- 『彼』 作者:TAKE / 未分類 未分類
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原稿用紙約7.3枚
「友」の主人公の妻視点で書いたアナザーストーリーです。
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ある日、私は大切なものを見た。
我が子を亡くしたアメリカ人女性が書いた「最後だとわかっていたなら」という詩だ。9.11事件の追悼番組で放送され、いつの間にか行方不明の救助隊員が書き残した事になっているけど、作者が誰であれ、そこには大切な言葉が並んでいたのだ。
あなたが眠りにつくのを見るのが最後だと分かっていたなら 私はもっとちゃんとカバーをかけて 神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう
あなたがドアを出て行くのが最後だと分かっていたなら 私はあなたを抱きしめてキスをして そしてもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう
冒頭の二連だ。
愛する人を亡くした時、もしもそれが事前に分かっていたらと、彼女は嘆いた。もっと出来る事があった筈だった、もっと深く愛するべきだったと。
朝、玄関で靴を履いた彼に鞄を渡す。ありがとう、と言って彼はドアを開ける。私はそれを一旦引き留め、彼の手を握った。
どうしたんだ? と訊く彼に答える。
今日からあなたに何があっても、後悔しない行動を取ろうと思って
私は一年振りにいってらっしゃいのキスをして、はにかむ彼を送り出した。二分ほど経って、車のエンジンがかかり、遠ざかってゆく音が聞こえた。
掃除と洗濯を済ませ、テレビを見る。とてもありきたりな主婦の日常。大した運動もしないから、それは太る筈だ。
バランスボールを引っ張り出して来て、空気を入れる。両腕を広げて乗りながら、私は大学時代の事を思い出していた。どうにも暇な時はいつもだ。
彼にはとても仲の良い友達が居た。お互いの事を何でも知っていて、私は羨ましかった。知り合ってからしばらくして、友達の方はどうやら私に気があるらしい、と彼から聞いた。
その時二年付き合った恋人と別れたばかりで、すぐに次の相手という風には考えられなかった。
彼は友達がどんなに良い人間かというのを、よく私に話した。ハンサムで、ユーモアがあって、悪い嘘をつかなくて、一人決めた相手をとことん大切にする、そんな完璧な奴なんだと。
けれど私は、そこまで友達の為を思って行動する彼に惹かれた。そして失恋の傷が癒えた頃、友達に対して申し訳無い気持ちを持ったまま、彼に告白した。
彼はとても戸惑っていて、返事を一旦保留した。その後彼は友達からの勧めで、OKの返事をした。
彼が就職してから数ヶ月後、私達は結婚した。友達が引っ越したばかりで住所が分からず、招待状を送れなかった事を彼はとても悔んでいた。
彼は会社でパソコンを打つ時の負担を減らす為、指輪は買った時の箱に仕舞って鞄にいつも入れていた。
バランスボールを降りて、脇腹に手を当てる。少し突っ張った感じが心地良い。
それから少しソファでゴロゴロ。夕方になり、スーパーで買い物をした。
七時頃に彼が帰ってきた。鞄を受け取り、一年振りのおかえりのキスをする。はにかむ彼を引っ張り、浴室へ入れ、シャワーを浴びてもらっている間に夕飯の支度を済ませた。
うまい、と言って食べる彼の顔が好きだ。そっくりに真似できたらいいのにと思う。
翌日からも、私は全力で彼を愛した。それはもう、彼がたじろぐほどに。
彼が出掛ける朝と帰ってきた夕方、キスに加えてハグもする。お疲れー、と言って彼の頭を犬みたいにワシャワシャと撫でる。夕飯で彼の笑顔を研究して、二人でバスタブに浸かる。寝る時は私が猫みたいに彼の胸に顔を埋める。
休みの日は、ディズニーランドに泊まった。彼と過ごす一生分の幸せを放電しているようだった。
月曜の朝にキスをした後、よくバテないねと彼は言って笑った。暇な昼間に充電してるのだと言うと、彼は抱きしめてきた。俺にはこれが充電、と言ってまた笑った。
その日は大雨が降っていた。車の出てゆく音が紛れて聞こえにくい。
いつも通りに家事を済ませ、腹筋なんかをしながらテレビを見て、簡単に昼食を取って充電時間を過ごす。
夕方、病院から電話がかかってきた。
彼の運転する車が事故に遭ったというのだ。
私は急いで表に出て、タクシーを掴まえた。
病院に入ってから、傘を持ってきていなくて、自分がずぶ濡れだという事に気付いた。集中治療室に居る痛々しい姿の彼に、私は大声で呼びかけた。私よ、起きて。早く家に帰ろう。
その直後、永遠に続くかに思える甲高い電子音が響いた。医師は聴診器を彼の胸に当てた後、掌に力を込め、強く押した。その後に電気を流しているところまで見ると、彼を蘇らせようとするその手は、私には残酷な拷問にかけているようにしか見えなかった。
やめて、お願い。やめてください
戸惑う医師を押しのけ、彼を抱きしめた。唇を重ねる。彼から感じる温かい幸せの呼吸は、もう無かった。
通夜で私は一言も言葉を発さず、ただ黙々と参列者に頭を下げていた。心に穴が空いたのではなく、穴の中に私の心があるようだった。
告別式の日は、彼の友達が隣に居た。
「こんな事があっても後悔しない筈の愛し方をしたのに、全然違った」
私は彼に言った。
「五日前、あいつに頼まれた事があるんだ」
彼は言った。
「彼が居なくなった次の日に? 変な事言わないで」
「一緒に飲んだんだよ。いや……あいつは飲まなかったな。人が野菜を食ってるのを見て、河童だとか馬だとか言ってた。失礼な奴だよ」
そう言って彼は笑った。
「からかってるの?」
「嘘だと思うだろうが、こんな場で君をからかうつもりなんか無いよ。俺がどれだけ真面目な人間か、あいつから聞いたろ?」
「……何を頼まれたの?」
君の事だと、彼は言った。
「ゆっくり時間をかけて立ち直っていけばいい。頃合いを見て、一緒に暮らそう。それがあいつからの頼みだ」
喉元から溢れ出しそうな嗚咽と涙を堪えようと、私は友達の右手を握った。彼は左手を夫の棺に向け、親指を立てた。
「OK、安心しろ」
夫の事が大好きだった友達の笑顔は、彼とよく似ていた。
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2010/10/13(Wed)00:46:01 公開 / TAKE
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