう、とことん付き合ってやろう。
お前もおれも、同じ穴の狢だ。平日の真昼間からネットゲームとは良い身分だなおい。
『で、何してんだ?』
『何をしたらいいんでしょうか?』
何を言ってるんだこいつ。
『何って、何が?』
『こういうゲームって、どうすればいいんでしょうか?』
レベル上げろよ屑。そう言いそうになって思い止まる。
『レベル上げて、プリのスキル取って、お金貯めて装備買う』
『わかりました』
すると奈留は立ち上がり、そのまま出て行った。
暇なので付いて行く。
そうして行われるのは、昨日と同様の出来事だった。ウサギを叩いては死んで、戻って来ては再び叩く。ノービスからプリーストになったとはいえ、装備もないし、レベルが低いためステータスもほとんど変わらない。おまけにプリーストは戦闘職ではないため、このまま一人ではどうしようもなくなるだろう。だがこのキャラでは奈留とは組めない。レベル差が天と地だ。かと言って、他に組めるようなレベル帯のキャラもいなかったはず。
仕方がない。久々に暇潰しするか。
『ちょっと待ってろ。キャラ作って来る』
それだけ言い残して、キャラクターセレクトのためにログアウトする。
使っていないどうでもいいキャラを何の躊躇いなくデリートし、新たなキャラを作成。そのまま新キャラ用の講座を終え、フィールドに舞い降りる。奈留の職がプリーストであるなら、自らのキャラは戦闘職でなくてはならない。ならば一番相性の良い「ナイト」がベスト。
昨日、奈留がプリーストになるために1時間も掛けた似たようなクエストを、僅か5分足らずで終わらせた。そのまま奈留と別れたフィールドまで戻ると、言われた通り、奈留はそこで大人しく待っていた。別に何かしていてもよかったのに。どこまで演技を通すつもりだよ。
奈留の隣まで歩いて行く。
『おい』
いきなり奈留がふらふらし始めた。
ふと気づく。こいつ、おれだって気づいてねえな。
『おれだ。キャラ作って来るって言っただろ』
唐突に奈留の動きが停止し、
『びっくりしました。知らない人だって思いました』
そして、
『おかえりなさい』
さすがネカマだ、と改めて思った。阿呆な奴なら、これだけで心を許してしまうかもしれない。今までの行動をひっくるめて、馬鹿な男を落とす手段を知り尽くしているのだろう。これまでどれだけの数のプレイヤーを落として装備を巻き上げて来たのか、それはそれで気になるものがある。
さて。おれがお前に付き合ってやる代わりに、お前もおれに付き合え。
やることなんてどうせないんだ。暇潰しだ。
『おれはナイト。お前はプリースト。おれが攻撃するから、お前は支援しろ。いいな?』
随分の間の後、
『支援、ってどうやってするんですか?』
そこからかよ。
奈留の初心者に成りきりプレイは、驚くほど忠実に再現されていた。
この自分でさえ、時たま「本当にこいつ初心者じゃないのか?」とさえ思わせるほど、精密で、恐ろしく自然だった。もちろんその時にそう思うだけであって、騙されはしない。最後まで付き合ってやると決めた。根競べすると決めた。だから、こっちが奈留のことを「初心者プレイをしているネカマ野郎」と思っていることを悟られないよう、「初心者に対する姿勢」を崩さなかった。
誰もが知っているようなことをひとつひとつ、丁寧に教えた。幸いにして時間は腐るほどあったし、今でこそこんな糞プレイヤーになってしまったが、誰かに何かを教えるということは、案外好きだった。そして奈留もまた、「初心者で素直なプレイヤー」を演じているため、教えたことはしっかりと憶えていくし、練習している素振りも忘れずにこなし、徐々にプレイヤースキルを向上させて行った。
プリーストとナイトの相性が良いのはわかっていたが、何分奈留は装備がないため、ほとんど使えないキャラである。雑魚モンスターならいざ知らず、ちょっと強いモンスターと戦う時などは、こっちは装備が揃っているとは言え、奈留の支援だけでは限界があり、金に物を言わせて回復材などを多用している。このゲームを知っている者であれば、回復材を使った際に起こるエフェクトで回復材を使ったことを知るが、奈留は「初心者プレイ中」であるため、それに気づいていないフリをしている。
今の奈留の装備は、ちょこまかと倒した雑魚から出たアイテムを売り、店で売っている物を買った、所謂ゴミ装備である。あまりに奈留の装備がないから、別になくなってもいいような装備を何度も奈留に渡そうとするのだが、その度に奈留はそれを頑なに拒む。それがあんまりに続くものだからいい加減ムカついて、このゲームをやっている奴なら誰でも喉から手が出るほど欲しがるような装備を『やる』と言って投げ捨てても、奈留は『いりません』と受けつけなかった。
しかしいつまでもゴミ装備のままではこっちも面倒なので、こっそりとオーラを吹いた最強キャラでかなり強いモンスターを半殺しにした後、ナイトにキャラクターセレクトして奈留と一緒にそいつに止めを刺し、そいつが落とした、一般から見れば中ほどの武器を手に入れ、『これはおれが倒したけど、お前の支援がなければ無理だった。この武器はおれには装備できないから、お前が使え』と押し付けた。そう言うと奈留は納得し、そのアイテムを装備して実に嬉しそうに『ありがとう』と言った。
そんな徹底的に「初心者プレイ」を続ける奈留と一緒にプレイし続けて、1週間が経とうとしていた。
奈留のプレイ時間は、決まって朝の10時から夜の7時までだった。平日だろうと休日だろうと、その時間のみ、奈留はゲームをプレイする。そしてこっちもまた、それに合わせていた。奈留と適当に狩りをする以外、やることがなかったのだ。金も装備も、レベルさえも頂点になったため、目標がなかったのだ。
そして奈留にプレイ時間を合わせると、今までの生活が嘘のように、規則正しいものになってしまった。朝の9時には起きて、夜の10時には眠る生活が続いた。最初は苦痛以外の何ものでもなかったが、不規則な生活習慣に慣れてしまったように、規則正しい生活習慣にも慣れ始めていた。
しかしそんなある日、一度だけ寝坊をした。起きたら12時だったのだ。
慌ててログインすると、やっぱり奈留は先にログインしていて、いつものあの隠れ家にいた。
『すまん。寝坊した』
返事はすぐに来た。
『おはようございます』
最近では、随分返事も早くなった。「タイピングに慣れてきた初心者」のフリも素晴らしいものだ。最近ではそういう変化をもたらす奈留に感心さえするようになってきていた。
『今日はどこがいい。もうだいぶ慣れて来ただろ』
しかし、珍しく奈留からの返事がない。
『おい。どうした』
奈留は何も言わない。
PCの前からいなくなったのかと思ったのだが、時たま座ったままのキャラの向きが変わる。
これは、何か落ち込んでいる時の意思表示だ。一緒に狩りを始めた頃、あまりに雑魚モンスターとばかり戦っていたため、集中力がなくなり、ぼーっとしていたら回復材を叩くのを忘れて死んでしまったことがある。あの時、奈留は「自分のせいで死なせてしまった」と酷く落ち込んで、ここでこうして座り込んで、キャラの向きだけ変えていじけていた。それと一緒だった。
『なんだ。何かあったのか?』
が、何も言わない。
ちょっとイライラする。
『何かあるなら言え。黙ってるのが一番ムカつく』
一週間前のような、随分と間を置いた後、
『……わたしって、このゲームしちゃ、だめなんですか?』
そう言った。
意味がわからず、
『は?』
奈留は何も言わない、
『なんだ。誰かに何か言われたのか?』
またしばらく沈黙した後、ぽつぽつと、奈留は言い始めた。
話をまとめると、こうなる。
随分とこのゲームにも慣れて来た奈留は、いつもなら10時前にはログインしている自分がいないことから、たまには一人で狩りをしてみよう、ということで、支援職のくせに一人でモンスターを倒しに行った。しかし当たり前のように、いつも狩っているような強いモンスターは、このレベル帯ではかなりの装備がないと倒すことなど不可能で、おまけに支援職では装備があった所で無理だろう。案の定、奈留は死んでしまう。でも奈留は気を取り直して、最初に倒したあのウサギのモンスターのところに行き、フィールドを探し回ってはぽこぽこと殴って倒していたらしい。
そこへ、ある集団がやってきた。その集団は奈留を取り囲み、突如として大量のモンスターを呼び出して奈留を轢き殺して、暴言を吐いて去って行ったらしい。その中で、『お前のような雑魚がこのゲームやってんじゃねえよwww』と吐き捨てるように言われた、と。そういうことらしい。
話を聞いていて、ふと思い当たる節があった。
『そいつら全員、一緒のギルドじゃなかったか?』
『ギルド……?』
『判り易く言うと、キャラクターにカーソルを合わせると名前が出るだろ? その下に、名前の他に何かいろんな文字と絵が書いてなかったか? んで、そいつら全員に、それがなかったか?』
ちょっと考えるような間、
『ありました』
『そこに書いてあった絵って、黄色い旗のような物と、ベロ出してる兎じゃなかったか?』
今度はすぐに、
『それでした』
やっぱりか、と思った。
『よしわかった。2時間……いや1時間だけ待ってろ。ここで大人しくしてろ。いいな』
奈留の返事を聞く前に、ログアウトした。
目を閉じて、深呼吸をひとつだけした。
そうして、目を開いた瞬間に行動に移した。
普段は1台しか使っていないPCだが、その周りには他にサブPCが3台ある。それらをすべて立ち上げて、全部で同一のゲームを立ち上げる。それぞれが違うゲームアカウントでログインし、状況を確認する。それと並行して、メインPCのキャラをオーラの吹いた、あの最強キャラにする。
全部のアカウントを駆使して、アイテムなどを個人のキャラが売る露店街へと向かわせた。そこで売っている、「枝」なるアイテムを、片っ端から金に物を言わせて買い込んで行く。値段など見なかった。どれだけ高かろうがどうでもよかった。売っている「枝」を根こそぎ買占める。
「枝」とは、それを1つ使う度に、ランダムでゲーム内のモンスターを一体、召還できるアイテムのことであり、奈留を轢き殺したという大量のモンスターもまた、これで召還されたものである。もちろん出るモンスターはランダムであるからして、最強のが出ることもあれば、最弱のが出ることもある。一本だと弱いが、数本、数十本単位で使えば強いモンスターの1体くらいは出るだろうし、雑魚モンスターを殴っているプリーストを殺すくらいなら、それで訳はない。
その「枝」を、2万個買い占め、倉庫からさらに暇潰しに集めいてた分の3万個を取り出す。
そして、我がギルド内部に要請を出した。
『おい、お前ら』
返事はすぐに返って来た。1人や2人ではなかった。
『おwwwww』『なんだおまえ生きてたのかwww』『死んでねえじゃん』『死ぬなら装備くれwww』『ひさー^^』『カンストしてから顔見てねえぞお前』『きなすったwwwきなすったwww』『屑王様じゃ! 屑王様のお通りじゃー!!』『よー屑。元気か』『死んでなかったって、むしろ死ねwwwリアルで死ねwwww』
大量の返事が返って来る。
そうして、言った。
『お前ら、手伝え』
返事はまたすぐ返って来る。
『何偉そうに言ってんの』『手伝え(キリッ』『命令っすか屑王様wwww』『装備くれるならいいよwww』『手伝う前に吸わせろwww』『おまえら黙れよwww王様の命令だぞwww』『手伝え。だっておwwwwwww出直せばーかwww』
こんな反応が返って来るのはわかっていた。
こっちもそんなことを言われたら、そう返す。
だけど、――だけどこちとら、腸煮え繰り返ってんだ。
キーボードをぶっ叩く。
『RFを潰すぞ。枝5万本用意した。徹底的に潰す。手伝え』
一瞬の間、
『それを先に言えよwwwww』『ひゃっほーうwwww祭りだ祭りだwwww』『おれ昨日RFにMPKされたんだよwww殺そう殺そうwww』『おk』『すぐいくwwww走っていくwww』『5万ておまwww鯖落ちるんじゃね?wwww』『落とそうぜwwwRFと一緒に糞運営ぶっ殺そうwwww』『おれも枝大量に持ってくわwwww』『任せろ任せろ、そういうことならおれに任せろ』
さすが屑共だ。どこまでも屑でいてくれて安心した。
覚悟しろ。1匹の屑に手を出したら、無数の屑が押し寄せて来ること、思い知らせてやる。
RF――Rabbit Farmという名前のギルドのことである。比較的若い、それこそ中学生や高校生で構成されている、こっちの屑とはまた違う意味で晒されている連中である。自らを「過激派」と豪語している連中だが、実際は妨害を楽しみに動いている人間の集まりだ。別にこっちのような屑共に妨害行為を行うのは構わない。こっちもそれなりのことをしてきたのだから、仕返しはするがお互い様だ。
だがこいつらは、若いが故に己の行動にブレーキを掛けない。廃人、一般プレイヤーお構いなしで妨害は当たり前、果てには初心者しか訪れないフィールドで、初心者みたいな奴を見つけては妨害する。そして自分たちが殺した相手に向かって、恐ろしいまでの暴言を吐く。運営からアカウント停止にされた者も複数いるくらい、どうしようもないギルドだ。それが、奈留を轢き殺した連中の正体だ。
このキャラのレベルをカンストさせる中でも、何度か枝で妨害はされた。だがそんなのは今はどうでもいい。こうしてレベルもカンストした。今更にそのことを蒸し返して仕返しなどは考えていない。ただ、奈留を轢き殺したことは、おまけに暴言を吐いたことだけは、許さない。手元に置いていた玩具を勝手に弄繰り回されたんだ。唯で済むと思うなよ。屑に手を出したらどうなるか、どんな報復が返って来るか、てめえらは何もわかっちゃいない。屑にも分別くらいはある。大抵のことは鼻糞ほじくりながら笑って付き合ってやる。やって、やられてのイタチゴッコを楽しんでやる。けど、手を出していい所と、絶対に手を出してはならない境界線があるんだ。
てめえらは、それを踏み越えたんだ。
青二才の馬鹿共が。こちとら無職35歳職歴無しだ。
人生捨ててこのゲームやって来たんだ。
てめえらとは物が違うんだ。格が違うんだ。
――覚悟が、違うんだよ。
『行くぞ、お前ら』
◎
ナイトにキャラクターチェンジすると、言われた通りに、奈留はそこで待っていた。
そうしてすぐにログインしたことに気づき、『おかえりなさい』と言った。
キーボートを叩く。
『おう。狩り行くぞ。今日はいつもよりちょっと難しい所に行く』
数秒の間があった。
『……でも』
まだ気にしているのかこいつ。
この演技もなかなかのものだ。だが今は文句は言わない。気分が良いんだ。
『構わねえよ。いいか。こういうゲームは誰でもやっていいんだよ。おれもお前もやっていい。この世界じゃみんな好き放題していいんだ。誰になんと言われても、気にすんな。自分がしたいようにしろ』
奈留は何も言わない。
いつもならイラつくところだが、今日は違った。
『大丈夫だ。またなんかあったら言え。何とかしてやる。それより行くぞ。支援いなくてどうやって狩りすんだよ』
しぶしぶ、と言ったように奈留が立ち上がる。
まだ一息足りないらしい。
『今日はいつもより難しい所だから、いつもより難しいこと教えてやる。お前、最近上手くなってきたしな。たぶん大丈夫だろう』
ようやく機嫌が治ったらしい。
見ていてわかるくらい、奈留が嬉しそうな反応をした。
『――はいっ』
そんな奈留を見ながら、おれも随分と毒されてきたなぁ、と少しだけ笑った。
狩場へ向かっていく途中、ゲーム運営会社からのアナウンスがゲーム内に流れた。
『こちら、運営チームです。いつもご利用頂き、誠にありがとうございます。ユーザーの皆様にご迷惑をお掛けして申し訳ありません。一部のマップにて障害が発生しました。5分後、一部マップが臨時メンテナンスのため閉鎖されます。繰り返します。一部のマップにて障害が発生しました。5分後、一部マップが臨時メンテナンスのため閉鎖されます。該当マップは下記を参照ください――』
プレイヤーはそれを、「神の声」と言って馬鹿にする。
◎
奈留に対して嘘をついていることが、2つだけある。
徹底的に「初心者プレイ」を続けた奈留と一緒にプレイして、今日で1ヶ月になる。
最近では「初心者」から「中級者」にランクアップし、下手をすれば「上級者」の部類に位置するかもしれない。それもそうだろう。奈留を教えているのは、全サーバー切っての廃人である。メインがプリーストではないとは言え、全職のキャラクターは持っているし、すべてのスキルノウハウなども理解している。それに教えるのは好きだし、時間はこの1ヶ月で腐るほどあった。プリーストとしてのノウハウを叩き込むだけの時間は、十分過ぎるほどあったのだ。それに奈留もまた、「初心者プレイ」をしているだけであり、そういうことの大部分は知っていただろうし、その都度開放しているだけの話であろう。そのような変化もきっちり出すあたり、本当に恐ろしい。
最初に比べ、装備も大分整って来た。ナイトとプリーストの2人だけで倒せるような、弱いボスも何度も倒した。そのボスから1つだけ大きなレアアイテムが落ちたことも大きい。それを他のプレイヤーに売れば、始めて1ヶ月の奈留に取っては恐ろしいまでの大金になった。その大金を元にアドバイスし、プリーストの装備を充実させたのである。まだまだ廃人仕様には程遠いが、一般プレイヤーにしては上位に食い込めるはずだ。
プレイヤースキルも向上した、装備も整った。
そうして奈留は、次の段階に進むことになる。
今まではこちらのナイトとの1対1のパーティーでしか狩りをしたことがなかった。それではダメだ、そんなのではまだ一人前にはなれない、複数のパーティーメンバーを同時に支援して始めて、一人前になれるんだ――そう奈留に言い、臨時パーティー、つまりは見知らぬプレイヤーたちが、その時だけの臨時の即席パーティーを組み、上級ダンジョンに挑むという、オンラインゲームならではの狩りに送り出した。
もちろん奈留を1人で行かせるのは不安もあったため、そこに同行した。
初めて他のプレイヤーとまともに交流した奈留は、最初こそ怯えていたが、徐々に慣れて来て、狩りが終える頃には上機嫌になっていた。狩りを始める前に、『こういうのは初めてです。失敗するかもしれませんが、よろしくお願いします』と奈留の口から他のメンバーに伝えておいたが、奈留の支援の腕は廃人様が保証している。最初こそ複数人の支援に戸惑ってはいたが、10分もすれば支援のリズムに慣れて、ほぼ完璧に役割をこなし、他のメンバーからも『本当に初めて?』『めちゃくちゃよかったよww』『また組もう』と褒められていた。
しかし、そこで満足してもらっては困る。
廃人様が教えるのである。そんじょそこらの支援と同格程度で止まってもらっては困る。
2人しか知らない隠れ家に戻って来た後、奈留を座らせて、『あそこがダメだった』とか『あそこはああすると次の動作がスムーズになる』とか『ああいう時の立ち回りは』とか、正直重箱の隅を突くような指摘ばかりをした。しかし奈留は愚痴のひとつも言わず、素直に『はい』や、『なら、こういう時は?』としっかり聞き、意見を言った。そのやり取りが本当に充実していて、素直に楽しかった。もちろん最後には、『でも、初めてのパーティー支援にしては良く出来た。80点くらいやる』と飴も欠かさない。奈留もその飴を本当に嬉しそうに受け取って、『ありがとうございます!!』と立ったり座ったりを繰り返していた。可愛いやつめ。だがそんな程度で騙されると思うなよ阿呆。
そんな奈留とプレイし続けて、1ヶ月になる。
ネットゲームをするにあたり、屑には屑の、暗黙のルールが存在する。
それは、リアル、つまりは現実世界のことについては触れないこと。
一般プレイヤーはそのことに普通に触れるし、オフ会――仮想世界のゲーム内だけではなく、現実世界でも会って交流を深めるようなこともしているが、屑はそんなことはもちろんしない。自覚はしているのだ。自分たちは人間の底辺に存在しているのだと。人様の前に堂々と胸を張って出て行けるだけの仕事をしている訳でもない、人様の前に堂々と胸を張って出て行けるだけの面を持っている訳でもない。そんなことができるのは、一般プレイヤーだけの特権であるため、屑は絶対にそんなことには触れないし、自らそれらを匂わすこともしない。
だから、こちらから奈留に対して、リアルのことに関して聞いたことはなかった。
だけど、奈留に関してはそんなルールは当てはまらないだろうし、「初心者プレイ」を志しているのであれば、「いま、一緒にゲームしている人はどんな人なのだろう?」と考えるのは至極当たり前のことで、何の気兼ねもなく、「リアルの貴方は、一体どのような人なのですか?」と訊ねて来ても、不思議ではないだろう。
ただ、それに対して素直に答えられるはずもなかった。
素直に答えたら、無職35歳職歴無しの自分が、曝け出されることになる。
だから、奈留に対して、嘘をついたことが2つだけある。
ひとつは、年齢のこと。22歳だと奈留には言った。
ひとつは、職業のこと。大学生だと奈留には言った。
正直、見栄を張った以外の何ものでもなかったが、どうせリアルで会うことはないのだ、嘘でもどうでもよかったのだ。それに大学四年生で就職が決まっているため、講義にも出なくていいから、昼間からずっとゲームをしているのだと、奈留に言い訳ができてよかった。今更にネットで嘘を重ねるくらい、何ともなかった。
そして好奇心から、奈留に対して、ルールを破った。
奈留と一緒にプレイし続けたことにより、自らを「一般プレイヤー」と錯覚してしまっていたために取ってしまった、愚行と言えた。こっちが言ったんだからそっちも言え、というような、本当に軽はずみの行動だったのだ。特に何も考えてなかった。現実は現実で、仮想世界は仮想世界だと理解しているからこそ、そのようなことを簡単に言えてしまったのだ。
だから、いつもの隠れ家で、こう訊ねた。
『そういうお前は、なんでいつも昼間からゲームやってんだ?』
奈留はまるで世間話をするように、こう返して来た。
『病院だと、他にやることがないのですよ』
――は? 病院?
指が少しだけ動揺する。
『病院って、dこか悪いのか?』と発言した後、『どこか、だ』とさらに打ち込む。
目の前に座っている奈留のキャラクターが笑ったような気がした。
『どこか悪いから、入院しているのですよ』
ちょっと待て。病院? 入院? 頭が混乱する。
落ち着け、と自らに言い聞かす。
『1ヶ月間、ずっと入院してるのかお前?』
『フヒヒ。内緒でござるよ』
いつかの臨時パーティーで会った奴の真似をしながら、奈留が言う。
キーボードを打つ手が止まる。
思考を巡らす。入院している、ということは、平日だろうが休日だろうが関係はないだろう。そのため、奈留はこの1ヶ月間、ほぼ毎日、自分と一緒に狩りをしていた。接続時間が決まって朝の10時から夜の7時なのも、病院の消灯時間などが関係しているのではないか。そう考えれば、プレイ時間については説明がつく。
だが待て。ここは所謂、ネット世界だ。ここでは嘘をついても何も問題はない。自分ですら22歳大学生などとのたまっているのだ。嘘で固められた人間が、この世界では合法となる。そもそも奈留は「初心者プレイをしているネカマ」であるからして、実際にこの「奈留」というキャラクターを操っているのは、自分と同じ穴の狢なのではないか。いや、その方が圧倒的に可能性が高い。奈留がここにいるのは、我が廃人仕様の装備などが目当てだからである。
一息つく。一瞬でも動揺した自分が恥ずかしい。
カマをかけてやろう、と思った。だから、こう発言した。
『マジかよ。大変だな。時間が合えば見舞いに行ってやるよ』
悪いからいいですよー、と断られるのだと思った。
ネカマとして貫き通すのであれば、リアルで会うことはご法度。何かしらの理由をつけて、絶対に断ってくるのだと思っていた。
なのに、奈留は予想とはまったく違う反応を返して来た。
『本当ですか!?』
再び指が止まりそうになる、画面の前の自分が小さな冷や汗を掻いて半笑いしているのがわかる、
『ああ、構わないぞ。ただ場所が問題だろ? どこだよ?』
来て欲しいけど場所が遠いからやっぱり無理ですよねー、と断るのもまた、ネカマの常套句だ。
騙されてたまるか。ここで断るに決まっているのだ。
そうであって欲しい、と心のどこかで思っている自分を、頭の片隅で一瞬だけ見つけたような気がした。
そして奈留は、病院の名を告げた。
『S県のH市にある、双葉総合病院なんですけど、知っていますか?』
頭のてっぺんから、雷を落とされたかのようだった。
S県のH市の双葉総合病院。そこを、知っていた。むしろ知っているどころか、子供の頃、肺炎で入院した病院こそ、S県H市の双葉総合病院だった。
今現在、糞汚いアパートを拠点として住んでいるのはT県である。ただそれは、大学時代からの拠点である。高校を卒業後、親元を離れたい一心で都会の大学へと進路を進め、そこで大学に通い、大学院にまで進んだ挙句、このような底辺の人間になってしまったのが、この自分だ。
そしてS県のH市というのは、高校まで住んでいた場所であり、自らの実家がある場所だった。大学に入学後、実家には数えるくらいにしか帰っていない。最後に帰ったのは大学院を卒業する前だった。もう10年近く前の話である。細部は変わってしまっただろうが、双葉総合病院のある辺り一帯の地理は、おそらく今でもある程度は理解しているつもりだった。それほどまでに馴染みの深い場所を、奈留はピンポイントで言ってのけた。
奈留に出会って初めて、恐怖を憶えた。
まさかこいつ、おれを知っているんじゃないか。
いつまでも返事を返さないことに奈留が不思議に思ったのか、さらに言葉が紡がれる、
『あの。どうかしましたか? 知っていますか?』
動揺していることを悟られるな、と己に言い聞かす。
『あー、県は知ってるけどその病院は知らない。でも、かなり遠いなS県だと』
しょんぼりとした返答が返って来る、
『そうですか……。残念です。無理を言ってごめんなさいでした』
奈留のキャラから「sorry」というエモが出た。
そしてすぐにニコニコと笑うエモが出て、
『それより、今日はどこへ行きましょうか? わたしもう一回、領土01に行ってみたいです』
『わかった。装備整えてくる』
『あ。わたしも行きます』
二人揃って倉庫NPCの所に行き、並んで装備を整え始める。
視線はディスプレイを見つめているが、思考はそこにはなかった。
頭が混乱している。一体どうなっているのかが、さっぱりわからない。奈留の存在が、急激に不安定な存在になっていく。どこまでが本当で、どこまでが嘘なのかが、わからない。こんなことは初めてだ。嘘を嘘と見抜けない奴に、ネットをする資格はないと誰かが言っていた。それは理解しているつもりだった。今までもこんな話は、違う誰かと腐るほどしてきた。嘘か誠か見抜けないような情報に関しては雑念を切り捨てて、自分で考え、調べ、裏づけを取って納得してきた。
そして嘘をつく場合、そこには必ず、「裏」がある。
ただ、奈留のこの嘘に隠れる「裏」が読めない。病院に入院している、というのはプレイ時間のことを誤魔化すための隠れ蓑であろう。ネット初心者・純粋な女の子・入院を余儀なくされるほど病弱。素晴らしいほどのテンプレートだ。ネカマ以外の何者でもあるまい。それは別に構わない、理解していたことだ。ただ、なぜ『見舞いに行く』という台詞に、『本当ですか!?』と返して来たのかが読めない。
双葉総合病院も同一だ。なぜピンポイントで入院先を暴露した? 普通ならまず、県を言って市を言って、最後の最後に病院名を言うであろう。その仮定をすっ飛ばして暴露することに、メリットはあるのか? 県を言ってから、遠ければ『見舞いは無理』ということで切り捨てられたし、近ければ適当な市を言って、適当な病院を言って有耶無耶にしてしまう手段もあったはずだ。
なのに奈留は、ピンポイントで、実在する病院名を言ってのけた。
もし万が一にでも場所が近ければ、本当に見舞いに来られるかもしれない。それで困るのは、ネカマである奈留自身だ。入院先に本当に来られ、そこには奈留が入院していないことがバレれば信用は落ちるし、そうなってしまっては装備を騙し取ることもできないだろう。そんなことは、「初心者ネカマプレイ」をしている奈留なら百も承知のはず。ならばなぜ。デメリットしかないのではないか。メリットがまるで思いつかない。
考えられる結論があるとするのであれば、それはひとつだけ。
それは、奈留が嘘を言っていないということ。
そんな馬鹿なことがあるか、と思う。こいつは極められた強者だ。絶対に何か、デメリットしかないはずのその行動の向こうに、考えもできないようなメリットがあるに決まっている。何だ。何がある。どうすればこれをメリットに差替えることができる? 考えろ。さもなくば、気づいた時には装備を剥がされて丸裸にされているぞ。いや、装備を剥がされることに関しては、別にそこまで恐れてはいない。ただ、ここまで一緒にやってきた奈留との根競べに負けるのは、我慢できない。こっちにも意地が、あるのだ。
しかし答えは出ないまま、装備を整えた奈留に『準備できました』と言われ、2人揃って狩りに行くことになった。
思考がまとまらないせいで、珍しくこっち側がいくつか失敗をしてしまった。その度に奈留が『大丈夫ですか? 体調でも悪いのですか?』と常に心配してくる。それに曖昧な返事だけを返して、ひたすらに狩りを続けた。終わらない思考の螺旋階段を登り、辿り着く答えが見えないまま、その日の狩りを終えた。
その日、珍しくレアアイテムが落ち、奈留がご機嫌だったのを憶えている。
そしてそのご機嫌のまま、いつものように『また明日です』との台詞と共に、手を振るエモを出して奈留がこの世界からログアウトした。
抱えている思考以外、全部いつも通りだった。
いつも通りだったと思っていた。でも、
それから一週間経っても、奈留は戻って来なかった。
◎
罠だという可能性はある。いや、その可能性の方が遥かに高い。
デメリットを消し去り、考えもつかないようなメリットを生み出すための布石だということも十分に考えられる。そんなことはこの一週間で、死ぬほど考えた。だが、どうやってもそのメリットが思いつかない。奈留は同じ穴の狢だ、ならば底辺の自分にも同じ思考ができると思った。屑が考えつくことなら、同じ屑ならその答えを導き出せると思った。だけどわからない。どれだけ考えてもメリットが出てこない。思考の泥沼にはまり、もがき続けた一週間。
そして出した結論は、裏づけを取ることだった。今までもしてきたように、今回もそうしようと決断した。嘘か誠か見抜けないような情報に関しては雑念を切り捨てて、自分で考え、調べ、裏づけを取って納得してきたのだ。それに従うまで。調べ、裏づけを取るのだ。そこでようやく、メリットが一体どのようなものだったのかが理解できるはず。その結果、最悪な事態になるかもしれない。だがそれでも、このまま思考を巡らすよりかは、幾分かマシであるはずだった。
最後にスーツに袖を通したのは、一体いつだったのだろう。
埃に塗れたスーツを押入れの奥底から引っ張り出して、着用する。腰周りがかなりきついが、まだ何とかなる。ネクタイの結び方がまったく思い出せなくて、ネットで検索して不恰好だが何とか形になった。伸び放題だった髭を剃り、髪を洗面所に転がっていたワックスで見れるようにする。久々に真面目な格好をした己を鏡で見据える。
そこにいるのは、無職35歳職歴無しの自分自身であった。
お世辞にもカッコいいどころか、普通とすら言えない面である。学生の頃は、こんな面に産んだ両親を酷く恨んだが、今はどうでもよかった。今更そんなことで恨んだところで、自分がイケメンになれるとはこれっぽっちも思っていない。その憎む感情は無意味で、馬鹿が歯軋りするだけのその姿は滑稽以外の何ものでもないと気づいたがゆえだった。
財布の中に有りっ丈の金を突っ込んで、アパートを後にした。
底辺は底辺だが、引き篭もりではなかった。ただの屑なニートだ。この歳になってまだ、親からの仕送りを貰って生活をしている。親にはいま、大学の研究室で研究をしていると言ってある。ただし研究員であるため、給料が薄給であり、生活が苦しいので仕送りが欲しいと、そう言ってある。ただもちろん、両親も馬鹿ではあるまい。そんなこと、嘘だととっくの昔に気づいているはずだ。それでも仕送りを止めないのは、こんな屑でも息子だと思ってくれているからだ。死なないで欲しいと、そう思ってくれているからだ。それに気づいていてなお、屑な自分は親の財産を食い漁り、ここに存在している。
親から貰った金を財布に突っ込み、自分は今から、生まれた場所へと帰ろうとしていた。
両親に会いに行く訳ではなかった。会いに行く気もなかった。
そんな屑な自分に嫌気が刺すが、今更なので脳みそにはフィルターを掛けた。
最後に帰ったのはいつだったか。思い出せないあの頃の記憶を頼りに駅へ向かい、切符を買って新幹線に乗り、生まれ故郷への道を進んだ。
最後に帰ったのがいつだったか思い出せないように、最後に人とまともに喋ったのがいつだったかも思い出せない。食料を買いに近くのスーパーへは行くが、会話などしたことがなかった。そんな自分がよくもまぁ、こんな大胆な行動に移そうと思ったものだ。もちろん切符を買うのだって脂汗を流しながらぐだぐだで注文したし、人ごみの中にいるだけで頭がぐるぐるして吐きそうになる。新幹線の隣の席に人が座らなかったのが唯一の救いか。
新幹線で2時間、そこから乗り換えてさらに1時間。そうして辿り着くのが、故郷だった。最後に訪れた頃より駅周りが賑やかになってはいたが、所々に見覚えがある。数分だけ懐かしさに苛まれながら、太陽が刺すその下をゆっくりと歩き出した。しかしすぐに移動に移動を重ねた己の身体は弱音を吐き、体力の限界を悟った瞬間に財布の中身を確認し、余裕があることを理解した上で、タクシーを拾った。
双葉総合病院までは、タクシーで20分くらいだった。
恐ろしいまでの交通費を摂取されたが、無事に辿り着けた。タクシーから降りて、双葉総合病院を見上げる。子供の頃、肺炎で入院してしまったあの頃より、何度か建て直しを経たせいで外見は大きく変わってしまっているが、駐車場にある大きな木とか、病院の隣にある公園などはまだ健在で、少しだけ安心した。
そしてここで、自分はこの思考の螺旋階段の出口を見つけるのだ。
藪を突いて、そこから出てくるのが何かはわからない。ただ、突かずにはすっきりできない。自分で調べ、裏づけを取るのだ。
病院へ向かって歩き出し、自動ドアを抜けた。受付カウンターにて聞こうと思ったが、自分は奈留の本名を知らない。それどころか年齢すら知らない。本当の性別も知らない。当たり前である。そんなこと、一言も聞いていないのだから。もちろんそのことには気づいていた。だがそれでも、ここに来なければ終われない気がした。あの根競べの勝負はまだ、ついていない。
1階のロビーを抜け、階段を登って2階に来た。2階からが患者の病室がある階となっている。ここから、虱潰しに探していく。手がかりがあるとすれば、それはPCだけである。病室のどこかにPCがあれば、それが一応の手がかりだ。運良く開いていて、そこにあのゲームの画面でも開いていればいいのだが、そう簡単にもいくまい。それが当たり前だ。そして、それでいいとすら思っている。
これはある種の、自己満足に他ならないのだから。別に見つからなくてもいいのだ。ただ、全病室を回り、そこに奈留らしき人物がいなければ、そこで奈留の嘘は証明され、奈留はこの根競べからドロップアウトしたのだと判断する。そうして初めて、自分はこの呪縛から解放されるのだ。そうして初めて、この根競べを終わらせることができるのだ。そのための、裏づけである。
歩いて行く。ひとつひとつ、病室を確認していく。名前の札を見て、病室の中を確かめ、可能性を潰して行く。看護婦に怪しい目で見られていることに気づかないフリをして、ただひらすらに同じことを繰り返した。何名かノートPCを持っている者はいたが、何やら身体のどこかが「奈留ではない」と否定するため、その直感を信じて奈留ではないと断定した。
病院に到着して、すでに2時間が経とうとしていた。
捜し方が甘いのは自覚している。こんな探し方では、見つかるものも見つからないかもしれない。ただそれでも。気休めだけが、欲しかったのだ。
そうして、6階建てのこの建物を調べ終えるまで、残すところあと1部屋だけとなっていた。6階はすべて個人部屋になっていて、その一番奥の部屋を見れば、全部の病室を回ったことになる。もちろんここまで、奈留らしき人物はいなかった。そもそも、やはりそんな人物など、ここにいるはずなんてなかったのだ。おれの勝ちだ、ざまぁみろとすら思った。これでやっと、呪縛から開放される。根競べはおれの勝ちで、お前の負けだ。残念だったな。今までは通用しただろうが、おれには通用しない。このおれを、舐めんなよ。
最後の病室の前に立った。
これで終わりだ。おれの勝ちだ。そう、思っていた。
その病室のドアに書かれている、名前を見るまでは。
「上条 奈留」
そう、書かれていた。
頭の中が真っ白になった。
まともなことが何も考えられない。
心臓が驚くほど早い鼓動を打っていた。
あの馬鹿、本名でやってたのかよ、と一瞬だけ思った。
自分の心臓の音がやけに大きく聞こえるその中で、無意識の内に、病室のドアに手を掛けていた。やめろ、と身体のどこかが全力で反発する。ここが最後の逃げ道だと、もう1人の自分は言う。ここでこの扉を開けたら最後、もう引き返せなくなる。勝ち負けとかもういいじゃないか。「奈留」が実在するしないなんて、もういいだろ。屑な自分がこの扉を開いてどうするつもりだ。何ができるというのだ。悪いことは言わない、やめておけ。現実は現実、仮想世界は仮想世界だろ。割り切っていたんじゃなかったのか。意地を張るな、ここまで来たんだ、義理は果たした。やめろ。手を離せ。開けるんじゃな――黙れ、おれは、
ドアに掛けていた手に力を込めようとしたまさにその瞬間、内側からドアが開けられた。
すべてにおいて虚を突かれた出来事だった。心臓が止まるかと思った。
何も行動に起こせない目の前で、40歳前後だと思われるおばさんがいた。
そのおばさんはこちらを見上げると不思議そうな顔をして、こう言った。
「――どちら様でしょうか?」
パニックに陥った。まともな思考が働かない。
「あ、え、……いや、え? ちが、っと、な、……えっ?」
言葉が出て来ない、おばさんが何かを考えるような表情をした、
一瞬の内に、――逃げよう、と決断した。
いきなり踵を返す。そのまま全速力で走り出す。
背後でおばさんの慌てた気配が伝わる、
「あのっ!」
大きな呼び声、しかし止まらない、もうちょっとで階段だ、ここを一気に下りれば、あとは、
「もしかして娘と、」
階段に入った、もうこれでだいじょ
「――奈留と、ゲームをしてくれてた方ですか!?」
身体の動きのすべてが、止まった。
おばさんに案内され、病室に通された。
無機質な室内だった。清潔感溢れる白の部屋。少しだけ漂う薬の匂い。
ベットの横の棚の上に、ノート型のPCが置かれていた。
「一週間前に容態が悪化して、それからずっと、寝たきりなんです」
おばさんは、そう言った。
一週間前。それは、『また明日です』と言ってログアウトした、あの日。
ベットの側まで歩み寄る。
そこに、1人の少女が眠りについていた。
歳は大体高校生くらいか。髪は胸のあたりまでの長さで、随分と華奢な身体をしていた。自分とは対照的なほど、可愛らしい女の子だった。そんな女の子に繋がる、無数のチューブとコードが、酷く残酷だった。まるでそのチューブとコード、そして酸素マスクがこの少女の生気を吸い取っているかのような光景。心電図が一定間隔で動いているのは、まるでその度に少しずつ、生命を殺しているかのようだった。
何ひとつ、現実味を帯びない。何も思考が巡らない。どういうことなのか、現実に頭が追いつかない。
いつの間にか隣に来ていたおばさんが、そっと何かを差し出してきた。
「これを」
無意識の内に受け取る。
一冊の、使い古された学習ノートだった。
何を思ったでもなく、そのノートの1ページ目を開けた。
題名が書いてあった。
『☆質問事項☆』
その下に、箇条書きで何かが書いてある。読んでみる。
★あのニコニコマークはどうやって出すのか? → ニコニコマークじゃなくて、エモーション。Altと登録した数字番号を同時押しで出せる。種類がいっぱいあった。可愛い。
★コンピューターと人の違いはどうやってわかるのか? → コンピューターじゃなくて、NPC。NPCはカーソルを合わせると、矢印が「……」のような吹き出しになる。初めて話しかけた人は、NPCだったみたい。人がいなくてよかった。
★アイテムはどうやって使うのか? → そのアイテムの上でダブルクリックする。または、ショートカットに入れて、キーを押す。間違ってワープするアイテムを使ったら怒られた。怖い。
そんなようなことが、箇条書きでひたすらに書いてあった。
ページを捲っていく。全部のページに、同じようなことが書いてある。そしてその全部に、見覚えがあった。それは、奈留がゲーム内で自分に対して質問したことばかりだった。忘れないようにメモをしていたのだろうか。PCに付属しているメモ帳とかワードとかエクセルとか、いろいろあっただろうに。なんでまた、手書きのノートでメモしていたのだろう。返事が異様に遅い時はしばしばあった。それはタイピングに慣れていないことも原因だったのだろうが、これもその理由だったのか。
ページを捲っていく。後半になるに連れ、質問のレベルが格段に上がっていく。
★いきなり攻撃してくるモンスターと、攻撃して来ないモンスターがいるのはどうしてか? → アクティブモンスターと、ノンアクティブモンスターというのがいて、攻撃して来ないのはノンアクティブだけ。あのウサギさんはノンアクティブらしい。いい子。
★釦を押しても支援ができない時がある。これはなぜか? → スキルディレイ?というのがあるらしく、一回そのスキルを使うと、決まった時間、連続で操作できないらしい。なんでこんな風にしたんだろう。
★臨時パーティーの時、前衛以外の人がターゲットを取られた場合の対処方法は? → 臨機応変にするしかない。ただし、パーティーメンバーの中でも死んではいけない順番がある。その優先度を見極めて対処する。プリーストは立て直しができなくなるから、死んではいけない。頑張る。ちなみにターゲットではなく、ターゲッティング、またはタゲ。
★ボスモンスターの取り巻きに間違ってタゲされた場合、どうすればよいか? → ボスの取り巻きはリカバリーでタゲを外すことができる。ただし、プリーストが取り巻きを抱えなければならないボスと、抱えてはならないボスがいるから、注意。この前倒したのは、タゲを取らなければいけなかったみたい。ごめんなさい。
◎スキルディレイのことを考えて、ヒールを連続するよりバリアを連続した方がいい時もある? でもSP問題もあるから、SP管理をしなくちゃだめ? → 誉められた。嬉しい。
奈留は、「初心者プレイ」をしているのだと思っていた。
だから、自分が教えたことは当然知っていて、教えられてからそれらをひとつひとつ開放しているのだと思っていた。時たま、まだ教えていないスキル使用時の最効率方法を「こうしたほうがいいんじゃないでしょうか?」と聞いて来る時があった。その時は、支援が面倒だからさっささと開放させろよという、促進だと捕らえていた。そんなこと、今時ネットで調べればすぐにわかる使用方法だったからだ。先人が検証に検証を重ね、今でこそ誰でも知っているその方法。だから、既に知っていて、促進しているのだと。そう、思っていた。
だけど違った。
奈留は、自分でそれらを考え出したのだ。
熊が驚いているイラストの横に、『大発見!?』と書いてある。
★に混じって◎で箇条書きされているすべてが、そのような使用方法だった。その質問をする度に、自分は奈留を誉めてきた。誉めると奈留は、本当に嬉しそうだった。時々、誤った使用方法を提案して来ることもあった。その時は、遠慮なく矛盾点を突きまくって間違いを認めさせ、本来の使用方法を叩き込んできた。そうすると少し落ち込みもするが、すぐにそのノウハウを理解し、練習を重ねて使いこなしていた。前者も後者も、知っていてなお、演じているものだと思っていた。なのに。
その質問のひとつひとつが、奈留の、努力の形だったのだ。
ノートを読む手が震えているのが、自分でもはっきりとわかった。
隣のおばさんが、眠る奈留を見つめている。
「この子、入院したばっかりの時は、本当に元気がなかったんです。そんな時に、学校の友達が、使わなくなったパソコンを持ってきてくれて。最初はインターネットばっかりだったんですけど、ある日から急に、ゲームをするようになったんです。最初の日、うんうん唸りながら朝方までやってたみたいで、先生に怒られたんですよ。でも楽しそうで、止めれなかったんです」
最初は心配でしたけどね、とおばさんは優しく笑った。
「でもその日から、この子、すごく元気になって。わたしはゲームのことはわかりませんでしたけど、一生懸命に何かノートに書いていて、今日はこんなことを教えてもらったとか、今日は誉めてもらったとか、本当に嬉しそうにわたしに話すんですよ、この子」
おばさんがこっちを向いた。
視線が外せない。
「会いに来てくださって、ありがとうございます。この子が起きていたら喜んだんでしょうけど……すみません」
そう言って、頭を下げた。
何も言い返せなかった。
それから、おばさんといろんなことを話したと思う。だけどほとんど憶えていない。
気づいた時には夜になっていて、かつて子供の頃に遊んだ、双葉総合病院の隣にある公園のブランコに1人で座り込み、奈留が書いたノートを手に、ただひたすら、泣いていた。
◎
本当は知っていた。
白状すると、気づいていた。
最初は違ったのだ。最初は本気で疑い、この根競べに付き合った。こいつはどう考えても装備目当ての「初心者ネカマプレイ」の乞食野郎だと、そう断言していた。だからこっちもそれに乗ってやったのだ。どこまで食らいついてくるか、どこでボロを出すか。それを見届けるまで、とことんまで付き合ってやろうと、そう思った。
だが、こちとら無職35歳職歴無しの、正真正銘の屑だ。
このゲームを、人生捨ててまでプレイし続けてきたのだ。
そんな自分が、話の端々に見え隠れする、経験者では絶対にそういう言い方をしない表現に、気づかないはずがなかった。当初はそれさえも計算して行っているのだと思っていたが、ずっと一緒にプレイし続けて、この「奈留」というのは、「初心者ネカマプレイ」をしている経験者ではなく、本当の「初心者」なのだということを自然と理解していたことを、脳みそは最後まで否定していたのだ。
ただそれが弊害だったとは思わない。
別に奈留が経験者だろうが本当の初心者だろが、どうでもよかった。それまでの接し方に悔いはないし、これからの接し方さえも変えるつもりもなかった。なぜなら、――なぜなら、奈留と一緒にプレイするのは、楽しかったから。ただひらすらに効率だけを重視し、同じことを何十何百時間と繰り返してきた。そうしてレベルをカンストさせ、すべてが終わってしまった自分に、再び、このゲームを続ける理由を、奈留はくれたのだ。
奈留とプレイしながら、思い出したことがある。最初はこうではなかった。学生の頃、面白半分で遊び始めたこのゲーム。奈留のように一番最初の転職NPCの場所がわからなくて、知らない人に聞いて教えてもらった。徐々に徐々に、のめり込んでいったこのゲーム。何もかも面白くて、何もかも新鮮だった。憧れる装備、見知らぬ敵、恐ろしいまでに強いボス。喋ったこともない人とパーティーを組んで、上級ダンジョンに挑んでは無残に惨敗して大笑いしたこと。そして初めてそのダンジョンを制覇した時の感動。レアアイテムが落ちた時の興奮。ボスを巡っての他パーティーとの激しい激突。だけど最後には仲良くなって、フレンド登録して馬鹿話を繰り広げたかつての仲間たち。
そんな、今の自分が忘れてしまったことを、奈留は思い出させてくれた。
正真正銘の屑の烙印を押されたこの自分を相手に、奈留は「ありがとう」と言ってくれた。
いつからか、錯覚してしまっていた。こんな屑な自分が、いつしか「一般プレイヤー」に少しだけ戻って来たのではないか、と。だからあの時、愚行を取った。屑には屑のルールがあったはずなのに、それを自分で破ったのだ。奈留とのこの距離感が崩れるかもしれないということを忘れ、自らを普通の人間であると一瞬だけ思い、あの一言を投げ掛けた。
まるで、それが引き金だったかのようだ。
仮想世界の「奈留」が、現実世界の「上条奈留」であると理解したと同時に、すべてに合点がいった。
頑なに装備やアイテムを受け取らなかったのは、奈留の人間性もあったのだろうが、それよりもおそらく、入院生活を送る中で不自由なことばかりが続き、両親などに迷惑を掛けてしまったことに対する思いがあったからではないか。せめてゲーム内では、自分で全部しようと、そう決めていたのではないか。
1人で始めた癖に、知り合いなど誰もいないくせに、支援職であるプリーストに転職したのは、自分の病気のことも含め、他の誰かの傷や怪我を治したいという強い想いがあったからではないのか。組んだ人を死なせる度に、奈留が酷く落ち込んでいたのは、仮想世界のキャラと、現実世界の己を照らし合わせて見ていたからではないのか。
手に持った、奈留が書いたノートに視線を落とす。
そのページには『★★目標★★』と書いてあって、奈留がゲーム内で目指す目標がたくさん書いてあった。
その一番上には、こう書かれている。
『あの人に、誉めてもらえるようになること』
自分は一体、何を失おうとしているのだろう。
現実世界で「上条奈留」が眠りにつく限り、仮想世界で「奈留」と逢うことはできない。
記憶の断片に残っている、奈留の母親との会話を僅かに思い出していた。
もうすぐ、奈留は手術を受けるらしい。それ以外に、今の奈留を救う方法はないそうだ。病名は忘れたが、もの凄く難しい名前で、そいつは心臓に問題を起こす病気。それを治すための手術を奈留は受けるのだが、一度手術を始めると、何ヶ月かに分けて手術を行わなければならいほどの大掛かりなものだそうだ。主治医いわく、その手術をすべて終えての生存率は高くて30%。失敗する確立の方が断然高い手術なのだ。失敗すれば、それは「死」に直結する。死んだからって釦を押せばセーブポイントに戻れるゲーム内とは訳が違う。死んでしまったら、それで終わり。現実世界での本当の「死」だ。
奈留には、死んで欲しくなかった。
ただ、自分が何かした所で、奈留を死から救ってやることなどできはしないだろう。
それでも、奈留とまた一緒に、ゲームをプレイしたかった。
そして、今の自分には、奈留とゲームを続ける、本当の資格はないのだと、思った。
無職35歳職歴無し。このゲームにすべてを注ぎ込んだ後、残ったものは、たったそれだけだった。人生の末路だった。屑な人間にはお似合いの末路だったはずだ。だけどあの日、あの時、あの瞬間に、奈留と出会った。その出会いが、このゲームを再び続ける切っ掛けを授け、そして――そして、自分は、失いたくないものがまだあることに、気づいた。失うものはもう何もないと思っていた。ゲーム内で手に入らないものはもう何もないはずだった。だが、たったひとつだけ、まだ残っていた。失うものが、ひとつだけ残ってしまった。ゲーム内の通貨をどれだけ支払おうと手に入らないそれを、今では失いたくないと思っていることに、ようやく気づいた。
奈留と一緒に、ゲームがしたかった。
それには、今の自分では駄目だ。
22歳の就職が決まった大学生だと、よくもそんなことをのたまえたものだ。奈留は隠さず、自分のことを素直に話した。まだ自分は、何ひとつ、本当のことを言っていない。許して欲しい訳じゃない。何かを期待している訳でもない。ただ、これはケジメなのだと思う。自分が奈留と一緒に肩を並べてゲームをするには、本当のことを言って、謝って、――自分が、本当の「一般プレイヤー」にならなくてはならないのだ。
今までの行いが許される訳じゃない。そんなことはわかっている。
ただ、ケジメはつけなければならない。これが、全サーバー、全プレイヤー切っての廃人が見せる、最後の姿だ。
手に持っていたノートをそっと机の上に置き、目を閉じた。
深呼吸をひとつだけする。
そして目を開けた瞬間に、行動を開始する。PCの電源を点けて、奈留がいない仮想世界へとログインする。オーラを放つこの最強キャラを見るのは、これが最後になる。長い長い時間を共にしたキャラだ。こんなことは、自己満足に他ならない。だけどこれ以外に、今のこの屑な自分は、行うべき術を見つけられない。これ以外に、奈留と肩を並べられる術が思いつかない。だから。
周りのサブPCをすべて立ち上げ、全部のアカウントをログインさせた。全キャラの装備を剥ぎ取り、すべてをひとつのアカウントに集める。装備のリストをエクセルでまとめ、その後にネットブラウザを立ち上げ、リアルマネートレードのページを開いた。そこで、持っている装備の一覧を即売に展示させた。展示させた装備のすべてに、買い手はあっと言う間についた。当たり前だ。このゲームをやっていれば誰でも欲しがるような廃人装備ばかりなのだ。それを集めるのにどれだけ苦労したと思っている、どれだけ犠牲にしたと思ってる。だが、今はそんなことはどうでもいい。早く売れることに、越したことはない。
競売ではなく、即売にした理由はそこにあった。
競売なら時間は掛かるが、値段は釣り上がるだろう。即売は時間が掛からない代わりに、値段は競売の6割から7割といった所になってしまう。それでもよかった。未練はもうなかった。決意はすでに固めた。後は行動を移すだけなのだ。屑な自分が行う、屑なりのケジメをつけなければならない。
即売とは言え、諸々の手続きに三日を要した。しかしその甲斐あって、展示した装備は完売し、ネット決済で金が振り込まれたことも確認した。ゲーム内でのアイテムの引渡しも終わった。すべてが終わったことを確認した後、奈留と育てていたナイトだけを残し、キャラをひとつひとつ、デリートした。奈留と出したアイテム、奈留と稼いだお金以外、すべて処分した。消したもの、処分したものに、思い入れがない訳がない。無意識の内に涙が流れていたが、無視をした。いろんな感情がごちゃ混ぜになっていた。それでももう、立ち止まることだけはしなかった。
すべてのことが完了した後、そのまま銀行へ向かった。リアルマネートレードで得た金をすべて、通帳から引き出した。ATMでは降ろせない額だったため、銀行員に直接申し出た。別室に連れて行かれて、運ばれて来た恐ろしいまでの札束を、無用心にもどこかで手に入れたエコバックに無造作に詰め込み、銀行を飛び出した。
アパートに帰って来たと同時に、押入れを引っくり返すような勢いで漁り、ずっと昔に買ったバリカンを探し出し、それを手に洗面所へ戻り、無造作に伸びていた髪をすべて刈り落とした。自分に丸坊主が似合わないことなぞ知っていたが、今更にお洒落や何やらを気にする必要性もないし、そんなことを言える場合でもない。
丸坊主になった頭を携え、あの時と同じようにスーツで身を包み、札束の入ったエコバックを手にして駅へ向かった。新幹線に2時間乗り、乗り換えを得て1時間。あの時と同じように駅に立ち、タクシーに乗った。違うのはここからだった。あの日は、ここから双葉総合病院へ向かった。しかし今日は違う。今日行くべき場所は――生まれ育った、我が家である。
約10年ぶりに、家に帰って来た。何も変わらない我が家。涙は未だに溢れていた。いつから流れていたのかも知らない。あの日、あの夜の公園から今まで、ずっと流していたのかもしれない。もはやそんなこと、関係なかった。顔を拭うこともせず、足を踏み出した。
子供の頃、毎日開けていた玄関に手を掛けた。少しだけ怖気づいたが、逃げることだけはしなかった。
扉を開けて、精一杯に叫んだ。泣いているせいで、恐ろしいまでの醜い泣き声だった。
それでも、叫んだ。
ただいま、と。
突然の出来事に家の中から慌しい音が響き、居間から2人の人物が飛び出して来た。10年ぶり見る、両親の顔だった。最後に見てから、随分と老いていた。あの恐かった無口で厳格な父親は、こんなにも小さかっただろうか。あの悪さをしてもいつも笑いながら怒ってくれた母親は、こんなにも皺があっただろうか。いつしか自分は、最古の記憶にある両親と、同じ年齢にまで達してしまっていた。両親は、突然現れた丸坊主になった息子を見て、口をあんぐりさせてこちらを見ていた。
今更だった。もう遅いかもしれない。でも。
生まれて初めて、土下座をした。
35歳の屑な男が、恥もプライドも体裁もすべて投げ捨て、両親に向かって、泣きながら土下座をした。
玄関で、硬いコンクリートに額を擦りつけながら、叫んだ。
ごめんなさい、と。
嘘をついてごめんなさい、と。
今まで、本当にごめんなさい、と。
最初は混乱していた両親だったが、すべてを理解するのは早かった。10年会っていなくても、ここにいるのは、間違いなくこの自分を育ててくれた両親である。愚息のことなど、両親はすべてわかっていたのだと思う。だから、父親の本気の拳5発で、両親はすべてを許してくれた。
居間に上がり、両親と対面して座り、家を出てからのことを包み隠さず話した。机の上にエコバックから取り出した札束を置いた時に、勘違いした父親にもう3発殴り飛ばされたが、誤解だと説明して納得してもらった。そして、こう言った。今までこんなおれに使ってくれたお金にはまだまだ足りない、足りない分は今から働いて必ず返す、だからまずはこれを返させて欲しい。しかし両親は首を振り、これは自分のために使え、と返して来た。食い下がった。これはケジメだと。1人の「仲間」ともう一度肩を並べるためのケジメだと。そう、必死に叫んだ。愚息のそんな姿を見るのは、両親にしてみても初めてだったのだろう。最後には両親が折れた。
一日だけ実家で寝泊りをした。久々に食べた母親の料理の味は果てしなく懐かしく、初めて父親と飲み交わした酒は驚くほど深かった。両親は何も言わなかったけど、自分はずっと泣いていた。泣いて料理を食べ、泣いて酒を飲んでいた。家族の温かみに触れた時、それを実感した瞬間に、今までの疲れが一気に押し寄せてきて、その日は泥のように眠った。実家の匂いが、本当に優しかった。
次の日、もうすでに泣いてはいなかった。
両親に見送られて、実家を後にした。
次来る時は、ちゃんとした息子として帰って来ると、約束した。
アパートに戻って来ると、次は部屋にあった要らないものをすべて処分した。PCも1台だけにした。すっきりとした部屋で、新しく買ったスーツに身を包み、仕事を探し始めた。ただ、仕事はなかなか見つからなかった。如何せん職歴が無いのが痛かった。当然だ。35歳職歴無しの屑を雇ってくれる会社など、そうそうあるはずもない。
不採用になる度に挫けそうになるが、その時は、奈留が書いたあのノートを読んだ。
仕事を探し始めて1ヶ月半。世間から見れば底辺以外の何ものでもないが、それでも小さな会社に就職が決まった。涙を流して喜んだ。両親にもすぐに電話で報告した。母親が泣きながら「おめでとう」と言ってくれて、それでまた泣いた。
この1ヶ月半、ずっと励ましてくれたノートを手に取った。
空白のページに、まだ奈留に教えていないことを、すべて箇条書きで書き足していった。自分でも嫌になるほど汚い字だったが、これは手書きでなければ駄目なのだと思った。書き始めたのは夜だったはずだが、気づけば空にはすでに太陽が昇っていた。自分が知りえることはすべて書いた。ゲームを始めてからのすべてのノウハウをこのノートに書き記した。
そして最後に、随分悩んだ挙句、こう書いた。
『ちゃんと練習すること!
待ってるぞ。また明日』
書き終わるとノートを閉じ、ゲームに関係することが載っている雑誌やイラスト集、アンソロジーコミックやCDなどを買い漁り、大きなダンボールに詰めて、双葉総合病院へと送った。
運送屋から外に歩み出て、空を見上げて思った。
これで、対等になれただろうか。
また一緒に、お前とゲームをプレイできるだろうか。
お前は、帰って来てくれるだろうか。
――元気に、なってくれるだろうか。
そうして今日から、無職35歳職歴無しだった屑は、働き始める。
◎
疎開となった街の、一番奥の建物の中で、ナイトの職のキャラが座っていた。
特に何をするでもなく、ただそこに座っていた。
どれだけそこでそうしているのかはわからない。ただ、ここで待っていると約束した。だから、待っている。ただ、それだけの話。
相手は来るかもしれないし、来ないかもしれない。
それでも待っている。ずっとずっと、待っている。
それからどれだけ時間が経ったかもわからない。
1日だったかもしれないし、1年は経っていたかもしれない。
唐突に、いつもと変わらないその画面に、変化が起きた。
誰かが同一マップにログインしてきた。
ログインして来たのはプリーストで、ナイトの周りをうろうろと動き回り始める。
やがて隣でふと足を止め、
『あの』
と発言した。
随分と経った後、今度はナイトが一言だけぶっきら棒に発言する。
『遅い』
プリーストから「sorry」というエモが出る、
『フヒヒ。ごめんでござるよ』
それから随分、互いに無言だった。
しかしその沈黙を破り、ナイトがこう言った。
『お疲れさん。――おかえり』
プリーストが立ったり座ったりを繰り返し、
ニコニコと笑うエモを連発させて、こう返して来た。
『――ただいまです』
そうして今日からまた、ナイトとプリーストは、一緒に狩りに出掛ける。
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2010/10/24(Sun)14:19:28 公開 / 神夜
■この作品の著作権は神夜さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
どうも。神夜です。
案の定仕事が爆発した。
どうしようもなくなったこの頃、まぁなんとかなるだろう、と日々を過ごしています。
今現在、自分がやっているネトゲでも目標がボスが0.02%で落とすレアしかなくなってしまった。もうリアルもネットももうダメかもわからんね。
そんな訳で、バーチャル・コミュニケーション 後編なのでした。
言われれば、35歳じゃなくてよかったんじゃね?っていう感じもヒシヒシとするのですが、相変わらず構想時間2分で書き始め、書きながらストーリー考えればこれが限界です、うん。
当初の予定では、RMTで得たお金は、奈留の手術費用に消えるはずだったのですが、いきなりそんな大金渡されても親としてもどうしようもないだろ、っていうわけで、このような方向へ突き進んだ。
最後の方は駆け足になっていますが、じっくりやると終わらなさそうだったので仕方がないのです、うん。
後日に再度改めてレスを返させて頂きます。
誰か一人でも楽しんでくれることを願い、神夜でした。